宋史

列傳第一百八十五 循吏 陳靖 張綸 邵曄 崔立 魯有開 張逸 呉遵路 趙尚寬 高賦 程師孟 韓晉卿 葉康直

列傳第一百八十五 循吏 陳靖 張綸 邵曄 崔立 魯有開 張逸 呉遵路 趙尚寬 高賦 程師孟 韓晉卿 葉康直

宋代の法に循吏を得るべき三つの方策あり。太祖の世、牧守・令・録はみな自ら召見し、政事を問いてから遣わし、簡擇の道は精であった。監司は郡守を察し、郡守は県令を察し、各々時に応じてその殿最を上奏し、また朝臣を命じて専らその治めを督せしめ、考課の方は密であった。吏が贓を犯して赦に遇えば原宥せず、防閑の令は厳であった。

原文宋法有可以得循吏者三:太祖之世,牧守令錄,躬自召見,問以政事,然後遣行,簡擇之道精矣;監司察郡守,郡守察縣令,各以時上其殿最,又命朝臣專督治之,考課之方密矣;吏犯贓遇赦不原,防閑之令嚴矣。

承平の世、州県の吏が謹んで法度を守りその職業を修める者は、実にその人多くあり。その間に必ず絶異の績あり、然る後に賞令によって別にし、あるいは州県の善最より、他日に遂に名臣となる者あり、則ち撫字の長はまた以てその平生を尽くすに足らず。故に三百余年の始終、循吏として簡策に載せられる者は十二人。『循吏傳』を作る。

原文承平之世,州縣吏謹守法度以修其職業者,實多其人。其間必有絕異之績,然後別於賞令,或自州縣善最,他日遂為名臣,則撫字之長又不足以盡其平生,故始終三百餘年,循吏載諸簡策者十二人。作《循吏傳》。

陳靖

原文陳靖

陳靖、字は道卿、興化軍莆田の人。学を好み、頗る古今に通ず。父の仁壁、陳洪進に仕えて泉州別駕となる。洪進が臣と称す。豪猾にして険に負けて乱を為す者あり、靖は徒歩で転運使楊克巽に謁し、賊を討つ策を陳ぶ。召し還されて陽翟県主簿を授かる。契丹が辺を犯し、王師数度利あらず。靖は従子を遣わして上書し、入奏して機略を奏するを求む。詔して就いてこれを問う。五策を上る。曰く、賞罰を明らかにすべし。士衆を撫すべし。重きを恃み弱きを示し、利を待ちて挙ぐべし。帥府は自ら士を辟するを許すべし。而して将帥は境外を専制するを得べし。太宗これを異とし、将作監丞に改め、未だ幾ばくもせず、御史臺推勘官となる。

原文陳靖,字道卿,興化軍莆田人。好學,頗通古今。父仁壁,仕陳洪進為泉州別駕。洪進稱臣,豪猾有負險為亂者,靖徒步謁轉運使楊克巽,陳討賊策。召還,授陽翟縣主簿。契丹犯邊,王師數不利,靖遣從子上書,求入奏機略。詔就問之,上五策,曰:明賞罰;撫士眾;持重示弱,待利而舉;帥府許自辟士;而將帥得專制境外。太宗異之,改將作監丞,未幾,為御史臺推勘官。

時に御試進士、多く文の先に就く者を高等に擢で、士は皆浮華を習い、敏速を尚ぶ。靖は請う、文を考官に付して甲乙を第し、唱名を俟ち、或いは果たして知名の士あれば、即ち上科に置くべしと。父に喪し、起復して秘書丞、直史館、三司開拆司を判ず。淳化四年、高麗に使いして還り、在京百司を提点し、太常博士に遷る。

原文時御試進士,多擢文先就者為高等,士皆習浮華,尚敏速。靖請以文付考官第甲乙,俟唱名,或果知名士,即置上科。喪父,起復秘書丞,直史館,判三司開拆司。淳化四年,使高麗還,提點在京百司,遷太常博士。

太宗農事を興すに務め、詔して有司に均田法を議せしむ。靖議して曰く、「法は未だ容易に遽に行い難し。宜しく先ず大臣或いは三司使を租庸使と為し、或いは屯田制置を兼ね、仍って三司判官を択び、民事に通曉する者二人を選んでその貳と為すべし。両京東西千里、荒地及び逃民の産籍を検責し、耕作を募り、耕者に室廬・牛犁・種食を賜い、足らざれば則ち庫銭を給すべし。その課を別ちて十分と為し、州県に責めて課を勧め、印紙を給してこれを書かしむ。殿最を分かって三等と為す。凡そ県の墾田を管する、一歳に課三分を得、二歳六分、三歳九分を、下最と為す。一歳四分、二歳七分、三歳十分に至るを、中最と為す。一歳五分、未だ三歳に及ばずして十分に盈つるを、上最と為す。その最なる者は、令・佐の選を免じ或いは資を超えしめ、殿なる者は即ち選を増し資を降すべし。毎州、通じて諸県の田を以て十分と為し、殿最を視て賞罰を行ふべし。数歳を俟ち、尽く官屯田を罷め、悉く民に賦し、然る後に人を量りて田を授け、地を度りて税を均しくし、井田の制に約し、法を以て定め、四方に頒行するは、此れに過ぎざるべし。」太宗呂端に謂ひて曰く、「朕井田を復せんと欲す、顧みて未だ能はざるなり。靖が此の策朕が意に合ふ。」乃ち召見し、食を賜ひて遣はす。

原文太宗務興農事,詔有司議均田法,靖議曰:「法未易遽行也。宜先命大臣或三司使為租庸使,或兼屯田制置,仍擇三司判官,選通知民事者二人為之貳。兩京東西千里,檢責荒地及逃民產籍之,募耕作,賜耕者室廬、牛犁、種食,不足則給以庫錢。別其課為十分,責州縣勸課,給印紙書之。分殿最為三等:凡縣管墾田,一歲得課三分,二歲六分,三歲九分,為下最;一歲四分,二歲七分,三歲至十分,為中最;一歲五分,未及三歲盈十分者,為上最。其最者,令佐免選或超資;殿者,即增選降資。每州通以諸縣田為十分,視殿最行賞罰。候數歲,盡罷官屯田,悉用賦民,然後量人授田,度地均稅,約井田之制,為定以法,頒行四方,不過如此矣。」太宗謂呂端曰:「朕欲復井田,顧未能也,靖此策合朕意。」乃召見,賜食遣之。

他日、帝また端に語る。曰く、「靖の説是れと雖も、第に田必ずしも墾けず、課必ずしも入らず。三司に下して雑議せしむべし。」ここに於て詔して塩鉄使陳恕等に各々判官二人を選びて靖と議せしめ、靖を京西勧農使と為し、大理寺丞皇甫選・光禄寺丞何亮を命じてその副と為す。選等その功の成り難きを言ふ。帝猶ほ然らずと謂ふ。既にして靖は緡銭二万を仮りて試みに行はんと欲す。陳恕等言ふ、「銭一出でて、後に償ふ能はざれば、則ち民害を受く。」帝群議終に同じからざるを以て、始めてこれを罷め、靖を出して婺州を知らしめ、再び遷りて尚書刑部員外郎となる。

原文他日,帝又語端。曰:「靖說雖是,第田未必墾,課未必入,請下三司雜議。」於是詔鹽鐵使陳恕等各選判官二人與靖議,以靖為京西勸農使,命大理寺丞皇甫選、光祿寺丞何亮副之。選等言其功難成,帝猶謂不然。既而靖欲假緡錢二萬試行之,陳恕等言:「錢一出,後不能償,則民受害矣。」帝以群議終不同,始罷之,出靖知婺州,再遷尚書刑部員外郎。

