宋史

列傳第二百〇一 文苑四 穆脩 石延年劉潛 蕭貫 蘇舜欽 尹源 黃亢 黃鑑 楊蟠 顏太初 郭忠恕

穆修

穆修、字は伯長、鄆州の人。幼より学を嗜み、章句に事とせず。真宗が東封した時、詔して斉・魯の経行の士を挙げさせ、修は選に預かり、進士出身を賜り、泰州司理参軍に調せられた。才を負って衆と齟齬し、通判がこれを忌み、人をしてその罪を誣告せしめ、池州に貶せられた。途中で逃れて京師に至り、登聞鼓を叩いて冤を訴えたが、報いられず。貶所に居ること歳余、赦に遇って釈放され、母を迎えて京師に住まわせ、時折出遊して乞食して養いを給した。久しくして、潁州文学参軍を補し、蔡州に徙った。明道年中、卒す。

修の性は剛介にして、時に時病を論斥し、権貴を誹謗するを好み、人と交わらんと欲すれば、往々これを拒んだ。張知白が亳を守った時、亳に豪士ありて仏廟を成し、知白は人をして修を召して記を作らせた。記が成ると、士の名を書かなかった。士は白金五百を修に遺して寿とし、且つ記に名を載せんことを求めた。修は金を庭下に投げ、装いを整えて郡を去った。士は謝したが、終に受けず、且つ曰く、「吾れ寧ろ糊口して旅人と為るとも、終に匪人を以て吾が文を汚さじ」と。宰相、修を識らんと欲し、且つ将に学官に用いんとしたが、修は終に往って見ず。母死す、自ら櫬を負って以て葬り、日に『孝経』・『喪記』を誦し、浮屠を飯して仏事とせず。

五代より文敝れ、国初、柳開始めて古文を為す。その後、楊億・劉筠は声偶の辞を尚び、天下の学者靡然としてこれに従う。修は是の時に当たり独り古文を以て称せられ、蘇舜欽兄弟多くこれに従いて遊ぶ。修は窮死すと雖も、然れども一時の士大夫、能く文を為す者を称するには必ず穆参軍と曰えり。

慶曆年中、祖無擇、訪ねてその著せる詩・書・序・記・誌等数十首を得、集めて三巻と為す。

石延年

石延年、字は曼卿、先世は幽州の人。晋、幽州を以て契丹に遺す、その祖、挙族南走し、宋城に家す。延年、人と為り跌宕として気節を任じ、書を読みて大略を通じ、文を為すこと勁健、詩に於いて最も工にして書を善くす。

累挙して進士に中らず、真宗、三挙進士を録し、以て三班奉職と為す。延年、恥じて就かず。張知白、素よりこれを奇とし、謂いて曰く、「母老いて乃ち禄を択ぶか」と。延年、已むを得ず命に就く。後に右班殿直を以て太常寺太祝に改め、金郷県を知り、治名あり。薦者を用いて乾寧軍を通判し、永静軍に徙り、大理評事・館閣校勘と為り、光禄・大理寺丞を歴任し、上書して章献太后に、政を還して天子にせんことを請う。太后崩ず、范諷、延年を引きんと欲す。延年、力を以てこれを止む。後に諷敗る、延年、諷と善きに坐し、職を落として海州を通判す。久しくして、秘閣校理と為り、太子中允に遷り、同判登聞鼓院と為る。

嘗て上言す、天下戦を知ること三十余年、二辺の備えを為さんことを請う。報いられず。元昊の反するに及び、始めてその言を思い、召見し、稍々その説を用う。命じて河東に往きて郷兵を籍することを得、凡そ十数万を得たり。時に辺将遂に以て賊を捍がんと欲す。延年笑いて曰く、「此れ吾が粗を得たり。夫れ教えざるの兵は勇怯相雑じ、若し怯なる者敵を見て動けば、則ち勇なる者も亦牽かれて潰えん。今既に教うる暇あらず、宜しくその敢えて行く者を募るべし、則ち人々皆勝兵なり」と。又嘗て人を募りて唃廝囉及び回鶻に使わし、兵を挙げて元昊を攻めしめんことを請う。帝嘉納す。

延年、劇飲を喜び、嘗て劉潜とともに王氏酒楼に造り対飲し、終日一言も交わさず。王氏、その飲むこと多きを怪しみ、以て常人に非ずと為し、益々美酒肴果を奉る。二人飲啖自若、夕に至りて酒色無く、相揖して去る。明日、都下に王氏酒楼に二仙来りて飲むと伝う。已にして乃ち劉・石なるを知る。延年、酣放と雖も、若し世務を以て攖うべからざるが如し、然れども人と天下の事を論ずるに、是非当らざること無し。

初め、天章閣待制呉遵路とともに河東に使し、及び卒すに及び、遵路朝廷に言い、特もってその一子を官す。

劉潜 附

劉潜、字は仲方、曹州定陶の人。少より卓逸として大志有り、古文を為すを好み、進士を以て起家し、淄州軍事推官と為る。嘗て蓬莱県を知り、代わりて還るに、鄆州を過ぐ。方に曼卿と飲まんとし、母の暴疾を聞き、亟に帰る。母死す、潜一慟して遂に絶ゆ。その妻復た潜を撫でて大号して死す。時に人これを傷み、曰く、「子は孝に死し、妻は義に死す」と。

