宋史

列傳第一百九十八 文苑一 宋白 梁周翰 朱昂 趙鄰幾何承裕 鄭起 郭昱 馬應 和峴弟:㠓 馮吉

古より創業し統を垂れるの君は、即ち其の一時の好尚に於いて、一代の規橅を以て、め知るべし。藝祖(太祖)革命し、首に文吏を用ひて武臣の権を奪ひ、宋の文を尚ぶこと、端を此に本づく。太宗・真宗其の藩邸に在りし時、既に好學の名有り、其の即位に及び、彌文日増す。是の時より厥の後、子孫相承き、上之れ人君たる者は、典學せざる無く、下之れ人臣たる者は、宰相より令録に至るまで、科を擢げざる無く、海内の文士、彬彬として輩出せり。國初、楊億・劉筠猶ほ唐人聲律の體を襲ひ、柳開・穆修古に變ぜんと志すも力逮はざりき。廬陵の歐陽修出で、古文を以て倡へ、臨川の王安石・眉山の蘇軾・南豐の曾鞏起ちて之に和す、宋文日趨て古に近し。南渡の文氣東都に及ばず、豈に世變を觀るに足らざらんや!『文苑傳』を作す。

宋白

宋白、字は太素、大名の人なり。年十三にして、善く文を屬す。鄠・杜の間を遊ぶこと多く、嘗て張瓊の家に館す。瓊は武人なり、白の才有るを賞し、之に遇すること甚だ厚し。白豪俊にして、氣節を尚び、交友を重んじ、詞場の中に稱して甚だ著し。

建隆二年、竇儀貢部を典とし、進士甲科に擢ぐ。乾德初め、文百軸を獻じ、拔萃高等に試み、褐を解き著作佐郎を授けられ、廷に襲衣・犀帶を賜ふ。しょく平らぎ、玉津縣令を授く。開寶中、閻丕・王洞交はり其の才を薦め、朝列に預かるべしとす。白は親老を以て外任を祈り、連ねて蒲城・衛南二縣を知る。

太宗潛藩の時、白嘗て文を贄として、襲衣の賜有り。即位に及び、左拾遺に擢げられ、權て兗州を知る。歲餘して召還さる。泰山に唐玄宗の刻銘有り、白摹本を以て獻じ、且つ承平東人の幸を望むの意を述ぶ。『太祖實錄』の修撰に預かり、俄に史館に直し、吏部南曹を判ず。太原に從征し、行在の御史臺を判ず。劉繼元降る。翌日、『平晉頌』を奏す。太宗夜に行宮に召し至りて褒め慰め、且つ曰く「京師に還り俟て、當に璽書を以て職を授くべし」と。白幄中に謝す。尋ひて中書舍人を拜し、金紫を賜ふ。

太平興國五年、程羽と同く貢舉を知り、俄に史館修撰・判館事を充つ。八年、復た貢部を典とし、集賢殿直學士・判院事に改む。未だ幾ばくもせず、翰林に召し入れて學士と爲す。雍熙中、白と李昉を召し諸の文士を集めて『文苑英華』一千卷を纂す。端拱初め、禮部侍郎を加へ、又た貢舉を知る。白凡そ三たび貢士を掌る、頗る譏議を致す、然れども得たる士蘇易簡・王禹偁・胡宿・李宗諤の輩の如きは、皆其の人なり。是の時、舊制を復せしむるを命じ、專ら有司に委ぬ。白の取れる二十八人、罷退すること既に衆く、群議囂然たり。太宗遽に已に黜せられたる者を召し臨軒して覆試し、連ねて馬國祥・葉齊等八百餘人を放つ。

白嘗て何承矩の家に過ぐ。方に倡優を陳べて飲宴す。進士趙慶と云ふ者有り、素より行檢無く、承矩の門に遊ぶ。因りて潜に出でて白を拜し、薦名を爲さんことを求む。貢部を掌るに及び、慶遂に薦め獲らる。人多く指して以て辭と爲す。又た女弟王沔に適す。淳化二年、沔參知政事を罷む。時に寇準方に詆訐して進を求めし故に、沔出さる。復た言ふ、白の家に黄金の器を用ふるは蓋し舉人の賂ふる所なりと。其實は白嘗て詔を奉じて錢惟濬の碑を撰し、塗金の器を得たるのみ。

張去華は、白の同年の生なり。尼道安の事に坐して貶せらる。白素より去華と厚く善し、遂に出でて保大軍節度行軍司馬と爲る。年を踰へて、疏を抗して自ら陳ぶ。「來日苦くして少なく、去日苦くして多し」の語有り。太宗覽みて之を憫み、召還して衛尉卿と爲し、俄に復た禮部侍郎を拜し、國史を修す。至道初め、翰林學士承旨と爲る。二年、戶部侍郎に遷り、俄に祕書監を兼ぬ。真宗即位し、吏部侍郎・判昭文館に改む。

先是、白陸贄の『牓子集』を擬して獻ず。上其の意を察し、任用を求めんと欲するを、遂に開封府を知らしめて以て之を試む。既にして白聽斷に倦み、任を罷めんことを求む。咸平四年、王欽若・馮拯・陳堯叟を擢げて機要に入らしめ掌らしむ。白を宿舊と以て、禮部尚書を拜す。

