宋史

列傳第二百十二 忠義八 高永年 鞠嗣復宋旅 丁仲脩 項德 孫昭遠 曾孝序 趙伯振 王士言祝公明 薛慶 孫暉李靚 楊照 丁元 宋昌祚 李政 姜綬 劉宣 屈堅王琦 韋永壽 鄭覃 姚興 張玘 陳亨祖 王拱 劉泰 孫逢李熙靖 趙俊 劉化源 胡唐老 王儔朱嗣孟 劉晏 鄭振 孟彦卿 高談 連萬夫謝皋 王大壽 薛良顯 唐敏求 王師道

高永年

高永年は、河東の蕃官である。麟州都巡檢を務めた。王贍が青唐を取るに当たり、永年は蕃兵を総べて先鋒となった。贍が邈川に入ると、宗哥が叛き、永年は千騎を率いて直ちにその城に抵り、省章峽の路を開き、叛羌を撃ち走らせ、陣を結んで青唐に還った。羌の攻撃は甚だ急であり、またこれを撃って退けた。時に苗履・姚雄が援師を率いて至り、溪蘭宗堡で戦い、履が少し退いたので、永年は勁騎を領して羌を断ちて二つとし、これにより退いた。また李克と保敦谷で戦い、さらに乾溝で戦い、単馬で矛を援り、羌の酋長彪雞廝を万衆の中に刺し、その首を斬ると、余衆は夜遁した。やがて隴拶が乾溝より鄯州に逼り、永年は贍を佐けて拒ぎ守り、また雄が湟・鄯を棄てるに及び、皆永年をして帰師の殿とせしめた。

崇寧初年、岷州知州となる。蔡京が両州の回復を議し、王厚は永年を使い、兵二万を帥いて京玉関より出で、安川堡を克ち、遂に湟に至り、即時に州事を知った。皇城副使より四方館使・利州刺史に進み、熙・秦両路兵都統制となり、前軍を将いて宗哥の北に駐屯した。溪賒羅撒は精勇を萃めて高阜に拠り、官軍を衝かんと欲し、永年は選鋒を揮って陣を突き、師はこれに乗じ、羌は大敗し、遂に鄯州を平定した。賀州團練使に遷り、その州を知った。

溪賒羅撒は夏国の四監軍の衆を合わせ、宣威城に逼り、永年は出でてこれを防いだ。三十里を行き、羌の帳下の親兵に逢う。皆、永年が昔に推納した熟戸である。永年はこれを備えず、羌は遽かに永年を執いて叛き、遂に多羅巴に殺され、その心肝を探って食らい、その下に謂って曰く、「この人、我が国を奪い、我が宗族を漂落して処する所無からしめた。殺さざるべからず」と。この役、王厚が実にその事を主とし、而して謀策は皆永年より出でたるに、乃ち永年を劾して降羌を信任し、坐して執縛を受けたるを罪とし、故に贈恤は及ばずという。

永年は文義を略知し、范純仁嘗てその著したる書を贄として闕に詣らしめ、『元符隴右録』を作り、湟・鄯を棄つるを是とせざりし故に、蔡京これを用い、成功すと雖も、然れども竟にこれに以て死せりという。

鞠嗣復

鞠嗣復は、何許の人なるかを知らず。宣和初年、歙州休寧県知県となる。方臘の党が県を破り、降らんと逼らんと欲し、面を斬って二士を以てこれを怖しむ。嗣復罵して曰く、「古より妖賊に長久なる者あらんや、爾らは逆を去り順に従い、我に因りて朝に帰らば、官爵尚ほ得べし、何ぞ我を脅して降らしめんとする」と。嗣復は必ず死すべきを知り、少しも懾せず、屡々言う、何ぞ速やかに我を殺さざる、と。賊曰く、「我は県人なり。明府が邑を宰むるに善政あり、我は殺すに忍びず」と。乃ちこれを委ねて去る。初め、嗣復は難を聞き、吏民を率いて城を修め門を立て、衆は功に赴き、守備略ぼ就く。朝廷これを知り、その官を二等進め、直祕閣を加え、睦州知州に擢ぐ。嘗て賊に傷つけられ、自ら江を渡り宣撫使に師を乞わんと度るも、未だ行かずして卒す。

宋旅

宋旅、字は庭實、莆田の人。進士に第し、累官して奉議郎・剡県知県となる。方臘既に歙・睦・杭・衢・婺の五州を陥とし、且つ越を犯さんとし、越の盗も亦起ちてこれに応ず。県吏多く遁れ、旅は妻子を遣わして海を浮かび閩に帰らしめ、独り民と拠り守り、忠義を以て激し勧め、隊伍を部勒し、備の計とす。俄にして盗衆大いに至り、躬ら壮鋭を率い、矢石を冒す。頗る殺獲すと雖も、終に力敵せず、遂にこれに死す。越の帥劉韐その事を上す。詔して朝散郎を贈り、その四子を録す。

丁仲修

丁仲修、字は敏之、溫州の人。方臘の党俞道安、樂清を陥とし、将に江を渡らんとす。巡檢陳華往きて捕らうるも、これに死す。先鋒将張理同・李振、南門より出でて敵を迎え、八接橋を渡るに、橋断れ馬蹶き、溺死す。賊、帆遊に至り、夏祥は輔褒を遣わして数十合迎え戦うも、褒これに死す。仲修は郷兵を帥いて樂灣に諸びて防ぎ、郷兵は拠る所を失いて散じ、仲修は余兵を以て賊と戦い、力屈して乃ち死す。

項德

項德、婺州武義の人、郡の禁卒なり。宣和年間、盗、幫源に発し、明年婺を陥とし、而して邑随ひて没す。德は敗亡の百人を率いて賊を破り、因りて邑の城隍祠に拠る。二月より五月に訖るまで、東は江蔡に抗し、西は董奉に拒ぎ、北は王国を捍ぎ、大小百余戦、出づれば則ち選鋒の先に居り、入れば則ち後を殿し、前後俘馘算うべからず。賊は目して「項鷂子」と為し、その鉦を聞けば則ち相率いて遁去す。方に永康諸県を復せんと謀るに、而して官兵至る。德はその衆を引きて会合せんと欲す。賊は尽く鋭きを邀えて黄姑嶺の下に之を邀う。德戦死す。邑人の哭声山谷を震わし、その像を図り、歳時これを祭る。

