宋史

列傳第一百八十八 道學三 朱熹 張栻

朱熹

朱熹、字は元晦、一字は仲晦、徽州婺源の人。父の松、字は喬年、進士に及第す。胡世将・謝克家がこれを推薦し、秘書省正字に除せらる。趙鼎が川陝・荊・襄の軍馬を都督ととくす、松を招きて属と為さんとす、辞す。鼎再び相と為り、校書郎を除し、著作郎に遷る。御史中丞常同の推薦により、度支員外郎を除し、史館校勘を兼ね、司勲・吏部郎を歴任す。秦檜が和議を決策す、松は同列とともに上章し、極言してその不可なるを論ず。檜怒り、御史に風して松が異を懐き自ら賢とすと論ぜしめ、饒州知州に出され、未だ上らずして卒す。

熹幼にして穎悟、はじめて言う能うや、父天を指して之に示し曰く「天なり」と。熹問うて曰く「天の上は何物ぞ」と。松之を異とす。傅(師)に就き、『孝経』を授く、一たび閲し、其上に題して曰く「是の如くならざれば、人に非ず」と。嘗て群児の沙上に戯るるに従う、独り端坐して指を以て沙に画す、之を視るに、八卦なり。年十八郷に貢せられ、紹興十八年の進士に及第す。泉州同安の主簿と為り、邑の秀民を選び弟子員に充て、日に之と聖賢の己を修め人を治むるの道を講説し、女婦の僧道と為るを禁ず。罷めて帰り祠を請い、潭州南嶽廟を監す。明年、輔臣の推薦により、徐度・呂広問・韓元吉とともに召され、疾を以て辞す。

孝宗即位し、直言を求むる詔あり、熹封事を上りて言う「聖躬未だ過失有らざるも、帝王の学は熟講せざるべからず。朝政未だ闕遺有らざるも、修攘の計は早く定めざるべからず。利害休戚遍く挙ぐべからざるも、本原の地は意を加うべからざるべからず。陛下毓徳の初め、親しく簡策を御するも、風誦文辞・情性を吟詠するに過ぎず、又頗る老子・釈氏の書に留意す。夫れ記誦詞藻は、淵源を探り治道を出す所以に非ず。虚無寂滅は、本末を貫き大中を立つる所以に非ず。帝王の学は、必ず先ず格物致知を以て、夫の事物の変を極め、義理の存する所をして、繊悉ことごとく照らさしむれば、則ち自然に意誠心正にして、以て天下の務に応ずることを得べし」と。次に言う「修攘の計時を定めざるは、講和の説之を誤るなり。夫れ金人は、我と不倶戴天の讐有り、則ち和すべからざるは明らかなり。願わくは義理の公を断じ、関を閉じ約を絶ち、賢を任じ能を使い、紀綱を立て、風俗を励ますべし。数年之後、国富兵強、吾が力の強弱を視、彼が釁の浅深を観、徐に起ちて之を図らん」と。次に言う「四海の利病は、斯の民の休戚に係り、斯の民の休戚は、守令の賢否に係る。監司は守令の綱、朝廷は監司の本なり。斯の民の其の所を得んと欲せば、本原の地も亦朝廷に在るのみ。今の監司、姦贓狼籍・肆虐を以て民を病む者は、宰執・台諫の親旧賓客に非ざるは莫し。其の已に勢を失える者は、既に其の交私の状を按見して斥去せり。尚お勢に在る者は、豈其人無からんや、顧みるに陛下自ら之を知る無きのみ」と。

隆興元年、復た召さる。入対し、其の一に言う「大学の道は格物を以て其の知を致すに在り。陛下生知の性有り、高世の行有るも、未だ嘗て事に随いて理を観、理に即いて事に応ぜず。是を以て挙措の間動もすれば疑貳に渉り、聴納の際蔽欺免れず、平治の效未だ著はらざる所以なり」と。其の二に言う「君父の讐は倶に天を戴かず。今日当に為すべき者は、戦に非ざれば以て讐を復する無く、守に非ざれば以て勝を制する無し」と。且つ古先聖王の強本折衝・威を以て遠人を制するの道を陳ぶ。時相湯思退方に和議を倡う、熹を武学博士に除し、次を待つ。乾道元年、職に就くを促す、既に至るや洪适相と為り、復た和を主とし、論合わず、帰る。

三年、陳俊卿・劉珙が推薦して枢密院編修官と為し、次を待つ。五年、内艱に丁す。六年、工部侍郎胡銓が詩人として推薦し、王庭珪とともに召され、未だ喪を終えざるを以て辞す。七年、既に免喪し、復た召され、禄以て養わずを以て辞す。九年、梁克家相と為り、前命を申し、又辞す。克家奏す、熹屡召さるれど起たず、宜しく褒録に蒙るべし、執政倶に之を称す、上曰く「熹貧に安んじ道を守り、廉退嘉すべし」と。特に入るべき官を改め、台州崇道観を主管せしむ。熹退を求めて進を得るは、義に於いて未だ安からずとし、再び辞す。淳熙元年、始めて命を拝す。二年、上廉退を奨用して風俗を励まさんと欲し、龔茂良丞相の事を行い熹の名を以て進む、秘書郎を除す、力辞し、且つ手書を以て茂良に遺し、一時の権幸群小、間を乗じて讒毀するを言う、乃ち熹に因り、再び辞す、即ち其の請に従い、武夷山沖佑観を主管す。

五年、史浩再び相と為り、南康軍知軍を除す、降旨して便道の官とせしむ、熹再び辞す、許さず。郡に至り、利を興し害を除く。歳雨ならざるに値い、荒政を講求し、多く全活す。事を訖え、格に依り粟を納むる人を推賞せんことを奏し乞う。間もなく郡学に詣り、進士子を引進して之と講論す。白鹿洞書院の遺址を訪れ、其の旧を復すことを奏し、学規を為して之を守らしむ。明年夏、大旱す、詔して監司・郡守に其の民間の利病を条せしむ、遂に上疏して言う。

「天下の務、民を恤むるより大なるは莫し。而して民を恤むるの本は、人君心術を正しくして紀綱を立つるに在り。蓋し天下の紀綱は自ら立つ能わず、必ず人主の心術公平正大にして、偏党反側の私無く、然る後に係る所有りて立つ。君心は自ら正しむる能わず、必ず賢臣に親しみ小人を遠ざけ、義理の帰を講明し、私邪の路を閉塞して、然る後に乃ち得て正しむべし。

今宰相・台省・師傅・賓友・諫諍の臣皆其の職を失い、而して陛下の与に親密に謀議する者は、一二の近習の臣に過ぎず。上は以て陛下の心志を蠱惑し、陛下をして先王の大道を信ぜしめず、而して功利の卑説を悦び、荘士の讜言を楽しまず、而して私暬の鄙態に安んぜしむ。下は則ち天下の士大夫の利を嗜み恥無き者を招集し、文武分かれてあつまり、各其の門に入る。喜ぶ所は則ち陰に引援を為し、清顕に擢置す。悪む所は則ち密に訾毀を行い、公に肆に擠排す。交通貨賂、盗む所は皆陛下の財なり。卿を命じ将を置く、窃む所は皆陛下の柄なり。陛下の所謂る宰相・師傅・賓友・諫諍の臣は、或いは反って其の門牆に出入し、其の風旨を承望す。其の幸いに自立し能う者は、亦た齪齪として自ら守るに過ぎず、而して未だ嘗て一言を敢えてして之を斥けず。其の甚だ公論を畏るる者は、乃ち能く略々其の徒党の一二を警逐するも、既に深く傷つくる所有ること能わず、而して終亦た正言を敢えてして其の囊橐窟穴の在る所を搗かず。勢成り威立ち、中外靡然として之に向う、陛下の号令黜陟をして復た朝廷より出でずして、一二の人の門より出でしめ、名は陛下の独断と為すも、実は此の一二の人の陰に其の柄を執るなり」。

