霍安國
李涓
李涓、字は浩然、駙馬都尉遵勖の曾孫なり。蔭を以て殿直となり、召されて中書に試みられ、文階に易えられ、通直郎に至り、鄂州崇陽縣を知る。
李邈
李邈、字は彥思、臨江軍清江の人なり。唐の宗室宰相適之の後なり。少しく才略有り、精悍敏決にして、事を見るに風の生ずるが如し。父任を以て太廟齋郎となる。初め安州司理に調され、潤州酒務を監す。薦を用いられて京官に改まり、在京竹木務を監し、提轄環慶路糧草に擢げられ、河間府を通判す。
蔡京・童貫に迕い、右列に換えられ、承議郎より莊宅副使に換わり、信安軍を知り、霸州を知るに遷り、遼國賀正副使となる。還りて、貫將に金人を連ね契丹を夾攻せんとし、邈を呼びて私第に至らしめ、語を以て之を動かし、己に附からしめんとす。邈言う「契丹人未だ其の主を厭わず」と。貫は邈に異議有るを懼れ、即ち奏して對せず、復た任に令す。邈上書して言う「契丹は滅すべからず、苟くも機事を誤らば、願わくは臣を誅して以て邊吏に謝せしめよ」と。都轉運使沈積中邈の罪五十三條を捃え、鞫治するも一も得る所無し。乃ち神霄宮を建つる詔に如かざるを以て、官を免ぜらる。
久しくして、在京染院を監し、都大提舉京西汴河堤岸に進む。盜浙東に起る。江淮・兩浙制置司管當公事に改まり、嚴州を知るに改まり、代わりて還る。貫は西師を以て燕に入らんと欲す。邈復た貫に語りて曰く「方臘小醜、一呼して七州四十餘縣を屠り、數路の力を竭くして而る後能く之を平ぐ、殆ど天の以て此れを以て公を警むるなり、何ぞ遽かに之を北に移すべけんや」と。因り密かに貫に教え、陰に契丹を佐けて以て金人を圖らしむ。貫用い能わず。乃ち致仕を乞う。貫燕山を收復し、奏して邈に涿州を知らしめ、易州に改むるも、皆辭して赴かず。歎じて曰く「國家の禍亂茲より始まれり」と。
金人京師を犯す。詔して趣に入見せしむ。邈慨然として復た起ちて道に就く。既に至り、姚平仲の戰利あらずに會い、京師震動す。上時に賜對せず、敵を禦ぐには奈何と問う。邈言う「勝負は兵家の常勢、陛下過ぎて憂うること無かれ、第うに古より和戰定まらずして能く成功する者無し」と。因り言う「种師道は宿將、重名有り、二敵の畏るる所なり。朝廷自ら和議を主とし、而して諸道の兵を盡く師道に畀え、敵を視て進退すべし。將は軍中に在りては、君命も受けざる所有り。見る可く撃つべくして進むを見しめよ。勝つは固より社稷の福、勝たずとも、亦た足らしめて敵に吾が將帥國を以て任と為す者有るを知らしむべし」と。上善しと稱す。而して耿南仲方に和議を主とし、合わず。乃ち右文殿修撰・京畿轉運使に換えらる。辭して拜さず。
金人猶ほ毛駝崗に駐す。乃ち邈を以て京城西壁守禦使と為す。邈言う「姚平仲敗績すれども、敵猶ほ敢えて留まらざるは、是れ我を畏るるなり。种師道を以て再戰せず、已に機會を失う。尚ほ其の行を尾い、河に及び半ば渡るを撃てば、猶ほ後戒と為すに足る」と。議復た格たる。三たび章を上して致仕す、允されず。主管馬軍公事・權樞密副都承旨に改まり、出でて河北西路制置使と為る。山西塘灣・屯田・弓箭手の事を措置するを以てす。邈塘灣の爲すべからざるを論ず。制置使を奪われ、下りて提舉保甲に遷り、仍ほ措置司を領す。又論じて已まず、再び觀察使を奪わる。則ち金兵將に境に及ばんとす。遂に舊官に復し、真定を守る。後二日、階を落とし、青州觀察使を拜し、仍ほ府事を知る。
邈始めて視事す。兵二千に滿たず、錢二百萬に滿たず。自ら度るに敵を拒ぐに以て無し。乃ち民に諭して財を出だし、共に死守を爲さしむ。民邈を恃みて固しと爲す。數日せずして、錢十三萬貫・粟十一萬石を得、民を募りて勇敢と爲すも亦數千人。而して新たに集まる兵は皆鬥志無し。金人至る。邈師を宣撫副使劉韐に乞い、且つ間道を走りて蠟書を上り聞かしむるも、皆報ぜず。城圍まれ、且つ戰い且つ守り、相持すること四旬。城破る。邈巷戰して克たず、將に井に赴かんとす。左右之を持して入るを得ず。斡離不邈を脅して拜せしむるも拜せず。火を以て其の鬚眉及び兩髀を燎くも、亦顧みず。乃ち燕山府に拘す。
