宋史

列傳第一百九十  儒林一 聶崇義 邢昺 孫奭 王昭素 孔維 孔宜 崔頌子:曥 尹拙 田敏 辛文悅 李覺 崔頤正弟:偓佺 李之才

聶崇義

五年、太廟において禘祭を行わんとす。言事者、宗廟に祧室なしとして、禘祫の礼を行うべからずとす。崇義、故事を援引して上言す。その略に曰く、「魏の明帝、景初三年正月に上僊し、五年二月に至りて祫祭し、明年また禘す。これより後、五年を以て禘と為す。且つ魏は武帝を太祖と為し、明帝に至りて始めて三帝、毀主あることなくして禘祫を行へり。その証一なり。宋の文帝の元嘉六年、祠部十月三日を大祠と定む。その太学博士議に云ふ、案ずるに禘祫の礼、三年に一たび、五年に再たびす。宋の高祖こうそより文帝に至るまで裁も三帝、毀主あることなくして禘祫を行へり。その証二なり。梁の武帝、謝広の議を用ひ、三年に一禘、五年に一祫し、之を大祭と謂ふ。禘祭は夏を以てし、祫祭は冬を以てす。且つ梁武は乃ち受命の君にして、裁も四朝を追尊して禘祫を行へば、則ち知る祭る者は追養の道にして、時移り節変はるを以て、孝子感して親を思ひ、故に首時に薦へ、仲月に祭り、禘祫を以て間ひ、昭穆を以て序し、乃ち礼の経なり。宗廟の備はると未だ備はらざるとに関はらず。その証三なり」と。終に崇義の議に従ふ。

未だ幾もあらざるに、世宗詔して崇義に郊廟の祭玉を参定せしめ、また詔して翰林学士竇儼に之を統領せしむ。崇義因りて《三礼図》を取り再び考正し、建隆三年四月表を上ぐ。儼序を為す。太祖覧て之を嘉し、詔して曰く、「礼器礼図、相承伝用し、年祀に浸歴し、寧くも差違を免れんや。聶崇義国庠に事を典め、儒業に服膺し、故実を討尋し、疑訛を刊正し、職を奉り官に效す、嘉むに足る者有り。崇義宜しく量りて酬獎を与ふべし。所進の《三礼図》は、宜しく太子詹事尹拙に令し儒学者三五人を集めて更に同しく参議せしめ、冀くは精詳ならんことを。苟くも異同有らば、善く商確を為せ」と。五月、崇義に紫袍・犀帯・銀器・繒帛を賜ひて之を獎す。拙多く駁正有り、崇義復た経を引きて之を釈し、悉く工部尚書竇儀に下し、之を裁定せしむ。儀上奏して曰く、「伏して惟ふに聖人礼を制し、之を垂れて窮まり無し。儒者経に拠り、伝ふる所或は異なり、年祀浸く遠く、図繪缺然たり。踳駁彌く深く、丹青拠る所靡し。聶崇義師説を研求し、礼経に耽味し、旧図に較べて、良く新意有り。尹拙爰に制旨を承け、能く聞く所を罄く。尹拙の駁議及び聶崇義の答義各四巻、臣再び詳閲し、随ひて裁置し、率ね増損を用ひ、注釈に列し、共に分ちて十五巻と為し以て聞す」と。詔して之を行はしむ。

拙・崇義復た祭玉鼎釜の異同の説を陳ぶ。詔して中書省に下し集議せしむ。吏部尚書張昭等奏議して曰く、

「按ずるに聶崇義称す、天を祭る蒼璧は九寸圓好、地を祭る黄琮は八寸好無し、圭・璋・琥並びに長さ九寸と。自ら言ふ周の顕徳三年に田敏等と《周官》玉人の職及び阮諶・鄭玄の旧図に按じて、其の制度を載すと。

臣等按ずる、《周礼》玉人の職には、只だ「璧琮九寸」、「瑑琮八寸」及び「璧羨度尺、好三寸を以て度と為す」の文有るのみ。即ち蒼璧・黄琮の制無し。兼ねて注に引くに《爾雅》「肉倍好」の説有り。此れ即ち是れ「璧羨度」の文を注するものにして、又た蒼璧の制に非ず。又た詳らかにす、鄭玄自ら《周礼》に注す、尺寸を載せず。豈に復た別に画図を作り、経に違ひ異を立てんや。

《四部書目》の内に《三礼図》十二巻有り。是れ隋の開皇中に礼官を勅して修撰せしむ。其の図第一・第二に題して「梁氏」と云ひ、第十後に題して「鄭氏」と云ふ。又た梁氏・鄭氏の名位の出づる所を知らずと称す。今書府に《三礼図》有り、亦た「梁氏」「鄭氏」と題し、名位を言はず。厥れ後に梁正と云ふ者有り、前代の図記を集めて更に詳議を加へ、《三礼図》に題して曰く、「陳留の阮士信、潁川の綦冊君に《礼》学を受け、其の説を取り、図三巻を為す。多く《礼》の文に按ぜずして漢事を引き、鄭君の文に違錯す」と。正之を刪めて二巻と為す。其の阮士信は即ち諶なり。梁正の言の如くすれば、諶の紕謬を知るべし。兼ねて三巻の《礼図》を刪めて二巻と為せば、応に今の《礼図》の内に在り。亦た祭玉を改むるの説無し。

臣等参詳す、周公礼を制して之後、叔孫通重ねて定めて以来、礼に緯書有り、漢代の諸儒頗る多く著述す。祭玉を討尋するも、並びに尺寸の説無し。魏・晉の後、鄭玄・王肅の学各々生徒有り、《三礼》《六経》論説せざる無し。其の書を検するも、亦た祭玉の尺寸を言はず。臣等画図本書を参験す。周公の説く正経は尺寸を言はず。設ひ後人謬りて之が説を為すも、安んぞ便ち周図に入らん。崇義等の諸侯朝に入り天子夫人に献ずる琮璧を以て祭玉と為し、又た「羨度」「肉好」の言に配合し、強ひて尺寸を為すを知る。古今の大礼、非に順ひ非を改む、理に於いて通ぜず。

又た尹拙の述ぶる所の神を礼する六玉に据るに、梁の桂州刺史崔霊恩の撰する所《三礼義宗》の内「昊天及び五精帝の圭・璧・琮・璜皆長さ尺二寸、十二時を法とす。地を祭るの琮長さ十寸、地の数を效ふ」を取りと称す。又た《白虎通》を引きて云ふ、「方中円外を璧と曰ひ、円中方外を琮と曰ふ」と。崇義之を非とし、以て霊恩は周公の才に非ず、周公の位無し。一朝撰述し、便ち六玉の闕文を補ふは、尤も礼に合はざると為す。

臣等窃に惟ふ、劉向の《洪範》を論じ、王通の《元経》を作るは、必ずしも聖人の姿を挺てずして上公の位に居らずと雖も、教に益有りて、斐然たらざるに非ず。臣等霊恩の撰する所の書を以てす。聿に古訓を稽へ、祭玉を十二を以て数と為すは、蓋し天に十二次有り、地に十二辰有り、日に十二時有り、封山の玉牒十二寸、圜丘の籩豆十二列、天子は鎮圭を以て外を守り、宗后は大琮を以て内を守り、皆長さ尺有二寸有り。又た祼圭尺二寸、王者以て宗廟を祀る。若し人君親しく行ふ郊祭、壇に登り酌献し、大裘を服し、大圭を搢し、稽奠を行ひて、手に尺二の圭を秉り、神に九寸の璧を献ずるは、宗廟祼圭の数に及ばず。父たる天、母たる地、情亦た奚くにか安からん。則ち霊恩の議論、理未だ失と為さず。所以に《義宗》の出づるより、梁・陳・隋・唐に歴りて垂く四百年、礼を言ふ者は引きて師法と為す。今《五礼精義》《開元礼》《郊祀録》皆《義宗》を引きて標準と為す。近代晉・漢の両朝、仍って旧制に依る。周の顕徳中、田敏等妄りに穿鑿を作し、輒ち更改有り。唐の貞観之後より、凡そ三次大いに五礼を修し、並びに隋朝の典故に因り、或は節奏繁簡の間に稍々𨤲革有ると雖も、亦た祭玉を改むるの説無し。伏して望むらくは《白虎通》《義宗》唐礼の制に依り、以て定式と為さんことを。

