宋史

列傳第一百八十七 道學二 程氏門人 劉絢 李籲 謝良佐 游酢 張繹 蘇昞 尹焞 楊時 羅從彦 李侗

列傳第一百八十七 道學二 程氏門人 劉絢 李籲 謝良佐 游酢 張繹 蘇昞 尹焞 楊時 羅從彦 李侗

劉絢

原文劉絢

劉絢、字は質夫、常山の人なり。蔭によりて寿安主簿・長子県令となり、公家の逋賦を督むるに、鞭撲を仮らずして集む。歳大旱し、府吏を遣わして傷所を視しめ、財を什二蠲かんとす。絢力爭して得ず、其の楬を封じて還し、之を易ふるを請ふ。富弼歎じて曰く、「真の縣令なり」と。元祐初、韓維其の経明行修なるを薦し、京兆府教授と為る。王巖叟・朱光庭又た太学博士に薦す。官に卒す。絢力學して倦まず、最も『春秋』に明るし。程顥每人に為に言ふ、「他人の學は、敏なるは則ち有れども、未だ保ち易からず。若し絢の如きは、吾疑ふこと無し」と。

原文劉絢字質夫,常山人。以蔭為壽安主簿、長子令,督公家逋賦,不假鞭撲而集。歲大旱,府遣吏視傷所,蠲財什二,絢力爭不得,封還其楬,請易之。富弼歎曰:「真縣令也。」元祐初,韓維薦其經明行修,為京兆府教授。王巖叟、朱光庭又薦為太學博士,卒於官。絢力學不倦,最明於《春秋》。程顥每為人言:「他人之學,敏則有矣,未易保也,若絢者,吾無疑焉。」

李吁

原文李吁

李吁、字は端伯、洛陽らくようの人なり。進士第に登る。元祐中秘書省校書郎と為り、卒す。程頤其の才器以て大受すべきを謂ひ、及び亡ぶや、文を以て之を祭りて曰く、「自ら予兄弟道學を倡明し、能く學者をして視仿して信從せしむるは、吁と劉絢と有り」と。

原文李吁字端伯,洛陽人。登進士第。元祐中為秘書省校書郎,卒。程頤謂其才器可以大受,及亡也,祭之以文曰:「自予兄弟倡明道學,能使學者視仿而信從者,吁與劉絢有焉。」

謝良佐

原文謝良佐

謝良佐、字は顯道、壽春上蔡の人なり。游酢・呂大臨・楊時と程門に在り、「四先生」と號す。進士第に登る。建中靖國初、京師に官し、召對して、旨に忤ひて去る。西京竹木場を監し、口語に坐して詔獄に繫がれ、廢せられて民と為る。良佐記問該贍にして、人に對して前史を稱引すること、一字を差へざるに至る。事未だ徹せざる有れば、則ち顙に泚有り。程頤と別ること一年、復た來り見え、其の進む所を問ふに、曰く、「但だ一『矜』の字を去るのみ」と。頤喜び、朱光庭に謂ひて曰く、「是の子力學し、切問にして近思する者なり」と。著す所の『論語説』世に行はる。

原文謝良佐字顯道,壽春上蔡人。與游酢、呂大臨、楊時在程門,號「四先生」。登進士第。建中靖國初,官京師,召對,忤旨去。監西京竹木場,坐口語系詔獄,廢為民。良佐記問該贍,對人稱引前史,至不差一字。事有未徹,則顙有泚。與程頤別一年,復來見,問其所進,曰:「但去得一『矜』字爾。」頤喜,謂朱光庭曰:「是子力學,切問而近思者也。」所著《論語說》行於世。

游酢

原文游酢

游酢、字は定夫、建州建陽の人なり。兄醇と文行を以て知名れ、交はる所皆天下の士なり。程頤之を京師に見て、其の資道に進むべきを謂ふ。程顥扶溝に學を興し、招きて業を肄せしめ、其の學を盡く棄てて焉に學ばしむ。進士に第し、蕭山尉に調す。近臣其の賢を薦し、召されて太學録と為る。博士に遷り、親を奉ずるに便ならざるを以て、河清縣を知ることを求む。范純仁穎昌府を守り、府教授を辟く。純仁相に入り、復た博士と為る。齊州・泉州判官に簽書す。晚く監察御史を得、歷て漢陽軍・和舒濠三州を知りて卒す。

原文游酢字定夫,建州建陽人。與兄醇以文行知名,所交皆天下士。程頤見之京師,謂其資可以進道。程顥興扶溝學,招使肄業,盡棄其學而學焉。第進士,調蕭山尉。近臣薦其賢,召為太學錄。遷博士,以奉親不便,求知河清縣。范純仁守穎昌府,辟府教授。純仁入相,復為博士。簽書齊州、泉州判官。晚得監察御史,歷知漢陽軍、和舒濠三州而卒。

張繹

原文張繹

張繹、字は思叔、河南壽安の人なり。家甚だ微なり。年長じて學を知らず、市に傭力す。出でて邑官の傳呼の聲を聞き、心之を慕ひ、人に問ひて曰く、「何を以てか此れを得る」と。人曰く、「此れ讀書の致す所なり」と。即ち發憤力學し、遂に文を以て名る。鄉里の計偕に預かり、科舉の習ひ為すに足らざるを謂ひ、嘗て僧捨に游び、僧道楷を見て、將に髮を祝して之に從はんとす。時に周行己河南に官し、之を警めて曰く、「何為れぞ聖人の學を捨てて佛を學ぶ。異日程先生歸らば、師とす可し」と。會す程頤涪より還るに、乃ち往きて業を受く。頤其の穎悟を賞す。『孟子』「志士溝壑に在るを忘れず、勇士元を喪ふを忘れず」を讀み、慨然として若し得る有り。未だ仕へに及ばずして卒す。頤嘗て言ふ「吾晚く二士を得たり」と、繹と尹焞とを謂ふなり。

原文張繹字思叔,河南壽安人。家甚微,年長未知學,傭力於市,出聞邑官傳呼聲,心慕之,問人曰:「何以得此?」人曰:「此讀書所致爾。」即發憤力學,遂以文名。預鄉里計偕,謂科舉之習不足為,嘗游僧捨,見僧道楷,將祝髮從之。時周行己官河南,警之曰:「何為捨聖人之學而學佛?異日程先生歸,可師也。」會程頤還自涪,乃往受業,頤賞其穎悟。讀《孟子》「志士不忘在溝壑,勇士不忘喪其元」,慨然若有得。未及仕而卒。頤嘗言「吾晚得二士」,謂繹與尹焞也。

蘇昺

原文蘇昺

蘇昺、字は季明、武功の人なり。始め張載に學び、而して二程に事へて卒業す。元祐末、呂大中之を薦し、布衣より起きて太常博士と為る。元符上書に坐して邪籍に入り、饒州に編管され、卒す。

原文蘇昺字季明,武功人。始學於張載,而事二程卒業。元祐末,呂大中薦之,起布衣為太常博士。坐元符上書入邪籍,編管饒州,卒。

尹焞

原文尹焞

尹焞、字は彥明、また一字を德充とし、代々洛の人である。曾祖父の仲宣に七子あり、そのうち二子が名を知られた。長子の源は字を子漸とし、これを河內先生と謂い、次子の洙は字を師魯とし、これを河南先生と謂う。源は林を生み、官は虞部員外郎に至る。林は焞を生む。

原文尹焞字彥明,一字德充,世為洛人。曾祖仲宣七子,而二子有名:長子源字子漸,是謂河內先生;次子洙字師魯,是謂河南先生。源生林,官至虞部員外郎。林生焞。

若くして程頤に師事し、嘗て科挙に応じた際、策問に元祐の諸臣を誅する議があり、焞は曰く「ああ、尚お禄を求めることができようか」と。答えずして退出し、程頤に告げて曰く「焞は再び進士挙に応じません」と。頤は曰く「汝には母あり」と。焞は帰ってその母の陳氏に告げると、母は曰く「我は汝が善をもって養うを知り、禄をもって養うを知らぬ」と。頤これを聞きて曰く「賢なるかな母よ」と。ここにおいて終身挙に就かず。焞の師に従うこと、河南の張繹と同時なり、繹は高識をもってし、焞は篤行をもってす。頤の没後、焞は洛中に聚り、弔喪問疾以外は戸を出ず、士大夫これを宗仰す。

