宋史

列傳第二百〇六 忠義二 霍安國 李涓 李邈劉翊 徐揆 陳遘 趙不試 趙令峸 唐重郭忠孝 程迪 徐徽言 向子韶 楊邦乂

霍安國

霍安國は、何許の人なるかを知らず。燕山の回復に際し、直秘閣を以て轉運判官となる。宣和の末、懷州を知る。靖康元年、路允迪が使を奉じて懷州に至り、その治狀を表し、直龍圖閣を加えられる。歳中、右文・集英殿修撰に進み、隆德府を知るに徙むも、行かずして復た留まる。金の騎兵再び至り、遂に圍まれる。安國は扞禦に力を遺さず、鼎・澧の兵も亦至り、相與に共に守る。徽猷閣待制を拜す、然れども竟に閏十一月に城陷す。將官王美は壕に投じて死す。粘罕は安國以下を引きて四行に分ち、夷官をして降らざる者は誰ぞと問わしむ。安國曰く「守臣安國なり」と。餘人を問うに、通判州事直徽猷閣林淵、兵馬鈐轄・濟州防禦使張彭年、都監趙士詝・張諶・于潛、鼎・澧の將沈敦・張行中及び隊將五人、同じ辭を以て對えて曰く「淵等は知州と一體にして、皆肯て降らざるなり」と。酋は引きて東北の鄉に至らしめ、其の國を望みて拜降せしむるも、皆屈せず。乃ち衣を解きて面縛し、十三人を殺して其の餘を釋す。安國一門に噍類無し。明年、延康殿學士を贈られる。

李涓

李涓、字は浩然、駙馬都尉遵勖の曾孫なり。蔭を以て殿直となり、召されて中書に試みられ、文階に易えられ、通直郎に至り、鄂州崇陽縣を知る。

靖康元年、京城圍まれ、羽檄天下の兵を召す。鄂の部縣七、發すべく二千九百人、皆未だ集まらず。涓獨り募る所の六百を以て銳然として行きを請う。或いは謂う「盍ぞ之を徐にして、他邑を須つに」と。涓曰く「事急なり、當に一信を以て天子に報い、東南の倡たりべし」と。而して募士多くは市人、軍する能わず。涓は家錢を出して牛酒を買い激しく之を犒う。令して曰く「吾固より益無きを知る、然れども世に國恩を受け、唯だ直ちに死するのみ。若曹法を知るや?將を失う者は死す、鈞しく一死なり、國に死して名を留むるは、男兒の朽ちざる事なり」と。衆皆泣く。即日、引きて東し、北して淮を過ぐ。蒲圻・嘉魚二縣の兵始めて至り、合して前む。蔡に至り、天大雪く。蔡人忽ち噪ぎて奔りて曰く「敵至れり」と。即ち陣を結びて以て待つ。少焉、遊騎果たして集まる。涓は馬を馳せて先ず其の鋒を犯す。下は皆歩卒、鹵盾を蒙り徑く進み、頗る其の騎を殺し、且つ走る。涓は勝に乘じて北を追うこと十餘里、大いに敵と遇う。飛矢蝟集す。二縣の兵亟に舍て去る。涓創甚だしく、猶血戰し、大呼して左右に叱し己を負わしむ。遂に死す、年五十三。士卒の死者六七なり。上官に涓を忌む者有り、亡卒を脅して已に遁れたりと誣う。明年、金兵去り、蔡人其の屍を歸す。朝廷其の忠を錄し、朝奉郎を贈り、其の三子を官す。

李邈

李邈、字は彥思、臨江軍清江の人なり。唐の宗室宰相適之の後なり。少しく才略有り、精悍敏決にして、事を見るに風の生ずるが如し。父任を以て太廟齋郎となる。初め安州司理に調され、潤州酒務を監す。薦を用いられて京官に改まり、在京竹木務を監し、提轄環慶路糧草に擢げられ、河間府を通判す。

蔡京・童貫に迕い、右列に換えられ、承議郎より莊宅副使に換わり、信安軍を知り、州を知るに遷り、遼國賀正副使となる。還りて、貫將に金人を連ね契丹を夾攻せんとし、邈を呼びて私第に至らしめ、語を以て之を動かし、己に附からしめんとす。邈言う「契丹人未だ其の主を厭わず」と。貫は邈に異議有るを懼れ、即ち奏して對せず、復た任に令す。邈上書して言う「契丹は滅すべからず、苟くも機事を誤らば、願わくは臣を誅して以て邊吏に謝せしめよ」と。都轉運使沈積中邈の罪五十三條を捃え、鞫治するも一も得る所無し。乃ち神霄宮を建つる詔に如かざるを以て、官を免ぜらる。

久しくして、在京染院を監し、都大提舉京西汴河堤岸に進む。盜浙東に起る。江淮・兩浙制置司管當公事に改まり、嚴州を知るに改まり、代わりて還る。貫は西師を以て燕に入らんと欲す。邈復た貫に語りて曰く「方臘小醜、一呼して七州四十餘縣を屠り、數路の力を竭くして而る後能く之を平ぐ、殆ど天の以て此れを以て公を警むるなり、何ぞ遽かに之を北に移すべけんや」と。因り密かに貫に教え、陰に契丹を佐けて以て金人を圖らしむ。貫用い能わず。乃ち致仕を乞う。貫燕山を收復し、奏して邈に涿州を知らしめ、易州に改むるも、皆辭して赴かず。歎じて曰く「國家の禍亂茲より始まれり」と。

金人京師を犯す。詔して趣に入見せしむ。邈慨然として復た起ちて道に就く。既に至り、姚平仲の戰利あらずに會い、京師震動す。上時に賜對せず、敵を禦ぐには奈何と問う。邈言う「勝負は兵家の常勢、陛下過ぎて憂うること無かれ、第うに古より和戰定まらずして能く成功する者無し」と。因り言う「种師道は宿將、重名有り、二敵の畏るる所なり。朝廷自ら和議を主とし、而して諸道の兵を盡く師道に畀え、敵を視て進退すべし。將は軍中に在りては、君命も受けざる所有り。見る可く撃つべくして進むを見しめよ。勝つは固より社稷の福、勝たずとも、亦た足らしめて敵に吾が將帥國を以て任と為す者有るを知らしむべし」と。上善しと稱す。而して耿南仲方に和議を主とし、合わず。乃ち右文殿修撰・京畿轉運使に換えらる。辭して拜さず。

