宋史

列傳第二百〇八 忠義四 崔縱呉安國 林沖之子:郁 從子:震 霆 滕茂實 魏行可郭元邁 閻進朱績 趙師檟 易靑 胡斌 范旺 馬俊 楊震仲史次秦 郭靖 高稼 曹友聞 陳寅賈子坤 劉鋭 蹇彝 何充 許彪孫張桂 金文德 曹贛 胡世全 龐彦海 江彦淸 陳隆之史季儉 王翊 李誠之秦鉅

崔縦

崔縦は、字を元矩といい、撫州臨川の人である。政和五年の進士に及第した。確山主簿・仙居丞を歴任し、累遷して承議郎・幹辦審計司となった。二帝が北行されたとき、高宗は使者を遣わして通問しようとしたが、廷臣は先の使者が相次いで拘束されたため、誰も行こうとしなかった。縦は毅然として行くことを請い、そこで朝請大夫・右文殿修撰・試工部尚書を授けられて出発した。到着するや、まず大義を以て金人を責め、二帝の還御を請い、また三度書を送った。金人は怒り、彼を窮荒の地に移したが、縦は少しも屈しなかった。久しくして、金人は南使に自ら陳述することを許してその帰還を聴こうとしたが、縦は王事未だ畢らずとて言うに忍びなかった。また官爵を以て誘ったが、縦は恚恨して疾を成し、ついに節を握ったまま死んだ。洪皓・張邵が帰還したとき、遂に縦の骨を帰した。詔して兄の子延年を後とさせた。

呉安国 附

呉安国は、字を鎮卿といい、処州の人である。太学の進士となり、累官して考功郎官に遷った。太常少卿として金に使いし、金人の盟に背くに値い、拘留されて服するよう脅されたが、安国は毅然として正色して言った、「我が首は得られども、我が節は奪うべからず。ただ誠を竭くして王事に死するを知るのみ。王命を辱しめんや」。金人は敢えて犯さず、遣わして還した。後に袁州の知州となり、卒した。

林沖之

林沖之は、字を和叔といい、興化軍莆田の人である。元符三年の進士となり、御史臺檢法官・大宗正丞、都官・金部郎を歴任し、省寺に滞ること十年であった。出て臨江・南康を守った。

靖康初め、召されて主客郎中となった。金人が再び侵してきたとき、詔して中書侍郎陳過庭の副使として金に使いし、共に拘執された。初めはなお乳酪を与えられたが、宇文虚中がその命を受けるに及んで、金人もまたこれを以て沖之を誘った。沖之は奮厲して詞色に現わし、金人は怒り、彼を奉聖州に移した。既に二年、過庭が卒すると、金人は沖之を逼って偽斉に仕えさせようとしたが、屈せず。上京に移されても、また屈せず。顕州の極北沍寒の地に置き、仏寺に幽すること十餘年。次第に飲食に慣れ、義命を以て自ら安んじ、髭髪は還って黒くなった。病篤く、同じ難に遭った者に語って言った、「某は七十二歳、忠を抱いて地に入るに恨みなし。恨むところは国仇未だ復せざるのみ」。南に向かって一慟して絶えた。僧は寺の隅に葬った。洪皓が還朝してこれを聞かせ、詔して二子に官を与えた。子は郁。従子は震・霆。

子 郁

郁は、字を襲休といい、宣和三年の進士となり、再調して福建茶司幹官となった。建州の勤王卒が京師より還り、卸甲銭を求め、郡守が逃匿したため、卒は鼓譟して庫の兵を取って乱を為し、転運使毛奎・転運判官曾仔・主管文字沈昇を殺した。郁は変を聞き急ぎ入って卒を諭したが、害に遇った。事が聞こえ、詔して各一子に官を与えた。

従子 震

震は、字を時旉といい、崇寧元年の進士となり、仕えて秘書少監に至った。二蔡に附かざることを以て崇寧・大観の間に声があった。

従子 霆

霆は、字を時隠といい、政和五年の進士となり、敕令所刪定官となった。紹興の和議を詆し、二帝を万里の外に置いて通問せざるは宜しからずと謂い、即ち冠を掛けて都門を出た。権臣大いに恚怒し、また廃放して死なしめた。莆人は「忠義林氏」と称した。宝慶三年、その居所に祠を立てた。宝祐年中、また田百畝を与え、祭享を備えさせて忠義を勧めたという。

滕茂實

滕茂實、字は秀穎、杭州臨安の人。政和八年の進士。靖康元年、工部員外郎をもって工部侍郎を仮とし、路允迪に副使として出使し、金人に留め置かれた。時に茂實の兄の綯は代州の通判であり、既に先だって金に降っていた。粘罕は平素より茂實の名を聞いており、乃ち彼を代州に移し、また京師よりその弟の華實を取って同居させ、その意を慰めんとした。

欽宗が都城を離れてより、旧臣に敢えて起居を候問する者なし。茂實は欽宗の将に至らんとするを聞き、即ち自ら哀詞を作り、且つ「宋工部侍郎滕茂實墓」の九字を篆書し、奉使の黄幡を取ってこれを包み、以てその友人朔寧府司理の董詵に授けた。欽宗が郊に及ぶと、茂實は冠幘を具えて迎謁し、拝伏して号泣した。金人はこれを諭して曰く、「国破れ主遷る、公を留むる所以は、蓋し将に大用せんとす」と。服を易えることを迫って令すれども、茂實は力を尽くして拒み従わず、見る者は涙を堕とした。茂實は旧主に従って俱に行かんことを請うたが、金人は許さず、憂憤して疾を成し、雲中に卒した。詵は抜けて帰り、その為したる哀詞を録して張浚に言上し、浚は詵を以て陝西転運判官と為し、その事を上奏した。紹興二年、龍図閣直学士を贈られ、その家の三人に官を授けた。

魏行可

魏行可、建州建安の人。建炎二年、太学生をもって募に応じて奉使し、右奉議郎に補され、朝奉大夫・尚書礼部侍郎を仮とし、河北金人軍前通問使を充て、仍って命じて河北・京畿撫諭使を兼ねさせた。時に河北の紅巾賊甚だ衆く、行可は始めその攻撃を受けるを懼れたが、既にして使旌を見るや、皆引き去った。行可は河を渡り澶淵において金人に謁見した。金人はその布衣にして官を借りるを知り、これを待つこと甚だ薄く、因って留めて遣わさず。行可は嘗て金人に書を貽し、「戟かざれば自ら焚く」の禍を以て警めて曰く、「大国は中原を挙げて劉に与う、劉氏何の徳かあらん。趙氏何の罪かあらん。若し急ぎて以て趙氏に還せば、劉氏を奉ずるより万々に賢し」と。

紹興六年、卒す。十三年、張邵来帰し、行可が節を執りて王事に没するを言上す。行可の父通直郎伯能も亦朝に訴う。遂に朝奉郎・秘閣修撰を贈られ、先に既にその二子一弟に官を授けていたが、ここに至り、復たその一孫に官を授けた。

