宋史

列傳第一百九十四 儒林五 范沖 朱震 胡安國子:寅 宏 寧

范冲、字は元長、紹聖年間の進士に及第した。高宗が即位すると、召されて虞部員外郎となり、まもなく出向して両淮転運副使となった。

紹興年間、隆祐皇后の誕生日に、帝は宮中で酒宴を設け、ゆったりと前朝の事柄について語ったところ、后は言った。「私は年老いてしまいましたが、心に思うところを官家に申し上げます。私は宣仁聖烈皇后にお仕えし、その聡明さと母儀は、古今に比類を見ません。かつて姦臣の誣謗によって、聖徳に汚点がつきました。建炎の初めには詔を下して弁明されましたが、史録はまだ刪定を経ておらず、後世に信を伝え、在天の霊を慰めることができません。」帝は恐れおののき、急いで神宗・哲宗両朝の『実録』を重修するよう詔し、范冲を召して宗正少卿兼直史館とした。范冲の父祖禹は、元祐年間に『神宗実録』を修し、王安石の過失をことごとく書き記して、神宗の聖を明らかにした。その後、王安石の婿である蔡卞がこれを憎み、祖禹は罪に坐して嶺表に流され死んだ。この時に至って再び范冲に命じたので、帝は彼に言った。「両朝の大典は、皆姦臣によって壊された。ゆえに卿に任せる。」范冲はそこで熙寧の創置、元祐の復古、紹聖以降の弛張が一様でないことについて論じ、本末先後、それぞれ因るところがあるとした。また王安石の法度変更の誤り、蔡京の国を誤らせた罪を極言した。帝はこれを嘉納し、起居郎に遷した。

まもなく講筵が開かれ、兼侍読に昇進した。帝は『左氏春秋』を特に好み、范冲と朱震に専ら講じさせた。范冲は経の趣旨を敷衍し、それによって規諫したので、帝は称善しなかったことはなかった。時に皇子の建国公瑗が傅(師傅)につくことになり、まず范冲を徽猷閣待制提挙建隆観とし、資善堂の翊善とし、朱震を兼ねて賛読とした。詔して言った。「朕は宗廟社稷の大計のため、一身の私を敢えてせず、属籍の中から選び、藝祖の七世孫を得て宮中で養育した。ここに剛辰を選び、外傅につかせる。端良の士を以て輔導の官に充てるべきである。廷臣を博く観るに、汝が冲に及ぶ者はない。德行文学、時に正人たり。その祖は嘉祐の初めに議を発し、その父は元祐の際に忠を納れた。是に似た者を求め広く求めれば、なお典刑がある。資善の開設に顧みれば、史館・経筵は姑くその旧に仍る。朕は方に多聞の益を求めんとし、爾は実に数器の長を兼ね、童蒙に施すに及んでは、綽乎として余裕あり。朕の志より蔽う、宜しく即ちこれに安んずべし。」時に張浚が長沙におり、また范冲・朱震が訓導に備えうると推薦した。范冲・朱震は皆一時の名徳老成、天下の選りすぐりであり、帝は建国公に命じて翊善・賛読に会見させ、皆拝礼を受けた。まもなく翰林学士兼侍読に遷されたが、范冲は強く辞退し、翰林侍読学士に改められた。これはその父の故事によるものである。尋いで龍図閣直学士として祠官となった。卒す。年七十五。

范冲が『神宗実録』を修した際、『考異』一書を作り、去取を明示し、旧文は墨で書き、刪去したものは黄で書き、新修したものは朱で書いた。世に「朱墨史」と号した。また『哲宗実録』を修するに当たり、別に一書を作り、名付けて『弁誣録』とした。范冲は性、義を好み善を楽しみ、司馬光の家屬は皆范冲の許に依り、范冲は彼らを撫育した。光のために『記聞』十巻を編類して奏上し、光の族曾孫の宗召に光の祭祀を主宰させるよう請うた。またかつて尹焞を自らの代わりに推薦したという。

朱震

朱震、字は子発、荊門軍の人である。政和年間の進士に及第し、州県に仕えて廉潔をもって称された。胡安国は一度会って大いに器とし、高宗に推薦した。召されて司勲員外郎となったが、朱震は病気と称して赴かなかった。時に江西制置使趙鼎が参知政事として入朝し、帝が当世の人才について諮問したところ、鼎は言った。「臣の知る朱震は、学術深博、廉正守道、士の冠冕であり、講読の位に就かせれば、必ずや陛下に益があるでしょう。」帝はそこで彼を召した。到着すると、帝は『易』『春秋』の趣旨について問うた。朱震は学んだところを具に答えた。帝は喜び、祠部員外郎に抜擢し、川・陝・荊・襄都督ととく府詳議官を兼ねさせた。朱震はそこで言った。「荊・襄の間、漢水に沿って上下する膏腴の田七百余里、もし良将を選んで部曲を率いこれを鎮め、流亡を招集し、農に務め穀を種えさせ、寇来ればこれを防ぎ、寇去れば耕すならば、三年を過ぎずして兵食自ずから足ります。また茶塩鈔を軍中に給し、人を募って中糴させれば、江西の舟を下らせ、湘中の粟を通わせることができます。釁を観て動き、河南を席捲する。これは逸を以て労を待つ、万全の計です。」

