宋史

列傳第一百九十三 儒林四 劉子翬 呂祖謙 蔡元定子:沉 陸九齡兄:九韶 陸九淵 薛季宣 陳傅良 葉適 戴溪 蔡幼學 楊泰之

列傳第一百九十三 儒林四 劉子翬 呂祖謙 蔡元定子:沉 陸九齡兄:九韶 陸九淵 薛季宣 陳傅良 葉適 戴溪 蔡幼學 楊泰之

劉子翬

原文劉子翬

劉子翬、字は彦冲、贈太師劉韐の次子なり。父の任により承務郎を授かり、真定府の幕属に辟せられる。劉韐は靖康の難にて死し、子翬は痛憤し、殆ど生くる所以無く、墓側に三年服す。喪服を除き、興化軍通判となる。賊の楊就が閩の境を犯すや、子翬は郡将張當世と謀りを画し備禦す、平素より戎事に服する者の如く、賊は敢えて犯さず。事聞こえ、詔によりそのまま任に留まる。

原文劉子翬,字彥冲,贈太師韐之仲子。以父任授承務郎,辟真定府幕屬。韐死靖康之難,子翬痛憤,幾無以為生,墓三年。服除,通判興化軍。寇楊就犯閩境,子翬與郡將張當世畫計備禦,如素服戎事者,賊不敢犯。事聞,詔因任。

子翬は初め喪に服して羸疾を致し、ここに至り吏責に堪えざるを以て、辞して武夷山に帰り、出でざること凡そ十七年。間々その父の墓下に走り、瞻望徘徊し、涕泗嗚咽し、或いは累日にして返る。妻死して再び娶らず、継母呂氏及び兄の子羽に事えて孝友を尽くす。子羽の子劉珙、幼くして英敏にして学を嗜み、子翬これを教えて懈らず、劉珙ついに立つこと有り。

原文子翬始執喪致羸疾,至是以不堪吏責,辭歸武夷山,不出者凡十七年。間走其父墓下,瞻望徘徊,涕泗嗚咽,或累日而返。妻死不再娶,事繼母呂氏及兄子羽盡孝友。子羽之子珙,幼英敏嗜學,子翬教之不懈,珙卒有立。

籍溪の胡憲、白水の劉勉之と交わり相得、毎に会見すれば、講学の外に雑言無し。その他の交遊する所は、皆海内の知名の士なり、而して任重くして遠きに致すを期する者は、ただ新安の朱熹のみなり。初め、朱熹の父松将に死せんとし、朱熹を託して子翬に付す。及び朱熹益を請うに及び、子翬は『易』の「不遠復」の三言を以て告げ、之を終身佩かしむ、朱熹後ついに儒宗と為る。子翬少にして仏氏の説を喜び、帰りて『易』を読むや、即ち渙然として得る所有り。その説以為く、『易』を学ぶには当に先ず『復』をすべし、故に是を以て朱熹に告げしなり。

原文與籍溪胡憲、白水劉勉之交相得,每見,講學外無雜言。它所與遊,皆海內知名士,而期以任重致遠者,惟新安朱熹而已。初,熹父松且死,以熹託子翬。及熹請益,子翬告以《易》之「不遠復」三言,俾佩之終身,熹後卒為儒宗。子翬少喜佛氏說,歸而讀《易》,即渙然有得。其說以為學《易》當先《復》,故以是告熹焉。

一日、微疾を感ずるや、即ち家廟に謁し、泣いて母に別れ、親朋と訣し、劉珙に家事を付し、葬処を指し、親戚の孤弱にして業無き者を処し、学者に修身求道を訓ゆること数百言。後二日にして卒す、年四十七。学者「屏山先生」と称す。劉珙は別に傳有り。

原文一日,感微疾,即謁家廟,泣別母,與親朋訣,付珙家事,指葬處,處親戚孤弱之無業者,訓學者修身求道數百言。後二日卒,年四十七。學者稱「屏山先生」。珙,別有傳。

呂祖謙

原文呂祖謙

呂祖謙、字は伯恭、尚書右丞呂好問の孫なり。その祖より始めて婺州に居す。祖謙の学は家庭に本づき、中原文獻の傳有り。長じて林之奇、汪應辰、胡憲に従い遊び、既にして又張栻、朱熹と友と為り、講索益々精なり。

原文呂祖謙,字伯恭,尚書右丞好問之孫也。自其祖始居婺州。祖謙之學本之家庭,有中原文獻之傳。長從林之奇、汪應辰、胡憲遊,既又友張栻、朱熹,講索益精。

初め、蔭補により官に入り、後に進士に挙げられ、復た博學宏詞科に中り、南外宗教に調せらる。内艱に遭い、明招山に居し、四方の士争いて之に趨る。太學博士を除され、時に中都の官待次する者は例として外補せらるるも、添差として嚴州教授と為り、尋いで復た召されて博士兼國史院編修官・實錄院檢討官と為る。輪對にて、孝宗に聖學に留意せんことを勉め、且つ言う、「恢復は大事なり、規模当に定むべく、方略当に審かにすべし。陛下方に豪傑を広く攬め、共に事功を集めんとす、臣願わくは精しく考察を加え、之をして確かに經畫の實を指さしめ、孰れを先とし孰れを後とするかを明らかにし、嘗試僥倖の説をして敢えて前に陳べざらしめ、然る後に一二の大臣と成算を定めて次第に行えば、則ち大義伸べられ、大業復たせられん」と。

原文初,蔭補入官,後舉進士,復中博學宏詞科,調南外宗教。丁內艱,居明招山,四方之士爭趨之。除太學博士,時中都官待次者例補外,添差教授嚴州,尋復召為博士兼國史院編修官、實錄院檢討官。輪對,勉孝宗留意聖學。且言:「恢復,大事也,規模當定,方略當審。陛下方廣攬豪傑,共集事功,臣願精加考察,使之確指經畫之實,孰為先後,使嘗試僥倖之說不敢陳於前,然後與一二大臣定成算而次第行之,則大義可伸,大業可復矣。」

召試館職。是に先んじ、召試する者は率ね前期に學士院に従い問目を求む、獨り祖謙然らず、而してその文特に典美なり。嘗て陸九淵の文を読みて之を喜び、未だ其人を識らず。禮部を考試し、一卷を得て曰く、「此れ必ずや江西の小陸の文なり」と。揭示するに、果たして九淵なり、人その精鑒に服す。父憂に遭い、喪を免れ、台州崇道觀を主管す。

原文召試館職。先是,召試者率前期從學士院求問目,獨祖謙不然,而其文特典美。嘗讀陸九淵文,喜之,而未識其人。考試禮部,得一卷,曰:「此必江西小陸之文也。」揭示,果九淵,人服其精鑒。父憂,免喪,主管台州崇道觀。

三年を越え、秘書郎・國史院編修官・實錄院檢討官を除す。修撰李燾の薦めにより、『徽宗實錄』を重修す。書成り、秩を進む。面對にて言う、

原文越三年,除秘書郎、國史院編修官、實錄院檢討官。以修撰李燾薦,重修《徽宗實錄》。書成,進秩。面對,言曰:

「夫れ治道の體統は、上下内外相侵奪せずして後に安んず。郷者、陛下は大臣の任に勝えざるを以て而して其の事を兼ね行い、大臣も亦皆細務に親しみて有司の事を行い、外は監司・守令の職任に至るまで、率ね其の上に侵され而して其の下を令せしむること能わず。故に豪猾官府を玩び、郡縣省部を忽せにし、掾屬長吏を淩ぎ、賤人柄臣を軽んず。平居未だ其の患を見ざるも、一旦急有らば、誰と指麾して而して之を伸縮せんや。若し曰く臣下の權任太重にして、其の私無からざるを懼る、則ち給・舍を以て出納し、臺諫を以て救正し、侍從を以て詢訪す。儻し端方にして倚らざるの人を得て之を分ち処せば、自ら專恣の慮無からん、何ぞ必ずしも至尊を屈して以て其の労を代えんや。人の關鬲脈絡少しく壅滯有れば、久しければ則ち疾を生ず。陛下左右に於いては、操制を労せずと雖も、苟も玩んで慮らざれば、則ち聲勢浸長し、趨附浸多くなり、過咎浸積し、内には則ち陛下の遣わさるるを懼れて益々壅蔽を思い、外には則ち公議の疾する所と為るを懼れて益々詆排を肆にせん。願わくは陛下虚心を以て天下の士を求め、要を執りて以て萬事の機を総べよ。圖任或いは誤ると以て人多しと謂いて疑う可からず、聰明獨り高しと以て智足りて遍察すと謂う可からず、小に詳なるも以て遠大の計を忘るる可からず、近きに忽せるも以て壅蔽の萌を忘るる可からず」。

原文「夫治道體統,上下內外不相侵奪而後安。鄉者,陛下以大臣不勝任而兼行其事,大臣亦皆親細務而行有司之事,外至監司、守令職任,率為其上所侵而不能令其下。故豪猾玩官府,郡縣忽省部,掾屬淩長吏,賤人輕柄臣。平居未見其患,一旦有急,誰與指麾而伸縮之邪?如曰臣下權任太重,懼其不能無私,則有給、舍以出納焉,有臺諫以救正焉,有侍從以詢訪焉。儻得端方不倚之人分處之,自無專恣之慮,何必屈至尊以代其勞哉?人之關鬲脈絡少有壅滯,久則生疾。陛下於左右雖不勞操制,苟玩而弗慮,則聲勢浸長,趨附浸多,過咎浸積,內則懼為陛下所遣而益思壅蔽,外則懼為公議所疾而益肆詆排。願陛下虛心以求天下之士,執要以總萬事之機。勿以圖任或誤而謂人多可疑,勿以聰明獨高而謂智足遍察,勿詳於小而忘遠大之計,勿忽於近而忘壅蔽之萌。」

又た言う、

原文又言:

「國朝の治體、遠く前代を過ぐる者有り、前代を視て未だ備わらざる者有り。寬大忠厚を以て規模を建立し、禮遜節義を以て風俗を成就するは、此れ所謂遠く前代を過ぐる者なり。故に俶擾艱危の後、東南に駐蹕すること五十年を踰え、纖毫の虞無きは、則ち根本の深きを知る可し。然れども文治觀る可くして武績未だ振わず、名勝相望みて幹略未だ優れず、故に昌熾盛大の時と雖も、此の病已に見ゆ。是を以て元昊の難に、范・韓皆一時の選を極むるも、而して平殄すること能わざれば、則ち事功の競わざる従て知る可し。臣謂う、今日の治體前代を視て未だ備わらざる者は、固に當に激厲して振起すべく、遠く前代を過ぐる者は、尤も當に愛護して扶持すべし」。

原文「國朝治體,有遠過前代者,有視前代為未備者。夫以寬大忠厚建立規模,以禮遜節義成就風俗,此所謂遠過前代者也。故於俶擾艱危之後,駐蹕東南逾五十年,無纖毫之虞,則根本之深可知矣。然文治可觀而武績未振,名勝相望而幹略未優,故雖昌熾盛大之時,此病已見。是以元昊之難,范、韓皆極一時之選,而莫能平殄,則事功之不競從可知矣。臣謂今日治體視前代未備者,固當激厲而振起。遠過前代者,尤當愛護而扶持。」

著作郎に遷り、末疾(四肢の病)を以て、祠官を請うて帰郷す。先に、書肆に『聖宋文海』と題する書あり、孝宗は臨安府に命じて校正刊行せしむ。学士周必大、『文海』は去取に差謬あり、後世に伝うるは恐らく難からん、何ぞ館職に委ねて銓擇せしめ、以て一代の書を成さしめざる、と言う。孝宗は以て祖謙に命ず。遂に中興以前を断じ、雅を崇び浮を黜き、類して百五十巻と為し、之を上る。賜名して『皇朝文鑑』と曰う。

原文遷著作郎,以末疾,請祠歸。先是,書肆有書曰《聖宋文海》,孝宗命臨安府校正刊行。學士周必大言《文海》去取差謬,恐難傳後,盍委館職銓擇,以成一代之書,孝宗以命祖謙。遂斷自中興以前,崇雅黜浮,類為百五十卷,上之,賜名《皇朝文鑒》。

詔して直秘閣を除す。時に職名を重んずる方なり、功無き者は除せず、中書舎人陳騤之を駁す。孝宗、旨を批して云う、「館閣の職は、文史を先とす。祖謙の進むる所、採取精詳にして、治道に益有り。故に以て之を寵す。即ち命詞すべし」と。騤已むを得ず制を草す。尋いで沖祐観を主管す。明年、著作郎兼国史院編修官を除す。卒す。年四十五。諡して「成」と曰う。

原文詔除直秘閣。時方重職名,非有功不除,中書舍人陳揆駁之。孝宗批旨云:「館閣之職,文史為先。祖謙所進,采取精詳,有益治道,故以寵之,可即命詞。」揆不得已草制。尋主管沖祐觀。明年,除著作郎兼國史院編修官。卒,年四十五。諡曰「成」。

祖謙の学は関・洛を宗と為し、而して旁ら載籍を稽へ、涯涘を見ず。心平気和、崖異を立つること無く、一時の英偉卓犖の士皆心を帰す。少く卞急なりき。一日、孔子の言「躬自ら厚くして人を責むるに薄し」を誦し、忽ち平時の忿懥ふんち氷の如く解るを覚ゆ。朱熹嘗て言う、「学伯恭の如き、方に是れ能く気質を変化するなり」と。其の講画する所、将に物を開き務を成さんとす。既に病に臥すも、而して任重く道遠きの意衰えず。家に居るの政は、皆後世の法と為すべし。『読詩記』『大事記』を修む。皆未だ書を成さず。『古周易』『書説』『閫範』『官箴』『辨志録』『欧陽公本末』を考定す。皆世に行わる。晚年、友を会するの地を麗沢書院と曰う。金華城中に在り。既に歿す。郡人即ち之を祠す。子延年。

原文祖謙學以關、洛為宗,而旁稽載籍,不見涯涘。心平氣和,不立崖異,一時英偉卓犖之士皆歸心焉。少卞急,一日,誦孔子言:「躬自厚而薄責於人」,忽覺平時忿懥渙然冰釋。朱熹嘗言:「學如伯恭,方是能變化氣質。」其所講畫,將以開物成務,既臥病,而任重道遠之意不衰。居家之政,皆可為後世法。修《讀詩記》、《大事記》,皆未成書。考定《古周易》、《書說》、《閫範》、《官箴》、《辨誌錄》、《歐陽公本末》,皆行於世。晚年會友之地曰麗澤書院,在金華城中,既歿。郡人即而祠之。子延年。

蔡元定

原文蔡元定

蔡元定、字は季通、建州建陽の人。生まれながら穎悟、八歳にして詩を能くし、日に数千言を記す。父発、群書を博覧し、号して「牧堂老人」と曰い、程氏の『語録』、邵氏の『経世』、張氏の『正蒙』を以て元定に授け、曰く、「此れ孔・孟の正脈なり」と。元定深く其の義を涵む。既に長ずるに及び、辨析益々精し。西山の絶頂に登り、饑えを忍び薺を啖ひて読書す。

原文蔡元定,字季通,建州建陽人。生而穎悟,八歲能詩,日記數千言。父發,博覽群書,號「牧堂老人」,以程氏《語錄》、邵氏《經世》、張氏《正蒙》授元定,曰:「此孔、孟正脈也。」元定深涵其義。既長,辨析益精。登西山絕頂,忍饑啖薺讀書。