金人猶ほ毛駝崗に駐す。乃ち邈を以て京城西壁守禦使と為す。邈言う「姚平仲敗績すれども、敵猶ほ敢えて留まらざるは、是れ我を畏るるなり。种師道を以て再戰せず、已に機會を失う。尚ほ其の行を尾い、河に及び半ば渡るを撃てば、猶ほ後戒と為すに足る」と。議復た格たる。三たび章を上して致仕す、允されず。主管馬軍公事・權樞密副都承旨に改まり、出でて河北西路制置使と為る。山西塘灣・屯田・弓箭手の事を措置するを以てす。邈塘灣の爲すべからざるを論ず。制置使を奪われ、下りて提舉保甲に遷り、仍ほ措置司を領す。又論じて已まず、再び觀察使を奪わる。則ち金兵將に境に及ばんとす。遂に舊官に復し、真定を守る。後二日、階を落とし、青州觀察使を拜し、仍ほ府事を知る。

邈始めて視事す。兵二千に滿たず、錢二百萬に滿たず。自ら度るに敵を拒ぐに以て無し。乃ち民に諭して財を出だし、共に死守を爲さしむ。民邈を恃みて固しと爲す。數日せずして、錢十三萬貫・粟十一萬石を得、民を募りて勇敢と爲すも亦數千人。而して新たに集まる兵は皆鬥志無し。金人至る。邈師を宣撫副使劉韐に乞い、且つ間道を走りて蠟書を上り聞かしむるも、皆報ぜず。城圍まれ、且つ戰い且つ守り、相持すること四旬。城破る。邈巷戰して克たず、將に井に赴かんとす。左右之を持して入るを得ず。斡離不邈を脅して拜せしむるも拜せず。火を以て其の鬚眉及び兩髀を燎くも、亦顧みず。乃ち燕山府に拘す。

金人が問うて曰く、「民兵を集めて我を撃ち、我を賊と謂うは、何ぞや」と。邈曰く、「汝は盟に背き、至る所にて吾が金帛子女を掠む、何ぞ吾が言うところの敵を諱れんや」と。屈する能わず。久しくして、邈を以て滄州を知らしめんと欲す。邈は笑って答えず。且つこれを説いて曰く、「天下の強弱の勢いに安んぞ常ならん、ただ吾が中国適逢其の隙に逢うのみ。汝この時に二帝及び両河の地を帰せず、歳に重幣を取りて契丹の如くし、以て長利と為さんや、強き尚お恃むべきか」と。金人は其の言を諱い、邈に被髪左衽を命ず。邈憤り、詆毀甚だ力あり。金人は其の口を撾ち、猶お血を吮んで之に噀す。翼日、自ら髪を去って浮屠と為す。金人大いに怒り、遂に害に遇う。将に死せんとするや、顔色変ぜず、南に向かって再拝し、端坐して就戮す。燕人其が為に流涕す。高宗、昭化軍節度使を贈り、諡して「忠壮」と曰う。

劉翊

劉翊は、靖康元年、吉州防禦使を以て真定府路都鈐轄と為る。金人、広信・保州を攻めて克たず、遂に中山を越えて真定を攻む。翊は衆を率いて昼夜城上に搏戦す。金兵初め北壁を攻む。翊之を拒ぐ。乃ち偽りに徙って東城を攻めんとす。宣撫使李邈、復た翊を趣して応往せしむ。再宿を越え、潜かに攻具を移して還りて北城に薄く。衆、堞に攀じて上る。城遂に陥つ。邈就執す。翊猶お左右を集めて巷戦す。已にして稍々亡去す。翊其の弟を顧みて曰く、「我は大将なり、其れ賊の戮を受くべけんや」と。身を挺して囲みを潰し出でんと欲す。諸門已に敵の守る所と為る。乃ち孫氏の山亭の中に之き、絛を解いて自縊死す。

徐揆

徐揆は、衢州の人なり。京師に游び、太学に入る。靖康元年、開封府の進士を試み、挙首と為る。大比に及ばずして国難に遭う。欽宗、金営に詣りて帰らず。揆は諸生を帥い南薰門を叩き、書を以て二酋に抵し、車駕の闕に還るを請う。其の略に曰く、「昔、楚の荘王、陳に入り、以て県と為さんと欲す。申叔時諫めて、之を復封す。後世の君子、叔時の善く諫むるを多とせず、楚子の諫に従うを莫からず。千百歳の下、猶お其の風采を想う。本朝、大国に信を失い、盟に背きて討を致すは、元帥の職なり。郡城失守し、社稷幾くんぞ亡くして存するは、元帥の徳なり。兵血刃せず、市肆を易えず、生霊幾くんぞ死して活くは、元帥の仁なり。楚子の陳を存するの功と雖も、能く過ち有るは未だし。我が皇帝親しく万乗を屈し、両たび轅門に造り、草莽に越え在り。国中喁喁として、属車の塵を跂望すること屡なり。道路の言、乃ち金銀未だ足らざるを以て故に、天子未だ返らざると謂う。揆窃かに之を惑う。今、国家の帑蔵既に空し。編民一たび妾婦の飾り、一たび器用の微なるも、公上に輸せざるは莫し。商賈跡を絶ち、京邑に来らず。区々豈に需索の数に償うに足らんや。社稷を存するの徳有り、生霊を活かすの仁有りて、而して金帛の故を以て、君父を質に留む。是れ猶お人の子弟を愛して、其の父祖を辱しむるが如く、愛せざると択ぶこと無し。元帥必ず為さざるなり。願わくは惻隠の心を推し、始終の恵を存し、其の君父を反し、師を班し旅を振い、時日を以て緩やかにし、之を四方に求めて然る後に、使人を遣わして奉献せしめよ。然らば則ち楚の陳を封ずるの功は道うに足らず」と。二酋書を見て、馬を以て揆を載せ軍に至らしめ詰難す。揆は厲声抗論し、殺さる。建炎二年、死節を追録し、詔して宣教郎を贈り、而して其の後を官す。

陳遘

陳遘は、字は亨伯、其の先は江寧より永州に徙る。進士第に登る。莘県を知り、治め績有り。魏尹蔣之奇・馮京・許将交はりて之を薦む。雍丘県を知る。徽宗将に以て御史と為さんとす。而して父祐甫の憂いに遭う。喪を畢え、広西転運判官と為る。蔡京、蛮徭の地を啓き、平・従・允の三州を建つ。遘言う、「蛮人は幸いに安静なり、軽々しく擾して以て釁を兆すべからず」と。京之を悪み、他事を以て罷め帰らしむ。

