曾怘
曾怘、字は仲常、中書舎人曾鞏の孫なり。太学内舎生に補せられ、父の任により郊社斎郎となり、累官して司農丞・温州通判に至り、越州にて待次す。
難に遇う時、崈甫だ四歳、乳母張と皆死す。夜小雨に値い、張蘇り得て、顧みて崈も亦蘇るを見る。尚ほ其の乳を吮む。郡卒陳海、崈を匿して帰る。後に仕えて南安軍知事に至る。怘の従弟に悟あり。
弟 悟
劉汲
劉汲、字は直夫、眉州丹棱の人。紹聖四年進士。合州司理・武信軍推官となり、宣徳郎に改め開封府鄢陵県知事と為る。神霄宮を奉行するに令の如くせず、京畿転運使趙霆の奏により、通判隆徳府に徙す。時に方士林霊素用事し、郡人班自《易繫辞》を改めて妖言と為し、以て霊素に応ず。汲守を摂し、自を獄に下す。霊素自を薦めて有道と為す。命じて転運使陳知存に按験せしむ。掾史懼れ、獄を変えんと欲す。汲掾史を責め数え、知存之を憚り、卒に実を以て聞こゆ。
金人再び京師を犯す。諸道朝廷の動息を知ること三月。馮延緒詔を伝え撫諭し、車駕郊に出で和議を定め、諸道に兵を罷めしむと謂う。汲副総管高公純に謂いて曰く、「詔書未だ遽に信ずべからず」と。公純故を問う。汲曰く、「詔下るは去年十二月を以てす。鄧京を去ること七百里、今始めて州に至るは何ぞや。安んぞ和を議すること三月を以てし、而して敵未だ退かざるものあらんや。此れ必ず金人の朝廷を脅し以て勤王の師を款かしむるのみ。速やかに兵を進むべし」と。公純之を難くす。汲自ら行かんことを請う。公純已むを得ず俱に南陽に至るも、進まず。汲独り数十騎を馳せて都城に赴く。二帝已に北行す。汲素服して慟哭す。尋いで公純に代わり帥事を摂す。金帛を捐て士を饗し、戦守の計を為す。詔して鄧州に巡幸を備えしむ。汲城池を広め、行闕を飾り、以て乗輿を待つの具甚だ備わる。就いて直龍図閣を加え、鄧州知事兼京西路安撫使と為す。
汲奏す、「両河を復せんと欲せば、当に先ず河東を復すべく、河東を復せんと欲せば、当に陝兵を用うべし。請う先ず河東に事を従い、以て西河の根本を定めん」と。ここにおいて金人復た河を渡る。諜知るに鄧州を行在所と為すを。其の将銀朱に命じ急ぎ京西を攻めしむ。汲副総管侯成林を遣わし南陽を守らしむ。金人奄に至り、成林を殺す。汲将吏を集めて謂いて曰く、「吾国恩を受け、死する所を得ざるを恨む。金人来らば必ず死せん。汝吾と俱に死する能う者有るか」と。皆流涕して曰く、「命に惟う」と。民に山に渉り砦を作り以て敵を避けんと請う者有り。汲曰く、「是れ城を棄つるなり。然れども若属俱に死するも益無し」と。乃ち令を下して曰く、「城中に材武有りて軍に従わんことを願う者は留まるを聴し、余は便に従うべし」と。敢死の士四百人を得たり。又令して曰く、「凡そ此に仕うる者は、其の家を送るを聴す。寅に出でて午に反る。違う者は軍法に従う」と。衆皆感服し、一人として期を失する者無し。
及び南陽陥ち、将戚鼎に命じ兵三千を将いて逆戦せしめ、及び靳儀と趙宗印に命じ西・南門を分かち之を犄す。汲自ら牙兵四百を以て陴に登り望む。宗印間道より遁るを見て、即ち自ら鼎の軍中に至り、其の衆を麾して陣し以て待たしむ。敵至りて皆死闘し、敵却く。俄にして儀敗る。金人之を攻むること益急なり。矢下ること雨の如し。軍中汲の去るを請う。汲許さずして曰く、「敵に安撫使此に在りて国家の為に死するを知らしめよ」と。敵大いに至り、汲之に死す。事聞こえ、太中大夫を贈り、諡して「忠介」と曰う。
鄭驤
岢嵐軍の通判となり、慶陽府に改む。姚古、熙河蘭廓路経略司の属官と為すを奏す。錢蓋、渭より熙に移り、幕下に辟くを奏す。地震あり、秦隴金城の六城壊る、驤は蓋に言う「六城は熙河の重地なり、宜しく趣りて繕治すべし」と、因りて自ら兵を董し益機灘の新堡六百歩を護築せんことを請う、以て西夏を制せんとす。堡成り、功により官を遷し、緋衣銀魚を賜う。