朱熹の名を聞き、往きて之に師事す。熹其の学を叩くに、大いに驚きて曰く、「此れ吾が老友なり、弟子の列に在るべからず」と。遂に対榻して諸経の奥義を講論し、毎に夜分に至る。四方来る学者には、熹必ず先ず元定に従ひ質正せしむ。太常少卿尤袤、秘書少監楊萬里、疏を聯ねて朝に薦む。之を召すも、堅く疾を以て辞す。西山に室を築き、将に終焉の計と為さんとす。

原文聞朱熹名,往師之。熹扣其學,大驚曰:「此吾老友也,不當在弟子列。」遂與對榻講論諸經奧義,每至夜分。四方來學者,熹必俾先從元定質正焉。太常少卿尤袤、祕書少監楊萬里聯疏薦於朝,召之,堅以疾辭。築室西山,將為終焉之計。

時に韓侂冑政を擅にし、偽学の禁を設け、以て善類を空しうす。台諫風に承け、専ら排撃を肆にす。然れども猶未だ敢えて言を誦して朱熹を攻むるに至らず。沈継祖・劉三傑言官と為るに至り、始めて疏を連ねて熹を詆し、並びに元定に及ぶ。元定学者劉礪に簡して曰く、「性を化し偽を起す、烏ぞ罪無からんや」と。未だ幾もなく、果たして道州に謫せらる。州県元定を捕うる甚だ急なり。元定命を聞き、家に辞せず即ち道に就く。熹と従遊する者数百人、蕭寺の中に餞別す。坐客歎息し、泣下する者有り。熹微かに元定を視るに、平時に異ならず。因りて喟然として曰く、「友朋相愛の情、季通挫けざるの志、両得と謂うべし」と。元定詩を賦して曰く、「手を執りて笑ひて相別れ、児女の悲しみを為す無かれ」と。衆、宜しく緩行すべしと謂うも、元定曰く、「天に罪を獲れば、天は逃る可けんや」と。杖屨其の子沈と同行すること三千里、脚流血と為るも、幾微も言面に見ゆること無し。

原文時韓侂胄擅政,設偽學之禁,以空善類。臺諫承風,專肆排擊,然猶未敢誦言攻朱熹。至沈繼祖、劉三傑為言官,始連疏詆熹,並及元定。元定簡學者劉礪曰:「化性起偽,烏得無罪!」未幾,果謫道州。州縣捕元定甚急,元定聞命,不辭家即就道。熹與從遊者數百人餞別蕭寺中,坐客興歎,有泣下者。熹微視元定,不異平時,因喟然曰:「友朋相愛之情,季通不挫之志,可謂兩得矣!」元定賦詩曰:「執手笑相別,無為兒女悲。」眾謂宜緩行,元定曰:「獲罪於天,天可逃乎?」杖屨同其子沉行三千里,腳為流血,無幾微見言面。

舂陵に至る。遠近より来る学者日増しに衆し。州の士子席下に趨りて以て講説を聴かざるは莫し。名士才を挟み簡傲にして前修を非笑する者も、亦心服して謁拜し、弟子の礼を執ること甚だ恭し。人の之が為に語るに曰く、「初めは敬せず、今は命を納る」と。元定を愛する者、宜しく生徒に謝すべしと謂うも、元定曰く、「彼学を以て来る、何ぞ忍びて之を拒まん。若し禍患有らば、亦た門を閉ざし竇を塞ぐの能く避くる所に非ざるなり」と。書を貽して諸子を訓えて曰く、「独り行いて影に愧じず、独り寝て衾に愧じず。吾が罪を得たる故を以て遂に懈る勿れ」と。一日、沈に謂ひて曰く、「客に謝す可し。吾安静を欲し、以て造化の旧物に還らん」と。三日を閲て卒す。侂冑既に誅せらる。贈迪功郎、諡を賜ひて「文節」と曰う。

原文至舂陵,遠近來學者日眾,州士子莫不趨席下以聽講說。有名士挾才簡傲、非笑前修者,亦心服謁拜,執弟子禮甚恭。人為之語曰:「初不敬,今納命。」愛元定者謂宜謝生徒,元定曰:「彼以學來,何忍拒之?若有禍患,亦非閉門塞竇所能避也。」貽書訓諸子曰:「獨行不愧影,獨寢不愧衾,勿以吾得罪故遂懈。」一日,謂沉曰:「可謝客,吾欲安靜,以還造化舊物。」閱三日卒。侂胄既誅,贈迪功郎,賜諡「文節」。

元定は書に於いて読まざる無く、事に於いて究めざる無し。義理大原を洞見し、下りて図書・礼楽・制度に至るまで、精妙ならざる無し。古書の奇辞奥義、人の能く暁らざる所の者、一たび目を過ぐれば輒ち解す。熹嘗て曰く、「人は易き書を読むも難く、季通は難き書を読むも易し」と。熹『四書』を疏釈し、及び『易』『詩』伝『通鑑綱目』を為すに、皆元定と往復参訂す。『啓蒙』一書は、則ち元定に属して起稿せしむ。嘗て曰く、「造化微妙なるは、惟だ理に深き者のみ能く之を識る。吾季通と言いて厭わず」と。葬に及び、文を以て之を誄して曰く、「精詣の識、卓絶の才、屈す可からざるの志、窮む可からざるの弁、復た得て見る可からず」と。学者之を尊んで「西山先生」と曰う。

原文元定於書無所不讀,於事無所不究。義理洞見大原,下至圖書、禮樂、制度,無不精妙。古書奇辭奧義,人所不能曉者,一過目輒解。熹嘗曰:「人讀易書難,季通讀難書易。」熹疏釋《四書》及為《易》、《詩》傳、《通鑒綱目》,皆與元定往復參訂。《啟蒙》一書,則屬元定起稿。嘗曰:「造化微妙,惟深於理者能識之,吾與季通言而不厭也。」及葬,以文誄之曰:「精詣之識,卓絕之才,不可屈之志,不可窮之辯,不復可得而見矣。」學者尊之曰「西山先生」。

其の平生問学は、多く熹の書集中に寓す。著する書に『大衍詳説』『律呂新書』『燕楽』『原弁』『皇極経世』『太玄潜虚指要』『洪範解』『八陣図説』有り。熹之が為に序す。

原文其平生問學,多寓於熹書集中。所著書有《大衍詳說》、《律呂新書》、《燕樂》、《原辯》、《皇極經世》、《太玄潛虛指要》、《洪範解》、《八陣圖說》,熹為之序。

子淵・沈、皆躬耕して仕えず。淵に『周易訓解』有り。

原文子淵、沉,皆躬耕不仕。淵有《周易訓解》。

子 沈

原文子 沉

沈、字は仲黙、少く朱熹に従ひ遊ぶ。熹晚年『書伝』を著さんと欲すも、未だ及ばず、遂に以て沈に属す。『洪範』の数は、学者久しく其の伝を失う。元定独り心得たり。然れども未だ論著に及ばず。曰く、「吾が書を成すは沈なり」と。沈は父師の託を受け、沈潜反復すること数十年、然る後に書を成し、先儒の未だ及ばざる所を発明す。其の『洪範』の数に於いて謂う、「天地の撰を体する者は『易』の象なり、天地の撰を紀する者は『範』の数なり。数は一奇に始まり、象は二偶に成る。奇は数の立つ所以なり、偶は数の行わる所以なり。故に二四にして八、是れ八卦の象なり。三三にして九、是れ九疇の数なり。是れ由りて八八にして又八八の四千九十六と為り、而して象備わり、九九にして又九九の六千五百六十一と為り、而して数周る。『易』は四聖を更へて象已に著わり、『範』は神禹に錫りて数伝わらず。後の作者、象数の原を昧にし、変通の妙を窒す。或いは象に即きて数と為し、或いは数に反して象を擬す。牽合傅会して、自然の数益々晦し」と。

原文沉,字仲默,少從朱熹遊。熹晚欲著《書傳》,未及為,遂以屬沉。《洪範》之數,學者久失其傳,元定獨心得之,然未及論著,曰:「成吾書者沉也。」沉受父師之託,沈潛反復者數十年,然後成書,發明先儒之所未及。其於《洪範》數,謂:「體天地之撰者《易》之象,紀天地之撰者《範》之數。數始於一奇,象成於二偶。奇者數之所以立,偶者數之所以行。故二四而八,八卦之象也;三三而九,九疇之數也。由是八八而又八八之為四千九十六,而象備矣;九九而又九九之為六千五百六十一,而數周矣。《易》更四聖而象已著,《範》錫神禹而數不傳。後之作者,昧象數之原,窒變通之妙,或即象而為數,或反數而擬象,牽合傅會,自然之數益晦焉。」

初め、元定に従ひて道州に謫せらる。跋渉数千里、楚・粤の窮僻の処を道ふ。父子相対し、常に理義を以て自ら怡悦す。元定歿し、徒歩して喪を護りて還る。之に金を遺して義受く可からざる者有れば、輒ち謝却し、之に曰く、「吾先人を累はすに忍びず」と。年僅か三十、挙子業を屏去し、一に聖賢を師と為す。九峰に隠居す。当世の名卿物色し将に薦用せんとすれども、沈屑として就かず。次子抗、別に伝有り。

原文始,從元定謫道州,跋涉數千里,道楚、粵窮僻處,父子相對,常以理義自怡悅。元定歿,徒步護喪以還。有遺之金而義不可受者,輒謝卻,之曰:「吾不忍累先人也。」年僅三十,屏去舉子業,一以聖賢為師。隱居九峰,當世名卿物色將薦用之,沉不屑就。次子抗,別有傳。

陸九齢

原文陸九齡

陸九齢、字は子壽。八世の祖は希聲、唐の昭宗に宰相として仕う。孫の德遷、五代の末、乱を避けて撫州の金溪に居を定む。父は賀、学行をもって里人の宗と為り、嘗て司馬氏の冠婚喪祭の儀を採りて家に行い、六子を生む。九齢は其の第五子なり。幼より穎悟にして端重、十歳にして母を喪い、哀毀すること成人の如し。稍く長じて、郡学の弟子員に補せらる。

原文陸九齡,字子壽。八世祖希聲,相唐昭宗。孫德遷,五代末,避亂居撫州之金溪。父賀,以學行為里人所宗,嘗采司馬氏冠昏喪祭儀行於家,生六子,九齡其第五子也。幼穎悟端重,十歲喪母,哀毀如成人。稍長,補郡學弟子員。

時に秦檜国政を当にし、程氏の学を道とする者無く、九齢独り其の説を尊ぶ。久しくして、新たに博士の黄老の学を学び、礼法を事とせざるを聞き、慨然として歎じて曰く、「此れ吾の願い学ぶ所に非ざるなり」と。遂に家に帰り、父兄に従い講学益々力を加う。是の時、吏部員外郎許忻中朝に名有り、臨川に退居し、賓接すること少く、一たび九齢を見、語を與えて大いに説び、尽く当代の文献を以て之に告ぐ。是より九齢益々学に大肆力を加え、百家を翻閲し、昼夜倦むこと無く、悉く陰陽・星暦・五行・卜筮の説を通ず。

原文時秦檜當國,無道程氏學者,九齡獨尊其說。久之,聞新博士學黃、老,不事禮法,慨然歎曰:「此非吾所願學也。」遂歸家,從父兄講學益力。是時,吏部員外郎許忻有名中朝,退居臨川,少所賓接,一見九齡,與語大說,盡以當代文獻告之。自是九齡益大肆力於學,翻閱百家,晝夜不倦,悉通陰陽、星曆、五行、卜筮之說。

性周謹にして、苟簡に渉獵するを肯ぜず。太学に入り、司業汪応辰挙げて学録と為す。乾道五年の進士第に登る。桂陽軍教授に調せらるも、親老いて道遠きを以て興国軍に改む。未だ上らず、湖南の茶寇廬陵を剽し、声旁郡に揺るぎ、人心震攝す。旧に義社有りて寇に備う。郡衆の請いに従い、九齢を以て之を主とす。門人多く悦ばず。九齢曰く、「文事武備は一なり。古に征討有りては、公卿即ち将帥と為り、比閭の長は則ち五両の率なり。士にして此れを恥づれば、則ち豪侠武断の者之を専らにす」と。遂に其の事を領し、調度屯禦皆法有り。寇至らずと雖も、郡県之を倚りて重しと為す。暇あれば則ち郷の子弟と射を習い、曰く、「是れ固より男子の事なり」と。歳悪しく、剽劫する者其の門を過ぐれば、必ず相戒めて曰く、「是の家は射多く命中す、自ら死を取ること無かれ」と。

原文性周謹,不肯苟簡涉獵。入太學,司業汪應辰舉為學錄。登乾道五年進士第。調桂陽軍教授,以親老道遠改興國軍,未上,會湖南茶寇剽廬陵,聲搖旁郡,人心震攝。舊有義社以備寇,郡從眾請,以九齡主之,門人多不悅。九齡曰:「文事武備,一也。古者有征討,公卿即為將帥,比閭之長,則五兩之率也。士而恥此,則豪俠武斷者專之矣。」遂領其事,調度屯禦皆有法。寇雖不至,而郡縣倚以為重。暇則與鄉之子弟習射,曰:「是固男子之事也。」歲惡,有剽劫者過其門,必相戒曰:「是家射多命中,無自取死。」

興国に至るに及び、地は大江に濱し、俗は儉嗇にして鮮かに学を知る。九齢職閑なるを以て自ら佚せず、益々規矩を厳にし、衣冠を肅し、大衆に臨むが如く、綏を勧め翼を引き、士類興起す。歳を満たさず、継母の憂いを以て去る。服除け、全州教授に調せらる。未だ上らず、疾を得る。一日晨に興き、床上に坐して客と語り、猶天下の学術人才を念とす。夕に至り、襟を整え正しく臥して卒す。年四十九。宝慶二年、特に朝奉郎・直秘閣を贈り、諡して「文達」と賜う。

原文及至興國,地濱大江,俗儉嗇而鮮知學。九齡不以職閑自佚,益嚴規矩,肅衣冠,如臨大眾,勸綏引翼,士類興起。不滿歲,以繼母憂去。服除,調全州教授。未上,得疾。一日晨興,坐床上與客語,猶以天下學術人才為念。至夕,整襟正臥而卒。年四十九。寶慶二年,特贈朝奉郎、直秘閣,賜諡「文達」。

九齢嘗て其の父の志を継ぎ、益々礼学を修め、家を治むるに法有り。闔門百口、男女は班を以て各其の職に供し、閨門の内は厳なること朝廷の若し。而して忠敬楽易、郷人之に化せられ、皆遜弟たり。弟九淵と相い師友と為り、和して同ぜず、学者「二陸」と号す。来たりて学を問う者有れば、九齢従容として啓告し、人々自得す。或いは語るに與ふべからざれば、則ち発せず。嘗て曰く、「人の惑うや口舌を以て争うに難き者有り、言の激しきは、適其の意を固くす。少しく需みば、未だ自ら悟らざる無からん」と。

原文九齡嘗繼其父志,益修禮學,治家有法。闔門百口,男女以班各供其職,閨門之內嚴若朝廷。而忠敬樂易,鄉人化之,皆遜弟焉。與弟九淵相為師友,和而不同,學者號「二陸」。有來問學者,九齡從容啟告,人人自得。或未可與語,則不發。嘗曰:「人之惑有難以口舌爭者,言之激,適固其意;少需,未必不自悟也。」

