陳亮、字は同父、婺州永康の人なり。生まれながらにして目光芒あり、人となり才気超邁、兵を談ずるを喜び、論議風生し、筆を下せば数千言立ちどころに成る。嘗て古人の用兵成敗の跡を攷へ、『酌古論』を著す。郡守周葵之を得て、相ひに論難し、之を奇とし、曰く「他日国士なり」と。請ふて上客と為る。葵の執政と為るに及び、朝士事を白する有らば、必ず令して亮に揖せしめ、因りて一時の豪俊に交はり、其の議論を尽くす。因りて『中庸』『大学』を授け、曰く「此を読めば性命の説に精しうなる可し」と。遂に受けて心を尽くす。
隆興初め、金人と和を約し、天下忻然として蘇息を得たるを幸ふとす。独り亮は不可を執れり。婺州方に解頭を以て薦めんとす。因りて『中興五論』を上る。奏入りて報ひず。已にして退き家に修め、学者多く之に帰し、益々力学著書すること十年。
是に先だち、亮嘗て錢塘を圜視し、喟然として歎じて曰く「城は灌ぐ可し爾」と。蓋し地の西湖に下るを以てなり。是に至りて、淳熙五年に当たり、孝宗即位すること蓋し十七年なり。亮名を更めて同と為し、闕に詣で書を上りて曰く。
臣惟ふに、中国は天地の正気なり、天命の鍾る所なり、人心の会する所なり、衣冠礼楽の萃る所なり、百代帝王の相ひに承くる所なり。中国の衣冠礼楽を挈ちて之を偏方に寓す。天命人心猶ほ係る所有りと雖も、然れども豈に是を以て久しく安んじて事無き可しと為さんや。天地の正気鬱遏して久しく騁ることを得ず、必ず将に発泄する所有らん。而して天命人心、固より偏方の久しく係ふ可きに非ざるなり。
国家二百年太平の基は、三代の無き所なり。二聖北狩の痛みは、漢唐の未だ有らざる所なり。方に南渡の初め、君臣上下痛心疾首、誓ひて之と倶に生くること無からんとし、卒ひに奔敗の余を以て、百戦の敵に勝つことを能くす。秦檜の邪議を倡へて之を沮むに及び、忠臣義士南方に斥死し、而して天下の気惰れり。三十年の余、西北の流寓と雖も皆孫を抱きて東南に長息す。而して君父の大讎一切復た関念せず。自ら海陵の淮南に送死するに非ざれば、亦た兵戈を何の事と為すかを知らざりき。況んや其の故国の恥を憤り、相率ひて一矢を発するを望まんや。
丙午丁未の変、今に距ること尚ほ遠しと為す。而して海陵の禍は、蓋し陛下即位の前一年なり。独り陛下奮ひて自ら顧みず、殄滅を志す。而して天下の人安然として事無きが如し。時に方に口議腹非し、陛下を功名を喜びて後患を恤はざる者と為す。陛下と雖も崇高の勢を以て独り之に勝つことを能はず、隠忍して今に至る。又た十有七年なり。
昔春秋の時、君臣父子相戕殺の禍、一世を挙げて皆之に安んず。而して孔子独り以為へらく、三綱既に絶すれば、則ち人道遂に禽獣と為らんと。皇皇奔走し、義以て一朝も安んずる能はず。然れども卒ひに遇ふ所無くして、其の志を『春秋』の書に発す。猶ほ以て乱臣賊子を懼れしむることを能くす。今一世を挙げて君父の大讎を忘る。此れ豈に人道の安んず可き所ならんや。学者をして孔子の道を学ぶを知らしめば、当に陛下を道いて有為を以てす可く、決して陛下を沮めて苟安を以てす可からず。南師の出でざること、今に於けること幾年なる。豈に一の豪傑の自ら奮起する能き者無からんや。其の勢必ず時に当りて発泄する所有らん。苟くも国家起きて之を承くることを能はざれば、必ず将に之を承くる者有らん。衣冠礼楽の旧、祖宗積累の深きを恃み、以て天命人心安坐して久しく係ふ可しと為すべからず。「皇天親無く、惟だ徳是れ輔く。民心常無く、惟だ恵是れ懐ふ」。三代の聖人より皆其の甚だ畏る可きを知るなり。
