黃庭堅
黃庭堅、字は魯直、洪州分寧の人なり。幼にして警悟、書を読み数遍すれば輒ち誦することを成す。舅の李常其の家に過ぎ、架上の書を取って之を問うに、通ぜざるは無く、常驚き、以て一日千里と為す。進士に挙げられ、葉縣尉に調ず。熙寧初め、四京學官に挙げられ、文を第するに優等たり、北京國子監教授となり、留守の文彥博其の才を認め、再任を留む。蘇軾嘗て其の詩文を見て、以て超軾絶塵、万物の表に独立すと為し、世久しく此の作無しと、是より声名始めて震う。太和縣を知り、平易を以て治む。時に鹽筴を課頒す、諸縣多くを占むるを争うも、太和獨り然らず、吏悦ばざれども、民之に安んず。
哲宗立ち、召されて校書郎・《神宗實錄》檢討官と為る。年を踰え、著作佐郎に遷り、集賢校理を加う。《實錄》成り、起居舍人に擢でらる。母艱に丁る。庭堅性篤孝、母病むこと年を彌ぎ、晝夜顔色を視、衣帶を解かず。及び亡び、墓下に廬し、哀毀して疾を得て幾殆し。服除け、祕書丞と為り、明道宮を提點し国史編修官を兼ぬ。紹聖初め、出でて宣州を知り、鄂州に改む。章惇・蔡卞其の黨と《實錄》多く誣ると論じ、前史官をして畿邑に分居せしめて問を待たしめ、千餘條を摘ましめて之を示し、驗證無しと謂う。既にして院吏考閲するに、悉く據依有り、餘る所纔に三十二事なり。庭堅「鐵龍爪を用いて河を治むるは、兒戯に同じき有り」と書す、是に至りて首として之を問う。對えて曰く「庭堅時に北都に官し、嘗て親しく之を見る、真に兒戯なるのみ」と。凡そ問う有るは、皆直辭を以て對え、聞く者之を壯とす。涪州別駕に貶じ、黔州に安置す。言者猶以て善地に處するを骫法と為す。親嫌を以て、遂に戎州に移す。庭堅泊然たり、遷謫を以て意に介せず。蜀の士慕ひて之に從い遊び、講學倦まず、凡そ指授を経るは、下筆皆観るべし。
庭堅學問文章、天成性得、陳師道其の詩法を杜甫に得、甫を學びて為さざると謂う。行・草書を善くし、楷法も亦一家を成す。張耒・晁補之・秦觀と俱に蘇軾の門に遊び、天下四學士と稱す。而して庭堅文章に於て尤も詩に長ず、蜀・江西の君子庭堅を以て軾に配し、故に「蘇・黃」と稱す。軾侍從たりし時、自ら代わるに之を挙ぐ、其の詞に「瓌偉の文、當世に妙絶;孝友の行、古人に追配す」の語有り、其れ之を重んずること此の如し。初め、灊皖の山谷寺・石牛洞に遊び、其の林泉の勝を樂しみ、因りて自ら「山谷道人」と號すと云う。
晁補之
晁補之、字は無咎、濟州鉅野の人、太子少傅晁迥の五世孫、宗愨の曾孫なり。父端友、詩に工なり。補之聰敏強記、纔に事を解するより即ち文を屬するに善くし、王安國一見して之を奇とす。十七歳父に從い杭州に官し、錢塘山川風物の麗を稡め、《七述》を著して州通判蘇軾に謁す。軾先づ賦すべき所有らんと欲す、之を讀み歎じて曰く「吾は筆を閣くべし」と。又其の文博辯雋偉、人を絶して遠く甚だしと稱し、必ず世に顯はるべしと。是より知名と為る。
補之才氣飄逸、學を嗜み倦むことを知らず、文章溫潤典縟、其の淩麗奇卓は天成より出づ。尤も《楚詞》に精しく、屈・宋以来の賦詠を論集して《變離騷》等三書と為す。安南に兵を用うるに、著す《罪言》一篇、大意仁厚勇略の吏を擇びて五管郡守と為し、及び海上諸郡の武備を修めんと欲す。議者世務に通達せりと為す。從弟に詠之あり。
從弟 詠之
