程迥
程迥、字は可久、応天府寧陵の人。沙随に家す。靖康の乱に、紹興の余姚に徙る。年十五、内外艱に遭い、孤貧飄泊して自ら振るうことなし。二十余にして始めて読書を知る。時に乱定まるや、西北の士大夫多くは錢塘に在り、迥は以て徳を考へ業を問うことを得たり。
饒州徳興の丞に調ず。盗県民斉匊の家に入り、平素快からざる者は皆獄に罥絓逮さる。州迥に禁囚を決するを属す。其の冤なる者を弁じて之を縱遣す。匊訟ひて已まず。会に盗寧国に獲らる。匊猶ほ所縱の人を還して訟ふ。迥曰く、「盗既に獲らる。再び追捕を令せば、或は道路に死し、其の骨肉何に依らん。豈に冤を審にするの道ならんや」と。唐粛宗の時、県に程氏の女有り。其の父兄盗に殺さる。因りて女を掠め去る。隠忍すること十余年、手刃を以て尽く其の党を誅し、其の肝心を刳りて以て其の父兄を祭る。迥『春秋』復讐の義を取って、之を頌して曰く、「大にして其の正を得たり」と。之を表して「英孝程烈女」と曰ふ。
隆興府進賢県の知県に改む。省符下る。平江府知事王佐、陳長年が輒私に田を売るを決す。其の従子愬ふること有司に十有八年、母魚氏年七十獄に坐す。廷に弁じて法に按ひて正を追ひ、母の死し服闋の日を候はしめ、理を己が分と為すを令し、天下の郡県に此を視て法と為さしむ。迥議を為して曰く、「天下の人孰か母慈無からん。子若孫は宜く定省温凊すべく、私財有るべからず。律に在りて、別籍する者は禁有り、異財する者は禁有り。牒を報ずるの初め、県令杖して之を遣はし、其の母に命を聴かしむる可きなり。何ぞ有司に遍訴して稽滞し、登聞院に達せんや。『春秋穀梁伝』の注に曰く、『臣に君を訟ふるの道無し』と。衛侯鄭と元咺とが論を発するが為なり。夫れ諸侯の命大夫に於けるも猶ほ此の若し。子孫の母に於けるや乃ち獄に坐して吏に対せしむ。其の親を愛する者之を聞けば、泣涕の横集するを覚えざらんや。令文に按ずるに、財産を分つとは、祖父母・父母服闋已前に所有する者を謂ふ。然らば則ち母在りては、子孫私財有るを得ず。仮令其の母一朝に尽く費すとも、其の子孫亦た教令に違ふを得ず。既に其の母に帰せしむ。其の日前の所費は乃ち卑幼輒ち尊長の物を用ふるなり。法須く五年尊長告して乃ち理と為す。何ぞ母の死を豫期し、又他日の争訟の端を開かんや。抑亦た令せざるの子孫の母の前に死せざるを知らんや。守令は民の師帥、政教の由りて出づる所なり。誠に宜しく守令の職せざるの愆と子孫の不孝の罪とを正し、以て天下の人の母たる者を敬すべし」と。
民饑ゆ。府檄有りて閉糴及び糶と商賈とを訴ふる者有り。迥即ち論報して曰く、「力田の人、細米毎斗纔に九十五文、税賦に逼せられ、是を以て出糶す。上戸に非ざるなり。県境貨宝を出さず。苟も外人と交易せずんば、官に輸するの錢何由か得ん。今強者群聚し、脅持して錢を取り、人を毆傷する者甚だ衆し。民敢へて市に入らず、坐して食を缺くに致す」と。申論再三し、従はるるを見て乃ち已む。
県大水有り、稻麥を亡ふ。郡租税を蠲すること至って薄し。迥府に白して曰く、「是れ民を駆りて流徙せしむるのみ。賦得可からず、徒だ欠籍を存するなり」と。乃ち悉く之を蠲す。郡僚猶ほ曰く、「江を度りて後、未だ嘗て全く放たず。戸部従はざるを恐る」と。迥力めて之を論じて曰く、「唐人損七なれば、則ち租・庸・調俱に免ず。今損十なり。夏税・役錢免ぜず、是れ猶ほ其の二を用ふるなり。寛と謂ふべからず」と。議乃ち息む。
境内に婦人有りて身を傭ひ紡績舂簸して、以て其の姑を養ふ。姑婦の孝に感じ、毎に食を受くるに、即ち手を以て額に加へ天を仰ぎて之を祝す。其の子人に為りて牛を牧し、亦た乾飯を以て祖母に餉る。迥之を廉得し、其の事を紀し、郡に白す。郡錢粟を以て給す。
信州上饒県に調ず。歳に租数万石を納む。旧法倍し、又た斛面米を取る。迥力めて之を止め絶つ。嘗て曰く、「令と吏の服食する者は、皆此の邦の民の膏血なり。曾て是を思はざるに、横斂して民を虐む。鬼神其れ知ること無からんや」と。州郡経総錢を督索すること甚だ急なり。迥曰く、「斯の錢古の除陌の類なり。今其の類乃ち正賦の三倍、民何を以て堪へん」と。当路に之を反復して言ふ。
祠を奉じ、番陽の蕭寺に寓居す。程祥と云ふ者、伯父待制昌禹に従ひて番陽に来り居る。昌禹死し、遂に依る所を失ふ。祥継いで亡ぶ。祥の妻度氏猶ほ奩具を質賣して以て孤子を撫育す。久しくして罄竭し、死に瀕す。鄰家皆其の面を識る莫し。之を醮さんと欲する者有り。度曰く、「吾が兒幼し。若し他人に事へば、母をして其の子を撫するを得ざらしむ。豈に良人に負かざらんや」と。終に辞む。或は迥に其の事を言ふ。迥走りて郡守に告ぐ。月に之に錢粟を給す。
迥官に居りて之に臨むに荘を以てし、政寛にして明、令簡にして信、強を綏ひ弱を撫で、恩義を以て導く。積年の讎訟、一語に解き去る。猾吏姦民、皆感激を以てし、久しくして悛悔し、欺詐以て革む。暇有れば則ち賢士を賓礼し、従容として歓を尽くし、其の子弟の秀なる者を進めて之と均礼し、為に『詩』『書』を陳説す。質疑難を問ふ者、蚤暮を問はず。勢位を以て私を交ふるを得ず、祠廟典祀に非ざれば謁せず。隠德潛善、幽明を問はず、皆表して之を出だし、以て風俗を勵ます。或は其の窮厄を周し、俾く節行を全からしむ。獄訟を聴決するに、明允を期す。凡そ上官未だ悉くせざる者は、必ず再三抗辨し、苟も止むるを為さず。貴溪の民偽りて吳漸の名を作り、県令石邦彥を誣訴す。迥匿名の書当に受くべからずと言ふ。転運使然りと謂はず、遂に大獄を興し、瘐死する者十有四人。省寺に聞くに及び、訖く報ふるに迥の言ふが如し。