春秋の末、齊晉秦楚皆衰へ、吳越小邦より起りて遂に諸侯に伯す。黄池の会は、孔子の甚だ痛む所なり。以て中国の人の無きを明らかにす可し。此れ今世の儒者の未だ講ぜざる所なり。今金源の植根既に久しく、一挙にして遂に滅す可からず。国家の大勢未だ張らず、一朝にして大挙す可からず。而して人情皆通和に便とする者は、陛下に財を積み兵を養ひ、時を待たしめんと勧むるなり。臣以為へらく、通和とは、上下の苟安を成す所以にして、妄庸両售の地と為る。宜しく其の人情的に甚だ便とする所と為るべし。和好の成れるより十有餘年、凡そ今日の方略を指画する者は、他日将に之を用ひて坐籌せんとす。今日の毬を撃ち雕を射る者は、他日将に之を用ひて決勝せんとす。府庫充滿するは、財に非ざるは無し。介冑鮮明なるは、兵に非ざるは無し。兵端一たび開かば、則ち其の跡敗るるなり。何となれば、人才は用ふるに因りて其の能ふと否とを見る。安坐して能ふる者は恃むに足らず。兵食は用ふるに因りて其の盈虚を見る。安坐して盈つる者は恃むに足らず。而して朝廷方に一旦の事無きを幸ふ。庸愚齷齪の人皆格令を守り文書を行ひ、以て陛下の使令を奉ずることを得。而して陛下亦た其の制し易くして他無きを幸ふ。徒らに度外の士をして擯棄して騁るることを得ざらしめ、日月蹉跎して老将に至らんとす。臣故に曰く「通和とは、上下の苟安を成す所以にして、妄庸両售の地なり」と。
東晉百年の間、南北未だ嘗て通和せず。故に其の臣東西に馳騁し、用ふ可きの才多し。今和好一たび通ぜざれば、朝野の論常に敵兵の境に在るが如く、惟だ其の和を得ざるを恐る。陛下と雖も得て和せざる可からず。昔者金人は草居野処し、往来常無く、人をして備ふる所を知らしむることを能くし、而して兵日に出でざる可き無し。今や城郭宮室、政教号令、一切中国に異ならず。兵を点し糧を聚め、文移往反すること、動もすれば歳月に渉る。一方警有れば、三邊騒動す。此れ豈に歳々師を出して我を擾さしむることを能くせんや。然れども朝野をして常に敵兵の境に在るが如からしむるは、乃ち国家の福にして、英雄の以て天下を争ふ機なり。執事者胡ぞ速に和して其の心を惰らすや。
晉楚の邲に戦へるや、欒書以為へらく「楚自ら庸を克つ以来、其の君日に国の人に討ちて之に訓ふること無し。曰く『於、民生の易からざる、禍の至る日の無き、戒懼の怠る可からざる』と。軍に在りては、日に軍実に討ちて之に申儆すること無し。曰く『於、勝の保つ可からざる、紂の百克にして卒ひに後無き』と」。晉楚の兵を宋に弭むるや、子罕以為へらく「兵は以て不軌を威し文徳を昭かにす所以なり。聖人以て興り、乱人以て廃る。廃興存亡昏明の術、皆兵の由る所なり。而して之を去らんと求むるは、是れ以て道を誣ひ諸侯を蔽ふなり」と。夫人心の惰る可からざる、兵威の廃す可からざる。故に成康太平と雖も、猶ほ所謂四征不庭、六師を張皇する者有り。此れ李沆の深く願はざる所、真宗皇帝の遼と和親する所以なり。況んや南北角立の時に当りて、兵を廃して人心を惰らし、之をして君父の大讎を忘るるに安んぜしめ、中国を度外に置き、徒らに妄庸の人に便ならしむるは、則ち執事者の失策亦た甚だしきなり。陛下何ぞ大義を明らかにして慨然として金と絶たざるや。
乗輿を貶損し、正殿を退き、痛く自ら克責し、必ず復讎を誓い、以て群臣を励まし、以て天下の気を振るい起こし、以て中原の心を動かすならば、未だ出兵せずとも、人心敢えて惰ならざるべし。東西に馳騁すれば、而して人才出づ。盈虚相補い、而して兵食見ゆ。狂妄の辞は攻めずして自ら息み、懦庸の夫は退けずして自ら退縮す。当に度外の士有りて起ち、惟だ陛下の用いんと欲する所に従うべし。是れ雲合響応の勢にして、安坐して致す可きに非ざるなり。臣請う、陛下が為に国家立国の本末を陳べて、今日大いに為す有るの略を開き、天下形勢の消長を論じて、今日大いに為す有るの機を決せん。惟だ陛下幸いに之を聴かんことを。