旋ちに商州・興元府を知り、入りて駕部・金部員外郎と為る。張商英政を得て、用いて左司員外郎と為す。俄かに給事中に擢でらる。会に商英相を免ぜらる。蔡薿、封駁を摂り、力めて之を沮止す。遘懼れ、外を請う。直秘閣を以て河北転運使と為り、直龍図閣を加えられ、陝西に徙る。京師に召還さる。而して蔡京復た相と為る。再び河北に使し、淮南に徙る。帝将に発運使を易置せんとし、諸道の計臣に閥閲有る者を選ぶを命ず。執政、遘を以て言う。京曰く、「職卑しく用うべからず、願わくは更に選べ」と。帝曰く、「集英殿修撰を除きて往かしむべし」と。京乃ち敢えて言わず。遂に副使と為り、未だ幾ばくもあらずして、使に升る。朝廷方に綱餉を督む。運渠壅澀す。遘、呂城・陳公の両塘を決して渠に達せしむ。漕路甫く通ず。而して朱勔の花石綱、道を塞ぐ。官舟行くを得ず。遘其の人を捕繫し、而上章して自ら劾す。帝為に勔の人をげいし、遘を徽猷閣待制に進む。

宣和二年冬、方臘乱す。詔を以て遘に属す。遘言う、「臘始めに青溪に起り、衆千に及ばず。今、脅従已に万を過ぐ。又た蘇州の石生・帰安の陸行児有り、皆党を聚めて之に応ず。東南の兵弱く勢単なり。士戦に習わず、必ず未だ賊を滅す能わず。願わくは京畿の兵・鼎澧の槍盾手を発し、兼程を以て来らしめ、庶幾くは蜂起する愚民、蔓を滋さざらん」と。帝悉く其の言を行う。

龍図閣直学士を加えられ、七路を経制し、杭に治む。時に県官用度百出す。遘、公私の出納を度り、其の贏を量りて増すを創議し、号して「経制銭」と曰う。其の後、総制使翁彦国其の式に倣い、号して「総制銭」と曰う。是に於いて天下今日に至るまで「経総制銭」の名有り。自ら両人始む。

又た言う、「妖賊州県に陵暴し、唯だ官吏を捜求し、恣に殺戮を行い、往々にして支体を断截し、肺肝を探取り、或いは鼎油を以て熬し、或いは勁矢を以て射て、惨毒を極め、怨心を逞しゅうせず。蓋し貪汚利を嗜むの人、法に倚りて侵牟騒動し、芸極を知らず。積もりて不平の気有り、民心に結び、一旦勢いに乗じて此の如くなる、悲痛と為すべし。此の風除かずんば、必ず更に事を生ぜん。臣願わくは官吏の姦贓尚お旧習に仍る者を采摭し、按治して聞こえ、理に置くを重くするを乞う」と。之を許す。

又た学士に進み、凡そ施置する所、御筆を以て先ず下す。是に於いて越州の王仲薿を劾す。市民を糾し金茶器を造り、直を減じて軍糧券を買い、而して私銭を以て之を取る。仲薿坐して黜せらる。杭は巨寇の後を経て、河渠堙窒す。邦人は水潦を病と為す。前守数たび朝に請うも、皆労費を以て役を輟む。遘は冬月を以て真・揚・潤・楚の諸郡に檄し、凡そ閘を守る綱卒、悉く治所に集まる。先ず是に、閘を閉ずるに当たり、群卒食する所無く、率ね凍餓自ら聊かならず。命を聞き、相率いて呼舞して来る者二千人。其の力を用いて河を治め、両月ならずして畢る。杭人之に利す。

河北都轉運使に移り、延康殿學士に進み、中山・真定・河間府の知事を歴任した。欽宗が即位すると資政殿學士を加えられ、累官して光祿大夫に至った。再び真定の知事となり、また中山に移った。金人が再び到来し、劉遘は包囲を冒して城に入り、堅く守りを固めて防戦した。詔して康王に天下の大元帥を領させ、劉遘を兵馬元帥に任じた。半年包囲され、外に援軍はなかった。京都が陥落した後、両河の地を割いて和を請うた。劉遘の弟の光祿卿劉適が中山に至り、城壁の前に臨んで詔旨を伝えた。劉遘は遠くから彼に言った、「主辱しめば臣死す。我ら兄弟は平素より名義を以て自ら処してきた。どうして国家を売り渡して囚虜となろうか」。劉適は泣いて言った、「兄はただ力を尽くせ。弟のことを気にかけるな」。

劉遘は総管を呼んで城中の兵を全て徴発して賊を撃つよう命じたが、総管は辞退したので、遂に斬って衆に示した。また歩兵の将沙振を呼んで行かせようとした。沙振は平素より勇名があったが、これも固く辞退したので、劉遘は固く派遣を命じた。沙振は怒り且つ恐れ、密かに刃物を懐に隠して府に入った。劉遘の妾の定奴が彼の無断入室を責めたので、沙振は直ちに彼女を殺し、遂に堂で劉遘を害し、その子の劉錫及び僕妾十七人を殺した。長子の劉鉅は淮南で官にあったため免れた。沙振が出てくると、帳下の兵卒が騒ぎながら進み出て言った、「大敵が城に迫っているのに、汝どうして我が主君を殺すのか」。彼を捕らえて引き裂き、身首ともに残らなかった。城中に主となる者がいなくなったので、門を開いて降伏した。金人が入城してその屍を見て言った、「南朝の忠臣なり」。棺に収めて鉄柱寺に葬った。建炎初年、特進を追贈された。

劉遘は性質孝友にして、人となり寛厚なる長者であった。部刺史を二十年間務め、毎回郡邑に出張する際は必ず香を焚いて天に祈り、貪濁の吏に逢わざらんことを願った。嘗て王安中・呂頤浩・張愨・謝克家・何鑄を推薦し、後に皆公輔(三公・宰相)に至ったので、世間は人を知る者と認めた。

劉適は開封少尹・衛尉少卿から光祿卿に至った。この戦役で、金人は彼を捕らえて北へ連行した。後十年、雲中で死んだ。

趙不試

趙不試は太宗の六世孫である。宣和末年に相州の通判となり、間もなく州事を代行し兼ねて真定府路経略安撫公事を主管した。建炎元年、相州知事となった。初め、汪伯彥が既に宰相を去った後、金人はその子の汪似を捕らえ、地を割譲させるために派遣した。汪似が相州に至ったが、趙不試は堅く守って降らなかった。翌年、金人が大挙侵入した。州は長く包囲され、軍民に固守の意志がなかった。趙不試は彼らに言った、「今城中食乏しく、外援至らず。不試は宗子なり、義として降るべからず。計いずくんぞ出づべきか」。衆は応じなかった。趙不試は事の為すべからざるを知り、遂に城壁に登って金人と殺さぬことを約し、許された。門を開いた後、その家族を井戸の中に納れ、然る後に自ら井戸に赴き、提轄官に命じて土で埋めさせた。州人は皆死を免れた。

