陳與義
七年正月、参知政事となる。ただ道徳を師とし用いて朝廷を輔け、主威を尊び綱紀を振うるを務む。時に丞相趙鼎言う、「人多く中原に図るべきの勢有りと謂い、宜しく便ち進兵すべし、他時に今日の失機を咎めんことを恐る」と。上曰く、「今梓宮と太后・淵聖皆未だ還らず、若し金と議和せずんば、則ち還るの理無からん」と。與義曰く、「若し和議成れば、豈に兵を用うるに賢らざらんや、万一成らずんば、則ち兵を用うること必ず免れざらん」と。上曰く、「然り」と。三月、帝に従い建康に幸す。明年、扈蹕して臨安に還る。疾を以て請い、再び資政殿学士として湖州を知る。陛辞に際し、帝労問甚だ渥く、遂に閑を請い、臨安洞霄宮を提挙す。十一月、卒す。年四十九。
與義は容状儼恪にして、妄りに言笑せず、平居謙虚に物に接するも、然れども内に剛直にして犯すべからず。其の士を朝に薦むるや、退いて未だ嘗て人に語らず、士は是を以て多く之を称す。特に詩に長じ、物を体し興を寓し、清邃紆餘、高挙横厲、陶・謝・韋・柳の間に上下す。嘗て墨梅を賦す。徽宗之を嘉賞し、是を以て上に知られるという。
汪藻
汪藻、字は彦章、饒州徳興の人。幼より穎異にして、太学に入り、進士第に中る。婺州観察推官に調じ、宣州教授に改め、稍く遷って江西提挙学事司幹当公事となる。
徽宗親しく『君臣慶会閣詩』を製す。群臣皆賡進すれども、藻の和篇のみ、衆及ぶこと能わず。時に胡伸も亦文を以て名有り、人の之が為に語るに曰く、「江左の二宝、胡伸・汪藻」と。間もなく『九域図志』所編修官を除し、再び著作佐郎に遷る。時に王黼藻と同舎たり、素より合わず、宣州通判に出で、江州太平観を提点し、投閑凡そ八年、黼の世終わるまで用いられず。
欽宗即位し、屯田員外郎に召され、再び太常少卿・起居舎人に遷る。高宗践祚し、中書舎人に召し試みらる。時に揚州に次ぐ。藻多く論奏す。宰相黄潜善之を悪み、遂に他事を仮り、集英殿修撰・太平観提挙に免ず。明年、再び中書舎人兼直学士院に召され、給事中に抜擢され、兵部侍郎兼侍講に遷り、翰林学士に拝す。帝御する所の白団扇に、親しく「紫誥仍兼綰、黄麻似『六経』」の十字を書して賜う。縉紳之を艶む。
時に多事に属し、詔令多く其の手に出づ。嘗て諸大将の重兵を擁し、漸く外重の勢を成すを論じ、且つ将帥を待つ所以の者三事を陳ぶ。後十年、卒に其の策の如し。又言う、「崇寧・大観以来、財を以て権幸に結び、閹宦に奴事し、辺を開き国を誤り、職名を観文殿大学士より下直秘閣に至り、官銀青光禄大夫に至る者、近頃稍く鐫褫すれども、建炎の恩宥に当たり、又甄復すべし。盍ぞ国初の法に依り、中大夫に止むべからんや」と。
秦檜死し、職を復し、其の二子に官す。二十八年、『徽宗実録』成書す。右僕射湯思退藻嘗て詔旨を纂集し、実録を修するに比し、取る所十に七、八を蓋う、深く斯の文に力有りと言う。詔して端明殿学士を贈る。
藻三十年を通顕すれども、屋廬無くして居る。群書に博く極め、老いても巻を釈かず、特に『春秋左氏伝』及び『西漢書』を読むを喜ぶ。儷語に工にして著述多く、為す所の制詞、人多く伝誦す。子六人:恬、恪、憺、怲、懍、憘。
葉夢得
葉夢得、字は少蘊、蘇州呉県の人。学問を好み早くから成し遂げ、古の言行を多く識り、談論は尽きることがなかった。紹聖四年に進士に及第し、丹徒尉に任じられた。徽宗朝、婺州教授から召されて議礼武選編修官となった。蔡京の推薦により召し出されて対し、言うには、「古来帝王が治を行うには、広狭大小、規模それぞれ異なるが、必ず先ずその心を治めることから始まる。今、国勢には安危があり、法度には利害があり、人材には邪正があり、民情には休戚がある。この四つは、治の大なるものである。もし先ず心を治めず、あるいは貨利で誘い、あるいは声色で陥れるならば、いわゆる安危・利害・邪正・休戚は、転倒し易位しないことはなく、ましてその功を求めることができようか」と。上はその言を異とし、特に祠部郎官に遷した。
