宋史

列傳第一百九十二 儒林三 邵伯温 喩樗 洪興祖 高閌 程大昌 林之奇 林光朝 楊萬里

邵伯溫

邵伯溫、字は子文、洛陽らくようの人、康節處士雍の子なり。雍は一時に名重く、司馬光・韓維・呂公著・程頤兄弟のごとき皆その門に交わる。伯溫は入りては父の教えを聞き、出でては則ち司馬光らに事え、而して光らも亦た名位輩行を屈し、伯溫と再世の交わりを為す。故に聞くところ日ごとに博く、而して特に当世の務に熟す。光が相に入りしとき、嘗て伯溫を薦めんと欲す、未だ果たさずして薨ず。後に河南尹と部使者の薦めにより、特授にて大名府助教、潞州長子県尉に調ず。

初め、蔡確の相たりしとき、神宗崩じ、哲宗立ち、邢恕は襄州より河陽に移り、確に詣りて定策の事を造らんと謀る。及び司馬光の子康が闕に詣るや、恕は康を召して河陽に詣らしむ。伯溫、康に謂ひて曰く、「公休(康の字)は喪を除きて未だ君に見えず、枉げて道を先んじて朋友を見るべからず」と。康曰く、「已に之に諾せり」と。伯溫曰く、「恕は傾巧にして、或は事を以て公休に要せん。若し之に従はば、必ず他日の悔いを為さん」と。康竟に往く。恕果たして康を勧めて書を作り確を称し、以て他日身を全うし家を保つ計と為さしむ。康と恕は同年に科に登り、恕は又た光の門下に出づ。康遂に書を作ること恕の言の如し。恕は蓋し康を以て光の子と為し、確に定策の功有りと言へば、世必ず信ぜらるべしとす。既にして梁燾は諫議を以て召され、恕も亦た燾を要して河陽に至らしめ、連日夜確の功を論じて止まず、且つ康の書を以て証と為す。燾悦ばず。会に呉処厚、確の詩が朝政を謗るを奏す。燾と劉安世共に確を誅せんことを請ひ、且つ恕の罪を論じ、亦た康に分折せしむ。康始めて之を悔ゆ。康卒し、子の植幼し。宣仁后之を憫れむ。呂大防、康が素より伯溫を託すべきと為すを謂ひ、伯溫を西京教授と為して以て植を教へしむるを請ふ。伯溫既に官に至りて、則ち植に誨へて曰く、「温公(司馬光)の孫、大諫(康)の子、賢愚は天下に在り、畏るべし」と。植之を聞き、力學懈まず、卒に立つこと有り。

紹聖初め、章惇相と為る。惇は嘗て康節(邵雍)に事へ、伯溫を用ひんと欲す。伯溫往かず。会に法に当り吏部の銓に赴くべし。程頤、伯溫に為りて曰く、「吾子の行を危ぶむ」と。伯溫曰く、「豈に先公を地下に見んと欲せざらんや」と。至れば則ち先づ部に就きて官を擬し、而して後に宰相に見ゆ。惇、康節の學に論及びて曰く、「嗟乎、吾先生に於いて卒業すること能はざりき」と。伯溫曰く、「先君の先天の學は、天地萬物を論じて盡くさざる無し。其の信ずるや、則ち人の仇怨反覆する者も忘るべし」と。時に惇方に黨獄を興す。故に是を以て之を動かす。惇悚然たり。猶ほ之を朝に薦む。而して伯溫は郡県の吏を補はんことを願ふ。惇悦ばず。遂に監永興軍鑄錢監を得たり。時に元祐の諸賢方に南遷し、士之を訪ふ者鮮し。伯溫は范祖禹を咸平に見、范純仁を潁昌に見る。或は之が為に恐るるも、顧みず。会に西辺兵を用ひ、夏人の故地を復す。軍に従ふ者は累數階を得べし。伯溫当に行くべしとすれども、輒ち同列を推す。秩満す。惇猶ほ相位に在り。伯溫義として京師に至らず、外臺に従ひて環慶路帥幕を辟し、実に惇を避くるなり。

徽宗即位し、日食を以て言を求む。伯溫上書累數千言、大要祖宗の制度を復し、宣仁の誣謗を辨じ、元祐の黨錮を解き、君子小人を分かち、民を労し兵を用ふるを戒めんと欲す。語極めて懇至なり。宣仁太后の謗りは、伯溫既に之を辨じ、又た著書名づけて『辨誣』とす。後に崇寧・大観の間、元符の上書人を以て邪正等を分つ。伯溫は邪等の中に在り。此の書に因るなり。

出でて華州西嶽廟を監す。久しくして、峽州霊寶県を知り、芮城県に徙る。母憂に丁し、服除く。永興軍耀州三白渠公事を主管す。童貫宣撫使と為る。士大夫争ひて其の門を出づ。伯溫其の来るを聞き、他州に出でて之を避く。果州を知ることを除さる。歳に瀘南諸州の綾絹・絲綿數十万を輸するを罷め、以て民力を寬めんことを請ふ。興元府・遂寧府・邠州を知ることを除さるも、皆赴かず。提点成都路刑獄を擢でらる。賊の史斌、武休を破り、漢・利に入り、劍門を窺ふ。伯溫は成都帥臣の盧法原と合謀して劍門を守る。賊竟に入ること能はず。しょく人之を徳とす。利路転運副使を除さる。太平観を提挙す。紹興四年、卒す。年七十八。初め、邵雍嘗て曰く、「世乱れ行はば、蜀安し、避居すべし」と。及んで宣和の末、伯溫家を載せて蜀に使す。故に難を免る。