白學問宏博にして、文を屬すること敏贍なり。然れども辭意放蕩にして、法度少なし。内署に久しく在り、頗る番直を厭ひ、辭を草すること疏略にして、多く旨に愜はざりき。景德二年、梁周翰と俱に罷められ、刑部尚書・集賢院學士・判院事を拜す。舊く三館の學士は只五日內殿に起居す。會ひて錢易上言し、悉く外朝に赴かしむ。白羸老にして步梗く、班に就きて足跌る。未だ幾ばくもせず、表を抗して年を引きんことを請ふ。上舊臣を以て、眷顧して未だ允さず。再び表を上りて辭す。乃ち兵部尚書を以て致仕す。因りて宰臣に就きて其の資產を訪問し、其の匱乏を虞ふ。時に白の繼母尚ほ恙無し。上東封す。白肩輿にて北苑に辭す。召對すること久し。吏部尚書に進み、帛五十匹を賜ふ。

大中祥符三年、內艱に丁す。五年正月、卒す。年七十七。左僕射を贈られ、其の孫懿孫を錄して將作監主簿と爲し、孝孫を祕書省校書郎に試み、從子唐臣を正字に試む。

白善く談謔し、小節に拘はらず、親族を贍濟し、孤藐を撫恤す。世其の雍睦を稱す。書數萬卷を聚め、圖畫亦多く奇古の者あり。嘗て故事千餘門を類ひ、號して『建章集』と曰ふ。唐賢の編集遺落する者、白多く之を纘綴す。後進の文藝有る者は、必ず極意稱獎し、時彥多く之を宗とす。胡旦・田錫の如きは、皆其の門下に出づ。陳彭年進士を舉ぐ。輕俊にして嘲謗を喜ぶ。白其の人を惡み、之を黜落す。彭年憾み有り。後近侍に居り、貢舉の條制を爲すに、關防すること多し。蓋し白の爲に設くるところなり。會ひて有司白を諡して「文憲」と爲さんとす。内より密奏を出だして言ふ、白素より檢操無しと。遂に「文安」に改む。集百卷有り。

子憲臣、國子博士。得臣、進士及第を賜はり、太常丞に至る。良臣、太子中舍と爲る。忠臣、殿中丞。

梁周翰

梁周翰、字は元褒、鄭州管城の人。父の彥溫は、廷州馬歩軍都校。周翰は幼くして学を好み、十歳にして文を綴ることができた。周の広順二年に進士に挙げられ、虞城主簿を授けられたが、病を理由に辞して赴任しなかった。宰相の范質・王溥は、彼が名を知られた人物であるとして、外邑の補佐官とするのは不適当であるとし、開封府戸曹参そうしん軍に改めた。宋の初め、質・溥は依然として宰相であり、彼を秘書郎・直史館に引き立てた。

時に左拾遺・知制誥の高錫が封事を上書し、武成王廟に配享される七十二賢について議論し、その中で王僧辯は良き終わりを遂げなかったとして、全徳とは言えない恐れがあるとした。まもなく詔により吏部尚書張昭・工部尚書竇儀と錫が再び選定を行い、功業に始めから終わりまで瑕瑾のない者のみが預かることとなった。周翰が上言して言うには、

臣は聞く、天地が生じて以来、覆載の内において、聖賢は交わって馳せ、古今同じく流れるが、その顛末を較べれば、具美を備える者は稀である。周公は聖人である。武王を輔佐して天下を定め、成王を補佐して治平を致し、盛徳大勳は天を蟠り地を極める。外には淮夷が難を構え、内には管叔・蔡叔が流言をなす。尾を躓き鬍を踏み、顛頓に垂んとし、禾を偃し木を仆すことで、辛うじて弁明を得た。これを尽美と言うことができようか。臣はそうではないと考える。孔子は聖人である。『詩』『書』を刪定し、『礼』『楽』を定め、堯・舜を祖述し、文王・武王を憲章した。結局は魯を去って棲遅し、陳に奔走して困厄し、定公・哀公に試用されたとはいえ、季孫・孟孫には容れられなかった。またかつて盗跖の虎尾を履み、南子の珮声を聞き、遠く慎名を辱しめた、その可なるを見ず。これまたその尽善と言うことができようか。臣はそうではないと考える。その余の区区たる後賢、瑣瑣として事を立てる者は、二聖に比べれば、何ぞ足云わん。しかるにその磨涅せずして渝まず、始めから終わりまで一なることを責めようとするのは、臣窃かにその人を得るは難しと為す。

そもそも唐室より始まり、太公たいこうを崇祀する。その用意を原れば、天下は大なりといえども兵を去るべからず、域中に争いあれば戦い無きを得ざるを以て、その民を佑ける道を資け、武の宗と為るに立ち、国威を張らんことを覬い、遂に王号を進めたのである。貞元の際、祀典は益々修められ、これにより歴代の武臣を以て廟貌に陪饗せしめ、文宣王の釈奠の制の如く、弟子が列侍する儀有り。事は経に依らざるも、義は垂れて勧むるに足る。況や曩日において、通賢乏しからず、疑難を討論し、亦た折衷と云う。今もしその考類を求め、否臧を別ち立て、羔袖の小疵を以て、狐裘の大善を忘れんとすれば、恐らくその選ぶ所、僅かに存すべきもの有るのみ。