大観初年、蔡京が再び宰相となり、以前に立てた法度で既に廃止されたものが復活した。夢得は言う、「『周官』に太宰は八柄をもって王に詔して群臣を馭すとある。いわゆる廃置賞罰は、王の事であり、太宰は王に詔することはできても自ら専断することはできない。事は可か不可かの二つに過ぎない。可と認めて陛下より出たならば、前日廃すべきではなかった。不可と認めて陛下より出ないならば、今復すべきではない。今ただ大臣の進退を以て可否としているのは、陛下に未だ了然とされていないことがあるのではなかろうか」と。上は喜んで言う、「近頃士人は多く朋比して媒進するが、卿の言には独り観望がない」と。そこで起居郎に任じた。時に権力を握る者は小才を喜んだ。夢得は言う、「古来用人は必ず先ず賢能を弁ずる。賢とは徳ある者の称であり、能とは才ある者の称である。故に先王は常に徳を才に勝たせ、才を徳に勝たせない。崇寧以来、内ではただ議論が朝廷と同じものを純正とし、外ではただ法令を速やかに成すものを幹敏とし、器量業績が重任に堪え、識見度量が軽遠なる者が特に表異されるとは聞かない。才を用いることが勝ち過ぎることを恐れ、今後は人を用いるに徳ある者を先とすることを願う」と。
高宗が揚州に駐蹕すると、翰林学士兼侍読に遷り、戸部尚書に任じられた。敵に対する計略は三つあると言い、形・勢・気であると述べた。「形は地理山川を本とし、勢は城池・芻粟・器械を重んじ、気は将帥士卒を急とする。形が固ければ守るに恃むべく、勢が強ければ立つに資すべく、気が振るえば用いるに作すべく、かくの如くすれば敵は皆我が度内にある」と。そこで上に南巡を請い、江を阻んで険とし、不虞に備えることを求めた。また重臣を宣総使に命じ、一人は泗上に居て両淮及び東方の師を総べ敵を待ち、一人は金陵に居て江・浙の路を総べ退保に備えることを請うた。疏が入ったが、返答がなかった。
やがて帝が杭州に駐蹕すると、尚書左丞に遷り、監司・州県が擅かに軍期司を立てて民財を掊斂する者は、罷めるべきであると奏上した。上は兵・食の二事が最大であると諭し、大臣を選んで分掌させるべきであるとした。門下侍郎顔岐・杭州知州康允之は皆夢得を嫉み、また宰相朱勝非と議論が合わず、時に州民に上書して夢得の過失を訟う者があり、上は夢得が深く財賦に通曉しているとして、資政殿学士・提挙中太一宮に任じ、専ら戸部財用を提領し、車駕巡幸頓遞使を充てたが、辞して拝せず、湖州に帰った。
紹興初年、起用されて江東安撫大使兼建康府知府となり、兼寿春等六州宣撫使を兼ねた。時に建康は荒廃し、兵は三千に満たなかった。夢得は統制官韓世清の軍を移して建康に屯させ、崔増を采石に屯させ、閻皐に要害を分守させることを奏上した。時に王才が劉豫に降り、兵を率いて侵入したが、夢得は使臣張偉を遣わして王才を諭し降伏させ、その衆を諸軍に分属させた。濠・寿の叛将寇宏・陳卞は表面上朝命を受けながら、密かに劉豫と通じていたが、夢得が禍福を諭すと、皆聴命した。劉豫が侵入すると、陳卞がこれを撃破し、斉兵は夜遁した。