詠之、字は之道、少にして異材有り、蔭を以て官に入る。揚州司法參軍に調ず、未だ上らず。時に蘇軾揚州を守り、補之州事を倅す。其の詩文を以て軾に獻ず。軾曰く「才此の如き有り、獨り我をして一たび面を識らしめざるや」と。乃ち參軍の禮を具えて入謁す。軾堂を下りて挽きて上らしめ、坐客を顧みて曰く「奇才なり」と。復た進士に挙げられ、又宏詞に挙げらる。一時其の文を傳誦す。河中教授と為り、元符末、詔に應じて上書し事を論じ、官を罷む。久しくして京兆府司録事と為り、秩滿し、崇福宮を提點し、卒す。年五十二。文集五十卷有り。
秦觀
秦觀、字は少游、一字は太虛、揚州高郵の人なり。少にして豪雋、慷慨文詞に溢る。進士に挙げられて中らず。志強く氣盛んに、大を好みて奇を見、兵家の書を読みて己が意と合う。蘇軾に徐に於て見え、黄樓を賦す。軾以て屈・宋の才有りと為す。又其の詩を王安石に介す。安石も亦清新鮑・謝に似たりと謂う。軾應挙を以て親を養うを勉む。始めて第に登り、定海主簿・蔡州教授に調ず。元祐初め、軾賢良方正を以て朝に薦め、太學博士を除き、祕書省書籍を校正す。正字に遷り、而して復た兼國史院編修官と為り、上日硯墨器幣の賜有り。
紹聖の初め、党籍に坐し、杭州通判に出される。御史劉拯がその実録増損を論じたため、処州酒税監に貶せられる。使者は風旨を承けて望み、過失を伺うが、やがて得るところなく、則ち謁告して仏書を写すことを罪とし、秩を削り郴州に徙され、継いで横州に編管され、また雷州に徙される。徽宗即位、宣徳郎に復し、放還される。藤州に至り、華光亭に出遊し、客に夢中の長短句を語り、水を索めて飲まんとし、水至るや、笑って之を視て卒す。先に自ら挽詞を作り、其の語哀しく甚だしく、読む者之を悲傷す。年五十三、文集四十巻有り。
観は議論に長じ、文麗にして思深し。死に及んで、軾之を聞き歎じて曰く、「少游不幸にして道路に死す、哀しいかな!世豈に復た斯の人あらんや」と。
弟:覿、字は少章、覯、字は少儀、皆能く文す。
張耒
張耒、字は文潜、楚州淮陰の人。幼くして穎異、十三歳にして文を為す能く、十七歳の時『函関賦』を作り、已に人口に伝わる。陳に遊学し、学官蘇轍之を愛し、因って軾に従い遊ぶを得、軾も亦深く之を知り、其の文汪洋沖澹として、一倡三歎の声有りと称す。
弱冠にして進士に第し、臨淮主簿・寿安尉・咸平県丞を歴任す。入って太学録と為り、范純仁館閣を以て薦め試みられ、秘書省正字・著作佐郎・秘書丞・著作郎・史館検討に遷る。三館に居ること八年、義を顧みて自ら守り、泊如たり。起居舎人に擢でられる。紹聖初め、郡を請い、直龍図閣を以て潤州を知る。党籍に坐し、宣州に徙され、黄州酒税監に謫せられ、復州に徙される。徽宗即位、起用されて黄州通判と為り、兗州を知り、召されて太常少卿と為る。甫く数月、復た出て潁州・汝州を知る。崇寧初め、復た党籍に坐して職を落とし、明道宮を主管す。初め、耒潁に在りて、蘇軾の訃を聞き、挙哀行服を為す。言者之を以て言と為し、遂に房州別駕に貶せられ、黄に安置せらる。五年、自便を得、陳州に居る。
耒は儀観甚だ偉く、雄才有り、筆力絶健にして、騒詞に於いて尤も長ず。時に二蘇及び黄庭堅・晁補之の輩相継いで没し、耒独り存す。士人の就き学ぶ者衆く、日を分かち酒肴を載せて之に飲食す。人を誨えて作文は理を主とすとし、嘗て論を著して云く、「『六経』以下より、諸子百氏騒人弁士の論述に至るまで、大抵皆将に理を寓するの具と為さんとす。故に学文の端は、理を明かにするに急なり。文を知りて理を務めざるは、文の工を求むるも、世未だ嘗て有らざるなり。