金人が問うて曰く、「民兵を集めて我を撃ち、我を賊と謂うは、何ぞや」と。邈曰く、「汝は盟に背き、至る所にて吾が金帛子女を掠む、何ぞ吾が言うところの敵を諱れんや」と。屈する能わず。久しくして、邈を以て滄州を知らしめんと欲す。邈は笑って答えず。且つこれを説いて曰く、「天下の強弱の勢いに安んぞ常ならん、ただ吾が中国適逢其の隙に逢うのみ。汝この時に二帝及び両河の地を帰せず、歳に重幣を取りて契丹の如くし、以て長利と為さんや、強き尚お恃むべきか」と。金人は其の言を諱い、邈に被髪左衽を命ず。邈憤り、詆毀甚だ力あり。金人は其の口を撾ち、猶お血を吮んで之に噀す。翼日、自ら髪を去って浮屠と為す。金人大いに怒り、遂に害に遇う。将に死せんとするや、顔色変ぜず、南に向かって再拝し、端坐して就戮す。燕人其が為に流涕す。高宗、昭化軍節度使を贈り、諡して「忠壮」と曰う。
劉翊
徐揆
陳遘
陳遘は、字は亨伯、其の先は江寧より永州に徙る。進士第に登る。莘県を知り、治め績有り。魏尹蔣之奇・馮京・許将交はりて之を薦む。雍丘県を知る。徽宗将に以て御史と為さんとす。而して父祐甫の憂いに遭う。喪を畢え、広西転運判官と為る。蔡京、蛮徭の地を啓き、平・従・允の三州を建つ。遘言う、「蛮人は幸いに安静なり、軽々しく擾して以て釁を兆すべからず」と。京之を悪み、他事を以て罷め帰らしむ。
旋ちに商州・興元府を知り、入りて駕部・金部員外郎と為る。張商英政を得て、用いて左司員外郎と為す。俄かに給事中に擢でらる。会に商英相を免ぜらる。蔡薿、封駁を摂り、力めて之を沮止す。遘懼れ、外を請う。直秘閣を以て河北転運使と為り、直龍図閣を加えられ、陝西に徙る。京師に召還さる。而して蔡京復た相と為る。再び河北に使し、淮南に徙る。帝将に発運使を易置せんとし、諸道の計臣に閥閲有る者を選ぶを命ず。執政、遘を以て言う。京曰く、「職卑しく用うべからず、願わくは更に選べ」と。帝曰く、「集英殿修撰を除きて往かしむべし」と。京乃ち敢えて言わず。遂に副使と為り、未だ幾ばくもあらずして、使に升る。朝廷方に綱餉を督む。運渠壅澀す。遘、呂城・陳公の両塘を決して渠に達せしむ。漕路甫く通ず。而して朱勔の花石綱、道を塞ぐ。官舟行くを得ず。遘其の人を捕繫し、而上章して自ら劾す。帝為に勔の人を黥し、遘を徽猷閣待制に進む。
龍図閣直学士を加えられ、七路を経制し、杭に治む。時に県官用度百出す。遘、公私の出納を度り、其の贏を量りて増すを創議し、号して「経制銭」と曰う。其の後、総制使翁彦国其の式に倣い、号して「総制銭」と曰う。是に於いて天下今日に至るまで「経総制銭」の名有り。自ら両人始む。
又た言う、「妖賊州県に陵暴し、唯だ官吏を捜求し、恣に殺戮を行い、往々にして支体を断截し、肺肝を探取り、或いは鼎油を以て熬し、或いは勁矢を以て射て、惨毒を極め、怨心を逞しゅうせず。蓋し貪汚利を嗜むの人、法に倚りて侵牟騒動し、芸極を知らず。積もりて不平の気有り、民心に結び、一旦勢いに乗じて此の如くなる、悲痛と為すべし。此の風除かずんば、必ず更に事を生ぜん。臣願わくは官吏の姦贓尚お旧習に仍る者を采摭し、按治して聞こえ、理に置くを重くするを乞う」と。之を許す。
又た学士に進み、凡そ施置する所、御筆を以て先ず下す。是に於いて越州の王仲薿を劾す。市民を糾し金茶器を造り、直を減じて軍糧券を買い、而して私銭を以て之を取る。仲薿坐して黜せらる。杭は巨寇の後を経て、河渠堙窒す。邦人は水潦を病と為す。前守数たび朝に請うも、皆労費を以て役を輟む。遘は冬月を以て真・揚・潤・楚の諸郡に檄し、凡そ閘を守る綱卒、悉く治所に集まる。先ず是に、閘を閉ずるに当たり、群卒食する所無く、率ね凍餓自ら聊かならず。命を聞き、相率いて呼舞して来る者二千人。其の力を用いて河を治め、両月ならずして畢る。杭人之に利す。