迥嘗て経学を崑山の王葆・嘉禾の聞人茂德・厳陵の喻樗に授く。著する所に『古易考』『古易章句』『古占法』『易伝外編』『春秋伝顕微例目』『論語伝』『孟子章句』『文史評』『経史説諸論辨』『太玄補賛』『戸口田制貢賦書』『乾道振済録』『医経正本書』『条具乾道新書』『度量権三器図義』『四声韻』『淳熙雑志』『南斎小集』有り。官に卒す。
朝奉郎朱熹、書を以て迥の子絢に告げて曰く、「敬惟ふに先徳、博聞至行、古人に追配し、経を釈し史を訂し、後学を開悟す。当世の務又通該する所、独り章句の儒のみに非ず。曾て一たび試みるを得ずして、奄に盛時を棄つ。此れ志有るの士の為に悼歎咨嗋して已む能はざる者なり。然れども著書家に満ち、以て世に伝ふるに足る。是れ亦た以て不朽に足る」と。絢致仕の恩を以て巴陵の尉に調じ、邑事を摂り、能く冤獄を理む。孫:仲熊、亦た名有り。
劉清之
劉清之、字は子澄、臨江の人、兄の靖之に師事し、貧しさに甘んじて学問に励み、書物や伝記を広く極めた。紹興二十七年に進士に及第した。袁州宜春県主簿に任ぜられたが、赴任せずに父の喪に服し、喪が明けて建徳県主簿に改任された。州に請うて、民に自らその戸籍を実状に合わせさせた。これにより賦役は公平となり、争訟は止んだ。
万安県丞に転じた。時に江右は大飢饉にあり、郡から旱害視察を命ぜられ、田畑を歩き回り、自ら民と接し、免除すべき事項は全て実情を把握した。州では常平米の価格引き下げを議論したが、清之は言う、「この恩恵は三十里以内に過ぎず、遠方の外郷の民はどうして来られようか。老幼や病のある者は必ず餓死者が出る。今、穀物を持つ家は売り惜しんで出さず、実は奪い取ろうと窺う者が多いのである。我々に政があれば、大いなる家は銭を得、細民は米を得、双方に便宜が図られる」と。そこで境内の地を八区に均分し、穀物を持つ者にそれぞれの郷を救済させ、官がこれを主導するよう請うた。計画を立て防備を厳しくし、民は大いに頼りとした。帥の龔茂良は救荒の実績を朝廷に上聞し、また諸公と共に彼を推薦した。
発運使の史正志が巡察で筠州に至り、清之に州県の零細な賦税を徴収集積させようとしたが、清之は承知しなかった。清之の同郷の友人が幕中にいて言う、「侍郎はあなたの言葉により、あなたが民を愛し特に独立しているとし、あなたを推薦しようとしている。履歴を提出せよ」と。清之は書を送って言う、「いわゆる余剰資金とは、全て州県が民から侵奪刻削したもので、法で禁ずべきものである。たとえ余剰資金があっても、それはいわゆる羨余であり、下から献上するのを詔で止めたのに、今は止めておいて求めれば、上から求めることになる。奪わなければ飽き足らず、その弊害は言い尽くせない。願わくは侍郎自ら朝廷に請い、暫く貳卿の班に帰り、大農の経費を主管して国家を補佐せられよ。そうすれば、士で侍郎の門を出たがらぬ者があろうか。さもなくば、私は誠に侍郎の知人の鑑を汚すことを敢えてしない」と。推薦により二度審察の命があったが、清之はついに丞相に会わず、吏部の選考に赴き、宜黄県知事を得た。
茂良が参知政事に入り、丞相の周必大と共に清之を孝宗に推薦した。召されて対し、まず論じた、「民は困窮し兵は驕り、大臣は退き委ね、小臣は苟も偷安す。願わくは陛下広く覧み兼ねて聴き、謀を併せ智を合わし、清明に安定し、要を提げ綱を挈いて力を以てこれを行われよ。古今、俗変えられず弊革められざるはなく、変じてこれを通ずるも、また陛下の方寸の間に在るのみ」と。また用人について四事を言上した、「一は賢否を辨ず。道義の臣は、大なる者は経綸に当たり、小なる者は儀刑と為り得る。功名の士は、大なる者は政に臨ませ、小なる者は事を立たしめ得る。専ら富貴利達を謀るのみの者は下である。二は名実を正す。今、百官有司は職守が明らかでなく、官を曠らかにするか、侵逼して失う。願わくは史官に詔して設官の本意を考究させ、各々その主管すべき事柄を指し示させ、制旨を親ら定め、命書に載せ、開宝中の諸州通判を差す故事に依り、人々に明らかに知らしめて賞罰を行わしめよ。三は材能を使わしむ。軍旅は必ず武臣、銭穀は必ず能吏、必ず忠信欺かざるの士を以てこれに臨み、両者をして皆その長を効せしめよ。四は換授を聴く。文武の官はその才に違いて用うべからず、然れども自ら列ねるを許すべからず、宜しく文武の臣四品以上に、各々その性行材略及び文武の芸を以て、毎年互いに左右選に堪え充つる者一人を挙げさせ、合入資格外に、稍々優れたる奨励を与えよ」と。
太常寺主簿に改めた。母の喪に服し、喪が明けて鄂州通判となった。鄂は大軍の駐屯地で、兵籍に偽りが多い。清之は郡及び諸司に申し出て、通判庁から始め、偽りの者は自ら実状を言上してこれを正させた。州に民の妻張氏が節を守って死んだ者がおり、嘉祐年中に詔して旌徳県君に封じ、その墓に「烈女」と表したが、中頃兵火に遭い、今に至ってその墓を知る者がない。清之は郡守の羅願と共に訪ねて祠を建てた。鄂の俗は利を計り鬼を尚び、家が貧しく子が壮となれば出贅し、当然のこととして習い、特に大洪山の祠を謹んで奉じ、病者は薬を用いず巫の言を聴き、死者は葬らずして火に付す。清之は皆これを諭して止めさせた。
