湯漢
臣聞く、天下の大を任ずるには、心を立つるに公ならざるべからず。天下の重を守るには、心を持するに敬ならざるべからず、と。陛下は皇天の眷命を膺け、祖宗の宝図を受け給う。されば私恩を懐うべからず。天下の共主となり、億兆の寄命とならせば、私親を隆んずべからず。大臣近臣、休を服し采を服する者は、皆陛下の倚仗する所なり。されば私人を信ずべからず。三省・密院は、陛下の朝廷にして、号令を発し政を布く出づる所なり。されば私令あるべからず。四海九州、土宇昄章は、皆陛下の倉廩府庫なり。されば私財を殖やすべからず。陛下、皇天祖宗の徳を永く念わずして、私恩に報答し、群黎百姓の疾苦を深く恤れみずして、私親を富貴にし、公卿朝廷に在りて、その信任は近習の篤きに如かず、中書命を造りて、その除行は内批の専なるに如かざれば、すなわち陛下の心を立つる、既に天下の公に尽く合わす能わざるなり。
往時、陛下は上は天戒を畏れ、下は人言を恤れみ、内には権臣に拘制され、外には強敵に恐怯せられ、敬心既に尽く弛するを敢えず、すなわち私意もまた尽く行うを得ざりき。比年以来、天戒人言既に玩熟せられ、貪濁国を柄にし、貨を贖うに厭うこと無し。彼既にその私を行わんと恣にせんとすれば、すなわち陛下の為さんと欲する所を縦にするを得ざるなり。ここにおいて前日の敬畏尽く忘れられ、而して一念の私始めて四出して禦ぐべからざるに至る。姑く近事の跡を以てこれを証す。定策の碑、忽ち中より出づ。嚮にはその文に親しまんと欲せざりき。貴戚の子弟、中外に参錯す。嚮にはかくの如く放たざりき。土木の禍、展転して流毒す。訟牒の細故、胥吏の賤人皆、群榼の勢を藉りて、清都の邃を徹す。嚮にはかくの如く熾ならざりき。御筆の出づる、上は朝令を廃し、下は有司を侵す。嚮にはかくの如く多からざりき。賄賂の通ずる、書致の操る、嚮にはかくの如く章ならざりき。
故に凡そ陛下の大を任じ重を守るに能わずして、怨を召し禍を宿すに至る所以の者は、心を立つるの未だ公ならざるに始まり、心を持するの敬ならざるに成り、私を以て主と為し、肆を以てこれを行えばなり。これ以て天地を感動せしめ、水火の災い捷かに数月の内に出づる所以なり。陛下、治乱持危の計を亟に為さざるを得んや。而して復た常日の玩易の心を以てこれを処すべけんや。
太学博士を授けられ、転対し、言うには、「太祖の天下をその半ば壊した者は、蔡京・王黼なり。高宗の天下をその半ば壊した者は、鄭清之なり」と。また言うには、「苟くも志あらば、すなわちその紀綱必ず先ず正しくし、その根本必ず先ず強くし、その藩籬必ず先ず固くすべし。夫れ然る後に心広く体胖かにして、泮渙として優遊し、その楽極まり無し。此れを捨てて務めずして、徒に九重の深き、一笑の適を以て楽と為す。楽極まりてこれを思えば、吾れ朝廷有りて治むる能わず、吾れ黎民有りてこれと保つ無く、起きて四境を視れば、外侮また至る。鄭衛の音有り、燕趙の色有り、建章の麗有り、瓊林の積有りとも、亦た独り何の楽ぞや」と。
館職に召し試みられ、秘書省校書郎に遷る。皇太子の冠礼に、太常博士に差充し、賓贊を引き、命を受けて『冠箴』を進め、詔して太子に拝謝せしむ。秘書郎に昇り、転対し、辺事を極言し、以て「今日、危を扶け乱を救うに復た他策無く、人主の心清くして欲無く、天下の財力を尽く用いて兵を治むるに在り。大臣の心公にして我無く、天下の人才を尽く用いて本を強くするに在り。庶幾くは尚お亡を以て存と為すの理有らん」と為す。
福建常平を提挙し、福州守の史嵓之・泉州守の謝埴を劾奏す。礼部郎官兼太子侍読に召される。尋いて直華文閣・福建運判を以て、寧国府知事に改む。江西常平提挙兼吉州知事に遷る。江東運判・隆興府知事に移る。尚左郎官兼太子侍読兼玉牒所検討官に召され、入奏して言うには、「願わくは陛下、本を端にし源を澄まし、己を虚しくして下に尽くし、大公の道を恢め、不諱の門を開き、朝廷の上をして、光明洞達にして邪孽の根以てその正を撓ます無からしめ、四海の内をして、歓欣交通にして怨戾の気以てその和を奸ます無からしめ給わん。臣の忠愛、此れに切なるは莫し」と。