河北都轉運使に移り、延康殿學士に進み、中山・真定・河間府の知事を歴任した。欽宗が即位すると資政殿學士を加えられ、累官して光祿大夫に至った。再び真定の知事となり、また中山に移った。金人が再び到来し、劉遘は包囲を冒して城に入り、堅く守りを固めて防戦した。詔して康王に天下の大元帥を領させ、劉遘を兵馬元帥に任じた。半年包囲され、外に援軍はなかった。京都が陥落した後、両河の地を割いて和を請うた。劉遘の弟の光祿卿劉適が中山に至り、城壁の前に臨んで詔旨を伝えた。劉遘は遠くから彼に言った、「主辱しめば臣死す。我ら兄弟は平素より名義を以て自ら処してきた。どうして国家を売り渡して囚虜となろうか」。劉適は泣いて言った、「兄はただ力を尽くせ。弟のことを気にかけるな」。
劉遘は総管を呼んで城中の兵を全て徴発して賊を撃つよう命じたが、総管は辞退したので、遂に斬って衆に示した。また歩兵の将沙振を呼んで行かせようとした。沙振は平素より勇名があったが、これも固く辞退したので、劉遘は固く派遣を命じた。沙振は怒り且つ恐れ、密かに刃物を懐に隠して府に入った。劉遘の妾の定奴が彼の無断入室を責めたので、沙振は直ちに彼女を殺し、遂に堂で劉遘を害し、その子の劉錫及び僕妾十七人を殺した。長子の劉鉅は淮南で官にあったため免れた。沙振が出てくると、帳下の兵卒が騒ぎながら進み出て言った、「大敵が城に迫っているのに、汝どうして我が主君を殺すのか」。彼を捕らえて引き裂き、身首ともに残らなかった。城中に主となる者がいなくなったので、門を開いて降伏した。金人が入城してその屍を見て言った、「南朝の忠臣なり」。棺に収めて鉄柱寺に葬った。建炎初年、特進を追贈された。
劉遘は性質孝友にして、人となり寛厚なる長者であった。部刺史を二十年間務め、毎回郡邑に出張する際は必ず香を焚いて天に祈り、貪濁の吏に逢わざらんことを願った。嘗て王安中・呂頤浩・張愨・謝克家・何鑄を推薦し、後に皆公輔(三公・宰相)に至ったので、世間は人を知る者と認めた。
劉適は開封少尹・衛尉少卿から光祿卿に至った。この戦役で、金人は彼を捕らえて北へ連行した。後十年、雲中で死んだ。
趙不試
趙令峸
趙令峸は燕懿王の玄孫で、安定郡王趙令衿の兄である。初名は令裨といった。建炎初年、鄂州通判に至り、兵を率いて武昌を守備した。賊の閻瑾が黄州を侵犯し、掠奪して去った。趙令峸は江を渡ってこれを慰撫し、黄州の人々はようやく安堵した。李綱が上に言上し、直龍図閣・黄州知事に抜擢され、今の名を賜った。詔を奉じて城を修築し、凡そ六月で完了した。賊の張遇が城下を通り過ぎ、趙令峸を招いた。抗し難いと判断し、城を出てこれに会った。張遇は酒を飲ませた。趙令峸は一気に飲み干して言った、「固より此れを飲めば必ず死すと知る。願わくは軍民を殺すことなかれ」。張遇は驚いて言った、「先ず此れを以て公を試みたのみ」。更に毒酒を取って地に注ぐと、地が裂けて音がしたので、軍を率いて去った。間もなく、丁進・李成の兵が相次いで到来したが、皆撃退した。叛将の孔彦舟がまた兵を率いて城を包囲したが、民兵を率いて堅く守り、凡そ六日で解かれた。
唐重
先だって、朝廷は拓土を功とし、辺境の将帥は賞を求めて争って利を興し、凡そ蜀東西・夔峡路及び荊湖・広南においては、皆近辺の蕃夷を誘い、耕作に適さぬ土地を献上させ、これを納土と称し、これに因って州県を設置したので、至る所騒然となった。唐重はその利害を宰相に上申し、これによって推薦され、召されて応対した。吏部員外郎・左司郎官・起居舎人に遷った。