然るに契丹遂に猖狂恣睢を以て得て、中国と抗衡し、儼然として南北両朝と為り、而して頭目手足渾然として別無し。微かに澶淵の一戦有らざれば、則ち中国の勢浸く微なり、根本厚しと雖も立つ可からざるなり。故に慶暦の幣を増すの事、富弼は朝廷の大恥と為し、而して終身自ら其の労を論ずるを敢えず。蓋し契丹の征令は、是れ主上の操なり、天子の供貢は、是れ臣下の礼なり。契丹の卒に中国に勝つ所以の者は、其の積むに漸有りてなり。立国の初め、其の勢固より必ず此に至る。故に我が祖宗常に廟堂を厳にし而して大臣を尊び、郡県を寛にし而して守令を重んず。文法の内に於て、未だ嘗て天下の富商巨室を折困せず、格律の外に於て、以て天下の英偉奇傑を容奨する有り、皆以て立国の勢を助け、而して不虞の備と為す所以なり。
慶暦の諸臣も亦嘗て中国の勢振わざるを憤れり、而して其の大要は、則ち群臣をして争いて其の説を進めしめ、法を更え令を易えしめて、廟堂軽し、按察の権を厳にし、功を邀え事を生じしめて、郡県又軽し。豈に惟だ立国の勢に助くる所無きのみならん、又従って之を朘削し、微かに章得象・陳執中を以て其の事を排沮する有りと雖も、亦安んぞ自ら沮まざるを得んや。独り其の旧例を破り去り、以て次ならず人を用い、而して農桑を勧め、寛大を務むるは、因革の宜に合する有りと為すも、其の大要已に非なり。此れ以て契丹の中国を平視するの恥を洗う能わず、而して卒に神宗皇帝の大憤を発せしむる所以なり。
王安石は正法度の説を以て、首めて聖意に合し、而して其の実は則ち天下の兵を籍して尽く朝廷に帰せしめ、別に行い教閲して以て強と為さんと欲し、郡県の利を括して尽く朝廷に入れ、別に行い封樁して以て富と為さんと欲す。青苗の政は、惟だ富民の困らざるを恐れ、均輸の法は、惟だ商賈の折れざるを恐る。罪の大小無く、動輒獄を興し、而して士大夫口を緘して罪を畏る。西・北両辺は内臣をして経画せしめ、而して豪傑は役と為るを恥づ。徒らに神宗皇帝をして兵財の数既に多きを見せしめ、鋭然南北征伐し、卒に聖意に乖き、而して天下の勢実に未だ嘗て振わざるなり。彼蓋し朝廷立国の勢の、正に文為の太だ密なるを患え、事権の太だ分かるるを患え、郡県下に於て太だ軽くして委瑣恃むに足らず、兵財上に於て太だ関わりて重遅挙げ易からざるを知らざるなり。祖宗は惟だ前四者を用いて以て其の勢を助け、而して安石は之を竭くすに余力を遺さず、立国の本末を知らざる者は、真に以て国を謀るに足らず。元祐・紹聖一たび反し一たび復し、而して卒に金人の侵侮の資と為る、尚何ぞ其の中国を振るいて以て四裔を威するを望まんや。
南渡以来、大抵祖宗の旧に遵い、微かに因革増損有りと雖も、軽重有無と為すに足らず。趙鼎諸臣の如きは、固より已に変通の理を究めず、況んや秦檜尽く取りて之を沮毀し、恥を忍び讎に事え、太平を一隅に飾りて以て欺き、其の罪誅す可勝えんや。陛下は王業の一隅に屈するを憤り、志を励まして復讎し、免れずして天下の兵を籍して以て強と為し、郡県の利を括して以て富と為す。百姓に恵を加うるも、富人に五年の積無く、税を重く徴せざるも、大商に巨万の蔵無し、国勢日以て困竭す。臣恐るらくは、尺籍の兵、府庫の財、以て一旦の用を支うるに足らざるを。