宋史

列傳第一百八十四 劉應龍 潘牥 洪芹 趙景緯 馮去非 徐霖 徐宗仁 危昭德 陳塏 楊文仲 謝枋得

列傳第一百八十四 劉應龍 潘牥 洪芹 趙景緯 馮去非 徐霖 徐宗仁 危昭德 陳塏 楊文仲 謝枋得

劉應龍

原文劉應龍

劉應龍、字は漢臣、瑞州高安の人なり。嘉熙二年の進士。零陵主簿に授けられ、饒州錄事參軍となる。毛隆という者あり、剽掠殺人を務め、州民は盗に遭い、遠く呼びて盗に曰く、「汝は毛隆か」と。盗も亦曰く、「我は毛隆なり」と。既に官に訟う、隆を捕えて獄に置く、應龍曰く、「盗が真に毛隆ならば、肯んで自ら称せんや」と。因りて州に言う、州は許さず、乃ち他の官に委ぬ、隆は誣られて伏し死に抵す、未幾にして盗敗る、應龍是に由りて著名となる。崇仁縣知縣に改む。淮西失守し、江西諸州に殘破する者有り、縣の佐貳は變を聞き先ず遁る、應龍は固く守り去らず。

原文劉應龍,字漢臣,瑞州高安人。嘉熙二年進士。授零陵主簿,饒州錄事參軍。有毛隆者,務剽掠殺人,州民被盜,遙呼盜曰:「汝毛隆也?」盜亦曰:「我毛隆也。」既訟於官,捕隆置獄,應龍曰:「盜誠毛隆,其肯自謂?」因言於州,州不可,乃委它官,隆誣伏抵死,未幾盜敗,應龍繇是著名。改知崇仁縣。淮西失守,江西諸州有殘破者,縣佐貳聞變先遁,應龍固守不去。

先づ、理宗久しく子無く、弟福王與芮の子を以て皇子と為す、丞相吳潛異論有り、帝已に樂しまず。大元兵江を度り、朝野震動し、丞相丁大全を逐い、復た潛を起して相と為す、帝潜に策の安くに出づるかを問う、潜對えて曰く、「當に遷幸すべし」と。又た卿は如何と問う、潜曰く、「臣は當に此に死守すべし」と。帝泣下して曰く、「卿は張邦昌たらんと欲するか」と。潜敢えて復た言わず。未幾にして北兵退く、帝群臣に語りて曰く、「吳潜幾くんぞ朕を誤らんとす」と。遂に潜の相を罷む。帝潜を怒り已まず、應龍朝に命を受け、帝夜に象簡を出だし疏稿を書して應龍に授け、潜を劾せしむ、應龍謂う、「潜は本より賢譽有り、獨り事を論じて當を失い、變に臨みて寡斷なり。祖宗以來、大臣罪有りと雖も未だ嘗て輕く肆に誅戮せず。望むらくは姑く寬典に從い、以て體貌を全うせんことを」と。帝大いに怒る。乃ち丁大全を按劾し、加うるに竄斥を請う、疏に言う、「内は民瘼を蘇るより急なるは莫く以て國本を固くし、外は軍實を討つより急なるは莫く以て國威を振う」と。又た時政四事を言う、廩を廣く發して以て民饑を振い、商販を通じて以て民食を助け、富室を勸分して以て官糴を助け、等第を嚴しくして以て民數を覈し、檢放を稽えて以て民窮を蘇し、盜を嚴しく戢めて以て民害を除く。賈似道素より潜を忌み、會す京師米貴し、應龍『勸糶歌』を作る、宦者取りて以て上聞す、帝問い知る應龍の作れることを、似道に米價高きを問い、當に亟に之を處すべしと、似道其の由を訪う、亦た應龍を怒る。司農少卿に遷り、尋いで右諫議大夫孫附鳳の言に以て、遂に國を去る。

原文先是,理宗久未有子,以弟福王與芮之子為皇子,丞相吳潛有異論,帝已不樂。大元兵度江,朝野震動,逐丞相丁大全,復起潛為相,帝問潛策安出,潛對曰:「當遷幸。」又問卿如何,潛曰:「臣當死守於此。」帝泣下曰:「卿欲為張邦昌乎?」潛不敢復言。未幾北兵退,帝語群臣曰:「吳潛幾誤朕。」遂罷潛相。帝怒潛不已,應龍朝受命,帝夜出象簡書疏稿授應龍,使劾潛,應龍謂:「潛本有賢譽,獨論事失當,臨變寡斷。祖宗以來,大臣有罪未嘗輕肆誅戮。欲望姑從寬典,以全體貌。」帝大怒。乃按劾丁大全,請加竄斥,疏言:「內莫急於蘇民瘼以固國本,外莫急於討軍實以振國威。」又言時政四事,廣發廩以振民饑,通商販以助民食,勸分富室以助官糴,嚴等第以覈民數,稽檢放以蘇民窮,嚴戢盜以除民害。賈似道素忌潛,會京師米貴,應龍為《勸糶歌》,宦者取以上聞,帝問知應龍所作,問似道米價高,當亟處之,似道訪其由,亦怒應龍。遷司農少卿,尋以右諫議大夫孫附鳳言,遂去國。

景定三年、湖南饑え、起きて提舉常平と為る。救荒の功を以て、直寶章閣・廣南東路轉運判官に遷る。祕書監兼國史編修・實錄檢討に遷る。隆興府知事兼江西轉運副使となり、和糴二十萬石を免ずるを奏す。權戶部侍郎兼侍講に擢でる。時似道國に當たり、百官奏對稍々切直なる者は輒ち黜けらる、應龍言う、「臣觀るに今日の事、言うべき者多し。邇日以來、靖恭自守する者は以て事を論ずるを忌み、指陳稍々切なる者は聯翩として引去す、豈に兩省の繳駁過甚にして、其の疑いを重くするか。抑や廷臣の奏對咈意にして、其の畏れを速くするか。朝廷清明の時にして、言う者已に懷疑畏す、臣恐らくは正臣氣を奪い、鯁臣舌を吃し、宜しく盛世の有る所に非ざらんことを」と。遂に當路に迕い、侍從・兩省以下切齒せざる無し。未幾、集英殿修撰を以て建寧府知事となる、亟に辭し、中書舍人盧鉞指に希い錄黃を封じて還す。久しうして、起きて江東轉運使と為る、辭す。

原文景定三年,湖南饑,起提舉常平。以救荒功,遷直寶章閣、廣南東路轉運判官。遷祕書監兼國史編修、實錄檢討。知隆興府兼江西轉運副使,奏免和糴二十萬石。擢權戶部侍郎兼侍講。時似道當國,百官奏對稍切直者輒黜,應龍言:「臣觀今日之事,可言者多矣。邇日以來,靖恭自守者以論事為忌,指陳稍切者聯翩引去,豈兩省繳駁過甚,重其疑歟?抑廷臣奏對咈意,速其畏歟?朝廷清明之時,而言者已懷疑畏,臣恐正臣奪氣,鯁臣吃舌,宜非盛世所有。」遂迕當路,自侍從、兩省以下無不切齒。未幾,以集英殿修撰知建寧府,亟辭,中書舍人盧鉞希指封還錄黃。久之,起為江東轉運使,辭。

南海寇作し、朝廷之を患う、乃ち顯謨閣待制を以て廣州知事・廣東經略安撫使と為る。寇應龍の至るを聞き、遁げ去る。應龍之を剿逐し、南海大いに治まる。特旨屢召し、戶部侍郎に拜し仍兼侍讀、七たび奏を上りて辭免す。德祐元年、兵部尚書・寶章閣直學士・贛州知事に遷り、兼江西兵馬鈐轄・青海軍節度使、力辭し、九峰に隱る。

原文南海寇作,朝廷患之,乃以顯謨閣待制知廣州、廣東經略安撫使。寇聞應龍至,遁去。應龍剿逐之,南海大治。特旨屢召,拜戶部侍郎仍兼侍讀,七上奏辭免。德祐元年,遷兵部尚書、寶章閣直學士、知贛州,兼江西兵馬鈐轄、青海軍節度使,力辭,隱九峰。

子元高亦た進士に舉り、候官縣知事となる。沒す、洪天錫歎じて曰く、「朝廷一御史を失えり」と。

原文子元高亦舉進士,知候官縣。沒,洪天錫歎曰:「朝廷失一御史矣。」

潘牥

原文潘牥

潘牥、字は庭堅、福州閩の人なり。端平二年策進士、牥對えて曰く、「陛下休を上帝に承け、德を匹夫に皈す、何ぞ人子孫と異ならん、身に父母劬勞の賜を荷い、乃ち豪奴悍婢を指して恩私の地と為す。父母の怒り無からんことを欲するも、得べからず」と。又た曰く、「陛下手足の愛、生榮死哀、反って士庶人を視るを得ず。此れ一門の内、骨肉の間未だ能く親睦せざるが如し、是を以て僮僕疾視し、鄰里侮を生ず。宜しく東海の恩を厚くし、淮南の土を裂き、以て人和を致すべし」と。時に對する者數百人、庭堅の語最も直なり。

原文潘牥,字庭堅,福州閩人。端平二年策進士,牥對曰:「陛下承休上帝,皈德匹夫,何異為人子孫,身荷父母劬勞之賜,乃指豪奴悍婢為恩私之地。欲父母無怒,不可得也。」又曰:「陛下手足之愛,生榮死哀,反不得視士庶人。此如一門之內,骨肉之間未能親睦,是以僮僕疾視,鄰里生侮。宜厚東海之恩,裂淮南之土,以致人和。」時對者數百人,庭堅語最直。

會す殿中侍御史蔣峴方大琮・劉克莊・王邁の前異論を倡えしを劾し、併せて牥を誣りて姓逆賊に同しく、策語順わずとし、請う皆漢法を以て論ずるを。牥鎮南軍節度推官・衢州推官に調じ、浙西提舉常平司を歷る。太學正に遷り、旬日、出でて潭州通判と為る。日食し、詔に應じて封事を上りて曰く、「熙寧初元日食し、詔して郡縣に骼を掩わしめ、令と為すに著す。故王一抔の淺土、其れ暴骸と為る亦た大なり。請う王禮を以て改葬せんことを」と。又た丞相游似に移書して之を申し言う、似其の言を善しと心にし、方に將に收用せんとし、而して牥卒す。

原文會殿中侍御史蔣峴劾方大琮、劉克莊、王邁前倡異論,併誣牥姓同逆賊,策語不順,請皆論以漢法。牥調鎮南軍節度推官、衢州推官,歷浙西提舉常平司。遷太學正,旬日,出通判潭州。日食,應詔上封事曰:「熙寧初元日食,詔郡縣掩骼,著為令。故王一抔淺土,其為暴骸亦大矣。請以王禮改葬。」又移書丞相游似申言之,似心善其言,方將收用之,而牥卒。