また尹拙は旧来の図に従って釜を画き、聶崇義は釜を去って鑊を画いた。臣らは旧図を参酌して詳しく見るに、皆釜があり鑊はない。『易・説卦』に「坤は釜と為す」とあり、『詩』に「惟れ錡及び釜」とあり、また「之に溉ぐ釜鬵」とあり、『春秋伝』に「錡釜の器」とあり、『礼記』に「黍を燔き豚を捭く」とあり、その解釈に「古には未だ甑釜有らず、以て燔捭して祭る所以なり」とある。即ち釜の用いられることは、その来り尚し。故に『礼図』に入る。今崇義は『周官』に祭祀に省鼎鑊、供鼎鑊有りとし、また『儀礼』に羊鑊・豕鑊の文有りとするをもって、乃ち釜を画くは鑊を画くに如かずと云う。今諸経皆釜の用を載す。誠に去るべからず。また『周礼』・『儀礼』には皆鑊の文有り。請う、両者を図せん。また諸家の祭祀の画を見るに、今代に行わるる礼に於ては、大祀の前一日、光禄卿が鼎鑊を省視す。伏して請う、鑊を鼎の下に図せん。

詔してこれに従う。未だ幾ばくもなく、崇義卒す。『三礼図』は遂に世に行われ、併せて国子監講堂の壁に画かれた。

崇義は学官となり、礼を兼ね掌ること僅か二十年、世はその該博を推した。郭忠恕は嘗てその姓を以て嘲って曰く、「貴に近づけば全く聵と為り、龍に攀ずれば即ち聾と作る。然りと雖も三つの耳、其れ奈何せん聡を成さず。」崇義対えて曰く、「僕は詩を為す能わず。聊か一聯を以て奉答す。」即ち云く、「三耳有るを笑う勿れ、全く二心を畜うるに勝る。」蓋しその名に因りてこれを嘲る。忠恕大いに慚じ、人はその機捷にして正を失わざるを許し、真に儒者の戯れと云う。

邢昺

真宗即位し、司勲郎中に改め、俄かに審刑院を判じ、昺は儒者にして刑章に達せざるを以て、劉元吉に命じて同しくその事を領せしむ。是の冬、昺上表して夙に講諷に侍りしことを自ら陳べ、右諫議大夫に遷る。咸平初年、国子祭酒に改む。二年、始めて翰林侍講学士を置き、昺を以てこれと為す。詔を受けて杜鎬・舒雅・孫奭・李慕清・崔偓佺等と『周礼』・『儀礼』・『公羊』・『穀梁春秋伝』・『孝経』・『論語』・『爾雅義疏』を校定し、成るに及び、並びに階勲を加う。俄かに淮南・両浙巡撫使と為る。初めて講読の職を置くや、即ち便坐に於て昺に『左氏春秋』を講ぜしめ、侍読預かる。五年講畢し、近臣を崇政殿に宴し、昺に襲衣・金帯を賜い、器幣を加え、仍って工部侍郎に遷し、国子祭酒・学士は旧の如し。審官院を判ずる陳恕、内艱に丁り、昺を以て院事を権知せしむ。

景德二年、上言す、「亡き兄素、嘗て進士に挙げられしが、贈典に沾わんことを願う。」特び大理評事を贈る。是の夏、上幸して国子監に庫書を閲し、昺に経版幾何ぞと問う。昺曰く、「国初は四千に及ばず、今は十余万、経・伝・正義皆備わる。臣少く師に従い儒を業とせし時、経に疏を具うる者は百に一二無く、蓋し力伝写する能わざるなり。今板本大いに備わり、士庶の家皆之を有つ。斯れ乃ち儒者の辰に逢うの幸いなり。」上喜びて曰く、「国家儒術を尚ぶと雖も、四方事無きに非ざれば、何ぞ以て此に及ばんや。」上又学館の故事を以て訪う。未だ振挙せざる者有り。昺は建明する所ある能わず。是に先立ち、印書所の裁ち余れる紙を鬻いで以て監中の雑用に供す。昺請うて之を三司に帰し、以て国用を裨益せんとす。是より監学の公費給せず、講官も亦その寥落を厭う。上方に道術を興起し、又昺と張雍・杜鎬・孫奭に令して経術該博・德行端良なる者を挙げ、以て学員を広めしむ。三年、刑部侍郎を加う。

昺近職に居り、常に多く召対せられ、一日従容として上と語り宮邸の旧僚に及び、その淪喪殆んど尽きるを歎き、唯昺独り存する。翌日、白金千両を賜い、且つその妻を宮庭に詔し、冠帔を以て賜う。四年、昺羸老にして趨歩上前するに艱しきを以て、自ら曹州故郷なるを陳べ、願わくは仮を給わり一年帰り田里を視、明年の郊祀を俟ちて朝に還らん。上命じて坐せしめ、之を慰労し、因りて謂いて曰く、「便ち本州を権めよ。何ぞ仮を須いんや。」昺又楊礪・夏侯嶠同じく府僚たりしを言う。二臣没し皆尚書を贈らる。上之を憫れむ。翌日、宰相に謂いて曰く、「此れ其の志を見るべし。」即ち超えて工部尚書・曹州知州を拝し、職は旧の如し。

入朝辞する日、襲衣・金帯を賜う。是の日、特び龍図閣を開き、近臣を召して崇和殿に宴し、上五・七言詩二首を作りて之を賜い、宴に預かる者皆賦す。昺壁間の『尚書』・『礼記図』を視、『中庸』の篇を指して曰く、「凡そ天下国家を為るに九経有り。」因りてその大義を陳ぶ。上嘉納す。及び行くに臨み、又近臣に令して祖送せしめ、会を宜春苑に設く。大中祥符初年、上東封泰山す。昺表して曹州民の車駕の本州を経由せんことを請うを上る。仍って済陰令王範に令し父老を部送して闕に詣らしむ。優詔以て之に答う。俄かに召し還す。車駕進発し、留司御史台を判ずるを命ず。礼畢し、位を進めて礼部尚書と為す。

上政に勤み農を憫み、雨雪の時ならざる毎に、憂い色に形る。昺素より田事に習熟するを以て、多く委曲として之を訪う。初め、田家陰晴豊凶を察するに、皆状候有り。老農の相伝うる者は率い験有り。昺多く其の説を采りて対と為す。又言す、「民の災患、大なる者四つ有り。一には疫、二には旱、三には水、四には畜災。凶歳必ず其の一有り。但だ或いは軽く或いは重し。四事の害、旱暵最も甚だし。蓋し田に畎澮無くば、悉く救う可からず。損なう所必ず尽く。『伝』に曰く、『天災流行し、国家代わり有り。』此れ之を謂うなり。」

三年、病に被り告を請う。詔して太医をして診視せしむ。六月、上親臨して疾を問い、名薬一奩・白金器千両・繒彩千匹を賜う。国朝の故事、宗戚将相に非ざれば、疾を省み喪に臨むの礼無し。特び昺と郭贄に加うる者は、恩旧なる故なり。未だ幾ばくもなく、旨有りて中書に命じ其の子太常博士東明県知事仲宝・国子博士信陽軍知事若思を召し還り疾に侍らしむ。一月を逾えて卒す。年七十九。左僕射を贈り、三子並びに秩を進む。

初め、雍熙中、昺『礼選』二十巻を撰して之を献ず。太宗其の帙を探り、『文王世子』の篇を得、之を観て甚だ悦び、因りて衛紹欽に問いて曰く、「昺諸王に講説するに、嘗て此に及べりや。」紹欽曰く、「諸王常時昺に経義を訪う。昺毎に君臣父子の道を発明するに至りては、必ず重復して之を陳ぶ。」太宗益々喜ぶ。上嘗て内閣に因り書を暴くに、覧みて善しと称し、昺を召して同観し、『礼選賛』を作りて之を賜う。昺言す、「家に遺稿無し。願わくは副本を得ん。」上之を許す。繕録未だ畢らざるに昺卒す。亟に詔して二本を写さしめ、一本は其の家に賜い、一本は塚中に置かしむ。