郭元邁 附

行可の使するや、呉人の郭元邁が上舎生をもって募に応じ、右武大夫・和州団練使に補されてその副使と為り、髪を髡り官を換えることを肯ぜず、亦北に於いて卒した。

閻進

閻進、宣武に隷す。建炎初め、使を遣わして通問す。進は従って行く。既にして雲中府に至る。金人は使者を拘留して散処す。進は亡去す。追い還され、留守の高慶裔問うて曰く、「何を為して亡ぶや」と。進曰く、「大宋を思うが故なり」と。又問うて曰く、「郎主汝を待つに恩有り、汝亡ぶは何の故ぞ」と。進曰く、「錦衣玉食も亦恋しまず」と。慶裔は義としてこれを釈す。凡そ三たび亡びて乃ち殺さる。臨刑に、進は行刑者に謂いて曰く、「吾は南向して刃を受くべし、南は則ち我が皇帝の行在なり」と。行刑者はその臂を曳きて面を北せしむ。進は身を踴らせて直ちに起き、盤旋すること数四、卒に南に向いて就死す。

朱績 附

進武校尉こういの朱績も亦これに従い、粘罕の所に分かれる。績は粘罕に数日見え、遽かに妻室を求む。粘罕喜び、虜にした内人を選ばせてこれを妻とせしむ。績は最も醜き者を取り、人その意を諭さず。半月ならずして亡去す。これを追い還す。粘罕大いに怒る。績は含笑して梃の下に死す。蓋し績が妻を求むるは、以て粘罕を固めんとする所以なり。

趙師檟

趙師檟は罪をもって西外宗正司に拘管せられ、福建提刑の王夢龍は智勇用いるべきを以て、軍器の製造を属せしむ。会に寇尤溪に逼る。師檟に卒数百を統率して往きて戍らしむ。既に行くや、旗に大書して曰く、「賊と俱に生ぜず」と。人皆これを壮とす。賊兵至る。師檟は林嶺に於いて敵を迎え、身を先鋒と為す。戦うこと十余合、賊ますます衆く至る。師檟の乗ずる馬、適た田中に陷る。賊その左臂を断つ。師檟は右手をもって背の刀を抜きて七級を斬る。力尽き、部曲引きて遁れんと欲す。師檟仰いで天大に呼して曰く、「師檟国に報いてここに死す」と。遂に没す。尤溪の民そのために戦処に廟を立つ。枢密の王埜褒贈を加うることを請う。乃ち武節郎を贈り、一子に恩沢を与う。

易青

易青は、都督ととく行府摧鋒軍の效用であった。初め、広東の賊曾袞は、もと軍士であったが、すでに招安を受けた後に再び叛いた。紹興六年十月、経略使連南夫と摧鋒軍統制韓京が惠州で会し、諸兵を督してこれを討った。韓京は敢死の士七十三人を募り、夜に曾袞の営を襲い、易青はその中にいて、捕らえられた。賊は彼を後軍の趙続の砦の外に連れて行き、趙続に言った、「汝の大軍で我らが捕らえた者は甚だ多い。」易青は大声で叫んだ、「信じるな、捕らえられたのは私だけだ!」賊はまた言った、「我は汝を殺さぬ、ただ経略に黄榜を持って来させて招安せよと言うだけだ。」易青はまた叫んだ、「聞くな、賊に任せて私を殺させよ、私はただ一死をもって国に報いるのみ!」賊は怒って彼を焼き殺し、易青は死に、罵り声は絶えなかった。易青には妻子がいなかった。事が聞こえ、特に保義郎・閤門祗候を追贈され、官が薦祭を行った。

胡斌

胡斌は、殿前司の将官であった。童德興が禁旅を提げて邵武を戍守し、江・閩の寇が起こったが、邵武に備え有るを知り、敢えて犯さなかった。時に招捕司が檄を飛ばし童德興が議事に赴くこととなり、胡斌ただ一人が弱卒数百を将いて城中に留まった。紹定三年閏月己卯、盗賊の大軍が大挙して至り、他の将士は皆逃げ去ったが、胡斌ただ一人奮身して迎え戦い、格殺した者は甚だ多かった。賊はさらに兵を増し、官軍に残る者は僅か数十人となり、ある者が衆寡敵せずと告げ、どうして避けないのかと言うと、胡斌は言った、「郡民の死者は万を数え、生き残った者数千人が東門から出て行くのを頼みとしている。私がその勢いを引き留めず、彼らが脱走するに任せれば、賊はその後を追い、生き残る者は無かろう。」遂に巷戦し、大声で叫んだ、「我が死して百姓を救わん!」兵は尽き矢は窮まり、遂に害に遇い、その屍は僵立し、しばらくしてようやく倒れた。事が聞こえ、武節大夫を追贈し、その子孫一人を録用した。枢密院編修官王埜が、邵武の民が胡斌の戦地に廟を立てたと上言し、請うて「武節」を以て廟額とすること、これに従った。

范旺

范旺は、南剣州順昌県巡検司の軍校である。初め、順昌の盗賊俞勝らが乱を起こし、官吏は皆散り去り、土軍の陳望は平素より禍を喜び、射士の張袞と謀り砦を挙げてこれに応じようとした。范旺はこれを叱って言った、「我ら父母妻子は皆国家の廩食を受けて生きている。今、力討つ能わず、反ってさらに虐を助けるとは、これ天地無きなり!」凶徒らは憤り、その目を剔ぎ出して殺した。

一子は仏勝といい、年二十、勇を以て聞こえ、賊は父の命と偽って彼を召し寄せ、至ればともに死んだ。その妻馬氏はこれを聞き、歩きながら泣き、賊は脅して汚そうとしたが従わず、節々に切り裂いて殺した。

賊が既に平定されると、范旺が死んだ跡が地面にあり、微かに消えず、邑人は驚異し、城隍廟に像を設け、歳時祭享した。紹興六年、転運使が状をもって上聞し、詔して承信郎を追贈し、さらに祠を立て、「忠節」と号した。二十八年、再び詔して愍節廟を立ててこれを祠った。

馬俊

馬俊、あるいは進ともいう、太平州慈湖砦の兵士である。紹興二年、砦軍の陸徳・周青・張順らが州を占拠して叛き、周青が謀主となり、翌日に城中の少壮を全てげい面し、その老弱を屠り、然る後に衆を擁して江を渡ることを約した。馬俊は周青の左右に隷属し、その謀り事を得て、密かにその徒十人と結び賊を殺し、然る後に衆を諭して門を開かせようとし、その徒はこれを承諾した。馬俊は帰ってその妻孫氏に語り、これと訣別し、南門に至り、周青が出て馬に乗るのを待ち、頬を斬りつけたが、九人は恐れて敢えて進まなかった。馬俊と妻子は皆害に遇った。周青は傷ついて十日間臥し、賊党は散り、官軍が至り、陸徳・周青は遂に誅せられた。三年、馬俊に修武郎を追贈し、祠を立て、「登勇」と号した。

