宋史

列傳第二百〇九 忠義五 陳元桂 張順張貴 范天順 牛富 邊居誼 陳炤王安節 尹玉 李芾 尹穀楊霆 趙卯發 唐震 趙與檡趙孟錦 趙淮

陳元桂

陳元桂は撫州の人である。淳祐四年の進士。累次昇進して臨江軍の知軍となった。時に警報を聞き、城を築き防備を整えたが、心を焦がし思い悩んで病を生じた。開慶元年の春、北兵が臨江に至った。時に制置使徐敏子は隆興におり、兵を留めて進まなかった。元桂は病をおして城に登り、北門の亭上に坐して戦いを督励した。矢石雨の如く、力敵できず。吏卒が避難するよう勧めたが、従わなかった。門廊の鼓の翼で彼を遮蔽しようとする者がいたが、手を振って去らせた。抱えて逃げようとする者がいたが、元桂は言った、「死すともここを去ることはできない」。左右の者は逃げ去った。敵軍が至ると、元桂は目を見開き叱罵し、遂にそこで死んだ。その首を敵楼に懸けたが、四日を過ぎてようやく収斂したところ、体の色は生きているようであった。

初め、親戚に治所を移すよう勧める者がいたが、元桂は言った、「お前もまた浮説に動かされるのか。時事このようである。飢饉で死ぬこと、疾病で死ぬこと、盗賊で死ぬことと比べて、守土の任に死ぬことの方がいかに光明で俊偉であることか」。家族の者が船に乗るよう請うたが、許さず、かつ戒めて言った、「守臣の家族が先に動くことがあろうか、民心を動揺させることになる」。敏子がこれを上聞し、宝章閣待制を追贈し、緡銭十万を賜い、一子に京官、一子に選人の恩沢を与え、北門に廟を立て、諡して「正節」といった。

張順

張順は民兵の部将である。襄陽が五年にわたり包囲された時、宋はその西北に清泥河という水路があることを知り、均州・房州に源を発する。その地で軽舟百艘を造り、三舟を連ねて一舫とし、中の一舟に積載し、左右の舟は底を空けて覆い隠した。重賞を出して死士を募り、三千を得た。将を求め、張順と張貴を得た。俗に順を「矮張」、貴を「竹園張」と呼び、ともに智勇を備え、平素より諸将に信服されていたので、都統とした。令を出して言った、「この行いは死があるのみである。お前たちの中に本心でない者がいるなら、速やかに去るがよい、我が事を敗るな」。人々は感奮した。

漢水がちょうど増水した時、舟百艘を出し、やや進んで団山の下に至った。二日を過ぎて高頭港口に進み、方陣を結び、各船に火槍・火砲・熾炭・巨斧・勁弩を置いた。夜漏三刻を下るとき、碇を上げて江に出て、紅灯を目印とした。貴が先に登り、順がこれを殿として、風に乗り波を破り、直ちに重囲を犯した。磨洪灘より上流に至ると、北軍の水軍が江面に満ちており、隙間は入るべくもなかった。衆は鋭気に乗じて凡そ鉄の縆や杙を数百本断ち切り、百二十里を転戦し、黎明に襄陽城下に到着した。城中は久しく援軍が絶えていたが、救いが至ったと聞き、踊躍して気勢百倍となった。軍を収めた時、ただ順だけがいなかった。数日を過ぎて、浮屍が流れを溯って上り、甲冑を着け弓矢を執り、浮橋に直抵した。見れば順であり、身に四箇所の槍傷と六本の矢傷を受け、怒気勃勃として生きているようであった。諸軍は驚いて神の如しとし、塚を結んで葬り、廟を立てて祀った。

張貴 附

張貴は既に襄陽に到着すると、襄陽の帥呂文煥は力を尽くして留め共に守らせた。貴はそのぎょう勇を恃み、郢州に還ろうと欲し、そこで水中に数日間伏せて食事をせずにいられる二人の士を募り、蠟書を持たせて郢州に赴き援軍を求めた。北兵は守りを増してますます厳重にし、水路に連鎖を数十里にわたり繋ぎ、撒星樁を列ねたので、魚蝦ですら渡ることができなかった。二人は樁に遇うや即ちこれを鋸で断ち切り、ついに郢州に到達し、返報して、兵五千を発して龍尾洲に駐屯させ、挟撃を助けることを約した。