陛下は蚤朝晏罷し、中興日月の功を冀い、而して縄墨を以て人を取り、文法を以て事に涖り、聖断を以て中外を裁制するも、大臣は位を充たし、胥吏は坐して条令を行い、而して百司は責を逃れ、人才日以て闒茸たり。臣恐るらくは、程文の士、資格の官、以て度外の用に当つるに足らざるを。藝祖の天下を経画するの大略は、太宗已に能く尽く用いること能わず、今其の遺意、豈に陛下に望み無からんや。陛下苟も其の意を推原して之を行わば、以て社稷数百年の基を開く可く、而して況んや故物を復するに於てをや。然らずんば、維持の具既に窮まり、臣恐るらくは祖宗の積累も亦恃むに足らざるを。陛下試みに臣をして前に畢く陳ばしめよ、則ち今日大いに為す有るの略必ず処る所を知らん。
そもそも呉・蜀は天地の偏った気であり、銭塘はまた呉の一隅に過ぎない。唐の衰えた時に、銭鏐は巷の雄として立ち上がり、その地を王とし、自ら独立し得ないと知り、常に中国に朝して事え、重きをなした。我が宋が天命を受けるに及んで、俶はことごとくその一族を京師に入れ、自らその土地を献上した。故に銭塘は五代を通じて、兵禍を受けることが最も少なく、二百年の間に、人物は日に日に繁盛し、遂に東南において首位を占めた。建炎・紹興の間に至り、天子の行幸の地となり、当時の論者は、既にその形勢を張り、恢復を図るには不足であると疑っていた。秦檜はこれに従って百官諸府を整備し、その中で礼楽を講じさせたので、その風俗は既に華美になり、士大夫はこれに従って園囿台榭を造営し、干戈の余りにその生を楽しみ、上下安んじて、銭塘は楽土となった。一隙の地は、本来万乗を容れるに足らず、しかも鎮座すること五十年、山川の気もまた発泄して余すところがなくなった。故に穀粟・桑麻・絲枲の利は、年ごとに消耗し、禽獣・魚鱉・草木の生は、日ごとに微細となり、しかも上下はこれを異としない。公卿将相は、おおむね江・浙・閩・蜀の人が多く、人材もまた日に日に平凡低下となり、科挙の士は十万を数えるが、文墨に少し異なるだけで、既にその間で雄を称するに足る。陛下は銭塘の既に消耗した気に拠り、閩・浙の日に衰える士を用い、しかも東南の安逸に慣れ脆弱な衆を鼓舞し、北に向かって中原を争おうとされる、臣はこれをもってその困難を知るのである。
荊・襄の地は、春秋の時、楚がこれを用いて斉・晋を虎視し、斉・晋はこれを屈服させることができなかった。戦国の際に至っては、独り秦と帝位を争うことができた。その後三百余年、光武帝が南陽より起こり、同時に事を共にする者は、往々にして南陽の故人であった。また二百余年、遂に三国が交錯して占拠する地となり、諸葛亮はここより起こって先主を輔け、荊楚の士は雲のごとくこれに従い、漢氏はこれによって蜀に復存した。周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜・陸抗・鄧艾・羊祜らは皆その地によって名を顕わした。また百余年、晋氏が南渡し、荊・雍は常に東南において雄となり、東南は往々にしてこれに依って強さとし、梁は遂にこれをもって斉に代わった。その気が発泄して余すところがなくなるに及び、隋・唐以来、遂に偏った地方の下州となった。五代の際、高氏のみが常に諸国に臣事した。本朝二百年の間、荒廃した邦に降り、北は許・汝に連なり、民居は稀少で、土産は卑薄であり、上国に姓名を通じ得る人材は、晨星の相望むが如しである。