高頔
高頔、字は子奇、開封雍丘の人である。後唐の清泰年間に進士に挙げられようとしたとき、同輩が彼を欺いて言った、「どうして裴僕射に知遇を求めないのか」と。当時、裴皥は左僕射を以て致仕しており、後進でその門に至る者はなかった。頔は性質純朴で、その言葉を信じ、文章を贄として皥に献じた。翌年、礼部侍郎馬裔孫が貢挙を掌るところ、彼は裴皥の門下生であった。皥が頔のことを彼に話すと、遂に乙科に擢でられ、四遷して魏博観察支使となった。
周の顕徳年間、符彦卿が奏して掌書記に署した。時に太宗が大名において懿徳皇后を親迎され、彦卿は頔を遣わして迎え候わせた。日夜陪接し、特に款好を伸ばした。後に彦卿に従って鳳翔に鎮し、詔が下って彦卿を洛陽に留めることとなり、頔は再び天雄軍掌書記となった。後に病を以て免じられ、魏に居住した。
頔は清節有り、力學強記で、手書きで書を千余巻写した。彦卿は彼を厚く待し、時に過分に優給を致すこともあったが、頔は口数を計って費用を受け、余りは皆納めなかった。彦卿の左右は多く貪虐を肆にし、民は堪えることができなかった。彦卿が鎮を罷めるに及んで、その故時の将吏・賓客は皆心に愧じ、敢えて再び魏に遊ぶ者はいなかった。ただ頔のみが清苦に法を守り、魏人は彼を愛した。魏に三十年、一人としてその非を言う者なし。乗ずる馬が老いたので、糜を以てこれを飼った。僕夫は年七十、これを初めの如く待ち、時にその長者と称された。
次子の鼎は、進士に挙げられ、殿中丞に至った。
李度
累遷して殿中丞・知歙州となった。事に坐して左遷され、絳州団練使となり、十年間遷調されなかった。度が歙州にいたとき、嘗て著した詩を石に刻んだことがあり、中黄門がその石本を得て、禁中に伝え入れた。太宗がこれを見て、宰相に言われた、「度は今どこにいるか」と。即ち召し至らせることを命じ、便殿で対し、語り合って甚だ悦び、虞部員外郎・直史館に擢で、緋を賜った。端拱初年、籍田が終わり、交州の黎桓に恩を加えることとなり、度に命じて太常少卿を借りて官告国信副使に充てさせ、上は詩を賜って行を寵した。交州に至らぬうち、太平軍の伝舎で卒し、年五十七。
韓溥
弟の洎もまた進士及第した。
鞠常
子の仲謀、字は有開、雍熙中に進士となり、材幹あり、御史・東京留守推官・陝西転運を歴任し、兵部員外郎に至る。仲謀はその父の為した文を集めて二十巻と成す。弟の愉は周の広順中の進士、常と名を斉しくす。
宋準
宋準、字は子平、開封雍丘の人。祖父の彦升は庫部員外郎。父の鵬は秘書郎。準は開宝中に進士に挙げられ、翰林学士李昉が貢挙を知り、準を甲科に擢でる。時に貢士徐士廉が登聞鼓を撃ち、昉が情を用いて取捨を為すこと当たらずと訴う。太祖怒り、準を便殿に召して覆試せしむるに、準の形神偉茂にして、程試敏速なるを見て、甚だ之を嘉し、俊造の首に冠すべきと以為い、是より再び準を甲科に擢で、即時に秘書省校書郎・直史館を授く。
柳開