広漢の張栻は九齢と相識らず、晚年に書を以て講学し、世道の重きを期す。呂祖謙常に之を称して曰く、「志す所は大なり、拠る所は実なり。肯綮の阻み有れば、九仞の功を積むと雖も敢えて遂げず。毫𨤲の偏り有れば、万夫の表に立つと雖も敢えて安んぜず。公に聴き並びに観、却りて立ち四顧し、至平至粹の地に造らざれば措かず」と。兄に九韶有り。

原文廣漢張栻與九齡不相識,晚歲以書講學,期以世道之重。呂祖謙常稱之曰:「所志者大,所據者實。有肯綮之阻,雖積九仞之功不敢遂;有毫𨤲之偏,雖立萬夫之表不敢安。公聽並觀,卻立四顧,弗造於至平至粹之地,弗措也。」兄九韶。

兄 九韶

原文兄 九韶

九韶、字は子美。其の学淵粹なり。山中に隠居し、昼の言行は、夜必ず之を書す。其の家累世義居し、一人最も長なる者を家長と為し、一家の事は命を之に聴く。歳毎に子弟を遷して家事を分任せしめ、凡そ田疇・租税・出納・庖爨・賓客の事は、各主する者有り。九韶は訓戒の辞を韻語と為し、晨に興き、家長衆子弟を率いて先祠を謁し畢り、鼓を撃ちて其の辞を誦し、列をして之を聴かしむ。子弟過ち有れば、家長衆子弟を会して責めて之を訓じ、改めざれば則ち之を撻ち、終に改めざれば、容るべからざるを度り、則ち官府に言い、之を遠方に屏う。九韶の著す所に『梭山文集』・『家制』・『州郡図』有り。

原文九韶,字子美。其學淵粹。隱居山中,晝之言行,夜必書之。其家累世義居,一人最長者為家長,一家之事聽命焉。歲遷子弟分任家事,凡田疇、租稅、出內、庖爨、賓客之事,各有主者。九韶以訓戒之辭為韻語,晨興,家長率眾子弟謁先祠畢,擊鼓誦其辭,使列聽之。子弟有過,家長會眾子弟責而訓之,不改,則撻之,終不改,度不可容,則言之官府,屏之遠方焉。九韶所著有《梭山文集》、《家制》、《州郡圖》。

陸九淵

原文陸九淵

陸九淵、字は子靜。生れて三四歳、其の父に天地何れの所にか窮際するかと問う。父笑いて答えず。遂に深く思い、寝食を忘るるに至る。総角に及び、挙止凡児に異なり、見る者之を敬す。人に謂いて曰く、「人の伊川の語を誦するを聞き、自ら覚ゆるに我を傷つくるが若し」と。又曰く、「伊川の言、何為れぞ孔子・孟子の言と類せざる。近く其の間多く是れざる処有るを見る」と。初め『論語』を読みて、即ち有子の言の支離なるを疑う。他日古書を読みて、「宇宙」の二字に至る。解する者曰く、「四方上下を宇と曰い、往古来今を宙と曰う」と。忽ち大いに省みて曰く、「宇宙内の事は乃ち己が分内の事、己が分内の事は乃ち宇宙内の事なり」と。又嘗て曰く、「東海に聖人の出ずる有り、此の心同じく、此の理同じし。西海・南海・北海に聖人の出ずるに至りても亦た然らざる莫し。千百世の上に聖人の出ずる有り、此の心同じく、此の理同じし。千百世の下に聖人の出ずるに至りても、此の心此の理、亦た同じからざる無し」と。

原文陸九淵,字子靜。生三四歲,問其父天地何所窮際,父笑而不答。遂深思,至忘寢食。及總角,舉止異凡兒,見者敬之。謂人曰:「聞人誦伊川語,自覺若傷我者。」又曰:「伊川之言,奚為與孔子、孟子之言不類?近見其間多有不是處。」初讀《論語》,即疑有子之言支離。他日讀古書,至「宇宙」二字,解者曰:「四方上下曰宇,往古來今曰宙」,忽大省曰:「宇宙內事乃己分內事,己分內事乃宇宙內事。」又嘗曰:「東海有聖人出焉,此心同也,此理同也。至西海、南海、北海有聖人出,亦莫不然。千百世之上有聖人出焉,此心同也,此理同也。至於千百世之下有聖人出,此心此理,亦無不同也。」

後に乾道八年の進士第に登る。行在に至り、士争いて之に従いて遊ぶ。言論感発し、聞いて興起する者甚だ衆し。人を教うるに学規を用いず、小過有れば、言其の情に中り、或いは流汗に至る。中に懐いて自ら暁らざる者あれば、之が為に其の故を条析し、悉く其の心の如し。亦た相去ること千里、其の大概を聞きて其の人を得る者あり。嘗て曰く、「念慮の正しからざる者は、頃刻にして之を知り、即ち以て正すべし。念慮の正しき者は、頃刻にして之を失えば、即ち正しからずと為る。形迹を以て観るべき者有り、不可なる者有り。形迹を以て人を観れば、則ち以て人を知るに足らず。必ず形迹を以て人を繩すれば、則ち以て之を救うに足らず」と。初め隆興靖安県主簿に調せらる。母の憂いに丁り、服闋け、建寧崇安県に改む。少師史浩の薦めに以て、召し審察せらるも赴かず。侍従復た薦め、国子正を除し、諸生を教うること在家の時に異ならず。敕令所刪定官を除す。

原文後登乾道八年進士第。至行在,士爭從之遊。言論感發,聞而興起者甚眾。教人不用學規,有小過,言中其情,或至流汗。有懷於中而不能自曉者,為之條析其故,悉如其心。亦有相去千里,聞其大概而得其為人。嘗曰:「念慮之不正者,頃刻而知之,即可以正。念慮之正者,頃刻而失之,即為不正。有可以形迹觀者,有不可。以形迹觀人,則不足以知人。必以形迹繩人,則不足以救之。」初調隆興靖安縣主簿。丁母憂,服闋,改建寧崇安縣。以少師史浩薦,召審察,不赴。侍從復薦,除國子正,教諸生無異在家時。除敕令所刪定官。

九淵少くして靖康間の事を聞き、慨然として復讐の義に感有り。是に至り、勇士を訪ね知り、之と恢復の大略を議す。輪対に因り、遂に五論を陳ず。一に仇恥未だ復せざるを論じ、願わくは天下の俊傑を博く求め、相与に論道経邦の職を挙げんことを。二に願わくは尊徳楽道の誠を致さんことを論ず。三に人の知り難きを論ず。四に事は当に馴致すべくして驟るべからざるを論ず。五に人主細事に親しむべからざるを論ず。帝善しと称す。未だ幾ばくもあらず、将作監丞を除す。給事中王信に駁せられ、詔して台州崇道観を主管せしむ。郷に還り、学者輻湊し、毎に講席を開けば、戸外屨満ち、耆老杖を扶けて観聴す。自ら「象山翁」と号し、学者「象山先生」と称す。嘗て学者に謂いて曰く、「汝が耳自ずから聡く、目自ずから明らかに、父に事うる自ずから能く孝に、兄に事うる自ずから能く弟たり、本より欠闕無し、必ずしも他の求めに在らず、自立するに在るのみ」と。又曰く、「此の道は利欲に溺るるの人に言うは猶易く、意見に溺るるの人に言うは却って難し」と。或いは九淵に著書を勧む。曰く、「『六経』我を注す、我『六経』を注す」と。又曰く、「学苟くも道を知らば、『六経』皆我が注脚なり」と。

原文九淵少聞靖康間事,慨然有感於復仇之義。至是,訪知勇士,與議恢復大略。因輪對,遂陳五論:一論仇恥未復,願博求天下之俊傑,相與舉論道經邦之職;二論願致尊德樂道之誠;三論知人之難;四論事當馴致而不可驟;五論人主不當親細事。帝稱善。未幾,除將作監丞,為給事中王信所駁,詔主管台州崇道觀。還鄉,學者輻湊,每開講席,戶外屨滿,耆老扶杖觀聽。自號「象山翁」,學者稱「象山先生」。嘗謂學者曰:「汝耳自聰,目自明,事父自能孝,事兄自能弟,本無欠闕,不必它求,在乎自立而已。」又曰:「此道與溺於利欲之人言猶易,與溺於意見之人言卻難。」或勸九淵著書,曰:「《六經》注我,我注《六經》。」又曰:「學苟知道,《六經》皆我注腳。」

光宗が即位すると、荊門軍の知事に任命された。民に訴えある者は、朝晩を問わず、皆庭に至ることを得、またその自ら状を持って追うことを命じ、期日を立てると、皆約束通りに至り、即ち情状を酌量してこれを決し、多くは勧めて釈放した。人倫に渉るものは、自らその状を毀つことをさせ、以て風俗を厚くした。ただ訓戒に堪えざる者のみ、始めて法に置いた。その境内の官吏の貪廉、民俗の習尚の善悪は、皆平素より知っていた。人がその子を殺したと訴える者がいたが、九淵は「そこまでは至らない」と言った。追及して調べると、その子は果たして無事であった。窃盗を訴えてその人を知らない者がいたが、九淵は二人の姓名を出し、捕らえて来るよう命じ、訊問して罪を認めさせ、窃盗した物を全て得て訴え主に返し、かつその罪を宥めて自新させた。因みに吏に、某所の某人が暴虐であると語った。翌日、奪掠に遭ったと訴える者がおり、即ちその人であったので、追及して処罰した。吏は大いに驚き、郡人は神の如しと思った。保伍の法を厳しく申し、盗賊が発生すれば、これを擒らえて一人も逃さず、群盗は息を潜めた。

原文光宗即位,差知荊門軍。民有訴者,無早暮,皆得造於庭,復令其自持狀以追,為立期,皆如約而至,即為酌情決之,而多所勸釋。其有涉人倫者,使自毀其狀,以厚風俗。唯不可訓者,始置之法。其境內官吏之貪廉,民俗之習尚善惡,皆素知之。有訴人殺其子者,九淵曰:「不至是。」及追究,其子果無恙。有訴竊取而不知其人,九淵出二人姓名,使捕至,訊之伏辜,盡得所竊物還訴者,且宥其罪使自新。因語吏以某所某人為暴,翌日有訴遇奪掠者,即其人也,乃加追治。吏大驚,郡人以為神。申嚴保伍之法,盜賊或發,擒之不逸一人,群盜屏息。

荊門は次辺でありながら城壁がなかった。九淵は「郡は江・漢の間に位置し、四方から集まる地であり、南は江陵を捍ぎ、北は襄陽を援け、東は随・郢の脇を護り、西は光化・夷陵の衝に当たる。荊門が堅固であれば四隣は恃むところがあり、そうでなければ背肋腹心の憂いがある。唐の湖陽より山に趨れば、その漢水を渉る処は既に荊門の脇にあり、鄧の鄧城より漢水を渉れば、その山に趨る処は既に荊門の腹にある。これ以外にも、間道として馳せられる所、漢津として渉れる所、坡陀が馬を限らず、灘瀬が軌を濡らさざる所は、所在尚お多い。我より奇を出して勝を制し、敵兵の腹肋を徼うるも、亦正に此処に在り。四山環合して備え禦ぎ易いとは雖も、城池闕然として誰と守らんとするか」と考えた。そこで朝廷に請うて城壁を築かせ、これより民に辺境の憂い無し。関市の吏の検察を罷めて民税を減じ、商賈は畢く集まり、税入は日増しに増えた。旧来は銅銭を用いていたが、辺境に近いため、鉄銭に替え、かつ銅は禁じられ、更に貼納を命じていた。九淵は「既に禁じたのに、またこれを輸納させるのか」と言い、全て免除した。故事により、平時には軍伍に射を教え、郡民も参与でき、当たれば均しく賞し、その属を推薦するに流品を限らなかった。嘗て「古には流品の分無く、而して賢不肖の弁厳なり。後世には流品の分有り、而して賢不肖の弁略なり」と言った。旱魃の度に祈れば即ち雨が降り、郡人はこれを異とした。一年余りを経て、政は行き令は修まり、民俗も変わり、諸司が交えて推薦した。丞相周必大は嘗て荊門の政を称え、躬行の効と為した。

原文荊門為次邊而無城。九淵以為:「郡居江、漢之間,為四集之地,南捍江陵,北援襄陽,東護隨、郢之肋,西當光化、夷陵之衝,荊門固則四鄰有所恃,否則有背肋腹心之虞,由唐之湖陽以趨山,則其涉漢之處已在荊門之脅;由鄧之鄧城以涉漢,則其趨山之處已在荊門之腹。自此之外,間道之可馳,漢津之可涉,坡陀不能以限馬,灘瀨不能以濡軌者,所在尚多。自我出奇制勝,徼敵兵之腹肋者,亦正在此。雖四山環合,易於備禦,而城池闕然,將誰與守?」乃請於朝而城之,自是民無邊憂。罷關市吏譏察而減民稅,商賈畢集,稅入日增。舊用銅錢,以其近邊,以鐵錢易之,而銅有禁,復令貼納。九淵曰:「既禁之矣,又使之輸邪?」盡蠲之。故事,平時教軍伍射,郡民得與,中者均賞,薦其屬不限流品。嘗曰:「古者無流品之分,而賢不肖之辨嚴;後世有流品之分,而賢不肖之辨略。」每旱,禱即雨,郡人異之。逾年,政行令修,民俗為變,諸司交薦。丞相周必大嘗稱荊門之政,以為躬行之效。

ある日、親しい者に語って「先教授兄(陸九齢)は天下に志有りしも、竟に施すを得ずして没す」と言い、また家人に「吾将に死せんとす」と言い、また僚属に告げて「某将に終わりを告げん」と言った。雪を祈る祭事に会し、明日、雪が降った。乃ち沐浴し衣を更えて端坐し、二日後の日の正中に卒した。葬儀に会した者は数千に及び、諡して「文安」と為した。

原文一日,語所親曰:「先教授兄有志天下,竟不得施以沒。」又謂家人曰:「吾將死矣。」又告僚屬曰:「某將告終。」會禱雪,明日,雪。乃沐浴更衣端坐,後二日日中而卒。會葬者以千數,諡「文安」。

初め、九淵は嘗て朱熹と鵝湖に会し、学ぶ所を論弁して多く合わなかった。及んで熹が南康を守る時、九淵がこれを訪ね、熹は彼を伴って白鹿洞に至り、九淵は君子小人が義利を喩える一章を講じ、聴く者は涙を流す者さえあった。熹は学者の隠微深痼の病を切中するものと為した。無極而して太極の弁に至っては、則ち書を貽し往来し、論難措かず。門人楊簡・袁燮・舒璘・沈煥能く其の学を伝えたという。

原文初,九淵嘗與朱熹會鵝湖,論辨所學多不合。及熹守南康,九淵訪之,熹與至白鹿洞,九淵為講君子小人喻義利一章,聽者至有泣下。熹以為切中學者隱微深痼之病。至於無極而太極之辨,則貽書往來,論難不置焉。門人楊簡、袁燮、舒璘、沈煥能傳其學云。