原文少師事程頤,嘗應舉,發策有誅元祐諸臣議,焞曰:「噫,尚可以干祿乎哉!」不對而出,告頤曰:「焞不復應進士舉矣。」頤曰:「子有母在。」焞歸告其母陳,母曰:「吾知汝以善養,不知汝以祿養。」頤聞之曰:「賢哉母也!」於是終身不就舉。焞之從師,與河南張繹同時,繹以高識,焞以篤行。頤既沒,焞聚從洛中,非弔喪問疾不出戸,士大夫宗仰之。

靖康の初め、种師道が焞の德行を薦めて勸講に備えうるとし、召されて京師に至るも留まらんとせず、和靖處士の号を賜う。戸部尚書梅執禮、御史中丞呂好問、戸部侍郎邵溥、中書舍人胡安国が合奏して言う「河南の布衣尹焞は学は根本を窮め、德は中和を備え、言動は師法とすべく、器識は大任に堪え、近世招延の士でその右に出る者なし。朝廷特に召すに、而るに處士を命じて帰らしめ、焞をして国器を韜藏せしめ、時に用いられざるは、陛下の側席して賢を求むる意に副わず。望むらくは特に識擢を加え、以て士大夫の望みを慰めん」と。報いず。

原文靖康初,种師道薦焞德行可備勸講,召至京師,不欲留,賜號和靖處士。戸部尚書梅執禮、御史中丞呂好問、戸部侍郎邵溥、中書舍人胡安國合奏:「河南布衣尹焞學窮根本,德備中和,言動可以師法,器識可以任大,近世招延之士無出其右者。朝廷特召,而命處士以歸,使焞韜藏國器,不為時用,未副陛下側席求賢之意。望特加識擢,以慰士大夫之望。」不報。

翌年、金人洛を陥とし、焞は闔門被害を受け、焞は死して復甦す。門人、舁いて山谷中に置きて免る。劉豫よ、偽帥の趙斌に命じて礼を以て焞を聘わしめ、従わざれば兵を以てこれを恐る。焞は商州より蜀しょくに奔り、閬に至り、程頤の『易傳』十卦をその門人呂稽中に得、また全本をその婿の邢純に得て、拝してこれを受く。紹興四年、涪に止まる。涪は、頤が『易』を読んだ地なり、三畏齋を辟きて居とし、邦人その面を識らず。侍読の范沖が焞を挙げて自ら代わらしめ、左宣教郎を授け、崇政殿説書を充てんとすれど、疾を以て辞す。范沖が奏して五百金を行資に給し、漕臣を遣わして詔を奉じ涪に至り親しく遣わす。六年、始めて道に就き、文を作りて頤を祭りて後に行く。

原文次年,金人陷洛,焞闔門被害,焞死復甦,門人舁置山谷中而免。劉豫命偽帥趙斌以禮聘焞,不從則以兵恐之。焞自商州奔蜀,至閬,得程頤《易傳》十卦於其門人呂稽中,又得全本於其婿邢純,拜而受之。紹興四年,止於涪。涪,頤讀《易》地也,辟三畏齋以居,邦人不識其面。侍讀范沖舉焞自代,授左宣教郎,充崇政殿說書,以疾辭。范沖奏給五百金為行資,遣漕臣奉詔至涪親遣。六年,始就道,作文祭頤而後行。

これに先立ち、崇寧以来、元祐の学術を禁錮す。高宗の江を渡りて後、始めて楊時を召して従班に置き、胡安国を召して給捨に居らしめ、范沖・朱震ともに講席に在り、焞を薦むること甚だ力めり。既に召されたるに、左司諫の公輔が上疏して程氏の学を攻撃し、加えて屏絶を乞う。

原文先是,崇寧以來,禁錮元祐學術,高宗渡江,始召楊時置從班,召胡安國居給捨,范沖、朱震俱在講席,薦焞甚力。既召,而左司諫公輔上疏攻程氏之學,乞加屏絶。

焞、九江に至り、上奏して曰く「臣僚上言す、程頤の学は天下を惑乱すと。焞は実に頤に師事すること垂二十年、学ぶこと既に専らにし、自ら信ずること甚だ篤し。焞をして経筵に濫列せしめば、その敷繹する所は、師より聞く所に過ぎず。その学ぶ所を捨つるは是れ君父を欺くことなり、これに疾病衰耗を加え、支持すべからず」と。遂に留まりて進まず。胡安国は祠を奉じて衡陽に居り、上書して言う「学者をして中庸を蹈ませ、孔・孟に師せしめんと欲して、而して程頤の学に従うことを禁ずるは、是れ室に入りて戸より由らざるなり」と。

原文焞至九江,上奏曰:「臣僚上言,程頤之學惑亂天下。焞實師頤垂二十年,學之既專,自信甚篤。使焞濫列經筵,其所敷繹,不過聞於師者。捨其所學,是欺君父,加以疾病衰耗,不能支持。」遂留不進。胡安國奉祠居衡陽,上書言:「欲使學者蹈中庸,師孔、孟,而禁不從程頤之學,是入室而不由戸。」

朱震は疾を引き告げて去らんとす。時に趙鼎は位を去り、張浚独り相たり。ここにおいて安国を召し、内祠を以て侍読を兼ねしめ、而上章して焞を薦め、その劉豫を拒ぎし節を言い、且つその学ぶ所養う所に大いに人に過ぐる者あるを謂い、江州守臣に令して疾速に津送して国門に至らしむるを乞う。復た疾を以て辞す。上曰く「焞は恬退と謂うべし」と。秘書郎を以て説書を兼ねることを詔し、趣してこれを起たしむ。焞始めて入見し職に就く。八年、秘書少監を除す。未だ幾もなく、力辞して去らんことを求む。上、参知政事劉大中に語りて曰く「焞は未だその学の淵源を論ぜずとも、後進の矜式と為るに足り、班列に老成人を得るも亦た朝廷の気象なり」と。乃ち焞を以て直徽猷閣とし、万寿観を主管せしめ、留めて経筵に侍せしむ。資善堂翊善の朱震、疾篤く、焞を挙げて自ら代わらしむ。輔臣入奏す。上惨然として曰く「楊時は物故し、胡安国と震また亡ぶ、朕これを痛惜す」と。趙鼎曰く「尹焞は学問淵源、震に継ぐべし」と。上、奏牘を指して曰く「震も亦た焞を薦めて資善の職に代わらしむ。但だ焞は微かに聵く、児童を教うるに力を費やすを恐るる爾」と。太常少卿を除し、仍って説書を兼ぬ。未だ幾もなく、疾を称して告に在り、権礼部侍郎兼侍講を除す。

原文朱震引疾告去,時趙鼎去位,張浚獨相,於是召安國,俾以內祠兼侍讀,而上章薦焞,言其拒劉豫之節,且謂其所學所養有大過人者,乞令江州守臣疾速津送至國門。復以疾辭,上曰:「焞可謂恬退矣。」詔以秘書郎兼說書,趣起之,焞始入見就職。八年,除秘書少監,未幾,力辭求去。上語參知政事劉大中曰:「焞未論所學淵源,足為後進矜式,班列得老成人,亦是朝廷氣象。」乃以焞直徽猷閣,主管萬壽觀,留侍經筵。資善堂翊善朱震疾亟,薦焞自代。輔臣入奏,上慘然曰:「楊時物故,胡安國與震又亡,朕痛惜之。」趙鼎曰:「尹焞學問淵源,可以繼震。」上指奏牘曰:「震亦薦焞代資善之職,但焞微聵,恐教兒費力爾。」除太常少卿,仍兼說書。未幾,稱疾在告,除權禮部侍郎兼侍講。

時に金人、張通古・蕭哲を遣わして和を議す。焞上疏して曰く、

原文時金人遣張通古、蕭哲來議和,焞上疏曰:

臣伏して見るに、本朝に遼・金の禍あり、亘古未だ聞かず。中国に人無くして、その猾乱を致す。昨者の城下の戦、詭詐百出し、二帝北狩し、皇族播遷し、宗社の危うき、已に絶えて続く。陛下即位以来十二年、雖も中原未だ復せず、仇敵未だ殄からず、然れども祖宗の德澤の厚きに頼り、陛下の勤撫の至れるに由り、億兆の心離異する無し。前年、徽宗皇帝・寧德皇后の崩問遽しく来たり、不豫の状を究めず、天下の人痛心疾首す。而るに陛下方に意を屈し志を降して、梓宮を迎奉し、諱日を問うを事と為す。今又た此の議を為せば、則ち人心日去り、祖宗積累の業、陛下十二年勤撫の功、当に此に於いて決すべし。識らずや、陛下亦た嘗て深謀し熟慮したるか、抑も廷の臣以て告げざるか。

原文臣伏見本朝有遼、金之禍,亙古未聞,中國無人,致其猾亂。昨者城下之戰,詭詐百出,二帝北狩,皇族播遷,宗社之危,已絶而續。陛下即位以來十有二年,雖中原未復,仇敵未殄,然而賴祖宗德澤之厚,陛下勤撫之至,億兆之心無有離異。前年徽宗皇帝、寧德皇后崩問遽來,莫究不豫之狀,天下之人痛心疾首,而陛下方且屈意降志,以迎奉梓宮、請問諱日為事。今又為此議,則人心日去,祖宗積累之業,陛下十二年勤撫之功,當決於此矣。不識陛下亦嘗深謀而熟慮乎,抑在廷之臣不以告也?