秘書少監兼侍経筵に遷り、起居郎に転じた。建国公が傅につくことになり、朱震を賛読とし、なお五品の服を賜った。中書舎人兼翊善に遷った。時に郭千里が将作監丞に除されたが、朱震は言った。「千里は民田を侵奪し、かつて按治を受けたことがあります。新命を止められたい。」帝はこれに従った。給事中兼直学士院に転じ、翰林学士に遷った。この時、虔州の民が盗賊となり、天子はこれを憂い、良太守を選んで慰撫に赴かせようとした。出発しようとした時、朱震は言った。「居官する者に廉潔で民を擾さざらしめれば、百姓は自ずから安んじます。たとえ誘って盗賊とならせようとしても、なりません。新太守が官に着いた日に、本郡及び属県の官吏で貪墨無状の者を条具して、一切罷免し去らせ、自ら慈祥仁恵の人を選ばせ、治績ある者を優しく加えて奨励するよう詔されることを願います。」帝はその言に従った。故事によれば、喪中には廟を享ける礼はない。時に徽宗がまだ廟に祔せられておらず、太常少卿の呉表臣が明堂の祭を行うよう奏上した。朱震はそこで言った。「『王制』に『喪三年は祭らず、惟だ天地社稷は紼を越えて事を行えり』とあります。『春秋』に『夏五月乙酉、吉、禘を莊公にす』と書かれ、『公羊伝』は『三年に始まらざるを譏るなり』と言っています。国朝の景德二年、真宗が明徳皇后の喪にあり、既に月を易えて服を除き、明年遂に太廟を享け、圜丘で天地を合祀しました。当時は三年の喪を行わず、専ら日を以て月に易える制を行ったのはよろしいが、今日これを行うのは誤りです。」詔して侍従・台諫・礼官に参議させ、結局御史趙渙・礼部侍郎陳公輔の言を用いて、明堂で大饗を行った。七年、朱震は病を謝して祠官を乞い、まもなく礼部貢挙を掌ったが、病気に会い卒した。

朱震の経学は深く醇であり、『漢上易解』に言う。「陳摶は『先天図』を种放に伝え、放は穆修に伝え、穆修は李之才に伝え、之才は邵雍に伝えた。放は『河図』『洛書』を李溉に伝え、溉は許堅に伝え、許堅は范諤昌に伝え、諤昌は劉牧に伝えた。穆修は『太極図』を周惇頤に伝え、惇頤は程顥・程頤に伝えた。この時、張載は二程・邵雍の間で講学した。故に雍は『皇極経世書』を著し、牧は天地五十有五の数を陳べ、惇頤は『通書』を作り、程頤は『易伝』を著し、載は『太和』『参両』篇を造った。臣は今『易伝』を宗とし、雍・載の論を和会し、上は漢・魏・呉・晋を採り、下は有唐及び今に逮り、異同を包括し、庶幾くは道の離れたるも復た合わんことを。」その学は王弼が旧説を尽く去り、荘・老を雑え、専ら文辞を尚するのを非とし、故に象数について詳しくしたのである。その『図』『書』の授受の源委についての論はこのようであり、その出所を知る者はないという。

胡安国

胡安國は字を康侯といい、建寧崇安の人である。太學に入り、程頤の友である朱長文及び潁川の靳裁之を師とした。裁之は彼と經史の大義を論じ、深く奇異として重んじた。禮部で三度試験を受け、紹聖四年の進士に及第した。初め、廷試の考官はその策を第一と定めたが、宰職が元祐を誹謗する語がないことを理由に、遂に何昌言を首位とし、方天若を次位とし、更に宰相章惇の子を天若の次位にしようとした。時に發策の大要は熙寧・元豐の制度を復興することを尊び、安國は『大學』を推し明かし、漸次に三代を復することを以て答とした。哲宗は再び読ませることを命じ、注聽して善しと称すること数四、自ら抜擢して第三位とした。太學博士となり、権門に足を踏み入れなかった。

湖南學事を提舉し、詔があり遺逸を挙げよと命じられ、安國は永州の布衣王繪・鄧璋を詔に応じた。二人は老いて行かず、安國は官に命ずることを請い、以て學者を勧めた。零陵の主簿が二人は黨人范純仁の客であり、流人鄒浩の請託によるものだと称した。蔡京は平素より安國が己と異なることを憎み、主簿の言葉を得て大いに喜び、湖南提刑に命じて獄を置き推問させ、更に湖北に移して再び審問させたが、終に証拠なく、安國は遂に除名された。未だ幾ばくもせず、主簿は他の罪により法に抵り、臺臣が前事を直し、安國の元の官を復した。

政和元年、張商英が宰相となり、成都學事を提舉することを除した。二年、母の喪に服し、江東に移った。父が没し喪が終わると、子弟に謂って曰く、「我れ昔は親の為に仕え、今たとえ祿萬鍾あれど、将に何れの所にか施さん」と。遂に疾を称して仕えず、墓の傍らに室を築き、耕種して給を取る、蓋し将に終身せんとす。宣和の末、李彌大・吳敏・譚世勣が合わせて推薦し、屯田郎を除したが、辞した。

靖康元年、太常少卿を除したが、辞し、起居郎を除したが、また辞した。朝旨は屡々行くことを促し、京師に至り、疾を以て告在した。一日、丁度午の刻、欽宗は急ぎ召し見え、安國は奏して曰く、「明君は務學を急務と為し、聖學は正心を要と為す。心は萬事の宗なり、正心は事を揆え物を宰るの権なり。名儒にして治國平天下の本に明かなる者を擢げ、虚懐を以て訪問し、独智を深く発せしめんことを願う」と。又言う、「天下國家を為すには必ず一定して易え難き計あり、謀議既に定まり、君臣固く守れば、故に志必ず成り、治功立つ可し。今、南向して朝を視ること半年なり、而るに紀綱尚ほ紊れ、風俗益々衰え、施置方に乖き、挙動煩擾す。大臣争競し、而して朋黨の患萌え、百執窺覦し、而して浸潤の姦作る。人を用いるに当を失い、而して名器愈々軽く、令を出すに数更え、而して士民信ぜず。若し旧跡を掃除せず、勢いに乗じて更張せざれば、窃かに恐る、大勢一たび傾けば、復た正す可からざるを。大臣に訪い、各々底蘊を展尽せしめ、画一して具に進めしむることを乞う。先ず臺諫に宣示し、随事疏駁せしむ。若し大臣の議絀るれば、則ち臺諫の言を参用し、若し疏駁当たらずば、則ち専ら大臣の策を守る。仍って朝に集議し、宸衷より断じ、以て國論と為し、次第に施行す。敢えて動揺する有らば、必ず罰し赦さず。庶幾くは新政経有り、中興を冀う可し」と。欽宗曰く、「比来詞掖に留めて相待ち、已に卿を召し試みることを命ず」と。語未だ竟わざるに、日昃えて暑甚だしく、汗上衣に洽う、遂に退く。

