梅堯臣
梅堯臣、字は聖俞、宣州宣城の人、侍讀學士梅詢の從子なり。詩を作ることに巧みで、深遠古淡を意とし、時に奇巧を出だすも、初めは人に知られず。梅詢の蔭により河南主簿となり、錢惟演が西京留守たりし時、特に嗟賞して、忘年の交わりと為し、引きいて酬唱せしめ、一府ことごとく傾倒す。歐陽修は詩友と為り、自ら及ばずと為す。堯臣ますます刻厲し、精思苦學し、ここにより時に知名となる。宋興りてより、詩を以て名家と為り世に伝わる者、堯臣の如きは、蓋し少なし。嘗て人に語りて曰く、「凡そ詩は、意新にして語工にして、前人の未だ道わざるを得るもの、これ善しと為すべし。必ずや難写の景を状して目の前に在るが如くし、尽さざるの意を含めて言外に見ゆることを得て、然る後に至りと為すなり」と。世、知言と為す。歴て德興縣令、建德・襄城縣を知り、湖州稅を監み、忠武・鎮安判官に簽書し、永豐倉を監す。大臣屢たび薦めて館閣に在るべしとす。召して試み、進士出身を賜い、國子監直講と為り、累遷して尚書都官員外郎に至る。《唐書》の修撰に預かり、成るも、未だ奏せずして卒す。その子一人を録す。
寶元・嘉祐の中、仁宗郊廟に事有りし時、堯臣祭に預かり、輒ち歌詩を献じ、又嘗て上書して兵を言う。《孫子》十三篇に注し、《唐載記》二十六巻、《毛詩小傳》二十巻、《宛陵集》四十巻を撰す。
堯臣家貧しく、酒を飲むを喜び、賢士大夫多くこれに従いて遊び、時に酒を載せて門を過ぐ。談笑を善くし、物と忤わず、詼嘲刺譏を詩に託し、晩年ますます工なり。或る人西南夷の布弓衣を得たり、その織文は乃ち堯臣の詩なり。名の時に重きことかくの如し。
江休復
江休復、字は鄰幾、開封陳留の人。少しく強學博覽し、文を為すこと淳雅、特に詩に善し。琴・弈・飲酒を喜び、聲利を以て意とせず。進士より起家し、桂陽監藍山尉と為る。驢に騎りて官に之く、毎に鞍に據りて書を読みて道を失するに至り、家人これを求得す。書判拔萃に挙げられ、大理寺丞に改め、殿中丞に遷る。その著する所の書を献じ、召して試み、集賢校理と為り、尚書刑部を判ず。蘇舜欽と遊び、進奏院祠神會に預かりて坐し、落職し、蔡州商稅を監む。久しくして、奉符縣を知り、睦州を通判し、廬州に徙り、復た集賢校理となり、吏部南曹・登聞鼓院を判じ、群牧判官と為り、出でて同州を知り、陝西路刑獄を提點し、入りて三司鹽鐵勾院を判じ、起居注を修し、累遷して尚書刑部郎中に至り、卒す。
休復、外は簡曠なれども内行は甚だ飾り有り、孀姑に事うること母の如し。交遊する所は皆一時の豪俊なり。政を為すこと簡易なり。嘗て《神告》一篇を著し、皇嗣未だ立てずと言い、神を仮りて祖宗の意を告げ、以て感悟せんことを冀う。又嘗て言う、昭憲太后の子孫多く民間に流落す、宜しくこれを甄錄すべしと。《唐宣鑒》十五巻、《春秋世論》三十巻、文集二十巻を著す。
蘇洵
蘇洵、字は明允、眉州眉山の人。年二十七にして始めて発憤して學を為し、歳餘りして進士に挙げられ、又茂才異等に挙げらるるも、皆中らず。常に為す所の文を悉く焚き、戸を閉じて益々書を読み、遂に《六經》・百家の説に通じ、筆を下せば頃刻に数千言に及ぶ。至和・嘉祐の間、その二子軾・轍と皆京師に至り、翰林學士歐陽修その著する所の書二十二篇を上る。既に出でて、士大夫これを伝うるを爭い、一時の學者競いて蘇氏に效いて文章を為す。著する所の《權書》、《衡論》、《機策》、文多く悉く録すべからず。その《心術》、《遠慮》の二篇を録す。