楊震仲

楊震仲、字は革父、成都府の人である。早くより気節を負い、雅に当世に志有り。淳熙二年の進士に及第す。閬州新井県の知県となり、恵政を以て聞こえた。

興元府通判に辟召され、大安軍を権知す。呉曦が叛き、平素より楊震仲の名を聞き、馳檄してこれを招いたが、楊震仲は疾を辞して行かず。時に軍教授の史次秦もまた檄を受け、楊震仲に謀ると、楊震仲は言った、「大安は武興より以来、西しょく第一の州である。もし首としてその招きに従えば、則ち諸郡風靡せん。顧みるに力拒ぐ能わず、義に死すべし。教授は城郭の臣にあらず、かつ母有り、未だ死すべからず、脱して去るが宜しい。」因って史次秦に属して言った、「我が死せば、匹絹を以て身を纏い、小棺に収めれば足りる。」呉曦は興州都統司機宜の郭鵬飛を遣わして楊震仲に代え、その行きを促すこと益々急なり。郭鵬飛は楊震仲を宴し、飲み終わるまで顔色を見せず。舎に帰り、燭を灯して独り坐し、夜漏三鼓に至り、左右を呼んで湯を求め、至るに及んで、楊震仲は毒を飲んで死んだ。史次秦はその言の如く、収斂して蕭寺に置き、郡中これがために流涕した。

楊震仲の未だ死なざる前、先ず家人に書を遺して言った、「武興の事、これに従えば則ち節を失い、何の面目あって世間に在らん。従わざれば、禍直ちに見えん。我が死せば、禍は一身に止まり、妻子に及ばざらん。人孰れか死無からん、死して子能く自立すれば、即ち死せず。」楊震仲の死より、蜀の義士感慨奮発し、始めて協謀して逆を誅する者有り。明年、呉曦誅せられ、蜀帥の安丙・楊輔が上聞し、朝奉大夫・直宝謨閣を追贈し、二子に官し、その里を表して「義栄」と曰う。呉獵が西蜀を宣諭し、これがために廟と諡を請い、その廟を「旌忠」と名付け、諡して「節毅」と曰う。

史次秦

史次秦、眉山の人である。進士に及第す。呉曦が叛き、史次秦を招くこと甚だ急なり。史次秦は遷延固く避け、偽の大安軍知軍郭鵬飛に行くことを迫り、乃ち石灰と桐油を以て両目を塗り、生附子の粉末を塗り付け、至るに及んで目益々腫れた。史次秦の母は年高くして賢く、史次秦が呉曦に招かれたと聞き、即ち家人に命じて疾篤と馳せ報ぜしめ、且つ言った、「病を以て信を取るに足らざるを恐るるは、訃を以て聞かしむる可し。」呉曦は乃ち帰還を聴した。呉曦誅せられ、蜀帥がその事を上奏し、秩を改めて利路主管文字と為し、仕えて合州太守に至る。

郭靖(附伝)

郭靖という者がいた。高橋の土豪で巡検であった。呉曦が叛くと、四州の民は金に臣従することを望まず、田宅を棄て、老幼を推し奉り、嘉陵江に沿って下った。大安軍を過ぎると、楊震仲が人口に応じて粟を与えたので、境内に餓死者はなかった。曦は驚き移住した民をことごとく駆り立てて帰還させようとしたが、皆行こうとしなかった。靖もまた当時、送還される中にあり、白崖関に至り、その弟の端に告げて言うには、「我が家は代々王民たり。金人が辺境を犯して以来、我ら兄弟は死をもって国に報いることができず、難を避けて関内に入った。今、曦に逐われて、漢の衣冠を棄てるに忍びず、ここに死して、趙氏の鬼たらんことを願う」と。かくて江に赴いて死んだ。

高稼

高稼、字は南叔、邛州蒲江の人。真徳秀は一度会って国士と期した。嘉定七年の進士。成都尉に調じ、九隴丞に転ずる。母の喪に服し、喪が明けて、潼川府路都鈐轄司幹辦公事に辟される。制置使崔與之その名を聞き、本司幹辦公事に改めて辟す。

稼は持論を曲げず、世を憂うること甚だ切にして、鄭損が制置使となると、即ち去らんことを求めた。朝廷は稼が幕府を補佐して功労あるを以て、間もなく綿谷県知事に改める。制置司は総領所が十一州の会子の利を擅にしたとして、その尽く廃することを請うた。これは紹興・隆興の間に旨を得てなされたものである。令が下ると、民は疑い、これがために市を罷めた。稼は急ぎ私銭を出して中下戸に給した。稼の弟定子、当時総領所主管文字たり、共にその誤りを徴して力強くこれを救い、その半ばを存するを得て、公私辛うじて済んだ。歳大いに飢え、有司これを聞かず、稼は嚢中の装を捐て、粟を市いてこれを食わせ、全活すること甚だ衆し。損の蜀に入るや、稼の同産弟了翁、朝に誦言して、必ず事を敗らんと謂う。損これを銜み、遂に稼を劾して罷めしむ。

宝慶三年、元兵武階に至り、損は沔を棄てて遁ぐ。桂如淵蜀を鎮め、沔州通判に辟し、尋いで檄して幕職を兼ねしむ。稼まず言う、「蜀は三関を以て門戸とし、五州を以て藩籬とす。前帥五州を棄ててより、民固き志無く、一旦敵至れば、又因糧の利あり、或いは遂に留まり去らず。今急ぎ当に申理すべく、緩急に保聚する所あらしむべし」と。如淵然りとし、乃ち山砦八十有四を創り、且つ義兵五千人を募り、民と約して曰く、「敵至れば則ち官軍は原堡を守り、民丁は山砦を保ち、義兵は遊撃と為り、庶幾くば其の前は掠うる所無く、後は久しく容れられざらん」と。

北兵東道より以て入る。如淵これを憂い、稼を辟して洋州知事とす。稼日夜守禦の計を為し、洋は平地に居るを以て、一卒も以て守る無く、金州帥司の軍千人をして洋州に駐ましめ、而して自ら其の餉給を任ぜんことを議す。李心伝為に諸朝に言うも、報いず。鳳州破るるに及び、制置司始めて稼の請に従い、金州兵をして之に赴かしむるも、兵時を以て至らず。漢中陥ち、梁・洋の民数十万尽く安康に趨る。稼乃ち黄金渡に移屯し、散卒を収め、忠義を招き、制置司の命を以て、故将陳昱を安康に致し、収復の任を委ぬ。昱諸軍を部分し、青座・華陽諸関の守将を召すと、皆兵を以て来会し、凡そ三千人を得たり。稼洋の帑廩を竭してこれを贍う。州事を通判に付し、而して自ら節制軍馬を仮し、諸将を督して継進す。沔州破れ、北兵大安に迫り、益昌大いに震う。稼急ぎ命して沔に趨らしめ、自ら西県に至りてこれを援く。