薛季宣

原文薛季宣

薛季宣、字は士龍、永嘉の人。起居舍人徽言の子。徽言が卒した時、季宣は六歳で、伯父の敷文閣待制弼が引き取って養育した。弼に従って官遊し、渡江の諸老に及んで見え、中興の経理の大略を聞いた。老校・退卒の語に従うことを喜び、岳飛・韓世忠ら諸将の兵間の事を甚だ詳しく得た。十七歳の時、荊南帥の辟書に起ち従い機宜文字を書き、袁溉に事えることを得た。溉は嘗て程頤に学び、その学を尽くして彼に授けた。季宣は溉の学を得てより、古の封建・井田・郷遂・司馬法の制について、研究講画せざる無く、皆時に可行なものと為した。

原文薛季宣,字士龍,永嘉人。起居舍人徽言之子也。徽言卒時,季宣始六歲,伯父敷文閣待制弼收鞠之。從弼宦遊,及見渡江諸老,聞中興經理大略。喜從老校、退卒語,得岳、韓諸將兵間事甚悉。年十七,起從荊南帥辟書寫機宜文字,獲事袁溉。溉嘗從程頤學,盡以其學授之。季宣既得溉學,於古封建、井田、鄉遂、司馬法之制,靡不研究講畫,皆可行於時。

金兵の未だ至らざる時、武昌令劉錡が鄂渚を鎮めていた。季宣は錡に、武昌の形勢は淮・蔡に直通し、兵寡く勢弱し、早く備えを為すべしと述べたが、錡は聴かなかった。兵が交わるに及んで、少しずつ季宣の計画を資とした。未だ幾ばくもせず、汪澈が荊襄を宣諭し、金兵が江上に趨ると、詔して成閔に還師入援せしめた。季宣はまた澈に、閔は既に蔡を得て破竹の勢い有り、便宜を守って遣わさず、その乗勝に乗じて潁昌を下し、陳・汝を経て汴都に趨らしめ、金が内顧して且つ驚潰すれば、戦わずしてその兵を屈せしめ得ると説いた。澈は聴かなかった。

原文金兵之未至也,武昌令劉錡鎮鄂渚。季宣白錡,以武昌形勢直淮、蔡,而兵寡勢弱,宜早為備,錡不聽。及兵交,稍稍資季宣計畫。未幾,汪澈宣諭荊襄,而金兵趨江上,詔成閔還師入援。季宣又說澈以閔既得蔡,有破竹之勢,宜守便宜勿遣,而令其乘勝下潁昌,道陳、汝,趨汴都,金內顧且驚潰,可不戰而屈其兵矣。澈不聽。

当時、江・淮の仕官者は金兵の将に至らんとするを聞き、皆予めその奴を遣わし、馬を庭に繋いで待った。季宣は独り家を留め、民と期して「吾が家は即ち汝が家なり、即ち急有らば、吾は汝と偕に死せん」と言った。民も亦自ら奮った。県には盗賊多く、季宣はこれを患い、伍民の令有るに会し、乃ち保伍法を行い、五家を保と為し、二保を甲と為し、六甲を隊と為し、地形の便に因って総に合し、郷を限とせず、総首・副総首がこれを率いた。官族・士族・富族は皆保に附し、その身を蠲免し、財を輸して総の小用に供せしめた。諸総には必ず圃を設けて射を習わせ、蒱博雑戯を禁じ、武事を以て勝負を角することを許し、五日毎に庭に至ってこれを閲し、特に優れた者を賞した。不幸にして死者あれば棺を与え、その家を三年間復除した。郷には楼を置き、盗賊発生すれば鼓を伐り烽を挙げ、瞬息にして百里に遍くした。県治・白鹿磯・安楽口には皆戍を置いた。また宣諭司に請うて、戦艦十、甲三百を得、これを羅落した。守りの計定まり、兵の退く迄、人心揺るがず。

原文時江、淮仕者聞金兵且至,皆預遣其奴而繫馬於庭以待。季宣獨留家,與民期曰:「吾家即汝家,即有急,吾與汝偕死。」民亦自奮。縣多盜,季宣患之,會有伍民之令,乃行保伍法,五家為保,二保為甲,六甲為隊,因地形便合為總,不以鄉為限,總首、副總首領之。官族、士族、富族皆附保,蠲其身,俾輸財供總之小用。諸總必有圃以習射,禁蒱博雜戲,而許以武事角勝負,五日更至庭閱之,而賞其尤者;不幸死者予棺,復其家三年。鄉置樓,盜發,伐鼓舉烽,瞬息遍百里。縣治、白鹿磯、安樂口皆置戍。復請於宣諭司,得戰艦十,甲三百,羅落之。守計定,訖兵退,人心不搖。

枢密使王炎が朝廷に推薦し、召されて大理寺主簿と為った。未だ至らざる内に、書を為って炎に謝し「主上は天資英特なり。群臣に将順緝熙の具無し。幸いに時に遭いながら、心を格し始めを正し、以て中興の業を建つる能わず、徒らに僥倖して功利を求め、誇言を以て俗を眩わす。中夏を復すと雖も、猶お益無し。今の計たる、仁義紀綱を本と為すに若くは莫し。兵を用いるに至っては、十年の後を俟つべしと請う」と言った。

原文樞密使王炎薦於朝,召為大理寺主簿,未至,為書謝炎曰:「主上天資英特,群臣無將順緝熙之具,幸得遭時,不能格心正始,以建中興之業,徒僥倖功利,誇言以眩俗,雖復中夏,猶無益也。為今之計,莫若以仁義紀綱為本。至於用兵,請俟十年之後可也。」

当時、江・湖は大旱し、流民が北へ江を渡り、辺吏はまた淮北の民に塞ぎに款く者多しと奏した。宰相虞允文は季宣を淮西に行かせ、以て実辺に収めんと白し遣わした。季宣は表を為って廃田を挙げ、原隰を相し、合肥の三十六圩を復し、黄州の故治東北に二十二荘を立て、戸に屋を授け、丁に田を授け、牛及び田器穀種を頒つに各差有り、その家を廩して秋に至って止めた。凡そ戸六百八十有五を為し、合肥・黄州の間に分処し、辺に並ぶ帰正者を振業した。季宣は人に謂って「吾は今日の利の為に非ず。合肥の圩は、辺に警有れば、因って以て柵江を断ち、巢湖を保つ。黄州の地は蔡の衝に直し、諸荘が輯まれば西道に屏蔽有り」と言った。光州守宋端友は北帰者を招集して僅か五戸に止まり、旧戸を雑えて一百七十戸と為し、幸賞を以て奏した。季宣は按じてその実を得てこれを劾した。当時、端友は環列に附託して撼がし難く、季宣が奏上すると、孝宗怒り、大理に属して治めしめ、端友は憂いて死した。

原文時江、湖大旱,流民北渡江,邊吏復奏淮北民多款塞者,宰相虞允文白遣季宣行淮西,收以實邊。季宣為表廢田,相原隰,復合肥三十六圩,立二十二莊於黃州故治東北,以戶授屋,以丁授田,頒牛及田器穀種各有差,廩其家,至秋乃止。凡為戶六百八十有五,分處合肥、黃州間,並邊歸正者振業之。季宣謂人曰:「吾非為今日利也。合肥之圩,邊有警,因以斷柵江,保巢湖。黃州地直蔡衝,諸莊輯則西道有屏蔽矣。」光州守宋端友招集北歸者止五戶,而雜舊戶為一百七十,奏以幸賞,季宣按得其實而劾之。時端友為環列附託難撼,季宣奏上,孝宗怒,屬大理治,端友以憂死。

季宣が帰還し、孝宗に言上して曰く、「左右の者で進言する者は、その真情を察せざるべからず。正を託して邪を行い、直を偽って佞を売り、人物を推薦・退けるに、かつて公言せず、遊説して中傷するは、乃ち自ら意に介さず。一旦号令は中より出ずるといえども、その権は既に私門に帰す。故に斉の威王の覇たる所以は、阿・即墨の誅賞に在らずして、毀誉する者の刑罰に在り。臣、近時の政を観るに、阿・即墨の誅賞無きに非ざるも、奈何ぞ毀誉の人は自若たるや」と。帝曰く、「朕方にこれを図らんとす」と。

原文季宣還,言於孝宗曰:「左右之人進言者,其情不可不察也。託正以行邪,偽直以售佞,薦退人物,曾非誦言,遊揚中傷,乃自不意。一旦號令雖自中出,而其權已歸私門矣。故齊威之霸,不在阿、即墨之誅賞,而在毀譽者之刑。臣觀近政,非無阿、即墨之誅賞,奈何毀譽之人自若乎?」帝曰:「朕方圖之。」

季宣また進言して曰く、「日に淮の諸郡を城すと、臣の見る所に依れば、合肥の板幹(城壁の骨組み)方に立ち、中使が督視するも、卒卒としてこれを成す。臣が郡を行き過ぎし時、一夕の風雨にて、楼櫓五堵堕つ。溧陽の南壁は欠け、而して居巢は卑陋なること旧の如く、乃ち聞く、銭巨万を靡(費)やして城四十余丈を成す者有りと。陛下何ぞ此れを取らん!然れども外事は足るに道うる無く、咎の根未だ除かれず、臣の深く憂うる所なり。左右の近侍、陰に正士を擠(排)して陽にこれを称道し、陛下倘もし貌言に因りてこれを聴かば、臣、石顕・王鳳・鄭注の智中(計略に陥る)を恐る」と。又言う、「近時或いは好名を以て士大夫を棄つ。夫れ好名は特ただ臣子の学問の累わずらいなり。人主、社稷の為に計るには、唯だ士の名を好まざるを恐る。誠に人々名を好み義を畏れんか、何の郷か立たざらん」と。帝善しと称し、季宣を得るの遅きを恨み、遂に両官を進め、大理正に除す。

原文季宣又進言曰:「日城淮郡,以臣所見,合肥板幹方立,中使督視,卒卒成之。臣行過郡,一夕風雨,墮樓五堵。溧陽南壁闕,而居巢庳陋如故,乃聞有靡錢鉅萬而成城四十餘丈者。陛下安取此!然外事無足道,咎根未除,臣所深憂。左右近侍,陰擠正士而陽稱道之,陛下倘因貌言而聽之,臣恐石顯、王鳳、鄭注之智中也。」又言:「近或以好名棄士大夫,夫好名特為臣子學問之累。人主為社稷計,唯恐士不好名,誠人人好名畏義,何鄉不立?」帝稱善,恨得季宣晚,遂進兩官,除大理正。

是より此れ、凡そ奏請論薦は皆報可す。虞允文が闕失を諱むを以て、これを楽しまず。居ること七日、出でて湖州を知る。会たまたま戸部が歴(帳簿)を場務に付し、錙銖わずかなものも皆分隷して経総制に属せしむ。諸郡束手して策無く、季宣朝に言う、「経総制の額を立てしより、州県は鑿空(無理に理由を設け)して贏(余剰)を取る。法を奉ずる吏有りと雖も、寛弛を思うも騁ほしいままにするを得ず。若し復た額外にその強半を征せば、郡の調度顧みて何れの所よりか出でん?殆ど復た巧みに民より取るに至らん。民何を以てか勝えん!」と。戸部譙責すること愈いよいよ急なり、季宣これを争うこと愈強く、台諫交わって疏を上しこれを助く。乃ち前の令を収む。

原文自是,凡奏請論薦皆報可。以虞允文諱闕失,不樂之。居七日,出知湖州,會戶部以歷付場務,錙銖皆分隸經總制,諸郡束手無策,季宣言於朝曰:「自經總制立額,州縣鑿空以取贏,雖有奉法吏思寬弛而不得騁。若復額外征其強半,郡調度顧安所出?殆復巧取之民,民何以勝!」戶部譙責愈急,季宣爭之愈強,臺諫交疏助之,乃收前令。

改めて常州を知らしむ。未だ上(赴任)せずして卒す。年四十。季宣は『詩』『書』『春秋』『中庸』『大学』『論語』に於いて皆訓義有り、家に蔵す。その雑著を『浪語集』と曰う。

原文改知常州,未上,卒,年四十。季宣於《詩》、《書》、《春秋》、《中庸》、《大學》、《論語》皆有訓義,藏於家。其雜著曰《浪語集》。

陳傅良

原文陳傅良

陳傅良、字は君挙、温州瑞安の人。初め科挙の程文の弊を患え、その説を出して文章と為し、自ら一家を成す。人争いて伝誦し、従う者雲の合うが如し。ここによりその文は当世に擅ほしいままなり。当是の時、永嘉の鄭伯熊・薛季宣皆学行を以て聞こえ、而して伯熊は古人の経制治法に於いて、討論尤も精し。傅良は皆これに師事し、而して季宣の学を得ること多し。太学に入るに及び、広漢の張栻・東萊の呂祖謙と友善なり。祖謙は為に本朝の文献相承の条序を言い、而して主敬集義の功は栻に得ること多し。是より此れ四方より業を受くる者愈いよいよ衆し。

原文陳傅良,字君舉,溫州瑞安人。初患科舉程文之弊,思出其說為文章,自成一家,人爭傳誦,從者雲合,由是其文擅當世。當是時,永嘉鄭伯熊、薛季宣皆以學行聞,而伯熊於古人經制治法,討論尤精,傅良皆師事之,而得季宣之學為多。及入太學,與廣漢張栻、東萊呂祖謙友善。祖謙為言本朝文獻相承條序,而主敬集義之功得於栻為多。自是四方受業者愈眾。

進士甲科に登り、泰州を教授す。参知政事龔茂良その才を認め、朝に薦む。太学録に改む。出でて福州を通判す。丞相梁克家帥事を領し、成すことを傅良に委ぬ。傅良一府の曲直を平らかにし、一に義を以てす。強禦(権勢)の者はその私を売るを得ず、陰に言官を結びてこれを論罷せしむ。

原文登進士甲科,教授泰州。參知政事龔茂良才之,薦於朝,改太學錄。出通判福州。丞相梁克家領帥事,委成於傅良,傅良平一府曲直,壹以義。強禦者不得售其私,陰結言官論罷之。

後五年、起きて桂陽軍を知る。光宗立ち、稍ようやく提挙常平茶塩・転運判官に遷る。湖湘の民に後あとつぎ無く、異姓を以て嗣つぐ者、官その資(財産)を利し、輒すなわちこれを没入す。傅良曰く、「人の嗣を絶つは、政に非ざるなり」と。これを復すこと幾ほぼ二千家。浙西提点刑獄に転ず。吏部員外郎に除す。朝を去ること十四年、是に至りて帰る。鬚鬢に黒き者無く、都人の聚あつまり観て嗟歎し、「老陳郎中」と号す。

原文後五年,起知桂陽軍。光宗立,稍遷提舉常平茶鹽、轉運判官。湖湘民無後,以異姓以嗣者,官利其貲,輒沒入之。傅良曰:「絕人嗣,非政也。」復之幾二千家。轉浙西提點刑獄。除吏部員外郎,去朝十四年,至是而歸,鬚鬢無黑者,都人聚觀嗟歎,號「老陳郎中」。

