「道学」という名称は、古くより存在しなかった。三代の盛んな時代には、天子はこの道をもって政教とし、大臣・百官・有司はこの道をもって職業とし、党・庠・術・序の師弟子はこの道をもって講習とし、四方の百姓は日々この道を用いても知らなかった。それゆえ天地の間に満ち、一人の民も一つの物もこの道の恩沢を受けずにはおらず、その本性を遂げた。この時代に、道学の名がどうして立ち上がることがあろうか。
文王・周公が既に没し、孔子は徳はあっても位がなく、この道の用いを漸次にこの世に行き渡らせることができず、退いてその徒とともに礼楽を定め、憲章を明らかにし、『詩』を刪定し、『春秋』を修め、『易象』を賛し、『墳』『典』を討論し、五帝三王の聖人の道を永遠に明らかにすることを期した。故に言う、「夫子は堯・舜よりもはるかに賢い」と。孔子が没し、曾子のみがその伝統を得、子思に伝え、孟子に及んだが、孟子が没して伝える者がなくなった。両漢以降、儒者が大道を論ずるや、察するに精緻でなく、語るに詳らかでなく、異端邪説が起こってこれに乗じ、ほとんど大いに壊れるところであった。
千有余年を経て、宋代の中葉に至り、周敦頤が舂陵より出で、聖賢の伝えられなかった学問を得て、『太極図説』『通書』を作り、陰陽五行の理を推し明らかにし、天に命ぜられ人に性として備わるものを、掌を指すように明らかにした。張載が『西銘』を作り、また理一分殊の主旨を極言し、それによって道の大本が天より出づることが、明白にして疑いのないものとなった。仁宗明道の初年、程顥および弟の程頤が生まれ、成長して周氏に師事し、後にその聞いたところを拡大し、『大学』『中庸』の二篇を表章して、『論語』『孟子』と並行させた。ここにおいて上は帝王が心を伝える奥義から、下は初学が徳に入る門戸に至るまで、融会貫通し、余蘊がなくなった。
宋の南渡に至り、新安の朱熹が程氏の正統を得て、その学は一層親切なものとなった。おおよそ格物致知を先とし、善を明らかにし身を誠にすることを要とし、凡そ『詩』『書』六芸の文、および孔・孟の遺言で、秦の焚書で顛倒錯乱し、漢儒によって支離滅裂となり、魏・晋・六朝において幽沈していたものが、ここに至ってことごとく煥然として大いに明らかとなり、秩序正しくそれぞれの在るべきところを得た。これが宋儒の学が諸子を度越え、上で孟子に接する所以であろう。それは世代の盛衰、気化の栄枯に関係するところが甚だ大きい。道学は宋に盛んとなったが、宋はその用を究めず、甚だしくは厳禁さえした。後の時の君主が、天徳王道の治を復そうと欲するならば、必ずここに来て法を取るであろう。
邵雍は高明英悟であり、程氏は実にこれを推重した。旧史はこれを隠逸に列したが、当を得ず、今は張載の後に置く。張栻の学もまた程氏より出で、朱熹に会ってから、互いに博約し合って大いに進んだ。その他の程・朱の門人は、その源流を考証し、それぞれ類によって従え、『道学伝』を作る。
周敦頤
周敦頤、字は茂叔、道州営道の人である。元の名は敦実であったが、英宗の旧諱を避けて改めた。舅の龍図閣学士鄭向の任子により、分寧の主簿となった。長く決着のつかない訴訟があり、敦頤が到着すると、一度訊問しただけで即座に判決した。県人は驚いて言った、「老練な役人にも及ばない」と。部使者がこれを推薦し、南安軍司理参軍に転任した。ある囚人は法により死罪に当たらず、転運使の王逵が厳しく処罰しようとした。逵は酷く悍ましい官吏で、誰も争う者がいなかったが、敦頤のみが彼と論争した。聞き入れられないと、手版を置いて帰り、官を棄てて去らんとして言った、「このようなことがあってまだ仕えることができようか。人を殺して人に媚びることは、私はしない」。逵は悟り、囚人は赦免された。
熙寧の初め、郴州知州となった。趙抃および呂公著の推薦により、広東転運判官、提点刑獄となり、冤罪を洗い物に恩沢を施すことを己が任務とした。管轄区域を巡行するのに労苦を厭わず、瘴癘の地で険遠であっても、ゆるやかに視察し、徐々に按査した。病のため南康軍知軍を請い、そこで廬山蓮花峰の下に家を構えた。前に溪流があり、溢江に合流するので、営道の居宅のあった濂溪に因んで名付けた。趙抃が再び蜀を鎮守する時、彼を奏薦して用いようとしたが、及ばずに卒去した。五十七歳。
黄庭堅はその人柄を称えて、「人品甚だ高く、胸懐は灑落として、光風霽月の如し。名を取るには廉でありながら志を求めるには鋭く、福を求めるには薄くして民を得るには厚く、身を奉ずるには菲くして煢嫠に及ぼすには燕にし、世に希うには陋しくして千古の友を尚ぶ」と言った。
博学で力行し、『太極図』を著して、天理の根源を明らかにし、万物の終始を究めた。その説に曰く、