趙令峸

趙令峸は燕懿王の玄孫で、安定郡王趙令衿の兄である。初名は令裨といった。建炎初年、鄂州通判に至り、兵を率いて武昌を守備した。賊の閻瑾が黄州を侵犯し、掠奪して去った。趙令峸は江を渡ってこれを慰撫し、黄州の人々はようやく安堵した。李綱が上に言上し、直龍図閣・黄州知事に抜擢され、今の名を賜った。詔を奉じて城を修築し、凡そ六月で完了した。賊の張遇が城下を通り過ぎ、趙令峸を招いた。抗し難いと判断し、城を出てこれに会った。張遇は酒を飲ませた。趙令峸は一気に飲み干して言った、「固より此れを飲めば必ず死すと知る。願わくは軍民を殺すことなかれ」。張遇は驚いて言った、「先ず此れを以て公を試みたのみ」。更に毒酒を取って地に注ぐと、地が裂けて音がしたので、軍を率いて去った。間もなく、丁進・李成の兵が相次いで到来したが、皆撃退した。叛将の孔彦舟がまた兵を率いて城を包囲したが、民兵を率いて堅く守り、凡そ六日で解かれた。

三年、母の喪のため去職したが、詔して起復を命じられた。時に金人は孟太后が南昌に在ると聞き、これを遮ろうとして、直ちに黄州を侵犯した。趙令峸は既に帰途に在ったが、郡の兵卒が金人の木製の矢柄に鑿頭の付いた矢を手に入れ、江を下って急を告げた。趙令峸は急ぎ馳せ、夜半に城に入った。金人が力攻めし、翌日城は陥落した。金人は彼を降そうとしたが、趙令峸は大声で罵り屈せず、酒を酌んでもこれを払って飲もうとせず、また戦袍を着せようとすると、「我どうして服すべきか」と言った。金人が「趙使君は何故かくも堅く執するのか」と言うと、「ただ祖宗に拝すべし、犬豚に拝すべけんや」と答えた。金人は怒って鞭打ち、血が顔一面に流れたが、罵りを絶やさずに死んだ。事が聞こえ、徽猷閣待制を追贈され、諡して「愍忠」といった。州人が廟の建立を請うたので、許された。初め、城が破れた時、都監の王遠・判官の吳源・巡検の劉卓は皆、屈せずに死んだ。

唐重

唐重は字を聖任といい、眉州彭山県の人である。少時より大志を抱いた。大観三年の進士。徽宗が自ら策士を試み、礼楽の制定について問うた。唐重は答えて言った、「親に事え兄に従うこと、これ仁義礼楽の実なり。陛下は神考(神宗)を父とし、哲宗を兄とす。何ぞ亦た仁義の実を推し究めんや。何を以て制作を為さんや」。しょく州司理参軍に任じられ、成都府府学教授に改め、懐安軍金堂県知事を経て、辟雍録に任じられた。

先だって、朝廷は拓土を功とし、辺境の将帥は賞を求めて争って利を興し、凡そ蜀東西・夔峡路及び荊湖・広南においては、皆近辺の蕃夷を誘い、耕作に適さぬ土地を献上させ、これを納土と称し、これに因って州県を設置したので、至る所騒然となった。唐重はその利害を宰相に上申し、これによって推薦され、召されて応対した。吏部員外郎・左司郎官・起居舎人に遷った。

金人が京師に入ると、唐重は言った、「辺境を開拓した禍は童貫に起こり、故に金人は童貫を禍首とす。若し童貫の首を斬り、人を遣わして金に伝送すれば、尚お兵を緩めることができよう」。或る者は遠く避難することを献策した。唐重は衛士の言葉を聞き、朝廷に告げたので、始めて守城の計が定まった。右諫議大夫に抜擢された。時に宰執は各々和戦の二議を主張し、唐重は上疏して廷上でその得失を弁ぜしめるよう乞うた。金人が金帛を要求し、中書侍郎の王孝迪が命令を下し、金銀を匿む者は死罪とし、人の告発を許した。唐重は言った、「此くの如くすれば、子は父を告げ、弟は兄を告げ、奴婢は主を告ぐることを得ん。豈に初政の宜しくすべき所ならんや」。即ち御史と共に抗論し、遂に止んだ。また累次上疏して蔡京父子を斬って天下に謝罪するよう乞うた。間もなく中書舎人に遷り、詞命(詔勅の草案)を多く差し戻して奏上した。また言った、「近世は順序を飛び越えて人を用い、その中で宰輔の身となる者に、未だ一日も国門を出でざる者有り。先ず外補を乞い、以てその先駆けと為さん」。上は聞き入れたが、宰相が執奏して不可とした。翌日、台諫は皆罪を得、唐重は落職して同州知事となった。

金人は既に晉・絳を陥とし、将に同州に及ぼうとした。唐重は守り切れぬと判断し、門を開いて州民を出させることを許し、自らは残兵数百を率いて城を守り、必死の覚悟を示した。金人は備え有りと疑い、再び河を渡らずに引き返した。詔を降して賞賛し、天章閣待制に抜擢した。先だって、陝西宣撫使の范致虚が五路の兵を提げて勤王し、陝州に至った。唐重は范致虚に書を送り、言った、「中都(開封)は秦兵を爪牙と頼み、諸夏は京師を根本と恃む。今京城は長く囲まれ、人に闘志無し。若し五路の師が逡巡して進まずんば、則ち爪牙と為す所以の者は恃むに足らず、而して根本動く。然れども潰卒が梗み、関中の公私の蓄積は既に尽き、又聞く西夏が鄜延を侵掠し、腹背の患いと為すと。今は蜀帥及び川峡四路に檄を移し、共に関中の守禦の備えを資し、秦・蜀を合わせて王室を衛らしむるに若かず」。范致虚は出師に鋭く、澠池より千秋鎮に屯したが、金将に敗れ、軍は皆潰え、潼関を退保したので、五路の力は益々消耗した。唐重は人を募って間道より京城に走らせ帰報させた。二帝が既に北行されると、唐重は即ち檄を移して川・秦十路の帥臣に、各々礼物を備えて軍前に赴き迎え奉るよう命じた。