時に門下侍郎耿南仲は攀附の恩に倚り、凡そ己と合わざる者は、即ち指して朋黨と為した。安國の論奏を見て、慍って曰く、「中興かくの如くして、而して績效未だ見えずと曰うは、是れ聖徳を謗るなり」と。乃ち安國が経筵を窺う意有りと言い、召し試むるに宜しからずとす。欽宗答えず。安國は屡々辞し、南仲は又た安國が臣に非ずと言う。欽宗其の状を問うと、南仲曰く、「往には上皇に事えず、今又た陛下に事えず」と。欽宗曰く、「渠自ら病を以て辞す、初より向背有るに非ず」と。臣僚の登対する毎に、欽宗は即ち胡安國を知るやと問い、中丞許翰曰く、「蔡京政を得てより、士大夫其の籠絡を受けざる者無く、超然遠跡して汚されざるは安國の如き者は実に鮮し」と。欽宗歎息し、中書舍人晁說之を遣わして旨を宣し、命を受くるを勉めしめ、且つ曰く、「他日去らんと欲すれば、即ち強いて留めず」と。既に試みて、中書舍人を除し、三品の服を賜う。南仲は臺諫に諷して其の命に稽り恭しからざるを論じ、宜しく黜削に従うべしとす。疏奏下さず、安國乃ち職に就く。

南仲は既に宰相吳敏・樞密使李綱を傾け、又た許景衡・晁說之が大臣の升黜を去就の視と為し、姦を懐き私に徇うと謂い、並びに之を黜した。安國言う、「二人が去就を為すには、必ず陳論有るべし。姦を懐き私に徇うには、必ず実跡有るべし。本省に降付し、諸の詞命に載せしむることを乞う」と。報いず。

葉夢得は応天府を知り、蔡京に知られたるに坐し、職を落として祠を奉ず。安國言う、「京の罪已に正さる、子孫編置せられ、家財没入せられ、已に蔡氏無し。則ち向に京に引かれたる者は、今皆朝廷の人なり、若し更に指して京黨と為さば、則ち人才棄てらるる者衆く、黨論何時にしてか弭がん」と。乃ち夢得に小郡を除す。

中書侍郎何㮚は天下を四道に分け、四都總管を置き、各々一面を付し、以て王室を衛り強敵を捍がんと建議す。安國言う、「内外の勢いは、適平なれば則ち安く、偏重なれば則ち危し。今、州郡太だ軽し、理を通変すべし。一旦二十三路の広きを以て、四道に分かち、事専決を得、財専用を得、官辟置を得、兵誅賞を得ば、権恐らくは太重からん。万一抗衡跋扈せば、何を以てか之を待たん。見今の二十三路帥府に拠り、重臣を選択し、都總管の権を付し、専ら軍旅を治めしむることを乞う。或いは警急有れば、即ち各々所属の守将を率いて応援せしめば、則ち一挙両得なり」と。尋いで趙野を以て北道を總せしむ。安國は魏都の地重きを言い、野は必ず委寄を誤らんとす。是の冬、金人大いに侵入し、野遁走し、群盗に殺され、西道の王襄は衆を擁して復た北を顧みず、安國の言う如し。

李綱罷めらる。中書舍人劉玨が詞を行い、綱は勇んで國に報い、数えて敗衄に至ると謂う。吏部侍郎馮澥は玨が綱の為に遊説すと言い、玨坐して貶せらる。安國は詞頭を封還し、以て「侍従は献納すべしと雖も、官邪を弾撃するに至っては必ず風憲に帰す。今、臺諫未だ緘默言わざるの咎有らず、而るに澥は職を越ゆ、此の路若し開かば、臣恐るらくは朝に立つ者各々好悪を以て脅持傾陷し、以て朝著を靖むる所以に非ざるを」とす。南仲大いに怒り、何㮚従いて之を擠す。詔して郡を与う。㮚は安國が素より足疾に苦しみ、而して海門の地卑湿なるを以て、乃ち安國に右文殿修撰・通州知事を除す。

安國は省に在ること一月、告在の日の多きに在り、及んで出でれば必ず論列する所あり。或いは曰く、「事の小なる者は、蓋し姑く之を置かんか」と。安國曰く、「事の大なる者は微細より起らざるは無し、今、小事を以て必ずしも言うに足らざると為せば、大事に至っては又た敢えて言わず、是れ時にして言う可き無きなり」と。

安國既に去ること旬を逾え、金人都城に迫る。子の寅は郎たり、城中に在り、客或いは之を憂う。安國愀然として曰く、「主上重囲の中に在り、号令出でず、卿大夫は忠を効る路無きを恨む、敢えて子を念わんや」と。敵の囲み益々急なり、欽宗は亟に安國及び許景衡を召すも、詔竟に達せず。

高宗が即位すると、給事中として召された。安國は言う、「先般上奏文を差し戻したことで、権貴たちをことごとく触れました。今陛下は中興を建てられようとしていますが、政事の弛張、人材の昇黜は、まだ適切ではありません。臣がもし職務を逐一履行すれば、必ずや妄りに発言したとして、典刑を犯すことになりましょう」。黃潛善は給事中康執權にそそのかして、安國が病気を口実にしていると論じさせ、罷免させた。三年、樞密張浚が安國を大用に値すると推薦し、再び給事中に任じた。その子の起居郎寅に手詔を賜り、上意をもって催促させた。池州に到着した後、車駕が吳・越に幸されたと聞き、病気を理由に帰還した。

