宋代の法に循吏を得るべき三つの方策あり。太祖の世、牧守・令・録はみな自ら召見し、政事を問いてから遣わし、簡擇の道は精であった。監司は郡守を察し、郡守は県令を察し、各々時に応じてその殿最を上奏し、また朝臣を命じて専らその治めを督せしめ、考課の方は密であった。吏が贓を犯して赦に遇えば原宥せず、防閑の令は厳であった。
承平の世、州県の吏が謹んで法度を守りその職業を修める者は、実にその人多くあり。その間に必ず絶異の績あり、然る後に賞令によって別にし、あるいは州県の善最より、他日に遂に名臣となる者あり、則ち撫字の長はまた以てその平生を尽くすに足らず。故に三百余年の始終、循吏として簡策に載せられる者は十二人。『循吏傳』を作る。
陳靖
陳靖、字は道卿、興化軍莆田の人。学を好み、頗る古今に通ず。父の仁壁、陳洪進に仕えて泉州別駕となる。洪進が臣と称す。豪猾にして険に負けて乱を為す者あり、靖は徒歩で転運使楊克巽に謁し、賊を討つ策を陳ぶ。召し還されて陽翟県主簿を授かる。契丹が辺を犯し、王師数度利あらず。靖は従子を遣わして上書し、入奏して機略を奏するを求む。詔して就いてこれを問う。五策を上る。曰く、賞罰を明らかにすべし。士衆を撫すべし。重きを恃み弱きを示し、利を待ちて挙ぐべし。帥府は自ら士を辟するを許すべし。而して将帥は境外を専制するを得べし。太宗これを異とし、将作監丞に改め、未だ幾ばくもせず、御史臺推勘官となる。
時に御試進士、多く文の先に就く者を高等に擢で、士は皆浮華を習い、敏速を尚ぶ。靖は請う、文を考官に付して甲乙を第し、唱名を俟ち、或いは果たして知名の士あれば、即ち上科に置くべしと。父に喪し、起復して秘書丞、直史館、三司開拆司を判ず。淳化四年、高麗に使いして還り、在京百司を提点し、太常博士に遷る。
太宗農事を興すに務め、詔して有司に均田法を議せしむ。靖議して曰く、「法は未だ容易に遽に行い難し。宜しく先ず大臣或いは三司使を租庸使と為し、或いは屯田制置を兼ね、仍って三司判官を択び、民事に通曉する者二人を選んでその貳と為すべし。両京東西千里、荒地及び逃民の産籍を検責し、耕作を募り、耕者に室廬・牛犁・種食を賜い、足らざれば則ち庫銭を給すべし。その課を別ちて十分と為し、州県に責めて課を勧め、印紙を給してこれを書かしむ。殿最を分かって三等と為す。凡そ県の墾田を管する、一歳に課三分を得、二歳六分、三歳九分を、下最と為す。一歳四分、二歳七分、三歳十分に至るを、中最と為す。一歳五分、未だ三歳に及ばずして十分に盈つるを、上最と為す。その最なる者は、令・佐の選を免じ或いは資を超えしめ、殿なる者は即ち選を増し資を降すべし。毎州、通じて諸県の田を以て十分と為し、殿最を視て賞罰を行ふべし。数歳を俟ち、尽く官屯田を罷め、悉く民に賦し、然る後に人を量りて田を授け、地を度りて税を均しくし、井田の制に約し、法を以て定め、四方に頒行するは、此れに過ぎざるべし。」太宗呂端に謂ひて曰く、「朕井田を復せんと欲す、顧みて未だ能はざるなり。靖が此の策朕が意に合ふ。」乃ち召見し、食を賜ひて遣はす。
他日、帝また端に語る。曰く、「靖の説是れと雖も、第に田必ずしも墾けず、課必ずしも入らず。三司に下して雑議せしむべし。」ここに於て詔して塩鉄使陳恕等に各々判官二人を選びて靖と議せしめ、靖を京西勧農使と為し、大理寺丞皇甫選・光禄寺丞何亮を命じてその副と為す。選等その功の成り難きを言ふ。帝猶ほ然らずと謂ふ。既にして靖は緡銭二万を仮りて試みに行はんと欲す。陳恕等言ふ、「銭一出でて、後に償ふ能はざれば、則ち民害を受く。」帝群議終に同じからざるを以て、始めてこれを罷め、靖を出して婺州を知らしめ、再び遷りて尚書刑部員外郎となる。
