胡旦
先んずること、盧多遜が貶謫され、趙普が宰相を罷免された。その夏、黄河が韓村で決壊したが、まもなく再び塞がれた。旦は『河平頌』を献じて言う、「天は我が宋を祚し、以て君は兆民に配し、天に成りて休を成す、惟だ堯と隣る。粤に大水有り、人を昏墊す。聖作に非ずんば、孰れか究め孰れか度らん。賢を蔽う者は退き、沢を壅ぐ者は罪す。我は大患を防ぐ、河豈に敗ると云わんや。逆遜は遠く投じ、姦普は屏外す。聖道は堤の如し、崇崇として海内にあり。帝は文を守ると曰う、是れ塞ぎ是れ親しむ。爾が衛兵を調え、是の烝民を程す。民は以て力を尽くし、臣は以て職に勤む。役其の終わるを云い、河以て之を塞ぐ。唐堯山を懐くは、実に神徳を警む。漢武宣防は、実に令式を彰す。我は長河を塞ぎ、流れを融けて恵沢す。明明たる聖功、万代則を成す」と。太宗、頌を覧みて「逆遜」「姦普」の語有り、宰相を召して謂う、「胡旦が頌を献ずるに、詞意悖戾なり。朕自ら甲科に擢び、歴て外任を試みるに、至る所善状無し。海州を知る日に部下に訟せられ、獄既に具わる。適た会う大赦に、朕其の材を録して其の過を捨て、尚お近列に在らしめ、又史職を領せしむ。乃ち敢えて胸臆を恣にし狂躁此の如きは、其れ亟に之を逐え!」と。即ち殿中丞・商州団練副使に貶す。
『平燕議』を上りて曰く、
「今幽州は北門の外に在り、東封は国家の急務に非ず、願わくは其の資を移して以て北伐に事えしめん。且つ天時・地利・人事皆伐つべきの意有り。歳の臨む所、其の地福を受く。今年の春末より来年に至る、歳は宋分に在り、今年の初秋より六年に至る、鎮は燕分に在り。今年より備えを為し、来春に至りて師を興す。北兵の春夏に遇うは、則ち氈裘・皮履・羊弓・塞馬用を為さず、而して中原の士卒は素より寒に能わず、北に往きて暄に逢えば、筋力勇健なり。勇健の士を以て用いざるの敵を駆り、福慶の時に承けて災殃の城を討つ、成功して事を立つるは、此に在り。
長淮以北、太行以東、河水災を罷め、土地甚だ沃なり。其の豊実に因り、其の穀帛を取り、価を減じて以て折納し、現銭を以て貴く糴し、官府多く積み、兵役虞無く、兵を用いて財を豊かにし、以て大事を済すべし。
太原克復以来、今に至るまで七載、兵甲甚だ利、士卒甚だ雄、夜に寝て晨に興き、寒には裘を着て飢えば粟を食う。若し促装の賜を以てし、軍を発して之を用い、恩賞の資を、成功して之を賚わば、以て心を斉えて敵を平らげ、旧境を恢拓すべし。
幽州は平土にして敵に背き、勢を為すには必ず四人を択び、之が方面を分かち、剛断勇毅なる者を以て之を主とし、和平恭慎なる者一人を選びて之を部せしむ。幽州の北は、皆山谷にして、人馬を通ずるは十処に過ぎず、将士を領する者も亦十人を択び、同行すれば則ち共に兵機を議し、分出すれば則ち各軍事を司どり、寇来れば則ち同戦して以て駆逐し、寇帰れば則ち疆を画して以て扞蔽す。苟くも山路を塞断せば、余寇燕に在りて大軍と相持すれば、則ち其の時を遷延して以て春夏を度り、寇は熱する能わず、退く有りて前に進む無し。士の剛勇才力有る者をして各一将たらしめ、多ければ則ち分部して敵を扞ぎ城を攻め、両つながら其の力を尽くさしむ。其の軍名を定め、其の軍数を実にす。我寡く彼多ければ則ち力勝たず、我実にして彼虚なれば則ち勝ち余り有り。力均しければ則ち其の地形を較べ、地均しければ則ち其の謀略を争い、勇怯を分明にし、各其の用を致す。
茶塩香薬の価を十分減二し、新たなる者に従いて先ず辺城の要路・軍馬の屯所に売らしむ。芻粟銭帛の価を十分増二し、貨を納めて以て券を出す者は本場に詣でて以て貨を交え、貨を得る者は路を逐うて以て税を納めしむ。往来四方の饒を出だし、両地費用の耗を為せば、自然商は其の利を得、則ち人に之を買わしめ、人は其の資を得、則ち穡に之を勤めしむ。故に必ず民は兼倍の力を効し、国は九年の積を貯え、科撥は度支に仮らず、転般は何ぞ漕挽に労せん。芻粟の給、攻具の用、委輸発運、以て後継と為す。
今将に二十万の衆を用い、三十州の民を役せんとす、願わくは陛下日月の信を明降し、先ず雨露の沢を示したまえ。民信賞を知れば則ち悦んで死を忘れ、士仰給を得れば則ち死して力戦す。此の如くすれば則ち逆壘下すに足らず、猾寇殄つに足らず」と。
起用されて左補闕となり、再び直史館に復した。修撰に遷り、国史編修に預かり、尚書戸部員外郎知制誥を以て、司封員外郎に遷った。
傭書人翟穎という者有り、旦嘗て之と善し、因って姓名を馬周と改め、唐の馬周の復出なりと為し、上書して時政を詆り、且つ自ら大臣たるべしと薦む。又材輔任に堪うる者十人を挙ぐ、其の辞頗る壮なり。当時皆旦の為す所と謂う。馬周は坐して海島に流され、旦も亦坊州団練副使に貶せられた。坐して擅に所部を離れ鄜州に於いて宋白を謁す、既に劾せられ、特ち之を釈す。絳州に徙す。稍々工部員外郎・直集賢院に復し、本曹郎中・知制誥・史館修撰に遷る。