同じ時に文学をもって京東で称された者として、斉州歴城に李冠あり、進士に挙げられて及第せず、同《三礼》出身を得て、乾寧主簿に調じ、卒す。『東皐集』二十巻あり。

蕭貫

蕭貫、字は貫之、臨江軍新喻の人なり。俊邁にして文を能くし、気概を尚ぶ。進士甲科に挙げられ、大理評事となり、安・宿二州を通判し、太子中允・直史館に遷る。仁宗即位し、太常丞・同判礼院に進む。吏部南曹・開封府推官・三司塩鉄判官を歴任し、京東転運使となる。

時に提挙捉賊の劉舜卿は盗賊を捕らえることを善くし、「劉鉄弾」と号し、功を恃んで不法を為し、前後その凶悍を畏れて、敢えて治むる者なし。貫至りて、これを発し、廃して民と為す。江東に徙め、洪州を知ることを改め、累遷して尚書刑部員外郎となる。前に江東をして部内の吏の賄賂を受くるを察せざるに坐し、降格して饒州を知る。

撫州司法参軍の孫齊という者あり、初め明法をもって官を得、その妻杜氏を里中に留め置き、欺いて周氏を娶りしょくに入る。後に周氏官に訴えんと欲す、齊は髪を断ち誓って杜氏を出す。久しくして、また娼の陳氏を納れ、周氏の生める子を携えて撫州に至る。一月を踰えず、周氏至る、齊は捽んで廡下に置き、偽券を出だして曰く、「汝は傭婢なり、敢えてかくの如くすべきや」と。乃ちその生める子を殺す。周氏州及び転運使に訴うるも、皆受けず。或人これに告げて曰く、「饒州を知る蕭史君に訴うれば、事白からん」と。周氏は布衣に姓名を書き、道上に食を乞い、馳せて貫に告ぐ。撫州はその管轄に非ざるも、貫は特にこれを治む。赦ありて後も、猶齊を濠州に編管す。兵部員外郎に遷り、召還され、将に知制誥を試みんとす、会に献・懿二皇太后の陵を営建す、未だ試みずして卒す。

貫は事に臨み敢為にして、時に苟くも合せず。初め、疾を感ず、緑衣の中人に召されて帝の所に至り、『禁中暁寒歌』を賦す、詞語清麗、人これを唐の李賀に比す。

蘇舜欽

蘇舜欽、字は子美、参知政事易簡の孫なり。父耆は才名あり、嘗て工部郎中・直集賢院と為る。舜欽は少にして慷慨大志あり、状貌怪偉なり。天聖中に当たり、学者の文を為すもの多く偶対を病む、独り舜欽と河南の穆修は古文・歌詩を好み、一時の豪俊多くこれに従いて遊ぶ。

初め父の任により太廟齋郎を補し、滎陽けいよう県尉に調ず。玉清昭応宮災あり、舜欽年二十一、登聞鼓院に詣でて上疏して曰く、

烈士は鈇鉞を避けずして諫を進め、明君は過失を諱まずして忠を納る、是をもって策を懐く者は必ず上前に吐き、冤を蓄うる者は腹誹に至ること無し。然れどもこれを言うの難きはこれを容るるの難きに如かず、これを容るるの難きはこれを行うの難きに如かず、これを言う者必ずこれを容れこれを行えば、則ち三代の主なり、幸いに陛下留め聽かんことを。

臣観るに今歳春より夏に徂るまで、霖雨陰晦、未だ嘗て少しく止まること無し、農田菑を被る者幾くんば十九。臣以て謂う、任用人の失うる、政令過多、賞罰中らざるの召す所なりと。天の災を降すは、陛下を悟らしめんと欲するなり、而るに大臣は刑獄の濫るるに帰咎し、陛下これを聽く、故に肆赦して天下をして禳救と為さんとす。かくの如くすれは則ち人を殺す者は死せず、人を傷つくる者は罪に抵せず、而して以て天意に合せんと欲するなり。古は滞訟を断決して以て水旱を平らぐ、赦を用ゆるを聞かず、故に赦下の後、陰霾今に及ぶ。

『前志』に曰く、「積陰は陽を生じ、陽生ずれば則ち火災見る」と。夏の気に乗じて玉清宮に発泄し、震雨雑下し、烈焰四起し、楼観万疊、数刻にして尽くす、火備に慢なるに非ず、乃ち天の垂るる戒めなり。陛下まさに服を降し、膳を減じ、正寝を避け、躬を責め己を罪し、哀痛の詔を下し、非業の作を罷め、失職の民を拯い、輔弼及び左右に国体に裨益なき者を罷め、窃に権威を弄する者を去るべし。政刑の失を念い、芻蕘の論を収め、庶幾くは以て災を変じて祐と為す所以なり。

浹日の間、未だかくの如くするを聞かず、而して工役を計りて以て修復を図らんとす、都下の人聞く者駭惑し、首を聚めて横議し、皆謂う宜しからずと。皆曰く、章聖皇帝勤倹十余年、天上富庶、帑府流衍し、乃ち斯の宮を作り、その功を畢るるに及び、海内虚竭す。陛下即位して十年に及び、数たび水旱に遭う、征賦減入すと雖も、而も百姓困乏す。若し大いに土木を興さば、則ち費用紀極を知らず、財力は内に耗し、百姓は下に労す、内耗下労、何を以て国と為さんや。況んや天これを災いし、己これに違う、是れ天に競わんと欲し、己を省みるの意無きなり。天に逆らうは不祥、己を安んずるは難任、厚貺を祈らんと欲し、その得べけんや。今陛下のために計るに、吉士を求め、佞人を去り、徳を修めて以て至治に勤むるに若かず、百姓をして足給せしめて征稅を寛減せば、則ち以て天意に謝し民情を安んずることを得べし。