真宗即位し、復た前に論じし勧農事を列ね、また言ふ、「国家戎を西北に禦ぐも、食を仰ぐは東南にあり。東南の食足らざれば、則ち国大計を誤る。京東・西及び河北諸州より大いに勧農の法を行ひ、以て州県官吏の殿最と為し、歳に江・淮の漕百余万を省くべし。」復た詔して靖に条上せしむ。靖は請ふ、刺史は春を行ひ、県令は耕を勧め、孝悌力田の者には爵を賜ひ、五保を置きて以て姦盗を検察し、游惰の民を籍して以て役作に供すべしと。また三司に下して議せしむも、皆果たして行はれず。
度支判官を歴え、京畿均田使となり、出でて淮南転運副使兼発運司公事となり、江南転運使に徙る。前の李氏が民に横賦したる凡そ十七事を極論し、詔してその尤甚なる者を罷む。譚州知州に徙り、度支・塩鉄判官を歴る。汾陰に祀り、行在三司判官となる。また京西・京東転運使を歴え、泉・蘇・越の三州を知り、累遷して太常少卿となり、太僕卿・集賢院学士に進み、建州を知り、泉州に徙り、左諫議大夫を拝す。初め、靖は丁謂と善し。謂貶せられ、党人皆逐ひ去らる。提点刑獄・侍御史王耿乃ち言ふ、「靖は老疾なり、久しく郷里の官と為すに宜しからず。」ここに於て秘書監を以て致仕し、卒す。
靖平生多く建畫あり、而して農事に於て尤も詳し。嘗て淳化・咸平以来の陳べし表章を取って、目して『勧農奏議』と曰ひ、録して上る。然れどもその説は古に泥み、多く行ふべからず。
張綸
張綸、字は公信、潁州汝陰の人。少にして倜儻として気を任す。進士に挙げられて中らず、三班奉職を補し、右班殿直に遷る。雷有終に従ひて蜀に於て王均を討つ。降寇数百、険に拠りて叛く有り。綸をしてこれを撃たしむ。綸馳せて報じて曰く、「此れ窮寇なり、之を急かせば則ち患ひを生ず。向背を諭すに如かず。」有終その説を用ふ。賊果たして兵を棄て来降す。功を以て右侍禁・慶州兵馬監押に遷り、閤門祗候に擢でられ、益・彭・簡等州都巡検使となる。所部の卒酒を縦し居民を掠む。綸は首悪数人を斬り、衆乃ち定まる。荊湖提点刑獄に徙り、東頭供奉官・提点開封府界県鎮公事に遷る。
霊夏に奉使して還る。会うに辰州溪峒の彭氏蛮が内寇す。以て辰州知州となる。綸至りて蓬山の驛路を築く。賊通ずるを得ず、乃ち遁ぐ。渭州知州に徙る。内殿崇班・鎮戎軍知軍に改む。契丹に奉使す。安撫使曹瑋表してこれを留むるも、可からず。蛮復た入寇す。辰州・澧鼎等州縁辺五溪十峒巡検安撫使と為り、蛮酋に禍福を諭し、掠めし民を購ひて還し、官を遣はして盟し、石を境上に刻む。
久しくして、江淮制置発運副使に除せらる。時に塩課大いに虧け、乃ち奏して通・泰・楚三州の塩戸の宿負を除き、官其の器用を助け、塩入に優に之に直を与ふ。是より歳に課数十万石を増す。復た杭・秀・海三州に塩場を置き、歳に入課また百五十万。二歳居りて、上供米八十万を増す。五渠を疏し、太湖を導きて海に入らしめ、租米六十万を復す。長蘆西河を開きて覆舟の患を避け、又た漕河堤二百里を高郵の北に築き、旁ら巨石を錮めて十䃮と為し、以て横流を泄す。泰州に捍海堰有り、延袤百五十里、久しく廃して治めず、歳に海濤の民田を冒すを患ふ。綸方に修復を議す。論者之を難じ、以て濤患息みて畜潦の患興ると為す。綸曰く、「濤の患は十に九、而して潦の患は十に一、多く獲て少なく亡ふ、豈に不可ならんや」と。表を三たび請ひ、願はくは身自ら臨役せんとす。命じて兼ねて権に泰州を知らしめ、遂に堰を成し、逋戸二千六百を復し、州民之に利し、生祠を立てむ。