唃廝羅氏旧に青唐を拠り、西寧州を置く、董氊朝に入り、その弟益麻党征は西夏に走る。大観中、羌人その名を仮り帰附す、童貫奏して姓名を趙懷恭と賜い、官は団練使とす。是に至り党征西寧より帰らんことを求め、貫は事の露るるを懼れ、議者貫の意に希いこれを絶たんとす。驤は貫の君を欺くを謂い、その偽りを弁ぜんことを請う。貫怒り、厚く罪を誣えんとす、会に敗れて止む。京兆府等路提挙常平に擢でる。驤は格に按じて『常平総目』十巻を為し、その部に頒つ。時に陝右大いに稔る、驤はその部の本息を以て時に乗じ広く糴すべく奏請し、米六十万斛を得。
高宗の初め、直秘閣を以て同州知事兼沿河安撫使と為る。時に近甸金陵・南陽・長安を巡り駐蹕の計を謀る、驤言う「南陽・金陵は偏方にして、興王の地に非ず、長安は四塞、天府の国なり、以て駐蹕すべし」と。会に帝東幸して揚州に至り、復た楚・泗・汴・洛より陝・華に至るまで、各精兵を募り、首尾相応ぜしめ、庶幾くば敵勢衝決するを得ざらんことを請う。報いず。金将婁宿、同州及び韓城を犯す、驤は兵を遣わし険に拠りてこれを撃つ、師利あらず、金人勝に乗じて径ち城下に至る、通判以下皆遁去す。驤曰く「所謂太守とは、守りて死するのみ」と。翌日城陥ち、驤は井に赴きて死す、通議大夫・枢密直学士を贈られ、諡して「威愍」と曰い、詔して廟を愍節と賜う。
驤は熙河に在りし時、嘗て熙寧より政和に至る攻取建置の跡を摭りて『拓辺録』十巻を為し、兵将蕃漢の雑事を『別録』八十巻と為し、西蕃・西夏・回鶻・盧甘諸国の人物図書を図画して『河隴人物志』十巻と為し、賛普より溪巴温・董氊の世族に至るを序して『蕃譜系』十巻と為す。
呂由誠
呂由誠、字は子明、御史中丞誨の季子なり。幼より明爽にして智略あり、范鎮・司馬光は父の友なり、皆これを器重す。父の恩により官を補し、鄧州酒税に調す、事に臨み精敏にして、老吏も欺く能わず。会に営兵窃に発し、衆を聚めて城を閉ざす、守貳逃匿す、由誠親しく往きて招諭し、賊兵を斂めて命を聴く。功により秩を遷し、尋いで提挙三門・白波輦運に擢でらる、言者その資浅きを謂い、これを罷む。合水県知事となる。王中立・种諤、霊州を征す、由誠は運を部し軍に随う、天寒く食尽き、他邑の役夫多く潰去す、唯だ由誠の部する所は失う者無し。尋いで乗氏県知事に改む。丞相呂大防、山陵使と為り、属と為すを辟く。成都府の通判となり、雅・嘉・温・綿四州の知事となり、復た嘉州知事となり、皆治績あり。
時に京東諸郡、兵驕り多く内訌す、独り由誠は拠循方あり、士は用いらるるを楽む。前後数たび攻囲せらるるも、屹然として群盗中に自立し、救援皆絶ゆ。孔彦舟、鄆の兵を以て叛き、首に郡境を犯し、これを攻むること累旬下さず、始めて引き去る。胡選なる者は衆尤も残暴にして、由誠を攻めて必ず取らんことを示す、由誠は夜にその攻具を焚き、直ちに帳下に入る、賊駭き散じ、なす所を知らず、忽ち囲みを解き去る。
一日金兵四面に集まる、由誠は賞罰を厳しく立て、忠義を以て励まし、守兵奮い争い、昼夜警備す。金人百道を以て城を攻め、矢石雨の如し、人に叛くの志無し。郡官に迎降する者有り、これを執えて械す。判官趙令佳は同心して守りを誓い、城陥ちて俱に執えらる。金人これを生かして降さんと欲す、由誠屈せず、乃ちその子仍を前にして殺す、由誠顧みず、令佳と同く害に遇う。子偰とその家四十口は皆執えられ、生還する者無し。南北隔絶し、その孫紹清は蜀に留まる、後に蜀より江・浙に走り由誠の生死を訪う、江陰にて令佳の子子彝に遇い、令佳が由誠と同く死し褒典を受けたるを知り、乃ち朝に訴う、詔して由誠に三官を贈り、通奉大夫と為し、二子に恩沢を与う。
郭永