夫れ賢君は変を見て、道を修め凶を除き、乱世は象無く、天譴告せず。今幸いに天変を見るは、是れ陛下己を修むるの日なり、豈に忽にせんや。昔漢元帝三年、茂陵白鶴館災あり、詔して曰く、「廼者火災孝武園館に降る、朕戦慄恐懼し、変異を燭せず、罪朕が躬に在り。群有司又肯て極言朕が過をせず、以て斯に至る、将に何を以てか寤らんや」と。夫れ茂陵は上都に及ばず、白鶴館は大いに此の宮に及ばず、彼すら尚詔を四方に降し、以て己が過を求め、是れ帝王の憂危治を念い、汲汲としてかくの如きを知る。

臣又『五行志』を按ずるに、「賢佞分別し、官人敘有り、率ゆるに旧章に由り、礼功勳を重んずれば、則ち火その性を得たり。若し信道篤からず、或いは虚偽を耀かし、讒夫昌え、邪正に勝てば、則ち火その性を失い、上より降る。及び濫炎妄りに起り、宗廟を燔き、宮室を焼くは、師徒を興すと雖も救うこと能わず」と。魯成公三年、新宮災あり、劉向は成公の三桓子孫の讒を信じ、父の臣を逐うの応と謂う。襄公九年春、宋火あり、劉向は宋公の讒を聽き、その大夫華弱を逐いて魯に奔るの応と謂う。今宮災豈にまた是れ有らんや。願わくは陛下拱黙内省してこれを追革し、再造の労を罷め、前世の法を述べしめよ、天下の幸いなり。

また上書して曰く、

歴代の聖神の君を観るに、讜議を聞くことを好み、蓋し四海は至遠にして、民に隠慝有り、遍く照らすべからざるを以て、故に愚賤の言を間わずして択び用う。然る後に朝に遺政無く、物に遁情無し、佞臣有りと雖も、邪謀進むを得ざるなり。

臣、乙亥の詔書を拝見し、越職して言事するを戒め、四方に播告し、驚惑せざる無く、往往窃に議し、恐らくは陛下の意に出ずるに非ざるかとす。蓋し陛下即位以来、屡詔を群下に下し、直言を勤めて求めしめ、百僚をして転対せしめ、匭函を置き、直言極諫科を設く。今詔書頓に前事に異なり、豈に大臣の陛下の聰明を雍蔽し、忠良の口を杜塞するに非ざるや、惟に朝政を虧損するのみならず、実にまた自ら覆亡の道を取るなり。夫れ善を納れ賢を進むるは、宰相の事なり、君を蔽いて自ら任ずるは、未だ或いは亡びざるは無し。今諫官・御史は悉く其の門より出で、但だ旨意を希い、即ち美官を獲、多士盈庭たりと雖も、噤して語るを得ず。陛下拱黙せば、何を由りてか尽く天下の事を聞かん。

前に孔道輔・范仲淹は剛直にして撓まず、台諫の位に致り、後に他官に改むと雖も、献納を忘れず。二臣は、緘口数年、坐して卿輔を得るを知らざるに非ざるなり、蓋し敢へて陛下の委注の意を負うに忍びざるなり。而して皆中傷に罹り、竄謫して去り、正臣をして気を奪はしめ、鯁士をして舌を咋ましめ、時に弊を目撃すと雖も口敢へて論ぜず。

昔、晉侯、叔向に問うて曰く、「国家の患ひ孰れか大なる。」対えて曰く、「大臣禄を持して極諫せず、小臣罪を畏れて敢へて言わず、下情上通せず、此れ患の大なる者なり。」故に漢文は女子の説に感じて肉刑を是れ除き、武帝は三老の議を聴きて江充を以て族す。肉刑は古法、江充は近臣、女子・三老は愚耄疏隔の至りなり。蓋し義の在る所は、賤しと雖も忽にすべからず、二君之に従い、後世聖と称す。況んや国家爵位を班設し、豪英を列陳す、故に当に其の公忠を責むべく、安んぞ之を循黙に教うべけんや。賞して之をして諫めしむるも、尚ほ言わざるを恐る、敢へて言うを罪すれば、孰れか肯て献納せん。物情閉塞し、上位孤危なり、茲に軫念すれば、驚怛と為すべし。覬望するに、陛下徳音を発し、前詔を寢め、采納に勤め、芻蕘に下し及ぼし、以て常に隆平を守り、近輔を保全せんことを。

尋いで進士に挙げられ、光禄寺主簿に改め、長垣県を管知し、大理評事に遷り、在京店宅務を監す。康定中、河東地震す、舜欽、匭に詣でて疏を通じて曰く、

臣聞く、河東地大いに震裂し、水湧きて屋廬城堞を壊し、民畜を殺すこと幾十万、旬を歴て止まず。始め聞きて惶駭疑惑す。窃に思うに、編策の紀す所の前代衰微喪乱の世より、亦た未だ嘗て此の大変有らざるなり。今四聖統を接ぎ、内外平寧、戎夷交歓し、兵革偃息す、固に夫れ衰微喪乱の世と異なり、何ぞ災変の作すや反って之に過ぎるや。且つ妖祥の興るは、神実に之を尸し、各類を以て告げ、未だ嘗て妄りにせず。天人の応、古今の鑑、大いに恐懼すべし。豈に王者逸に安んじ、近臣を信任して政事を省みざるか。廟堂の上に、非才禄を昌にし、窃に威福を弄して上事を侵す者有るか。又豈に施設の政に民に便ならざる者有るか。深宮の中に、陰教謹まずして媚道を以て進む者有るか。西北の羌夷に盟に背き順を犯すの心有るか。臣遠方より来たり、近事を知らず、心疑いて口敢へて道わず。怪しむ所は、朝廷此の大異を見て、闕政を修めず、以て天戒を厭い民心を安んじ、黙然として恤みせず、事無き時の如きなり。諫官・御史、牘を進めて災害の端を鋪白し、以て上心を開くを聞かず。然れども民情洶洶たり、首を聚めて横議し、皆憂悸の色有り。