如淵便宜を以て命じて稼を利路提刑司兼権興元府とし、制置司其の米倉を守らしむるを檄す。稼書を移して曰く、「今日の事は弈棋の如し、校ぶる所は先後のみ。苟も分水・三泉・米倉を以て保つべしと為せば、敵兵若し宕昌・清川より以て入らば、将た孰か之を禦がん。盍ぞ興・沔・利の三戎司をして鳳州に分駐せしめ、制司の已に招く所の忠義・関表復讎の豪傑をして、司を聯ねて以て進ましめば、兵気奪わるべし」と。如淵は躊躇して決せず。天水・同慶屠られ、西和囲まれること益々急なるに逮い、始めて軍民の衆万人を会してこれを援けんとすも、道梗びて前へ進むを得ず、而して城已に破れたり。俄かに砦窠・七方の師皆潰るると報ず。稼遺民を率いて廉水県に駐まり、保甲を召集し、間道に分布して、以て巴山を保つ。当の是の時、軍中に在る文臣は惟だ稼一人のみ。

如淵既に罷まり、李𡌴之に代わる。稼の久しく労するを以て、請うて改めて内郡に畀え、栄州知事を差す。殿中侍御史汪剛中、如淵の党なり、稼をして其の罪を分からしめんと欲し、乃ち謂う、蜀の敗は実に稼に由ると。遽かに之を罷め、又二官を削る。李心伝上に見えて、稼の無罪を訟え、当に罷むべからざるを言う。

宣撫使黄伯固稼を辟して閬州知事とす。未だ幾ばくもせず、伯固官を去る。制置使趙彦呐参議官を以て之を辟す。制置司漢中に近し。稼言う、漢中蕩として藩籬無く、宜しく仙人原を經理して以て緩急視師の地と為すべしと。彦呐以て稼に委ぬ。稼原に至り、営壘を繕い、芻糧を峙え、器甲を比し、泉源を開き、守禦の規、備えざる無し。会に召還さる。彦呐密に奏して稼を留め、直秘閣を以て沔州知事・利州提点刑獄兼参議官とす。初めて至り、神に告げて曰く、「郡は兵難の後に当たり、生聚撫摩は、当に尽力すべし。去るの日は、誓って橐を垂れて以て剣門に入らん」と。乃ち創残を葺理し、流散を招集す。民皆繈負して来帰す。

北兵西和に入り、階州に迫る。稼彦呐を賛して原に登り督戦せしむ。天水軍知事曹友聞等兵を大いに戦わす。稼に三官を進め、朝請大夫兼関外四州安撫司公事と為し、西路屯田を措置せしむ。稼嘗て彦呐に代わりて蜀事の利害を論じ、上嘉して之を覧る。

北兵鳳州より入り、東軍禦ぐ能わず、遂に河池を搗ち、西池谷に至り、沔より九十里。吏民率いて逃げ、議して退きて大安を保たんと欲す。稼彦呐に白して曰く、「今日の事は進みて退く無し。能く進みて険地を拠り、身を以て蜀を捍げば、敵後顧有り、必ず深く入らず。若し倉皇として兵を召し、退きて内地を守らば、敵長駆して前に進み、蜀の事去らん」と。彦呐曰く、「吾が志なり」と。已にして竟に行き、稼を留めて沔を守らしむ。

北兵白水関より六股株に入り、沔より六十里。沔に城無く、山に依りて阻みと為す。稼高く昇り鼓譟し、盛んに旗鼓を為して疑兵とす。彦呐置口に至り、帳前総管和彦威を輟め、軍を以て沔に還らしめ、小将楊俊・何璘を召して悉く兵を以て会せしめ、又総管王宣の精兵千人を調べて之を益す。璘の軍紀律無し。稼其の火を放つ者三人を捕え、之を誅す。未だ幾ばくもせず、北兵大いに至る。璘遁ぐ。其の衆皆潰え、遂に沔州を下す。

先に、曹友聞は七方を守備し、沔州が守れぬことを知り、高稼に山砦へ移って守備を固めるよう勧め、自らも配下の兵を率いてこれを助けようとした。高稼は言った、「七方は要地であり、棄てることはできない。私は郡の将である、城もまた棄てられぬ。もし事が成らなければ、死ぬのみである」。二日前、子の斯得が傍らに侍り、時勢の危うさと責任の重さを憂えた。高稼は田承君の「五日汗せず」という言葉を挙げてこれを諭し、かつ言った、「私は死に場所を得る、何の遺憾があろうか」。また書を以て李心伝に告げて言った、「高稼は必ず沔州を堅守する。沔州がなければ蜀はない。この挙げて以て知己に背かぬと自ら謂う」。事態が切迫すると、参議の楊約が高稼に暫く大安に退いて守備を固めるよう勧めた。高稼は声を厲して言った、「私は監司として城郭を守る。お前は幕客として往来し応援せよ。各々その志を行うのだ」。常平司の属官馮元章が吏士を率いて力を尽くして高稼に少し避難するよう請うたが、高稼は動じなかった。城が陥落すると、衆は高稼を戸外に擁し出そうとした。高稼が叱しても止められず、兵騎が四方から集まってこれを囲み、遂に死んだ。詔して高稼に七官を進め、正議大夫・龍図閣直学士とし、諡して「忠」といった。後に子の斯得が執政となったため、累贈して太師とした。

高稼は人となり慷慨として大志があり、人の善きことを聞けば口を極めて称賛し、不善なれば面と向かって諫めて避けるところがなかった。人材を推挙するには常に及ばぬことを恐れ、財貨を糞土の如く視た。死んだ日、これを聞く者で邑に於いて涙を流さぬ者はなかった。著書に『縮斎類藁』三十巻がある。斯得は別に伝がある。

曹友聞

曹友聞、字は允叔、同慶栗亭の人である。武恵王曹彬の十二世の孫である。幼少より大志があり、弟の友諒と共に千里を遠しとせず師を尋ね友を取った。宝慶二年の進士に登第した。綿竹尉に授けられ、改めて辟かれて天水軍教授となった。

城が既に包囲されると、曹友聞は単騎で夜に入城し、守臣の張維と共に民を糾合して奮戦した。兵が退くと、制置使が大旗を製し、「満身胆」と書いてこれを表彰した。やがて兵が再び至ると、曹友聞は家財を尽くして忠義の士を招集し、健士五千人を得た。制置使李𡌴が檄を飛ばして忠義軍を管轄させ、配下を率いて仙人関を守らせ、行きながら戦い、峡口に至って険要を占拠した。前軍統制の屈信が配下を率いて敵陣に突撃し、掠められた四州の人畜を取り戻した。秦塡に至り、左軍統制の杜午を遣わして迎撃させたが、力敵できなかった。曹友聞は諸軍に命じて高所に乗じ険要を占拠させ、自らは矢石を冒し、士卒の先頭に立った。屈信と統制の張安国が兵を率いて出戦した。兵が退くと、制置使が檄を飛ばして七方関を防がせた。

