黃榦
黃榦、字は直卿、福州閩縣の人である。父の瑀は、高宗の時に監察御史となり、篤実な行いと正直な道義で知られていた。瑀が没すると、榦は清江の劉清之を訪ねた。清之は彼を異才と認め、「君は遠大な器量の持ち主である。時流の学問では君を処するに足りない」と言い、そこで朱熹に師事するよう命じた。榦の家の家法は厳格であったが、母に告げて即日旅立った。時は大雪であり、到着した時には朱熹は他出しており、榦は客舎に留まり、一つの寝台で起居し、二月間も衣を解かずに過ごした後、ようやく朱熹が帰ってきた。榦は朱熹に会ってからは、夜も寝台を設けず、帯を解かず、少し疲れると微坐し、寄りかかったまま夜明けに至ることもあった。朱熹は人に語って言った、「直卿は志が堅く思慮が苦しい。彼と交わるのは大いに益がある」。かつて東萊の呂祖謙を訪ね、朱熹から聞いたことを質疑正した。広漢の張栻が亡くなると、朱熹は榦に手紙を送り、「我が道はますます孤立した。賢者への期待は軽くない」と言った。後に遂に自分の娘を榦に嫁がせた。
時に韓侂冑が兵を用いようと謀っていた。呉獵が湖北の帥となり、任地に赴かんとして、軍事について意見を求めた。榦は言った、「議する者が、今、天下に大挙して深く侵入する計画を為そうとしていると聞く。もしそうであれば、必ず敗れる。これはいかなる時であり、進取ができようか」。呉獵は平素より榦の名声と徳行を敬い、荊湖北路安撫司激賞酒庫兼準備差遣に辟召した。事柄に適わないことがあれば、必ず忠誠を尽くして力説した。
江西提挙常平の趙希懌と撫州知事の高商老が彼を臨川県令に辟召した。年に旱魃があり、穀物の売り出しを勧め、蝗害を捕滅することに極力努めた。新淦県知事に転じた。官吏と民は臨川での彼の政績をよく知っており、皆喜び、命令しなくとも政令が行き渡った。提挙常平と郡太守の推薦により、尚書六部門の監察に抜擢されたが、着任せず、安豊軍通判に差替えとなった。淮西帥司が榦に檄を飛ばし、和州の獄を審理させた。その事件はもとより疑わしく未決であった。榦は囚人の枷を外し飲食を与え、委曲を尽くして審問したが、得るところがなかった。ある夜、井戸の中に人がいる夢を見た。翌日、囚人を呼び出して詰問した、「お前が人を殺し、井戸に投げ込んだことを、私は全て知っている。どうして私を欺くことができようか」。囚人は遂に驚いて服罪し、果たして廃井から死体を発見した。
まもなく漢陽軍知軍となった。時に凶作に遭い、客米を買い入れ、常平倉を開いて救済した。制置司が命令を下し、本軍の穀物を移し、その買い入れを禁じようとした。榦は返答して、自分が罷免されるのを待ってから施行するよう乞い、また鄂州の例を引き合いに出し、十分の一を制置司に買い入れを申し出た。救荒策をことごとく実施した。隣接する郡の飢民が集まり来たったが、恩恵と撫恤は均等に行き渡り、春暖かくなって帰りたい者は食糧を与え、帰りたくない者は小屋を建てて住まわせた。民は大いに感激し喜んだ。赴任する先々で学校を重視し、教化と養育を優先した。漢陽においては、郡庁の後ろの鳳棲山に屋舎を建て、四方の士人を住まわせ、周(敦頤)・程(顥・頤)・游(酢)・朱(熹)の四先生の祠を建立した。病を理由に宮観の祠官を乞い、武夷沖祐観主管となった。