金人が京師に入ると、唐重は言った、「辺境を開拓した禍は童貫に起こり、故に金人は童貫を禍首とす。若し童貫の首を斬り、人を遣わして金に伝送すれば、尚お兵を緩めることができよう」。或る者は遠く避難することを献策した。唐重は衛士の言葉を聞き、朝廷に告げたので、始めて守城の計が定まった。右諫議大夫に抜擢された。時に宰執は各々和戦の二議を主張し、唐重は上疏して廷上でその得失を弁ぜしめるよう乞うた。金人が金帛を要求し、中書侍郎の王孝迪が命令を下し、金銀を匿む者は死罪とし、人の告発を許した。唐重は言った、「此くの如くすれば、子は父を告げ、弟は兄を告げ、奴婢は主を告ぐることを得ん。豈に初政の宜しくすべき所ならんや」。即ち御史と共に抗論し、遂に止んだ。また累次上疏して蔡京父子を斬って天下に謝罪するよう乞うた。間もなく中書舎人に遷り、詞命(詔勅の草案)を多く差し戻して奏上した。また言った、「近世は順序を飛び越えて人を用い、その中で宰輔の身となる者に、未だ一日も国門を出でざる者有り。先ず外補を乞い、以てその先駆けと為さん」。上は聞き入れたが、宰相が執奏して不可とした。翌日、台諫は皆罪を得、唐重は落職して同州知事となった。
金人は既に晉・絳を陥とし、将に同州に及ぼうとした。唐重は守り切れぬと判断し、門を開いて州民を出させることを許し、自らは残兵数百を率いて城を守り、必死の覚悟を示した。金人は備え有りと疑い、再び河を渡らずに引き返した。詔を降して賞賛し、天章閣待制に抜擢した。先だって、陝西宣撫使の范致虚が五路の兵を提げて勤王し、陝州に至った。唐重は范致虚に書を送り、言った、「中都(開封)は秦兵を爪牙と頼み、諸夏は京師を根本と恃む。今京城は長く囲まれ、人に闘志無し。若し五路の師が逡巡して進まずんば、則ち爪牙と為す所以の者は恃むに足らず、而して根本動く。然れども潰卒が梗み、関中の公私の蓄積は既に尽き、又聞く西夏が鄜延を侵掠し、腹背の患いと為すと。今は蜀帥及び川峡四路に檄を移し、共に関中の守禦の備えを資し、秦・蜀を合わせて王室を衛らしむるに若かず」。范致虚は出師に鋭く、澠池より千秋鎮に屯したが、金将に敗れ、軍は皆潰え、潼関を退保したので、五路の力は益々消耗した。唐重は人を募って間道より京城に走らせ帰報させた。二帝が既に北行されると、唐重は即ち檄を移して川・秦十路の帥臣に、各々礼物を備えて軍前に赴き迎え奉るよう命じた。
間もなく、高宗が即位すると、唐重は上疏して、今の急務は四つあり、大患は五つあると論じた。いわゆる急務とは、まず車駕を西幸させること、次に藩鎮を建て、宗子を封じ、夏国との友好を通じ、青唐の後を継がせ、互いに犄角の勢いをなして敵の勢いを緩めることである。いわゆる大患とは、法令がますます煩雑になり、朝綱が委靡し、軍政が敗壞し、国用が竭き、民心が離れることである。これを救おうとするならば、祖宗の成憲を守り、忠直を登用し、賞罰を大いに正すべきであり、誠に今日の急務である。
唐重は以前、同州にいた時、大元帥府に三度上疏し、早く関中に臨幸して衆望に副うよう請うた。また三つの策を画策した。一つは、関中を鎮撫して根本を固め、その後漢中に営屯し、西蜀に国を開くことであり、これが上策である。もし南陽に駐節し、楚・呉・越・齊・趙・魏の師を制御して、秦・晉の故地に臨み、敵の強弱を見て進退し、宗親の賢明なる者を選んで関中に開府させるならば、これが中策である。もし都城に拠り、汴・洛の境で再び城池を治め、成皐・崤函の険要を占め、悉く厳しく防守するならば、これが下策である。もし兵を率いて南渡すれば、国勢は微弱となり、人心は離散し、これは最も策のないものである。永興に至ってからも、さらに六度上疏し、いずれも車駕の関中幸行を請うた。併せて関中の防河に関する事柄を条奏し、大意は次のようであった。「虢州・陝州は残破し、解州・河中は既に陥落し、同州・華州の沿河は金人と対峙し、辺境の防衛線は六百余里に亘る。本路には戦える兵がなく、五路の兵馬十万以上を増派し、漕臣に委ねて蓄えを備えさせ、関中を守らせたい。」