八年、江東安撫制置大使兼建康府知府・行宮留守に任じられた。また江防の措置八事を奏上した。一、辺備を申し飭す、二、地分を分布す、三、要害を把截す、四、舟船を約束す、五、郷社を団結す、六、斥候を明審す、七、積聚を措置す、八、官吏に死守を責む。また建康・太平・池州の緊要な隘口、江北で渡河できる場所合わせて十九箇所あり、民兵を聚集し要害を把截し、諸将に敵の形勢を審度させ、力を合わせて進討することを願った。
金の都元帥宗弼が含山県を犯し、歴陽に進逼した。張俊の諸軍は遷延して発さなかったが、夢得は張俊に会い、速やかに軍を出すことを請い、言うには「敵は既に含山県を過ぎた。万一金人が和州を得れば、長江は保てない」と。張俊は諸軍を促して進発させ、声勢は大いに振るい、金兵は退いて昭関に屯した。翌年、金が再び侵入し、遂に柘皐に至った。夢得は沿江の民兵数万を団結させ、江津に分拠し、子の模に千人を将いて馬家渡を守らせたので、金兵は渡ることができず去った。
初め、建康の屯兵は歳費銭八百万緡、米八十万斛を費やし、榷貨務の収入では支えきれなかった。この時、禁旅と諸道の兵が皆集まり、夢得は四路の漕計を兼ね総べて饋餉を給したので、軍用に乏しくなかった。故に諸将は力を尽くして戦うことができた。詔して観文殿学士を加えられ、福州知州に移り、福建安撫使を兼ねた。
海寇朱明が猖獗した。詔して夢得に御前将士を挟み便道より鎮に赴かせ、或いは招き或いは捕え、或いは誘い相い戕からしめ、遂に寇五十余群を平定した。しかし監司と頗る異議があり、上章して老いを請うた。特旨により一官を遷し、臨安府洞霄宮提挙となった。まもなく崇信軍節度使を拝して致仕した。十八年、湖州で卒した。検校少保を贈られた。
程俱
建炎年間、太常少卿・秀州知州となった。時に車駕が臨幸し、対面を賜った。程俱は言上した。「陛下の徳は日々新たに、政は日々挙がり、賞罰の施置が、上は天意に当たり、下は人心に合うならば、趙氏は安泰で社稷は堅固である。そうでなければ、宗社は危うく天下は乱れ、その間には髪の毛一本も容れられない。」高宗はこれを嘉して受け入れた。金兵が南渡して臨安を占拠し、兵を遣わして崇徳・海塩を破り、檄を馳せて降伏を諭した。程俱は官属を率いて城を棄て華亭に保ち、兵馬都監を留めて城を守らせた。朝廷が程俱に金帛を部送して行在に赴かせたが、到着後、病を理由に帰郷を乞うた。
紹興初年、初めて秘書省を設置し、程俱を召して少監とした。日暦の修撰を奏上し、秘書長官・次官が修纂に参与するのは、程俱から始まった。当時は諸事草創で、百官の文書は慣例に従って省記されていたが、程俱は三館の旧聞を拾い集め、順序立てて書とし、『麟臺故事』と名付けて上進した。中書舎人兼侍講に抜擢された。程俱は論じた。「国家の患いは、事を論ずる者が敢えて真情を尽くさず、事に当たる者が敢えて責任を任じないことにある。言に用いられるか否か、事に成るか敗れるか、道理は本来一様ではない。今、言が合わなければ当時に排斥され、事が調わなければ最初の議論に咎を追及される。故に智は陳平の如き者も、敢えて金を請うて間を行わず、勇は相如の如き者も、敢えて璧を全うして秦に抗せず、財に通じるは劉晏の如き者も、敢えて理財を言って軍食を賄わない。人々をして敢えて事に当たらせず、敢えて謀を尽くさせなければ、艱難危険の時に、誰と共に図り回らせて恢復を為さんか。」