臣、世に君禄を受け、身国命に齒し、恵沢に涵濡し、以て此の躯を長うす、目撃し心思し、驚怛流汗し、肝胆を尽く吐きて、以て封奏を拝せんと欲す。又范仲淹の剛直を以て姦臣に忤い、言用いられずして身竄謫せられ、詔を天下に降し、越職して言事するを許さざるを見る。臣権右を避けず、必ずや横に中傷に罹り、国に補う無からんことを恐れ、因りて自ら悲嗟し、措く所を知らず。

既にして孟春の初め、雷震暴かに作す、臣以謂う、国家の闕失は、衆臣敢へて陛下の為に言う者無く、唯天丁寧として以て陛下に告ぐ。陛下果たして能くはい然として明詔を発し、群臣皆言を献ずるを得しむ、臣初め之を聞きて踊躍欣抃す。旬日の間頗る言事する者有り、其の間豈に時に病に切中する者無からんや、未だ朝廷挙げて之を行うを聞かず、是れ亦た虚言を収めて実効に根ざさざるなり。臣聞く、唯だ誠を以ての外天に応うる無く、唯だ実を以ての外民を安んずる無し、今天に応うるに誠を以てせず、民を安んずるに実を以てせず、徒らに空文を布き、人の太息を増すのみ、将た何を以てか神霊に謝し弊乱を救わんや。豈に大臣天聴を蒙塞し、陛下の為に行わざるか。豈に言事迂闊にして取る所無く、行うに足らざるか。臣窃かに綱紀の隳敗し、政化の闕失するを見る、其の事甚だ衆し、挙ぐるに概すべからず、謹みて大なる者二事を条して以て聞かしむ。

一に曰く心を正す。夫れ国を治むるは家を治むるが如し、家を治むる者は先づ己を修め、己を修むる者は先づ心を正す、心正しければ則ち神明集まりて万務理まる。今民間に伝う、陛下比年稍々俳優賤人に邇き、燕楽節を踰え、賜予度を過ぐと。燕楽節を踰うれば則ち蕩し、賜予度を過ぐれば則ち侈なり。蕩なれば則ち政事親しまず、侈なれば則ち用度足らず。臣窃かに国史を観るに、祖宗日々朝に視し、旰昃にして方罷み、猶後苑に坐し、門に白事する者有れば、立ちて召対を得、委曲詢訪し、小善必ず納る。真宗末年不豫にして、始めて間日に視事す。今陛下春秋鼎盛、実に宵衣旰食して治を求むるの秋なり、而るに乃ち隔日に殿に御す、此れ政事親しまざるなり。又府庫匱竭し、民蓋蔵鮮し、誅斂科率、殆んど虚日無し。経費を計度すれば、祖宗の時に二十倍す、此れ用度足らざるなり。政事親しまず、用度足らざるは、誠に国の大憂なり。臣望む、陛下己を修めて以て人を御し、心を洗いて以て物を鑒み、聴断に勤め、燕安を捨て、優諧近習の纖人を放棄し、剛明鯁直の良士に親近せられんことを。此の災変に因りて、以て永図を思わば、則ち天下幸甚なり。

第二に賢才を選ぶこと。明主は賢を求めることに労し、任使することに逸するが、満庭の士を尽く選ぶ必要はなく、一二の輔臣及び御史・諫官を選ぶのみである。陛下は人を用いるに未だ慎んで選んでいない。先ごろ王随が吏部侍郎より門下侍郎平章事に遷り、十資を超越して、また上相となった。これは非常の恩であり、必ず非常の才を待つべきであるのに、随は虚庸にして邪諂であり、輔相の器ではなく、降麻の後、物論沸騰した。故に疾がその身に纏い、災が国に仍いた。これも天意が我が朝を愛惜し、陛下に鑑とさせようとするものである。また石中立は近頃朝行に在り、詼諧を以て自ら任じ、士人に宴集ある時は必ず席間に置き、その言語を聴きて笑噱の資としていた。今これを近輔に処するも、嘉謀を聞かず、物望甚だ軽く、人情に忽せにされ、災害を屡々降らせて朝廷を尊ばしめないのは、近臣に才なき者が多いからである。陛下の左右が尚おかくの如し、天下の官吏は知るべし。実に遠人が中国を軽んじて笑うことを恐れ、宜しく即ち行って罷免し、別に賢才を選ぶべきである。また張観は御史中丞と為り、高若訥は司諫と為る。二人は皆高第に登り、頗る文詞を以て進んだが、温和軟懦にして、剛鯇敢言の気無し。これらは皆執政が引抜建置し、その慎默を欲し、敢えてその私を挙揚せず、時に言う所あれば必ず暗に関説し、傍人のこれを窺うは、甚だ笑うべきである。故に御史・諫官の任は、臣は陛下に親しくこれを選ばせ、執政の門下より出さしめざるを欲す。台諫官既にその人を得れば、則ち近臣は敢えて過ちを為さず、乃ち下を馭するの策である。