上疏は凡そ七八度に及び、朝廷は未だ処置を定めなかった。唐重は再び上疏して言った。「関中は百二の地勢をもち、陝西六路を制御し、川峡四路を遮蔽する。今、蒲州・解州が失守し、敵と隣り合っている。関中が堅固であれば、秦・蜀十路の安泰を保つことができる。しかし各路の帥守・監司はそれぞれに擁護しあい、互いに融通しない。先般、范致虚が勤王の師を会合させたが、力を尽くさなかったわけではなく、将帥が各自謀を為し、節制に従わなかった。宗親の賢明なる者を選んで京兆牧とし、あるいは元帥府を置き、秦・蜀十道の兵馬を総管させ、便宜を以て事に当たらせ、応じて帥守・監司をして皆その節制を聴かしめるべきである。危急の際には諸道の兵を合わせて社稷を衛り、敵を防ぐことができるのみならず、郡県瓦解の失をも救うことができる。」また五路の兵を節制するよう請うたが、いずれも返答がなかった。
金の将軍婁宿が黄河を渡り韓城県を陥落させた。時、京兆の余兵は皆、経制使錢蓋によって行在に赴くよう調発されていた。唐重は情勢が支えきれないと判断し、父の克臣に別れの手紙を書いて言った。「忠孝は両立せず、義のために苟くも生きて父を辱しめることはできない。」克臣はこれに答えて言った。「汝が身を以て国に殉ずることができれば、吾は笑みを浮かべて地に入るであろう。」金人が国境に入ると、唐重は転運使李唐孺に手紙を遺して言った。「重は平生忠義を重んじ、難を避けることを敢えてしない。初めは車駕を迎えて関中に入れ、建瓴の勢いに居り、以て東方に臨むことができるようにと願った。今、車駕は南幸された。関陝にはまた重兵がなく、智力を尽くしても何を施すことができようか。一死をもって上に報いるのは惜しむに足らない。」
金兵が城を囲むと、城中の兵は千に満たず、固守すること十日余り、外援は至らなかった。経制副使傅亮が精鋭数百を率いて城門を奪って出降し、城は陥落した。唐重は親兵百人を率いて血戦した。諸将が唐重を連れ去ろうとしたが、唐重は言った。「死ぬことは、吾が職分である。」戦いを止めず、衆は潰走し、唐重は流れ矢に当たって死んだ。初め、唐孺がその手紙を上聞し、やがて死節の報が届いた。上はこれを哀悼し、資政殿学士を追贈し、後に諡して「恭愍」とした。
郭忠孝
郭忠孝、字は立之、河南の人、簽書樞密院事郭逵の子である。程頤に『易経』と『中庸』を学んだ。若くして父の任により右班殿直に補され、右侍禁に遷った。進士に及第し、文資に換えられ、将作監主簿を授かった。三十歳を過ぎても親の側を離れるに忍びず、多く河南の筦庫の間で仕えた。宣和年間、河東路提挙となった。解梁・猗氏は河東と接壤し、塩を密売する盗賊が数百の群れをなし、毎年大獄が起こり、互いに告発し合い、罪に当たる者が多かった。忠孝はその首謀者のみを処罰し、残りは悉く寛大に赦した。宰相王黼はこれを怒り、塩法を廃格した罪に坐して免官された。
靖康初年、召されて軍器少監となった。入対し、和議は誤りであるとし、追撃の策を力説し、言った。「兵家は深入を忌む。金人は燕薊より兵を興し、河朔を越え、都城を犯した。その鋒は当たるべからざるものであったが、今は鋭気もまた衰え、さらに子女玉帛の獲物を顧みているため、和議を以て我が師を緩ませようとしている。今、諸道の師は集結した。その惰に乗じて撃つべきである。もしその帰路を撃つことができなければ、他日どうしてその来襲を防ぐことができようか。」上は命じて宰相呉敏・樞密李綱と議させ、忠孝はさらに戦守の利害、士馬の分合に関する策十余事を条上した。主和派が多く、ついにその策は用いられなかった。永興軍路提点刑獄に改められ、保甲の措置を担当した。初め、議者が保甲十万を選んで義勇とし、河朔の諸郡に分属させるよう請うた。忠孝は言った。「保甲は年久しく、死亡する者も多い。三万を選んで都城を守らせるのはよいが、河朔は騎兵の地であり、保甲の適する所ではない。」上はこれに従った。忠孝は急ぎ関陝に赴き、勝兵三万を得て、十将に分属させ、一将を選んでこれを統率させた。続いて兵を沢州・潞州に向かわせ、宣撫司の節制に聴かせた。