無極にして太極なり。太極動いて陽を生じ、動極まって静まり、静まって陰を生じ、静極まってまた動く。一動一静、互いにその根となり、陰を分かち陽を分かって、両儀立つ。陽変じ陰合して、水・火・木・金・土を生じ、五気順布して、四時行わる。五行は一陰陽なり、陰陽は一太極なり。太極は本より無極なり。五行の生ずるや、各々その性を一にする。無極の真、二五の精、妙合して凝り、乾道は男を成し、坤道は女を成す。二気交感して万物を化生し、万物生生して、変化窮まり無し。{{gap}}ただ人のみその秀を得て最も霊なり。形既に生じ、神発して知り、五性感動して善悪分かれ、万事出づ。聖人は中正仁義をもってこれを定め、静を主として人極を立つ。故に聖人は天地とその徳を合わし、日月とその明を合わし、四時とその序を合わし、鬼神とその吉凶を合わす。君子これを修めれば吉、小人これに悖れば凶。故に言う、「天の道を立つるは、陰と陽と曰い、地の道を立つるは、柔と剛と曰い、人の道を立つるは、仁と義と曰う」と。また言う、「始を原ね終りに反れば、故に死生の説を知る」と。大なるかな『易』や、これその至りなるかな。
また『通書』四十篇を著し、太極の蘊奥を発明す。序する者は謂う、「其の言は約にして道は大なり、文は質にして義は精なり、孔・孟の本源を得て、学に大いに功有り」と。
南安の掾となった時、程珦が軍事を通判し、その気貌が常人ならざるを見て、語り合い、その学問が道を知ることを知り、因って友と為し、二子の顥・頤をして往きて業を受かしむ。敦頤は毎に孔・顔の楽しむ処を尋ねしめ、楽しむ所何事ぞと問わしむ。二程の学の源流は此に在り。故に顥の言う所に曰く、「再び周茂叔に見えて後、風を吟じ月を弄びて帰る、『吾れ点と与にせん』の意有り」と。侯師聖は程頤に学びて未だ悟らず、敦頤を訪う。敦頤曰く、「吾れ老いたり、説くに詳ならざるべからず」と。留めて対榻し夜談し、三日を越えて乃ち還る。頤驚き異之て曰く、「周茂叔より来たるに非ずや」と。其の人を開発するの善きこと、此の類なり。
二子は壽と燾、燾は官は寶文閣待制に至る。
程顥
程顥
程顥は、字を伯淳といい、代々中山に住み、後に開封から河南に移った。高祖の羽は、太宗の朝に三司使であった。父の珦は、仁宗が旧臣の子孫を登用した際に、黄陂尉に任じられた。長くして、龔州の知事となった。時に宜州の獠族の区希範が既に誅殺された後、郷人が突然その神が降臨したと伝え、言うには「我がために南海に祠を立てよ」と。そこでその神を迎えて龔州へ向かわせたところ、珦はこれを詰問させ、言うには「先程潯州を通った時、潯州の太守はこれを妖しいものとして、祠の具を江中に投げ入れたところ、逆流して上ったので、太守は恐れ、改めて礼を尽くした」と。珦は再びこれを投げ入れさせると、順流して去り、その虚妄は止んだ。磁州の知事に転じ、また漢州の知事に転じた。かつて開元寺の僧舎で客を宴した際、酒がちょうど巡り始めた時、人々が歓声を上げて仏光が現れたと言い、見物人が互いに踏みつけあい、制止できなかったが、珦は安座して動かず、しばらくして遂に鎮まった。熙寧の新法が施行されると、太守や県令たる者は命令に従うのを恐れ後れる者がなかったが、珦のみは抗議し、その不便な点を指摘した。使者の李元瑜は怒り、すぐに病を理由に職を移して帰り、まもなく致仕し、累進して太中大夫となった。元祐五年に卒去し、八十五歳であった。
珦は慈恕にして剛斷なり、平居は幼賤と處するに、唯だ其の意を傷つくるを恐るるも、義理に犯すに至りては、假さず。左右使令の人、其の饑飽寒燠を察せざる日なし。前後五たび任子を得て、以て諸父の子孫に均しくす。孤女を嫁遣するに、必ず其の力を盡くす。得る所の奉祿は、分かちて貧しき親戚を贍ふ。伯母寡居す、奉養甚だ至れり。從女兄既に人に適して其の夫を喪ひ、珦迎へて歸し、其の子を教養し、子侄に均しくす。時に官小にして祿薄し、己を克して義を爲し、人以て難しと爲す。文彥博・蘇頌等九人其の清節を表し、詔して帛二百を賜ひ、官其の葬を給す。
程顥は進士に挙げられ、鄮県及び上元県の主簿に任ぜられた。鄮県の民に兄の宅を借りて住む者がおり、地を掘って埋蔵銭を発見した。兄の子が訴えて曰く、「父の蔵めたものなり」と。程顥が問うて曰く、「何年ほど前のことぞ」と。曰く、「四十年なり」と。「彼が借り住みしは幾時ぞ」と。曰く、「二十年なり」と。吏を遣わして十千を取らせて之を見せ、訴える者に謂いて曰く、「今官の鑄する銭は、五六年を経ずして即ち天下に遍く行わる。此れは皆な蔵むる前数十年の鑄する所のものなり、何ぞや」と。其の人答ふる能はず。茅山に池あり、龍を産す、蜥蜴の如くして五色なり。祥符の中、嘗て二龍を取って都に入れしに、半途にして其の一を失ひ、中使雲ひて「空を飛びて逝けり」と。民俗厳かに奉じて懈らず、程顥之を捕へて脯となす。
程顥が晋城県令であった時、富者張氏の父が死に、ある朝老翁が門を叩いて言うには、「我は汝の父なり」と。子は驚き疑って測り知れず、共に県に赴いた。老翁は言う、「身は医者として、遠く出て病気を治し、妻は子を生み、貧しくて養うことができず、張氏に与えた」と。程顥はその証拠を質した。懐中から一通の書状を取り出して進めると、そこに記されていたのは、「某年月日、児を抱いて張三翁の家に与う」と。程顥が問う、「張はその時四十歳に過ぎず、どうして翁と称することがあろうか」と。老翁は驚き謝した。