期日を定めると、文煥に別れを告げて東下し、配下の軍を点検した。舟に登ろうとした時、帳前の一人が逃亡した。それは過ちを犯して鞭打たれた者であった。貴は驚いて言った、「我が事は洩れた。急いで行こう、彼らはまだ知らないかもしれぬ」。また、枚を銜み跡を隠すこともできず、そこで砲を挙げ鬨の声を上げて舟を出し、夜に乗じて流れに順い縆を断ち囲みを破って突進し、衆は皆辟易した。険地を出た後、夜半に天は暗く、小新城に至ると、大軍が邀撃し、死を以て戦いを拒んだ。沿岸に荻を束ねて炬を列ね、火光は天を照らして白昼の如かった。勾林灘に至り、次第に龍尾洲に近づくと、遥かに軍船の旗幟が翻るのを望み、貴の軍は喜躍し、流星火を挙げて合図した。軍船は火を見るや即ち前進して迎え、勢い近づき合わんとする時、来たる舟は皆北兵であった。蓋し郢州の兵は二日前に風水のため驚疑し、三十里退いて屯していたが、大軍は逃亡兵の報を得て、龍尾洲を占拠し逸を以て労を待っていたのである。貴は戦い既に疲弊し、不意に出で、殺傷殆ど尽き、身に数十箇所の槍傷を受け、力支えず捕らえられ、遂に屈せず、死んだ。そこで降伏した兵卒四人に命じて屍を襄陽に担がせ、城下で叫ばせた、「矮張を知っているか、これがそれだ」。城壁を守る者は皆泣き、城中は喪気した。文煥は四人の兵卒を斬り、貴を順の塚に合葬し、双廟を立てて祀った。

范天順

范天順は荊湖都統である。襄陽が包囲されると、天順は日夜守戦に特に力を尽くした。呂文煥が降伏して出ると、天順は天を仰いで嘆いて言った、「生きては宋の臣、死しては宋の鬼とならん」。即ち守っていた所で縊死した。定江軍承宣使を追贈し、制書に曰く、「賀蘭は兵を擁しながら、坐視して睢陽の失陥を見る。李陵は節を失い、重ねて隴士の羞となす。今人あり、その死すべき所を得たり。褒恤なくして可ならんや、以て寵綏を示さん。范天順の功烈は卑しといえども、忠義は奪うべからず。均・房より舟を泛べるの役、艱難を克く済えしより、襄・樊に坐甲の師、益々その守りを堅くす。俄かに州刺史、降将軍となる。爾は乃ち屈せず自ら経す、危きに見て命を致すと謂うべし」。その妻を宜人に封じ、二子に官を授け、なお白金五百両、田五百畝を賜った。

牛富

牛富は霍丘の人である。制置司遊撃砦の兵籍に属した。勇にして義を知る。侍衛馬軍司統制となった。襄陽に五年戍守し、樊城を守ることに移り、累戦して敗れず、かつしばしば書を射て襄陽城中の呂文煥に遺し、互いに固守して唇歯の関係をなした。両城は凡そ六年にわたり陥落せず、富の力が多かった。城が破れると、富は死士百人を率いて巷戦し、死傷数えきれず、渇けば血水を飲んだ。転戦して前進し、民家が焼け街道が絶えた所に遇い、身に重傷を受け、頭を柱に触れて火中に赴き死んだ。静江軍節度使を追贈し、諡して「忠烈」とし、廟を建康に賜って建てた。

副将の王福は張富の死を見て、嘆じて曰く、「将軍は国事のために死す、我どうして独り生きんや」と。また火に赴いて死せり。

邊居誼

邊居誼は隨の人なり。初め李庭芝に事へ、戦功を積みて都統制に至る。咸淳十年、京湖制置帳前都統として新城を守る。居誼は下を禦ぐに善く、士心を得、凡そ戦守の具、これを治むるに皆法あり。

大兵沙陽に至り、守将の王大用降らず、兵を麾いて城を攻め、これを破り、大用を執る。呂文煥新城に至り、その小なる塁は攻めずして破るべしと意ひ、居誼は舟師を率いてこれを拒ぐ。文煥は沙陽にて斬りし首級を列ねて降を招くも、従はず。明日、大用を縛りて壁下に至らしめ、呼ばしめて曰く、「邊都統急ぎ降れ、然らずば禍即ち至らん」と。居誼答えず。また榜檄を射て壁中に入る。居誼曰く、「我は呂參政と語らんと欲するのみ」と。文煥これを聞き、居誼己に降らんとすと以為ひ、馬を馳せ至る。伏弩乱発し、文煥に中ること三、並びにその馬に中り、馬仆す。幾くんか鉤いてこれを得んとす。衆文煥を挟みて他の馬に乗せて奔走す。二日を越え、総制の黄順一人を挟みて東門を開き走り出でて降る。明日、順を使はしてこれを招かしむ。居誼曰く、「若し新城を得んと欲するか。我は誓って死を以てこれを守らん、何ぞ得べけんや」と。順またその部曲を呼ぶ。部曲城を縋りて出でんと欲す。居誼悉くこれを駆りて入らしめ、門に当たってこれを斬る。文煥乃ち兵を麾いて城を攻め、火具を以てこれを却く。旋って蟻附して上る。居誼乃ちその家の金を取って将士に尽く散じ、往来して戦を督す。会ひて暮れ、侵漢楼を破る。楼の火延焼して民居を毀つ。居誼力支へずと度り、走り還りて第に至り、剣を抜いて自殺す。殊れず、火に赴いて死す。丞相の伯顏その勇を壮とし、その屍を燼中に購ひ得て、これを観る。事聞こゆ。利州観察使を贈り、廟を死所に立てしむ。