金人が再び京師を犯すと、永興の帥范致虚が諸軍を率いて淆・澠より入援した。忠孝は言った。「金人は深入しているが、河東には守備がない。願わくば兵を分けて太行を走らせ、その帰路を扼せば、彼は必ず来戦し、城下の包囲は緩むであろう。」致虚はこれを然りとした。檄を飛ばして河中守席益・馮翊守唐重と忠孝に河東より出撃させ、牽制の挙に出させ、大軍は悉く函谷を出た。忠孝は独り蒲・解の軍三千を率いて猗氏に至り、金人に遭遇してこれを破った。絳州を越え、太平砦を破り、数百級を斬首した。平陽を攻め、その外城に入った。時に大軍が淆・澠の間で失利したため、引き返した。
金人が永興を犯すと、兵は寡なく、ある者は忠孝に監司として出巡すれば禍を避けられると勧めた。忠孝は答えず、経略唐重と城を分けて守った。忠孝は西壁を主とし、唐重は東壁を主とした。金人が城下に陣を布くと、忠孝は人を募って神臂弓でこれを射させ、敵は前に進めなかった。やがて城の東南隅が攻め落とされ、忠孝は唐重及び副総管楊宗閔・転運副使桑景詢・判官曾謂・経略主管機宜文字王尚・提挙軍馬武功大夫程迪と共に死んだ。朝廷は忠孝に大中大夫を追贈した。子の雍は別に伝がある。
程迪
程迪、字は惠老、開封の人。父の博古は鄜延の兵を部して永楽で戦死した。迪は門蔭により官を得た。宣和年間、楊惟中に従って方臘を征討し功績があり、武功大夫・榮州團練使・瀘南潼川府路走馬承受公事を加えられた。
諸使が共に迪の忠義謀略を推薦し、将帥の任に堪えるとし、行在に召し出された。経略制置使唐重は敵が迫っていることを理由に、迪を留めて軍馬を提挙させ、民兵を措置して備えとさせた。金人は既に同州から黄河を渡り、或る者は迪に蜀に戻るよう勧めたが、迪は国に報いる道を考え、従わなかった。そこで种氏の諸豪族のもとを訪れ、衆を率いて険要の地を守り、その勢いがやや衰えるのを待ち、奇計をもってこれを撃つことを謀った。転運使桑景詢がその謀を知り、唐重に告げ、民に険要の地を選んで自ら固めることを許す榜文を掲げた。ちょうど前河東経制使傅亮が守るべきで避けるべきではないと建議し、重はこれに従い、亮を制置副使とし、去った者を悉く帰還させた。
やがて金兵がますます迫り、重は迪に永興路軍馬を提挙させ、民兵を措置し、迪に南山の諸谷を巡視させ、金帛を運んでその中に治所を移そうとした。そこで土豪を召集し、民兵を集めて軍籍を補わせた。応募する者が多かったので、亮は重に言った。「人心がこのようである。十日ほどの猶予を与えれば、守備の具も整うであろう。どうして風を見て棄て去ろうとするのか。」重は大いにこれを然りとし、直ちに諸司に檄を飛ばして亮の節制に従わせた。金人が城に近づくと、迪はまた兵を選んで迎え撃ち、老幼をして険要の地に急がせれば、なお十万人を生かすことができると考えた。亮は城を守ることを主張し、金人が四方から急攻し、外に援兵もなく、迪は諸司及び統制・偏裨以下の者を率いて東に向かい会盟した。「危急の際には必ず死をもって相応じ、誓って敵と共に生きることはない。」慷慨して嗚咽し、同盟した者皆感泣した。城が破れたのは、亮の分担した地域から始まった。亮は先に出て降伏し、衆は潰走した。迪はその徒を率いて衆の中を巡行し言った。「敵は我らを仇としている。降伏しても死、戦っても死だ!」努めて戦い、憤怒して大呼し、口から血を流し、兵士は皆感奮し、多くを斬殺した。迪は飛び交う矢を冒し、短兵を持って数十合にわたり接戦し、身には傷がほぼ遍く及び、気絶してまた蘇り、なおも声を厲して戦いを叱咤して止まず、遂に戦死した。麾下の兵士が空き室に運び置くと、隣の家屋は皆焼け尽きたが、その室だけは火がつかず、収斂する時、容色は生きているようであった。詔して明州観察使を追贈し、諡して「恭愍」とした。子は昌諤。