柳開、字は仲塗、大名の人。父の承翰は乾徳初め監察御史。開は幼より穎異にして、胆勇あり。周の顕徳末、父の任に侍して南楽に在り、夜に家人と庭中に立つ。盗室に入る有り、衆恐れて敢えて動かず。開は僅か十三歳、急ぎ剣を取って之を逐う。盗は垣を踰えて出づ。開は刃を揮って二足の指を断つ。
時に大いに北征を挙ぐるに会い、開は軍糧を部送し、将に涿州に至らんとす。契丹の酋長万騎を領して米信と戦い、相持して解けず。俄かに使を遣わし紿いて降を求むと言う。開、信に謂いて曰く、「兵法に云う『約無くして和を請うは、謀なり』と。彼将に謀有らん、急ぎ之を攻めば必ず勝つ」と。信は猶予して決せず。二日を踰え、賊復た兵を引いて挑戦す。後に偵知するに、果たして矢尽きたるを以て、幽州に取りを俟つなり。師還り、闕に詣でて上書し、辺軍に従いて死に效うるを願う。太宗之を憐れみ、復た殿中侍御史を授く。
雍熙中、河北に使いしに因り、疏を抗して曰く、「臣は非常の恩を受け、未だ以て報いる所無し。年は裁四十、胆力正に壮んなり。今契丹未だ滅びず、願わくは陛下、臣に歩騎数千を賜い、河北の用兵の地を以て任せよ。必ずや出生入死し、陛下の為に幽・薊を復せん。身たとえ戦場に没すとも、臣の願いなり」と。上は五代の戦争以来、節鎮より刺史に至るまで皆武臣を用い、多く政事を暁らざるを以て、人の其の弊を受く。文士を兼用せんと欲し、乃ち侍御史鄭宣・戸部員外郎趙載・司門員外郎劉墀を並びに如京使と為し、左拾遺劉慶を西京作坊使と為し、開を崇儀使・寧辺軍知事と為す。
全州に徙る。全の西溪洞に粟氏有り、族五百余人を聚め、常に民の口糧畜を鈔劫す。開は衣帯巾帽を作り、牙吏の勇弁なる者を選びて三輩を得、使いて入り、之を諭して曰く、「爾能く我に帰すれば、即ち厚賞有り、田を与えて屋して之を処す。然らずんば、兵を発して深く入り、爾が類を滅ぼさん」と。粟氏懼れ、二吏を留めて質とし、其の酋四人を率いて一吏と偕に来る。開は其の犒賜を厚くし、吏民争いて鼓吹を以て之に飲ます。数日居りて遣い還す。期の如く老幼を携えて悉く至る。開は即ち其の居業を賦し、『時鑒』一篇を作り、石に刻みて之を戒む。其の酋を遣わして朝に入らしめ、本州の上佐を授く。開に銭三十万を賜う。
真宗即位の際、如京使を加えられ、帰朝して代州知州を命ぜられる。上言して曰く、
国家創業より将に四十年、陛下は二聖の祚を継ぎ、至治を精求せらる。旧規を守るならば、これ未だ善を尽くさず。新法を立ててこそ、神機を顕すべし。
臣は益州が稍々静謐なれば、陛下に賢能を選び以てこれを鎮められんことを望む。必ずや望重く威ある者を要し、即ち群小畏服すべし。また西鄙は今こそ帰明すれど、他日必ず保つべからず。もし翻覆あらば、人を得て制禦すべく、契丹に比議すれば、患ひ更に深し。何となれば、契丹は君臣久しく定まり、蕃・漢久しく分かれて、縦え南顧の心萌すとも、亦須らく自ら思慮有るべし。