制置使の李珏が彼を参議官に辟召したが、二度辞退して受けなかった。その後、朝廷の命令で徐僑と交代で和州に赴任することになり、かつまず制置使の府に赴き意見を述べるよう命じられた。榦は即日、印を解いて制置使の府に急行した。和州の人々は日々彼の来訪を待ち望み、言った、「かつて我が郡に檄を飛ばし死囚を審理し、井戸の中で夢に感じた人物だ。我々の冤罪を晴らしてくれるかもしれない」。
制府に至るに及んで、賈珏が惟揚に赴き師を視察するに当たり、黄榦はこれに同行し、言うには、「敵は既に退いた。功を賞し罪を罰する所以を考えるべきである。崔惟揚は清平山に於いて予め義砦を立て、金人の右臂を断つことができ、方儀真は捍禦の措置を講じ、軍民が倉皇として奔軼することをさせなかった。この二人はこれを推薦すべきである。泗上の敗戦については、劉倬は斬るべきである。某州の官吏三人が家族を携えて奔竄した。これを追及して処罰し、その後で奏上すればよい。」と。当時、幕府の書館は皆軽佻浮靡の士であり、僚吏・士民が謀画を献ずるも、多くは毀抹疏駁された。将帥は偏り、人心は附かず、向かうところ功なく、流移の民は道に満ちていたが、諸司の長吏は張宴して虚日無かりし。榦はこれと共に事を為すに足らざるを知り、惟揚より帰り、再び和州の任命を辞し、仍って祠官を乞い、閣を閉ざして客を謝し、宴楽には与からず。乃ち復た賈珏に告げて曰く、
「浮光の敵は退いて既に両月、安豊は一月、盱眙も将に二旬とならんとする。我らの措置する所は何事なるや、施行する所は何の策なるやを知らず。辺備の弛緩は、又前よりも甚だしく、日を重ねて懼れを知らず、その禍は今春に止まらざるを恐る。向者人言を軽信し、泗上の役を為し、師を喪うこと万人。良将勁卒・精兵利器、戦わずして泗水に淪ち、黄団の老幼、俘虜殺戮されること五六千人、盱眙東西数百里、莽として丘墟と為る。安豊・浮光の事も大率これに類す。切に意うに、千乗言旋して、必ず痛く自ら咎責し、外に宿り、国に大戒して曰く、『これ吾が罪なり。吾が失を箴する能う者は、疾く入りて諫せよ』と。日々僚属及び四方の賢士と討論条画し、以て後の図とすべきなり。今帰って已に五日、但だ総領・運使を請じて玉麟堂に至り牡丹を賞し、妓楽を用い、又聞く総領・運使の宴賞を請うも亦然り、又聞く僚属を宴するも亦然りと。邦人・諸軍これを聞きて、豈に痛憤せざらんや。且つ牡丹の紅艶を視れば、豈に辺庭の流血を思わざらん。管弦の啁啾を視れば、豈に老幼の哀号を思わざらん。棟宇の宏麗を視れば、豈に士卒の暴露を思わざらん。飲饌の豊美を視れば、豈に流民の凍餒を思わざらん。敵国深く侵し、宇内騒動し、主上は食も甘味せず、朝を聴くも怡ばず。大臣は憂懼し、出ずる所を知らず。尚書豈に朝夕憂懼せざるを得ずして、乃ちかくの如き迂緩暇逸たるべきや。今浮光の報また至れり。金は十六県の衆を以て、四月に浮光を攻め、五関を侵さんと欲す。且つ一県五千人を率とすれば、則ち当に八万人有って浮光を攻め、万人を以て吾が麦を刈り、五万人を以て吾が関を攻むべし。吾が関を守る者は五六百人に過ぎず、豈に万人の衆に当たらんや。則ち関の守るべからざるは決せり。五関失守すれば、則ち蘄・黄は決して保つべからず。蘄・黄保たずんば、則ち江南危うし。尚書これを聞くも亦已に数日、乃ち施行する所有るを聞かず。何ぞや。」
その他の言も皆激切にして、同幕はこれを忌むこと尤も甚だしく、共に詆排す。厥の後、光・黄・蘄相継いで失われ、果たしてその言の如し。遂に力辞して去り、祠官を請うて已まず。