徐徽言
保徳軍監押を歴任し、辺功により閤門祗候・平陽府軍馬鈐轄に加えられ、権知保徳軍となった。総領河西軍馬に改め、西夏討伐の功により、累遷して秉義郎となった。宣和四年、燕を伐たんとし、太原帥張孝純に命じて河西の帳族を招かせ、徽言をその地に遣わした。帳族は拒んで矢を射かけたが、徽言は迎え撃ってこれを破り、遂に天徳・雲内の両城を平定した。宣撫使童貫はその功を嫉み、太原に檄を飛ばして節度に違わぬよう命じた。再び棄て去った。孝純は先に朔・武の二州を平定したが、これも守ることができなかった。知火山軍兼統制河西軍馬に改め、石州に転赴した。
靖康初年、武翼郎・閤門宣賛舎人に遷った。金人が太原を包囲し、兵を分けて糧道を絶ち、隰州・石州以北は、命令が通じないことが数ヶ月続いた。徽言は三十人で黄河を渡り、一戦してこれを破った。武経郎・知晋寧軍兼嵐石路沿辺安撫使に遷った。
金人が再び京師を犯すと、陝西制置使范致虚が五路の兵を糾合して難に赴き、徽言に檄を飛ばして河西を守らせた。欽宗が両河を割いて禍を和らげようとし、同知枢密院事聶昌が河東に出向いたが、金人に劫われ、便宜的に河西の三州を西夏に割き隷属させた。晋寧の軍民は大いに恐れ、言った。「麟・府・豊を棄てるならば、晋寧はどうして独り存続できようか!」徽言は言った。「これは使者が詔を偽ったのだ。三郡は河西にある。仮に詔があったとしても、なお執奏すべきである。ましてや無いのにどうして従えようか!」遂に兵を率いて三州を再び取り戻し、夏人が置いた守長は皆出て降伏したので、徽言は慰めて遣わした。さらに嵐州・石州などを併せ取り、戈船の卒に羊皮の渾脱に乗って流れを乱して渡り敵を掩うことを教えた。金人はますます克胡砦・呉堡津に備えを固め、守領を遣わして九州都統とし、晋寧と対峙させた。徽言は奇兵を出してこれを襲い逐った。当時、河東の郡県は陥没し、遺民は日に日に王師の到來を待ち望んでいた。徽言は密かに汾・晋の土豪数十万を結び、約束して故地を回復したならば奏上して守長とし、世襲を聴すとした。その事を条陳して上聞し、報可を待ち、即ち自ら精鋭を率いて太原を搗き、まっすぐに雁門を取り、兵を留めて戍守させようとした。かつ言った。「全晋を定めれば形勝は我が有するところとなり、中原は期を指して克復されるべきである。一時の投機、会は失うべからず。」奏上すると、詔して徽言に王庶の節制を聴かせ、議は遂に止んだ。
金人の進攻は数度敗れ、目的を果たせず、包囲をますます急にした。晋寧の風習は井戸を飲まず、河に水汲みを頼っていた。金人は茭や石を積んで支流を埋め塞ぎ、城中の水は乏しくなり絶え、蓄えられた物資は次第に尽き、鎧や兵器は空しく破れ、人々は慄き憂え、滅亡の日遠からずと知った。徽言は衆心を得ることができ、空腹で傷ついた残りの者を奮い立たせ、折れた槊や断れた刃を集め、死をもって固く守った。既に自ら支えられぬと覚悟し、砲機・篦格など、凡そ守備の具は悉く火を放ち、言った。「敵に遺すな。」使いを間道から馳せさせてその兄昌言に書を送り言った。「徽言は国の恩に孤負して死ぬ。兄はどうか君に事えることを勉めよ。」ある夜、裨校の李位・石贇が帛書を矢の上に結び、密かに婁宿と約束して外郭を開き金兵を入れようとした。徽言は太原路兵馬都監孫昂と門の中で決戦し、格殺した者は甚だ多く、退いて牙城に拠って守った。金人が攻撃を止めないので、徽言は妻子を室の中に置き、薪を積んで自ら焼こうとした。剣を杖にして堂上に坐り、慷慨として将士に語った。「私は天子の守土の臣である。義によって敵の手に辱められてはならない。」そこで佩刀を抜いて自らを刺そうとした。左右の者が号泣して救い急いで押さえたが、金兵が猥りに至り、徽言を挟んで連れ去った。しかしなおその威名を畏れた。