西鄙は積恨未だ泯まず、貪心悛わず、その下猖狂にして競って凶悪を謀り、侵漁必ずしも足るを知らず、姑息未だ恩を感ぜず。常に予備せられんことを望む。良将を以てその要害を守らしめ、厚賜を以てその貪婪を足らしめ、撫慰を以てその情を来たらしめ、寛仮を以てその念を息ましむ。多く人使を命じて西に甘・涼に入らしめ、厚くその心を結び、我が声援と為し、もし動静あらば、その掩襲をさせ、彼に後顧の憂ひ有らしめ、乃ちその軽動を制すべし。今甲兵衆多なれども、太祖の時の如く人人練習せず、謀臣猛将は則ち又縣殊なり。是を以て比年西北屡々侵擾に遭い、養育すれば則ち月費甚だ広く、征戦すれば則ち軍捷未だ聞かず。誠に願わくは禁戢を訓練し、往日の如く行伍必ず勇敢に求め、指顧後先に縦せず、失律者は悉く誅し、功を獲る者は必ず賞せよ。偏裨主将、威厳なき者はこれを去れ。聴断の暇に、親しく殿庭に臨み、更に貔虎を召し、その撃刺馳驟をさせ、以て神武の盛を彰せ。
臣は又、宰相・枢密は朝廷の大臣、これを委ねれば必ず疑わず、これを用いれば必ず至当ならん。僚属を銓総し、職官を評品し、内は則ち百司を主管し、外は則ち四海を分治す。今京朝官は則ち別に審官を置き、供奉・殿直は則ち別に三班を立て、刑部は詳断を令せず、別に審刑を立て、宣徽一司は全く散地に同じ。大臣は親信を獲ず、小臣は至公と謂う。銀台一司の如きは、旧く枢密に属し、近年改制し、職掌甚だ多く、倍加して人を置くも、事は則ち旧に依り、別に利害なく、虚しく変更有り。臣は審官・三班を停め、復た中書・枢密・宣徽院に委ね、銀台司は復た枢密に帰し、審刑院は復た刑部に帰し、その繁細を去り、その頭目を省かんことを望む。
また京府大都は万方の軌則、旧貫に仍り、親賢を選び委ねられんことを望む。今皇族宗子悉く多く成長すれど、ただ優逸を令するのみにて、材を試すこと無し。宜しく外藩に委ね、文武忠直の士を択び、左右賛弼の任と為すべし。
また天下州県の官吏均しからず、或いは冗長至って多く、或いは歳年久しく闕く。県四千戸以上は朝官を選び知らしめ、三千戸以上は京官を選び知らしめんことを望む。主簿を省去し、県尉にその事を兼領せしむ。その余の通判・監軍・巡検・監臨使臣は並びに酌量して省減し、利禄の虚費を免れ、仍って職官に均済せしめん。
また人情貪競、時態軽浮、骨肉の至親と雖も、勢利に臨みて多く変ず。同僚の内、多く或いは和せず、隙を伺えば則ち傾危に致し、患難に遭えば則ち全く相救うこと無し。仁義の風蕩然として復たせず。頒告諭有りて、各々改更せしめ、化原を厚くし、永く政本を敦くせんことを望む。
恭しく惟うに太祖神武、太宗聖文、光は百王を掩い、威は万国に加わり、賢を用いざる無く、事を知らざる無し。陛下に聖懐を開豁し、天の如く海の如く、断ずべくんば即ち断じ、行うべくんば即ち行い、忠直の臣を愛惜し、姦諛の党を体察せられんことを望む。臣久しく著位に塵し、寝て恩寵を荷い、辞狂理拙、唯だ聖明これを恕せんことを!