真宗即位し、復た前に論じし勧農事を列ね、また言ふ、「国家戎を西北に禦ぐも、食を仰ぐは東南にあり。東南の食足らざれば、則ち国大計を誤る。京東・西及び河北諸州より大いに勧農の法を行ひ、以て州県官吏の殿最と為し、歳に江・淮の漕百余万を省くべし。」復た詔して靖に条上せしむ。靖は請ふ、刺史は春を行ひ、県令は耕を勧め、孝悌力田の者には爵を賜ひ、五保を置きて以て姦盗を検察し、游惰の民を籍して以て役作に供すべしと。また三司に下して議せしむも、皆果たして行はれず。

原文真宗即位,復列前所論勸農事,又言:「國家禦戎西北,而仰食東南,東南食不足,則誤國大計。請自京東、西及河北諸州大行勸農之法,以殿最州縣官吏,歲可省江、淮漕百餘萬。」復詔靖條上之,靖請刺史行春,縣令勸耕,孝悌力田者賜爵,置五保以檢察姦盜,籍游惰之民以供役作。又下三司議,皆不果行。

度支判官を歴え、京畿均田使となり、出でて淮南転運副使兼発運司公事となり、江南転運使に徙る。前の李氏が民に横賦したる凡そ十七事を極論し、詔してその尤甚なる者を罷む。譚州知州に徙り、度支・塩鉄判官を歴る。汾陰に祀り、行在三司判官となる。また京西・京東転運使を歴え、泉・蘇・越の三州を知り、累遷して太常少卿となり、太僕卿・集賢院学士に進み、建州を知り、泉州に徙り、左諫議大夫を拝す。初め、靖は丁謂と善し。謂貶せられ、党人皆逐ひ去らる。提点刑獄・侍御史王耿乃ち言ふ、「靖は老疾なり、久しく郷里の官と為すに宜しからず。」ここに於て秘書監を以て致仕し、卒す。

原文歷度支判官,為京畿均田使,出為淮南轉運副使兼發運司公事,徙江南轉運使。極論前李氏橫賦於民凡十七事,詔為罷其尤甚者。徙知譚州,歷度支、鹽鐵判官。祀汾陰,為行在三司判官。又歷京西、京東轉運使,知泉、蘇、越三州,累遷太常少卿,進太僕卿、集賢院學士,知建州,徙泉州,拜左諫訴大夫。初,靖與丁謂善,謂貶,黨人皆逐去,提點刑獄,侍御史王耿乃言:「靖老疾,不宜久為鄉里官。」於是以秘書監致仕,卒。

靖平生多く建畫あり、而して農事に於て尤も詳し。嘗て淳化・咸平以来の陳べし表章を取って、目して『勧農奏議』と曰ひ、録して上る。然れどもその説は古に泥み、多く行ふべからず。

原文靖平生多建畫,而於農事尤詳,嘗取淳化、咸平以來所陳表章,目曰《勸農奏議》,錄上之,然其說泥古,多不可行。

張綸

原文張綸

張綸、字は公信、潁州汝陰の人。少にして倜儻として気を任す。進士に挙げられて中らず、三班奉職を補し、右班殿直に遷る。雷有終に従ひて蜀しょくに於て王均を討つ。降寇数百、険に拠りて叛く有り。綸をしてこれを撃たしむ。綸馳せて報じて曰く、「此れ窮寇なり、之を急かせば則ち患ひを生ず。向背を諭すに如かず。」有終その説を用ふ。賊果たして兵を棄て来降す。功を以て右侍禁・慶州兵馬監押に遷り、閤門祗候に擢でられ、益・彭・簡等州都巡検使となる。所部の卒酒を縦し居民を掠む。綸は首悪数人を斬り、衆乃ち定まる。荊湖提点刑獄に徙り、東頭供奉官・提点開封府界県鎮公事に遷る。

原文張綸,字公信,潁州汝陰人。少倜儻任氣。舉進士不中,補三班奉職,遷右班殿直。從雷有終討王均於蜀,有降寇數百據險叛,使綸擊之,綸馳報曰:「此窮寇,急之則生患,不如諭以向背。」有終用其說,賊果棄兵來降。以功遷右侍禁、慶州兵馬監押,擢閤門祗候,益、彭、簡等州都巡檢使。所部卒縱酒掠居民,綸斬首惡數人,眾乃定。徙荊湖提點刑獄,遷東頭供奉官、提點開封府界縣鎮公事。

霊夏に奉使して還る。会うに辰州溪峒の彭氏蛮が内寇す。以て辰州知州となる。綸至りて蓬山の驛路を築く。賊通ずるを得ず、乃ち遁ぐ。渭州知州に徙る。内殿崇班・鎮戎軍知軍に改む。契丹に奉使す。安撫使曹瑋表してこれを留むるも、可からず。蛮復た入寇す。辰州・澧鼎等州縁辺五溪十峒巡検安撫使と為り、蛮酋に禍福を諭し、掠めし民を購ひて還し、官を遣はして盟し、石を境上に刻む。

原文奉使靈夏還,會辰州溪峒彭氏蠻內寇,以知辰州。綸至,築蓬山驛路,賊不得通,乃遁去。徙知渭州。改內殿崇班、知鎮戎軍。奉使契丹,安撫使曹瑋表留之,不可。蠻復入寇,為辰州、澧鼎等州緣邊五溪十峒巡檢安撫使,諭蠻酋禍福,購還所掠民,遣官與盟,刻石於境上。

久しくして、江淮制置発運副使に除せらる。時に塩課大いに虧け、乃ち奏して通・泰・楚三州の塩戸の宿負を除き、官其の器用を助け、塩入に優に之に直を与ふ。是より歳に課数十万石を増す。復た杭・秀・海三州に塩場を置き、歳に入課また百五十万。二歳居りて、上供米八十万を増す。五渠を疏し、太湖を導きて海に入らしめ、租米六十万を復す。長蘆西河を開きて覆舟の患を避け、又た漕河堤二百里を高郵の北に築き、旁ら巨石を錮めて十䃮と為し、以て横流を泄す。泰州に捍海堰有り、延袤百五十里、久しく廃して治めず、歳に海濤の民田を冒すを患ふ。綸方に修復を議す。論者之を難じ、以て濤患息みて畜潦の患興ると為す。綸曰く、「濤の患は十に九、而して潦の患は十に一、多く獲て少なく亡ふ、豈に不可ならんや」と。表を三たび請ひ、願はくは身自ら臨役せんとす。命じて兼ねて権に泰州を知らしめ、遂に堰を成し、逋戸二千六百を復し、州民之に利し、生祠を立てむ。

原文久之,除江淮制置發運副使。時鹽課大虧,乃奏除通、泰、楚三州鹽戶宿負,官助其器用,鹽入優與之直,由是歲增課數十萬石。復置鹽場於杭、秀、海三州,歲入課又百五十萬。居二歲,增上供米八十萬。疏五渠,導太湖入於海,復租米六十萬。開長蘆西河以避覆舟之患,又築漕河隄二百里於高郵北,旁錮鉅石為十䃮,以泄橫流。泰州有捍海堰,延袤百五十里,久廢不治,歲患海濤冒民田。綸方議修復,論者難之,以為濤患息而畜潦之患興矣。綸曰:「濤之患十九,而潦之患十一,獲多而亡少,豈不可邪?」表三請,願身自臨役。命兼權知泰州,卒成堰,復逋戶二千六百,州民利之,為立生祠。