紹興元年、中書舍人兼侍講に任じられ、使者を遣わして召し出した。安國は『時政論』二十一篇を先に献上した。論が入ると、再び給事中に任じられた。二年七月に対面し、高宗は言う、「卿の大名を聞き、会いたくてたまらなかった。どうして何度も詔を下しても来ないのか」。安國は辞謝し、進呈した二十一篇の施行を乞うた。その論の目次は、『定計』、『建都』、『設險』、『制國』、『恤民』、『立政』、『覈實』、『尚志』、『正心』、『養氣』、『宏度』、『寬隱』である。『定計』の論はおおよそ次のように述べる、「陛下が帝位に即かれて六年になりますが、都を建てるについては、必ず守り動かさない居所が未だなく、賊を討つについては、必ず操って変わらぬ方策が未だなく、政を立てるについては、必ず行って覆されない命令が未だなく、官を任ずるについては、必ず信じて疑わぬ臣下が未だありません。今を捨てて図らねば、後悔しても及ばないでしょう」。『建都』の論は、「建康に都を定めて關中・河内になぞらえ、興復の基盤とすべきである」と謂う。『設險』の論は、「上流を固めようとすれば、必ず漢・沔を保たねばならず、下流を固めようとすれば、必ず淮・泗を守らねばならず、中流を固めようとすれば、必ず重兵をもって安陸を鎮めねばならない」と謂う。『尚志』の論は、「必ずや中原を恢復し、陵寢を奉ることを志し、必ずや仇敵を掃平し、両宮を迎え復することを志すべきである」と謂う。『正心』の論は、「禍乱を平定するのは、軍務が急務ではあるが、軍務を裁決するには、必ず方寸(心)に基づかねばならない。正臣で見識が多く、志慮があり、敢えて直言する者を選んで左右に置き、日夜討論させて、その心を安んじさせてください」と謂う。『養気』の論は、「用兵の勝負、軍旅の強弱、将帥の勇怯は、人君の養う気の曲直の如何にかかっている。善を行うことを強くし、その徳をさらに新たにし、諸夏に信頼され、夷狄に聞こえるところ、曲がった点が議論の余地ないようにしてくだされば、至剛の気は天地の間に満ち、一怒りして天下を安んずることができましょう」と謂う。安國は嘗て言った、「たとえ諸葛亮が復活しても、今日のことを計るには、この論を変えることはできないであろう」。

十日ほどして、再び対面し、病気を理由に去ることを懇願した。高宗は言う、「卿が『春秋』に深く通じていると聞く。ちょうど講論しようとしていたところだ」。そこで『左氏傳』を安國に渡して句読点と正しい読み方を付けさせた。安國は奏上する、「『春秋』は経世の大典であり、事柄に現れるもので、空言とは比べものになりません。今まさに艱難を乗り切ろうとしている時に、『左氏』は繁雑瑣碎で、虚しく光陰を費やし、文采に耽るのは宜しくありません。聖經に潜心するに如くはありません」。高宗は良しとされた。まもなく安國を兼侍読に任じ、専ら『春秋』を講じさせた。当時講官は四人おり、先例に倣って各々一経を専攻することを乞うた。高宗は言う、「他の者が経書に通じたとしても、胡安國と比べられようか」。許さなかった。

ちょうど故相朱勝非が都督江・淮・荊・浙諸軍事に任じられた。安國は奏上する、「勝非は黃潛善・汪伯彥と共に政府に在り、黙して附会し、ついに渡江に至りました。張邦昌を尊用して金国と結好し、三綱を淪滅させ、天下は憤鬱しました。塚司(宰相)の正位に就くと、苗・劉が逆を肆にし、貪り生きて苟くも容れられ、辱めは君父に及びました。今強敵が侵陵し、叛臣は憚るところなく、人を用いる得失は国家の安危にかかっています。深く勝非が大計を誤ることを恐れます」。勝非は侍読に改任されたが、安國は錄黃(任官文書)を留め置いて下さず、左相呂頤浩が特に檢正黃龜年に命じて発行させた。安國は言う、「『官守ある者は、その職を得ざれば去る』とあります。臣は今や罪を待つ身で補うところなく、既にその職を失い、去るべきことは甚だ明らかです。況や勝非は臣が論列した人物であり、今朝廷は勝非が苗・劉の変に際し、聖躬を調護できたと称しています。昔、公羊氏が祭仲が君を廃することを権を行ったと言い、先儒はその説を力排しました。およそ権宜による廃置は君父に対して施すべきものではなく、『春秋』の大法は、特にこれを謹みます。建炎の時に節を失った者は、今は特に釈放して問わないばかりか、さらに選抜抜擢し、習俗が既に成れば、君父の利益に大いに非ず。臣は『春秋』をもって侍することになりながら、勝非と同列となるのは、経訓に背きます」。そこで家に臥して出仕しなかった。

初め、頤浩が江上を都督して朝廷に還り、異なる者を除こうとしたが、その策を得なかった。ある者が朋党と指弾するよう教え、さらに言う、「党の首魁は瑣闈(宮中)にいる。まずこれを去るべきだ」。頤浩は大いに喜び、直ちに勝非を引き入れて助けとし、次のような旨を下した。「胡安國は屡々召されたが、傲慢にして至らず、今ややっと朝廷に参じたかと思うと、また数々の請願がある。初めは勝非を都督と同列にすべからずと言い、経筵に改命されると、また非と為す。時艱に尽瘁せんとせず、かえって微罪を求めて去らんとするのか。自らの為に謀るのは善いが、国計はどうするのか」。落職し、仙都観を提挙させた。その夜、彗星が東南に出た。右相秦檜は三度上章して留めるよう乞うたが、返答なく、直ちに相印を解いて去った。侍御史江躋が上疏し、勝非を用いるべからず、安國を責むる不当を極言した。右司諫吳表臣もまた、安國が病を抱えて君に謁し、学んだことを行おうとしたのに、今理由なく罪して去らせるのは、天下に示すところではないと論じた。返答なかった。頤浩は直ちに給事中程瑀、起居舍人張燾及び躋ら二十余人を罷免し、天変に応じて旧を除き新を布く象であると言った。臺省は空となり、勝非は遂に宰相となり、安國は結局帰郷した。

