宋史

列傳第二百一十 忠義六 趙良淳徐道隆 姜才 馬塈 密佑 張世傑 陸秀夫 徐應鑣 陳文龍 鄧得遇 張珏

趙良淳

趙良淳、字は景程、饒州の餘干に住み、太宗の子恭憲王の後裔にして、丞相趙汝愚の曾孫なり。累世学行をもって名高く、賢宗子と号す。良淳少くして其の郷の先生饒魯に学び、立身の大節を知る。及び仕えて、至る所幹治を以て称せられ、未だ嘗て人に薦挙を干せず。初め蔭を以て泰寧主簿となり、三遷して淮西運轄に至り、浮沈冗官二十餘年。馬光祖・李伯玉・范丁孫交相に薦辟すと雖も、終に振抜せられず。考挙に及格し、分寧県知事に改む。分寧は江西の劇邑にして、俗は譁訐を尚ぶ。良淳之を治むるに、刑戮を用いず、吏胥を任ぜず、民の敦孝なる者を取り、身を以て親しく尊礼し、甚だ傑驁なる者に至りて、乃ち法を以て縄す。俗少しく革まる。秩満し、特差して権江西安撫司機宜文字を兼ね、詔して諸司審計院を除し、江西に餉を督し、大理司直に昇る。

咸淳末、廷臣議ひて内郡に宗室を衆建し、以て屏翰と為さんとし、遂に良淳を除して安吉州知事とす。是に先立ち、知州李庚遁走し、百事隳廃せり。良淳至り、日々僚吏と守禦の備えを論じ、悉く之を行ふ。時に歳饑し、民相聚ひて盗と為り、所在蜂起す。或ひは兵を以て之を撃たんことを請ふ。良淳曰く「民豈に盗を為るを楽しまんや。時艱しく歳旱し、故に相率ひて剽掠し苟くも活かんとす耳」と。僚属を命じて義を以て之を諭さしむ。衆皆兵を投げ散り帰る。其の帰らざる者は、衆縛して以て献ず。人を掠めて貨財を其の主に詣り謝過して之を還す者有り。良淳富人を勧めて粟を出し之を振はしむ。嘗て人に語りて曰く「太守の身を以て民を済はしむるを得ば、亦惜しむ所に非ず」と。其の言懇々、以て人を動かすに足り、人皆囷を倒して以て之に応ず。朝議尋いで徐道隆を浙西提刑と為し、以て良淳を輔けしめ、良淳に直祕閣を加ふ。

文天祥平江を去り、潰兵四出して剽掠す。良淳数人を捕斬し、首を市中に梟す。兵稍く戢む。已にして范文虎使いを遣はし書を持して招降す。良淳書を焚き其の使を斬る。大兵独松関に迫る。旨有りて道隆を趣して入衛せしむ。道隆既に去り、大兵至り、其の東西門に軍す。良淳衆を率ひて城を守り、夜に茇舎に就きて陴上に帰らず。

是に先立ち、朝廷将吳國定を遣はして宜興を援けしむ。宜興已に危く、敢へて往かず、乃ち安吉に如きて良淳に見え、留まらんことを願ひて以て輔けんとす。良淳國定の慷慨大言するを見、其の用ふ可きを意ひ、朝に請ひ、留まらしめて安吉を戍らしむ。已にして國定南門を開き外兵を納る。兵城に入り呼びて曰く「衆散れ、元帥汝を殺さず」と。是に於て衆号泣して散去す。良淳車を命じて府に帰らんとす。兵士之を止めて曰く「事此に至る、侍郎自全の計を為すべし」と。良淳之を叱して去らしむ。家人を命じて出で避けしめ、乃ち閣を閉ぢて自経す。兵士有りて之を解救し、復蘇す。衆羅拜して泣きて曰く「侍郎何ぞ自ら苦しむ。逃るれば猶生を求むることを得べし」と。良淳叱して曰く「我豈に逃生する者ならんや」と。衆猶環り守りて去らず。良淳大呼して曰く「爾輩乱を為さんと欲するか」と。衆涕泣して出で、復ひ投繯して死す。

徐道隆

徐道隆、字は伯謙、婺州武義の人。父煥は南雄を知る。道隆任を以て官に入り、累官して潭州判官・権知全州となる。荊湖制置使汪立信奏して道隆を辟き参議官と為す。立信兵部尚書に遷り、道隆賓客十許人と俱に江陵を去る。趙孟傳制置使と為り、道隆を以て其の軍事に参ぜしめ、遂に提点刑獄と為る。

時に文天祥既に平江を去り、潰卒四出し、浙西の患苦と為り、安吉尤甚し。旨有りて道隆に措置せしむ。乃ち其の首乱する者を市中に梟す。牛監軍遁る。范文虎・程鵬飛・管景模俱に書を遺はして誘降す。道隆書を焚き使を斬る。

大兵臨平皐亭山に至る。間道を令して入援せしむ。時に水陸皆屯軍有り、道絶えて通ぜず。議して太湖を経て武康・臨安県の境を由りて勤王せんとす。即日舟に乗りて臨湖門を出で、宋村に泊す。郡守趙良淳既に縊死す。德祐二年正月朔旦、追兵道隆に及ぶ。江陵親従軍三百人殊死戦し、矢尽き槍槊折れ、一軍尽く没す。道隆艦内に執はるるを見、間ひて守者の少しく怠るに乗じ、水に赴きて死す。長子載孫亦水に赴きて死す。餘兵脱帰する者有りて朝に言ふ。命じて官を贈り諡を賜ひ、厚く其の家を恤ひ、廟を安吉に立て、其の子孫を官す。三日を越えて宋亡ぶ。