夫れ水を江・河・淮・海に決するは、道に順いて行き、滔滔汨汨、日夜止まず、砥柱を衝き、呂梁を絶ち、江湖に放ちて之を海に納る。其の舒で淪漣と為り、鼓して波濤と為り、之を激して風飆と為し、之を怒して雷霆と為す。蛟龍魚鱉、噴薄出没す。是れ水の奇変なり。水の初め、豈に是の若くならんや。道に順いて之を決し、其の遇う所に因りて変生ず。溝瀆東に決して西に竭き、下満ちて上虚し、日夜之を激し、其の奇を見んと欲す。彼の其の至る所は、蛙蛭の玩ぶのみ。江・河・淮・海の水は、理達の文なり。奇を求めずして奇至る。溝瀆を激して水の奇を求むるは、此れ理に見る無くして、言語句読を以て奇と為さんと欲し、反覆咀嚼すれども、卒に亦無し。文の陋なり」と。学者之を至言と為す。詩を作するに晩歳益々平淡を務め、白居易の体に效い、而して楽府は張籍に效う。
久しく投閑に在りて、家益々貧しく、郡守翟汝文公田を買わんと欲すれども、謝して取らず。晩年に南嶽廟を監し、崇福宮を主管し、卒す。年六十一。建炎初め、集英殿修撰を贈らる。
陳師道
陳師道、字は履常、一字は無己、彭城の人。少にして学を好み志を苦しめ、年十六、文を摎えて曾鞏に謁す。鞏一見して之を奇とし、其の文を以て著わるを許す。時人未だ之を知らず、留めて業を受く。熙寧中、王氏の経学盛行す。師道心に其の説を非とし、遂に進取を絶意す。鞏五朝史事を典とし、自ら其の属を択ぶを得。朝廷白衣を以て之を難ず。元祐初め、蘇軾・傅堯俞・孫覚其の文行を薦め、起用されて徐州教授と為り、又梁燾の薦を用いられ、太学博士と為る。言者官に在りて嘗て境を越え南京に出でて軾を見たりと謂い、潁州教授に改む。又其の進むや科第に非ずと論じ、罷めて帰す。彭沢令に調ぜられ、赴かず。家素より貧しく、或は経日炊かず、妻子慍みて見ゆれども、恤れず。久しくして召されて秘書省正字と為り、卒す。年四十九。友人鄒浩棺を買いて之を斂う。
師道は高介にして節有り、貧に安んじて道を楽しむ。諸経に於いて尤も『詩』・『礼』に邃く、文を為すこと精深雅奥。詩を作するを喜び、自ら云く黄庭堅に学ぶと。其の高き処に至りては、或いは之を過ぐと謂う。然れども小に中意せざれば、輒ち焚き去る。今存する者は纔かに十一。世徒だ其の詩文を誦するを喜ぶ。至若奥学至行に至っては、或いは之を聞く莫きなり。嘗て黄楼に銘す。曾子固秦の石の如しと謂う。
初め、京師に遊ぶこと踰年、嘗て一たびも貴人の門に至らず。傅堯俞之を識らんと欲し、先ず以て秦観に問う。観曰く、「是の人刺字を持ち、顔色に俛し、公卿の門に伺候する者に非ず。殆ど至り難からん」と。堯俞曰く、「望む所に非ざるなり。吾将に之を見ん。其の吾を見ざるを懼る。子能く陳君に介せんや」と。其の貧しきを知り、金を懐きて饋らんと欲す。比至り、其の論議を聴き、益々敬畏し、敢えて出ださず。章惇枢府に在り、将に朝に薦めんとし、亦観に属して延致せしむ。師道答えて曰く、「書を辱うす。章公年徳を降屈し、礼を以て見招くを諭す。不佞何を以てか此を得ん。豈に侯嘗て之を欺くや。公卿士に下らず、尚しなり。乃ち特に今に見え、而して其の身に親しむ。幸い孰か大なる。愚雖も士を歯するに足らず、猶当に侯の後に従い、下風に順いて以て公の名を成すべし。然れども先王の制、士贄を伝えて臣と為さざれば、則ち王公に見えず。礼を成す所以にして、其の敝必ず自鬻に至る。故に先王其の始めを謹みて以て之を防ぎ、而して士と為る者は世に之を守る。師道公に於いて、前に貴賤の嫌有り、後に平生の旧無し。公雖も見ゆべし、礼去くべからずや。