宋史

列傳第一百九十三 儒林四 劉子翬 呂祖謙 蔡元定子:沉 陸九齡兄:九韶 陸九淵 薛季宣 陳傅良 葉適 戴溪 蔡幼學 楊泰之

劉子翬

劉子翬、字は彦冲、贈太師劉韐の次子なり。父の任により承務郎を授かり、真定府の幕属に辟せられる。劉韐は靖康の難にて死し、子翬は痛憤し、殆ど生くる所以無く、墓側に三年服す。喪服を除き、興化軍通判となる。賊の楊就が閩の境を犯すや、子翬は郡将張當世と謀りを画し備禦す、平素より戎事に服する者の如く、賊は敢えて犯さず。事聞こえ、詔によりそのまま任に留まる。

子翬は初め喪に服して羸疾を致し、ここに至り吏責に堪えざるを以て、辞して武夷山に帰り、出でざること凡そ十七年。間々その父の墓下に走り、瞻望徘徊し、涕泗嗚咽し、或いは累日にして返る。妻死して再び娶らず、継母呂氏及び兄の子羽に事えて孝友を尽くす。子羽の子劉珙、幼くして英敏にして学を嗜み、子翬これを教えて懈らず、劉珙ついに立つこと有り。

籍溪の胡憲、白水の劉勉之と交わり相得、毎に会見すれば、講学の外に雑言無し。その他の交遊する所は、皆海内の知名の士なり、而して任重くして遠きに致すを期する者は、ただ新安の朱熹のみなり。初め、朱熹の父松将に死せんとし、朱熹を託して子翬に付す。及び朱熹益を請うに及び、子翬は『易』の「不遠復」の三言を以て告げ、之を終身佩かしむ、朱熹後ついに儒宗と為る。子翬少にして仏氏の説を喜び、帰りて『易』を読むや、即ち渙然として得る所有り。その説以為く、『易』を学ぶには当に先ず『復』をすべし、故に是を以て朱熹に告げしなり。

一日、微疾を感ずるや、即ち家廟に謁し、泣いて母に別れ、親朋と訣し、劉珙に家事を付し、葬処を指し、親戚の孤弱にして業無き者を処し、学者に修身求道を訓ゆること数百言。後二日にして卒す、年四十七。学者「屏山先生」と称す。劉珙は別に傳有り。

呂祖謙

呂祖謙、字は伯恭、尚書右丞呂好問の孫なり。その祖より始めて婺州に居す。祖謙の学は家庭に本づき、中原文獻の傳有り。長じて林之奇、汪應辰、胡憲に従い遊び、既にして又張栻、朱熹と友と為り、講索益々精なり。

初め、蔭補により官に入り、後に進士に挙げられ、復た博學宏詞科に中り、南外宗教に調せらる。内艱に遭い、明招山に居し、四方の士争いて之に趨る。太學博士を除され、時に中都の官待次する者は例として外補せらるるも、添差として嚴州教授と為り、尋いで復た召されて博士兼國史院編修官・實錄院檢討官と為る。輪對にて、孝宗に聖學に留意せんことを勉め、且つ言う、「恢復は大事なり、規模当に定むべく、方略当に審かにすべし。陛下方に豪傑を広く攬め、共に事功を集めんとす、臣願わくは精しく考察を加え、之をして確かに經畫の實を指さしめ、孰れを先とし孰れを後とするかを明らかにし、嘗試僥倖の説をして敢えて前に陳べざらしめ、然る後に一二の大臣と成算を定めて次第に行えば、則ち大義伸べられ、大業復たせられん」と。

召試館職。是に先んじ、召試する者は率ね前期に學士院に従い問目を求む、獨り祖謙然らず、而してその文特に典美なり。嘗て陸九淵の文を読みて之を喜び、未だ其人を識らず。禮部を考試し、一卷を得て曰く、「此れ必ずや江西の小陸の文なり」と。揭示するに、果たして九淵なり、人その精鑒に服す。父憂に遭い、喪を免れ、台州崇道觀を主管す。

三年を越え、秘書郎・國史院編修官・實錄院檢討官を除す。修撰李燾の薦めにより、『徽宗實錄』を重修す。書成り、秩を進む。面對にて言う、

「夫れ治道の體統は、上下内外相侵奪せずして後に安んず。郷者、陛下は大臣の任に勝えざるを以て而して其の事を兼ね行い、大臣も亦皆細務に親しみて有司の事を行い、外は監司・守令の職任に至るまで、率ね其の上に侵され而して其の下を令せしむること能わず。故に豪猾官府を玩び、郡縣省部を忽せにし、掾屬長吏を淩ぎ、賤人柄臣を軽んず。平居未だ其の患を見ざるも、一旦急有らば、誰と指麾して而して之を伸縮せんや。若し曰く臣下の權任太重にして、其の私無からざるを懼る、則ち給・舍を以て出納し、臺諫を以て救正し、侍從を以て詢訪す。儻し端方にして倚らざるの人を得て之を分ち処せば、自ら專恣の慮無からん、何ぞ必ずしも至尊を屈して以て其の労を代えんや。人の關鬲脈絡少しく壅滯有れば、久しければ則ち疾を生ず。陛下左右に於いては、操制を労せずと雖も、苟も玩んで慮らざれば、則ち聲勢浸長し、趨附浸多くなり、過咎浸積し、内には則ち陛下の遣わさるるを懼れて益々壅蔽を思い、外には則ち公議の疾する所と為るを懼れて益々詆排を肆にせん。願わくは陛下虚心を以て天下の士を求め、要を執りて以て萬事の機を総べよ。圖任或いは誤ると以て人多しと謂いて疑う可からず、聰明獨り高しと以て智足りて遍察すと謂う可からず、小に詳なるも以て遠大の計を忘るる可からず、近きに忽せるも以て壅蔽の萌を忘るる可からず」。

又た言う、

「國朝の治體、遠く前代を過ぐる者有り、前代を視て未だ備わらざる者有り。寬大忠厚を以て規模を建立し、禮遜節義を以て風俗を成就するは、此れ所謂遠く前代を過ぐる者なり。故に俶擾艱危の後、東南に駐蹕すること五十年を踰え、纖毫の虞無きは、則ち根本の深きを知る可し。然れども文治觀る可くして武績未だ振わず、名勝相望みて幹略未だ優れず、故に昌熾盛大の時と雖も、此の病已に見ゆ。是を以て元昊の難に、范・韓皆一時の選を極むるも、而して平殄すること能わざれば、則ち事功の競わざる従て知る可し。臣謂う、今日の治體前代を視て未だ備わらざる者は、固に當に激厲して振起すべく、遠く前代を過ぐる者は、尤も當に愛護して扶持すべし」。

著作郎に遷り、末疾(四肢の病)を以て、祠官を請うて帰郷す。先に、書肆に『聖宋文海』と題する書あり、孝宗は臨安府に命じて校正刊行せしむ。学士周必大、『文海』は去取に差謬あり、後世に伝うるは恐らく難からん、何ぞ館職に委ねて銓擇せしめ、以て一代の書を成さしめざる、と言う。孝宗は以て祖謙に命ず。遂に中興以前を断じ、雅を崇び浮を黜き、類して百五十巻と為し、之を上る。賜名して『皇朝文鑑』と曰う。

詔して直秘閣を除す。時に職名を重んずる方なり、功無き者は除せず、中書舎人陳騤之を駁す。孝宗、旨を批して云う、「館閣の職は、文史を先とす。祖謙の進むる所、採取精詳にして、治道に益有り。故に以て之を寵す。即ち命詞すべし」と。騤已むを得ず制を草す。尋いで沖祐観を主管す。明年、著作郎兼国史院編修官を除す。卒す。年四十五。諡して「成」と曰う。

祖謙の学は関・洛を宗と為し、而して旁ら載籍を稽へ、涯涘を見ず。心平気和、崖異を立つること無く、一時の英偉卓犖の士皆心を帰す。少く卞急なりき。一日、孔子の言「躬自ら厚くして人を責むるに薄し」を誦し、忽ち平時の忿懥ふんち氷の如く解るを覚ゆ。朱熹嘗て言う、「学伯恭の如き、方に是れ能く気質を変化するなり」と。其の講画する所、将に物を開き務を成さんとす。既に病に臥すも、而して任重く道遠きの意衰えず。家に居るの政は、皆後世の法と為すべし。『読詩記』『大事記』を修む。皆未だ書を成さず。『古周易』『書説』『閫範』『官箴』『辨志録』『欧陽公本末』を考定す。皆世に行わる。晚年、友を会するの地を麗沢書院と曰う。金華城中に在り。既に歿す。郡人即ち之を祠す。子延年。

蔡元定

蔡元定、字は季通、建州建陽の人。生まれながら穎悟、八歳にして詩を能くし、日に数千言を記す。父発、群書を博覧し、号して「牧堂老人」と曰い、程氏の『語録』、邵氏の『経世』、張氏の『正蒙』を以て元定に授け、曰く、「此れ孔・孟の正脈なり」と。元定深く其の義を涵む。既に長ずるに及び、辨析益々精し。西山の絶頂に登り、饑えを忍び薺を啖ひて読書す。