洪芹

原文洪芹

洪芹、尚書右僕射适の曾孫、大父の澤を以て官に入り、甫更調し、進士第に登る。南平司法より欽州教授に改む。部使者其の才を愛し、先後並びに之を薦む、旨有り召し審察す。内外艱に丁る。入りて省架閣を主り、太學博士に遷る。輪對し、絜矩の道を發明す。國子博士に擢でられ、出でて南劍通判と為り、入りて太常博士と為り、累遷して將作少監に至る。屬に詞臣上意に當たる無く、慨然として天下の士を得んと思い、丞相程元鳳言う當今地望洪芹に逾る者無しと、進めて兼翰林と為し、權直秘書少監を權む。

原文洪芹,尚書右僕射适之曾孫,以大父澤入官,甫更調,登進士第。自南平司法改欽州教授。部使者愛其才,先後並薦之,有旨召審察。丁內外艱。入主省架閣,遷太學博士。輪對,發明絜矩之道。擢國子博士,出通判南劍,入為太常博士,累遷將作少監。屬詞臣無當上意,慨然思得天下士,丞相程元鳳言當今地望無逾洪芹者,進兼翰林,權直秘書少監。

開慶元年、直學士院に升り、繼いで權禮部侍郎・中書舍人を權む。屬に兵興し、帝悟る柄任人に非ざるを、自ら國禍を貽すと、詔書の至る所、聞く者奮激す、蓋し芹の草する所なり。丁大全相を罷め、出でて鄉郡を典す。芹禮部侍郎に遷り、繳奏す、「大全鬼蜮の資、穿窬の行、暴戾淫黷、兇惡を引用し、忠良を陷害し、言路を遏塞し、朝綱を濁亂す。乞うらくは盡く諫臣の請う所に從い、官を追い遠く竄し、以て國法を伸べ、以て天下に謝せんことを」と。沈炎上怒に乘じ、丞相吳潜を攻む、芹獨り繳奏して曰く、「方に國本多虞なるに、潜星馳して闕に赴き、紛を理め浮を鎮め、力に陳する多し。一旦之を弁髦と視る、得無や《詩》の所謂『將に安からんとし將に樂しまんとすれば女轉た予を棄つ』が如からん乎」と。慷慨敢言、天下之を義とす。

原文開慶元年,升直學士院,繼權禮部侍郎、中書舍人。屬兵興,帝悟柄任非人,自貽國禍,詔書所至,聞者奮激,蓋芹所草也。丁大全罷相,出典鄉郡。芹遷禮部侍郎,繳奏:「大全鬼蜮之資,穿窬之行,暴戾淫黷,引用兇惡,陷害忠良,遏塞言路,濁亂朝綱。乞盡從諫臣所請,追官遠竄,以伸國法,以謝天下。」沈炎乘上怒,攻丞相吳潛,芹獨繳奏曰:「方國本多虞,潛星馳赴闕,理紛鎮浮,陳力為多。一旦視為弁髦,得無如《詩》所謂『將安將樂女轉棄予』乎?」慷慨敢言,天下義之。

禮部侍郎に遷り、帝銳意向用せんとし而して論を以て去り、退きて永嘉に寓し、怡然自適す。咸淳初、起きて寧國府知事と為る。卒す。文集有り。

原文遷禮部侍郎,帝銳意向用而以論去,退寓永嘉,怡然自適。咸淳初,起知寧國府。卒。有文集。

趙景緯

原文趙景緯

趙景緯、字は德父、臨安府於潛の人。幼くして学に勤しみ、弱冠にして周惇頤・程顥兄弟らの諸書を得て読み、朱熹の門に登れなかったことを恨んだ。朱熹の門人葉味道がこれに言う、「度正は我が党中の第一人者なり」。遂に往きて見え、まず放心を求むるを本とすべしと教えられた。ここにおいて味道・正の間を往来し、研究思索益々精しくなる。太学に入り、淳祐元年の進士第に登る。江陰軍教授に授けられ、諸生はその規矩法度を守った。母の憂に服し、禄が養いに及ばず、喪が明けても転任を求めなかった。『読易庵懸霤山』を作る。江東提点刑獄の呉勢卿が幹弁公事に辟すも、就かず。史館検閲に召されるも、辞し、許されず。待次教授への換任を乞い、許されず。岳祠を乞い、また許されず。致仕を乞い、返答なし。旨ありて特に合入官に改めることを与え、崇道観を主管す。三度辞すも、許されず。景定元年、特に秘書郎を授けられ、二度辞すも、許されず。著作郎に遷り、辞すも、許されず。病を以て祠官を乞い、佑神観主管兼史館校勘を差す。史書が成り、二度外祠を乞い、直秘閣に進み、在外宮観を与えられ、職名を辞すも、許されず。崇禧観主管を差す。

原文趙景緯,字德父,臨安府於潛人。少勤學,弱冠得周惇頤、程顥兄弟諸書讀之,恨不及登朱熹之門。熹門人葉味道謂之曰:「度正,吾黨中第一人。」遂往見,首誨以求放心為本。由是往來味道、正之間,研索益精。入太學,登淳祐元年進士第。授江陰軍教授,諸生守其榘度。丁母憂,以祿不逮養,服闋不調。作《讀易庵懸霤山》。江東提點刑獄吳勢卿辟為幹辦公事,不就。召為史館檢閱,辭,不許;乞換待次教授,不許;乞岳祠,又不許;乞致仕,不報。有旨特與改合入官,主管崇道觀,三辭,不許。景定元年,特授秘書郎,兩辭,不許。遷著作郎,辭,不許。以疾丐祠,差主管佑神觀兼史館校勘。史成,兩乞外祠,進直祕閣,與在外宮觀,辭職名,不許。差主管崇禧觀。

台州守の王華甫が上蔡書院を建て、景緯を礼遇して堂長とす。病を以て辞す。旧職のまま台州知事に差す。二度辞すも、許されず、催促の命益々厳し。郡に至り、民を化し俗を成すを先務とし、まず陳述古の『諭俗文』を取り諸邑に書き示し、且つ自らその説を為し、その民をして互いに告諭・諷誦・服行せしめ、期して失墜なからしむ。官吏の民を擾す五事を制約す。『孝経』の「庶人章」を取り四言とし、その義を詠賛し、朝夕これを歌わしめ、これがために感涙する者あり。遺逸の車若水・林正心を朝廷に挙ぐ。孝行を旌表し、『訓孝文』を作りてその俗を励ます。重刑を平らげ、嘩訐を懲らし、豪横を治む。黄巖県に社倉六十六を建つ。河道九十里を浚い、堤防道路三十里を築く。浮費を節し、下戸の為に秋苗を代わって納む。五邑の坊河渡銭の免除を奏す。

原文台州守王華甫建上蔡書院,禮景緯為堂長,以疾辭。依舊職差知台州,兩辭,不許,趣命益嚴。至郡,以化民成俗為先務,首取陳述古《諭俗文》書示諸邑,且自為之說,使其民更相告諭、諷誦、服行,期無失墜。約束官吏擾民五事。取《孝經·庶人章》為四言,詠贊其義,使朝夕歌之,至有為之感涕者。舉遺逸車若水、林正心於朝。旌孝行,作《訓孝文》以勵其俗。平重刑,懲嘩訐,治豪橫。建黃巖縣社倉六十有六。浚河道九十里,築隄路三十里。節浮費,為下戶代輸秋苗。奏蠲五邑坊河渡錢。

一年の内に、田舎に帰ることを乞うこと再びあり。考功郎官に進み、再び辞すも、許されず。沂靖恵王府教授を兼ね、辞すも、許されず。この冬、新命を四度辞し、且つ祠官を乞うも、皆許されず。乃ち赤城・桐柏の間に於いて薬を採り書を著し、後学に補うこと有らんことを乞う。病廃の身をして聖世に無用ならしめざらんとす。許されず。御筆にて崇政殿説書を兼ね、三度辞すも、許されず。乃ち朝廷に詣で、緝熙殿に侍し、『易』を以て進講し、「聖人の元を体する妙は惟幾に在り。人君此を得れば、則ち天下に治有りて乱無く、人事に吉有りて凶無し」と論ず。又曰く、「惕厲祗懼は乃ち天心の存する所なり。聖人は先ず憂に処するを以て、故に能く憂無く、先ず危に処するを以て、故に能く危無し。若し先ず自ら安楽に処せば、則ち憂危之に乗ずるなり」。又監司守令を論じ、その説に曰く、「人を知ることの難きは、古より已然たり。人材の使に乏しきは、今を甚だしと為す莫し。或いは観望して勢に撓み、或いは阿私して情に徇い、或いは是非公ならずして枉を以て直と為し、或いは毀誉実を失して汚を以て廉と為す。遂に挙刺当たらず、以て天下の心を服するに足らず。其の罪有るの後に糾劾するに若くは、未だ用いざる先に精択し、之をして各其の職に称せしむるに如かず」。

原文期年之內,乞歸田里者再。進考功郎官,再辭,不許。兼沂靖惠王府教授,辭,不許。是冬,四辭新命,且乞祠,皆不許。乃乞於赤城、桐柏之間采藥著書,庶幾有補後學,使病廢之身不為無用於聖世,不許。御筆兼崇政殿說書,三辭,不許。乃造朝,侍緝熙殿,以《易》進講,論「聖人體元之妙在惟幾,人君得此,則天下有治而無亂,人事有吉而無兇矣」。又曰:「惕厲祗懼,乃天心之所存。聖人先處於憂,故能無憂,先處以危,故能無危;若乃先自處於安樂,則憂危乘之矣。」又論監司守令,其說曰:「知人之難,自古已然。人才乏使,莫今為甚。或觀望而撓於勢,或阿私而徇於情,或是非不公而以枉為直,或毀譽失實而以汙為廉。遂使舉刺不當,不足以服天下之心。與其糾劾於有罪之後,而未必盡得其情;孰若精擇於未用之先,而使之各稱其職。」

彗星、柳宿に出づ。景緯、詔に応じて封事を上ぐ。曰く、

原文彗出於柳,景緯應詔上封事曰:

「今日天意を解く所以を求むるは、人心を悦ばすに過ぎず。百姓の心即ち天心なり。私蔵を錮して天下の同欲を専らにすれば、則ち人悦ばず。私人を保って天下の公議に違えば、則ち人悦ばず。閭閻の糟糠厭わざるに、燕私の供奉自如なれば、則ち人悦ばず。百姓の膏血日々に朘せられ、符移の星火愈急なれば、則ち人悦ばず。己に公ならずして天下の私を絶たんと欲すれば、則ち人悦ばず。其の源を澄まさずして天下の貪を止めんと欲すれば、則ち人悦ばず。夫れ必ず是の数者有りて、斯に怨を召し災を致すに足る。