伯溫嘗て元祐・紹聖の政を論じて曰く、「公卿大夫は、当に國體を知るべし。蔡確の姦邪を以て、之を死地に投ずるは、何ぞ惜しむに足らん。然れども嘗て宰相と為りし者には、当に宰相を以て之を待つべし。范忠宣(純仁)は文正(范仲淹)の餘風有り、國體を知る者なり。故に確の罪を薄くせんと欲し、言既に用ひられず、退きて確の詞命を行ひ、然る後に去らんことを求む。君子長者仁人の用心なり。確南荒に死す。豈に獨り國體を傷つくるのみならんや。劉摯・梁燾・王岩叟・劉安世は忠直餘り有れども、然れども悪を疾むこと已に甚だしく、國體を知らず。以て後日の縉紳の禍を貽す。過無きにし能はざるなり」と。

趙鼎少くより伯溫に従ひて遊ぶ。及んで相に当たり、追録を行はんことを乞ふ。始めて秘閣修撰を贈る。嘗て伯溫の墓を表して曰く、「學行を以て元祐に起り、名節を以て紹聖に居り、言を以て崇寧に廢せらる」と。世此の三語を以て伯溫の出處を盡すと云ふ。

著書に『河南集』・『聞見錄』・『皇極系述』・『辨誣』・『辨惑』・『皇極經世序』・『観物内外篇解』有り。近百巻。三子:溥・博・傅。

喻樗

喻樗、字は子才、其の先は南昌の人。初め、俞藥、梁に仕へ、位は安州刺史に至る。武帝姓を喻と賜ふ。後に厳に徙る。樗其の十六世の孫なり。少くして伊・洛の學を慕ふ。建炎三年進士第に中り、人と為り質直にして議論を好む。趙鼎樞筦を去り、常山に居る。樗往きて謁す。因りて之を諷して曰く、「公の上に事ふるは、当に啓沃多くして施行少なくすべし。啓沃の際は、当に誠意多くして言語少なくすべし」と。鼎之を奇とし、引いて上客と為す。鼎川陝・荊襄を都督ととくし、樗を辟して属と為す。

紹興初め、高宗親征す。樗鼎に見えて曰く、「六龍江に臨み、兵気百倍す。然れども公自ら此の挙を度るに、果たして萬全より出づるか。或は姑く一擲を試みるか」と。鼎曰く、「中国累年退避振はず、敵情益々驕る。義更に屈すべからず。故に上を行はしむるを贊ふるなり。若し事の濟ふや否やは、則ち鼎の知る所に非ず」と。樗曰く、「然らば則ち帰路を思ふべし。賊を以て君父の憂ひを遺すこと無かれ」と。鼎曰く、「策安くにか出づる」と。樗曰く、「張徳遠(浚)重望有り、閩に居る。今は其をして江・淮・荊・浙・福建等路宣撫使と為さしむるに若かず。諸道の兵を俾して闕に赴かしむ。命下るの日、府庫軍旅錢穀皆専ら之を得しむ。宣撫の来る路、即ち朝廷の帰路なり」と。鼎曰く、「諾」と。是に於いて入奏して曰く、「今沿江の経畫大計略定まる。大臣を得て相応援せざれば不可なり。張浚の人才、陛下終に之を棄てんや」と。帝曰く、「朕之を用ふ」と。遂に浚を起して知樞密院事と為す。浚至り、鼎の手を執りて曰く、「此の行の挙措皆人心に合ふ」と。鼎笑ひて曰く、「子才の功なり」と。樗是に於いて鼎・浚の間を往來し、裨益する所多し。頃くして、鼎の薦めにより、秘書省正字兼史館校勘を授けらる。

初め、金軍が退却した後、趙鼎と張浚は互いに意気投合し、甚だ歓んだ。人々は二人が共に宰相となることを知っていたが、惟だ樗のみが言うには、「二人は暫く枢密府に同席すべきである。後日、趙が退けば張がこれを継ぐ。事を立て人を用いることは、甚だ相違せず、則ち気脈は長し。若し同じく相位に処せば、万が一合わず、或いは去位すべき時、則ち必ず更張せざるを得ず、是れ賢者が自ら背き違うこととなる」と。後に漸くその言の如くなった。また嘗て言うには、「車を推す者は艱険に遇えば則ち互いに罵り咎め、車の止まるに及べば、則ち欣然として初めの如し。士の国家に対するも亦た是れの如きのみ」と。

先に、樗と張九成は皆、和議は便ならずと論じた。秦檜が既に和議を主導すると、言事者はその意を迎え、樗と九成が誹謗したと弾劾した。樗は舒州懐寧県知事として出向し、衡州通判を経て、已にして致仕した。檜の死後、再び起用されて大宗正丞となり、工部員外郎に転じ、蘄州知事として出向した。孝宗が即位すると、浙東常平提挙に任用され、治績をもって聞こえた。淳熙七年、卒去した。

初め、樗は鑑識に優れ、宣和年間に、その友人沈晦が進士試で第一となるべきと謂った。建炎初年、また当年の進士では張九成が第一、凌景夏がこれに次ぐと謂った。折しも大風が槐の大木を折り、樗は二通の簡をこれに贈って作ったが、後、果たしてその通りとなった。趙鼎が嘗て樊光遠の免挙事について樗に諮ると、樗は言うに、「今年の省試にこの人無かるべからず」と。ここに於いて光遠もまた第一となった。初め、樗の二人の娘が配偶を選んでいた時、富人が相次いで婚を請うたが、許さなかった。汪洋と張孝祥を見るに及んで、乃ち言うに、「佳婿なり」と。遂にこれを以て娘を嫁がせた。