《心術》に曰く、
将たるの道は、まさに先ず心を治むべし。太山前に覆るも色変ぜず、麋鹿左に興るも目瞬ぜず、然る後に以て敵を待つべし。凡そ兵は義を上とす。義ならざれば利と雖も動かず。惟だ義のみ以て士を怒らすべく、士は義を以て怒るを以て、百戦と与にすべし。凡そ戦の道は、未だ戦わざればその財を養い、将に戦わんとすればその力を養い、既に戦えばその気を養い、既に勝てばその心を養う。烽燧を謹み、斥堠を厳にし、耕者をして顧忌する所無からしむるは、以てその財を養う所以なり。犒を豊かにしてこれを優遊せしむるは、以てその力を養う所以なり。小勝すれば益々急にし、小挫すれば益々厲まするは、以てその気を養う所以なり。人を用いてその為す所を尽さしめざるは、以てその心を養う所以なり。故に士まさにその怒りを蓄え、その欲を懐いて尽さざるべし。怒り尽きざれば則ち餘勇有り、欲尽きざれば則ち餘貪有り。故に天下を併せると雖も士兵を厭わず。これ黄帝の七十戦して兵殆うせざる所以なり。
凡そ将は智にして厳なるを欲し、凡そ士は愚なるを欲す。智なれば則ち測るべからず、厳なれば則ち犯すべからず。故に士皆己を委ねて命を聴く。安んぞ愚ならざらんや。惟だ士愚にして然る後にこれと皆死すべし。凡そ兵の動くや、敵の主を知り、敵の将を知り、然る後に以て嶮に動くべし。鄧艾穴中に兵を縋るも、劉禅の庸ならざれば、則ち百万の師坐して縛るべし。彼固より侮る所有りて動くなり。故に古の賢将は、能く兵を以て敵を嘗め、又敵を以て自ら嘗む。故に去就を決すべし。
凡そ主将の道は、理を知りて然る後に以て兵を挙ぐべく、勢を知りて然る後に以て兵を加うべく、節を知りて然る後に以て兵を用うべし。理を知れば則ち屈せず、勢を知れば則ち沮まず、節を知れば則ち窮せず。小利を見て動かず、小患を見て遷らず。小利小患は以て吾が技を辱しむるに足らず。夫れ然る後に以て大利大患を支うる有り。惟だ技を養いて自ら愛する者は天下に敵無し。故に一忍は以て百勇を支え、一静は以て百動を制す。
兵には長所と短所があり、敵も我も同じである。敢えて問う、「我が長所を、我が出して用いれば、彼は我と較べようとせず、我が短所を、我が収めて置けば、彼は強いて我と争おうとする。どうすればよいか」と。曰く、「我が短所を、我が抗して露わにし、彼に疑念を抱かせて退かせ、我が長所を、我が密かに養い、彼に慣れ親しませてその中に陥らせる。これが長短を用いる術である」。
兵を用いるに巧みな者は、兵士に顧みる所なく、恃む所あらしめる。顧みる所なければ、死すとも惜しむに足らぬと知り、恃む所あれば、必ず敗れるに至らぬと知る。尺ばかりの鞭で猛虎に立ち向かい、奮い呼んでこれを操り撃つも、徒手で蜥蜴に遇えば、顔色を変えて退く、これ人の情である。これを知る者は、将と為り得る。肌を露わにして剣を按ずれば、烏獲といえども敢えて逼らず、冑を冠り甲を衣て兵を据えて寝れば、童子であっても弓を引いてこれを殺す。故に善く兵を用いる者は形をもって固め、形をもって固め得れば、力に余裕があるのである。
『遠慮』に曰く。