臣は以て謂う、陛下身既に勤儉にして、輔弼・台諫又皆人を得れば、則ち天下何ぞ治まらざるを憂え、災異何ぞよりかして生ぜん。惟うに陛下少しく留意せられよ。

范仲淹はその才を薦め、召して試みられ、集賢校理と為り、進奏院を監す。舜欽は宰相杜衍の女を娶り、衍は時に仲淹・富弼と政府に在り、多く一時の聞人を引用し、庶事を更張せんと欲す。御史中丞王拱辰等はその為す所を便とせず。会に進奏院の神を祠るに、舜欽は右班殿直劉巽と輙ち故紙を鬻いだ公銭を用いて妓楽を召し、間夕に賓客を会す。拱辰はこれを廉得し、その属魚周詢等を諷して劾奏せしめ、因って衍を動揺せんと欲す。事は開封府に下って劾治せられ、ここにおいて舜欽は巽と俱に自盗に坐して除名せられ、同時に会した者は皆知名の士、因縁して罪を得て四方に逐い出されたる者十余人。世は過刻と為すも、拱辰等は方に自ら喜んで曰く「吾一挙にして網羅し尽くせり」と。

舜欽は既に放廢せられ、呉中に寓す。その友人韓維は世京師に居りながら都下を去り離れ、親交を隔絶するを以て責む。舜欽の報書に曰く。

蒙くは責めを聞く、兄弟京師に在るを以て、義を以て相い就かず、独り外数千里に羈し、自ら愁苦を取るとなす。予豈に親戚の情無く、豈に会合の楽を知らざらんや。安んぞ安逸を捨てて愁苦を甘んぜんや。

昨京師に在りしとき、敢えて人の顔色を犯さず、敢えて時事を議論せず、衆に随いて上下し、心志蟠屈して開かず、固より亦極まれり。不幸適に嫌疑の地に在り、決然として早く自ら引去する能わず、致す不測の禍、下吏に捽去せられ、人敢えて言う者無く、友讐一波、共に謗議を起こす。廢せられたる後、喧然として未だ已まず、更にこれを死地に置きて然る後に快と為さんと欲す。来る者往往言語を鉤賾し、以て伝播せんと欲し、好意を以て相い恤う者は幾希なり。故に戸を閉じて敢えて相い見えず、兵寇を避くるが如し。偷俗かくの如し、安んぞ久しくその間に居らんや。遂に超然として遠く挙り、江湖の上に羈泊す。唯だ衣食の累のみならず、実に亦少しく機穽を避けんとするなり。

況んや血属の多き、資入の薄きは、持国の見る所なり。常に相い団聚すれば、衣食を乏しうす可きや。不可なり。関を閉じて常に人と接せざる可きや。不可なり。人と接すれば必ずこれと言い、これと言えば必ずこれと還往す。人々皆持国の如くならば則ち可なり、持国に迨わざる者は必ず醸悪言を加え、上下に喧布し、僕をして自ら明らかにする能わしめず、則ち前日の事未だ重きと為さざるなり。

都てこの事無くとも、亦終日労苦し、応接に暇あらず、寒暑奔走して塵土泥淖の中に在り、人事を了うする能わず、羸馬餓僕、日々栖栖として都城に辱を取り、人をして背を指して譏笑哀閔せしむるも、亦何の顔面かあらん、安んぞこれを愁苦と謂わざらんや。

此れは兄弟親戚と相い遠しと雖も、伏臘稍く足り、居室稍く寬く、終日応接奔走の労無く、耳目清曠にして、機関を設けて人を待たず、心安閑にして体舒放なり。三商にして眠り、高舂にして起き、静院明窗の下に、図史琴樽を羅列して以て自ら愉悦し、興あれば則ち小舟を泛して盤・閶の二門を出で、江山の間に吟嘯覧古す。渚茶・野釀は以て憂いを銷すに足り、蓴鱸・稻蟹は以て口に適すに足る。又多く高僧隠君子有り、佛廟勝絶し、家に園林有り、珍花奇石、曲池高臺、魚鳥留連して、日暮るるを覚えず。

昔、孔子は『春秋』を作って呉を夷とし、又曰く「吾れ九夷に居らんと欲す」と。今の風俗を観るに、善を楽み事を好み、予の道を守り学を好むを知り、皆欣然として来り過従を願い、罪人を以て相遇せず。孔子復た生まるるも、是れ亦必ず此れに居らんと欲すべし。彼此を以てこれを較うるに、孰れか然りと為さんや。人生内に自得有り、外に適する所あれば、固より亦楽し、何ぞ必ずしも高位厚祿、人を役使して以て自ら奉養し、然る後に楽と為さんや。今此れに僑するも、亦仕宦南北の如し、安んぞ親戚と与に常に相い守らんや。予窘迫して、勢い持国の意の如くするを得ず、必ず我をして尸溝洫に転じ、肉豺虎に餧えしめて、然る後に以て安んずる所の義と為さんとは、何ぞ其れ忍びんや。『詩』に曰く「凡そ今の人、兄弟の如きは莫し」と。兄弟は恩を以てし、急難必ず相い拯救すと謂う。後章に曰く「喪乱既に平ぎ、既に安んじ且つ寧し。兄弟有りと雖も、友生に如かず」と。友朋は尚お義を以てし、安寧の時、礼義を以て相い琢磨すと謂う。予と持国とは、外兄弟なり。急難相い救わず、又未だ安寧ならざるの際に、義を以て相い琢刻せんと欲するは、古人の受け能わざる所なり。予報ぜざらんと欲するも、吾が持国を浅くするを慮るなり。