『礼』に曰く「父母の仇は天を同じくして戴かず、兄弟の仇は兵を反さず」と。今、陛下仇敵の譎詐を信じ、而してその肯んで和するを覬い以て目前の急を紡がんとす。豈に天を同じくして戴かず、兵を反さざるの義を失わざらんや。又況んや使人の来るや、詔諭を以て名と為し、割地を以て要と為す。今、天を同じくして戴かざるの仇とこれを和す。臣切に陛下の為にこれを痛惜す。或いは金国内乱し、我が己を襲うを懼れて、故に甘言を為して王師を緩めんとするか。倘や果然ならば、尤も士卒の心を鼓し、社稷の恥を雪ぐべし。尚お何をか和を務と為さん。

原文《禮》曰:「父母之仇不共戴天,兄弟之仇不反兵。」今陛下信仇敵之譎詐,而覬其肯和以紓目前之急,豈不失不共戴天、不反兵之義乎?又況使人之來,以詔諭為名,以割地為要,今以不戴天之仇與之和,臣切為陛下痛惜之。或以金國內亂,懼我襲己,故為甘言以緩王師。倘或果然,尤當鼓士卒之心,雪社稷之恥,尚何和之為務?

又た秦檜に書を移して言う、

原文又移書秦檜言:

今、北使廷に在り、天下憂憤す。若し和議一成すれば、彼は日増しに強く、我は日増しに怠り、侵尋朘削して、天下に髪を被り衽を左にするの憂い有らん。比者、窃かに聞く、主上は父兄未だ返らざるを以て、志を降し身を辱めて九重の中に年有りと。然れども亦た是より未だ金人の悔過し、二帝を沙漠より還すを聞かず。継いで梓宮の崩問詳らかならず、天下の人痛恨切骨す。金人の狼虎貪噬ぜいの性は、言わずして見るべし。天下将に此を以て相公に望み、其の已に然るを革する有らんことを覬う。豈意図せんや、之を為すこと已に甚だしきを。

原文今北使在廷,天下憂憤,若和議一成,彼日益強,我日益怠,侵尋朘削,天下有被發左衽之憂。比者,竊聞主上以父兄未返,降志辱身於九重之中有年矣,然亦自是未聞金人悔過,還二帝於沙漠。繼之梓宮崩問不詳,天下之人痛恨切骨,金人狼虎貪噬之性,不言可見。天下方將以此望於相公,覬有以革其已然,豈意為之已。甚乎。

今の上策は、自治に如くは莫し。自治の要は、内には則ち君子を進めて小人を遠ざけ、外には則ち功に当たるを賞し罪に当たるを罰し、主上の孝弟を神明に通ぜしめ、道德を安強に成らしめ、小智孑義を以て大功を図ること勿からしむるに在り。幸甚に勝えず。

原文今之上策,莫如自治。自治之要,內則進君子而遠小人,外則賞當功而罰當罪,使主上孝弟通於神明,道德成於安強,勿以小智孑義而圖大功,不勝幸甚。

疏及び書、皆報いず。ここにおいて焞固く新命を辞す。

原文疏及書皆不報,於是焞固辭新命。

九年、徽猷閣待制を以て万寿観を提挙し侍講を兼ぬ。又た辞し、且つ奏して言う、

原文九年,以徽猷閣待制提舉萬壽觀兼侍講,又辭,且奏言:

臣の職は講学を勧めるに在りて、発明する所蔑く、期月の間に、病告相継ぎ、坐して厚禄を窃にし、聖聡を補うこと無し。先聖に言有り、『力を陳べて列に就き、能わざる者は止む』と。此れ去るべき者一なり。臣は草茅より起り、誤って召用に膺り、道を守るの語、訓詞に形す。然るに臣は寵栄を貪恋し、遂に素守を移し、朝廷の非常不次の挙をして、利を懐いて苟得の人を得しむ。此れ去るべき者二なり。比に嘗て分守を量らず、国事に言及し、識見迂陋、已に今に験せられ、其の庸愚を跡すれば、豈に時用に堪えんや。此れ去るべき者三なり。臣は春官を擢げられしより、未だ嘗て供職せず、疾を以て去らんことを乞うて、更に超遷を獲たり。何の功労か有って、以て祗受すべき。此れ去るべき者四なり。国朝の典法、之を礼経に揆うれば、年七十に至れば、皆当に致仕すべし。今臣の年歯已に及び、疾病を加うれば、血気既に衰え、戒むるは得に在り。此れ去るべき者五なり。臣聞く、聖君には従欲の仁有り、匹夫には奪うべからざる志有りと。今臣に五の去るべきの義有りて、一も留まるべきの理無し。累奏を検会し、田裡に放帰せんことを乞う。

原文臣職在勸講,蔑有發明,期月之間,病告相繼,坐竊厚祿,無補聖聰。先聖有言:「陳力就列,不能者止。」此當去者一也。臣起自草茅,誤膺召用,守道之語,形於訓詞,而臣貪戀寵榮,遂移素守,使朝廷非常不次之舉,獲懷利苟得之人。此當去者二也。比嘗不量分守,言及國事,識見迂陋,已驗於今,跡其庸愚,豈堪時用。此當去者三也。臣自擢春官,未嘗供職,以疾乞去,更獲超遷,有何功勞,得以祗受。此當去者四也。國朝典法,揆之禮經,年至七十,皆當致仕。今臣年齒已及,加以疾病,血氣既衰,戒之在得。此當去者五也。臣聞聖君有從欲之仁,匹夫有莫奪之志,今臣有五當去之義,無一可留之理,乞檢會累奏,放歸田裡。

疏上る。以て焞を江州太平観の提挙と為す。年を引いて老を告げ、一官を転じて致仕す。

原文疏上,以焞提舉江州太平觀。引年告老,轉一官致仕。

焞は経筵に入るより、即ち休致を乞う。朝廷は礼を以て之を留む。浚・鼎既に去り、秦檜国に当たり、焞の議和の疏及び檜に与うる書を見て已に楽しまず、是に至り、去らんことを求むるの疏を得て、遂に復た留めず。十二年、卒す。

原文焞自入經筵,即乞休致,朝廷以禮留之;浚、鼎既去,秦檜當國,見焞議和疏及與檜書已不樂,至是,得求去之疏,遂不復留。十二年,卒。

是の時に当たり、程頤の門に学ぶ者は固より君子多し。然れども質直弘毅、実体力行を求めて焞の若き者は蓋し鮮し。頤嘗て『魯』を以て之を許し、且つ曰く、『我死して、其の正を失わざる者は尹氏の子なり』と。其の言行は『涪陵記善録』に見る所詳なり。『論語解』及び『門人問答』有りて世に伝わる。

原文當是時,學於程頤之門者固多君子,然求質直弘毅、實體力行若焞者蓋鮮。頤嘗以「魯」許之,且曰:「我死,而不失其正者尹氏子也。」其言行見於《涪陵記善錄》為詳,有《論語解》及《門人問答》傳於世。

楊時

原文楊時

楊時、字は中立、南剣将楽の人なり。幼くして穎異、文を属する能く、稍長じて経史に潜心す。熙寧九年、進士第に中る。時に河南の程顥と弟の頤と孔・孟の絶学を熙・豊の際に講じ、河・洛の士翕然として之を師とす。時は官を調うれども赴かず、師礼を以て穎昌に於いて顥に見え、相得て甚だ歓ぶ。其の帰るや、顥目を送りて之を曰く、『吾が道南せり』と。四年にして顥死す。時之を聞き、位を設けて寝門に哭し、而して書を以て同学の者に赴告す。是に至り、又た程頤に洛に於いて見ゆ。時蓋し年四十なり。一日頤に見ゆ。頤偶瞑坐す。時と游酢と侍立して去らず。頤既に覚ゆれば、則ち門外雪深さ一尺なり。関西の張載嘗て『西銘』を著す。二程深く之を推服す。時其の兼愛に近きを疑い、其の師頤と辨論往復し、理一分殊の説を聞きて始めて豁然として疑無し。