民の税粟多くは辺境近くに移し、運搬すれば道遠く、買い求めれば価高し。顥は富みて任に堪うる者を選び、予めして粟を貯えしめて待たしめ、費用大いに省く。民、事を以て県に至る者は、必ず孝弟忠信を告げ、入りては以て其の父兄に事え、出でては以て其の長上に事うる所以を教う。郷村の遠近を度りて伍保と為し、之をして力役相助け、患難相恤わしめ、而して奸偽の容るる所無からしむ。凡そ孤煢残廃の者は、之を親戚郷党に責め、して失する所無からしむ。行旅其の途に出づる者は、疾病皆養う所有らしむ。郷には必ず校有り、暇時親しく至り、父老を召して之と語る。児童の読む所の書は、親しく句読を正し、教うる者善からざれば、則ち為に易え置く。子弟の秀なる者を選び、聚めて之を教う。郷民社会を為すに、科条を立て、善悪を旌別し、して勧め有り恥有らしむ。県に在ること三歳、民之を愛すること父母の如し。
熙寧の初め、呂公著の推薦により、太子中允・監察御史裏行となる。神宗は平素よりその名を知り、数度召し出して対面させ、退出する度に必ず「頻りに対を求めよ、卿に常々会いたい」と言った。ある日、ゆったりと諮問を受け、正午を告げて初めて退出しようとすると、庭中の人が「御史は上が未だ食されぬことを知らぬのか」と言った。前後して進言した説は甚だ多く、大要は心を正し欲を塞ぎ、賢を求め材を育むことを言とし、誠意をもって主上を感化悟らせることを務めた。嘗て帝に未だ萌さざる欲を防ぎ、及び天下の士を軽んじざるよう勧めると、帝は身をかがめて「卿のためにこれを戒めん」と言った。
王安石が政権を執り、法令の変更を議するや、朝廷内外ともにこれを便とせず、諫言する者はこれを激しく攻撃した。程顥は詔を奉じて中堂に赴き事を議すべしとされ、王安石はちょうど諫言する者を怒り、厳しい顔色で彼を待っていた。程顥は徐ろに言う、「天下の事は一家の私議にあらず、平気をもって聴かんことを願う」と。王安石はこれに愧じて屈服した。王安石が権力を用いるようになって以来、程顥は一度として功利に言及する語はなかった。職に在ること八九月、数度にわたり時政を論じ、最後に言うには、「智者は禹の水を行くが如く、その事なき所を行くのである。これを捨てて険阻に之くは、以て智を言うに足らざるなり。古より治を興し事を立てるに、中外の人情的に交えて不可と謂いながら能く成し遂げたるは未だあらず。況んや忠良を排斥し、公議を沮み廃し、賤を以て貴を陵ぎ、邪を以て正を干すにおいてをや。仮に幸いに小成あらしむるも、利を興すの臣は日に進み、徳を尚ぶの風は漸く衰え、特に朝廷の福にあらざるなり」と。遂に言職を去ることを乞うた。王安石は本来彼と善くしていたが、ここに至り合わずと雖も、猶その忠信を敬い、深く怒らず、ただ京西刑獄提点に出させた。程顥は固く辞し、改めて鎮寧軍判官簽書に任ぜられた。司馬光は長安に在り、上疏して退くことを求め、程顥の公直を称え、以て己の及ばざる所と為した。
程昉が河川を治めるに当たり、澶州の兵卒八百人を徴発して酷使したので、兵卒らは逃亡して帰還した。群僚は程昉を畏れて、彼らを受け入れまいとした。程顥は言う、「彼らは死を逃れて自ら帰還したのである。受け入れなければ必ず乱が起こる。もし程昉が怒るならば、我が自らその責を負う」と。即ち自ら往きて門を開き労をねぎらい、三日ほど休養した後に再び役務に就くことを約束すると、兵卒らは歓喜して躍り入った。事の次第を詳細に上奏し、派遣されずに済んだ。程昉が後に州を過ぎる時、声高に言うには、「澶州の兵卒が潰走したのは、程中允が彼らを誘ったからである。我はまさに上に訴えよう」と。程顥はこれを聞き、言う、「彼はまさに我を憚っている。何ができようか」と。果たして敢えて言わなかった。
曹村の堤防が決壊し、程顥は郡守の劉渙に言った、「曹村が決壊すれば、京師が危うくなる。臣子の分として、身をもって塞ぐことも当然なすべきことである。どうか配下の兵卒をことごとく私に預けてほしい」。劉渙は鎮の印を程顥に渡し、程顥はただちに決壊した場所へ走り、士卒を激励し諭した。議論する者は情勢として塞ぐことは不可能で、徒らに人を労するだけだと考えた。程顥は水泳の巧みな者に決壊口を渡らせ、太い縄を引いて人々を渡し、両岸から並行して工事を進め、数日で決壊口を塞いだ。
洛河竹木務の監を求め、長年にわたり功績を記録されなかったが、特別に太常丞に昇進した。帝はまた彼に『三経義』を編纂させようとしたが、執政が認めず、扶溝県知事に任命した。広済河と蔡河が県内を通り、河岸のならず者は生活の道がなく、専ら舟行する者の財貨を脅し取ることを業とし、毎年必ず十隻ほどの舟を焼いて威を示していた。程顥は一人を捕らえ、その同類を引き出させ、過去の悪事を許し、土地を分けて住まわせ、船を引くことを生業とさせ、かつ悪事を働く者を監視させた。これにより管内に焼き討ちや略奪の被害はなくなった。内侍の王中正が保甲を巡視した際、その権勢と威光は甚だしく、諸県は競って贅沢な供応をして彼を喜ばせようとした。主吏が指示を請いに来ると、程顥は言った、「我が県は貧しい。どうして他の県の真似ができようか。民から取り立てることは、法で禁じられている。ただかつて私が使った古い青い帳幕があるだけだ」。判武学に任命されたが、李定が新法施行の初期に真っ先に異論を唱えたと弾劾し、元の官に戻されて罷免された。また囚人が脱走した事件に連座し、汝州塩税の監に左遷された。哲宗が即位すると、宗正丞に召されたが、赴任せずに死去した。五十四歳。