陳炤

陳炤は字を光伯と云ひ、常州の人なり。少にして詞賦に工み、第に登り、丹徒県尉と為り、両淮制置司参議官・大軍倉曹寿春府教授を歴任し、復た帥幕に入り、朐山県知事に改め、仍た機宜文字主管を兼ぬ。尋いで母憂に丁りて帰る。

北兵常州に至る。常州守の趙与鑒走り匿る。郡人の錢訔城を以て降る。淮民の王通常州に居り、陰に書を以て劉師勇と約し、内応を為すことを許す。朝議乃ち姚希得の子の訔をして常州を知らしむ。師勇常州を復し、錢訔を走らせ、安撫の戴之泰等を執り、遂に訔を迎へて入らしむ。訔は炤の久しく辺に任じ兵を知るを以て、通判に辟く。或るひと炤に謂ひて曰く、「今辟難するに辞あり」と。炤曰く、「郷邦淪没す、何ぞ坐視すべけんや。その偷生して苟全するに若かず、死するに愈れるは」と。遂に墨衰して出づ。凡そ以て備禦すべきものは、為さざるなし。

訔常州に入ること甫く十余日、大軍常州を攻む。炤等は義兵を率いて戦ひ禦ぎ、夏より冬に徂るも下すこと能はず。功を以て帯行提轄文思院を加ふ。常州の将の張彦呂城を攻め、兵敗れて降り、因りて尽く常州城中の虚実を言ふ。遂に急ぎこれを攻む。炤等は昼夜城を守り、これを招くも下らず。丞相の伯顏自ら将としてその城を囲む。炤と訔は忠義を以て持ち、協力して固く守る。再び訔に太府寺丞を加へ、炤に幹辦諸軍糧料院を加ふ。常州の将士皆五官に転ず。城益々急なり。常州の兵壕水を阻んで陳と為し、矢尽くるも亦降らず。城破る。訔これに死す。炤猶ほ兵を斂めて巷戦す。家人請ひて曰く、「城東北門囲み未だ合はず、常熟に走りて臨安に入るべし」と。炤曰く、「此を去ること一步、死する所に非ず」と。日中兵至り、これに死す。事上る。訔に龍図閣待制を追贈し、希得に太師を贈り、炤に直宝章閣を贈り、並びにその子を官す。

王安節

王安節は節度使の王堅の子なり。少くしてその父に従ひ合州を守りて功あり、安節等兄弟五人皆官を受く。堅は賈似道に忌まれて、和州知事に出で、鬱鬱として死す。

安節は咸淳の末に至りて東南第七副将と為る。徳祐初め、似道蕪湖にて師を潰し、列城皆降り、降らざる者も亦城を棄てて遁る。時に安節は江陵に兵を駐め、即ち臨安に走り、疏を上して兵を募りて捍禦せんことを乞ふ。閣門祗候・浙西添差兵馬副都監を授かる。兵を収めて平江に入り、張世傑の兵と合して鳳皇港に戦ひ、功あり、三官を転ず。

劉師勇常州を復し、王良臣を攻め走らす。師勇平江に還り、安節と張詹を以て常州を守らしむ。已にして良臣大兵を導きて常州を攻む。常州の城素より悪し。安節等は柵を築きて守り、相拒むこと両月下らず。大元の丞相の伯顏自ら将としてこれを攻め、屡ひ使を遣はして降を招くも、亦下らず。丞相怒り、兵を麾いてその南門を破る。安節は双刀を揮ひて死士を率ひ巷戦し、臂傷つきて執はる。その姓名を求むる者あり。安節呼びて曰く、「我は王堅の子の安節なり」と。これを降すこと得ず、乃ちこれを殺す。

尹玉

尹玉は寧都の人なり。盗を捕ふる功を以て贛州三砦巡檢と為る。秩満ちて城に居り、文天祥に従ひて王に勤む。天祥の平江に至るに及び、玉を調べて淮将の張全・広将の朱華とともに大兵を拒ぎ、伍牧に戦ふ。全等の軍敗れ、淮・広軍先づ遁るを以てす。曾全・胡遇・謝栄・曾玉は贛州四指揮軍を以て亦遁る。唯だ玉の残軍五百殊死に戦ふ。玉手ずから数十人を殺し、箭その冑に集まること蝟の毛の如し。援絶え力屈し、遂に執はる。大軍四槍をその項に横たへ、梃を以てこれを撃ちて死せしむ。余兵猶ほ夜戦し、人馬を殺して田間を蔽ひ、一も降る者なし。質明、生還する者四人。玉に濠州団練使を贈り、その二子を官し、田二頃を賜ひてその家を恤ふ。