まして建炎・紹興の際に至っては、群盗がその間に出没し、禍いを被ること極めて甚だしく、今日に至るまで、南北が分画して交錯して占拠するも、往々にしてまた用いるに足らざるものとされ、民の食は出すところなく、兵はここより進むことができない。議者はあるいはこれを憂えるが、その勢いの用いるに足ることを知らない。その地は偏った地方であるが、偏った地方の気が五六百年も発泄しないことはなく、ましてその東は呉会に通じ、西は巴蜀に連なり、南は湖湘に極まり、北は関洛を控え、左右に伸縮して、皆進取の機と為すに足る。今誠にその地を開墾し、その人を洗濯し、その気を発泄して用い、関洛の気に接するに足らしめれば、中国において衡を争うことができるであろう、これもまた形勢消長の常なる数である。
陛下は慨然として都を建業に移し、百官諸府は皆草創に従い、軍国の儀礼は皆簡略に従い、また武昌に行宮を作り、敢えて安んじて居らざるの意を示された。常に江・淮の師を以て金人の侵軼に対する備えとし、しかも沈鷙にして謀あり、開豁にして他念なき者一人を精選し、荊・襄の任を委ね、その文法を寛大にし、その廃置を聴き、三数年の間に撫摩振厲すれば、国家の勢いは成るであろう。
石晋が盧龍一道を失い、開運の禍いを成したのは、丙午・丁未の歳である。明年、藝祖皇帝は始めて郭太祖に従って征伐し、遂に天下を平定した。その後、契丹は甲辰に澶淵で敗れ、丁未・戊申の間、真宗皇帝は東に封じ西に祀り、太平を告げた、これは本朝の極めて盛んな時である。また六十年、神宗皇帝は実に丁未の歳に即位し、国家の事はここにおいて一変した。また六十年、丙午・丁未、遂に靖康の禍いとなった。天は独り陛下をこの年に啓き、また陛下を北向して復讐の志を啓かれた。今、丙午・丁未を去ること、十年間に近い。天道は六十年に一変する、陛下はその変に応ずる所以を有せざるべからず。これは誠に今日大いに為すべき機であり、苟も安んじて歳月を玩ぶべからざるものである。
臣は不佞ながら、少より四方に馳駆する志があり、嘗て数度行都に至ったが、人物は林の如く、その論は皆人の意を起こすに足らず、臣はこれをもって陛下の大いに為すべき志の孤なることを知った。辛卯・壬辰の間、始めて退いて天地造化の初めを窮め、古今沿革の変を考へ、皇帝王伯の道を推極し、漢・魏・晋・唐の長短の由を得、天人の際は昭然として考へ知ることができる。始めて今世の儒士で自ら正心誠意の学を得たりとする者は、皆風痹にして痛痒を知らぬ人であると悟った。一世を挙げて君父の讐に安んじ、しかも方に頭を低く手を拱いて性命を談じ、何をか性命というかを知らない。陛下はこれらを受けながら事に任ぜず、臣はここにおいて陛下の仁に服する。また今世の才臣で自ら富国強兵の術を得たりとする者は、皆狂惑して叫呼を肆にする人であると悟った。暇時に謀って立国の本末を究めず、しかも方に眉を揚げ気を伸べて富強を論じ、何をか富強というかを知らない。陛下はこれを察して敢えて尽く用いず、臣はここにおいて陛下の明に服する。陛下は志を厲して復讐し、以て天命に対し、仁愛に篤く、以て民心を結び、しかも仁明にして群臣の一偏の論を照臨するに足る、これは百代の英主である。今、庸人を委任し、小儒を籠絡して、大いに為すべき歳月を遷延させている、臣は憤悱に堪えず、これをもってその賤を忘れてその愚を献ずる。陛下誠に臣をして前に畢陳せしめられば、豈に臣の区区の願のみならんや、天地の神・祖宗の霊も、実にこれを聞き知るであろう。