程顥の資質・天性は人並み外れ、修養を充実させる道があり、和やかで純粋な気質が顔や背中に満ちあふれていた。門人や交友の者は数十年彼に従ったが、一度も彼の怒りや厳しい表情を見たことがなかった。事に遇すれば悠々と対処し、たとえ突然の事態でも声色を動かさなかった。十五、六歳の時、弟の程頤とともに汝南の周敦頤の学問の議論を聞き、科挙の習いを厭い、慨然として道を求める志を抱いた。諸子百家の学問に広く涉猟し、老子・仏教の学問に出入りすることほぼ十年、『六経』に立ち返って求めた後に道を得た。秦・漢以来、この理に到達した者はなかった。
人を教えるにあたり、自ら知に至ることから知止に至るまで、誠意から天下を平らかにするまで、掃除や応対のような日常の行いから理を窮め性を尽くすまで、順序立てて導いた。学ぶ者が卑近なことを厭い高遠なことを追い求めて結局何も成し遂げられないことを憂い、故に彼はこう言った、「道が明らかでないのは、異端が害するからである。昔の害は近くて知りやすかったが、今の害は深くて見分けがつきにくい。昔は人の迷いや暗さに乗じて惑わせたが、今は人の高明さを利用して惑わせる。自らは神を窮め変化を知ると称するが、物事を開き事業を成すには足りず、言葉はあまねく行き渡っているが、実は倫理の外にあり、深遠微妙を極めているが、堯・舜の道に入ることはできない。天下の学問は、浅はかで固陋なものでなければ、必ずこれに入ってしまう。道が明らかでなくなって以来、邪悪で怪しげな妄説が競い起こり、民衆の耳目を塗り固め、天下を汚濁に沈ませている。たとえ才能が高く聡明でも、見聞に固執し、醉生夢死して、自ら気づかないのである。これらは皆、正しい道の雑草であり、聖人の門戸を塞ぐものである。これを排除して後にはじめて道に入ることができる」。
程顥が死ぬと、士大夫は彼を知る者も知らぬ者も、哀しまない者はなかった。文彦博は衆論を集め、その墓に「明道先生」と題した。その弟の程頤が序文を書いて言った、「周公が没して後、聖人の道は行われなくなった。孟軻が死んで後、聖人の学問は伝わらなくなった。道が行われなければ、百世に善き治世はない。学問が伝わらなければ、千年に真の儒者は現れない。善き治世がなくとも、士はなお善き治世の道を明らかにして、人々を善導し、後世に伝えることができる。真の儒者がいなければ、人々はうろうろとして行くべき道を知らず、人欲がほしいままになり天理は滅びてしまう。先生は千四百年後に生まれ、伝わらなくなった学問を遺された経書から得て、この文(道)を興すことを己の任とし、異端を弁別し、邪説を排撃し、聖人の道を鮮やかに再び世に明らかにされた。孟子の後では、ただお一人だけである。しかし学ぶ者が道に向かうべき方向を知らなければ、どうしてこの人の功績を知ることができようか。到達すべき境地を知らなければ、どうしてこの名が実情にふさわしいことを知ることができようか」。
程頤
程頤、字は正叔。十八歳の時、宮闕に上書し、天子が世俗の議論を退け、王道を心がけることを望んだ。太学に遊学し、胡瑗が諸生に顔子が好んだ学問は何かと問うのを見て、程頤はそれに答えて言った。
学問は聖人の道に至るためのものである。聖人は学んで至ることができるか。曰く、然り。学ぶ道はどのようなものか。曰く、天地は精気を蓄え、五行の秀でたものを得た者が人である。その根本は真実で静かであり、それは未発の状態である。五性が備わっている。仁・義・礼・智・信である。形が既に生じると、外物がその形に触れて内面を動かす。内面が動いて七情が現れる。喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲である。情が激しくなってますます放逸すると、その本性は損なわれる。それゆえ覚者はその情を制約して中(中庸)に合致させ、心を正し、性を養う。愚者はこれを制することを知らず、情のままに放任して邪僻に至り、性を束縛して失ってしまう。
しかし学ぶ道は、必ずまず心において明らかにし、何を養うべきかを知らねばならない。その後、力行して至ることを求める。いわゆる「自ら明らかにして誠になる」である。誠になる道は、道を信じ篤実にあることにある。道を信じ篤実であれば、行いは果断になり、行いが果断であれば守りは固くなる。仁義忠信が心から離れず、慌ただしい時にもこれにあり、困窮する時にもこれにあり、出処進退や言葉・沈黙にもこれにあり、長く失わなければ、安らかに居り、動作や立ち振る舞いが礼に中り、邪僻な心は自然に生じなくなる。