洪興祖

洪興祖、字は慶善、鎮江丹陽の人。少時に『礼記』を読んで『中庸』に至り、頓悟して性命の理を得、文を綴ること日々進歩した。政和年間の上舎試験に及第し、湖州士曹となり、宣教郎に改めた。高宗が揚州に在った時、諸事草創であり、選人が改秩して軍頭司で引見されることは、興祖に始まる。召されて試され、秘書省正字を授かり、後に太常博士となった。

上疏して人心を収め、謀策を納れ、民情を安んじ、国威を壮んにすることを乞うた。また国家の再造について論じ、一に芸祖(太祖)を以て法とすべきと説いた。紹興四年、蘇州・湖州で地震があった。興祖は当時駕部郎官であり、詔に応じて上疏し、朝廷の紀綱の失を詳しく述べたが、時の宰相に憎まれ、太平観主管となった。

起用されて広徳軍知事となり、水源を視察して陂塘六百余所を築き、民に旱魃の憂い無からしめた。学舎を一新し、これに因って従祀を定めた:十哲の曾子以下七十一人、また先儒の左丘明以下二十六人を列した。提点江東刑獄に抜擢された。真州知事となる。州は兵馬の要衝に当たり、戦禍の傷跡未だ癒えず。興祖が初めて着任すると、一年分の租税免除を請い、許された。翌年また請うと、またも許された。ここより流民は復業し、荒田を開墾すること七万余畝に至った。

饒州知事に転じた。先に六本の刀を持つ夢を見、覚めて言うには、「三刀は益(州)なり、今これを倍すは、其れ饒(州)か」と。已にして果たしてその通りとなった。この時秦檜が国政を執り、諫官は多く檜の門下であり、争って弾劾して檜に媚びた。興祖は嘗て故龍図閣学士程瑀の『論語解』の序文を作り、その言葉が怨望に渉ると坐し、昭州に編管され、卒去した。六十六歳。翌年、詔してその官を復し、直敷文閣を贈られた。

興祖は古を好み博学で、少時より老いるまで、嘗て一日も書を離さなかった。著書に『老荘本旨』、『周易通義』、『繫辞要旨』、『古文孝経序賛』、『離騒楚詞考異』が世に行われる。

高閌

高閌、字は抑崇、明州鄞県の人。紹興元年、上舎選により進士第を賜う。執政がこれを推薦し、召されて秘書省正字となった。時に新進士に『儒行』と『中庸』の篇を賜わんとしていたが、閌は『儒行』の詞説は醇ならずと奏上し、只『中庸』を賜うべきことを請い、学者が聖学の淵源を知り、他の説に惑わされぬようにすべしとし、これに従った。

権礼部員外郎兼史館校勘となる。御前で対し、言うには、「『春秋』の法は、正名より大なるは莫し。今、枢密院は本兵の権柄と号すれど、諸路の軍馬は尽く都督に属す。是れ朝廷の兵柄自ら二つに分かるるなり。又、周の六卿は、其の大事は則ち其の長に従い、小事は官属猶も専達を得たり。今は一切文法に拘われ、利害灼然として見るべくとも、官長且つ敢えて自ら決せず、必ず朝に請う。故に廟堂の事益々繁く、而して省曹の官属は乃ち胥吏と異ならず。又、政事の行わるるに、給事中・舎人は繳駁し得、台諫は論列し得たり。若し給・舎は然りと為し、台諫は然らずと為せば、則ち改めざるを得ず。祖宗の時は、台諫の章疏を繳駁するを嫌わざる者有り。其の風聞に得るを恐れ、朝廷の過挙有るを致さんが為なり。然れども此の風久しく見えず。臣は朝廷の権、反って台諫に在るを恐る。且つ祖宗の時、監察御史は事を言うを許され、靖康中嘗て之を行えり。今は則ち名は台官と為れど、実に言責無し。此れ皆な名の未だ正しからざるなり」と。

尋いで著作佐郎に遷るが、言事者の論劾により罷免され、崇道観主管となる。召されて国子司業となる。時に太学を興すに当たり、閌は先ず経術を重んずべきと奏上した。帝曰く、「士の詩賦に習うこと已久し、遽かに之をして経を通ぜしむる能わんや」と。閌曰く、「先王太学を設くるは、惟だ経術を講ずるのみ。国初は猶お唐の制に循り詩賦を用い、神宗始めて経術を以て士を造り、遂に詩賦を罷む。又、以て人才を尽くすに足らざるを慮り、乃ち詞学一科を設く。今は経義を主と為し、而して詩賦を加うべし」と。帝然りとす。閌はここに於いて条具して上聞す。其の法は、『六経』・『論語』・『孟子』の義を一場とし、詩賦之に次ぎ、子史論又之に次ぎ、時務策又之に次ぐ。太学の課試及び郡国の科挙は、尽く此れを以て法と為し、且つ郡国の士が国学監生に補するの制を立てた。中興以後の学制は、多く閌の建明する所なり。

閌は又、学を建つるの始め、宜しく老成を得て以て後進を誘掖すべしと言う。乃ち全州文学の師維藩を推薦し、詔して国子録に除す。維藩は眉山の人、『春秋』学に精しく、林栗は其の高弟なり。故に首めて之を薦む。新たな学舎が成ると、閌は補試する者六千人と奏上し、且つ臨雍(天子の学視察)を乞い、続いて諸生を率いて上表して請うた。ここに於いて帝太学に幸し、秦熺が経を執り、閌は『易経・泰卦』を講じ、三品服を賜う。胡寅之を聞き、書を以て閌を責めて曰く、「閣下は師儒の首たりながら、大論を建てて天人の理を明らかにする能わず、乃ち柄臣に阿諛し、風旨に希合し、太平の典を挙げんことを求む。天を欺き人を罔すこと孰れか之より甚だしきや。平生の志行地に掃す」と。