朱熹の名を聞き、往きて之に師事す。熹其の学を叩くに、大いに驚きて曰く、「此れ吾が老友なり、弟子の列に在るべからず」と。遂に対榻して諸経の奥義を講論し、毎に夜分に至る。四方来る学者には、熹必ず先ず元定に従ひ質正せしむ。太常少卿尤袤、秘書少監楊萬里、疏を聯ねて朝に薦む。之を召すも、堅く疾を以て辞す。西山に室を築き、将に終焉の計と為さんとす。

時に韓侂冑政を擅にし、偽学の禁を設け、以て善類を空しうす。台諫風に承け、専ら排撃を肆にす。然れども猶未だ敢えて言を誦して朱熹を攻むるに至らず。沈継祖・劉三傑言官と為るに至り、始めて疏を連ねて熹を詆し、並びに元定に及ぶ。元定学者劉礪に簡して曰く、「性を化し偽を起す、烏ぞ罪無からんや」と。未だ幾もなく、果たして道州に謫せらる。州県元定を捕うる甚だ急なり。元定命を聞き、家に辞せず即ち道に就く。熹と従遊する者数百人、蕭寺の中に餞別す。坐客歎息し、泣下する者有り。熹微かに元定を視るに、平時に異ならず。因りて喟然として曰く、「友朋相愛の情、季通挫けざるの志、両得と謂うべし」と。元定詩を賦して曰く、「手を執りて笑ひて相別れ、児女の悲しみを為す無かれ」と。衆、宜しく緩行すべしと謂うも、元定曰く、「天に罪を獲れば、天は逃る可けんや」と。杖屨其の子沈と同行すること三千里、脚流血と為るも、幾微も言面に見ゆること無し。

舂陵に至る。遠近より来る学者日増しに衆し。州の士子席下に趨りて以て講説を聴かざるは莫し。名士才を挟み簡傲にして前修を非笑する者も、亦心服して謁拜し、弟子の礼を執ること甚だ恭し。人の之が為に語るに曰く、「初めは敬せず、今は命を納る」と。元定を愛する者、宜しく生徒に謝すべしと謂うも、元定曰く、「彼学を以て来る、何ぞ忍びて之を拒まん。若し禍患有らば、亦た門を閉ざし竇を塞ぐの能く避くる所に非ざるなり」と。書を貽して諸子を訓えて曰く、「独り行いて影に愧じず、独り寝て衾に愧じず。吾が罪を得たる故を以て遂に懈る勿れ」と。一日、沈に謂ひて曰く、「客に謝す可し。吾安静を欲し、以て造化の旧物に還らん」と。三日を閲て卒す。侂冑既に誅せらる。贈迪功郎、諡を賜ひて「文節」と曰う。

元定は書に於いて読まざる無く、事に於いて究めざる無し。義理大原を洞見し、下りて図書・礼楽・制度に至るまで、精妙ならざる無し。古書の奇辞奥義、人の能く暁らざる所の者、一たび目を過ぐれば輒ち解す。熹嘗て曰く、「人は易き書を読むも難く、季通は難き書を読むも易し」と。熹『四書』を疏釈し、及び『易』『詩』伝『通鑑綱目』を為すに、皆元定と往復参訂す。『啓蒙』一書は、則ち元定に属して起稿せしむ。嘗て曰く、「造化微妙なるは、惟だ理に深き者のみ能く之を識る。吾季通と言いて厭わず」と。葬に及び、文を以て之を誄して曰く、「精詣の識、卓絶の才、屈す可からざるの志、窮む可からざるの弁、復た得て見る可からず」と。学者之を尊んで「西山先生」と曰う。

其の平生問学は、多く熹の書集中に寓す。著する書に『大衍詳説』『律呂新書』『燕楽』『原弁』『皇極経世』『太玄潜虚指要』『洪範解』『八陣図説』有り。熹之が為に序す。

子淵・沈、皆躬耕して仕えず。淵に『周易訓解』有り。

子 沈

沈、字は仲黙、少く朱熹に従ひ遊ぶ。熹晚年『書伝』を著さんと欲すも、未だ及ばず、遂に以て沈に属す。『洪範』の数は、学者久しく其の伝を失う。元定独り心得たり。然れども未だ論著に及ばず。曰く、「吾が書を成すは沈なり」と。沈は父師の託を受け、沈潜反復すること数十年、然る後に書を成し、先儒の未だ及ばざる所を発明す。其の『洪範』の数に於いて謂う、「天地の撰を体する者は『易』の象なり、天地の撰を紀する者は『範』の数なり。数は一奇に始まり、象は二偶に成る。奇は数の立つ所以なり、偶は数の行わる所以なり。故に二四にして八、是れ八卦の象なり。三三にして九、是れ九疇の数なり。是れ由りて八八にして又八八の四千九十六と為り、而して象備わり、九九にして又九九の六千五百六十一と為り、而して数周る。『易』は四聖を更へて象已に著わり、『範』は神禹に錫りて数伝わらず。後の作者、象数の原を昧にし、変通の妙を窒す。或いは象に即きて数と為し、或いは数に反して象を擬す。牽合傅会して、自然の数益々晦し」と。

初め、元定に従ひて道州に謫せらる。跋渉数千里、楚・粤の窮僻の処を道ふ。父子相対し、常に理義を以て自ら怡悦す。元定歿し、徒歩して喪を護りて還る。之に金を遺して義受く可からざる者有れば、輒ち謝却し、之に曰く、「吾先人を累はすに忍びず」と。年僅か三十、挙子業を屏去し、一に聖賢を師と為す。九峰に隠居す。当世の名卿物色し将に薦用せんとすれども、沈屑として就かず。次子抗、別に伝有り。

陸九齢

陸九齢、字は子壽。八世の祖は希聲、唐の昭宗に宰相として仕う。孫の德遷、五代の末、乱を避けて撫州の金溪に居を定む。父は賀、学行をもって里人の宗と為り、嘗て司馬氏の冠婚喪祭の儀を採りて家に行い、六子を生む。九齢は其の第五子なり。幼より穎悟にして端重、十歳にして母を喪い、哀毀すること成人の如し。稍く長じて、郡学の弟子員に補せらる。

時に秦檜国政を当にし、程氏の学を道とする者無く、九齢独り其の説を尊ぶ。久しくして、新たに博士の黄老の学を学び、礼法を事とせざるを聞き、慨然として歎じて曰く、「此れ吾の願い学ぶ所に非ざるなり」と。遂に家に帰り、父兄に従い講学益々力を加う。是の時、吏部員外郎許忻中朝に名有り、臨川に退居し、賓接すること少く、一たび九齢を見、語を與えて大いに説び、尽く当代の文献を以て之に告ぐ。是より九齢益々学に大肆力を加え、百家を翻閲し、昼夜倦むこと無く、悉く陰陽・星暦・五行・卜筮の説を通ず。

性周謹にして、苟簡に渉獵するを肯ぜず。太学に入り、司業汪応辰挙げて学録と為す。乾道五年の進士第に登る。桂陽軍教授に調せらるも、親老いて道遠きを以て興国軍に改む。未だ上らず、湖南の茶寇廬陵を剽し、声旁郡に揺るぎ、人心震攝す。旧に義社有りて寇に備う。郡衆の請いに従い、九齢を以て之を主とす。門人多く悦ばず。九齢曰く、「文事武備は一なり。古に征討有りては、公卿即ち将帥と為り、比閭の長は則ち五両の率なり。士にして此れを恥づれば、則ち豪侠武断の者之を専らにす」と。遂に其の事を領し、調度屯禦皆法有り。寇至らずと雖も、郡県之を倚りて重しと為す。暇あれば則ち郷の子弟と射を習い、曰く、「是れ固より男子の事なり」と。歳悪しく、剽劫する者其の門を過ぐれば、必ず相戒めて曰く、「是の家は射多く命中す、自ら死を取ること無かれ」と。

興国に至るに及び、地は大江に濱し、俗は儉嗇にして鮮かに学を知る。九齢職閑なるを以て自ら佚せず、益々規矩を厳にし、衣冠を肅し、大衆に臨むが如く、綏を勧め翼を引き、士類興起す。歳を満たさず、継母の憂いを以て去る。服除け、全州教授に調せらる。未だ上らず、疾を得る。一日晨に興き、床上に坐して客と語り、猶天下の学術人才を念とす。夕に至り、襟を整え正しく臥して卒す。年四十九。宝慶二年、特に朝奉郎・直秘閣を贈り、諡して「文達」と賜う。

九齢嘗て其の父の志を継ぎ、益々礼学を修め、家を治むるに法有り。闔門百口、男女は班を以て各其の職に供し、閨門の内は厳なること朝廷の若し。而して忠敬楽易、郷人之に化せられ、皆遜弟たり。弟九淵と相い師友と為り、和して同ぜず、学者「二陸」と号す。来たりて学を問う者有れば、九齢従容として啓告し、人々自得す。或いは語るに與ふべからざれば、則ち発せず。嘗て曰く、「人の惑うや口舌を以て争うに難き者有り、言の激しきは、適其の意を固くす。少しく需みば、未だ自ら悟らざる無からん」と。