郭永、大名府元城の人なり。少より剛明勇決、身長七尺、鬚髯神の若し。祖の任により丹州司法参軍と為る、守は武人にして、姦利を為すに忌憚無く、永は数たび法を引きてこれを裁す。守大いに怒り、盛んに威を永に臨む、永動かず、則ち繆りて好言を為しこれを朝に薦む。後ち守は具獄を変ぜんと欲す、永力爭するも得ず、袖に牒を挙げてこれを還し、衣を拂いて去る。
清河県丞に調じ、尋いで大谷県知事となる。太原の帥は率ね重臣を用い、毎に宴饗千金を費やし、諸県に取りてこれを給す、大谷に斂むる者尤も亟し。永は書を以て幕府に抵りて曰く「什一に非ずして取るは、皆民の膏血なり、以て觴豆の費を資す可けんや。脱し命を獲ざれば、令は劾を投じて帰らんのみ」と。府敢えて迫らず。県に潭ありて雲雨を出す、歳旱り、巫これに乗じて民を譁す、永は巫を杖し、日中に暴し、雨立ち至る、県人は石を刻みてその異を紀す。府は卒数輩を遣わし、「警盗」と号し、諸県の短長を刺し、遊蠹して帰らず、敢えて迕う者無し、永はこれを械して府に致し、府は並びに他の県に追還せしむ。ここに於いて部使者及び郡の文移に民に便ならざる者有れば、必ず利病を条して反復し、或いは遂に寝して行わず。或いは永に謂う「世方に雷同す、此を以て禍を買う毋かれ」と。永曰く「吾は吾が志を行うを知るのみ、遑かにその他を恤れんや」と。大谷の人その政に安んじ、以て令有りてより永に比する者無しと為す。去ること数年、復たこれを過ぐれば、則ち老稚遮り留めて永の始めて去るが如し。
東平府司録参軍に転じ、府の事は大小を問わず、郭永ことごとくこれを決した。吏に弁えられぬ者あり、ひそかに嘲り合って曰く、「お前は郭司録ではないか!」と。鄭州通判となり、燕山に兵が起こると、郭永をその路転運判官とした。郭薬師が辺境に駐屯し、恩寵を恃んで暴虐甚だしく、民と取引してその代価を償わず、またこれを殴打し、目を潰し四肢を折るに至ってやむ。安撫使王安中は敢えて問わず。郭永は安中に申し上げ、これを治めねばやがて制し難くなると、面会して公然と責めることを請う。従わなければ、その特に甚だしい者を捕えて市中で磔にせよと。乃ち薬師に会って曰く、「朝廷は将軍に背いたか?」薬師驚いて曰く、「何を言われるか?」永曰く、「先日将軍は策を杖って朝廷に帰順し、上は赤心を推して将軍の腹中に置き、客遇の礼至らざるところなし。然るに将軍は未だ尺寸の功も以て上に報いることなし。今や将軍を重しと倚るに、却って部曲を放って民を害するを禁ぜず、平居すら尚おかくの如し、緩急に際して如何せん!」薬師は謝すと雖も愧色無く、永は安中に謂いて曰く、「他日辺境を乱す者は必ずこの人なり。」已にして安中罷免され、永もまた辞去し、河北西路提挙常平に移る。
折しも金人が京師に向かい、過ぎ行く城邑は立ちどころにこれを取らんとした。この時天寒く、城池皆凍り、金兵は率いて氷を藉りて城に梯し、攻めずして入る。郭永は丁度大名におり、これを聞き、先んじて壕池の漁禁を弛め、人争い出て漁す。氷は合わず。金人城下に至り、睥睨すること久しくして去る。河東提点刑獄に遷る。
時に高宗揚州に在り、宗沢に命じて京師を守らしむ。沢は兵を磨き粟を積み、将に両河を復せんとし、大名が衝要に当たるを以て、檄を飛ばして郭永と帥の杜充、漕の張益謙に相掎角せしむ。永は即ち朝夕戦守の具を謀り、因って東平の権邦彦と結んで援と為し、数日ならずして声河朔に振るい、既に陥没した州県皆復た官軍に応じ、金人もまたこれを畏れて敢えて動かず。