太府少卿に遷り、兼ねて太子諭徳を昇め、秘書少監に改む。疏を上って論ずるに、「比年、董宋臣の声焰薰灼、その力能く台諫を去り、大臣を排し、凶渠と結連し、悪徳参会して、以て兵戈相尋の禍を致せり。陛下その故を灼かに見、斥けて遠ざけ給えり。臣、その影滅して跡絶えんことを意えり。豈に陰消して再び凝り、冰解して驟かに合し、既に自便を得て、即ち復用を図り、その罪戾の余を以て、一旦復たこれをして壺奥の中に出入せしめ、宗廟の内に給事せしむるを料らんや。これ其れ神人の怒に重く干し、禍乱の源を再び基う。上下皇惑し、大小切歯す。而るに陛下方にこれを弁明し給い、大臣方にこれと和解す。臣窃に此の過計を重く傷む。古より小人の復出する、その害必ず惨く、将にその憤怨を逞うし、その儔伍を嘯き、宇宙を顛倒せんとす。陛下の威神、時にして以て自ら行うを得ざる有り。甚だ畏るべし」と。
休致を乞い、太常少卿に擢でられ、太子は書を以て勉めて留めらる。補外を求め、秘閣修撰を以て福州知事・福建安撫使となり、隆興府知事に改む。
度宗即位し、奏事に召され、太常少卿兼国史院編修官・実録院検討官を授けられる。起居郎兼侍読に遷り、入奏して言うには、「願わくは陛下、一の敬心を持して以て百度を正し給わん。すなわち追養継孝、以て先帝に報いる所以の者、必ず益々その隆きを致し、先意承志、以て太母に事うる所以の者、必ず益々その謹みを致し給わん。その身を愛するも、必ず物欲を以てその和平を撓ます無く、その家を正すも、必ず私昵を以てその法度を隳さ無からしめ給わん。政事は必ず朝廷より出で、而して多門に予防し、人才は必ず明揚より由り、而して邪径に深く杜せ給わん」と。
中書舎人を兼権し、権兵部侍郎に任じられ、さらに同修国史・実録院同修撰を兼ね直学士を兼ねた。累次にわたり致仕を請い、華文閣待制・寧国府知事を授けられ、金帯を賜った。久しくして、また召されて刑部侍郎兼侍読となり、龍図閣待制として福州知事・福建安撫使となった。太平州知事に改め、権工部尚書兼侍読となった。顕文閣直学士として玉隆宮を提挙した。華文閣学士に進み、端明殿学士のまま致仕した。卒す、年七十一。特旨をもって正奉大夫を贈られ、諡して「文清」といった。
何漢は潔白にして操守があり、進取に恬淡としており、文集六十巻がある。
何基
何基、字は子恭、婺州金華の人である。父の伯熭は臨川県丞となり、黄𠏉がちょうどその県の知事を務めていたので、伯熭は二子(何基と弟)を連れて師事した。𠏉は必ず真実の心地と刻苦の工夫があってこそ可能であると告げ、基は恐れ謹んでその教えを受けた。ここにおいて事に随って誘掖し、淵源の美を聞くことを得た。微辞奥義を研精覃思し、平心易気をもってその通ずるを俟ち、未だ己の意を交え、異を立てて高しとし、人に徇って少しも変えることはなかった。凡そ読むところの書には標点を加えずといふことなく、義は顕れ意は明らかで、論説を待たずして自ら見えるものがある。
朱熹の門人楊与立は一見して推服した。学び来る者が多く、嘗て言うには、「学問を為すには志を立てるには堅固なるを貴び、規模は大なるを貴び、充実し践履し服膺し実行し、死して後已むべきである」と。『詩』を読む法は、胸中を掃蕩して浄尽し、然る後に上下に吟詠し、従容として諷詠し、人を感発せしめて、初めて功有りと為すべきであると言った。『洪範』を以て『大学』『中庸』に参らしむれば、約せずして符節を合わせるものがあると言った。『易』を読む者は、当にその膠固支離の見を尽く去り、以てその心を潔浄にし、精微の理を玩味し、沈潜涵泳してその根源を得て、乃ち漸く爻象を観ることができると言った。蓋しその師訓を確かに守ったので、精義に造り約に至ることができたのである。
王柏が既に贄を執って弟子となると、基は謙抑して師道を以て自ら尊ばなかった。柏は高明にして識見絶倫、諸経を序正し、弘論英弁、質問難疑し、或いは一事について十度往復することもあったが、基は終始変わることなくその定まるを待った。嘗て言うには、「経を治むるには当に謹んで守り精しく玩味すべく、必ずしも多く疑論を起こす必要はない。後学のために言おうとする者は、謹みて又謹むべし」と。基は淳固篤実にして、漢儒に絶類していた。一本朱熹に拠りながらも、その言を就いて発明すれば、精義新意は愈々出でて窮まることがなかった。基の文集三十巻のうち、柏と問答弁論したものが十八巻ある。