淮南に居ること六年、累遷して文思使・昭州刺史と為る。契丹の隆緒死す、弔慰副使と為る。歴て秦・瀛二州を知り、両たび滄州を知り、再遷して東上閤門使、真に乾州刺史を拝し、徙めて潁州を知り、卒す。綸材略有り、至る所に利を興し害を除く。人と為り恕にして、施予を喜ぶ。江・淮に在りて、漕卒凍餒し道に死する者衆しを見て、歎きて曰く、「此れ有司の過ちなり、上仁を体する所以に非ざるなり」と。奉銭を推して絮襦千数を市ひ、其の自存すること能はざる者に衣せしむ。
邵曄
邵曄、字は日華、其の先は京兆の人なり。唐末喪乱に、曾祖岳は族を挈きて荊南に之き高季興に謁す。礼せられず、遂に湖南に之く。彭玗全州を刺し、辟して判官と為す。会に賊魯仁恭連州を寇す。即ち岳を署して国子司業・知州事と為し、遂に桂陽に家す。祖崇徳、道州録事参軍。父簡、連山令。
曄幼より学を嗜み、辟署に従ふを恥づ。太平興国八年、進士第に擢げられ、褐を解き、邵陽主簿を授けられ、大理評事・知蓬州録事参軍に改む。時に太子中舎楊全州を知る。性悍率蒙昧にして、部民張道豊等三人誣られて劫盗と為り、悉く死に置かる。獄已に具はる。曄其の枉を察し、牘に署せず、全に白して当に其の実を核すべしとす。全聴かず、道豊等を引いて法に抵せしむ。号呼して服せず、再び獄に繫ぎ按験す。既にして正盗を捕獲し、道豊等遂に釈を得。全坐して籍を削られ民と為る。曄代へ還り引対す。太宗之に謂ひて曰く、「爾能く吾が平民を活かす、深く嘉す可し」と。銭五万を賜ひ、詔を下して以て全の事を戒諭天下す。曄に光禄寺丞を授け、広南に使して刑獄を採訪せしむ。俄に荊南を通判し、緋魚を賜ふ。著作佐郎に遷り、忠州を知る。歴て太常丞・江南転運副使、監察御史に改む。母老を以て就養を乞ひ、朗州を知ることを得。入りて三司磨勘司を判し、工部員外郎・淮南転運使に遷る。
景德中、光禄卿を仮り、交阯安撫国信使を充つ。会に黎桓死し、其の子龍鉞嗣ぎ立ち、兄龍全兵を率ひて庫財を劫し去る。其の弟龍廷鉞を殺し自立す。龍廷の兄明護扶蘭砦の兵を率ひて攻戦す。曄嶺表に駐し、事を以て上聞す。命を改めて縁海安撫使と為し、便宜を許して方略を設けしむ。曄安南に書を貽し、朝廷の威徳を諭し、俾く速に定位せしむ。明護等即時に命を聴き、龍廷を奉りて軍事を主らしむ。初め、詔して曄に其の事定まるを俟ち、即ち黎桓の礼物を以て新帥に改めて賜はしむ。曄上言して曰く、「外夷を懐撫するは、当に誠信を示すべし。龍廷の貢奉を俟ち、別に封爵を加へて之を寵賜するに若かず」と。真宗甚だ嘉納す。使還り、兵部員外郎に改め、金紫を賜ふ。初め使を受けし時、官銭八十万を仮り、私覿物を市ふ。安撫と為るに及び、已に其の半を償ひ、余は皆詔して之を除く。嘗て『邕州より交州に至る水陸路』及び『宜州山川』等の四図を上る。頗る控制の要を詳にす。
俄に三司三勾院を判す。挙ぐる所の季随贓を犯すに坐し、曄当に一官を削らるべし。上其の遠使の勤を以てし、止むるに停任を令す。大中祥符初、起きて兗州を知り、表して東封を請ふ。優詔以て之に答ふ。及び王欽若・趙安仁を遣はして封禅を経度せしめ、仍く州事を判し、就きて命じて曄を京東転運使と為す。封禅の礼畢り、超えて刑部郎中を拝し、復た三勾院を判し、出でて淮南・江浙・荊湖制置発運使と為る。四年、右諫議大夫に改め、広州を知る。州城海に瀕し、毎に蕃舶岸に至るに、常に颶風を苦しむ。曄内濠を鑿ちて舟を通じ、颶害すること能はず。俄に疾に遘ひ卒す。年六十三。
崔立
崔立、字は本之、開封鄢陵の人なり。祖周度、周に仕へて泰寧軍節度判官と為る。慕容彦超叛く。周度大義を以て之を責む。遂に見殺さる。立進士第に中る。果州団練推官と為る。役兵官物を輦す。道険し。乃ち衆に率ひて銭し、舟を傭ひて載せ帰る。知州姜従革率斂法に論ず。当に三人を斬るべし。立曰く、「此れ私に己れするに非ず、罪杖のみ」と。従革初め聴かず、卒に論奏す。詔して立の議の如くす。真宗之を記し、特に大理寺丞に改め、安豊県を知らしむ。大水期斯塘を壊す。立躬から繕治を督し、月を踰えて成る。殿中丞に進み、歴て広州・許州を通判す。