俄かに再び安慶を知るを命ぜられしも、就かず。廬山に入りて其の友李燔・陳宓を訪い、相与に玉淵・三峡の間を盤旋し、其の師の旧跡を俯仰し、白鹿書院に於いて『乾』『坤』の二卦を講じ、山南北の士皆来り集う。未だ幾ばくもせず、行在所に赴き奏事するを召され、大理丞を除せられしも拝せず、御史李楠の劾するところと為る。
初め、黄榦は荊湖幕府に入り、諸関を奔走し、江・淮の豪傑と交遊し、而して豪傑は往々として黄榦に依らんと願う。安豊・武定に倅せし時、諸将は皆心を帰せり。後に建康に倅し、漢陽を守り、声聞益々著し。諸豪は又深く黄榦の倜儻として謀有るを知り、及び安慶に来たり、且つ制幕を兼ぬるに及びて、長淮の軍民の心、翕然として相向う。此の声既に出で、在位者は益々忌み、且つ黄榦が入見すれば必ず直言して辺事を以て上意を悟らしむるを慮り、是に至りて群起してこれを擠す。
黄榦は遂に里に帰り、弟子日々盛んにして、巴蜀・江・湖の士皆来り、礼を編み書を著し、日に暇給わず、夜はこれと経理を講論し、亹亹として倦まず、隣寺を借りてこれを処し、朝夕往来し、質疑請益すること朱熹の時の如し。俄かに潮州を知るを命ぜられしも、辞して行かず、差して亳州明道宮を主管せしめ、月を踰えて遂に致仕を乞う。詔してこれを許し、特授に承議郎。既に没する後数年、門人の請いに以て諡し、又特に朝奉郎を贈り、一子に下州文学を与え、諡して「文肅」とす。『経解』・文集世に行わる。
李燔
襄陽府教授に改む。復た往きて朱熹を見る。朱熹これを嘉し、凡そ諸生の未だ達せざる者は先ず燔を訪わしめ、俟つて発する所有りて、乃ち朱熹に従いて折衷す。諸生畏服す。朱熹人に謂いて曰く、「燔は交友益有り、而して進学畏るべく、且つ直諒樸実、事を処して苟せず、它日斯の道を任ずる者は必ず燔なり」と。朱熹没し、学禁厳しく、燔は同門を率いて会葬に往き、封窆を視ること少も怵せず。及び詔して遺逸を訪わしむるに及び、九江守は燔を以て薦め、都堂審察に召し赴かしむるも辞し、再び召すも再び辞す。郡守は白鹿書院の堂長を為さんことを請う。学者雲集し、講学の盛んなる、它郡比ぶる無し。
大理司直を除せられしも辞し、尋いで江西運司幹辦公事を添差す。江西帥李珏・漕使王補之交わってこれを薦む。会に洞寇乱を作す。帥・漕これを平らげんと議すれども、各その説を持つ。燔徐かに曰く、「寇は吾が民に非ずや。豈に必ずしも皆悪からんや。然れども其の是の如きは、誠に吾が有司の貪刻なる者のこれを激し、及び将校の功を邀うる者の逼成するに因るのみ。是に反してこれを行えば、則ち皆民なり」と。帥・漕曰く、「幹辦の議是なり。誰か行うべき者ぞ」と。燔自ら往かんことを請う。乃ち兵を万安に駐め、近洞の諸巡尉と会し、隅保の尤も良からざる者を察してこれを易置し、兵を分けて険を守らしめ、辯士を馳せて賊に逆順禍福を諭す。寇皆帖服す。
洪州は地勢が低く、往時は贛江が漲り堤防が崩れ、長雨が降れば直ちに水害に見舞われたが、李燔が帥司・漕司に申し出て修築させたので、以後田地は皆肥沃な土地となった。漕司は十四界の会子が新たに発行され、価値が日々下落するのを憂い、民衆の税産・物力に応じて、それぞれ会子を若干蔵めることを命じ、官が封印して時々点検することとした。人々がこれを重んじれば価値は増すであろうとし、命令を怠る者は刺青して戸籍に記すとしたが、民衆は欺瞞を働き、空券(無価値な会子)を抱えてますます流通しなくなった。李燔と国子学録の李誠之が力を尽くして争ったが止めることができなかった。