閌は少時に程頤の学を宗とした。宣和末、楊時が祭酒たりし時、閌は諸生たり。胡安国が京師に至り、楊時に士を訪うと、閌を以て首称し、ここより知名となる。閌が礼部侍郎に除せられし時、帝因って閌に張九成の安否を問う。明日、復た秦檜に之を問う。檜は閌が推薦したと疑い、中丞李文会が檜の旨を承けて閌を弾劾し、筠州知事として出向せしむ。赴かずして卒す。初め、秦棣が嘗て姚孚をして婚を請わしむるも、閌は之を辞す。其の著述に『春秋集伝』が世に行わる。

程大昌

程大昌、字は泰之、徽州休寧の人。十歳にして文を綴ることができ、紹興二十一年の進士に及第した。吳縣の主簿に任ぜられたが、未だ赴任せずに父の喪に服した。喪が明けて、十論を著して当時の政事を論じ、朝廷に献上した。宰相の湯思退はこれを奇異とし、太平州教授に抜擢した。翌年、召されて太學正となり、館職の試験を受け、秘書省正字となった。

孝宗が即位すると、著作佐郎に遷った。この時、帝は政務を始めたばかりで、事功に意気込み、命令が四方に出され、貴近の者が密議に参与することがあった。ちょうど詔して百官に事を言わせた際、大昌は上奏して言った。「漢の石顯は元帝が己を信じていることを知り、先に夜間に宮門を開く詔を請うた。後日、わざと夜に帰還し、詔を称して関を開かせた。ある者が矯制であると言うと、帝は以前の詔を示して笑った。これより後、石顯が真に詔を偽っても、人は再び言わなかった。国朝の命令は必ず三省を経由するのは、この弊害を防ぐためである。請う、今より御前より直降の文書を受けた者は、皆、省に申し審奏してから施行させるようにし、祖宗の規矩に合せ、石顯の奸を防がれよ。」また言った。「去歳、完顏亮が侵入した時、一人の士も死守せず、兵将は今日に至るまで策勲が止まない。ただ李寶が膠西で勝利し、虞允文が采石で戦ったことが、実に亮を屠る階梯となった。今、寶は兵を罷められ、允文は夔を守っている。これは公論のいうところの不平である。」帝は善しとし、恭王府贊讀に選んだ。國子司業を兼ねて権禮部侍郎・直學士院に遷った。帝が大昌に問うて言った。「朕の治道が進まないのは、どうしたものか。」大昌は答えて言った。「陛下の勤倹は古の帝王を超えており、女真が和を通じて以来、中国を尊ぶことを知り、効果がないとは言えません。ただ賢を求め諫めを納れ、政事を修めるべきであり、そうすれば大いに為すべき業はその中にあります。他に奇策を求めて、速成を幸いとする必要はありません。」また言った。「淮上に城を築くことが多すぎる。緩急の際、何人が守れるというのか。険を設けるには士卒を練るに如かず、士卒を練るには将を択ぶに如かない。」帝は善しとした。

浙東提點刑獄に除せられた。時に豊作で、酒税が定額を超過した。朝命を挟んで増額を請う者がいたが、大昌は力強く拒絶して言った。「大昌は寧ろ罪を得て去ろうとも、増やすことはできない。」江西轉運副使に転じ、大昌は言った。「これで利を興し害を去り、我が志を行える。」時に凶作に会い、銭十余万緡を出して、吉・贛・臨江・南安の夏税折帛を代わって納めた。清江縣に旧来、破坑・桐塘の二つの堰があり、江を防ぎ田畑と民居を護り、地は二千頃近くあった。後に堰が壊れ、毎年水害に遭うこと四十年、大昌は力を尽くして旧状に復させた。

秘閣修撰に進み、召されて秘書少監となった。帝は労って言った。「卿は朕が選んで記した者である。監司がもし皆卿のようであれば、朕は何を憂えようか。」中書舍人を兼ねた。六和塔寺の僧が潮を鎮めた功績として、内降を求めて給賜した田産に対し科徭を免じるよう求めた。大昌は上奏して言った。「僧寺が既に法に違って田を置き、さらに科徭を民に移そうとしているのに、どうしてこれを許せようか。況や塔を修築して以来、潮は果たして岸を齧らなくなったのか。」その命令を止めさせた。権刑部侍郎となり、侍講兼國子祭酒に昇った。大昌は言った。「刑罰をもって刑罰を止めるのであり、罪ある者を放免することを仁とするのは聞いたことがない。今、四方の獄を讞するに例えて死刑を貸すことを擬するが、臣は有司は法を守るべきであり、人主はその貸すべきを察して貸すべきであると考える。このようにすれば、法は下に伸び、仁は上に帰するのである。」帝は然りとした。給事中を兼ねた。江陵都統制の率逢原が部曲を放任して百姓を殴打させ、守帥の辛棄疾がその状況を言上したため、帥を江西に転じさせられた。大昌はこれにより極論して言った。「これより屯戍の州郡は、為すべからざるものとなった。」逢原はこれにより両官を削られる罪に坐し、本軍の副将に降格された。累遷して権吏部尚書となった。言うには。「今日の諸軍は、西北の旧人が日々少なくなり、その子孫で強健な者は、戦陣を教えるべきである。軽々しく離軍を聞き入れるべきではない。かつ禁衛の士は、祖宗が単に宿衛を備えるのみならず、南征北伐に、嘗て先鋒を為したのである。今、三年ごとに外補するのが常で、その長所に違って用い、征行がある時には、選ぶべき人がいない。どうして始めは材武をもってこれを択びながら、終わりには庸常をもってこれを棄てるのか。願わくは三衙を留めて派遣しないでほしい。」