開は州に至り、城壘戦具を葺く。諸将多く沮議して協わず。開その従子に謂いて曰く、「吾れ昂宿に光有るを観、雲多く北より来たりて境上を犯す。寇将に至らんとす。吾れ師克つは和に在りと聞く。今諸将我を怨む。一旦寇至らば、必ず我を危うくせん。」即ち郡の換えを求め、忻州刺史に徙る。契丹辺を犯すに及び、開上書し、又車駕に河朔に観兵せんことを請う。四年、滄州に徙り、道中病み首瘍にて卒す。年五十四。その子涉を録して三班奉職と為す。
開は射を善くし、弈棋を喜ぶ。集十五巻有り。『家戒』千余言を作り、石に刻み以て諸子を訓う。性倜儻として義を重んず。大名に在りし時、嘗て酒肆に過ぎて飲む。士人傍らに在り、辞貌稍々異なり。開その名を詢ねれば、則ち京師より至り、貧しきを以てその親を葬るに克たず、王祐の篤義を聞き、将にこれに丐わんとす。費する所を問えば、曰く「二十万足れり」。開即ち所有を罄き、白金百余両を得、益すに銭数万を以てし、これを遣わす。
開の兄肩吾、御史に至る。肩吾三子、湜・灝・沆並びに進士第に及第す。灝は秘書丞。
夏侯嘉正
夏侯嘉正、字は会之、江陵の人、少にして俊才有り。太平興国中進士に挙げられ、歴官して著作佐郎に至る。巴陵に使し、『洞庭賦』を作りて曰く、
一日崇丘に登り、大沢を望む。雲崪として兮興じ兮止む。興止未だ霽れず、急に遇うこと有るが若し。是れ由りて陽輝を漬け、芳沢を沐み、巖の際に一異人を睹る。霞を裾と為し、雲を袂と為し、冰膚雪肌、金玦玉佩、浮丘・羨門、斯れ実にその対なり。
そこで言うには、「そなたは好んで文辞を弄する者ではないか。」臣が答えて、「その通りです。」「それではそなたの智は通じないところがあり、識は窮まらないところがあり、通じず窮まらないものを用いて無端の紀に従うならば、そなたは危うくならないか。」臣はまた答えて、「その通りです。」「されど志が極まれば物が応じ、思が精しければ道が来る。そなたの勤めを嘉し、喧嘩せずに語ろう。我はそなたのために称えよう。『太極より生ずるもの、地と曰い天と曰う。その中に五精を含み、五精の用いるところ水はその一つに居る。水の疏たるもの、近きは江となり、遠きは河となる。積もれば瀦となり、総べれば湖となる。今いわゆる洞庭というものは、傑出して孤高に立ち、廓然として区別なく、その大いさに比類なし。陽を含み陰を宇とし、玄神の都である。曖曖昧昧として、百川敢えて逾えず。臣の如きものあり、賓の如きものあり、僕の如きものあり、子の如きものあり、附庸の如きものあり、娣姒の如きものあり。禹が塗山に会し、武王が牧野に巡ったが如く、千が出で百が会して、皆その麾下に処す。六合澄静なる毎に、中流に立ちて回り睨む。莽莽蒼蒼として、微かな靄も翳らさず。太陽と望舒と、その間に出没す。万頃みな沸き立ち、強いてこれに名づけて巨沢と為し、長川と為し、水府と為し、大淵と為す。これを放っても逾えず、忠を尽くしても卑しまれず。賢人の如く、重きを以て自ら持するが如し。誘っても進まず、犯せば愈々堅し。また良将の如く、謀を以て辺を守るが如し。澎澎濞濞として、浩として一致す。また太始の如く、未だ仁義なし。沖沖漠漠として、二気交錯す。また混沌の如く、凝然として未だ鑿たれず。これすなわち方輿の心胸、溟海の郛郭なり。三代以前、その気は濩落たり。浩浩として天に滔き、物と迴薄す。木を滅ぼし陵を襄い、際なく廓なし。上帝降りて鑒み、巨人ここに作す。すなわち玄夷に命じ、禹に機を授く。山を隧ち谷を陻め、源を滌い微を暢にす。然る後に金の熔にあるが如く、木の工にあるが如く、精を流して器を成し、何ぞ通ぜざらん。この沢の設け、允に厥の中を執れり。既にその性を巽にし、遂にその正を得たり。升あり降あり、動あり静あり。』」