五年、徽猷閣待制・永州知事に任じられたが、安國は辞退した。詔して経筵の旧臣であることを理由に、重ねて労を憐れみ、特にその請いに従い、江州太平観を提挙させ、著わした『春秋傳』を纂修するよう命じた。書が完成すると、高宗は聖人の旨を深く得ていると言い、萬壽観提挙兼侍読に任じた。赴任しないうちに、諫官陳公輔が上疏して程頤の学を仮託する者を誹謗した。安國は奏上する、「孔・孟の道は久しく伝わらず、頤兄弟から始めてこれを発明し、然る後に学んで至ることができると知りました。今学者に孔・孟に師事させながら、頤に従うことを禁めるのは、室に入りながら戸によらないようなものです。本朝は嘉祐以来、西都に邵雍・程顥及びその弟頤がおり、關中に張載がおり、皆道德をもって世に名を知られ、公卿大夫が欽慕し師尊するところでした。王安石・蔡京らが曲げて排抑したため、その道は行われませんでした。礼官に故事を討論させ、封爵を加え、祀典に載せ、荀子・揚雄・韓愈らに比べ、さらに館閣に命じてその遺書を集め、校正して頒行させ、邪説を唱える者を起こさせないようにしてください」。奏上が入ると、公輔は中丞周秘・侍御史石公揆と共に宰相の意向を仰ぎ望み、相次いで上章して安國の学術が頗る偏っていると論じた。永州知事に任じられたが辞退し、再び太平観を提挙し、寶文閣直學士に進められ、卒去した。六十五歳。詔して四官を追贈し、さらに詔を下して葬儀の贈り物を加え、田十頃を賜ってその孤児を恤い、諡して「文定」と曰う。これは通常の格式ではなかった。

安國は学問に励み実践を重ね、聖人を目標とし、時艱を救済することを志し、中原が陥没し、遺民が塗炭の苦しみにあるのを見て、常に自らが痛切に感じるかの如くであった。

朱震が召し出された時、出処の宜しきを問うと、安國は言った、「子發は『易』を学ぶこと二十年、この事は平素より定まっているべきである。世の中で講学と論政のみは、切に尋ね究めねばならぬが、己の行いの大要、去就語黙の機微は、人の飲食の如く、その飢飽寒温は必ず自ら斟酌すべきで、人に決めさせるべからず、また人の決し得る所でもない。我が平生出処は皆内心で断じており、浮世の利名は蠛蠓が眼前を過ぎるが如く、何をか言わんや」と。

安國の交遊した者は、游酢・謝良佐・楊時、皆程門の高弟である。良佐は嘗て人に語って言った、「胡康侯は大冬の厳雪の如く、百草は萎え死すとも、松柏は挺然として独り秀でる者である」と。

王安石が『春秋』を廃して学官に列せざるより、安國は謂う、「先聖の手ずから筆削された書が、人主に講説を聞かせず、学士に相伝習せしめざるは、倫を乱し理を滅ぼし、夏を以て夷に変ずるは、殆どこれより由る」と。

安國は少時に文章を以て世に名を知らしめんと欲したが、道を学んでよりは、復た意を措かず。文集十五巻、『資治通鑑挙要補遺』一百巻あり。三子、寅・宏・寧。

子 寅

寅、字は明仲、安國の弟の子なり。寅の生まれんとする時、弟の妻は男子多きを以て挙げざらんと欲す。安國の妻、大魚の盆水中に躍る夢を見、急ぎ往きて取りて子とす。

靖康の初め、御史中丞何㮚の薦により、召されて秘書省校書郎を除す。楊時が祭酒たりし時、寅はこれに従い学を受く。司門員外郎に遷る。

建炎三年、高宗金陵に幸す。枢密使張浚の薦めにより駕部郎官と為り、尋いで起居郎に擢でる。金人南侵し、詔して移蹕の所を議す。寅上書して曰く、

昨陛下は親王・介弟として河北に出師せられ、二聖既に遷らるれば、則ち義師を糾合し、北向して迎請すべし。

黄潜善と汪伯彦は方に乳嫗が赤子を護るの術を以て陛下に待ち、曰く「上皇の子三十人、今存するは惟だ聖体のみ、自ら重んじ愛せざるべからず」と。

願わくは詔を下して曰く「大統を継紹するは、臣庶の諂より出で、その非なるを悟らず。東南に巡狩するは、僥幸の心より出で、その禍を虞れず。

古より中国強盛なること漢武帝・唐太宗の如きも、その四夷に得志するは、必ず併呑掃滅し、その兵力を極めて後已む。

大乱の後、風俗は靡然として、これを大いに変えようとするには、実効を務め、虚文を去るに在り。兵を治め将を選び、大憝を誓って討つは、孝弟の実なり。使を遣わして和を乞い、万一を冀幸するは、虚文なり。己を屈して賢を求め、群策を信用するは、賢を求める実なり。外に礼貌を示し、その言を用いざるは、虚文なり。面従のみならず、必ず心を改め、苟も国に利あれば、即日これを行ふは、諫を納るる実なり。和顔して泛く受け、内に切直を悪むは、虚文なり。智勇忠直の人を擢げ、恩威を以て御し、誠信を以て結約するは、将を任ずる実なり。庸奴を親厚にし、等威立たざるは、虚文なり。疲弱を汰ぎ、壮勇を択び、その衣食を足し、階級を申明し、以てその驕悍の習を変ずるは、軍を治むる実なり。児戯を教習し、紀律蕩然たるは、虚文なり。守刺を遴選し、久しくその官に在り、姦贓を痛く刈り、寛恤を広く行ふは、民を愛する実なり。軍須戎具、征求取辦し、租を蠲ぎ赦令を下し、苟も以てこれを欺くは、虚文なり。若し宗廟・陵寢・土地・人民を保たんと欲せば、この六つの実を以てその間に行はば、則ち中興の実政と為らん。陵廟荒圮し、土宇日蹙し、衣冠黔首、血と為り肉と為るに、この六つの虚を以てその間に行はば、則ち今日の虚文と為らん。陛下黄屋を戴き、幄殿を建て、質明に輦房を出で、雉扇金炉両陛に夾侍し、仗馬衛兵儀式に儼然と分ち、賛者百官を引いて入り起居を奉り、以て日を過ごす。かの粘罕は、昼夜兵を厲し、河を跨ぎ岱を越え、電掃中土し、遂に江湖を吞吸し、衡霍を蹂踐せんの意有り。吾れ方に虚器を擁し、茫然として之く所を知らず。