李燔はさらに札子を奉って争って言うには、「銭は不足し紙幣は氾濫し、子銭と母銭とが相権(釣り合いをとる)のに足りず、紙幣が流通しないのは、銭がこれを権することができないからである。紙幣が流通しないのに民に蔵めさせようとするのは、それは物を棄てるようなものである。真に倹約を実行し、まず穀物・粟の実務に努め、紙幣に必ず頼ろうとしなければ、紙幣は実用に供されるであろう。」と。札子が入ると、漕司は直ちに禁令を緩め、李燔のもとに詣でて謝罪した。李燔はまた、社倉の設置が僅かに田地を持つ家にのみ貸し付け、田畑を耕す農民が恩恵に浴さないことを思い、穀物を集めて社倉を創設し、小作人に貸し付けることを提唱した。
詔旨により官を改めて潭州通判に任ぜられたが、辞退したが、許されなかった。真徳秀が長沙の帥(安撫使)となると、一府の事は全て李燔に諮問した。数ヶ月も経たないうちに、辞して帰郷した。この時、史弥遠が国政を執り、皇子の趙竑を廃したので、李燔は三綱に関わることとして、以後は再び出仕しなかった。真徳秀及び右史の魏了翁が彼を推薦し、権隆興府通判の差遣が下り、江西帥の魏大有が参議官に辟召したが、いずれも辞退し、そこで直秘閣・主管慶元至道宮に任ぜられた。李燔は自ら閑居して国に報いる術がないと考え、崔与之・魏了翁・真徳秀・陳宓・鄭寅・楊長孺・丁黼・葉宰・龔維藩・徐僑・劉宰・洪咨夔を朝廷に推薦した。
紹定五年、帝が当時高名な隠士で累次召されても応じない者について論じると、史臣の李心伝が李燔を挙げて答え、さらに言うには、「李燔は朱熹の高弟であり、経術と行義は黄榦に次ぎ、当今海内ただ一人の人物であります。」と。帝が今どこにいるかと問うと、李心伝は答えて言うには、「李燔は南康の人で、先帝が大理司直として召されましたが応じず、近ごろ致仕を請うております。陛下が真に強いて起用され、講筵に置かれるならば、聖学に裨益するところ浅からぬものでありましょう。」と。帝はその言葉をよしとしたが、結局召し出さなかった。九江の蔡念成は、李燔の心事は秋の月のようであると称えた。李燔が卒すと、七十歳であった。直華文閣を追贈され、諡は「文定」、その子の李挙に下州文学を補任した。
張洽
張洽、字は元徳、臨江軍清江県の人である。父の張紱は進士に及第した。張洽は幼少より聡明で、朱熹に師事し、『六経』の伝注以下、その旨趣を究め、諸子百家・山経地志・老子浮屠(仏教)の説に至るまで、読まぬものはなかった。嘗て『管子』の所謂「思之思之、又重思之、思之不通、鬼神將通之」(思え思え、さらに重ねて思え、思って通じなければ、鬼神が通じてくれるであろう)という語を採り、窮理の要諦とした。朱熹はその志の篤実さを賞賛し、黄榦に言った、「この道の伝統を永続させることを望める者は、君たち二、三の者のように数多くはない。」と。
袁州司理参軍に転任した。ある重罪犯がおり、取り調べると服罪したが、間もなくまた供述を変え、かつ官吏を動揺させる力があり、数年を経ても決着せず、逮捕・拘束される者が多かった。張洽は提点刑獄に報告し、これを処刑した。ある盗賊は非常に狡猾で、供述を屈折させることができなかった。ちょうど獄中に財産争いをしている兄弟がおり、張洽は彼らを諭して言った、「官に訴訟するのは、ただ胥吏の利益となるだけであり、かつ法を冒して勝とうとするよりは、それぞれ分を守って手足の愛を全うする方がどれほど良いことか。」と。言葉と態度が懇切であったので、訴訟者は感銘して悟った。盗賊はこれを聞き、自ら服罪した。民に人を殺害し、その子を賄って死体を焼かせた者がおり、数年を経て事が発覚したが、張洽はその事件を審理しても手掛かりがなく、憂い、かつ郡に委ねて官吏に実情を探らせた。俄かに夢に人が庭に拝礼し、傷痕が脇腹にあることを示した。翌日、委任された官吏がその事実を報告すると、果たしてその通りであった。