孫昭遠

孫昭遠、字は顯叔、その先祖は眉州眉山の人である。元祐年間に進士となり、長沙尉に任じられ、河東経略司幹當公事に辟召された。鳳翔府天興縣、河北山東撫諭盜賊幹當公事を歴任し、まもなく河北、燕山府路轉運使に抜擢された。

靖康元年、召されて水部員外郎となった。金人が太原を包囲し、宋の軍は多く潰走したので、欽宗は折彥質を駅伝に乗せて昭遠とともに招集させた。ちょうど洛陽らくようが陥落し、西京留守、西道總管の王襄が治所を襄・漢に移したため、昭遠に西道總管を授けた。道中で潰走した兵卒を収容して京兆に至り、永興路安撫の范致虚が諸軍を合わせて入援するのに遇い、昭遠はその進軍を督し、かつ諸道に檄を飛ばして出師させた。環慶の帥王似、熙河の帥王倚がそれぞれ軍を率いて合流し、涇原の帥席貢、秦鳳の帥趙點、鄜坊使の張深は皆出師の期日に遅れたので、昭遠は二十八度にわたり疏を上奏して彼らを弾劾した。諸道の兵を合わせて十万を得、馬祐昌にこれを統率させた。昭遠は致虚とともに関を出たが、祐昌は金人と戦って敗れた。京師が陥落すると、使いを大元帥府に遣わした。

建炎元年、河南尹、西京留守、西道都總管に遷った。洛陽に至って散亡した者を収集し、義兵一万余人を得て、伊陽に柵を築き、民衆に入保させた。その冬、金人が攻めて来たので、昭遠は将の姚慶を遣わして防戦させたが、軍は敗れ、慶は戦死した。昭遠は将官の王伃に命じて啓運諸殿の神御を奉じ、間道を行かせて行在に走らせた。金兵の勢いがますます熾んになると、昭遠は戦い利あらず、その配下が昭遠を擁して南還しようとしたが、昭遠は罵って言った、「汝らは平素より県官(朝廷)の衣食を蒙りながら、この時に報国せず、南へ去って何を為さんというのか」。叛兵は怒り、逆に昭遠を撃ち、ついに害に遇った。官属で免れた者はなかった。四年、徽猷閣待制を追贈された。

曾孝序

曾孝序、字は逢原、泉州晉江の人である。蔭補により将作監主簿となり、泰州海安鹽倉を監り、これにより泰州に家を定めた。累官して環慶路経略、安撫使に至った。宮闕を過ぎる時、蔡京と講議司の事を論じ、「天下の財は流通することを貴ぶ。民の膏血を取って京師に聚めるのは、恐らく太平の法ではない」と言った。京はこれを恨んだ。当時、京はちょうど結糴、俵糴の法を行い、民財をことごとく収め上げて数を充てようとしていたので、孝序は上疏して言った、「民力は尽きた。民は邦の本である。ひとたび逃移する者があれば、誰とともに邦を守ろうか」。京はますます怒り、御史の宋聖寵を遣わしてその私事を弾劾させ、その家人を追及逮捕させたが、でっち上げても得るところがなく、ただ出師の期日を約束しながら、ほとんど軍期を誤りかけたと言い、官籍を削って嶺表に流した。赦令に遇い、量移して永州に移った。京が宰相を罷免されると、顯謨閣待制、潭州知州を授かった。また徭の事を論じて呉居厚と合わず、落職して袁州知州となり、まもなく職を復し、再び潭州知州となった。

道州の徭人が叛き、高所に乗じて険阻を恃み、機を設けて毒矢を下射し、官軍は前に進めず、両山の間に巨木を倒し、横に積み重ねて守った。孝序は夜間にぎょう鋭を遣わして攀援して登らせ、大兵を継いで進ませ、これを破って平定した。顯謨閣直学士に進み、龍圖閣直学士に遷り、青州知州となった。城池を繕修し、士卒を訓練し、金穀を儲峙して、数年の備えがあり、金人は敢えて侵犯しなかった。高宗が即位すると、徽猷閣学士に遷り、延康殿学士に昇進し、行在に召し出された。まもなく青州の民が南都に赴いて留任を請うたので、これを許した。

先に、臨朐の土兵趙晟が衆を聚めて乱を為し、孝序は将官王定に兵千人を付けてこれを捕らえさせたが、利あらずして帰還した。孝序は力戦して自ら贖うことを責めたので、定は言葉をもって敗卒を煽動し、門を奪い関を斬って入り、孝序は出て廳事に拠り、目を瞋ってこれを罵ったので、ついにその子の宣教郎訏とともに害に遇い、年七十九であった。城に主なく、ついに陥落した。

臨淄県知県陸有常は民兵を率いて拒守し、陣中に死んだ。益都県知県張侃、千乗県丞丁興宗もまたこれに死した。後に孝序に五官を贈り、光禄大夫とし、諡して「威愍」とした。子の訏は承議郎とした。有常には朝散郎を贈り、その家の一人を録用した。侃、興宗には二官を贈り、二人の子に官を与えた。

趙伯振

趙伯振は、太祖の八世孫である。宣和六年の進士。靖康の末、鄭州司録となり、捍禦して功があった。上(皇帝)がこれを聞き、直秘閣、通判州事に就任させた。建炎元年、金人が鄭州を犯し、守臣の董庠は城を棄てて逃走した。八日を経て城は陥落し、伯振は兵を率いて巷戦し、流れ矢に中って馬から墜ち、ついに害に遇った。事が聞こえ、朝請大夫を追贈し、その一子に官を与えた。

王士言

王士言は、武挙の進士である。累ねて戦功を立て、西北はその威名を服した。宣和初め、河東廉訪使者に抜擢された。方臘が寇となった時、詔して材略の士を選び、馮熙載が推薦して東南第三将とし、真っ先に嘉興の包囲を解いた。靖康元年、詔により浙西の兵を率いて河東に赴き防秋に当たった。金人が澤州を攻め、力を尽くして守禦したが、金兵は日増しに増え、士言は必死を覚悟した。他の将は力尽き、城の西南がついに陥落すると、親卒に剣を持たせて帰還報告させ、自らは巷戦して死んだ。康允之がその事績を上奏し、拱衛大夫、忠州團練使を追贈し、その後の五人に官を与えた。