北兵は東に武休関を破り、やがて七方を破り、遂に沔州金牛に入り、大安に至った。また兵を分けて嘉陵江の木皮口より突出し、何進軍の背後に出た。何進は戦って敗死し、遂に長駆して剣門に入った。曹友聞は弟の曹万と各々配下を率い、間道を取って氈帽山を過ぎ、青蒿埧に至り、白水江の中流で戦った。兵が退くと、制置司が檄を飛ばして閬州に駐屯させた。叛将の魯珍が陳隆之に斬られ、魯珍の部曲が焚掠をほしいままにした。曹友聞は討ってその将の郭虎、藺広、楊仲等を斬り、残党は散り去った。檄を受けて天水軍知軍となった。

北兵が鳳州に入り、河池を略奪し、同慶に抵った。曹友聞は密かに統制の王漢臣、統領の張祥を遣わし、方略を授けて出戦させた。兵が城下に至ると、曹友聞は諸将に分かれて各々一門を守らせ、旗を伏せ鼓を偃し、士卒に戒めて、漸く近づくを待ち、鼓を鳴らし旗を掲げ、矢石を併せて発した。また王漢臣等に命じて間道を取り出戦させ、自らは重兵を提げて敵の後を尾した。大戦して功があった。端平初年、曹友聞は曹万と忠義総管の時当可を遣わし、兵を分けて石頭、青蒿谷に進ませ、前後数度合戦した。制置使がその功績を上奏し、特授して承務郎とし、権発遣天水軍とした。

北兵がまた西和より階州に至った。曹友聞は言った、「階州は我が境ではないが、坐視して救わぬわけにはいかぬ」。遂に兵を率いて諸軍と合流した。前軍統制の全貴に命じて配下を率い先鋒とさせ、統制の夏用をその左より出させ、張成をその右より出させ、総管の陳庚及び曹万、曹友諒に往来して督戦させた。功績があり、制置使の趙彦呐が利州帥司の軍馬を節制させ、辺境の措置を任せ責めさせ、武翼大夫・閤門宣賛舎人に換官し、差して利州駐劄御前諸軍都統制とし、石門に駐劄し、七方関を扼させた。

翌年、北兵が武休関を破り、沔陽に入ると、利路提刑の高稼が死んだ。制置使が青野原に進んで屯したが、包囲された。曹友聞は言った、「青野は蜀の咽喉である、緩めてはならぬ」。曹万に兵を率いさせ、冷水口より嘉陵江を渡り六股株に至らせ、屡々戦って功績があった。夜、枚を銜み間道より直ちに青野原に向かい、制置使は曹万の勇を奇とし、諸軍に戦守を督させた。兵が退くと、曹友聞も精兵を率いて原の下に趨き至り、夜半に遮って戦い、包囲は遂に解けた。特授して武徳大夫・左ぎょう騎大将軍とし、旧に依り利州駐劄御前諸軍統制とした。

北兵が沔州を破り、大安を搗くと、曹友聞は摧鋒軍統制の王資、踏白軍統制の白再興を遣わし、速やかに雞冠隘に趨かせ、左軍統制の王進に陽平関を占拠させた。曹友聞は溪嶺に登り、手に五方旗を執り、指揮が終わらぬうちに、兵数万が陽平関に突如として至った。遂に王進及び遊奕部将の王剛を遣わして出戦させ、また自ら帳下の兵及び背嵬軍を率いて陣前に突出し、左右に馳せて射た。兵が退くと、曹友聞は忠義総管の陳庚及び時当可に言った、「敵は必ずや兵を旋回して雞冠隘を攻めるであろう、急ぎこれを援ぐべきである」。果たして歩騎万余りを以て隘を攻めた。陳庚は騎兵五百を率いて直前に進み決戦し、時当可は歩兵を率いて左右の翼より併せて進み、王資、白再興はまた隘より出て戦い、十余里にわたって血戦し、兵は遂に解けて去った。特授して曹友聞を眉州防禦使とし、旧に依り左驍衛大将軍・利州駐劄御前諸軍統制、兼沔州駐劄、兼関外四州安撫、権知沔州、本府屯戍軍馬を節制させた。弟の曹万は差して同慶府知府・四川制置司帳前総管とし、仍旧として忠義軍馬を総管し、屯戍軍馬を節制し、董仙に駐劄し、専ら沔・利両司と共に辺境の措置を任せ責めさせた。

翌年、友聞は兵を率いて仙人関を扼す。諜報によれば、北兵が西夏・女真・回回・吐蕃・渤海の軍を合わせて五十余万の大軍が到来すると聞き、友聞は曹萬に語って曰く、「国家の安危は、この一挙にあり、衆寡敵せず、豈に浪戦を容れんや。ただ高きに乗じ険に拠り、奇を出し伏を匿して之を待つべきのみ」と。北兵は先ず武休関を攻め、都統李顯忠の軍を破り、遂に興元に入り、大安を衝かんとす。制置使趙彥呐は檄を飛ばし友聞に大安を制御して蜀口を保たしめんとす。友聞は馳せて彦呐に書を送りて曰く、「沔陽は蜀の険要、我が重兵ここにあり、敵に後顧の憂いあらば、必ずや沔陽を越えて蜀に入る能わず。また曹萬・王宣が首尾応援すべし、必捷を保つ可し。大安の地勢は平壙にして、守るべき険無く、正に敵騎の長とする所、歩兵の短とする所なり、況んや衆寡敵せず、豈に平地に於て控禦すべけんや」と。彦呐然らず、一日に小紅牌を持ち来たりて速める者七たび。友聞議す、寡を以て衆を撃つには、夜に乗じ奇を出し内外夾撃するに非ざれば不可なりと。乃ち曹萬・友諒を遣わし兵を率いて雞冠隘に上らしめ、多く旗幟を張り、敵に堅守を示す。友聞は精鋭万人を選び夜に江を渡し、密かに流溪に往きて伏を設く。約して曰く、「敵至らば、内に鳴鼓挙火を以て応とし、外は殺声を呼べ」と。北兵果たして至り、曹萬出でて逆戦す。敵将八都魯は万余の衆を擁し、達海は千人を帥いて往来搏戦し、矢石雨の如し。曹萬は身に数創を被り、諸軍に烽を挙げしむ。友聞は選鋒軍統制楊大全・遊奕軍統制馮大用を遣わし、本部を率いて東菜園より出で、敵の後隊を撃たしめ;敢勇軍総管夏用・知西和州神勁軍総管趙興は其の部を帥いて水嶺より出で、敵の中隊を撃たしめ;知天水軍安辺軍総管呂嗣德・陳庚は其の部を率いて龍泉頭より出で、敵の前隊を撃たしむ。友聞は親しく精兵三千人を帥い、疾駆して隘下に至り、先ず保捷軍統領劉虎を遣わし敢死士五百人を率いて前軍を衝かしむ。前軍動かず、大兵は三百騎を道傍に伏せ、虎の衆は枚を銜みて突戦す。会に大風雨あり、諸将請うて曰く、「雨止まず、淖濘深く足を没す、少しく霽くるを俟つべし」と。友聞斥して曰く、「敵我が伏兵此に在るを知る、緩なれば必ず機を失わん」と。遂に兵を擁して斉しく進む。友聞は龍尾頭に入り、曹萬之を聞き、五鼓に隘口を出で、友聞と会す。内外両軍皆殊死に戦い、血流二十里。西軍は素より綿裘を以て鉄甲に代えしが、雨に経て濡湿し、歩門に利あらず。黎明、大兵益々増し、乃ち鉄騎を以て四面囲繞す。友聞歎じて曰く、「此れ殆ど天か!吾が死あるのみ」と。ここに於て極口に詬罵し、乗むる所の馬を殺して必死を示す。血戦愈々厲しく、弟曹萬と俱に死し、軍尽く没す。北兵遂に長駆して蜀に入る。