中外更迭の制が行われた際、力を尽くして郡を請い、遂に出て泉州の知事となった。汀州の賊・沈師が乱を起こし、戍将の蕭統領がこれと戦って死に、閩部は大いに震駭した。漕司が檄を飛ばして統制の裴師武に討伐させようとした。師武は帥の符を得ていないとして行かなかった。大昌は手紙を書いてこれを促し言った。「事は急を要する。もし帥が君を責めるようなことがあれば、我が書を持って自ら弁解せよ。」この時、賊は城を攻めようと謀り、先に諜者に甲を内に着せて火を放ち内応させようとした。ちょうど師武の軍が到着し、さらに諜者を捕らえたため、賊は遂に散去した。建寧府の知事に遷った。光宗が嗣位すると、明州の知事に転じ、まもなく祠祿を奉じた。紹熙五年、老齢を理由に退官を請い、龍圖閣學士として致仕した。慶元元年に卒去。七十三歳。諡は「文簡」。

大昌は学問に篤く、古今の事柄について考究しないものはなかった。『禹貢論』・『易原』・『雍録』・『易老通言』・『考古編』・『演繁露』・『北邊備對』が世に行われている。

林之奇

林之奇、字は少穎、福州候官の人。紫微舍人呂本中が閩に入った時、之奇は冠したばかりで、本中に師事して学んだ。時に礼部試を受けようとし、衢州まで行ったが、親に仕えることができないとして帰った。学問に益々力を入れ、本中はこれを奇異とし、これにより学者が踵を接して来た。紹興二十一年の進士に及第し、莆田の主簿に調せられ、長汀の尉に改め、召されて秘書省正字となり、校書郎に転じた。

時に朝廷が学者に王安石の『三経義』の説を参用させようとした。之奇は上言して言った。「王氏の三経は、概ね新法のためにある。晋人は王弼・何晏の清談の罪を、桀・紂よりも深いとした。本朝の靖康の禍乱をその端緒を考うるに、王氏は実に王弼・何晏の責を負うべきである。孔・孟の書においては、正に所謂邪説・詖行・淫辭で訓戒すべからざるものである。」或る者が金人が南侵しようとしていると伝えた。之奇は書を当路に送り、以って「久しく和して戦いを畏れるは、人情の常である。金は我が和を重んじることを知っているので、常に虚声をもって我を喝し、我に戦おうとする意思を示すが、果たして戦おうとするのではなく、我が和を堅固にするためである。これと和しようとするならば、宜しく戦いを憚るべきではなく、そうすればその権は我にある」と論じた。また言った。「戦いに必要なものは一つではなく、人材が先決である。必ずや患難を共にできる者を求めねばならず、龐士元のいうところの俊傑の如きを得なければならない。」

痹疾を理由に外職を請い、宗正丞より閩舶を提挙し、帥議に参与し、遂に祠祿をもって家居し、自ら「拙齋」と称した。東萊の呂祖謙が嘗てその教えを受けた。淳熙三年に卒去。六十五歳。

『書』『春秋』『周禮説』・『論』・『孟』『楊子講義』・『道山記聞』等の書が世に行われている。

林光朝

林光朝、字は謙之、興化軍莆田の人。再び礼部試を受けたが及第せず、吳中の陸子正が嘗て尹焞に学んだと聞き、因って往きてその遊びに従った。ここより聖賢の践履の学に専心し、『六経』に通じ、百氏を貫き、言動は必ず礼に依り、四方より学ぶ者は数百人に及んだ。南渡後、伊・洛の学をもって東南に倡えたのは、光朝より始まる。しかし未だ著書せず、ただ口授で学者に教え、心に通じ理解させるようにした。嘗て言った。「道の全体は、全く太虚にある。『六経』が既にこれを発明しており、後世の注解は固より支離している。もしさらに増加すれば、道はますます遠ざかる。」

孝宗隆興元年、光朝は五十歳にして進士に及第す。袁州司戸参軍に調せらる。乾道三年、龍大淵・曾覿は潜邸の恩幸を以て進み、台諫・給舎の論駁行はれず。張闡は外より召されて執政と為り、鋭く之を去らんと欲すれど、其の拙き可からざるを覚り、遂に老疾を以て力辞して拝せず。而して光朝及び劉朔方は名儒として薦対し、頗る二人の罪に及ぶ。是に由りて光朝は左承奉郎・知永福県に改む。而して大臣の論薦止まず、館職を召試し、秘書省正字兼国史編修・実録検討官と為り、著作佐郎兼礼部郎官を歴任す。八年、国子司業兼太子侍読に進み、史職は旧の如し。是の時、張説再び簽書枢密院事を除せらる。光朝は往賀せず、遂に出でて広西提点刑獄と為り、広東に移る。

茶寇は荊・湘より江西を剽し、嶺南に迫り、其の鋒鋭きこと甚だし。光朝自ら郡兵を将ひ、檄を飛ばして摧鋒統制路海・本路鈐轄黄進に各軍を分けて要害を控へしむ。会に詔有りて光朝を転運副使に徙す。光朝は賊勢方に張れるを謂ひ、留屯して去らず、二将を督して遮撃し、連ねて之を破る。賊驚懼して宵遁す。帝之を聞き、喜びて曰く「林光朝は儒生なり、乃ち兵を知るや」と。直宝謨閣を加へ、召して国子祭酒兼太子左諭徳に拝す。四年、帝国子監に幸し、命じて『中庸』を講ぜしむ。帝大いに善しと称し、面して金紫を賜ふ。数日を経ずして中書舎人を除す。是の時、吏部郎謝廓然は曾覿の薦に由り、出身を賜はり、殿中侍御史を除せらる。命は中より出づ。光朝愕然として曰く「是れ台諫を軽んじ、科目を羞づるなり」と。立って詞頭を封還す。天子光朝の決して詔を奉ぜざるを度り、工部侍郎に改授す。拝せず、遂に集英殿修撰を以て婺州を知るに出づ。光朝は老儒にして、素より士望有り。後省に在りて未だ建明有らず、或いは之を疑ふ。及んで廓然を繳駁するを聞き、士論始めて服す。光朝因りて疾を引いて興国宮を提挙し、卒す。年六十五。