権発遣常州に差され、衡州に改めた。衡州は建炎以来軍興により、大軍の月樁過湖銭というものを請い、毎年漕司に送り、およそ七八万緡に及び、四邑の収入する麹引銭及び郡の計上する零細な苗米の折納でこれを充てた。旧法では、民に吉凶の聚會があれば、引を買って酒麹とすることを許し、これを麹引銭と称したが、その後、直接に等第によって賦課納入するようになった。衡に五邑あるが、四邑のみに賦課する。民から取る名目が正しくなく、良民は遍くその害を受け、狡猾な民は往々にして上を侮り易え、ついには常賦さえ納めない。曲引銭四五万緡を得るも、常賦の失うところは数万緡に止まらない。清之は朝廷に請い、総領所と酌量して補い移し、漸次に蠲減を図らんことを願った。返答がなかった。そこで諸邑に戒めを発した:常賦を督め、雑征を緩め、旧逋を閣き、預折を戒め、新簿籍を作り、推収を謹み、勾銷を督め、逋負を明らかにし、帯鈔を防ぎ、頑梗を治め、吏姦を止め、戸長を安んじ、費用に節あり、滲漏に防ぎあり、稽考に政あり、補置に漸あり。
先に、郡は厨伝を飾り立てて常平・刑獄の二使者に事え、月一度会集し、互いに折饋を致していた。清之は嘆いて言う、「これは何の時ぞ。民から取るよりは、公から裁くに如かず。我が上官に事える所以は、職務に心を究め、我が民に負うことなきに足る。豈に酒食貨財を以て勤めと為さんや」と。清之は常禄の外、悉く公帑に帰し、経費を補佐した。着任の日、兵に糧なく、官に俸なく、上供送使に備えるものなし。已にして郡の計は漸く裕かになり、民力は稍々蘇った。報告や申告があれば、自ら手ずから書き記し、吏は関与させなかった。
嘗て『諭民書』一編を作り、まず天を畏れ善を積み、力を勤めて本を務め、農工商賈に勧めざるなく、親に事え族を睦まじくし、子を教え先を祀り、身を謹み用を節し、物に利し人を済い、婚姻は時に従い、喪葬は礼を以てすることを教えた。詞意は質直で、簡にして従い易い。邦人の家にその書あり、理に非ざる訴訟は日々衰え止んだ。
士風未だ振わざるを念い、毎月の講義の機に因み、また酒肴を備えて諸生を宴し、互いに情を輸して学を論じ、疑問を設けてその志向を観た後、従容として先後本末の序を示した。来る者日々増えれば、臨蒸精舍を増築して住まわせた。その講ずる所は、まず正経を先にし、次に訓詁音釈、次に先儒の議論を疏し、次に今紬繹する所の説を述べ、然る後各々その用いるべき所を指し示し、人君の天下を治め、諸侯の一国を治め、学者の心を治め身を治め家を治め人を治むるに、確然として皆挙げて措くべき実のあることを示した。
閲武場を設けた。凡そ禁軍で他所に役し、百工に隠れている者は、悉く軍籍に照らして訓練・閲兵に赴かせた。朱陵道院を作り、左に張九齢・韓愈・寇準・周敦頤・胡安国を祠り、右に晋の死節の太守劉翼・宋の死節の内史王応之を祠った。雅儒吉士が日々その間で交わり、参佐の謀論多くはここに在った。劉孝昌は、劉摯の孫で、貧しく自立できなかった。清之は田を買ってこれを給した。部使者は清之が己に媚びぬことを以て、これを憎み、親しい台臣に書を送り、民を労し財を用いることを誣って論じ、罷免させ、雲臺観主管となった。
帰郷し、槐陰精舎を築きて来学する者を処す。胡晋臣・鄭僑・尤袤・羅點、皆力を尽くして清之を上に推薦す。光宗即位し、袁州知州に起用されしも、清之疾発し、猶書を執政に遺して国事を論ず。諸生疾を見舞い往くも、講論を廃せず、天下に及ぶを語り、孜孜として嘆息し、若し其の責を任ずるが如し。病将に革まらんとし、書を為して向浯・彭亀年に別れ、二詩を賦して朱熹・楊萬里に別る。高氏の『送終礼』を取って二子に授け、「自ら斂より葬に至るまで、此れを視て事に従え」と曰う。周必大疾を見に来り、謂いて曰く、「子澄其れ慮を澄ますべし」と。清之の氣息已に微なり、云く、「慮有ること無くして澄ます可し」と。遂に卒す。
初め、清之進士に挙げられし後、博学宏詞科に応ぜんと欲す。及び朱熹に会し、習う所のものを尽く取りて焚き、慨然として義理の学に志す。呂伯恭・張栻、皆神交心契し、汪応辰・李燾も亦敬慕す。母養うに逮ばず、手沢を展閲する毎に、涕泗頤に交わる。従兄の蕭新呉に流落し、族父の曄丹陽に寓し、艾臨川に寓す、皆迎えて養う。従祖の子僑邵州録事参軍と為り、呉錫の乱に死す、清之其の孫晋之を遣わし書を邵守に致し、其の遺骨を得て帰葬す。族人遠より来るも、館に留め、忍びずして之を遽かに去らしむ。嘗て范仲淹の『義荘規矩』に序し、大家族にして衆き者は力に随いて之を行えと勧む。家法を本とし、先儒の礼書を参取し、祭礼を定めて之を行ふ。高安の李好古、族人有りて財を以て訟うるを以て、清之に豫章に見ゆ、清之為に『訟』・『家人』の二卦を説く、好古惕然とし、遽かに訟うる所を捨て、程氏の『易』を市って帰り、卒に善士と為る。
著す所に『曾子内外雑篇』・『訓蒙新書外書』・『戒子通録』・『墨荘総録』・『祭儀』・『時令書』・『続説苑』・文集・『農書』有り。
真徳秀