ただ楽毅・廉頗の如きは、皆奔亡して虜と為り、韓信かんしん・彭越は悉く菹醢にされて誅せられた。白起は則ち剣を賜って杜郵に至り、伍員は則ち屍を浮かべて江澨に漂う。左車も亦た軍を僨すの将、孫臏は実に刑余の人。穰苴は則ち卒を僨して斉庭に斃れ、呉起は則ち命に非ずして楚国に死す。周勃は重きを称せられながら、甲を尚方に置くの疑い有り、陳平は謀に善くしながら、金を諸将に受くるの謗りを蒙る。亜夫は則ち獄吏に死し、鄧艾は則ち檻車に追わる。李広は後期して自ら剄し、竇嬰は党を樹てて身を喪う。鄧禹は回渓に敗れ、終身戎を董るの寄せ無く、馬援は蛮徼に死し、還屍に闕く遣奠の儀。その余の諸葛亮の儔は、偏方の主に事え、王景略の輩は、閏位の君を佐く。関羽は則ち仇国に禽せられ、張飛は則ち帳下に遭って害せらる。凡そ此の名将は、悉く皆人雄なり。苟くも瑕を指さんと欲せば、誰か当に累れ無からん。或いは澄汰に従えば、尽く棄捐すべし。況んやその功業穹隆、名称烜赫、樵夫牧稚も咸く聞き知る所、列将通侯も窃かに年を思慕す。若し一旦神位を除去し、祠庭より擯出し、毛を吹いて異代の疵を求め、袂を投じて古人の悪を忿らば、必ずや時情頓に惑い、窃議交わって興らん。景行は高山、更に往躅を何ぞ瞻らん。英魂烈魄、将に明時に恨み有らん。

況や陛下は方に軍威を厲し、乱略を遏んとし、兵法を講求し、武祠を締構せられ、蓋し戎臣を勧激し、陰助を資仮せんとする所以なり。忽ち長廊を虚邈ならしめ、僅かに図るべきの形有るのみとし、中殿前に空しく、配食の坐を見ざらしむるは、允当に似ず、臣窃かに惑う。深く惟うに、事は中を得るを貴び、用は体要を資く。若し今の以て古を議するを得ば、恐らく来者も亦た能く今を非とせん。願わくは臣が微忠を納れ、特ち明敕を追い、此の疏を下し、廷に其の長を議せしめられん。

回答がなかった。

乾徳年中、『擬制』二十編を献上し、右拾遺に抜擢された。時に大内を修築することとなり、『五鳳楼賦』を上ったが、人多くこれを伝誦した。五代以来、文体卑弱であったが、周翰は高錫・柳開・范杲と淳古を習尚し、斉名して善く交わり、当時「高・梁・柳・范」と称された。初め、太祖は嘗て軍中において彥溫を知り、石守信も亦た彥溫と旧故であった。一日、太祖が守信に語り、周翰を用いて誥を掌らせんとしたところ、守信が微かにその言を漏らしたので、周翰は遽かに上表して謝した。太祖は怒り、遂にその命を止めた。

綿州・眉州の通判を歴任し、眉州において人を杖ちて死に至らしめた罪で、二官を奪われた。起用されて太子左賛善大夫を授けられた。開宝三年、右拾遺に遷り、綾綿院を監し、左補闕に改め大理正事を兼ねて知った。時に郊祀を行わんとすることとなり、因って上疏して言うには、「陛下再び上帝を郊祀せられ、必ず赦宥を覃べらる。臣は天下の至大なるを以て、その中に慶沢の未だ及ばず、節文の未だ該らざる者あるは、推し広むべき所なり。方今賦税の年入至って多く、科変の物を加うれば、名品一に非ず、調発供輸、重困無きにしも非ず。且つ西蜀・淮南・荊・潭・広・桂の地は、皆以て王土と為す。陛下誠に三方の得る所の利を以て、諸道の租賦の入を減ぜば、則ち庶幾くは徳沢を均しくして民力を寛かにせん。」俄に錦工を杖つこと過差に坐し、その訴えを受ける。太祖甚だ怒り、これを責めて曰く、「爾は人の膚血が己と異ならざるを知らぬのか、何ぞ乃ち遽かに酷罰を為す!」将にこれを杖たんとしたが、周翰自ら言うには、「臣は天下の才名を負い、かくの如くあるべからず。」太祖乃ち解き、左遷して司農寺丞に止めた。一年余りして、太子中允となった。

太平興国年中、蘇州知州となった。周翰は音律に巧みで、蒱博を好み、ただ飲酒と戯れを務めとした。州に伶官の銭氏がおり、家に数百人を数え、日に百人をして妓を供せしめ、出ずる毎に必ず殽具を自ら随えた。郡務は治まらず、本官を以て西京に分司された。一月余りして、左賛善大夫を授けられ、依然として分司した。俄かに楚州団練副使を除かれた。雍熙年中、宰相李昉がその名を聞こえさせ、召されて右補闕と為り、緋魚を賜い、江淮茶塩提点をさせた。

周翰は文辞の学をもって同輩に推許され、頻繁に地方官を歴任したが、吏事を好まなかった。翰林学士宋白らが彼に史才があると列挙して上奏し、下位に留め置かれていることを惜しんだため、史館修撰を兼ねることを命じられた。太宗が自ら貢士を試験した際、周翰は考官を務め、面と向かって金紫を賜り、宰相に語ってその文才を称えさせ、まもなく起居舎人に遷った。淳化五年、張佖が左右史の職を復置するよう建議し、周翰と李宗諤に分かれてこれを担当させた。周翰は起居郎を兼ね、上言した。「今後、崇政殿・長春殿における皇帝の宣諭の言葉、侍臣の論列した事柄は、旧例に従い中書が時政記として編修するよう望みます。枢密院の事柄で機密に触れるものも、本院に編纂させ、毎月末に史館へ送付すべきです。その他の百官が対拝・除改・沿革・制置に関する事柄は、すべて本院に条報し、編録の備えとすべきです。また、郎と舎人に崇政殿に分かれて直し、言動を記録して別に起居注とし、毎月まず御前に進め、後に史館に降付すべきです。」詔はこれに従った。起居注を御前に進めることは、周翰らに始まる。周翰は早くから時誉があり、長く擯斥されていたが、抜擢を受けると、特に時論にかなった。