祝公明

祝公明は、処州麗水の人である。太原府盂県の主簿。靖康年間、金人が河東を犯し、県令は官を棄てて去ったので、公明が県事を代行し、保甲を率いて入援し、包囲して守ること一年余り、城は陥落したが屈しなかった。子の陶は唐州司戸となり、中原が失守すると、陶もまた官所で死んだ。建炎年間、公明に承事郎を追贈した。

薛慶

薛慶は群盗より起こり、高郵を占拠し、兵数万人を擁し、多くは驍勇にして敢闘し、寡をもって衆を撃つことを能くし、附く者日増す。張浚、慶が係属する所なきを聞き、麾下に帰せんと欲し、親しく往きて之を招く。慶感服し、因りて高郵を守らしめ、尋いで拱衛大夫・福州觀察使・承州天長軍鎮撫使に遷す。金人、浙より還り、天長・六合の間に屯す。慶、衆を率いて之を劫い、牛数百を得、悉く賤く估りて民の田に力を尽くす者に分ち与う。

金人、自ら運河より舟を引きて北に帰らんと欲すれども、趙立は楚に在り、慶は承に在りて、其の衝を扼し、進むを得ず。金の左監軍昌、来たりて兀术に見え、兵を会して楚州を攻めんと欲す。真・揚鎮撫郭仲威之を聞き、慶と俱に往きて敵を迎えんと約す。慶、揚州に至る。仲威、行く意殊に無く、酒を置きて高会す。慶怒りて曰く、「此れ豈に酒を縦にする時ならんや。我れ先鋒と為り、汝は後を継ぐべし」と。馬に上り疾く馳せ去る。平旦、揚州の西門を出で、従騎百に満たず、転戦すること十余里、騎三人を亡う。仲威遂に至らず。慶其の下と揚州に奔る。仲威門を閉じて之を拒ぐ。慶倉皇として馬より墜ち、金の追騎に獲らる。馬旧路を識りて還る。軍中之を見て曰く、「馬還る、太尉其れ死せんか」と。金人慶を殺す。承州陥つ。訃聞こゆ。保寧軍承宣使を贈り、其の家十人に官し、其の妻を碩人に封ず。

孫暉

孫暉は、泗州招信県の尉たり。建炎三年正月、金人泗州を陥とす。州守呂元・閻瑾淮橋を焚きて遁ぐ。金人招信より将に淮を渡らんとす。暉、射士・民兵を将いて之を禦ぎ、其の数舟を沈む。会うに大霧日を蔽い、金人其の多寡を測る莫く、相持すること半日を逾ゆ。疑兵を以て暉を縻し、上流より兵を渡す。暉又戦ひ且つ却く。城破れ、竟に敕書楼に死す。

李靚

李靚、字は彦和、吉州龍泉の人。幼くして孤と為り、母之に学を督う。卒業を肯ぜず。母之を詰む。辞して曰く、「国家女真の変に遭い、寓県雲擾す。士は躯を捐て国為に大憝を勘うべし。安んぞ章句の間呫囁し、浅丈夫を效せんや」と。岳飛師を督して虔寇を平らぐ。身を挺して之に従う。未だ行かず、母喪に奔る。服除け、淮南に走り、策を以て都督ととく張浚に干る。浚之を奇とし、淮西総管孫暉の戲下に隷せしむ。功を累ねて承信郎を授く。紹興十年、金其の将翟將軍を遣わして境を犯す。靚部曲と其の鋒に当たり、転戦して西京天津橋の南に至り、翟將軍を俘え、勝に乗じて北を逐う。会うに金兵大いに至る。遂に之に死す。年三十一。

楊照

楊照は、濠州の将官なり。金人城を囲むこと急なり。照躍りて角楼に上り、賊の黒旗を執る者を刺し、腹を洞らし腸を抽いて死す。照俄かに流矢に中り、卒す。

丁元

統領丁元と為る者有り。金人に十八里洲に遇い、囲まれる。元大いに其の徒を謼び、国に負く毋からんことを勉む。一舟二百人皆闘死す。詔して並びに承信郎を贈り、其の後を録す。

宋昌祚

宋昌祚は、和州の鈐轄なり。建炎三年、兀术和州を犯す。州人昌祚を推して権に軍事を領せしめ、衆を率いて堅く守る。金人之を数匝に囲む。禁軍左指揮使鄭立も亦拳勇忠憤にして、共に士卒を激し、昼夜備禦少しも怠らず。数日を閲す。軍士胡広弩を発して兀术の左臂に中つ。兀术大怒し、飛炮雨の如く集まり、径ちに弩を発したる地に登る。城立つて破れ、金人入りて其の城を屠る。昌祚と権倅唐璟・歴陽令蹇譽・司戸徐兟・県尉邵元通及び立・広は皆譙楼上に死し、磔裂して以て徇しむ。軍士多降らず、囲を潰して西に出で、麻湖水砦を保ち、郷豪を推して統領と為す。朝に聞こゆ。遂に趙霜を以て和州鎮撫使と為し、昌祚・璟・譽・兟・元通各官を贈り、其の子弟を録す。

李政

李政は、雲騎第六指揮と為り、京東に戦功を立て、官を補せられ河北将官を授かり、冀州に駐紮す。靖康二年、知州権邦彦兵を以て元帥府に赴き勤王す。金兵来たりて攻む。政守禦法有り、紀律厳明にして、軍民皆敢えて犯さず。金屡々城を攻む。政皆之を却く。夜其の砦を搗ち、得たる所の財物尽く士卒に散じ、纖毫も私家に入れず。号令明らかにし、賞罰信あり、是を以て人皆命を用う。俄に城を攻むること甚だ急なり。城に登る者有り、其の門楼に火を放ち、官兵と相隔つ。政呼びて曰く、「事急なり。能く火を躍りて過ぐる者有らば、重賞有り」と。於是十数人皆湿氈を以て身を裹み、仗を持ちて火を躍りて過ぎ、大呼力戦す。金人驚駭し、仗を失う者有り、遂に敗走す。政大いに喜び、皆厚く之を賞す。未幾政死す。城遂に陥つ。権知州事単某と為る者降らず、自ら経りて死す。