居ること暫くして、宗沢卒し、杜充京師を守り、張益謙を以ってこれに代え、裴億を転運使と為す。益謙・億は齷齪たる小人なり。折しも范瓊が邦彦を脅して南去し、劉豫が済南を挙げて来寇す。大名孤城援無く、永は士卒を率いて昼夜城に乗り、隙を伺っては則ち兵を出して狙撃す。或いは益謙に勧めて城を委ねて遁れんとす。永曰く、「北門は以て梁・宋を蔽遮する所以なり、彼が志を得ば則ち席を巻いて南し、朝廷危うし。力を借りて敵わずと雖も、猶お死守すべく、徐々にその鋒を銼ぎ、外援の至るを待つべきなり。奈何ぞこれを棄てん?」因って士を募り帛書を齎して夜城を縋り出で、朝廷に告急し、先んじて備えを為すを乞う。攻囲益々急なり。東平・済南の人を俘え、城下に大呼して曰く、「二郡已に降る。降る者は富貴、降らざる者は噍類無し。」益謙ら相顧みて色動く。永大言して曰く、「今日正に吾儕の国に報ゆる時なり。」又城を行き巡り将士を撫でて曰く、「王師至れり、吾が城堅く完くして守るべし、汝曹努力せよ、敵は畏るるに足らず。」衆感泣す。夜明けに、大霧四方に塞がり、劉豫は車を以って断碑残礎を発して城を攻め、楼櫓皆壊る。左右盾を蒙りて立ち、多く首を砕かるる者あり。良久くして城陥つ。永城楼上に坐し、或いはこれを掖いて帰らんとす。諸子環り泣きて去るを請う。永曰く、「吾は世々国恩を受け、当に死を以て報ずべし。然れども巣傾き卵覆れば、汝輩亦何くにか之かん。これ命なり、何ぞ懼れん。」
益謙・億は衆を率いて迎え降る。金人曰く、「城破れて始めて降る、何ぞや?」衆は郭永が従わざるを以って言い訳とす。金人は騎を遣わして郭永を召す。永は正しく衣冠し南向して再拝し畢り、幅巾に易えて入る。粘罕曰く、「降るを沮む者は誰ぞ?」永熟視して曰く、「降らざる者は我なり。」金人は郭永の状貌を奇とし、且つ平素その賢を聞く。乃ち自ら相語らい、富貴を以って郭永を啖わんとす。永は瞋目して唾して曰く、「無知なる犬豕よ、爾を醢にして国家に報ぜざるを恨む。何ぞ降れと言わん?」怒罵絶えず。金人はその言を忌み、麾いてこれを去らしむ。永復た厲声して曰く、「胡ぞ速やかに我を殺して死なしめざる?当に義鬼を率いて爾曹を滅ぼさん!」大名に在って繋がれたる者は、手を額に加えざる者無く、これがために涙を流す。金人怒りて挙げたる手を断つ。乃ちこれを殺し、一家皆害に遇う。平素郭永と合わざりし者と雖も皆面を慟哭す。金人去り、相与にその屍を負ってこれを瘞む。
紹興初年、中大夫・資政殿学士を追贈し、諡して「勇節」とし、その族数人に官を授く。
韓浩
朱庭傑 王允功 王薦 周中 周辛 附す
朝議大夫周中は、世々濰州に居り、家人を率いて城に乗り拒み守る。中の弟周辛の家最も富み、その財を尽く散じて戦士を享く。城陥ち、中は闔門百口皆死す。紹興六年、周聿の請いに依り、官を追贈す。
歐陽珣
歐陽珣、字は全美、吉州廬陵の人なり。崇寧五年進士。忠州学教授・南安軍司録に調じ、塩官県を知る。推薦に依り上京し、国難に遇い、及び使節に出で、将作監丞を加えられる。金人京師を犯す。朝議河北の絳・磁・深の三鎮の地を割きて講和せんとす。珣はその友九人を率いて上書し、極言して祖宗の地は尺寸たりとも人に与うべからずと。事急なるに及び、群臣を会して議す。珣復た抗論して当に力戦すべしとす。戦いに敗れてその地を失えば、他日これを取るは直なり。戦わずしてその地を割けば、他日これを取るは曲なりと。時の宰相怒り、珣を殺さんと欲す。乃ち珣を遣わして使節として深州を割かしむ。珣深州城下に至り、慟哭して城上の人に謂いて曰く、「朝廷姦臣に誤られて此くの如し。吾は已に一死を弁じて来れり。汝等宜しく勉めて忠義を為し国に報ゆべし。」金人怒り、執いて燕に送り、焚きてこれを死せしむ。
張忠輔
張忠輔は、宣和末年に将となり、崔中・折可與と共に崞県を守る。金人来たりて攻む。城を嬰り固く守り、士卒を率いて死を以って敵に拒ぐ。崔中は支え難しと度り、二心あり。忠輔は衆に宣言して曰く、「必ず降らんと欲せば、請う先ず我を殺せ。」崔中は伏兵を設け偽って約し事を議し、忠輔の首を斬りて陴外に擲ちて以って金人に示す。既に城門を開く。可與は屈せずして殺さる。可與の兄可求、建炎中に朝に言い、可與の子五人に官を授く。然るに忠輔は与からず。士論これを惜しむ。