間もなく、高宗が即位すると、唐重は上疏して、今の急務は四つあり、大患は五つあると論じた。いわゆる急務とは、まず車駕を西幸させること、次に藩鎮を建て、宗子を封じ、夏国との友好を通じ、青唐の後を継がせ、互いに犄角の勢いをなして敵の勢いを緩めることである。いわゆる大患とは、法令がますます煩雑になり、朝綱が委靡し、軍政が敗壞し、国用が竭き、民心が離れることである。これを救おうとするならば、祖宗の成憲を守り、忠直を登用し、賞罰を大いに正すべきであり、誠に今日の急務である。

唐重は以前、同州にいた時、大元帥府に三度上疏し、早く関中に臨幸して衆望に副うよう請うた。また三つの策を画策した。一つは、関中を鎮撫して根本を固め、その後漢中に営屯し、西蜀に国を開くことであり、これが上策である。もし南陽に駐節し、楚・呉・越・齊・趙・魏の師を制御して、秦・晉の故地に臨み、敵の強弱を見て進退し、宗親の賢明なる者を選んで関中に開府させるならば、これが中策である。もし都城に拠り、汴・洛の境で再び城池を治め、成皐・崤函の険要を占め、悉く厳しく防守するならば、これが下策である。もし兵を率いて南渡すれば、国勢は微弱となり、人心は離散し、これは最も策のないものである。永興に至ってからも、さらに六度上疏し、いずれも車駕の関中幸行を請うた。併せて関中の防河に関する事柄を条奏し、大意は次のようであった。「虢州・陝州は残破し、解州・河中は既に陥落し、同州・華州の沿河は金人と対峙し、辺境の防衛線は六百余里に亘る。本路には戦える兵がなく、五路の兵馬十万以上を増派し、漕臣に委ねて蓄えを備えさせ、関中を守らせたい。」

上疏は凡そ七八度に及び、朝廷は未だ処置を定めなかった。唐重は再び上疏して言った。「関中は百二の地勢をもち、陝西六路を制御し、川峡四路を遮蔽する。今、蒲州・解州が失守し、敵と隣り合っている。関中が堅固であれば、秦・蜀十路の安泰を保つことができる。しかし各路の帥守・監司はそれぞれに擁護しあい、互いに融通しない。先般、范致虚が勤王の師を会合させたが、力を尽くさなかったわけではなく、将帥が各自謀を為し、節制に従わなかった。宗親の賢明なる者を選んで京兆牧とし、あるいは元帥府を置き、秦・蜀十道の兵馬を総管させ、便宜を以て事に当たらせ、応じて帥守・監司をして皆その節制を聴かしめるべきである。危急の際には諸道の兵を合わせて社稷を衛り、敵を防ぐことができるのみならず、郡県瓦解の失をも救うことができる。」また五路の兵を節制するよう請うたが、いずれも返答がなかった。

金の将軍婁宿が黄河を渡り韓城県を陥落させた。時、京兆の余兵は皆、経制使錢蓋によって行在に赴くよう調発されていた。唐重は情勢が支えきれないと判断し、父の克臣に別れの手紙を書いて言った。「忠孝は両立せず、義のために苟くも生きて父を辱しめることはできない。」克臣はこれに答えて言った。「汝が身を以て国に殉ずることができれば、吾は笑みを浮かべて地に入るであろう。」金人が国境に入ると、唐重は転運使李唐孺に手紙を遺して言った。「重は平生忠義を重んじ、難を避けることを敢えてしない。初めは車駕を迎えて関中に入れ、建瓴の勢いに居り、以て東方に臨むことができるようにと願った。今、車駕は南幸された。関陝にはまた重兵がなく、智力を尽くしても何を施すことができようか。一死をもって上に報いるのは惜しむに足らない。」

金兵が城を囲むと、城中の兵は千に満たず、固守すること十日余り、外援は至らなかった。経制副使傅亮が精鋭数百を率いて城門を奪って出降し、城は陥落した。唐重は親兵百人を率いて血戦した。諸将が唐重を連れ去ろうとしたが、唐重は言った。「死ぬことは、吾が職分である。」戦いを止めず、衆は潰走し、唐重は流れ矢に当たって死んだ。初め、唐孺がその手紙を上聞し、やがて死節の報が届いた。上はこれを哀悼し、資政殿学士を追贈し、後に諡して「恭愍」とした。

郭忠孝

郭忠孝、字は立之、河南の人、簽書樞密院事郭逵の子である。程頤に『易経』と『中庸』を学んだ。若くして父の任により右班殿直に補され、右侍禁に遷った。進士に及第し、文資に換えられ、将作監主簿を授かった。三十歳を過ぎても親の側を離れるに忍びず、多く河南の筦庫の間で仕えた。宣和年間、河東路提挙となった。解梁・猗氏は河東と接壤し、塩を密売する盗賊が数百の群れをなし、毎年大獄が起こり、互いに告発し合い、罪に当たる者が多かった。忠孝はその首謀者のみを処罰し、残りは悉く寛大に赦した。宰相王黼はこれを怒り、塩法を廃格した罪に坐して免官された。

靖康初年、召されて軍器少監となった。入対し、和議は誤りであるとし、追撃の策を力説し、言った。「兵家は深入を忌む。金人は燕薊より兵を興し、河朔を越え、都城を犯した。その鋒は当たるべからざるものであったが、今は鋭気もまた衰え、さらに子女玉帛の獲物を顧みているため、和議を以て我が師を緩ませようとしている。今、諸道の師は集結した。その惰に乗じて撃つべきである。もしその帰路を撃つことができなければ、他日どうしてその来襲を防ぐことができようか。」上は命じて宰相呉敏・樞密李綱と議させ、忠孝はさらに戦守の利害、士馬の分合に関する策十余事を条上した。主和派が多く、ついにその策は用いられなかった。永興軍路提点刑獄に改められ、保甲の措置を担当した。初め、議者が保甲十万を選んで義勇とし、河朔の諸郡に分属させるよう請うた。忠孝は言った。「保甲は年久しく、死亡する者も多い。三万を選んで都城を守らせるのはよいが、河朔は騎兵の地であり、保甲の適する所ではない。」上はこれに従った。忠孝は急ぎ関陝に赴き、勝兵三万を得て、十将に分属させ、一将を選んでこれを統率させた。続いて兵を沢州・潞州に向かわせ、宣撫司の節制に聴かせた。