趙昺は東宮及び内庭において、上(皇帝)に侍して『孝経』『礼記』『論語』『書経』『易経』『詩経』『左氏伝』を講じた。伝疏に拠って敷衍引用するほか、多く時事を引き合いに出して譬えとし、深く嘉賞された。上は嘗て問うた、「管仲と召忽は皆公子糾に仕え、小白(桓公)が斉に入ると、召忽はこれに殉じて死に、管仲は斉に帰って桓公の宰相となった。これは豈に召忽が忠をもって死し、管仲はその節を固く保つことができなかったということであろうか、臣たるの道はかくあるべきであろうか。また鄭玄が『礼記・世子篇』に注して云う、『文王は勤労憂慮によって寿命を損ない、武王は安楽によって年を延ばした』と。朕は本経の旨意は必ずしもそうではないと思う。夏の禹は焦心労苦して、玄圭の賜りを受け、国を享けること永年であった。もし文王が人の心を憂うることができ、自ら暇と安逸を求めず、仮に感応がなくとも、豈に寿命を損ない虧くに至ろうか」と。各々その事理に随って答えた。

先に、咸平年中、王欽若が貢挙を掌り、挙人の賄賂を受けたと告げる者があり、御史台に下して審問させて事実を得た。欽若は自ら訴え出た。詔して趙昺と辺粛・毋賓古・閻承翰をして太常寺において再審させた。昺は力を尽くして欽若を弁護し、洪湛が罪に当たった。欽若はこれによって彼に恩義を感じた。昺が厚く寵顧を受けたのは、欽若の力もあった。

仲宝は貪婪で無能、挙動は軽率であり、士大夫は多く彼を軽蔑嘲笑した。欽若が中書に在った時、三司判官に用い、後に祠部郎中に至ったが、贓罪に坐して官を免ぜられ、死去した。若思は駕部郎中で終わった。

孫奭

『九経』に及第し、莒県主簿となり、上書して講説の試験を願い出て、大理評事に遷り、国子監直講となった。太宗が国子監に行幸し、奭を召して『書経』を講ぜしめ、「事古に師らずして、以て永世に克つは、説の聞く所に匪ず」に至ると、帝は曰く、「これは至言である。商の高宗はかくの如き賢相を得たのか」と。因ってしばらく嘆息した。五品の服を賜うた。真宗は諸王府侍読とした。詔して百官が順番に対することとなり、奭は十事を上奏した。太常礼院・国子監・司農寺を判り、累遷して工部郎中となり、龍図閣待制に抜擢された。

奭は経術によって進み、道を守り自ら処し、発言する時は、嘗て阿附して歓心を買うことはなかった。大中祥符初年、左承天門において天書を得た。帝は奉迎しようとし、宰相を崇政殿西廡に召して対せしめた。王旦らは曰く、「天の賜う符命は、実に盛徳の応である」と。皆再拝して万歳を称した。また奭を召して問うと、奭は対えて曰く、「臣愚かであるが、聞く所では『天何ぞ言わんや』であり、書があるはずがありません」と。帝は天書を奉迎した後、大赦して元号を改め、その事を天下に布告し、玉清昭応宮を築いた。この年、天書が再び泰山に降りた。帝は親しく符命を受けたとして、遂に封禅を議し、礼楽を作った。王欽若・陳堯叟・丁謂・杜鎬・陳彭年は皆経義によって左右で附和し、これによって天下は符瑞を争って言うようになった。

四年、また汾陰を祀ろうとした。この時大旱であり、京師近郡では穀物の価格が高騰した。奭は上疏して諫めて曰く、

「先王は征行を卜い、五年にわたり毎年その祥(吉兆)を習い、祥を習えば行い、習わなければ徳を修めて改めて卜うのである。陛下は始めて東封を終えられ、更に西幸を議しておられるが、これは先王が五年をかけて慎重に卜った意に非ず、その不可なること一なり。汾陰の后土は、事として経典に見えず。昔、漢武帝が封禅を行おうとして、故に先ず中嶽を封じ、汾陰を祠り、始めて郡県を巡幸し、遂に泰山に事を行った。今、陛下は既に登封されたのに、復た汾陰に行幸せんとされるは、その不可なること二なり。古より圜丘方沢は、天地を郊祀する所以であり、今の南北郊である。漢初は秦を承け、唯五畤を立てて天を祀るのみで、后土は祀られず、故に武帝が汾陰に祠を立てた。元帝・成帝以来、公卿の議に従い、遂に汾陰の后土を北郊に移し、後の王者は多く汾陰を祀らなかった。今、陛下は既に北郊を建てられたのに、これを捨てて遠く汾陰を祀られるは、その不可なること三なり。西漢は雍に都し、汾陰に至って近し。今、陛下は重関を経めぐり、険阻を越え、軽々しく京師の根本を棄てて、西漢の虚名を慕われるは、その不可なること四なり。河東は、唐の王業の起こった所である。唐もまた雍に都したので、故に明皇は時に河東に行幸し、因って后土を祠った。聖朝の興りは、事唐と異なり、而るに陛下は故なくして汾陰を祀らんとされるは、その不可なること五なり。昔、周の宣王は災いに遇って懼れ、故に詩人がその中興を美し、賢主と為した。比年以来、水旱相継ぎ、陛下は身を側めて徳を修め、以て天の譴責に答うべきであり、豈に奸回に従い、遠く民庶を労し、盤遊して已まず、社稷の大計を忘るべきであろうか。その不可なること六なり。雷は二月に啓蟄し、八月に声を収め、万物を育養する。時を失えば異となる。今、震雷が冬にあるは、異として尤も甚だしい。これは天意が丁寧に陛下を戒めているのであるのに、反って未だ悟られず、天意を失うに殆し。その不可なること七なり。民は神の主なり。是をもって聖王は先ず民を成し、而る後に神に力を致す。今、国家の土木の工事は累年止まず、水旱の災害が重なり、饑饉が多いのに、乃ち民を労して神に事えようとされる。神はこれを享けるであろうか。これその不可なること八なり。陛下が必ずこれを為さんとされるは、漢の武帝・唐の明皇に倣い、巡幸する所に至り、石に刻んで功を頌し、以て虚名を崇め、後世に誇示せんとするに過ぎない。陛下の天資は聖明、二帝三王を慕うべきであり、何ぞ下って漢唐の虚名を襲うべきか。その不可なること九なり。唐の明皇は寵愛する奸邪により、内外交害し、身は流転し国は艱難に陥り、兵は関下に交わり、亡乱の跡かくの如し。これは承平に慣れ、非義を肆に行い、禍敗を醸し致したによる。今、議者は開元の故事を引いて盛烈と為し、乃ち陛下を導いてこれを為さんとしている。臣は切に陛下の取らるる所とならざるを為す。これその不可なること十なり。臣の言は意に逮わず。陛下が臣の言を取るべきものと為さるれば、願わくは少しく清問を賜い、以て臣の説を畢えしめられんことを」と。

帝は内侍の皇甫継明を遣わして問わせた。また上疏して曰く、

「陛下が汾陰に行幸せんとされるに、京師の民心は安寧せず、江・淮の衆は調発に困窮している。理として鎮め安んじ、これを憐れみ存すべきである。且つ土木の工事は未だ止まず、而して奪攘の盗賊は公然と行い、外国は兵を治め、辺境に遠からず。使者は雖も至るも、寧そその心を保つことができようか。昔、陳勝ちんしょうは徭戍より起こり、黄巢は凶饉より出で、隋の煬帝は遠略に勤めて唐の高祖は晋陽に興り、晋の少主は小人に惑わされて耶律徳光は中国に長駆した。陛下は奸佞に俯して従い、遠く京師を棄て、累年にわたり饑饉の薦る墟を渉り、久しく経て廃された祠を修め、民の疲弊を念わず、辺患を恤れみ給わない。安んぞ今日の戍卒に陳勝無く、饑民に黄巢無く、英雄将が肘腋に窺伺せず、外敵が辺陲に釁を観ざるを知らんや。