姜綬

姜綬は、処州麗水県の人である。金人が再び京師を侵犯した際、内外の連絡が途絶えた。朝廷は忠勇の士を募り、蠟書を携えて南京総管司に赴き、援兵を調発させることとした。綬は忠翊郎として応募し、股を切り裂いて書を隠し、南壁から縋り下りたが、巡邏の騎兵に捕らえられた。綬は声を厲らせて叱り罵り、ついに害された。建炎年間、州がその事績を上奏し、その子特立を承信郎に任じた。

劉宣

劉宣は、秦鳳路兵馬都監であった。金人が関中・陝西に入ると、宣は蠟書を遣わして密かに呉玠と結び、また金将の任拱らを率いて配下の兵を率いて朝廷に帰順しようとした。期日を定めたが、これを告げる者がいた。金人は宣を捕らえて細かく切り裂き、その家族は曹州に配流された。

屈堅

屈堅は、右武大夫・忠州防禦使であった。建炎二年、金人が陝府を包囲した。堅は配下の兵を率いて救援に向かった。包囲が解けると、金人は堅を捕らえた。堅は言った。「初め私が来た理由は、包囲を解くためであった。城が無事であれば、私が死んでも何の遺憾があろうか。」金人を叱り、速やかに自分を殺すよう命じた。後に三官を追贈され、その家から五人を録用した。

王琦

王琦は、弓門砦巡検であった。建炎四年、金人が熙河から帰還する途中、琦はこれを防いだ。金人は降伏を促す旗と榜文を立て、年号を阜昌に改めた。皆が拝礼する中、琦ひとりが屈しなかった。金人は琦を捕らえて殺した。

韋永壽

韋永壽は、紹興三十二年、統制官として金人と和州で戦った。子の承節郎世堅がこれを救おうとして、ともに戦死した。張浚が上言し、永壽に中衛大夫・融州観察使を追贈し、世堅には三官を追贈した。

鄭覃

鄭覃は、字を季厚といい、明州の人である。靖康二年に郷貢に及第した。建炎四年春、金人が明州を陥落させ、兵を放って大いに掠奪した。覃は一族を率いて山谷に難を避けた。金人が追い付き、兄の章とともに捕らえられた。刃を突きつけて、「金をよこせば、命は助けてやる」と脅した。覃は号泣して、埋めておいた黄金の釵を指し示して与えたので、釈放された。しかし金兵が続いて現れ、覃は小舟に妻子と妻の董を同乗させて逃げ去ろうとし、顧みて章に言った。「万一逃れられぬことがあれば、覃が北面して異国に仕えるような者ではあるまい。兄上、祭祀の主となることを努めてくれ。」再び兵に捕らえられ、降伏を迫られた。覃は厳しい言葉で罵り屈せず、水中に躍り込んだ。董は泣いて言った。「夫は亡くなった。辱めを受けて生きるよりは、死ぬ方がましだ。」自らも沈んだ。

覃の死後、孫や曾孫の多くが進士に挙げられ、なかでも清之が最も顕著であった。覃は累贈して太師・秦國公に、董は秦國夫人に追贈された。

姚興

姚興は、相州の人である。靖康年間、州校として任用された。金人を劫殺して功績があり、借補で承信郎となった。建炎初年、張琪が兵を集めて東京留守宗沢に帰順すると、興はこれに従い、さらに張琪に従って池州の劉洪道のもとに身を寄せた。紹興元年、張琪が叛き、饒州を掠奪した。呂頤浩がこれを招降した。張琪は一旦は命令を聞き入れながらも途中で心変わりし、総管の巨師古を捕らえて殺そうとした。興は密かに配下に命じ、師古とその妻を挟んで遊騎とともに馳せ、夜に呂頤浩のもとに帰還した。頤浩はその義を重んじ、朝廷に請うて武義郎を授け、張俊の軍に隷属させた。さらに劉錡に従って順昌を守り、宿州・亳州を回復し、城父・永城・臨渙・蘄県朱家村を陥落させ、武略大夫に遷った。淮河のほとりで戦って功績があり、右武大夫を授かり、累遷して建康府駐紮御前破敵軍統制となり、荊湖南路兵馬副都監を充任した。

紹興三十一年、金人が盟約を破り、姚興は都統王権の麾下に属し、廬州の定林において金兵五百騎と遭遇し、戦ってこれを退け、女直の鶻殺虎を生け捕りにした。初め、金主亮が壽春に在り、江淮制置使劉錡は王権に命じて兵を将いて敵を迎え撃たせたが、権は怯懦にして進まず、錡は督戦を益々急にし、権は已むなく廬州を守った。金兵が淮を渡ると、権は興を遣わしてこれを防がせ、自らは和州に退いて保った。興は金人と尉子橋で遭遇し、金人は鉄騎を以て進み、興は麾下の兵を指揮して力戦し、自ら数百人を斬殺した。権は仙宗山に奔り、厳兵して自衛し、興が告急しても応ぜず、統領戴皐は馬軍を率いて退避した。初め、李二という者は、嘗て権に私恩があり、これにより軍中に出入りし、両界を往来して貿易し、間諜として権の旗幟を窃みて金人に与えた。この時至り、金人は権の旗幟を立てて興を誤らせ、興はこれに奔り赴き、父子共に死す。

事が聞こえ、詔して容州観察使を追贈し、又特にその後の三人に官を授け、即ちその砦に廟を立てた。既に淮西を回復すると、又戦った所に廟を立て、額を賜って旌忠と曰う。開禧元年、戸部侍郎趙善堅言う、「近く辺藩を守り、故老に詢訪するに、姚興は四百騎を以て金人十数万に当たり、辰より午に至り、数十合戦い、援兵至らず、竟に敵に死す。金人相謂いて曰く、『姚興の如き者十輩あらば、吾属敢えて前ならんや』と。興の忠勇此の如し、宜しく超えて爵諡を加うべし」と。ここに於いて諡を賜いて「忠毅」と曰う。