臣これに応えて曰く、「升降動静は、聞くことを得ましょうか。」神曰く、「水の性は円にあらず方にあらず、柔にあらず剛にあらず、直にあらず曲にあらず、玄にあらず黄にあらず。象を劃して《坎》と為し、羲皇に本づく。外は婉にして固く、内は健にして彰る。降るは《後》を以て始め、升るは《復》を以て張る。その静は陰に処し、その動は陽に随う。六府の甲、万化の綱なり。式にこの沢を観れば、すなわち天常を知る。もし四序の変、九夏の攸に処するや。烘然として炎え、沸然として煮ゆ。群物鴻洞として、隆暑に爍かす。沢の作すや、頎然としてその容、去るが如く住するが如く、茹むが如く吐くが如し。霊の趨き怪の覲く、杳として覩うべからず。これを蒸して雲と為し、これを散じて雨と為す。倏かに万象を急かし、太古に還るが如し。真に嘉すべきなり。もし秋の神と為るや、素気清泚たり。肅肅翛翛として、群籟四起す。沢の動くや、黝然としてその姿、挺つが如く倚るが如く、行くが如く止まるが如し。《巽》宮離離として、これがために風を騰す。蒼梧崇崇として、これがために雲を供す。四顧一色、黯然として氤氳す。その声瀰瀰として、商の如くして商にあらず、徵の如くして徵にあらず。東に海門に湊し、一浪千里。また畏るるに足るなり。その状を言えば、すなわち石然として骨あり、岸然として革あり。気然として栄え、洚然として脈あり。山ありて心と為り、洞ありて腹と為る。玉ありて体と為り、珠ありて目と為る。穹鼻は孤島、呀口は万谷。臂は三呉に帯び、足は荊・巫を跬む。あるいは跂然として望み、あるいは翼然として趨る。彭蠡・震澤、詎んで云うべきか。」
臣また問うて曰く、「沢の態は既に命を聞きました。水の族は将に如何に居るのでしょう。」神曰く、「大道は変易し、あるいは文あるいは質なり。沈潜自ずから遂げ、その類一にあらず。あるいは甲を被りて邅り、あるいは裾を曳きて円し。あるいは禿げて跂ち、あるいは角ありて蜿る。あるいは吞みて呀き、あるいは呿きて牙あり。あるいは心これに之って蟹と為り、あるいは目これに之って蝦と為る。あるいは修臂して立ち、あるいは横騖して疾し。あるいは首に発し、あるいは肘に髯す。あるいは儼然として荘なり、あるいは毅然として黝し。彪彪玢玢として、大虚の万彙を含むが如く、名その生に循いて群に合乎する者なり。」
臣また問うて曰く、「神の資は、その品如何なるものでしょう。」神曰く、「清し静し、麗し至り、邈として知り難し。古に肇め、古には達せざる所あり。今に形り、今には察せざる所あり。希夷にしてその心を自然に合わさずんば、然る後に上天入地し、三根六を把つ。況んや水に居り陸に処するをや、何ぞ燭かざらん。彼の鞚鯉の賢、轡龍の仙は、すなわち我が肩なり。その余の海若・天呉、陽侯・神胥は、齪齪として遊び、曾て我が儔ならず。」