広漢の張栻は九齢と相識らず、晚年に書を以て講学し、世道の重きを期す。呂祖謙常に之を称して曰く、「志す所は大なり、拠る所は実なり。肯綮の阻み有れば、九仞の功を積むと雖も敢えて遂げず。毫𨤲の偏り有れば、万夫の表に立つと雖も敢えて安んぜず。公に聴き並びに観、却りて立ち四顧し、至平至粹の地に造らざれば措かず」と。兄に九韶有り。

兄 九韶

九韶、字は子美。其の学淵粹なり。山中に隠居し、昼の言行は、夜必ず之を書す。其の家累世義居し、一人最も長なる者を家長と為し、一家の事は命を之に聴く。歳毎に子弟を遷して家事を分任せしめ、凡そ田疇・租税・出納・庖爨・賓客の事は、各主する者有り。九韶は訓戒の辞を韻語と為し、晨に興き、家長衆子弟を率いて先祠を謁し畢り、鼓を撃ちて其の辞を誦し、列をして之を聴かしむ。子弟過ち有れば、家長衆子弟を会して責めて之を訓じ、改めざれば則ち之を撻ち、終に改めざれば、容るべからざるを度り、則ち官府に言い、之を遠方に屏う。九韶の著す所に『梭山文集』・『家制』・『州郡図』有り。

陸九淵

陸九淵、字は子靜。生れて三四歳、其の父に天地何れの所にか窮際するかと問う。父笑いて答えず。遂に深く思い、寝食を忘るるに至る。総角に及び、挙止凡児に異なり、見る者之を敬す。人に謂いて曰く、「人の伊川の語を誦するを聞き、自ら覚ゆるに我を傷つくるが若し」と。又曰く、「伊川の言、何為れぞ孔子・孟子の言と類せざる。近く其の間多く是れざる処有るを見る」と。初め『論語』を読みて、即ち有子の言の支離なるを疑う。他日古書を読みて、「宇宙」の二字に至る。解する者曰く、「四方上下を宇と曰い、往古来今を宙と曰う」と。忽ち大いに省みて曰く、「宇宙内の事は乃ち己が分内の事、己が分内の事は乃ち宇宙内の事なり」と。又嘗て曰く、「東海に聖人の出ずる有り、此の心同じく、此の理同じし。西海・南海・北海に聖人の出ずるに至りても亦た然らざる莫し。千百世の上に聖人の出ずる有り、此の心同じく、此の理同じし。千百世の下に聖人の出ずるに至りても、此の心此の理、亦た同じからざる無し」と。

後に乾道八年の進士第に登る。行在に至り、士争いて之に従いて遊ぶ。言論感発し、聞いて興起する者甚だ衆し。人を教うるに学規を用いず、小過有れば、言其の情に中り、或いは流汗に至る。中に懐いて自ら暁らざる者あれば、之が為に其の故を条析し、悉く其の心の如し。亦た相去ること千里、其の大概を聞きて其の人を得る者あり。嘗て曰く、「念慮の正しからざる者は、頃刻にして之を知り、即ち以て正すべし。念慮の正しき者は、頃刻にして之を失えば、即ち正しからずと為る。形迹を以て観るべき者有り、不可なる者有り。形迹を以て人を観れば、則ち以て人を知るに足らず。必ず形迹を以て人を繩すれば、則ち以て之を救うに足らず」と。初め隆興靖安県主簿に調せらる。母の憂いに丁り、服闋け、建寧崇安県に改む。少師史浩の薦めに以て、召し審察せらるも赴かず。侍従復た薦め、国子正を除し、諸生を教うること在家の時に異ならず。敕令所刪定官を除す。

九淵少くして靖康間の事を聞き、慨然として復讐の義に感有り。是に至り、勇士を訪ね知り、之と恢復の大略を議す。輪対に因り、遂に五論を陳ず。一に仇恥未だ復せざるを論じ、願わくは天下の俊傑を博く求め、相与に論道経邦の職を挙げんことを。二に願わくは尊徳楽道の誠を致さんことを論ず。三に人の知り難きを論ず。四に事は当に馴致すべくして驟るべからざるを論ず。五に人主細事に親しむべからざるを論ず。帝善しと称す。未だ幾ばくもあらず、将作監丞を除す。給事中王信に駁せられ、詔して台州崇道観を主管せしむ。郷に還り、学者輻湊し、毎に講席を開けば、戸外屨満ち、耆老杖を扶けて観聴す。自ら「象山翁」と号し、学者「象山先生」と称す。嘗て学者に謂いて曰く、「汝が耳自ずから聡く、目自ずから明らかに、父に事うる自ずから能く孝に、兄に事うる自ずから能く弟たり、本より欠闕無し、必ずしも他の求めに在らず、自立するに在るのみ」と。又曰く、「此の道は利欲に溺るるの人に言うは猶易く、意見に溺るるの人に言うは却って難し」と。或いは九淵に著書を勧む。曰く、「『六経』我を注す、我『六経』を注す」と。又曰く、「学苟くも道を知らば、『六経』皆我が注脚なり」と。

光宗が即位すると、荊門軍の知事に任命された。民に訴えある者は、朝晩を問わず、皆庭に至ることを得、またその自ら状を持って追うことを命じ、期日を立てると、皆約束通りに至り、即ち情状を酌量してこれを決し、多くは勧めて釈放した。人倫に渉るものは、自らその状を毀つことをさせ、以て風俗を厚くした。ただ訓戒に堪えざる者のみ、始めて法に置いた。その境内の官吏の貪廉、民俗の習尚の善悪は、皆平素より知っていた。人がその子を殺したと訴える者がいたが、九淵は「そこまでは至らない」と言った。追及して調べると、その子は果たして無事であった。窃盗を訴えてその人を知らない者がいたが、九淵は二人の姓名を出し、捕らえて来るよう命じ、訊問して罪を認めさせ、窃盗した物を全て得て訴え主に返し、かつその罪を宥めて自新させた。因みに吏に、某所の某人が暴虐であると語った。翌日、奪掠に遭ったと訴える者がおり、即ちその人であったので、追及して処罰した。吏は大いに驚き、郡人は神の如しと思った。保伍の法を厳しく申し、盗賊が発生すれば、これを擒らえて一人も逃さず、群盗は息を潜めた。

荊門は次辺でありながら城壁がなかった。九淵は「郡は江・漢の間に位置し、四方から集まる地であり、南は江陵を捍ぎ、北は襄陽を援け、東は随・郢の脇を護り、西は光化・夷陵の衝に当たる。荊門が堅固であれば四隣は恃むところがあり、そうでなければ背肋腹心の憂いがある。唐の湖陽より山に趨れば、その漢水を渉る処は既に荊門の脇にあり、鄧の鄧城より漢水を渉れば、その山に趨る処は既に荊門の腹にある。これ以外にも、間道として馳せられる所、漢津として渉れる所、坡陀が馬を限らず、灘瀬が軌を濡らさざる所は、所在尚お多い。我より奇を出して勝を制し、敵兵の腹肋を徼うるも、亦正に此処に在り。四山環合して備え禦ぎ易いとは雖も、城池闕然として誰と守らんとするか」と考えた。そこで朝廷に請うて城壁を築かせ、これより民に辺境の憂い無し。関市の吏の検察を罷めて民税を減じ、商賈は畢く集まり、税入は日増しに増えた。旧来は銅銭を用いていたが、辺境に近いため、鉄銭に替え、かつ銅は禁じられ、更に貼納を命じていた。九淵は「既に禁じたのに、またこれを輸納させるのか」と言い、全て免除した。故事により、平時には軍伍に射を教え、郡民も参与でき、当たれば均しく賞し、その属を推薦するに流品を限らなかった。嘗て「古には流品の分無く、而して賢不肖の弁厳なり。後世には流品の分有り、而して賢不肖の弁略なり」と言った。旱魃の度に祈れば即ち雨が降り、郡人はこれを異とした。一年余りを経て、政は行き令は修まり、民俗も変わり、諸司が交えて推薦した。丞相周必大は嘗て荊門の政を称え、躬行の効と為した。

ある日、親しい者に語って「先教授兄(陸九齢)は天下に志有りしも、竟に施すを得ずして没す」と言い、また家人に「吾将に死せんとす」と言い、また僚属に告げて「某将に終わりを告げん」と言った。雪を祈る祭事に会し、明日、雪が降った。乃ち沐浴し衣を更えて端坐し、二日後の日の正中に卒した。葬儀に会した者は数千に及び、諡して「文安」と為した。

初め、九淵は嘗て朱熹と鵝湖に会し、学ぶ所を論弁して多く合わなかった。及んで熹が南康を守る時、九淵がこれを訪ね、熹は彼を伴って白鹿洞に至り、九淵は君子小人が義利を喩える一章を講じ、聴く者は涙を流す者さえあった。熹は学者の隠微深痼の病を切中するものと為した。無極而して太極の弁に至っては、則ち書を貽し往来し、論難措かず。門人楊簡・袁燮・舒璘・沈煥能く其の学を伝えたという。