張玘

張玘、字は伯玉。世々河南澠池に住む。建炎中、家財を以て兵を募り金人を討ち、従う者数千人。時に翟興が京西を制置し、玘は衆を以てこれに属す。金兵長駆して河を渡らんとし、玘はこれを白浪口に防ぎ、金人は渡るを得ず。功を積みて武翼大夫・成州刺史を補す。董先が制置司前軍統制となり、玘はこれを補佐し、戦う毎に、矢石を冒して諸軍に先んず。

紹興元年、金将高瓊が衆を率いて商州を取らんとす。董先がこれを防ぎ、玘は鋭気に乗じて奔撃し、従騎従う能わず、単馬にて四皓廟に至る。金兵数百騎至り、玘は目を瞋らし大呼し、刃を挺てて突撃し、金兵披靡して敢えて向かう者なし。この日、九戦九勝し、試剣関に追い至り、門を争いて蹂躙され死者百人。明年春、先に偕い藍田より渭を渡り、長安ちょうあんを取らんと図る。時に偽斉の経略使李諤が渭北に屯し、金将折合孛堇と相為に声勢を成す。玘は兵を華厳川に陳し、俄かに白気日を貫き、吏士歓奮し、興平・咸陽・渭河・石鱉谷に戦う。

時に劉豫が京師を拠り、先の軍食乏しく、偽りて豫に降り、家を携えず、玘はその夫人に事えて旧の如し。豫は人を遣わしてその妻を迎えんとし、先は密書を以て玘に報じて遣わす勿れとし、且つ必ず還るの意を述ぶ。王倚が虢州を摂し、偽に従う意堅く、玘これを患う。別将董震が商州より来たりしに会い、倚喜んで曰く、「震は我と善し、今兵を以て来るは、天の我を賛するなり」と。ここに於いて震と謀りて玘を害せんとす。震は陽に許し陰に告ぐ。翌日、倚が玘に詣り事を議す。玘は叱して下し、大義を以て責め、推官祁宗儒と共にこれを斬る。先に、豫は人を遣わし詔を持して撫諭し、玘を以て商虢順州路兵馬都監・同統制軍馬と為さんとし、玘はその使を囚う。ここに至り併せてこれを戮す。

ここに於いて偽斉の河南安撫孟邦雄・総管樊彦直が洛陽を拠り、兵直ちに長水に抵る。玘は将陳俊を遣わして白馬山を守らしめ、謝皐に船板山を守らしめ、梁進に錦屏山を守らしめ、精鋭を尽く匿わしむ。金兵深入し、玘は東関に戦い、三砦響応し、金兵潰ゆ。玘は精騎三千を率い、一日夜三百里を馳せ、黎明に河南に抵り、邦雄生け捕られ、彦直遁走す。便宜にて州防禦使に昇る。三年春、先が偽斉より帰り、玘は兵柄を還し、退いて位に就く。時人これを義とす。

初め、翟興既に死し、朝廷はその子琮に襲わしむ。ここに至り琮朝に言い、真に玘に武翼大夫・果州団練使・河南府孟汝唐州馬歩軍副総管を授く。金将閻鋭を唐・鄧の間に撃ち、先登して殺獲千余人。未だ幾ばくもせず、詔して先一行並びに神武後軍統制に聴かしむ。玘は岳飛に従い京西六州を復し、湖賊鍾子義等を平げ、功を累ねて拱衛大夫に進む。侍衛に入り、始めて王倚を誅したる事を聞こえしめ、勅して史館に付し、褒詔を賜い、親衛大夫に進む。

三十二年、御営宿衛前軍都統を領し、泗州に屯す。時に金人海州を攻むること急なり。詔して玘に鎮江都統制張子蓋と会して赴かしむ。賊城を環すること数十匝、矢石雨の如し。玘は州北三里に戦い、精騎を麾いてその陣を衝き、自ら数十人を殺し、その長を殲し、殺獲万計、海州の囲み解く。玘は流矢に中り卒す。子蓋その功を上る。特におよそ正任観察使を贈り、その後の九人に官を授け、廟号を忠勇と曰う。孝宗即位し、又命じて戦所に祠り、清遠軍承宣使を贈る。

子世雄、符離の戦いに歿し、武節大夫を贈られる。

陳亨祖

陳亨祖は、淮寧の大豪なり。紹興末、官軍既に蔡州を復し、亨祖ここに於いて民兵を領して淮寧を拠り、金知州完顔耶魯を執り、その城を以て来帰す。命じて武翼大夫・忠州刺史・知淮寧府と為す。金兵城を攻め、亨祖力戦してこれに死す。挙家五十余人皆死す。容州観察使を贈り、廟を光州に立て、額を賜って「閔忠」と曰う。

王拱

王拱、建康府前軍統制。都統邵宏淵に従い虹県を収復し、進取して宿州し、屡々功を立てる。隆興元年五月、金人と接戦し、深く営中に入り、辰より申に至り、力戦して死す。詔して正任観察使を贈り、その家八人に官を授く。異姓を奏するを許し、銀三百両を賜い、即ちその砦に廟を立て、額を賜って「忠節」と曰う。

この役に、中亮大夫朱贇もまたこれに死し、承宣使を贈られる。

劉泰、孫逢、李熙靖、趙俊、姚邦基、劉化源、米璞

劉泰は、枢密院忠義前軍の正将なり。慷慨にして義を好み、私財を以て兵三百を募り、糧食・器械一切官に資せず。金人、寿春を犯すや、泰は率いる所部をして赴援せしめ、転戦累日、金人は引き去り、泰は身に数十創を受け、一夕にして死す。詔して武翼郎を贈り、其の家三人に官す。

孫逢

孫逢は、眉山の人なり。大観四年の進士、累官して太学博士に至る。張邦昌の僭立するや、有司は百僚を促して入賀せしむるも、逢独り堅く臥して起たず。夜既に半ばに及び、同僚強いて之を起すも従わず、泣きを垂れて之と訣するに至る。時に祠部員外郎の喻汝礪、変を聞き、其の膝を捫りて曰く、「賊臣の為に屈する能わず」と。遂に冠を掛けて去る。事畢りて、有司、至らざる者を挙げ、逢と汝礪とを以て金人に復せんと欲す。邦昌は畢く至れりと告げ、乃ち免る。逢之を聞きて曰く、「是れ必ず肆赦し遷官して以て重ねて我を汚さんとす、我其れか俟たんや」と。遂に疾を発して卒す。