秦鞏の人汪世顯は素より友聞の威望に服し、嘗て名馬を以て友聞に遺わす。師を還して戦地を過ぎ、歎じて曰く、「蜀の将軍真に男児漢なり」と。盛礼を以て之を祭る。事聞こえ、特に龍図閣学士・大中大夫を贈り、廟を賜い褒忠とし、諡して「毅節」と曰い、其二子を承務郎に官し、婿を迪功郎とす。曹萬には特に武翼大夫を贈り、二子を成忠郎とす。

陳寅

陳寅は、宝謨閣待制陳咸の子なり。漕司より両度進士に貢し、父の恩により官を補し、歴官州県す。紹定初め、西和州を知る。西和は極辺の重地、寅は書生として義難を辞せず。北兵境に入り、属する都統何進は大安を守り出で、独り統制官王銳と忠義千人城を守るのみ。寅は其の民と共に此の土を守らんと誓う。居民初めは何進が家を城中に留むるを以て、恃み以て固しと為す。已にして何進は他の郡に徙り、遂に固き志無し。寅は独り其二子並びに闔門二十八口を留め、曰く、「人各其の家を顧みば、将に誰と共に守らんや?」乃ち資財を散じて忠義を結び、必守の計と為す。

北兵十万城の東南門を攻む。降る者を以て先駆と為す。寅は檄文を草し之を諭し、自ら旗鼓を執り、将士を激厲し、敵を迎えて力戦し、矢石雨の如し。師退く。詰旦、兵を増して復た来る。寅は忠義民兵と敢死士を帥いて力戦し、昼夜数十合、兵退く。制置司は寅の功を以て列郡に遍告す。北兵は木を伐り攻具と為し、兵を増して数十万に至り、州城を囲む。何進は素より寅と協わず、寅に功有り、諸将の忌む所と為る尤も甚し。是に至りて援を求むること甚だ急なり。久しくして、制置司漸く劉鋭及び忠義人陳瑀等を遣わし往きて救わしむ。率皆観望して進まず。劉鋭甫に七方関に進み、陳瑀未だ仇池に及ばず、皆路梗を以て告ぐ。寅は民兵を率いて昼夜苦戦す。援兵至らず、城遂に陥つ。

寅は其の妻杜氏を顧みて曰く、「若し速やかに自ら計を為せ」と。杜は厲声して曰く、「安んぞ生には君祿を同じくし、死して王事を共にせざる者有らんや」と。即ち高堡に登り自ら薬を飲む。二子及び婦俱に母の傍に死す。寅は之を斂めて焚き、乃ち朝服して戦楼に登り、闕を望み香を焚き、号泣して曰く、「臣始め此の城を守らんと謀り、蜀の藩籬と為さんとす。城の存せざるは、臣の死すべき分なり。臣は国に負かず!臣は国に負かず!」と。再拝して剣に伏して死す。賓客同死者二十有八人。一子後より至り、亦た自ら裁せんと欲す。軍士抱持して曰く、「忠臣に後無からしむべからず」と。之と俱に城を縋り、亦た足を折りて死す。制置司以て聞こえしめ、詔して特に朝議大夫・右文殿修撰を贈り、銭三千緡を賜い、即ち其の居むる郷・守る所の州に廟を立てしむ。久しくして、華文閣待制を加贈し、諡して「襄節」とす。

賈子坤

賈子坤は、字は伯厚、潼川懐安軍の人なり。嘉定十三年進士。西和推官と為り、通判を摂す。関外兵を被り、子坤は郡守陳寅と誓って死を以て城を守る。城陥ち、子坤は朝服して其の家十二口と共に死す。承議郎を追贈し、其の父賈崧を承務郎に封ず。其の子賈仲武を宣教郎・隆州簽判に官し、奉議郎・果州通判に改め、卒す。

仲武の子昌忠・純孝、同く咸淳七年の進士第に登る。純孝は揚州教授、帥李庭芝に知られ、江淮総幕に調う。北兵江南を下す。二王福州に在り、史館検閲を以て召すも、辞す。会に丞相文天祥其の幕を辟きて佐けしめ、尋いで秘書丞を授け、吏部郎中に擢でらる。母憂に丁し、起復して右司と為り、朝散郎に転ず。厓山の師敗れ、純孝は二女を抱き妻牟と偕に海に蹈みて死す。

劉鋭

劉鋭は、文州を知る。嘉熙元年、北兵来たりて攻む。鋭は通判趙汝曏と城に乗じて固守し、軍民七千余人を率いて昼夜搏戦し、殺傷甚だ多し。拒み守ること両月余、援兵至らず、城中水無く、江に取りて汲む。会に陳昱は去歳沔を失守し、此の州に編置せられしが、夜に城を逾えて出で降り、大将に女を献じ、虚実を告ぐ。敵遂に兵を増して城を攻むること甚だ急なり。一夕にして江流を数里外に移す。鋭免れ難きを度り、其の家人を集め、尽く薬を飲ませ、皆死す。乃ち其の屍及び公私の金帛・告命を聚めて焚く。家は素より礼法有り、幼子同哥才に六歳、薬を飲ませしむるも、猶下拝して之を受け、左右之の為に感慟す。

汝曏は、宣城の人、射を善くす。城破れて執われ、先ず其の両臂を断ち、而して後臠殺す。鋭及び其二子自ら刎じて死す。軍民死する者数万人。

蹇彝

蹇彝は、潼川通泉の人なり。嘉定二年の進士。累官して通判金州に至る。端平三年、北兵蜀を攻む。彝は堅く守り、戦いて敵する能はず、擒らへられ、屈せずして死す。其の子永叔復た力戦し、城破れ、挙家死す。弟維之は、紹定五年の進士。利州都統王宣、行參軍事を辟し、亦た敵を迎へて力戦し死す。特だ其の子を官す。