淮南に居ること六年、累遷して文思使・昭州刺史と為る。契丹の隆緒死す、弔慰副使と為る。歴て秦・瀛二州を知り、両たび滄州を知り、再遷して東上閤門使、真に乾州刺史を拝し、徙めて潁州を知り、卒す。綸材略有り、至る所に利を興し害を除く。人と為り恕にして、施予を喜ぶ。江・淮に在りて、漕卒凍餒し道に死する者衆しを見て、歎きて曰く、「此れ有司の過ちなり、上仁を体する所以に非ざるなり」と。奉銭を推して絮襦千数を市ひ、其の自存すること能はざる者に衣せしむ。

原文居淮南六年,累遷文思使、昭州刺史。契丹隆緒死,為吊慰副使。歷知秦、瀛二州,兩知滄州,再遷東上閤門使,真拜乾州刺史,徙知潁州,卒。綸有材略,所至興利除害。為人恕,喜施予,在江、淮,見漕卒凍餒道死者眾,歎曰:「此有司之過,非所以體上仁也。」推奉錢市絮襦千數,衣其不能自存者。

邵曄

原文邵曄

邵曄、字は日華、其の先は京兆の人なり。唐末喪乱に、曾祖岳は族を挈きて荊南に之き高季興に謁す。礼せられず、遂に湖南に之く。彭玗全州を刺し、辟して判官と為す。会に賊魯仁恭連州を寇す。即ち岳を署して国子司業・知州事と為し、遂に桂陽に家す。祖崇徳、道州録事参軍。父簡、連山令。

原文邵曄,字日華,其先京兆人。唐末喪亂,曾祖岳挈族之荊南謁高季興,不見禮,遂之湖南。彭玗刺全州,辟為判官。會賊魯仁恭寇連州,即署岳國子司業、知州事,遂家桂陽。祖崇德,道州錄事參軍。父簡,連山令。

曄幼より学を嗜み、辟署に従ふを恥づ。太平興国八年、進士第に擢げられ、褐を解き、邵陽主簿を授けられ、大理評事・知蓬州録事参軍に改む。時に太子中舎楊全州を知る。性悍率蒙昧にして、部民張道豊等三人誣られて劫盗と為り、悉く死に置かる。獄已に具はる。曄其の枉を察し、牘に署せず、全に白して当に其の実を核すべしとす。全聴かず、道豊等を引いて法に抵せしむ。号呼して服せず、再び獄に繫ぎ按験す。既にして正盗を捕獲し、道豊等遂に釈を得。全坐して籍を削られ民と為る。曄代へ還り引対す。太宗之に謂ひて曰く、「爾能く吾が平民を活かす、深く嘉す可し」と。銭五万を賜ひ、詔を下して以て全の事を戒諭天下す。曄に光禄寺丞を授け、広南に使して刑獄を採訪せしむ。俄に荊南を通判し、緋魚を賜ふ。著作佐郎に遷り、忠州を知る。歴て太常丞・江南転運副使、監察御史に改む。母老を以て就養を乞ひ、朗州を知ることを得。入りて三司磨勘司を判し、工部員外郎・淮南転運使に遷る。

原文曄幼嗜學,恥從辟署。太平興國八年,擢進士第,解褐,授邵陽主簿,改大理評事、知蓬州錄事參軍。時太子中舍楊全知州,性悍率蒙昧,部民張道豐等三人被誣為劫盜,悉置於死,獄已具,曄察其枉,不署牘,白全當核其實。全不聽,引道豐等抵法,號呼不服,再繫獄按驗。既而捕獲正盜,道豐等遂得釋,全坐削籍為民。曄代還引對,太宗謂曰:「爾能活吾平民,深可嘉也。」賜錢五萬,下詔以全事戒諭天下。授曄光祿寺丞,使廣南採訪刑獄。俄通判荊南,賜緋魚。遷著作佐郎、知忠州。歷太常丞、江南轉運副使,改監察御史。以母老乞就養,得知朗州。入判三司磨勘司,遷工部員外郎、淮南轉運使。

景德中、光禄卿を仮り、交阯安撫国信使を充つ。会に黎桓死し、其の子龍鉞嗣ぎ立ち、兄龍全兵を率ひて庫財を劫し去る。其の弟龍廷鉞を殺し自立す。龍廷の兄明護扶蘭砦の兵を率ひて攻戦す。曄嶺表に駐し、事を以て上聞す。命を改めて縁海安撫使と為し、便宜を許して方略を設けしむ。曄安南に書を貽し、朝廷の威徳を諭し、俾く速に定位せしむ。明護等即時に命を聴き、龍廷を奉りて軍事を主らしむ。初め、詔して曄に其の事定まるを俟ち、即ち黎桓の礼物を以て新帥に改めて賜はしむ。曄上言して曰く、「外夷を懐撫するは、当に誠信を示すべし。龍廷の貢奉を俟ち、別に封爵を加へて之を寵賜するに若かず」と。真宗甚だ嘉納す。使還り、兵部員外郎に改め、金紫を賜ふ。初め使を受けし時、官銭八十万を仮り、私覿物を市ふ。安撫と為るに及び、已に其の半を償ひ、余は皆詔して之を除く。嘗て『邕州より交州に至る水陸路』及び『宜州山川』等の四図を上る。頗る控制の要を詳にす。

原文景德中,假光祿卿,充交阯安撫國信使。會黎桓死,其子龍鉞嗣立,兄龍全率兵劫庫財而去,其弟龍廷殺鉞自立,龍廷兄明護率扶蘭砦兵攻戰。曄駐嶺表,以事上聞,改命為緣海安撫使,許以便宜設方略。曄貽書安南,諭朝廷威德,俾速定位。明護等即時聽命,奉龍廷主軍事。初,詔曄俟其事定,即以黎桓禮物改賜新帥。曄上言:「懷撫外夷,當示誠信,不若俟龍廷貢奉,別加封爵而寵賜之。」真宗甚嘉納。使還,改兵部員外郎,賜金紫。初受使,假官錢八十萬,市私覿物,及為安撫,已償其半,餘皆詔除之。嘗上《邕州至交州水陸路》及《宜州山川》等四圖,頗詳控制之要。

俄に三司三勾院を判す。挙ぐる所の季随贓を犯すに坐し、曄当に一官を削らるべし。上其の遠使の勤を以てし、止むるに停任を令す。大中祥符初、起きて兗州を知り、表して東封を請ふ。優詔以て之に答ふ。及び王欽若・趙安仁を遣はして封禅を経度せしめ、仍く州事を判し、就きて命じて曄を京東転運使と為す。封禅の礼畢り、超えて刑部郎中を拝し、復た三勾院を判し、出でて淮南・江浙・荊湖制置発運使と為る。四年、右諫議大夫に改め、広州を知る。州城海に瀕し、毎に蕃舶岸に至るに、常に颶風を苦しむ。曄内濠を鑿ちて舟を通じ、颶害すること能はず。俄に疾に遘ひ卒す。年六十三。

原文俄判三司三勾院,坐所舉季隨犯贓,曄當削一官,上以其遠使之勤,止令停任。大中祥符初,起知兗州,表請東封,優詔答之。及遣王欽若、趙安仁經度封禪,仍判州事,就命曄為京東轉運使。封禪禮畢,超拜刑部郎中,復判三勾院,出為淮南、江浙、荊湖制置發運使。四年,改右諫議大夫、知廣州。州城瀕海,每蕃舶至岸,常苦颶風,曄鑿內濠通舟,颶不能害。俄遘疾卒,年六十三。