姜才

姜才、濠州の人。貌短悍なり。少くして掠められて河朔に入り、稍く長じて亡帰し、淮南兵中に隷し、善戦を以て名有り。然れども来帰の人なるを以て大官を得ず、通州副都統と為る。時に淮多き健将有りと雖も、然れどもぎょう雄才に逾る者無し。才兵を知り、善く騎射し、士卒を撫するに恩有り。臨陣に至れば、軍律凛々たり。其の子戦ふに当たり、回りて事を白す。才望見して敗れたりと以為ひ、剣を抜き馳逐し、幾くんか之を殺さんとす。

賈似道師を出す。才兵を以て孫虎臣に属し先鋒と為り、丁家洲に於て相拒む。大軍砲架彀車弩を江濱に設け、中流数千艘、旌旗聯亙し、鼓行して下る。才奮ひて兵を前にして接戦す。鋒已に交はる。虎臣遽かに其の妾の乗ずる舟に過ぐ。衆之を見て、讙びて曰く「歩帥遁る」と。是に於て諸軍皆潰く。才亦兵を収めて揚州に入る。大兵勝に乗じて揚州を攻む。才三疊陣を為して之を三里溝に逆ふ。戦ひ功有り。又元帥と揚子橋に戦ふ。日暮れて兵乱る。流矢才の肩を貫く。才矢を抜き刀を揮ひて前に進み、向ふ所辟易す。已にして大軍長囲を築き、揚子橋より竟に瓜洲に至り、東北湾頭を跨ぎて黄塘に至り、西北丁村に至り、務めて以て久しく之を困らんと欲す。時に德祐元年なり。

明年正月、宋亡ぶ。二月、五奉使及び一閤門宣贊舍人謝太后の詔を持ち来りて降を諭す。才弩を発して之を射卻し、復ひ兵を以て五奉使を召伯堡に撃ち、大戦して退く。未幾、瀛国公瓜洲に至る。才庭芝と泣涕して将士に誓ひ出でて之を奪はんとす。将士皆感泣す。乃ち尽く金帛を散じて兵を犒ひ、四万人を以て夜に瓜洲を搗く。三時戦ふ。衆瀛国公を擁して避けて去る。才追ひ戦ひて浦子市に至り、夜猶退かず。阿术人をして之を招かしむ。才曰く「吾寧ろ死すとも、豈に降将軍と作らんや」と。四月、才兵を以て湾頭柵を攻む。五月、復之を攻む。騎旋りて濘みて止む。乃ち騎を捨てて歩戦し、四鼓に至り、全師を以て帰る。揚食尽く。才時に出でて米を真州・高郵より運び以て兵に給す。六月、餉を護りて馬家渡に至る。萬戸史弼兵を将ひて撃ち之を奪ふ。才之と戦ひ達旦す。弼幾くんか殆し。阿术兵を馳せ来りて援く。乃ち免れて去ることを得。

庭芝は包囲されて久しいため、才を召して計事を議し、左右を退けて、久しく語ったが、ただ才の厲聲して云うを聞くのみであった、「相公は片時の痛みを忍ぶに過ぎぬ。」左右の者はこれを聞いて皆汗を流した。才はこれより兵を以て庭芝の邸を護り、共に死せんことを期した。

七月、益王が福州にあって、龍神四廂都指揮使・保康軍承宣使を以て才を召すと、才は庭芝と共に東へ泰州に至り、海に入らんとした。阿术が兵を以て追い及び、泰州を包囲し、使者を遣わして降るを招いたが、才は聴かなかった。阿术が揚州の兵士の妻子を城下に駆り至らせた時、ちょうど才が脇に疽を発して戦うことができず、諸将は遂に門を開いて降った。都統曹安国が才の臥内に入り、これを捕らえて献じた。阿术はその忠勇を愛し、降して用いんとしたが、才は盛んに謾言を吐いた。阿术が庭芝の降らざるを責めると、才は曰く、「降らざる者は、才なり!」また憤憤として已まず、阿术は怒り、揚州でこれを剮にした。才が臨刑の際、夏貴がその傍に出ると、才は切歯して曰く、「若、我を見て寧ろ愧死せざるや?」

洪福という者あり、夏貴の家僮なり、貴に従って功を積み鎮巢雄江左軍統制となり、江北を鎮守した。貴が降ると、福は子の大淵・大源および下班祗候彭元亮と結び貴の軍を復して、右武大夫・知鎮巢に加えられた。貴が既に臣附すると、福を招いたが聴かず、その從子を往かせると、福はこれを斬った。大兵が城を攻め、久しく抜けず、貴を城下に遣わし、好語を以て福に語り、単騎で城に入ることを請うた。福はこれを信じ、門を開くと伏兵が起こり、福父子を捕らえ、城中を屠った。貴は泣きながら大源・大淵を殺し、呼んで曰く、「法は首謀を誅するに止まる、何ぞ挙家を戮するに至らんや?」福は叱して曰く、「一命を以て宋朝に報ずるに、何ぞ人に告げて活を求めんや?」次に福に及ぶと、福は大いに罵り貴の不忠を数え、身を南に向けて死せんことを請い、以て国に背かざるを明らかにした。聞く者は流涕した。

馬塈

馬塈は宕昌の人である。一家の父・叔・兄弟は皆忠勇を以て名将と為り、塈とその兄の堃は特に顕著であった。咸淳年中、塈は欽州を知り、転じて邕州を知った。邕の地は六詔・安南に接し、傍ら諸溪峒に通じ、撫御少し宜しきを失すれば、往々にして乱を召す。塈は諸蛮を鎮撫し及び関隘を治めるに、皆条理あり、大理は敢えて善闡を越えず、安南は敢えて永平に入らず、諸峒は皆帳冊を上り、辺陲は晏然たり。広西経略李興がその功を上奏し、閤門宣贊舍人を加えられた。未幾、左武衛將軍を以て朝に征入された。已にして宋亡び、塈は因って静江に留まり、屯戍諸軍を総べ、経略司の印を護り城を守った。