傅良の学を為すや、三代・秦・漢以下に靡およびて研究せざる無く、一事一物、必ず極に稽かんがえて後已む。而して太祖の開創の本原に於いては、尤も潜ひそかに心を用う。是に及び、輪対に因り、言う、「太祖皇帝は後人に裕ゆとりを垂れ、民力を愛惜するを本とす。熙寧以来、用事者始めて太祖の約束を取り、一切紛更す。諸路の上供の歳額は、祥符の一倍に増す。崇寧に上供格を重修し、これを天下に頒ち、率おおよそ十数倍に増至る。その他の雑斂は、則ち熙寧に常平寛剩・禁軍闕額の類を以て、別項封樁として額無し。上供は元豊に起こり、経制は宣和に起こり、総制・月樁は紹興に起こり、皆今に至るまで額と為る。折帛・和買の類は又与あずからず。茶引は尽く都茶場に帰し、塩鈔は尽く榷貨務に帰し、秋苗斗斛の十八九は綱運に帰し、皆州県に在らず。州県供する無くんば、則ち豪奪を民にす。ここに於いてこれを斛面・折変・科敷・抑配・贓罰より取り、而して民困窮極まれり。方今の患、何ぞ但だ四夷のみならんや?蓋し天命の永からんや永からざるやは、民力の寛なるや寛ならざるやに在るのみ。豈に甚だ畏るべからずや?陛下宜しく民の窮を救うを己が任と為し、太祖の未だ泯ほろびざる沢を推行し、以て万世無疆の休よろこびと為すべし」と。

原文傅良為學,自三代、秦、漢以下靡不研究,一事一物,必稽於極而後已。而於太祖開創本原,尤為潛心。及是,因輪對,言曰:「太祖皇帝垂裕後人,以愛惜民力為本。熙寧以來,用事者始取太祖約束,一切紛更之。諸路上供歲額,增於祥符一倍。崇寧重修上供格,頒之天下,率增至十數倍。其它雜斂,則熙寧以常平寬剩、禁軍闕額之類,別項封樁而無額。上供起於元豐,經制起於宣和,總制、月樁起於紹興,皆迄今為額,折帛、和賈之類又不與焉。茶引盡歸於都茶場,鹽鈔盡歸於榷貨務,秋苗斗斛十八九歸於綱運,皆不在州縣。州縣無以供,則豪奪於民,於是取之斛面、折變、科敷、抑配、贓罰,而民困極矣。方今之患,何但四夷?蓋天命之永不永,在民力之寬不寬耳,豈不甚可畏哉?陛下宜以救民窮為己任,推行太祖未泯之澤,以為萬世無疆之休。」

且つ言う、「今天下の力は兵を養うに竭つき、而して江上の軍に甚だしきは莫し。都統司はこれを御前軍馬と謂い、朝廷と雖も知るを得ず。総領の謂う所の大軍錢糧は、版曹と雖も与あずかるを得ず。ここに於いて中外の勢分かれ、而して事権一ならず、施行専らならず。民を寛にせんと欲すと雖も、その道由より無し。誠に都統司の兵をして向さきに制置司に在りし時に異ならしめ、総領所の財をして向に転運司に在りし時に異ならしめば、則ち内外一体と為る。内外一体なれば、則ち民力を寛にすることを得て議すべし」と。帝従容として嘉納し、且つこれを労ねぎらいて曰く、「卿昔むかし安いずくにか在りし。朕見ざること久し。その著す所の書を以て朕に示せ」と。退きて『周礼説』十三篇を上る。秘書少監兼実録院検討官・嘉王府賛読に遷す。

原文且言:「今天下之力竭於養兵,而莫甚於江上之軍。都統司謂之御前軍馬,雖朝廷不得知;總領所謂之大軍錢糧,雖版曹不得與。於是中外之勢分,而事權不一,施行不專,雖欲寬民,其道無由。誠使都統司之兵與向者在制置司時無異,總領所之財與向者在轉運司時無異,則內外為一體。內外一體,則寬民力可得而議矣。」帝從容嘉納,且勞之曰:「卿昔安在?朕不見久矣。其以所著書示朕。」退,以《周禮說》十三篇上之,遷秘書少監兼實錄院檢討官、嘉王府贊讀。

紹熙三年、起居舎人に除す。明年、兼ねて権中書舎人と為す。初め、光宗の妃黄氏寵有り、李皇后これを妬みて殺す。光宗既にこれを聞き、而して復た郊祀の大風雨に因り、遂に震懼して心疾を得、是より此れ章疏を視ること時ならず。ここにおいて傅良奏して曰く、「一国の勢は身の如し。壅底(ふさがり滞)れば則ち疾を致す。今日は某の事を遷延し、明日は某の人を阻節す。即ち姦険有りて時に乗じて利と為せば、則ち内外の情接せず、威福の柄下に移る。その極み天変告げず、辺警聞かざるに至り、禍且つ測るべからず」と。帝悟り、会疾も亦稍平らぎ、重華宮に過おもむく。而して明年の重明節、復た疾を以て往かず。丞相以下太学の諸生に至るまで皆力諫す。聴かず。而して方まさに内侍陳源を召して内侍省押班と為さんとす。傅良詞を草せず、且つ上疏して曰く、「陛下の宮に過かざるは、特誤って疑う所有りて積憂疾を成し、以て此れに至るのみ。臣嘗て陛下の心に即き反覆これを論ず。窃ひそかに自ら深切と謂う。陛下亦既にこれを許す。未幾まもなく中変し、誤りを実と為し、而して端無き釁きずを開き、疑いを真と為し、而して療いやさざる疾を成す。是れ陛下自ら禍を貽のこすなり」と。書奏す。帝将にこれに従わんとす。百官班立して、帝の出づるを俟つ。御屏に至る。皇后帝を引き回す。傅良遂に趨り上りて裾を引く。后これに叱す。傅良庭に哭す。后益怒る。傅良下殿し径ただちに行く。詔して秘閣修撰に改め仍なお賛読を兼ぬ。受けず。

原文紹熙三年,除起居舍人。明年,兼權中書舍人。初,光宗之妃黃氏有寵,李皇后妒而殺之。光宗既聞之,而復因郊祀大風雨,遂震懼得心疾,自是視章疏不時。於是傅良奏曰:「一國之勢猶身也,壅底則致疾。今日遷延某事,明日阻節某人,即有姦險乘時為利,則內外之情不接,威福之柄下移,其極至於天變不告,邊警不聞,禍且不測矣!」帝悟,會疾亦稍平,過重華宮。而明年重明節,復以疾不往,丞相以下至於太學諸生皆力諫,不聽,而方召內侍陳源為內侍省押班,傅良不草詞,且上疏曰:「陛下之不過宮者,特誤有所疑而積憂成疾,以至此爾。臣嘗即陛下之心反覆論之,竊自謂深切,陛下亦既許之矣。未幾中變,以誤為實,而開無端之釁;以疑為真,而成不療之疾。是陛下自貽禍也。」書奏,帝將從之。百官班立,以俟帝出。至御屏,皇后挽帝回,傅良遂趨上引裾,后叱之。傅良哭於庭,后益怒,傅良下殿徑行。詔改秘閣修撰仍兼贊讀,不受。

寧宗即位の際、召されて中書舎人兼侍読・直学士院・同実録院修撰に任ぜられた。時に詔して朱熹に在外宮観を与えようとしたところ、傅良は言上した、「朱熹は進み難く退き易き人物であり、内批が下ると、朝廷中が驚愕いたしました。臣は敢えて書行いたしません」。朱熹はここにおいて宝文閣待制に進み、郡守に転じた。御史中丞謝深甫が傅良の言は行いを顧みないと論じたため、出されて興国宮提挙となった。翌年、察官が相次いで上疏し、官位を削られ罷免された。嘉泰二年に官を復し、起用されて泉州知事となったが、辞退した。集英殿修撰を授けられ、宝謨閣待制に進んだが、家で逝去した。享年六十七。諡は「文節」。

原文寧宗即位,召為中書舍人兼侍讀、直學士院、同實錄院修撰。會詔朱熹與在外宮觀,傅良言:「熹難進易退,內批之下,舉朝驚愕,臣不敢書行。」熹於是進寶文閣待制,與郡。御史中丞謝深甫論傅良言不顧行,出提舉興國宮。明年察官交疏,削秩罷。嘉泰二年復官,起知泉州,辭。授集英殿修撰,進寶謨閣待制,終於家,年六十七。諡「文節」。

傅良の著述には『詩解詁』・『周禮説』・『春秋後傳』・『左氏章指』が世に行われている。

原文傅良著述有《詩解詁》、《周禮說》、《春秋後傳》、《左氏章指》行於世。

葉適

原文葉適

葉適、字は正則、温州永嘉の人である。文章を為すに藻思英発であった。淳熙五年の進士第二人に抜擢され、平江節度推官に任ぜられた。母の喪に服した。武昌軍節度判官に改めた。少保史浩が朝廷に推薦したが、召しても至らず、浙西提刑司幹辦公事に改め、士人の多くが彼と交遊した。参知政事龔茂良がまたこれを推薦し、召されて太学正となった。

原文葉適,字正則,溫州永嘉人。為文藻思英發。擢淳熙五年進士第二人,授平江節度推官。丁母憂。改武昌軍節度判官。少保史浩薦於朝,召之不至,改浙西提刑司幹辦公事,士多從之遊。參知政事龔茂良復薦之,召為太學正。

博士に遷り、順番に対応する機会に因み、上奏して言った。

原文遷博士,因輪對,奏曰:

「人臣の義として、陛下のために建明すべきは、一大事のみであります。二陵(徽宗・欽宗の陵墓)の仇は未だ報いられず、故疆の半ばは未だ回復せず、しかるに言う者は機に乗ずべし、時を待つべしと為しています。しかし機は我より発するものであり、何ぞ彼の乗ずる所となさん。時は我より為すものであり、何ぞ彼の待つ所となさん。真に難しく真に不可なるのではなく、正に我自ら難しと為し、自ら不可と為すが故であります。

原文「人臣之義,當為陛下建明者,一大事而已。二陵之仇未報,故疆之半未復,而言者以為當乘其機,當待其時。然機自我發,何彼之乘?時自我為,何彼之待?非真難真不可也,正以我自為難,自為不可耳。

ここにおいて力屈し気索し、退伏するを甘んじていること、既に二十六年に及んでいます。今積もる所謂難しきものは陰にこれを沮み、所謂不可なるものは黙してこれを制しているのです。およそその難しきこと四つあり、その不可なること五つあります。共に天を戴かざる仇を置きて広く兼愛の義を説き、自ら虚弱を為す、これ国是の難しきこと一であります。国の是とするところ既に然り、士大夫の論もまた然り。奇謀秘策を為す者は機に乗じ時を待つのみに止まり、忠義決策を為す者は親征遷都のみに止まり、深沈慮遠を為す者は固本自治のみに止まる、これ議論の難しきこと二であります。諸臣を環視するに、迭りに進み迭りに退く、この事の本を知りて反覆論議し得る者は誰か。この志意を抱きて策励期望し得る者は誰か。これ人才の難しきこと三であります。論者はただ五代の乱を致したことを鑑みるのみで、靖康の禍を得たことを思わない。今旧模を循守して、一世の人を駆りて君仇を報ぜんと欲すれば、則ち形勢乖阻し、誠に展足の地無し。若し時に順じて増損すれば、則ちその更張動揺する所、関係至って重し、これ法度の難しきこと四であります。また甚だ不可なること有り、兵は多きを以て弱きに至り、財は多きを以て乏しきに至り、官を信ぜずして吏を信じ、人を任ぜずして法を任じ、賢能を用いずして資格を用いる:この五者は、天下を挙げて動かすべからずと為す、豈に今の実患では無いでしょうか!沿習牽制すること、一時のことに非ず。利害を講じ、虚実を明らかにし、是非を断じ、廃置を決するは、陛下の為す所に在るのみであります。」

原文於是力屈氣索,甘為退伏者,於此二十六年。積今之所謂難者陰沮之,所謂不可者默制之也。蓋其難有四,其不可有五。置不共戴天之仇而廣兼愛之義,自為虛弱,此國是之難一也。國之所是既然,士大夫之論亦然。為奇謀秘畫者止於乘機待時,忠義決策者止於親征遷都,深沉慮遠者止於固本自治,此議論之難二也。環視諸臣,迭進迭退,其知此事本而可以反覆論議者誰乎?抱此志意而可以策勵期望者誰乎?此人才之難三也。論者徒鑒五代之致亂,而不思靖康之得禍。今循守舊模,而欲驅一世之人以報君仇,則形勢乖阻,誠無展足之地。若順時增損,則其所更張動搖,關係至重,此法度之難四也。又有甚不可者,兵以多而至於弱,財以多而至於乏,不信官而信吏,不任人而任法,不用賢能而用資格:此五者,舉天下以為不可動,豈非今之實患歟!沿習牽制,非一時矣。講利害,明虛實,斷是非,決廢置,在陛下所為耳。」

読み終わらぬうちに、帝は額を蹙めて言われた、「朕は近頃目疾に苦しみ、この志は既に泯みてしまった。誰かよくこれを任じ得ようか、ただ卿とこれを言うのみである」。再び読まれると、帝は惨然として久しく黙された。

原文讀未竟,帝蹙額曰:「朕比苦目疾,此志已泯,誰克任此,惟與卿言之耳。 」及再讀,帝慘然久之。

太常博士兼実録院検討官に除せられた。かつて丞相に陳傅良ら三十四人を推薦し、後皆召し用いられ、時に人を得たりと称された。時に朱熹が兵部郎官に除せられたが、未だ就職せず、侍郎林栗に弾劾された。適は上疏して争って言った、「栗が熹を弾劾する罪は一として実なるもの無く、ただその私意を発して遂にその欺くを忘れたのです!中に『之を道学と謂う』という一語に至っては、利害の係る所は熹のみに非ず。蓋し昔より小人の忠良を残害するや、率ね指名有り、或いは好名と為し、或いは立異と為し、或いは植党と為す。近く『道学』の目を創め、鄭丙がこれを倡え、陳賈がこれに和し、要津に居る者は密かに相付授し、士大夫に稍々潔修を慕う者を見れば、輒ち道学の名を以てこれを帰し、善を為すを以て玷闕と為し、好学を以て己が愆と為し、相与に指目して、進むことを得ざらしむ。ここにおいて賢士は惴慄し、中材は解体し、声を銷し影を滅し、徳を穢し行を垢して、この名を避く。栗は侍従たりながら、陛下の德意志慮を達するに無く、却って鄭丙・陳賈の密かに相付授するの説を襲用し、道学を以て大罪と為し、言語を文致し、一熹を逐い去る、ここより善良の禍を受くる、何ぞ有らざらん!伏して望む、暴横を摧折し、以て善類を扶けんことを」。疏が入ったが、返答が無かった。

原文除太常博士兼實錄院檢討官。嘗薦陳傅良等三十四人於丞相,後皆召用,時稱得人。會朱熹除兵部郎官,未就職,為侍郎林栗所劾。適上疏爭曰:「栗劾熹罪無一實者,特發其私意而遂忘其欺矣!至於其中『謂之道學』一語,利害所係不獨熹。蓋自昔小人殘害忠良,率有指名,或以為好名,或以為立異,或以為植黨。近創為『道學』之目,鄭丙倡之,陳賈和之,居要津者密相付授,見士大夫有稍慕潔修者,輒以道學之名歸之,以為善為玷闕,以好學為己愆,相與指目,使不得進。於是賢士惴慄,中材解體,銷聲滅影,穢德垢行,以避此名。栗為侍從,無以達陛下之德意志慮,而更襲用鄭丙、陳賈密相付授之說,以道學為大罪,文致語言,逐去一熹,自此善良受禍,何所不有!伏望摧折暴橫,以扶善類。」疏入,不報。