崔立

原文崔立

崔立、字は本之、開封鄢陵の人なり。祖周度、周に仕へて泰寧軍節度判官と為る。慕容彦超叛く。周度大義を以て之を責む。遂に見殺さる。立進士第に中る。果州団練推官と為る。役兵官物を輦す。道険し。乃ち衆に率ひて銭し、舟を傭ひて載せ帰る。知州姜従革率斂法に論ず。当に三人を斬るべし。立曰く、「此れ私に己れするに非ず、罪杖のみ」と。従革初め聴かず、卒に論奏す。詔して立の議の如くす。真宗之を記し、特に大理寺丞に改め、安豊県を知らしむ。大水期斯塘を壊す。立躬から繕治を督し、月を踰えて成る。殿中丞に進み、歴て広州・許州を通判す。

原文崔立,字本之,開封鄢陵人。祖周度,仕周為泰寧軍節度判官。慕容彥超叛,周度以大義責之,遂見殺。立中進士第。為果州團練推官,役兵輦官物,道險,乃率眾錢,傭舟載歸。知州姜從革論如率斂法,當斬三人,立曰:「此非私己,罪杖爾。」從革初不聽,卒論奏,詔如立議。真宗記之,特改大理寺丞,知安豐縣。大水壞期斯塘,立躬督繕治,逾月而成。進殿中丞,歷通判廣州、許州。

会に滑州決河を塞ぐ。民を調して芻楗を出さしめ、命じて立に提挙して受納せしむ。立其の用の余る有るを計り、而下戸未だ輸せざる者尚ほ二百万有る。悉く奏して之を弛む。江陰軍を知る。属県に利港有り、久しく廃す。立民に教へて濬治せしむ。既に成り、田数千頃を溉ぎ、及び横河六十里を開きて、運漕を通ず。累遷して太常少卿、歴て棣・漢・相・潞・兗・鄆・涇の七州を知る。兗州歳に大饑す。富人を募りて穀十余万石を出さしめ、餓者を振る。全活する所の者甚だ衆し。

原文會滑州塞決河,調民出芻楗,命立提舉受納。立計其用有餘,而下戶未輸者尚二百萬,悉奏弛之。知江陰軍,屬縣有利港久廢,立教民濬治,既成,溉田數千頃,及開橫河六十里,通運漕。累遷太常少卿,歷知棣、漢、相、潞、兗、鄆、涇七州。兗州歲大饑,募富人出穀十萬餘石振餓者,所全活者甚眾。

立性淳謹、尤も事を論ずるを喜ぶ。大中祥符間、帝既に封禅し、士大夫争ひて符瑞を奏上し、賛頌を献ず。立独り言ふ、「水は徐州に発し、旱は江・淮に連なり、無為烈風、金陵火、天の以て驕惰を警め、淫泆を戒むるなり。区区の符瑞、尚ほ何をか足らむとして治道を言はんや」と。前後四十余事を上る。右諫議大夫を以て耀州を知り、改めて濠州を知り、給事中に遷る。老を告げ、進みて尚書工部侍郎にて致仕し、卒す。韓琦を布衣に識り、女を以て之に妻す。人嘗て其の鑒に服すと云ふ。

原文立性淳謹,尤喜論事。大中祥符間,帝既封禪,士大夫爭奏上符瑞,獻贊頌,立獨言:「水發徐州,旱連江、淮,無為烈風,金陵火,天所以警驕惰、戒淫泆也,區區符瑞,尚何足為治道言哉?」前後上四十餘事。以右諫議大夫知耀州,改知濠州,遷給事中。告老,進尚書工部侍郎致仕,卒。識韓琦於布衣,以女妻之,人嘗服其鑒云。

魯有開

原文魯有開

魯有開、字は元翰、参知政事宗道の従子なり。『礼』学を好み、『左氏春秋』に通ず。宗道の蔭を用ひ、韋城県を知る。曹・濮の劇盗旁県の間に横行す。其の名を聞きて敢へて境に入らず。確山県を知る。大姓官政を把持す。有開其の最も甚だしき者を治む。遂に以て事無し。廃陂を興し、民田数千頃を溉ぐ。富弼蔡を守り、之を薦め、以て古の循吏の風有りと為す。

原文魯有開,字元翰,參知政事宗道從子也。好《禮》學,通《左氏春秋》。用宗道蔭,知韋城縣。曹、濮劇盜橫行旁縣間,聞其名不敢入境。知確山縣,大姓把持官政,有開治其最甚者,遂以無事。興廢陂,溉民田數千頃。富弼守蔡,薦之,以為有古循吏風。

金州を知る。蠱の獄有り、当に死すべき者数十人。有開曰く、「人を殺さんと欲せば、衷に之を謀る足れり、安んぞ是の如く衆きを得んや」と。之を訊すれば則ち誣なり。天方に旱す。獄白くして雨ふ。南康軍を知り、代へ還る。熙寧新法を行ふ。王安石江南如何と問ふ。曰く、「法新に行はる、未だ其の患を見ず、当に異日に在らん」と。以て対する所乖異なるを、出でて杭州を通判す。

原文知金州,有蠱獄,當死者數十人,有開曰:「欲殺人,衷謀之足矣,安得若是眾邪?」訊之則誣。天方旱,獄白而雨。知南康軍,代還。熙寧行新法,王安石問江南如何,曰:「法新行,未見其患,當在異日也。」以所對乖異,出通判杭州。

衛州の知州となった時、水害が起こり、民は食糧に窮し、常平銭穀を勝手に貸し与え、かつその利息の免除を上奏して請うた。冀州に転じ、堤防を増築した。或る者が「郡に水害はないのに、どうして労役を起こすのか」と言うと、有開は「不慮の事態に備えるのは、古来の良策である」と言った。ついに完成させた。翌年、黄河が決壊し、果たして水が到来したが、堤防を越えることができずに止んだ。朝廷が河北に使者を遣わした時、民衆が道を遮って有開の功績を称え、召されて膳部郎中となった。元祐年間、信陽軍・洺州・滑州の知州を歴任し、再び冀州を守り、官は中大夫に至り、卒した。

原文知衛州,水災,人乏食,擅貸常平錢粟與之,且奏乞蠲其息。徙冀州,增隄,或謂:「郡無水患,何以役為?」有開曰:「豫備不虞,古之善計也。」卒成之。明年河決,水果至,不能冒隄而止。朝廷遣使河北,民遮誦有開功狀,召為膳部郎中,元祐中,歷知信陽軍、洺滑州,復守冀,官至中大夫,卒。

張逸

原文張逸

張逸、字は大隱、鄭州滎陽けいようの人である。進士に及第し、試秘書省校書郎となった。襄州鄧城県の知県となり、有能な名声があった。知州の謝泌が逸を推薦しようとして、まず机を設け、奏章をその上に置き、宮闕を望んで再拝して言った、「老臣、朝廷のために一人の良吏を得たり」。そこで彼を奏薦した。ある日引見されて応対した時、真宗が望む官職を問うと、逸は答えて言った、「母が老いて家におりますので、故郷に近い幕職官を得て帰り、旨い食物を捧げて孝養を尽くせば足ります」。澶州観察推官に任じられたが、数日後、母の喪のため去った。喪が明けて引見されると、帝はまた固く問うたので、答えて言った、「京官を得たいと存じます」。特に大理寺丞に改めた。帝は泌をひとかたならず賢者と認めており、再び逸を召し問うたのは、泌の推薦を用いたのである。

原文張逸,字大隱,鄭州滎陽人。進士及第,為試祕書省校書郎。知襄州鄧城縣,有能名。知州謝泌將薦逸,先設几案,置章其上,望闕再拜曰:「老臣為朝廷得一良吏。」乃奏之。他日引對,真宗問所欲何官,逸對曰:「母老在家,願得近鄉一幕職官,歸奉甘旨足矣。」授澶州觀察推官,數日,以母喪去。服除,引對,帝又固問之,對曰:「願得京官。」特改大理寺丞。帝雅賢泌,再召問逸者,用泌薦也。