郡守が倉庫の貯蔵が空虚であるとして、倉吏二十余家の財産を没収しようとし、張洽に審理を命じた。張洽は察知して、都吏に売り渡されたことを知った。都吏とは州の大悪党で、嘗て倉に関与しようとして果たせず、故にこのことで張洽を陥れようとしたのである。張洽は郡守の意気込みが鋭く逆らえないと見て、一旦彼らを拘束しておき、密かに倉庫の収入を計算して郡守に報告し言った、「君が二十余家を没収しようとするのは、胥吏の言によるものです。今、数年分の収入を比較すると、既に以前より豊かになっています。これによって見れば、胥吏の言は虚偽です。君は必ずや胥吏の虚偽に従って、無罪の家を没収するようなことはなさらないでしょう。もし胥吏を罪するならば、過ちは免れることができます。」と。郡守は悟り、都吏を罷免し、没収しようとした家を免じた。
永新県知県となった。ある日休暇を取っている時、獄中で鞭打つ音を聞いた。それは獄吏が賄賂を受け、隙に乗じて囚人を取り調べ、誣服させようとしていたのである。張洽は大いに怒り、直ちに捕らえて獄に下し、翌日郡に報告して、刺青の刑に処した。湖南の酃県で賊徒が乱を起こし、県と境を接したので、民衆は大いに恐れた。張洽は単車(軽車)で赴こうとしたが、県の属官や寓居の士人が交互に諫めたが、聞き入れなかった。到着すると賊は未だ来襲しておらず、そこで隅官(地方官)を引見し、利害を訪ねて労い、ついで安福県の境を行き、土豪と盟約を結び、その歓心を得た。間もなく、南安の舒氏の賊徒が県境を犯そうとしたが、備えがあると聞いて去った。
江東提挙常平の推薦により、池州通判となった。獄中に張徳修という者がおり、誤って人を蹴って死なせたが、獄吏が故殺と誣告した。張洽が取り調べて疑念を抱き、再審を請うたが、郡守は聞き入れなかった。ちょうど提点常平の袁甫が到着し、当時大旱魃が続き、祈禱も応じなかった。張洽は袁甫に言った、「漢・晋以来、刑罰を濫用して旱魃を招き、冤罪を晴らして雨を得たことは、方冊(書物)に記載されて考証できます。今、天が大旱魃であるのは、どうして張徳修の件によるものでないと言えましょうか。」と。袁甫が獄中の供述書類を閲覧すると、張徳修は徒刑の罪に減じられた。さらに郡に請願して租税の徴収を免除し、徴税の督促を緩め、和気を召し寄せるようにし、郡守は税を軽減した。三日後果たして大雨が降り、民衆は大いに喜んだ。張洽はたびたび病気を理由に祠官を請い、ここに至って主管建昌仙都観に任ぜられ、慶寿の恩典により緋衣・銀魚を賜った。
当時袁甫が江東提点刑獄となっており、白鹿洞書院が廃れ弛んでいるのを憂い、張洽を院長に招いた。張洽は言った、「ああ、これは先師(朱熹)の遺跡である。どうして辞退できようか。」と。到着すると好学の士を選んで日々講説し、教えに従わない者は淘汰した。養士の田で豪族に横領されたものは全て回復させた。学問が興ると、すぐに病気を理由に辞去した。