武功大夫の蘇易が横行に転じたことについて、程俱は論じた。「祖宗の法では、文臣は将作監主簿から尚書左僕射まで、武臣は三班奉職から節度使まで、これが順次遷転する官である。武臣は閤門副使から内客省使までを横行とし、磨勘遷転の序列に属さず、その除授は全て特旨を頒つ。故に元豊の制では、承務郎から特進までを寄禄官とし、監主簿から僕射までの名を改めた。武臣だけが寄禄官をもって改めなかったのは、深い意味があったのである。政和年間、武臣の官称を郎・大夫に改め、遂に横行をも併せて転官の等級に改易した。これは当時の有司が典故に習熟せず、僥倖の門を開いたものである。使を大夫に改めて以来、常調の官が、下は皂隸に至るまで、横行に転ずる者が数え切れない。かつ文臣の所謂庶官は、転じて中大夫を過ぎることはできないのに、武臣は却って皇城使を過ぎることができる。これはどういう道理か。官職の軽重は朝廷にあり、朝廷が官職を愛重し、妄りに人に与えなければ、官職は重い。これに反すれば軽く、軽ければ得た者は恩とせず、未だ得ざる者は常に不足を懐く。これは安危治乱に関わる所である。」
徐俯が諫議大夫に任ぜられた時、程俱はこれを返上して論じた。「徐俯は才俊気豪ではあるが、経歴はまだ浅く、前任の省郎から、急に諫議に除せられるのは、元豊に制を改めて以来、未だかつてないことである。昔、唐の元稹が荊南の判司であった時、忽ち命が中から出て、省郎に召され、知制誥を為させたが、遂に朝聴を喧しくし、当時は監軍の崔潭峻が引き立てたものと言われた。近頃外聞に伝わる所では、徐俯が中官と唱和し、『魚須』の句があり、警策と号されている。臣は恐らくは外人がこれを疑い、聖徳を仰ぎ累わすことを。陛下が誠に徐俯を知っておられるなら、暫くその応得とする所をもって命ぜられるべきである。」返答がなかった。二日後、言事者が程俱が以前秀州城を棄てたことを論じ、提挙江州太平観に罷免された。久しくして、徽猷閣待制に除せられた。
程俱は晩年風痹を病み、秦檜が程俱に史事を領するよう推薦し、提挙万寿観・実録院修撰に除し、朝参を免じさせたが、程俱は力辞して赴かなかった。卒去、六十七歳。程俱が掖垣に在った時、命令の下るもので心に安んじないものがあれば、必ず反覆してこれを言い、少しも畏避しなかった。その文を為すことは典雅閎奥で、世に称された。
張嵲
紹興五年、召されて対し、張嵲は上疏して言った。「金人は去冬深く我が地に渉り、王師は屡々捷したが、一朝に宵遁した。金には自ら敗れる道理があり、我が幸いに勝ったのではない。今、士気は稍々振るい、その鋭気に乗じて用いるのは、固より不可ではない。然れども兵は疲れ民は労し、若し直ちに進取を図るのは、未だ急ぐべからざるが如し。臣は窃かに、今日の計は、塢堡を築いて淮南の地を守り、屯田を興して久戍の資と為し、舟楫を備えて長江の険を阻み、我が常をもって、彼の変を待つべきであると謂う。また荊・襄・寿春は皆古の重鎮で、敵の侵軼は多くこの途より出る。速やかに良将勁兵を択び、その地を戍守させ、上流の勢いを重んずることを願う。」召されて試され、秘書省正字に除せられた。
六年、地震があった。張嵲は奏上した。「近年以来、賦斂は繁重で、征求は百方に出で、流移する者は溝壑に擠され、土着する者は常業を失い、地震の異変は、恐らくはこの為であろう。変異の由を深く思い、政の闕を修め、民の安を致すことを願う。」
七年、校書郎兼史館校勘に遷り、再び著作郎に遷った。張嵲は対面の機会に因って言上した。「呉と蜀は、唇歯の勢いである。蜀は朝廷から遠く、今や元帥無きこと一年である。蜀の利害は、臣が粗く知っている。忠勇の人は、これに外侮を捍がせるのは可であるが、斯の民を撫循するに至っては、その能く為す所ではない。前宰執の中から、川事に任ずるに足る者を択んでこれに委任すべきである。然れども川蜀は国の利害に係わり、腹心の臣でなければならず、今早く一の賢なる宣撫使を得ることが肝要である。」また言った。「駐蹕して呉会以来、未だ嘗て襄陽・荊南を意に介さないが如く、今は急ぎ儒臣で牧御の才ある者を択んで二路の帥とし、これに流散を招集させ、農桑を興し、城壁を治め、保固の資と為し、益々上流の勢いを重んずべきである。」