真徳秀、字は景元、後に更めて景希と為す、建の浦城の人。四歳にして書を受け、過目誦す。十五にして孤と為り、母呉氏貧を力めて之を教う。同郡の楊圭見て之を異とし、帰して諸子と共に学ばしめ、卒に女を以て妻とす。
六年、起居舎人に遷り、奏す、「権姦政を擅ること十有四年、朱熹・彭亀年は抗論を以て逐われ、呂祖儉・周端朝は上書を以て斥けられ、当時の近臣猶争う者有り。其の後呂祖泰の貶せらるるに及びては、惟だ近臣敢えて言う莫きのみならず、而して台諫且つ力を出して以て之を擠す、則ち嘉泰の失已に慶元より深し。更化の初め、群賢皆自奮するを得たり。未だ幾からず、傅伯成は諫官として事を論じて去り、蔡幼学は詞臣として事を論じて去り、鄒応龍・許奕又継いで封駁を以て事を論じて去る。是の数人者は、大いに有所の矯拂を能くするに非ざるも、已に皆朝に容れられず。故に人は務めて自全し、一辞措かず。設い大なる安危・大利害有らば、群臣喑嘿此の如くんば、豈殆からざらんや!今陛下に言わんと欲するは、訪問を勤め、謀議を広め、黜陟を明かにするの三者のみなり」と。時に鈔法楮令行はれ、告訐繁く興り、罪に抵る者衆く、敢えて上に聞こゆる莫し。徳秀奏す、「或いは一夫罪に坐して、並びに昆弟の財を籍し;或いは陌四銭を虧いて、百万の貲を没入す。富室の銭を科し、塩商の舟を拘え、産の高下を視て、民に楮を蔵するを配し、田宅を鬻ぎて券を収むるに至っては、大家と雖も免れず、尚よく名づけて便民の策と為すを得んや」と。此より籍没の産漸く給還す。
太常少卿を兼ぬ。又金人の必ず亡ぶるを言い、君臣上下皆当に祈天永命を以て心と為すべしとす。金国賀登位使を充て、盱眙に及び、金人の内変を聞きて返る。上に言いて曰く、「臣揚より楚に至り、楚より盱眙に至る、沃壤際無く、陂湖相連なり、民皆堅悍強忍、此れ天の吾が国に賜いて以て大江を屏障せしめ、強兵足食をして進取の資と為さしむるなり。顧みるに田疇辟かず、溝洫治まらず、険要扼せず、丁壮練せず、豪傑武勇収拾せず、一旦警有らば、則ち徒に長江を以て恃む。豈に今に及んで大いに墾田の政を修め、専ら一司を以て之を領し、数年之後、積儲充実し、辺民父子争いて自保せんと欲し、其の什伍に因り、兵法を以て勒し、糧餉を待たずして、皆精兵と為らんに如かんや」と。又辺防の要事を言う。
時に史弥远方に爵禄を以て天下の士を縻す、徳秀慨然として劉爚に謂いて曰く、「吾徒須く急ぎ去らんことを引き、廟堂に世にも亦肯て従官と為らざる人有るを知らしむべし」と。遂に力を請いて去り、出でて秘閣修撰・江東転運副使と為る。山東盗起こるも、朝廷猶金と聘を通ず、徳秀朝辞し、奏す、「国恥忘るべからず、隣盗軽んずべからず、幸安の謀恃むべからず、導諛の言聴くべからず、至公の論忽にすべからず」と。寧宗曰く、「卿力余り有り、江東に到る日朕が為に財計を撙節し、以て辺用を助けよ」と。
江東路に旱魃と蝗害が起こり、広徳軍・太平州が最も甚だしく、徳秀は留守・憲司と共に管轄する九郡の荒政を大いに講じ、自らは広徳・太平を担当した。広徳に親しく赴き、太守魏峴と共に便宜を以て倉庫を開き、教授林庠に救済物資の配給を行わせ、事を終えて帰還した。数千人の百姓が郊外まで見送り、道傍の叢塚を指して泣きながら言うには、「これらは皆、往年餓死した者どもでございます。公がいなければ、我々もまた相随って此の中に入っていたことでございましょう。」と。太平州の私的に創設された大斛を探し出して破棄した。新任の徽州知事林琰に廉潔の名声がなく、寧国府知事張忠恕が救済米を私匿していたので、皆これを弾劾し、李道伝を徽州の代理とした。先に、都司の胡槻・薛拯は常に徳秀を迂闊な儒者と嘲笑し、事を試みせば必ず失敗すると言っていたが、この時になって政績の評判が日に日に聞こえるようになると、旱害の損傷は元々軽微であったのに、監司が名声を好み、救済が過剰であると唱え、魏峴に林庠を弾劾させて徳秀を揺るがせようとした。徳秀は上奏して自らを弁明し、朝廷は悟って魏峴を祠官とし、林庠に幹官を授け、李道伝もまた間もなく召還された。
徳秀は右文殿修撰として泉州知事となった。外国船は苛酷な徴税を恐れ、来航するものは年に三、四艘に過ぎなかったが、徳秀はまずこれを緩和し、来航する船は急に三十六艘に増加した。租税の納入は民に自ら量らせ、訴訟はただ姓名を掲示するのみで、人々は自ら州庁に赴かせた。泉州には多くの豪族がおり、里巷の害となっていたので、厳しくこれを糾弾した。田畑を争う訴訟があったが、徳秀がその証文を焼き捨てるに至って、敢えて争わなくなった。海賊が乱を起こし、城に迫ろうとした時、官軍は敗北した。徳秀は戦死者を祭った後、自ら方略を授けてこれを捕らえた。さらに海辺をくまなく巡行し、地形を仔細に観察し、要害の地に駐屯を増やして、不測の事態に備えた。