且つ公の見招くは、蓋し能く区区の礼を守るを以てなり。若し法義を昧冒し、命を聞きて門に走らば、則ち其の見招かるる所以を失い、公又何をか取らん。然りと雖も、此に一有り。幸いに公の他日功を成し事を謝し、幅巾して東帰せば、師道当に款段に御し、下沢に乗り、公を東門外に候わん。未だ晩からず」と。及んで惇相と為り、又意を致すも、終に往かず。官潁の時、蘇軾州事を知り、之を絶席に待ち、諸門弟子の間に参ぜんと欲す。而して師道詩を賦し「向来一瓣の香、敬んで曾南豊の為にす」の語有り。其の自守此の如し。
趙挺之と友婿たり。素より其の人を悪む。適た郊祀の行禮に預かり、寒きこと甚だしく、衣に綿無し。妻就きて挺之の家に仮す。従いて得る所を問い、却けて去り、肯て服せず。遂に寒疾を以て死す。
李廌
李廌、字は方叔、その先祖は鄆より華に移る。廌六歳にして孤となり、自ら奮い立つことを能くし、少長して、学問を以て郷里に称せらる。黄州にて蘇軾に謁し、文を贄として知を求む。軾其の筆墨瀾翻として、飛沙走石の勢有りと謂い、其の背を拊して曰く、「子の才は万人敵なり、之を高節を以て抗すれば、之を能く禦ぐ者莫し」と。廌再拝して教を受けし。而して家素より貧しく、三世未だ葬らず、一夕、枕を撫でて涕を流し曰く、「吾忠孝焉にか是を学ぶ、而るに親未だ葬らず、何を以てか学を為さん」と。旦にして軾に別れ、将に四方に客遊して、以て其の事を蕆めんとす。軾衣を解きて助けと為し、又詩を作りて以て風義者を勧む。ここに於いて数年にせずして、累世の喪三十余柩を尽く致し、華山下に帰窆し、范鎮墓に表して以て之を美とす。益々門を閉ざし書を読み、又数年、再び軾に見え、軾其の著する所を閲し、歎じて曰く、「張耒・秦観の流なり」と。
郷挙して礼部に試み、軾貢挙を典とし、之を遺し、詩を賦して以て自ら責む。呂大防歎じて曰く、「有司芸を試み、乃ち此の奇才を失するか」と。軾と范祖禹謀りて曰く、「廌山林に在りと雖も、其の文に錦衣玉食の気有り、奇宝を路隅に棄つ、昔人の歎ずる所、我曹意無からんや」と。将に同しく諸朝に薦めんとす、未だ幾ばくもせず、相継いで国を去り、果たさず。軾亡び、廌之に哭すること慟く、曰く、「吾知己に死する能わざるを愧ず、師に事うるの勤に至りては、渠か敢えて生死を以て間と為さんや」と。即ち許・汝の間を走り、地を相し兆を卜して其の子に授け、文を作りて之を祭りて曰く、「皇天后土、一生忠義の心を鑒みよ、名山大川、万古英霊の気を還せ」と。詞語奇壮、読む者悚然とす。中年進取の意を絶ち、潁を人物の淵藪と謂い、始めて長社に定居し、県令李佐及び里人宅を買いて之に処す。卒す、年五十一。
廌古今の治乱を論ずるを喜び、条暢曲折、弁にして理に中る。喧溷倉卒の間に当たりては意を用いざるが如く、睥睨して起ち、筆を落すこと飛馳の如し。元祐言を求め、『忠諫書』・『忠厚論』を上り、並びに『兵鑒』二万言を献じて西事を論ず。朝廷羌酋鬼章を擒え、将に法に致さんとす、廌深く利害を論じ、以て之を殺すは益無しと為し、願わくは寛大を加えんとす、当時其の言を韙とす。
劉恕
劉恕、字は道原、筠州の人。
父渙、字は凝之、潁上の令と為り、剛直を以て上官に事うる能わず、棄て去る。廬山の陽に家す、時に年五十。欧陽修と渙は同年の進士なり、其の節を高くし、『廬山高』の詩を作りて以て之を美とす。渙廬山に居ること三十余年、環堵蕭然として、饘粥を以て食と為し、而して心を塵垢の外に遊ばし、超然として戚戚たる意無く、寿を以て終わる。