原文「今日求所以解天意者,不過悅人心而已。百姓之心即天心也。錮私藏而專天下之同欲,則人不悅。保私人而違天下之公議,則人不悅。閭閻之糟糠不厭,而燕私之供奉自如,則人不悅。百姓之膏血日朘,而符移之星火愈急,則人不悅。不公於己而欲絕天下之私,則人不悅。不澄其源而欲止天下之貪,則人不悅。夫必有是數者,斯足以召怨而致災。

願わくは陛下、内帑を捐てて壅利の謗を絶ち、嬪嬙を出して用度の奢を節せよ。弄権の貂寺、素より天下の共に悪む所の者は、之を屏け之を絶て。民を毒する恩沢侯、嘗て百姓の憤る所の者は、之を黜し之を棄てよ。忠鯇敢言の士を択びて之を台諫に置き、関鬲の壅を通ぜしめよ。慈恵忠信の人を選びて之を守宰と為し、元気の残を保たしめよ。又必ず乾道・淳熙以来、凡そ利源窠名の百司庶府に在る者、悉く其の旧に隷せしめ、以て経用の急を済さしめよ。公田派買不均の弊は、民の自ら陳ずるに聴き、宜に随い通変し、以て田里の生を安んぜしめよ。則ち人心悦び、天意解くべし。人の常情、懼るる心は災異初見の時に発する毎に、諂諛交至の後に潜かに移らざる能わず。万一左右の寛譬の言を過聴し、曲って他の説を為して自ら解き、細故を毛挙して以て責を塞ぎ、恐懼の初心弛らば、則ち下は人心に拂い、上は天意に違ひ、国の安危或いは未だ知るべからず」。

原文願陛下捐內帑以絕壅利之謗;出嬪嬙以節用度之奢。弄權之貂寺素為天下之所共惡者,屏之絕之;毒民之恩澤侯嘗為百姓之所憤者,黜之棄之。擇忠鯁敢言之士置之臺諫,以通關鬲之壅;選慈惠忠信之人使為守宰,以保元氣之殘。又必稽乾、淳以來,凡利源窠名之在百司庶府者,悉隸其舊,以濟經用之急;公田派買不均之弊,聽民自陳,隨宜通變,以安田里之生。則人心悅、天意解矣。人之常情,懼心每發於災異初見之時,不能不潛移於諂諛交至之後。萬一過聽左右寬譬之言,曲為它說以自解,毛舉細故以塞責,而恐懼之初心弛,則下拂人心,上違天意,國之安危或未可知。」

又曰く、「玉食を損ずるは、内帑を損じ貢奉を却くるの実に若かず。正朝を避くるは、幸門を塞ぎ忠諫を広むるの実に若かず。大眚を肆うは固より仁恩を広むる所以なれども、又循良を択び貪暴を黜するの実に若かず。蓋し天意方に回りて未だ豫よせず、人心乍ち悦びて旋て疑う。此れ正に陰陽勝復の会、眷命隆替の機なり」。国史院編修官・実録院検討官を兼ね、辞すも、許されず。転対し、言う、「願わくは義利の限を明弁し、力めて繫吝の私を破り、天を以て自ら処して内外の分を絶ち、道を以て欲を制して耳目の累を黜せよ。閨闥の賤を以て公議を干すこと無く、戚畹の私を以て国常を紊すこと無かれ」。田里に帰るを乞うも、許されず。太府少卿に拝し、兼職仍り旧の如し。再び辞すも、許されず。復た上疏して帰るを乞うも、許されず。

原文又曰:「損玉食,不若損內帑、卻貢奉之為實。避正朝,不若塞幸門、廣忠諫之為實。肆大眚固所以廣仁恩,又不若擇循良、黜貪暴之為實。蓋天意方回而未豫,人心乍悅而旋疑,此正陰陽勝復之會,眷命隆替之機也。」兼國史院編修官、實錄院檢討官,辭,不許。轉對,言:「願明辯義利之限,力破繫吝之私,以天自處而絕內外之分,以道制欲而黜耳目之累。毋以閨闥之賤干公議,毋以戚畹之私紊國常。」乞歸田里,不許。拜太府少卿,兼職仍舊,再辭,不許。復上疏乞歸,不許。

直敷文閣を以て嘉興府知府に任ず。辞し、仍り祠官奉るを乞うも、皆許されず。咸淳元年、郡に至り、まず根本を護り風俗を正すを先務とす。三度辞すを乞うも、許されず。宗正少卿に拝し、御筆にて侍講を兼ねる。辞すも、許されず。乃ち家に帰り、三度祠官を乞う。御筆にて行を促され、猶い告を寛うるを乞うも、許されず。国門に至り、御筆にて工部侍郎権官を兼ね、時暫く中書舎人権官を兼ねる。三度辞すも、許されず。『礼記』を以て進講し、敬恕の義を開陳す。濫恩の詞頭を封還す。帝之に従う。又言う、「徳を損ない身を害するの大なるは嗜欲に過ぐる莫く、而して嗜欲を窒むの要は思に切なる莫し。居処すれば則ち敬を思い、動作すれば則ち礼を思い、祭祀すれば則ち誠を思い、親に事うれば則ち孝を思う。一食を御する毎に、則ち天下の飢うる者を思え。一衣を服する毎に、則ち天下の寒むる者を思え。嬪嬙列に在れば、必ず夏桀の嬖色を以て其の国を亡ぼすを思え。飲燕方に歓なれば、必ず商紂の沈湎を以て其の身を喪うを思え。念起これば而して思之に随えば、則ち念必ず息む。欲萌れば而して思之を制すれば、則ち欲必ず消ゆ。志気日々に剛健を以てし、徳性日々に充実を以てせば、豈盛ならずや」と。

原文以直敷文閣知嘉興府,辭,仍乞奉祠,皆不許。咸淳元年至郡,首以護根本、正風俗為先務。三乞辭,不許。拜宗正少卿,御筆兼侍講,辭,不許。乃還家,三乞祠,御筆趣行,猶乞寬告,不許。至國門,御筆兼權工部侍郎,時暫兼權中書舍人,三辭,不許。以《禮記》進講,開陳敬恕之義。封還濫恩詞頭,帝從之。又言:「損德害身之大莫過於嗜欲,而窒嗜欲之要莫切於思。居處則思敬,動作則思禮,祭祀則思誠,事親則思孝。每御一食,則思天下之饑者。每服一衣,則思天下之寒者。嬪嬙在列,必思夏桀以嬖色亡其國。飲燕方歡,必思商紂以沈湎喪其身。念起而思隨之,則念必息。欲萌而思制之,則欲必消。志氣日以剛健,德性日以充實,豈不盛哉。」

また曰く、「雷が時ならず発するのは、窃かに今日の事跡を跡づけて疑わしいものがある。内批が重ねて下されれば名器は軽んぜられ、宮閫が厳しからざれば主威は冒され、濫りに施す恩は収められてまた出で、貪りを止める詔は厳しくしてすぐ弛む。宮正の什伍の令は奇衺を防ぐ所以なれど、或いは乞憐の卑祠に縦せられる。緇黄の出入の禁は宸居を厳にする所以なれど、間には禬禳の小術に惑わされる。甚だしきは弾劾の墨も未だ乾かざるに、拭い去るの旨已に下り、駁奏未だ幾ばくもあらざるに、捷出の径已に開かる。命令に疑いなきは、則ち陽に縦して収めず。主意堅からざるは、則ち陰に閉じて密ならず。陛下、災いを致す由を思わずして、急ぎ以て之を正す所以を求めざるべけんや。願わくは其の天君を清くして、以て治を出すの源を端にし、其の号令を謹んで、以て紀綱の本を粛にすべし。私恩に牽かれてもって公法を撓ることなく、邇言に遷りてもって旧章を乱すことなく、讒を去りて色を遠ざけ、貨を賤しめて徳を貴べば、則ち人心悦びて天意得、以て太平を開き中興を兆すべし」。

原文又曰:「雷發非時,竊跡今日之事而有疑焉。內批疊降而名器輕,宮閫不嚴而主威褻,橫恩之濫已收而復出,戢貪之詔方嚴而隨弛。宮正什伍之令所以防奇衺,而或縱於乞憐之卑祠。緇黃出入之禁所以嚴宸居,而間惑於禬禳之小數。以至彈墨未乾,而抆拭之旨已下;駁奏未幾,而捷出之徑已開。命令不疑,則陽縱而不收。主意不堅,則陰閉而不密。陛下可不思致災之由,而亟求所以正之哉?願清其天君,以端出治之源;謹其號令,以肅紀綱之本。毋牽於私恩而撓公法,毋遷於邇言而亂舊章,去讒而遠色,賤貨而貴德,則人心悅而天意得,可以開太平而兆中興也。」

権礼部侍郎兼修玉牒に進み、再び辞し、許されず。兼侍読に昇り、辞し、許されず。『聖学四箴』を進む:一に曰く日力を惜しみて以て其の勤を致し、二に曰く体認を精にして以て其の知を充たし、三に曰く嗜好を屏げて以て其の業に専にし、四に曰く行事を謹んで以て其の用を験す。五たび帰田里を乞い、帝勉めて之を留め、請い益々力む。特授に集英殿修撰・知建寧府と為し、辞し、許されず、乃ち家に還る。召されて中書舎人と為し、三たび辞し、許されず、請い益々力む。顕文閣待制に進み、乞う所に依り祠を予う、職名を辞し、許されず、遂に差して玉隆万寿宮を提挙す。疾有り、医を謝し薬を却け、曰く、「我をして心を清くして以て天命に順わしめ、重ねて我が懐を悩ます毋れ」と。拱手して三揖して乃ち卒す。詔して特に四官を贈り中奉大夫に至り、謚して「文安」とす。景緯は天性孝友、雅志沖澹、親没して仕進に意無く、故に其の朝に立つ日の久しからざるなり。

原文進權禮部侍郎兼修玉牒,再辭,不許。升兼侍讀,辭,不許。進《聖學四箴》:一曰惜日力以致其勤,二曰精體認以充其知,三曰屏嗜好以專其業,四曰謹行事以驗其用。五乞歸田里,帝勉留之,請益力。特授集英殿修撰、知建寧府,辭,不許,乃還家。召為中書舍人,三辭,不許,請益力。進顯文閣待制,依所乞予祠,辭職名,不許,遂差提舉玉隆萬壽宮。有疾,謝醫卻藥,曰:「使我清心以順天命,毋重惱我懷。」拱手三揖乃卒。詔特贈四官至中奉大夫,謚「文安」。景緯天性孝友,雅志沖澹,親沒無意仕進,故其立朝之日不久云。