京朝官の考課が行われた際、以前の過失を敢えて隠す者は、すべて除名して民とするとされた。周翰は譴責を受けることが特に多く、有司に提出した文書に一件だけ遺漏があり、免官に当たった。判館楊徽之が三館の学士を率いて相府に赴き、周翰は故意に回避したのではなく、実際に犯した過失が頻繁で悉く記録できないのだと訴えたため、罰金百斤のみに留まった。

先に、趙安易が西川で大鉄銭を鋳造し、一を以て十に当てるよう建議した。周翰は上言した。「古くは貨・幣・銭の三者を兼用し、もし銭が貨・幣より少なければ、大銭を鋳造し、或いは百に当て、或いは五十に当てた。これは銭を広めて用を足さんがためである。今は、蜀の民が貿易する際、鉄銭一はただ一銭として用いさせ、官中で物を買う時は両銭をもって一に当てる方が良い。また、西川の患いは塩が少ないことにある。益州に榷院を置き、物を入れて交易させれば、公私ともに通済するでしょう。」至道年間、工部郎中に遷った。

真宗が皇太子であった時、その名を知り、召し出そうとした。当時周翰は左庶子であり、その文章を取らせたところ、周翰はすべて編纂して献上し、上は書をもって答えた。即位すると、慶事を行う前にまず駕部郎中・知制誥に抜擢し、まもなく史館・昭文館を判じた。咸平三年、翰林学士として召し入れられ、詔を受けて趙安易とともに属籍を修めた。唐末の喪乱で籍譜はほとんど残っておらず、取るべき則がなかったが、周翰は創意をもってこれを行い、かなり条貫があった。車駕が澶淵に行幸した際、留司御史台を判じるよう命じられたが、周翰は懇願して扈従し、許された。翌年、給事中を授かり、宋白とともに学士を罷めた。大中祥符元年、工部侍郎に遷った。翌年、病を得て卒去、八十一歳。真宗はこれを哀れみ、その子忠宝を大理評事に任じ、喪が終わるまで俸給を与えた。

周翰の性質は疎放で俊敏だが、性急であり、事に臨んでは厳暴に過ぎたため、失敗することが多かった。晚年は才思がやや減退し、詔書の多くは旨にかなわなかった。文集五十巻及び『続因話録』がある。

朱昂

朱昂、字は挙之。その先祖は京兆の人で、代々渼陂に家を構えた。唐の天復末年に南陽に移住した。梁の太祖が唐をさんさんだつすると、父の葆光は唐の旧臣顔蕘・李濤ら数人と家族を連れて南渡し、潭州に寓居した。毎年正月元旦の夕方になると、必ず南嶽祠前に整列し、北を望んで慟哭した。ほぼ二十年に及んだ。後に李濤が北帰すると、葆光は衡山の景勝を愛で、遂にそこに住んだ。

朱昂は若い頃、熊若谷・鄧洵美とともに学んだ。朱遵度は読書を好み、人々は彼を「朱万巻」と呼び、朱昂を「小万巻」と見なした。朱昂がかつて廬陵を経由して行く途中、道で異人に出会い、言われた。「中原には間もなく真主が現れ天下を統一するであろう。あなたは四品まで出世するのに、どうして南にいる必要があろうか。」そこで江淮を北遊した。時に周の世宗が南征し、韓令坤が兵を統率して揚州に至ると、朱昂は謁見して治乱の方略を陳べ、令坤はこれを奇とし、権知揚州揚子県に任じた。兵革の際に当たり、逃亡者は過半に及んでいたが、朱昂は便宜を以て綏撫し、逃亡者七千余家を回復させた。令坤はすぐに上表して本県令に任命した。

宋の初め、衡州録事参軍となった。かつて陶潜の『閑情賦』を読んでこれを慕い、その辞を広めて次のように詠んだ。

気を受くること清濁あるも、独り意を得たり虚徐に。耳は何ぞ聡にして瑱無く、衣は何ぞ散にして裾無き。務めて冥かに懐う得失に、寧ろ勤めん体を菑畬に。将に同じくせん方は姬・孔に、抗せん跡は孫・蘧に。精は騖く広漠に、心は遊ぶ太虚に。傲りて朝曦に南栄し、溯りて夕飆に北疏す。道の病に非ず、惟だ情の舒ぶるのみ。

ここに由り穎を含み粹を懐き、和を凝らし懿を習う。器は奫淪として幽憂に、徳は芬馨として周比す。井は渫無くして泉融け、珠は輝を潜めて川媚る。また何ぞ必ずしも雄の『玄』を尚ぶを陋しみ、奕の心酔を笑い、墨の素絲を悲しみ、展の下位を歎ぜん。苟くも時に因りて明揚せば、乃ち斯の文の墜ちざるなり。

煙景を睇みて飄飄たり、心は懸旌の如く搖搖たり。朝栄えて夕に落つるを感し、響く蛩と鳴く蜩を嗟く。姑く器を蔵して以て待つ有り、物に因りて寄せて長謠す。願わくは首に在りて弁と為り、玄髮を束ねて未だ衰えざらん。名器を得る有るに会い、纓珥と相い宜しからん。願わくは足に在りて舄と為り、何ぞ坎險の憂いに罹らん。