郡守趙汝騰が婺州を守った時、招聘して講義を請うたが、辞して就かなかった。また朝廷に真っ先に推薦し、さらに名だたる従官を率いて列挙して推薦した。通判鄭士懿、守蔡抗、楊棟が相次いで招聘したが、皆辞した。景定五年、詔して賢を挙げよとあり、特に基と建の人徐幾を推薦し、共に命を受けて婺州学教授に添差され、麗沢書院山長を兼ねたが、力辞して未だ果たさぬうちに、理宗が崩御した。咸淳初年、史館校勘兼崇政殿説書を授けられたが、屡々辞し、承務郎に改められ、西嶽廟を主管したが、終にこれも受けなかった。卒す、年八十一。国子祭酒楊文仲が朝廷に請い、諡して「文定」といった。
著したものに『大学発揮』『中庸発揮』『大伝発揮』『易啓蒙発揮』『通書発揮』『近思録発揮』がある。
王柏
王柏、字は会之、婺州金華の人である。祖父の崇政殿説書師愈は、楊時に従って『易』『論語』を受け、既にしてまた朱熹・張栻・呂祖謙と交遊した。父の瀚は、朝奉郎・建昌軍仙都観主管となり、兄弟は皆朱熹・祖謙の門に及んだ。
柏は若くして諸葛亮の為人を慕い、自ら「長嘯」と号した。三十歳を過ぎて、初めて家学の本源を知り、俗学を捨て去り、勇んで道を求めた。その友汪開之と『論語通旨』を著し、「居処は恭、執事は敬」に至り、惕然として歎じて言うには、「長嘯は聖門の持敬の道ではない」と。急いで「魯斎」と改めた。
朱熹の門人と交遊し、或る人が何基が嘗て黄𠏉に従って朱熹の伝を受けたと語ると、即ち往ってこれに従い、立志居敬の旨を授けられ、且つ『魯斎箴』を作って勉めた。質実堅苦にして、疑いあれば必ず基に質した。『論語』『大学』『中庸』『孟子』『通鑑綱目』の標注点校は、特に精密であった。『敬斎箴図』を作った。夙に興いて廟に謁し、家を治めるには厳粛に整えた。暑さの時は閣を閉じて静坐し、子弟が事を告げるには、衣冠を整えなければ会わなかった。
幼くして孤となり、その伯兄に事えて甚だ恭しかった。季弟は早く喪い、その孤を撫育し、また田を割いて与えた。宗族を収合し、周恤扶持した。開之が没すると、家貧しく、そのために殮し且つ葬った。
学び来る者が多く、その教えは必ず『大学』を以て先とした。蔡抗・楊棟が相次いで婺州を守り、趙景緯が台州を守り、麗沢・上蔡の両書院の師として招聘した。郷里の耆徳は皆弟子の礼を執った。理宗が崩御すると、諸生を率いて喪服を製し郡に臨んだ。
柏の言うには、「伏羲は『河図』に則って八卦を画き、文王は八卦を推して『河図』に合わせたのは、先天後天の宗祖である。『河図』は逐位の奇偶の交わりであり、後天は統体の奇偶の交わりであり、ただ四つの生数は動かない。四つの成数を以て上下し、上は偶、下は奇、自然に非ざるはない」と。また言うには、「大禹は『洛書』を得て九疇を列ね、箕子は九疇を得て『洪範』を伝えた。範囲の数は、期せずして暗合する。『洪範』は、経伝の宗祖であろうか。『初一曰五行』以下の六十五字が『洪範』であり、『五皇極』以下の六十四字が皇極経である。これは帝王相伝の大訓であって、箕子の言葉ではない」と。また言うには、「今の『詩』三百五篇は、豈に全て夫子の手に定まったものか。刪された詩は、或いは閭巷浮薄の口に存するものがあり、漢儒がこれを取って亡びを補ったのであろう」と。乃ち『二南』を各十一篇と定め、両両相配した。『何彼穠矣』『甘棠』を退けて『王風』に帰し、『野有死麕』を削り去り、鄭・衛の淫奔の詩を黜した。また『春秋発揮』を作った。また言うには、「『大学』致知格物の章は未だ亡びてはいない」と。『知止』の章を『聴訟』の上に戻した。『中庸』には古く二篇あり、誠明は綱と為すべく、目と為すべからずと言った。『中庸』の誠明を各十一章と定めた。その卓識独見は多くこの類である。
その卒するや、衣冠を整へ端坐し、婦人の近づくを揮ひて止む。国子祭酒楊文仲、朝に請ひて、諡して「文憲」と曰ふ。