馮去非

原文馮去非

馮去非、字は可遷、南康軍都昌県の人。父は椅、字は儀之、家に居て徒を授け、注したる所の『易』・『書』・『詩』・『語』・『孟』・『太極図』、『西銘輯説』、『孝経章句』、『喪礼小学』、『孔子弟子伝』、『読史記しき』及び詩文・志録、合わせて二百余巻。

原文馮去非,字可遷,南康都昌人。父椅,字儀之,家居授徒,所註《易》、《書》、《詩》、《語》、《孟》、《太極圖》,《西銘輯說》,《孝經章句》,《喪禮小學》,《孔子弟子傳》,《讀史記》及詩文、志錄,合二百餘卷。

去非は、淳祐元年の進士。嘗て淮東転運司の幹弁を務め、儀真を治む。欧陽脩の東園其処に在り、使者黄濤之を以て仏寺と為さんと欲す。時に已に薦挙を許されしも、去非力争して得ず、寧ろ使者の薦を受けず、謁告して去る。宝祐四年、召されて宗学諭と為る。丁大全が左諫議大夫と為るに及び、三学の諸生閽を叩き言うこと不可なりと。帝為に詔を下し禁戒し、詔して石を三学に立てしむ。去非独り肯て碑の下方に名を書かず。監察御史呉衍・翁応弼諸生を劾して獄に下し、去非復た宗学生の就逮する者を調護す。未幾、大全枢密院事を簽書し参知政事と為り、蔡抗国を去る。去非も亦た言を以て罷めらる。帰舟金・焦山に泊す。僧有り上謁す。去非其の大全の人たるを虞わず、周旋甚だ款し。僧間に乗じて大全の意を致し、願わくは遽に帰ること毋れ、少しく収召を俟て、誠に尺書を以て往かば、成命即ち下らんと。去非奮然として正色して曰く、「程丞相・蔡参政老夫を牽率して此に至らしむ。今吾が廬山に帰り、復た仕えざるなり。斯の言何為ぞ我に至る」と。之を絶ち、復た与に言わず。

原文去非,淳祐元年進士。嘗幹辦淮東轉運司,治儀真,歐陽脩東園在焉,使者黃濤欲以為佛寺,時已許薦,去非力爭不得,寧不受使者薦,謁告而去。寶祐四年,召為宗學諭。丁大全為左諫議大夫,三學諸生叩閽言不可。帝為下詔禁戒,詔立石三學,去非獨不肯書名碑之下方。監察御史吳衍、翁應弼劾諸生下獄,去非復調護宗學生之就逮者。未幾,大全簽書樞密院事、參知政事,蔡抗去國,去非亦以言罷。歸舟泊金、焦山,有僧上謁,去非不虞其為大全之人也,周旋甚款。僧乘間致大全意,願毋遽歸,少俟收召,誠得尺書以往,成命即下。去非奮然正色曰:「程丞相、蔡參政牽率老夫至此,今歸吾廬山,不復仕矣,斯言何為至我!」絕之,不復與言。

徐霖

原文徐霖

徐霖、字は景説、衢州西安県の人。年十三、聖人の道に志し、作れる所の文を取って焚き、『六経』の奥を研精し、先儒の心伝の要を探賾す。淳祐四年、礼部を試みて第一。知貢挙官入見す。理宗曰く、「第一名人を得たり」と。嘉獎再三す。第に登り、沅州教授を授かる。

原文徐霖,字景說,衢州西安人。年十三,有志聖人之道,取所作文焚之,研精《六經》之奧,控賾先儒心傳之要。淳祐四年,試禮部第一。知貢舉官入見,理宗曰:「第一名得人。」嘉獎再三。登第,授沅州教授。

時に宰相史嵩之辺功を挟み君に要し、党を植え国を専らにす。霖上疏し歴に其の姦深の状を言い、以て「其の先ずは陛下の心を奪い、其の次には士大夫の心を奪い、而して其の甚だしきは豪傑の心を奪う。今日の士大夫、嵩之皆其の心を変化して之を収摂せり。且つ其の変化の術甚だ深く、章章然として人に号して之を小人と為さしむるに非ず。常に善類に於て其の質柔気弱にして以て奪い易き者を択び、一二を親任し、其の或いは稍々已に異なる有らば、則ち潜かに棄てて之を擯遠し、以て其の余を風す。彼は名節の尊も以て富貴の願に易うるに足らず、義利の弁も亦た終に妻妾宮室の私に暗くんば、則ち亦た之に従うのみ」と。疏奏す。見る者舌を吐き、霖の為に危ぶむ。未幾、嵩之父の喪を匿して起復を求めんとす。君子並び起ちて之を攻む。上大いに感悟す。

原文時宰相史嵩之挾邊功要君,植黨專國。霖上疏歷言其姦深之狀,以為:「其先也,奪陛下之心,其次奪士大夫之心,而其甚也,奪豪傑之心。今日之士大夫,嵩之皆變化其心而收攝之矣。且其變化之術甚深,非章章然號於人使之為小人也。常於善類擇其質柔氣弱易以奪之者,親任一二,其或稍有異已,則潛棄而擯遠之,以風其餘。彼以名節之尊不足以易富貴之願,義利之辯亦終暗於妻妾宮室之私,則亦從之而已。」疏奏,見者吐舌,為霖危之。未幾,嵩之匿父喪求起復,君子並起而攻之,上大感悟。

丞相范鍾召して試みし館職二人を進む。上霖の忠を思い、親しく其の一を去り、霖の名に易う。試みに及ぶと、則ち曰く、「人主に自強の志無く、大臣に患失の心有り。故に元良未だ建たず、兇姦未だ竄ぜず」と。是の時、丞相杜範已に薨じ、而して鍾は位を得たれども、姦人の覆い出でて己が禍と為るを畏るる故なり。秘書省正字に擢ぐ。霖辞して命を得ず、遂に職に就く。会う日食有り。霖詔に応じて封事を上ぐるに曰く、「日は陽類なり、天理なり、君子なり。吾が心の天理人欲に勝たず、朝廷の君子小人に勝たず。宮闈の私匿未だ屏げず、瑣闥の姦邪未だ弁ぜず、台臣の賊を討つこと決せず。精祲感浹し、日之が為に食らう」と。又た数え太子を建立することを言う。校書郎に遷る。七年夏、大旱す。霖詔に応じて言う、「諫議大夫易えざれば則ち雨降らず、京兆尹易えざれば則ち雨降らず」と。報いず、国を去る。上著作郎姚希得を遣わし之を留めしむ。還らず。御筆にて合入官を改む。乃ち宣教郎に改む。霖屡辞し、曰く、「向は身死して敢えて其の君父を欺かざらんとし、今は官高きを以て平生に自ら眩き、其の本心を失わば、何を以て其の忠志を暴かん」と。又た曰く、「志は潔きを貴び、忠は精なるを尚ぶ。即ち取る有らば、則ち自ら垢汚に蹈む」と。

原文丞相范鍾進所召試館職二人,上思霖之忠,親去其一,易霖名。及試,則曰:「人主無自強之志,大臣有患失之心,故元良未建,兇姦未竄。」是時,丞相杜範已薨,而鍾雖得位,畏姦人覆出為己禍故也。擢祕書省正字,霖辭不獲命,遂就職。會日食,霖應詔上封事曰:「日,陽類也,天理也,君子也。吾心之天理不能勝乎人欲,朝廷之君子不能勝乎小人。宮闈之私匿未屏,瑣闥之姦邪未辯,臺臣之討賊不決,精祲感浹,日為之食。」又數言建立太子。遷校書郎。七年夏,大旱,霖應詔言:「諫議大夫不易則不雨,京兆尹不易則不雨。」不報,去國。上遣著作郎姚希得留之,不還。御筆改合入官,乃改宣教郎。霖屢辭,曰:「向為身死而不敢欺其君父,今以官高而自眩於平生,失其本心,何以暴其忠志?」又曰:「志貴乎潔,忠尚乎精,即有取,則自蹈於垢汙矣。」

八年夏、添差にて信州通判と為す。霖皆力辞し、竟に未だ拝せず。改秩の命なる故なり。尋いで守臣に令し之を勉諭せしむ。特改に宣教郎・雲台観主管と為す。霖乃ち拝受す。十二年、秘書省著作郎に遷る。累辞すれども許されず。国史編修・実録検討を兼ぬ。上曰く、「今日言う当き者は、備えて之を陳ぶべし」と。霖復た太子の名を正すことを以て言い、又た奏す、「万化の本は心に在り、心を存するの法は敬に在り」と。尚左郎官を兼権し、崇政殿説書を兼ぬ。乃ち上疏して言う、「葉大有は陰柔姦黠にして、群憸の冠と為る。長く台諫に在る宜しからず。乞う斥去せん」と。報いず。左司を兼権す。霖言わざる無きを知る。是に於て讒嫉する者中傷を以てせんと思い、而上も亦た悦ばず。補外を乞い、撫州を知る。先賢を祠し、租賦を寛め、饑窮を振い、悍将を誅し、営砦を建つ。幾一月にして政挙がり化行わる。言を以て去らんとす。士民道を遮り、行くを得ず。暝に及び、始めて径より以て出づ。

原文八年夏,添差通判信州,霖皆力辭,竟未拜,改秩之命故也。尋令守臣勉諭之,特改宣教郎、主管雲臺觀,霖乃拜受。十二年,遷秘書省著作郎,累辭,不許。兼國史編修、實錄檢討,上曰:「今日所當言者,當備陳之。」霖復以正太子名為言,又奏:「萬化之本在心,存心之法在敬。」兼權尚左郎官,兼崇政殿說書。乃上疏言:「葉大有陰柔姦黠,為群憸冠,不宜久長臺諫,乞斥去。」不報。兼權左司。霖知無不言,於是讒嫉者思以中傷,而上亦不悅。乞補外,知撫州。祠先賢,寬租賦,振饑窮,誅悍將,建營砦,幾一月而政舉化行。以言去,士民遮道,不得行,及暝,始由徑以出。

寶祐元年、衡州知事に任ぜられる。三年、官に赴くべき時となり、辞退し、袁州知事に任ぜられる。五年、父の喪に服し、悲嘆に暮れて号泣し、七日間水漿を口にせず。翌年開慶元年、崇禧観主管に任ぜられる。景定二年、汀州知事となる。翌年、卒す。臨終に際し、長男の心亨に告げて曰く、「生ある者は必ず死あり、古より聖賢も皆然り、吾また何を憾みんや」と。尚書省は優遇を加えることを請う、詔して一子に恩沢を与う。度宗は祭田百畝を賜い、以て直臣を旌す。霖は衢に閑居す、太守の游鈞が精舎を築き、霖を聘して学者に道を講ぜしむ、この日聴く者三千余人。