豎亥に勤めを效さんと欲し、浮丘に踵を追わんと思う。願わくは服に在りて袂と為り、繒素を伝えて躬を飾らん。化緇の色涅を異にし、寧ろ面を拭いて道窮せん。願わくは目に在りて鑒と為り、妍醜を崇朝に分たん。青陽の久しきに難きを驚き、庶幾くは白首を以て見招かれん。願わくは地に在りて簟と為り、暑溽に当たりて冰寒ならん。

いや膚革の尚お疚しきに、胡ぞ寤寐を以て安きを求めん。願わくは觴に在りて醴と為り、徳を乱さずして真に溺れざらん。体は虚受を以て器と為り、譎性を革めて淳に帰せん。願わくは握に在りて劍と為り、毎に衽を輔け裾を保たん。鉛銛の效用に殊なり、硎刃に比べて余り有らん。願わくは橐に在りて矢と為り、筈羽の斯く全きを美とせん。

勲を懋めて晉を錫うるを疇とし、壘を窮めて燕を衄かすを射ん。願わくは体に在りて裘と為り、針縷に託して以て功を成さん。珍華を以て飾りを取るに非ず、将に被服して容有らんとす。願わくは軒に在りて篁と為り、歳寒を貫いて改めざらん。介節を挺てて自ら持ち、虚心を廓めて以て待たん。

人の願望は実に多く、我が心はかくの如し。志を蓄えては璞の如く蔵し、文を発しては霧の如く委す。既に瑾を掌に持ち瑜を握り、また蘭を擷みて芷を藝す。初めは無言にて杖を植え、終には首を俯して髀を嗟く。襟を振るい自ら適し、物を覿て解頤す。雲は心無くして遐く挙がり、蘿は幹に倚りて叢く滋す。陵谷の地を変ずるを想い、況んや玄黄の絲を易えるをや。人は汰つべく鍛うべし、己は磷せず緇せず。苟くも一鳴して人を驚かさば、何ぞ五鼎にして飴せざらん。

已にして膝を擁して清嘯し、懐を傾けて自ら寬ぐ。樞桑戸蓽は楽しみに差し、鳩飛梭躍は何ぞ難からん。夜蟾を指して伍と為し、疏籟を仰ぎて歡を邀う。何ぞ孫牧にして伊耕せん、何ぞ巢箕にして呂磻せん。我が慮を滌うに綠綺を以てし、我が眠を清むるに琅玕を以てす。周旋すること則ち有り、徙倚すること観るべし。終に卷舒すること自得し、休なるかな《考槃》に契う。

李昉が州事を知り、暇日にしばしば召して語らい、かつ文を贄として献じさせると、昉は深く賞賛した。宜城令を歴任す。開宝年中、太子洗馬に拝し蓬州を知り、広安軍に転ず。時に渠州の妖賊李仙が衆一万を率いて軍界を劫掠す。昂は策を設けてこれを擒らえ、残りの果・合・渝・涪の四州の民で連結して妖をなす者は、問わずに置き、蜀民は遂に安んず。宰相薛居正その能を称し、殿中丞に遷し泗州を知る。

嘗て『隋河辞』を作り、濬決が民を害し、遊観が財を傷つけるは、乃ち天意の隋を亡ぼす所以なりと謂う。隋が役を興し財を費やしてその民を害さざりせば、安んぞ今日の利あらんや。

嘗て淮水の流屍三千を集め、塚を築きてこれを瘞む。戍卒の謀乱する有り、昂はその首悪を誅し、凡そ支党の詿誤する者は悉くこれを赦す。監察御史・江南転運副使に就きて遷す。太平興国二年、鄂州を知り、殿中侍御史を加えられ、峡路転運副使となり、就いて庫部員外郎に改め、転運使に遷る。端拱二年、本官を以て秘閣に直り、金紫を賜わる。久しくして出でて復州を知り、表を上りて謝事を求むるも、許さず。水部郎中に遷り、再び老を請う。召し還されて再び秘閣に直り、尋いで越王府記室参軍を兼ぬ。

真宗即位す。司封郎中に秩を遷し、俄かに知制誥に任じ、史館を判じ、詔を受けて三館秘閣の書籍を編次す。既に畢わり、吏部を加えらる。咸平二年、召されて翰林に入り学士と為る。踰年して章を上りて骸骨を乞う。召し対して敦諭すれども、請い弥だ確かなり。乃ち工部侍郎を拝して致仕す。翌日、使者を遣わして第に就き器幣を賜い、全俸を給し、本府に歳時存問せしめ、章奏は驛に附して以て聞くことを聴す。その子正辞をして公安県を知らしめ、以て侍養に便ならしめ、江陵に帰るを許す。旧制、致仕官は殿門外に謝するに止まる。昂は特に延見して坐を命じ、恩礼甚だ厚し。秋涼を俟って上道せしめ、中使を遣わして玉津園に宴を賜い、両制三館皆預り、仍詔して詩を賦して餞行せしむ。縉紳之を栄しとす。

昂が前後得たる俸賜の三分の一を以て奇書を購い、諷誦を以て楽と為す。是に及び閑居し、自ら「退叟」と称し、『資理論』三巻を著してこれを上る。詔してその書を史館に付す。弟の協は純謹を以て称せられ、主客郎中・雍王府翊善に至る。昂は書を以てこれを招く。協もまた告老して帰る。兄弟皆眉寿にして、時人漢の二疏に比す。知府陳堯咨その居を署して東・西致政坊と曰う。昂は居する所に二亭を建つ。曰く知止、曰く幽棲。頗る釈氏の書を好む。晚歳自ら墓誌を作る。景德四年卒す。年八十三。門人諡して「正裕先生」と曰う。詔して賻贈を加え、その孫適を録して出身せしむ。