婁宿は徽言の親しい者を得て徽言を説かせた、「何ぞ冠韍を具えて金の帥に見えざる。」徽言はこれを斥けて曰く、「朝章は、君父を覲るの礼なり、以て穹廬に入るべけんや。汝は偽官に汚れ、即ち愧死せず、顧みて以て栄と為し、且つ敵人のために吻を搖がして説客と作さんとするか。急ぎ去らざれば、吾が力は猶お汝を搏ち殺す能はん。」婁宿は自ら徽言を見て、語りて曰く、「二帝北に去りぬ、爾は其れ誰がために此れを守るか。」徽言曰く、「吾は建炎天子のために守る。」婁宿曰く、「我が兵は既に南せり、中原の事未だ知るべからず、何ぞ自ら苦しむこと為さん。」徽言怒りて曰く、「吾は汝が輩を屍して天子に見え帰らざるを恨む、将に死を以て太祖・太宗の地下に報ぜんとす、他を知るを庸えんや。」婁宿また金の制を出だして曰く、「能く小屈せば、当に汝をして世々延安を帥せしめ、陝の地を挙げて併せて之を有たしめん。」徽言ますます怒り、罵りて曰く、「吾は国の厚恩を荷い、死すること正に吾が所なり、此の膝詎で汝が輩の為に屈せんや。汝は当に自ら刃を加うべし、余人をして加えしむべからず。」婁宿は戟を挙げて之に向かい、其の懼るる状を覬う。徽言は衽を披いて刃を迎え、意象自若たり。酒を以て飲ませしむると、杯を把りて婁宿に擲ちて曰く、「我尚お汝が酒を飲まんや。」慢罵して已まず。金人は屈すべからざるを知り、遂に之を射殺せり。粘罕其の死を聞き、婁宿を怒りて曰く、「爾は粗狠なり、何ぞ専ら義人を殺して以て爾が私を逞うするや。」其の罪を治むること甚だ惨し。
初め、徽言は劉光世と束髮の雅故たり。光世は命を被りて太原を援けんとし、吳堡津に次ぎ、輒ち頓して進まず。徽言は書を移して行を促せども、聴かず。また諭して太原の危うく守れざるを以てし、旦暮に救を望む、総管は詔を承けて急に赴く、宜しく稽固して方命の罪を取るべからずとせしも、光世は猶お前卻す。徽言は即ち章を露わして其の逗撓を劾し、副を封じて之に与う。光世惶遽して道を引きて行けり。
宣撫使張浚と諸の使者相継ぎて死節の事を以て聞こゆ。高宗は几を撫でて震悼し、顧みて宰相に謂ひて曰く、「徐徽言は国に報じて封疆に死し、難に臨んで屈せず、忠日月に貫く、顔真卿・段秀実を過ぐること遠し。寵する有らざれば、何を以て忠を勧め、来世に昭示せん。」乃ち晉州觀察使を贈り、諡して「忠壮」とす。再び彰化軍節度を贈る。
孫昂も亦た刀を引きて自ら刺さんと欲す。金人擁して軍前に至らしむ。屈せずして死す。是に至りて成忠郎・圍練使を贈る。徽言の子岡は既に同じく死事に同じ、而して從孫適も亦た安豊を守りて死す。昂の父翊は、宣和の末に朔寧府を知り、太原を救ひて陣に死す。各々世に忠義を著すと云ふ。
向子韶
楊邦乂
楊邦乂、字は晞稷、吉州吉水の人なり。古今に博通し、舍選を以て進士第に登る。時に多艱に遭ひ、毎に節義を以て自ら許す。婺源尉・蘄廬建康三郡教授を歴へ、改秩して溧陽県を知る。会に叛卒周德府城を據り、官吏を殺す。邦乂は県獄の囚趙明を庭に立て、之を誅せんと欲し、因りて之に諭して曰く、「爾は里中の豪傑に悉くし、誠に能く爾が徒を集めて邑人のために賊を誅せば、惟だ爾が罪を宥ふのみならず、当に功を上ぐれば爵を畀へん。」明即ち行かんことを請ふ。邦乂之に卮酒を飲ませ、自ら去らしむ。翼日を越えて、之を討平す。
邦乂少くして郡学に処る。目は礼に非ざるを視ず。同舍其の守を隳さんと欲し、之を拉ぎ出だし、故旧の家に託言す。実は娼館なり。邦乂初め疑はず。酒数行し、娼女出づ。邦乂愕然として、疾く趨りて還り舍し、其の衣冠を解きて之を焚き、涕を流して自ら責む。紹興七年、樞密院言ふ、邦乂の忠節顕著なりと。上曰く、「顏真卿は異代の忠臣、朕昨已に其の子孫を官せり。邦乂は朕のために死節す。厚く褒録せざるべからず。以て忠義の勧めと為すべし。」加えて徽猷閣待制を贈り、田三頃を増賜す。