それゆえ顔子が実践したことは、「礼に非ざれば視ず、礼に非ざれば聴かず、礼に非ざれば言わず、礼に非ざれば動かず」と言われる。仲尼(孔子)が彼を称えて言った、「一つの善を得れば、しっかりと胸に抱いて失わない」。また言った、「怒りを他に移さず、過ちを二度と繰り返さない」。「不善があれば、知らないことはなかった。知れば、再び行うことはなかった」。これが彼の学問を好む篤実さであり、学んでその道を得た所以である。しかし聖人は思わずして得、努めずして中る。顔子は必ず思って後に得、必ず努めて後に中る。彼と聖人との隔たりはわずかである。至らなかった点は守ることにあるのであって、化することにあるのではない。彼の好学の心をもって、もし年寿を仮りに与えれば、やがて化する日は遠くなかったであろう。
後世の人は理解せず、聖人は生まれながらに知っているのであって、学んで至ることはできないと考え、学ぶ道は遂に失われた。己に求めず、外に求め、博聞強記や巧みな文飾・美しい言葉を上手とし、言葉を華やかにするが、道に至る者は稀である。それゆえ今の学問は、顔子が好んだものとは異なっている。
胡瑗は彼の文章を得て、大いに驚き、すぐに面会を求め、学職に就かせた。呂希哲が最初に師礼をもって程頤に仕えた。
治平・元豊の間、大臣がしばしば推薦したが、皆起用されなかった。哲宗の初め、司馬光・呂公著が共にその行義を上疏して言うには、「伏して見るに河南府の処士程頤は、力を学んで古を好み、貧に安んじて節を守り、言は必ず忠信、動きは礼法に遵う。年五十を逾えても仕進を求めず、真に儒者の高蹈、聖世の逸民なり。望むらくは不次を以て擢げ、士類をして矜式する所あらしめん」と。詔して西京国子監教授と為すも、力辞した。
尋いで秘書省校書郎に召される。既に入見し、崇政殿説書に擢げられる。即ち上疏して言うには、「習は智と共に長じ、化は心と共に成る。今夫れ人民、善く其の子弟を教うる者は、亦必ず名徳の士を延いて、之と処らしめ、以て性を薫陶して成さしむ。況んや陛下春秋の富めるや、睿聖天資に得たりと雖も、輔養の道至らざるべからず。大率一日の中、賢士大夫に接する時多く、寺人宮女に親しむ時少なければ、則ち気質変化し、自然に成る。願わくは名儒を選び入侍して勧講せしめ、講罷りては之を分直に留め、以て訪問に備え、或いは小失あれば、事に随って規を献じ、歳月積久すれば、必ず能く聖徳を養成せん」と。頤は毎に進講するに、色甚だ荘、諷諫を以て継ぐ。帝が宮中にて手を洗うに蟻を避けたると聞き、問うて「是れ有るか」と。曰く「然り、誠に之を傷つけんことを恐るるのみ」と。頤曰く「此の心を推して四海に及ぼすは、帝王の要道なり」と。
神宗の喪未だ除かざるに、冬至、百官表賀す。頤言う、「節序変遷し、時思方に切なり。賀を改めて慰と為さんことを乞う」と。既に喪を除くに、有司楽を開き宴を置かんことを請う。頤又言う、「喪を除きて吉礼を用うるに、尚お事に因りて楽を張るべし。今特ちに宴を設くるは、是れ之を喜ぶなり」と。皆之に従う。帝嘗て瘡疹を以て邇英殿に御せず累日、頤宰相に詣りて安否を問い、且つ曰く、「上殿に御せずば、太后独坐すべからず。且つ人主疾有れば、大臣知らざるべけんや」と。翌日、宰相以下始めて奏して疾を問うことを請う。
蘇軾は頤に悦ばず、頤の門人賈易・朱光庭平らかならず、合して軾を攻む。胡宗愈・顧臨は頤を用うるに宜しからずと詆り、孔文仲極めて之を論ず。遂に出でて西京国子監を管勾す。久しくして、直秘閣を加えられ、再び表を上りて辞す。董敦逸復た其の怨望の語有りと摭う。官を去る。紹聖中、籍を削り涪州に竄す。李清臣洛を尹し、即日迫遣す。叔母に別れ入らんと欲するも亦許さず、明日銀百両を以て贐すも、頤受けず。徽宗即位し、峽州に徙し、俄かに其の官を復し、又崇寧に於いて奪わる。卒す年七十五。
頤は書に読まざる無し。其の学は誠を本とし、『大学』・『論語』・『孟子』・『中庸』を標指として、『六経』に達す。動止語黙、一に聖人を師とし、其の聖人に至らざるは止まざるなり。張載は其の兄弟が十四五より便ち脱然として聖人に学ばんと欲すと称し、故に卒に孔・孟の伝えざるの学を得て、以て諸儒の倡えと為す。其の言の旨は、布帛菽粟の若く、徳を知る者は尤も之を尊崇す。嘗て言う、「今農夫は寒暑雨を祁り、深く耕し易く耨し、五穀を播種し、吾之を得て食らう。百工技藝は器物を作為し、吾之を得て用う。介冑の士は堅きを被り鋭きを執り、以て土宇を守り、吾之を得て安んず。功沢人に及ぼす無くして、浪々に歳月を度り、晏然として天地間の一蠹と為る。唯だ聖人の遺書を綴緝して、庶幾くは補う有らんのみ」と。ここに於いて『易伝』・『春秋伝』を著して以て世に伝う。『易伝序』に曰く。
『易』は変易なり。時に随いて変易して以て道に従うなり。其の書たるや、広大悉く備わり、将に以て性命の理を順い、幽明の故を通じ、事物の情を尽くし、而して物を開き務を成すの道を示さんとす。聖人の後世を憂患する、至りと謂うべし。古を去ること遠しと雖も、遺経尚お存す。然れども前儒は意を失いて以て言を伝え、後学は言を誦して味を忘る。秦より下りて、蓋し伝うる無し。予は千載の後に生れ、斯の文の湮晦するを悼み、将に後人をして流に沿いて源を求めしめんとす。此の『伝』の作る所以なり。