君子小人、勢両立せず。仁宗皇帝在位の時、君子を得ること最多し。小人も亦時に用いらるるを見るも、然れども罪有る者は則ち斥く。君子も亦或は廃せらるるを見るも、然れども忠顕なる者は則ち収む。故にその当世の功を成し、後人の輔を貽す者は、皆君子なり。王安石に至りては則ち然らず、君子を斥絶し、一去して還らず。小人を崇信し、一任して改めず。故にその当時の政を敗り、後世の害と為る者は、皆小人なり。仁宗皇帝の養ひし君子は、既に日遠くして銷亡せり。安石の致せし小人は、方に蕃息して未だ艾がず。国を誤り家を破るに至りて、至毒至烈、以て二聖の屈辱を致し、羿・莽の朝を擅にし、伏節死難する者一二人に過ぎざる所以なり。此れ浮華軽薄の害、明主の畏れて深く戒むる所なり。

古の中興を称する者曰く、「乱世を撥ぎ、正に反す」と。今の乱も亦云ふ甚だし、その反正してこれを興すは、陛下に在り。その遂に陵遅して振はざるも、亦陛下に在り。昔、宗澤一老の従官たるに過ぎざるも、猶能く誠を推して群賊を感動せしめ、北は懐・衛に連なり、同じく二聖を迎へ、期を克ち密に応ずる者、慮る無きこと数十万人。況んや陛下身を以て子弟たり、北向して有為たらんと欲せば、将に見ん、四海を挙げて陛下の用ふる所と為り、期を十年とし、必ず能く妖沴を掃除し、遠く父兄を迓へ、宋の中興を称せんことを。その惕息遁藏し、危きを蹈み恥を負ふ今日の如きと、豈に天地相絶たざらんや。

疏入るや、宰相呂頤浩その切直を悪み、直龍図閣・主管江州太平観を除す。

二年五月、詔して内外の官に各々省費・裕国・強兵・息民の策を言はしむ。寅十事を以て詔に応じ、曰く政事を修め、辺陲を備へ、軍旅を治め、人材を用ひ、盗賊を除き、賞罰を信じ、財用を理め、名実を核し、諛佞を屏け、姦慝を去ると。疏上るも報ひず、尋ねて永州を知らしむ。

紹興四年十二月、復た召して起居郎と為し、中書舎人に遷し、三品服を賜ふ。時に使を遣はして雲中に入らしむるを議す。寅上疏して言ふ。

女真陵寢を驚動し、宗廟を残毀し、二聖を劫質す、乃ち吾が国の大讎仇なり。頃者、国を誤るの臣使を遣はして和を求め、以て歳月を苟めしこと、茲に九年、その效如何。幸ひに陛下邪言を灼見し、漸く恢復を図る、忠臣義士風を聞きて興起し、各々自効を思ふ。今故無く庸臣の轍を蹈み、復讐の義を忘れ、自辱の辞を陳ぶ、臣切に陛下の取らざる所と為す。

若し少しくも貶屈せざれば、二聖を如何にせんと謂はば、則ち丁未より甲寅に至るまで、卑辞厚礼を為し、問安迎請を名として使を遣はせる者、幾人なるかを知らず、二聖の在る所を知る者は誰ぞや。二聖の声音を聞く者は誰ぞや。女真の要領を得て兵を息ます者は誰ぞや。臣但だ丙午の後を見るに、通和の使帰りて未だ肩を息ますずして、黄河・長淮・大江相継いで険を失へり。夫れ女真は中国の重んずる所は二聖に在り、懼るる所は劫質に在り、畏るる所は用兵に在るを知り、而して中国坐して此の餌を受け、既に久しくして悟らざるなり。天下是より必ず図を改むべしと謂ふ、何為れぞ復た此の謬計を出だすや。

当今の事、金人の怨より大なるは莫し。此の怨を報ぜんと欲せば、必ず此の讎を殄せん。復讐の議を用ひ、講和の政を用ひずして、天下に皆女真を不倶戴天の讎と知らしめ、人々に致死の心有らしめ、然る後に二聖の怨平らぎ、陛下人子の職挙がるべし。苟も然らずば、彼或は陛下と泗水の上に歃盟せんと願ふ、何を以てか之を待たん。聖意直に世讎通ずべき義無きを以て、使命を寢罷せんことを望む。

高宗嘉納し、云く、「胡寅使事を論ずるに、詞旨剴切、深く献納論思の体を得たり」と。都堂に召して旨を諭し、仍て詔を降して獎諭す。既にして右僕射張浚江上より還り、使を遣はすは兵家の機権なりと奏し、竟に前旨に反す。寅復た奏疏して言ふ、「今日の大計、只だ復讐の義を明かにし、賢を用ひ徳を修め、兵を息まし民を訓へ、以て北向を図るに合す。倘は未だ可からずんば、則ち堅守して時を待つべし。若し二三其の徳にして、一定の論無くんば、必ず能く立つ所あること能はざらん」と。寅既に浚と異なり、遂に便郡を乞ひて就養せんとす。

初め、寅上言して曰く、「近年書命多く詞臣の好悪の私に出づ、人主の命徳討罪の詞をして、免れず人を玩び徳を喪ふの失有らしむ。詞臣に命じて飾情相悦び、含怒相訾むるを戒めしむるを乞ふ」と。故に寅の撰する詞多く誥誡有り、是に於て忌嫉する者衆し。朝廷宣仁聖烈の誣を辨し、章惇・蔡卞を行遣するは、皆宰臣面して上旨を授け、寅をして撰進せしむ。徽猷閣待制・知邵州を除すも、辞す。集英殿修撰に改め、復た待制を以て知厳州に改め、又た知永州に改む。