先帝はかつて封禅の儀を議し、天災を畏れて、まもなく詔して中止された。今、姦臣は陛下に東封を力強く行うよう勧め、先帝の志を継ぎ成すものとしている。先帝はかつて北に幽朔を平定し、西に継遷を取ろうとされたが、大勲は未だ成らず、陛下に託された。それなのに群臣は未だ一つの謀を献げず、一つの策を画して、陛下が先帝の志を継がれるのを助ける者はなく、かえって卑辞と重幣を務め、契丹に和を求め、国を縮め爵を靡かせ、継遷を姑息している。主辱れて臣死すべきを戒めとすべきことを思わず、下を誣い上を罔くすることを恥じるべきとしない。祥瑞をでっち上げ、鬼神に仮託し、東封が終わるとすぐに西幸を議し、車駕を軽々しく労し、飢えた民を虐害し、無事に往還することを冀って、大勲績を成したと謂う。これは陛下が祖宗の艱難の業を、姦邪の僥倖の資とするものであり、臣が長嘆して痛哭する所以である。夫れ天地の神祇は、聡明正直にして、善を作せばこれに百祥を降し、不善を作せばこれに百殃を降す。専ら籩豆簠簋の事を以て福祥を邀うべしと聞かず。『春秋伝』に曰く、『国の将に興らんとするは、民に聴く。将に亡びんとするは、神に聴く』と。愚臣敢えて妄りに議するに非ず、惟うに陛下終に裁択を賜わらんことを。

その後、天下に数度災変があり、また言うには、「古、五載に巡守するは、有国の事なるのみ。必ずしも紫気黄雲有りて然る後に封に登り、嘉禾異草有りて然る後に方に省むるに非ず。今、野に彫り山に鹿す、郡国交えて奏し、秋旱ぎ冬雷す、群臣率ねて賀す。退きて腹に非とし窃に笑う者比比として是れ皆是り。孰れか上天を罔うべく、下民を愚うべく、後世を欺くべしと謂わんや。人情此の如し、損う所細ならず。惟うに陛下深く其の妄りを鑒みられんことを」。

六年、また上疏して曰く、「陛下は泰山に封じ、汾陰に祀り、躬から陵寢に謁し、今また太清宮に祠せんとす。外議籍籍として、以て陛下の事事唐の明皇に慕效するを謂う。豈に明皇を令徳の主と為すや。甚だ然らず。明皇の禍敗の迹は深く戒めとすべき者有り。独り臣の能く知るのみに非ず。近臣言わざる者は、此れ姦を懐いて以て陛下に事うるなり。明皇の無道も、亦敢えて言う者無かりしが、奔って馬嵬に至り、軍士已に楊国忠を誅し、矯詔の罪を請うに及びて、乃ち始めて理を識る明らかならず、任に寄する所を失うを以て諭す。当時罪己の言有りと雖も、覚寤已に晩く、何の及ぶかあらん。臣願わくは陛下早く自ら覚寤し、虚華を抑損し、邪佞を斥遠し、土木の興作を罷め、危乱の迹を襲わず、明皇の及ばざるの悔いを為さざらんことを。此れ天下の幸い、社稷の福なり」。帝は「泰山に封じ、汾陰に祠し、陵に上り、老子を祀るは、明皇に始まるに非ず。『開元礼』は今世循用する所、天宝の乱を以て挙げて非と謂うべからず。秦の無道なること甚だし。今、官名・詔令・郡県猶お秦の旧を襲う。豈に人を以て言を廃せんや」と為し、『解疑論』を作って群臣に示す。然れども奭の朴忠なるを知り、其の言切直と雖も、之を容れて斥れず。

久しくして、父老を以て田里に帰るを請う。許さず、密州知州を以てす。二年居りて、左諫議大夫に遷り、待制を罷む。還りて、在京刑獄を糾察す。是の時初めて天慶・天祺・天貺・先天・降聖の節を置き、天下に斎醮を設け燕を張り、費す所甚だ広し。奭また浮用を裁減するを請う。報いず。復た出でて河陽を知り、又解官して就養するを求め、給事中に遷り、兗州に徙る。

天禧中、朱能『乾祐天書』を献ず。復た上疏して曰く、

「朱能は姦憸の小人、妄りに祥瑞を言う。而るに陛下之を崇信し、至尊を屈して迎拝し、秘殿に帰して奉安す。上は朝廷より、下は閭巷に及び、痛心疾首し、反脣腹非せざる者無く、而も敢えて言う者無し。

昔、漢の文成将軍は帛書を以て牛に飯らえ、既にして牛腹中に奇書有りと言い、殺して視れば書を得、天子其の手迹を識る。又五利将軍妄りに言い、方多く讐わず。二人皆誅に坐す。先帝の時、侯莫陳利用有り。方術を以て暴に寵用を得、一旦其の姦を発し、鄭州に誅さる。漢武は雄材と謂うべく、先帝は英断と謂うべし。唐の明皇『霊宝符』・『上清護国経』・『宝券』等を得るは、皆王鉷・田同秀等の為す所。明皇顕戮すること能わず、邪説に怵り、自ら徳実に天を動かし、神必ず我を福すと謂う。夫れ老君は聖人なり。倘実に語を降すとせば、固より妄りならざるべし。而るに唐は安・史の乱離より、乗輿播越し、両都蕩覆し、四海沸騰す。豈に天下太平ならんや。明皇は僅かに闕に帰るを得たるも、復た李輔国に劫遷せられ、卒に憂いを以て終わる。豈に聖寿無疆・長生久視ならんや。明皇の英睿を以てして、禍患猥りに至りて曾て知らざるは、良に在位既に久しく、驕亢性を成し、人己に若かずと謂い、諫聴くに足らずと謂い、心は居常の安きを玩び、耳は導諛の説に熟し、内に寵嬖に惑い、外に姦回を任じ、曲く鬼神に奉じ、過ぎて妖妄を崇むるに由る。今日は閣上に老君を見、明日は山中に老君を見る。大臣は尸禄して将迎し、端士は威を畏れて緘黙す。既に左道に惑い、既に政経を紊し、民心用いて離れ、変倉卒に起る。当の是の時、老君寧んぞ兵を禦し、宝符安んぞ難を排せんや。今朱能の為す所、或いは此に類す。願わくは陛下漢武の雄材を思い、先帝の英断に法り、明皇の禍に躓くを鑒み、庶幾くは災害生ぜず、禍乱作さざらん」。

未だ幾ばくもせず、能果たして敗る。奭また嘗て寺を修し僧を度するを減ずるを請う。帝未だ其の言を用いざるも、嘗て向敏中に諭して時政の失を陳ばしむ。奭は納諫・恕直・軽徭・薄斂の四事を以て言と為し、頗る施行せらる。

仁宗即位す。宰相名儒を択びて経術を以て講読に侍らしむるを請う。乃ち召して翰林侍講学士・知審官院と為し、国子監を判じ、『真宗実録』を修す。父憂に丁り、起復し、兼ねて太常寺及び礼院を判じ、三遷して兵部侍郎・龍図閣学士と為る。毎に講論前世の乱君亡国に至れば、必ず反覆規諷す。仁宗の意或いは書に在らざれば、昺は則ち拱黙して俟つ。帝為に竦然として聴を改む。嘗て『無逸図』を画いて上る。帝之を講読閣に施す。時に章憲明粛皇后毎五日に一たび殿に御し、帝と同しく政を聴く。奭言う、「古、帝王朝朝暮夕、曠日朝せざる無し。陛下宜しく毎日殿に御し、以て万機を覧るべし」。奏留中して報いず。然れども帝と皇太后特に之を愛重し、毎に進見するに、未だ礼を加えざる無し。

三度致仕を請うた。召されて承明殿で対し、諭されたが、七十歳を超えたことを理由に固く請い、涙を流すと、帝も哀れに思い、詔して馮元と共に『老子』三章を講じさせ、各々に帛二百匹を賜うた。請いが聞き届けられぬと知り、近隣の州を求め、優遇して工部尚書に任じ、再び兗州の知事とした。詔して宴を待ってから行かせ、さらに数か月留め、特に太清楼で宴を開き、近臣は皆陪席し、帝は飛白の大字を書いて二府に賜い、小字を諸学生に賜うたが、孫奭と晁迥のみが大小の字を兼ねて賜うた。詔して群臣に即席で詩を賦させ、太后もまた別に禁中の珍器を出して酒を勧めた。翌日、孫奭が入謝すると、また命じて『老子』を講じさせ、襲衣・金帯・銀鞍勒馬を賜うた。出発に際しては、瑞聖園で賜宴し、また詩を賜い、詔して近臣に皆賦させた。恭謝の恩により礼部尚書に改め、やがて累表して帰郷を乞い、太子少傅として致仕した。病が重くなり、正寝に移り、婢妾を退けて、子の孫瑜に言うことには、「我をして婦人の手に死なしむることなかれ」と。卒去した。奏が届くと、帝は張士遜に言うことには、「朕はまさに孫奭を召し還そうとしていたのに、孫奭は遂に死してしまった」と。しばらく嘆惜し、一日朝を罷め、左僕射を追贈し、諡して「宣」といった。