『易』に聖人の道四つ有り。言を以てする者は其の辞を尚び、動を以てする者は其の変を尚び、器を制する者は其の象を尚び、卜筮を以てする者は其の占を尚ぶ」。吉凶消長の理・進退存亡の道は辞に備わり、辞を推し卦を考うれば以て変を知るべく、象と占は其の中に在り。「君子は居れば則ち其の象を観て其の辞を玩び、動けば則ち其の変を観て其の占を玩ぶ」。辞に得て其の意に達せざる者あれども、辞に得ずして能く其の意を通ずる者未だ有らざるなり。至微なる者は理なり、至著なる者は象なり。体用一源、顕微間無し。会通を観て以て其の典礼を行えば、則ち辞に備はらざる無し。故に善く学ぶ者は、言を求むる必ず自ら近きよりす。近きに易き者は、言を知る者に非ざるなり。予の伝うる所は辞なり。辞を由りて意を得んとすれば、則ち人に在り。
『春秋伝序』に曰く。
天が民を生ずれば、必ず出類の才ある者起こりてこれを君長し、これを治めて争奪を息め、これを導いて生養を遂げ、これを教えて倫理を明らかにし、然る後に人道立ち、天道成り、地道平らかなり。二帝より以上は、聖賢世に出で、時に随ひて作ること有り、風気の宜しきに順ひ、天に先んじて以て人を開かず、各時に因りて以て政を立てたり。三王に至りて迭りに興り、三重既に備はり、子・丑・寅の建正、忠・質・文の更尚、人道備はり、天運周しぬ。聖王既に復た作らず、天下を有つ者古の跡を倣はんと欲すと雖も、亦た私意妄為のみ。事の繆れるは、秦に至りて建亥を以て正と為し、道の悖れるは、漢専ら智力を以て世を持す、豈に復た先王の道を知らんや。夫子周の末に当たり、聖人の復た作らざるを以て、天に順ひ時に応ずるの治復た有らざるを以て、ここに《春秋》を作り、百王易ふべからざるの大法と為す。所謂「諸を三王に考ふるも繆からず、諸を天地に建つるも悖からず、諸を鬼神に質すも疑なく、百世聖人を俟つも惑はざる」者なり。先儒の伝は、游・夏も一辞を賛すること能はず、辞は賛を待たざる者なり、言は斯れに与すること能はざるを言ふ爾。斯の道は、唯だ顔子嘗てこれを聞けり。「夏の時を行ひ、殷の輅に乗り、周の冕を服し、楽は則ち《韶舞》なり」、これ其の准的なり。後史吏を以て《春秋》を視るは、善を褒め悪を貶すのみと謂ひ、経世の大法に至りては、則ち知らざるなり。《春秋》大義数十、其の義大なりと雖も、炳として日星の如し、乃ち易く見るなり。唯だ其の微辞隠義、時に措きて宜しきに従ふ者は、知り難きなり。或いは抑へ或いは縦し、或いは与へ或いは奪ひ、或いは進め或いは退け、或いは微かに或いは顕はにして、而して義理の安きを得、文質の中、寛猛の宜しき、是非の公なるに得て、乃ち事を制するの権衡、道を揆るの模範なり。夫れ百物を観て然る後に化工の神を識り、衆材を聚めて然る後に室を作るの用を知る、一事一義に於て而して聖人の用心を窺はんと欲すれば、上智に非ざれば能はざるなり。故に《春秋》を学ぶ者は、必ず優遊涵泳し、黙識心通し、然る後に能く其の微に造るなり。後王《春秋》の義を知れば、則ち徳は禹・湯に非ずと雖も、尚ほ以て三代の治を法とすべし。秦より下りて、其の学伝はらず、予聖人の志の後世に明らかならざるを悼み、故に《伝》を作りて以てこれを明らかにし、後の人をして其の文を通じて其の義を求め、其の意を得て其の用を法とせしめ、則ち三代復たすべし。是の《伝》なり、聖人の蘊奥を極むるに能はざると雖も、庶幾くは学者其の門を得て入らん。
門人劉絢・李籲・謝良佐・游酢・張繹・蘇昞は皆、歴然として記すべき者なり、左に附す。呂大鈞・大臨は『大防傳』に見ゆ。
張載
張載
張載は字を子厚といい、長安の人である。若い頃より兵事を論ずるを好み、ついには客を結び洮西の地を取らんと欲した。二十一歳の時、書を以て范仲淹に謁し、一見してその遠大なる器量を知り、乃ちこれを戒めて曰く、「儒者には自ら名教の楽しむべきあり、何事ぞ兵に於いてせん」と。因りて『中庸』を読むを勧む。載その書を読み、猶以て未だ足らずと為し、又諸方の釈・老を訪い、累年その説を究極し、得る所なきを知り、反ってこれを『六経』に求む。嘗て虎皮を坐し京師にて『易』を講じ、聴従する者甚だ衆し。一夕、二程至り、『易』を論じ、次日人に語りて曰く、「比に二程を見るに、深く『易』の道を明らかにす、吾の及ばざる所なり、汝輩師とすべし」と。坐を撤ぎ講を輟む。二程と道学の要を語り、渙然として自ら信じて曰く、「吾が道は自ら足る、何事ぞ旁に求めん」と。ここに於いて尽く異学を棄て、淳如たり。
進士に挙げられ、祈州司法参軍・雲岩県令となった。政事は根本を厚くし風俗を善くすることを先とし、毎月の吉日には酒食を整え、郷里の高齢者を県庭に招き会し、自ら勧酬した。人々に老を養い長に事える道理を知らしめ、これに因りて民の疾苦を問い、及び子弟を訓戒する所以の意を告げた。