既にして何掄が『神宗実録』を刊改したことで罪を得、言葉が張嵲に連なり、福建路転運判官として出された。上疏して大略に言った。「古の人君の患いは二つあり、諫を拒むことには在らず、諫を納めながら用いることができないことにある。天下の利害を知らないことには在らず、知りながら意に介さないことにある。陛下が江を渡って十年になる。外には敵国があり、内には驕悍の兵があり、下には窮困聊かならざる民がある。進言する者は多いが、今は皆これを陳腐として別に新奇の説を取る。任事する者は衆いが、今は皆これを習い以って当然とし、更に迂闊の事を為す。これは諫を納めながら用いることを知らず、利害を知りながら恤れみを知らないに近い。今の計は、朝に斯く夕に斯く、この二つに非ざれば務めず、数年之後、庶幾くは其れ済わんことを!国ある者の悪む所は、朋党より大なるは莫く、今一の宰相が用いられれば、凡そその与する者は、賢否を択ばずして尽くこれを用い、一の宰相が去れば、凡そその与する者は、賢否を択ばずして尽くこれを逐う。宜なるかな、朋党の漸く成るを。」
九年、司勲員外郎兼実録院検討官を除す。金人盟に叛き、上命じて両省・卿・監・郎・曹に各々檄を草して進めしむるに、独り嵲の進むる所のものを取り、これを四方に播く。十年、中書舎人に擢てられ、実録院同修撰に昇る。王徳が宿・亳両郡を収復し、乃ち擅に軍を退け、岳飛をして勢孤ならしめ、金人を猖獗せしむるを論じ、承宣防禦使を授くるは、何ぞ罰すべきに反て賞するやと。詞頭を封還し、已に降したる転官指揮を罷めんことを乞う。未だ幾ばくもせず、右正言万俟卨、嵲が侍従たりし日に、非才を薦引し、以て私恩に酬ゆ、辺報始めて至るに、疾に託して家に居るを論ず、ここによりて罷め去る。頃之、起きて衢州を知り、敷文閣待制を除す。政を為すこと頗る厳酷を尚ひ、歳満つるに、請ひて江州太平興国宮を提挙するを得たり。時に方に好を修め兵を息し、朝廷古礼文の事を稽ふるを講ず。嵲『中興復古詩』を作りて以て進む。上将に召用せんとす、会に背に疽発して卒す。年五十三。子昌時。
韓駒
韓駒、字は子蒼、仙井監の人なり。少くより文称有り。政和初、頌を献じて仮将仕郎を補し、召して舎人院に試し、進士出身を賜ひ、秘書省正字を除す。尋ち蘇氏の学を為すに坐し、華州蒲城県市易務を監せんことを請ふ。洪州分寧県を知る。召されて著作郎と為り、御前文籍を校正す。駒言ふ、国家の祠事、歳一百十有八、楽を用ふる者六十有二、旧撰の楽章、辞多く牴牾すと。ここに於て詔して三館の士に分ち撰ましむ、親祠明堂・円壇・方沢等の楽曲五十余章、多くは駒の作る所なり。
宣和五年、秘書少監を除す。六年、中書舎人兼修国史に遷り、入謝す。上曰く、「近年制誥を為す者、褒むる所は必ず美を溢し、貶す所は必ず悪を溢す、豈に王言の体ならんや。且つ『盤』・『誥』具在す、寧くんぞ是の若くならんや」と。駒対へて曰く、「若し止だ制誥を作するに止まらば、則ち粗かに文墨を知る者皆為す可し、先帝両省を置きしは、豈に止だ文書を行はしむるのみならんや」と。上曰く、「給事は実に封駁を掌る」と。駒奏して曰く、「舎人も亦た詞頭を繳還するを許さる」と。上曰く、「自今朝廷の事論ず可き者有らば、一切繳来せよ」と。尋ち兼ねて権直学士院を直し、制詞簡重にして、時に推せらる。未だ幾ばくもせず、復た郷党曲学に坐し、集英殿修撰を以て江州太平観を提挙す。