至元十四年、平章阿里海牙が広西を攻む。塈は配下の兵及び諸峒の兵を発して静江を守らせ、自らは三千人を将いて厳関を守り、馬坑を鑿ち、嶺道を断った。大兵は厳関を攻めて克たず、乃ち偏師を以て平楽に入り、臨桂を過ぎ、塈を挟攻した。塈の兵敗れ、退いて静江を保つ。平章は人を遣わして降を招くも、塈は弩を発してこれを射た。三月攻めて、塈は夜も甲を解かず、前後百余戦、城中は死傷相枕し、終に降意無し。城の東隅稍々卑く、大軍は陽に西門を攻め、精兵を以て夜に水閘を決し、東門を攻めて、その外城を破る。塈は内城を閉じて城守す、またこれを破られる。塈は死士を率いて巷戦し、刀で臂を傷つけられて捕らえられ、殺されて首を断たるも、猶拳を握り奮い起き、立つこと逾時して始めて仆れた。静江破れ、邕守馬成旺及びその子の都統応麒は城を以て降り、独り塈の部将婁鈐轄が猶二百五十人を以て月城を守り下らざりき。阿里海牙笑いて曰く、「是れ何ぞ攻むるに足らん。」之を囲むこと十余日、婁が壁上より呼んで曰く、「吾が属は饑えて、出でて降る能わず、苟も之に食を賜わば、当に命を聴かん。」乃ち之に牛数頭、米数斛を遺す。一部将が門を開き取り帰り、復た壁を閉づ。大軍は高きに乗りて之を視るに、兵は皆米を分け、炊え未だ熟せず、牛を生臠し、啖いて立ちまち尽くす。角を鳴らし鼓を伐つ、諸将は出戦するものと為す、甲を以て待つ。婁は乃ち配下を令して入り一火砲を擁してこれを然し、声は雷霆の如く、城を震わして土皆崩れ、煙気天外に漲ぎ、兵多く驚き死する者あり。火熄みて入り之を視るに、灰燼かいじんとして遺る無し。

密佑

密佑、その先祖は密州の人、後に淮を渡り廬州に居す。佑は人となり剛毅質直、累官して廬州駐劄・御前遊撃中軍統領に至り、権江西路副総管に改む。

咸淳十年、閤門宣贊舍人を以て江西都統と為る。是の冬、大元丞相伯顏が鄂州を下し、右丞阿里海牙を留めて之を守らせ、大兵を将いて東下す。明年二月、朱禩孫が高世傑を遣わして鄂州を取らしむるも、阿里海牙が兵を以て逆撃し、世傑を荊江口に執り、兵尽く潰え、半ば江西に入る。江西制置黄万石が之を招集し、且つ寧都・広昌・南劍の義兵千余人を募り、尽く以て佑に属す。十一月、大兵隆興に至り、劉槃の兵敗れ、乃ち城を嬰いて自守す。万石は時に治を撫州に移し、将に遁れんとし、佑の従わざるを懼れ、乃ち佑の兵を調して槃を援がしめ、且つ戦う勿からんことを戒む。未だ隆興に至らざるに、槃は既に降り、都統夏驥が率いる所の兵は囲みを潰して出づ。

已にして元帥張栄実・呂師夔が兵を提げて撫州に逼る。佑は衆を率いて之を進賢坪に逆らい、兵来たりて呼びて曰く、「降する者か?闘う者か?」佑曰く、「闘う者なり。」其の兵を麾して突戦し、進んで龍馬坪に至る。大兵之を囲むこと数重、矢下ること雨の如し。佑其の部に告げて曰く、「今日は死すべき日なり、若し力戦せば、或いは生の理あらん。」衆皆憤厲す。辰より戦いて日昃に至り、佑は面に矢を中て、之を抜きて復た戦い、又身に四矢三槍を受け、衆皆死し、僅かに数十人を余すのみ。佑は乃ち双刀を揮って囲みを斫り南へ走り、前に橋を渡らんとし、馬が踏板を断つ、遂に捕らえられる。衆其の勇を見て、殺す勿からんことを戒め、輿に載せて隆興に帰す。元帥宋都䚟曰く、「壮士なり。」之を降さんと欲し、之を繋ぐこと月余、終に屈せず。嘗て万石を罵りて売国小人と為し、我が志をして伸ぶるを得ざらしむと云う。宋都䚟が劉槃・呂師夔をして城楼に坐らせ、佑を楼下に引き、金符を以て之に遺し、官を以て許すも、佑は受けず、語槃・師夔を侵し、益々遜らず。又佑の子をして之を説かしめて曰く、「父死せば、子安くにか之く?」佑は斥して曰く、「汝市に行きて乞い、第に密都統の子と云え、誰か汝を憐れまざらん。」怡然として自ら其の衣を解きて刑を請い、遂に死す。観る者皆泣下す。

張世傑

張世傑は范陽の人。少くして張柔に従い杞に戍り、罪有り、遂に宋に奔り、淮兵の中に隷し、名を知る所無し。阮思聰之を見て奇とし、之を呂文德に言う、文徳之を召して小校と為す。累功して黄州武定諸軍都統制に至る。安東州を攻め、戦いて疾く力を尽くし、高達と共に鄂州を援けて功有り、十官を転ず。尋で賈似道に従い黄州に入り、蘱草坪に戦い、俘われし所を奪い還し、環衛官を加えられ、歴て高郵軍・安東州を知る。