李芾

李芾、字は叔章、その先祖は広平の人であったが、中頃に汴に移った。高祖こうそ父の升は進士に挙げられ、官吏として廉潔の名声があった。靖康年間、金人が汴を破った時、刃をもってその父を脅迫したので、升は前に進んでこれを防ぎ、父とともに死んだ。曾祖父の椿は家を衡州に移し、ここに衡の人となった。

芾は生まれつき聡明で機敏であり、若くして自ら志を立て、その書斎を「無暴棄」と名付けた。魏了翁は一度会って礼を尽くし、祖父の風格があると言い、その名を「肯斎」と改めさせた。初めに蔭補により南安司戸に補され、祁陽尉に辟召され、出向して飢饉救済にあたり、早くも名声を得た。祁陽県を摂行し、県は大いに治まり、湖南安撫司幕官に辟召された。当時、永州で賊が起こり、これを招撫したが、一年余りしても降らなかった。芾は参議の鄧坰とともに千三百人を率いてその巣窟を破り、賊の首魁蔣時選父子を生け捕りにして帰り、残党はここに平定された。湘潭県を摂行し、県には豪族が多く、前任の県令は手を束ねて敢えて犯さなかった。芾は戸籍を調べて賦税を徴収し、貴勢を避けず、賦役は大いに均等となった。

朝廷に入り、差遣されて徳清県知事となった。折しも浙西が飢饉に属し、芾は保伍を設置して民を救済し、数万の命を生かした。主管酒庫所に遷った。徳清に妖人が民を扇動して乱を起こし、民は蜂起してこれに附き、数万人に至った。芾を派遣してこれを討たせると、賊はその来るを聞き、衆はたちまち散り帰った。司農寺丞に除され、歴任して永州知州となり、恵みある政治を行い、永の人々は祠を建てて祀った。浙東提刑として温州知事となった。州は海に臨み賊が多かったが、芾が到着すると賊は静まり、ここに前官のまま浙西に移った。当時、浙西もまた賊が多く、群れをなして太湖中に巣くっていたが、芾はその出没の跡をたどってこれを捕らえ、賊もまた驚き散った。虎丘書院を建てて尹焞を祀り、学官を置き、自ら学規を作ってこれを教え、学ぶ者は非常に盛んであった。

咸淳元年、入朝して臨安府知事となった。当時、賈似道が国政を執っており、前任の府尹は事の大小を問わず先に関白してからでなければ行わなかったが、芾のみは何も問わなかった。福王府が人を死に迫らせた事件があり、似道が力を尽くして営救したが、芾は書状を往復して弁論し、ついに法に照らして処断した。かつて防火具を点検に出た時、備えていない民がいたので問うと、「似道の家人です」と言った。すぐに杖罰を加えた。似道は大いに怒り、台臣の黄萬石に命じて贓罪で誣告させ、罷免させた。

大軍が鄂州を取ると、初めて起用されて湖南提刑となった。当時、郡県は賊の擾乱に遭い、民は多く奔り逃げた。芾は管下に命じて民兵を発して自衛させ、各県に黒旗一つを与え、「乱を起こす者はこの旗の下で斬る」と命じた。民はここにようやく安堵した。ここに兵を召集して発し、壮士三千人を選び、土豪の尹奮忠にこれを率いさせて王事に勤めさせ、別に民兵を召集して衡に集め守備に当たらせた。間もなく、似道の軍が蕪湖で潰えると、ここに芾の官を復し、潭州知州兼湖南安撫使とした。当時、湖北の州郡はすでに皆帰附しており、その友人が芾に行かないよう勧め、「やむを得ないなら、身一つで行くのがよい」と言った。芾は泣いて言った、「私はどうして身の謀りに暗いことがあろうか。ただ代々国恩を受けており、たとえ廃棄されていてもなお報いる道を考えていた。今幸いに私を用いる、私は家をもって国に許すのだ」。当時、その愛する女が死に、一慟して出発した。

徳祐元年七月、潭に到着した。潭の兵は徴発され尽くしており、遊騎はすでに湘陰・益陽諸県に入っていた。慌ただしく募集しても三千人に満たず、ここに溪峒の蛮を結んで声援とし、器械を整え、糧秣を蓄え、江に柵を設け壁を修築し、劉孝忠に諸軍を統率させた。呉継明が湖北から到着し、陳義・陳元がしょくの守備から帰還したので、芾は上奏して留めて潭の守備に当たらせ、誠意を推してこれを任用し、皆その死力を得た。