薛季宣

薛季宣、字は士龍、永嘉の人。起居舍人徽言の子。徽言が卒した時、季宣は六歳で、伯父の敷文閣待制弼が引き取って養育した。弼に従って官遊し、渡江の諸老に及んで見え、中興の経理の大略を聞いた。老校・退卒の語に従うことを喜び、岳飛・韓世忠ら諸将の兵間の事を甚だ詳しく得た。十七歳の時、荊南帥の辟書に起ち従い機宜文字を書き、袁溉に事えることを得た。溉は嘗て程頤に学び、その学を尽くして彼に授けた。季宣は溉の学を得てより、古の封建・井田・郷遂・司馬法の制について、研究講画せざる無く、皆時に可行なものと為した。

金兵の未だ至らざる時、武昌令劉錡が鄂渚を鎮めていた。季宣は錡に、武昌の形勢は淮・蔡に直通し、兵寡く勢弱し、早く備えを為すべしと述べたが、錡は聴かなかった。兵が交わるに及んで、少しずつ季宣の計画を資とした。未だ幾ばくもせず、汪澈が荊襄を宣諭し、金兵が江上に趨ると、詔して成閔に還師入援せしめた。季宣はまた澈に、閔は既に蔡を得て破竹の勢い有り、便宜を守って遣わさず、その乗勝に乗じて潁昌を下し、陳・汝を経て汴都に趨らしめ、金が内顧して且つ驚潰すれば、戦わずしてその兵を屈せしめ得ると説いた。澈は聴かなかった。

当時、江・淮の仕官者は金兵の将に至らんとするを聞き、皆予めその奴を遣わし、馬を庭に繋いで待った。季宣は独り家を留め、民と期して「吾が家は即ち汝が家なり、即ち急有らば、吾は汝と偕に死せん」と言った。民も亦自ら奮った。県には盗賊多く、季宣はこれを患い、伍民の令有るに会し、乃ち保伍法を行い、五家を保と為し、二保を甲と為し、六甲を隊と為し、地形の便に因って総に合し、郷を限とせず、総首・副総首がこれを率いた。官族・士族・富族は皆保に附し、その身を蠲免し、財を輸して総の小用に供せしめた。諸総には必ず圃を設けて射を習わせ、蒱博雑戯を禁じ、武事を以て勝負を角することを許し、五日毎に庭に至ってこれを閲し、特に優れた者を賞した。不幸にして死者あれば棺を与え、その家を三年間復除した。郷には楼を置き、盗賊発生すれば鼓を伐り烽を挙げ、瞬息にして百里に遍くした。県治・白鹿磯・安楽口には皆戍を置いた。また宣諭司に請うて、戦艦十、甲三百を得、これを羅落した。守りの計定まり、兵の退く迄、人心揺るがず。

枢密使王炎が朝廷に推薦し、召されて大理寺主簿と為った。未だ至らざる内に、書を為って炎に謝し「主上は天資英特なり。群臣に将順緝熙の具無し。幸いに時に遭いながら、心を格し始めを正し、以て中興の業を建つる能わず、徒らに僥倖して功利を求め、誇言を以て俗を眩わす。中夏を復すと雖も、猶お益無し。今の計たる、仁義紀綱を本と為すに若くは莫し。兵を用いるに至っては、十年の後を俟つべしと請う」と言った。

当時、江・湖は大旱し、流民が北へ江を渡り、辺吏はまた淮北の民に塞ぎに款く者多しと奏した。宰相虞允文は季宣を淮西に行かせ、以て実辺に収めんと白し遣わした。季宣は表を為って廃田を挙げ、原隰を相し、合肥の三十六圩を復し、黄州の故治東北に二十二荘を立て、戸に屋を授け、丁に田を授け、牛及び田器穀種を頒つに各差有り、その家を廩して秋に至って止めた。凡そ戸六百八十有五を為し、合肥・黄州の間に分処し、辺に並ぶ帰正者を振業した。季宣は人に謂って「吾は今日の利の為に非ず。合肥の圩は、辺に警有れば、因って以て柵江を断ち、巢湖を保つ。黄州の地は蔡の衝に直し、諸荘が輯まれば西道に屏蔽有り」と言った。光州守宋端友は北帰者を招集して僅か五戸に止まり、旧戸を雑えて一百七十戸と為し、幸賞を以て奏した。季宣は按じてその実を得てこれを劾した。当時、端友は環列に附託して撼がし難く、季宣が奏上すると、孝宗怒り、大理に属して治めしめ、端友は憂いて死した。

季宣が帰還し、孝宗に言上して曰く、「左右の者で進言する者は、その真情を察せざるべからず。正を託して邪を行い、直を偽って佞を売り、人物を推薦・退けるに、かつて公言せず、遊説して中傷するは、乃ち自ら意に介さず。一旦号令は中より出ずるといえども、その権は既に私門に帰す。故に斉の威王の覇たる所以は、阿・即墨の誅賞に在らずして、毀誉する者の刑罰に在り。臣、近時の政を観るに、阿・即墨の誅賞無きに非ざるも、奈何ぞ毀誉の人は自若たるや」と。帝曰く、「朕方にこれを図らんとす」と。

季宣また進言して曰く、「日に淮の諸郡を城すと、臣の見る所に依れば、合肥の板幹(城壁の骨組み)方に立ち、中使が督視するも、卒卒としてこれを成す。臣が郡を行き過ぎし時、一夕の風雨にて、楼櫓五堵堕つ。溧陽の南壁は欠け、而して居巢は卑陋なること旧の如く、乃ち聞く、銭巨万を靡(費)やして城四十余丈を成す者有りと。陛下何ぞ此れを取らん!然れども外事は足るに道うる無く、咎の根未だ除かれず、臣の深く憂うる所なり。左右の近侍、陰に正士を擠(排)して陽にこれを称道し、陛下倘もし貌言に因りてこれを聴かば、臣、石顕・王鳳・鄭注の智中(計略に陥る)を恐る」と。又言う、「近時或いは好名を以て士大夫を棄つ。夫れ好名はただ臣子の学問のわずらいなり。人主、社稷の為に計るには、唯だ士の名を好まざるを恐る。誠に人々名を好み義を畏れんか、何の郷か立たざらん」と。帝善しと称し、季宣を得るの遅きを恨み、遂に両官を進め、大理正に除す。

是より此れ、凡そ奏請論薦は皆報可す。虞允文が闕失を諱むを以て、これを楽しまず。居ること七日、出でて湖州を知る。たまたま戸部が歴(帳簿)を場務に付し、錙銖わずかなものも皆分隷して経総制に属せしむ。諸郡束手して策無く、季宣朝に言う、「経総制の額を立てしより、州県は鑿空(無理に理由を設け)して贏(余剰)を取る。法を奉ずる吏有りと雖も、寛弛を思うもほしいままにするを得ず。若し復た額外にその強半を征せば、郡の調度顧みて何れの所よりか出でん?殆ど復た巧みに民より取るに至らん。民何を以てか勝えん!」と。戸部譙責することいよいよ急なり、季宣これを争うこと愈強く、台諫交わって疏を上しこれを助く。乃ち前の令を収む。

改めて常州を知らしむ。未だ上(赴任)せずして卒す。年四十。季宣は『詩』『書』『春秋』『中庸』『大学』『論語』に於いて皆訓義有り、家に蔵す。その雑著を『浪語集』と曰う。

陳傅良

陳傅良、字は君挙、温州瑞安の人。初め科挙の程文の弊を患え、その説を出して文章と為し、自ら一家を成す。人争いて伝誦し、従う者雲の合うが如し。ここによりその文は当世にほしいままなり。当是の時、永嘉の鄭伯熊・薛季宣皆学行を以て聞こえ、而して伯熊は古人の経制治法に於いて、討論尤も精し。傅良は皆これに師事し、而して季宣の学を得ること多し。太学に入るに及び、広漢の張栻・東萊の呂祖謙と友善なり。祖謙は為に本朝の文献相承の条序を言い、而して主敬集義の功は栻に得ること多し。是より此れ四方より業を受くる者愈いよいよ衆し。

進士甲科に登り、泰州を教授す。参知政事龔茂良その才を認め、朝に薦む。太学録に改む。出でて福州を通判す。丞相梁克家帥事を領し、成すことを傅良に委ぬ。傅良一府の曲直を平らかにし、一に義を以てす。強禦(権勢)の者はその私を売るを得ず、陰に言官を結びてこれを論罷せしむ。

後五年、起きて桂陽軍を知る。光宗立ち、ようやく提挙常平茶塩・転運判官に遷る。湖湘の民にあとつぎ無く、異姓を以てぐ者、官その資(財産)を利し、すなわちこれを没入す。傅良曰く、「人の嗣を絶つは、政に非ざるなり」と。これを復すことほぼ二千家。浙西提点刑獄に転ず。吏部員外郎に除す。朝を去ること十四年、是に至りて帰る。鬚鬢に黒き者無く、都人のあつまり観て嗟歎し、「老陳郎中」と号す。