旦は読書を好み、既に失明した後も、なお人に経史を誦読させ、机にもたれて聴き少しも止めなかった。『漢春秋』、『五代史略』、『将帥要略』、『演聖通論』、『唐乗』、『家伝』三百余巻を著した。大硯を彫り、方五六尺あり、刻んでこれを埋め、「胡旦修『漢春秋』硯」と曰う。晩年は特に賄賂を貪り、州県を干渉し、官吏の短所を握って脅し、当時の論議に軽蔑された。死後、子孫は甚だ貧しく、柩を民間に仮置きした。皇祐末、襄州知事王田が朝廷に言上し、銭二十万を得て葬った。
賈同
賈同、字は希得、青州臨淄の人。五代の時、楊光遠が反逆し、同の祖父崇は郷里四百余家を率いて愚谷山に拠り、全活した者は二千人であった。同は初め名を罔、字を公疎とし、篤学で古を好み、当時の名声があり、『山東野録』七篇を著した。四十余歳で、同進士の出身となり、真宗は命じて今の名に改めさせた。王欽若がちょうど貴盛であった時、同の名を聞き、招こうとしたが、固く辞して行かなかった。八九年居て、始めて歴城主簿に補せられた。張知白が推薦して大理評事とし、兗州通判とした。
天聖初、上書して言う、「祥符以来、諫諍の路は塞がれ、丁謂が隙に乗じて符瑞を造り先帝を欺いた。今、謂の奸は既に明白であるから、宜しく天下に明らかに告げ、符瑞の謬りを正し、宮観の崇奉を罷め、不急の衛兵を帰し、無名の実費を収め、先帝をして後世の議論を免れさせ、国家に因循の失なきようにすべきである。」また言う、「寇準は忠規亮節、悪を疾み邪を擯く。その貶黜されてより、天下の人その罪を見ず。宜しく内地に還して、忠邪善悪の分を明らかにすべきである。」時に章献太后が臨朝し、而同がこのように言うので、人は難事と為した。
再び殿中丞に遷り、棣州知事となり、卒した。劉顔、李冠、王無忌及びその門人が同に諡して「存道先生」と曰う。
劉顔
劉顔、字は子望、彭城の人。少孤、古を好み、学んで章句に専らせず。高弁に師事す。進士に挙げられ、試秘書省校書郎として龍興県知事となり、法に坐して免ぜられる。久しくして、徐州文学を授かる。郷里に居て、数十百人を教授す。漢・唐の奏議を采り『輔弼名対』を為す。馮元、劉筠、錢易、滕涉、蔡齊がその書を上進し、任城主簿に除せられる。歳饑、大姓の積む粟を発し、数千人を活かす。李迪が兗州・青州を知り、皆辟いて従事とし、卒す。『儒術通要』、『経済枢言』また数十篇を著す。石介その書を見て歎じて曰う、「恨むらくは弟子の列に在らざることなり。」子の庠は、自ら伝有り。
高弁
高弁、字は公儀、濮州雷沢の人。弱冠、徒步して終南山にて种放に従い学び、また柳開に古文を学び、張景と名を斉しくす。至道中、文を以て王禹偁に謁し、禹偁之を奇とす。進士に挙げられ、累官して侍御史となる。玉清昭応宮の修造を諫め、降って広済軍知事となる。尋いで戸部判官として開封府進士の試験を掌り、糊名を私に発し、二官を奪わる。稍々復して単州・邢州知事、塩鉄判官となる。河が澶州に決し、堤防を弛め、水の赴く所に縦し、民力を省き、且つ以て契丹の南向を扼すべしと請う。議は寝す。陝州知事となり、卒す。
弁は性孝友。為す所の文章多く『六経』及び『孟子』を祖とし、仁義を言うを喜ぶ。『帝則』三篇有り、世に伝わる。李迪、賈同、陸参、朱頔、伊淳と相善し、石延年、劉潜は皆その門人なり。
孫復
孫復、字は明復、晋州平陽の人。進士に挙げられず、退いて泰山に居る。『春秋』を学び、『尊王発微』十二篇を著す。大略陸淳に本づき、而して新意を増す。
石介は山東に名有り、介より以下皆先生として復に事う。年四十にして娶らず。李迪その賢を知り、その弟の娘を以て妻とす。復初め猶豫す、石介と諸弟子が請うて曰く、「公卿士を下ること久し、今丞相先生の貧賤を以てせず、子を託さんと欲す。宜しく因りて以て丞相の賢名を成すべし。」復乃ち聴く。孔道輔復の賢を聞き、就きて之を見る。介は杖屨を執り立ちて復の左右に侍し、升降拝する時は則ちこれを扶け、その往謝するも亦然り。介既に学官と為り、人に語りて曰く、「孫先生は隠者に非ず。」ここにおいて范仲淹、富弼皆復に経術有りと言い、朝廷に在るべしとす。秘書省校書郎、国子監直講に除す。車駕太学に幸し、緋衣銀魚を賜い、邇英閣祗候説書に召す。楊安国その講説多く先儒に異なると言い、これを罷む。
孔直温敗れ、遺せる復の詩を得、坐して虔州監税に貶せられ、泗州に徙り、また長水県知事となり、応天府判官事を簽書す。陵州通判となるも、未だ行かず、翰林学士趙槩等十余人復は経を以て人師と為り、州県を佐けしむるに宜しからずと言う。留めて直講とし、稍々遷って殿中丞となり、卒し、銭十万を賜う。