大元の右丞阿裏海牙が江陵を下した後、軍を分けて常徳を守備させて諸蛮を扼し、大軍をもって潭に入った。芾はその将の于興に兵を率いさせて湘陰でこれを防がせたが、于興は戦死した。九月、再び継明を出撃させて防がせようとしたが、兵がまだ出撃しないうちに、大軍はすでに城を包囲した。芾は慷慨として城壁に登り、諸将と分かれて地を守り、民の老弱者も皆出て、保伍を結成してこれを助け、命じなくとも集まった。十月、敵兵が西壁を攻撃すると、孝忠らは奮戦し、芾は自ら矢石を冒してこれを督戦した。城中の矢が尽き、古い矢は皆矢羽が傷んでいたので、芾は民間の羽扇を徴発するよう命じると、矢羽はたちまち揃った。また、食塩がなくて苦しんだので、芾は庫中に積んであった塩の筵を取り出し、焼いて塩を取って与えた。傷ついた者がいれば、自ら慰労し、日々忠義をもって将士を励ました。死傷者は累々と重なり、人々はなお血をすすり城に乗って必死に戦った。降伏を勧めに来る者がいれば、芾はこれを殺して見せしめにした。

十二月、城の包囲はますます切迫し、孝忠は砲撃を受け中風して起き上がれず、諸将は泣いて請うて言った、「事態は切迫しております。我々は国のために死ぬことはできますが、民はどういたしましょうか」。芾は罵って言った、「国家が平時から厚く汝らを養ってきたのは、今日のためだ。汝らはただ死守せよ。後で異議を唱える者がいれば、我先に汝を斬る」。大晦日、大軍が城に登り、戦いが少し後退すると、たちまち蟻のように付いて登ってきた。衡州守の尹穀とその家族は自焼し、芾は命じて酒を捧げてこれを祭った。ここに賓佐を留めて会飲し、夜に伝令を出し、なおも手ずから「尽忠」の字を書いて合図とした。飲み明かし、諸賓佐が出て行くと、参議の楊震は園池に赴いて死んだ。芾は熊湘閣に坐り、帳下の沈忠を召し出して金を与えて言った、「我が力は尽きた。当然死ぬべき身分だ。我が家族もまた捕虜の辱めを受けるわけにはいかない。汝が皆殺しにし、その後で私を殺せ」。忠は地に伏して叩頭し、できないと辞退したが、芾は固く命じた。忠は泣いて承諾し、酒を取ってその家族に飲ませて皆酔わせ、ここに刃を巡らせて皆殺しにした。芾もまた首を伸べて刃を受けた。忠は火を放ってその居宅を焼き、家に帰って妻子を殺し、再び火元に戻り、大いに慟哭し、身を投げ出して地に倒れ、ここに自刎した。幕属の茶陵の顧応焱・安仁の陳億孫も皆死んだ。潭の民はこれを聞き、多くは挙家して自尽し、井戸に空きはなく、林木に縊死する者は累々と並んでいた。継明らは城を降し、陳毅は包囲を突破し、閩に奔らんとしたが、途中で戦死した。事が朝廷に聞こえ、端明殿大学士を追贈され、諡は「忠節」とされた。芾が初めて潭に着いた時、その子の裕孫を外に出して言った、「汝を存続させて祭祀を奉ぜしめるためだ」。その孫の輔叔も当時温で親迎中であり、皆死を免れた。二王は皆詔を下して閩に入らせ官職を与えた。

芾は人となり剛直で、強権を恐れず、事に臨んでは精敏であり、奸猾な者も欺くことができなかった。かつ体力は人に勝り、朝から夕方まで政務を処理しても倦怠の色がなく、夜はたいてい三鼓(午後11時頃)になってようやく休み、五鼓(午前3時頃)には再び起きて政務を見た。遠くから見れば凛然として神明のようであったが、賢者を好み士を礼遇し、近づけば温然としており、一芸の小善でも倦まずに奨励推薦した。平生、官に居ては廉潔であり、排斥された時も、家に余財はなかった。

尹穀

尹穀、字は耕叟、潭州長沙の人。性質は剛直で厳格であり、初め郡学に在った時、士友は皆厳しく畏れた。

宋は詞賦をもって士を取ったが、末世には、ただ閩・浙の賦のみが四方に優れていた。穀は同郡の邢天栄・董景舒・欧陽逢泰らと賦を作り、体裁は典雅を務め、一篇が出るごとに、士人は争ってこれを学び、ここに湘の賦は閩・浙と肩を並べた。中年に進士第に登った。常徳推官に調され、崇陽県知事となり、赴任先では廉正で名声があった。