且つ云う「莫大の禍、必至の憂、朝夕に近し、而して陛下独り之を知らざるなり」と。上之を読み、大いに怒りて曰く「是れ我を以て亡き者と為すなり」と。熹疾を以て祠を請う、報いず。

陳俊卿は旧宰相として金陵を守り、宮門を過ぎて入見し、朱熹を甚だ力強く推薦した。宰相趙雄が上に言うには、「士の名声を好むことは、陛下がこれを憎めば憎むほど、人々がこれを誉めることがますます多くなり、かえって彼を高めることになるのではないでしょうか。その長所に基づいて用いるのが良く、彼が次第に事任に当たれば、有能か否かは自ずから明らかになるでしょう」と。上はこれを然りとし、朱熹を提挙江西常平茶塩公事に任じた。まもなく救荒の労を記録し、直秘閣に任じたが、以前に上奏した納粟人(粟を納めた者)がまだ推賞されていないことを理由に、辞退した。

折しも浙東が大飢饉に見舞われ、宰相王淮が朱熹を提挙浙東常平茶塩公事に改めるよう奏上し、即日単車で赴任の途についたが、再び納粟人が推賞されていないことを理由に、職名を辞退した。納粟の賞が行われると、遂に職名を受けた。入対し、まず災異の原因と修徳・任人について述べ、次に言うには、「陛下が政務を執り始められた当初は、英豪を選び抜き、政事を任せられたが、不幸にもその中に必ずしも適任者ばかりではなかったため、賢哲を広く求めることをやめ、姑息に軟弱で従順な人物を取ってその地位を充たすようになった。そこで左右の私的な賤しい使令の輩が、ようやく燕閑(安らかな暇)に侍り、駆使に備えるようになり、宰相の権力は日々軽んじられた。またその勢力が偏ることを慮り、それが重くなって己を塞ぐことを恐れて、時折外廷の議論に耳を傾け、ひそかにこの輩の罪過を察知して彼らを操り締めつけようとされた。陛下は既に天理に従い、聖心を公平にして朝廷の大綱を正すことができず、固よりその根本を失っているのに、さらに士大夫の言葉を兼ね聴いて、駕馭の術としようとされる。しかし士大夫の進見は時限があり、近習(側近)が従容として侍るのは間断がない。士大夫の礼儀容貌は厳かで親しみ難く、その議論も苦しくて受け入れ難い。近習の便辟へつらいで媚びた態度は既に心志を惑わすに足り、その胥史の狡猾な術策はまた聡明を眩ますに足る。このため、たとえこの輩を少し抑えようとしても、この輩の勢力は日々重くなり、たとえ公論を兼ね採ろうとしても、士大夫の勢力は日々軽んじられる。重んじられた者はその重みを頼みとして陛下の権力を窃み取り、軽んじられた者は重んじられた者の力を借りて、地位を窃み寵愛を固める計略を図る。日が過ぎ月が来て、じわじわと蝕まれ、陛下の徳業は日々崩れ、綱紀は日々乱れ、邪佞が充満し、賄賂が公然と行われ、兵は愁い民は怨み、盗賊が時折起こり、災異が頻繁に現れ、飢饉が重なって至る。群小が互いに支え合い、人々皆その欲するところを満たすことができるが、ただ陛下だけは何一つ得るところがなく、かえってただ一人その弊害を受けることになる」と。上は動容した。上奏したことは凡そ七事、その内一二事は手書して漏洩を防いだ。

朱熹は任命を受けるや、直ちに他郡に文書を送り、米商人を募り、その徴税を免除した。到着する頃には、客船の米が既に輻湊していた。朱熹は日々民情を探り訪ね、境内を巡行したが、単車で従者を退け、行く先々で人に知られないようにした。郡県の官吏はその風采を畏れ、自ら辞職する者もおり、管轄区域は粛然とした。凡そ丁銭・和買・役法・榷酤の政策で民に不便なものは、全て整理して改革した。救荒の余力から、事に随って処置を図り、必ず長久の計を立てた。朱熹を非難する者がおり、その政務が疎かであると言ったが、上は王淮に言った、「朱熹の政事は却って見るべきものがある」。

朱熹は以前からの奏請が多く抑えられ、幸いに聞き入れられたものも、大概が遅延して時機に後れ、蝗害と旱魃が相次いだため、憂憤に耐えかね、再び上奏して言った、「当今の計は、ただ聖心より断じ、はい然として号令を発し、躬を責めて直言を求め、その後君臣互いに戒め、痛切に自ら反省改めることにある。次には、内庫の銭を全て出して大礼の費用に充て、収糴の元手とし、戸部に旧負の徴収免除を詔し、漕臣に条令に依って租税の検放を行うよう詔し、宰臣に被災路分の州軍監司・守臣の不行跡な者を淘汰させ、賢能を選抜し、荒政を責めて任せることである。そうすれば、なお人心を結びつけ、時乗じて乱を起こそうとする意思を消し去ることができるであろう。さもなければ、臣が憂うるのは飢死者に止まらず、盗賊に及ぶであろう。その害を受けるのは官吏に止まらず、上は国家に及ぶであろう」。

台州知州唐仲友は王淮と同郷で姻戚関係にあり、吏部尚書鄭丙・侍御史張大経が相次いで推薦し、江西提刑に遷任したが、未だ赴任しなかった。朱熹が管轄区域を巡行して台州に至ると、仲友を訴える者が多く、事実を調べて得たため、上奏文を三度上呈したが、王淮はこれを隠して上聞に達しなかった。朱熹の論劾がますます激しくなると、仲友も自ら弁明したため、王淮は朱熹の上奏文を進呈した。上は宰相の属官に詳細に検討させ、都司の陳庸らは浙西提刑に清廉剛直な官を委ねて実情を究明させ、なお朱熹に旱害を受けた州郡を視察させるよう速やかに行かせるよう請うた。朱熹は当時台州に留まって未だ出発しておらず、詔を奉じた後、ますます上奏して論じ、前後六度上呈した。王淮は已むなく、仲友の江西への新任命を取り上げて朱熹に授けようとしたが、朱熹は拝受せず、遂に帰郷し、且つ奉祠を乞うた。

その時、鄭丙が上疏して程氏の学を誹謗し朱熹を沮えようとし、王淮はまた太府寺丞陳賈を抜擢して監察御史とした。陳賈が面対し、まず近頃の搢紳に所謂「道学」なる者がおり、大概は名声を借りて偽りを助けるものだと論じ、その人物を考察し、擯棄して用いないよう願うと述べた。これは朱熹を指していた。十年、詔して朱熹が累次奉祠を乞うていることを以て、主管台州崇道観に差すべしとした。既にして雲臺・鴻慶の祠官を連続して奉じること五年に及んだ。十四年、周必大が宰相となり、朱熹を提点江西刑獄公事に任じたが、病気を理由に辞退し、許されず、遂に行った。