臣また問うて曰く、「《易》に『王公は険を設く』と称す。この沢の険は固と為すべし。而して歴代の興衰、その義は安くに取るのでしょう。」神曰く、「天道は順を以てし逆を以てせず、地道は謙を以てし盈を以てせず。故に治理の世は、仁を建てて旌と為し、心を聚めて城と為す。而して弧は弦に暇あらず、矛は鋒に暇あらず、四海これを以て大同す。何ぞ必ずしも険阻を恃み、要衝に拠らん。秦の百二を得て帝と為り、斉の十二を得て王と為るが如し。その山は金と為り、その水は湯と為る。これを守るに義あらず、然る而して亡ぶ。水は大なるに在らず、これを恃む者は敗る。水は微なるに在らず、これを怙る者は危うし。漢の昆明に疲れ、桀の酒池に困るが如きは、またその類なり。故に黄帝は楽を張りて興り、三苗は義を棄てて傾く。すなわち知る、洞庭の波は仁を以てし乱を以てせず、道を以てし賊を以てせざるを。惟だ賢者はその知を観て然る後に得るなり。」
ここにおいて盤桓し徙倚し、精を凝らして視を流す。辞を罄くして対し、倏然として晦む。
徐鉉これを見て曰く、「これ玄虚の流れなり。」人多く伝写す。
端拱初め、太宗その名を知り、召して辞賦を試み、右正言・直史館兼直祕閣に擢で、緋魚を賜う。元夕、上乾元門に御して灯を観る。嘉正五言十韻の詩を献ず。その末句に云う、「両制誠に羨むべく、青雲玉輿に侍る。」上韻に依りて和し以てこれを賜う。「狭劣終に挙げらるると雖も、通才上居に列す」の句あり。議者これを以て嘉正の好進を誡むるなりとす。未幾病に被る。詔して益王生辰使と為す。獲る所の金幣、鬻いで錢を得て輦にて家に帰る。忽ち一緡地より起き立ち、良久にして仆す。聞く者これを異とす。嘉正の疾遂に篤く、月余にして卒す。年三十七。
子紓、太子中舎。
羅処約
羅処約、字は思純、益州華陽の人、唐の酷吏希奭の裔孫。伯祖袞、唐末諫官と為る。父済、蜀に仕えて升朝官と為る。朝に帰り、太常丞に至る。処約嘗て《黄老先六経論》を作りて曰く、
先儒は太史公が道德を論ずるに、先ず黄・老にして後に《六経》とするを以て、これその病む所以なりとす。某曰く、「然らず。道とは何ぞや。無の称なり、これによらざるはなし。混成して仙と為り、両儀至虚にして万物に応ず。詰うるに致し難し。況んや名づけて『道』と曰う。道既に名づけらる。降りて聖人と為る者は、来を知り往を蔵し、天地に準うることを能くするが故に、黄・老・姫・孔通称せらる。その体を道と曰い、その用を神と曰う。適するもなく、莫するもなく、一以てこれを貫く。何ぞ先にして尊く、孰れか後にして愧じんや。」
『六経』とは、『易』は人の権変を明らかにして道に本づき、『礼』は民の情を節して性に趣き、『楽』は民の心を和して天真を全うし、『書』は九疇の秘を叙べて二帝の美を煥かにし、『春秋』は君臣を正して名教を敦くし、『詩』は風雅を正して規戒を存するものである。この道と『六経』とは一つである。まして仲尼は堯・舜を祖述したのであるから、まして帝鴻氏についてはどうであろうか。華胥の治、太上の徳は、史伝に詳しい。老聃は世に方外の教と謂うが、しかし『六経』と皆ともに国を治め身を治めるに足り、清浄であればこれを得るのである。漢文の時は、学校に遑わなかったが、竇后はこれによって治め、曹参はこれを得て相となり、ほとんど刑措に至った。しかも仲尼は嘗て礼を問うたのである。
俗儒は或いはその説を否定するが、余は言う、『春秋』昭公十七年に、郯子が来朝し、仲尼は従って学んだので、後世の人に好問の旨を敦くさせた。まして老子は有道の士、周の史氏である。余は謂う、『六経』の教えは、化して已まずすれば則ち大同に臻し、大道の行われる時は則ち蜡賓の歎息が止む。黄老と『六経』と、どちらが先でどちらが後であろうか。またどうして必ず繅藉玉帛を用いて後に礼と為し、筍虡鏞鼓を用いて後に楽と為さねばならぬのか。余は謂う、太史公の志は、ここに見えるのである。どうして道の跡と儒の末とが相い戾ることを以てその説を憎み疾むことができようか。これを病む者は以て微を観るべく、未だ以て妙を観るべからず。