李熙靖

李熙靖は、晋陵の人なり。醴泉観を提挙す。邦昌、直学士院をさせんとす。熙靖固く拒み、因りて憂憤食わず、疾且に篤く、友人に謂ひて曰く、「百官何れの日か再び天を朝せん乎」と。泣数行下る。邦昌又た礼部侍郎の譚世勣に命じて権直学士院と為さしむ。世勣も亦た疾を称し堅く臥して起たず。熙靖尋いで卒す。後に並びに延康殿学士を贈る。

趙俊

趙俊、字は徳進、南京宋城の人なり。紹聖四年の進士、官は朝奉郎に至る。隠居して門を杜ち、郷里と雖も妄りに交わらず。劉安世の恙無き時、河南に居り、暇あれば則ち独り一たび之を過ぐ。徐処仁は俊と厚く善し、丞相と為るに及び、郷人多く用いらるるも、俊未だ嘗て往きて求めず、処仁も亦た之を忘れ、独り官を得ず。

建炎の末、士大夫皆地を避くるも、俊独り肯せずして曰く、「但だ固く我の守る所をせんのみ、死生命なり、避けて将に之を安くせんや」と。衣冠の道に奔踣する者相継ぐも、俊晏然として動かず。劉豫、俊を以て虞部員外郎と為さんとす。疾を辞して受けず、告を以て其の家に畀るも、卒に之を却く。是の如く再三、豫も亦た復た強ゆること無し。凡そ家書文字、一も豫の僭号を用いず、但だ甲子を書す。後三年にして卒す。承直郎を贈る。

姚邦基なる者は、しょくの人なり。尉氏県を知り、秩満して復た仕えず、村落の間に屏居し、徒を授けて自ら給す。

時に宗室の南渡に及ばざる者、尚ほ民間に散在す。豫、人を募りて之を索む。承務郎の閻琦、匿して以て聞かせず、人の告ぐる所と為り、豫之を杖して死せしむ。

劉化源

劉化源は、耀州の人なり。紹聖元年の進士。建炎初め、金人関陥を陥す。守令城を以て降る者は、金人因りて之を命ず。化源時に隴州を知り、降るを肯せず、城陥ちて執らる。金人、人をして之を守らしむ。死するを得ず、遂に河北に駆り入れられ、蔬果を鬻ぎ、民間に隠るること十年、終に屈辱せず。

米璞

米璞なる者有り、化源と同郷里、西人皆之を敬す。璞は政和二年の進士第に登り、時に原州を通判す。劉豫之に官せんと欲すも、門を杜ち病を謝し、卒に偽命に汚されず。

劉長孺

劉長孺という者がいた。これも耀州の人である。時に簽書博州判官廳公事の職にあり、劉豫に書を送り、祖宗の徳沢を詳しく述べて、禍を転じて福となすよう勧めた。劉豫は怒り、その官を奪い、百日間囚禁したが、長孺は終に屈しなかった。劉豫は後にまた官職を与えようとしたが、従わなかった。

紹興九年、宣諭使周聿がこれを朝廷に上奏した。詔して行在に赴かせようとしたが、簽書樞密院事樓炤が、劉璞は風痹に苦しみ、劉化源・劉長孺は老病であると上言したので、遂に命じて各々二官を転じて奉祠とし、また新たに鳳翔教授となった陰晫が節を守って仕えなかったことを上言したので、詔して特に令に改めて官に任じさせた。その後、金が再び盟約を破ると、長孺は華陰県知事となり、屈せずして死んだ。

李嚞

李嚞という者がいた。開封の人である。宣和六年の進士。建炎年間、彭陽県知事となり、これも降伏せず、民と共に境上に治所を移した。命令して彼を捕らえて献上させると、金人は官職を与えようとしたが、凡そ三度辞退した。その後、金人は彼を帰附した者と見なし、儒林郎に任じようとした。嚞は所管の役所に言うには、「かつては俘獲された身であり、帰附の賞を受けることはできません」と。そしてその公文書を返した。劉麟はその賢を聞き、張中孚に命じて礼をもって招致させたが、嚞は強く拒絶した。紹興九年、原州で死んだ。事が聞こえ、奉議郎を追贈し、その家の一人に官職を与えた。

胡唐老

胡唐老、字は俊明、樞密副使胡宿の曾孫である。崇寧年間、弟の世将と同榜で進士に及第した。歴任して南京國子博士、江陵県知事となり、召されて祕書省校書郎となった。靖康元年、殿中侍御史に抜擢された。金人が再び京師を侵犯し、攻囲が日に日に急を告げると、唐老は対面を請い言うには、「城は危うい。康王は北使としておられるが、河朔の士民に留められて進めず、これは天意であろう。請う、就いて大元帥に拝し、天下の兵を召し入れて救援させられよ」と。宰相何㮚はこれを是とし、遂に秦仔を遣わして蠟書を持たせ相州に詣でさせ、王を河北兵馬大元帥に拝した。

時に朝廷は西兵を促して入衛させたが、帥を立てなかった。唐老は上疏して、「范致虛を宣撫使に命じ、諸路を節制して進ませることを乞う。そうでなければ必ず功はないであろう」と言った。聞き入れられなかった。後に致虛は孤軍をもって金人と淆・澠の間で戦い、他の路の兵は至らず、遂に敗れた。

京城が破られ、金人が金銀を捜索徴発するにあたり、朝臣に命じてこれを監督させ、臺臣に糾察させたが、唐老もこれに預かった。出て無為軍知軍となった。朝廷が偽命の臣を追放すると、これに坐して二官を降格された。先に、金人は民間で多く金銀を匿っていることに怒り、唐老を杖で打ち幾らか死に至らしめたが、病気のため偽楚に臣と称することを免れた。この時、唐老は自らその故を言わなかったので、例に従って官位を貶された。