熙寧の初め、御史中丞呂公著が彼に古学ありと上言し、神宗はまさに百度を一新せんとし、才哲の士を得てこれに謀らんと思い、召見して治道を問うと、対えて曰く、「政を為すに三代に法らざるは、終に苟なる道なり」と。帝は悦び、崇文院校書と為す。他日王安石に見え、安石新政を以て問うと、載は曰く、「公人と善を為せば、則ち人善を以て公に帰す、玉人を教えて玉を琢たしむるが如くは、則ち宜しく命を受けざる者有るべし」と。
明州に苗振の獄が起こり、之を治めに往き、其の罪を末殺す。還朝して、即ち疾を移して屏居し南山の下に、終日危坐して一室に、左右に簡編を置き、俯して読み、仰ぎて思い、得る有れば則ち之を識し、或いは中夜に起き坐し、燭を取って以て書す。其の志道精思は、未だ嘗て須臾も息まず、亦未だ嘗て須臾も忘れず。敝衣蔬食し、諸生と講学し、毎に礼を知り性を成し、気質を変化するの道を告げ、学は必ず聖人の如くにして後に已むべしとす。人を知りて天を知らず、賢人を求めて聖人を求めざるは、此れ秦・漢以来の学者の大蔽なりと以為う。故に其の学は礼を尊び徳を貴び、天を楽しみ命に安んじ、『易』を以て宗と為し、『中庸』を以て体と為し、『孔』・『孟』を以て法と為し、怪妄を黜け、鬼神を弁ず。其の家の昏喪葬祭は、率ね先王の意を用い、而して今礼を以て傅う。又井田・宅裏・発斂・学校の法を論定し、皆条理を成して書と為し、使うに挙げて諸の事業に措く可からしめんと欲す。
呂大防がこれを推薦して曰く、「張載の終始、善く聖人の遺旨を発明し、その政治を論ずるや略々古に復すべし。宜しくその旧職に還し、以て諮訪に備うべし」と。乃ち詔して太常礼院を知らしむ。有司と礼を議して合わず、復た疾を以て帰り、中道疾甚だしく、沐浴し衣を更えて寝、旦にして卒す。貧しくして斂むるに資なく、門人共に棺を買い奉りてその喪を還す。翰林学士許将等その進取に恬なるを言い、贈恤を加うるを乞い、詔して館職の半を賻す。
張載は古学を修め力行し、関中の士人の宗師となり、世に横渠先生と称された。著書に『正蒙』と号し、また『西銘』を作りて曰く。
乾は父と稱し、坤は母と稱す、予茲に藐焉にして、乃ち混然として中に處る。故に天地の塞ぐは吾が體、天地の帥るは吾が性、民は吾が同胞、物は吾が與なり。大君は、吾が父母の宗子、其の大臣は、宗子の家相なり。高年を尊ぶは、其の長を長ずる所以、孤幼を慈しむは、其の幼を幼くする所以、聖は其の德を合する者、賢は其の秀なり。凡そ天下の疲癃殘疾・恂獨鰥寡は、皆吾が兄弟の顛連して告ぐる無き者なり。「時に之を保つ」は、子の翼なり。「樂しみて且つ憂へず」は、純乎たる孝者なり。違ふを悖德と曰ひ、仁を害するを賊と曰ひ、惡を濟ふる者は不才、其の形を踐むは惟だ肖なる者なり。化を知れば則ち善く其の事を述べ、神を窮めれば則ち善く其の志を繼ぎ、屋漏に愧ぢざるは忝かざる爲、心を存し性を養ふは懈らざる爲なり。旨酒を惡むは、崇伯の子の養ひを顧みるなり;英材を育むは、潁封人の類を錫ふなり。勞を弛めずして豫に底るは、舜其の功なり;逃るる所無くして烹らるるを待つは、申生其の恭なり。其の受くるを體して全きに歸するは、參か;從ふに勇みて令に順ふは、伯奇なり。富貴福澤は、將に吾が生を厚くせんとす;貧賤憂戚は、庸ぞ女を玉にして成らしむるなり。存すれば、吾順事し;歿すれば、吾寧し。
程頤は嘗て言う、「『西銘』は理の一にして分の殊なることを明らかにし、前聖の未だ発せざる所を拡げ、孟子の性善・養気の論と功を同じくす、孟子の後より蓋し未だ之を見ざるなり」と。学者は今に至るまで其の書を尊ぶ。
弟の戩
張戩
戩は、字を天祺という。進士より起り、閿郷の主簿に調ぜられ、金堂県を知る。誠心を以て人を愛し、老を養い窮を恤み、間には父老を召して子弟を教え督めしむ。民に小善あれば、皆これを籍記す。奉銭を以て酒食と為し、月吉には、老者を召して飲み労い、その子孫をして侍らしめ、孝弟を以て勧む。民その徳に化し、至る所獄訟日ごとに少なし。
熙寧初年、監察御史裏行となる。累次上章して王安石の法を乱すを論じ、条例司を罷め、常平使者を追還するを乞う。曾公亮・陳升之・趙抃が依違して救正せざるを劾し、韓絳が左右に徇従し、之と死党を為し、李定が邪諂を以て台諫を窃むを劾す。且つ安石が国を擅にし、絳の詭随を以て輔け、台臣又た定輩を用い、継続して来り、芽蘖漸く盛んなり。呂惠卿は薄く辯給を劾し、経術を仮りて以て奸言を文し、豈に君側に勧講すべきや。書数十上し、又た中書に詣りて之を争う。安石扇を挙げて面を掩ひて笑ふ。戩曰く「戩が狂直は公の笑ふに宜し。然れども天下の公を笑ふ者少なからず」と。趙抃旁より之を解く。戩曰く「公亦た無罪と為すを得ず」と。抃愧色有り。遂に病を称して罪を待つ。
公安県の知県に転出し、司竹監の監に移り、遂には一家挙げて筍を食わざるに至る。常に一卒を愛用す、及んで将に代わらんとするに、自ら其人の筍籜を盗むを見て、これを治むるに少しも貸さず、罪已に正しきに、之を待つこと復た初めの如く、少しも意に介せず、其の徳量此の如し。官に卒す、年四十七。
邵雍
邵雍