聖人の道には、経・権・機があり、それゆえに民があり、群臣があり、さらに腹心の臣がある。経というものは、天下の民が皆これを知ってよい。権というものは、民は知るを得ず、群臣が知ってよい。機というものは、群臣でさえも知るを得ず、腹心の臣が知るのである。もし聖人に権がなければ、天下の務めを成すことができず、機がなければ、万世の功業を成し遂げることができない。しかし、これらは皆、天下の民の知るべきことではなく、機はまた群臣の聞くべきことでもない。群臣が聞くことができなければ、誰と議するのか。議せずしては成し遂げられない。ならば、いわゆる腹心の臣は、一日も欠くことができないのである。後世の者は、三代が仁義をもって天下を取り、礼楽をもってこれを守ったのを見て、「聖人に機はない」と言う。天下を取り、天下を守るには、機なくしてはできない。ただ、三代の聖人の機は、後世の詐術のようではなく、故に後世の者はそれを見ることができないのである。
機があるからこそ、腹心の臣がある。禹には益がおり、湯には伊尹がおり、武王には太公望がいた。この三臣は、天下の聞かないことを聞き、群臣の知らないことを知った。禹と湯・武王が上でその機を唱え、三臣が下でこれに和し、万世の功業を成し遂げた。下って桓公・文公に至れば、管仲・狐偃がその謀主となり、闔閭には伍員がおり、勾践には范蠡・大夫種がいた。高祖が興った時、大将には韓信・黥布・彭越を任じ、裨将には曹参・樊噲・滕公・灌嬰を任じ、諸侯への遊説には酈生・陸賈・樅公を任じたが、奇機密謀で、君臣が関与しないものは、留侯・酇侯の二人だけであった。唐太宗の臣下には奇才が多いが、委任が深く、任用が密な者も、房玄齢・杜如晦と言われるに過ぎない。君子が善を為す心と小人が悪を為す心は同じである。君子は機を用いてその善を成し、小人は機を用いてその悪を成す。機があれば、悪であっても或いは成し遂げられ、機がなければ、善であっても成し遂げられない。故に腹心の臣は一日も欠くことができないのである。司馬氏は魏の賊であるが、賈充の徒がその腹心の臣となって成し遂げさせた。陳勝・呉広は秦の民にとっての湯・武王であるが、腹心の臣がおらず成し遂げられなかった。なぜか。腹心の臣がおらず、機がなかったからである。あるいは機があっても漏洩したからである。機がないことと、機があっても漏洩することは、譬えば虎豹が人を食らうのに罠を設けることを知らず、罠を設けてもその上を物で覆うことを知らないようなものである。
或る者は言う、「機というものは、創業の君が成し遂げるために仮借するものであり、守成の世には、どうして機を用いることがあろうか、またどうして腹心の臣を用いる必要があろうか」と。ああ、守成の世は、太古の世のように太平に治まるというのか。そうではない。私は機を去ることができるとは思わない。かつて天下の変乱は、常に安泰の中に潜んでいる。田文の言う「子幼くして国危うく、大臣未だ附かず」という時、その時に腹心の臣がなければ、寒心すべきである。昔、高祖の末年に、天下は既に定まったが、また周勃を孝恵帝・孝文帝に遺した。武帝の末年に、天下は既に治まったが、また霍光を孝昭帝・孝宣帝に遺した。天下には泰山のような安定した勢いがあっても、聖人は常に累卵のような心持ちでいる。故に守成の世であっても、腹心の臣は去ってはならないのである。