原文楊時字中立,南劍將樂人。幼穎異,能屬文,稍長,潛心經史。熙寧九年,中進士第。時河南程顥與弟頤講孔、孟絕學於熙、豐之際,河、洛之士翕然師之。時調官不赴,以師禮見顥於穎昌,相得甚歡。其歸也,顥目送之曰:「吾道南矣。」四年而顥死,時聞之,設位哭寢門,而以書赴告同學者。至是,又見程頤於洛,時蓋年四十矣。一日見頤,頤偶瞑坐,時與游酢侍立不去,頤既覺,則門外雪深一尺矣。關西張載嘗著《西銘》,二程深推服之,時疑其近於兼愛,與其師頤辨論往復,聞理一分殊之說,始豁然無疑。

門を杜み仕えざること十年。久しくして、歴て瀏陽・餘杭・蕭山の三県を知り、皆恵政有り、民之を思いて忘れず。張舜民諫垣に在り、之を薦む。荊州教授を得たり。時は州県に安んじ、未だ嘗て聞達を求めず。而して徳望日重く、四方の士千里を遠しとせず之に従いて遊び、号して龜山先生と曰う。

原文杜門不仕者十年,久之,歷知瀏陽、餘杭、蕭山三縣,皆有惠政,民思之不忘。張舜民在諫垣,薦之,得荊州教授。時安於州縣,未嘗求聞達,而德望日重,四方之士不遠千里從之遊,號曰龜山先生。

時に天下多故、蔡京に言う者有り、事此に至れば必ず敗るべしと為し、旧徳老成を引きて諸れを左右に置くべしと以為い、庶幾くは猶及ぶべしと。時宰之を是とす。会に高麗に使する者有り。国主問う、龜山安在やと。使回りて以て聞かしむ。召して秘書郎と為し、著作郎に遷す。及んで面對に及び、奏して曰く。

原文時天下多故,有言於蔡京者,以為事至此必敗,宜引舊德老成置諸左右,庶幾猶可及,時宰是之。會有使高麗者,國主問龜山安在,使回以聞。召為秘書郎,遷著作郎。及面對,奏曰:

堯・舜は『允に厥の中を執れ』と曰い、孟子は『湯中を執る』と曰い、『洪範』は『皇其の極有るを建つ』と曰う。歴世の聖人斯の道に由るなり。熙寧の初、大臣六芸の言を文にして以て其の私を行い、祖宗の法紛更殆んど尽くす。元祐之を継ぎ、尽く祖宗の旧を復し、熙寧の法一切廃革す。紹聖・崇寧に至りて抑又甚だし。凡そ元祐の政事令甲に著する者は、皆之を焚きて以て其の跡を滅す。是より二党に分かたれ、縉紳の禍今に未だ殄せず。臣願わくは明詔有司に下し、条に祖宗の法を具し、綱目として著し、今に宜しき有る者は挙げて之を行い、当に損益すべき者は之を損益し、元祐・熙・豊は姑く置きて問わず、一に中に趨くのみ。

原文堯、舜曰「允執厥中」,孟子曰「湯執中」,《洪範》曰「皇建其有極」,歷世聖人由斯道也。熙寧之初,大臣文六藝之言以行其私,祖宗之法紛更殆盡。元祐繼之,盡復祖宗之舊,熙寧之法一切廢革。至紹聖、崇寧抑又甚焉,凡元祐之政事著在令甲,皆焚之以滅其跡。自是分為二黨,縉紳之禍至今未殄。臣願明詔有司,條具祖宗之法,著為綱目,有宜於今者舉而行之,當損益者損益之,元祐、熙、豐姑置勿問,一趨於中而已。

朝廷方に燕雲を図り、内を虚しくして外に事う。時遂に時政の弊を陳べ、且つ謂う、『燕雲の師は宜しく退きて内地を守り、以て転輸の労を省き、辺民を募りて弓弩手と為し、以て常勝軍の勢を殺すべし』と。又た言う、『都城は四達の衢に居り、高山巨浸を以て阻衛と為す無く、士人異心を懐けば、緩急倚仗すべからず』と。執政用いる能わず。登対し、力を陳べて君臣警戒は正に虞無き時に在り、『宣和会計録』を為さんことを乞い、以て天下財物出入の数を周知せしむ。徽宗首肯す。

原文朝廷方圖燕雲,虛內事外,時遂陳時政之弊,且謂:「燕雲之師宜退守內地,以省轉輸之勞,募邊民為弓弩手,以殺常勝軍之勢。」又言:「都城居四達之衢,無高山巨浸以為阻衛,士人懷異心,緩急不可倚仗。」執政不能用。登對,力陳君臣警戒,正在無虞之時,乞為《宣和會計錄》,以周知天下財物出入之數。徽宗首肯之。

邇英殿説書を除く。金人の攻めに入るを聞き、執政に謂いて曰く、『今日の事勢は積薪の已に然るが如し。当に自ら奮励し、以て観聴を竦動すべし。若し怯懦の形を示し、委靡振わずんば、則ち事去らん。昔、汲黯朝に在りて、淮南謀を寝む。黯の才を論ずれば、未だ必ずしも公孫弘輩に過ぐる能わざるなり。特に其の直気は以て奸雄の心を鎮圧すべし。朝廷の威望振わず、奸雄をして一に弘輩を以て之を視しむれば、則ち復た為すべき無からん。要害の地は当に厳しく守備を為すべし。比して都城に至らば、尚何ぞ及ばんや。近辺の州軍は宜しく壁を堅くし野を清くし、之と戦わず、之をして自ら困しむべし。若し戦略の地を攻めば、当に援兵を遣わして追襲し、之をして腹背敵を受くらしめば、則ち以て勝を制すべし』と。且つ謂う、『今日の事は当に人心を収むるを以て先とすべし。人心附せずんば、高城深池・堅甲利兵有ると雖も、恃むに足らず。免夫の役は毒海内に被り、西城の聚斂、東南の花石、其の害尤だ甚だし。前に此れ蓋嘗て之を罷む。詔墨未だ乾かざるに、而して花石供奉の舟已に尾を銜む。今雖も前令を復た申すも、禍根除かずんば、人誰か之を信ぜん。人和を致さんと欲せば、此の三者を去らん。正に今日の先務なり』と。

原文除邇英殿說書。聞金人入攻,謂執政曰:「今日事勢如積薪已然,當自奮勵,以竦動觀聽。若示以怯懦之形,委靡不振,則事去矣。昔汲黯在朝,淮南寢謀。論黯之才,未必能過公孫弘輩也,特其直氣可以鎮壓奸雄之心爾。朝廷威望弗振,使奸雄一以弘輩視之,則無復可為也。要害之地,當嚴為守備,比至都城,尚何及哉?近邊州軍宜堅壁清野,勿與之戰,使之自困。若攻戰略地,當遣援兵追襲,使之腹背受敵,則可以制勝矣。」且謂:「今日之事,當以收人心為先。人心不附,雖有高城深池、堅甲利兵,不足恃也。免夫之役,毒被海內,西城聚斂,東南花石,其害尤甚。前此蓋嘗罷之,詔墨未干,而花石供奉之舟已銜尾矣。今雖復申前令,而禍根不除,人誰信之?欲致人和,去此三者,正今日之先務也。」

金人京城を囲む。勤王の兵四集すれども、相統ーする莫し。時言う、『唐の九節度の師は統帥を立たず、李・郭の善く兵を用うると雖も、猶敗衄を免れず。今諸路の烏合の衆、臣謂う、当に統帥を立て、一号令し、紀律を示し、而して後士卒始めて命を用いん』と。又た言う、『童貫は三路の大帥と為り、敵人の疆を侵すに、軍を棄てて帰り、孥戮するも余罪有り。朝廷之を置きて問わず。故に梁方平・何灌皆相継ぎて遁る。当に典刑を正し、以て臣子不忠の戒と為すべし。童貫兵を握ること二十余年、軍を覆し将を殺し、馴て今日に至る。比に聞く、防城仍て閹人を用うと。覆車の轍は復た蹈むべからず』と。疏上る。右諫議大夫兼侍講を除く。