書が奏上されると、孝宗は赫然として震動し、朝堂に掲示して群臣を励まそうとし、种放の故事を用い、召して殿上に上がらせ、将に擢用せんとした。左右の大臣はどうすべきか知らず、ただ曾覿のみがこれを知り、将に亮に会おうとしたが、亮はこれを恥じて、垣を越えて逃げた。覿は亮が己に詣でないことを以て、悦ばなかった。大臣は特にその直言無諱を憎み、交わって沮んだので、都堂審察の命があった。宰相は上旨を以て臨み、言わんとすることを問うたが、皆落落として少しも貶せず、また合わなかった。
十日間待命し、再び闕に詣でて上書して曰く。
恭しく惟うに、皇帝陛下は復讐の志を励まし、一隅に安んずることを肯んぜず、これ社稷に大功あるなり。
然るに銭塘の浮華奢侈の隅に坐して中原を図るは、則ち其の地に非ず。
東南の習安の衆を用いて進取を行わしむるは、則ち其の人に非ず。
財は府庫に止まるのみでは、則ち以て天下の有無を通ずるに足らず。
兵は尺籍に止まるのみでは、則ち以て天下の勇怯を兼ねるに足らず。
是の故に遷延の計遂に行われ、而して陛下の大いに為す有るの志は乖く。
此れ臣の忠憤に勝えず、斎戒沐浴して書を裁ち、闕下に献じ、顔色を望見し得て、国家立国の本末を陳べ、大いに為す有るの略を開き、天下形勢の消長を論じ、大いに為す有るの機を決し、必ずや芸祖の天下を経画せし本旨に合わんことを願う所以なり。
然るに八日を待命するも、未だ聞く所無し。
臣は天下の豪傑、以て陛下の意向を測る有るを恐れ、而して雲合響応の勢、成るを得ざるに至らんことを。
又た上書して曰く。
臣妄りに意うに、国家維持の具、今日に至りて窮まり、而して芸祖皇帝の天下を経画せし大指は、猶以て長久に恃むべく、苟も其の意を推原して変通せば、則ち恢復は為すに足らざるなり。
然るに変通の道に三有り。
遷延数十年の策有るべく、百五六十年の計為すべく、数百年の基を復開すべきもの有り。
事勢は昭然として効見は殊絶し、陛下の聰明百代を度越せざれば、決して一一以て之を聴く能わず。
臣は大臣の前に之を泄らすを敢えず、而して大臣拱手して旨を称して問わば、臣も亦姑く其の大体の言うべき者三事を取りて以て之に答えん。
大要は孝宗に恢復を奮起させんとしたのであるが、この時孝宗は内禅を行わんとしており、回答はなかった。これにより朝廷内で皆怒り、狂怪と見なした。
先に、郷人が宴会を開いた際、末胡椒を特に陳亮の羹胾の中に置いた。これは村の俗礼で異礼をもって敬待するものである。同席した者が帰宅後急死し、異味の食物に毒があるのではと疑われ、すでに大理寺に送られていた。ちょうど呂興・何念四が呂天済を殴打して瀕死にさせ、恨み言に「陳上舍(陳亮)が私を殺させた」と言った。県令の王恬が事実と認め、台官が監司に命じて酷吏を選んで訊問させたが、何も得られず、取り調べのため大理寺に送られた。人々は必ず死罪と思った。少卿の鄭汝諧が彼の単独の供述を閲覧し、大いに異なり、「これは天下の奇材である。国家が罪なくして士を殺せば、上は天和を犯し、下は国脈を傷つける」と言い、光宗に強く訴えて、ついに免罪を得た。
陳亮が及第して帰郷すると、弟の陳充が境で迎えて拝礼し、相対して感泣した。陳亮は言った、「私が他日に貴くなれば、恩沢はまず汝に及ぼそう。死ぬ日には、それぞれ命服を着て地下の先人に会えば足りる」。聞く者はその志を悲しんだ。しかし志は経世済民に存し、承諾を重んじ、人々にその肺肝を見せた。人と話すには必ず君臣父子の義に基づき、布衣であっても、士を推薦するのを恐れなかった。家産は中流に過ぎなかったが、畸人寒士に衣食を与え、長く衰えなかった。卒去後、吏部侍郎の葉適が朝廷に請い、一子に官を補することを命じられたが、これは故典ではなかった。端平初年、「文毅」と諡され、さらに一子に官が与えられた。