長水県の知県となった。時に王嗣宗が西京留守としており、彼を厚遇した。青神県に転じた時は貧しく自ら生活を賄えなかったので、嗣宗は半年分の俸給を前借りさせて行装を整えさせた。県に着くと、学校を興し、生徒を教えた。後に邑人の陳希亮・楊異が相次いで科挙に合格したので、逸はその居住地を桂枝里と改称した。県の東南に松栢灘があり、夏秋の増水時に船の転覆が多いので、逸は江の神に祈った。一ヶ月も経たないうちに、灘が五里ほど移動し、当時の人はこれを怪しんだ。再び太常博士に遷り、尉氏県の知県となった。監察御史に抜擢され、益州路刑獄を提点し、開封府判官となった。契丹に使いし、両浙転運使となった。陝西に転じたが、赴任せず、また河東に転じ、数ヶ月いて、再び陝西に転じた。龍図閣待制として梓州の知州となった。

原文知長水縣,時王嗣宗留守西京,厚遇之,及徙青神縣,貧不自給,嗣宗假奉半年使辦裝。既至縣,興學校,教生徒。後邑人陳希亮、楊異相繼登科,逸改其居曰桂枝里。縣東南有松栢柏灘,夏秋暴漲多覆舟,逸禱江神,不逾月,灘為徙五里,時人異之。再遷太常博士、知尉氏縣。擢監察御史,提點益州路刑獄,開封府判官。使契丹,為兩浙轉運使。徙陜西,未赴,又徙河東,居數月,復徙陜西。以龍圖閣待制知梓州。

累遷して尚書兵部郎中となり、開封府知府となった。ある僧が内降を求めて田税を免除してもらおうとしたが、逸は固執して許さなかった。仁宗は言った、「役人がよく法を守るならば、朕は何を憂えようか」。また言上した、「近ごろ命婦が禁中の恩恵を求めることを禁じましたが、近頃はやや女謁が通じています。官司に糾弾させたいと思います」。従った。

原文累遷尚書兵部郎中,知開封府。有僧求內降免田稅,而逸固執不許。仁宗曰:「有司能守法,朕何憂也。」又言:「頃禁命婦干禁中恩,比來稍通女謁,願令官司糾劾。」從之。

枢密直学士として益州の知州となった。逸は合わせて四度蜀に至り、その民風に通じていた。華陽の騶長が人を殺し、道傍の通行人を誣告した。県吏が賄賂を受け取り、裁判が既に整ったが、なんと殺人者に囚人を看守させていた。逸は言った、「囚人の顔色に冤罪の様子があり、看守者の気色が正しくない。はたして看守者が人を殺したのではないか」。囚人はようやく敢えて言い出し、看守者は果たして服罪した。直ちにこれを誅し、蜀人は神のごとく思った。時に旱魃があり、逸は堰を築かせて江水をせき止め、民田を灌漑し、自ら公租を出して価格を下げて民を救済した。初め、民は飢えて多く耕牛を殺して食べ、犯者は皆関中に配流されていた。逸は上奏した、「民が牛を殺すのは死にかけた命を生かすためであり、盗んで殺すのとは異なります。もしこれを禁じなければ、また農事が廃れるでしょう。今年は少し収穫がありますので、一切放還してその生業に復させてください」。許可された。間もなく、官において卒した。

原文以樞密直學士知益州。逸凡四至蜀,諳其民風。華陽騶長殺人,誣道旁行者,縣吏受財,獄既具,乃使殺人者守囚。逸曰:「囚色冤,守者氣不直,豈守者殺人乎?」囚始敢言,而守者果服,立誅之,蜀人以為神。會歲旱,逸使作堰壅江水,溉民田,自出公租減價以振民。初,民饑多殺耕牛食之,犯者皆配關中。逸奏:「民殺牛以活將死之命,與盜殺者異,若不禁之,又將廢穡事。今歲少稔,請一切放還,復其業。」報可。未幾,卒於官。

呉遵路

原文吳遵路

呉遵路、字は安道。父の淑は『文苑伝』に見える。進士に及第し、累官して殿中丞となり、秘閣校理となった。章献太后が称制した時、政事の得失について下の者が敢えて言う者はいなかった。遵路は十余条を条奏し、言葉は皆切直で、太后の意に逆らい、常州の知州として出された。かつて呉中で米をあらかじめ買い置きし、凶年に備えた。後に果たして大いに食糧が不足し、民はこれによって救われ、他州から流れて来た者も十のうち八九は全うした。累遷して尚書司封員外郎となり、権開封府推官、三司塩鉄判官に改め、直史館を加えられ、淮南転運副使となった。時に江淮発運使が廃止されたので、遂に発運司の事務を兼ねた。かつて真州・楚州・泰州・高郵軍に斗門を十九箇所設置し、水利を貯え泄らした。また管下の郡の常平倉の蓄えを広げて二百万に至らせ、凶年に備えた。凡そ計画したことは、後になって皆便利であった。

原文吳遵路,字安道。父淑,見《文苑傳》。第進士,累官至殿中丞,為祕閣校理。章獻太后稱制,政事得失,下莫敢言。遵路條奏十餘事,語皆切直,忤太后意,出知常州。嘗預市米吳中,以備歲儉,已而果大乏食,民賴以濟,自他州流至者亦全十八九。累遷尚書司封員外郎,權開封府推官,改三司鹽鐵判官,加直史館,為淮南轉運副使。會罷江淮發運使,遂兼發運司事。嘗於真楚泰州、高郵軍置斗門十九,以畜泄水利。又廣屬郡常平倉儲畜至二百萬,以待凶歲。凡所規畫,後皆便之。

工部郎中に遷ったが、蘄州の王蒙正がかつて部吏に死罪を誤って入れた件を失察した罪に坐し、洪州の知州に降格となった。広州に転じたが、辞して行かなかった。この時発運司は既に再び使を置いたので、これをもって発運使としたが、着任せず、召されて起居注を修した。元昊が反乱を起こすと、民兵を復活するよう建議した。天章閣待制・河東路計置糧草に任じられた。詔を受けて河東の郷民で兵となれる者を選抜すると、諸路はこれを法と見なした。兵部郎中に進み、権知開封府となった。吏を統御するに厳粛で、属県に追捕する事がなかった。

原文遷工部郎中,坐失按蘄州王蒙正故入部吏死罪,降知洪州。徙廣州,辭不行。是時發運司既復置使,乃以為發運使,未至,召修起居注。元昊反,建請復民兵。除天章閣待制、河東路計置糧草。受詔料揀河東鄉民可為兵者,諸路視以為法。進兵部郎中、權知開封府,馭吏嚴肅,屬縣無追逮。

時に宋庠・鄭戩・葉清臣は皆宰相の呂夷簡の気に入らない者であったが、遵路はこの三人と平素から親厚であったので、夷簡はこれを忌み、宣州の知州として出した。『禦戎要略』・『辺防雑事』二十篇を上った。陝西都転運使に転じ、龍図閣直学士に遷り、永興軍の知軍となった。病に伏してもなお事務を決するのを止めず、自ら奏文を作った。卒すると、仁宗はこれを聞いて悼み、詔して官を遣わし喪を護って京師に還らせた。