三年、衢州知州となった。苗傅が敗走し、乱兵を率いて城を犯すと、唐老はこれを防いだ。時に大雨雹が降り、城上から矢石を一斉に発すると、賊は支えきれず、遂に解いて去った。功により秘閣修撰に抜擢され、間もなく、徽猷閣待制に進み、両浙宣撫司参謀官を充て、鎮江府知府兼浙西安撫使となった。

杜充が金に降り、建康が失陥すると、潰走した兵卒の戚方らが鎮江に向かった。城壁は崩壊し、兵は千に満たず、ただ浙西制置韓世忠を頼みとしていた。世忠もまた去ると、唐老は力で敵わぬと見込み、よってこれを慰撫した。間もなく、戚方が臨安を犯そうとし、妄りに行在に赴くと称し、唐老に部衆を率いて行くよう請うた。唐老は従わず、逆順禍福を諭した。戚方の衆が取り囲んで脅すと、唐老は怒って戚方を罵り、遂に害された。詔して徽猷閣直学士を追贈し、諡を「定愍」とした。

時に安撫司機宜鄭凝之もまた兵のために死んだ。詔してその家の一人に官職を与えた。凝之は、鄭戩の孫である。

王儔

王儔は、真州通判をもって広徳軍通判の権を務めた。建炎末、盗賊の戚方が劉晏に破られた後、兵を率いて宣城に向かおうとし、道すがら広徳を通り、その外城に入った。儔は屈せず、権判官李唐俊・権司法潘偊・権知広徳県韋績・権丞蔣夔と共に皆死んだ。後に儔に二官を追贈し、唐俊らは皆京官の官位を贈られ、その家の一人を録用した。

朱嗣孟

朱嗣孟は、饒州楽平の人である。宣和年間の進士となり、広徳の司戸兼司理となった。叛卒の戚方が鎮江を破り、広徳を犯すと、太守は慌てて招安の使者を遣わそうとしたが、敢えて行く者はいなかった。朱嗣孟の容貌に胆略があるのを奇として、遂に彼に命じた。嗣孟はもとより自ら負うところがあり、辞退することなく、直ちに賊の陣営に赴き、何故わが地を侵すのかと問い、順逆と禍福を説き、自ら処する所を選ばせた。戚方は彼が自分に逆らったとして殺した。事が聞こえ、宣教郎を追贈され、その子に官が授けられた。

劉晏

劉晏は、字を平甫といい、厳州の人である。遼に入り、進士に挙げられ、尚書郎となった。宣和四年、数百の衆を率いて帰順し、通直郎を授けられた。金人が京師を犯すと、晏に遼東の兵を総べさせ、「赤心隊」と号した。

建炎初年、劉正彦に従って淮西の賊丁進を撃った。進の党は甚だ多く、晏の率いる赤心騎兵はわずか八百に過ぎなかったが、五色の旗を作り、騎兵に持たせて山に沿って出撃させ、一色が尽きるとまた一色に替えた。賊は官軍が幾日も絶えず、旗色がそれぞれ異なるのを見て、遂に戦わずして降った。朝散郎に遷った。正彦が反すると、晏はその部曲に言った、「われ豈に逆党に従う者ならんや」と。衆を率いて韓世忠に帰した。世忠が正彦及び苗傅を浦城に追うと、晏に騎兵六百を率いさせて浦山の南に疑兵を置かせた。賊は大いに驚き、晏は配下の兵をもって力戦した。正彦が捕らえられた後、世忠がその功を上奏し、一官を遷った。

金人が建康を犯すと、杜充の兵は潰え、世忠は江陰に退いて守りを固めた。晏は赤心隊百五十騎を率いて青龍に屯した。群寇が常州を犯すと、郡守が晏に援軍を請うた。晏は精鋭七千をもって奇計を以てこれを破った。直龍図閣に進んだ。馬跡山を守って寇を防ぎ、寇が再び来ると、晏は舟師を選んで迎え戦い、その衆千五百人を降した。郡人は晏のために生祠を立てた。

戚方が宣城を囲むと、急ぎ晏に命じて救援に向かわせた。晏が城下に至り、まだ営塁を築かぬうちに、不意を突いて直ちに戚方の陣営に突入した。戚方は大いに驚き退却した。晏は生け捕りにしようと、単騎でこれを追った。戚方がその衆を率いて迎え戦い、晏は敵うことができず、なおも手ずから数十人を殺し、賊のために害された。事が聞こえ、龍図閣待制を追贈され、その四人の子に官が授けられ、死んだ所に廟を立てて「義烈」と号し、歳時にこれを祀った。

鄭振

鄭振は、字を亨叔といい、興化軍仙遊の人である。建炎年中、盗賊の楊歩勍が起こると、邑令が檄を飛ばして振に民兵を糾集させてこれを防がせた。振は力戦し、賊衆は敗走し、一夜にして遁去した。紹興十三年、群盗の曾少龍・周老龍・何白旗・陳大刀の衆が数万に至ると、帥司が檄を飛ばして振を行かせた。盗賊は平素より振の名を聞いており、戦わずして自ら屈服した。十六年、盗賊の詹鉄義なる者が、振の郷里に入ると、振は衆を率いてこれを拒ぎ、数十人を殺したが、遂に害された。郷里に廟が立てられ祀られた。

孫知微

孫知微という者がおり、朝請大夫として舒州を通判した。紹興元年、賊の劉忠がその境に入り、知微を捕らえて去った。知微は屈せず、劉忠は怒り、肉を切り刻んで食らった。

孟彦卿

孟彦卿は、孟忠厚の従父であり、兵事に通じていた。潭州を通判した。建炎三年、潭州城中の叛卒が焼掠し、東門から出た。帥臣の向子諲が彦卿に命じて兵を率いてこれを追わせた。やがてその衆を招安した。間もなく、潰兵の杜彦が袁州から瀏陽に入り、遂に善化・長沙の二県を犯した。彦卿は民兵を率いてこれを拒ぎ、手ずから数人を殺し、賊の勢いを挫き、瀏陽に退還させた。彦卿は追ってこれと戦った。やがて民兵の中に自ら潰走する者がおり、賊はこれに乗じ、彦卿を斬り、その首を持って掠めた民兵に告げて言った、「これ善戦の孟通判の首なり」と。因って四肢を切り離して示衆した。