十五年、王淮が罷免され、遂に入奏した。まず近年の刑獄が不当であり、獄官はその人を選ぶべきであると述べた。次に経総制銭が民を苦しめ、及び江西諸州の科罰の弊害について述べた。そしてその末尾に言うには、「陛下が即位されて二十七年、因循として月日が過ぎ、尺寸の効果もなく聖志に酬いることができません。嘗て反復して考えますに、燕閑蠖濩(静かな隠居所)の中、虚明応物(虚心で明らかに物に応ずる)の地において、天理が未だ純粋でなく、人欲が未だ尽きていないためではありますまいか。それ故に善を行ってもその量を充たすことができず、悪を除いてもその根を去ることができず、一念の間に、公私・邪正・是非・得失の機微が、その中で交戦しているのです。故に大臣を礼遇することは厚くないわけではないが、便嬖側媚の輩が深く腹心の寄託を受けることができ、英豪を日夜求めることは切実でないわけではないが、柔邪庸繆の輩が久しく廊廟の権力を窃むことができ、公議正論を聞くことを喜ばないわけではないが、時に容れられず、讒説殄行を憎まないわけではないが、誤って聞くことが免れず、陵廟の讐恥に報復したいと思わないわけではないが、畏怯苟安が免れず、生霊財力を愛養したいと思わないわけではないが、歎息愁怨が免れません。願わくは陛下、今より以後、一念の間に必ず謹んでこれを察してください。これは天理か、人欲か。果たして天理ならば、敬をもってこれを充たし、少しも塞がれることのないようにし、果たして人欲ならば、敬をもってこれを克服し、少しも滞ることのないようにしてください。言葉動作の間から、用人処事の際に至るまで、全てこれによって裁断すれば、聖心は洞然と明らかになり、内外融徹して、一毫の私欲もその間に介在する余地がなく、天下の事はただ陛下の欲する所のままに、志の如くにならないことはないでしょう」と。この時の出立に、道で待ち受ける者がいて、「正心誠意」の論は上に厭聞されているから、これを言うなと戒めた。朱熹は言った、「我が平生の学ぶところは、ただこの四字である。どうして黙して我が君を欺くことができようか」。奏上した時、上は言った、「久しく卿に会わなかった。浙東の事は、朕自ら知っている。今は卿を清要の職に処し、再び州県の煩わしさを任せない」。

時に曾覿は既に死し、王抃もまた逐われ、ただ内侍の甘昪のみ尚在り、熹は力を尽くして以て言上す。上曰く、「昪は乃ち徳寿(高宗)の薦むる所、其の才あるを謂うのみ。」熹曰く、「小人に才無くば、安んぞ能く人主を動かさん。」翌日、兵部郎官を除すも、足疾を以て祠官を丐う。本部侍郎の林栗嘗て熹と『易』・『西銘』を論じて合わず、熹を劾す、「本より学術無く、徒らに張載・程頤の緒余を窃み、之を『道学』と謂う。至る所輒ち門生数十人を携え、妄りに孔・孟の歴聘の風を希い、高価を邀索し、肯て職に供せず、其の偽掩うべからず。」上曰く、「林栗の言過ぎに似たり。」周必大、熹の上殿の日、足疾未だ瘳えず、勉強して登対すと言う。上曰く、「朕も亦其の跛曳するを見たり。」左補闕の薛叔似も亦熹を援けて奏す、乃ち旧職の江西提刑に令す。太常博士の葉適、疏を上して栗と弁じ、其の言実なるもの一も無しと謂い、「之を道学と謂う」一語、実無きこと尤甚し、往日王淮の表裏して台諫し、陰に正人を廃するは、蓋し此の術を用いしなりとす。詔して、「熹昨入対し、論ずる所皆新任の職事、朕其の誠を諒み、復た請う所に従う、疾く速かに之に任ずべし。」会に胡晉臣、侍御史を除せられ、首めて栗の執拗にして通ぜず、同を喜び異を悪み、事無くして学者を指して党と為すを論じ、乃ち栗を泉州知事に黜す。熹再び辞免し、直宝文閣を除し、西京嵩山崇福宮を主管す。未だ月を逾えず再び召すも、熹又辞す。

初め、熹嘗て口陳の説尽くさざる所有りと為し、封事を具えて以て聞かんことを乞う、是に至りて匭に投じて封事を進めて曰く、

「今、天下の大勢は、人の重病有るが如く、内は心腹より、外は四支に達するまで、一毛一髮として病を受けざるは無し。且つ天下の大本と今日の急務を以て、陛下に言わん。大本は、陛下の心なり。急務は則ち太子を輔翼し、大臣を選任し、綱紀を振挙し、風俗を変化し、民力を愛養し、軍政を修明する、此の六者は是なり。

古の先聖王は兢兢業業として、此の心を持守し、是を以て師保の官を建て、諫諍の職を列ね、凡そ飲食・酒漿・衣服・次舍・器用・財賄と夫れ宦官・宮妾の政と、一として冢宰に領せられざるは無し。其の左右前後をして、一動一静、司有るの法を以て制せられざる無くして、纖芥の隙・瞬息の頃も、以て其の毫髮の私を隠すを得ざらしむ。陛下の精一克復して以て其の心を持守する所以は、果たして此の如き功有りや。修身斉家して以て其の左右を正す所以は、果たして此の如き効有りや。宮省の事禁は、臣固より知るを得ず、然れども爵賞の濫れ、貨賂の流るるは、閭巷窃に言い、久しく已に其の籍籍たるに勝えず、則ち陛下の家に修むる所以は、恐らくは其の古の聖王に及ぶ有る無きなり。

左右便嬖の私に至りては、恩遇過当なり、往時の淵・覿・説・抃の徒、勢焰熏灼し、一時を傾動せしむ、今已に言う可き無し。独り前日臣の面陳せし所の者は有り、聖慈の委曲開譬に蒙るも、然れども臣の愚、窃に以為うく、此の輩は但だ之をして門を守り命を伝え、掃除の役に供せしむべく、崇長を仮借すべからず、邪媚を逞うし、淫巧を内に作りて、以て上心を蕩がしめ、門庭を立て、権勢を外に招きて、以て聖政を累わすべからずと。臣之を道路に聞く、王抃既に逐われし後より、諸将の差除、多くは此の人の手より出づ。陛下生霊の膏血を竭して以て軍旅に奉ずるも、顧みる乃ち未だ嘗て一たび温飽を得ず、是皆将帥巧みに名色を為し、其の糧を奪い取り、近習に貨賂を肆に行い、以て進用を図り、禁闥の腹心の臣は出入し、将帥と外交し、共に欺蔽を為し、以て此に至るなり。而るに陛下悟らず、反って之を寵暱し、以て是を我が私人と為し、至っては宰相をして其の制置の得失を議するを得ざらしめ、給諫をして其の除授の是非を論ずるを得ざらしむ、則ち陛下の其の左右を正す所以は、古の聖王に及ばざる能わざること又明らかなり。

太子を輔翼するに至りては、則ち王十朋・陳良翰の後より、宮僚の選は人を得たりと号すれども、而して能く其の職に称する者は、蓋し已に鮮し。而して又時に邪佞儇薄・闒冗庸妄の輩をして、或いは其の間に参錯するを得しめ、所謂講読も亦姑く文に応じ数を備えるを以てすれども、未だ其の箴規の効有るを聞かず。朝夕に従容し、遊燕に陪侍する者に至りては、又た使臣宦者の数輩に過ぎず。師傅・賓客は既に復た置かず、而して詹事・庶子は名有りて実無く、其の左右春坊は遂に直ちに使臣を以て之を掌らしむ。既に其の師を隆くし親友し、徳を尊び義を楽むの心を発する無く、又た其の戯慢媟狎・奇邪雑進の害を防ぐ無し。宜しく前典を討論し、師傅・賓客の官を置き、春坊の使臣を罷去し、而して詹事・庶子をして各其の職に復せしむべし。