鄭樵
鄭樵、字は漁仲、興化軍莆田県の人。書を著すことを好み、文章を作らず、自ら劉向・揚雄に劣らぬと自負した。夾漈山に住み、人事を謝絶した。久しくして、名山大川を遊歴し、奇を搜し古を訪ね、蔵書家に遇えば必ず借り留めて読み尽くして去った。趙鼎・張浚以下皆これを器とした。初め経旨、礼楽・文字・天文・地理・蟲魚・草木・方書の学に論辨を加え、紹興十九年に上奏し、詔して秘府に蔵せしめられた。鄭樵は帰り、ますます学を励み、従う者二百余人。
侍講の王綸・賀允中の推薦により、召対を得、班固以来歴代の史を為すことの非を論じた。帝は言った、「卿の名を聞くこと久しい。古学を敷陳し、一家を成す。何ぞ相見るの晚きや」。右迪功郎・礼兵部架閣に授けられたが、御史葉義問の弾劾により、監潭州南嶽廟に改め、劄を与えられ帰って著す『通志』を写させられた。書が成ると、枢密院編修官として入り、まもなく諸房文学を兼ねて検詳を摂した。金の正隆官制を修し、中国の秩序に比附することを請い、ついで秘書省に入り書籍を翻閲することを求めた。間もなく、また言事者のために事は止められた。金人が辺境を犯した時、鄭樵は歳星の分野が宋にあると言い、金主は自ら斃れるだろうと言い、後ち果然とした。高宗が建康に幸した時、『通志』を進めるよう命じられたが、ちょうど病で卒去した。五十九歳。学者は「夾漈先生」と称した。
鄭樵は考証倫類の学を好み、成書は多いが、大抵博学にして要を得ることが少ない。平生枯淡を甘んじ、施与を楽しんだが、ただ切に仕進を望み、識者はこれをもって彼を軽んじた。
林霆 附
同郡の林霆、字は時隱、政和年間に進士に及第した。博学で象数に深く、鄭樵と金石の交わりを結んだ。林光朝は嘗て彼に師事した。書数千巻を集め、皆自ら校讐し、子孫に言った、「私は汝らに良き財産を得させた」。紹興年間、敕令所刪定官となり、力んで秦檜の和議の非を詆り、即ち冠を掛けて去った。当世はこれを高く評価した。
李道傳
開禧の役で、金人が散関を窺って急である時、道傳は諸司の檄で事を計ろうとしたが、途中で呉曦の反逆を聞き、痛憤の色を形に現した。その客を遣わし、間道を通じて書を安撫使楊輔に送り、曦は必ず敗れると論じ、言った、「彼は元より雄才ではなく、順を犯し乱を首唱すれば、人心は離反し怨む。人心に乗じてこれを用いれば、座して縛ることができる。誠にこの挙を決すれば、内変を定めるのみならず、金に中国に人あることを知らしめ、窺覬を稍々止めさせよう。仮に勝利しなくとも、千古に愧じることはない」。曦の党が曦の意をもって道傳を脅したが、道傳は義をもってこれを折り、ついに官を棄てて帰った。曦が平定されると、詔して道傳が節を抗して撓まずとし、官二等を進めた。
嘉定初年、太学博士に召され、太常博士兼沂王府小學教授に遷った。ちょうど沂府に母の喪があり、遺表官吏は例によって官秩を進めることとなったが、道傳は言った、「葬事の労ある者は、推恩すべきであるが、我々は何の関わりがあろうか」。そこで皆辞して受けなかった。秘書郎・著作佐郎に遷り、帝に拝謁し、まず言った、「憂危の言が朝廷に聞こえぬのは、治世の象ではない。今、民力は未だ裕かでなく、民心は未だ固まらず、財用は未だ豊かでなく、儲蓄は未だ豊富でなく、辺備は未だ修まらず、将帥は未だ選ばれず、風俗は未だ義を知って苟且にせず、人才は未だ彙進して乏しからず、ということができぬ。而してこの八つのうち、また人才を要とする。人才の盛衰は、学術の明暗に繫がる。今、学禁は除かれたが、未だ天下に除いた意を明示していない。願わくは明詔を下し、正学を崇尚し、朱熹の『論語』『孟子集注』『中庸大学章句』『或問』の四書を取り、太学に頒布し、なお周惇頤・邵雍・程顥・程頤・張載の五人を孔子廟に従祀することを請う」。時に執政に道学を喜ばぬ者がおり、言葉で道傳を侵したが、道傳は動じなかった。権考功郎官を兼ね、著作郎に遷った。