二年、湖州長史を得て、卒す。舜欽は数え朝廷の事を論じて上書し、蘇州に在りて水石を買い滄浪亭を作り、益々書を読み、時に憤懣を歌詩に発し、その体豪放、往往人を驚かす。草書を善くし、毎に酒に酣えて筆を落とせば、争って人の伝うる所と為る。謫死に及んで、世特にこれを惜しむ。妻杜氏は賢行有り。

兄舜元、字は才翁、人と為り精悍にして気節を任じ、歌詩を為すも亦豪健、特に草書を善くし、舜欽は及ばず。官は尚書度支員外郎・三司度支判官に至る。

尹源

尹源、字は子漸、少くより博學強記し、弟洙と皆文學を以て知名たり。洙は議論明辨、果たして為す有り。源は自ら晦し、矜飾せず、発する所あれば即ち人に過ぐ。初め祖蔭を以て三班借職を補し、稍く遷って殿直と為る。進士に挙げられ、奉禮郎と為り、累遷して太常博士、歴て芮城・河陽・新鄭の三縣を知り、涇州を通判す。時に滄州を知る劉渙は部卒を専斬したるに坐し、密州を知るに降る。源上書して言う「渙は主将と為り、部卒罪有りて伏せず、笞せらるるや輙ち萬歳を呼ぶ。渙のこれを斬るは過ちと為さず。此れを以て渙を謫するは、臣辺兵愈々驕り、主将を軽視するを恐る。係る所軽からず」と。渙は遂に免るるを得たり。

嘗て『唐説』及び『敘兵』十篇を作りてこれを上ぐ。その『唐説』に曰く。

世に唐の滅亡の原因を諸侯の強盛に帰する者は、理を極めていない。唐を弱めたのは諸侯であるが、唐が弱くなりながらも久しく滅亡しなかったのは、諸侯がこれを支えたからである。燕・趙・魏がまず唐の制度を乱し、土地を専有して治め、古の建国の如くであった。これらは諸侯の中の雄者であったが、皆唐を恃んで軽重をなした。何となれば、王命を仮りて互いに制すれば容易で順当であり、唐はこれを患いながらも、外に出すことはできなかったからである。故に河北が順従して命令を聴けば、天下に乱を為す者はその乱を遂げることができず、河北が順従せずに変ずれば、奸雄が或いはこれに附して起つ。徳宗の世、朱泚・李希烈は初めその僭称を遂げたが終に敗亡したのは、田悦が前に叛き、王武俊が後に順じたからである。憲宗が蜀を討ち、夏を平らげ、蔡を誅し、鄆を夷した時、兵は四方に連なりながら乱が生じず、遂に中興の功を成したのは、田氏が命を稟り、王承宗が国に帰したからである。武宗が劉稹の叛を討たんとした時、先ず三鎮を正し、その連衡の計を絶ったので、王誅が成った。このように二百年間、奸臣逆子が国命を専らにする者はあっても、将相を夷する者はあっても、神器を窺うことを敢えてしなかったのは、力が足りないのではなく、諸侯の勢いを畏れたからである。

広明の後、関東はもはや唐の所有ではなくなり、方鎮が互いに侵伐する者も、なお王室を名目とした。梁祖が河南を挙げるに及んで、劉仁恭は軽戦して敗れ、羅氏は内附し、王鎔は盟を請うた。この時、河北の事は去った。梁人は一挙にして唐に代わり国を有し、諸侯はこれと争うことができなかった。その勢いが然らしめたのである。仮に僖宗・昭宗の弱さをもって、黄巣・秦宗権の乱に乗じたとしても、田承嗣が魏を守り、王武俊・朱滔が燕・趙を拠り、強さが均しく、土地が連なっていれば、その勢いとして先に動くことを敢えてしないはずであり、ましてや義挙ではないか。このようにすれば、たとえ梁祖の暴虐であっても、一方で覇を取るに過ぎず、どうして強いて天下を禅譲させることができようか。故に唐が弱かったのは、河北の強さのためであり、唐が滅亡したのは、河北の弱さのためである。

或る者は言う、「諸侯が強ければ天子の勢いを分かつ。子はどうして議論が過ぎるのか」と。曰く、「秦・隋の勢いは諸侯に分かたれなかったが、唐よりも速く滅亡した。どうであろうか」。或る者は言う、「唐の滅亡は君主が道を失ったためではないか」と。曰く、「君主は道を失ったのではなく、才能が至らなかっただけである。その滅亡は、臣下が実質的に主導したのである」。その説を極めて述べることを請う。