傅良の学を為すや、三代・秦・漢以下におよびて研究せざる無く、一事一物、必ず極にかんがえて後已む。而して太祖の開創の本原に於いては、尤もひそかに心を用う。是に及び、輪対に因り、言う、「太祖皇帝は後人にゆとりを垂れ、民力を愛惜するを本とす。熙寧以来、用事者始めて太祖の約束を取り、一切紛更す。諸路の上供の歳額は、祥符の一倍に増す。崇寧に上供格を重修し、これを天下に頒ち、おおよそ十数倍に増至る。その他の雑斂は、則ち熙寧に常平寛剩・禁軍闕額の類を以て、別項封樁として額無し。上供は元豊に起こり、経制は宣和に起こり、総制・月樁は紹興に起こり、皆今に至るまで額と為る。折帛・和買の類は又与あずからず。茶引は尽く都茶場に帰し、塩鈔は尽く榷貨務に帰し、秋苗斗斛の十八九は綱運に帰し、皆州県に在らず。州県供する無くんば、則ち豪奪を民にす。ここに於いてこれを斛面・折変・科敷・抑配・贓罰より取り、而して民困窮極まれり。方今の患、何ぞ但だ四夷のみならんや?蓋し天命の永からんや永からざるやは、民力の寛なるや寛ならざるやに在るのみ。豈に甚だ畏るべからずや?陛下宜しく民の窮を救うを己が任と為し、太祖の未だほろびざる沢を推行し、以て万世無疆のよろこびと為すべし」と。

且つ言う、「今天下の力は兵を養うにき、而して江上の軍に甚だしきは莫し。都統司はこれを御前軍馬と謂い、朝廷と雖も知るを得ず。総領の謂う所の大軍錢糧は、版曹と雖もあずかるを得ず。ここに於いて中外の勢分かれ、而して事権一ならず、施行専らならず。民を寛にせんと欲すと雖も、その道由り無し。誠に都統司の兵をしてさきに制置司に在りし時に異ならしめ、総領所の財をして向に転運司に在りし時に異ならしめば、則ち内外一体と為る。内外一体なれば、則ち民力を寛にすることを得て議すべし」と。帝従容として嘉納し、且つこれをねぎらいて曰く、「卿昔むかしいずくにか在りし。朕見ざること久し。その著す所の書を以て朕に示せ」と。退きて『周礼説』十三篇を上る。秘書少監兼実録院検討官・嘉王府賛読に遷す。

紹熙三年、起居舎人に除す。明年、兼ねて権中書舎人と為す。初め、光宗の妃黄氏寵有り、李皇后これを妬みて殺す。光宗既にこれを聞き、而して復た郊祀の大風雨に因り、遂に震懼して心疾を得、是より此れ章疏を視ること時ならず。ここにおいて傅良奏して曰く、「一国の勢は身の如し。壅底(ふさがり滞)れば則ち疾を致す。今日は某の事を遷延し、明日は某の人を阻節す。即ち姦険有りて時に乗じて利と為せば、則ち内外の情接せず、威福の柄下に移る。その極み天変告げず、辺警聞かざるに至り、禍且つ測るべからず」と。帝悟り、会疾も亦稍平らぎ、重華宮におもむく。而して明年の重明節、復た疾を以て往かず。丞相以下太学の諸生に至るまで皆力諫す。聴かず。而してまさに内侍陳源を召して内侍省押班と為さんとす。傅良詞を草せず、且つ上疏して曰く、「陛下の宮に過かざるは、特誤って疑う所有りて積憂疾を成し、以て此れに至るのみ。臣嘗て陛下の心に即き反覆これを論ず。ひそかに自ら深切と謂う。陛下亦既にこれを許す。未幾まもなく中変し、誤りを実と為し、而して端無ききずを開き、疑いを真と為し、而していやさざる疾を成す。是れ陛下自ら禍をのこすなり」と。書奏す。帝将にこれに従わんとす。百官班立して、帝の出づるを俟つ。御屏に至る。皇后帝を引き回す。傅良遂に趨り上りて裾を引く。后これに叱す。傅良庭に哭す。后益怒る。傅良下殿しただちに行く。詔して秘閣修撰に改めなお賛読を兼ぬ。受けず。

寧宗即位の際、召されて中書舎人兼侍読・直学士院・同実録院修撰に任ぜられた。時に詔して朱熹に在外宮観を与えようとしたところ、傅良は言上した、「朱熹は進み難く退き易き人物であり、内批が下ると、朝廷中が驚愕いたしました。臣は敢えて書行いたしません」。朱熹はここにおいて宝文閣待制に進み、郡守に転じた。御史中丞謝深甫が傅良の言は行いを顧みないと論じたため、出されて興国宮提挙となった。翌年、察官が相次いで上疏し、官位を削られ罷免された。嘉泰二年に官を復し、起用されて泉州知事となったが、辞退した。集英殿修撰を授けられ、宝謨閣待制に進んだが、家で逝去した。享年六十七。諡は「文節」。

傅良の著述には『詩解詁』・『周禮説』・『春秋後傳』・『左氏章指』が世に行われている。

葉適

葉適、字は正則、温州永嘉の人である。文章を為すに藻思英発であった。淳熙五年の進士第二人に抜擢され、平江節度推官に任ぜられた。母の喪に服した。武昌軍節度判官に改めた。少保史浩が朝廷に推薦したが、召しても至らず、浙西提刑司幹辦公事に改め、士人の多くが彼と交遊した。参知政事龔茂良がまたこれを推薦し、召されて太学正となった。

博士に遷り、順番に対応する機会に因み、上奏して言った。

「人臣の義として、陛下のために建明すべきは、一大事のみであります。二陵(徽宗・欽宗の陵墓)の仇は未だ報いられず、故疆の半ばは未だ回復せず、しかるに言う者は機に乗ずべし、時を待つべしと為しています。しかし機は我より発するものであり、何ぞ彼の乗ずる所となさん。時は我より為すものであり、何ぞ彼の待つ所となさん。真に難しく真に不可なるのではなく、正に我自ら難しと為し、自ら不可と為すが故であります。

ここにおいて力屈し気索し、退伏するを甘んじていること、既に二十六年に及んでいます。今積もる所謂難しきものは陰にこれを沮み、所謂不可なるものは黙してこれを制しているのです。およそその難しきこと四つあり、その不可なること五つあります。共に天を戴かざる仇を置きて広く兼愛の義を説き、自ら虚弱を為す、これ国是の難しきこと一であります。国の是とするところ既に然り、士大夫の論もまた然り。奇謀秘策を為す者は機に乗じ時を待つのみに止まり、忠義決策を為す者は親征遷都のみに止まり、深沈慮遠を為す者は固本自治のみに止まる、これ議論の難しきこと二であります。諸臣を環視するに、迭りに進み迭りに退く、この事の本を知りて反覆論議し得る者は誰か。この志意を抱きて策励期望し得る者は誰か。これ人才の難しきこと三であります。論者はただ五代の乱を致したことを鑑みるのみで、靖康の禍を得たことを思わない。今旧模を循守して、一世の人を駆りて君仇を報ぜんと欲すれば、則ち形勢乖阻し、誠に展足の地無し。若し時に順じて増損すれば、則ちその更張動揺する所、関係至って重し、これ法度の難しきこと四であります。また甚だ不可なること有り、兵は多きを以て弱きに至り、財は多きを以て乏しきに至り、官を信ぜずして吏を信じ、人を任ぜずして法を任じ、賢能を用いずして資格を用いる:この五者は、天下を挙げて動かすべからずと為す、豈に今の実患では無いでしょうか!沿習牽制すること、一時のことに非ず。利害を講じ、虚実を明らかにし、是非を断じ、廃置を決するは、陛下の為す所に在るのみであります。」

読み終わらぬうちに、帝は額を蹙めて言われた、「朕は近頃目疾に苦しみ、この志は既に泯みてしまった。誰かよくこれを任じ得ようか、ただ卿とこれを言うのみである」。再び読まれると、帝は惨然として久しく黙された。

太常博士兼実録院検討官に除せられた。かつて丞相に陳傅良ら三十四人を推薦し、後皆召し用いられ、時に人を得たりと称された。時に朱熹が兵部郎官に除せられたが、未だ就職せず、侍郎林栗に弾劾された。適は上疏して争って言った、「栗が熹を弾劾する罪は一として実なるもの無く、ただその私意を発して遂にその欺くを忘れたのです!中に『之を道学と謂う』という一語に至っては、利害の係る所は熹のみに非ず。蓋し昔より小人の忠良を残害するや、率ね指名有り、或いは好名と為し、或いは立異と為し、或いは植党と為す。近く『道学』の目を創め、鄭丙がこれを倡え、陳賈がこれに和し、要津に居る者は密かに相付授し、士大夫に稍々潔修を慕う者を見れば、輒ち道学の名を以てこれを帰し、善を為すを以て玷闕と為し、好学を以て己が愆と為し、相与に指目して、進むことを得ざらしむ。ここにおいて賢士は惴慄し、中材は解体し、声を銷し影を滅し、徳を穢し行を垢して、この名を避く。栗は侍従たりながら、陛下の德意志慮を達するに無く、却って鄭丙・陳賈の密かに相付授するの説を襲用し、道学を以て大罪と為し、言語を文致し、一熹を逐い去る、ここより善良の禍を受くる、何ぞ有らざらん!伏して望む、暴横を摧折し、以て善類を扶けんことを」。疏が入ったが、返答が無かった。