時に薛拯・胡榘らは皆新進として用いられ、賄賂が風習となり、道傳は言う、「今、名目は優れた儒臣を挙げるが、実は材吏を取っており、刻剝残忍で誕謾傾危の人物が進んでいる」と。そこで郡への補任を求め、ここに真州知州として出向した。城壁は崩壊して修復されず、道傳は煉瓦で補修し、二つの石堰を築いて江に沿う住民を守り、二つの壕をさらに浚渫し、また陳公塘に堤防を築き、有事の際にはこれを決壊させて防衛線とし、人心はようやく固まった。提挙江東路常平茶塩公事に任じられた。着任早々、管轄区域を巡察して貪欲で放縦な官吏十数名を弾劾し、胥吏で民衆に害をなす者は、大いに黥刑を加え、小は追放して百余名に及び、獄中で不当に拘束されていた者二百余名を釈放し、負債十万余緡を免除した。夏に大旱魃が起こり、道傳は詔に応じて上言した、「紙幣の交換において、官民は仇敵の如く、鈔法の施行において、商賈は疑念と怨嗟を抱き、賦斂は増加し、軍将は搾取を推し進めている」と。いずれも時弊を的確に衝いた。そこで救荒政策を条上し、朝廷は多くこれに従った。漕臣の真徳秀とともに飢饉救済に当たり、道傳は池州・宣州・徽州の三州を分担し、厳冬の風雪の中を行き、深村窮谷に至るまで必ず赴き、これにより全活した者は甚だ多かった。宣州知事を兼任し、朱熹の社倉法を施行すると、上饒・新安・南康の諸郡はこぞってこれに応じ、人々はその恩恵を蒙った。
広徳知事の魏峴が教官の林庠を弾劾し、堂試を委ねて救荒行政に専念させ、漕臣を頼みに郡守を凌駕したとし、また真徳秀が朝廷を軽視し、独断で美名を掠めていると述べ、遠ざけるよう求めた。道傳は上疏して力強く弁明し、魏峴は罪に坐して免職となった。時に胡榘が吏部侍郎となり、道傳を自らの後任として推薦した。道傳は病気を理由に辞任を求めたが、許されなかった。召し出されて奏事を命じられたが、再び辞退し、またも許されず、遂に対面した。上は宮中から始め、次いで朝廷に及び、侍従・台諫の欠点に至るまで、忌憚なく言い尽くしたが、帝はこれを忤しとしなかった。兵部郎官に任じられたが、辞退して就任しなかった。監察御史の李楠が権力者の意向を窺い、節度使として蜀を治めるよう授けるよう求めたため、果州知州として出向することとなった。九江に至り、病を得て卒去した。享年四十八。詔により特旨をもって一階を進めて致仕とし、諡は「文節」とされた。
道傳は蜀から東南に来て、朱熹の門に登ることは叶わなかったが、かつて朱熹に従学した者を訪ね求めて講習し、遺書をことごとく得て読んだ。実践を篤く重んじ、気節は卓然としていた。経史について論著はなく、「学が至っていないので、敢えてしない」と言い、詩文についても軽率に作らず、「学が至っていないので、その暇がない」と言った。ある日病気で休暇を取った時、真徳秀が訪ねて来ると、寝台の間仕切りの屏風に「喚起截断」の四文字が大きく書かれており、彼が慎独においてこのように用功していたことを知った。官に在っては恵みと利益を根本とし、救荒の遺愛は江東に及び、人々は久しく彼を慕った。
三人の子:達可・當可・献可。献可は心傳の後を継いだ。