復は胡瑗と合わず、太学に在りて常に相避く。瑗の経を治むるは復に如かざるも、諸生を教養するはこれを過ぐ。復病むや、韓琦仁宗に言い、書吏を選び、紙筆を給し、その門人祖無択に命じ復の家に就き書十五万言を得て、録し秘閣に蔵す。特ちにその一子に官す。
石介
石介、字は守道、兗州奉符の人。進士に及第し、鄆州・南京の推官を歴任した。篤学で志操高く、善を好み悪を疾み、名声を喜び、事に遇えば奮然として敢為した。御史臺が主簿に辟召したが、未だ到着せず、赦書を論じて五代及び諸偽国の後を求むるは不當なりとし、罷められて鎮南掌書記となった。父丙の遠官を代わり、嘉州軍事判官となった。父母の憂に服し、徂徠山の下に耕し、五世に亘り未だ葬られざる者七十喪を葬った。家にて『易』を教授し、魯人は介を「徂徠先生」と号した。入朝して国子監直講となり、学者これに従う者甚だ多く、太學はこれによりて益々盛んとなった。
介は文を作るに気魄あり、嘗て文章の弊を患え、仏・老が蠹となれるを以て、『怪説』・『中国論』を著し、此の三者を去りて乃ち以て為す有るべしと説く。又た『唐鑑』を著して姦臣・宦官・宮女を戒め、当時に指切し、諱忌する所無し。杜衍・韓琦の推薦により、太子中允・直集賢院に擢げられた。時に呂夷簡が宰相を罷め、夏竦が既に枢密使を除されたが、復たこれを奪い、衍を以て代えた。章得象・晏殊・賈昌朝・范仲淹・富弼及び琦が同時に執政となり、歐陽修・余靖・王素・蔡襄並びに諫官となった。介は喜んで曰く、「此れ盛事なり、歌頌するは吾が職、其れ已む可けんや!」と。『慶曆聖德詩』を作りて曰く、
初めて皇帝の言を聞く、蹙然として言う、「我が祖我が父、大業を我に付す、我れ失墜を恐る、實に輔弼に頼る。汝得象・殊、重慎微密なり。君我を相うこと久し、我れ君の伐を嘉す。君仍て我を相い、笙鏞斯に協う。昌朝は儒者、學問該洽す。我と政を論じ、經術を以て傅う。汝二相に貳たり、庶績咸く秩たり。
惟れ汝仲淹、汝誠に我を察す。太后勢に乗じ、湯沸え火熱し。汝の時小臣、危言嶪嶪たり。我が為に司諫となり、我が門闑を正す。我が為に京兆となり、我が讒説を堲す。賊我が夏に叛き、往きて我れ式遏す。六月の酷日、大冬の積雪。汝寒く汝暑く、士卒と我と同じ。我れ辛酸を聞くも、汝乏しきを告げず。我れ晩く弼を得、我が心弼に悅ぶ。弼每度我に見え、私謁有ること無し。道を以て我を輔え、弼の言深切なり。我れ堯・舜に非ずと雖も、弼自ら笞罰す。諫官一年、疏奏篋に満つ。侍從周歲、忠力廑く竭く。契丹義を忘れ、檮杌饕餮たり。敢えて大國を侮り、其の辭慢悖なり。弼我が命を將い、畏れず怯まず。卒に舊好を復し、民褐を食むを得。沙磧萬里、死生一節。弼の膚を視れば、霜剝ぎ風裂く。弼の心を觀れば、金を煉り鐵を鍛う。寵名大官を以て、勞渴に酬ゆ。弼辭して受けず、其の志奪う可からず。惟れ仲淹・弼、一夔一契なり。天實に我に賚す、我れ其れ敢えて忽にせんや。並び來たりて我を弼け、民瘥劄無からん。
衍に曰く汝來たれ、汝我が黃髮なり。我に事うること二紀、毛禿げ齒豁く。心一の如く、履を率いて越えず。遂に樞府を長じ、兵政蹶くこと無し。我れ早く琦を識る、琦奇骨有り。其の器魁落たり、豈に扂楔を視んや。其の人渾樸、剞劂を施さず。大事を屬す可く、敦厚勃の如し。琦汝衍に副い、人を知るは我が哲なり。
惟れ修惟れ靖、朝に立ちて䡾䡾たり。言論磥砢、忠誠特達なり。祿微く身賤しきも、其の志怯まず。嘗て大官を詆り、亟に貶黜に遭う。萬里歸り來たり、剛氣折れず。屢直言を進め、以て我が闕を補う。素は相の後、忠を含み潔を履む。昔御史たりし時、幾たびか我が榻を叩く。襄は小官と雖も、名我に徹く。亦嘗て言を獻じ、我が失を箴す。剛守粹愨、修と儔匹す。並び諫官となり、正色列に在り。我過てば汝言え、汝が舌を鉗む毋かれ。
皇帝聖明、忠邪辨別す。俊良を舉擢し、妖魃を掃除す。眾賢の進む、茅の斯く拔くるが如し。大姦の去る、距の斯く脱するが如し。上は輔弼に倚り、我が調燮を司らしむ。下は諫諍に賴り、我が紀法を維く。左右正人、邪孽有ること無し。我れ太平を望む、日浹を逾えず。
群臣踧踖し、重足屏息し、交相い教え語りて曰く、惟れ正直、側僻を作す毋かれ、皇帝汝を殛すと。諸侯危栗し、玉を墜とし舄を失い、交相い告げ語りて曰く、皇帝神明、四時に朝覲し、謹んで臣職を修むと。四夷走馬し、鐙を墜とし策を遺い、交相い告げ語りて曰く、皇帝英武、兵を解き貢を修め、永く屬國たると。皇帝一舉すれば、群臣懾し、諸侯畏れ、四夷服す。
臣願わくは皇帝、壽萬千年ならんことを。