高宗即位し、江州を知る。紹興五年、撫州に卒す。一官を進めて致仕し、中奉大夫を贈られ、遺沢三人と与ふ。駒嘗て許下に在りて蘇轍に従ひ学び、其の詩を評して儲光羲に似たりとす。其の後宦官に由りて進用せられ、頗る識者に薄しめらる云ふ。子遜・遊。
朱敦儒
朱敦儒、字は希真、河南の人なり。父勃、紹聖の諫官。敦儒志行高潔、布衣と雖も、而も朝野の望有り。靖康中、京師に召し至り、将に学官を以て処せんとす。敦儒辞して曰く、「麋鹿の性、自ら閑曠を楽しみ、爵禄は願ふ所に非ず」と。固く辞して山に還る。高宗即位し、詔して草沢才徳の士を挙げしむ。選に預かる者命中書策試し、官を授く。ここに於て淮西部使者敦儒文武の才あるを言ひ、之を召す。敦儒又た辞す。乱を避けて南雄州に客す。張浚奏して軍前に赴き計議せしむるも、起たず。
郭儒素より詩及び楽府に工み、婉麗清暢なり。時に秦檜国に当り、騒人墨客を奨用して以て太平を文ふるを喜ぶ。檜の子熺も亦た詩を好む。ここに於て先づ敦儒の子をして刪定官と為さしめ、復た敦儒に鴻臚少卿を除す。檜死し、郭儒も亦た廃さる。談する者敦儒を謂ふ、老いて舐犢の愛を懐き、而して竄逐を畏避せし故に、其の節終はらざるなりと云ふ。
葛勝仲
宋建隆より治平に至るまで行はるる典礼、欧陽修嘗て裒集して書と為す、凡そ百篇、号して『太常因革礼』とす。詔して勝仲之を継がしむ。三百巻に増す。詔して太常に蔵す。及び春宮を建つるに、勝仲を以て諭德を兼ねしむ。勝仲『仁』・『孝』・『学』の三論を為し、之を太子に献ず。復た春秋・戦国以来歴代太子の善悪成敗の跡を采り、日々数事を進む。詔して之を嘉し、太府少卿に徙し、国子祭酒を除し、尋ち汝州を知る。李彦田を括る。破産する者衆し。勝仲請ふ、当に括るべからざる者を蠲さんことを。彦怒り、勝仲を劾す。上其の奏を寢し、湖州に改め、尋ち鄧州に徙す。朱勔先づ白雀の属を求む。勝仲与へず。是に至り其の短を媒蘖し、罷めて帰る。
子立方、官侍従に至る。孫邲、右相と為り、自ら伝有り。
熊克
熊克、字は子復、建寧建陽の人、御史大夫熊博の後裔なり。生まれんとする時、翠羽の雀が臥内に翔びたるあり。克は幼にして秀で、長ずるに及び、学を好み文を属するに善く、郡博士胡憲これを器として曰く、「子の学は年より老い、他日当に文章を以て顕るべし」と。紹興中に進士第に及第し、紹興府諸暨県を知る。越の帥は賦を課するに頗る急にして、諸邑は率ね督趣して応ずるも、克曰く、「寧ろ吾が罪を得んも、吾が民を困らしむるに忍びず」と。他日、府より幕僚を遣わして有亡を閲視せしむ。時に方に雨降らず、克これに対し泣いて曰く、「これ租を催す時なるか」と。部使者芮燀、県を行きてその境に至り、克に謂ひて曰く、「曩に子の文墨を知るのみ、今にして乃ち古の循吏を見る」と。これを表薦し、入りて提轄文思院と為る。
嘗て文を以て曾覿に献ず。覿これを孝宗に白す。孝宗これを喜び、内より御筆を出だし、直学士院を除す。宰相趙雄甚だこれを異とし、因りて奏して曰く、「翰院は清選なり、熊克は小臣、論薦に由らずして得る、衆論を服する無く、請うらくは朝廷より召試し、然る後にこれを用いん」と。上曰く、「善し」と。乃ち校書郎と為し、累遷して学士院権直に至る。上選徳殿に御し、召して諭して曰く、「卿の制誥は甚だ工にして、且つ体有り、此より燕閑に治道を論ずべし」と。