著する所に《読易記》、《涵古易説》、《大象衍義》、《涵古図書》、《読書記》、《書疑》、《詩弁説》、《読春秋記》、《論語衍義》、《太極衍義》、《伊洛精義》、《研幾図》、《魯経章句》、《論語通旨》、《孟子通旨》、《書附伝》、《左氏正伝》、《続国語》、《閫学之書》、《文章復古》、《文章続古》、《濂洛文統》、《擬道学志》、《朱子指要》、《詩可言》、《天文考》、《地理考》、《墨林考》、《大爾雅》、《六義字原》、《正始之音》、《帝王暦数》、《江左淵源》、《伊洛精義雑志》、《周子》、《発遣三昧》、《文章指南》、《朝華集》、《紫陽詩類》、《家乗》、文集あり。
徐夢莘
徐夢莘、字は商老、臨江の人なり。幼くして慧く、経史に耽嗜し、下は稗官小説に至るまで、寓目して誦す。紹興二十四年進士に挙げらる。歴官して南安軍教授となす。湘陰県知事に改む。時に湖南帥田を括り、耕税を増すと号し、他の邑は令を奉じて惟だ謹みたり。夢莘独り邑に新田無く、租税の出づる所無しと謂ふ。帥其の民に私するを恚り、簿書の間に其の過を攈摭せんと欲すれど、終に能く得ること莫く、是に由りて反つて之を器重す。
夢莘栄進に恬たり、毎に靖康の乱に生れ、四歳にして江西阻訌し、母繈負して亡去し免るるを得しを念ひ、顛末を見究めんと欲し、乃ち旧聞を網羅し、同異を会稡して、《三朝北盟会編》二百五十巻と為す。政和七年海上の盟より起こり、紹興三十一年完顔亮の斃るるに訖り、上下四十五年、凡そ曰く敕、曰く制、誥、詔、国書、書疏、奏議、記序、碑志、登載して遺すこと靡し。帝聞きて之を嘉し、直秘閣に擢ず。
弟 得之
得之、字は思叔、淳熙十年進士に挙げらる。部使者廉吏を以て薦め、通直郎を以て致仕す。貧に安んじ分を楽しみ、貪らず躁がず、《左氏国紀》、《史記年紀》を著し、《具敝篋筆略》、《鼓吹詞》、《郴江志》を作る。
従子 天麟
《西漢会要》七十巻、《東漢会要》四十巻、《漢兵本末》一巻、《西漢地理疏》六巻、《山経》三十巻を著す。既に官を謝し、亭を蕭灘の上に作り、厳子陵の像を画きて之に事ふ。
李心伝
臣聞く「大兵の後、必ず凶年あり」と。蓋し其の殺戮の多き、賦斂の重き、斯の民の怨怒の気をして、陰陽の和に上干せしめ、此の極に至るなり。陛下の宜しく諸大臣と与に乱政を掃除し、民と更始し、以て悪運を消し、善祥を迎ふるの計と為すべき所なり。然るに法弊未だ嘗て更張せず、民労に振徳を加へず、既に其の旧に改むる能はざるのみならず、而して殆ど甚だしき有り。故に帝徳未だ罔愆に至らず、朝綱或は多紊に苦しみ、廉平の吏、所在鮮に見る有り。而して利を貪り恥無く、敢て悪を為すの人、敵を挟み兵を興し、四面にして起り、以て其の欲する所を逞はんことを求む。此くの如くにして五福の来備し、百穀の用ひて成るを望むは、是れ木に縁りて魚を求むるなり。
臣が旱魃の原因を考察するに、和糴の増加による民の怨嗟、流散して帰る所なく民が怨むこと、検税が実情を尽くさず民が怨むこと、財産を罪なくして籍没し民が怨むこと、と申し上げる。凡そこれらは皆、大戦の後に起こり、その勢いを消す術がなく、故にますます積もって極限に達しているのである。成湯は聖主であるが、桑林の祈りにおいてなお六事を以て自らを責められた。陛下が治世を願われてより、ここに七年、災異と凶作の記録が史書に絶えることがないのは、何故であろうか。朝令暮改して常規がなく、これが政が節度を失っていることである。行く者には餞別を、居る者には送別を、略々止む日がなく、これが民を使役して苦しめていることである。陪都の園廟の工事が甚だ盛んである、これが土木営造に励んでいることである。潜邸の女冠の勢力・気焔がますます盛んである、これが女謁が盛んなことである。珍玩の献上が退けられることを聞かず、これが贈賄が行われていることである。鯁直な言論が多く厭棄される、これが讒言する者が栄えていることである。この六事の一つでもあれば、旱魃を招くに足りる。願わくは速やかに己を責める詔を下し、六事を修めて天の心を翻すべし。群臣の中に、聚斂剽窃の論を献じて進用を求める者があれば、必ず重く罷免し、聖徳を誣うることを得ざらしめよ。そうすれば旱魃は烈しくとも、なお鎮め得るであろう。然るに民は内に怨み、敵は外に逼り、事窮まり勢い迫って、何所に至らざらんや。陛下に謀臣雲の如く、猛将雨の如くあらしめても、策と為す所以を知ることもできまい。