嘉定十五年、宝謨閣待制・湖南安撫使として潭州知事となった。「廉・仁・功・勤」の四字を以て僚属を励まし、周惇頤・胡安国・朱熹・張栻の学術の源流を以て士人を勉励した。酒の専売を廃止し、斛面米を免除し、和糴の免除を申請して、民を蘇らせた。民が食糧に窮すると、極力救済した上に、さらに惠民倉五万石を設け、毎年出糶させた。また穀物九万五千石を換え、十二県に分けて社倉を設置し、郷落にまで行き渡らせた。別に慈幼倉・義阡を設けた。恵政をことごとく施行した。毎月諸軍の射術を試験し、その回易の利益と官田の租を供出した。凡そ営中で病む者、死して未だ葬られざる者、妊婦、嫁娶する者には、差等を設けて給与した。朝廷が寿昌朱橐の請願に従い、飛虎軍を寿昌に駐屯させ、その家族も共に移そうとしたが、力を尽くしてこれを止めさせた。江華県の賊蘇師が境内に侵入して殺戮略奪を行ったので、広西に檄を飛ばして共に討伐平定した。司馬遵が武岡を守備したが、軍の反乱を引き起こしたので、遵を弾劾し、その乱を起こした者を誅殺した。
理宗が即位すると、中書舎人に召され、間もなく礼部侍郎・直学士院に抜擢された。入朝して拝謁し、上奏して言うには、「三綱五常は、宇宙を支える棟梁であり、生民を安んずる柱石でございます。晋は三綱を廃して劉淵・石勒の変が起こり、唐は三綱を廃して安禄山の難が起こりました。我が朝の建国は、先ず名分を正すことにありました。陛下は不幸にも人倫の変事に処せられ、流言が四方に伝わり、損なわれるところ浅からず。霅川の変は、済王の本意ではなく、前に避匿の跡があり、後に討捕の謀議を聞くなど、情状の本末は明らかに考証できます。願わくは雍熙年間に秦王を追封し罪を赦し孤児を恤う故事を論じ、済王には子孫がございませんが、陛下に滅びたものを興し絶えたものを継がせてください。」と。上は言われた、「朝廷が済王を遇することもまた至れり尽くせりである。」徳秀は言った、「もしこの事の処置が尽く善しと謂うならば、臣は敢えて然りと為さざるを得ません。舜が象を処した所以を観るに、陛下が舜に及ばざること甚だ明らかでございます。人主はただ二帝・三王を師とすべきでございます。」上は言われた、「一時の倉卒の出来事であった。」徳秀は言った、「これは已に過ぎた過失でございます。ただ陛下にこの失いがあることを知り、ますます学を講じ徳を進められることを願うのみでございます。」次に言うには、「霅川の獄は、公朝において参聴したと聞かず、淮・蜀の二閫帥は却って衆議の期する所の外より出でました。天下の事は一家の私事にあらず、何ぞ惜しんで衆と共にせざるや?」また言うには、「乾道・淳熙の間、朝に位する者は贈り物が門に及ぶことを恥じ、外任を受ける者は賄賂が都に入ることを羞じました。今や賄賂が公然と行われ、風俗を染め、恬として怪しまず。」また上疏して言うには、「朝廷の上には、鋭敏な士が老成の士より多く、嘗て耆艾を以て傅伯成・楊簡を褒め、儒学を以て柴中行を褒め、恬退を以て趙蕃・劉宰を用いましたが、忠亮敢言たる陳宓・徐僑に至っては、未だ録用を受けておりません。」上が廉吏を問うと、徳秀は袁州知事趙䈣夫を以て答え、上は親しく䈣夫を直秘閣に抜擢し、監司とした。手札を具して謝恩し、ついで崔与之が蜀を帥い、楊長儒が閩を帥い、皆廉潔の名声があることを言い、広く諮問を加えるよう乞うた。
上が初めて清暑殿に御した時、徳秀は経筵に侍して上に進言して言うには、「ここは高宗・孝宗二祖が神を蓄え安閑とされた地でございます。仰ぎて楹や椽を見るに、二祖が実にその上に臨在されるが如くあるべきでございます。陛下の居られる所は東朝(太后の宮)に近く、未だ敢えて人主の奉ずる所に当たるべきではありません。今や宮閣の儀礼が次第に整い、一心にして衆の攻撃を受けるに、浸淫して蝕まれざるはありません。ただ学のみがこの心を明らかにし、ただ敬のみがこの心を存し、ただ君子に親しむのみがこの心を維持することができます。」と。ついで古の居喪の法と先帝の視朝の勤勉さを極めて陳述した。
徳秀はしばしば鯁直な言論を進めたが、上は皆虚心に受け入れ開かれた心で聞き入れられた。しかし史弥遠はますます厳しく畏れ憚り、ついに徳秀を揺るがす策を謀ったが、公議を恐れて敢えて発しなかった。給事中王塈・盛章が初めて徳秀が主張した済王の贈典を駁し、続いて殿中侍御史莫澤がこれを弾劾したので、遂に煥章閣待制・玉隆宮提挙に転じた。諫議大夫朱端常がまたこれを弾劾し、職を落とし祠官を罷免された。監察御史梁成大がまたこれを弾劾し、流刑や誅殺を加えるよう請うた。上は言われた、「仲尼は已甚なることを為さず。」と。乃ち止めた。
帰郷した後、『読書記』を編纂し、門人に語って言うには、「これは人君が治を行うための門戸である。もし我を用いる者あれば、これを執って往かん。」と。汀州の寇賊が起こると、徳秀は陳韡に文武の才幹があると推薦し、常平使者史弥忠が朝廷に言上したので、遂に韡を起用して討伐平定させた。紹定四年、職を改め祠官とされた。
五年、徽猷閣に進み、泉州知事となる。迎える者は道を塞ぎ、深村の百歳老人も杖を支えて出てきて、城中の歓声は地を動かした。諸邑の二税法は預借が六七年に及び、徳秀が境に入ると、まず預借を禁じた。諸邑には累月にわたり一銭も解かないところがあり、郡の財政は空しく立ち行かなくなった。ある者は寛恤が急すぎることを咎めたが、徳秀は民の困窮がこのようである以上、むしろ身をもってその苦しみを代わろうと言った。訴訟の決断は卯の刻から申の刻まで終わらなかった。ある者は精神を養うよう勧めたが、徳秀は郡が疲弊して民に恵みを施す力がなく、せめて政事を公平にし、訴訟を処理することに努めるべきだと言った。建炎初年に南外宗正司を泉に置き、公族はわずか三百人で、漕司と本州がこれを支給し、朝廷は毎年度牒を助けていた。やがて支給されなくなり、二千三百余人に増えたため、郡はこれによってますます立ち行かなくなった。徳秀が朝廷に請うと、詔して度牒百道を給する。