李彥仙
河東陷る、彥仙拔けて歸る、道を陝に出づ、兵事を以て守臣李彌大に見ゆ、彌大之と語り、之を壯とし、留めて裨將と為し、淆・澠の間を戍らしむ。金人再び汴を犯す、永興帥范致虛西兵を合して入援す、彥仙遮りて説きて曰く「淆・澠の道隘くして衆を以て進むに難し、兵を分けて前にせしむるに若かず、其の半を陝に留め、後圖と為す可し」と。致虛其の衆を沮むを怒り、罷めて之を遣る。師千秋鎮に至り、果たして敗れ、官吏皆遁走す。
時に彥仙は石壕尉たり、三觜を堅守し、民爭ひて之に依る。令を下して曰く「尉は異縣の人、汝が室墓此に在るが如くに非ず。今尉汝が爲に守る、若し悉く力せずんば、金人將に汝を市に屍せんとす」と。衆皆奮ふ。金人三觜を攻む、彥仙戰ひて佯りて北す、金人之を追ふ、伏發し、掩殺すること千計、兵を分けて四出し、五十餘壁を下す。
初め、金人陝を得、降者を用ひて之を守らしめ、散亡を招集せしむ、彥仙陰に士を遣りて其の間に廁はらしむ、金人覺えず。乃ち兵を引いて其の南郭を攻め、夜ひそかに師を潜めて東北隅に薄り、納れたる士内應し、噪きて入り、陝州を復す。勝に乘じて河を渡り、柵を中條諸山に列ね、旁の郡邑皆響應して附き、邵雲等を分遣して絳・解の諸邑を下す。吏文書を行ひ、州印章を請ふ、彥仙曰く「吾尉として此を守る、第に吾が印を用ひよ」と。事聞こえ、上輔臣に謂ひて曰く「近く彥仙の金人と戰ひ、再三捷を獲たるを知る、朕喜びて寐れず」と。即ち命じて陝州を知らしめ安撫使を兼ね、武節郎・閤門宣贊舍人に遷す。彥仙軍實を搜し、陴を增し湟を浚ひ、益々戰守の備を爲し、盡く家屬を取つて來り、曰く「吾家を以て國に徇ひ、城と俱に存亡せん」と。聞く者感服す。邵興神稷山に在り、其の衆を以て來り、節製を受くるを願ふ。彥仙興を辟きて河北忠義軍馬を統領せしめ、三門に屯し、後其の力に賴りて虢州を復す。
婁宿叛將折可求の衆號十萬を率ひて來攻し、其の軍を十に分ち、正月旦を以て始と爲し、日輪して一軍城を攻め、十軍を聚めて並び攻め、期を三旬に以て必ず拔かんとす。彥仙意氣平常の如く、譙門に登り、大いに技樂を作し、潜かに人をして縋り出でしめて其の攻具を焚かしむ、金人愕然として卻く。食盡き、豆を煮て其の下に啖はしめ、而して汁を取つて自ら飲む。是に至りて亦盡き、浚に急を告ぐ、浚間道を以て金幣をして其の軍を犒はしめ、檄を都統制曲端にし涇原の兵を將ひて來援せしむ。端素より彥仙の己に出づるを疾み、出兵の意無し。浚の幕官謝昇浚に言ひて曰く「金旦暮に陝を下さば、則ち大河を全據し、且つ蜀を窺はん」と。浚乃ち師を出して長安に至る。道阻はれて進むを得ず、裨將邵隆・呂圓登・楊伯孫外より來援し、間關傷仆して、僅かに至る者有り。
彥仙日々金人と戰ひ、將士未だ甲を解かず。婁宿雅に彥仙の才を奇とし、嘗て河南兵馬元帥を以て啖ふ、彥仙其の使を斬る。是に至りて人をして呼ばしめて曰く「即ち降らば、前秩を畀へん」と。彥仙曰く「吾寧ろ宋の鬼と爲らん、安んぞ汝が富貴を用ひんや」と。命じて強弩をして一發之を斃さしむ。鉤索を設け、日々金人を鉤取りて、城上に舂斮る。殺傷相當ひ、陴を守る者傷夷日々に盡き、金兵を益して急攻し、城陷る、彥仙衆を率ひて巷戰す、矢身に集まること蝟の如く、左臂刃に中るも斷たず、戰ひ愈々力む。金人其の才を惜しみ、重賞を以て人を募りて生け捕りにせしむ、彥仙敝衣に易へて走り河を渡り、曰く「吾身を以て敵人の刃を受くるに甘んぜず」と。既にして金人の兵を縱ちて屠掠するを聞き、曰く「金人の此の城に甘心する所以は、我が堅守して下らざる故なり、我何の面目か復た生くべけんや」と。遂に河に投じて死す、年三十六。金人其の家を害す、惟だ弟夔・子毅免るるを得たり。浚制を承りて彥仙に彰武軍節度使を贈り、廟を商州に建て、號して「忠烈」とす。其の子を官し、宅一區・田五頃を給す。紹興九年、宣撫使周聿請ふて即ち陝州に廟を立て、名づけて「義烈」とす。後商・陝を金人に與ふるに及び、其の廟を閬州に徙す。乾道八年、諡を易へて「忠威」とす。