大臣を選任するに至りては、則ち陛下の聰明を以てすれども、豈に天下の事は、必ず剛明公正の人を得て而る後可ならんことを知らざらんや。其の常に此の如き人を得ずして、反って鄙夫の位を窃むるを容るる所以は、直ちに一念の間に、未だ能く其の私邪の蔽を徹せず、而して燕私の好・便嬖の流れ、尽く法度に由る能わざるが故なり。若し剛明公正の人を用いて以て輔相と為さば、則ち恐らくは其の吾が事を妨げ、吾が人を害する有りて、肆にするを得ざらんと。是を以て選択の際、常に先ず此等を排擯し、而る後に凡そ疲懦軟熟・平日敢えて直言正色せざる人を取りて之を揣摩し、又た其の中に其の至庸極陋・決して保つ可き其の妨げ有るに至らざる者を得て、然る後に挙げて之を位に加う。是を以て除書未だ出でざるに、物色先ず定まり、姓名未だ顕れざるに、中外已に逆に其の決して天下第一流に非ざるを知る。

紀綱を振粛し、風俗を変化するに至りては、則ち今日宮省の間、禁密の地にて、而して天下の公ならざるの道・正しからざるの人、顧みる乃ち窟穴を以て其の間に盤據するを得たり。而して陛下の目に見耳に聞く所、公ならざる不正の事に非ざるは無く、則ち其の熏烝銷鑠して、陛下の善を好むの心著わらず、悪を疾むの意深からざらしむる所以の者は、其の害已に言うに勝えざる者有り。其の姦を作し法を犯すに及びては、則ち陛下又た深く私愛を割きて、外廷の議に付し、有司の法を以て論ずるに能わず。是を以て紀綱は上に正しからず、風俗は下に頽弊し、其の患いを為すこと日久し。而して浙中は尤甚なり。大率軟美の態・依阿の言を習い、是非を分かたず曲直を弁ぜざるを以て得計と為し、甚だしきは金珠を脯醢と為し、契券を詩文と為し、宰相啖う可ければ則ち宰相を啖い、近習通ず可ければ則ち近習を通ず。惟だ之を得んことを求めて、復た廉恥無し。一たび剛毅正直・道を守り理に循うの士其の間に出ずれば、則ち群れ譏り衆れ排し、指して「道学」と為し、而して矯激の罪を以て之に加う。十数年來、此の二字を以て天下の賢人君子を禁錮し、復た昔時所謂元祐学術の如く、排擯詆辱し、必ず身を容るる所無からしめて而る後已む、此れ豈に治世の事ならんや。

民力を愛養し、軍政を修明することに至っては、虞允文が宰相となって以来、版曹(戸部)の歳入のうち必ず指擬できる項目を全て取り上げ、歳終の羨余の数と称して内帑(宮中の財庫)に納めた。一方で、名目のみで実体がなく、積み重なった滞納や帳簿に空しく記載されているだけで、取り立てられないものを版曹に撥還し、内帑の蓄えとし、将来の出兵や進取の際の不時の需要に備えようとした。しかし、それ以来二十余年、内帑の歳入がどれほどであったか知る由もなく、私的な貯蔵とみなされ、私人がこれを管理し、宰相は式貢(法規)によってその出入りを均節できず、版曹は簿書によってその存否を勾考できず、日々月々に消耗して、私的な宴楽の費用に充てられた額は、もはやどれほどか知れず、かつて太祖の言葉のように、この金銭を用いて敵の首を買うことができたと聞いたことがあろうか。ただ版曹の経費を日に日に欠乏させ、督促を日に日に峻烈にし、ついには祖宗以来の破分(一定割合の未納を許容する)の良法を廃して、必ず十分に満たすことを限界とし、それでも足りないと、さらに監司や郡守の成績を比較して殿最(順位)を定める法を作り、彼らを誘引脅迫した。ここにおいて朝廷内外はこの風潮を受け継ぎ、競って苛酷急迫な施策を行い、これが民力が重く困窮する所以である。

諸将が進用を求めるには、必ずまず士卒を掊克(搾取)して私利を殖やし、その後これをもって陛下の私人に取り入り、その姓名を陛下の貴将に届けてもらおうと願う。貴将はその姓名を得ると、直ちにこれを軍中に付し、什伍(軍隊の最小単位)以上から順次保証させ、その材武が将帥に堪えると称えさせ、その後奏牘を整えて陛下の前に言上する。陛下はただ等級に従って推挙され、案牘が整っているのを見て、誠に公的な推薦であり人材を得られると信じるが、その実、論価して金を輸送する、まさに晩唐の債帥(借金で官位を買った将帥)のようなものであることを知るだろうか。将とは三軍の司命であり、その選任配置の方法がこのように乖刺(道理に背く)であれば、智勇材略のある者は誰が宦官や宮妾の門に心を抑えて頭を垂れようとするだろうか。そして陛下が将帥として得る者は皆、庸夫や走卒であり、それでいて彼らに軍政を修明し、士卒を激勵して国勢を強めることを望むのは、誤りではないか。

この六事はいずれも緩めることができず、その根本は陛下の一心にある。一心が正しければ六事は全て正しくならず、人心の私欲がその間に介在すれば、たとえ精力を尽くし労力を費やして六事を正そうと努めても、結局は空文に終わり、天下の事態はますます為すべからざるものとなるであろう。

上疏が入ると、夜漏七刻(午後九時頃)、上は既に就寝していたが、急いで起きて燭を執り、終わりまで読んだ。翌日、主管太一宮を除授し、兼ねて崇政殿説書を命じられた。朱熹は力辞し、秘閣修撰を除授され、外祠(地方の祠官)を奉じることとなった。

光宗が即位すると、再度職名を辞し、依然として直宝文閣のまま、詔を降りて褒め称えられた。数ヶ月後、江東転運副使を除授されたが、病気を理由に辞し、漳州知州に改められた。属県の無名の賦七百萬を廃止し、経総制銭四百萬を減額することを奏上した。習俗が礼を知らないため、古の喪葬嫁娶の儀礼を採り上げて掲示し、父老に解説させ、子弟を教えさせた。土俗は釈氏(仏教)を崇信し、男女が僧侶の庵に集まって経典を伝える会を開き、嫁がずに庵舎に住む女性もいたが、朱熹はこれを全て禁じた。常に経界(土地測量・登記)が行われない弊害を憂い、朝廷で泉・汀・漳の三州で経界を行おうとする議論があったため、朱熹は事柄を訪ね、人物を選び、方量(測量)の方法を上奏した。しかし、土地の豪族で貧弱者を侵漁する者が不便としてこれに反対し、阻止した。宰相の留正は泉州の出身で、その郷里の者も多くが実行不可能と考えた。布衣の呉禹圭が上書して民を擾すと訴えたため、詔して暫く待ち、後に漳州の経界を先行させる旨の命令があった。翌年、子の喪に服するため祠官を請うた。

その時、史浩が入朝し、天下の人望を収めるよう請うたため、朱熹は秘閣修撰を除授され、南京鴻慶宮を主管することとなった。朱熹は再度辞したが、詔して「論撰の職は、名儒を寵遇するためである」と言われ、命を受けた。荊湖南路転運副使を除授されたが辞し、漳州の経界は結局取り止めとなり、建言が用いられなかったことを理由に自らを弾劾した。静江府知事を除授されたが辞し、南京鴻慶宮を主管した。間もなく、潭州知事を差し命じられたが力辞した。黄裳が嘉王府詡善となり、自らの学が朱熹に及ばないとして、召し出して宮僚(王府の官)とするよう乞い、王府直講の彭亀年も大臣にそのことを言った。留正は「正が朱熹を知らないわけではないが、その性質が剛直で、ここに来ても合わず、かえって累となる恐れがある」と言った。朱熹がちょうど再度辞しようとした時、「長沙は大きな屏藩であり、賢者を得ることが重要である」との旨の命令があり、遂に命を受けた。洞獠(少数民族)が属郡を擾した時、朱熹は人を遣わして禍福を諭させ、皆降伏させた。法令を申し厳しくし、武備を厳重にし、姦吏を鎮め、豪民を抑えた。赴任先では学校を興し、教化を明らかにし、四方の学者が皆集まった。