咸淳四年、大軍鹿門堡を築く、呂文德が朝に益兵を請う、世傑と夏貴を調して之に赴かしむ。及び呂文煥が襄陽を以て降るに及び、世傑に五千人を将いて鄂州を守らしむ。世傑は鉄絙を以て両城を鎖し、砲弩を以て之を夾み、其の要津には皆杙を施し、攻具を設く。大軍新城を破り、長駆して下る、世傑力戦すも、前進を得ず、人を遣わして之を招くも、聴かず。丞相伯顏は陽に厳山隘を攻め、潜かに唐港より舟を蕩して漢に入り、東より鄂を攻む、鄂降る。

張世傑は自らの率いる兵を率いて入衛し、途中で饒州を経由し、ついに朝廷に入った。当時は危急の時勢であり、諸将に勤王を求めたが多くは来ず、ただ世傑のみが来たので、朝廷上下は感嘆し驚いた。和州防禦使から数か月のうちに累進して保康軍承宣使に至り、総都督ととく府の兵を統率した。将を派遣して四方に出撃させ、浙西の諸郡を奪取し、平江・安吉・広徳・溧陽の諸城を回復し、兵勢は大いに振るった。七月、劉師勇ら諸将とともに大軍を率いて焦山に出撃し、十艘の船を一組として方陣を組み、江中に碇を下ろし、号令なしには碇を上げるなと命じ、必死の覚悟を示した。元帥阿术は弓兵を乗せて火矢で攻撃し、世傑の軍は混乱し、碇を上げる者はなく、江に飛び込んで死んだ者は一万余人に及んだ。大敗し、圌山に敗走した。上疏して援軍を請うたが、返答はなかった。まもなく龍神衛四廂都指揮使に抜擢された。十月、沿江招討使に進み、制置副使に改められ、兼ねて江陰軍の知軍となった。やがて大軍が独松関に至ると、文天祥を召して入衛させ、世傑を保康軍節度使・平江知府とした。まもなく彼もまた召されて入衛し、検校少保を加えられた。

二年正月、大軍が臨安に迫ると、世傑は三宮(太皇太后・皇太后・皇帝)を海に移し、自らは天祥と合流して城を背に一戦を交えることを請うた。丞相陳宜中はちょうど人を遣わして和議を請うており、これに反対し、太皇太后に上奏してこれを止めさせた。間もなく和議もまた頓挫した。敵兵が皐亭山に至ると、世傑は兵を率いて定海に入った。石国英が都統卞彪を遣わして降伏を説得させたが、世傑は彪が自分に従って共に南方へ行くために来たと思い、牛を屠って饗応した。酒宴の半ば、彪が徐々に降伏を勧める言葉を述べると、世傑は大いに怒り、その舌を断ち切り、巾子山で磔刑に処した。

四月、二王(益王・広王)に従って福州に入った。五月、宜中とともに昰(益王)を主君として奉じ、簽書樞密院事に任じられた。王世強が大軍を導いて攻めて来ると、世傑は益王を奉じて海に入り、自らは陳吊眼・許夫人ら諸畬の兵を率いて蒲寿庚を攻めたが、落とせなかった。十月、元帥唆都が兵を率いて泉州を救援に来たため、ついに包囲を解いて去った。やがて唆都が人を遣わして益王を招撫し、また経歴孫安甫を遣わして世傑を説得させたが、世傑は安甫を軍中に拘束して返さなかった。招討劉深が浅湾を攻撃すると、世傑の軍は敗れ、王を井澳に移した。深が再び井澳を攻めて来ると、世傑は戦ってこれを退け、そこで碙州に移った。

至元十五年正月、将の王用を派遣して雷州を攻撃させたが、用は敗北した。四月、益王が崩御し、衛王昺が立った。世傑は少傅・樞密副使に任じられた。五月、瓊州安撫張応科を派遣して雷州を攻撃させたが、三度戦ってすべて不利であった。六月、再び雷州城下で決戦し、応科はそこで戦死した。世傑は碙州に居住すべきでないと考え、王を新会の厓山に移した。八月、越国公に封じられた。瓊州の穀物を発して軍に供給した。十月、淩震・王道夫を派遣して広州を襲撃させたが、震は敗北した。

翌年、元帥張弘範らの軍が厓山に至った。ある者が世傑に言うには、「北兵が水軍で海口を塞げば、我々は進退できなくなります。どうしてまず海口を占拠しないのですか。幸いに勝てば国の福であり、勝てなくてもなお西方へ逃れることができます」。世傑は長く海上にいて離反の心が生じることを恐れ、移動すれば必ず離散すると考え、「連年航海して、いつ終わることがあろうか。今こそ勝負を決すべきである」と言った。行朝の仮設市街をすべて焼き払い、千余艘の大船を連結して水寨とし、死守の計を立てた。人々は皆これを危惧した。やがて弘範の軍が到着し、海口を占拠したため、薪や水を汲む道が絶え、兵士は十余日間乾糧を食べ、渇きに苦しみ、下って海水を掬って飲んだ。海水は塩辛く、飲むとすぐに嘔吐下痢し、兵士は大いに困窮した。世傑は蘇劉義・方興を率いて連日大戦した。弘範は世傑の甥の韓某を捕らえ、官職を与えて三度にわたり世傑を招降させた。世傑は歴代の忠臣を列挙して言った、「降伏すれば生きながらえて富貴を得られることを知っている。しかし主君のために死ぬことを変えないだけである」。二月癸未、弘範らが厓山を攻撃し、世傑は敗れ、衛王の舟に走った。大軍が中軍に迫ると、世傑はついに繋船の綱を断ち切り、十余隻の艦で港を奪って去った。後に戻って厓山の兵を収容しようとしたが、劉自立がこれを撃破し、その将の方遇龍・葉秀栄・章文秀ら四十余人を降伏させた。世傑はまた楊太妃を奉じて趙氏の後裔を求め立てようとしたが、まもなく颶風が舟を破壊し、平章山下で溺死した。