邵雍、字は堯夫。その先祖は范陽の人、父の古は衡漳に移り、また共城に移る。雍、年三十にして、河南に遊学し、その親を伊水のほとりに葬り、遂に河南の人となる。
雍は若き時、自らその才を雄とし、慷慨として功名を立てんと欲す。書において読まざる所なく、学を為すに始めて、即ち堅苦刻厲にして、寒くとも炉を用いず、暑くとも扇を用いず、夜は席に就かざること数年。已にして歎いて曰く、「昔の人は尚友を古に求めしに、而るに吾れ独り未だ四方に及ばず」と。ここにおいて河・汾を踰え、淮・漢を渉り、周流して斉・魯・宋・鄭の墟に至り、久しくして幡然として来帰し、曰く、「道は是に在り」と。遂に復た出でず。
北海の李之才が共城令を兼ね、邵雍の好学を聞き、嘗てその廬を訪れ、謂う「子また物理性命の学を聞くか」と、雍対えて曰く「幸いに教えを受けん」と、乃ち之才に事え、『河図』・『洛書』・『宓義』八卦六十四卦の図像を受く、之才の伝は、遠く端緒有り、而して雍は賾を探り隠を索め、妙悟神契し、蘊奥を洞徹し、汪洋浩博にして、多く其の自得する所の者なり、其の学益々老い、徳益々邵く、心を高明に玩び、以て天地の運化、陰陽の消長を観、遠くは古今の世変、微には走飛草木の性情、深造曲暢し、庶幾く所謂惑はざるに近く、而して象類に依仿し億則屢中する者に非ず、遂に宓羲先天の旨を衍べ、著書十余万言世に行わる、然れども世の其の道を知る者は鮮し。
初め洛陽に至りし時は、蓬蓽環堵にして風雨を蔽うに足らず、自ら樵爨して父母に事え、平居屢空と雖も怡然として甚だ楽しむ所あり、人其の境を窺う能わず。及んで親の喪に執り、哀毀して礼を尽くす。富弼・司馬光・呂公著諸賢洛中に退居し、雅に雍を敬し、恒に相従い遊び、園宅を市うて之に与う。雍は歳時耕稼して、僅かに衣食を給す。其の居を名づけて「安楽窩」と曰い、因りて自ら安楽先生と号す。旦には則ち香を焚きて燕坐し、晡時に酒を酌みて三四甌、微醺なれば即ち止め、常に酔いに及ばず、興至れば輒ち詩を哦して自ら詠ず。春秋時に出でて城中を遊び、風雨の時は常に出でず、出づれば則ち小車に乗じ、一人之を挽き、惟だ意の適う所に従う。士大夫の家其の車音を識り、争い相迎え候い、童孺廝隸皆歓び相謂いて曰く、「吾が家の先生至れり」と。復た其の姓字を称せず。或いは信宿を留めて乃ち去る。好事者別に屋を作ること雍の居る所の如くして、以て其の至るを候い、名づけて「行窩」と曰う。
司馬光は兄として雍に仕え、而して二人の純粋なる徳は特に郷里の慕い向かうところとなり、父子兄弟は毎度互いに戒めて曰く、「不善を為すことなかれ、恐らくは司馬端明・邵先生に知られん」と。洛に至る士人にして、公府に至らざる者は、必ず雍に至る。雍の徳気は粹然として、之を望めば其の賢なるを知る、然れども表襮を事とせず、防畛を設けず、群居して燕笑すること終日、甚だ異なるを為さず。人と言うに、其の善を道うことを楽しみて其の悪を隠す。就いて学を問う者有れば則ち之に答え、未だ嘗て強いて以て人に語らず。人に貴賤少長無く、一に誠を以て接す、故に賢者は其の徳を悦び、不賢者は其の化に服す。一時洛中の人才特に盛んにして、而して忠厚の風は天下に聞こゆ。
熙寧の新法施行に際し、官吏は強制されて為すべからざるに至り、或いは辞表を投じて去る者あり。雍の門生故友にして州県に居る者は、皆書を貽して雍に訪う。雍曰く、「此れ賢者の当に力を尽くすべき時なり、新法固より厳しと雖も、能く一分を寛げば、則ち民は一分の賜を受く。辞表を投ずること何の益かあらんや」と。
嘉祐の詔にて遺逸を求めしに、留守の王拱辰、雍を以て詔に応じ、将作監主簿を授け、復た逸士を挙げ、潁州団練推官を補せしむるも、皆固く辞し、乃ち命を受け、竟に疾を称して之に官せず。熙寧十年、卒す、年六十七、秘書省著作郎を贈らる。元祐中に諡して康節を賜ふ。
雍は高明にして英邁、千古を迥出すれども、坦夷渾厚にして圭角を見えず、是を以て清にして激せず、和にして流れず、人と交わり久しくして、益々尊信す。河南の程顥、初め其の父に侍して雍を識り、論議終日、退きて歎じて曰く、「堯夫は、内聖外王の学なり」と。
邵雍の知慮は人に絶し、事に遇うれば能く前知す。程頤嘗て曰く、「其の心虛明にして、自ら能く之を知る」と。当時の学者、雍の超詣の識に因り、務めて雍の為す所を高くし、至っては雍に玩世の意有りと謂い、又た雍の前知に因り、雍は凡そ物の声気の感ずる所に触れ、輒ち其の動きに以て其の変を推すと謂う。ここに於いて世事の已に然る者を摭ひ、皆以て雍の言に先んずるも、雍蓋し未だ必ずしも然らず。
雍が病に臥すと、司馬光・張載・程顥・程頤が朝夕見舞い、終に臨みて共に喪葬の事を外庭に議す。雍は皆能く衆人の言ふ所を聞き、子の伯溫を召して謂ひて曰く、「諸君我を近城の地に葬らんと欲すれど、当に先塋に従ふべし」と。既に葬りて、顥墓銘を作り、雍の道は純一にして雑ならず、其の至れる所に就きて、安くして成れりと謂ふ可しと称す。著する所の書は『皇極経世』・『観物内外篇』・『漁樵問対』と曰ひ、詩は『伊川撃壤集』と曰ふ。
子の伯溫は、別に傳がある。