詩に稱する所多くは一時の名臣、其の言う大姦は、蓋し竦を斥くるなり。詩將に出でんとするに、孫復曰く、「子の禍此より始まらん」と。
介は馬を畜わず、馬を借りて乗り、大臣の門に出入りし、頗る賓客を招き、政事に預かり、人多く指目す。自ら安からず、求出でて濮州の通判となったが、未だ赴かずして卒した。
時に徐の狂人孔直溫が謀反し、其の家を搜したところ、介の書簡を得た。夏竦は介を甚だしく銜み、且つ杜衍らを中傷せんと欲し、因って介が詐死し、北走して契丹に至れりと言い、棺を発して験せんことを請うた。詔して京東に下り其の存亡を訪わしむ。衍は時に兗州に在り、介の事を験するを以て官屬に語るも、衆敢えて答えず、掌書記龔鼎臣は闔族を以て介の必ず死せりと保せんことを願う。衍は懐を探りて奏稿を出し之を示し、曰く、「老夫已に介を保せり。君年少、義を見て必ず為す、豈に量らんや!」と。提點刑獄呂居簡も亦曰く、「棺を発して空なれば、介果たして北に走らば、孥戮も酷に非ず。然らずんば、是れ國家故無くして人の塚墓を剖く、何を以て後世に示さん。且つ介の死には必ず親族門生會葬及び棺斂の人あるべし、苟も召し問いて異無ければ、即ち軍令狀を具えて之を保たしむるも、亦た詔に応うるに足らん」と。ここに於いて衆数百人介の已に死せりと保し、乃ち棺を斵くを免れた。子弟は他州に羈管され、久しくして還るを得た。
介の家はもと貧しく、妻子はほとんど凍え飢えんとしたが、富弼と韓琦が共に俸禄を分けて田を買い、これを養った。『徂徠集』が世に行われている。
胡瑗
胡瑗、字は翼之、泰州海陵の人。経術をもって呉中で教授し、年四十余りであった。景祐の初め、雅楽が改定されるにあたり、詔して音律を知る者を求めた。范仲淹が胡瑗を推薦し、白衣のまま崇政殿で応対した。鎮東軍節度推官の阮逸とともに鐘律を較べ、鐘と磬をそれぞれ一虡ずつ造った。一つの黍の幅を一分とし、これをもって尺を製し、律管の直径は三分四厘六毫四糸、周囲は十分三厘九毫三糸とした。また大黍を累ねて尺とし、小黍で龠を実測した。丁度らはこれを古制にあらずとして廃し、胡瑗に試みに秘書省校書郎を授けた。范仲淹が陝西を経略したとき、丹州推官に辟召した。保寧節度推官をもって湖州教授となった。胡瑗は人を教えるに法があり、規律は細部まで備わり、自ら率先した。盛夏でも必ず公服で堂上に坐し、師弟の礼を厳しくした。諸生を子弟の如く見、諸生もまた父兄の如く信愛し、これに従って遊学する者は常に数百人であった。慶暦年間、太学が興され、湖州にその法を取り下し、令として定めた。諸王宮教授に召されたが、病気を理由に辞して行かなかった。太子中舎となり、殿中丞をもって致仕した。
皇祐年間、太常の鐘磬を改めて鋳造することとなり、駅伝で胡瑗と阮逸を召し、近臣・太常官と秘閣で議し、ついに楽事の制作を主管させた。また大理評事を兼ねて太常寺主簿としたが、辞して就任しなかった。一年余りして、光禄寺丞・国子監直講を授かった。楽が完成すると、大理寺丞に遷り、緋衣と銀魚袋を賜った。胡瑗が太学に居ると、その門徒はますます増え、太学は収容しきれず、傍らの官舎を取ってこれらを処置した。礼部が得た士人のうち、胡瑗の弟子は十に常に四五を占め、才能の高下に従い、自ら修飾することを好み、衣服や容儀は往々にして似通っており、人がこれに遇っても知らなくても、皆これが胡瑗の弟子であると知った。嘉祐の初め、太子中允・天章閣侍講に抜擢され、引き続き太学を治めた。やがて病気で朝参できず、太常博士をもって致仕し、家に帰って老いた。諸生と朝士が東門外で餞別し、時に栄誉とされた。卒すると、詔してその家に賻を賜った。
劉羲叟
劉羲叟、字は仲更、澤州晉城の人。歐陽修が河東に使したとき、その学術を推薦した。試みに大理評事とし、趙州軍事判官を権知した。算術に精通し、兼ねて『大衍』などの暦法に通じていた。歐陽修が唐史を修するにあたり、『律暦』・『天文』・『五行志』を専ら修めさせた。まもなく編修官となり、秘書省著作佐郎に改めた。母の喪で去ったが、詔して家に居ながら編修させた。書が完成すると、崇文院検討に抜擢されたが、まだ謝恩のため入朝せず、背中に癰ができて卒した。
林槩
林槩、字は端父、福州福清の人。父の高は太常博士で、治績があった。槩は幼くして聡明で悟りが早く、進士に挙げられ、秘書省校書郎をもって長興県知事となった。年に大飢饉があり、富人は穀物を閉じて価格を吊り上げたので、槩は俸禄の粟を庭に出し、土豪を誘って数千石を輸送させ、飢えた者に給した。