原文時宋庠、鄭戩、葉清臣皆宰相呂夷簡所不悅,遵路與三人雅相厚善,夷簡忌之,出知宣州。上《禦戎要略》、《邊防雜事》二十篇。徙陜西都轉運使,遷龍圖閣直學士、知永興軍,被病猶決事不輟,手自作奏。及卒,仁宗聞而悼之,詔遣官護喪還京師。

遵路は幼くして聡明で、成長すると博学で大體を知った。母の喪に際し、墓傍に廬り粗食して喪に服し終えた。性質は平雅で慎重、寡黙で笑わず、筆札に優れた。政を行うには簡易で威勢を張らず、朝廷に立っては敢えて直言し、阿る所がなかった。平素は廉潔で倹約し、他の嗜好がなく、没した後は家に余財がなく、その友の范仲淹が俸給を分けてその家を救済した。

原文遵路幼聰敏,既長,博學知大體。母喪,廬墓蔬食終制。性夷雅慎重,寡言笑,善筆劄。其為政簡易不為聲威,立朝敢言,無所阿倚。平居廉儉無他好,既沒,室無長物,其友范仲淹分奉賙其家。

子の瑛は尚書比部員外郎となったが、老いるのを待たずに帰郷した。

原文子瑛,為尚書比部員外郎,不待老而歸。

趙尚寛

原文趙尚寬

趙尚寛、字は済之、河南の人、参知政事安仁の子である。平陽県の知県となった。隣県に大勢の囚人十数名がおり、枷を破って夜逃げし、住民を殺害し、境界を犯そうとした。尚寛は尉を促して出捕させ、言った、「賊は我々が来られないと思い、ちょうど怠惰になっているから、捕えやすい。急ぎ行くべきで、散漫にさせてはならず、また害をなすであろう」。尉が出た後、また巡邏兵を遣わしてその後を追わせ、悉く捕獲した。

原文趙尚寬,字濟之,河南人,參知政事安仁子也。知平陽縣。鄰邑有大囚十數,破械夜逸,殺居民,將犯境,尚寬趣尉出捕,曰:「盜謂我不能來,方怠惰,易取也。宜亟往,毋使得散漫,且為害。」尉既出,又遣徼巡兵躡其後,悉獲之。

忠州の知州となった。俗に蠱毒を飼って人を殺す風習があった。尚寛は薬方を市中に掲示して人々に服薬を教え、蠱毒を行う者を募って探し出して徹底的に取り締まり、法に照らして処置し、その風俗を大いに改めさせた。転運使が塩数十万斤を持ち込み、民に白金と交換するよう課し、期限が迫っていた。尚寛は官庫に蓄えられたものを出してその需要に応じ、ゆるやかに民と取引し、騒がずに事を成し遂げた。

原文知忠州,俗畜蠱殺人,尚寬揭方書市中,教人服藥,募索為蠱者窮治,置於理,大化其俗。轉運使持鹽數十萬斤,課民易白金,期會促,尚寬發官帑所儲副其須,徐與民為市,不擾而集。

嘉祐年間(1056-1063年)、考課第一等として唐州知事となった。唐州はもともと肥沃な土地であったが、五代の乱を経て、田は耕されず、土地は広く民は少なく、租税は役人の俸給を満たすに足らず、議論する者は廃して県としようとした。趙尚寬は言った、「土地が広ければますます開墾を進められ、民が少なければますます招き集められる。どうして州を廃止することがあろうか」と。そこで地図や記録を調べ、漢代の召信臣が築いた陂や渠の旧跡を見つけ、さらに兵卒を動員して三つの陂と一つの渠を再び疏浚し、一万余頃の田を灌漑した。また、民に数十の支渠を自ら作ることを教え、互いに浸潤灌漑させた。すると四方から来る民は雲のように広がり、尚寬はさらに荒田を人口に応じて分け与えること、および民に官銭を貸して耕牛を買わせることを請願した。三年を経るころには、雑草の生い茂った土地が再び肥沃な土地となり、戸数は一万余り増加した。尚寬は農政に勤勉で、治績に異等の効果があり、三司使包拯と部の使者が相次いでその事績を上奏した。仁宗はこれを聞いて賞賛し、詔を下して褒め称え、さらに位階を進め金を賜った。唐州に留まること凡そ五年、民はその像を造り祠を建て、王安石と蘇軾は『新田』『新渠』の詩を作って彼を称えた。

原文嘉祐中,以考課第一知唐州。唐素沃壤,經五代亂,田不耕,土曠民稀,賦不足以充役,議者欲廢為邑。尚寬曰:「土曠可益墾辟,民稀可益招徠,何廢郡之有?」乃按視圖記,得漢召信臣陂渠故跡,益發卒復疏三陂一渠,溉田萬餘頃。又教民自為支渠數十,轉相浸灌。而四方之民來者雲布,尚寬復請以荒田計口授之,及貸民官錢買耕牛。比三年,榛莽復為膏腴,增戶積萬餘。尚寬勤於農政,治有異等之效,三司使包拯與部使者交上其事,仁宗聞而嘉之,下詔褒焉,仍進秩賜金。留於唐凡五年,民像以祠,而王安石、蘇軾作《新田》、《新渠》詩以美之。

同州・宿州に転任し、河中府の神勇卒は大校の貪虐に苦しみ、匿名の文書を刷って反乱を告発した。尚寬はこれを焼くよう命じ、「妄言である」と言った。衆はこれで安堵した。やがて大校を罷免するよう上奏し、士卒を他の営に分属させた。また梓州に転任した。尚寬が唐州を去って数年後、田は日に日に開墾が進み、戸数は日に日に増加した。朝廷はその功績を推挙し、少府監から直龍図閣に進めて梓州知事とした。官位を積み重ねて司農卿に至り、死去した。詔により銭五十万を賜った。

原文徙同、宿二州,河中府神勇卒苦大校貪虐,刊匿名書告變,尚寬命焚之,曰:「妄言耳。」眾乃安。已而奏黜校,分士卒隸他營。又徙梓州。尚寬去唐數歲,田日加辟,戶日益眾,朝廷推功,自少府監以直龍圖閣知梓州。積官至司農卿,卒,詔賜錢五十萬。

高賦

原文高賦

高賦、字は正臣、中山の人。父の任官により右班殿直となった。また進士に挙げられ、奉礼郎に改め、四度の転任で太常博士となった。真定県知事を歴任し、剣州・邢州・石州および成徳軍の通判を務めた。衢州知事として、俗に巫鬼を尊び、毛氏・柴氏ら二十余家が代々蠱毒を蓄え、閏年には特に人を害することが多く、人と憤争するとすぐに毒を盛った。賦はことごとくこれを捕らえて処罰し、蠱毒の患いは遂に絶えた。

原文高賦,子正臣,中山人。以父任為右班殿直。復舉進士,改奉禮郎,四遷太常博士。歷知真定縣,通判劍邢石州、成德軍。知衢州,俗尚巫鬼,民毛氏、柴氏二十餘家世蓄蠱毒,值閏歲,害人尤多,與人忿爭輒毒之。賦悉擒治伏辜,蠱患遂絕。

唐州に転任した。州の田は百年を経て荒れ耕されず、前任の知事趙尚寬は開墾に力を尽くしたが、なお雑草の生い茂った土地が多かった。賦はその後を継ぎ、さらに両河(黄河・淮河)の流民を募り、人口に応じて田を与えて耕作させ、四十四の陂堰を築いた。再び任期が満ちて再び留任し、彼が去るころには、田は三万一千三百余頃増えて開墾され、戸数は一万一千三百八十増え、歳の税は二万二千二百五十七増加した。璽書で褒賞と諭旨があり、その治績を公布して天下を勧励し、両州(唐州・衢州)では生前に祠を建てた。河東刑獄提点に抜擢され、さらに直龍図閣を加えられて滄州知事となった。程昉が境内に西流河を開鑿し、州城を巡らせて北の三塘泊に注がせようとした。賦は言った、「滄州城は河に近く、毎年堤防を増築してもなお奔流・氾濫を恐れている。ましてや妄りに開鑿することができようか」と。昉は固執して従わず、後になって工事は結局完成しなかった。