母の喪に服し、家に居て教授し、儒者の質素を改めなかった。日がまだ出ないうちに、諸生に経書及び朱氏の『四書』を授け、士に才思があっても謹厳でない者は排斥して相手にしなかった。諸生は真夏でも必ず盛装し、終日端座し、夜に蝋燭を消してからようやく頭巾を外し、朝早く起きても必ず冠をかぶってから帷帳を出た。市中を行く時、市人はその挙動に礼があるのを見て、互いに言った、「これはきっと尹先生の門人だ」。問いただすと果たしてそうであった。

李庭芝の制置使幕下に遅く入り、推薦により衡州知事に抜擢され、家で待機していた。潭州城が兵に囲まれると、帥臣李芾が礼を以て参謀に迎え、共に防禦策を画策した。当時、城中の壮士は皆臨安の守衛に赴いており、残された兵は僅か四百五十人、その大半が老弱者であった。李芾は民丁を糾合し、大義を以て激励すると、人々は必死に戦い、三ヶ月間城は陥落しなかった。大軍が要害を遮断し、援兵は至らず、尹穀は城の危うきを知り、妻子と訣別して言うには、「我は寒儒として国恩を受け、州を治める身、義として屈すべからず、汝らは必ずや我に従って死ぬがよい」と。弟の岳秀を呼び出し、尹氏の祭祀を存続させるため逃がそうとしたが、岳秀は泣いて共に死ぬことを承諾した。そこで薪を積み戸を閉ざし、朝服を着て宮廷を望み拝礼した後、先ず歴任の官職告身を焼き、即ち火を放って自焼した。隣家が救おうとしたが、火勢が激しく近づけず、ただ烈焰の中に遥かに尹穀が冠を正し笏を端持して端坐するのを見るのみで、一家の門を閉ざし、老若を問わず皆死んだ。李芾はこれを聞き、酒を命じて尹穀に酹し言うには、「尹務実は、男子なり。我に先立って義に就いた」と。務実は、尹穀の号である。

初め、潭州の士人は学舎に居住し学業に専念することを重んじ、州学生は月試の積分が高等ならば、湘西の嶽麓書院生に昇進し、また積分が高等ならば、嶽麓精舎生に昇進し、潭人はこれを「三学生」と称した。兵乱の時、三学生は州学に聚居し、なお学業を廃さなかった。尹穀が死ぬと、諸生数百人が赴いて哭し、城が破れると、多くが感激して義に殉じて死んだ。

楊霆

楊霆、字は震仲。少時より志節を有した。世襲の恩沢により将仕郎に奏補され、銓試で第一となり、修職郎・桂嶺主簿に授かり、有能の名声があった。また五度漕挙に合格し、鄂州教授に改め、復州司理参軍に遷り、常徳・澧州の観察推官を経て、監利県知事に抜擢された。県に疑わしい獄事があり、数年決せず、楊霆は着任前に微服で実情を探り、直ちに判決を下し、人々は神明の如しと称えた。

荊湖制置司幹官に辟召される。呂文徳が帥であったが、平素より士人を侮慢し、常に難事を以て試したが、楊霆は即座に処理し、皆その意に合った。ある日、呂文徳が言うには、「朝廷に密旨あり、淮東を策応すべく出師するが、誰を行かせようか」と。即座に対し「某将が可なり」と答えた。また「兵器糧草はどうか」と問うと、即座に「某営の兵馬、某庫の器甲、某処の矢石、某処の芻糧」と答え、口述して吏に授け、瞬く間に案文が完成した。文徳は大いに驚き言うには、「我は平生文人を軽んじ、その事を為さざるを以てした。公の材幹かくの如し、何の官ならば為せぬことがあろうか、我何ぞ敢えて敬わざらんや」と。密かに朝廷に推薦し、通判江陵府に除された。

江陵は大府にして、上流に雄拠し、表裏は襄陽・漢水に連なり、西は巴蜀はしょくを制し、南は湖広を扼する。兵民雑居し、庶務叢集する中、楊霆は事に随い裁決し、泰然として処した。暇日に郡庠に赴き、諸生と講学し、また官に属する閑田を取って、廩給を増益した。民の強壮なる者を選び、農閑期に訓練し、時に器械を与え、兵士に混じって演習させ、自ら閲兵し賞を与えて激励した。間もなく、甲冑を着て騎射できる者が出て、遂に皆その用を得るようになり、兵は再び民を擾さなくなった。

母の喪に服す。徳祐初年、喪中起復され奉議郎・湖南安撫司参議となり、安撫使李芾と協力して戦守に当たった。楊霆は心計に長け、奇策を出して応変に善く、帥府の機密事務は、李芾が一切を彼に委ねた。城が初めて包囲された時、日夜守禦し、数日後に西北隅が破られると、楊霆は兵を指揮して巷戦し、日暮れには月城を増築し、夜明けには城は再び完備した。将士を激励し、以て死守させた。城が破れると、楊霆は水に赴いて死に、妻妾は駆けつけて救おうとしたが及ばず、遂に皆死んだ。