宰相韓琦はその書を見てこれを善しとし、朝廷に奏上した。召されて舎人院で試験を受けるよう命じられたが、病気を理由に辞して至らず、遂に秘書省校書郎に任じられた。時に太常寺が建隆以来の礼書を修纂することとなり、これに因って霸州文安県主簿とし、陳州項城県令の姚辟と共に礼書を修し、『太常因革礼』一百巻を編んだ。書が完成し、奏上したが返答を見ずに卒去した。家に縑と銀二百を賜ったが、子の軾は賜り物を辞し、官を追贈するよう求めた。特旨をもって光禄寺丞を贈り、有司に命じて船を備えその喪を蜀に帰らせた。文集二十巻、『謚法』三巻がある。
章望之
章望之、字は表民、建州浦城の人。幼くして孤となり、学問を好み、志気は宏放であった。文を為すに弁博で、議論に長じていた。初め伯父得象の蔭により秘書省校書郎となり、杭州茶庫を監った。一年余りして病気を理由に辞して去り、賢良方正科に挙げられんことを求めたが、得象が相位にあり、嫌疑を避けてこれを阻んだ。そこで時政について万言余りの上書をしたが、返答がなかった。母の喪に服し、哀毀瘠せて礼の制を越えた。喪が明けて後、江・淮の間を浮游し、艱苦を犯し、汲々として衣食を営んだが、自ら悔いず、人が仕官を勧めても応じなかった。その兄の拱之が晋江県の知事であった時、太守の蔡襄に逆らい、襄は怒り、贓罪を誣えてこれを貶した。望之は号泣し、力を尽くして朝廷に訴えた。時に襄は貴顕であったため、事は久しく正されなかった。望之は訴えを止めず、上書は十余りに及び、数年を経て獄が起こり、朝廷が再び審理した結果、遂に拱之の冤罪を脱し、元の如く官に復した。望之は遂に再び仕官しなかった。覃恩により太常寺太祝・大理評事に遷った。翰林学士の欧陽修・韓絳、知制誥の呉奎・劉敞・范鎮が同しくその才を推薦し、宰相も少し用いようとしたが、建康軍節度判官に簽書することを除しても赴任せず、また烏程県知事に除しても、命を受けるよう促されたが固く辞し、遂に光禄寺丞の官をもって致仕し、卒去した。
望之は議論を好み、孟子の性善説を宗とし、荀卿・揚雄・韓愈・李翱らの説を排し、『救性』七篇を著した。欧陽修が魏・梁を正統と論ずるを、望之は非とし、『明統』三篇を著した。江南の人李覯が『礼論』を著し、仁・義・智・信・楽・刑・政は皆礼より出づと謂うを、望之はその説を訂正し、『礼論』一篇を著した。その議論には人に優れるもの多くあり。嘗て北は斉・趙に遊び、南は湖・湘に泛び、西は汧・隴に至り、東は呉会に極み、山水の勝地、歴らざる所なし。歌詩・雑文数百篇あり、三十巻に集む。
王逢
王逢、字は会之、太平州当塗の人。その四世の祖居巖、唐に仕えて驍衛長史となり、乱に遭い官を棄て、青山に帰り居る。楊行密が淮南を拠るや、人をして兵を以て迫り起す。居巖はその家人を散遣し、而して一身を以て行密に帰し、湖州別駕を授くるも、遣わさず。一日、行密大会す、居巖を失い、急ぎ人をしてその家を掩わしむるに、一人も在る者なし。その後、人あり嵩山にて空の石室を見、その旁を詢うるに、或いは云う、道人王居巖ここに居り、去りてその終わる所を知る莫しと。子孫仕えて顕る者無く、逢に至り、博学にして文を属する能く、特に講説に長ず。