邵雲
邵雲、龍門の人。金人蒲城を陷す、雲少年數百を聚め、山谷に壁し、時出でて之を撓ます。會ふに邵隆起兵す、雲往きて之に從ひ、約して兄弟と爲る。胡夜义の者衆強きを聞き、乃ち舉げて所部を聽命せしむ。李彥仙嘗て夜义に官を假す、夜义意滿たず、南原を掠めて去る、彥仙誘ひて之を殺す。雲陝を攻めんと欲す、彥仙客を遣はして義を以て説く、遂に來歸す。功を累ね、官武翼郎・閤門宣贊舍人に至る。城破れて執へられ、婁宿千戶長を以て命ぜんと欲す、雲大罵して屈せず、婁宿怒り、雲を釘し五日にして之を磔く。金人就きて視る者有り、猶ほ血を咀ちて其の面に噴き、眼を抉り肝を摘むに至るまで、罵りて絕えず。
呂圓登
呂圓登、夏縣の人。嘗て僧と爲り、後良家子を以て應募し、金人を淆・澠の間に捍ぐ。彥仙三觜を保つ、圓登之に歸す、功最も多し、愛將と爲る。城垂破れんとす、兵を以て來援し、身重創を受け、彥仙を把りて泣きて曰く「圍まるること久し、公の安否を知らず、今公に見え、且つ死すとも恨み無し」と。創身方に臥す、城陷るるを聞き、遽かに起きて戰死す。
宋炎
宋炎は陝縣の人である。蹶張(弩を足で踏んで張る兵)として命中に優れ、秉義郎に補せられた。先に、金人が城を囲んだ際、宋炎は数百人を射殺した。再び包囲された時には、宋炎は勁弩数百挺を用い、毒矢を放って千余人余りを殺した。城が陥落すると、金人は善射の者を求めれば厚く遇すと声高に言ったが、宋炎は応ぜず、力戦して死んだ。
趙立
当時、山東の諸郡は荒れ果てて盗賊の区域となっていたが、趙立はその間に介在し、威名が流れ聞こえた。累遷して右武大夫・忠州刺史となった。ちょうど金の左将軍の昌(完顔昌)が楚州を急に包囲し、通守の賈敦詩が城を降そうとした時、宣撫使の杜充は趙立に命じて所部の兵を率いて赴かせた。戦いながら進み、七戦連勝してようやく楚州に到達できた。両頬に流れ矢を受け、言葉が発せず、手で指揮した。城に入って兵士を休ませた後、鏃を抜いた。詔して趙立に楚州を守らせた。翌年正月、金人が城を攻めると、趙立は廃屋を取り壊し、城下に火池を燃やし、壮士に長矛を持たせて待機させた。金人が城に登ると、鉤で取り上げて火中に投げ込んだ。金人が死士を選んで突入させると、またもこれを搏ち殺し、ようやく少し退いた。五月、兀术(完顔宗弼)が北帰する際、六合に高台を築き、輜重のため楚州を仮道しようとしたが、趙立はその使者を斬った。兀术は怒り、南北両屯を設けて楚州への糧道を絶ち、趙立は兵を率いて出戦し、これを大破した。
ちょうど朝廷が分鎮を行った時、趙立を徐州観察使・泗州漣水軍鎮撫使兼知楚州とした。趙立はある日、六騎を擁して城を出て呼ばわった、「我は鎮撫である、来て戦え」。二騎の将がその背後を襲おうとしたが、趙立は奮って二本の矛でこれを刺し、ともに地に堕ちさせ、両馬を奪って還った。数十の衆がその後を追ったが、趙立は目を瞋って大呼し、人馬ともに辟易した。翌日、金人は三隊を列ねて邀戦し、趙立は三陣をもってこれに応じた。金人は鉄騎数百をもってその陣を横分して包囲したが、趙立は奮身して包囲を突破し、挺を持って左右に大呼し、金人の落馬する者は数を知らなかった。承州・楚州の間に樊梁・新開・白馬の三湖があり、賊の張敵萬がその間に窟穴していたが、趙立は決してこれと通じず、故に楚州の糧道はますます梗塞した。包囲を受け始めた時は、菽麦が野に生え、沢に鳧茨(菱の実)が採れたが、後には皆尽き、ついに榆の皮を屑にして食うに至った。