弥遠が薨じ、上(理宗)が親政し、顕謨閣待制として福州知事となる。管下に濫刑や横斂をせず、私に徇って貨を黷することなく、市令司を罷めて言った。「物が同じなら価格も同じであり、どうして公私の違いがあろうか」閩県の里正が賦税の督責に苦しんでいたのでこれを改めた。属県が高価な買い入れに苦しんでいたので、便宜を図って常平倉を開いて救済した。海賊が横行していたので、順次に捕らえ殲滅した。まもなく、金が滅んだと聞き、京湖の帥臣が露布を奉じて八陵の図を上進し、江・淮では潼関・黄河を進取する議論があった。徳秀はこれを憂い、封事を上奏して言った。「江・淮の甲兵を移して無用の空城を守らせ、江・淮の金穀を運んで耕されない廃れた土地を治めれば、富庶の効果は未だ期せず、根本の弊害がすぐに現れるでしょう。どうか陛下はこれをよく考え重んじてください」。
召されて戸部尚書となり、入見すると、上は迎えて言った。「卿が国を去って十年、常に賢を思うこと切であった」。そこで『大学衍義』を進呈し、さらに天の命を祈り永く保つ説を陳べ、「敬は徳の集まる所である。儀狄の酒、南威の色、盤遊弋射の娯楽、禽獣狗馬の玩び、この中に一つでもあれば、皆敬を害するに足りる」と言った。上は喜んで嘉納し、翰林学士・知制誥に改め、時政について多く論じ建議した。一年余りして、貢挙を管掌し、すでに病を得て、参知政事に拝され、同編修として敕令・『経武要略』を編修した。三度祠禄を請い、上はやむなく、資政殿学士・万寿観提挙兼侍読に進めたが、辞した。病が重くなり、冠帯して起き上がり、ついに政事を謝するまで、なお精神爽やかで乱れなかった。遺表が聞こえると、上は震悼し、視朝を停め、銀青光禄大夫を贈った。
徳秀は背が高く額が広く、容貌は玉のようで、これを見る者は皆公輔(宰相)と期待した。朝廷に立つこと十年に満たず、奏疏は数十万言に及び、すべて当世の要務に切実で、直諫の名声は朝廷を震わせた。四方の人士はその文を誦し、その風采を思い描いた。官に就いて赴任した所では、恵みの政は深く行き渡り、その言に恥じず、これによって内外から共に称頌された。都城中の人々は時に大騒ぎをして伝え、関門に押し寄せて出て言った。「真の直院(真徳秀)が来た!」果たして来ると、また道を塞ぎ集まって見物してやまなかった。時の宰相はますますこれによって彼を忌み、しばしば斥けて用いず、名声はますます高まった。朝廷に帰った時、ちょうど鄭清之が敵を挑発し、兵民の死者数十万、内外は大いに消耗し、特に世道の昇降治乱の機会であったが、徳秀はすでに衰えていた。杜範が清之の誤国を攻撃し、かつての権臣よりも貪黷がさらに甚だしいと言ったが、徳秀は上奏して言った。「これらは皆以前の権臣が政事を怠った罪であり、今日の措置の過失である。和・扁(名医)が庸医の後に続き、一薬の誤りで、代わりに庸医の責めを受けるようなものだ」。その議論は範とこのように異なっていた。しかし韓侂冑が偽学の名を立てて善類を閉じ込めて以来、近世の大儒の書はすべて公然と禁じて絶やそうとした。徳秀は後に出て、ただ一人慨然としてこの文(儒学)を自ら任じ、講習し実践した。党禁が開かれると、正学は遂に天下後世に明らかとなり、多くは彼の力によるものであった。
著書に『西山甲乙稿』、『対越甲乙集』、『経筵講義』、『端平廟議』、『翰林詞草四六』、『献忠集』、『江東救荒録』、『清源雑志』、『星沙集志』がある。薨じた後、上はそのことを思ってやまず、諡して「文忠」とした。
魏了翁
魏了翁、字は華父、邛州蒲江の人。数歳の時、諸兄に従って学に入り、あたかも成人のようであった。少し成長すると、英悟は抜きん出て、日に千余言を誦し、過目すれば再び見ず、郷里では神童と称された。十五歳の時、『韓愈論』を著し、抑揚頓挫、作者の風格があった。
明年、校書郎に遷り、親が老いていることを理由に外任を請い、嘉定府知事となる。江陵に滞在していた時、蜀の大将吳曦が四川で叛き、了翁はその必ず敗れることを予測した。また明年、曦が誅され、蜀が平定されると、了翁は親を奉じて郷里に帰った。侂冑も誤国により誅された。朝廷は諸賢を召し集め、了翁もその中にあった。ちょうど史弥遠が入相して国事を専断し、了翁はその行いを察して、召命を力辞した。生父の喪に服し、官を解いて心喪とし、白鶴山下に室を築き、輔広・李燔から聞いたことをもとに門を開いて徒を授け、士は争って笈を負って従った。これによって蜀人はみな義理の学を知るようになった。