会に滑州決河を塞ぐ。民を調して芻楗を出さしめ、命じて立に提挙して受納せしむ。立其の用の余る有るを計り、而下戸未だ輸せざる者尚ほ二百万有る。悉く奏して之を弛む。江陰軍を知る。属県に利港有り、久しく廃す。立民に教へて濬治せしむ。既に成り、田数千頃を溉ぎ、及び横河六十里を開きて、運漕を通ず。累遷して太常少卿、歴て棣・漢・相・潞・兗・鄆・涇の七州を知る。兗州歳に大饑す。富人を募りて穀十余万石を出さしめ、餓者を振る。全活する所の者甚だ衆し。
立性淳謹、尤も事を論ずるを喜ぶ。大中祥符間、帝既に封禅し、士大夫争ひて符瑞を奏上し、賛頌を献ず。立独り言ふ、「水は徐州に発し、旱は江・淮に連なり、無為烈風、金陵火、天の以て驕惰を警め、淫泆を戒むるなり。区区の符瑞、尚ほ何をか足らむとして治道を言はんや」と。前後四十余事を上る。右諫議大夫を以て耀州を知り、改めて濠州を知り、給事中に遷る。老を告げ、進みて尚書工部侍郎にて致仕し、卒す。韓琦を布衣に識り、女を以て之に妻す。人嘗て其の鑒に服すと云ふ。
魯有開
魯有開、字は元翰、参知政事宗道の従子なり。『礼』学を好み、『左氏春秋』に通ず。宗道の蔭を用ひ、韋城県を知る。曹・濮の劇盗旁県の間に横行す。其の名を聞きて敢へて境に入らず。確山県を知る。大姓官政を把持す。有開其の最も甚だしき者を治む。遂に以て事無し。廃陂を興し、民田数千頃を溉ぐ。富弼蔡を守り、之を薦め、以て古の循吏の風有りと為す。
金州を知る。蠱の獄有り、当に死すべき者数十人。有開曰く、「人を殺さんと欲せば、衷に之を謀る足れり、安んぞ是の如く衆きを得んや」と。之を訊すれば則ち誣なり。天方に旱す。獄白くして雨ふ。南康軍を知り、代へ還る。熙寧新法を行ふ。王安石江南如何と問ふ。曰く、「法新に行はる、未だ其の患を見ず、当に異日に在らん」と。以て対する所乖異なるを、出でて杭州を通判す。
衛州の知州となった時、水害が起こり、民は食糧に窮し、常平銭穀を勝手に貸し与え、かつその利息の免除を上奏して請うた。冀州に転じ、堤防を増築した。或る者が「郡に水害はないのに、どうして労役を起こすのか」と言うと、有開は「不慮の事態に備えるのは、古来の良策である」と言った。ついに完成させた。翌年、黄河が決壊し、果たして水が到来したが、堤防を越えることができずに止んだ。朝廷が河北に使者を遣わした時、民衆が道を遮って有開の功績を称え、召されて膳部郎中となった。元祐年間、信陽軍・洺州・滑州の知州を歴任し、再び冀州を守り、官は中大夫に至り、卒した。
張逸
張逸、字は大隱、鄭州滎陽の人である。進士に及第し、試秘書省校書郎となった。襄州鄧城県の知県となり、有能な名声があった。知州の謝泌が逸を推薦しようとして、まず机を設け、奏章をその上に置き、宮闕を望んで再拝して言った、「老臣、朝廷のために一人の良吏を得たり」。そこで彼を奏薦した。ある日引見されて応対した時、真宗が望む官職を問うと、逸は答えて言った、「母が老いて家におりますので、故郷に近い幕職官を得て帰り、旨い食物を捧げて孝養を尽くせば足ります」。澶州観察推官に任じられたが、数日後、母の喪のため去った。喪が明けて引見されると、帝はまた固く問うたので、答えて言った、「京官を得たいと存じます」。特に大理寺丞に改めた。帝は泌をひとかたならず賢者と認めており、再び逸を召し問うたのは、泌の推薦を用いたのである。