原文金人圍京城,勤王之兵四集,而莫相統一。時言:「唐九節度之師不立統帥,雖李、郭之善用兵,猶不免敗衄。今諸路烏合之眾,臣謂當立統帥,一號令,示紀律,而後士卒始用命。」又言:「童貫為三路大帥,敵人侵疆,棄軍而歸,孥戮之有餘罪,朝廷置之不問,故梁方平、何灌皆相繼而遁。當正典刑,以為臣子不忠之戒。童貫握兵二十餘年,覆軍殺將,馴至今日,比聞防城仍用閹人,覆車之轍,不可復蹈。」疏上,除右諫議大夫兼侍講。

敵兵が初めて退いたとき、議者は三鎮を割譲して講和しようとし、楊時はその不可を極言し、曰く、「河朔は朝廷の重地であり、三鎮はまた河朔の要藩である。周の世宗より太祖・太宗に至るまで、百戦して後にこれを得た。一旦これを北庭に棄てれば、敵騎をして疾駆させ、吾が腹心を貫かしめ、数日を経ずして京城に至るべし。今、三鎮の民が死を以てこれを拒ぐと聞く。三鎮はその前を拒ぎ、吾は重兵を以てその後を躡えば、尚お為すべきなり。種師道・劉光世のごときは皆一時の名将にして、初めて至りて未だ用いられず。召して方略を問うことを乞う」と。疏が上ると、欽宗は出師を詔したが、議者の多くは両端を持し、楊時は抗疏して曰く、「金人が磁州・相州に駐屯し、大名を破り、劫掠を駆り、極まりなきを聞く。誓墨未だ乾かざるに、背いて踵を旋らさず。吾たとえ和議を専守せんと欲すとも、得べからざるなり。数千里の遠きを越え、人の国都を犯うは、危き道なり。彼は勤王の師が四面より集まるを見て、亦懼れて帰るなり。我を愛して攻めざるに非ず。朝廷が三鎮二十州の地を割きてこれに与うるは、是れ寇を助けて自ら攻むるを欲するなり。肅王が初めこれと約し、河に及んで返らんとし、今これを挟みて往くを聞く。此れ盟を敗るの大なる者なり。臣窃かに朝廷は肅王を以て問い、その敗盟を責め、必ず肅王を得て後に已むべしと謂う」と。時に太原は数ヶ月囲まれ閉ざされ、姚古は兵を擁して逗留し進まず、楊時は上疏して古を誅し以て軍政を粛正し、将と為すべき偏裨を抜擢してこれに代うることを乞うた。報いられず。

原文敵兵初退,議者欲割三鎮以講和,時極言其不可,曰:「河朔為朝廷重地,而三鎮又河朔之要藩也。自周世宗迄太祖、太宗,百戰而後得之,一旦棄之北庭,使敵騎疾驅,貫吾腹心,不數日可至京城。今聞三鎮之民以死拒之,三鎮拒其前,吾以重兵躡其後,尚可為也。若種師道、劉光世皆一時名將,始至而未用,乞召問方略。」疏上,欽宗詔出師,而議者多持兩端,時抗疏曰:「聞金人駐磁、相,破大名,劫虜驅掠,無有紀極,誓墨未干,而背不旋踵,吾雖欲專守和議,不可得也。夫越數千里之遠,犯人國都,危道也。彼見勤王之師四面而集,亦懼而歸,非愛我而不攻。朝廷割三鎮二十州之地與之,是欲助寇而自攻也。聞肅王初與之約,及河而返,今挾之以往,此敗盟之大者。臣竊謂朝廷宜以肅王為問,責其敗盟,必得肅王而後已。」時太原圍閉數月,而姚古擁兵逗留不進,時上疏乞誅古以肅軍政,拔偏裨之可將者代之。不報。

李綱が罷免されたとき、太学生が闕下に伏して上書し、綱と種師道を留めることを乞い、軍民数十万が集まった。朝廷はこれを防禁しようとした。吳敏は楊時を用いて太学を鎮めることを乞い、楊時は召対を得て言う、「諸生の闕下に伏する紛々たるは、朝廷に忠なり。他意あるに非ず。但だ老成で行誼ある者を選び、その長貳と為せば、則ち自ずから定まらん」と。欽宗曰く、「卿に逾る者なし」と。遂に楊時を以て国子祭酒を兼ねさせた。まず言う、「三省は政事の出づる所、六曹は分治し、各々司る所あり。今乃ち別に官属を辟き、新進の少年は、必ずしも六曹の長貳より賢ならず」と。又言う、

原文李綱之罷,太學生伏闕上書,乞留綱與種師道,軍民集者數十萬,朝廷欲防禁之。吳敏乞用時以靖太學,時得召對,言:「諸生伏闕紛紛,忠於朝廷,非有他意,但擇老成有行誼者,為之長貳,則將自定。」欽宗曰:「無逾於卿。」遂以時兼國子祭酒。首言:「三省政事所出,六曹分治,各有攸司。今乃別辟官屬,新進少年,未必賢於六曹長貳。」又言:

蔡京が政事を用いること二十余年、国を蠹し民を害し、幾らか宗社を危うくし、人の切歯する所なり。而してその罪を論ずる者は、その本を知る莫きなり。蓋し京は神宗を継述するを名とし、実に王安石を挟みて身の利を図る。故に安石を推尊し、王爵を加え、孔子廟庭に配饗せしむ。今日の禍は、実に安石の以てこれを啓く所あり。

原文蔡京用事二十餘年,蠹國害民,幾危宗社,人所切齒,而論其罪者,莫知其所本也。蓋京以繼述神宗為名,實挾王安石以圖身利,故推尊安石,加以王爵,配饗孔子廟庭。今日之禍,實安石有以啟之。

謹んで按ずるに、安石は管仲・商鞅の術を挟み、六藝を飭りて以て奸言を文め、祖宗の法度を変乱す。当時、司馬光は既にその害は数十年の後に見るべしと言えり。今日の事、符契に合うが若し。その著す邪説を以て学者の耳目を塗り、而してその心術を敗壊する者は、縷数すべからず。姑く一二の事を即ち明らかにす。

原文謹按安石挾管、商之術,飭六藝以文奸言,變亂祖宗法度。當時司馬光已言其為害當見於數十年之後,今日之事,若合符契。其著為邪說以塗學者耳目,而敗壞其心術者,不可縷數,姑即一二事明之。

昔、神宗は嘗て漢の文帝が百金を惜しんで露台を罷むるを称美せしめしに、安石乃ち言う、「陛下若し能く堯・舜の道を以て天下を治めば、天下を竭くして以て自ら奉ると雖も過ちと為さず。財を守るの言は正理に非ず」と。曾て堯・舜の茅茨土階を知らず。禹曰く、「家に儉を克くす」と。則ち天下を竭くして自ら奉る者は、必ず堯・舜の道に非ざるなり。その後、王黼が応奉花石の事を以て、天下の力を竭くし、上を享るを号す。実に安石の以てこれを倡く所あり。その『鳧鷖』守成の詩を釈するに、末章に於いて則ち謂う、「道を以て成を守る者は、群衆を役使し、泰にして驕りと為さず、万物を宰制し、費して侈と為さず。孰れか弊弊然として愛を以て事と為さんや」と。詩の言う所は、正に能く盈ちを持てば則ち神祇祖考これを安楽し、而して後艱無きを謂うのみ。古よりこれを釈する者、泰にして驕りと為さず、費して侈と為さずの説未だ有らざるなり。安石独りこの説を倡えて、以て人主の侈心を啓く。後に蔡京の輩、軽費妄用し、侈靡を以て事と為す。安石の邪説の害、此の如し。

原文昔神宗嘗稱美漢文惜百金以罷露台,安石乃言:「陛下若能以堯、舜之道治天下,雖竭天下以自奉不為過,守財之言非正理。」曾不知堯、舜茅茨土階。禹曰:「克儉於家」,則竭天下以自奉者,必非堯、舜之道。其後王黼以應奉花石之事,竭天下之力,號為享上,實安石有以倡之也。其釋《鳧鷖》守成之詩,於末章則謂:「以道守成者,役使群眾,泰而不為驕,宰制萬物,費而不為侈,孰弊弊然以愛為事。」《詩》之所言,正謂能持盈則神祇祖考安樂之,而無後艱爾。自古釋之者,未有泰而不為驕、費而不為侈之說也。安石獨倡為此說,以啟人主之侈心。後蔡京輩輕費妄用,以侈靡為事。安石邪說之害如此。