連州知事となった。康定の初め、封事を上奏して言った、「古は民が兵となり、今は兵が民を食む。古は馬は民に寓し、今は馬に習わない。これが兵と馬の大患である。唐の府兵の法に倣い、四戸に一戸を徴し、部として軍とし、農閑期には田里を耕し、甲を被れば皆兵となすことを請う。これによりその家に皆馬を飼うことを得させ、私用や休暇に乗り、官が調教習練する。そうすれば人は干戈に慣れ、馬は行列を識る。また行陣に法なく、臨時に出で、将に素より備えなく、倉卒に取り、軍に権を与えず、宦侍をもって監する:このようなことでは、たとえ古の材を得て、今の法に従わせても、必ず屡戦屡敗するであろう」。また蛮族に備え、土民を籍して兵とし、要衝に柵を設け、徭人を購って守備させよと請うた。淮安軍に転任した。
程琳が嘗て蜀人が自ら渠堰を作ることを禁じたが、林槩はこれを廃止するよう上奏した。また蜀が飢饉にあると述べ、川峡の漕運を罷め、常平倉の粟を発して民の租を貸し、富人に粟価を軽減させて募り、商旅の禁令を除き、貨物を通じて互いに資するようにすることを願った。官は太常博士・集賢校理に至り、卒した。『史論』・『辨國語』を著した。子の希は、独自に伝がある。
李覯
李覯、字は泰伯、建昌軍南城の人。俊才で弁舌に優れ文がよく、茂才異等に挙げられたが及第しなかった。親が老いたので、教授をもって自ら生計を立て、学者は常に数十百人であった。皇祐の初め、范仲淹が推薦して試みに太学助教とし、『明堂定制図序』を上奏して言った。
『考工記』に「周人の明堂は、九尺の筵を度る」とあるが、これは堂の基壇の長さと広さを言うのであって、室を立てる数を言うのではない。「東西九筵、南北七筵、堂崇一筵」とは、堂上のことを言うのであって、室中のことを言うのではない。東西の堂はそれぞれ深さ四筵半、南北の堂はそれぞれ深さ三筵半である。「五室、凡そ室二筵」とは、四堂の中央に方十筵の地があり、東から西へ五室を営むことができ、南から北へ五室を営むことができることを言う。十筵の中央の方二筵の地は、既に太室となり、残りの室を連ねて作れば、十二の方位が各々その辰に直すことができないので、東南西北の四面及び四角の欠けた処に、各々方二筵の地を虚しくし、周囲に通じて、太廟とすべきである。太室は正しく中央に居り、『月令』に所謂「中央土」「太廟太室に居る」とは、この太廟の中に太室があることを言うのである。太廟の外、子・午・卯・酉の四位の上に各々方二筵の地を画き、太廟と相通じさせ、青陽・明堂・総章・元堂の四太廟とすべきである。寅・申・巳・亥・辰・戌・丑・未の八位の上に各々方二筵の地を画き、左個・右個とすべきである。
『大戴礼・盛徳記』に「明堂は凡そ九室、室は四戸八牖、合わせて三十六戸、七十二牖」とある。八个の室は、太室と合わせて九室であり、室の四面に各々戸があり、戸の傍らに二つの牖が挟まっているのである。
『白虎通』に曰く、「明堂は上が円形で下が方形、八つの窓、四つの扉、九つの室、十二の座席なり」と。四つの太廟の前にはそれぞれ一つの門があり、堂上に出で、門の傍らに両側に窓を挟む。左右の「个」は実は皆室であるが、ただ左右に分かれて位置するため、挟み部屋のような形状をなす故に「个」の名がある。太廟の内および太室は、実は文王を祀り上帝に配する位であり、これを廟と称するは、義として当然である。土は四時を分かち王たるもので、五行の中で最も尊く、故に天子はその時に当たり太室に居し、天地を祭る位を用いてこれを尊厳するのである。四仲の月は、各々一時の中を得て、余りの月とは異なる。故にまた子・午・卯・酉の方角に、二筵の地を取り、太廟の名を仮りて聴朔を行うのである。
『周禮』は基について言及して室に及ばず、『大戴禮記』は室について言及して廟に及ばず、『月令』を考証すれば備わっているが、しかし『白虎通』がなければ、窓と扉の制をも知ることはできない。聶崇義の所謂秦人の『明堂圖』なるものは、その制に十二の階があり、古の遺法であり、これもまた採用すべきであろう。
『禮記外傳』に曰く、「明堂の四面に各々五門あり」と。今『明堂位』を按ずるに、四夷の国は四門の外にあり。九采の国は応門の外にあり。時に天子は斧扆を背にして南面して立つ。南門の外なる者は北面して東を上とし、応門の外なる者もまた北面して東を上とす、これは南門の外に応門があるということである。既に応門があるならば、皋門・庫門・雉門がないわけにはいかない。明堂とは、四時に居する所であり、四面が同じであるから、南面に既に五門があるならば、残る三面も皆それぞれ五門があるはずである。鄭玄が『明堂位』に注して「正門を応門と謂う」と云うのは、その意は南門の文言を変えて応門としたものと謂うべきであろう。また王宮には路門があり、その次に応門があるのを見る。今明堂には路門の名がなく、ただ応門があるのみであるから、更に重門はなく、南門が即ち応門であると謂うのである。かつ路寝の前は路門と名付け、その次に応門がある。明堂は路寝ではないから、その内門の名を東門・南門と変え、次に応門があるとしても、義に何の害があろうか。四夷の君は、既に四門の外におり、その外に重門がなければ、郊野の道路の間に列することになり、豈に朝会の儀礼であろうか。王宮の常居でさえ、猶五門を設けて中外を限る。明堂は、天に效い地を法り、祖を尊び帝に配する所であり、而してただ一門のみでこれを表すのは、豈に相応しいと言えようか。