昂は学を好み、純厚にして清節有り、栄利に澹たり。洗馬として十五年、屑意せず。内署に居り、公事に非ざれば両府に至らず。王邸に在りし時、真宗儲宮に居り、その素守を知る。故に毎に褒進を加う。然れども昂未だ嘗て私請する所無く、進退礼を存し、士類多く之を称す。集三十巻有り。子正彝・正辞並びに進士第に登り、正基は虞部員外郎。

趙鄰幾

趙鄰幾、字は亞之、鄆州須城の人、家世農を為す。鄰幾少くして学を好み、文を属する能く、嘗て『禹別九州賦』を作る。凡そ万余言、人多く伝誦す。

周の顕徳二年進士に挙げられ、秘書省校書郎を解褐し、許州・宋州の從事を歴任す。太平興国初め、召されて左賛善大夫・直史館と為り、宗正丞に改む。四年、郭贄・宋白中書舎人を授かり、告謝の日交わってこれを薦む。俄かに鄰幾頌を献ず。上覧めて之を嘉し、左補闕・知制誥に遷す。数月にして卒す。年五十九。中使葬を護る。

鄰幾の体貌は尫弱、衣に勝えざるが如し。文を為すこと浩博、徐・庾及び王・楊・盧・駱の体を慕い、毎に構思するに必ず衽を斂めて危坐し、千言に成りて始めて筆を下す。属対精切、意を致すこと縝密、時輩咸く之を推服す。及んで誥命を掌るに及び、頗る繁富冗長にして体要に達せず、称職の誉れ無し。

常に唐の武宗以来の実録を追補せんと欲し、孜孜として遺事を訪求し、殆ど寝食を廃す。疾革に会い、唯だ書未だ成らざるを恨みと為す。淳化中に至り、参知政事蘇易簡因りて言に及び鄰幾の『唐実録』を追補する事。鄰幾の一子東之、蔭を以て郎山主簿に補せられ、部して軍糧を北辺に詣らしむ。没す。その家屬は睢陽に寄居す。太宗、直史館銭熙を遣わして往きてその書を取らしむ。鄰幾の補う所の『会昌以来日暦』二十六巻及び文集三十四巻、著す所の『鯫子』一巻・『六帝年略』一巻・『史氏懋官志』五巻、並びに他の書五十余巻を得て来りて上る。皆塗竄の筆なり。詔してその家に銭十万を賜う。

何承裕 附

時にまた何承裕有り。晋の天福末進士第に擢げられ、清才有り、歌詩を為すを好み、而して酒を嗜み狂逸す。初め中都主簿と為り、桑維翰兗州を鎮むるに、その直率なるを知り、吏事を以て責めず。累官して著作佐郎・直史館に至り、出でて盩厔・咸陽の二県令と為る。酔うと則ち首を露わし牛に跨って府に趨る。府尹王彦超その名士なるを以て之を容る。然れども治を為すこと清にして煩わさず、民頗る安んず。毎に牒訴を覧るに、必ず戯判を以て曲直を諭し、訴うる者多く心服して引き去る。往々にして豪吏を召して坐に接し、引満す。吏、酔いに因りて私を挟み事を白す。承裕之を悟り、笑いて曰く「此れ罔するを見るなり、杖を受くべし」と。杖訖り、復た召して与に飲む。その無檢多く此の類の如し。

開寶三年(970年)、涇陽令より入朝して監察御史となり、後に侍御史を歴任し、累ねて忠州・萬州・商州の三州の知州を務め、太平興國年間に卒した。

鄭起

鄭起は、字を孟隆といい、何処の者か知れない。若くして京師・洛陽らくようの間を遊歴し、軽薄で品行に慎みがなかった。襄州の双泉寺の僧が黄金を作れると聞き、そこに身を寄せ、遂に髪を剃って侍者となった。久しくしてその欺瞞を知り、初めの服に戻った。進士に挙げられ、当時挙子は多く詩賦を尚んだが、鄭起のみ文七軸を有し、歌詩は特に清麗であった。周の廣順初年、尉氏主簿に補任され、任期満了後、書を以て宰相范質に干謁し、右拾遺・直史館に推薦された。恭帝の初め、殿中侍御史に遷った。

乾德初年、泗州市征を掌るために出向した。刺史の張延範は檢校司徒しとであったが、官吏は彼を「太保」と呼んだ。鄭起は貧しく、常に騾に乗っていた。ある日、張延範に従って近郊に出て客を見送った際、延範は鄭起に揖して言った、「馬を策して進ませて下さい」。鄭起は言った、「これは騾です、過って呼んだだけです」。以て延範を諷刺したので、延範は深くこれを恨み、密かに鄭起が酒を嗜み職務を廃していると上奏した。

初め、顯德末年に、鄭起は太祖が禁兵を掌握し、人望有るのを見て、范質に上書し、その事を極言した。またかつて路上で太祖に出会い、前導を横切って通り過ぎたが、太祖も彼を怒らなかった。そして張延範の奏上が届くと、河西令に出された。蜀が平定された時、遠方の官に転任すべきであったが、鄭起は行きたがらず、その足を焼き烙したため、これにより病を得て卒した。