趙卯発

趙卯発、字は漢卿、昌州の人。淳祐十年、上舎に登第し、遂寧府司戸・潼川簽判・宣城県令となった。平素より節行を以て称された。中頃に弾劾され罷免された。咸淳七年、彭沢県令として起用される。十年、池州通判を権知する。

大軍が長江を渡ると、池州太守王起宗は官を棄てて去り、卯発が州事を代行し、城壁を修繕し糧食を集め、守禦の計を図った。夏貴の軍が敗れて帰還する際、通過地で掠奪をほしいままにしたので、卯発は十余人を捕らえて斬り、兵はようやく鎮まった。翌年正月、大軍が李王河に至ると、都統張林は屡々降伏を仄めかしたが、卯発は忿気胸を填め、目を見開いて張林を見つめるのみで言葉が出なかった。身を保つ道を問う者あり、卯発は言う、「忠義こそ身を保つ道なり、これ以外は臣子の言うべきことに非ず」と。張林は兵を率いて江上を巡察すると称し、密かに降伏し、帰って来て表向きは卯発を助けて守りを固め、守兵五百余りの指揮権は全て張林に帰した。卯発は守り切れぬと悟り、酒宴を設けて親友と会い、別れの盃を交わし、その妻雍氏に言うには、「城は将に破れんとす、我は守臣として去るべからず、汝は先に逃れよ」と。雍氏は言う、「君は命を受けた官、私は命を受けた婦、君が忠臣ならば、私は独り忠臣の妻たることができぬというのか」と。卯発は笑って言う、「これは豈に婦人女子の能くする所ならんや」と。雍氏は言う、「私は君に先立って死ぬことを請う」と。卯発は笑って止めた。翌日、家財を弟や甥に分け与え、僕婢は悉く遣り放した。

二月、兵が池州に迫ると、卯発は朝起きして、机の上に書き記した。「君に叛くべからず、城を降すべからず、夫妻同じく死し、節義双なると」と。また詩を作って兄弟に別れを告げ、雍氏と共に盛服して従容堂で共に縊死した。卯発が初めてこの堂を建てた時、「可以従容」と名付けたが、兵乱が急になると、客を堂に招き、掲げた扁額を指して言うには、「我は必ずここで死ぬ」と。客がその故を問うと、言うには、「古人が『慷慨殺身は易く、従容就義は難し』と言うが、これはその兆しであろう」と。卯発が死ぬと、張林は城門を開いて降伏した。大元の丞相伯顔が入城し、太守は何処にいるかと問うと、左右が死んだと答えた。直ちに堂に行って見ると、皆嘆息した。棺と衾を整えて池の畔に合葬し、その墓を祭って去った。事が朝廷に聞こえ、華文閣待制を追贈され、諡は「文節」、雍氏は順義夫人を追贈され、二人の子が京官に録用された。

唐震

唐震、字は景実、会稽の人。若くして郷里に住み、孤高で交わりを苟くせず、己の過ちを言う者あれば喜んだ。登第して小官となった時、権貴が書状で推薦した者があったが、唐震は書状を篋中に納め、後にその者が唐震に取り入ろうとすると、唐震は書状を取り出して返し、封題は未だ開けておらず、その人は大いに慚愧した。後に他の官に転じ、赴任先では公廉を以て称された。楊棟・葉夢鼎が政府に在った時、互いにその賢を推薦した。

咸淳年間、大理司直から臨安府通判となった。当時、潜説友が京尹を務め、賈似道の勢力を恃んで甚だ驕慢で、政事一切に顧慮譲歩することがなかった。時に府に死刑に処すべき獄案があったが、唐震は力説してその非を弁じ、説友は争ったが及ばず、その事を刑部に上奏したが、結局唐震の議が是とされた。

六年、江東が大旱魃に見舞われると、信州知事に抜擢された。唐震は綱運米の減免を奏上し、租賦を免除し、各坊に一吏を置き、その戸籍を記し、富人に粟を分け与えるよう勧め、坊吏に主管させて給付させた。吏に功労ある者があれば、直ちにその身分回復を奏上し、吏はその誠意に感じ、事に尽力し、救われた者は数え切れなかった。州に、民が童を雇い牛を牧させたところ、童が逃げ出し牧舎が火事になり、その父が雇い主が子を殺して火中に投げ入れたと訴えた。民は拷問に耐えかね、自ら誣服した。唐震は文書を見て疑い、密かに探し求め、隣郡で童を見つけ出し、その父を詰問したが、初めの通りに答えた。唐震はその子を引き出して見せると、獄は遂に正された。浙西提刑に抜擢される。宮廷に参内して辞去する際、賈似道が公田の類を唐震に託したが、唐震は行えぬと謝絶し、任地に着くと、また上疏して力爭した。趙氏に墓守の僧侶がおり甚だ暴横であったが、唐震は吏を遣わして捕らえ処罰しようとした。賈似道が書状で救援したが、唐震は省みず、遂に法に照らして処断した。賈似道は怒り、侍御史陳堅に弾劾させて罷免させた。