原文寶祐元年,差知衡州。三年,當之官,遂辭,差知袁州。五年,丁外艱,哀毀號絕,水漿不入口七日。明年開慶元年,差主管崇禧觀。景定二年,知汀州。明年,卒。將終,語其長子心亨曰:「有生必有死,自古聖賢皆然,吾復何憾。」尚書省請加優異,詔與一子恩澤。度宗賜祭田百畝,以旌直臣。霖間居衢,守游鈞築精舍,聘霖為學者講道,是日聽者三千餘人。

徐宗仁

原文徐宗仁

徐宗仁、字は求心、信州永豊の人。淳祐十年の進士。歴官して国子監主簿となる。開慶元年、闕下に伏して上書して曰く、

原文徐宗仁,字求心,信之永豐人。淳祐十年進士。歷官為國子監主簿。開慶元年,伏闕上書曰:

「賞罰は軍国の綱紀なり。賞罰明らかならざれば、則ち綱紀立たず。今、天下は器の傾きて未だ地に墜ちざるが如し、存亡の機、固より髪を容るるに暇あらず。兵虚にして将惰、力匱れ財殫え、四境を環視するに、類みな恃むに足らず。而して恃むに以て人心を維持し、豪傑を奔走せしむるは、惟だ陛下の賞罰の微権の在るのみ。権は陛下に在り、而して陛下其の用ゆる所以を知らざれば、未だ墜ちざる者安んぞ其の終に墜ちざるを保せんや。臣此れが為に懼るること久し。

原文「賞罰者,軍國之綱紀。賞罰不明,則綱紀不立。今天下如器之欹而未墜於地,存亡之機,固不容髮。兵虛將惰,而力匱財殫,環視四境,類不足恃;而所恃以維持人心、奔走豪傑者,惟陛下賞罰之微權在耳。權在陛下,而陛下不知所以用之,則未墜者安保其終不墜乎?臣為此懼久矣。

陛下危急の時に当たり、金幣を出だし土田を賜い、節鉞を授け、爵秩を分ち、尺寸の功も必ず賞すべき所に在り。故に当に心を悉くして効力し、以て万分の報いを図るべし。然るに幹腹の兵が江を越え広を踰えて以来、凡そ数箇月を閲すも、未だ戦陣に死し、封疆に死し、城郭に死する者のあるを聞かず。豈に賞罰の以て之を勧懲するに足らざるや。今、通国の所謂罰を逸する者は、丁大全・袁玠・沈翥・張鎮・吳衍・翁應弼・石正則・王立愛・高鑄の徒に過ぎず、而して首悪は則ち董宋臣なり。是を以て廷紳は疏を抗し、学校は閽を叩き、至っては尚方の剣を借りて陛下の為に悪を除かんと欲する者有り。而して陛下乃ち釈して問わず、豈に真に此の数人を愛護して千万人の心を重ねて咈えんと欲するや。天下の事勢急なり、朝廷の紀綱壊れり。若し誤国の罪を誅せざれば、則ち兵を用うるの士勇ならず。今、東南の一隅、天下の半は已に此の数人の手に壊れ、而して罰其の毫毛を損ぜず。彼方厚貲を擁し、声色を挟み、華屋に高臥して、陛下と二三大臣をして心を焦し思を労せしむ、可ならんや。三軍の行に在る者は、豈に憤然として平らかならずして曰わざらんや、『禍を稔らす者は誰ぞ、而して我をして躯を兵革の間に捐てしむ』と。百姓の難に罹る者は、豈に群然として胥に怨みて曰わざらんや、『乱を召す者は誰ぞ、而して我をして血を鋒鏑の下に流さしむ』と。陛下亦嘗て此れに一念及ばるるか」と。

原文陛下當危急之時,出金幣賜土田,授節鉞,分爵秩,尺寸之功,在所必賞。故當悉心效力,圖報萬分可也。而自幹腹之兵越江逾廣以來,凡閱數月,尚未聞有死戰陣、死封疆、死城郭者,豈賞罰不足以勸懲之耶?今通國之所謂佚罰者,不過丁大全、袁玠、沈翥、張鎮、吳衍、翁應弼、石正則、王立愛、高鑄之徒,而首惡則董宋臣也。是以廷紳抗疏,學校叩閽,至有欲借尚方劍為陛下除惡。而陛下乃釋而不問,豈真欲愛護此數人而重咈千萬人之心?天下之事勢急矣,朝廷之紀綱壞矣。若誤國之罪不誅,則用兵之士不勇。今東南一隅天下,已半壞於此數人之手,而罰不損其豪毛。彼方擁厚貲,挾聲色,高臥華屋,而使陛下與二三大臣焦心勞思,可乎?三軍之在行者,豈不憤然不平曰:『稔禍者誰歟,而使我捐軀兵革之間?』百姓之罹難者,豈不群然胥怨曰:『召亂者誰歟,而使我流血鋒鏑之下?』陛下亦嘗一念及此乎?」

又た極めて辺事を論じ、恵褻にして威振わずと謂う。董宋臣の盤固日久く、蒙蔽日久きを論ず。又た「言責ある者をして皆其の言を尽くすを得しめよ、則ち国論伸びて国威振い、臣たとえ山林に屏処すとも、亦た生気有らん」と請う。国子監丞・祕書省著作佐郎に遷り、崇禧観を主管す。考功郎官兼崇政殿説書に遷り、『敬天図』を進読す。太府少卿兼侍講・兼侍立修注官に遷り、太常少卿兼国史編修・実録検討に遷る。寧国府知事となる。監察御史郭閶の論に坐して罷免さる。

原文又極論邊事,謂惠褻而威不振。論董宋臣盤固日久,蒙蔽日久。又請「使有言責者皆得以盡其言,則國論伸而國威振,臣雖屏處山林,亦有生氣」。遷國子監丞、祕書省著作佐郎,主管崇禧觀。遷考功郎官兼崇政殿說書,進讀《敬天圖》。遷太府少卿兼侍講、兼侍立修注官,遷太常少卿兼國史編修、實錄檢討。知寧國府。監察御史郭閶論罷。

德祐元年、起用されて吏部侍郎兼中書門下検正諸房公事に授けられ、兼ねて豊儲倉所提領、兼同修国史・実録院同修撰、侍左侍郎を帯ぶる。督府の名称を仮りて本州に往き守臣と共に防拓せんことを乞うも、許されず。権礼部尚書兼益王府賛読を帯ぶる。益王を衛して海上に走り、厓山にて兵敗れ、其処に死す。

原文德祐元年,起授吏部侍郎兼中書門下檢正諸房公事,兼提領豐儲倉所,兼同修國史、實錄院同修撰,侍左待郎。乞假督府名稱往本州同守臣防拓,不允。權禮部尚書兼益王府贊讀。衛益王走海上,厓山兵敗,死焉。

危昭德

原文危昭德

危昭德、邵武の人。寶祐元年の進士。歴官して史館検閲校勘・武学諭・宗正寺簿兼崇政殿説書となり、祕書郎に遷る。疏を上りて言う、「国の命は民に在り、民の命は士大夫に在り。士大夫廉ならざれば、民の膏血を朘り、己が為に甘腴と為し、民命に堪えず」と。又た言う、「願わくは陛下二三大臣と利害の実を察し、安危の本を究め、明詔を郡国に下し、号令を申厳し、以て其の急とする所を急がしめ、凡そ荒政の挙ぐべき者は、一日とて念に置くべからず。其の緩むべきを緩め、凡そ苛賦の肆に擾す者は、此時の寛征と為し易くす。人心を固結するは、乃ち以て天命を延ぶる所以なり」と。又た言う、「願わくは陛下考課の事を挙げ、内に以て諸の弾糾の職を責め、外に以て諸の監司・郡守の計を責めよ。貪濁昏庸は固より必ず懲むべし。廉能正直は尤も当に勧を示すべし。之を精に察すれば則ち黜陟咸く服し、之を力に行えば則ち観聽具に孚く、而して吏を課するの実得たり」と。

原文危昭德,邵武人。寶祐元年進士。歷官為史館檢閱校勘、武學諭、宗正寺簿兼崇政殿說書,遷祕書郎。疏言:「國之命在民,民之命在士大夫。士大夫不廉,朘民膏血,為己甘腴,民不堪命矣。」又言:「願陛下與二三大臣察利害之實,究安危之本,明詔郡國,申嚴號令,俾急其所急,凡荒政之當舉者,不可一日而置念;緩其可緩,凡苛賦之肆擾者,易為此時之寬征。固結人心,乃所以延天命也。」又言:「願陛下舉考課之事,內以責諸彈糾之職,外以責諸監司、郡守之計。貪濁昏庸,固在必懲。廉能正直,尤當示勸。察之精則黜陟之咸服,行之力則觀聽之具孚,而課吏之實得矣。」

兼侍講に進む。又た言う、「民は邦の命脈なり、国脈を寿からしめんと欲すれば、必ず民生を厚くし、民生を厚くせんと欲すれば、必ず民力を寛にせよ」と。且つ民を厲する四弊を条上す。又た言う、「願わくは陛下万世根本の慮りを為し、一時倉卒の防を為し、必ず安節の亨を求め、不節の咎を招くこと無く、節して又た節せば、則ち宮闈の費差し省み、帑蔵の積自ら充ち、上用足りて下匱せず」と。又た「欣瘁休戚の故を察し、利害損益の宜を酌み、孰れが当に因るべきか、孰れが当に革すべきか、孰れが罷むべきか、孰れが行うべきかを明らかにせよ、則ち泉貨を折衷して遠近便ならしめ、関梁を開通して商賈行わしむ。下修身奉法の詔を出だして吏自新を得しめ、輸倉助貸の令を出だして民貴糴を免れしめ、墨敕の門を窒めて官府黜陟の異無くし、輪臺の議を止めて疆界彼此の分無からしめよ、則ち気脈蘇醒し意向翕合せん」と乞う。

原文進兼侍講。又言:「民者,邦之命脈,欲壽國脈,必厚民生,欲厚民生,必寬民力。」且條上厲民四弊。又言:「願陛下為萬世根本之慮,為一時倉卒之防,必求安節之亨,毋招不節之咎,節之又節,則宮闈之費差省,帑藏之積自充,上用足而下不匱矣。」又乞「察欣瘁休戚之故,酌利害損益之宜,孰為當因,孰為當革,孰為可罷,孰為可行,則折衷泉貨而遠近便,開通關梁而商賈行。下修身奉法之詔,而吏得自新;出輸倉助貸之令,而民免貴糴;窒墨敕之門,而無官府黜陟之異;止輪臺之議,而無疆界彼此之分,則氣脈蘇醒、意向翕合矣。」