長水県の知県となった。時に王嗣宗が西京留守としており、彼を厚遇した。青神県に転じた時は貧しく自ら生活を賄えなかったので、嗣宗は半年分の俸給を前借りさせて行装を整えさせた。県に着くと、学校を興し、生徒を教えた。後に邑人の陳希亮・楊異が相次いで科挙に合格したので、逸はその居住地を桂枝里と改称した。県の東南に松栢灘があり、夏秋の増水時に船の転覆が多いので、逸は江の神に祈った。一ヶ月も経たないうちに、灘が五里ほど移動し、当時の人はこれを怪しんだ。再び太常博士に遷り、尉氏県の知県となった。監察御史に抜擢され、益州路刑獄を提点し、開封府判官となった。契丹に使いし、両浙転運使となった。陝西に転じたが、赴任せず、また河東に転じ、数ヶ月いて、再び陝西に転じた。龍図閣待制として梓州の知州となった。
累遷して尚書兵部郎中となり、開封府知府となった。ある僧が内降を求めて田税を免除してもらおうとしたが、逸は固執して許さなかった。仁宗は言った、「役人がよく法を守るならば、朕は何を憂えようか」。また言上した、「近ごろ命婦が禁中の恩恵を求めることを禁じましたが、近頃はやや女謁が通じています。官司に糾弾させたいと思います」。従った。
枢密直学士として益州の知州となった。逸は合わせて四度蜀に至り、その民風に通じていた。華陽の騶長が人を殺し、道傍の通行人を誣告した。県吏が賄賂を受け取り、裁判が既に整ったが、なんと殺人者に囚人を看守させていた。逸は言った、「囚人の顔色に冤罪の様子があり、看守者の気色が正しくない。はたして看守者が人を殺したのではないか」。囚人はようやく敢えて言い出し、看守者は果たして服罪した。直ちにこれを誅し、蜀人は神のごとく思った。時に旱魃があり、逸は堰を築かせて江水をせき止め、民田を灌漑し、自ら公租を出して価格を下げて民を救済した。初め、民は飢えて多く耕牛を殺して食べ、犯者は皆関中に配流されていた。逸は上奏した、「民が牛を殺すのは死にかけた命を生かすためであり、盗んで殺すのとは異なります。もしこれを禁じなければ、また農事が廃れるでしょう。今年は少し収穫がありますので、一切放還してその生業に復させてください」。許可された。間もなく、官において卒した。
呉遵路
呉遵路、字は安道。父の淑は『文苑伝』に見える。進士に及第し、累官して殿中丞となり、秘閣校理となった。章献太后が称制した時、政事の得失について下の者が敢えて言う者はいなかった。遵路は十余条を条奏し、言葉は皆切直で、太后の意に逆らい、常州の知州として出された。かつて呉中で米をあらかじめ買い置きし、凶年に備えた。後に果たして大いに食糧が不足し、民はこれによって救われ、他州から流れて来た者も十のうち八九は全うした。累遷して尚書司封員外郎となり、権開封府推官、三司塩鉄判官に改め、直史館を加えられ、淮南転運副使となった。時に江淮発運使が廃止されたので、遂に発運司の事務を兼ねた。かつて真州・楚州・泰州・高郵軍に斗門を十九箇所設置し、水利を貯え泄らした。また管下の郡の常平倉の蓄えを広げて二百万に至らせ、凶年に備えた。凡そ計画したことは、後になって皆便利であった。
工部郎中に遷ったが、蘄州の王蒙正がかつて部吏に死罪を誤って入れた件を失察した罪に坐し、洪州の知州に降格となった。広州に転じたが、辞して行かなかった。この時発運司は既に再び使を置いたので、これをもって発運使としたが、着任せず、召されて起居注を修した。元昊が反乱を起こすと、民兵を復活するよう建議した。天章閣待制・河東路計置糧草に任じられた。詔を受けて河東の郷民で兵となれる者を選抜すると、諸路はこれを法と見なした。兵部郎中に進み、権知開封府となった。吏を統御するに厳粛で、属県に追捕する事がなかった。