その建置する所については、淳于登が云うに「国の陽、三里の外、七里の内、丙巳の地に在り」と。『玉藻』に「聴朔を南門の外にす」とあり、鄭康成の注もまたこれと合致する。明と称するは、宜しく国の陽にあるべし。天神に事えるは、宜しく城門の外にあるべし。
今、図は九分を九尺の筵に当て、東西の堂は合わせて九筵、南北の堂は合わせて七筵とする。中央の地は東から西まで凡そ五室、南から北まで凡そ五室、毎室二筵、これは『考工記』による。一つの太室、八つの左右の个、合わせて九室、室に四つの戸、八つの牖あり、合わせて三十六戸、七十二牖、これは戴德の『記』に合致する。九室四廟、合わせて十三の位、これは『月令』に基づく。四廟の面に、各々一つの門を設け、門に両側に窓を挟む、これが八窓四闥であり、『白虎通』に考証する。十二階は、『三禮圖』に採る。四面に各々五門は、『明堂位』・『禮記外傳』を斟酌する。」
嘉祐年間、国子監の上奏により、海門主簿・太学説書に召されたが卒去した。李覯は嘗て『周禮致太平論』・『平土書』・『禮論』を著した。門人の鄧潤甫が、熙寧年間に、その『退居類稿』・『皇祐續稿』及び『後集』を上進し、その子の参魯に官職を与えるよう請うた。詔して郊社斎郎とした。
何涉
何涉、字は濟川、南充の人。父祖は皆農業に従事し、涉より読書を始め、昼夜刻苦し、広く博く古を覧る。上は『六経』・諸子百家より、傍らは山経・地志・医卜の術に至るまで、学ばざる所なく、一度目を通せば再び読むことなく、終身忘れなかった。人が書伝中の事を問えば、必ず巻・第・冊・葉の所在を指し示し、検証すれば果たしてその通りであった。
進士に登第し、洛交主簿に調せられ、中部令に改まる。范仲淹は一度会ってその才を奇とし、彰武軍節度推官に辟す。龐籍の上奏により、著作佐郎・管勾鄜延等路経略安撫招討司機宜文字に遷る。時に元昊が辺境を擾し、軍中の経画に、涉は参与して力があった。元昊が降伏を申し出ると、龐籍が枢密使に召され、彼と共に行かんとしたが、涉は曰く「親は老いています。人子が自らの便を図る時ではありません」と。上章して帰養を願い出て、特別に秘書丞・眉州通判に改められ、嘉州に移る。文彦博・龐籍の推薦により、召還され、集賢校理を除かれる。既にしてまた蜀に帰ることを求め、漢州知州を得る。任期満了して合州に移る。累官して尚書司封員外郎に至る。父の喪に遭い、官を罷めて帰郷し、卒去。詔してその家を恤い、併せてその一子に官職を与えた。
何涉は長厚にして操行あり、親に事えて至孝であり、平素より嘗て人の過悪を語らなかった。赴任した地には多く学館を建て、諸生を勧め諭し、その遊学に従う者が甚だ多かった。軍中にあっても、嘗て諸将に『左氏春秋』を講じ、狄青の徒は皆経書を横たえて聴講した。『治道中術』・『春秋本旨』・『廬江集』七十巻がある。
王回
王回、字は深父、福州候官の人。父は平言、御史を試みる。回は篤く孝友を行い、質直で平恕であり、急ぐ時も必ず古人の為したることを考証し、小さな廉潔や細かい謹みをもって名誉を求めなかった。嘗て進士に挙げられて及第し、衛真簿となったが、意に合わざる所があり、病を称して自ら免官した。
『告友』を作りて曰く、
「古、天下の達道を言う者は、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友を曰う。この五者は各々その義を行って人倫が立ち、その義が廃れば人倫もまた従って亡ぶ。
しかし父子兄弟の親は、天性の自然なるものである。夫婦の合は、人情によって然るものである。君臣の従は、衆心によって然るものである。これは自ら廃せんと欲すれども、理勢がこれを支え、どうして断ち切ることができようか。ただ朋友のみは、天下の人挙げて同うべからざるはなく、また天下の人挙げて異なるべからざるはなく、同異は我に在り、則ち義は安んぞ終に帰する所あらんや?これがその漸く廃れる由縁である。