金人が再び京師を犯すと、永興の帥范致虚が諸軍を率いて淆・澠より入援した。忠孝は言った。「金人は深入しているが、河東には守備がない。願わくば兵を分けて太行を走らせ、その帰路を扼せば、彼は必ず来戦し、城下の包囲は緩むであろう。」致虚はこれを然りとした。檄を飛ばして河中守席益・馮翊守唐重と忠孝に河東より出撃させ、牽制の挙に出させ、大軍は悉く函谷を出た。忠孝は独り蒲・解の軍三千を率いて猗氏に至り、金人に遭遇してこれを破った。絳州を越え、太平砦を破り、数百級を斬首した。平陽を攻め、その外城に入った。時に大軍が淆・澠の間で失利したため、引き返した。

金人が永興を犯すと、兵は寡なく、ある者は忠孝に監司として出巡すれば禍を避けられると勧めた。忠孝は答えず、経略唐重と城を分けて守った。忠孝は西壁を主とし、唐重は東壁を主とした。金人が城下に陣を布くと、忠孝は人を募って神臂弓でこれを射させ、敵は前に進めなかった。やがて城の東南隅が攻め落とされ、忠孝は唐重及び副総管楊宗閔・転運副使桑景詢・判官曾謂・経略主管機宜文字王尚・提挙軍馬武功大夫程迪と共に死んだ。朝廷は忠孝に大中大夫を追贈した。子の雍は別に伝がある。

程迪

程迪、字は惠老、開封の人。父の博古は鄜延の兵を部して永楽で戦死した。迪は門蔭により官を得た。宣和年間、楊惟中に従って方臘を征討し功績があり、武功大夫・榮州團練使・瀘南潼川府路走馬承受公事を加えられた。

諸使が共に迪の忠義謀略を推薦し、将帥の任に堪えるとし、行在に召し出された。経略制置使唐重は敵が迫っていることを理由に、迪を留めて軍馬を提挙させ、民兵を措置して備えとさせた。金人は既に同州から黄河を渡り、或る者は迪に蜀に戻るよう勧めたが、迪は国に報いる道を考え、従わなかった。そこで种氏の諸豪族のもとを訪れ、衆を率いて険要の地を守り、その勢いがやや衰えるのを待ち、奇計をもってこれを撃つことを謀った。転運使桑景詢がその謀を知り、唐重に告げ、民に険要の地を選んで自ら固めることを許す榜文を掲げた。ちょうど前河東経制使傅亮が守るべきで避けるべきではないと建議し、重はこれに従い、亮を制置副使とし、去った者を悉く帰還させた。

やがて金兵がますます迫り、重は迪に永興路軍馬を提挙させ、民兵を措置し、迪に南山の諸谷を巡視させ、金帛を運んでその中に治所を移そうとした。そこで土豪を召集し、民兵を集めて軍籍を補わせた。応募する者が多かったので、亮は重に言った。「人心がこのようである。十日ほどの猶予を与えれば、守備の具も整うであろう。どうして風を見て棄て去ろうとするのか。」重は大いにこれを然りとし、直ちに諸司に檄を飛ばして亮の節制に従わせた。金人が城に近づくと、迪はまた兵を選んで迎え撃ち、老幼をして険要の地に急がせれば、なお十万人を生かすことができると考えた。亮は城を守ることを主張し、金人が四方から急攻し、外に援兵もなく、迪は諸司及び統制・偏裨以下の者を率いて東に向かい会盟した。「危急の際には必ず死をもって相応じ、誓って敵と共に生きることはない。」慷慨して嗚咽し、同盟した者皆感泣した。城が破れたのは、亮の分担した地域から始まった。亮は先に出て降伏し、衆は潰走した。迪はその徒を率いて衆の中を巡行し言った。「敵は我らを仇としている。降伏しても死、戦っても死だ!」努めて戦い、憤怒して大呼し、口から血を流し、兵士は皆感奮し、多くを斬殺した。迪は飛び交う矢を冒し、短兵を持って数十合にわたり接戦し、身には傷がほぼ遍く及び、気絶してまた蘇り、なおも声を厲して戦いを叱咤して止まず、遂に戦死した。麾下の兵士が空き室に運び置くと、隣の家屋は皆焼け尽きたが、その室だけは火がつかず、収斂する時、容色は生きているようであった。詔して明州観察使を追贈し、諡して「恭愍」とした。子は昌諤。

徐徽言

徐徽言、字は彦猷、衢州西安の人。若くして諸生となり、広く書伝に渉猟した。気概に富み豪放で、奇抜な志を持ち、功名の事を語るのを好んだ。大観二年、材武の士を求める詔があり、韓忠彦・范純粹・劉仲武が徽言を応詔として推挙し、崇徳殿に召見され、武挙絶倫及第を賜った。

保徳軍監押を歴任し、辺功により閤門祗候・平陽府軍馬鈐轄に加えられ、権知保徳軍となった。総領河西軍馬に改め、西夏討伐の功により、累遷して秉義郎となった。宣和四年、燕を伐たんとし、太原帥張孝純に命じて河西の帳族を招かせ、徽言をその地に遣わした。帳族は拒んで矢を射かけたが、徽言は迎え撃ってこれを破り、遂に天徳・雲内の両城を平定した。宣撫使童貫はその功を嫉み、太原に檄を飛ばして節度に違わぬよう命じた。再び棄て去った。孝純は先に朔・武の二州を平定したが、これも守ることができなかった。知火山軍兼統制河西軍馬に改め、石州に転赴した。

靖康初年、武翼郎・閤門宣賛舎人に遷った。金人が太原を包囲し、兵を分けて糧道を絶ち、隰州・石州以北は、命令が通じないことが数ヶ月続いた。徽言は三十人で黄河を渡り、一戦してこれを破った。武経郎・知晋寧軍兼嵐石路沿辺安撫使に遷った。

金人が再び京師を犯すと、陝西制置使范致虚が五路の兵を糾合して難に赴き、徽言に檄を飛ばして河西を守らせた。欽宗が両河を割いて禍を和らげようとし、同知枢密院事聶昌が河東に出向いたが、金人に劫われ、便宜的に河西の三州を西夏に割き隷属させた。晋寧の軍民は大いに恐れ、言った。「麟・府・豊を棄てるならば、晋寧はどうして独り存続できようか!」徽言は言った。「これは使者が詔を偽ったのだ。三郡は河西にある。仮に詔があったとしても、なお執奏すべきである。ましてや無いのにどうして従えようか!」遂に兵を率いて三州を再び取り戻し、夏人が置いた守長は皆出て降伏したので、徽言は慰めて遣わした。さらに嵐州・石州などを併せ取り、戈船の卒に羊皮の渾脱に乗って流れを乱して渡り敵を掩うことを教えた。金人はますます克胡砦・呉堡津に備えを固め、守領を遣わして九州都統とし、晋寧と対峙させた。徽言は奇兵を出してこれを襲い逐った。当時、河東の郡県は陥没し、遺民は日に日に王師の到來を待ち望んでいた。徽言は密かに汾・晋の土豪数十万を結び、約束して故地を回復したならば奏上して守長とし、世襲を聴すとした。その事を条陳して上聞し、報可を待ち、即ち自ら精鋭を率いて太原を搗き、まっすぐに雁門を取り、兵を留めて戍守させようとした。かつ言った。「全晋を定めれば形勝は我が有するところとなり、中原は期を指して克復されるべきである。一時の投機、会は失うべからず。」奏上すると、詔して徽言に王庶の節制を聴かせ、議は遂に止んだ。