克自ら上に見知らるるを以てし、数たび論奏有り。嘗て言ふ、「金人は和を講ずと雖も、他日に保つ能はず、今は宜しく和を以て守りと為し、守りを以て攻めと為すべし。和好の時に当たり、備守の計りを為すは、彼吾が為さざるを禁ずる能はず。辺備既に実なれば、金人万一猖獗すとも、必ず我に志を得ず、退いて我に乗ずるも、曲は我に在らず。且つ今日の守りは、淮東より重きは莫し。金淮西を犯せば、糧を負ひ自ら随ふ、その勢必ず難し。若し淮東を犯さば、清河の糧船直下し、易し。然らば則ち淮を守るの策は、墾田・修堰・民兵を教ふるを先とす。淮東を援くるの策は、江陰に即き水軍を建つるに若かず、緩急相応ずべし。然れども驟に一軍を立てば、敵疑ひを生ずるを慮る、当に海道商賈の衝たるを託し、奪攘多く、一の巡検を置きてこれを警督し、此より歳ごとに兵を増し、十年を出でずして、隠然たる一軍たらん。中興の際、兵用ふべからざるを患へずして、将権収め難きを患ふ。今日の弊、将馭ふべからざるを患へずして、軍情動き易きを患ふ。往時諸大將は士卒を拝するに家人の如くす。諸將の兵権を罷めてより、御前の主帥、更徙常ならず、凡そ軍中筦榷の利、士卒を養ふ所以のもの、今皆転じて包苴と為り、又その余を朘ぎてこれを佐く、怨み無からんや。宜しく将帥を厳戒し、掊削を縦す毋かれ」と。帝その志有るを嘉し、召して明堂の赦書を草せしむ。克言ふ、「二浙饑を薦め、蝗且に起らんとす、赦文飾詞すべからず」と。帝その識体を嘉す。起居郎兼直学士院を除す。言者に以て出でて台州を知り、祠を奉ず。
克は博聞強記、少より老に至るまで、著述の外他に嗜み無し。尤も宋朝の典故に淹習し、問ふ者有れば酬対響くが如し。家素より儉約、貴と為ると雖も改めず、旧居は卑陋にして、門轍を容れず、部使者・郡守の至るも、必ず車を降りて乃ち入る。嘗て臨川の童子王克勤の才を愛し、女を以て妻せんと欲して資遣に乏し、会ひ制を草して金を賜はるを得、遂にこれを帰す。人その清介を称す。卒す、年七十三。
張即之
張即之、字は溫夫、参知政事張孝伯の子なり。父の恩に以て承務郎を授けられ、銓中にて両浙転運司進士挙に及第し、歴て平江府糧料院を監す。父憂に遭ひ、服除け、臨安府楼店務を監す。母憂に遭ひ、服除け、臨安府龍山税・寧国府城下酒麴務を監し、簽書荊門軍判官庁公事、烏程丞、特差簽書江陰軍判官庁公事、提領戸部犒賞酒庫所幹弁公事、添差両浙転運司主管文字、行在検点贍軍激賞酒庫所主管文字、尚書六部門を監し、淮南東路提挙常平司主管文字、添差通判揚州、鎮江に改め、又嘉興に改め、将作監簿、軍器監丞、司農寺丞、嘉興を知る。未だ赴かず、言者に以て罷められ、祠を丐ひ、雲台観を主管し、引年して老を告げ、特授にて直秘閣致仕す。
趙蕃 附
趙蕃、字は昌父、その先は鄭州の人なり。建炎初、大父暘祕書少監を以て出でて坑冶を提点し、信州の玉山に寓す。蕃は暘の致仕恩に以て、州文学を補す。浮梁尉・連江主簿に調すも、皆赴かず。太和主簿と為り、楊萬里に知らる。辰州司理参軍に調し、郡守と獄を争ひ、罷めらる。人蕃を直と為す。
初め、蕃は劉清之に学を受く。清之衡州を守るに及び、乃ち安仁贍軍酒庫を監するを求め、因りて以て卒業す。衡に至りて清之罷めらる。蕃即ち祠を丐ひ、清之に従ひて帰る。その後真徳秀これを『国史』に書して曰く、「蕃の師友の際蓋し此の如し、国に負かんや」と。家居し、連ねて祠官の考を書するもの三十有一。理宗即位し、太社令を以て劉宰と同召すも、拝せず。特改にて奉議郎・直秘閣と為すも、又辞す。祠を奉じ、致仕を得、承議郎に転じ、前の如く直秘閣に依る。卒す、年八十七。