光宗が嗣位すると、秘書郎より出て蘄州知事となった。入朝して尚書左選郎官となった。この時、帝は疾を以て重華宮に朝せずこと七月に及び、事の巨細を問わず、皆廃れて行われなかった。適は上謁して力説した、「父子の親愛は自然より出ず。浮疑私畏は、似て而も非なるもの、豈に事実有らんや。若しこれに因りて定省が上に廃され、号令が下に愆れば、人情離阻し、その能く久からんや!」既にして帝は両度重華宮に詣でられ、都人は歓悦した。適はまた奏上した、「今後は過宮の日に、宰執・侍従をして先ず起居に詣でしむべし。異時に両宮の聖意に言い難きこと有らば、自らこれに因りて伝致し得べく、則ち責任帰する所あり。復た近習の小人に言語を増損せしめ、以て疑惑を生ぜしむべからず」。返答が無かった。而して事態はまた次第に異なり、中外洶洶とした。

孝宗が不となると、群臣は号泣して裾を攀じて請うに至ったが、帝は遂に往かず。適は宰相留正を責めて言った、「上に疾有ること明らかなり。父子相見うは、疾の瘳ゆるを俟つべし。公が播告せずして、臣下をして軽々しく君父を議せしむるは、可なりや」。未幾、孝宗が崩御し、光宗は喪を執ることが出来なかった。軍士が籍籍として語り、変事且つ不測とならんとした。適はまた正に告げて言った、「上は疾有りて喪を執らざれば、将に何の辞を以て天下に謝せん。今嘉王は長ず、若し予め参決を建てば、則ち疑謗解けましょう」。宰執はその言を用い、共に入奏して嘉王を皇太子に立てることを請うと、帝はこれを許した。俄かに御批を得て、「歴事歳久しく、退閑せんことを念う」との語有り、正は懼れて去り、人心愈々動揺した。知枢密院趙汝愚は憂危して出ずる所を知らず、適は知閤門事蔡必勝に告げて言った、「国事ここに至る、子は近臣たり、庸に坐視せんや」。蔡は諾し、宣賛舎人傅昌朝・知内侍省関礼・知閤門事韓侂冑の三人と計を定めた。侂冑は太皇太后の甥である。時に慈福宮提点張宗尹が侂冑を訪ね、侂冑はその意を覗って必勝に告げた。適はこれを得て、即ち急ぎ汝愚に白上した。汝愚は必勝を請いて事を議し、遂に侂冑を遣わして張宗尹・関礼に因りて内禅の議を太皇太后に奏し、且つ垂簾を請うたところ、許され、計遂に定まった。翌日の禫祭に、太皇太后が臨朝し、嘉王が即皇帝位し、親しく祭礼を行い、百官班賀し、中外晏然とした。凡そ表奏は皆汝愚と適が裁定し、臨期に取りて儀曹郎に授け、人は始めてその議に預かったことを知った。国子司業に遷った。

汝愚が既に宰相となると、功を賞するに将に適に及ぼんとしたが、適は言った、「国危うきに忠を効すは職分なり。適何の功か有らん」。而して侂冑は功を恃み、遷秩が望みに満たざるを以て汝愚を怨んだ。適は汝愚に告げて言った、「侂冑の望む所は節鉞に過ぎず、宜しくこれを与うべし」。汝愚は従わなかった。適は歎じて言った、「禍ここより始まらん」。遂いて力を尽くして外補を求めた。太府卿・総領淮東軍馬銭糧に除せられた。汝愚が衡陽に貶せられると、適もまた御史胡紘に弾劾され、両官を降格され罷免され、沖佑観を主管し、差遣されて衢州知事となったが、辞退した。

湖南転運判官として起用され、泉州知事に転任した。召されて入朝し、寧宗に対し言上した。「陛下が即位された当初、臣はかつて『詩経』巻阿の義を申し述べて献上しました。天が聖明を啓き、党派の偏りを消し去り、人材はほぼ再び一つにまとまりました。しかし国を治めるには和を体とし、事を処するには平を極致とします。臣は人臣が己を忘れて国に身を捧げ、過去のことに心を留めず、将来に報いることを図るのがよいと願います。」帝はこれを嘉納した。初め、韓侂冑が権力を握り、人々が従わないことを憂え、一時的に言路にいた小人たちが「偽学」の名を創り出し、天下の知名の士を挙げて貶謫・追放することほぼ尽くした。その後侂冑も後悔したので、呉適が奏上でこれに言及し、かつ楼鑰・丘崈・黄度の三人を推薦し、皆に郡守を与えた。これより禁網は次第に解かれた。

権兵部侍郎に任じられたが、父の喪のため去職した。喪が明け、召還された。時に侂冑に蓋世の功を立てて地位を固めよと勧める者がおり、侂冑はこれを是とし、兵端を開かんとした。呉適は奏上して言った。

「弱さを甘んじて安泰を幸いとする者は衰え、弱さを改めて強さに就く者は興る。陛下が大臣に命を下し、先んじて慮り予算し、積年の恥を報い、祖業を規恢しようとされるのは、まさに弱さを改めて強さに就かんとされるからです。臣はひそかに、必ず先ず強弱の勢いを審らかに知ってその論を定め、論が定まってから実政を修め、実徳を行えば、弱は変じて強と為すことができ、難しいことではないと考えます。今、弱さを改めて強さに就かんとし、問罪の師を急に起こす挙に出ようとされる。これは最も大きく最も重い事です。故に必ず準備が成ってから動き、守りが定まってから戦うべきです。今、或いは金がすでに衰弱したと言って、姑く先に釁を開き、後の艱難を懼れず、宣和の時に為し得なかったことを求め、紹興の時に敢えてしなかったことを為そうとする。これは最も険しく最も危うい事です。かつ、いわゆる実政とは、瀕淮・沿漢の諸郡を経営し、それぞれに拠点を設け、堅固に自守すべきです。敵兵が来れば堅城に阻まれ、互いに策応し、その後に進取の計を言うことができます。四つの御前大軍については、練兵して敵を制するに足るようにし、大小の臣については、試用して事を立てるに足るようにする。これら皆が実政です。いわゆる実徳とは、当今、賦税は重いのに国はますます貧しくなっている。例えば和買・折帛の類で、民間では田租の半分以上を輸納する者さえいる。況んや規恢を図ろうとするなら、恩沢があるべきです。有司に詔して、どの名目の賦が民を害することが最も甚しいか、どのような横費を裁節すべきかを審らかに度るよう乞います。収入の額を減らし、支出の費を定める。上には実政を修め、下には実徳を行う。これこそが、屡戦して屈せず、必勝して敗れない所以です。」

権工部侍郎に任じられた。侂冑は彼に詔を起草させて内外を動かそうとし、権吏部侍郎兼直学士院に改めたが、病気を理由に兼職を強く辞した。時に詔して諸将に四路より出師させたが、呉適はまた侂冑に先ず江を防ぐべきだと告げたが、聞き入れられなかった。間もなく、諸軍は皆敗れ、侂冑は懼れ、丘崈を江淮宣撫使とし、呉適を宝謨閣待制・建康府知府兼沿江制置使に任じた。呉適は、三国の孫氏がかつて江北をもって江を守り、南唐以来初めてこれを失い、建炎・紹興の時にはその理を尋ねる暇がなかったと言った。そこで朝廷に請い、江北諸州の節制を乞うた。

金兵が大挙して侵入した時、一日、二騎の騎兵が旗を掲げて渡河しようとするかのようであった。淮民は倉皇として舟の纜を斬り合い、溺れる者が多く、建康は震動した。呉適は、人心が一旦揺らげば再び制御できないと考え、ただ砦を劫うことが南人の長所であるとして、市井の悍少と帳下で志願する者を募り、二百人を得て、采石の将徐緯に統率させて向かわせた。夜半を過ぎ、金兵に遭遇し、茅葦に隠れて射ると、弦に応じて倒れた。矢が尽きると、刀を揮って前進し、金兵は皆錯愕して進まなかった。黎明、我が軍が寡兵であることを知って追って来た時には、すでに舟中にいた。また命じて石跋・定山の人々に敵営を襲撃させ、その捕虜と首級を得て帰還させた。金は和州の包囲を解き、瓜歩に退いて屯し、城中はようやく安堵した。また石斌賢を遣わして宣化を渡らせ、夏侯成らを分道して往かせ、向かうところ皆捷した。金は滁州より遁走した。時に軍書が錯綜したが、呉適は平時のように政務を治め、軍需は全て官から支給し、民は擾されなかった。淮民が江を渡るには舟があり、宿泊するには寺があり、銭と米を与えられたので、その来ることは帰るが如かった。兵が退くと、宝文閣待制に進み、兼江淮制置使となり、屯田を措置し、ついに堡塢の議を上奏した。