金人は徽言を忌み、患いを除くために晋寧を速やかに陥とそうとした。建炎二年冬、蒲津から黄河を渡ってこれを包囲した。先に徽言は府州に移文し、折可求と約して金人を挟撃しようとした。可求が降伏し、金将婁宿が彼を挟んで城下に至り、徽言を招降しようとした。徽言は以前可求と姻戚関係にあったが、城壁に登って大義をもって彼を責め数えた。可求が仰ぎ見て言った。「君は私に対してどうしてこのように無情なのか?」徽言は弓を引き絞り声を厲して言った。「お前は国家に対して情が無いのに、私はどうしてお前に情があろうか。ただ私が無情なだけでなく、この矢は特に無情である。」一発で彼に命中させ、可求は逃げ去った。そこで出兵して縦撃し、遂に婁宿孛堇の子を斬った。この時、河東一帯は既に陥落し、ただ晋寧だけが屹然として孤城となり、強敵に横たわり立ちはだかり、勢力は百倍も抗しがたかった。徽言は堅壁を守り持久し、疲労負傷者を撫で慰め、水夫を遣わして河を潜らせ、山谷に逃れ潜伏する民を召集すること数万衆、筏を浮かべて西に渡り、金人と河上で激戦し、大小数十戦、捕虜と斬殺は相手の損害を上回った。晋寧は天下の険と号され、徽言は外城を広げ、東は河に臨み、下の塹壕は深く測り知れず、櫓や城壁は雄大で堅固、備えの器械は甚だ整っていた。諸将に命じて城の隅を分かち守らせ、敵が来れば自ら死力を尽くし、精兵を往来させて遊撃の援けとした。

金人の進攻は数度敗れ、目的を果たせず、包囲をますます急にした。晋寧の風習は井戸を飲まず、河に水汲みを頼っていた。金人は茭や石を積んで支流を埋め塞ぎ、城中の水は乏しくなり絶え、蓄えられた物資は次第に尽き、鎧や兵器は空しく破れ、人々は慄き憂え、滅亡の日遠からずと知った。徽言は衆心を得ることができ、空腹で傷ついた残りの者を奮い立たせ、折れた槊や断れた刃を集め、死をもって固く守った。既に自ら支えられぬと覚悟し、砲機・篦格など、凡そ守備の具は悉く火を放ち、言った。「敵に遺すな。」使いを間道から馳せさせてその兄昌言に書を送り言った。「徽言は国の恩に孤負して死ぬ。兄はどうか君に事えることを勉めよ。」ある夜、裨校の李位・石贇が帛書を矢の上に結び、密かに婁宿と約束して外郭を開き金兵を入れようとした。徽言は太原路兵馬都監孫昂と門の中で決戦し、格殺した者は甚だ多く、退いて牙城に拠って守った。金人が攻撃を止めないので、徽言は妻子を室の中に置き、薪を積んで自ら焼こうとした。剣を杖にして堂上に坐り、慷慨として将士に語った。「私は天子の守土の臣である。義によって敵の手に辱められてはならない。」そこで佩刀を抜いて自らを刺そうとした。左右の者が号泣して救い急いで押さえたが、金兵が猥りに至り、徽言を挟んで連れ去った。しかしなおその威名を畏れた。

婁宿は徽言の親しい者を得て徽言を説かせた、「何ぞ冠韍を具えて金の帥に見えざる。」徽言はこれを斥けて曰く、「朝章は、君父を覲るの礼なり、以て穹廬に入るべけんや。汝は偽官に汚れ、即ち愧死せず、顧みて以て栄と為し、且つ敵人のために吻を搖がして説客と作さんとするか。急ぎ去らざれば、吾が力は猶お汝を搏ち殺す能はん。」婁宿は自ら徽言を見て、語りて曰く、「二帝北に去りぬ、爾は其れ誰がために此れを守るか。」徽言曰く、「吾は建炎天子のために守る。」婁宿曰く、「我が兵は既に南せり、中原の事未だ知るべからず、何ぞ自ら苦しむこと為さん。」徽言怒りて曰く、「吾は汝が輩を屍して天子に見え帰らざるを恨む、将に死を以て太祖・太宗の地下に報ぜんとす、他を知るを庸えんや。」婁宿また金の制を出だして曰く、「能く小屈せば、当に汝をして世々延安を帥せしめ、陝の地を挙げて併せて之を有たしめん。」徽言ますます怒り、罵りて曰く、「吾は国の厚恩を荷い、死すること正に吾が所なり、此の膝詎で汝が輩の為に屈せんや。汝は当に自ら刃を加うべし、余人をして加えしむべからず。」婁宿は戟を挙げて之に向かい、其の懼るる状を覬う。徽言は衽を披いて刃を迎え、意象自若たり。酒を以て飲ませしむると、杯を把りて婁宿に擲ちて曰く、「我尚お汝が酒を飲まんや。」慢罵して已まず。金人は屈すべからざるを知り、遂に之を射殺せり。粘罕其の死を聞き、婁宿を怒りて曰く、「爾は粗狠なり、何ぞ専ら義人を殺して以て爾が私を逞うするや。」其の罪を治むること甚だ惨し。

初め、徽言は劉光世と束髮の雅故たり。光世は命を被りて太原を援けんとし、吳堡津に次ぎ、輒ち頓して進まず。徽言は書を移して行を促せども、聴かず。また諭して太原の危うく守れざるを以てし、旦暮に救を望む、総管は詔を承けて急に赴く、宜しく稽固して方命の罪を取るべからずとせしも、光世は猶お前卻す。徽言は即ち章を露わして其の逗撓を劾し、副を封じて之に与う。光世惶遽して道を引きて行けり。