伏して望む、王爵を追奪し、中外に明詔し、配享の像を毀ち去り、邪説淫辞をして学者の惑わす所と為さしめざらんことを。疏が上ると、安石は遂に従祀の列に降された。王氏の学を習い科第を取る士は、已に数十年、復たその非を知らず、忽ち邪説と為すを聞きて、議論紛然たり。諫官馮澥は力を王氏に主とし、上疏して楊時を詆る。会に学官の中に紛争する者有り、旨有りて学官並びに罷められ、楊時も亦た祭酒を罷められた。

原文伏望追奪王爵,明詔中外,毀去配享之像,使邪說淫辭不為學者之惑。疏上,安石遂降從祀之列。士之習王氏學取科第者,已數十年,不復知其非,忽聞以為邪說,議論紛然。諫官馮澥力主王氏,上疏詆時。會學官中有紛爭者,有旨學官並罷,時亦罷祭酒。

楊時は又言う、「元祐党籍の中、惟だ司馬光一人のみ独り褒顕され、未だ呂公著・韓維・范純仁・呂大防・安燾の輩に及ばず。建中初め、言官陳瓘は已に褒贈され、未だ鄒浩に及ばず」と。ここに於いて元祐の諸臣は皆次第に牽復された。

原文時又言:「元祐黨籍中,惟司馬光一人獨褒顯,而未及呂公著、韓維、范純仁、呂大防、安燾輩。建中初言官陳瓘已褒贈,而未及鄒浩。」於是元祐諸臣皆次第牽復。

尋いで四度上章して諫省を罷むることを乞い、給事中を除されたが、辞し、致仕を乞う。徽猷閣直学士・提挙嵩山崇福宮を除された。楊時は直学士の命を力辞し、改めて徽猷閣待制・提挙崇福宮を除された。陛辞に際し、猶上書して将を選び兵を練り、戦守の備えと為すことを乞うた。

原文尋四上章乞罷諫省,除給事中,辭,乞致仕,除徽猷閣直學士、提舉嵩山崇福宮。時力辭直學士之命,改除徽猷閣待制、提舉崇福宮。陛辭,猶上書乞選將練兵,為戰守之備。

高宗即位し、工部侍郎を除された。陛対して言う、「古より聖賢の君、未だ学を典とすること務めとせざるは無し」と。兼侍読を除された。『建炎会計録』を修することを乞い、勤王の兵を恤むることを乞い、言者を寛仮することを乞うた。連章して外任を丐い、龍図閣直学士を以て杭州洞霄宮を提挙した。已にして告老し、本官を以て致仕し、林泉に優遊し、著書講学を以て事とした。卒す、年八十三、謚して文靖と曰う。

原文高宗即位,除工部侍郎。陛對言:「自古聖賢之君,未有不以典學為務。」除兼侍讀。乞修《建炎會計錄》,乞恤勤王之兵,乞寬假言者。連章丐外,以龍圖閣直學士提舉杭州洞霄宮。已而告老,以本官致仕,優遊林泉,以著書講學為事。卒年八十三,謚文靖。

楊時は東郡に在りしとき、交わる所は皆天下の士、先達の陳瓘・鄒浩は皆師礼を以て楊時に事えた。江を渡るに及び、東南の学者は楊時を推して程氏の正宗と為す。胡安国と往来講論すること尤も多し。楊時は州県に浮沈すること四十有七年、晩に諫省に居ること僅かに九十日、凡そ論列する所は皆世道に切なり。而してその大なる者は、則ち王氏の経学を辟き、靖康の和議を排し、邪説を作さしめざらしむるに在り。凡そ紹興初めに元祐学術を崇尚し、而して朱熹・張栻の学が程氏の正を得るは、その源委脈絡皆楊時に出づ。

原文時在東郡,所交皆天下士,先達陳瓘、鄒浩皆以師禮事時。暨渡江,東南學者推時為程氏正宗。與胡安國往來講論尤多。時浮沉州縣四十有七年,晚居諫省,僅九十日,凡所論列皆切於世道,而其大者,則辟王氏經學,排靖康和議,使邪說不作。凡紹興初崇尚元祐學術,而朱熹、張栻之學得程氏之正,其源委脈絡皆出於時。

子の迪は、力学して経に通じ、亦た嘗て程頤に師事すと云う。

原文子迪,力學通經,亦嘗師程頤雲。

羅從彥

原文羅從彥

羅從彥、字は仲素、南剣の人。累挙の恩を以て恵州博羅県主簿と為る。同郡の楊時が河南程氏の学を得たると聞き、慨然としてこれを慕い、楊時が蕭山令と為るに及び、遂に徒步して往きて学ぶ。楊時は熟察して、乃ち喜びて曰く、「惟だ從彥のみ道を言うべきなり」と。ここに於いて日に益々親しくし、楊時の弟子千余人、從彥に及ぶ者無し。從彥が初めて楊時に見ゆること三日にして、即ち驚き汗背に浹き、曰く、「是に至らざれば、幾らか一生を虚しく過ごさん」と。嘗て楊時と『易』を講じ、『乾』卦九四爻に至りて、云く、「伊川先生の説甚だ善し」と。從彥は即ち田を鬻ぎて洛に走り、程頤に見えてこれを問う。程頤は反覆して告ぐ。從彥謝して曰く、「龜山(楊時)より聞くこと具に是れなり」と。乃ち帰りて卒業す。

原文羅從彥字仲素,南劍人。以累舉恩為惠州博羅縣主簿。聞同郡楊時得河南程氏學,慨然慕之,及時為蕭山令,遂徒步往學焉。時熟察之,乃喜曰:「惟從彥可與言道。」於是日益以親,時弟子千餘人,無及從彥者。從彥初見時三日,即驚汗浹背,曰:「不至是,幾虛過一生矣。」嘗與時講《易》,至《乾》九四爻,云:「伊川說甚善。」從彥即鬻田走洛,見頤問之,頤反覆以告,從彥謝曰:「聞之龜山具是矣。」乃歸卒業。

沙県の陳淵は、楊時の婿なり。嘗て從彥に詣れば、必ず竟日にして乃ち返り、人に謂いて曰く、「吾が仲素と交わるより、日に聞かざる所を聞く。奥学清節、真に南州の冠冕なり」と。既にして山中に室を築き、仕進を絶意し、終日端坐す。間、楊時に将溪の上に謁し、吟詠して帰り、恒に充然として自得す。

原文沙縣陳淵,楊時之婿也,嘗詣從彥,必竟日乃返,謂人曰:「自吾交仲素,日聞所不聞,奧學清節,真南州之冠冕也。既而築室山中,絕意仕進,終日端坐,間謁時將溪上,吟詠而歸,恆充然自得焉。

かつて祖宗の故事を採りて『遵堯録』を作り、靖康年中、闕下に献ぜんと擬す、会に国難ありて果たさず。嘗て学者と治を論じて曰く、「祖宗の法度は廃すべからず、徳沢は恃むべからず。法度を廃すれば則ち変乱の事起こり、徳沢を恃めば則ち驕佚の心生ず。古より徳沢最も厚きは堯・舜に若くは莫し、向い使わく子孫恃む可くば、則ち堯・舜必ず其の子を伝えん。法度の明らかなるは周に如くは莫し、向い使わく子孫世に文・武・成・康の遺緒を守らば、今に至るまで存するも可なり」と。又曰く、「君子朝に在れば則ち天下必ず治まる、蓋し君子進まば則ち常に乱世の言有りて、人主をして多く憂えて善心を生ぜしむ、故に治まる。小人朝に在れば則ち天下乱る、蓋し小人進まば則ち常に治世の言有りて、人主をして多く楽しんで怠心を生ぜしむ、故に乱る」と。又曰く、「天下の変は四方より起こらずして、朝廷より起こる。譬えば人の気を傷つくるが如く、則ち寒暑侵し易く、木の心を傷つくるが如く、則ち風雨折り易し。故に内に林甫の奸有れば、則ち外必ず禄山の乱有り、内に盧杞の奸有れば、則ち外必ず朱泚の叛有り」と。