時に宋庠・鄭戩・葉清臣は皆宰相の呂夷簡の気に入らない者であったが、遵路はこの三人と平素から親厚であったので、夷簡はこれを忌み、宣州の知州として出した。『禦戎要略』・『辺防雑事』二十篇を上った。陝西都転運使に転じ、龍図閣直学士に遷り、永興軍の知軍となった。病に伏してもなお事務を決するのを止めず、自ら奏文を作った。卒すると、仁宗はこれを聞いて悼み、詔して官を遣わし喪を護って京師に還らせた。
遵路は幼くして聡明で、成長すると博学で大體を知った。母の喪に際し、墓傍に廬り粗食して喪に服し終えた。性質は平雅で慎重、寡黙で笑わず、筆札に優れた。政を行うには簡易で威勢を張らず、朝廷に立っては敢えて直言し、阿る所がなかった。平素は廉潔で倹約し、他の嗜好がなく、没した後は家に余財がなく、その友の范仲淹が俸給を分けてその家を救済した。
子の瑛は尚書比部員外郎となったが、老いるのを待たずに帰郷した。
趙尚寛
趙尚寛、字は済之、河南の人、参知政事安仁の子である。平陽県の知県となった。隣県に大勢の囚人十数名がおり、枷を破って夜逃げし、住民を殺害し、境界を犯そうとした。尚寛は尉を促して出捕させ、言った、「賊は我々が来られないと思い、ちょうど怠惰になっているから、捕えやすい。急ぎ行くべきで、散漫にさせてはならず、また害をなすであろう」。尉が出た後、また巡邏兵を遣わしてその後を追わせ、悉く捕獲した。
忠州の知州となった。俗に蠱毒を飼って人を殺す風習があった。尚寛は薬方を市中に掲示して人々に服薬を教え、蠱毒を行う者を募って探し出して徹底的に取り締まり、法に照らして処置し、その風俗を大いに改めさせた。転運使が塩数十万斤を持ち込み、民に白金と交換するよう課し、期限が迫っていた。尚寛は官庫に蓄えられたものを出してその需要に応じ、ゆるやかに民と取引し、騒がずに事を成し遂げた。
同州・宿州に転任し、河中府の神勇卒は大校の貪虐に苦しみ、匿名の文書を刷って反乱を告発した。尚寬はこれを焼くよう命じ、「妄言である」と言った。衆はこれで安堵した。やがて大校を罷免するよう上奏し、士卒を他の営に分属させた。また梓州に転任した。尚寬が唐州を去って数年後、田は日に日に開墾が進み、戸数は日に日に増加した。朝廷はその功績を推挙し、少府監から直龍図閣に進めて梓州知事とした。官位を積み重ねて司農卿に至り、死去した。詔により銭五十万を賜った。
高賦
高賦、字は正臣、中山の人。父の任官により右班殿直となった。また進士に挙げられ、奉礼郎に改め、四度の転任で太常博士となった。真定県知事を歴任し、剣州・邢州・石州および成徳軍の通判を務めた。衢州知事として、俗に巫鬼を尊び、毛氏・柴氏ら二十余家が代々蠱毒を蓄え、閏年には特に人を害することが多く、人と憤争するとすぐに毒を盛った。賦はことごとくこれを捕らえて処罰し、蠱毒の患いは遂に絶えた。
唐州に転任した。州の田は百年を経て荒れ耕されず、前任の知事趙尚寬は開墾に力を尽くしたが、なお雑草の生い茂った土地が多かった。賦はその後を継ぎ、さらに両河(黄河・淮河)の流民を募り、人口に応じて田を与えて耕作させ、四十四の陂堰を築いた。再び任期が満ちて再び留任し、彼が去るころには、田は三万一千三百余頃増えて開墾され、戸数は一万一千三百八十増え、歳の税は二万二千二百五十七増加した。璽書で褒賞と諭旨があり、その治績を公布して天下を勧励し、両州(唐州・衢州)では生前に祠を建てた。河東刑獄提点に抜擢され、さらに直龍図閣を加えられて滄州知事となった。程昉が境内に西流河を開鑿し、州城を巡らせて北の三塘泊に注がせようとした。賦は言った、「滄州城は河に近く、毎年堤防を増築してもなお奔流・氾濫を恐れている。ましてや妄りに開鑿することができようか」と。昉は固執して従わず、後になって工事は結局完成しなかった。