篤く史学を好む、太史公の記す所より、下りて周顕徳の末に至るまで、紀伝の外より私記雑説に至るまで、覧ざる所無く、上下数千載の間、鉅微の事、諸掌を指すが如し。司馬光『資治通鑑』を編次す、英宗命じて自ら館閣の英才を択び共に之を修めしむ。光対えて曰く、「館閣の文学の士誠に多し、史学に専精するに至りては、臣得て知る者、唯劉恕のみ」と。即ち召して局僚と為し、史事紛錯治め難きに遇うれば、輒ち以て恕に諉す。恕魏・晋以後の事に於いて、差繆を考証すること、最も精詳なり。
王安石之と旧有り、三司条例に引置せんと欲す。恕金穀に習わざるを以て辞と為し、因りて言う、「天子方に公に大政を属す、宜しく堯・舜の道を恢張して以て明主を佐くべし、利を以て先と為すべからず」と。又条陳して更むる所の法令衆心に合わざる者を、旧に復せしむるを勧め、面して其の過を刺すに至り、安石怒り、色を鉄の如く変ず、恕少も屈せず。或いは稠人広坐、其の失を抗言して避くる所無く、遂に之と絶つ。方に安石事を用うるや、呼吸して禍福を成す、高論の士、始め異にして終に之に附し、面して誉め背に毀り、口順にして心非とする者、皆是なり。恕奮厲して顧みず、直ちに其の事を指し、得失隠す所無し。
光出でて永興軍を知り、恕亦親老を以て、監南康軍酒を求めて以て養に就かんとし、許して即ち官にて書を修めしむ。光西京御史台を判じ、恕光に詣るを請い、数ヶ月留まりて帰る。道に風攣疾を得、右手足廃す、然れども苦学故の如く、少しく間有れば、輒ち書を修め、病亟うして乃ち止む。官祕書丞に至り、卒す、年四十七。
恕学を為す、歴数・地里・官職・族姓より前代の公府案牘に至るまで、皆取りて以て審証す。書を求むるに数百里を遠しとせず、身を就けて読み且つ抄し、殆ど寝食を忘る。司馬光と偕に万安山に遊び、道旁に碑有り、之を読む、乃ち五代の列将、人の知らざる名なる者、恕其の行事の始終を言う能く、帰り旧史を験するに、信然たり。宋次道亳州を知り、家に書多し、恕道を枉げて借覧す。次道日ごとに饌を具えて主人の礼と為す、恕曰く、「此れ吾の来る所に為すに非ず、甚だ吾が事を廃す」と。悉く之を去る。独り閣を閉ざし、昼夜口誦手抄し、旬日留まりて、其の書を尽くして去り、目之の為に翳る。『五代十国紀年』を著して以て『十六国春秋』に擬し、又太古より周威烈王の時に至るまでの事、『史記』・『左氏伝』の載せざる所を采り、『通鑑外紀』と為す。
家素より貧しく、旨甘を給するに無く、一毫も妄りに人に取らず。洛南より帰る、時方に冬、寒具無し。司馬光衣襪及び故茵褥を以て遺す、辞して獲ず、強いて受け別れ、行きて潁に及び、悉く封じて之を還す。尤も浮屠の説を信ぜず、以て必ず是の事無からんと為し、曰く、「人逆旅に居るが如く、一物も乏しき可からず、去れば則ち尽く之を棄つ、豈に齎して以て自ら随うを得んや」と。人の悪を攻むるを好み、毎に自ら平生に二十失・十八蔽有りと訟え、文を作りて以て自ら警め、亦終に改むる能わざるなり。
死後七年、『通鑑』成り、其の労を追録し、其の子羲仲を官して郊社斎郎と為す。次子和仲超軼の材有り、詩を作ること清奥、刻厲して自ら家を成さんと欲し、文を為すに石介を慕い、侠気有り、亦蚤く死す。
王無咎