咸淳十年(1274年)、起震は饒州の知州に任ぜられた。当時、興国・南康・江州の諸郡はすでに帰順しており、大軍が饒州を攻略しようとした。饒州の兵はわずか千八百人に過ぎなかったが、震は州民を徴発して城を守らせ、夜明けに兵を整えに出て、夜中になってようやく就寝し、援軍を求める上書をしたが、返答はなかった。大軍は人を饒州に入れて降伏の誓約書を取らせようとし、通判の万道同はひそかに配下に命じて白金・牛・酒を集めさせ降伏の礼を準備し、饒州に寓居する士人もこれに従った。道同が震に降伏をほのめかすと、震は叱りつけて言った、「私はどうして生き恥をさらし国に背くことができようか」と。城中の若者は震の言葉に感じ入り、使者を殺した。李希聖という者がおり、降伏して出ようと謀ったので、枷をはめて獄に置いた。翌年二月、大軍が大挙して到来し、都大提挙の鄧益は逃げ去り、震は官庫の金銭をすべて出し、官位と資財を書き記して城に掲示し、戦いに出られる者を募って賞を与えた。兵衆は恐れて戦うことができず、北兵が城壁に登ると、衆はついに潰走した。震は府中の玉芝堂に入ると、その僕が前に進み出て請うて言った、「事態は切迫しております。番江門の兵はまだ包囲を完成させておりません。急いで出られればまだ免れることができます」と。震は罵って言った、「城中の民の命は皆わが身にかかっている。もしお前の言うことに従って死を免れたとしても、城中の民が死ねば、私はどんな面目あって生きられようか」と。左右の者は再び敢えて言わず、皆出て行った。しばらくして、兵が入り、文書を机の上に広げ、震に降伏の署名をさせようとした。震は筆を地に投げつけ、屈せず、ついにそこで死んだ。兄の椿も家人とともに死んだ。張世傑がまもなく饒州を回復し、判官の鄔宗節が震の屍を求めて葬った。華文閣待制を追贈され、諡は「忠介」、廟号は褒忠とされ、二人の子に官が与えられた。

震の門客の馮驥と何新之は、驥は後に独松関を守り、新之は閩の新塁を守り、ともに戦死した。

趙 與檡

趙與檡は、嗣秀王となった。徳祐二年(1276年)、浙・閩・広察訪使となった。益王が立つと、舅の楊亮節が宮中で権力を握り、與檡は自ら国家の親族で賢者であるとして、多く諫め止めたため、ついにその忌諱に触れ、諸将も皆彼を畏れた。まもなく、北兵が浙東に迫り、ついに與檡を瑞安に出させ、守臣の方洪とともに防備の任に当たらせた。朝臣は與檡に劉更生の忠、曹王皐の孝があると言い、国本を盛んにするために留めて補佐させるべきだと述べた。讒言する者はますます急であり、ついに彼を派遣した。瑞安が包囲され、城中は危急に陥り、與檡と洪は死守を誓った。小校の李雄が夜に門を開いて外の兵を入れ、與檡と洪は衆を率いて巷戦し、兵敗れて捕らえられた。董文炳が彼に問うて言った、「お前は秀王か?今降伏できるか?」と。與檡は声を厲して言った、「私は国家の近親である。今力尽きて死ぬのは本分だ。まだ何を問うことがあろうか」と。ついに彼を殺した。洪もまた節を守って死んだ。

趙 孟錦

また趙孟錦という者がいた。若い頃は放縦で、淮で遊び軍功によって将佐となった。北兵が真州を攻めると、戦うごとに必ず士卒の先頭に立ち、守将の苗再成は彼を重んじて頼りとした。北兵の大艦が江上に駐屯している時、孟錦は大霧に乗じて襲撃をかけたが、やがて霧が晴れ、日はすでに高く、北兵は彼の兵が少ないのを見て追撃し、舟に登ろうとして足を滑らせ水に落ち、身に重い甲冑を着けていたため、溺れ死んだ。

趙 淮

趙淮は、丞相の趙葵の従子である。李全の反乱に際し、たびたび戦功を立て、累官して淮東転運使に至った。徳祐年中、銀樹塁を守備したが、兵敗れ、その妾とともに捕らえられ瓜州に連行され、元帥の阿術が淮に李庭芝を招降させようとし、大官を約束した。淮は表面上承諾し、揚州城下に至ると、大声で呼ばわった、「李庭芝よ!男子は死ぬのみだ。降伏するな!」と。元帥は怒り、彼を殺し、屍を江辺に棄てた。