寧宗が即位すると、趙汝愚が真っ先に朱熹と陳傅良を推薦し、行在(皇帝の行宮)に赴き奏事するよう命令があった。朱熹は出発しつつ辞し、煥章閣待制・侍講を除授されたが辞し、許されなかった。入対し、まず言上した。「先般、太皇太后が自ら大策を定め、陛下が謹んで大業を継承されたことは、権(臨機の処置)をもって処し、しかもほぼ正を失わなかったと言えましょう。それ以来今日まで三ヶ月、あるいは逆に逆順名実の際に疑いを抱かざるを得ないこともあり、ひそかに陛下を憂えます。まだ弁解できる点があるとすれば、陛下の心が、以前は位を求める考えがなく、今日も親を思う懐いを忘れていないこと、これこそが権を行いながら正を失わない根本です。位を求めなかった心を充実させて、罪を負い慝(過ち)を引く誠意を尽くし、親を忘れなかった心を充実させて、温凊定省の礼を致せば、大倫は正しく、大本は立ちます。」さらに面と向かって待制・侍講を辞したが、上は手札を下して「卿の経術は淵源深く、まさに講論を助けるに資する。次対の職は、重ねて辞する労を取らず、朕が儒を崇め道を重んずる意に副えよ」と言われ、遂に命を受けた。

ちょうど趙彦逾が孝宗の山陵(陵墓)を視察し、土肉が浅薄で、下に水石があると報告した。孫逢吉が再調査を請い、別に吉兆の地を求めるよう乞うた。命令があり集議が開かれたが、臺史(天文・地理を司る官)がこれを憚り、議論は中途で止んだ。朱熹は結局議状を上奏し、「寿皇(孝宗)の聖徳たるや、衣冠の蔵(陵墓)は広く名山を訪ねるべきであり、臺史に偏信して、水泉沙礫の中に委ねるべきではない」と述べたが、返答はなかった。

当時、論者は、上(皇帝)が大内(宮中)に還らなければ、名分が正しくなく疑議が生じ、金の使者が来るのに、隙を窺われる恐れがあると考えた。命令があり、旧東宮を修繕し、数百間の屋舎を建て、そこに移り住もうとした。朱熹は上疏して言った。

「これは必ずや左右の近習がこの説を唱えて陛下を誤らせ、その奸心を遂げようとしているのです。臣は恐れます。上帝が震怒し災異が頻発するまさに恐懼修省すべき時に、この大役を興して譴告警動の意に背くべきでないばかりか、畿甸の百姓が飢餓流離し死に瀕している際に、怨望忿切して他の変事を生じさせかねません。太上皇帝の心を感格させて進見の機会を得られないばかりか、寿皇が殯中で山陵が未だ卜せず、几筵の奉りを少しも弛めることができず、太皇太后・皇太后ともに尊老の年で、煢然として憂苦の中にあり、晨昏の養いが特に欠かせない時にあって、四方の人は、陛下が急いで大いに宮室を治め、速やかに完成させ、一朝にして翩然とこれを捨て去り、安便な地に就こうとしているのを見て、六軍万民の心に扼腕不平の者が生じるでしょう。前の鑑(教訓)は遠くなく、甚だ懼るべきです。

また聞くところによれば、太上皇后は太上皇帝の聖意に逆らうことを恐れ、太上という呼称を聞かせたくなく、内禅の説を聞かせたくないというが、これもまた考え過ぎである。知らないのは、もしただこのようにして、婉曲な便宜を図らなければ、父子の間で、上は怨み怒り、下は憂い恐れて、いつまで経っても終わることがないであろう。父子の大倫は、三綱の繫ぐところであり、長く図らなければ、またその名を借りて誹謗を造り事を生ずる者も出てこよう。これまた臣の大いに懼れるところである。願わくは陛下、大臣に明詔して、まず東宮修繕の役事を罷め、その工料を以て慈福宮と重華宮の間に回し、寝殿を一二十間草創し、粗く居住できるようにせられたい。過宮の計り事については、則ち臣はまた願わくは陛下、詔を下して自らを責め、輿衛を減省し、宮に入った後、暫く服色を変え、唐の粛宗が紫袍に改め、馬前を執って控えたようにして、罪を負い慝を引く誠意を伸べられたい。そうすれば太上皇帝は忿怒の情があっても、また霍然と消散し、歓意が洽うであろう。

朝廷の紀綱に至っては、則ち臣はまた願わくは陛下、左右の者に深く詔して、朝政に預からせないようにせられたい。実際に勲庸がありながら、得た褒賞が衆論に愜わない者も、また大臣に詔してその事を公議させ、令典を稽考し、その労を厚く報いられたい。そして凡そ号令の弛張、人才の進退は、則ち一に二三大臣に委ね、彼らに反覆較量させ、己見に循わず、公論を酌み取り、奏上してこれを行わせられたい。不適当なものがあれば、繳駁論難し、善きものを選んで制を称し臨んで決せられたい。そうすれば、近習が朝権に干預できず、大臣が専ら己の私を任せず、陛下もまた益々天下の事を明習し、得失の算に疑うところ無からしめられるであろう。

山陵の卜するについては、則ち願わくは台史の説を黜け、別に草沢に求めて、新宮を営み、寿皇の遺体を内に安んじ得させ、宗社と生民を外に福を蒙らしめられたい。」

疏が入っても報いられなかったが、然し上もまた熹を怒る意は無かった。毎度講じたところを編次して帙を成し進上すると、上もまた懐を開いて容納した。

熹はまた上を勉めて徳を進めることを奏し云う、「願わくは陛下、日用の間、放心を求めることを本とし、経を玩み史を観、儒学に親近することに、益々力を用いられたい。数たび大臣を召し、治道を切瑳し、群臣が進対するにも、また温顔を賜い、反覆詢訪して、政事の得失、民情の休戚を求め、また因ってその人才の邪正短長を察せられ、庶幾くは天下の事、各々その理を得られたい。」熹は奏す、「礼経の敕令に、子は父のため、嫡孫は承重して祖父のため、皆斬衰三年とす;嫡子はその父の後を為すべきで、襲位して喪を執ることができなければ、則ち嫡孫が継統して代わりに喪を執る。漢の文帝が喪を短くして以来、歴代これに因り、天子は遂に三年の喪無し。父のためでさえ然り、則ち嫡孫が承重することは知るべし。人紀廃壞し、三綱明らかでなく、千有余年、厘正する者無し。寿皇聖帝は至性天より出で、易月の外、猶お通喪を執り、朝衣朝冠皆大布を用いられた。宜しく方冊に著し、万世の法程とすべきである。間近く、遺誥初めて頒つとき、太上皇帝偶々康に違い、躬ら喪次に就くことができなかった。陛下は世嫡として大統を承けられたのであるから、則ち承重の服は礼律に著わされており、宜しく寿皇の既に行われた法に遵うべきであった。一時倉卒、詳議するに及ばず、遂に漆紗浅黄の服を用いた。礼律に違うのみならず、寿皇の既に行われた礼を挙げてまた墜とすことになり、臣窃かにこれを痛む。然し既往の失は追改に及ばず、唯だ将来の啓殯発引に、礼は当に初喪の服を用いるべきである。」