王無咎、字は補之、建昌軍南城県の人なり。進士に及第し、江都尉・儀真主簿・天台令となり、棄てて王安石に従い学ぶ。久しくして妻子を衣食するに足らず、復た南康主簿に調せられ、已にして又棄て去る。書を好み力めて学び、寒暑行役も暫くも釋かず、所在の学者之に帰し、去来常に数百人なり。王安石政を為すに及び、無咎京師に至り、士大夫多く之と遊び、隣を卜して経を考へ疑を質する者有り。然れども人と寡く合ひ、常に門を閉ぢて書を治め、惟だ安石の言論に莫逆たり。安石章を上りて其の才行該備、道を守り貧に安んずるを薦め、而して久しく棄てて用ひられざるを言ふ。詔して国子直講と為すを以てす。命未だ下らずして卒す。年四十六。
蔡肇
蔡肇、字は天啓、潤州丹陽県の人なり。文を為す能くし、最も歌詩に長ず。初め王安石に事へ、器重せらるを見る。又蘇軾に従ひ遊び、声譽益々顯る。進士に及第し、明州司戸参軍・江陵推官を歴任す。元祐中、太学正となり、常州を通判し、召されて衛尉寺丞と為り、永興路常平を提挙す。徽宗初、入りて戸部員外郎となり、兼ねて国史を編修す。言者其の学術反覆を論じ、両浙刑獄を提挙す。張商英国を当つるに及び、礼部員外に引き、起居郎に進み、中書舎人を拝す。此れ以前、三題を試みるに、率ね宰相の上馬を以て之が候と為す。肇筆を援ぎて立ち就き、潤飾を加へず。商英之を読みて節を撃つ。才に月を踰ゆるに、御史辛義を草する責詞の称せざるを以て、罷められて顕謨閣待制・明州知州と為る。言者又其の異意を包蔵し、辟雍を非議して立つべからざるを以てすと論じ、職を奪はれ、洞霄宮を提挙す。赦に会ひ、之を復し、卒す。
李格非
李格非、字は文叔、済南の人なり。其の幼時、俊警甚だ異なり。有司方に詩賦を以て士を取らんとす。格非独り経学に意を用ひ、『礼記説』を著して数十万言に至り、遂に進士第に登る。冀州司戸参軍に調せられ、学官を試み、鄆州教授と為る。郡守其の貧を以てし、兼ねて他官を為さしめんと欲す。謝して不可とす。入りて太学録を補し、再び転じて博士と為り、文章を以て蘇軾に知らる。常に『洛陽名園記』を著し、謂く「洛陽の盛衰は、天下治乱の候なり」と。其の後洛陽金に陥り、人以て知言と為す。紹聖に局を立てて元祐章奏を編し、以て検討と為さんとす。就かず。執政の意に戾り、広信軍を通判す。道士有りて人の禍福を説き或は中る。出づるに必ず車に乗る。氓俗信惑す。格非之に途に遇ひ、左右を叱して車中の道士を取り来たらしめ、其の姦を窮治し、杖して出だして諸境にす。召されて校書郎と為り、著作佐郎・礼部員外郎に遷り、京東刑獄を提点す。党籍を以て罷められ、卒す。年六十一。
格非苦心して詞章に工なり。陵轢して直前にし、難易可否無く、筆力少も滞らず。嘗て言ふ「文は苟も作るべからず。誠著はざれば、則ち工なる能はず。且つ晋人能く文する者多し。劉伯倫の『酒徳頌』・陶淵明の『帰去来辞』に至りては、字字肺肝より出づるが如く、遂に晋人の上を高歩す。其の誠著はるるなり」と。
妻王氏は、拱辰の孫女、亦文を善くす。女清照は、詩文特に時に称せられ、趙挺之の子明誠に嫁ぎ、自ら「易安居士」と号す。
呂南公
呂南公、字は次儒、建昌軍南城県の人なり。書に読まざる無く、文に於ては陳言を綴緝するを肯はざりき。熙寧中、士方に馬融・王肅・許慎の業を推崇し、剽掠補拆臨摹の藝大に行はる。南公時好に逐ふ能はざるを度り、一たび礼闈を試みて偶はらず、退きて室を築き園を灌ぎ、復た進取を以て意と為さず。益々書を著し、且つ史筆を借りて以て善を褒め悪を貶し、遂に「袞斧」を以て居る齋の名と為す。嘗て謂ふ「士言ふに已むを得ざるに至れば、則ち文工ならざるべからず。蓋し意餘り有りて文足らざれば、吃人の辨訟の如く、必ずしも始めより虚ならず、理始めより直ならざるに非ず。然れども或は屈するは、辭に助くる無きのみ。書契以来を観るに、特立の士、文に善からざる者未だ有らざるなり。士立つに志無ければ則ち已む。必ず志有らば、則ち文何を以て卑賤として之を為さんや。故に毅然として心を盡し、古人と並ばんと欲して思ふ」と。