原文徙唐州,州田經百年曠不耕,前守趙尚寬菑墾不遺力,而榛莽者尚多。賦繼其後,益募兩河流民,計口給田使耕,作陂堰四十四。再滿再留,比其去,田增辟三萬一千三百餘頃,戶增萬一千三百八十,歲益稅二萬二千二百五十七。璽書褒諭,宣布治狀以勸天下,兩州為生立祠。擢提點河東刑獄,又加直龍圖閣、知滄州。程昉欲於境內開西流河,繞州城而北注三塘泊。賦曰:「滄城近河,歲增隄防,猶懼奔溢,矧妄有開鑿乎?」昉執不從,後功竟不成。

蔡州・潞州の二州を歴任し、入朝して同判太常寺となり、集賢院学士に進んだ。朝廷にあって多く建議し、かつて言った、「二府の大臣はある者は巷の借家に住み、京城に散在しており、公私ともに不便である。前代の丞相府にならい、端門の前に大邸宅を並べて建て、そこに住まわせるべきである」と。また言った、「仁宗朝に兗国公主のために邸宅を造営し、数十万緡の銭を用いた。今、五大長公主がいる。もしすべて前例のようであれば、その費用は際限がない。中程度の制を講究し、定式として裁定することを願う」と。諸道の提点刑獄司に検法官を置くことを請い、専ら平らに審議させ、民を冤罪にさせないようにした。禁中に閣を建て、功臣の像を描くこと、漢の雲台・唐の凌煙閣の制度のようになることを乞うた。建言の多くは施行された。通議大夫で致仕し、襄陽に退居し、八十四歳で死去した。

原文歷蔡、潞二州,入同判太常寺,進集賢院學士。在朝多所建明,嘗言:「二府大臣或僦舍委巷,散處京城,公私非便。宜仿前代丞相府,於端門前列置大第,俾居之。」又言:「仁宗朝為兗國公主治第,用錢數十萬緡。今有五大長公主,若悉如前比,其費無藝。願講求中制,裁為定式。」請諸道提點刑獄司置檢法官,庶專平讞,使民不冤。乞於禁中建閣,繪功臣像,如漢雲臺、唐淩煙之制。言多施行。以通議大夫致仕,退居襄陽,卒年八十四。

程師孟

原文程師孟

程師孟、字は公闢、呉の人。進士甲科。累任して南康軍・楚州の知事となり、夔路刑獄提点となった。瀘州・戎州の蛮がたびたび渝州の辺境を侵犯し、使者の治所は万州にあり、距離が遠く、警報があっても大抵十日経ってやっと到着した。師孟は渝州に移すよう上奏した。夔路には常平倉の粟がなく、倉を設置するよう建議した。凶年にあたり、民を救済するのに不足すれば、すぐに他の蓄えを矯発(緊急発令)し、報告を待たなかった。役人は恐れて、不可と言ったが、師孟は言った、「必ず報告を待てば、飢えた者はみな死んでしまう」と。ついにそれを発した。

原文程師孟,字公闢,吳人。進士甲科。累知南康軍、楚州,提點夔路刑獄。瀘戎數犯渝州邊,使者治所在萬州,相去遠,有警,率浹日乃至。師孟奏徙於渝。夔部無常平粟,建請置倉,適凶歲,振民不足,即矯發他儲,不俟報。吏懼,白不可,師孟曰:「必俟報,饑者盡死矣。」竟發之。

河東路に転任した。晋の地には土山が多く、川谷に接し、春夏の大雨の時、水は黄河のように濁り、俗に「天河」と呼び、灌漑に利用できた。師孟は民に出銭を勧めて渠を開き堰を築かせ、一万八千頃の良田を淤泥で肥沃にし、その事績をまとめて『水利図経』とし、州県に頒布した。度支判官となった。洪州知事として、石を積んで江の堤防とし、章溝を疏浚し、北閘を高くして、水の昇降を調節し、後世に水害がなくなった。

原文徙河東路。晉地多土山,旁接川谷,春夏大雨,水濁如黃河,俗謂之「天河」,可溉灌。師孟勸民出錢開渠築堰,淤良田萬八千頃,裒其事為《水利圖經》,頒之州縣。為度支判官。知洪州,積石為江隄,浚章溝,揭北閘,以節水升降,後無水患。

三司都磨勘司を判じ、契丹使の接拌(接待)を務めた。蕭惟輔が言った、「白溝の地は両属すべきである。今、南朝(宋)は数里に柳を植え、しかも北朝(遼)の人が界河で漁をするのを罪とするのは、どうして道理があろうか」と。師孟は言った、「両朝は誓約を守るべきである。涿郡には文書の記録があり覆審できる。君は文書を捨て、口先だけの説を飛ばし、どうして事を起こそうとするのか」と。惟輔は恥じて謝罪した。

原文判三司都磨勘司,接拌契丹使,蕭惟輔曰:「白溝之地當兩屬,今南朝植柳數里,而以北人漁界河為罪,豈理也哉?」師孟曰:「兩朝當守誓約,涿郡有案牘可覆視,君舍文書,騰口說,詎欲生事耶?」惟輔愧謝。

出向して江西転運使となった。盗賊が袁州で発生し、州の役人が耳目となっており、長く捕らえられなかった。師孟は役人数人を枷にかけて獄に送ると、盗賊はすぐに擒らえられた。直昭文館を加えられ、福州知事となり、子城を築き、学舎を建て、その治行は東南で最も優れていた。広州に転任した。州城は儂智高の寇賊によって破壊され、他日に警報があると、民は驚き逃げ散り、方伯(長官)が相次いで赴任したが、皆、土が粗悪で築城できないと言った。師孟は広州に六年いて西城を築き、交趾が邕管を陥落させた時、広州の守備が堅固であると聞いて、東進することを敢えなかった。当時、師孟はすでに召還されていたが、朝廷は以前の功績を思い、給事中・集賢殿修撰とし、都水監を判じた。

原文出為江西轉運使。盜發袁州,州吏為耳目,久不獲,師孟械吏數輩送獄,盜即成擒。加直昭文館,知福州,築子城,建學舍,治行最東南。徙廣州,州城為儂寇所毀,他日有警,民駭竄,方伯相踵至,皆言土疏惡不可築。師孟在廣六年,作西城,及交址陷邕管,聞廣守備固,不敢東。時師孟已召還,朝廷念前功,以為給事中、集賢殿修撰,判都水監。

契丹主の生辰を賀するため、涿州に至った。契丹は席を設け、迎える者は正しく南向きに、涿州の官は西向きに、宋の使節は東向きに座るよう命じた。師孟は言った、「これは我を卑しめるものである」と。列に就かず、日が西に傾く時から暮れまで争い、従者は顔色を失ったが、師孟の言葉と気勢はますます激しく、儐相を叱ってこれを変えさせ、そこでようやく迎える者と東西に向かい合うように改めた。翌日、涿州の人が郊外で送別の宴を設けたが、師孟は疾駆して通り過ぎ顧みなかった。涿州の人は雄州に移文してこれを言上し、師孟は罷免されて帰班させられた。再び起用されて越州・青州の知事となり、遂に致仕し、光禄大夫の官で死去した。七十八歳。