劉師勇

劉師勇は廬州の人である。戦功によって環衛官を歴任した。魯港で軍が潰えた時、賈似道が東へ海に入ろうとしたのを、師勇は揚州に入って再挙を図るよう勧め、似道はこれを認めた。当時姚訔が常州を回復したので、似道は師勇に命じて淮兵を率いて呂城を奪取させ、朝廷は師勇に和州防禦使を加え、訔を助けて常州を守らせ、張彦に呂城を守らせ、合兵して大軍を防がせた。戦いは不利となり、彦の馬が弱く、泥沼に陥って捕らえられ、呂城は失陥し、常州の情勢はますます孤立した。大軍は彦を城下に置いて降伏を呼びかけたが、師勇は大義をもって彦を叱責し、彦は恥じて退いた。また范文虎を遣わして説得させたが、師勇は伏せた弩で射て追い払った。常州は数か月間包囲され、援兵は絶え、群れをなすふくろうが飛び鳴きながら城を巡った。人々はこれを不吉と嫌ったが、まもなく城は陥落した。師勇は柵を抜き、戦いながら進んだ。その弟の馬が堀に落ち、飛び上がっても出られず、師勇は手を挙げて別れを告げて去った。淮軍数千人は皆戦い死んだ。ある婦人が積み重なった死体の下に伏せ、六人の淮兵が背中合わせに支え合い、敵を十人百人と殺してから斃れるのを窺ったという。師勇は二王に従って海上に至り、時勢が為すべくもないのを見て、憂憤のあまり酒に耽って卒し、鼓山に葬られた。

陸秀夫

陸秀夫、字は君実、楚州塩城県の人である。三歳の時、父が家を鎮江に移した。やや成長すると、郷里の孟先生に学んだ。孟の門人は常に百余人いたが、ただ秀夫を指して「これは並みの児ではない」と言った。景定元年、進士に及第した。李庭芝が淮南を鎮守した時、その名を聞き、幕下に召し置いた。当時天下で多くの人材を得ていると称されたのは、淮南を第一とし、「小朝廷」と号された。

秀夫の才思は清麗で、当時の文人で及ぶ者は少なかった。性格は沈着静穏で、軽々しく人に知られようとせず、同僚の役人が官衙に至り、賓主が歓談する時も、秀夫はただ黙然として一言も発しなかった。ある時府中で宴会が開かれ、杯や膳の間に座っても、終日謹厳として、少しも迎合する様子がなかった。その仕事ぶりを観察すると、すべてよく治まっており、庭芝はますます彼を重んじ、官職が変わっても自分から離さず、幕下で三度昇進して主管機宜文字に至った。咸淳十年、庭芝が淮東制置使となると、参議官に抜擢した。徳祐元年、辺境の事態が急を告げ、諸僚属の多くが逃亡したが、ただ秀夫ら数人は去らなかった。庭芝がその名を上奏すると、司農寺丞に任じられ、累進して宗正少卿兼権起居舎人に至った。

二年正月、礼部侍郎として軍前に赴き和議を請うたが、成らずに帰還した。二王が温州に逃れると、秀夫は蘇劉義とともに追従し、人を遣わして陳宜中・張世傑らを召すと皆至り、ついに共に益王を福州に立てた。端明殿学士・簽書樞密院事に進んだ。宜中は秀夫が長く軍中にいて軍務に通じていると考え、何事も彼に諮問してから実行し、秀夫もまた心を尽くしてこれを補佐し、力を尽くさないことはなかった。まもなく宜中と意見が合わず、宜中は言官に命じて弾劾させて罷免した。張世傑が宜中を責めて言った、「これはどのような時勢か。動もすれば台諫を用いて人を論ずるとは」。宜中は恐れ慌て、急いで秀夫を召し戻した。

時に君臣は海濱に播越し、庶事は疏略なり、楊太妃は垂簾し、群臣と語るに猶自ら奴と称す。毎に時節の朝会、秀夫は儼然として正笏し、治朝の如くに立ち、或いは時に行中に在りては、淒然として泣下し、朝衣を以て涙を拭へば、衣は尽く浥し、左右悲動せざる者無し。井澳の風に属し、王は驚疾を以て殂し、群臣皆散去せんと欲す、秀夫曰く、「度宗皇帝の一子尚在す、将に焉くにか之を置かん。古人に一旅一成を以て中興する者有り、今百官有司皆具はり、士卒数万、天若し未だ宋を絶たんと欲せずんば、此れ豈に国と為すべからざらんや」と。乃ち衆と共に衛王を立てしむ。時に陳宜中は占城に往き、世傑と協せざるを以て、屡召すれども至らず。乃ち秀夫を以て左丞相と為し、世傑と共に政を秉る。時に世傑は兵を厓山に駐め、秀夫は外に軍旅を籌り、内に工役を調へ、凡そ述作有るものは、又尽く其の手に出づ。匆遽流離の中に在りと雖も、猶日々に『大学章句』を書して以て講を勧む。

至元十六年二月、厓山破れ、秀夫は衛王の舟に走る、而して世傑・劉義は各維を断ちて去り、秀夫は脱する可からざるを度り、乃ち杖剣して妻子を駆りて海に入れ、即ち王を負いて海に赴きて死す、年四十四。

翰林学士劉鼎孫も亦た家屬を駆りて並びに輜重を海に沈む、死せずして執へられ、搒掠せられて完膚無く、一夕にして脱し、卒に海を蹈む。

劉鼎孫 附

鼎孫、字は伯鎮、江陵の人、進士なり。

秀夫の海上に在りし時、二王の事を記して一書と為すこと甚だ悉し、礼部侍郎鄧光薦に授けて曰く、「君後死して、幸に之を伝へよ」と。其の後厓山平らぎ、光薦其の書を以て廬陵に還る。大徳の初、光薦卒す、其の書の存亡知る由無し、故に海上の事、世其の詳を得ること莫しと云ふ。