徽宗皇帝・寧徳皇后の訃至るや、朝廷故事を用ひて日を以て月に易ふ。寅上疏して言ふ、「礼に曰く、讎復せざれば則ち服除かず。詔旨を降し、喪を用ふること三年、墨を衣て戎に臨み、以て天下を化せんことを願ふ」と。尋ねて礼部侍郎・侍講を兼ね直学士院を兼ぬ。父憂に丁り、喪を免る。時に秦檜国に当り、徽猷閣直学士・提挙江州太平観を除す。俄に致仕を乞ひ、遂に衡州に帰る。

檜既に寅を忌み、老を告ぐと雖も、猶之を憤り、李光に与へし書に朝政を譏訾するに坐して職を落とす。右正言章復寅が本生母の服を持せざるは不孝、鄰好を通ずるを諫めざるは不忠なりと劾し、果州団練副使を責授し、新州に安置す。檜死し、詔して自便せしめ、尋ねて其の官を復す。紹興二十一年卒す、年五十九。

胡寅は志操と気概に優れ豪邁であり、初めて進士に及第した時、中書侍郎の張邦昌が娘を娶らせようとしたが、許さなかった。初め、胡安国は秦檜の大節をかなり重んじていたが、秦檜が国政を専断するに及んで、胡寅は遂に彼と絶交した。新州への貶謫の命令が下ると、即日に出発した。貶謫の地において『読史管見』数十万言、及び『論語詳説』を著し、いずれも世に行われた。その文章は義理に根ざし、『斐然集』三十巻がある。

子に胡宏あり。

胡宏は、字を仁仲といい、幼い頃に楊時・侯仲良に師事し、ついに父の学問を伝えた。衡山の麓で二十余年にわたり悠々自適し、心神を研ぎ澄ませ、昼夜を分かたず学んだ。張栻が彼に師事した。紹興年間に上書し、その要旨は次のようであった。

天下を治めるには根本があり、それは仁である。仁とは何か。心である。心という器官は茫漠として、その向かうところを知ることができない。どうしてその本体を知ることができようか。明察しないところがあれば知ることができないのである。顧慮するものがあり、畏懼するものがあれば、たとえ知り察することのできる良心があっても、次第に消滅して自らも知らないようになる。これが臣の大いに憂えるところである。敵国が形勝の地を占め、逆臣が中原で位を僭称し、軍馬が盛んに駆け巡って天下を争おうとしている。臣はこれを恐れないが、良心を大いに憂えるのは、良心が一身に充満し、天地に通じ、万事を統制し、億兆の民を統べる根本であるからである。天理を明らかにするには欲望を退けるに如くはなく、良心を保つには志を立てるに如くはない。陛下にもまた、朝廷の政事が思い煩わず、寵愛する者や知巧の輩が前に陳べられず、妃嬪や佳麗が左右に侍らない時があるであろう。陛下はこの時に試みに深く思い静かに慮り、今の世において、陛下ご自身にとって、何事が最も重大か、何事が最も緊急か、考えてみられよ。必ずや心に物足りなさを感じて気力が萎え、悲しみに心を痛め、起きても座っても彷徨し自ら安んじられないことがあろう。そうすれば良心は明らかにされ、臣の言葉は信じられるであろう。

昔、舜は一匹夫から天子となり、瞽叟は一匹夫から天子の父となり、天下の供養を受けた。どうして貧困に不足があろうか。しかし瞽叟はなお喜ばなかった。常情から見れば、舜はこれで免れることができたと言えるが、舜は憂い顔をしてこれを憂え、天下の広さをもってしても憂いを解くに足るものはなかった。徽宗皇帝は身をもって天下の奉仕を享受することほぼ三十年であった。欽宗皇帝は深宮に生まれ、天子の副次たる待遇を受け、ついに帝位に即かれた。一朝にして仇敵に脅迫され、遠く荒涼の地に赴き、衣裘は司服の制度を失い、飲食は膳夫の味を失い、居処は宮殿の安らぎや妃嬪のよき伴侶を失い、振る舞いに威厳がなく、辛苦して窮屈な境遇にある。彼らが陛下に敵国への出兵を願う心は、目を凝らして待ち望み、飢え渇きが飲食を求めるが如きものである。どうにかして生きて帰還し、父子兄弟が抱き合って泣き、平生のごとく歓ぶことを望んでいるのである。首を長くして東を望むこと、今や九年になる。臣のような疎遠な賤しい身分の者でさえ、このことを思って心を痛め、食事の際には喉が詰まり、箸を投げ出して立ち上がり、何か為すことを考えずにはいられない。まして陛下はその任にあるのである。しかるに朝廷の臣たちは、天の心に応え、陛下の仁孝の志を充たすことができず、かえって天子の尊厳をもって、北面して仇敵に臣従している。陛下ご自身で考えられよ。このような仕方で親に仕えることを、舜と比べてどうであろうか。

かつ群臣の智謀は浅薄短小で、自ら度量して大事を担うに足りないと考えるから、江左に安住を貪り、寵愛と栄誉を貪り求めて、皆わが身のためを謀っているだけである。陛下はこれを信じ、必ずやこれを持って中原を進んで撫で、陵廟を拝謁し、両宮を帰還させることができるとお考えになるが、なんという誤りであろうか。

万世に消えることのない辱め、臣子が必ず報いなければならない仇、子孫が喪中の席に臥し戈を枕にして、共に天下に立たないと誓うべきものである。しかし陛下は顧慮し畏懼して、これを忘れ仇としようとしない。臣下の僭逆には、明目張胆に明らかに背反をなす者があり、乱賊に協賛してその羽翼となる者があり、両端に依り随って中立をもって自ら免れようとする者がある。しかし陛下は顧慮し畏懼して、これを寛大に扱い討伐しようとしない。このまま改めなければ、祖宗の御霊は終に天に曝され、再び存することはなくなるであろう。父兄の御身は終に天に困窮辱められ、帰還の望みは絶えるであろう。中原の士民は、身を没して塗炭の苦しみに陥り、訴えるところがないであろう。陛下はこのことにも思いを及ぼされるであろうか。