少くして進士に挙げられ中らず、去り、蘇州に教授す、学者嘗て数百人。晩く始めて第に登り、南雄州軍事判官を補し、帰りて国子監直講兼隴西郡王宅教授となり、李瑋学に従い、これを事うること甚だ謹みたり。岐国公主既に降嫁し、瑋は逢の為に官を遷すを求め、且つ命有り、逢辞して受けず。久しくして、太常博士を以て徐州を通判し、卒す。
逢は人となり楽易にして、朋友に篤く、胡瑗と最も善し。書を著すを喜び、『易伝』十巻、『乾徳指説』一巻、『復書』七巻有り。妻陳氏も亦賢行有り、子無し。
孫唐卿
孫唐卿、字は希元、青州の人。少くして学行有り、年十七、書を以て韓琦に謁し、琦甚だこれを器とす。黄庠・楊寘と景祐以来倶に進士として挙首となり、一時に名有り。唐卿初め第に中り、陝州を通判し、吏事に於いて素より習うが若し。民に母再び人に適いて死し、及びその父を葬り、母の祔せざるを得ざるを恨み、乃ち母の喪を盗みて同くこれを葬る者あり。有司法を以て論ず、唐卿時に府事を権む、乃ち曰く「是れ孝を知りて法を知らざるのみ」と。乃ちこれを釈して聞かしむ。未幾、父憂に丁り、毀瘠して血を嘔いて卒す。詔してその家を賻す。
黄庠 附
楊寘 附
唐庚
唐庚、字は子西、眉州丹稜の人なり。文を属するに善く、進士に挙げられ、稍く宗子博士と為り、張商英その才を薦め、提挙京畿常平を除す。商英相を罷めらるるや、庚も亦坐して貶せられ、惠州に安置せらる。赦に会い、官を復し承議郎、提挙上清太平宮と為る。蜀に帰るに、道病して卒す。年五十一。庚文を為すこと精密、世務に通じ、『名治』・『察言』・『閔俗』・『存旧』・『内前行』諸篇を作り、時人これを称す。文集二十巻有り。子文若、自ら伝有り。
兄 伯虎
文同
文同、字は與可、梓州梓潼の人、漢の文翁の後裔なり、蜀人はなお「石室」をもってその家を称す。同は方口秀眉、学をもって世に名高く、操韻高潔、自ら「笑笑先生」と号す。詩・文・篆・隸・行・草・飛白を善くす。文彦博が成都を守る時、これを奇とし、同に書を致して曰く「與可の襟韻は灑落、晴雲秋月の如く、塵埃到らざるなり」と。司馬光・蘇軾は特にこれを敬重す。軾は同の従表弟なり。同はまた竹を画くことを善くし、初めは自ら貴重とせず、四方の人、縑素を持ちて請う者、門に足相躡めり。同はこれを厭い、縑を地に投げて罵りて曰く「吾れ将にこれをもって襪と為さん」と。好事者これを伝えて口実と為す。初め進士に挙げられ、稍々太常博士・集賢校理に遷り、陵州を知り、また洋州を知る。元豊初年、湖州を知り、明年、陳州宛丘駅に至り、忽ち留まって行かず、沐浴し衣冠し、正坐して卒す。
崔公度は嘗て同とともに館職を為し、京南にて同に会うも、全く言無し、別れんとするに及んで、ただ云う「明日また来るか?子と話さん」と。公度は「話」を「画」と心得、明日再び往くに、同曰く「公と話さん」と。すなわち左右を顧み、聴く者あるを恐る。公度はじめて同が将に言わんとするあり、画に非ざるを知る。同曰く「吾れ聞く、人妄語せざる者は、舌鼻を過ぐべしと」と。すなわちその舌を吐き、三たびこれを餅の状の如く疊み、これを引きて眉間に至らしむ、公度大いに驚く。京中に同の死を伝うるに及び、公度は乃ち見し所の生者に非ざるを悟る。『丹淵集』四十巻、世に行わる。