光宗が嗣位すると、秘書郎より出て蘄州知事となった。入朝して尚書左選郎官となった。この時、帝は疾を以て重華宮に朝せずこと七月に及び、事の巨細を問わず、皆廃れて行われなかった。適は上謁して力説した、「父子の親愛は自然より出ず。浮疑私畏は、似て而も非なるもの、豈に事実有らんや。若しこれに因りて定省が上に廃され、号令が下に愆れば、人情離阻し、その能く久からんや!」既にして帝は両度重華宮に詣でられ、都人は歓悦した。適はまた奏上した、「今後は過宮の日に、宰執・侍従をして先ず起居に詣でしむべし。異時に両宮の聖意に言い難きこと有らば、自らこれに因りて伝致し得べく、則ち責任帰する所あり。復た近習の小人に言語を増損せしめ、以て疑惑を生ぜしむべからず」。返答が無かった。而して事態はまた次第に異なり、中外洶洶とした。

原文光宗嗣位,由秘書郎出知蘄州。入為尚書左選郎官。是時,帝以疾不朝重華宮者七月,事無鉅細,皆廢不行。適見上力言:「父子親愛出於自然。浮疑私畏,似是而非,豈有事實?若因是而定省廢於上,號令愆於下,人情離阻,其能久乎!」既而帝兩詣重華宮,都人歡悅。適復奏:「自今宜於過宮之日,令宰執、侍從先詣起居。異時兩宮聖意有難言者,自可因此傳致,則責任有歸。不可復近習小人增損語言,以生疑惑。」不報。而事復浸異,中外洶洶。

孝宗が不豫よとなると、群臣は号泣して裾を攀じて請うに至ったが、帝は遂に往かず。適は宰相留正を責めて言った、「上に疾有ること明らかなり。父子相見うは、疾の瘳ゆるを俟つべし。公が播告せずして、臣下をして軽々しく君父を議せしむるは、可なりや」。未幾、孝宗が崩御し、光宗は喪を執ることが出来なかった。軍士が籍籍として語り、変事且つ不測とならんとした。適はまた正に告げて言った、「上は疾有りて喪を執らざれば、将に何の辞を以て天下に謝せん。今嘉王は長ず、若し予め参決を建てば、則ち疑謗解けましょう」。宰執はその言を用い、共に入奏して嘉王を皇太子に立てることを請うと、帝はこれを許した。俄かに御批を得て、「歴事歳久しく、退閑せんことを念う」との語有り、正は懼れて去り、人心愈々動揺した。知枢密院趙汝愚は憂危して出ずる所を知らず、適は知閤門事蔡必勝に告げて言った、「国事ここに至る、子は近臣たり、庸に坐視せんや」。蔡は諾し、宣賛舎人傅昌朝・知内侍省関礼・知閤門事韓侂冑の三人と計を定めた。侂冑は太皇太后の甥である。時に慈福宮提点張宗尹が侂冑を訪ね、侂冑はその意を覗って必勝に告げた。適はこれを得て、即ち急ぎ汝愚に白上した。汝愚は必勝を請いて事を議し、遂に侂冑を遣わして張宗尹・関礼に因りて内禅の議を太皇太后に奏し、且つ垂簾を請うたところ、許され、計遂に定まった。翌日の禫祭に、太皇太后が臨朝し、嘉王が即皇帝位し、親しく祭礼を行い、百官班賀し、中外晏然とした。凡そ表奏は皆汝愚と適が裁定し、臨期に取りて儀曹郎に授け、人は始めてその議に預かったことを知った。国子司業に遷った。

原文及孝宗不豫,群臣至號泣攀裾以請,帝竟不往。適責宰相留正曰:「上有疾明甚。父子相見,當俟疾瘳。公不播告,使臣下輕議君父,可乎?」未幾,孝宗崩,光宗不能執喪。軍士籍籍有語,變且不測。適又告正曰:「上疾而不執喪,將何辭以謝天下?今嘉王長,若預建參決,則疑謗釋矣。」宰執用其言,同入奏立嘉王為皇太子,帝許之。俄得御批,有「歷事歲久,念欲退閑」之語,正懼而去,人心愈搖。知樞密院趙汝愚憂危不知所出,適告知閤門事蔡必勝曰:「國事至此,子為近臣,庸坐視乎?」蔡許諾,與宣贊舍人傅昌朝、知內侍省關禮、知閤門事韓侂胄三人定計。侂胄,太皇太后甥也。會慈福宮提點張宗尹過侂胄,侂胄覘其意以告必勝。適得之,即亟白汝愚。汝愚請必勝議事,遂遣侂胄因張宗尹、關禮以內禪議奏太皇太后,且請垂簾,許之,計遂定。翌日禫祭,太皇太后臨朝,嘉王即皇帝位,親行祭禮,百官班賀,中外晏然。凡表奏皆汝愚與適裁定,臨期,取以授儀曹郎,人始知其預議焉。遷國子司業。

汝愚が既に宰相となると、功を賞するに将に適に及ぼんとしたが、適は言った、「国危うきに忠を効すは職分なり。適何の功か有らん」。而して侂冑は功を恃み、遷秩が望みに満たざるを以て汝愚を怨んだ。適は汝愚に告げて言った、「侂冑の望む所は節鉞に過ぎず、宜しくこれを与うべし」。汝愚は従わなかった。適は歎じて言った、「禍ここより始まらん」。遂いて力を尽くして外補を求めた。太府卿・総領淮東軍馬銭糧に除せられた。汝愚が衡陽に貶せられると、適もまた御史胡紘に弾劾され、両官を降格され罷免され、沖佑観を主管し、差遣されて衢州知事となったが、辞退した。

原文汝愚既相,賞功將及適,適曰:「國危效忠,職也。適何功之有?」而侂胄恃功,以遷秩不滿望怨汝愚。適以告汝愚曰:「侂胄所望不過節鉞,宜與之。」汝愚不從。適歎曰:「禍自此始矣!」遂力求補外。除太府卿、總領淮東軍馬錢糧。及汝愚貶衡陽,而適亦為御史胡紘所劾,降兩官罷,主管沖佑觀,差知衢州,辭。

湖南転運判官として起用され、泉州知事に転任した。召されて入朝し、寧宗に対し言上した。「陛下が即位された当初、臣はかつて『詩経』巻阿の義を申し述べて献上しました。天が聖明を啓き、党派の偏りを消し去り、人材はほぼ再び一つにまとまりました。しかし国を治めるには和を体とし、事を処するには平を極致とします。臣は人臣が己を忘れて国に身を捧げ、過去のことに心を留めず、将来に報いることを図るのがよいと願います。」帝はこれを嘉納した。初め、韓侂冑が権力を握り、人々が従わないことを憂え、一時的に言路にいた小人たちが「偽学」の名を創り出し、天下の知名の士を挙げて貶謫・追放することほぼ尽くした。その後侂冑も後悔したので、呉適が奏上でこれに言及し、かつ楼鑰・丘崈・黄度の三人を推薦し、皆に郡守を与えた。これより禁網は次第に解かれた。

原文起為湖南轉運判官,遷知泉州。召入對,言於寧宗曰:「陛下初嗣大寶,臣嘗申繹《卷阿》之義為獻。天啟聖明,銷磨黨偏,人才庶幾復合。然治國以和為體,處事以平為極。臣欲人臣忘己體國,息心既往,圖報方來可也。」帝嘉納之。初,韓侂胄用事,患人不附,一時小人在言路者,創為「偽學」之名,舉海內知名士貶竄殆盡。其後侂胄亦悔,故適奏及之,且薦樓鑰、丘崈、黃度三人,悉與郡。自是禁網漸解矣。

権兵部侍郎に任じられたが、父の喪のため去職した。喪が明け、召還された。時に侂冑に蓋世の功を立てて地位を固めよと勧める者がおり、侂冑はこれを是とし、兵端を開かんとした。呉適は奏上して言った。

原文除權兵部侍郎,以父憂去。服除,召至。時有勸侂胄立蓋世功以固位者,侂胄然之,將啟兵端。適因奏曰:

「弱さを甘んじて安泰を幸いとする者は衰え、弱さを改めて強さに就く者は興る。陛下が大臣に命を下し、先んじて慮り予算し、積年の恥を報い、祖業を規恢しようとされるのは、まさに弱さを改めて強さに就かんとされるからです。臣はひそかに、必ず先ず強弱の勢いを審らかに知ってその論を定め、論が定まってから実政を修め、実徳を行えば、弱は変じて強と為すことができ、難しいことではないと考えます。今、弱さを改めて強さに就かんとし、問罪の師を急に起こす挙に出ようとされる。これは最も大きく最も重い事です。故に必ず準備が成ってから動き、守りが定まってから戦うべきです。今、或いは金がすでに衰弱したと言って、姑く先に釁を開き、後の艱難を懼れず、宣和の時に為し得なかったことを求め、紹興の時に敢えてしなかったことを為そうとする。これは最も険しく最も危うい事です。かつ、いわゆる実政とは、瀕淮・沿漢の諸郡を経営し、それぞれに拠点を設け、堅固に自守すべきです。敵兵が来れば堅城に阻まれ、互いに策応し、その後に進取の計を言うことができます。四つの御前大軍については、練兵して敵を制するに足るようにし、大小の臣については、試用して事を立てるに足るようにする。これら皆が実政です。いわゆる実徳とは、当今、賦税は重いのに国はますます貧しくなっている。例えば和買・折帛の類で、民間では田租の半分以上を輸納する者さえいる。況んや規恢を図ろうとするなら、恩沢があるべきです。有司に詔して、どの名目の賦が民を害することが最も甚しいか、どのような横費を裁節すべきかを審らかに度るよう乞います。収入の額を減らし、支出の費を定める。上には実政を修め、下には実徳を行う。これこそが、屡戦して屈せず、必勝して敗れない所以です。」

原文「甘弱而幸安者衰,改弱而就強者興。陛下申命大臣,先慮預算,思報積恥,規恢祖業,蓋欲改弱以就強矣。竊謂必先審知強弱之勢而定其論,論定然後修實政,行實德,弱可變而為強,非有難也。今欲改弱以就強,為問罪驟興之舉,此至大至重事也。故必備成而後動,守定而後戰。今或謂金已衰弱,姑開先釁,不懼後艱,求宣和之所不能,為紹興之所不敢,此至險至危事也。且所謂實政者,當經營瀕淮沿漢諸郡,各為處所,牢實自守。敵兵至則阻於堅城,彼此策應,而後進取之計可言。至於四處御前大軍,練之使足以制敵,小大之臣,試之使足以立事,皆實政也。所謂實德者,當今賦稅雖重而國愈貧,如和買、折帛之類,民間至有用田租一半以上輸納者。況欲規恢,宜有恩澤。乞詔有司審度何名之賦害民最甚,何等橫費裁節宜先。減所入之額,定所出之費。既修實政於上,又行實德於下。此其所以能屢戰而不屈,必勝而無敗也。」

権工部侍郎に任じられた。侂冑は彼に詔を起草させて内外を動かそうとし、権吏部侍郎兼直学士院に改めたが、病気を理由に兼職を強く辞した。時に詔して諸将に四路より出師させたが、呉適はまた侂冑に先ず江を防ぐべきだと告げたが、聞き入れられなかった。間もなく、諸軍は皆敗れ、侂冑は懼れ、丘崈を江淮宣撫使とし、呉適を宝謨閣待制・建康府知府兼沿江制置使に任じた。呉適は、三国の孫氏がかつて江北をもって江を守り、南唐以来初めてこれを失い、建炎・紹興の時にはその理を尋ねる暇がなかったと言った。そこで朝廷に請い、江北諸州の節制を乞うた。

原文除權工部侍郎。侂胄欲藉其草詔以動中外,改權吏部侍郎兼直學士院,以疾力辭兼職。會詔諸將四路出師,適又告侂胄宜先防江,不聽。未幾,諸軍皆敗,侂胄懼,以丘崈為江淮宣撫使,除適寶謨閣待制、知建康府兼沿江制置使。適謂三國孫氏嘗以江北守江,自南唐以來始失之,建炎、紹興未暇尋繹。乃請於朝,乞節制江北諸州。

金兵が大挙して侵入した時、一日、二騎の騎兵が旗を掲げて渡河しようとするかのようであった。淮民は倉皇として舟の纜を斬り合い、溺れる者が多く、建康は震動した。呉適は、人心が一旦揺らげば再び制御できないと考え、ただ砦を劫うことが南人の長所であるとして、市井の悍少と帳下で志願する者を募り、二百人を得て、采石の将徐緯に統率させて向かわせた。夜半を過ぎ、金兵に遭遇し、茅葦に隠れて射ると、弦に応じて倒れた。矢が尽きると、刀を揮って前進し、金兵は皆錯愕して進まなかった。黎明、我が軍が寡兵であることを知って追って来た時には、すでに舟中にいた。また命じて石跋・定山の人々に敵営を襲撃させ、その捕虜と首級を得て帰還させた。金は和州の包囲を解き、瓜歩に退いて屯し、城中はようやく安堵した。また石斌賢を遣わして宣化を渡らせ、夏侯成らを分道して往かせ、向かうところ皆捷した。金は滁州より遁走した。時に軍書が錯綜したが、呉適は平時のように政務を治め、軍需は全て官から支給し、民は擾されなかった。淮民が江を渡るには舟があり、宿泊するには寺があり、銭と米を与えられたので、その来ることは帰るが如かった。兵が退くと、宝文閣待制に進み、兼江淮制置使となり、屯田を措置し、ついに堡塢の議を上奏した。

原文及金兵大入,一日,有二騎舉旗若將渡者,淮民倉皇爭斫舟纜,覆溺者眾,建康震動。適謂人心一搖,不可復制,惟劫砦南人所長,乃募市井悍少並帳下願行者,得二百人,使采石將徐緯統以往。夜過半,遇金人,蔽茅葦中射之,應弦而倒。矢盡,揮刀以前,金人皆錯愕不進。黎明,知我軍寡來追,則已在舟中矣。復命石跋、定山之人劫敵營,得其俘馘以歸。金解和州圍,退屯瓜步,城中始安。又遣石斌賢渡宣化,夏侯成等分道而往,所向皆捷。金自滁州遁去。時羽檄旁午,而適治事如平時,軍須皆從官給,民以不擾。淮民渡江有舟,次止有寺,給錢餉米,其來如歸。兵退,進寶文閣待制、兼江淮制置使,措置屯田,遂上堡塢之議。