人多くこれを重んず。
登第し、臨渙主簿となり、再び遷って大理評事・呉県知事となる。王禹偁が長洲県知事であった時、日に詩什を以て唱酬し、蘇州・杭州の間に多く伝誦された。後に共に召されて闕に赴き、上自ら題を定めてこれを試み、禹偁を右拾遺とし、処約を著作郎とし、皆直史館とし、緋魚を賜う。詔を下して讜言を求めるに会し、処約上奏して曰く。
伏して今年春の詔旨を観るに、諫官が備員にして未だ嘗て事を言わざることを責め、九寺・三監の官もまたその讜議を尽くすを得るとある。陛下は虔恭に労神し、精を厲めて理を求め、王道を力行し、坐して太平を致す。心は先天に違わず、徳は生民に未だ有らず、以て玄黄の協気を散じ、動植の休祥と為す。しかるに猶功成を伐たず、屡々献替を求む。これは真に唐堯・虞舜の用心である。
臣が累日以来、朝に趨くの暇に、或いは卿士の内において時政の言を預聞するに、皆曰く聖上は三司の中に、邦計の属する所、簿書既に広く、綱条実に繁し、尽善の規を求め、酌中の道に協わんことを冀うと。窃に省の上言を聞くに、十二員の判官を置き兼ねてその職を領せしめ、各その局を司り、厥の中を允に執らしめんと欲すと。臣は三司の制は古に非ずと為す。蓋し唐朝中葉の後、兵寇相仍い、河朔は王せず、軍旅未だ弭まず、賦調筦榷の出づる所を以て、故に尚書省より三司を分ち以てこれを董す。然れども国用の須う所、朝廷の急務、故に僚吏の属は倚注尤深し。或いはその位を重くして以てこれを処し、その禄を優にして以てこれを寵し、黽勉に事に従う者は姑くその因循を務め、国事に瘁する者は或いは睚眥より生ず。因循すれば則ち国に補わず、睚眥すれば則ち時に協わず。或いは浅近の人は心計に瑕を指すを用い、深識の士は多可を以て身を謀る。蠹弊相沿い、日の久しきと為る。今もし十二員判官の説の如くならば、亦た権に従い弊を救う一端である。
然れども聖朝の政は治平に臻る、古を稽える規を求め、以て世を垂るる法と為すべし。臣嘗て『説命』の書を読み、「事古に師せずんば、説の聞く所に匪ず」と為し、又二『典』に曰く「古の帝堯を稽えるが若し」、「古の帝舜を稽えるが若し」と。皆古の道を順考して治平を致すと謂う。臣の見る所に、尚書都省の故事を復するに若くは莫し。その尚書丞郎・正郎・員外郎・主事・令史の属は、請う六典の旧儀に依らんことを。今の三司の銭刀粟帛筦榷支度の事を以て、均しく二十四司に在らしめ、此くの如くすれば則ち各司存有り、以てその事を集むるを責むるを得ん。今則ち金部・倉部安んぞ能く儲廩帑蔵の盈虚を知らん、司田・司川孰れか能く屯役河渠の遠近を知らん。名有りて実無く、積久して常を生ず。況んや此れ却って都省の事を復するは、下臣猶能く僉にその可なるを知る、況んや陛下の聰明濬哲においてをや。
然るに議者は以て、行われて久しく、改更するに難しと為す。もし宸心より断じ、相府に下せば、都省の制は故典存す。上令すれば下従う、孰れか不可と為さん。蓋し人は習常と与にすべく、変に適するは難く、楽成と与にすべく、始を慮るは難し。『周易』にこれ有り、「天地革まりて四時成る」と。これは命を改め制を創る能く、小人の楽成に及べば則ち面を革めて以て上に順うと謂う。況んや三司の名は近代に興り、堆案盈几の籍、何ぞ嘗て能くこれを省覧せん。復た三司の中に就き、更に僚属を分置すれば、則ち愈々その本原を失う。今三司勾院は即ち尚書省、比部は元より勾覆の司、内外の経費を周知す。陛下若しこれを復せんと欲せば、則ち制度尽く在り。迨んで九寺・三監は多く冗長の司と為り、その官有りと雖も、その職を挙げず。