楊萬里

楊萬里、字は廷秀、吉州吉水の人なり。紹興二十四年の進士に中り、贛州司戸と為り、永州零陵丞に調せらる。時に張浚永州に謫せられ、門を杜して客を謝す。萬里三たび往きて見るを得ず、書を以て力請し、始めて之を見る。浚正心誠意の学を以て勉む。萬里其の教に服して終身し、乃ち読書の室を「誠斎」と名づく。

浚相に入り、之を朝に薦む。臨安府教授を除す。未だ赴かず、父憂に遭ふ。隆興府奉新県知県に改む。追胥を戢めて郷に入らしめず、民賦を逋する者は其の名を市中に掲ぐ。民歓びて之に趨き、賦擾さずして足り、県大いに治まる。会に陳俊卿・虞允文相と為り、交はりて之を薦む。召されて国子博士と為る。侍講張栻は張説を論じて袁州を守るに出づ。萬里疏を抗して栻を留め、又允文に書を遺し、和同の説を以て之を規む。栻は果たして留まらずと雖も、公論之を偉とす。太常博士に遷り、尋いで丞に升り兼ねて吏部侍右郎官と為り、将作少監に転じ、出でて漳州を知り、常州に改め、尋いで広東常平茶塩を提挙す。盗沈師南粤を犯す。師を帥いて往きて之を平らぐ。孝宗之を称して「仁者の勇」と曰ひ、遂に大用の意有り。就いて提点刑獄を除す。潮・恵二州に於て外砦を築くことを請ふ。潮は以て賊の巣を鎮め、恵は以て賊の路を扼せんとす。俄に憂に以て去る。喪を免れ、召されて尚左郎官と為る。

淳熙十二年五月、地震に応じて詔に上書して曰く、

「臣聞く、事有るを無事の時に言ふは、其の忠たるを害せず。事無きを有事の時に言ふは、其の姦たること大なりと。南北和好二十年を踰ゆ。一旦使を絶てば、敵情測る可からず。而るに或いは曰く『彼に五単于争立の禍有り』と。又曰く『彼に匈奴東胡に困るの禍有り』と。既にして皆験せず。道塗相伝ふ、汴京の城池を繕ひ、海州の漕渠を開き、又河南・北に民兵を簽し、駅騎を増し、馬櫪を製し、井泉を籍す。而して吾が間諜入るを得ず。此れ何を為す者ぞ。臣の所謂る事有るを無事の時に言ふ者、一なり。

或いは謂ふ、金主北帰す、以て中国の賀と為す可しと。臣は中国の憂、正に此に在るを以てす。此人の北帰するは、蓋し逆亮の国を空しくして南侵せるを懲創するなり。将に南せんと欲せば、必ず固く北せんとす。或いは身を以て其の北を填撫し、而して其の子と婿を以て其の南を経営せんとす。臣の所謂る事有るを無事の時に言ふ者、二なり。

臣窃に論者の或いは緩急を謂ひ、淮守る可からずんば、則ち淮を棄てて江を守らんとす。是れ大いに然らず。昔者呉は魏と力争して合肥を得、然る後に呉始めて安し。李煜は滁・揚二州を失ひ、此より南唐始めて蹙る。今曰く淮を棄てて江を保たんとす。既に淮無し、江保つを得んや。臣の所謂る事有るを無事の時に言ふ者、三なり。

今淮東・西凡そ十五郡、所謂る守帥は、陛下宰相をして之を択ばしむるか、枢廷をして之を択ばしむるか。宰相をして之を択ばしむれば、宰相未だ必ずしも枢廷の為に慮らざるなり。枢廷をして之を択ばしむれば、則ち除授自己より出でず。一は則ち之が為に慮らず、一は則ち自己より出でず。緩急事に敗れば、則ち皆曰く『我に非ず』と。陛下将に誰をか責めん。臣の所謂る事有るを無事の時に言ふ者、四なり。

且つ南北各長技有り。騎若くは射は、北の長技なり。舟若くは歩は、南の長技なり。今北の為に計る者は、日々其の海舟を繕治す。而して南の海舟は則ち繕治するを聞かず。或いは曰く『吾が舟素より具はれり』と。或いは曰く『舟未だ具はらざると雖も、擾るるを憚るなり』と。紹興辛巳の戦、山東・采石の功は、騎を以てせず、射を以てせず、歩を以てせず、舟のみなり。当時の舟、今復用ふ可けんや。且つ夫れ斯の民一日の擾れと、社稷百世の安危と、孰れか軽重。事固より擾れより大なる者有り。臣の所謂る事有るを無事の時に言ふ者、五なり。

陛下今日を以て何れの等の時と為すや。金人日々に逼り、疆場日々に擾る。而して未だ金人を防ぐ者は何の策、疆場を保つ者は何の道なるを聞かず。但だ聞く、某日某の礼文を修む、某日某の書史を進むと。是れ郷飲を以て軍を理め、干羽を以て囲みを解かんとするなり。臣の所謂る事有るを無事の時に言ふ者、六なり。