初め、淮民は兵乱に驚き散り、日々自らの安全も保てなかった。呉適はついに、村落から数十里の内に、山水の険要に依って堡塢を築き、復業して守らせ、春夏は散って耕作し、秋冬は堡に入るようにした。凡そ四十七箇所。また江沿いの地を測量して三大堡を創設した。石跋は采石を、定山は靖安を、瓜歩は東陽・下しょくをそれぞれ屏蔽する。西は溧陽を護り、あるいは儀真と連なり、緩急に応援し、首尾連絡し、東西三百里、南北三四十里に及んだ。各堡は二千家を標準とし、習射を教えた。平時は戍兵として、五百人に一将を置いた。警報があれば新兵を増募し、諸州の禁軍二千人を抽摘し、堡塢内の居民と合わせて四千五百人とし、共に守戍した。そして制置司は毎年防秋の際、別に死士千人を募り、砦を劫い糧を焚く用途に充てた。そこで堡塢の成ることに四利があると言い、大要は「敵が北岸にあり、共に長江の険を有するが、我に堡塢があって声援と為せば、敵は江を窺うことを敢えず、士気は自ずから倍し、戦艦もまた策勲することができる。和・滁・真・六合等の城がもし退遁すれば、我は堡塢の全力をもってその襲逐を助け、あるいはその前を邀え、あるいはその後を尾いて、必ず勝を制する。これがいわゆる力を用いること寡くして功を収めること博い所以である。」と言った。三堡が完成すると、流民は次第に帰還した。時に侂冑が誅殺され、中丞雷孝友が呉適が侂冑に附いて用兵したことを弾劾したため、ついに職を奪われた。その後、祠官を奉ずること凡そ十三年、宝文閣学士・通議大夫に至った。嘉定十六年、卒去。七十四歳。光禄大夫を贈られ、諡は「文定」。

呉適は志意慷慨で、常に経世済民を自ら任じていた。侂冑が兵端を開こうとした時、呉適が常に大仇未復の言をしていたことを重んじた。しかし呉適は召還されてから、毎回の奏疏で必ず審らかにしてから発すべきと言い、かつ詔起草を強く辞した。ただ出師の時に、呉適が極力諫止し、利害禍福を説いても、侂冑は必ずや妄為せず、南北の生霊の禍を免れたであろう。議者は彼のため嘆息せざるを得なかった。

戴溪

戴溪、字は肖望、永嘉の人である。若くして文名があった。淳熙五年、別頭省試で第一となった。潭州南嶽廟を監した。紹熙初年、主管吏部架閣文字に任じられ、太学録兼実録院検討官を拝命した。正録が史職を兼ねるのは戴溪から始まった。博士に昇進し、両淮に農官を立てるべきこと、漢の稻田使者の如く、閑田を括り、地主に財を出させ、佃客に力を出させ、主客均利とし、農を救う策とすべきことを奏上した。慶元府通判に任じられたが、赴任せず、宗正簿に改められた。累遷して兵部郎官となった。

開禧の時、軍は符離で潰えた。戴溪はこれにより、沿辺の忠義人や湖南北の塩商を皆区画すべきこと、後患を消すべきことを奏上した。和議が成ると、知枢密院事張巖が京口で師を督し、参議軍事に任じられた。数ヶ月後、資善堂説書に召された。

礼部郎中より凡そ六転して太子詹事兼秘書監となった。景獻太子は倪思に『中庸』『大学』を講ぜしめんとしたが、倪思は講読は詹事の職分にあらず、官を侵すを懼れると辞した。太子曰く、「講じ終えて便服にて書を説くは、公礼にあらず、嫌うことなかれ」と。また『易』『詩』『書』『春秋』『論語』『孟子』『資治通鑑』を類別し、各々説を為して進めることを命じた。権工部尚書となり、華文閣学士を除された。嘉定八年、宣奉大夫・龍圖閣学士を以て致仕した。卒し、特進・端明殿学士を贈られた。理宗紹定年間、諡して「文端」と賜う。

倪思は長く宮僚にあり、微婉をもって春官(太子)の知遇を受けしも、然し朝に立ちて建明するに、多くは秘密を務め、或いは其の骨鯁甚だ乏しきを議すと云う。

蔡幼學

蔡幼學、字は行之、温州瑞安の人なり。十八歳の時、礼部の試験に第一となった。この時、陳傅良は太学に文名有り、幼學はこれに従いて遊ぶ。月書を祭酒芮燁及び呂祖謙に上するに、連ねて選抜され、常に傅良を出でず、皆な幼學の文は其の師を過ぐと謂えり。孝宗之を聞き、策士に因りて首列に置かんとす。而して是の時、外戚張説用事し、宰相虞允文・梁克家皆な陰にこれに附く。幼學の対策、其の略に曰く、「陛下の資は聡明なれども存する所大ならず、志は高遠なれども趨く所正しからず、治は精勤なれども大原立たず。即位の始め、太平の旦暮に至らんことを冀えり。奈何ぞ今十年、風俗日々に壊れ、将に扶持し難く;紀綱日々に乱れ、将に整斉し難く;人心益々揺れ、将に收拾し難く;吏は慢く兵は驕り、財は匱え民は困し、将に正捄し難し」と。又曰く、「陛下は名相の正しからざるを恥じ、近古に更制し、二相並び進み、以て美談と為す。然れども或いは虚誉を以て聴を惑わし、自ら功を立てんことを許し;或いは緘黙を以て身を容れ、正を持し能わず」と。蓋し虞允文・梁克家を指すなり。又曰く、「漢武帝兵を用うる以来、大司馬・大将軍の権重くして丞相軽し。公孫弘相と為り、衛青用事す、弘苟合して容を取る、相業有ること無し。宣帝・元帝は許氏・史氏を用い、成帝は王氏を用い、哀帝は丁氏・傅氏を用い、率ね元始の禍と為る。今陛下姨子をして兵柄に預からしむ、其の人一才取るべきこと無し。宰相忍びて同列とし、曾て羞恥せず。其の罪名を按ずるに、宜しく公孫弘の上に在るべし」と。蓋し張説を指すなり。帝之を覧みて懌ばず、虞允文特に之を悪む。遂に下第を得、広徳軍教授となった。

父の憂に服し、再び潭州に調せらる。執政朝に薦む、帝之を許し、且つ問う、「年幾何ぞ?何を以て幼學と名づくや?」と。参政施師點『孟子』の「幼學にして壮行す」の語を挙げて以て対う。上佇思し、慨然として曰く、「今壮なり、行うべし」と。遂に敕令所刪定官を除す。首に言う、「大恥未だ雪がず、境土未だ復せず、陛下睿知神武、以て為すべき有り。而して苟且の議、委靡の習、顧みて以て陛下の為さんと欲するの心を緩ます」と。孝宗喜びて曰く、「卿が意を解す、朕に規模を立たしめんと欲する爾」と。尋いで母の憂を以て去る。

光宗立ち、太学録を以て召され、武学博士に改む。年を踰え、太学に遷り、秘書省正字兼実録院検討官に擢でられ、校書郎に遷る。時に光宗疾を以て重華宮に朝せず、幼學封事を上りて曰く、「陛下春以来、北宮の朝を講ぜず。比者寿皇愆豫し、侍従・台諫陛を叩きて対請す、陛下衣を拂ひて起ち、相臣裾を引き、群臣随ひて以て号泣す。陛下朝を退き、宮門尽く閉ざし、大臣累日一対の清光を得ず。望日の朝、都人頸を延べ、遷延して午に至り、禁衛恨みを飲む。市廛軍伍、謗誹籍籍、旁郡列屯、伝聞疑怪し、変倉卒に起らば、陛下実に其の禍を受く。誠に身体髪膚寿皇の与うる所、宗社人民寿皇の命ずる所を思えば、則ち疇昔の慈愛心に感ずること有り、豈に聖断を独り出だし、父子の歓を復し、宗社の禍を弭がんことを得ざらんや!」疏入りて、報いず。

寧宗即位し、直言を求むる詔あり。幼學又奏す。

「陛下君の道を尽くさんと欲すれば、其の要三つ有り:親に事へ、賢を任じ、民を寛うるなり。而して其の本は講学に先んずる莫し。比年小人君子を傾けんと謀り、安靖和平の説を為して以て之を排つ。故に大臣治を興すべくして生事を以て自ら疑い、近臣忠を效すべくして旨に忤うを以て擯棄せられ、其の極は九重深拱して群臣尽く廢し、多士盈庭して一籌吐かざるに至る。自ら聖学日新し、賢を求むるに及ばざるが如くせざれば、何を以て天下の才を作さん。熙寧・元豊より始めて免役錢有り、常平積剩錢有り、無額上供錢有り;大観・宣和より始めて大禮進奉銀絹有り、贍學糴本錢有り、經制錢有り;紹興より始めて和買折帛錢有り、總制錢有り、月樁大軍錢有り;茶鹽酒榷・稅契・頭子の属に至るまで、積累増多し、祖宗に較ぶれば慮るに数十倍、民困窮極まれり。」

幼學既に時政を論列し、其の極を聖学に帰す。帝善しと称し、将に進用せんとす。時に韓侂冑方に用事し、正人を指して「偽学」と為し、異論する者立つて黜けらる。幼學遂に力を求めて外補せんとし、特に提挙福建常平を除す。陛辞し、言う、「今除授の命令径に中より出で、而して大臣の責始めて軽し;諫省・経筵故無く罷黜せられ、而して多士の心始めて惑う。或いは以て誤りて陛下を此に至らしむる者有らんや!」と。侂冑之を聞きて悦ばず。既に官に至り、日々荒政を講ず。時に朱熹建陽に居り、幼學毎事咨訪す、遂に御史劉德秀の劾に遭い罷めらる。奉祠すること凡そ八年。