君主が臣下に対して、父が子に対して、夫が婦に対して、兄が弟に対して、過ちや悪事があれば、必ずその国家を乱れ敗れさせ、国家が敗れると皆がその災難を受け、その汚名を被り、終身これを免れ得ない。故に上に立つ者は敢えて教え諭さざるを得ず、下にいる者は敢えて諫めざるを得ない。世が治まり道が行われれば、人は義に従って自らを得るが、世が衰え道が微かになれば、人はなお義を顧みて自らを全うする。たまにそれに及ばぬ者がいても、また大勢には害がないのである。これこそ理と勢いがこれを支えるもので、百代を経ても知ることができる。
親しみは天性によるものではなく、合致は人情によるものではなく、従うことは衆心によるものではない。群れて同じくし、別れて異なる。善があっても栄誉とするに足らず、悪があっても恥辱とするに足らない。大道が行われれば、公と義とをわきまえる者はこれに至ることができるが、これより下の段階で言えば、それに及ぶ者は少ない。それゆえ聖人はこれを尊び、君臣・父子・夫婦・兄弟の列に加えて一つの達道としたのである。聖人が没して後、その義はますます廃れ、今に至っては失われてしまった。
人には四肢があり、それによって身体を成す。一体が備わらなければ、それを廃疾という。それなのに人倫が欠けているならば、どうして世を成すことができようか。ああ、今の時に処して古の道を望むことは、難しいことだ。しばらく、自分の過ちを告げることを肯んじ、自分の過ちを聞くことを喜ぶ者を求めて、その者と友となろうか。
潁州に退居し、長く仕官を肯んじず、朝廷には多く推薦する者がいた。治平年中、忠武軍節度推官・南頓県知事に任ぜられ、命令が下った時に卒去した。回は潁川に在って、処士の常秩と親しく交わった。熙寧年中、秩がその文集を上進し、回の子汾を郊社斎郎に補任した。弟に向がいる。
弟 向
向は、字を子直といい、文章は序事に長じ、戯れに『公黙先生伝』を作って曰く。
公議先生曰く、「来たれ、われ汝に語らん。君子は道を行い世に信ぜられることを貴ぶ。信ぜられなければ容れられることを貴び、容れられなければ去ることを貴ぶ。古の世を避け、地を避け、色を避け、言を避けるがこれである。わが行年三十、節を立て名に従い、先王の教えを身にまとい、『六経』を究め窮めた。頑鈍にして晩成、得るところ僅かである。網を張って大綱を捉え、零細は漏れ略する。その見るところを校すれば、完人とは為していない。敢えて自ら忘れ、世に用いられることを望もうか。わが厭い苦しむところは、正に容れられないことである。わが世間を行く、波は混じり流れは同じ。わが誉れは至らず、わが毀りは日々に隆盛。小人は空を穿ち、事を造り形跡を作る。侵し排すること万端、地は狭く天は傾く。『詩』に云わぬか、『讒言する人は極まりなし』と。主人は明らかで寛恕であるから、未だ疑われない。不幸にして我を去れば、来る者は誰というのか。讒言が一日にして効を奏すれば、我は終に顛倒危うくなる。智者は身を利し、害を遠ざけ徳を全うする。急ぎ行きて、異国に適うに如かず」。
語り終えると、任意が答えて曰く、「先生はおっしゃらないでください。意ら弟子はかつて窃かに論じました。先生は怨憎を取ることを楽しみ、人の為し難いことを為され、楽しんでいないことを知らないのです。今確かに楽しんでいないならば、先生はそれを取る所以をご存知ですか。先生の聰明才能は、人よりはるかに優れておりますが、口を刺して世事を論じ、是を立て非を立て、その間に毫髪も容れません。また公議を名とされ、これは人の怨みの府です。『伝』に曰く、『人を議する者はその死を得ず』と。先生がこれを憂えられるのは正しいですが、去られるのは正しくありません。意に三つの事を以て先生のために計り申し上げます。先生幸いに意の言うことを聴かれ、必ずしも行かれるには及びません。聴かれなければ、先生たとえ海を絶って去られても、先生の安泰は見えません」。
公議先生は舌を強めて語らず、下を見て任意を視、目を転移せずしばらくして、ついに任意に問うた。任意が答えて曰く、「人の肺肝は、どうして見ることができようか。高く重泉より出で、険しさ比ぶるに足らず。彼方で善を聞けば、陽には誉め陰には非とし、背を反しまた憎み、詆毀し笑い縦横にふるまう。その細かな過ちを得れば、声を張り口に播き、百方に飾り立て、行いを破り敗る。これが自然と人であり、彼を賤しみ我を善しとするのです。意の策の三つ、これが最上のものです。先生はこれを用いることができますか」。公議先生曰く、「できない。そち、次なるものを言ってみよ」。答えて曰く、「骨肉を棄て去り、狂を装って去り、世の人に再び顧み忌憚することをさせない。これが策の次なるものです。先生はこれを用いることができますか」。公議先生曰く、「できない。そち、また次なるものを言ってみよ」。答えて曰く、「先生の己を行うこと、世の人の及ばざる所を視ることは、何たることでしょう。未だ高世と称せられるに至らずして、詆毀呵責が鋒を並べて起こり、ほとんど妄庸人と伍することを得ないのは、まことに口禍によるものです。先生が議論を好まずして沈黙を好み、是非を口に及ぼさずして心に存するならば、どうして容れられないことを病むことがありましょうか。これが策の最下のものです。先生はこれを用いることができますか」。公議先生は喟然として歎じて曰く、「ああ、われそちのために下策を用いよう」。