臣聞く、古の人君は、人これを悟らざれば、則ち天地これを悟らしむ。今や国家の事、敵情測り難きこと此の如くにして、君臣上下之を処すること太平事無き時の如くす、是れ人これを悟らざるなり。故に上天災異を現す、異時熒惑南斗を犯し、邇日鎮星端門を犯し、熒惑羽林を守る。臣書生、天文を曉らず、未だ敢て必ず然りと為さず。春正月に至りて日青くして光無く、若し両日相摩する者有るが如し、此れ大異と曰わざらんや。然れども天猶お陛下の信ぜざるを恐る、春日陽を載すに至りて、復た雨雪有りて物を殺す、此れ大異と曰わざらんや。然れども天猶お陛下の又信ぜざるを恐る、乃ち五月庚寅、又地震有り、此れ又大異と曰わざらんや。且つ夫れ天変遠きに在り、臣子敢えて奏せず、信ぜざる可し。地震外に在り、州郡敢えて聞かず、信ぜざる可し。今や天変頻仍し、地震輦轂に及び、而して君臣警懼を聞かず、朝廷咨訪を聞かず、人これを悟らざれば、則ち天地これを悟らしむ。臣知らず、陛下此に於いて悟るか、否や。臣の所謂無事の時に事有るを言う者七なり。

頻年以來、両浙最も近きは則ち先ず旱し、江淮は則ち又旱し、湖廣は則ち又旱し、流徙する者相続き、道に堇相枕す。而して常平の積、名存して実亡す。入粟の令、上行して下慢す。静にして事無きに、未だ以て之を振救すべき所以を知らず。動にして事有らば、将た何を以てか仰ぎて資と為さんや。臣の所謂無事の時に事有るを言う者八なり。

古えに国を足し民を裕かにするは、惟だ食と貨とのみ。今の所謂銭なるもの、富商・巨賈・閹宦・権貴皆室に盈ちて之を蔵し、百姓三軍の用に至りては、惟だ破楮券のみ。万一唐の涇原の師の如く、糲食に因りて怒り、蹴って之を覆し、遜ならざる語を出だし、遂に朱泚の乱を起こすが如きあらば、寒心せざらんや。臣の所謂無事の時に事有るを言う者九なり。

古えに国を立つるには必ず畏るべき有り、其の国を畏るるに非ず、其の人を畏るるなり。故に苻堅晋を図らんと欲し、而して王猛以て不可と為し、謝安・桓冲江左の望と謂う、是れ晋を存する者、二人のみ。異時の名相趙鼎・張浚の如き、名将岳飛・韓世忠の如き、此れ金人の憚る所なり。近時劉珙用うべきも則ち早く死し、張栻用うべきも則ち沮まれて死す。万一緩急有らば、諸軍を督するに可き者は何人なるかを知らず、一面に当たるに可き者は何人なるかを知らず、而して金人の素より憚る所の者は又何人なるかを知らず。而して或いは人の才あるは、用いて後見ると謂う。臣之を聞く《記》に曰く、『苟くも車有らば必ず其の式を見、苟くも言有らば必ず其の声を聞く』と。今曰く其人有りて未だ其の将たり相たり可きを聞かず、是れ車有りて式無く、言有りて声無し。且つ夫れ用いて後見るは、之に大安危を臨み、之に大勝負を試みざれば、則ち其の用を見ること莫し。平居に以て其人を知ること無く、必ず大安危・大勝負を待ちて後見る。事成るは幸いなり、万一事敗るれば、悔やむも何ぞ及ばん。昔謝玄の北に苻堅を禦ぐに、郗超其の必ず勝つを知り、桓溫の西に李勢を伐つに、劉倓其の必ず取るを知る。蓋し玄は履屐の間に於いて其の任に当たらざること無く、溫は蒱博に於いて必ず得ざれば則ち為さず。二子平居無事の日、蓋し必ず以て其の小を察して後其の大を信ずる有り、豈に必ず大用して後見んや。臣の所謂無事の時に事有るを言う者十なり。

願わくは陛下超然遠く覧み、昭然遠く寤らせ給え。聖徳の崇高を矜ること勿く、而して其の能わざる所を増さしめ給うこと勿れ。中国の生聚を恃むこと勿く、而して其の未だ備えざる所を厳にし給うこと勿れ。天地の変異を適然と為すこと勿く、而して宣王の災を懼るるに法らせ給え。臣下の苦言を逆耳と為すこと勿く、而して太宗の諫を導くを体せ給え。女謁近習の政を害するを細故と為すこと勿く、而して漢・唐季世の乱を致すの由を監み給え。仇讎の包蔵するを他無しと為すこと勿く、而して宣・政晚年の禍を受くるの酷を懲らしめ給え。大臣を責めて辺事軍務を通知するを富弼の請うる如くせしめ、東西二府を以て其の心を異にすること勿れ。大臣に委ねて謀臣良将を薦進するを蕭何しょうかの奇とする所の如くせしめ、文武両途を以て其の轍を殊にすること勿れ。宦者に賂して旄節を得しむるを唐の大曆の弊の如くすること勿れ。近幸に貨して招討を得しむるを梁の段凝の敗の如くすること勿れ。蜀を重んずるの心を以て荊・襄を重んじ、東西形勢の相接するをせしめよ。江を保つの心を以て両淮を保ち、表裏唇歯の相依るをせしめよ。海道を無虞と為すこと勿れ。大江を恃む可しと為すこと勿れ。屯を増し糧を聚め、艦を治め険を扼せよ。君臣の咨訪する所、朝夕の講求する所、姑く不急の務を置き、備敵の策に精専せよ。庶幾くは上は天変を消し、下は敵姦に堕せず。

然れども天下の事、本根有り、枝葉有り。臣前に陳ぶる所、枝葉のみ。所謂本根は、則ち人主自ら用うるべからず。人主自ら用うれば、則ち人臣責を任ぜず、然れども猶お害未だなり。軍事に至りて、而して猶お曰く、『誰か此れを憂えん、吾自ら憂えん』と。今日の事、将た此れに類せざらんや。《伝》に曰く、『木水に本原有り』と。聖学高明、願わくは益々其の本原なる所以を思わしめ給え。