心伝は史才があり、故実に通じていたが、その著した『呉獵伝』『項安世伝』においては、褒貶に秉筆の要旨に愧じる所があった。蓋しその志は常に川蜀を重んじ、東南の士を軽んじたためであるという。
著して成った書物に、『高宗繫年録』二百巻、『学易編』五巻、『誦詩訓』五巻、『春秋考』十三巻、『礼辨』二十三巻、『読史考』十二巻、『旧聞証誤』十五巻、『朝野雑記』四十巻、『道命録』五巻、『西陲泰定録』九十巻、『辨南遷録』一巻、詩文一百巻がある。
葉味道
理宗が朱熹の門人及びその著書について尋ねられると、部使者は味道の行誼を上聞し、三省架閣文字主管に差遣された。宗学諭に遷り、輪対して言上した。「人主が学を務められることは、天下の福である。必ず志気を堅くして学んだ所を守り、幾微を謹んで学んだ所を験し、綱常を正して学んだ所を励まし、忠言を用いて学んだ所を充実させるべきである。」口奏に至っては、さらに帝王が心を伝える要諦と、四代が歌や銘を作った旨を述べ、その結びに「言葉が広まれば力は減じ、文が勝れば意は虚しくなる」と言った。従臣の中に味道を講官に推薦する者があり、太学博士を授けられ、崇政殿説書を兼ねた。
故事によれば、説書の職務は『通鑑』に止まり、経書には及ばなかった。味道は先ず『論語』を講ずるよう請い、詔して従わせた。帝が突然、鬼神の道理を問い、伯有の事が荒唐に渉るのではないかと疑われた。味道は答えて言った。「陰陽二気の散聚は、天地といえども易えることはできない。死してなお散らざるもの、これが常である。その死を得ずして鬱結して散らざるもの、これが変である。故に聖人は宗廟を設け、親疏遠近を別け、正に民に親愛を教え、化育に参賛する所以である。今、伯有は罪を得て死し、その気が散らず、妖や厲となり、国中の上下をして安寧ならしめない。そこで子泄を立ててその後を奉らしめれば、ほぼ鬼に知る所があり、神もみな安寧となるであろう。」これは皇子の竑の事を諷したのである。
三京に出兵するに当たり、廷臣や辺境の将帥がこぞって機会説を進言した。味道は議状を進めて、「辺境を開くことが次第に広がり、応援は倍加困難となり、賦課の割り当ては日々煩雑に、糧秣の輸送は日々逼迫し、民が一旦命に堪えられなくなれば、龐勛・黄巢の禍が直ちに現れるであろう。これは先ずその根本を揺るがすことで、外征には益がない」と考えた。経筵での奏事には、これを申し述べない日はなく、やがて洛陽の軍が敗北したと聞いた。そこで人々は味道が微を見て遠くを慮る者であると言った。
味道が奏上陳述したことは、一言として導き助け、君身に切実なことを求めず、傍らに引き延ばし曲折させ、治道に推し及ぼさないものはなかった。秘書省著作佐郎に遷ったが、卒去した。訃報が伝わると、帝は震悼し、内帑の銀帛を出してその喪を助け、一官を昇進させてその子孫に任じた。これは故事にないことであった。
著書に『四書説』、『大学講義』、『祭法宗廟廟享郊社外伝』、『経筵口奏』、『故事講義』がある。
王応麟
国子録に転じ、武学博士に進んだ。上疏して言うには、「陛下は道理を多くご覧になり、善政を望まれて久しい。事勢の艱難に当たり、外患により版図が狭まり、人材は乏しく民力は尽きている。強いて善を行い、徳を修めることを増し、自ら沮喪怠惰せず、士気を恢弘し、下情をことごとく通じさせ、綱紀を操りて委任を明らかにし、左右を謹んで壅蔽を防ぎ、哲人を求めて後嗣を輔けさせるべきである」。対面した後、帝がその父の名を問うと、言うには、「そちの父は善を陳べて忠とした。美を継ぐというべきである」。
丁大全は応麟を招こうとしたが、得られなかった。太常寺主簿に転じ、対面して言うには、「淮の戍はまさに警報があり、蜀の道は甚だ艱難で、海表の上流は皆、藩籬唇歯の憂いがある。軍功は未だ集まらずして賞を吝しみ、民力は既に困窮して重税を課すのは、修攘の計ではない。陛下は宴安をもって自ら逸楽せず、容悦の言をもって自ら寛ぐことなかれ」。帝は憂い顔で言うには、「辺境の事は甚だ憂うべきである」。応麟は言うには、「事なき時には深く憂え、事に臨んでは懼れず。汲々として予防を願い、壅蔽に欺かれることなかれ」。時に大全は辺境の事を言うのを忌み嫌い、ここにおいて応麟は罷免された。