宣撫使張浚と諸の使者相継ぎて死節の事を以て聞こゆ。高宗は几を撫でて震悼し、顧みて宰相に謂ひて曰く、「徐徽言は国に報じて封疆に死し、難に臨んで屈せず、忠日月に貫く、顔真卿・段秀実を過ぐること遠し。寵する有らざれば、何を以て忠を勧め、来世に昭示せん。」乃ち晉州觀察使を贈り、諡して「忠壮」とす。再び彰化軍節度を贈る。

孫昂も亦た刀を引きて自ら刺さんと欲す。金人擁して軍前に至らしむ。屈せずして死す。是に至りて成忠郎・圍練使を贈る。徽言の子岡は既に同じく死事に同じ、而して從孫適も亦た安豊を守りて死す。昂の父翊は、宣和の末に朔寧府を知り、太原を救ひて陣に死す。各々世に忠義を著すと云ふ。

向子韶

向子韶、字は和卿、開封の人、神宗后の再從姪なり。年十五にして太学に入り、元符三年の進士第に登る。特恩にて承事郎に改め、荊南府節度判官を授けられ、累官して京東轉運副使に至る。属郡の郭奉世が萬緡の羨餘を進む。戸部の聶昌賞を請うて以て天下を勧めんとす。子韶は奉世を劾し、且つ言ふ、近臣首めて聚斂の端を開く、浸して長ずべからずと。士論之を韙とす。父憂にて免ぜられ、起復して淮寧府を知る。

建炎二年、金人淮寧を犯す。子韶は諸弟を率いて城を守り、士民に諭して曰く、「汝等が墳墓の国、此を去りて何くにか之かん。吾は汝と当に死守すべし。」時に東兵四千人あり、第三将岳景綬は城を棄てて軍民を率いて行在に走らんと欲す。子韶従はず。景綬は兵を引きて敵を迎え戦ひて死す。金人昼夜城を攻む。子韶親しく甲冑を擐ぎ、矢石を冒し、其の弟子率を遣わして宗澤に赴き援兵を乞はしむ。未だ至らざるに、城陥つ。子韶は軍民を率いて巷戦し、力屈して執へらる。金人城上に坐し、之を降さんと欲し、酒を酌みて前に于す。左右抑へて膝を屈せしむ。子韶直立して動かず、手を戟して責め罵る。金人之を殺す。其の弟新たに唐州を知る子褒・朝請郎子家等と闔門皆害に遇ふ。惟だ一子鴻六歳なるのみ存す。事聞こえ、再び通議大夫を贈り、其の家に六人を官し、後諡して「忠毅」とす。初め、金人の淮寧府に至るを、楊時聞きて曰く、「子韶必ず死せん。」蓋し其の素より守る所を知ればなりと云ふ。

楊邦乂

楊邦乂、字は晞稷、吉州吉水の人なり。古今に博通し、舍選を以て進士第に登る。時に多艱に遭ひ、毎に節義を以て自ら許す。婺源尉・蘄廬建康三郡教授を歴へ、改秩して溧陽県を知る。会に叛卒周德府城を據り、官吏を殺す。邦乂は県獄の囚趙明を庭に立て、之を誅せんと欲し、因りて之に諭して曰く、「爾は里中の豪傑に悉くし、誠に能く爾が徒を集めて邑人のために賊を誅せば、惟だ爾が罪を宥ふのみならず、当に功を上ぐれば爵を畀へん。」明即ち行かんことを請ふ。邦乂之に卮酒を飲ませ、自ら去らしむ。翼日を越えて、之を討平す。

建炎三年、金人江上に至る。高宗浙西に如く。右僕射杜充を留めて御営使と為し、建康に駐紮せしめ、劉光世・韓世忠・王𤫉諸将に命じて悉く充の節制を聴かしむ。充は性酷にして謀無く、士心附かず。碙沙を渡り、充は陳淬・岳飛等を遣はし、金人と馬家渡に戦はしむ。辰より未に至るまで、戦数合し、勝負未だ決せず。𤫉は兵を擁して救はず、淬は擒にされ、𤫉の兵遁れ、充は麾下数千人を率いて降る。金人江を濟ひ、鼓行して城に逼る。時に李棁は戸部尚書を以て軍餉を董じ、陳邦光は顯謨閣直學士を以て建康を守る。皆降状を具へ、之を十里亭に逆ふ。金帥完顏宗弼既に城に入る。棁・邦光は官属を率いて迎へ拝す。惟だ邦乂のみ膝を屈せず、血を以て衣裾に大書して曰く、「寧ろ趙氏の鬼と作るとも、他邦の臣と為らじ。」宗弼之を屈す能はず。翼日、人を遣はして邦乂を説き、旧官を以て許す。邦乂は首を以て柱礎に触れ血を流し、曰く、「世に豈に死を畏れざる而して以て利動かさるべき者あらんや。速やかに我を殺せ。」翼日、宗弼等と棁・邦光堂上に宴す。邦乂を庭に立たしむ。邦乂棁・邦光を叱して曰く、「天子若を以て城を捍がしむ。敵至りて抗す能はず、更に与に宴楽を共にす。尚ほ面目有りて我を見るや。」劉團練と云ふ者有り、幅紙に「死活」の二字を書して邦乂に示し曰く、「若多く云ふ無かれ。死せんと欲せば、『死』の字を書くに趣け。」邦乂奮筆して「死」の字を書く。金人相顧みて色を動かす。然れども未だ敢へて害せず。已にして宗弼再び邦乂を引く。邦乂憤に勝へず、遥かに望みて大罵して曰く、「若し女真中原を図らば、天寧く久しく汝に假すべし。行将に汝を萬段に磔せん。安んぞ得て我を汚さんや。」宗弼大怒し、之を殺し、其の心を剖き取り、年四十四。事聞こえ、直秘閣を贈り、田三頃を賜ひ、官為りに斂葬し、即ち其の地に廟を賜ひて褒忠とし、諡して「忠襄」とす。其の四子を官す。

邦乂少くして郡学に処る。目は礼に非ざるを視ず。同舍其の守を隳さんと欲し、之を拉ぎ出だし、故旧の家に託言す。実は娼館なり。邦乂初め疑はず。酒数行し、娼女出づ。邦乂愕然として、疾く趨りて還り舍し、其の衣冠を解きて之を焚き、涕を流して自ら責む。紹興七年、樞密院言ふ、邦乂の忠節顕著なりと。上曰く、「顏真卿は異代の忠臣、朕昨已に其の子孫を官せり。邦乂は朕のために死節す。厚く褒録せざるべからず。以て忠義の勧めと為すべし。」加えて徽猷閣待制を贈り、田三頃を増賜す。