原文賀契丹主生辰,至涿州,契丹命席,迎者正南向,涿州官西向,宋使价東向。師孟曰:「是卑我也。」不就列,自日昃爭至暮,從者失色,師孟辭氣益厲,叱儐者易之,於是更與迎者東西向。明日,涿人錢於郊,疾馳過不顧,涿人移雄州以為言,坐罷歸班。復起知越州、青州,遂致仕,以光祿大夫卒,年七十八。

師孟は累任して重要な州鎮を治め、政務は簡潔で厳格であり、死罪に当たらない罪は役人に委ねなかった。隠れた悪事や伏した罪を暴くことは神の如く、豪悪で不逞・放蕩な者を得れば必ず痛く懲らしめ、滅ぼし尽くすまでやめず、管轄区域は厳然とした。洪州・福州・広州・越州では生前に祠を建てた。

原文師孟累領劇鎮,為政簡而嚴,罪非死者不以屬吏。發隱擿伏如神,得豪惡不逞跌宕者必痛懲艾之,至剿絕乃已,所部肅然。洪、福、廣、越為立生祠。

韓晉卿

原文韓晉卿

韓晉卿、字は伯修、密州安丘の人。童子の時、日に書を数千言誦した。長じて『五経』で及第し、肥郷・嘉興の主簿、安粛軍司法参軍、平城令、大理詳断、審刑詳議官を歴任し、応天府通判、同州・寿州知事となり、奏課第一等となり、刑部郎中に抜擢された。

原文韓晉卿,字伯修,密州安丘人。為童子時,日誦書數千言。長以《五經》中第,歷肥鄉嘉興主簿、安肅軍司法參軍、平城令、大理詳斷、審刑詳議官,通判應天府,知同州、壽州,奏課第一,擢刑部郎中。

元祐の初め、明州の知州となり、両浙転運使の差役法が再施行されると、諸道の処置は多く倉卒として順序を失したが、ただ晋卿のみは民の適宜を見て法の趣旨に背かなかった。召されて大理少卿となり、卿に遷った。

原文元祐初,知明州,兩浙轉運使差役法復行,諸道處畫多倉卒失敘,獨晉卿視民所宜而不戾法指。入為大理少卿,遷卿。

晋卿は仁宗朝よりすでに訴訟を掌り、時に朝廷に疑議あるときは、輒ち公卿を下して雑議させた。開封の民が鶏を争って人を殺した事件では、王安石は盗みが拒捕して闘い死したものとして、殺しても罪なしとしたが、晋卿は「これは闘殺である」と言った。登州の婦人が夫を謀殺した事件では、郡守の許遵が按問として執り行ったが、安石はまたこれを支持した。晋卿は「死に当たる」と言い、事は久しく決せず、議論は朝廷に満ちたが、終に持して肯えて変えず、これによって名を知られた。

原文晉卿自仁宗朝已典訟臬,時朝廷有疑議,輒下公卿雜議。開封民爭鶉殺人,王安石以為盜拒捕鬥而死,殺之無罪,晉卿曰:「是鬥殺也。」登州婦人謀殺夫,郡守許遵執為按問,安石復主之,晉卿曰:「當死。」事久不決,爭論盈庭,終持之不肯變,用是知名。

元豊に大理獄を置くと、多くは内庭より付託されたが、晋卿は持平して考核し、上下すること無かった。神宗はその才を称え、毎に獄を讞するに明らかなりと雖も、若し事が貴要に連なり、屡々鞠して成らざるものは、必ずこれを委ねた。嘗て詔を被り寧州の獄を按治すべく、故事に循って当に対入すべきところ、晋卿は「奉使には指有り、三尺の法具わ在り、豈に主意を刺候し、其の心を軽重すべきや」と言い、命を受けて即ち行った。

原文元豐置大理獄,多內庭所付,晉卿持平考核,無所上下。神宗稱其才,每讞獄雖明,若事連貴要、屢鞠弗成者,必以委之,嘗被詔按治寧州獄,循故事當入對,晉卿曰:「奉使有指,三尺法具在,豈應刺候主意,輕重其心乎?」受命即行。

諸州より大辟を請讞するに、執政は其の多きを悪み、将に応讞せざる者を劾せんとした。晋卿は「聴断は生く所以を求むるは、仁恩の至りなり。苟も讞して譴を獲ば、後来らず」と言った。議者は又唐の日覆奏を引き、天下の庶戮悉く奏決せしめんとした。晋卿は言うに「疑わしく矜むべき者は上請を許すは、祖宗の制なり。四海万里、須らく繫えて以て朝命を聴かしむれば、恐らくは自今より庾死する者は伏辜する者より多からん」と。朝廷は皆其の説を行い、故に士大夫の間は其の忠厚を推して、法家を以て之を名付けず。官に卒す。

原文諸州請讞大辟,執政惡其多,將劾不應讞者。晉卿曰:「聽斷求所以生之,仁恩之至也。茍讞而獲譴,後不來矣。」議者又欲引唐日覆奏,令天下庶戮悉奏決。晉卿言:「可疑可矜者許上請,祖宗之制也。四海萬里,必須繫以聽朝命,恐自今庾死者多於伏辜者矣。」朝廷皆行其說,故士大夫間推其忠厚,不以法家名之。卒於官。

葉康直

原文葉康直

葉康直、字は景溫、建州の人。進士第に擢でられ、光化県の知県となった。県は竹多く、民は皆編んで屋としていたが、康直は陶瓦を用いることを教え、火災を寧んじた。凡そ政は皆民を利することを務めた。時に豊稷が穀城令となり、亦た治績を以て顕れ、人は之を歌って「葉光化、豊穀城、清きこと水の如く、平かなること衡の如し」と言った。

原文葉康直,字景溫,建州人。擢進士第,知光化縣。縣多竹,民皆編為屋,康直教用陶瓦,以寧火患。凡政皆務以利民。時豐稷為穀城令,亦以治績顯,人歌之曰:「葉光化,豐穀城,清如水,平如衡。」

曾布が新法を行うに、司農属と為す。歴て永興・秦鳳転運判官となり、陜西に徙り、提点刑獄・転運副使に進む。五路の兵西征するに、康直は涇原の糧道を領し、承受内侍の梁同が糧悪しと妄りに奏したため、神宗怒り、康直を械し、将に之を誅せんとしたが、王安礼力救し、得て故官に帰す。

原文曾布行新法,以為司農屬。歷永興、秦鳳轉運判官,徙陜西,進提點刑獄、轉運副使。五路兵西征,康直領涇原糧道,承受內侍梁同以餉惡妄奏,神宗怒,械康直,將誅之,王安禮力救,得歸故官。

元祐の初め、直龍図閣を加えられ、秦州の知州となる。中書舎人曾肇・蘇轍が康直が李憲に諂事するを劾し、免官となるも、実を究むるに状無く、河中府の知州に改め、復た秦州となる。夏人が甘谷に侵すと、康直は諸将に戒めて伏兵を設けて待たせ、其の二酋を殲し、自ら是より敢えて境を犯さず。宝文閣待制・陜西都運使に進む。疾を以て亳州の知州を請い、積潦を通濬し、民は田数十万畝を獲たり。召されて兵部侍郎となり、卒す。年六十四。

原文元祐初,加直龍圖閣,知秦州。中書舍人曾肇、蘇轍劾康直諂事李憲,免官,究實無狀,改知河中府,復為秦州。夏人侵甘谷,康直戒諸將設伏以待,殲其二酋,自是不敢犯境。進寶文閣待制、陜西都運使。以疾請知亳州,通濬積潦,民獲田數十萬畝。召為兵部侍郎,卒,年六十四。