丁度孝宗が祔廟するに当たり、宗廟迭毀の制を議し、孫逢吉・曾三復がまず僖祖・宣祖の二祖を並びて祧し、太祖を第一室に奉り、祫祭には則ち正しく東向の位とすべしと請うた。旨有りて集議す:僖・順・翼・宣の四祖の祧主は、宜しく帰する所有るべし。太祖皇帝が初め四祖の廟を尊んで以来、治平の間、議者が世数浸遠を以て、僖祖を夾室に遷すことを請うた。後に王安石等が奏し、僖祖は廟有り、稷・契と異なること無しとて、その旧に復することを請うた。時の宰相趙汝愚は雅より僖祖を復祀することを然しとせず、侍従多くその説に従う。吏部尚書鄭僑は暫く宣祖を祧し孝宗を祔せんと欲す。熹は以為く、「夾室に蔵するは、則ち祖宗の主を以て子孫の夾室に下蔵するが如し……神宗が復た始祖として奉じたことは、既に礼の正を得て、人心に合するものであり、所謂挙ぐる有りて敢えて廃する莫き者では無いか」。また『廟制』を擬して弁じ、物に本無くして生ずるもの有らんやと為す。廟堂は聞かず、即ち僖・宣の廟室を毀撤し、別廟を更に創って四祖を奉った。

初め、寧宗の立つに当たり、韓侂冑は自ら定策の功有りと謂い、中に居て用事した。熹はその政を害することを憂え、数たび以て言い、且つ吏部侍郎彭亀年と共にこれを論ずることを約した。会うに亀年が出て使客を護送するに及び、熹は乃ち上疏して左右の窃柄の失を斥言し、講筵に在りてまたこれを申し言うた。御批に云う、「卿の耆艾を憫れみ、恐らく立講に難しからん、已に卿に宮観を除す。」汝愚は御筆を袖にして還り上へし、且つ諫め且つ拝す。内侍王徳謙は径に御筆を熹に付す。台諫争って留むるも、不可。楼鑰・陳傅良は旋って録黄を封還し、修注官劉光祖・鄧馹は封章を交えて上る。熹が行くに当たり、命を被り宝文閣待制を除し、州郡の差遣を与うるも、辞す。尋いで江陵府知事を除すも、辞し、仍って新旧の職名を追還することを乞う。詔して旧の如く煥章閣待制とし、南京鴻慶宮を提挙せしむ。慶元元年の初め、趙汝愚既に相となり、四方の知名の士を収召し、中外治を望んで領きを引くも、熹独り惕然として侂冑の用事するを慮りとす。既に屡々上に言い、また数たび手書を以て汝愚を啓し、厚賞を以てその労に酬い、朝政に預からせざるべく、「微を防ぎ漸を杜ぎ、謹んで忽にす可からず」の語有り。汝愚は方にその制し易きを謂い、意とせず。これに及んで、汝愚もまた誣を以て逐われ、朝廷の大権悉く侂冑に帰す。

熹は始め廟議を以て自ら劾し、許されず、疾を以て再び休致を乞う。詔して「職を辞し事を謝するは、朕の賢を優する意に非ず、旧の如く秘閣修撰とす。」二年、沈継祖が監察御史となり、熹に十罪を誣う。詔して職を落とし祠を罷め、門人蔡元定もまた道州に送り編管す。四年、熹は年近く七十を以て、致仕を申し乞う。五年、請うるところに依る。明年卒す、年七十一。疾い且つ革まり、手書してその子の在及び門人の范念徳・黄榦に属し、拳拳として勉学及び遺書を修正することを言う。翌日、正坐して衣冠を整え、枕に就いて逝く。

熹が第に登ること五十年、外に仕えること僅かに九考、立朝すること才四十日。家は故より貧しく、少くして父の友劉子羽に依り、建州の崇安に寓し、後に建陽の考亭に徙る。簞瓢屡々空しきも、晏如たり。諸生の遠方より至る者は、豆飯藜羹、率ね之と共にす。往々人に貸して以て用を給すれども、その道義に非ざれば則ち一介も取らざりき。

朱熹が去朝してより、韓侂冑の勢いはますます張った。何澹が中司となると、まず「專門之學」を論じ、文飾して名を沽り、真偽を弁ずることを乞うた。劉德秀は長沙に仕えた時、張栻の徒に礼遇されず、諫官となると、まず留正が偽学を引き入れた罪を論じた。「偽学」の称は、ここに始まる。太常少卿胡紘が言うには、「近年偽学が猖獗し、不軌を図る。大臣に宣諭し、進擬を権(暫)く止められんことを望む」と。そこで陳賈を召して兵部侍郎とした。間もなく、朱熹に奪職の命が下った。劉三傑が前御史として朱熹・趙汝愚・劉光祖・徐誼の徒を論じ、前日の偽党が、ここに至ってまた逆党に変じたと言う。即日、三傑を右正言に除した。右諫議大夫姚愈が道学の権臣が死党を結び、神器を窺伺すると論じた。そこで直学士院高文虎に詔を草させて天下に諭し、ここに偽学を攻めることが日増しに急となり、選人余嘉至が上書して朱熹を斬ることを乞うた。

この時、士で規矩に従い、少しでも儒を名乗る者は、身を容れる所がなかった。従遊の士で、特立して顧みない者は、丘壑に隠れ伏し、依阿して巽懦な者は、師を改め他に名乗り、門前を通っても入らず、甚だしきは衣冠を変え、市肆に遊び戯れて、自ら党に非ざることを別たんとした。しかし朱熹は日に諸生と講学を休まず、或いは生徒を謝遣するよう勧める者があっても、笑って答えなかった。籍田令陳景思という者あり、故相陳康伯の孫で、侂冑と姻戚関係にあり、侂冑に已甚たることをなすなかれと勧めると、侂冑の心も次第に悔いを生じた。朱熹が没し、葬らんとする時、言者が謂うには、四方の偽徒が期会し、偽師の葬送に会聚する間、時人の短長を妄談し、或いは時政の得失を繆議するであろう、守臣に約束させられんことを望む、と。これに従った。

嘉泰初め、学禁は少し弛んだ。二年、詔して「朱熹は既に致仕したが、華文閣待制を除し、致仕の恩沢を与える」と。後に侂冑が死ぬと、詔して朱熹の遺表に恩沢を賜い、諡して「文」とした。まもなく中大夫を贈り、特贈して宝謨閣直学士とした。理宗宝慶三年、太師を贈り、信国公を追封し、徽国公に改めた。

初め、朱熹が少時、慨然として道を求める志があった。父朱松が病篤く、嘗て朱熹に属して言うには、「籍溪の胡原仲、白水の劉致中、屏山の劉彥沖の三人は、学に淵源あり、我が敬畏する所なり。我即ち死せば、汝往きて之に事え、而して其の言を聴くこと惟れ」と。三人とは、胡憲・劉勉之・劉子翬を謂う。故に朱熹の学は、既に経伝に博く求め、また遍く当世の有識の士と交わった。延平の李侗は老いていたが、嘗て羅従彦に学び、朱熹が同安より帰ると、数百里を遠しとせず、徒歩して往きて之に従った。