何充

何充は、漢州徳陽の人なり。秘書監耕の孫。通判黎州、州事を摂し、預め備禦の計を為す。及て宋能之至るに及び、邛崍に大小両関倉及び砦屋百間を創るを急ぐことを建議し、親ら程役を督す。俄に関破れ、充自ら刺して死せず、大軍帥之を呼びて語し、殺さざるを許す。充曰く、「吾れ三世趙氏の禄を食む、趙氏の為に死すも憾みなし」と。帥帟幄を設け諸将を環坐せしめ、而して其の賓席を虚し、充を呼びて曰く、「汝降らば、即ち此に坐せよ」と。充地に踞坐して死を求め、遂に罷む。它日又た之を呼び、其の髪を辮りて其の頂を髡せんと欲す。曰く、「殺すべし、髡すべからず」と。又た民を招く榜に署せしむ。充曰く、「吾れ監州なり、吾が民を聚めて之を殺さしむべけんや。即ち一家死するのみ、榜必ず署すべからず」と。大将酒茗羊牛肉を遺すも、皆却く。是より水飲絶えて口に入れず。敵其の強ふべからざるを知り、将に之を剮せんとす。大将曰く、「此れ南家の好漢なり、之をして即ち死せしめよ」と。是に於て其の首を斬る。

充の妻陳、口を絶えず罵る。初め、充の呼ばるるを見て、陳必ず一家を以て往く。帥曰く、「汝を呼ばず、何を以て来る」と。陳曰く、「吾れ死を求むる爾」と。及て充死し、東望して再拝して曰く、「臣夫婦死すと雖も、以て趙氏に対し愧なきべし」と。衆石を以て之を撃殺す。

方に充夫婦の禍に嬰るや、親戚其の苟も免れんことを勧む。充正色して曰く、「我が夫婦と児婦は義を同じくして死す、汝等自ら生を求むる可し」と。是に於て上下感泣し、願ひて同じく死する者四十余人。男士麟、孫駒行、従子仲桂、充に先だちて死し、惟だ長子士龍免るるを得たり。

許彪孫

張桂 金文徳 曹顔 附す

許彪孫は、顕謨閣学士奕の子なり。四川制置司参謀官と為る。景定二年、劉整叛く。彪孫を召して降文を草せしめ、潼川一道を以て献ぜんとす。彪孫使者に辞して曰く、「此の腕は断つべし、此の筆は書くべからず」と。即ち門を閉ぢ家人と俱に仰薬して死す。

整既に降り、遂に兵を引き都統張桂の営を襲ふ。桂及び統制金文徳戦死す。納溪曹贛闔門死す。

胡世全

景定四年、沔州都統胡世全糧運を護りて虎象山に至り、敵兵に遇ひ戦ひ敗れて死す。

龐彦海

咸淳二年、北兵開州を取り、守将龐彦海之に死す。

江彦清

徳祐元年、瀘守梅応春判官李丁孫・推官唐奎瑞を殺し城を以て降る。珍州守将江彦清巷戦して之に死す。

陳隆之

陳隆之は、その仕官の履歴は知られていない。四川制置使となった。淳祐元年十一月、成都が包囲され、十日余り守ったが陥落しなかった。部将の田世顕が夜に乗じて城門を開き、北兵(蒙古軍)が突入したため、隆之は挙家数百口が皆死んだ。隆之は檻車に乗せられて漢州に送られ、漢州の守臣王夔を降伏させるよう命じられたが、隆之は王夔を呼んで言った。「大丈夫は死ぬのみ、降伏してはならぬ」と。そして遂に殺された。五年後、提刑の袁簡之がその事跡を上奏し、特に徽猷閣待制を追贈され、定められた恩沢のほかに、特別に二人の子に恩沢を与え、諡号を賜り廟が立てられた。

史季儉 附

また史季儉という者がいた。威州棋城の主簿である。成都陥落の際、子の良震と婿の楊城夫が互いに先を争って死を求めた。それぞれ特別に二官を追贈され、一子に下州文学の恩沢が与えられた。

王翊

王翊は、字を公輔といい、郫県の人である。宝慶元年の進士。呉曦がかつて彼を幕下に招いたが、曦が蜀で反乱を起こすと、節を守って拝礼せず、大義を説いた。曦は怒り、王翊を囚え、煮殺そうとしたが、曦が誅殺されたため免れた。

嘉熙元年、制置使丁黼が彼を参議官に辟召した。王翊は先に家族を郷里に帰し、先祖の墓に別れを告げる文を作り、身を以て国に殉ずることを誓った。北兵が到着すると、帳前の提挙官成駒が先に逃走し、丁黼は慌てて敵を迎え撃ち、敗死した。王翊は司理の王璨、運司の幹官李日宣らと兵を募って守りを固めた。兵が役所に入ると、王翊が朝服を着て端座しているのを見て、何者かと問うた。王翊は言った。「小官は天子の禄を食み、難に臨んで救えず、死してなお罪あり。速やかに我を殺せ」と。また、なぜ逃げないのかと問うと、「この城と共に亡びんことを願う」と答えた。北兵は互いに言った。「忠臣なり」と。殺すなと戒めた。敵は火を放ち略奪したが、王翊は朝服のまま井戸に身を投じて死んだ。戦後、その家族が井戸から遺体を引き上げると、衣冠は整然としていた。転運副使の蒲東卯もこれに殉じた。

兵は漢州を屠り、権州事の劉当可、判官の邵復、録事参軍の羅由、司戸参軍の趙崇啓、知雒県の羅君文は皆、屈せずして死んだ。邵復は、邵雍の六世孫である。眉州に入り、知丹棱県の馮仲燁が死んだ。簡州を取ると、簡州守の李大全が死んだ。邛州守の趙晨は自ら雅州の牌手を率いて出戦し、力尽きて死んだ。

文州守の劉鋭と通判の趙汝曏は互いに死守を誓い、交代で出撃した。十五日間包囲され、水の手が絶たれ、兵民は半月にわたり水を口にせず、ついには妻子の血をすすったが、最後まで叛く心はなかった。城が陥落しようとする時、趙汝曏はなおも双刀を提げて敵陣に入り、十六本の矢を受け、捕らえられて死んだ。劉鋭は先に妻を殺し、父子三人で文王台に登り自刎して死んだ。軍が遂寧に至ると、民兵の趙朋が抗戦し、左腕を斬り落とされてもなお戦いを止めなかった。

重慶に至ると、進士の胡天啓が母を背負って逃げた。兵がその母を殺そうとしたので、天啓の妻の張氏が哀願し、身代わりになると願ったが聞き入れられず、遂に母を殺した。天啓とその妻は天を呼んで罵った。大将は天啓の容貌を奇とし、生かそうと思い、「我に従えば、共に富貴を分かち合おう」と言った。天啓はますます激しく罵ったので、夫婦は共に死んだ。事が聞こえ、王翊と趙汝曏は皆、廟が立てられ諡号を賜り、その他は褒賞と撫恤に差等があった。