趙民彦 謝淳

添差通判の趙民彦が民兵を率いてこれに赴き、瀏陽城南の南流橋で激戦し、山に依って陣を布き、殺傷甚だ多かった。偶々、間者がその陣中の認旗を折ったため、衆は驚いて民彦が既に敗れたと思い、遂に潰走し、民彦は賊に捕らえられた。邑の士人謝淳は才勇をもって、衆に推されて民兵を帥い前鋒となり、民彦を助けて戦った。淳は手ずから数十人を殺し、力尽きて捕らえられた。賊は併せて二人を殺した。事が聞こえ、彦卿・民彦ともに直龍図閣を追贈され、その家にそれぞれ三人に官が授けられた。

淳は字を景祥といい、成忠郎を追贈され、その子晞古に官が授けられた。

朱熹が湖南をひきいて、彦卿・民彦のために廟を立てることを請い、淳を以てこれに配祀せしむ。

高談

高談、字は景遂、邵武光澤の人なり。紹定二年、旁郡に盗賊起こる。諸子避くることを請う。談曰く、「昔、楊子訓、胡文定公に寇を避くることを問う。公これに語りて曰く、『往年、盗賊燕山に起これば、則ち河北・関中は避くべし。関に入れば、則ち淮南・漢南は避くべし。今は唯だ二広のみ、寧んぞ其の寇無きを保せんや。吾れ惟だ心を存して以て命を聴くのみ。』と。小子これを識せ、これ格言なり。今、南に去れば則ち汀・剣、西に去れば則ち盱・贛、皆盗賊の区たり。東に富・沙に去れば、城を避くる有りと雖も、吾れ聞く、官吏例として我を納れざるを。北に広信に去れば、防夫・守隸、人の囊篋を利し、民を指して諜と為し、数え剽殺す。胡公の言を捨てて他策有ること無し」と。盗賊入る。諸子又請う。談曰く、「廟祏有り、将に焉くにか之かん」と。

盗賊至る。談出でて曰く、「時和ぎ歳豊なり、何ぞ忍びて此れを為さん」と。盗賊曰く、「吏貪暴にして、民訴うる所無し。我れ之を直さんと為す」と。談曰く、「独り楇鼓を以て上聞せしむること能わざるか。民何の辜あって之を殺さん」と。盗賊怒り、諸を庭に執す。これに牛酒を遺すも、釈せず。金帛を遺すも、釈せず。談曰く、「然らば則ち将に何を為さんとするか」と。盗賊曰く、「我れ東に武陽を破らんと欲す。若し耆老爾の如き者を得て、是の郷の子弟を率いば、吾れ其れ済わんか」と。談曰く、「斯の言奚ぞ我に至る」と。賊に唾し大いに罵り、遂に害に遇う。而して里人は頼りて以て免る。

談平居の言動、必ず礼法に由る。故に郷人敬してこれに附す。

連萬夫

連萬夫、徳安の人、或いは曰く南夫の弟なり。将仕郎に補す。建炎四年、群賊応山を犯す。萬夫邑人数千を率い山砦を保つ。賊犯すこと能わず。寇浪子と為す者兵を以て至り、之を三日囲み、卒に之を破る。賊萬夫の勇敢謀有るを知り、留めて用いんと欲す。萬夫怒り、声を厲して賊を罵り、害せらる。右承務郎を贈り、其の家一人に官す。

謝皐

謝皐なる者、開封の人、鎮撫司統制官と為る。李成虢州を陥す。之を降さんと欲す。皐腹を指し賊に示して曰く、「此れ吾が赤心なり」と。自ら其の心を剖きて以て死す。

王大壽

王大壽、泉州の人、左翼隊将と為る。紹定五年、海寇王子清囲頭を犯す。守真徳秀大壽を遣わし卒百人を領して防遏せしむ。猝かに賊と遇い、奮いて前に進み弦を控え、賊十余を斃す。後援する者無く、遂に没す。従いて死する者五人。賊就俘せられ、心を剖きて之を祭る。事聞こえ、官を贈り、其の家を恤う。

薛良顯

薛良顯、字は貴勤、温州瑞安の人なり。崇寧二年進士第に登り、累官して大宗正丞と為り、出でて江東転運使と為る。江寧軍校周德乱を作す。良顯変を聞き、衆を率いて戦い、十余級を斬る。力勝たず、之に死す。事聞こえ、贈恤良く渥し。

唐敏求

唐敏求、字は好古、太平当塗の人なり。宣和六年進士、徳化主簿に調す。盗賊起こる。敏求身を挺して衆を率い賊を捍ぐ。力支え難きを度り、禍福を以て諭す。賊憤り詆觸し、譟いて前進す。遂に害に遇う。事聞こえ、加えて贈り朝官を升し、仍って其の子楠を将仕郎に補す。

王師道

王師道、字は居中、兗州の人なり。人となり沈勇なり。吉州栗傳砦の巡檢を為す。紹興年中、盜と吳村に戰ひ、射る毎に輒ち斃し、數里を追擊し、賊の民居に伏する者有るに遇ひ、身を挺して力戰し、遂に死す。其の地に廟を立つ。部使者以て聞こゆ、其の二子を官す。

王輝

王輝なる者は、青州の人なり。亦た嘗て栗傳砦の巡檢を為す。靖康初、詔して義兵を起す、輝應募し、奇功を立て、官正使に至り、吉州に寓す。淳熙二年、茶寇邑を犯す、郡輝の驍勇を以て、檄して之を行かしむ。勝鄉に至り、地險しく、輝進むに勇み、士卒繼がず、賊の得る所と為り、刃を頸に加へて之を全くせんと欲す、輝血を含みて大罵し、遂に死す。帥司以て聞こゆ、忠州刺史を贈り、恩澤二人と與へ、羅陂に廟を立つ。

陳霖

陳霖なる者は、字は傅容、泉州の人なり。嘉定十三年進士、瑞金の尉を為す。盜江・閩に起り、霖敵を迎へて力戰し、盜之を繫ぎて去り、屈せずして害に遇ふ。