起居舎人兼国史編修・実録検討に遷り、尋いで殿中侍御史・侍御史に遷る。宗陽宮の造作を諫む。権工部侍郎兼同修国史実録院を帯び、致仕を乞う、特旨にて一官を転ず。昭德経筵に在りて、『易』・『春秋』・『大学衍義』を以て進講し、反覆規正する者甚だ多し。著す所に『春山文集』有り。

原文遷起居舍人兼國史編修、實錄檢討,尋遷殿中侍御史、侍御史。諫作宗陽宮。權工部侍郎兼同修國史實錄院,乞致仕,特轉一官。昭德在經筵,以《易》、《春秋》、《大學衍義》進講,反覆規正者甚多。所著《春山文集》。

子の徹孫、咸淳元年の進士。

原文子徹孫,咸淳元年進士。

陳塏

原文陳塏

陳塏、字は子爽、嘉興の人。京湖制置使司主管機宜文字を歴任し、差遣にて德安府知事となり、直寶謨閣を加えられ、江西提点刑獄に転じ、直敷文閣に改められ、千秋鴻禧観提挙となり、司農寺丞に転じ、崇道観主管・安慶府知事を兼ねる。召されて闕に赴き、直顯謨閣を加えられ、湖南提点刑獄となる。再び召されて右司郎官となり、直寶文閣を加えられ隆興府知事・江西安撫使となり、江州知事に改められ、江西安撫司事を主管す。召されて右司郎官となり、直龍図閣に進み、浙西提点刑獄となり、司農少卿に遷り、祕閣修撰を以て慶元府知事兼沿海制置副使となり、大理卿に遷り、右文殿修撰に進み平江府知事兼淮浙発運使となる。

原文陳塏,字子爽,嘉興人。歷京湖制置使司主管機宜文字,差知德安府,加直寶謨閣、江西提點刑獄,改直敷文閣、提舉千秋鴻禧觀,轉司農寺丞、主管崇道觀、知安慶府。召赴闕,加直顯謨閣、湖南提點刑獄。再召為右司郎官,加直寶文閣知隆興府、江西安撫使,改知江州,主管江西安撫司事。召為右司郎官,進直龍圖閣、浙西提點刑獄,遷司農少卿,以祕閣修撰知慶元府兼沿海制置副使,遷大理卿,進右文殿修撰、知平江府兼淮浙發運使。

戸部侍郎趙必愿が塏を最上と推挙し、詔により特に一官を転じ、太府卿・司農卿に遷り、権工部侍郎兼同詳定勅令官、兼中書門下省検正諸房公事を拝命した。入奏して言うには、「願わくは陛下、世道の枢機を転移し、士大夫の廉恥を砥礪し、名義を重しとし、利禄を軽しとすることを知らしめ給え。久しく国を去り恬退をもって聞こえる者を召し、久しく朝に立ち更迭を請う者に従い、甘言容悦の者は必ず斥け、真情をもって閑を丐う者は留めざらしめ給え。かくの如くすれば、君臣上下皆以て真実を相与し、四維既に張り、士大夫の難進易退の風、まさに聖世に見るべく、人才幸甚なり」と。また言うには、「従官に古昔の人臣が出藩するの意に倣わせ、その従臣が諸路の憲漕たる時は、提点刑獄使・転運使を以て銜を繫ぎ、『使』の名を仮し、庶官と別なるを示し、なお乞うらくは除授を臣より始めしめ給え」と。是より帝の前で屡々言上したが、許されず。言論により罷免された。

原文戶部侍郎趙必愿舉塏最,詔特轉一官,遷太府卿、司農卿,權工部侍郎兼同詳定敕令官,兼中書門下省檢正諸房公事。入奏,言:「願陛下轉移世道之樞機,砥礪士大夫之廉恥,使知名義為重,利祿為輕。久去國以恬退聞者召之,久立朝以更叠請者從之,甘言容悅者必斥,真情丐閑者勿留。如此,則君臣上下皆以真實相與,四維既張,士大夫難進易退之風,當見於聖世,人才幸甚!」又言:「請以從官仿古昔人從出藩之意,其從臣為諸路憲漕,則以提點刑獄使、轉運使繫銜,假之『使』名,示與庶官別,仍乞除授自臣始。」自是屢言於帝前,不許。以言罷。

未幾、集英殿修撰・婺州知州に進み、太平州知州兼江東転運副使に改まる。諸郡の災傷を蠲放するよう請うた。戸部侍郎・淮東総領を加えられ、尋いで江淮茶塩所提領兼太平州知州を拝命した。公帑を発して三県の輸ずべき折糸帛銭五十万九千三百六十余貫を代納した。また浮淮書堂を作り、両淮の民を処してこれを教えた。顕謨閣待制・広州知州に進み、権兵部尚書、さらに宝章閣直学士・婺州知州に進み、権戸部尚書に遷り、尋いで正官となり、時暫く吏部尚書を兼ね、宝文閣学士として潭州知州兼湖南安撫使を拝命した。召されて闕に赴き、旧職をもって太平興国宮提挙とされ、龍図閣学士を加えられ、従前のごとく宮観に任ぜられた。久しくして、端明殿学士を加えられた。咸淳四年、卒し、諡して「清毅」と曰う。

原文未幾,進集英殿修撰、知婺州,改知太平州兼江東轉運副使。請蠲放諸郡災傷。加戶部侍郎、淮東總領,尋提領江淮茶鹽所兼知太平州。發公帑代三縣輸折絲帛錢五十萬九千三百六十餘貫。又作浮淮書堂以處兩淮之民而教之。進顯謨閣待制、知廣州,權兵部尚書,又進寶章閣直學士、知婺州,遷權戶部尚書,尋為真,時暫兼吏部尚書,以寶文閣學士知潭州兼湖南安撫使。召赴闕,以舊職提舉太平興國宮,加龍圖閣學士,依舊宮觀。久之,加端明殿學士。咸淳四年,卒,謚「清毅」。

塏は屡々麾節を歴任し、軍民に愛戴され、幕客多く盛んにして、また塏は士を薦むるを楽しんだ。著すところに『可斎瓿稿』二十巻あり。

原文塏屢歷麾節,軍民愛戴,幕客盛多,而塏又樂薦士。所著《可齋瓿稿》二十卷。

楊文仲

原文楊文仲

楊文仲、字は時発、眉州彭山の人。七歳にして孤となる。母胡氏、年二十八にして、節を守り自ら誓い、諸子を教養す。文仲既に冠し、『春秋』をもって貢挙に挙げられし時、その母喜びて曰く、「汝が家、汝に至り、三世この経をもって効を収む」と。

原文楊文仲,字時發,眉州彭山人。七歲而孤。母胡,年二十有八,守節自誓,教養諸子。文仲既冠,以《春秋》貢,其母喜曰:「汝家至汝,三世以是經收效矣。」

淳祐七年、文仲は胄試第一をもって太学に入る。九年、また公試第一をもって内舎に昇る。時に言路頗る壅がれしが、季冬の雷震に因り、首として同舎を帥い閽を叩き時事を極言し、曰く、「天は本怒らず、人これを激して怒らしむ。人は本言わず、雷これを激して言わしむ」と。一時争いてこれを伝誦す。上舎に昇り、西廊学録となる。丞相謝方叔嘗て文仲に問うて曰く、「今日何事最も急なる」と。対えて曰く、「国本未だ建たず、これより大なるは莫し。上意未だ暁らかならず、死を以て請うべし」と。宝祐元年、進士第に登る。母憂に服し、喪を除くや、従叔父棟が婺州を守り罷め帰るに属し、余杭に寓す。文仲往きて伊・洛の学を問う。

原文淳祐七年,文仲以胄試第一入太學。九年,又以公試第一升內舍。時言路頗壅,因季冬雷震,首帥同舍叩閽極言時事,有曰:「天本不怒,人激之使怒。人本無言,雷激之使言。」一時爭傳誦之。升上舍,為西廊學錄。丞相謝方叔嘗問文仲曰:「今日何事最急?」對曰:「國本未建,莫大於此。上意未喻,當以死請可也。」寶祐元年,登進士第。丁母憂,釋服,屬從叔父棟守婺州罷歸,寓餘杭,文仲往問伊、洛之學。

復州学教授に調ぜられる。転運使印応飛、幕下に辟く。嫠婦の冤獄を明らかにし、応飛悉く文仲の議に従い、かつこれを薦む。荊湖宣撫使趙葵、文仲を署して分司幕を佐けしむ。姚希得・江万里、合して文仲を薦め、学有用なるを以てす。四川宣撫司準備差遣に辟せられ、沿海制置司幹弁公事を添差す。召されて戸部架閣となり、太学正に遷り、博士に昇る。時に棟は祭酒たり、講学益々精邃に詣る。国子博士に遷る。外任を丐い、通判台州を添差す。故事に、守貳は尚華侈にして、正月の望、民間より灯を取る。吏以て白す。文仲曰く、「吾がために一灯を然すは足れり」と。東郊に農を劭し、守因りて湖に泛ばんと欲す。文仲即ち先んじて馳せ帰る。通判揚州を添差す。牙契の旧額、歳に銭四万緡たりしが、累政を経て十六万に増し、告訐を開きて羨を求む。文仲曰く、「賞を希いて民を擾す、吾は為さざるなり」と。遂に十八界一を増すのみ。制置使李庭芝、檄して機宜文字を主管せしむ。時に沙田あり、使者行わんと欲す。文仲力爭し、以て「事は妄りに興すべからず、蓋し民に与うる恵は限りあり、擾さざる恵は窮まりなし。江北は風寒の地、民力竭きたり。利と為すこと幾何ぞ、安んぞ忍びて重ねて吾が民を擾さんや」と。事遂に行われず。

原文調復州學教授。轉運使印應飛辟入幕。明嫠婦冤獄,應飛悉從文仲議,且薦之。荊湖宣撫使趙葵署文仲佐分司幕。姚希得、江萬里合薦文仲學為有用。辟四川宣撫司準備差遣,添差沿海制置司幹辦公事。召為戶部架閣,遷太學正,升博士。時棟為祭酒,講學益詣精邃。遷國子博士。丐外,添差通判台州。故事,守貳尚華侈,正月望,取燈民間,吏以白,文仲曰:「為吾然一燈足矣。」劭農東郊,守因欲泛湖,文仲即先馳歸。添差通判揚州。牙契舊額歲為錢四萬緡,累政增至十六萬,開告訐以求羨。文仲曰:「希賞以擾民,吾不為也。」卒增十八界一而已。制置使李庭芝檄主管機宜文字。時有沙田,使者欲舉行之,文仲力爭,以為:「事不可妄興,蓋與民之惠有限,不擾之惠無窮。江北風寒之地,民力竭矣,為利幾何,安忍重擾吾民乎?」事遂不行。