徐應鑣

徐應鑣、字は巨翁、衢の江山の人、世々衢の望族と為る。咸淳の末、試みて太学生を補ふ。徳祐二年、宋亡び、瀛国公燕に入る、三学生百余人皆従ひて行く。應鑣従はんと欲せず、乃ち其の子琦・崧・女元娘と誓ひて共に焚ぜんとし、子女皆喜びて之に従ふ。

太学は故に岳飛の第にして、飛の祠有り、應鑣酒肉を具へて飛を祀りて曰く、「天宋を祐けず、社稷墟と為る、應鑣死して以て国に報い、誓って諸生と俱に北せじ。死して已に、将に魂魄を王に累ね、神主に配し、王の英霊と、永永に斁くること無からん」と。琦も亦た詩を賦して以て自ら誓ふ。祭畢りて、酒肉を以て諸僕に餉ふ、諸僕酔ひて臥す、應鑣乃ち其の子女と梯雲楼に入り、諸房の書籍箱笥を四周に積み、火を放ちて自ら焚ず。一小僕未だ寐ず、火の声を聞き、起きて楼下に至り牖を穴ぐりて之を視るに、應鑣父子は儼然として坐立し、廟の塑像の如し。走りて諸僕に報じ、壁を壊して入り、火を撲滅す。應鑣死するを得ず、其の子女と怏怏として戸を出で去り、倉卒として之く所を知る莫し、翌日其の屍を祠前の井中に得、皆僵立して瞠目し、面生けるが如し。諸僕棺斂を具へ、之を西湖の金牛僧舎に殯す。益王福州に立ち、其の節を褒め、朝奉郎・祕閣修撰を贈る。後十年、其の同舎生劉汝鈞、儒者五十余人を率ひて収め之を方家峪に葬り、私諡して「正節先生」と曰ふ。

陳文龍

陳文龍、字は君賁、福州興化の人。丞相俊卿の後なり。能く文章し、気節を負ふ。初め子龍と名づく、咸淳五年廷対第一、度宗其の名を文龍と易ふ。

丞相賈似道其の文を愛し、雅く礼重す。鎮東軍節度判官より、歴て崇政殿説書・祕書省校書郎。数年、監察御史を拝す、皆似道の力に出づ。然れども十数年より、似道の置く所の臺諫は皆闒茸、臺中相承け、凡そ建白有るものは、皆稿を似道に呈して始めて行ふ。文龍之を為すに至りて、独り稿を呈せず、已に似道に忤ふ。臨安府知事洪起畏類田を行はんことを請ふ、似道其の説を主とす、文龍上疏して以て不可と為す、似道怒り、其の疏を寢す。襄陽久しく囲まれ、似道日々に淫楽を恣にし、少も意を加へず、時に陽に師を督せんことを請ひ、而して陰に其の党をして己を留めしめ、竟に襄陽を失ふ。文龍上疏して極めて其の失を言ふ。范文虎師を総べて功無く、似道之を芘ひ、以て安慶を知らしめ、又趙溍を除して建康を知らしめ、黄萬石を除して臨安を知らしむ。文龍言ふ、「文虎襄陽を失ひ、今反って擢用を見る、是れ罰すべきに賞するなり。溍は乳臭き小子、何を以て大閫の寄を任せん。萬石は政事怠荒、以て京尹と為す、何を以て能く治めん。請ふ皆之を罷めよ」と。似道大いに怒り、文龍を黜して撫州知事と為し、旋に又臺臣李可をして劾めて之を罷めしむ。未だ幾もなく、呂文煥大軍を導きて東下し、范文虎首として迎へて降り、文煥と俱に東す。似道兵魯港に潰え、溍最も先に遁れ、以て故に列城之に従ひて皆遁れ、始めて文龍の言を用ひざるを悔ゆ。起して左司諫と為し、尋いで侍御史に遷す。

時に辺事甚だ急なり、王爚と陳宜中能は一策を画せず、而して日々に朝堂に坐して私意を争ふ。潜説反し、平江を以て降り、臺臣其の家を籍せんことを請ふ、爚は以て可と為し、宜中は以て不可と為す。張世傑諸将四道に分かれて出師す、而して大臣監護せず、臺諫之を論ず、爚は辺を行はんことを請ひ、公卿を下して雑議せしめ、宜中は師を督して出でんことを請ひ、又公卿を下して雑議せしむ。文龍上疏して曰く、「『書』に言ふ、『三后心を協け、同じく道に底る』と;北兵今日某城を取り、明日某堡を築く、而して我は文を以て相遜ひ、跡を以て相疑ふ、譬へば猶溺を拯ひ焚を救ふに、安歩徐行の儀を為すが如し。請ふ大臣に詔して同心に治を図らしめ、虚議を滋さしむる無かれ」と。其の後宜中と爚終に相能はずして去り、十月に至りて始めて来る、事已に為す可からざるなり。

是の冬、累りて文龍を参知政事に遷す。未だ幾もなく降るを議す、文龍乃ち上章して帰養を乞ひ、既に国門を出でて之を悔ひ、復た上疏して還るを求め、報へず、乃ち帰る。五月、益王福州に於いて称制し、復た文龍を以て参知政事と為す。漳州叛く、文龍を以て閩広宣撫使と為して之を討たしむ。文龍黄恮の前に漳を守りて恩信有るを以て、辟いて参謀官と為す。兵を泉州に按じ、恮をして入りて之を招撫せしむ、恮至れば、民皆頓首して罪を謝す。興化に石手軍と曰ふ者有り、能く石を擲ちて人を中つ、議者其の用ふるに足らざるを以て之を罷む、石手軍も亦た叛く、復た命じて文龍を以て知軍と為し、之を平ぐ。