楊傑
楊傑、字は次公、無為の人。少時に時において名有り、進士に挙げらる。元豊年中、太常の官に数任し、一時の礼楽の事、皆討論に預かる。嘗て玉牒帝系を議し、僖祖より上は、世次知る莫く、則ち僖祖を始祖と為すに疑い無く、宜しく僖祖をもって感生帝に配すべしと。また孝惠賀后・淑德尹后・章懐潘后は皆祖宗が初めに納れたる后、孝章宋后は嘗て天下に母儀せしを請い、升祔の礼、久しく講ぜず、宜しく慈聖光献が崇配の日に因り、四后の神主を升せしめ祖宗の祏室に祔し、天下の大疑を断ち、宗廟の大法を正すべしと。ここにより四后始めて升祔を得。
神宗、秘書監劉几・礼部侍郎范鎮に詔して楽を議せしむ。几は傑に命じて同議せしむるを請う。傑、大楽の七失を言い、併せて図上す。神宗、几・鎮を下して参定せしむ。鎮は傑の議を用いず、自ら制す。楽成り、詔してこれを褒む。元豊末、晋州教授陸長愈言う「近く孟軻を鄒国公に封ず、宜しく春秋の釈奠に、顔子と並び配すべし」と。太常に下して議せしむ。傑と少卿葉均・博士盛陶・王吉・辛公佐、以って謂う「凡そ配享従祀は、皆孔子同時の人なり、今孟軻を以て並び配するは、是に非ず」と。礼部また言う「唐より今に至るまで、伏勝・高堂生等二十一賢を以て従祀す、豈に必ずしも同時の人ならんや」と。詔して礼部の議に従う。
哲宗即位し、楽を議し、また范鎮の説を用う。傑また鎮の楽章曲名・宮架の磬を加うる・十六鐘磬の非を破る。また鎮が黒黍を以て秠を用い律・銅量を制し、これを叩いて黄鐘に合わず、世に真黍無きを以て、太府尺を以て楽尺と為し、旧楽を三律下るを論ず。詳しくは『楽志』に具わる。傑は神宗の時に鎮と異議有り、ここに至りまたこれを攻む。鎮の楽律ついに用いられず。元祐年中、礼部員外郎と為り、出でて潤州を知り、両浙提点刑獄を除かれ、卒す。年七十。自ら「無為子」と号す。文集二十余巻、『楽記』五巻有り。
賀鑄
賀鑄、字は方回、衛州の人、孝恵皇后の族孫なり。長さ七尺、面は鉄色、眉目聳拔す。当世の事を談ずるを喜び、可否少しも仮借せず、貴要権一時に傾くも、小しく中意せざれば、極口にこれを詆り遺辞無し、人以って侠に近しと為す。博学強記、言語に工み、深婉麗密、組繡を次ぐが如し。特に度曲に長じ、人の棄遺する所を掇拾し、少しく隠括を加うれば、皆新奇と為る。嘗て言う「吾が筆端は李商隠・温庭筠を駆使して常に奔命に暇あらず」と。諸公貴人多く客としてこれを致すも、鑄は或いは従い或いは従わず、その見たく欲せざる所は、終に貶せず。
初め、宗女を娶り、籍を右選に隷し、太原工作を監む。貴人の子同事有り、驕倨して相下らず。鑄、工作の物を盗めるを廉得し、侍吏を屏い、これを密室に閉じ、杖を以て数えて曰く「来たれ、若し某時に某物を盗みて某の用と為し、某時に某物を盗みて家に入る、然るか」と。貴人の子惶駭し、これ有りと謝す。鑄曰く「吾が治に従わば、白するを免れん」と。鑄すなわち起ち、自らその膚を袒ぎ、これを数下に杖つ。貴人の子叩頭して哀を祈る。すなわち大笑して釈きて去る。ここより諸に気力を挟みて頡頏する者、皆側目して仰ぎ視ることを敢えず。この時、江・淮の間に米芾ありて魁岸奇譎を以て名を知られ、鑄は気侠雄爽を以て適い相先後す。二人毎に相遇えば、瞋目抵掌し、論辯鋒起し、終日各々屈すること能わず、談者は争いて伝えて口実と為す。