間もなく、大全が敗れると、応麟を起用して台州通判とした。召されて太常博士となり、秘書郎に抜擢され、まもなく沂靖恵王府教授を兼ねた。彗星が現れ、詔に応じて極論し、執政・侍従・台諫の罪、私財を蓄え公田を行う害を論じた。また言うには、「天変に応ずるには人心を回らすに先んずるはなく、人心を回らすには直言を受け容れるに先んずるはない。天下の口を箝し、直臣の気を沮むのは、天に応ずるに如何」。時に直言する者は多く権臣の意に逆らい、故に応麟はこれに及んだのである。著作佐郎に転じた。
度宗が即位すると、礼部郎官を摂行し、百官の表を起草した。旧制では、聴政を請うのに四つの表を上ればよかった。ある夜、入臨したところ、宰臣が旨を諭して三表の増撰を命じた。応麟は筆を執って立ちどころに書き上げた。丞相が総護して還り、辞位の表三道を、使者が立って待っていたが、応麟は従容としてこれを授けた。丞相は驚いて服し、即座に礼部郎官を兼ね、直学士院を兼ねさせた。
馬廷鸞が貢挙を掌ると、詔して応麟に権直を兼ねさせ、まもなく崇政殿説書を兼ねた。著作郎に転じ、軍器少監を守った。経筵で人日の日に雪が降り、帝が故事があるかと問うと、応麟は唐の李嶠・李乂らの応制詩を以て答えた。ついで奏上して言うには、「春雪過多にして、民生飢寒に陥る。方寸の仁愛、謹んで感召すべし」。将作監に転じた。
帝が朝を見ると、応麟に言うには、「学問をするには古人の心を灼に見ることを要す」。応麟は対えて言うには、「厳恭寅畏して敢えて怠皇せず、克く勤め克く倹にして自ら縱逸せず、強く以て下を馭え、断を以て事を制す、これ古人の心なり。然れども操捨は眇綿に易く忽せられ、兢業は游衍に毎に忘る」。帝は嘉納した。やがて転対し、言うには、「人君は未萌の欲を防ぎ、已まざるの誠を存すべし」。兼侍立修注官に抜擢され、権直学士院に昇進し、秘書少監兼侍講に転じた。市舶について上疏して論じたが、回答はなかった。
時に賈似道が平章事に任ぜられ、葉夢鼎・江萬里が各々去職を求め、似道もまた去職を求めた。応麟が奏上すると、孝宗朝でも宰相が欠けたことは一年を超えたと、帝は急いでこれを取って諭した。似道は応麟の言を聞き、大いにこれを憎み、包恢に語って言うには、「我が去った朝士に王伯厚のような者は多い。ただこの人は元より文学の名が著しく、天下に我が士を棄てたと言わせたくない。彼は何ぞ少し自ら貶することを思わざるや」。恢が告げると、応麟は笑って言うには、「宰相に逆らう患いは小さく、君に背く罪は大きい」。起居舎人に転じ、兼権中書舎人とした。冬に雷があり、応麟は言うには、「十月の雷は、ただ東漢に数回見えるのみ。命令専一ならず、姦邪並び進み、卑しきが尊を踰え、外が内を陵ぐ象なり。天君を清め、天命を謹み、天徳を体して以て天心を回らすべし。守成には必ず祖宗に法り、治を御するには必ず威福を総べよ」。似道はこれを聞き、斥逐の意を決した。
応麟は閤門に牒して直前奏対を求め、人を用いるには君子小人を察するに先んずるはないと言った。ちょうど袖に疏を入れて待班していたところ、台臣が急いで疏を上ってこれを駁した。ここにおいて二史の直前の制は遂に廃された。祕閣修撰を以て崇禧観を主管した。
久しくして、起用されて徽州知州となった。その父の撝がかつてこの郡を守っており、父老は皆言うには、「これは清白太守の子なり」。豪右を摧き、租賦を省き、民は大いに悦んだ。
召されて秘書監とし、権中書舎人としたが、力辞したが、許されなかった。国史編修・実録検討兼侍講を兼ねた。起居郎兼権吏部侍郎に転じ、成敗逆順の説を指陳し、かつ言うには、「国家の恃むところは大江、襄・樊はその喉舌なり、議論は緩やかに容れられず。朝廷は方に従容として常の如し、事機一たび失えば、豈に自ら安んぜんや」。朝臣に辺境の事を言う者なく、帝は快く思わなかった。似道はまた斥逐を謀ったが、ちょうど応麟が母の喪に服して去った。