洽は少より敬に力を用い、故に「主一」を以て斎の名とす。平居は常人に異ならず、義の為すべきに当たれば、則ち勇にして奪うべからず。閑居して朝廷の事を言わず、或いは災異変故に因り、輒ち顰蹙して楽しまず、及び一君子の進用を聞き、士大夫の直言して朝廷の得失を論ずるを聞けば、則ち喜色を見す。交わる所は皆名士、呂祖儉・黄榦・趙崇憲・蔡淵・吳必大・輔廣・李道傳・李燔・葉味道・李閎祖・李方子・柴中行・真德秀・魏了翁・李𡌴・趙汝讜・陳貴誼・杜孝嚴・度正・張嗣古の如きは、皆これを敬慕す。卒後の一日、旨有りて直寶章閣を除す。著する所の書に『春秋集注』『春秋集傳』『左氏蒙求』『續通鑒長編事略』『歷代郡縣地理沿革表』文集有り。
子:㯝・檉、同進士出身を賜う。
陳淳
陳淳、字は安卿、漳州龍渓の人。少くして挙子業を習う。林宗臣これを見て奇とし、且つ曰く「此れ聖賢の事業に非ず」と。因りて『近思録』を授く。淳退きてこれを読み、遂に其の業を尽く棄つ。
及び朱熹其の郷を守り来たるに及び、淳は教えを受くべく請う。熹曰く「凡そ義理を閲するは、必ず其の原を窮むべし。人父と為るが故に何ぞ慈に止まる、人子と為るが故に何ぞ孝に止まるが如き、其他類推すべし」と。淳聞きて学を為すこと益々力め、日に其の至らざる所を求む。熹数度人に語りて「南来して、吾が道は陳淳を得て喜ぶ」と。門人に疑問合わざる者有れば、則ち淳の善く問うを称す。後十年、淳復た往きて熹に見え、其の得る所を陳ぶ。時に熹已に疾に臥す。これに語りて曰く「公の学ぶ所の如きは、已に本原を見る。欠く所は下学の功のみ」と。是より以て聞く所は皆要切の語、凡そ三月にして熹卒す。
淳は師訓を追思し、痛く自ら裁抑し、読まざる書無く、格らざる物無く、日積月累し、義理貫通し、条緒を洞見す。故に其の太極を言うに曰く「太極は只だ理なり。理は本より円なり、故に太極の体は渾淪たり。理を以て言えば、則ち末より本に、本より末に、一聚一散し、而して太極は極まらざる所無し。万古の前と万古の後より、端無く始無し、此れ渾淪たる太極の全体なり。其の沖漠無朕よりして、天地万物皆是れより出ず。及び天地万物既に是れより出で、又た沖漠無朕に復る、此れ渾淪無極の妙用なり。聖人の一心は渾淪たる太極の全体にして、万変に酬酢するは、太極流行の用に非ざるは無し。学問の工夫は、須らく万事万物の中より貫き過ぎ、湊って一つの渾淪たる大本を成し、又た渾淪たる大本の中より散じて万事万物と為り、少も窒礙無からしむべし。然る後に実体渾淪至極の者我に在るを得て、大用差えざるなり」と。
其の仁を言うに曰く「仁は只だ天理生生の全体にして、表裡・動靜・隱顯・精粗の間無し。惟だ此の心純に天理の公にして、而して毫も人欲の私無きに於いて、乃ち其の名に当たるべし。若し一処に病痛有り、一事に欠闕有り、一念に間断有らば、則ち私意行きて生理息み、即ち頑痹不仁なり」と。
其の学者に語るに曰く「道理初め玄妙無く、只だ日用人事の間に在り。但だ序を循りて功を用いれば、便ち自ら見有り。所謂『下学上達』の者は、須らく下学の工夫到らば、乃ち上達に従事すべし。然れども此を以て小成に安んずべからず。夫れ天地間に盈つる千条万緒は、幾何の人事ぞ。聖人大成の地は、千節万目、幾何の功夫ぞ。惟だ心胸を開拓し、大いに基址を作すべし。須らく万理胸中に明徹し、此の心を天地間に置きて一例に看、然る後に孔・孟の楽を語るべし。須らく三代の法度を明らかにし、之を通じて当今に於いて宜しからざる無く、然る後に全儒と為りて王佐の事業を語るべし。須らく運用酬酢、囊中を探るが如くして匱せず、然る後に資の深きと為り、左右に取りて其の原に逢い、而して真に己が物と為るべし。天理人欲の分数を以て賓主進退の幾を験し、好色を好み悪臭を悪むが如くして、天理人欲強弱の証と為り、必ず之を是是非非に於いて黒白を弁ずるが如く、鏌鎁に遇うが如くし、騎牆不決の疑を容れざるに至らしむれば、則ち艱難險阻の中に在りと雖も、従容自適ならざる無し。夫れ然る後に知の至り而行の尽きると為るなり」と。此の語は又た学者の膏肓を中て、而して標的を示すなり。