宝祐六年、北兵が吉平隘を陥とし、守将の楊礼と周徳栄が死んだ。長寧を陥とし、守将の王佐父子が共に死んだ。閬州に至り、推官の趙広が死んだ。蓬州に至り、転運使の施択善が死んだ。順慶に至り、帥守の段元鑒が城を守ったが、麾下の劉淵が彼を殺して降伏した。

李誠之

李誠之は、字を茂欽といい、婺州東陽の人である。呂祖謙に学んだ。郷挙で第一となり、後に太学に入り、舎選でも第一となった。慶元初年、官に就き饒州教授となった。父母の喪に服し、墓のそばに小屋を建て喪に服し終えた。福建安撫司幹弁公事となり、刑部・工部架閣に遷り、国子学録に抜擢されたが、上言により罷免された。

江西転運司幹弁として起用された。使者が会子(紙幣)の価値引き上げを称提し、財力の高低に応じて順位をつけ銭を納めさせて回収しようとしたが、誠之はそれが民を乱すものと考えた。使者は不機嫌に言った。「商君の法令でさえ必ず行えたのに、今はこのように齟齬するとは」と。誠之は憂い顔で言った。「使君は儒者でありながら、商君の所業を模倣しようとするのか」と。そして辞去しようとした。使者は謝罪し、その命令を取りやめてやっと止めた。

通判常州に改められ、知郢州となった。金人が必ず盟約を破ることを知り、辺境防衛の戦闘・攻撃・守備の具を大いに整備した。知蘄州に移った。蘄州は南渡以来、兵禍に遭ったことがなかったが、誠之は言った。「普段から備えがなく、敵が長駆して来たら、どうするのか」と。城壁を視察して増強し、楼櫓を備え、羊馬牆を築き、廂禁の民兵を訓練し、賞で鼓舞し、四万の食糧を蓄えた。以前より、酒庫は月に四百五十千文を献上していたが、誠之は一切受け取らず、公の金庫に預け、兵糧の助けとした。

嘉定十四年(1221年)二月、金軍が淮南に侵攻した。当時、李誠之は既に任期を過ぎており、後任の者が到着せず、先に妻子を帰そうとしたが、難事が起こったと聞いて止めた。慨然として僚属に言うには、「我は一書生として再び辺境の任に就き、齢七十に及ぶ。また何を求めようか、ただ一死を欠くのみである。同僚と力を合わせて守り、成らざれば死をもって継ごう」と。そこで壮丁を選んで城の守備に配し、決死の兵を募って迎撃し、横槎橋で遭遇して大いにこれを破った。数日を経て、金軍が大軍を擁して沙河に臨み、渡河しようとしたが、またこれを破った。翌日、金兵が大挙して至り、湟水を決壊させ、戦楼を焼いたが、またこれを退けた。翌日、金軍は兵を要衝に移し、必ず渡河せんと計り、蘄州兵はまっすぐに前進して奮撃し、その酋帥を殺した。金軍はたびたび挫かれたが、謀略はますます巧みに、攻撃はますます激しくなった。間もなく城下に迫り、これを数重に包囲し、遂に木柵を焼いた。誠之は兵を出してこれを防ぎ、またその将卒数十人を殺し、佩いていた印を奪った。三月朔日(一日)、金軍が西門を攻めたが、射撃してこれを退けた。やがて望楼を造って城を窺うと、誠之は疑兵を設けてこれに対した。また使者を持たせて降伏を脅す書状を送らせたが、誠之は使者を誅し、その書状を返した。二日を過ぎて、金軍が攻城兵器を進めてくると、誠之は器械を設けてこれを防ぎ、夜に出撃してその陣営を撹乱した。敵情を推し量り状況に応じて変化させる様は、まるで兵事に通じた者のようで、金軍はついに目的を果たせなかった。

時に黄州が陥落し、金軍は兵力を合わせて一団となり、総勢十余万となった。池陽・合肥からの援軍は敗走し、朝廷は馮榯に二郡を救援せよと命じたが、榯は境に至り、遷延して進まなかった。誠之は将士を激励し、忠義をもって励ました。城が陥落すると、兵を率いて巷戦し、殺傷は互角であった。子の士允は力戦して死に、誠之は剣を抜いて自刎せんとしたが、妻子を呼んで言うには、「城は既に破れた。汝らは速やかに死ぬべし、辱めを受けるな」と。妻の許氏および嫁、孫らは皆水に赴いて死んだ。事が朝廷に聞こえ、朝散大夫・秘閣修撰を追贈され、正節侯に封ぜられ、蘄州に廟が立てられ、褒忠の名を賜り、賻として銀絹二百が下賜され、また迪功郎の爵位を三人に賜り、その妻には令人を追贈し、士允には通直郎を追贈し、子の嫁および孫娘で難に殉じた者には皆安人を追贈した。誠之に従って死んだ者に、通判州事の秦鉅がいる。

秦鉅 附

秦鉅は、字を子野といい、丞相秦檜の曾孫である。蘄州の通判であった。金軍が国境を侵犯すると、郡守の李誠之と協力して防衛した。武昌・安慶に救援を求めたが、一月余り経っても兵は来なかった。策応兵の徐揮・常用らは城を捨てて逃げた。城が陥落すると、鉅と誠之はそれぞれ従えていた兵で巷戦し、死傷者はほぼ全滅した。鉅は官舎に戻り、吏人の劉迪を大声で呼び、諸々の倉庫に火を放つよう命じ、そして一室に赴いて自焚した。老いた兵卒が煙炎の中に白い戦袍を着た者を見て、それが秦鉅であると見分け、火中に飛び込んで引き出そうとした。鉅は叱りつけて言うには、「我は国のために死ぬ。汝らは自ら生を求めるがよい」と。衣を引きちぎって焼死した。次男の秦浚は先に四祖山へ行っていたが、敵兵が来たので急ぎ戻り、弟の秦瀈と共に父に従って死んだ。特に秦鉅に五官・秘閣修撰を追贈し、義烈侯に封ぜられ、誠之と共に蘄州に廟が立てられ、褒忠の扁額を賜り、秦浚・秦瀈には通直郎を追贈し、賻として銀絹各二百が下賜された。

州学教授の阮希甫には通直郎を追贈し、防禦判官の趙汝標・蘄春主簿の寧時鳳・録事参軍兼司戸の杜諤には皆承務郎を追贈し、監蘄州都大監轄蘄口鎮倉庫の厳剛中には承事郎を追贈した。

時に統制官の孫中、小将の江士旺・陳興・曹全・丘卞、軍士の李斌らは皆戦闘して死んだ。司理参軍の趙与裕は先に民兵百余りを率いて関門を奪って城外に出て救援を求め、ただ一身は免れたが、全家十六人皆亡くなった。淳祐十二年(1252年)、特に秦鉅を義烈顕節侯に封じた。黄州陥落の際には、守臣の何大節もまた江に身を投じて死んだ。