其の学を為すは、大抵理を窮めて其の知を致し、躬を反して以て其の実を践み、而して居敬を主とす。嘗て謂う、聖賢の道統の伝は方冊に散在し、聖経の旨明らかならず、而して道統の伝始めて晦し、と。ここに於て其の精力を竭くして、聖賢の経訓を研窮す。著する所の書に、『易』本義・啓蒙・『蓍卦考誤』、『詩集伝』、『大学中庸』章句・或問・『論語』・『孟子』集注・『太極図』・『通書』・『西銘解』・『楚辞』集注・弁証・『韓文考異』あり。編次する所に、『論孟集議』・『孟子指要』・『中庸輯略』・『孝経刊誤』・『小学書』・『通鑑綱目』・『宋名臣言行録』・『家礼』・『近思録』・『河南程氏遺書』・『伊洛淵源録』あり、皆世に行わる。朱熹没後、朝廷は其の『大学』・『語』・『孟』・『中庸』の訓説を学官に立てた。また『儀礼経伝通解』は未だ脱稿せず、亦た学官に在り。平生の文は凡そ百巻、生徒問答は凡そ八十巻、別録十巻。

理宗紹定末、秘書郎李心伝が司馬光・周敦頤・邵雍・張載・程顥・程頤・朱熹の七人を従祀に列することを乞うたが、報いられず。淳祐元年正月、上(理宗)が視学し、手詔して周・張・二程及び朱熹を孔子廟に従祀させた。

黄榦が曰く、「道の正統は人を待って後に伝わる。周以来、道を伝える責を任ずる者は数人に過ぎず、而して斯の道を章章較著ならしめ得る者は、一二人に止まる。孔子より後、曾子・子思其の微を継ぎ、孟子に至りて始めて著し。孟子より後、周・程・張子其の絶を継ぎ、朱熹に至りて始めて著し」と。識者は以て知言と為す。

朱熹の子:朱在、紹定中に吏部侍郎と為る。

張栻

張栻、字は敬夫、丞相張浚の子なり。穎悟夙成、浚之を愛し、幼より学ばしむる所は、仁義忠孝の実に非ざるは無し。長じて胡宏に師事す。宏一見して、即ち孔門の仁を論ずる親切の旨を以て之に告ぐ。栻退いて思うこと、得る所あるが若し。宏之を称して曰く、「聖門に人あり」と。栻益々自ら奮厲し、古の聖賢を以て自ら期し、『希顔録』を作る。

蔭により官に補せられ、宣撫司都督府書写機宜文字に辟せられ、直秘閣を除す。時に孝宗新たに即位し、浚は謫籍より起き、開府して戎を治め、参佐は皆一時の選を極む。栻は時に少年ながら、内に密謀を賛し、外に庶務に参じ、其の綜画する所、幕府の諸人皆自ら及ばずと為す。間(時折)軍事を以て入奏し、因りて進言して曰く、「陛下は上に宗社の讐恥を念い、下に中原の塗炭を閔み、中に惕然として、振う有るを思う。臣謂う、此の心の発するは、即ち天理の存する所なり。願わくは益々省察を加え、古を稽(考)え賢に親しみ以て自ら輔け、其の少しく息むこと有らしむる無かれ。然らば今日の功は必ず成るべく、而して因循の弊は革むべし」と。孝宗其の言を異とし、ここに於て遂に君臣の契を定む。

張浚が去位し、湯思退が用事すると、遂に兵を罷めて和を講ず。金人は間(隙)に乗じて兵を縦(放)ち淮甸に入り、中外大いに震動す。廟堂は猶和議を主とし、諸将に勅して兵を輒(軽々)に称する無からしむるに至る。時に浚は既に没し、栻は葬りを営み甫(始)めて畢り、即ち疏を拝して言う、「吾と金人とは不倶戴天の讐あり。異時朝廷は嘗て縞素の師を興すも、然るに旋(間も無)く玉帛の使を遣わす。是れ以て講和の念胸中に未だ忘れず、而して至忱惻怛の心天人の際に感格する無きなり。此れ事屡しばしば敗れて功成らざる所以なり。今雖た重ねて群邪に誤らせられ、国をせばめて寇を召すも、然れども亦た安んぞ天の是れを以て聖心を開かんと欲するに非ざるを知らんや。謂う宜しく此の理を深く察し、吾が胸中了然として纖芥の惑無からしめ、然る後に中外に明詔し、公に賞罰を行い、以て軍民の憤りを快くすべし。然らば人心悦び、士気充ち、而して敵は卻(退)け難からず。今より以往を継ぎ、益々此の志を堅くし、誓って和を言わず、専ら自強を務め、折れどもたわまず、此の心を純一ならしめ、上下に貫徹せしむれば、歳月を遅らすと雖も、亦た何の功か済(成)さざらん」と。疏入るも、報いられず。

長く時が過ぎ、劉珙が上に推薦し、撫州知州に任ぜられたが、赴任せず、厳州に改められた。時に宰相虞允文は恢復を自ら任じていたが、その求める方法はおよそ正道ではなく、張栻の平素の議論は己と合うであろうと考え、たびたび人を遣わして懇ろに伝えたが、栻は答えなかった。入朝して奏上し、まず言うには、「先王が事を建て功を立てて志のごとくならざるものがないのは、その胸中の誠が天人の心を感格するに足り、それと隔てがないからである。今、計画は労多くとも事功は立たず、陛下は誠に日用の間、念慮云為の際を深く察せられ、私意の発動して我が誠を害するものがあるか。あればこれを克ち去り、我が中を洞然として間雑するものなくせば、義を見るに必ず精しく、義を守るに必ず固く、天人の応は求めずして得られるであろう。中原の地を復せんと欲すれば、まず中原の心を得るあり、中原の心を得んと欲すれば、まず我が民の心を得るあり。我が民の心を得る所以を求めるに、他にあろうか。その力を尽くさず、その財を傷つけざるのみである。今日の事は、固に大義を明らかにし人心を正すを本とすべきである。然れどもその施すに先後あり、その緩急は詳らかにせざるべからず、務むるに名実あり、その取捨は審らかにせざるべからず、これまた明主の深く察すべきところである。」

翌年、召されて吏部侍郎と為り、兼ねて権起居郎侍立官を務めた。時に宰相は敵の勢い衰弱すと謂い図るべきとし、汎使を遣わして陵寢の故を責めんと建議し、士大夫に備えなくして兵を召すを憂うる者あれば、直ちに斥け去った。栻が上に謁見すると、上曰く、「卿は敵国の事を知るか。」栻対えて曰く、「知りません。」上曰く、「金国は饑饉連年、盗賊四起す。」栻曰く、「金人の事は、臣は知らざるも、境内の事は則ち知っております。」上曰く、「何ぞや。」栻曰く、「臣は切に近年諸道多く水旱あり、民の貧しき日々に甚しく、国家は兵弱く財匱え、官吏は誕謾にして倚頼に足らずと見ます。仮に彼が実に図るべきものであっても、臣は我が彼を図るに足らざるを懼れます。」上はこれに黙然として久しきあり。栻は因って奏疏を出して読みて曰く、「臣は窃かに謂う、陵寝隔絶は誠に臣子の忍びて言わざる至痛であるが、今未だ辞を奉じてこれを討つ能わず、また名を正してこれを絶つ能わず、乃ち卑祠厚礼を以て彼に求めんと欲するは、則ち大義に於いて已に未だ尽きず。而して異論の者なお憂いと為すは、則ちその浅陋畏怯、固より益々甚だしい。然れども臣窃かにその心意を揆るに、或いはまた我に必勝の形なきを見て、憂えざるを得ざる所以あるか。蓋し必勝の形は、早く正し素より定まる時に在りて、両陣決機の日に在らず。」上は竦聴して容を改めた。栻復た読みて曰く、「今日は但だ哀痛の詔を下し、復讐の義を明らかにし、金人を顕に絶ち、使を通ぜざるべし。然る後に徳を修め政を立て、賢を用い民を養い、将帥を選び甲兵を練り、内修外攘・進戦退守を通じて一事と為し、且つ必ずその実を治めて虚文と為さざれば、則ち必勝の形は隠然として見るべく、浅陋畏怯の人ありと雖も、且つ奮躍して率先を争わん。」上は歎息して褒諭し、以て前に未だこの論を聞かざりしと為した。その後、賜対に因り、前説を反復す。上益々嘉歎し、面諭して曰く、「卿を以て講官と為さん、時に晤語を得んことを冀う。」