鄭起は才を負って傲慢で、多く誹謗・攻撃し、しばしば小人どもに窘め辱められたが、終いに改めなかった。

郭昱

時に郭昱という者がおり、古文を好み、心が狭く奇矯であった。周の顯德年間に進士第に及第したが、常選に赴くのを恥じ、宰相趙普に献書し、自らを巢父・許由に比した。朝議はその矯激を憎んだため、長く調官されなかった。後また趙普を窺い、塵を望んで自ら陳述した。趙普は笑って人に言った、「今日は大変光栄だ、巢父・許由が馬首に拝するを得た」。開寶末年、趙普が河陽に出鎮すると、郭昱は薛居正を訪ね上書し、極言して趙普を誹謗した。居正がこれを奏上し、詔により襄州觀察推官に任じられた。潘美が襄陽を鎮め、金陵を討つに当たり、郭昱を随軍とした。郭昱は夜中に酒に酔って号叫し、軍中皆驚いた。翌日、潘美は彼を送り返した。一年余り後、官銭を盗用した罪で除名され、そこで襄陽に住み、樊・鄧の間を遊歴し、雍熙年間に卒した。

馬應

また馬應という者がおり、少し文芸があり、多く道士の衣を着て、自ら「先生」と称した。開寶初年、元結の『中興頌』に倣い『勃興頌』を作り、太祖の荊・湖平定の功績を述べ、永州の元結の『頌』の傍らに石碑を刻もうとしたが、県令がその誇大妄誕を憎み、上聞しなかった。太平興國初年、科挙に及第し、大理評事に授けられたが、事に坐して除名され、長年漂泊した。淳化年間、詩を以て同年の殿中丞牛景に干謁し、牛景は因ってこれを奏上した。太宗は覧めてこれを嘉し、再び大理評事に授けたが、間もなく卒した。

また穎贄・董淳・劉從義は文章を善くし、張翼・譚用之は詩を善くし、張之翰は牋啓を善くした。穎贄は抜萃で登科し、太子中允に至った。董淳は工部員外郎・直史館となり、詔を奉じて『孟昶紀事』を撰した。劉從義は多くの蔵書を持ち、かつて長安ちょうあんの碑文を編纂して『遺風集』二十巻とした。その他は皆、官途で顕達しなかった。

和峴

和峴は、字を晦仁といい、開封浚儀の人である。父の凝は、晉の宰相・太子太傅・魯国公であった。峴が生まれた年、丁度凝が翰林に入り、金紫を加えられ、貢挙を掌ることとなり、凝は喜んで言った、「我が平生の美事、三つが併せて集まった。この子は我に相応しい」。因って名付けて三美といった。七歳で、門蔭により左千牛備身となり、著作佐郎に遷った。漢の乾祐初年、朝散階を加えられた。十六歳で、朝廷に出て著作郎となった。父の喪に服し、喪明け後、太常丞に拝された。

建隆初年、太常博士に授けられ、南郊に従祀し、乗輿を賛導し、進退は閑雅であった。太祖は近侍に謂って言った、「これは誰の子か、賛相に熟達している」。左右は直ちに和峴の門閥を以て答えた。間もなく刑部員外郎兼博士を拝し、仍って太常寺を判った。

乾徳元年十一月甲子、南郊に祭祀が有った。丁丑、冬至となり、有司が再び昊天上帝を祀ることを請うた。詔して和峴にその礼を議させた。和峴は祭義が煩数を戒めているとして、これを罷めるよう請うた。二年、孝明・孝惠両皇后の神主を別廟に合祀することを議した。和峴は旧礼に二后同廟の文はあるが、各殿異室の説は無いとし、今二后を別廟に合祀するも、亦た共に殿して別室とすべきであるとした。孝明皇后はかつて天下に母儀したので、上室に居すべきである。孝惠皇后は追尊に止まるので、次室に居すべきである。これに従った。三年春、初めて夔州を平定し、内衣庫使李光睿を権知州とし、和峴を通判州事とした。交代して帰還した。この年の十二月十四日戊戌が臘祭であったが、有司は七日辛卯に百神の蜡祭を行おうとした。和峴が議を献じてこれを正した。四年、南郊の祭祀で、和峴は望燎の位置に爟火を置くことを建議した。

また嘗て言う、「旧典に依れば、宗廟の殿庭に宮懸三十六架を設け、鼓吹熊羆十二案を加え、朝会の登歌には五瑞を用い、郊廟の奠献には四瑞を用い、回仗して楼前に至れば『采茨の曲』を奏し、御楼では『隆安の曲』を奏し、各々楽章を用いる」と。また唐の故事を挙げ、宗廟の祭科の処に別に珍膳を設け、以て孝享の意を申べしむと。また謂う、「『八佾』の舞は以て文徳武功を象る、『玄徳升聞』・『天下大定』の二舞を用いんことを請う」と。並びに其の議に従う。事は『礼』・『楽志』に具わる。

先に、王朴・竇儼は音楽に洞曉し、前代の律呂に協わざる者多くを考正す。朴・儼既に没し、其の職を継ぐ者無し。会に太祖、雅楽の声高きを以て、詔して峴に其の理を講求せしめ、以て均節せしむ。是より八音和暢し、上甚だ之を嘉す。語は『律志』に具わる。楽器中に叉手笛有り、上意雅楽に増入せんと欲す。峴即ち楽工に調品せしめ、以て律呂に諧わしむ。其の執持の状は拱揖するが如し。請うて目して「拱辰管」と曰わしむ。詔して楽府に備う。

開宝初、司勲員外郎に遷り、権に泗州を知り、吏部南曹を判じ、夔・晉二州の通判を歴ぬ。九年、江南平らぎ、詔を受けて采訪す。太宗即位し、主客郎中に遷る。太平興国二年、兗州を知り、京東転運使に改む。