孫奭の性質は方正で重厚、親に仕えて篤く孝行した。父が亡くなると、その顔を舐めて洗面に代えた。常に『五経』のうち治道に切実なものを摘録し、『經典徽言』五十巻を撰した。また『崇祀錄』・『樂記圖』・『五經節解』・『五服制度』を撰した。かつて詔を奉じて邢昺・杜鎬と諸経正義・『莊子』・『爾雅』の釈文を校定し、『尚書』・『論語』・『孝経』・『爾雅』の謬誤及び律音義を考正した。

初め、圜丘に外壝がなく、五郊の従祀に席を設けず、尊に冪を施さず、七祠の時饗で飲福に一尊を用い、三登を設けず、升歌に『雍』を以て徹せず、冬至に昊天上帝を摂祀する際、外級は十七位に止まり、星辰を従えず、先農を饗するのが祈穀の前であり、上丁の釈奠に三献がなく、宗廟に二舞を備えず、諸臣で諡を受けるべき者が、既に葬られた後に請うことがあった。孫奭は古制を援引して奏上して正し、遂に礼制に著わされた。また冬至に五帝の祭祀を罷め、大雩に五帝を設けて昊天上帝の祠を罷めることを請うた。事は有司に下って議せられたが、合わずに止んだ。

孫瑜は、官は工部侍郎に至り致仕した。

王昭素

昭素は『九経』に博通し、兼ねて『莊子』・『老子』を究め、特に『詩経』・『易経』に精通し、王弼・韓康伯の『易』注及び孔穎達・馬融の疏義が必ずしも尽く正しくないと考え、『易論』二十三篇を著した。

開宝年中、李穆が朝廷に推薦し、詔して闕に赴かせ、便殿で引見された。時に七十七歳であったが、精神は衰えなかった。太祖が問うことには、「何故仕進を求めず、相見えるのが遅くなったのか」と。対えて言うことには、「臣は草野の蠢愚にして、聖化に裨益するもの無し」と。座を賜い、『易経・乾卦』を講じさせ、宰相の薛居正らを召して観させた。「飛龍在天」に至ると、上は言うことには、「この書はどうして常人に見せられようか」と。昭素は対えて言うことには、「この書は聖人出でざればその象に合わざるなり」と。因って民間の事を訪ねると、昭素の言うことは誠実にして隠すところ無く、上はこれを嘉した。衰老を理由に郷里への帰還を求め、国子博士として致仕を命じ、茶薬及び銭二十万を賜い、一か月余り留めて遣わした。八十九歳で、家に卒した。

昭素は頗る人倫を鑑識する眼があった。初め、李穆兄弟が昭素に従って『易経』を学んだ時、常に李穆に言うことには、「子のいわゆる精理は、往々にして我が意表に出づ」と。また人に語ることには、「穆兄弟は皆優れた器であり、穆は特に沈厚にして、他日必ず廊廟に至らん」と。後に果たして参知政事となった。

昭素は物を買う毎に、言った値段でそのまま代金を払い、値段の高低を論じたことはなかった。県人は互いに告げて言うことには、「王先生が物を買う時は、高く値段を取ってはならない」と。住居を整える時、門の中に積まれた椽木があり、夜に盗人が門をこじ開けて入ろうとした。昭素はこれを察し、即ち自ら門の中から密かに椽木を外に投げ出した。盗人は慙じて去り、これによって里中に盗人はいなくなった。家に一頭の驢馬があり、多くの人が借りに来た。出かけようとする時、先ず僮奴に問うことには、「外に驢馬を借りたい者はおらぬか」と。対えて「無し」と言うと、それから出かけた。その純朴な質はこのようであった。

子の仁著もまた隠れた徳行があった。

孔維

ちょうど籍田の行事を行おうとした時、孔維は『周礼』から『唐書』に至るまで、沿革制度を凡そ録して献上した。見る者はその博識を称えた。また上書して原蠶を禁じて国馬を利することを請うた。直史館の楽史がこれを駁して言うことには、

「『管子』に云う、『倉稟実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る』と。これをもって古の先哲の王は農桑の業を厚くし、それが衣食の源であるからである。一夫耕さざれば、天下にその飢えを受くる者有り、一婦蠶せざれば、天下にその寒さを受くる者有り。故に天子は親ら耕し、后妃は親ら蠶し、身を屈して下を化するは、邦国の重務である。『呉都賦』に曰く、『国賦再熟の稻、郷貢八蠶の綿』と。すなわち蠶に原あるは、その来り旧し。今、孔維が原蠶を禁じて国馬を利することを請うのは、徒らに前経の物類同気の文を引き、時事の確実な理を究めない。夫れ市うる所の国馬は外方より来たり、遠くに跋渉し駆馳し、その秣飼を損ない、善視を失い、遂に玄黄に至り、斃るるの由は、鮮くこれによらざるはない。今まさにその蠶事を禁ぜんと欲するは、甚だ謂れ無きなり。唐朝の畜馬は、監牧の制を具存し、本書を詳観するも、また蠶を禁ずるの文無し。況んや近く明詔を降し、来年春に籍田の事有らんとす。是れ則ち農を勧むるの典まさに行われんとし、而して蠶を禁ずるの制また下る。事相違戾し、恐らく長ずる所に非ざらん。

臣嘗て州県の職を歴任し、粗く利害を知る。編民の内、貧窮する者多く、春蠶の成す所は、止むるに賦調の備えを充たすのみ。晩蠶の薄利は、始めて歳暮の資に及ぶ。今若しその後の図を禁ぜば、必ず因縁有りて弊を為し、撓乱を滋彰し、民豈に皇寧ならんや。渙汗の絲綸、重んじて慎むべき所なり」と。

上はこれを覧て、遂に晩蠶の禁令を止めた。孔維はまた抗疏して言うことには、

『周礼』夏官・司馬の職に原蠶を禁ずるは、馬を傷つけるが故なり。原は再びの意なり。天文に辰は馬に当たる。『蠶書』に、蠶は龍精にして、月は大火に当たれば、則ち其の種を浴すと。是れ蠶と馬とは気を同じくし、物は両大なる能わず、故に再蠶を禁じて馬を益すなり。また郭璞云う、『重蠶を原と為す、今の晩蠶なり』と。臣少より耕桑の務に親しみ、長じて州県の職を歴たり、物の利害、尽く之を知れり。蚩蚩の氓は其の利を知りて其の害を知らず、故に早蠶の後、重ねて晩蠶の繭を養い、出ずる絲甚だ少なく、再び採るの葉は来歳茂らず、豈に馬に傷及ぶのみならんや、桑も亦損なわるなり。臣県より官を歴て、路に坰野の地に官馬多く死するを見る、若し典拠を明らかに援けて其の畜牧を助けざれば、安んぞ妄りに挙陳せんや。

『本草』注に按ずるに、『僵蠶を以て馬歯に塗れば、則ち草を食う能わず』と。物類の相感ずる此の如し。『月令』に仲春馬祖を祭り、季春先蠶を享く、皆天駟房星を謂うなり。馬の為に福を祈るを馬祖と謂い、蠶の為に福を祈るを先蠶と謂う。是れ蠶と馬とは其の類を同じくする爾なり。蠶重なれば則ち馬損なわる、気之を感じて然らしむるなり。臣謂う、『周礼』に依り原蠶を禁ずるは当たりと為すべしと。

上は維の言を用いざりしも、其の経拠を援引するを嘉し、以て章を史館に付す。籍田畢りて、国子祭酒を拝す。淳化初め、工部侍郎を兼ぬ。二年、卒す、年六十四。

維は経術に通ず。旧制に準じ、『九経』を挙ぐるに、一上して第に中らざれば即ち科を改む。開宝中、維其の事の便ならざるを論じ、詔して礼部に自今『九経』諸科と同く再び挙に赴くを許す。