既にして降将王世強がまた大軍を導いて広に入り、建寧・泉州・福州は皆降った。福州知事王剛中は使者を遣わして興化を諭させたが、文龍はこれを斬り、その副使を釈放して帰らせ、書を持たせて世強・剛中の国に背いたことを責めさせた。かくて民兵を発して自ら守り、城中の兵は千に満たず、大軍が来て攻めたが陥とせず、その姻戚に書を持たせて降伏を勧めさせたが、文龍は書を焼き、その使者を斬った。密かに降伏を勧める者があったが、文龍は言った、「諸君はただ死を恐れるのみ、この生が不死でいられようか知らぬのか」と。そこでその将林華に境上を偵察させた。華は直ちに降り、かつ兵を導いて城下に至り、通判曹澄孫が門を開いて降り、文龍とその家族を捕えて軍中に至らせ、降伏させようとしたが屈せず、左右の者が凌辱挫折させると、文龍はその腹を指して言った、「ここは皆節義文章の所在である、どうして脅迫できようか」と。強いても、ついに屈せず、かくて械をかけて縛り杭州に送った。文龍は興化を去ってから直ちに食を絶ち、杭州に至って餓死した。その母は福州の尼寺に繋がれ、病は甚だしく、医薬もなく、左右の者がこれを見て涙を流した。母は言った、「我は我が子と共に死する、また何を恨みようか」と。これもまた死んだ。衆人は嘆いて言った、「かかる母あり、かかる子あるは宜なり」と。そのために収めて葬った。

蒲寿庚が泉州を以て降り、その民に告げて言った、「陳文龍は忠義でないのではないが、民をどうしようか」と。聞く者はこれを笑った。大軍が既に帰ると、文龍の甥の瓚がまた兵を挙げて林華を殺し、興化を占拠したが、間もなくまた破られ、瓚はこれに死した。

鄧得遇

鄧得遇、字は達夫、邛州の人。淳祐十年の進士。寧遠主簿に任じられ、南昌県知事に改め、隆興府通判となり、行在左蔵庫を監し、出て昭州知事となり、広西提点刑獄に遷り、一年を経て経略事を摂り、兼ねて静江府知事となった。

徳祐元年、長沙が兵に攻められると、得遇は都統馬驥・馬応麒を派遣して救援に向かわせた。驥が密かに叛いて帰還したので、得遇はこれを斬り、軍事を全て応麒に委ねた。間もなく、馬塈が閫帥を代わり、議事が合わなかった。二年、治所を蒼梧に移した。

静江が破れると、得遇は朝服を着て南を望み拝礼して辞し、一幅の紙に書して云う、「宋室の忠臣、鄧氏の孝子。忍びて生を偸むに忍びず、寧ろ甘んじて溺死す。彭咸の故居、乃ち吾が潭府。屈公子平、乃ち吾が伴侶。優なるかな悠なるかな、吾は其の所を得たり」と。かくて南流江に投身して死んだ。

張珏

張珏、字は君玉、隴西鳳州の人。十八歳の時、釣魚山に従軍し、戦功により累進して中軍都統制となり、人は「四川の虓将」と号した。

宝祐末、大軍がしょくを攻め、吉平隘を破り、長寧を抜き、守将王佐父子を殺した。閬州に至り、安撫楊奫を降し、推官趙広はこれに死した。蓬州に至り、守将張大悦を降し、運使施択善はこれに死した。順慶・広安諸郡は、破竹の勢いで陥った。翌年、諸道の兵を合わせて合州を包囲し、凡そ攻城の具は精備を極めなかったものはなかった。珏は王堅と協力して戦い守り、九月にわたって攻めても陥とせなかった。景定初、合州守将王堅が召されて朝に入り、馬千が代わって合州を守った。四年、千の子が糧秣を虎相山まで運送したが、東川兵に捕らえられ、しばしば書を以て千に降伏を勧めたため、朝廷はついに珏を以て千に代えた。珏は魁偉雄壮で謀略があり、兵を用いるに巧みで、奇を出し伏兵を設け、策に遺漏がなかった。その合州を治めるや、士卒は必ず練り、器械は必ず精鋭にし、部曲を統御するに法があり、たとえ奴隷であっても功あれば必ず優しく賞し、過ちあれば最も親しい者でも必ず罰して容赦せず、故に人々は命を用いた。

全汝楫が大良平を失って以来、大軍は虎相山に城を築き、兵を両城に駐屯させ、時折出撃して梁山・忠州・万州・開州・達州を攻め、民は耕すことができず、兵は甲を解いて臥すことができず、毎回糧道を補給するのに数郡の兵を尽くして護送し、両城の下で死戦してようやく入ることができた。咸淳二年十二月、珏はその将史炤・王立に死士五十人を率いさせ、斧を以て西門から斬り込み、城中で大戦し、その城を回復した。三年四月、平章賽典赤が兵を率いて入り、重慶を破壊し、道を挟んで合州城下に出たが、珏は舟を碇泊させて江中を断ち水城とし、大軍数万がこれを攻めたが陥とせず、ついに引き去った。

合州は余玠が二冉生の策を用いて以来、軍を釣魚山に移し、城壁は甚だ堅固であった。しかし開慶年間に兵乱を受け、民は甚だ凋弊していたので、珏は外には兵を以て耕作を守らせ、内には民に教えて田を開墾し粟を蓄積させ、二年を経ずして公私ともに充足した。九年、叛将劉整がまた計を献じ、青居から進んで馬騣・虎頂山に城を築き、三江口を扼して合州を図ろうとし、匣刺統軍が諸翼の兵を率いてこれを築こうとした。左右の者は出兵してこれと争おうとしたが、珏は許さず、言った、「蕪菁平の母徳・彰城は、汪帥の精兵の集まるところである、我が不意に出てこれを攻めれば、馬騣は必ずその背後を顧み、城を築く暇がないであろう」と。かくて嘉渠口に疑兵を張り、密かに軍を平陽灘に渡して二城を攻め、その資糧器械を焼き、砦を七十里越えて船場を焼き、統制周虎は戦死し、馬騣城はついに完成しなかった。