峴は性苛刻鄙吝にして、財を殖やすを好み、復た人を軽侮す。嘗て官船を以て私貨を載せ販易し利を規む。初め判官鄭同度の論奏有り、既にして彰信軍節度劉遇も亦上言す。按じて実を得、坐して籍を削り、汝州に配隷す。

六年、起して太常丞と為り、西京に分司し、復た階勲章服を賜う。端拱初、上躬耕して籍田す。峴留司の賀表を奉じて闕下に至り、因りて其の著す所の『奉常集』五巻・『祕閣集』二十巻・『注釈武成王廟賛』五巻を奏御す。上甚だ之を嘉し、復た主客郎中を授け、太常寺を判し兼ねて礼儀院事を領す。

是の秋暴疾を得て卒す。年五十六。弟に㠓有り。

弟 㠓

㠓、字は顕仁、凝の第四子なり。生まれて五六歳、凝之に古詩賦を誦するを教う。一たび歴るや輒ち忘れず。試みに物を詠して四句の詩を為さしむるに、頗る思致有り。凝歎賞して之を奇とし、峴に語りて曰く、「此の児他日必ず文章を以て顕る。吾老いりて見ず、汝曹善く之を保護せよ」と。

太平興国八年進士第に擢でられ、褐を釈けて霍丘主簿と為る。雍熙初、崇仁県を知り、就いて大理評事を拝す。江南転運楊緘其の材幹を以て奏し、移して南昌県を知らしむ。代わり還り、刑部取りて詳覆官と為し、光禄寺丞に遷る。

先に、凝嘗て古今の史伝に聴訟断獄・冤を弁雪する等の事を取りて『疑獄集』と為し著す。㠓因りて事類を増益し、分けて三巻と為し、表して之を上ぐ。俄に著す所の文賦五十軸を献じ、召して中書に試せしめ、擢でて太子中允と為す。先に、馮起『御前登第三榜碑』を撰して以て献ず。上甚だ称奨し、命じて直史館と為す。淳化初、㠓又た『七榜題名記』を撰し、並びに凝の撰する所の『古今孝悌集成』十巻を補注して以て献ず。遂に本官を以て直集賢院と為す。中謝の日、緋魚を賜う。三年春、『観灯賦』を献ず。詔して史館に付し、右正言に遷る。

是歳、太宗親しく貢士を試み、㠓考校に預かり、歌を作りて以て献ず。上宰相に対し之を称賞し、召して年幾何を問う。時に『儒行篇』を摹印し、以て新たに及第する人及び三館・台省の官に賜い、皆上表して謝す。上時に便坐に御し、表を出して以て宰相に示す。而して㠓と張洎は尤も上旨に称し、因りて李昉に謂ひて曰く、「㠓は宰相の子、勤学自立し、文章有り、能く堂構を荷う。㠓の如き者は多得べからず」と。遂に本官を以て知制誥と為す。一年を踰えず、水部員外郎を加え、理検院を知る。至道元年、金紫を賜い、王旦と同しく吏部銓を判ず。是の秋、晨起ち将に朝せんとす。風眩暴に作して卒す。年四十五。上之を聞き驚歎し、中使を遣わして就き家に疾状を問わしめ、並びに其の孤を恤い、賵賻を加等す。長子珙才十歳、即ち大理評事を授く。次子璬、太廟齋郎に補す。

㠓は容儀を修飾するを好み、五鼓より灯燭を張りて辨色に至り、冠帯方に畢る。幼より能く文を属すと雖も、殊に警策少なし。毎に制を草するに、必ず精思討索して後に成る。引類偶対に拘り、頗る典誥の体を失う。上其の貴家の子なるを以て、能く文を業とす。甚だ之を寵待し、召して翰林に入れんと欲し、近臣に謂ひて曰く、「㠓の眸子毛毛然たり。胸中必ず正しからず。以て近侍に居るべからず」と。其の命遂に寝す。

㠓の弟𡻇始めて三班奉職と為る。淳化中、文を献じて試みを求む。上故相の後なるを以て、改めて大理評事を授く。

馮吉

馮吉、字は惟一、河南洛陽の人。父は道、周の太師・中書令、追封して瀛王と為す。吉、晋の天福初、父の任を以て秘書省校書郎と為り、膳部・金部・職方員外郎に遷り、屯田・戸部・司勲郎中を歴ぬ。累階して金紫に至る。周の顕徳中、太常少卿に遷る。

吉は学問を好み、文章を作ることに長け、草書・隷書に巧みであり、議論する者は詔勅を掌るに足ると評した。しかし性格は滑稽で節操がなく、中書舎人の欠員があるたびに宰相が吉を用いようとしたが、ついに軽薄さゆえに取りやめとなった。

雅に琵琶を好み、特にその妙を極め、教坊の供奉で名手と称される者も及ばなかった。父は常に習うなと戒めたが、吉の性に好むところであり、改めることもできなかった。道(父か)は彼を辱めようとし、家宴の際に吉に琵琶を奏でて寿を祝わせ、束帛を賜ったところ、吉はそれを肩にかけ、左手で琵琶を抱え、膝について伶官のように再拝し、少しも恥じる色がなく、家人は皆大笑いした。

少卿となってからは、甚だ意を得ず、杯酒をもって自ら楽しんだ。朝士の宴集があるたび、招かれなくても常に自ら赴き、酒が酣になれば即ち琵琶を弾き、弾き終われば詩を賦し、詩が成れば舞を踊った。当時の人はその俊逸さを愛し、「三絶」と称した。

宋の初め、詔を受けて『明憲皇太后諡議』を撰述し、当時に称された。建隆四年に卒し、年四十五であった。