太宗京尹の日、維属邑の吏たり、頗る経術を以て知を受く。即位の後、維始めて郎署に升る。自ら経に通ずるを以て、司業を求め、即ち之を授く。外国に使する者は皆仮に紫服を帯ぶ、維高麗より還り、会に東使至る、維自ら緋衣を恥じ、因りて上に見えを求め、詭りて言う、「高麗使臣に問う、何の罪を獲て服を降すやと、臣対ふる所無し」と。因りて泣下す。上之を憐れみ、即ち金紫を以て賜う。祭酒と為るに及び、又奏して言う、「朝廷久しく此の官を置かず、少しく知る者有り、臣が親戚故旧書信来る者有れば、多く祭酒郎中と云う。田敏晋朝祭酒に任じ、仍く侍郎を兼ぬ。願わくは前例に循い、是の官を兼領し、庶くは美称を獲ん」と。上之に従う。然れども縉紳其の儒者の躁求、退譲の風無きを悪む。

嘗て太学を広むるを乞う建議す、上民舍を侵壊するを以て許さず。詔を受けて学官と『五経疏義』を校定し、刻板して行用せしむ、功未だ畢らざるに、病に被る、上太医を遣わして診視せしめ、使者をして撫問せしむ。初め、維私に印書銭三十余万を用ゆ、掌事の黄門に発せらる、維憂懼し、遽に家財を以て之を償い、疾遂に亟し、上赦して問わず。維将に終らんとし、其の婿鄭革を召して口授して遺表せしめ、『五経疏』畢らざるを恨みと為す。

景德四年、其の孫禹圭を録し同学究出身と為す。

孔宜

羨は魏に仕えて議郎と為り、黄初二年、宗聖侯に封ぜられ、邑百戸。羨は震を生む、晋武帝泰始三年、奉聖亭侯に徙封せられ、邑二百戸、太常・黄門侍郎を歴任す。震は嶷を生む。嶷は撫を生み、孝廉に挙げられ、太尉掾に辟せられ、章太守を歴任す。撫は懿を生む。懿は鮮を生み、度量有り、学を好み、宋文帝元嘉十九年、奉聖侯を襲封す。鮮は乗を生み、博学才芸有り、後魏孝文延興初め孝廉に挙げられ、三年、乗を崇聖大夫に封じ、復た十戸を以て灑掃に供す。乗は霊珍を生み、爵を襲ぎ、秘書郎を歴任し、太和十九年、崇聖侯に改封せられ、邑百戸。霊珍は文泰を生む。文泰は渠を生み、北斉文宣帝天保元年、恭聖侯に改封せらる。後周宣帝大象二年、孔子を追封して鄒国公と為し、渠を以て爵を襲がしめ、邑百戸。

渠は長孫を生み、隋文帝復た長孫を鄒国公に封ず。長孫は嗣哲を生み、制挙に応じ、涇州司兵参軍・太子通事舎人を歴任し、大業四年、紹聖侯に改封せられ、邑百戸。嗣哲は徳倫を生み、唐太宗貞観十一年、褒聖侯に封ぜられ、邑百戸、朝会の位は三品に同じくし、復た其の子孫を免す。則天天授二年、徳倫に璽書・衣服を賜う。徳倫は崇基を生み、侯を襲ぎ、中宗神龍元年、朝散大夫を授かる。崇基は璲之を生み、玄宗開元中、国子四門博士・邠王府文学・蔡州長史を歴任す。二十七年、詔して孔子を追諡して文宣王と為し、褒聖侯璲之を改封して襲文宣公と為し、兗州長史を兼ぬ。璲之は萱を生み、封を襲ぎ、兗州泗水令を歴任す。萱は斉卿を生み、徳宗建中三年、詔して斉卿を以て兗州司馬と為す、東平に陥り、卒す。憲宗元和十三年に至り、李師道を平ぐ、其の子惟晊魯に帰る、詔して惟晊を以て兗州参軍と為し、夫子の祀を奉ぜしめ、復た五十戸を以て灑掃に供す。惟晊は策を生み、会昌元年、国子監丞・尚書博士を歴任す。大中元年、宰相白敏中奏して歳に封戸絹百匹を給し、春秋の奉祀に充つ。璲之より策に至るまで、五世並びに文宣公を襲封す。策は振を生み、懿宗咸通四年、進士甲科に挙げられ、兗州観察判官を歴任し、刑部員外郎に至る。振は昭儉を生み、兗州司馬・曲阜令を歴任す。策より昭儉に至るまで、三世歳に封絹を給し、享祀に供す。昭儉は光嗣を生み、哀帝天祐中、泗水主簿と為り、孔子の祀を奉ず。

光嗣は仁玉を生み、九歳にして『春秋』に通ず、姿貌雄偉なり。後唐明宗長興元年、以て曲阜主簿と為し、三年、龔丘令に遷り、文宣公を襲ぐ、晋高祖天福五年、曲阜令に改む。周高祖広順二年、慕容彦超を平げ、曲阜に幸し、孔子廟及び墓を拝し、仁玉を召し、五品服を賜い、復た以て本県令と為す。

仁玉四子、長は宜と曰う、進士に挙げられて第せず、乾徳中闕に詣で上書し、其の家世を述ぶ、詔して以て曲阜主簿と為し、黄州軍事推官を歴任し、司農寺丞に遷り、星子鎮の市征を掌る。宜上言す、「星子は江湖の会に当たり、商賈の集まる所、請う軍を建つるを」と。詔して以て県と為し、就て命じて宜に県事を知らしめ、後南康軍と為す。

宜代わり還り、文賦数十篇を献ず、太宗之を覧て嘉し、召見し、孔子の世嗣を以て問う、因りて詔を下して曰く、「素王の道は、百代崇ぶ所、伝祚襲封は、抑も典制を存す。文宣王四十四代孫、司農寺丞宜は素業に服勤し、廉隅を砥礪し、亟に官聯を歴り、政績に洽聞す、聖人の後、世徳衰えず、朝倫に登らしめ、以て儒胄を光らすべし。太子右賛善大夫と為し、文宣公を襲封し、其の家を復すべし」と。未だ幾ばくもなく、密州を通判す。太平興国八年、詔して曲阜孔子廟を修めしむ、宜方物を貢して謝と為す、詔して之を褒め、殿中丞に遷す。雍熙三年、王師北征し、詔を受けて軍糧を督む、拒馬河に渉りて溺死す、年四十六。

子の延世は、字を茂先といい、父が国事に殉じたことにより、学究出身を賜り、曲阜主簿となり、閩・長葛の二県令を歴任した。真宗至道三年十一月、召されて闕に赴き、曲阜令とされ、文宣公を襲封し、白金・束帛及び太宗の御書印『九経』を賜った。咸平三年、詔して本道転運使・本州長吏に賓礼をもって遇させ、なお三年留め、官に卒し、年三十八。次は憲といい、太平興国二年に進士及第し、工部員外郎・浚儀県知事に至った。次は冕といい、応城主簿。次は勗といい、雍熙年間に進士及第した。

延世の子聖祐は、景德初年、九歳にして特に同学究出身を賜った。大中祥符元年、東封泰山に際し、特に聖祐が緑衣を着て陪位し、京官の班の後に連なることを聴許した。また還幸して兗州に至り、十一月朔、曲阜に行幸し、孔子廟を謁し、酌献の礼を行い、孔氏の宗属は皆陪位させた。また孔林に行幸し、その墓を観ること久し。また北亭に御し、従臣を召して古碑を観させ、孔子に玄聖文宣王の諡を加え、孔子の父叔梁紇を斉国公に、母顔氏を魯国太夫人に追封した。聖祐を抜擢して太常寺奉礼郎とし、またその近属の進士謂を『三伝』出身と同様にし、進士を習う延祐・学究を習う延渥・延魯・延齢を並びに同学究出身とし、合わせて銀二百両・絹三百匹を賜い、以て祠廟を奉じさせた。時に勗は殿中丞・広州通判であり、王欽若がその郷曲に名声有りと上言したため、召されて闕に赴き、太常博士に改め、緋を賜い、曲阜県知事とし、専ら祠廟を主とさせた。二年三月、また使者を遣わして太宗の御書及び『九経』書疏・『三史』を廟に蔵めさせ、本州に儒生を選んで講説させた。聖祐は後に大理評事に改まった。天禧五年、光禄寺丞を授けられ、文宣公を襲封し、仙源県事を知った。後に名を佑と改め、太子中舎に遷り、卒し、年三十。