原文嘗采祖宗故事為《遵堯錄》,靖康中,擬獻闕下,會國難不果。嘗與學者論治曰:「祖宗法度不可廢,德澤不可恃。廢法度則變亂之事起,恃德澤則驕佚之心生。自古德澤最厚莫若堯、舜,向使子孫可恃,則堯、舜必傳其子。法度之明莫如周,向使子孫世守文、武、成、康之遺緒,雖至今存可也。」又曰:「君子在朝則天下必治,蓋君子進則常有亂世之言,使人主多憂而善心生,故治。小人在朝則天下亂,蓋小人進則常有治世之言,使人主多樂而怠心生,故亂。」又曰:「天下之變不起於四方,而起於朝廷。譬如人之傷氣,則寒暑易侵;木之傷心,則風雨易折。故內有林甫之奸,則外必有祿山之亂,內有盧杞之奸,則外必有朱泚之叛。」

其の士行を論じて曰く、「周・孔の心は人をして道を明らかにせしむ、学者果たして能く道を明らかにすれば、則ち周・孔の心、深く自ら之を得ん。三代の人才は周・孔の心を得て、道を明らかにする者多し、故に死生去就を視ること寒暑昼夜の移るが如くして、忠義之を行ふ者易し。漢・唐に至りて経術古文を以て相尚び、周・孔の心を失ふ、故に経術は董生・公孫弘より之を倡へ、古文は韓愈・柳宗元より之を啓く、ここに於て道を明らかにする者寡く、故に死生去就を視ること万鈞九鼎の重きが如くして、忠義之を行ふ者難し。嗚呼、学者の見る所、漢・唐より喪われたり」と。又曰く、「士の朝に立つは、要は以て正直忠厚を本とすべし。正直なれば則ち朝廷過失無く、忠厚なれば則ち天下嗟怨無し。一に正直に於て忠厚ならざれば、則ち漸く刻に入り、一に忠厚に於て正直ならざれば、則ち懦に流る」と。其の議論醇正なること此の類し。

原文其論士行曰:「周、孔之心使人明道,學者果能明道,則周、孔之心,深自得之。三代人才得周、孔之心,而明道者多,故視死生去就如寒暑晝夜之移,而忠義行之者易。至漢、唐以經術古文相尚,而失周、孔之心,故經術自董生、公孫弘倡之,古文自韓愈、柳宗元啟之,於是明道者寡,故視死生去就如萬鈞九鼎之重,而忠義行之者難。嗚呼,學者所見,自漢、唐喪矣。」又曰:「士之立朝,要以正直忠厚為本。正直則朝廷無過失,忠厚則天下無嗟怨。一於正直而不忠厚,則漸入於刻。一於忠厚而不正直,則流入於懦。」其議論醇正類此。

朱熹謂はく、「龜山東南に道を倡へ、其の門に遊ぶ士甚だ衆し、然れども潜思力行・任重詣極すること仲素の如きは、一人のみ」と。紹興中に卒す、学者之を称して豫章先生と曰ひ、淳祐間文質と謚す。

原文朱熹謂:「龜山倡道東南,士之遊其門者甚眾,然潛思力行、任重詣極如仲素,一人而已。」紹興中卒,學者稱之曰豫章先生,淳祐間謚文質。

李侗

原文李侗

李侗、字は願中、南剣州剣浦の人なり。年二十四、郡人羅従彥の河・洛の学を得たるを聞き、遂に書を以て之に謁し、其の略に曰く、

原文李侗字願中,南劍州劍浦人。年二十四,聞郡人羅從彥得河、洛之學,遂以書謁之,其略曰:

侗聞く、天下に三本有り、父之を生み、師之を教へ、君之を治む、其の一を闕かば則ち本立たず。古の聖賢師有らざる莫し、其の肄業の勤惰、道に渉るの浅深、益を求むるの先後、存するが若く亡ぶるが若く、其の詳は得て考ふる可からず。惟だ洙・泗の間、七十二弟子の徒、議論問答、方冊に具在し、稽ぶるに足る有り、是れ夫子を得て益々明らかなり。孟氏の後、道其の伝を失ひ、枝分れ派別れ、自ら門戸を立て、天下の真儒世に見ることを復たず。其の徒を聚めて群を成し、以て相伝授する所の者は、句読文義のみ爾り、之を熄むと謂ふ可なり。

原文侗聞之,天下有三本焉,父生之,師教之,君治之,闕其一則本不立。古之聖賢莫不有師,其肄業之勤惰,涉道之淺深,求益之先後,若存若亡,其詳不可得而考。惟洙、泗之間,七十二弟子之徒,議論問答,具在方冊,有足稽焉,是得夫子而益明矣。孟氏之後,道失其傳,枝分派別,自立門戶,天下真儒不復見於世。其聚徒成群,所以相傳授者,句讀文義而已爾,謂之熄焉可也。

其れ惟だ先生は龜山先生の講席に服膺すること年有り、況んや嘗て伊川先生の門に及べり、伝はらざるの道を千五百年の後に得、性明らかにして修め、行ひ完くして潔く、之を拡めて以て広大ならしめ、之を体して以て仁恕ならしむ、精深微妙、各其の至りを極む、漢・唐の諸儒近似する者無し。言はずして人に和を飲ますに至りては、人と並び立って人をして化せしむ、春風の物を発するが如く、蓋し亦其の然る所以を知る莫きなり。凡そ聖賢の書を読み、粗く識見有る者は、孰れか経を授け門下を得て、以て疑ふ所を質さんことを願はざらん、異論の人に至りては、固より置きて論ぜざるべし。

原文其惟先生服膺龜山先生之講席有年矣,況嘗及伊川先生之門,得不傳之道於千五百年之後,性明而修,行完而潔,擴之以廣大,體之以仁恕,精深微妙,各極其至,漢、唐諸儒無近似者。至於不言而飲人以和,與人並立而使人化,如春風發物,蓋亦莫知其所以然也。凡讀聖賢之書,粗有識見者,孰不願得授經門下,以質所疑,至於異論之人,固當置而勿論也。

侗が愚鄙、徒らに挙子業を習ふを以て、門下に服役するを得ず、而して今日拳拳として教へを求めんと欲するは、以て求むる所利禄より大なる有りと謂ふなり。抑も侗聞く、道は以て心を治む可く、猶ほ食の飽きを充し、衣の寒を御ふるが如し。人に饑寒の患に迫るる者有れば、皇皇焉として衣食の謀を為し、造次顛沛はい、未だ始めより忘れず。心の治まらざるに至りては、没世慮るを知らざる有り、豈に心を愛すること口体に若かざらんや、思はざること甚だし。

原文侗之愚鄙,徒以習舉子業,不得服役於門下,而今日拳拳欲求教者,以謂所求有大於利祿也。抑侗聞之,道可以治心,猶食之充飽,衣之御寒也。人有迫於饑寒之患者,皇皇焉為衣食之謀,造次顛沛,未始忘也。至於心之不治,有沒世不知慮,豈愛心不若口體哉,弗思甚矣。

侗、資質の陋きを量らず、徒らに祖父儒学を以て家を起し、箕裘の業を墜すに忍びず、孜孜矻矻として利禄の学を為す、真儒作る有るを知ると雖も、風を聞きて起つは、固より先生親炙の動静語黙の間に得る所、目撃して意全きに若かず。今生二十有四歳、茫乎として止む所未だ有らず、理を燭すること明らかならずして是非弁ふる無く、心を宅すること広からずして喜怒易く以て動き、操履完からずして悔吝多く、精神充たずして智巧襲ひ、揀めて浄からず、守りて敷かず、朝夕恐懼、啻に饑寒身に切る者の飢を充し寒を御ふの具を求むるが如きに異ならず。然らずんば、安んぞ肖らざるの身を以て先生の累と為さんことを敢へんや。

原文侗不量資質之陋,徒以祖父以儒學起家,不忍墜箕裘之業,孜孜矻矻為利祿之學,雖知真儒有作,聞風而起,固不若先生親炙之得於動靜語默之間,目擊而意全也。今生二十有四歲,茫乎未有所止,燭理未明而是非無以辨,宅心不廣而喜怒易以搖,操履不完而悔吝多,精神不充而智巧襲,揀焉而不淨,守焉而不敷,朝夕恐懼,不啻如饑寒切身者求充飢御寒之具也。不然,安敢以不肖之身為先生之累哉。

之に従うこと累年、『春秋』・『中庸』・『語』・『孟』の説を授く。従彥は静坐を好み、侗退きて室中に入り、亦静坐す。従彥静中に喜怒哀楽未だ発せざる前の気象を見て、所謂「中」を求めしむ、久しくして天下の理に該摂洞貫し、以て次第に融釈し、各条序有り、従彥亟に称許す。