十年、寧江軍承宣使を加えられた。徳祐元年、四川制置副使・重慶府知事に昇進した。五月、検校少保を加えられた。その兵を徴発して入衛させようとしたが、蜀の道が断たれ、達することができなかった。六月、昝万寿が嘉定及び三亀・九頂を以て降り、守将侯都統は戦死した。既にして瀘州・叙州・長寧・富順・開州・達州・巴州・渠州諸郡は一月と経たずして皆陥ち、兵を合わせて重慶を包囲し、三江の中に浮橋を作り、援兵を断った。秋から冬にかけて、援は絶え糧は尽き、珏はしばしば死士を間道から城中に入れ、救援に赴くことを約束し、かつこれがために守禦の計を画いた。二年正月、その将趙安を派遣して青居を襲撃させ、安撫劉才・参議馬嵩を捕えて帰らせた。二月、張万を派遣して巨艦に精兵を載せ、内水橋を断ち切り、重慶に入らせた。四月、重慶の兵を合わせて出撃し鳳頂諸砦を攻めた。珏は瀘州の士人劉霖・先坤朋と結んで内応とした。六月、趙安を派遣して神臂門を破り、梅応春を捕えてこれを殺し、瀘州を回復した。重慶の兵は次第に解けて去り、瀘州を包囲した。十二月、趙定応が珏を迎えて重慶に入れ制置とした。

時に陽立が涪州を以て降ったので、珏は張万を派遣して立を攻め走らせ、その僚属馮巽午等を捕虜とした。立がまた兵を合わせて来て決戦し、史進・張世傑は戦死し、万は支えきれず、立の妻子及び安撫李端を捕虜として帰った。珏は都統程聡を以て涪州を守らせた。重慶の兵は尽く退いた。珏は二王が広中に立ったと聞き、兵数百人を派遣して王の所在を求めた。史訓忠・趙安等を調発して瀘州を救援させた。張万が夔州に入り、忠州・涪州の兵と連携して石門及び巴巫砦を抜き、将兵百余りを捕え、大寧の包囲を解き、十八砦を攻め破った。翌年六月、張徳潤がまた涪州を破り、守将程聡を捕えた。先に、聡は重慶で城を守る議論を強く主張したが、珏が入った時、知らず、出て涪州を守らせた。聡は郡に至って怏怏とし、備えを設けず、ここに至って捕らえられた。徳潤は肩輿に聡を載せて帰り、これに語って言った、「汝の子鵬飛は参政となった、早晚会うことができるであろう」と。聡は言った、「我は捕らわれ、彼は降る、我が子ではない」と。

この月、梁山軍の袁世安が降った。十月、万州が破られ、守将上官夔が殺された。十一月、瀘州は食糧が尽き、人々は互いに食い合い、ついにこれを破られ、安撫王世昌は自縊して死んだ。

大軍が重慶に集結し、佛圖關に駐屯し、一軍は南城に、一軍は朱村坪に、一軍は江上に駐屯した。瀘州の降将李従を派遣して招降させたが、張珏は従わなかった。十二月、達州の降将鮮汝忠が咸淳皇華城を陥とし、守将馬堃を捕らえ、軍使包申は巷戦して死んだ。至元十五年(1278年)春、張珏は総管李義に兵を率いさせて広陽から出撃させたが、全軍が壊滅した。二月、大軍が紹慶府を陥とし、守将鮮龍を捕らえ、湖北提刑趙立と制置司の幕官趙酉泰はいずれも自殺した。張珏は兵を率いて薰風門から出撃し、大将也速䚟兒と扶桑壩で戦ったが、諸将がその背後から合撃したため、張珏の軍は大敗した。城中の食糧が尽き、趙安が書を送って張珏に降伏を勧めたが、聞き入れなかった。趙安は配下の韓忠顯とともに夜に鎮西門を開いて降伏した。張珏は兵を率いて巷戦したが支えきれず、帰ってきて毒薬を求め飲もうとしたが、側近が毒薬を隠したため、小船に妻子を載せて東の涪州へ逃れた。途中で大いに悔やみ、船を斧で叩いて自沈しようとしたが、船頭が斧を奪って江に投げ込み、張珏は躍り上がって水に飛び込もうとしたが、家族が引き止めて死なせなかった。翌日、万戸鉄木兒が涪州で追いつき、捕らえて京師に送った。重慶は降伏し、制機曹琦は首を吊って死に、張万・張起巌は出て降伏した。合州を攻撃し、外城を陥とした。三月、王立もまた降伏した。

張珏は安西の趙老庵に至り、その友人が彼に言った、「公は一世を尽くして忠節を尽くし、仕えた主君に報いてきた。今ここに至って、たとえ死を免れたとしても、どうなるというのか」。張珏はそこで弓の弦を解いて厠の中で首を吊り、従者がその骨を焼き、瓦の壺に納めて死んだ場所に葬った。

趙立 附

趙立は、字を徳修といい、重慶の人である。進士に及第し、上書して賈似道に逆らったため貶謫された。徳祐(1275年)初め、起用されて太社令・湖北提刑となった。蜀に派遣され諸将に入衛を促したが、重慶に至った時には既に昝万寿が降伏しており、張珏は城を守って後日の図りとしていた。趙立は復命する術がなく、帰途涪州に至り、水に身を投じて死んだ。