及び似道が江上で師を潰すと、中書舎人兼直学士院を授けられ、即座に疏を引いて十事を陳べた。急征討・明政刑・厲廉恥・通下情・求将材・練軍実・備糧餯・挙実材・択牧守・防海道、これがその項目である。かつ言うには、「大患を図る者は必ず細故を略し、実効を求める者は必ず虚文を去る」。よって諸路の勤王の師を集めることを請い、率先して至る者あれば、宜しく厚賞して以て勇敢の気を起こさせ、力を併せて進戦すべし、惟だ能く戦うのみ、斯くして守るべしと。兼同修国史・実録院同修撰兼侍読に進み、礼部侍郎兼中書舎人に転じた。日食があり、応麟は詔して天戒に答える五事を論じ、備禦の十策を陳べたが、皆用いられなかった。
まもなく尚書兼給事中に転じた。左丞相留夢炎が徐囊を御史に用い、江西制置使黄萬石らを抜擢すると、応麟は奏を繳して言うには、「囊は夢炎と同郷にして私の嫌いあり、萬石は粗戾無学にして、南昌を失守し、誤国の罪大なり。今まさにこれを引いて自ら助けんと欲し、善類これに搏噬せらるる者は、必ず携持して去らん。呉浚は貪墨軽躁、豈に用うべけんや。況んや夢炎は令を舛え諫を慢にし、讜言敢えて告げず、今の降を売る者は、多くその任用の士なり」。疏を再上したが、回答がなかった。関を出て命を待ち、再び奏上して言うには、「危急に因りて紀綱を紊し、偏見を以て公議を咈う。臣が封駁行わず、大臣と異論するは、勢い留まるに当らず」。疏が入ったが、また回答がなく、遂に東帰した。
詔して中使譚純德を以て翰林学士として召したが、識者はその要路を奪い、清秩を以て寵するは、賢者を待する所以にあらずとした。応麟もまた力辞し、後二十年にして卒した。
著書に『深寧集』一百巻、『王堂類稿』二十三巻、『掖垣類稿』二十二巻、『詩攷』五巻、『詩地理攷』五巻、『漢芸文志考證』十巻、『通鑑地理攷』一百巻、『通鑑地理通釈』十六巻、『通鑑答問』四巻、『困學紀聞』二十巻、『蒙訓』七十巻、『集解踐阼篇』、『補注急就篇』六巻、『補注王會篇』、『小學紺珠』十巻、『玉海』二百巻、『詞學指南』四巻、『詞學題苑』四十巻、『姓氏急就篇』六巻、『漢制攷』四巻、『六經天文編』六巻、『小學諷詠』四巻がある。
黄震
黄震、字は東發、慶元府慈溪の人なり。宝祐四年に進士第に登り、呉県尉に調せらる。呉には豪勢の家多く、私債を告ぐれば則ち尉に属し、民多く饑凍窘苦し、尉卒の手に死す。震至り、貴家の告げを受かず。府檄して其の県を摂せしむ。及び長洲・華亭を摂するに及び、皆声有り。
浙東提挙常平の王華甫、帳司文字を主管せしむ。時に錢庚孫は常を守り、朱熠は平江を守り、吳君擢は嘉興を守るも、皆嬖倖に倚りて民を厲す。華甫病革し、強ひて起きて三人を劾罷す、震之を賛すなり。沿海制置司、幹辦・提領浙西塩事を辟すも、就かず。改めて提領鎮江轉般倉分司を辟す。公田法行はるるや、提領官田所に改む、不便を言ふも、聽かず、復た轉般倉職に轉ず。
入りて點校贍軍激賞酒庫所檢察官と為る。史館檢閱に擢でられ、寧宗・理宗兩朝の『國史』・『實錄』の修撰に與る。輪對し、當時の大弊を言ふ、曰く民窮、曰く兵弱、曰く財匱、曰く士大夫無恥。度僧牒・度道士牒の給するを罷め、其の徒老死すれば即ち之を消弭し、其の田を収めて入るれば、以て軍國を富ましめ、民力を紡ぐべしと乞ふ。時に宮中に内道場を建つ、故に首に此に及ぶ。帝怒り、批して三秩を降す、即ち國門を出づ。諫官の言を用ひ、寢するを得。
出でて廣徳軍を通判す。初め、孝宗、朱熹の社倉法を天下に頒ち、而して廣徳は則ち官此の倉を置く。民納息に困り、至つて息を以て本と為し、而して息皆横取せらる、民窮して自經するに至る。人以て熹の法と為し、敢へて議せず。震曰く「然らず。法は堯・舜・三代の聖人に出づるも、猶ほ變通有り、安んぞ先儒の法を為し、其の弊を救はざることを思はんや。況んや熹の法は、社倉を民に歸し、而して官與るを得ず。官與らざるも、而して終に納息の患有り。」震別に田六百畝を買ひ、其の租を以て社倉の息に代へ、凶年に非ざれば貸さず、而して貸す者は息を取らざるを約す。