元祐年中、李清臣執政し、通直郎に換え泗州を通判するを奏し、また太平州を倅とす。竟に気を尚び酒を使うを以て、美官を得ず、悒悒として志を得ず、宮祠の禄を食み、退きて呉下に居り、稍々世故を引いて遠ざかるに務め、また復た平日の如き軒輊無し。家に書万余巻を蔵し、手自ら校讎し、一字の誤り無く、ここを以て門を杜いて将にその老いを遂げんとす。家貧しく、子銭を貸して自ら給し、負う者有れば、すなわち券を折りてこれに与え、秋毫も以て人に丐わず。
鑄の為す所の詞章、往々として人の口に伝播す。建中靖国の時、黄庭堅黔中より還り、その「江南梅子」の句を得て、謝玄暉に似たりと為す。その交わる所、終始厚き者は、ただ信安の程俱のみ。鑄自ら歌詞を裒め、名づけて『東山楽府』とす。俱これが序を為す。嘗て自ら言う、唐の諫議大夫知章の後なり、かつその初めを推本し、王子慶忌より出で、慶を以て姓と為し、越の湖澤いわゆる鏡湖なるものに居る、本は慶湖なり、漢の安帝の父清河王の諱を避け、賀氏に改め、慶湖もまた転じて鏡と為ると。当時何に拠るかを知らず。故に鑄自ら「慶湖遺老」と号す。『慶湖遺老集』二十巻有り。
劉涇
劉涇、字は巨済、簡州陽安の人。進士に挙げらる。王安石その才を薦め、召見し、経義所検討を除く。久しくして太学博士と為り、罷めて咸陽県を知り、常州教授、莫州・成都府を通判し、国子監丞を除かれ、処・虢・真・坊の四州を知る。元符末上書し、召対し、職方郎中を除く。卒す。年五十八。涇は文を為すに奇怪の語を務め、進取を好み、多く人の排斥を受け、屡々躓きて伸びず。
同じく時に鄭少微という者あり、字は明挙、成都の人なり、涇とともに文をもって知名たり、而して仕えて偶わず。
鮑由
鮑由、字は欽止、処州龍泉の人なり。進士に挙げらる。嘗て王安石に従いて学び、又蘇軾に親炙す、故に其の文は汪洋閎肆、詩は特に高妙なり。徽宗召対し、工部員外郎を除し、居ること久しからず、以て合わざるを以て去り、泗州転般倉を監するを責む。河東・福建路常平、広西・淮南転運判官を歴任し、復た召されて郎と為る。言者に以て罷めらる、元封観を提点す。起きて明州を知り、又海州を知り、復た祠を奉ず。卒す、年五十六。嘗て杜甫の詩を注し、文集五十巻有り。
黄伯思
伯思は古文奇字を好み、洛下の公卿の家、商・周・秦・漢の彝器の款識を、字画体製を研究し、悉く能く是非を辨正し、其の本末を道い、遂に古文を以て名家と為り、凡そ字書の討論備く尽くす。初め、淳化中に古法書を博く求め、待詔王著に命じて法帖を続正せしむ、伯思其の乖偽龐雑を病み、載籍を考引し、咸に拠る所有り、『刊誤』二巻を作る。是より篆・隷・正・行・草・章草・飛白皆至妙絶に至り、其の尺牘を得る者は、多く蔵弆す。
伯思は頗る道家を好み、自ら「雲林子」と号し、別字を霄賓とす。京に至るに及び、人に夢に告げて曰く「子久しく人間に非ず、上帝命有りて文翰を典司す」と。覚めて之を書す。一月を踰えず、政和八年に卒す、年四十。伯思学問は揚雄を慕い、詩は李白を慕い、文は柳宗元を慕う。文集五十巻、『翼騒』一巻有り。
二子:詔、右宣教郎・荊湖南路安撫司書写機宜文字;言乃、右従事郎・福州懐安尉、伯思の平日の議論題跋を裒めて『東観余論』三巻と為す。