蔡州・潞州の二州を歴任し、入朝して同判太常寺となり、集賢院学士に進んだ。朝廷にあって多く建議し、かつて言った、「二府の大臣はある者は巷の借家に住み、京城に散在しており、公私ともに不便である。前代の丞相府にならい、端門の前に大邸宅を並べて建て、そこに住まわせるべきである」と。また言った、「仁宗朝に兗国公主のために邸宅を造営し、数十万緡の銭を用いた。今、五大長公主がいる。もしすべて前例のようであれば、その費用は際限がない。中程度の制を講究し、定式として裁定することを願う」と。諸道の提点刑獄司に検法官を置くことを請い、専ら平らに審議させ、民を冤罪にさせないようにした。禁中に閣を建て、功臣の像を描くこと、漢の雲台・唐の凌煙閣の制度のようになることを乞うた。建言の多くは施行された。通議大夫で致仕し、襄陽に退居し、八十四歳で死去した。
程師孟
程師孟、字は公闢、呉の人。進士甲科。累任して南康軍・楚州の知事となり、夔路刑獄提点となった。瀘州・戎州の蛮がたびたび渝州の辺境を侵犯し、使者の治所は万州にあり、距離が遠く、警報があっても大抵十日経ってやっと到着した。師孟は渝州に移すよう上奏した。夔路には常平倉の粟がなく、倉を設置するよう建議した。凶年にあたり、民を救済するのに不足すれば、すぐに他の蓄えを矯発(緊急発令)し、報告を待たなかった。役人は恐れて、不可と言ったが、師孟は言った、「必ず報告を待てば、飢えた者はみな死んでしまう」と。ついにそれを発した。
河東路に転任した。晋の地には土山が多く、川谷に接し、春夏の大雨の時、水は黄河のように濁り、俗に「天河」と呼び、灌漑に利用できた。師孟は民に出銭を勧めて渠を開き堰を築かせ、一万八千頃の良田を淤泥で肥沃にし、その事績をまとめて『水利図経』とし、州県に頒布した。度支判官となった。洪州知事として、石を積んで江の堤防とし、章溝を疏浚し、北閘を高くして、水の昇降を調節し、後世に水害がなくなった。
三司都磨勘司を判じ、契丹使の接拌(接待)を務めた。蕭惟輔が言った、「白溝の地は両属すべきである。今、南朝(宋)は数里に柳を植え、しかも北朝(遼)の人が界河で漁をするのを罪とするのは、どうして道理があろうか」と。師孟は言った、「両朝は誓約を守るべきである。涿郡には文書の記録があり覆審できる。君は文書を捨て、口先だけの説を飛ばし、どうして事を起こそうとするのか」と。惟輔は恥じて謝罪した。
出向して江西転運使となった。盗賊が袁州で発生し、州の役人が耳目となっており、長く捕らえられなかった。師孟は役人数人を枷にかけて獄に送ると、盗賊はすぐに擒らえられた。直昭文館を加えられ、福州知事となり、子城を築き、学舎を建て、その治行は東南で最も優れていた。広州に転任した。州城は儂智高の寇賊によって破壊され、他日に警報があると、民は驚き逃げ散り、方伯(長官)が相次いで赴任したが、皆、土が粗悪で築城できないと言った。師孟は広州に六年いて西城を築き、交趾が邕管を陥落させた時、広州の守備が堅固であると聞いて、東進することを敢えなかった。当時、師孟はすでに召還されていたが、朝廷は以前の功績を思い、給事中・集賢殿修撰とし、都水監を判じた。
契丹主の生辰を賀するため、涿州に至った。契丹は席を設け、迎える者は正しく南向きに、涿州の官は西向きに、宋の使節は東向きに座るよう命じた。師孟は言った、「これは我を卑しめるものである」と。列に就かず、日が西に傾く時から暮れまで争い、従者は顔色を失ったが、師孟の言葉と気勢はますます激しく、儐相を叱ってこれを変えさせ、そこでようやく迎える者と東西に向かい合うように改めた。翌日、涿州の人が郊外で送別の宴を設けたが、師孟は疾駆して通り過ぎ顧みなかった。涿州の人は雄州に移文してこれを言上し、師孟は罷免されて帰班させられた。再び起用されて越州・青州の知事となり、遂に致仕し、光禄大夫の官で死去した。七十八歳。