元祐初、十科を立てて士を薦む。中書舎人曾肇疏を上り、其の書を読み文を為して俗学に事へず、貧に安んじ道を守り、志古人を希ふを稱し、師表科に充つるに堪ふとす。一時廷臣亦多く之を稱す。議ひて官を以て命せんと欲す。未だ及ばずして卒す。遺文を『灌園先生集』と曰ひ、世に傳はる。
郭祥正
郭祥正、字は功父、太平州當塗県の人なり。母李白を夢みて生まる。少くして詩声有り。梅堯臣方に一時に名を擅にす。見て歎じて曰く「天才此くの如し。真に太白の後身なり」と。進士に挙げらる。熙寧中、武岡県を知り、保信軍節度判官に簽書す。時に王安石事を用ふ。祥正奏して天下の大計専ら安石の處畫を聽くを乞ひ、異議有る者は、大臣と雖も亦當に屏黜すべしとす。神宗之を覽みて異とす。一日安石に問ひて曰く「卿郭祥正を識るか。其の才用ふるに似たり」と。其の章を出だして以て安石に示す。安石小臣に薦めらるるを恥ぢ、因りて極口に其の行ひ無きを陳ぶ。時に祥正章惇の察訪辟に従ふ。之を聞き、遂に殿中丞を以て致仕す。後復た出で、汀州を通判す。端州を知り、又棄て去り、縣の青山に隠れ、卒す。
米芾
米芾、字は元章、吳の人なり。母宣仁后の藩邸に侍する舊恩を以て、浛光尉を補す。雍丘県・漣水軍を知り、太常博士を歴任し、無為軍を知り、召されて書畫學博士と為り、便殿に對するを賜ひ、其の子友仁の作る所の『楚山清曉圖』を上る。禮部員外郎に擢げられ、出でて淮陽軍を知る。卒す。年四十九。
芾文を為すに奇險にして、前人の軌轍を蹈襲せず。特に翰墨に妙なり。沈著飛翥、王獻之の筆意を得たり。山水人物を畫き、自ら一家を名づく。特に臨移に工にして、眞を亂すに至りて辨ふべからず。鑒裁に精しく、古器物書畫に遇へば則ち極力求め取り、必ず得て乃ち已む。王安石嘗て其の詩句を摘みて扇上に書す。蘇軾亦喜びて之を譽む。冠服唐人に效ひ、風神蕭散、音吐清暢、至る所人聚りて之を觀る。而して潔を好むこと癖を成し、人と巾器を同じくせざるに至る。為す所譎異、時に傳へ笑ふ可き者有り。無為州治に巨石有り。狀奇醜なり。芾見て大喜びて曰く「此れ吾が拜に當るに足る」と。衣冠を具へて之を拜し、之を兄と呼ぶ。又世と俯仰する能はず。故に仕に従ふこと數困す。嘗て詔を奉じて『黄庭』の小楷に仿ひ周興嗣の『千字韻語』を作す。又宣和殿に入りて禁内の藏する所を觀る。人以て寵と為す。
子の友仁、字は元暉、学問に励み古を好み、また書画に長じ、世に「小米」と号す。兵部侍郎・敷文閣直學士に至る。
劉詵
劉詵、字は應伯、福州福清の人。進士に及第し、莆田主簿・廬江県知県を歴任す。崇寧年中、講議司檢討官となり、軍器・大理丞に進み、大晟府典樂となる。詵は音律に通じ、嘗て歴代の雅楽の因革及び宋代の制作の趣旨を上奏し、故に楽事を委ねらる。また言う、「『周官』の大司楽は淫声・慢声を禁ず、蓋し孔子の所謂鄭声を放つものなり。今の燕楽の音は高急に失し、曲調の詞は鄙俚に至り、恐らくは和気を召すに足らざるべし。宋は火徳なり、音は徵を尚ぶ。徵調は欠くべからず。臣、古制を按ずるに、十二宮を旋して七声を得、正徵一調を得たり。惟れ陛下裁取せよ」と。徽宗曰く、「卿の言是なり。