差遣を受けて漢州知事となる。漢州は繁劇の地と称されたが、了翁は善俗に化することを治めとした。まず積もった未納分二十余万を免除し、科配による酒の強制販売の弊害を除き、戸婚に関する互いの告発の禁を厳しくし、さらに文を為して倫理を厚くし訴訟を止めるよう諭し、その民は条教を敬い奉じて敢えて犯さなかった。ちょうど境内の橋が壊れ、民に圧死者が出たので、部使者がこれを上聞し、詔により官一階を降格、建寧府武夷山沖佑観主管となる。数ヶ月も経たず、元の官に復し、眉州知事となる。眉州は文物の邦ではあるが、その俗は法令に習熟し、吏の短所を握って難癖をつけるので、難治の地と号されていた。了翁が着任すると聞き、争って事をもって試そうとした。そこで耆老を尊礼し、俊秀を簡抜し、朔望には学宮に赴き、自ら講説し、誘掖指授し、郷飲酒礼を行って教化を示し、貢士の員数を増やして文風を振興した。また蟇頤堰を修復し、江郷館を築き、民に利する事は知って行わないことはなかった。士論は大いに服し、俗はこれによって変わり、治績は顕著に聞こえた。
嘉定四年(1211年)、潼川路提点刑獄公事に抜擢された。八年(1215年)、提挙常平等事を兼ね、転運判官に転じた。官吏の奸悪を抑え、民衆の苦しみを尋ね、権勢ある者をも憚らず推挙・弾劾したので、その風采は厳然としていた。上疏して周惇頤・張載・程顥・程頤に爵位を賜り諡号を定めて、学者の方向を示すよう請うた。朝廷の議論はこれを是とし、その請いの通りにした。遂寧に守が欠けたので、了翁が郡の事務を行った。すぐに城郭を修築して不測の事態に備えるよう上奏したが、朝廷の議論は費用を惜しんだ。了翁は城壁を高くし堀を深くして、敵が来るのを待つかのようにした。一年後、敗走した兵卒が郡県を攻撃・略奪したが、備えがあると知って敢えて暴れず、人々は初めてその予防の意図に敬服した。十年(1217年)、直秘閣に遷り、瀘州知州・潼川路安撫司公事を主管した。母の喪に服し、喪が明けて、潼川府知府に任じられた。自らを律し民を豊かにしたので、その業績は大いに顕著であった。游似・呉泳・牟子才らは皆蜀の名士で、門を訪れて教えを受けた。
十五年(1222年)、召されて入朝し対面し、二千余言の上疏をした。まず人と天地は一本であるから、必ず天地と相似でなければ天位を空しくしないということを論じ、併せて人材・風俗に関する五事に及び、明らかで切実流暢であった。また郡県における強幹弱枝の弊害と、変通すべきことを論じた。了翁が国を去ってから十七年が経っていたが、この時、皇帝は出迎えて労い厚く遇し、その言を喜んで受け入れた。兵部郎中に進み、まもなく司封郎中に改め国史院編修官を兼ねた。転対し、江・淮・襄・蜀を四つの重鎮に分け、人を選んで任じ、虚心に聴き、事権を与え、才能を用いる資とし、連絡・守禦の計略とすべきことを論じた。次いで蜀の辺境における墾田及び実録の欠文などの事を論じ、いずれもその上奏文を中書に下した。十六年(1223年)、省試の参詳官となり、太常少卿兼侍立修注官に遷った。
十七年(1224年)、秘書監に遷り、まもなく起居舎人に任じられたが、再び辞して後に列に就いた。入奏して、事変の潜伏・人心の向背・辺境の安危・隣寇の動静について極言し、その兆しに五つあるとして言った。「時機を察して天命に共にし、道の規矩を尊び法の遵守を厳しくし、思慮を集め益を広くし、急いでこれを図るべきである。事態の成り行きを坐視してその勢いの向かうに任せるより、まさりはないか」。また士大夫の風俗の弊害を論じ、「君臣上下が同心一徳でなければ、平時に補益があり、緊急時に倚り頼むことができない。各自が自分のためだけに謀るならば、天下の患いは終わりがないであろう。今は面従腹誹し、諂うことを習い、陋習を踏襲している。臣は実に恐れる。どうして人心の邪正を察し、世変の潜伏を推し量り、規模を開拓し、人物を収拾して、事に臨んで人材不足の嘆きがないようにしないのか」と言った。その言葉は切実で、忌憚するところがなく、時の宰相は初めて快く思わなくなった。
寧宗が崩御し、理宗が宗室から即位した。時事が急に変わったので、了翁は憂いを積んで病気になり、三度上疏して閑職を求めたが許されず、起居郎に遷った。翌年、元号を宝慶と改めた。時に雷が鳴り、皇帝に「朕の心は終夕安からず」との言葉があった。了翁が入対してすぐに論じた。「人主の心は、義理の安んずる所、これを天というのであって、この心の外に別に天地神明というものがあるのではない。陛下はどうしてこの不安を求めずにおられようか。天地に対し、太母に仕え、群臣に会い、講読に親しむこと、皆それぞれの事に応じて自らに反って求めれば、大本が立ち何事も為せないことはない」。また論じた。「講学が明らかでなく、風俗が浮薄である。朝廷に立っては顔を犯して敢えて諫める忠がなく、難に臨んでは節を仗って義に死ぬ勇がない。願わくは碩儒を広く求め、正学を大いに闡明して、久安長治の計を図られたい」。また大臣に命じて、官職を授ける際に、広く聴き並べて観察し、そうしてこそ誠意が信じられ、善類が皆出てくるよう請うた。
紹定四年(1231年)に復職し、建寧府武夷山冲佑観を主管した。五年(1232年)、提挙江州太平興国宮に改めて任じられ、まもなく遂寧府知府となったが辞退して拝命しなかった。宝章閣待制・潼川路安撫使・瀘州知州に進んだ。瀘州は大藩で、二千里の辺境を控えていたが、武備は整わず城郭は治まらなかった。了翁はその城楼・櫓・雉堞を修繕し、器械を増設し、牌手を教習し、軍律を厳しくし、学校を興し、積年の負債を免除し、社倉を復活させ、義塚を創設し、養済院を建てるよう上奏した。数ヶ月居ると、廃れていた事柄が全て興った。史弥遠が薨じ、皇帝が親政すると、華文閣待制に進み金帯を賜り、その任に留まった。