初め、淮民は兵乱に驚き散り、日々自らの安全も保てなかった。呉適はついに、村落から数十里の内に、山水の険要に依って堡塢を築き、復業して守らせ、春夏は散って耕作し、秋冬は堡に入るようにした。凡そ四十七箇所。また江沿いの地を測量して三大堡を創設した。石跋は采石を、定山は靖安を、瓜歩は東陽・下蜀しょくをそれぞれ屏蔽する。西は溧陽を護り、あるいは儀真と連なり、緩急に応援し、首尾連絡し、東西三百里、南北三四十里に及んだ。各堡は二千家を標準とし、習射を教えた。平時は戍兵として、五百人に一将を置いた。警報があれば新兵を増募し、諸州の禁軍二千人を抽摘し、堡塢内の居民と合わせて四千五百人とし、共に守戍した。そして制置司は毎年防秋の際、別に死士千人を募り、砦を劫い糧を焚く用途に充てた。そこで堡塢の成ることに四利があると言い、大要は「敵が北岸にあり、共に長江の険を有するが、我に堡塢があって声援と為せば、敵は江を窺うことを敢えず、士気は自ずから倍し、戦艦もまた策勲することができる。和・滁・真・六合等の城がもし退遁すれば、我は堡塢の全力をもってその襲逐を助け、あるいはその前を邀え、あるいはその後を尾いて、必ず勝を制する。これがいわゆる力を用いること寡くして功を収めること博い所以である。」と言った。三堡が完成すると、流民は次第に帰還した。時に侂冑が誅殺され、中丞雷孝友が呉適が侂冑に附いて用兵したことを弾劾したため、ついに職を奪われた。その後、祠官を奉ずること凡そ十三年、宝文閣学士・通議大夫に至った。嘉定十六年、卒去。七十四歳。光禄大夫を贈られ、諡は「文定」。

原文初,淮民被兵驚散,日不自保。適遂於墟落數十里內,依山水險要為堡塢,使復業以守,春夏散耕,秋冬入堡,凡四十七處。又度沿江地創三大堡:石跋則屏蔽采石,定山則屏蔽靖安,瓜步則屏蔽東陽、下蜀。西護溧陽,或連儀真,緩急應援,首尾聯絡,東西三百里,南北三四十里。每堡以二千家為率,教之習射。無事則戍,以五百人一將。有警則增募新兵及抽摘諸州禁軍二千人,並堡塢內居民,通為四千五百人,共相守戍。而制司於每歲防秋,別募死士千人,以為劫砦焚糧之用。因言堡塢之成有四利,大要謂:「敵在北岸,共長江之險,而我有堡塢以為聲援,則敵不敢窺江,而士氣自倍,戰艦亦可以策勳。和、滁、真、六合等城或有退遁,我以堡塢全力助其襲逐,或邀其前,或尾其後,制勝必矣。此所謂用力寡而收功博也。」三堡就,流民漸歸。而侂胄適誅,中丞雷孝友劾適附侂胄用兵,遂奪職。自後奉祠者凡十三年,至寶文閣學士、通議大夫。嘉定十六年,卒,年七十四。贈光祿大夫,諡「文定」。

呉適は志意慷慨で、常に経世済民を自ら任じていた。侂冑が兵端を開こうとした時、呉適が常に大仇未復の言をしていたことを重んじた。しかし呉適は召還されてから、毎回の奏疏で必ず審らかにしてから発すべきと言い、かつ詔起草を強く辞した。ただ出師の時に、呉適が極力諫止し、利害禍福を説いても、侂冑は必ずや妄為せず、南北の生霊の禍を免れたであろう。議者は彼のため嘆息せざるを得なかった。

原文適志意慷慨,雅以經濟自負。方侂胄之欲開兵端也,以適每有大仇未復之言重之。而適自召還,每奏疏必言當審而後發,且力辭草詔。第出師之時,適能極力諫止,曉以利害禍福,則侂胄必不妄為,可免南北生靈之禍。議者不能不為之歎息焉。

戴溪

原文戴溪

戴溪、字は肖望、永嘉の人である。若くして文名があった。淳熙五年、別頭省試で第一となった。潭州南嶽廟を監した。紹熙初年、主管吏部架閣文字に任じられ、太学録兼実録院検討官を拝命した。正録が史職を兼ねるのは戴溪から始まった。博士に昇進し、両淮に農官を立てるべきこと、漢の稻田使者の如く、閑田を括り、地主に財を出させ、佃客に力を出させ、主客均利とし、農を救う策とすべきことを奏上した。慶元府通判に任じられたが、赴任せず、宗正簿に改められた。累遷して兵部郎官となった。

原文戴溪,字肖望,永嘉人也。少有文名。淳熙五年,為別頭省試第一。監潭州南嶽廟。紹熙初,主管吏部架閣文字,除太學錄兼實錄院檢討官。正錄兼史職自溪始。升博士,奏兩淮當立農官,若漢稻田使者,括閑田,諭民主出財,客出力,主客均利,以為救農之策。除慶元府通判,未行,改宗正簿。累官兵部郎官。

開禧の時、軍は符離で潰えた。戴溪はこれにより、沿辺の忠義人や湖南北の塩商を皆区画すべきこと、後患を消すべきことを奏上した。和議が成ると、知枢密院事張巖が京口で師を督し、参議軍事に任じられた。数ヶ月後、資善堂説書に召された。

原文開禧時,師潰於符離,溪因奏沿邊忠義人、湖南北鹽商皆當區畫,以銷後患。會和議成,知樞密院事張巖督師京口,除授參議軍事。數月,召為資善堂說書。

礼部郎中より凡そ六転して太子詹事兼秘書監となった。景獻太子は倪思に『中庸』『大学』を講ぜしめんとしたが、倪思は講読は詹事の職分にあらず、官を侵すを懼れると辞した。太子曰く、「講じ終えて便服にて書を説くは、公礼にあらず、嫌うことなかれ」と。また『易』『詩』『書』『春秋』『論語』『孟子』『資治通鑑』を類別し、各々説を為して進めることを命じた。権工部尚書となり、華文閣学士を除された。嘉定八年、宣奉大夫・龍圖閣学士を以て致仕した。卒し、特進・端明殿学士を贈られた。理宗紹定年間、諡して「文端」と賜う。

原文由禮部郎中凡六轉為太子詹事兼秘書監。景獻太子命溪講《中庸》、《大學》,溪辭以講讀非詹事職,懼侵官。太子曰:「講退便服說書,非公禮,毋嫌也。」復命類《易》、《詩》、《書》、《春秋》、《論語》、《孟子》、《資治通鑒》,各為說以進。權工部尚書,除華文閣學士。嘉定八年,以宣奉大夫、龍圖閣學士致仕。卒,贈特進、端明殿學士。理宗紹定間,賜諡「文端」。

倪思は長く宮僚にあり、微婉をもって春官(太子)の知遇を受けしも、然し朝に立ちて建明するに、多くは秘密を務め、或いは其の骨鯁甚だ乏しきを議すと云う。

原文溪久於宮僚,以微婉受知春官,然立朝建明,多務秘密,或議其殊乏骨鯁云。

蔡幼學

原文蔡幼學

蔡幼學、字は行之、温州瑞安の人なり。十八歳の時、礼部の試験に第一となった。この時、陳傅良は太学に文名有り、幼學はこれに従いて遊ぶ。月書を祭酒芮燁及び呂祖謙に上するに、連ねて選抜され、常に傅良を出でず、皆な幼學の文は其の師を過ぐと謂えり。孝宗之を聞き、策士に因りて首列に置かんとす。而して是の時、外戚張説用事し、宰相虞允文・梁克家皆な陰にこれに附く。幼學の対策、其の略に曰く、「陛下の資は聡明なれども存する所大ならず、志は高遠なれども趨く所正しからず、治は精勤なれども大原立たず。即位の始め、太平の旦暮に至らんことを冀えり。奈何ぞ今十年、風俗日々に壊れ、将に扶持し難く;紀綱日々に乱れ、将に整斉し難く;人心益々揺れ、将に收拾し難く;吏は慢く兵は驕り、財は匱え民は困し、将に正捄し難し」と。又曰く、「陛下は名相の正しからざるを恥じ、近古に更制し、二相並び進み、以て美談と為す。然れども或いは虚誉を以て聴を惑わし、自ら功を立てんことを許し;或いは緘黙を以て身を容れ、正を持し能わず」と。蓋し虞允文・梁克家を指すなり。又曰く、「漢武帝兵を用うる以来、大司馬・大将軍の権重くして丞相軽し。公孫弘相と為り、衛青用事す、弘苟合して容を取る、相業有ること無し。宣帝・元帝は許氏・史氏を用い、成帝は王氏を用い、哀帝は丁氏・傅氏を用い、率ね元始の禍と為る。今陛下姨子をして兵柄に預からしむ、其の人一才取るべきこと無し。宰相忍びて同列とし、曾て羞恥せず。其の罪名を按ずるに、宜しく公孫弘の上に在るべし」と。蓋し張説を指すなり。帝之を覧みて懌ばず、虞允文特に之を悪む。遂に下第を得、広徳軍教授となった。

原文蔡幼學,字行之,溫州瑞安人。年十八,試禮部第一。是時,陳傅良有文名於太學,幼學從之遊。月書上祭酒芮燁及呂祖謙,連選拔,輒出傅良右,皆謂幼學之文過其師。孝宗聞之,因策士將置首列。而是時外戚張說用事,宰相虞允文、梁克家皆陰附之。幼學對策,其略曰:「陛下資雖聰明而所存未大,志雖高遠而所趨未正,治雖精勤而大原不立。即位之始,冀太平旦暮至。奈何今十年,風俗日壞,將難扶持;紀綱日亂,將難整齊;人心益搖,將難收拾;吏慢兵驕,財匱民困,將難正捄。」又曰:「陛下恥名相之不正,更制近古,二相並進,以為美談。然或以虛譽惑聽,自許立功;或以緘默容身,不能持正。」蓋指虞允文、梁克家也。又曰:「漢武帝用兵以來,大司馬、大將軍之權重而丞相輕。公孫弘為相,衛青用事,弘苟合取容,相業無有。宣、元用許、史,成帝用王氏,哀帝用丁、傅,率為元始之禍。今陛下使姨子預兵柄,其人無一才可取。宰相忍與同列,曾不羞恥。按其罪名,宜在公孫弘上。」蓋指張說也。帝覽之不懌,虞允文尤惡之。遂得下第,教授廣德軍。

父の憂に服し、再び潭州に調せらる。執政朝に薦む、帝之を許し、且つ問う、「年幾何ぞ?何を以て幼學と名づくや?」と。参政施師點『孟子』の「幼學にして壮行す」の語を挙げて以て対う。上佇思し、慨然として曰く、「今壮なり、行うべし」と。遂に敕令所刪定官を除す。首に言う、「大恥未だ雪がず、境土未だ復せず、陛下睿知神武、以て為すべき有り。而して苟且の議、委靡の習、顧みて以て陛下の為さんと欲するの心を緩ます」と。孝宗喜びて曰く、「卿が意を解す、朕に規模を立たしめんと欲する爾」と。尋いで母の憂を以て去る。

原文丁父憂,再調潭州。執政薦於朝,帝許之,且問:「年幾何矣?何以名幼學?」參政施師點舉《孟子》「幼學壯行」之語以對。上佇思,慨然曰:「今壯矣,可行也。」遂除敕令所刪定官。首言:「大恥未雪,境土未復,陛下睿知神武,可以有為。而苟且之議,委靡之習,顧得以緩陛下欲為之心。」孝宗喜曰:「解卿意,欲令朕立規模爾。」尋以母憂去。

光宗立ち、太学録を以て召され、武学博士に改む。年を踰え、太学に遷り、秘書省正字兼実録院検討官に擢でられ、校書郎に遷る。時に光宗疾を以て重華宮に朝せず、幼學封事を上りて曰く、「陛下春以来、北宮の朝を講ぜず。比者寿皇愆豫し、侍従・台諫陛を叩きて対請す、陛下衣を拂ひて起ち、相臣裾を引き、群臣随ひて以て号泣す。陛下朝を退き、宮門尽く閉ざし、大臣累日一対の清光を得ず。望日の朝、都人頸を延べ、遷延して午に至り、禁衛恨みを飲む。市廛軍伍、謗誹籍籍、旁郡列屯、伝聞疑怪し、変倉卒に起らば、陛下実に其の禍を受く。誠に身体髪膚寿皇の与うる所、宗社人民寿皇の命ずる所を思えば、則ち疇昔の慈愛心に感ずること有り、豈に聖断を独り出だし、父子の歓を復し、宗社の禍を弭がんことを得ざらんや!」疏入りて、報いず。

原文光宗立,以太學錄召,改武學博士。逾年,遷太學,擢秘書省正字兼實錄院檢討官,遷校書郎。時光宗以疾不朝重華宮,幼學上封事曰:「陛下自春以來,北宮之朝不講。比者壽皇愆豫,侍從、臺諫叩陛請對,陛下拂衣而起,相臣引裾,群臣隨以號泣。陛下退朝,宮門盡閉,大臣累日不獲一對清光。望日之朝,都人延頸,遷延至午,禁衛飲恨。市廛軍伍,謗誹籍籍,旁郡列屯,傳聞疑怪,變起倉卒,陛下實受其禍。誠思身體髮膚壽皇所與,宗社人民壽皇所命,則疇昔慈愛有感乎心,可不獨出聖斷,復父子之歡,弭宗社之禍!」疏入,不報。

寧宗即位し、直言を求むる詔あり。幼學又奏す。

原文寧宗即位,詔求直言。幼學又奏:

「陛下君の道を尽くさんと欲すれば、其の要三つ有り:親に事へ、賢を任じ、民を寛うるなり。而して其の本は講学に先んずる莫し。比年小人君子を傾けんと謀り、安靖和平の説を為して以て之を排つ。故に大臣治を興すべくして生事を以て自ら疑い、近臣忠を效すべくして旨に忤うを以て擯棄せられ、其の極は九重深拱して群臣尽く廢し、多士盈庭して一籌吐かざるに至る。自ら聖学日新し、賢を求むるに及ばざるが如くせざれば、何を以て天下の才を作さん。熙寧・元豊より始めて免役錢有り、常平積剩錢有り、無額上供錢有り;大観・宣和より始めて大禮進奉銀絹有り、贍學糴本錢有り、經制錢有り;紹興より始めて和買折帛錢有り、總制錢有り、月樁大軍錢有り;茶鹽酒榷・稅契・頭子の属に至るまで、積累増多し、祖宗に較ぶれば慮るに数十倍、民困窮極まれり。」

原文「陛下欲盡為君之道,其要有三:事親、任賢、寬民,而其本莫先於講學。比年小人謀傾君子,為安靖和平之說以排之。故大臣當興治而以生事自疑,近臣當效忠而以忤旨擯棄,其極至於九重深拱而群臣盡廢,多士盈庭而一籌不吐。自非聖學日新,求賢如不及,何以作天下之才?自熙寧、元豐而始有免役錢,有常平積剩錢,有無額上供錢;自大觀、宣和而始有大禮進奉銀絹,有贍學糴本錢,有經制錢;自紹興而始有和買折帛錢,有總制錢,有月樁大軍錢;至於茶鹽酒榷、稅契、頭子之屬,積累增多,較之祖宗無慮數十倍,民困極矣。」

幼學既に時政を論列し、其の極を聖学に帰す。帝善しと称し、将に進用せんとす。時に韓侂冑方に用事し、正人を指して「偽学」と為し、異論する者立つて黜けらる。幼學遂に力を求めて外補せんとし、特に提挙福建常平を除す。陛辞し、言う、「今除授の命令径に中より出で、而して大臣の責始めて軽し;諫省・経筵故無く罷黜せられ、而して多士の心始めて惑う。或いは以て誤りて陛下を此に至らしむる者有らんや!」と。侂冑之を聞きて悦ばず。既に官に至り、日々荒政を講ず。時に朱熹建陽に居り、幼學毎事咨訪す、遂に御史劉德秀の劾に遭い罷めらる。奉祠すること凡そ八年。