東宮講官闕け、帝親しく萬里を擢きて侍読と為す。宮僚端人を得て相賀す。他日《陸宣公奏議》等の書を読み、皆事に随いて規警し、太子深く之を敬す。王淮相と為り、一日問うて曰く、「宰相先務とする所の事は何ぞ」と。曰く、「人才なり」と。又問う、「孰れをか才と為す」と。即ち朱熹・袁樞以下六十人を疏して以て献じ、淮次第に之を擢用す。枢密院検詳を歴、右司郎中を守り、左司郎中に遷る。

十四年夏旱し、萬里復た詔に応じ、言す、「旱こと両月に及び、然る後に言を求む、遅しと曰わざらんや。上は侍従より、下は館職に止む、隘しと曰わざらんや。今の旱する所以は、上沢下に流れず、下情上に達せず、故に天地の気隔絶して通ぜざるなり」と。因りて四事を疏して以て献じ、言皆懇切なり。秘書少監に遷る。会す高宗崩じ、孝宗三年の喪を行わんと欲し、事堂を創議し、皇太子に命じて庶務を参決せしむ。萬里上疏して力諫し、且つ太子に上書し、言す、「天に二日無く、民に二王無し。一たび危機を履めば、悔ゆるも何ぞ及ばん。之を悔ゆるに及ぶ無きに若くは、之を辞して居らざるに若かず。願わくは殿下三辞五辞して、必ず居らざらしめ給え」と。太子悚然たり。高宗未だ葬らざるに、翰林学士洪邁集議を俟たず、配饗独り呂頤浩等の姓名を以て上る。萬里上疏して之を詆し、力めて張浚当に預かるべしと言い、且つ邁鹿を指して馬と為すに異ならずと謂う。孝宗疏を覧て悦ばず、曰く、「萬里朕を何の主の如きと為すや」と。ここより直秘閣を以て筠州に出知す。

光宗即位の際、召されて秘書監となった。入朝して対し、言うには、「天下には形なき禍あり、僭越は権臣にあらずして権臣に僭越し、擾乱は盗賊にあらずして盗賊に擾乱す、それ朋党の論のみにあらんや。およそ人主の怒りを激するには朋党に如くはなく、天下の人才を空しうするには朋党に如くはない。党論ひとたび興れば、その端は士大夫より発し、その禍は天下に及ぶ。前事すでに然り、願わくは陛下、聖心に皇極を建て、公に聴き並びに観て、植を壊し群を散じ、君子と曰えばこれに従って用い、小人と曰えばこれに従って廃し、皆その某党某党なるを問うことなかれ」と。また論じて曰く、「古の帝王、固より一己の権を攬むを知るありて、臣下のその権を窃むを知らざるなり。大臣窃めば則ち権は大臣にあり、大将窃めば則ち権は大将にあり、外戚窃めば則ち権は外戚にあり、近習窃めば則ち権は近習にある。権を窃む最も防ぎ難きものは、それ近習のみにあらんや。敢えて公に窃むに非ず、私に窃むなり。私窃より始まり、その終わり必ず公窃に至って後に已まん。懼れざるべけんや」と。

紹熙元年、煥章閣学士を借りて接伴金国賀正旦使兼実録院検討官となった。時に『孝宗日暦』が完成し、参知政事王藺が故事に倣って万里にその序をさせようとしたが、宰臣が礼部郎官傅伯寿に属した。万里は失職を以て力めて去らんことを請い、帝は宣諭して留まるを勉めた。時に『孝宗聖政』を進めることとなり、万里は奉進すべきところであったが、孝宗なお悦ばず、遂に江東転運副使に出され、権を以て淮西・江東軍馬銭糧を総領した。朝議、江南諸郡に鉄銭を行わんと欲し、万里はその不便を疏して、詔を奉ぜず、宰相の意に忤い、知贛州に改められたが、赴かず、祠官を請い、秘閣修撰を除され、万寿宮を提挙し、ここより再び出仕することはなかった。

寧宗が位を嗣ぐと、行在に召されたが、辞した。煥章閣待制・提挙興国宮に昇った。引年して休致を請い、宝文閣待制致仕に進んだ。嘉泰三年、詔して宝謨閣直学士に進め、衣帯を賜う。開禧元年に召されたが、また辞した。翌年、宝謨閣学士に昇り、卒す。年八十三。光禄大夫を贈られた。

万里は人となり剛直にして偏狭であった。孝宗は初めその才を愛し、周必大に問うたが、必大は善き言葉がなく、これにより用いられなかった。韓侂冑が権を執り、四方の知名士を網羅して羽翼とせんと欲し、嘗て南園を築き、万里にその記を作ることを属し、掖垣の官を許した。万里曰く、「官は棄つべし、記は作るべからず」と。侂冑は恚り、他人に命を改めた。家に臥すること十五年、皆その国柄を執る日の間であった。侂冑の専僭日増しに甚だしく、万里は憂憤し、怏怏として疾を成した。家人その国を憂うるを知り、凡そ邸吏の時政を報ずる者は皆告げざらしめた。忽ち族子外より至り、遽かに侂冑の兵を用いる事を言う。万里慟哭して声を失い、急ぎ紙を呼び書して曰く、「韓侂冑は姦臣、専権して上無く、兵を動かして民を残し、社稷を危うくせんと謀る。吾が頭顱かくの如し、国に報いる路無く、惟だ孤憤あるのみ」と。また十四言を書いて妻子に別れ、筆落ちて逝った。

万里は詩に精しく、嘗て『易伝』を著して世に行われる。光宗嘗て「誠斎」の二字を書し、学者「誠斎先生」と称し、諡して「文節」を賜う。子に長孺あり。