時に史正志が発運使と為り、均輸と名づけて、実は州県の財賦を尽く奪い、遠近騷然たり。士大夫争ってその害を言い、栻も亦これを言う。上曰く、「正志は但だ諸郡より取るのみで、民より取るに非ずと謂う。」栻曰く、「今日州郡の財賦は大抵余り無く、若し取ること已まずして、経用に闕あらば、巧みに名色を為して民より取るのみです。」上は矍然として曰く、「卿の言の如くならば、是れ朕が発運使の手を借りて我が民を病ますなり。」直ちにその実を閲し、果たして栻の言の如し。即ち詔してこれを罷めしむ。

兼侍講と為り、左司員外郎に除せらる。『詩経・葛覃』を講じ、進説して曰く、「治は敬畏より生じ、乱は驕淫より起こる。国を為す者に毎に稼穡の労を念わしめ、その后妃に織絍の事を忘れざらしめば、則ち心の存せざる者は寡し。」因りて上に祖宗の家より国を刑するの懿を陳べ、下に今日の利を興し民を擾すの害を斥く。上歎息して曰く、「これ王安石の所謂『人言は恤うに足らず』と謂うもの、誤国の所以なり。」

知閤門事張説が簽書樞密院事に除せらる。栻は夜に疏を草してその不可を極諫し、朝に朝堂に詣り、宰相虞允文を質責して曰く、「宦官の執政は、蔡京・王黼より始まり、近習の執政は、相公より始まる。」允文は慚憤堪えず。栻復た奏す、「文武は誠に偏すべからず、然れども今武を右にして二柄を均せんと欲するに、用いる所乃ちかくの如きの人を得るは、惟に文吏の心を服せしむるに足らざるのみならず、正に武臣の怒りを反って激すを恐る。」孝宗感悟し、命じて中寝せしむ。然れども宰相は実に陰に説に附す。明年、栻を出して袁州知州と為し、前命を申し説く。中外諠譁す。説は竟に謫死す。

栻は朝に在ること未だ期歳ならずして、召対は六七に至り、言う所は大抵皆修身務学、天を畏れ民を恤み、僥倖を抑え、讒諛を屏ぐ。ここにおいて宰相は益々これを憚り、近習は特に悦ばず。退きて家に居ること累年、孝宗これを念い、詔して旧職を除し、静江府知府、広南西路経略安撫使と為す。所部は荒残多く盗賊あり。栻至り、州兵を簡び、冗を汰ぎ闕を補い、諸州のげい卒の伉健なる者を籍して效用と為し、日習月按し、保伍法を申厳す。溪峒の酋豪に諭して怨みを弭ぎ鄰と睦み、相殺掠すること無からしむ。ここにおいて群蛮帖服す。朝廷は横山に馬を買うこと歳久しく弊滋し、辺氓病を告ぐるも、馬は時に至らず。栻はその利病六十余条を究め、奏してこれを革む。諸蛮感悦し、争って善馬を以て至る。

孝宗は栻の治行を聞き、詔して特進秩し、直宝文閣と為し、因って任に留まらしむ。尋いで秘閣修撰・荊湖北路転運副使に除せらる。江陵府知府に改め、本路安撫使を兼ねる。一日に貪吏十四人を去る。湖北は盗賊多く、府県は往々にして縦釈して良民を病ます。栻はまず大吏の賊を縦する者を劾し、姦民の賊を舎する者を捕斬し、その党に相捕告して罪を除くことを得せしむ。群盗皆遁去す。郡は辺屯に瀕し、主将と帥守は毎に相下らず。栻は礼を以て諸将に遇し、その歓心を得、又た士伍を恤い、忠義を以て勉め、隊長功有れば輒ち官を補す。士皆感奮す。並びに淮の奸民塞を出でて盗と為る者、数人を捕得す。北方の亡奴も亦盗中に在り。栻曰く、「朝廷未だ名を正して敵を討たず、疆場の事その曲我に在ること無からしむべし。」命じてこれを斬りて境に徇せしめ、その亡奴を縛して帰す。北人歎息して曰く、「南朝に人あり。」

信陽守劉大辨は勢いを怙り賞を希い、広く流民を招き、見戸の熟田を奪いてこれに与う。栻は大辨の詐諼を劾し、招く所の流民百に満たざるに、虚しくその数を十倍に増す。請うてその罪を論ずるも、報いず。章累上す。大辨は他郡に易えらる。栻は自らその職を得ざるを以て去らんことを求め、詔して右文殿修撰提挙武夷山沖佑観と為す。病みて且つ死せんとするも、猶手疏して上に君子に親しみ小人を遠ざけ、信任は一己の偏を防ぎ、好悪は天下の理を公にするを勧む。天下伝誦す。栻には公輔の望あり。卒する時年四十八。孝宗これを聞き、深く嗟悼し、四方の賢士大夫往々涕を出だして相吊い、江陵・静江の民は特に哭くこと哀し。嘉定年間、諡を賜いて「宣」と曰う。淳祐初年、詔して孔子廟に従祀す。

栻は人となり表裏が透き通り、義に従うことを勇み、毫釐の滞りや吝かさもなかった。毎度進み対するに必ず自ら心に盟い、人の主意を悦ばすがために軽々しく随順することはなかった。孝宗は嘗て節を伏して義に死する臣は得難いと述べたが、栻は対えて曰く、「犯顔敢諫の中に求むべきなり。若し平時に犯顔敢諫することができずんば、他日何ぞその節を伏して義に死するを望まんや」と。孝宗はまた事を弁ずる臣は得難いと述べたが、栻は対えて曰く、「陛下は事を暁る臣を求むべきにして、事を弁ずる臣を求むべからず。若し只だ事を弁ずる臣を求むれば、則ち他日に陛下の事を敗る者は、未だ必ずしも此の人に非ざるにあらず」と。栻は自ら言う、前後奏対して上旨に忤うこと多しと雖も、而上は毎度之を念い、未だ嘗て怒りを加えざるは、所謂理を以て奪うべしと云うが如きものなり。

其の小人を遠ざくること尤も厳なり。都司たりし日、肩輿に乗じて出で、曾覿に遇う。覿は手を挙げて揖せんと欲す。栻は急ぎ其の窓櫺を掩う。覿は慚じて、手を下すを得ず。至る所の郡に、暇日諸生を召して告げ語る。民、事を以て庭に至れば、必ず事に随いて開き暁らす。条教を具えて、大抵は正しき礼俗・明らかなる倫紀を以て先とす。異端を斥け、淫祠を毀ち、而して社稷山川古先聖賢の祀りを崇め、旧典の遺す所も、亦た義を以て起すなり。

栻は道を聞くこと甚だ早し。朱熹は嘗て言う、「己が学は乃ち銖を積み寸を累ねて成る。敬夫の如きは、則ち大本に於いて卓然として先ず見有る者なり」と。著す所の『論語孟子説』『太極図説』『洙泗言仁』『諸葛忠武侯伝』『経世紀年』は、皆世に行わる。栻の言に曰く、「学は義利の弁に先んずるは莫し。義は、本心の為すべき所にして、為して為す有るに非ざるなり。為して為す有れば、則ち皆人欲にして、天理に非ざるなり」と。此れ栻の講学の要なり。子に焯有り。