原文從之累年,授《春秋》、《中庸》、《語》、《孟》之說。從彥好靜坐,侗退入室中,亦靜坐。從彥令靜中看喜怒哀樂未發前氣象,而求所謂「中」者,久之,而於天下之理該攝洞貫,以次融釋,各有條序,從彥亟稱許焉。

既にして山田に退居し、世故を謝絶すること余り四十年、飲食或は充たざるも、而して怡然自適す。親に事ふること孝謹、仲兄性剛にして忤ふこと多し、侗之に事へて其の歓心を得たり。閨門内外、夷愉肅穆、人声無きが若く、而して衆事自ら理まる。親戚に貧しくして婚嫁する能はざる者あれば、則ち為に經理振助す。郷人と処るに、飲食言笑、終日油油然たり。

原文既而退居山田,謝絕世故余四十年,食飲或不充,而怡然自適。事親孝謹,仲兄性剛多忤,侗事之得其歡心。閨門內外,夷愉肅穆,若無人聲,而眾事自理。親戚有貧不能婚嫁者,則為經理振助之。與鄉人處,飲食言笑,終日油油如也。

其の後学を接するに、答問倦まず、人に随ひ浅深施教すと雖も、而して必ず反身自得より始む。故に其の言に曰く、「学問の道は多言に在らず、但だ黙坐澄心し、天理を体認す。若是らば、一毫の私慾の発と雖も、亦退きて聴かん」と。又曰く、「学者の病は、未だ洒然たる氷解凍釈の処有らざるに在り。孔門の諸子の如き、群居終日、交相切磨し、又夫子之が依帰を得、日用の間に観感して化する者多し。恐らくは融釈して脱落せざる処に於ては、言説の及ぶ所に非ざらん」と。又曰く、「書を読む者は其の言ふ所吾が事に非ざる莫きを知り、而して即ち吾が身を以て之を求めば、則ち凡そ聖賢の至りて吾未だ至らざる所は、皆勉めて進む可し。若し直に之を文字に求め、以て誦説の資とせば、其れ玩物喪志する者たらざる幾希なり」と。又曰く、「講学は深潜縝密に切に在り、然る後に気味深長にして、蹊径差へず。若し概ね以て理一として、其の分の殊を察せざれば、此れ学者の以て疑似乱真の説に流れて自ら知らざる所以なり」と。嘗て黄庭堅の濂溪周茂叔を称して「胸中酒落、光風霽月の如し」と為すを、有道者の気象を形容するに善しと為し、嘗て之を諷誦し、而して顧みて学者に此を胸中に存せしめ、庶幾くは事に遇ひて廓然とし、而して義理少しく進まんと謂へり。

原文其接後學,答問不倦,雖隨人淺深施教,而必自反身自得始。故其言曰:「學問之道不在多言,但默坐澄心,體認天理。若是,雖一毫私慾之發,亦退聽矣。」又曰:「學者之病,在於未有灑然冰解凍釋處。如孔門諸子,群居終日,交相切磨,又得夫子為之依歸,日用之間觀感而化者多矣。恐於融釋而不脫落處,非言說所及也。」又曰:「讀書者知其所言莫非吾事,而即吾身以求之,則凡聖賢所至而吾所未至者,皆可勉而進矣。若直求之文字,以資誦說,其不為玩物喪志者幾希。」又曰:「講學切在深潛縝密,然後氣味深長,蹊徑不差。若概以理一,而不察其分之殊,此學者所以流於疑似亂真之說而不自知也。」嘗以黃庭堅之稱濂溪周茂叔「胸中酒落,如光風霽月」,為善形容有道者氣象,嘗諷誦之,而顧謂學者存此於胸中,庶幾遇事廓然,而義理少進矣。

『中庸』について語って曰く、「聖門においてこの書を伝えるのは、後学を開悟するに遺策なき所以である。然るに所謂『喜怒哀楽未発之を中と謂う』とは、また一篇の指要である。若し徒に記誦するのみならば、則ち亦何を以てか為さん。必ずやこれを身に体し、実に是の理を見るべし、顔子の歎の如く、卓然として見る所あるが若く、而して心目の間に違わざるに至り、然る後に拡充して往けば、通ぜざる所無く、則ち庶幾くは以て『中庸』を言うべし」と。『春秋』について語って曰く、「『春秋』は一事各々一例を発明するもの、山水を観るが如く、徒歩にして形勢同じからず、一法に拘うべからず。然るに所以に言い難きは、蓋し常人の心を以て聖人を推測するに、聖人の灑然たる処に到らざれば、豈に失無からんや」と。

原文其語《中庸》曰:「聖門之傳是書,其所以開悟後學無遺策矣。然所謂『喜怒哀樂未發謂之中』者,又一篇之指要也。若徒記誦而已,則亦奚以為哉?必也體之於身,實見是理,若顏子之歎,卓然若有所見,而不違乎心目之間,然後擴充而往,無所不通,則庶乎其可以言《中庸》矣。」其語《春秋》曰:「《春秋》一事各是發明一例,如觀山水,徙步而形勢不同,不可拘以一法。然所以難言者,蓋以常人之心推測聖人,未到聖人灑然處,豈能無失耶?」

侗は既に閑居し、当世に意無きが若くして、時に傷み国を憂え、事を論じて感激人を動かす。嘗て曰く、「今日三綱振わず、義利分かたず。三綱振わざる故に、人心邪僻にして任用に堪えず、是れ上下の気を間隔せしめ、而して中国日々衰えるに致る。義利分かたざる故に、王安石の事を用うるより以来、人心を陷溺せしめ、今に至るまで自ら覚えず。人利に趨きて義を知らざれば、則ち主勢日々孤なり、人主まさに此に留意すべく、然らずんば、則ち是れ所謂『粟有りと雖も、吾得て諸れを食らわんや』なり」と。

原文侗既閒居,若無意當世,而傷時憂國,論事感激動人。嘗曰:「今日三綱不振,義利不分。三綱不振,故人心邪僻,不堪任用,是致上下之氣間隔,而中國日衰。義利不分,故自王安石用事,陷溺人心,至今不自知覺。人趨利而不知義,則主勢日孤,人主當於此留意,不然,則是所謂『雖有粟,吾得而食諸』也。」

是の時、吏部員外郎朱松は侗と同門の友たり、雅に侗を重んじ、子の熹を遣わして学に従わしむ。熹遂に其の伝を得たり。沙県の鄧迪嘗て松に謂いて曰く、「願中は氷壺秋月の如く、瑩徹にして瑕無く、吾曹の及ぶ所に非ず」と。松は以て知言と謂う。而して熹も亦侗を称して曰く、「姿稟勁特にして、気節豪邁、而して充養完粹、圭角を復たせず、精純の気面目に達し、色温にして言厲、神定まり気和ぎ、語黙動静、端詳閒泰、自然の中に成法有るが若し。平素は恂恂として、事に於いて甚だ可否有るが若く無く、其の事変に酬酢するに及び、義理を以て断ずれば、則ち截然として犯すべからざる者有り」と。又謂う、侗に学びてより、辞して去り復た来れば、則ち聞く所益々超絶す。其の上達已まず、此の如しと。

原文是時吏部員外郎朱松與侗為同門友,雅重侗,遣子熹從學,熹卒得其傳。沙縣鄧迪嘗謂松曰:「願中如冰壺秋月,瑩徹無瑕,非吾曹所及。」松以謂知言。而熹亦稱同:「姿稟勁特,氣節豪邁,而充養完粹,無復圭角,精純之氣達於面目,色溫言厲,神定氣和,語默動靜,端詳閒泰,自然之中若有成法。平日恂恂,於事若無甚可否,及其酬酢事變,斷以義理,則有截然不可犯者。」又謂自從侗學,辭去復來,則所聞益超絕。其上達不已如此。

侗の子、友直・信甫皆進士に挙げられ、旁郡に吏を試み、更に迎えて養わしむるを請う。帰り道、武夷に会し、閩帥汪応辰の書幣を以て来迎する有り。侗往きて之に見ゆ。至るの日疾発し、遂に卒す。年七十有一。

原文侗子友直、信甫皆舉進士,試吏旁郡,更請迎養。歸道武夷,會閩帥汪應辰以書幣來迎,侗往見之,至之日疾作,遂卒,年七十有一。

信甫は仕えて監察御史に至り、出でて衢州を知り、広東・江東の憲に擢げられ、特立にして朝に容れられずと云う。

原文信甫仕至監察御史,出知衢州,擢廣東、江東憲,以特立不容於朝雲。