郡に祠山廟有り、歳に江・淮の民禱祈する者數十萬を合し、其の牲皆牛を用ふ。郡の惡少、兵刃を挾み牲を舞ひて神を迎ふるを常とし、鬥爭して法を犯すに致る。其の俗又自ら桎梏を嬰ね、自ら拷掠して以て福を徼る者有り。震見て、之を問ふ、乃ち兵卒なり。自ら其の罪を状せしむるを責む、卒曰く「本罪無し。」震曰く「爾が罪多し、人に對して言ふことを敢へず、特に神に告げて以て罪を免れんとす耳。」之を杖して衆に示す。又其の俗所謂埋藏會と為る者有り、庭に坎を為り、深・廣皆五尺、以て祭る所の牛及び器皿數百を其の中に納れ、牛革を以て覆ひ、封鐍すること一夕、明け發きて之を視るに、在る所を失ふ。震以て妖と為し、而して牛を殺し淫祀は法に非ず、之を諸司に言ひ、之を禁絶す。郡守賈蕃世、權相の從子を以て驕縱不法なり、震數之と是非を爭論す、蕃世積みて堪へず、震の政を撓ますを疏し、坐して官を解く。
尋ひて紹興府を通判し、海寇を獲て、之を僇す。撫州饑起る、震其の州を知り、單車疾馳し、中道に富人耆老を約し城中に集まり、某日を過ぐること毋からしむ。至れば則ち大いに「糶を閉づる者は藉し、強ひて糴する者は斬る」と書して市に掲げ、驛舍に坐して文書を署し、州治に入らず、米價を抑へず、價日々に損ず。親しく粥を煮て餓者に食はす。朝に請ひ、爵賞を給して勞する者を旌し、而して後に州事を視る。轉運司州に下して米七萬石を糴す、震曰く「民生蹶けり、豈に重ねて之を困すべけんや!」官に没せられたる田三莊の入る所を以て之に應ず。若し『六經』・『儀禮』を補刻し、朱熹の祠を修復し、晏殊の里門に「舊學坊」と題し、祭社稷の器を製し、風雷の祀を復し、民に麥を種くことを勸め、競渡の船を禁じ、千三百餘艘を焚き、其の丁鐵を用ひて軍營五百間を創るは、皆善政なり。
詔して秩を增す、遂に提挙常平倉司に升る。舊に結關して逮捕を拒ぐ事有りて郡獄に繫がること二十八年、存する者十に三四無く、事尚書省に關するを以て、其の獄を決するを敢へず、結關を以て亂を作すと為すなり。震謂ふ、結關は猶ほ他郡の結甲の如し、亂を作すに比ぶるに非ず、況んや已に數赦を經たり、是に於て皆之を釋す。新城と光澤の地犬牙相ひ入り、民溪を夾みて處り、歳常に忿鬥爭漁す。會す知縣事蹇雄政を爲して民を擾すに、因りて相結びて拒ぎ、起りて焚掠す。震乃ち雄を劾罷し、其の民を諭して散去せしむ。初め、常平に慈幼局有り、貧にして子を棄つる者の爲に設く、久しくして名存りて實亡す。震謂ふ、既に棄てられたる後に收哺するは、其の未だ棄つる前に先だちて之を保全するに若かず。乃ち舊法を損益し、凡そ當に免くるべきにして貧しき者は、里胥の官に請ひて之を贍ふことを許し、棄つる者は人の收養するを許し、官粟を出して收むる家に給し、成活する者衆し。震役法を論じ、先づ縣に令して民の產業を核せしめ、下戶の上戶に抑へらるることを使はざらしむ。大いに水利を興し、廢陂・壞堰及び豪右の占むる所と爲る者を復す。
提點刑獄に改む、滯獄を決し、民訟を清む、赫然として神明の如し。貴家民を害する有り、震之を按す、貴家怨む。又強ひて富人の粟を發して民に與ふ、富人も亦怨む。御史中丞陳堅讒者の言を以て、震を劾して去らしむ、讒者は、乃ち震を怨む者なり。遂に雲臺祠を奉ず。賈似道相を罷めらる、宗正寺簿を以て召し、將に俞浙と並びて監察御史と爲らんとす、内戚震の直きを畏るる者有り、之を止め、而して浙も亦直言を以て去る。
浙東提挙常平に移り、饑民を鎮安し、盜賊の萌芽を折く。時に皇叔大父福王與芮紹興府を判す、遂に王府長史を兼ぬ。震奏して曰く「朝廷の制、尊卑同じからず、而して紀綱紊るべからず。外は藩王と雖も、監司之を言ふを得。今其の屬と爲り、豈に其の非を察するを敢へんや、奈何ぞ臣より復た其の法を壞さん。」固より長史を拜せず。命して侍左郎官及び宗正少卿に進むるも、皆拜せず。
震嘗て人に告げて曰く「聖人の書に非ざれば觀るべからず、益なき詩文は作らざる可し。」居官恒に未明に事を視、事至れば立決す。自ら奉すること儉薄、人急難有れば、則ち之を周し、少も吝かず。著す所の『日抄』一百卷。卒す、門人私に諡して曰く「文潔先生」。