召されて宗学博士となる。郊祀に際し、圜壇子階監察御史を摂す。近輔に兵変水患あり、輪対して言うには、「皇天眷命し、四百年を垂れ、天命久しく熟するの余、国脈癃老の候、これ豈一大喜懼の交わるにあらざるか。願わくは陛下一初清明に、自ら主宰を作し給え」と。また曰く、「春多く沈陰、豈に但だ麦秋の憂いのみならん。時に『夬』たり、尤も莧陸の慮いを軫む。天目には則ち洪水発し、蘇・湖には則ち弄兵興る。峨冠千千たりと雖も、毎に大夫の使に乏しきを見、佩印累累たりと雖も、常に貪瀆の厭うこと無きを慮う。将は黄金横帯の娛に習い、兵は赤籍掛虚の穴に疲る。蚩蚩たる編氓、以て統府を軽んずるを得、瑣瑣たる警遽、輒ち以て朝廷を憂う。設い不幸にしてこれより大なる事あるに、国何に頼らん」と。帝竦然として聴き、顧問甚だ至れり。太常丞に遷り、尋いで倉部郎官を兼権し、崇政殿説書を兼ね、将作少監に遷り、また将作監に遷る。

原文召為宗學博士。郊祀,攝圜壇子階監察御史。近輔兵變水患,輪對,言:「皇天眷命,垂四百年,天命久熟之餘,國脈癃老之候,此豈非一大喜懼之交乎?願陛下一初清明,自作主宰。」又曰:「春多沈陰,豈但麥秋之憂。於時為《夬》,尤軫莧陸之慮。天目則洪水發焉,蘇、湖則弄兵興焉。峨冠千千,而每見大夫之乏使;佩印累累,而常慮貪瀆之無厭。將習黃金橫帶之娛,兵疲赤籍掛虛之穴。蚩蚩編氓,得以輕統府;瑣瑣警遽,輒以憂朝廷。設不幸事有大於此者,國何賴焉?」帝竦聽,顧問甚至。遷太常丞,尋兼權倉部郎官,兼崇政殿說書,遷將作少監,又遷將作監。

文仲、講筵に在りては、毎に積誠を以て感動せしめ、嘗て『春秋』を進読す。帝、五覇何を以て三王の罪人たるやと問う。文仲奏して云く、「斉桓公は王覇升降の会に当たり、向上の事業を為す能わざるも、独り世変の厲階を開く能えり。臣諸を『春秋』に考うるに、桓公初年は多く『人』と書き、二十年を越え、楚を伐ち世子を定むるの功既に成りて、然る後に『侯』の辞叠ねて見ゆ。これ以て王を尊び覇を抑うるの大法たり。然れども王は豈徒に尊ぶのみならんや。蓋し周王の子孫に文・武・成・康の法度を率いて修めしめ、以て文・武・成・康の徳沢を扶持せしめんと欲すれば、則ち王迹熄まず、西周の美尋ぬべく、かくの如くして方に『春秋』王を尊ぶの意に副う」と。帝曰く、「先帝の聖訓に曰く、『絲竹の耳を乱し、紅紫の目を眩ます、良心善性、皆本有す』と。また曰く、『聖賢心学の指要を得、本領端正にして、家に伝え世に守り、是を以て国に君たり民を子とし、是を以て天に祈り命を永くし、是を以て謀を貽し翼を燕す』と。大なるかな先訓、朕朝夕服膺す」と。時に帝は疾を以て連ねて朝を視ず。文仲奏して「声色の事、若し破り識得せば、元より好む可き無し」と。帝容を斂め端拱すること久し。

原文文仲在講筵,每以積誠感動,嘗進讀《春秋》,帝問五霸何以為三王罪人,文仲奏云:「齊桓公當王霸升降之會,而不能為向上事業,獨能開世變厲階。臣考諸《春秋》,桓公初年多書『人』,越二十年,伐楚定世子之功既成,然後書『侯』之辭叠見,此所以為尊王抑霸之大法。然王豈徒尊哉?蓋欲周王子孫率修文、武、成、康之法度,以扶持文、武、成、康之德澤,則王迹不熄,西周之美可尋,如此方副《春秋》尊王之意。」帝曰:「先帝聖訓有曰:『絲竹之亂耳,紅紫之眩目,良心善性,皆本有之。』又曰:『得聖賢心學之指要,本領端正,家傳世守,以是而君國子民,以是而祈天永命,以是而貽謀燕翼。』大哉先訓,朕朝夕服膺。」時帝以疾連不視朝,文仲奏:「聲色之事,若識得破,元無可好。」帝斂容端拱久之。

盛夏の頃、宗陽宮を建てるにあたり、民家を壊して移転させたため、畿甸は騒然となった。文仲は上疏して諫めた。「里巷の民の集まりを移して、香火の庭とすることは、善き計らいとは申せませぬ。陛下は祖宗の位を継がれたのであり、どうして黄老の居所を以て軽重とされましょうか。」翌日、面奏して、一層懇切に申し上げた。丞相賈似道は怒って言った。「楊文仲は口が多い!」卿監以上の者に人材を推薦するよう命じられ、文仲は陳存、呂折、鍾季玉ら十八人を推薦した。名士二人とは、金華の王栢と天台の車若水である。国子司業を兼ね、侍立修注官を兼ねた。また、太学教諭の彭成大を救おうとして似道に逆らい、崇禧観を主管させられ、出向して衡州知州となった。兵糧輸送に法があり民を乱さず、受け取るべき米八千石をもって思済倉を設立した。召されて秘書少監となり、まもなく崇政殿説書を兼ねた。病を理由に致仕を請うたが、許されなかった。国史院編修官・実録院検討官を兼ね、太常少卿兼国子司業に遷り、起居舎人に遷った。

原文盛夏,建宗陽宮,壞徙民居,畿甸騷然。文仲疏諫:「移閭閻之聚,為香火之庭,不得為善計矣。陛下紹祖宗之位,豈以黃、老之居為輕重哉。」翼日面奏,益懇至,丞相賈似道怒曰:「楊文仲多言!」紹卿監以上薦人才,文仲薦陳存、呂折、鍾季玉等十有八人,名士二人,金華王栢、天台車若水也。兼國子司業,兼侍立修注官。又以捄太學教諭彭成大迕似道,主管崇禧觀,出知衡州。運餉有法而民不擾,以所當得米八千石立思濟倉。召為秘書少監,尋兼崇政殿說書。以疾乞致仕,不許。兼國史院編修官、實錄院檢討官,遷太常少卿兼國子司業,遷起居舍人。

瀛国公が即位すると、権工部侍郎兼権侍右郎官を授けられ、まもなく給事中を兼ねた。明堂の祭祀があり、上公が代行することを議したが、文仲は議して言った。「今、天地の始めを拝見しようとするに、幼沖ではあるが、喪に服する次第に比べれば、すでに拝跪に耐え、礼を執るのに違うところはなく、自ら饗すべきです。」時に丞相の王爚と陳宜中が不和であった。文仲は上疏して言った。「事態は危険かつ切迫しております。祖宗が深く頼み、億兆の民が命を託すところは、二相にあります。もし不和の故に、今日は戦わず、明日は征伐せずして、時は再び来たらず、後悔しても及ばないでしょう。」まもなく国子祭酒を兼ねた。金華の何基と王栢に諡号を請うた。時に大元の兵が江を渡り、畿甸が震動し、朝臣の多くが逃げ去る中、侍従の班には文仲ただ一人がおり、去らなかった列にいる者に二階級を旌賞する詔があった。文仲の病はますます重くなり、祠官を請い、集英殿修撰として漳州知州となった。三度上章して致仕を乞うたが、泉州知州に改められた。そこで家族を連れて嶺南を越えて赴任を待つ間に卒し、やがて宋は滅亡した。『見山文集』がある。

原文瀛國公即位,授權工部侍郎兼權侍右郎官,尋兼給事中。有事明堂,議以上公攝行,文仲議曰:「今祗見天地之始,雖在幼冲,比即喪次,已勝拜跪,執禮無違,所當親饗。」時丞相王爚、陳宜中不協,文仲上疏言:「事危且急矣。祖宗所深賴,億兆所寄命,在乎二相,茍以不協之故,今日不戰,明日不征,時不再來,後悔何及!」尋兼國子祭酒。請謚金華何基及栢。時大元兵度江,畿甸震動,朝士多棄去者,侍從班惟文仲一人,詔旌在列不去者二階。文仲疾益甚,丐祠,以集英殿修撰知漳州,三上章乞致仕,改知泉州。因將家踰嶺南待次,卒,而宋亡矣。有《見山文集》焉。

謝枋得

原文謝枋得

謝枋得、字は君直、信州弋陽の人である。人となり豪爽であった。書を読むごとに、五行を一度に見下ろし、一覧して終生忘れなかった。性来直言を好み、ひとたび人と古今の治乱国家の事を論じれば、必ず髯を掻き上げ机を叩き、躍り上がって自ら奮い立ち、忠義を以て自ら任じた。徐霖は彼を評して「驚鶴の霄を摩するが如く、籠と縶とに事とせず」と言った。

原文謝枋得,字君直,信州弋陽人也。為人豪爽。每觀書,五行俱下,一覽終身不忘。性好直言,一與人論古今治亂國家事,必掀髯抵几,跳躍自奮,以忠義自任。徐霖稱其「如驚鶴摩霄,不事籠縶」。

宝祐年間、進士に挙げられ、策問に対し丞相董槐と宦官董宋臣を極めて激しく攻撃したので、高第に抜擢されるものと思われたが、奏名されると乙科であった。撫州司戸参軍に任じられたが、すぐに棄て去った。翌年また出て、教官の試験を受け、兼経科に合格し、建寧府教授に任じられた。まだ赴任しないうちに、呉潜が江東・江西を宣撫し、辟召して幹辦公事に差遣した。民兵を団結させて饒・信・撫を守らせ、官から銭米を支給した。枋得は鄧・伝二社の諸大家を説得し、民兵一万余人を得て信州を守った。賊兵が退くと、朝廷が諸軍の費用を査定し、ほとんど罪を免れぬところであった。

原文寶祐中,舉進士,對策極攻丞相董槐與宦官董宋臣,意擢高第矣,及奏名,中乙科。除撫州司戶參軍,即棄去。明年復出,試教官,中兼經科,除教授建寧府。未上,吳潛宣撫江東、西,辟差幹辦公事。團結民兵,以扞饒、信、撫,科降錢米以給之。枋得說鄧、傳二社諸大家,得民兵萬餘人,守信州,暨兵退,朝廷覈諸軍費,幾至不免。