起きて黄州を知り、提点福建路刑獄に改む、未だ行かず。侂冑に海内の名士を収召するを勧むる者有り、乃ち幼學を召して吏部員外郎と為す。入見し、言う、「高宗建炎間婺州の和買絹折羅の事を減ず、因りて輔臣に諭して曰く、『一日此の如き一事を行えば、一年三百六十事に過ぎず』と。陛下両浙の丁錢を除く、高宗に間無きを視る、然れども兵事既に開け、諸路鋒鏑轉餉の艱に罹り、江・湖以南調募科需の擾れ有り、惟だ陛下邦本を愛惜するを念と為さんことを」と。国子司業・宗正少卿に遷り、皆な兼ねて権中書舎人とす。

侂冑既に誅せらる、余党尚ほ正路を塞ぐ、幼學次第に弾繳し、竄黜すること尤も衆し、職に称すと号す。中書舎人兼侍講に遷る。故事に、閤門・宣贊以下、十年供職して、始めて路都監若しくは鈐轄を得。侂冑成法を壊し、率ね五六年七八年にして即ち等を越えて除授し、已に外職を授けらるるも猶禁闥に通籍する者有り、幼學一切に釐正す。

嘉定初め、楼鑰と同く貢挙を知る。時に正学久しく錮され、士は声律度数に専らし、其の学支離なり。幼學始めて義理の文を取り、士習漸く正に復す。直学士院を兼ね、内外の制皆な温醇雅厚にして得体を得、人多く之を称す。刑部侍郎を除し、吏部に改む、仍って職を兼ぬ。趙師𢍰臨安府知事を除せらる、𢍰辞す。故事に、当に不允の詔有るべし。幼學言う、「師𢍰権臣に媚びて官を進め、三たび京兆を尹し、狼籍にして善状無し、詔必ず褒語を出すべし、臣何の辞を以て草せん」と。命遂に寢す。侍読を兼ねるに改め、師𢍰の命乃ち下る。

龍圖閣待制に任ぜられ、泉州知州となり、建康府・福州に移り、福建路安撫使に進む。政は寛大を主とし、ただ民を傷つけることを恐れた。福建の下州では、例として民に塩を買わせ、戸産の高下によって均等に売るものを産塩と称し、取引契紙の銭を割り当てるものを浮塩と称し、いずれも常賦の外に出て、久しくなって遂に定賦となった。幼學は力を尽くしてこれを免除するよう請うたが、聞き入れられなかった。提挙司は民に田地の高下によって新会子を蔵めるよう命じ、命令に従わない者はその資産を没収した。幼學は言った、「民を欺くことができようか、我がそれに耐えられようか。ただ去るのみである」と。そこで銭幣が均一でなく、秤提の術がないことを言上し、力を尽くして罷免を求めた。遂に寶謨閣直學士・提舉萬壽宮に昇進した。兵部尚書権官兼修玉牒官に召され、まもなく太子詹事を兼ねた。

先に、朝廷が歳幣を金の境内に送ったが、ちょうどその国に内難があり、受け取られず、するとすぐに軍を率いて辺境を叩いてこれを要求した。朝廷内外が騒然とし、皆すぐに与えるべきだと言った。幼學が対面を請い、言った、「玉帛を携えた使者が未だ帰らず、侵攻の軍が突然到来し、かつ侮慢をほしいままにし、文辞に表している。天の怒り人の憤り、大義を伸ばしてその謀りごとを打ち破らねばならぬではないか」と。そこで朝廷の議論は奮い立ち、始めて金との断交を詔した。幼學はそこで「本根を固めて外患を消し、意向を示して衆志を定め、人材の登用を公にして謀りごとを合わせ、帰順を審らかにして南北を一つにすべし」と請うた。帝は良しと称した。ある夜、異なる夢を感じ、星が屋の西南隅に落ち、遂に卒した。六十四歳。

幼學は早くから文才をもって世に鳴り、中年の著述は、いっそう根本を究め、教化の大いに関わり、性情の正しきによるものでなければ語らなかった。器質は重厚で、その境涯を窺うことができず、終日端座し、一言も妄りに発しなかった。しかし義理を弁論するに及んでは、縦横に開闔し、はい然として江河を決するが如く、弁士も及ばなかった。かつて司馬光の『公卿百官表』を継ぎ、『年曆』・『大事記』・『備忘』・『辨疑』・『編年政要』・『列傳舉要』など、凡そ百余篇を著し、世に伝わった。

楊泰之

楊泰之、字は叔正、眉州青神の人。少より学に志を刻み、臥すに榻を設けず幾十年。慶元元年の類試に及第し、滬川尉に調じ、什邡に易え、再び綿州学教授・羅江丞に調じ、制置司の檄により幕府に置かれた。吳獵が蜀を諭すに当たり、泰之は書を送って言った、「假令吳曦が乱を為すとも、士大夫が従わなければ、必ず敢えて為さざる所あらん。既に乱が起こりて、士大夫が抗すれば、曦もなお憚る所あらん。乱は、曦の為す所なり。乱の成る所以は、士大夫の為す所なり」と。

厳道県知県に改め、嘉定通判を摂行す。白崖砦の将王壎が蛮を引きいて利店を寇す。刑獄使者は壎を法に置き、また余人を巻き添えにして坐すべき死罪に当たるとした。泰之は訪ねて知るに、夷都は実に利店に近く、夷都蛮が乱を称するには、導きを必要とせず、固くこれを釈放するよう請うたが、聞き入れられなかった。そこで官を去った。宣撫使安丙がこれを推薦して言った、「蜀中の名儒楊虞仲の子、逆臣の変に当たり、位ある者を励まして動かざるべしと言う。言を用いられず、衣を払って去る。仮令尺寸の柄を得させば、必ずや危難に命を致すを見るべし」と。泰之を都堂審察に召し出そうとしたが、親老を理由に辞した。広安軍知軍に差し、未だ上らず、父の喪に遭う。喪が明け、富順監知監となる。官を去るに当たり、禄稟数千緡を鄰里に与え、千緡を義庄とした。普州知州となり、安居・安嶽の二県が被害特に惨かったので、泰之は力を尽くして丙にその賦税を全て免除するよう訴えた。丙は再び朝廷に推薦し、行在に召し出そうとしたが、固く辞した。果州知州となる。踦零銭が民を苦しめていたので、泰之は一年の経費を儲けてその余剰を諸邑の対減に充て、尚書省に上申し、定式として按じられた。民はこれを歌って曰く、「前は張、後は楊、我に恵み無疆」と。張は張義を謂い、実に自らその端を発し、泰之がこれに踵いて行ったのである。

理宗即位し、入対を促され、言った、「天に法りて健を行い、英断を奮い起こし、威権を総攬し、私意に牽かれず、邪説に奪われず、以て蠱敝を救い、以て治功を新たにすべし。本朝の徳沢、近ごろ斬喪して余す所無く、民に恒心無くば、何を以て国と為さん。陛下は直言を以て人を求めながら、直言を以てこれを罪し、天下に言を以て戒めと為さしむ。臣恐らくは、言路既に梗み、士気益々消え、循循默默として、漸く衰世の風と成り、国を為す者何ぞ此れに便ならん」と。上はその対を奇とし、工部郎中とした。その後、事を言う者相継ぎ、避忌する所無く、泰之より発したのである。軍器少監・大理少卿に遷る。

紹定元年に入対し、謂う、「風雨暴を為し、水潦溢れ潰るるは、此れ陰盛陽微の証なり。而るに臺臣は諉えて曰く、霅川水患の惨は、桀の余烈なりと」。後また言う、「巴陵追降の命は、群臣に違うことを重んじ、友愛を絶つことを軽んず。陛下は天位の至逸に居るならば、則ち天倫の大痛を思うべし。秦邸は房陵に歿し、既に封諡を行い、またその子を録用す。今乃ち曰く『後と為すべからず、以て他日の憂いを貽す』と、何ぞ人の示すこと広からざるや」と。また曰く、「今日言わざれば、後必ず之を言う者あらん。其れ後を追恤するに、固く今に行うに若かざるなり」と。この日、寶謨閣直学士・重慶府知府に任ぜられる詔があった。書を為って丞相に別れを告げて曰く、「宰相の職事は、人を用いるに道有るより大なるは無く、自私の心を去り、人を容れる度を恢め、取舍の理を審らかにするのみ」と。官に至り、俗用大いに変わる。千秋鴻禧観を主管し、卒す。

著した所に『克斎文集』・『論語解』・『老子解』・『春秋列國事目』・『公羊』・『穀梁類』・『詩類』・『詩名物編』・『論』・『孟類』・『東漢三國志さんごくし南北史唐五代史類』・『歷代通鑒本朝長編類』・『東漢名物編』・『詩事類』・『大易要言』・雑著、凡そ二百九十七巻。