勗は司封郎中となった。延魯は、大中祥符五年に再び進士及第し、後に名を道輔と改め、左司諫・龍図閣待制となり、自ら伝有り。

崔頌

後漢の初め、朝散階を加えられ、右散騎常侍さんきじょうじ張煦に副えて呉越王銭俶を冊封する使者となった。後梁の末、協(頌の父)がかつて両浙に使いし、この時、越人はこれを称美し、贈賄甚だ厚かった。帰還の際、周祖が京師に入るのに遭遇し、軍士に剽奪されて悉く尽きた。世宗が澶淵に鎮する時、僚佐を選び、頌と王朴・王敏中は皆その選に中り、頌を観察判官とし、金紫を賜った。世宗が京尹となると、司封員外郎に拝され、判官を充てられたが、断獄の誤失により罷職し、本官を守った。即位すると、駕部郎中に拝され、吏部に遷り、再び尹日就に副えて両浙に使した。世宗が唐の元稹の『均田疏』を読み、これを写して図とし近臣に賜うことを命じ、諸道の租賦を均す使者を遣わし、頌は兗州に使いし、旧額を頗る増やした。恭帝が嗣位すると、左諫議大夫に改まった。

宋の初め、国子監を判じた。国学及び武成王廟を重修することとなり、頌に命じてその事を総領させた。建隆三年夏、始めて生徒を会して講説し、太祖は中使を遣わして酒果を賜った。国学に臨幸する毎に、頌を召して語った。経義に及ぶと、頌は応答滞るところ無かった。郊祀に際しては、頌に太僕を摂行させ、車に昇り綏を執らせた。上は一時の典礼について問うと、頌は占対閑雅で、上は甚だこれを重んじた。未だ幾ばくもせず、有司に請託して親族の為に便官を求めた罪に坐し、保大軍行軍司馬として出された。乾徳六年、急に疾を得て卒し、年五十。

頌は諧謔を好み、筆札に巧みで、世宗の諡冊文を書く命を受け、当時その遒麗を称された。篤く釈氏を信じ、仏像を見れば必ず拝した。性多疑で、鄜州の官舎において、嘗て壁塗りの職人を召して堂室を修繕させ、帛をもってその目を覆わせたので、人皆これを笑った。

子の曉は、太子右賛善大夫に至った。

子 曥

曥は、字を文炳といい、雍熙二年の進士で、淹雅にして士行有り、累ねて屯田員外郎・開封三司戸部判官となった。景德年中、雍王元份が薨じ、府官は皆坐して罷免された。時に戚維が曹国公元儼の府の翊善であったが、上は宰相に謂いて「元儼は年少で、特に輔導を資する。維は迂懦で循黙し、規戒することができぬ。聞くところによれば崔曥は性純謹であるという。彼を以て維に代えれば、庶幾くは裨益あらん」と。因って召し対し、都官員外郎に遷し、記室参軍を充て、金紫を賜った。兵部郎中に遷り、河中府知事として出され、太常少卿・将作監に転じ、卒した。

尹拙

後晋天福四年、入朝して右補闕となった。明年、侍御史に転じた。詔して拙と張昭・呂琦らが同しく『唐史』を修めることとなり、倉部員外郎に改め、金紫を賜った。八年、左司員外郎に遷った。契丹が入寇し、趙延寿が常山に鎮した時、拙を掌書記とした。後漢の初め、召されて司馬郎中・弘文館直学士となった。

後周広順初年、庫部郎中兼太常博士に遷り、仍って直学士を充てた。荊南に奉使して還り、兵部郎中に改まった。顕徳初年、検校右散騎常侍・国子祭酒・太常礼院事通判に拝され、張昭とともに唐の応順・清泰及び周祖の実録を修め、また昭及び田敏とともに『經典釈文』を詳定した。丁憂して免官。宋の初め、検校工部尚書・太子詹事・太府寺判に改まり、秘書監・大理寺判に遷った。乾徳六年に老を告げ、本官のまま致仕した。

拙は性純謹で、経史に博通していた。周の世宗が北征した時、翰林学士に命じて文を作り白馬祠を祭らせたが、学士はその出典を知らず、遂に拙に訪ねた。拙は郡国において白馬を祠るものを歴挙すること十数に及び、当時その該博に伏した。開宝四年に卒し、年八十一。

子の季通は、国子博士に至った。

田敏

後晉の天福四年(939年)に国子祭酒に任ぜられ、引き続き検校工部尚書を兼ね、まもなく戸部侍郎を兼ねた。開運(944-946年)の初め、兵部侍郎に転じ、弘文館学士・判館事を充てた。議者は田敏は学官にのみ適任であるとし、宰相桑維翰がこれを聞くと、ただちに検校右僕射に改めて任じ、ふたたび祭酒とした。後漢の乾祐(948-950年)年間、尚書右丞に任ぜられ、国子監を判った。

後周の広順(951-953年)の初め、左丞に改め、契丹に使者として遣わされ、毎年の賄賂銭十万貫を以てその侵掠を止めようとしたが、契丹は許さなかった。周の太祖が親しく郊祀を行おうとしたとき、権判太常卿事を命ぜられた。世宗が即位すると、真に太常卿・検校左僕射に任ぜられ、司空しくうを加えられた。顕徳五年(958年)、上章して老齢を理由に致仕を請うた。賜わった詔に曰く、「卿は礼楽に詳明で、典籍に博く渉り、儒学の宗師たり、乃ち薦紳の儀表なり。朕方に旧徳をり、以て話言を訪わんとす。にわかに封章をるに、官政を致さんことを願う。引年(老齢による退官)の制は旧文に著し難く、賢を尊ぶ心方に深く虚佇(ひたすら待つ)す。請う所のものは宜しく允さざるべし」。工部尚書に転じた。まもなく再び上表して故郷に帰り、首丘(故郷に葬られる)の志を遂げたいと願い、太子少保を以て致仕と改められ、淄州の別墅に帰った。恭帝が即位すると、少傅を加えられた。開宝四年(971年)、卒去。九十二歳。

田敏は官を解かれて郷里に帰ると、良田数十頃を持ち、多く美酒を醸して賓客を待った。体は強健で病気が少なく、杖を用いずに歩いて里巷を往来した。毎日自ら諸子に経書を授けた。自ら父の墓碑文を作り、文辞は甚だ質朴であった。田敏はかつて湖南に使いし、路は荊渚(荊州)を通ったとき、印本の経書を高従誨に贈った。従誨は謝して曰く、「祭酒の遺わし給う経書は、僕はただ『孝経』を識るのみです」。田敏曰く、「書を読むには多くあるを要せず、十八章足れり。例えば『諸侯章』に云う、『上に在りて驕らず、高くして危うからず、節を制し度を謹み、満ちて溢れず』、皆至要の言なり」。時に従誨は郢で兵に敗れていたので、田敏はこれをもって彼を諷した。従誨は大いに慚じた。

田敏は経学に篤くても、また穿鑿を好み、校訂した『九経』は、頗る独見を以て自ら任じ、例えば『尚書・盤庚』の「若網在綱」を「若綱在綱」と改め、「綱」の字を重ねた。また『爾雅』の「椴、木槿」の注に「日及」とあるのを「白及」と改めた。このような類が甚だ多く、世間は頗るこれを非とした。

子の田章は、殿中丞に至った。

辛文悅

また張遁・張文旦という者がおり、かつて太宗と同じ学校に学び、太平興国(976-984年)年間、朝廷に赴いて自ら申し出、それぞれ主簿として起家した。

李覚

子の李覚は、太平興国五年(980年)に『九経』に挙げられ、将作監丞・建州通判として起家し、任期が満ちようとしたとき、州人が留任を請うた。詔がありこれを褒め、そのまま左賛善大夫・泗州知事に転じ、さらに秘書丞に転じた。太宗は孔穎達の『五経正義』の版を刊行するにあたり、詔して孔維と李覚らに校定させた。王師が燕・薊を征討したとき、李覚に命じて京東諸州の芻糧を部送して幽州に赴かせた。孔維が李覚に学があることを推薦し、『礼記』博士に転じ、緋魚袋を賜わった。