王安石は軽率に己の私意を用い、法令を次々と変更し、誠実を棄てて詐りを抱き、利益を興して義を忘れ、功績を尊んで道に背いた。人々は皆、安石が祖宗の法令を廃したことを知っているが、祖宗の道までも共に廃したことを知らない。邪説が既に行われ、正論が退けられたので、奸佞諂諛の徒が敢えて紹述の義を挟んでその私欲を逞しくし、下っては君父を誣し、上っては祖宗を欺き、宣仁太后を誣謗し、隆祐太后を廃して遷した。わが国家の君臣父子の間に、たちまち疵や病が生じ、三綱は廃れ壊れ、神妙な教化の道は泯然として滅びようとした。遂に敵国が外に横暴となり、盗賊が内に争い、王師は傷つき敗れ、中原は陥落し、二聖は遠く沙漠に棲み、皇輿は僻遠の東吳に寄せられ、喧騒たる万姓は、帰する所を知らず、禍いは極めて残酷なものとなった。

もしなお因循に慣れ、更変を憚り、三綱の本来の性を失い、神妙な教化の良き能力を暗くし、上は利と勢いをもって下を誘い、下は智術をもって上に干渉するならば、是非はこれによって公でなくなり、名実はこれによって核められず、賞罰はこれによって失当となり、乱臣賊子はこれによって志を得、人の綱紀はこれによって修まらず、天下の万事は倒行逆施し、人欲がほしいままになり天理は滅びるであろう。どうして先朝と異なり、禍乱を救って昇平を致すことができようか。

末尾に言う。

陛下が即位されて以来、中正の士と邪佞の臣とが、入れ替わり立ち替わり進退し、堅固で動かしがたい誠が無い。しかし陳東は直諫して前に死に、馬伸は正論を唱えて後に死んだが、未だ一人の奸邪を誅し、一人の諛佞を罷免したとは聞かない。どうして中正の士を挫く力は強く、奸邪を除くことは難しいのか。これは当時の輔相の罪ではあるが、中正の士は陛下の腹心耳目である。どうして天子の威をもって億兆の命を握りながら、二、三の腹心耳目の臣を保全して自らを輔助させることができず、奸邪にこれを殺させることができるのか。誰を責めればよいというのか。臣はひそかに心を痛め、陛下の威権が己に在らないことを傷むのである。

高閌が国子司業となり、太学への行幸を請うた。胡宏はその上表文を見て、書を作ってこれを責めて言った。

太学は、人倫を明らかにする所である。昔、楚の懐王が帰らなかった時、楚人はこれを哀れみ、親戚を悲しむが如くであった。秦が強力をもってその君を騙し、死を得させなかったことを憤り、刃を加えるよりも残酷であると考えたからである。太上皇帝は強敵に劫制され、生きて往き死して帰る。これは臣子が心を痛め骨に徹し、臥薪嘗胆して、必ず報いるべきことを思うべきである。しかるに権力を握る臣が敢えて天を欺き人を罔し、大仇を大恩とするとは何事か。

昔、宋公が楚に捕らえられ、楚子がこれを釈放した時、孔子が『春秋』を筆削して、「諸侯、薄に盟し、宋公を釈く」と言った。楚人が中国の命を制することを許さなかったのである。太母(隆祐太后)は天下の母であられる。その釈放が金人によるものであったことは、これ中華の大辱であり、臣子の忍びないところである。しかるに権力を握る臣が敢えて天を欺き人を罔し、大辱を大恩とするとは何事か。

晋朝が太后を廃した時、董養が太学に遊び、堂に昇って嘆いて言った。「天下の理が既に滅び、大乱が起こらんとしている」と。そして遠くへ引き去った。今、閣下は目撃して仇を忘れ理を滅ぼし、北面して敵国に臣従し、安楽を苟めることを、なお平然として天下の師儒の首座となっている。既に大論を立て、天人の理を明らかにして君心を正すことができないばかりか、権臣に阿諛し、その風旨に迎合して、太平の典を挙行することを求め、またそのための言葉を並べている。天を欺き人を罔すること、これより甚だしいものがあろうか。

宏は初め蔭補により右承務郎に補せられたが、赴任しなかった。秦檜が国政を執ると、その兄の寅に書を送り、二人の弟がどうして書を寄越さないのかと問い、用いようとする意図があった。寧は書を作ってただ契好を述べるのみであった。宏の書は言辞が甚だ厳しく、人がその理由を問うと、宏は言った、「正に彼が召そうとすることを恐れるが故に、召すべからざる端緒を示したのである。」檜が死ぬと、宏は召されたが、ついに病を理由に辞し、家で卒した。

著書を『知言』という。張栻はその言は約にして義は精、道学の枢要、制治の蓍亀なりと評した。詩文五巻、『皇王大紀』八十巻がある。

子に寧あり。

寧は字を和仲といい、蔭補により官に補せられた。秦檜が国政を執ると、館職に召し試みられ、敕令所刪定官に除せられた。秦熺が知樞密院事となった時、檜が寧に問うて言った、「熺の近頃の除目について、外議はどうか。」寧は言った、「外議は相公が必ずや蔡京の為したところのことは為されないと思っております。」太常丞、祠部郎官に遷った。

初め、寧の父兄の故をもって召し用いられたが、寅が檜に逆らうに及んで、寧を出して夔路安撫司参議官とした。澧州の知州に除せられたが、赴任しなかった。台州崇道観を主管し、卒した。

安国の『春秋』を伝えるにあたり、修纂と檢討はすべて寧の手に出た。寧はまた『春秋通旨』を著し、その書を羽翼したという。