太宗は艱難を起こして天下を有し、その臣を用いるに、その言を聴きその才を尽くした。故に君臣相親しみ、治安に至った。後世に及んで、太宗がこれによって興ったのを見て、その聖には及ばないが、臣を任じ諫めを納れる心は同じであった。君主に太宗の心があっても、臣下が太宗の臣でなければ、上はその下を聴いても、その奸を弁じることができず、下はその上を惑わし、至らざる所がない。これが敗れる所以である。何となれば、君主は一人で臣下は多く、大聖の君は相継いで出ず、大奸の臣は世にある。大聖が上にいれば、奸は容れる所がなく、その臣は賢でない者はない。もし君主の才が臣下の奸に勝てなければ、賢者がいても進めることはできない。このようであれば、未だ道を失うに至らずとも、道を失うに等しい。明皇は天下を貞観の治の如くにしたくないわけではなかったが、臣を馭する才が李林甫の奸に勝てず、ここに安禄山の禍があった。徳宗は暴乱を平らげ四方を安んじたくないわけではなかったが、人君の術が盧杞の邪に勝てず、ここに朱泚の変があった。僖宗・昭宗に至るまで、その心は皆乱を去り治に就かんとしたが、才は明皇・徳宗に及ばず、輔臣の奸邪は李林甫・盧杞を過ぎる者もあり、国が滅亡しないことを求めるのは、どうして得られようか。しかしその事跡を尋ねれば、君主に道を失ったことがあろうか。当時、天下に賢者がいなかったわけではなく、君主が聴くことを主としなかったからである。故に至賢の主と失道の主とは、その興亡皆自ら取る所であり、これは君主に係る。中才の主は、その臣が正に勝てば治まって安らかであり、邪が正に勝てば乱れて滅亡する。これは臣下に係る。されば唐の滅亡は君主の為す所ではなく、臣下の為す所である。

その『兵を叙す』に曰く。

唐の杜牧は会昌年中、河朔に兵を用いた時、嘗て数篇の文を為し、上は歴代の軍事の利害を論じ、継いで本朝の兵を制し将を用いる得失を論じ、下は当時の事機を参酌した。牧は儒者で、位は顕れず、その術は未だ試みられなかったが、識者は牧が兵を知り、古の名将も過ぎないと謂った。今牧の著した所を観るに、大要は当世の務を究極し、古法に専ら拘泥せず、時君に行い易く功を為し易からしめた。これがその善い所である。

今の兵の利鈍が唐の世と異なる所以は、唐は中世以来、諸侯は皆自ら兵を募り訓練し、出でて攻め入りて守り、上下志を一にした。故に淮西・青・冀・滄徳・沢潞の叛を討ち、四征して夷狄を征するに至るまで、大率外兵を仮りて事を集め、朝廷の出す所の神策禁軍は、声援を為すに過ぎなかった。故に至る所多く功があった。

今は然らず、国家は前世の藩鎮の強さを患い、凡そ天下に募るぎょう勇を、一に京師に集める。辺塞に近い諸郡といえども、大なる者は兵を籍するも数千を過ぎず、毎歳防秋には、則ち禁兵を以て戍らせる。将帥は任軽くして勢分かれ、軍事は往々にして中で御する。愚かには謂う、これは事なき時に施し、中国を鎮め豪傑の心を服させるには良いが、もし戎夷が侵軋すれば、必ずしも勝を取ることができないであろう。何となれば、兵は外にあれば勇み、内にあれば驕る。勇は労に生じ、驕は逸に生ず。外兵の習い尚う所は皆疆場の戦闘労苦の事であり、死生の命は将に制せられる。故に勇み、勇んでこれを用いて戦えば多く利あり。内兵は京師に居り、日々安逸を享け、これに賞賚を加えられ、未だ甲冑を服し戈戟を荷うたことがなく、将帥の号令の厳しさを知らない。故に驕り、驕ってこれを労すれば怨み、これを用いて戦えば多く鈍る。

もし唐の失は、諸侯を制し得なかったことに失い、外兵の強さに失ったのではない。故に驕将はあっても、驕兵は稀に聞くのみ。今の失は、将が軽すぎることに失い、外兵は敵に応ずるに足らず、内兵はその用を得ることが少ない。故に驕兵はあっても、驕将は聞かない。且つ唐の失った所は勢いであり、今の失った所は制度である。勢いとは、已むを得ざるものであり、制度とは、為すべきでありながら為さないものである。

されば今の計として為すべきは如何。曰く、「旧制を稍々革め、大いに豪勇を募り、外兵の籍を益し、以て敵に戦うに足らしむ。内兵を以て声勢と為し、辺将の任を重くし、一軍の事を専らにせしめ、州郡の勢いを連ねることを得ざらしむ。斯くして近利を獲て後害を亡くすことができるであろう」。

その他の文は多く録さない。

趙元昊が定川堡を寇す。葛懷敏は涇原の兵を発してこれを救う。源はこの時慶州の通判であり、懷敏に書を遺して曰く、「賊は挙国して来たり、その利は城堡に在らず。而して兵法に救うべからざる者有り。宜しく兵を瓦亭に駐め、利を択びて後に動くべし」。懷敏は聴かず、以て敗れた。范仲淹・韓琦がその才を薦め、召して学士院に試す。源は素より賦を喜ばず、論を以て賦に易えることを請う。主試者は方に賦を以て進め、その言を悦ばず、その文を下第とし、懐州知州に除して卒す。

黄亢

黄亢は、字を清臣といい、建州浦城の人である。母は星が懐に落ちる夢を見、掬い取って呑み込むと、やがて身ごもった。幼少より聡明にして人に勝り、十五歳の時、文章を携えて翰林学士章得象に謁見し、得象はこれを奇異とした。銭塘に遊学し、詩を処士林逋に贈ると、逋は特に激賞した。時に王随が杭州を治め、西湖を放生池とする禁令を上奏したので、亢は数百言の詩を作って諷し、士人は争ってこれを伝えた。亢は人となり侏儒にして、小節を飾らず、人に対しても野放図で、まるで言葉が話せないようであった。しかし学問を好み記憶力が強く、文詞は奇抜雄大であった。没すると、郷人がその文章を集めて十二巻とし、『東溪集』と号した。