雍熙三年(986年)、右補闕の李若拙とともに交州に使いし、黎桓が言うには、「この地の山川の険しさは、中朝の人は初めてこれを経るならば、豈に倦まざらんや」。李覚曰く、「国家は封疆万里を提げ、郡四百を列ね、地には平易なるもあり、また険固なるもあり。この一方の地何ぞ云うに足らん」。桓は黙然として色沮した。使いより還り、久しくして国子博士に転じた。

端拱元年(988年)春、初めて学官に講説させたとき、李覚は最初にこれに預かった。太宗が国子監に幸して文宣王(孔子)を謁し終え、輦に乗って西門より出ようとしたとき、講坐を顧み見ると、左右が李覚がちょうど徒を聚めて書を講じていると申した。上は即座に李覚を召し、御前で講じるよう命じた。李覚曰く、「陛下六龍を御するに、臣何ぞ敢えてみだりに高坐に昇らん」。上はこれにより輦を降り、有司に命じて帟幕を張らせ、別座を設け、詔して李覚に『周易』の『泰卦』を講ぜしめ、従臣は皆列坐した。李覚は天地の感通、君臣の相応の旨を述べ、上は甚だ悦び、特に帛百匹を賜わった。

まもなく時務策を献じ、上は頗る嘉奨した。この冬、本官のまま史館に直した。右正言の王禹偁が上言して曰く、「李覚はただ経を通ずる能くするのみで、輒りに史職に居るべからず」。李覚は韓愈の『毛穎伝』に倣い『竹穎伝』を作って献じた。太宗はこれを嘉したので、禹偁の上奏を止めた。淳化(990-994年)の初め、上は経書の版本に田敏が輒りに数字を削ったものがあるとして、李覚と孔維に詳定を命じた。二年(991年)、『春秋正義』の詳校が成り、水部員外郎・判国子監に改めた。四年(993年)、司門員外郎に転じたが、病にかかった。仮(病)の満期となっても、詔して俸給を絶たず、卒去した。

李覚は累ねて上書して時務を言い、養馬・漕運・屯田の三事を述べた。太宗はその詳備なるを嘉し、史館に送るよう命じた。語は本『志』に見える。李覚の性質は強毅で聡敏であり、かつて秘閣校理の呉淑らとともに開封府の秋賦挙人の考試にあたり、雉と兎の頭と足の数を算する法に語が及んだ。李覚曰く、「これは頗る繁雑である。私はこれをえることが出来る」。成ると、果たして精簡であった。呉淑は彼が以前に作っていたのではないかと思い、即座に別の法で試すと、皆すぐに成すことが出来た。座中の者は皆歎服した。

子の李宥は、大中祥符五年(1012年)の進士となり、祠部員外郎・集賢校理となった。

崔頤正

咸平の初め、また学究の劉可名が諸経の版本に多くの誤りがあると上言したので、真宗は官を選んで詳しく正すことを命じ、経義に通じた者を訪ね求めたところ、至方が参知政事であったが、頤正を推挙した。帝は「朕の宮中には事なく、講誦を聞くことを楽しむ」と言われた。翌日、頤正を苑中に召して『尚書』の「大禹謨」を説かせ、牙笏と緋衣を賜った。この日より毎日御書院に赴いて待対し、『尚書』を説くこと十巻に及んだ。頤正は年老いて歩行が困難となり、致仕を求める上表をした。上は座を賜い、慰労の言葉を極めて厚くし、器物と絹を賜い、本官のまま致仕することを許し、なおも直講を充て、国子博士に改めた。三年、卒す。年七十九。

弟 偓佺

偓佺は、淳化年中に福州連江尉を歴任し、判国子監の李至が直講に奏薦した。便殿で引見されると、太宗は顧みて言われた。「李覚がかつて朕に奏上して言うには、『四皓』の中の一人の先生は、あるいは姓が『用』の字に撇を加えたもの、あるいは点を加えたものだという。お前は知っているか」。偓佺は答えて言った。「昔、秦の時に程邈が隷書を撰し、僕隷の如く容易に使えるように訓んだものです。今の字は古いものと異なることがあります。臣は聞くところによりますと、刀に用を加えると角の音(榷)となり、二点を加えると鹿の音(鹿)となります。用の上に一撇一点を加えても、いずれも字とはなりません」。

咸平二年、真宗が国学に行幸し、偓佺を召して『尚書』を説かせると、即座に特に緋衣を賜った。景德の後、『道德経』を講じることを命じ、毎日崇文院で候対させた。全篇を終えると、白金と絹彩を賜った。三年、卒す。年七十九。かつて『帝王手鑑』十巻を撰し、また曹唐の『大遊仙詩』十五巻に注を加えた。その子の世安がこれを献上したところ、特に出身を賜った。

李之才

之才は初め衛州獲嘉主簿・権共城令となった。時に邵雍が母の喪に服して蘇門山の百源の上に居り、布の裘と粗食で自ら炊事して父を養っていた。之才が門を叩いて来謁し、労って言った。「好学篤志とは果たしてどのようなものか」。雍は答えて言った。「書物の外には、まだ跡を求めていません」。之才は言った。「君は書物の跡を求める者ではない。それでは物理の学はどうするのか」。他日、また言った。「物理の学は学んだ。性命の学はないのか」。雍は再拝して師事することを願った。そこで之才はまず陸淳の『春秋』を示し、『春秋』をもって『五経』の手本としようとする意図を持ち、『五経』の大旨を語ることができるようになると、『易』を授けて終わった。その後、雍はついに『易』をもって世に名を知られることとなった。

之才は器量が大きく、識者に理解されることが難しく、長く低い地位に留まって昇進しなかった。ある人が惜しんで言った。「少しは自分を低くして栄達を図るべきだ」。石延年だけは言った。「時世は君を受け容れるに足りない。どうして棄てて隠遁しないのか」。再び孟州司法参軍に転じた。時に范雍が孟州を守っていたが、彼も之才を知らなかった。范雍が初めて洛陽らくようから節度使として延安を守ることになった時、見送る者は皆境外まで出たが、之才だけは近郊で別れを告げた。ある人がこれを非難すると、之才は謝して言った。「故事によるものです」。しばらくして、范雍が安陸に左遷されると、之才は官命に沿って洛陽で彼に面会した。以前遠くまで見送った者で一人として来る者はなく、范雍は初めて之才を知るのが遅かったことを悔やんだ。

友人尹洙が書状をしたためて中書舎人葉道卿に推薦し、石延年を通じて届けさせて言った。「孟州司法参軍李之才、年三十九、古風の文章を作ることができ、言葉は直截で意は遂げられ、奔放でも窮屈でもなく、確かに先輩に及ぶことができる人物です。尹洙が敢えて品評できるものではありませんが、卑位に安んじて仕進の意がなく、人に知られることが稀です。その才はまた世務にも通じており、少しでも世に用いられれば、必ず人よりはるかに優れているでしょう。貧しいために帰郷の心を決められないことを恨みます。知る者は共に彼を成し遂げるべきです」。延年は返書して言った。「今、文を業とし古を好む士は極めて少なく、また振るわない。もしこのような人を失えば、その学はますます衰えるでしょう」。延年は元来、貴人に謁見することを好まず、四、五回道卿の門に至り、その書状を通じさせてやめた。道卿が之才を推薦したので、遂に新たな選考規定に応じることができ、保任五人を得て、大理寺丞に改められ、緱氏令となった。赴任しないうちに、延年が龍図閣直学士呉遵路とともに河東で兵を調達することになり、之才を澤州簽署判官に辟召した。澤州の人劉羲叟が之才に従って暦法を学び、世に「羲叟の暦法」と称され、古今を遠く超え、楊雄や張衡の理解し得なかったところがあったが、実は之才が授けたものである。

澤州において殿中丞に転じた。母の喪に服し、喪が明けたばかりの時、懐州の官舎で急死した。慶暦五年二月のことである。時に尹洙の兄の尹漸が懐州を守っており、之才の死を悼み過度に哀哭したため、病気にかかり、一ヶ月も経たずにまた卒した。之才は青社に帰葬され、邵雍がその墓に表を立て、次のように記した。「天下に求めて、道を聞く君子李公を得て、師と仰いだ」。