任意は乃ち大笑し、その徒を顧みて曰く、「我が先生が世に病まれるのも当然である。われ三策を呈し、ついにその下なるものを取った」。弟子の陽思曰く、「今日任意でなければ、先生を留めることはできなかったであろう」。その徒と共に意に謝し、さらに意に請うて、公議を去り公黙先生と為した。
弟の同は、字を容季という。性質純朴篤実で、また序事を善くした。皆早世した。官は県主簿に止まった。
周堯卿
学問は伝注に専らせず、問い弁じ思索し、通ずるを期とす。毛・鄭の『詩』及び『左氏春秋』に長ず。その『詩』を学ぶに、孔子の所謂『詩三百、一言以蔽えば曰く「思無邪」』、孟子の所謂『詩を説く者は意を以て志を逆らう、是れ之を得るなり』に拠り、経の指帰を考へて毛・鄭の得失を見る。曰く、「毛の伝は簡にしようと欲し、或は義理に寡く、一言以て之を蔽ふに非ず。鄭の箋は詳にしようと欲し、或は性情に遠く、意を以て志を逆らふに非ず。是れ以て去取無からんや」と。その『春秋』を学ぶに、左氏の記すところの詳なるにより、経の書する所以を得、『三伝』の異同に至りては、均しく取らざる所あり。曰く、「聖人の意豈に二致あらんや」と。荘周・孟子の書を読みて曰く、「周は理を言ふに善くし、未だ理を窮むるに至らず。理を窮むれば、則ち好悪聖人に繆からず、孟軻是れ已なり。孟は性を言ふに善くし、未だ己が性を尽くすに至らず。能く己が性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くし、而して天地と参することを与にすべし、其れ唯聖人か。天何をか言はん。性と天道とは、子貢の以て得て聞くべからざる所以なり。昔宰我・子貢は説辞を為すに善くし、冉牛・閔子・顔淵は德行を言ふに善くし、孔子曰く『我れ辞命に於ては、則ち能はざるなり』と。唯言はざる故に、能はざるなりと曰ふのみ、蓋し言は足らざるより生ずる者なり」と。その講解議論皆此の如し。
『詩説』『春秋説』各三十巻、文集二十巻あり。七子:諭は鼎州司理参軍、詵は湖州帰安主簿、謐・諷・諲・説・誼。
王當
王當、字は子思、眉州眉山の人。幼より学を好み、古今に博覧し、取る所は唯王佐の大略のみ。嘗て三公は道を論じ邦を経め、陰陽を燮理し、四方を填撫し、百姓を親附するは、皆一道より出づと謂ふ。其の言ふ所は大なりと雖も、其の行ふ所は甚だ易し。嘗て進士に挙げられて中らず、田野に退居し、歎じて曰く、「士の世に居るや、苟くも其の用を見ざれば、必ず其の言を見ん」と。遂に『春秋列国名臣伝』五十巻を著し、人競ひて之を伝ふ。
元祐中、蘇轍賢良方正を以て薦む。廷対慷慨、権貴を避けず、策四等に入る。龍遊県尉に調す。蔡京成都を知り、学官に挙ぐるも、當就かず。其の後京相たり、當遂に復た仕へず、卒す、年七十二。當経学に於て尤も『易』と『春秋』に邃く、皆之が伝を為し、聖人の旨を得ること多し。又『経旨』三巻、『史論』十二巻、『兵書』十二篇あり。
陳暘
陳暘、字は晉之、福州の人。紹聖の制科に中り、順昌軍節度推官を授かる。徽宗初、『迓衡集』を進めて紹述を勧導し、太学博士・秘書省正字を得る。礼部侍郎趙挺之の言ふ所、暘の著す『楽書』二十巻は貫穿明備なり、其の兄祥道の『礼書』を進めたる故事に援ひて劄を給ふことを乞ふ。上るや、太常丞に遷り、駕部員外郎に進み、講議司参詳礼楽官と為る。
魏漢津楽を議し、京房の二変四清を用ふ。暘曰く、「五声十二律は、楽の正なり。二変四清は、楽の蠹なり。二変は変宮を以て君と為し、四清は黄鐘清を以て君と為す。事は時に因りて作る、固より変ふ可しと雖も、而して君は変ふ可からず。太簇・大呂・夾鐘は、或は分つ可しと雖も、而して黄鐘は分つ可からず。豈に古人の所謂尊無二上の旨ならんや」と。時論方に漢津を右とし、暘の議を絀く。
鴻臚太常少卿・礼部侍郎に進み、顕謨閣待制を以て醴泉観を提挙す。嘗て事に坐して奪はる、已にして之を復す。卒す、年六十八。
陳祥道
祥道、字は用之。元祐中、太常博士と為り、終に秘書省正字。著す所の『礼書』一百五十巻は、暘の『楽書』と並びて世に行はる。