承州が既に陥落すると、楚州の情勢はますます孤立し、趙立は人を朝廷に遣わして急を告げた。簽書枢密院事の趙鼎は張俊を遣わして救援しようとしたが、張俊は行くことを肯わなかった。趙鼎は言った、「江東は新たに造られたばかりで、全て両淮に頼っている。楚州を失えば大事は去る。もし張俊が行くのを憚るなら、臣は彼とともに往くことを願う」。張俊はまた力辞したので、劉光世に命じて淮南諸鎮を督し楚州を救援させた。東海の李彦先がまず兵を率いて淮河に至ったが、扼されて進めず、高郵の薛慶は揚州に至り、転戦して捕らえられて死に、劉光世の将の王徳は承州に至ったが、部下が命令に従わず、揚州の郭仲威は天長で兵を抑え、ひそかに顧望を懐き、ただ海陵の岳飛のみが援軍となり得たが、衆寡敵せず。高宗は趙立の上奏を覧て歎じて言った、「趙立は孤城を堅守し、古の名将といえどもこれを超えるものはない」。書を以て劉光世に兵を会するよう促すこと五度、劉光世はついに行かなかった。金人は外援が絶えたと知り、包囲をますます急にした。九月、東城を攻めると、趙立は壮士を募ってその梯を焼かせたが、火はつねに逆方向に向かった。趙立は歎じて言った、「天が未だ順を助けぬというのか」。ある日風向きが変わり、一つの梯を焼くと、趙立は喜び、磴道に登って観たところ、飛砲がその頭部に命中した。左右が馳せ救ったが、趙立は言った、「我はついに国賊を殄滅することができぬ」。言い終わって絶命した。三十七歳であった。衆は巷で哭した。参謀官の程括に鎮撫使を摂行させて守らせた。金人は趙立が詐死したのではないかと疑い、敢えて動かなかった。十日余りを過ぎて、城はようやく陥落した。初め、朝廷は楚州に食糧が乏しいと聞き、粟一万斛を与え、両浙転運の李承造に命じて海路から先に三千斛を届けさせたが、発する前に楚州は失陥した。
趙立の家族は先に徐州で残滅し、単騎で楚州に入った。人となりは木強で、書を読まず、忠義は天性より出た。騎射に優れ、声色財利を喜ばず、士卒と均しく廩給を与えた。戦うごとに甲冑を擐いて先登し、退却する者がいれば、大呼して馳せ至り、捽んで斬った。初めて城に入った時、徐州・楚州の兵を合わせても一万に満たず、二州の衆は互いに相容れなかったが、趙立はよく撫馭し、敢えて私隙を挟む者はいなかった。金人を仇視し、言及する時は必ず歯を噛んで怒り、捕虜は磔にして衆に示し、行在に献馘したことはなかった。劉豫は趙立の故人を遣わして書を齎し降伏を約したが、趙立は書を開かず、油布で束ねて市中で焼き、かつ言った、「我はこの賊を了し、必ず劉豫を滅ぼすまで止めぬ」。これにより忠義の名声は遠近に傾下し、金人はその名を呼ぶことを敢えなかった。包囲が久しくなるにつれ、衆はますます困窮し、趙立は夜に香を焚いて東南を望み拝し、かつ泣いて言った、「誓って死守し、敢えて国家に背かぬ」。その衆に命じて鼓を撃たせ、言った、「援兵が至れば、我が鼓声を聞いて応ずるであろう」。このように累月に及んだが、ついに至る者はなかった。趙立はかつて士卒に戒めて言った、「不幸にして城が破れれば、必ず巷戦して決死せよ」。陥落した時、衆はその言葉の通りにした。
王復 附
王忠植
王忠植は、太行の義士である。紹興九年、石州など十一郡を取って、武功大夫・華州観察・統制河東忠義軍馬を授かり、ついに代州を知った。まもなく階官を落とされ、建寧軍承宣使・龍神衛四廂都指揮使・河東経略安撫使となった。