黄鑒

黄鑒は、字を唐卿といい、黄亢と同郷で、幼少より聡明慧敏にして人に勝った。進士に挙げられ、桂陽監判官に補され、国子監直講となった。同郡の楊億は特にその文詞を賞し、門下に招き置いたため、これによって名声を知られた。累遷して太常博士となり、国史院編修官となった。かつて詔により館閣の官が後苑で花を賞でた際、鑒は特に召し出された。国史が完成すると、直集賢院に抜擢された。母が老齢のため、出て蘇州通判となり、没した。

楊蟠

楊蟠は、字を公済といい、章安の人である。進士に挙げられ、密州・和州の推官となった。欧陽修はその詩を称えた。蘇軾が杭州を治めた時、蟠は州事を通判し、軾と詩の唱和を多く行った。平生詩を数千篇作り、後に寿州知州となり、没した。

顔太初

顔太初は、字を醇之といい、徐州彭城の人で、顔子の四十七世孫である。幼少より博学で、優れた才があり、慷慨にして義を好んだ。詩を作ることを喜び、多く時事を諷刺した。天聖年間、亳州衛真県令黎徳潤が吏に誣告され、獄中で死んだので、太初は詩を作ってその冤罪を明らかにし、見る者はその気概を壮とした。文宣公孔聖祐が没し、子がなく、襲封が除かれてほぼ十年になる。この時、医者の許希が鍼で仁宗の病を治し、恩賜を拝受した後、西に向かって扁鵲を拝して「師を忘れざるなり」と言った。帝は扁鵲に「神応侯」を封じ、城西に祠を立てた。太初は『許希詩』を作り、聖祐の事を指して在位者を諷し、また参知政事蔡斉に書を送ると、斉が上に言上したため、ついに聖祐の弟が襲封した。山東の范諷・石延年・劉潜の徒は豪放で大酒を好み、礼法に従わず、後進の多くがこれを慕ったので、太初は『東州逸党詩』を作り、孔道輔は深くこれを器とした。太初は進士に及第した後、莒県尉となり、事により転運使に逆らい、弾劾状を提出して去った。久しくして、閬中主簿に補された。時に范諷が罪により貶謫され、同党は皆連座して斥けられたが、蔡斉と道輔が太初を推薦し、かつて作った詩を上奏したので、召されて中書で試験を受けたが、言事官がこれを嘲弄諷刺の言葉であるとして、ついに臨晋主簿に改める旨の返答があった。

これより前に太常博士宋武が同州通判となり、太守と事を争い、憤死した。太守はこれを恨み、その子に罪を捏造して、発狂してまた死なせ、父子の遺骨は僧舎に仮葬されていた。時に太守はまさに貴顕であり、敢えて冤罪を正す者はいなかった。太初は事により同州に至り、宋武父子を埋葬し、蘇舜欽がその事を墓の左に表した。後に応天府戸曹参そうしん軍・南京国子監説書に移り、没した。著書は『洙南子』と号し、住居は鳧・繹の両山の間にあり、「鳧繹処士」と号した。文集十巻、『淳曜聯英』二十巻がある。

子の復は、嘉祐年間、本郡から推挙されて京師に至り、舎人院で召試を受け、奉議郎となった。

郭忠恕

郭忠恕は、字を恕先といい、河南洛陽らくようの人である。七歳で書を誦し文を作ることができ、童子科に及第し、特に篆籀に巧みであった。弱冠の時、漢の湘陰公が召したが、忠恕は衣を払って急ぎ辞して去った。周の広順年間、召されて宗正丞兼国子書学博士となり、『周易』博士に改めた。

建隆初年、酒に酔って監察御史符昭文と朝堂で争い、御史が弾劾上奏すると、忠恕は台吏を叱ってその奏文を奪い、破り捨てたため、罪に坐して乾州司戸参軍に貶謫された。酔って従事范滌を殴打し、貶所を勝手に離れ、官籍を削られて霊武に配流された。その後、流転して再び仕官を求めず、多く岐・雍・京・洛の間を遊歴し、酒を恣にし放縦で、人に出会えば貴賤を問わず「苗」と呼んだ。佳き山水があれば滞在し、十日を過ぎても去ることができなかった。ある時は一ヶ月も食事を取らなかった。盛夏に日中に身を曝しても、体に汗が付かず、厳冬に河水を穿って浴びると、その傍の氷が解け、人々は皆これを異とした。

特に画を善くし、描く屋室の重複した様子は、極めて精妙であった。多く王侯公卿の家に遊び、ある時は美酒でもてなされ、予め絹素を壁に張っておくと、興に乗じて即座に描いたが、もし意に沿わずに強く請われると、必ず怒って去り、得た者は宝として蔵した。太宗が即位し、その名を聞き、召して闕に赴かせ、国子監主簿を授け、襲衣・銀帯・銭五万を賜り、太学に宿泊させ、歴代の字書を刊定するよう命じた。

忠恕は性に規律がなく、放縦で度を失い、上はその才を憐れみ、常に寛容に扱った。ますます酒を振る舞い、勝手に誹謗の言葉を吐き、時に官物を勝手に売ってその代金を取ったため、詔により死刑を減じ、杖刑を加えて登州に流罪とした。時は太平興国二年である。すでに斉州臨邑まで行き、護送の吏に「我今逝く」と言い、地面を掻き分けて穴を作り、顔が入る大きさを測り、俯いて覗き込むようにして没した。道端に仮葬された。数ヶ月後、旧友がその屍を取って改葬しようとすると、その体は非常に軽く、空々として蝉の抜け殻のようであった。定めた『古今尚書』および『釈文』はともに世に行われた。