原文幼學既論列時政,其極歸之聖學。帝稱善,將進用之。時韓侂胄方用事,指正人為「偽學」,異論者立黜。幼學遂力求外補,特除提舉福建常平。陛辭,言:「今除授命令徑從中出,而大臣之責始輕;諫省、經筵無故罷黜,而多士之心始惑。或者有以誤陛下至此耶!」侂胄聞之不悅。既至官,日講荒政。時朱熹居建陽,幼學每事咨訪,遂為御史劉德秀劾罷,奉祠者凡八年。

起きて黄州を知り、提点福建路刑獄に改む、未だ行かず。侂冑に海内の名士を収召するを勧むる者有り、乃ち幼學を召して吏部員外郎と為す。入見し、言う、「高宗建炎間婺州の和買絹折羅の事を減ず、因りて輔臣に諭して曰く、『一日此の如き一事を行えば、一年三百六十事に過ぎず』と。陛下両浙の丁錢を除く、高宗に間無きを視る、然れども兵事既に開け、諸路鋒鏑轉餉の艱に罹り、江・湖以南調募科需の擾れ有り、惟だ陛下邦本を愛惜するを念と為さんことを」と。国子司業・宗正少卿に遷り、皆な兼ねて権中書舎人とす。

原文起知黃州,改提點福建路刑獄,未行。有勸侂胄以收召海內名士者,乃召幼學為吏部員外郎。入見,言:「高宗建炎間減婺州和買絹折羅事,因諭輔臣曰:『一日行得如此一事,一年不過三百六十事而已。』陛下除兩浙丁錢,視高宗無間,然而兵事既開,諸路罹鋒鏑轉餉之艱,江、湖以南有調募科需之擾,惟陛下以愛惜邦本為念。」遷國子司業、宗正少卿,皆兼權中書舍人。

侂冑既に誅せらる、余党尚ほ正路を塞ぐ、幼學次第に弾繳し、竄黜すること尤も衆し、職に称すと号す。中書舎人兼侍講に遷る。故事に、閤門・宣贊以下、十年供職して、始めて路都監若しくは鈐轄を得。侂冑成法を壊し、率ね五六年七八年にして即ち等を越えて除授し、已に外職を授けらるるも猶禁闥に通籍する者有り、幼學一切に釐正す。

原文侂胄既誅,餘黨尚塞正路,幼學次第彈繳,竄黜尤眾,號稱職。遷中書舍人兼侍講。故事,閤門、宣贊而下,供職十年,始得路都監若鈐轄。侂胄壞成法,率五六年七八年即越等除授,有已授外職猶通籍禁闥者,幼學一切釐正。

嘉定初め、楼鑰と同く貢挙を知る。時に正学久しく錮され、士は声律度数に専らし、其の学支離なり。幼學始めて義理の文を取り、士習漸く正に復す。直学士院を兼ね、内外の制皆な温醇雅厚にして得体を得、人多く之を称す。刑部侍郎を除し、吏部に改む、仍って職を兼ぬ。趙師𢍰臨安府知事を除せらる、𢍰辞す。故事に、当に不允の詔有るべし。幼學言う、「師𢍰権臣に媚びて官を進め、三たび京兆を尹し、狼籍にして善状無し、詔必ず褒語を出すべし、臣何の辞を以て草せん」と。命遂に寢す。侍読を兼ねるに改め、師𢍰の命乃ち下る。

原文嘉定初,同樓鑰知貢舉。時正學久錮,士專於聲律度數,其學支離。幼學始取義理之文,士習漸復於正。兼直學士院,內外制皆溫醇雅厚得體,人多稱之。除刑部侍郎,改吏部,仍兼職。趙師𢍰除知臨安府,𢍰辭。故事,當有不允詔。幼學言:「師𢍰以媚權臣進官,三尹京兆,狼籍無善狀,詔必出褒語,臣何辭以草?」命遂寢。改兼侍讀,師𢍰命乃下。

龍圖閣待制に任ぜられ、泉州知州となり、建康府・福州に移り、福建路安撫使に進む。政は寛大を主とし、ただ民を傷つけることを恐れた。福建の下州では、例として民に塩を買わせ、戸産の高下によって均等に売るものを産塩と称し、取引契紙の銭を割り当てるものを浮塩と称し、いずれも常賦の外に出て、久しくなって遂に定賦となった。幼學は力を尽くしてこれを免除するよう請うたが、聞き入れられなかった。提挙司は民に田地の高下によって新会子を蔵めるよう命じ、命令に従わない者はその資産を没収した。幼學は言った、「民を欺くことができようか、我がそれに耐えられようか。ただ去るのみである」と。そこで銭幣が均一でなく、秤提の術がないことを言上し、力を尽くして罷免を求めた。遂に寶謨閣直學士・提舉萬壽宮に昇進した。兵部尚書権官兼修玉牒官に召され、まもなく太子詹事を兼ねた。

原文除龍圖閣待制、知泉州,徙建康府、福州,進福建路安撫使。政主寬大,惟恐傷民。福建下州,例抑民買鹽,以戶產高下均賣者曰產鹽,以交易契紙錢科敷者曰浮鹽,皆出常賦外,久之遂為定賦。幼學力請蠲之,不報。提舉司令民以田高下藏新會子,不如令者籍其貲。幼學曰:「罔民而可,吾忍之乎?惟有去而已。」因言錢幣未均,秤提無術,力求罷去。遂升寶謨閣直學士、提舉萬壽宮。召權兵部尚書兼修玉牒官,尋兼太子詹事。

先に、朝廷が歳幣を金の境内に送ったが、ちょうどその国に内難があり、受け取られず、するとすぐに軍を率いて辺境を叩いてこれを要求した。朝廷内外が騒然とし、皆すぐに与えるべきだと言った。幼學が対面を請い、言った、「玉帛を携えた使者が未だ帰らず、侵攻の軍が突然到来し、かつ侮慢をほしいままにし、文辞に表している。天の怒り人の憤り、大義を伸ばしてその謀りごとを打ち破らねばならぬではないか」と。そこで朝廷の議論は奮い立ち、始めて金との断交を詔した。幼學はそこで「本根を固めて外患を消し、意向を示して衆志を定め、人材の登用を公にして謀りごとを合わせ、帰順を審らかにして南北を一つにすべし」と請うた。帝は良しと称した。ある夜、異なる夢を感じ、星が屋の西南隅に落ち、遂に卒した。六十四歳。

原文先是,朝廷既遣歲幣入金境,適值其有難,不果納,則遽以兵叩邊索之。中外洶洶,皆言當亟與。幼學請對,言:「玉帛之使未還,而侵軼之師奄至,且肆其侮慢,形之文辭。天怒人憤,可不伸大義以破其謀乎!」於是朝論奮然,始詔與金絕。幼學因請「固本根以弭外虞,示意向以定眾志,公汲引以合材謀,審懷附以一南北」,帝稱善。一夕感異夢,星隕於屋西南隅,遂卒,年六十四。

幼學は早くから文才をもって世に鳴り、中年の著述は、いっそう根本を究め、教化の大いに関わり、性情の正しきによるものでなければ語らなかった。器質は重厚で、その境涯を窺うことができず、終日端座し、一言も妄りに発しなかった。しかし義理を弁論するに及んでは、縦横に開闔し、沛はい然として江河を決するが如く、弁士も及ばなかった。かつて司馬光の『公卿百官表』を継ぎ、『年曆』・『大事記』・『備忘』・『辨疑』・『編年政要』・『列傳舉要』など、凡そ百余篇を著し、世に伝わった。

原文幼學早以文鳴於時,而中年述作,益窮根本,非關教化之大、由情性之正者不道也。器質凝重,莫窺其際,終日危坐,一語不妄發。及辨論義理,縱橫闔辟,沛然如決江河,雖辯士不及也。嘗續司馬光《公卿百官表》,《年曆》、《大事記》、《備忘》、《辨疑》、《編年政要》、《列傳舉要》,凡百餘篇,傳於世。

楊泰之

原文楊泰之

楊泰之、字は叔正、眉州青神の人。少より学に志を刻み、臥すに榻を設けず幾十年。慶元元年の類試に及第し、滬川尉に調じ、什邡に易え、再び綿州学教授・羅江丞に調じ、制置司の檄により幕府に置かれた。吳獵が蜀を諭すに当たり、泰之は書を送って言った、「假令吳曦が乱を為すとも、士大夫が従わなければ、必ず敢えて為さざる所あらん。既に乱が起こりて、士大夫が抗すれば、曦もなお憚る所あらん。乱は、曦の為す所なり。乱の成る所以は、士大夫の為す所なり」と。

原文楊泰之,字叔正,眉州青神人。少刻志於學,臥不設榻幾十歲。慶元元年類試,調滬川尉,易什邡,再調綿州學教授、羅江丞,制置司檄置幕府。吳獵諭蜀,泰之貽書曰:「使吳曦為亂,而士大夫不從,必有不敢為;既亂,而士大夫能抗,曦猶有所憚。夫亂,曦之為也;亂所以成,士大夫之為也。」

厳道県知県に改め、嘉定通判を摂行す。白崖砦の将王壎が蛮を引きいて利店を寇す。刑獄使者は壎を法に置き、また余人を巻き添えにして坐すべき死罪に当たるとした。泰之は訪ねて知るに、夷都は実に利店に近く、夷都蛮が乱を称するには、導きを必要とせず、固くこれを釈放するよう請うたが、聞き入れられなかった。そこで官を去った。宣撫使安丙がこれを推薦して言った、「蜀中の名儒楊虞仲の子、逆臣の変に当たり、位ある者を励まして動かざるべしと言う。言を用いられず、衣を払って去る。仮令尺寸の柄を得させば、必ずや危難に命を致すを見るべし」と。泰之を都堂審察に召し出そうとしたが、親老を理由に辞した。広安軍知軍に差し、未だ上らず、父の喪に遭う。喪が明け、富順監知監となる。官を去るに当たり、禄稟数千緡を鄰里に与え、千緡を義庄とした。普州知州となり、安居・安嶽の二県が被害特に惨かったので、泰之は力を尽くして丙にその賦税を全て免除するよう訴えた。丙は再び朝廷に推薦し、行在に召し出そうとしたが、固く辞した。果州知州となる。踦零銭が民を苦しめていたので、泰之は一年の経費を儲けてその余剰を諸邑の対減に充て、尚書省に上申し、定式として按じられた。民はこれを歌って曰く、「前は張、後は楊、我に恵み無疆」と。張は張義を謂い、実に自らその端を発し、泰之がこれに踵いて行ったのである。

原文改知嚴道縣,攝通判嘉定。白厓砦將王壎引蠻寇利店,刑獄使者置壎於法,又罥絓餘人當坐死。泰之訪知夷都實邇利店,夷都蠻稱亂,不需引導,固請釋之,不聽。乃去官。宣撫使安丙薦之曰:「蜀中名儒楊虞仲之子,當逆臣之變,勉有位者毋動。言不用,拂衣而去。使得尺寸之柄,必能見危致命。」召泰之赴都堂審察,以親老辭。差知廣安軍,未上,丁父憂。免喪,知富順監。去官,以祿稟數千緡予鄰里,以千緡為義莊。知普州,以安居、安嶽二縣受禍尤慘,泰之力白丙盡蠲其賦。丙復薦於朝,召赴行在,固辭。知果州。踦零錢病民,泰之以一年經費儲其贏為諸邑對減,上尚書省,按為定式。民歌之曰:「前張後楊,惠我無疆。」張謂張義,實自發其端,而泰之踵行之。

理宗即位し、入対を促され、言った、「天に法りて健を行い、英断を奮い起こし、威権を総攬し、私意に牽かれず、邪説に奪われず、以て蠱敝を救い、以て治功を新たにすべし。本朝の徳沢、近ごろ斬喪して余す所無く、民に恒心無くば、何を以て国と為さん。陛下は直言を以て人を求めながら、直言を以てこれを罪し、天下に言を以て戒めと為さしむ。臣恐らくは、言路既に梗み、士気益々消え、循循默默として、漸く衰世の風と成り、国を為す者何ぞ此れに便ならん」と。上はその対を奇とし、工部郎中とした。その後、事を言う者相継ぎ、避忌する所無く、泰之より発したのである。軍器少監・大理少卿に遷る。

原文理宗即位,趣入對,言:「法天行健,奮發英斷,總攬威權,無牽於私意,無奪於邪說,以救蠱敝,以新治功。本朝德澤,邇來斵喪無餘,民無恒心,何以為國?陛下以直言求人,而以直言罪之,使天下以言為戒。臣恐言路既梗,士氣益消,循循默默,浸成衰世之風,為國者何便於此?」上奇其對,以為工部郎中。其後言事者相繼,無所避忌,自泰之發之。遷軍器少監、大理少卿。

紹定元年に入対し、謂う、「風雨暴を為し、水潦溢れ潰るるは、此れ陰盛陽微の証なり。而るに臺臣は諉えて曰く、霅川水患の惨は、桀の余烈なりと」。後また言う、「巴陵追降の命は、群臣に違うことを重んじ、友愛を絶つことを軽んず。陛下は天位の至逸に居るならば、則ち天倫の大痛を思うべし。秦邸は房陵に歿し、既に封諡を行い、またその子を録用す。今乃ち曰く『後と為すべからず、以て他日の憂いを貽す』と、何ぞ人の示すこと広からざるや」と。また曰く、「今日言わざれば、後必ず之を言う者あらん。其れ後を追恤するに、固く今に行うに若かざるなり」と。この日、寶謨閣直学士・重慶府知府に任ぜられる詔があった。書を為って丞相に別れを告げて曰く、「宰相の職事は、人を用いるに道有るより大なるは無く、自私の心を去り、人を容れる度を恢め、取舍の理を審らかにするのみ」と。官に至り、俗用大いに変わる。千秋鴻禧観を主管し、卒す。

原文紹定元年入對,謂:「風雨為暴,水潦潰溢,此陰盛陽微之證。而臺臣諉曰霅川水患之慘,桀之餘烈也。」後又言:「巴陵追降之命,重於違群臣,輕於絕友愛。陛下居天位之至逸,則當思天倫之大痛。秦邸歿於房陵,既行封諡,又錄用其子。今乃曰『不當為之後,以貽它日憂』,何示人之不廣乎?」又曰:「今日不言,後必有言之者。與其追恤於後,固不若舉行於今也。」是日,詔直寶謨閣、知重慶府。為書以別丞相曰:「宰相職事,無大於用人有道,去自私之心,恢容人之度,審取舍之理而已。」至官,俗用大變。主管千秋鴻禧觀,卒。

著した所に『克斎文集』・『論語解』・『老子解』・『春秋列國事目』・『公羊』・『穀梁類』・『詩類』・『詩名物編』・『論』・『孟類』・『東漢三國志さんごくし南北史唐五代史類』・『歷代通鑒本朝長編類』・『東漢名物編』・『詩事類』・『大易要言』・雑著、凡そ二百九十七巻。

原文所著《克齋文集》、《論語解》、《老子解》、《春秋列國事目》、《公羊》、《穀梁類》、《詩類》、《詩名物編》、《論》、《孟類》、《東漢三國志南北史唐五代史類》、《歷代通鑒本朝長編類》、《東漢名物編》、《詩事類》、《大易要言》、雜著,凡二百九十七卷。