翌年、金人が慶陽を急迫して包囲すると、帥臣の宋萬年が城に乗って防戦した。時に川陝宣撫副使胡世将が檄を飛ばして忠植に配下の兵を率いて陝西に赴き合流するよう命じ、行軍して延安に至ったところ、叛将の趙惟清が忠植を捕らえて詔を拝ませようとしたが、忠植は言った、「本朝の詔ならば拝するが、金国の詔ならば拝さぬ」と。惟清は彼を枷にかけて右副元帥の撒離曷のもとに連れて行ったが、屈服させることができなかった。甲士を引き連れて慶陽城下に至らせ、降伏を勧告させると、忠植は大声で叫んだ、「我は河東歩佛山の忠義人なり、金人に捕らえられ、降伏を勧めるために来たが、願わくは将士たちは朝廷に背かず、城壁を堅守せよ。忠植は即時に城下で死ぬ」と。撒離曷は怒って詰問したが、忠植は襟を開き大声で叫んだ、「速やかに我を殺せ!」と。遂に害された。世将がその事績を上奏すると、奉国軍節度使・開府儀同三司を追贈され、その家から十人が官に任じられた。
唐琦
唐琦は、もと衛士であった。建炎年間、高宗が海上を行幸した際、琦は病を得て越州に留まった。李鄴が城を降伏させると、金人の琶八がこれを守った。琦は石を袖に隠し道端に潜み、彼が出てくるのを待ち伏せて撃ったが、当たらず捕らえられた。琶八が詰問すると、琦は言った、「お前の首を砕き、死して趙氏の鬼とならんと欲したまでだ」と。琶八は言った、「もし人々が皆このようであったなら、趙氏がここまでになるはずがない」と。また問うて言った、「李鄴が帥でありながら尚お城を降したのに、お前は何者で、敢えてこのようなことをするのか?」と。琦は言った、「鄴は臣として不忠なり、我は手ずからこれを斬るを得ずに恨むところ、尚お何をこのような者について言わんや!」と。乃ち李鄴を顧みて言った、「我の月給はわずか五斗の米であるが、その主君に背かず、お前は国より厚恩を受けておきながらこのような有様である、まだ人間の仲間と数えられようか?」と。罵詈して少しも屈服せず、琶八が殺すよう急がせると、死に至るまで口を絶たなかった。事が聞こえると、詔して廟を立てさせ、「旌忠」の名を賜った。
李震
李震は、汴の人である。靖康初年、金人が京師に迫った時、震は時に小校であり、配下の三百人を率いて出戦し、人馬七百余を殺したが、やがて捕らえられた。金人が言った、「南朝の皇帝はどこにおられるか?」と。震は言った、「我が官家はお前たちが問うべきところではない」と。金人は怒り、庭の柱に縛り付け、肉を切り刻んだ。皮膚と肉がほぼ尽き、腹に僅かに気が残るまで、尚お罵って口を絶たなかった。
陳求道
陳求道は、字は得之、咸寧の人である。進士に及第した。靖康年間に都水監を判じた。及び朝議で二帝が郊外に出て和を請うこととなった時、求道は強く反対したが、聞き入れられなかった。欽宗は康王の兵が衆多いことを知り、求道は元帥の号を加えるよう請うた。蠟書を持たせた八人皆が害されたが、ただ求道が推薦した劉定のみが書を届けて帰還した。金人が張邦昌を立てると、在京の官で朝参しない者は死罪とする命令を下したが、求道は病気と称して行かず、数日にわたって血を吐いた。開封尹が親しく邦昌の命を持って召したが、遂に屈服させることができなかった。求道は二帝が塵埃にまみれたことを思い、幾度も自殺しようとしたが、救われて免れた。
先に、陳留で黄河が決壊し、四十余日も漕運が不通となり、京城は大いに恐れた。開封尹の宗澤が求道にこれを治めさせると、七日で黄河は全て旧河道に復した。建炎四年、襄・鄧・随・郢鎮撫に任じるよう命じられたが、兵糧が供給されないと上奏したため、命令を待って行かなかった。咸寧から家族を連れて嘉魚に食を求めに行き、乱兵の起こるのに遭い、乃ち蒲圻に至り、龍堂の僧寺に寓居した。間もなく、招撫の劉忠が叛き、一晩のうちに数千人が群がって来て、求道の家族を追い立てて嘉魚に戻らせた。茗山の旅宿に至り、酒食を整えて求道を主君として奉じ、南の湖湘へ走らんとした。求道は顔色を正し言葉を厳しくして拒んだ。賊は怒り、求道の妻の蔡及び二子の符・佺を殺し、必ず自分に従わせようとした。求道はますます激しく罵った。賊はその口を斬り、舌を引き抜いて断った。ただ符の子の凱のみが山谷に逃れて免れた。賊が退いた後、初めて求道の屍を得て、興陂に葬った。