師孟は累任して重要な州鎮を治め、政務は簡潔で厳格であり、死罪に当たらない罪は役人に委ねなかった。隠れた悪事や伏した罪を暴くことは神の如く、豪悪で不逞・放蕩な者を得れば必ず痛く懲らしめ、滅ぼし尽くすまでやめず、管轄区域は厳然とした。洪州・福州・広州・越州では生前に祠を建てた。
韓晉卿
元祐の初め、明州の知州となり、両浙転運使の差役法が再施行されると、諸道の処置は多く倉卒として順序を失したが、ただ晋卿のみは民の適宜を見て法の趣旨に背かなかった。召されて大理少卿となり、卿に遷った。
晋卿は仁宗朝よりすでに訴訟を掌り、時に朝廷に疑議あるときは、輒ち公卿を下して雑議させた。開封の民が鶏を争って人を殺した事件では、王安石は盗みが拒捕して闘い死したものとして、殺しても罪なしとしたが、晋卿は「これは闘殺である」と言った。登州の婦人が夫を謀殺した事件では、郡守の許遵が按問として執り行ったが、安石はまたこれを支持した。晋卿は「死に当たる」と言い、事は久しく決せず、議論は朝廷に満ちたが、終に持して肯えて変えず、これによって名を知られた。
元豊に大理獄を置くと、多くは内庭より付託されたが、晋卿は持平して考核し、上下すること無かった。神宗はその才を称え、毎に獄を讞するに明らかなりと雖も、若し事が貴要に連なり、屡々鞠して成らざるものは、必ずこれを委ねた。嘗て詔を被り寧州の獄を按治すべく、故事に循って当に対入すべきところ、晋卿は「奉使には指有り、三尺の法具わ在り、豈に主意を刺候し、其の心を軽重すべきや」と言い、命を受けて即ち行った。
諸州より大辟を請讞するに、執政は其の多きを悪み、将に応讞せざる者を劾せんとした。晋卿は「聴断は生く所以を求むるは、仁恩の至りなり。苟も讞して譴を獲ば、後来らず」と言った。議者は又唐の日覆奏を引き、天下の庶戮悉く奏決せしめんとした。晋卿は言うに「疑わしく矜むべき者は上請を許すは、祖宗の制なり。四海万里、須らく繫えて以て朝命を聴かしむれば、恐らくは自今より庾死する者は伏辜する者より多からん」と。朝廷は皆其の説を行い、故に士大夫の間は其の忠厚を推して、法家を以て之を名付けず。官に卒す。
葉康直
葉康直、字は景溫、建州の人。進士第に擢でられ、光化県の知県となった。県は竹多く、民は皆編んで屋としていたが、康直は陶瓦を用いることを教え、火災を寧んじた。凡そ政は皆民を利することを務めた。時に豊稷が穀城令となり、亦た治績を以て顕れ、人は之を歌って「葉光化、豊穀城、清きこと水の如く、平かなること衡の如し」と言った。
曾布が新法を行うに、司農属と為す。歴て永興・秦鳳転運判官となり、陜西に徙り、提点刑獄・転運副使に進む。五路の兵西征するに、康直は涇原の糧道を領し、承受内侍の梁同が糧悪しと妄りに奏したため、神宗怒り、康直を械し、将に之を誅せんとしたが、王安礼力救し、得て故官に帰す。
元祐の初め、直龍図閣を加えられ、秦州の知州となる。中書舎人曾肇・蘇轍が康直が李憲に諂事するを劾し、免官となるも、実を究むるに状無く、河中府の知州に改め、復た秦州となる。夏人が甘谷に侵すと、康直は諸将に戒めて伏兵を設けて待たせ、其の二酋を殲し、自ら是より敢えて境を犯さず。宝文閣待制・陜西都運使に進む。疾を以て亳州の知州を請い、積潦を通濬し、民は田数十万畝を獲たり。召されて兵部侍郎となり、卒す。年六十四。