五声は一つ欠くべからず。『徵招』・『角招』は君臣相説ぶの楽なり。此れ朕の聞かんと欲して言う者なき所なり。卿宜しく朕の為に之を典司すべし」と。他日、禁中より古鐘二つを出だし、詔して執政に詵を召し都堂に按ぜしむ。詵曰く、「此れ今の太簇・大呂の声と協う」と。命じて大晟鐘を取りて之を扣かしむ。果たして応ず。また曰く、「鐘は之を撃てば余韻無し。石声に如かず。『詩』に云う『我が磬声に依る』とは、其の清くして定まるを言うなり」と。復た之を取って合わせしむ。声益々諧う。宗正・鴻臚・衛尉・太常寺少卿を歴任し、『續因革禮』を纂し、卒す。
詵は母の喪に居り礼を尽くす。双芝墓側に生ず。人孝感と為す。
倪濤
李公麟
李公麟、字は伯時、舒州の人。進士に及第し、南康・長垣尉、泗州錄事参軍を歴任し、陸佃の薦めを用い、中書門下後省冊定官・御史檢法となる。古を好み博学、詩に長じ、奇字を多く識る。夏・商以来の鐘・鼎・尊・彝、皆能く世次を考定し、款識を辨測す。一の妙品を聞けば、千金を捐つと雖も惜しまず。紹聖末、朝廷玉璽を得、礼官諸儒に下り議す。言人人として殊なり。公麟曰く、「秦璽は藍田玉を用う。今の玉色正に青く、龍蚓鳥魚を以て文と為し、『帝王受命之符』を著す。玉質甚だ堅し。昆吾の刀・蟾肪無くしては治むべからず。琱法中絶す。此れ真に秦の李斯の為す所なるを疑わず」と。議是れより定まる。
周邦彥
周邦彥、字は美成、錢塘の人。疏雋にして少しく檢わず、州里に推重されずと雖も、博く百家の書に渉る。元豊初、京師に游び、『汴都賦』万余言を献ず。神宗之を異とし、侍臣を命じて邇英閣に読ましめ、政事堂に赴かしめ、太学諸生より一命して正と為し、五歳居りて遷らず、益々辞章に力を尽くす。出でて廬州教授となり、溧水県を知り、還りて国子主簿となる。哲宗召し対せしめ、前賦を誦せしめ、祕書省正字を除す。校書郎・考功員外郎、衛尉・宗正少卿を歴任し、議礼局檢討を兼ね、直龍圖閣を以て河中府を知る。徽宗礼書を畢えしめんと欲し、復た之を留む。年を逾えて、乃ち隆徳府を知り、明州に徙し、入りて祕書監を拝し、徽猷閣待制・提挙大晟府に進む。未だ幾ばくもせず、順昌府を知り、処州に徙し、卒す。年六十六。宣奉大夫を贈らる。
邦彥は音楽を好み、能く自ら曲を度り、楽府長短句を制す。詞韻清蔚にして、世に伝わる。
朱長文
朱長文、字は伯原、蘇州呉の人。年未だ冠せず、進士乙科に挙げらる。足を病みて吏を試みるを肯ぜず、室を築き楽圃坊とし、書を著し古を閲す。呉人其の賢に化す。長吏至るも、先づ造請せざる莫く、政の急ぐ所を謀る。士大夫過ぐる者楽圃に到らざるを恥と為し、名京師に動き、公卿自ら代わるに薦むる者衆し。元祐中、起きて郷に教授し、召されて太学博士と為り、祕書省正字に遷る。元符初、卒す。哲宗其の清きを知り、絹百を賻す。
文三百巻有り、『六經』皆辨説を為す。又『琴史』を著し、其の略を序して曰く、「朝廷太平の功を成し、礼を作り楽を制し、商・周に比隆せんとするに方りては、則ち是の書も豈に虚文ならんや」と。蓋し志を立つること此の如し。
劉弇
劉弇は若い頃より酒を好み、行いを拘束されることを好まなかった。文章を作るに当たっては瑕疵を削り取り、卓抜して凡庸ならざるものがある。『龍雲集』三十巻を著した。周必大がその文集に序を付け、「廬陵では歐陽文忠公が文章をもって韓文公の正統を継ぎ、遂に一代の儒宗となったが、これを継いだのは劉弇である」と言っている。かくまでに推重されたのである。