淳は性孝なり。母疾篤く、天に号泣し、身を以て代わるを乞う。弟妹に室家未だ有らざる者は、皆婚嫁す。宗族の喪に帰する無き者を葬る。郷に居て名を沽い俗に徇わず、恬然として退守し、聞くこと無きが若し。然れども名は天下に播き、世用いざると雖も、時に憂え事を論じ、感慨人を動かす。郡守以下皆礼重し、時に其の廬を造りて請う。
嘉定九年、中都に待試し、帰りて厳陵に過ぐ。郡守鄭之悌、僚属を率いて郡庠に延いて講ぜしむ。淳は陸・張・王を歎じ、学問源無く、全く禅家の宗旨を用い、形気の虚霊知覚を天理の妙と認め、窮理格物を由らずして、径に上達の境を造らんと欲し、反って聖門に託して自ら標榜す。遂に吾が道の体統、師友の淵源、用功の節目、読書の次序を発明し、四章を為して学者に示す。明年、特奏の恩を以て迪功郎・泉州安渓主簿を授かる。未だ上らずして没す。年六十五。其の著する所に『語』『孟』『大学』『中庸』口義・字義・詳講、『礼』『詩』『女学』等の書有り。門人其の語を録し、号して『筠谷瀬口金山所聞』とす。
李方子
李方子、字は公晦、昭武の人。少くして博学能文、人と為り端謹純篤なり。初めて朱熹に見え、これに謂いて曰く「公が人と為るを観るに、自ら過ち寡なし。但だ寛大の中に規矩を要し、和緩の中に果決を要す」と。遂に「果」を以て斎の名とす。長じて太学に游び、学官李道伝官位輩行を折りて刺を具え就き謁す。
方子既に帰る。学者畢く集い、危坐して日を竟え、未だ傾側せず、賓客に対し一語も妄りに発せず、奴隷と雖も詬詈を加えず。然れども常にこれを厳憚す。嘗て人に語りて曰く「吾れ問学に於いて未だ周尽せざると雖も、然れども幸いに大本に見る処有り。此の心常に泰然たるを覚え、物欲に漬されざるのみ」と。其の亡ぶや、天子これを閔み、一子に恩沢を与う。
黄灝
太府寺丞に任じられ、出向して常州知州となり、本路常平提挙を兼ねた。秀州海塩県の民は桑や柘を伐採し、家屋を壊し、餓死者が野に満ち、ある者は子の肉を食い、片腕を持って物乞いをする有様であったが、州県はなおも租税の滞納取り立てを督促していた。灝はこれを見て顔を曇らせた。時に詔により夏税の徴収が猶予されていたので、秋苗(秋税)も併せて猶予するよう上奏し、返答を待たずに施行した。言官がその専断を罪とし、筠州への移住を命じられたが、後に左遷の命令は取り消され、官位二階を削られるのみで、租税免除・猶予の請願は容れられた。
灝は郷里に帰ると、幅巾を付け深衣を着て、驢馬に乗って匡山の間を巡り、まるで昔からの隠者のようであった。信州知州として起用され、広西路転運判官に改められ、広東提点刑獄に移ったが、老齢を理由に赴任しなかった。死去した。
灝は性質・行いが端正で、孝行と友愛で称えられた。朱熹が南康軍を治めていた時、灝は弟子の礼を執り、疑問を質し難問を問うた。熹が没した時、偽学の禁が厳しく行われていたが、灝は単身の車で弔問に赴き、しばらくの間、名残惜しんで去り難く彷徨った。