臣下や庶民の封章(上奏文)は多く、了翁及び真德秀を召還することを乞うたので、上(皇帝)は民望に因りて並びに之を招き、了翁を権礼部尚書兼直学士院に用いた。入朝して対し、先ず君子と小人の弁別を明らかにすることを乞い、以て人物を進退するの本と為し、以て姦邪の窺伺する端を杜ぐべしとし、次に故相(史弥遠)の十失猶ほ存するを論じ、又修身・斉家・宗賢を選び内小学を建つる等に及び、皆上躬(皇帝自身)に切なる事柄であった。他の如く和議は信ずべからず、北軍は保つべからず、軍実財用は恃むべからず、凡そ十余りの事柄を述べた。復た口奏して利害を述べ、昼漏四十刻下って退いた。兼ねて同修国史兼侍読と為り、俄かに吏部尚書を兼ねた。経幃(講筵)に進読するに、上必ず容を改めて聴き、政事を詢察し、人才を訪問した。復た十事を条陳して献じ、皆苦心して空臆(率直な胸中)を述べ、直に事情を述べて、人の言い難きを言った。上悉く嘉納し、且つ手詔を以て獎諭した。又奏して、弥遠の家を保全する御筆を収還することを乞い、趙汝愚を寧廟に配享することを定むることを乞い、崔与之をして参預政事に趣かしむることを乞い、履畝の令を定めて以て民力を寛うすることを乞い、従臣をして集議せしめて以て楮弊を救うことを乞い、閫才を儲えて以て緩急に備うることを乞うた。又故事を進むるに因りて、人才を儲え国論を凝らすこと、自治の策を力図すること、罪己の詔を下すこと、襄・黄二帥の是非を分別すること、黄陂叛卒の利害を究見すること、諸帥を分任して降附を区処すること等を述べた。
朝に還ること六箇月、前後二十余りの奏上、皆当時の急務であった。上将に之を引いて共に政を為さんとし、而るに忌む者相与に謀を合して排擯し、而して朝に安んずる能わざらしめた。執政遂に近臣惟だ了翁のみ兵を知り国を体すと謂い、乃ち端明殿学士・同僉書枢密院事を以て京湖軍馬を督視せしめた。会に江淮督府曾従龍憂畏に以て卒し、並びに江・淮を了翁に付す。朝論大いに駭き、以て不可と為し、三学も亦上書して之を争うた。適た辺警遝至し、上心焦労す、了翁事を避くるを嫌い、既に五たび辞して獲ず、遂に命を受けて開府し、宣押して二府と同しく奏事し、上勉労尤も至れり。尋いで兼ねて提挙編修『武経要略』と為り、恩数は執政に同じく、臨邛郡開国侯に進封し、又便宜の詔書を張浚の故事の如く賜う。朝辞に、面して御書の唐人厳武の詩及び「鶴山書院」の四大字を賜い、仍て金帯鞍馬を賜い、詔して宰臣に関外に於いて飲餞せしむ。乃ち上下流の中を酌み、幕府を江州に開き、将帥に申儆し、援師を調遣し、死事の臣を褒め、退懦の将を黜し、辺防十事を奏す。甫く二旬、召されて僉書枢密院事と為る。闕に赴きて奏事す、時に疾を以て力辞して拝せず。蓋し朝に在る諸人始め此の命を仮りて以て了翁を出だすことを謀り、既に出でし則ち復た督を建つるを非と為し、恩礼赫奕たりと雖も、而して督府の奏陳動も相牽制せしめ、故に遽かに召還し、前後皆上意に非ざりしなり。
遺表聞こえ、上震悼し、視朝を輟み、有用の才尽くさざるの恨みを歎惜す。詔して太師を贈り、諡して「文靖」とし、第宅を蘇州に賜い、累贈して秦国公とす。
著する所に『鶴山集』・『九経要義』・『周易集義』・『易挙隅』・『周礼井田図説』・『古今考』・『経史雑抄』・『師友雅言』有り。
廖德明
廖徳明、字は子晦、南剣の人。少くして釈氏に学び、及び亀山楊時の書を得て、之を読み大いに悟り、遂に朱熹に受業す。乾道中進士第に登る。莆田県を知る。民に淫祠を奉ずる者あれば、之を罪し、像を江に沈む。会に顕者邑の地を取って其の居を広めんと欲す、徳明不可とし、守僚属を会して之を諭す、徳明曰く「太守は、天子の土を守るの臣、未だ土地を以て人に与うるを聞かず」と。守乃ち慙服す。
累官して潯州を知り、声有り。諸司将に交えて之を薦めんとす、徳明曰く「今老いたり、況んや道を以て人に徇わんや」と。固辞して受けず。選ばれて広東提挙刑獄と為り、弾劾権要を避けず。歳当に士を薦むべく、朝貴多く書を以て之を託す、徳明曰く「此れ国家の公器なり」と。悉く封を啓かずして之を還す。郷人主簿を為る者あり、徳明其の能きを聞き、之を薦む。会に徳明県を行く、簿其の知己たるを感し、酒を置きて之を延き、悉く富人の觴豆を仮りて甚だ盛んなり。徳明怒りて曰く「一主簿乃ち是の如き侈なるか、必ず貪なり」と。是に於いて薦章を追還す、其の公厳此の類の如し。
時に盗桂陽を陥とし、韶に迫る、韶の人懼る、徳明燕笑自ら如く、将を遣わして弛撃せしめ、而して親ら小麾を把り督戦し、之を大いに敗る。乃ち戍守を分ち、斥候を遠くし、賞罰を明審にし、威信を宣布し、韶晏然として平時の如し。徙めて広州を知り、遷りて吏部左選郎官と為り、祠を奉じ、卒す。
徳明初め潯州教授と為り、学者の為に聖賢心学の要を講明し、手ずから三栢を学に植え、潯の士之を愛敬して甘棠の如し。南粵に在る時、師悟堂を立て、朱熹の『家礼』及び程氏諸書を刻す。公余、僚属及び諸生を延いて親ら為に講説し、遠近之に化す。嘗て人に仕学の要を語りて曰く「徳明始め仕するより、以て郡を為すに至るまで、惟だ三代直道而行の一句を用うるのみ」と。『槎渓集』世に行わる。