伏して望む、陛下治平の日に当たり、久しく垂るる規を建て、更に使臣を差し煩わさず、別に公署を置かざらんことを。此くの如くすれば則ち名正しくして言順い、言順いて事成り、その冗員を省すれば則ちその経費を息む。故に『書』に曰く「唐虞古を稽え、官を建つること惟百。夏商官倍す、亦克く用いて乂う」と。伏して望む、天地簡易の化を法とし、『洪範』大中の道を建て、以て億万斯年、衣裳を垂れて端拱せんことを。
初め、済は開封府司録たり、太宗京を尹す、頗るその強幹を嘉す。太平興国中、処約は兄賁と同く進士に挙げられ、上臨試し、賁が済の子なるを知り、遂にこれを高等に置く。八年、処約復た登第す。賁は後に員外郎に至る。
処約は形神豊碩、見る者これを重くす。詞采有りと雖も進用に急にして、時論も亦これを以て薄し。卒後、蘇易簡・王禹偁その文を集めて凡そ十巻、題して『東観集』と曰う。禹偁序を為し、易簡表を上す。詔して史館に付す。
蜀士また厳儲と曰う者有り、太平興国中進士、後に直史館、河北に使い軍糧を督め、契丹に陥る。
安德裕
德裕の性質は介潔で、風鑒を以て自ら負うところとした。王禹偁・孫何は皆初めて詞場に遊んだ時、德裕は力を尽くして延誉した。試験を領するに及んで、孫何をまたその首選とした。しかし酣飲が甚だしすぎたため、褒め抜擢されなかった。文集四十巻がある。
錢熙
錢熙、字は太雅、泉州南安の人である。父の居譲は、陳洪進に清渓県令に任じられた。熙は幼くして穎悟であり、長ずるに及んで群籍に博く通じ、文を属するに善く、洪進はその才を嘉して、弟の娘を妻とさせた。熙を府職に任じようとしたが、辞して就かず、『楚鴈賦』を著して志を示した。間もなくまた辟かれて巡官となり、専ら牋奏を掌った。
洪進が朝廷に帰順すると、熙は旧職に叙されず、進士に挙げられた。雍熙初年、文を携えて宰相李昉に謁見し、昉は深く賞賛し、朝廷に延誉して、子の宗諤に彼と交遊させた。翌年、甲科に登第し、度州観察推官を補した。代わって還ると、寇準が吏部選を掌り、上封して錢若水・陳充・王扶及び熙は皆文才があると推薦し、中書で試みさせ、殿中丞に遷り、緋魚を賜った。『四夷来王賦』を著して献上し、凡そ一万余言に及んだ。太宗はこれを嘉し、即座に本官のまま史館に直した。
淳化年間、参知政事蘇易簡が太宗に趙鄰幾が『唐実録』を追補していると上言した。鄰幾が卒し、家は睢陽にあった。即座に熙に命じて駅伝で赴かせ、その書を全て取り来て上進させた。熙はかつて楊徽之と語り、張洎・錢若水が進用されようとしていることに言及した。熙は劉昌言と同郷で、親しく善しとし、またその事を語った。昌言はそれによって洎に語った。洎は熙が交わりを構えることを疑い、訴えた。熙は職を削られ、朗州通判に左遷され、間もなく衡州に移され、そのまま太常博士に改めた。真宗が即位すると、右司諫に遷った。李宗諤・楊億は平素より熙と厚く善しとしていたため、梁顥・趙況・趙安仁と共に表を上って熙の旧職復帰を請うたが、回答はなかった。間もなく杭州通判となり、政務を多く専断して達し、転運使に奏劾され、越州通判に移された。
子の蒙吉もまた進士及第した。