五年、彗星が東方に出た。枋得は建康で試験官を務め、似道の政事を摘出して問題とし、「兵は必ず至り、国は必ず亡ぶ」と論じた。漕使の陸景思がこれを恨み、その草稿を似道に上った。郷里にいて法に従わず、兵を起こした時に官から支給された銭を不正に使い、かつ誹謗した罪に坐し、官位を二階級追奪され、興国軍に謫居させられた。咸淳三年、赦されて帰還を許された。徳祐元年、呂文煥が大元の兵を導いて東下し、鄂・黄・蕲・安慶・九江を陥とし、その親友や部下を皆誘い降ろしたので、ついに建康に駐屯した。枋得は呂師夔と親しかったので、詔に応じて上書し、一族を挙げて師夔が信頼できることを保証し、沿江の諸屯兵を分けて彼を鎮撫使とし、和議を行わせるよう請い、自ら江州に至って文煥に会い協議することを願った。朝廷はこれに従い、彼を沿江察訪使として行かせたが、文煥が北帰したのに会えず、果たせずに帰った。

原文五年,彗星出東方,枋得考試建康,擿似道政事為問目,言:「兵必至,國必亡。」漕使陸景思銜之,上其稿於似道,坐居鄉不法,起兵時冒破科降錢,且訕謗,追兩官,謫居興國軍。咸淳三年,赦,放歸。德祐元年,呂文煥導大元兵東下鄂、黃、蘄、安慶、九江,凡其親友部曲皆誘下之,遂屯建康。枋得與呂師夔善,乃應詔上書,以一族保師夔可信,乞分沿江諸屯兵,以之為鎮撫使,使之行成,且願身至江州見文煥與議。從之,使以沿江察訪使行,會文煥北歸,不及而反。

江東提刑・江西招諭使として信州知州となった。翌年正月、師夔と武万戸が江東の地を分定した。枋得は兵を率いてこれを迎え撃ち、先鋒に呼ばせた。「謝提刑が来たぞ」と。呂軍が馳せ至り、矢を射かけると、矢が馬の前に及んだ。枋得は安仁に逃げ込み、淮士の張孝忠を調発して団湖坪で迎え撃たせた。矢が尽きると、孝忠は双刀を振るって百余人を撃ち殺した。前軍が少し退くと、後軍が孝忠の背後に回り出たので、兵は驚いて潰走し、孝忠は流れ矢に当たって死んだ。馬が帰って来たのを、枋得が敵楼に座って見て言った。「馬が帰った。孝忠は敗れたのだ。」そこで信州に奔った。師夔は安仁を落とし、信州を攻めて守れなかった。枋得はそこで姓名を変え、建寧の唐石山に入り、茶阪に転じ、旅館に寓居した。毎日麻衣を着て草鞋を履き、東に向かって泣いたので、人は彼を識らず、病気にかかったのだと思った。やがて去り、建陽の市中で卜を売った。卜に来る者があれば、ただ米や草鞋を取るだけで、銭を委ねられても、ことごとく謝して取らなかった。その後、人々が次第に彼を識り、多くは家に招いて子弟に学問を論じさせた。天下が定まると、ついに閩中に住んだ。

原文以江東提刑、江西招諭使知信州。明年正月,師夔與武萬戶分定江東地,枋得以兵逆之,使前鋒呼曰:「謝提刑來。」呂軍馳至,射之,矢及馬前。枋得走入安仁,調淮士張孝忠逆戰團湖坪,矢盡,孝忠揮雙刀擊殺百餘人。前軍稍卻,後軍繞出孝忠後,眾驚潰,孝忠中流矢死。馬奔歸,枋得坐敵樓見之,曰:「馬歸,孝忠敗矣。」遂奔信州。師夔下安仁,進攻信州,不守。枋得乃變姓名,入建寧唐石山,轉茶阪,寓逆旅中,日麻衣躡屨,東鄉而哭,人不識之,以為被病也。已而去,賣卜建陽市中,有來卜者,惟取米屨而已,委以錢,率謝不取。其後人稍稍識之,多延至其家,使為弟子論學。天下既定,遂居閩中。

至元二十三年、集賢学士程文海が宋臣二十二人を推薦し、枋得を筆頭としたが、辞して起たなかった。また翌年、行省丞相忙兀台が旨を奉じて彼を詔したが、手を執って互いに慰労した。枋得は言った。「上には堯・舜がおり、下には巣父・許由がおります。枋得の名姓は縁起が良くないので、詔に赴くことはできませぬ。」丞相は彼の義を認め、強要しなかった。二十五年、福建行省参政管如徳が旨を奉じて江南に人材を求めに行き、尚書留夢炎が枋得を推薦した。枋得は夢炎に書を送って言った。「江南に人材はおりませぬ。瑕呂飴甥や程嬰・杵臼のような賤しい卒でさえ一人求めることができませぬ。紂が亡んだ時、八百国の精兵を持ちながら、二人の正論に抗することができず、武王・太公たいこうは凛として居場所がなく、急いで滅びた国を興し絶えた家を継いで天下に謝罪しました。殷の後裔はついに周と並び立ちました。三監や淮夷が叛かなければ、武庚は必ず死なず、殷の天命は必ず廃されなかったでしょう。女真が二帝を扱ったことも惨めでした。しかし我が宋は今年は使を遣わして祈請し、明年は使を遣わして安否を問うた。王倫という一市井の無頼で邪な小人が、梓宮は還り、太后は帰られると言いました。結局二事ともその言に符合しました。今は一王倫さえおらず、江南に人材のないことが見て取れます。今私は六十余歳、欠けているのは一死のみ、どうして他に志がありましょうか!」結局行かなかった。郭少師が瀛国公に従って入朝し、その後南に帰り、枋得と時事を語り合い、言った。「大元は本来江南に意はなく、しばしば使を遣わして兵を留めさせ、深入りせぬよう命じ、歳幣が還れば即ち和を議し、無辜の生霊を害さぬようにしていました。張宴然が上書して兵を収めて和に従うよう乞うと、上はすぐにこれを許可しました。兵が交わって二年、一片の使者の礼もなかったのに、数百年の宗社を携えて降ったのです。」そこで互いに痛哭した。

原文至元二十三年,集賢學士程文海薦宋臣二十二人,以枋得為首,辭不起。又明年,行省丞相忙兀台將旨詔之,執手相勉勞。枋得曰:「上有堯、舜,下有巢、由,枋得名姓不祥,不敢赴詔。」丞相義之,不強也。二十五年,福建行省參政管如德將旨如江南求人材,尚書留夢炎以枋得薦,枋得遺書夢炎曰:「江南無人材,求一瑕呂飴甥、程嬰、杵臼廝養卒,不可得也。紂之亡也,以八百國之精兵,而不敢抗二子之正論,武王、太公凜凜無所容,急以興滅繼絕謝天下。殷之後遂與周並立。使三監、淮夷不叛,武庚必不死,殷命必不黜。夫女真之待二帝亦慘矣。而我宋今年遣使祈請,明年遣使問安。王倫一市井無賴、狎邪小人,謂梓宮可還,太后可歸。終則二事皆符其言。今一王倫且無之,則江南無人材可見也。今吾年六十餘矣,所欠一死耳,豈復有它志哉!」終不行。郭少師從瀛國公入朝,既而南歸,與枋得道時事,曰:「大元本無意江南,屢遣使使頓兵,令毋深入,待還歲幣即議和,無枉害生靈也。張宴然上書乞斂兵從和,上即可之。兵交二年,無一介行李之事,乃挈數百年宗社而降。」因相與痛哭。

福建行省参政魏天祐は、時方が人材を求めることを急務としているのを見て、枋得を推薦して功としようとし、その友の趙孟𨓴に言わせた。枋得は罵って言った。「天祐は閩に仕えて、毫髪たりとも徳意を推し広めることなく、反って銀の採掘を起こして民を苦しめ、我々をもって邪悪を飾ろうとするのか。」天祐に会うと、また傲岸として礼をせず、話しかけられても、座ったまま答えなかった。天祐は怒り、無理に北行させた。枋得はその日から菜果のみを食した。

原文福建行省參政魏天祐見時方以求材為急,欲薦枋得為功,使其友趙孟𨓴來言,枋得罵曰:「天祐仕閩,無毫髮推廣德意,反起銀冶病民,顧以我輩飾好邪?」及見天祐,又傲岸不為禮,與之言,坐而不對。天祐怒,強之而北。枋得即日食菜果。

二十六年四月、京師に至り、謝太后の仮葬所と瀛国公の所在を尋ね、再拝して慟哭した。やがて病にかかり、憫忠寺に移った。壁の間の『曹娥碑』を見て泣いて言った。「小女子でさえこうである。私はどうしてお前のようではいられようか。」留夢炎が医者に薬を米飲に混ぜて進めさせると、枋得は怒って言った。「私は死のうとしているのに、お前は私を生かそうとするのか。」それを地に棄て、ついに食さずして死んだ。

原文二十六年四月,至京師,問謝太后攢所及瀛國所在,再拜慟哭。已而病,遷憫忠寺,見壁間《曹娥碑》,泣曰:「小女子猶爾,吾豈不汝若哉!」留夢炎使醫持藥雜米飲進之,枋得怒曰:「吾欲死,汝乃欲生我邪?」棄之於地,終不食而死。

伯父の徽明は特奏の恩により當陽尉となり、縣事を攝行した。時に天基節の上壽に際し、大元の兵が急に至り、徽明は兵を出して戰ひ死し、二子は進み趨って父の屍を抱き、亦た死せり。

原文伯父徽明以特奏恩為當陽尉,攝縣事,時天基節上壽,大元兵奄至,徽明出兵戰死,二子趨進抱父屍,亦死。

論ずるに曰く、劉應龍は賈似道に附せず、馮去非は丁大全に附せず、潘牥は皇子竑の事を論じ、坎壈として終はる。洪芹は吳潛を訟ふ、偉なるかな。趙景緯は醇儒なり、而して躁競の心無し。徐霖は進んでは朝に直言し、退きては里に道を講ず。徐宗仁は國亡ぶるに與に亡ぶ、二心を懷きて其の君に事ふる者に異なる。危昭德の經筵進對の言は、悉く諸の故史に載せらる。陳塏は能く意氣を以て人を感ぜしめ、楊文仲は搶攘の時に當り、猶ほ能く士を薦め、謝枋得は嶔崎として臣節を全うす、皆な宋末の卓然たる者なり。

原文論曰:劉應龍不附賈似道,馮去非不附丁大全,潘牥論皇子竑事,坎壈以終。洪芹訟吳潛,偉哉。趙景緯,醇儒也,而無躁競之心。徐霖進則直言於朝,退則講道於里。徐宗仁國亡與亡,異乎懷二心以事其君者也。危昭德經筵進對之言,悉載諸故史。陳塏能以意氣感人,楊文仲當搶攘之時,猶能薦士,謝枋得嶔崎以全臣節,皆宋末之卓然者也。