宋史

列傳第一百八十四 劉應龍 潘牥 洪芹 趙景緯 馮去非 徐霖 徐宗仁 危昭德 陳塏 楊文仲 謝枋得

劉應龍

劉應龍、字は漢臣、瑞州高安の人なり。嘉熙二年の進士。零陵主簿に授けられ、饒州錄事參軍となる。毛隆という者あり、剽掠殺人を務め、州民は盗に遭い、遠く呼びて盗に曰く、「汝は毛隆か」と。盗も亦曰く、「我は毛隆なり」と。既に官に訟う、隆を捕えて獄に置く、應龍曰く、「盗が真に毛隆ならば、肯んで自ら称せんや」と。因りて州に言う、州は許さず、乃ち他の官に委ぬ、隆は誣られて伏し死に抵す、未幾にして盗敗る、應龍是に由りて著名となる。崇仁縣知縣に改む。淮西失守し、江西諸州に殘破する者有り、縣の佐貳は變を聞き先ず遁る、應龍は固く守り去らず。

先づ、理宗久しく子無く、弟福王與芮の子を以て皇子と為す、丞相吳潛異論有り、帝已に樂しまず。大元兵江を度り、朝野震動し、丞相丁大全を逐い、復た潛を起して相と為す、帝潜に策の安くに出づるかを問う、潜對えて曰く、「當に遷幸すべし」と。又た卿は如何と問う、潜曰く、「臣は當に此に死守すべし」と。帝泣下して曰く、「卿は張邦昌たらんと欲するか」と。潜敢えて復た言わず。未幾にして北兵退く、帝群臣に語りて曰く、「吳潜幾くんぞ朕を誤らんとす」と。遂に潜の相を罷む。帝潜を怒り已まず、應龍朝に命を受け、帝夜に象簡を出だし疏稿を書して應龍に授け、潜を劾せしむ、應龍謂う、「潜は本より賢譽有り、獨り事を論じて當を失い、變に臨みて寡斷なり。祖宗以來、大臣罪有りと雖も未だ嘗て輕く肆に誅戮せず。望むらくは姑く寬典に從い、以て體貌を全うせんことを」と。帝大いに怒る。乃ち丁大全を按劾し、加うるに竄斥を請う、疏に言う、「内は民瘼を蘇るより急なるは莫く以て國本を固くし、外は軍實を討つより急なるは莫く以て國威を振う」と。又た時政四事を言う、廩を廣く發して以て民饑を振い、商販を通じて以て民食を助け、富室を勸分して以て官糴を助け、等第を嚴しくして以て民數を覈し、檢放を稽えて以て民窮を蘇し、盜を嚴しく戢めて以て民害を除く。賈似道素より潜を忌み、會す京師米貴し、應龍『勸糶歌』を作る、宦者取りて以て上聞す、帝問い知る應龍の作れることを、似道に米價高きを問い、當に亟に之を處すべしと、似道其の由を訪う、亦た應龍を怒る。司農少卿に遷り、尋いで右諫議大夫孫附鳳の言に以て、遂に國を去る。

景定三年、湖南饑え、起きて提舉常平と為る。救荒の功を以て、直寶章閣・廣南東路轉運判官に遷る。祕書監兼國史編修・實錄檢討に遷る。隆興府知事兼江西轉運副使となり、和糴二十萬石を免ずるを奏す。權戶部侍郎兼侍講に擢でる。時似道國に當たり、百官奏對稍々切直なる者は輒ち黜けらる、應龍言う、「臣觀るに今日の事、言うべき者多し。邇日以來、靖恭自守する者は以て事を論ずるを忌み、指陳稍々切なる者は聯翩として引去す、豈に兩省の繳駁過甚にして、其の疑いを重くするか。抑や廷臣の奏對咈意にして、其の畏れを速くするか。朝廷清明の時にして、言う者已に懷疑畏す、臣恐らくは正臣氣を奪い、鯁臣舌を吃し、宜しく盛世の有る所に非ざらんことを」と。遂に當路に迕い、侍從・兩省以下切齒せざる無し。未幾、集英殿修撰を以て建寧府知事となる、亟に辭し、中書舍人盧鉞指に希い錄黃を封じて還す。久しうして、起きて江東轉運使と為る、辭す。

南海寇作し、朝廷之を患う、乃ち顯謨閣待制を以て廣州知事・廣東經略安撫使と為る。寇應龍の至るを聞き、遁げ去る。應龍之を剿逐し、南海大いに治まる。特旨屢召し、戶部侍郎に拜し仍兼侍讀、七たび奏を上りて辭免す。德祐元年、兵部尚書・寶章閣直學士・贛州知事に遷り、兼江西兵馬鈐轄・青海軍節度使、力辭し、九峰に隱る。

子元高亦た進士に舉り、候官縣知事となる。沒す、洪天錫歎じて曰く、「朝廷一御史を失えり」と。

潘牥

潘牥、字は庭堅、福州閩の人なり。端平二年策進士、牥對えて曰く、「陛下休を上帝に承け、德を匹夫に皈す、何ぞ人子孫と異ならん、身に父母劬勞の賜を荷い、乃ち豪奴悍婢を指して恩私の地と為す。父母の怒り無からんことを欲するも、得べからず」と。又た曰く、「陛下手足の愛、生榮死哀、反って士庶人を視るを得ず。此れ一門の内、骨肉の間未だ能く親睦せざるが如し、是を以て僮僕疾視し、鄰里侮を生ず。宜しく東海の恩を厚くし、淮南の土を裂き、以て人和を致すべし」と。時に對する者數百人、庭堅の語最も直なり。

會す殿中侍御史蔣峴方大琮・劉克莊・王邁の前異論を倡えしを劾し、併せて牥を誣りて姓逆賊に同しく、策語順わずとし、請う皆漢法を以て論ずるを。牥鎮南軍節度推官・衢州推官に調じ、浙西提舉常平司を歷る。太學正に遷り、旬日、出でて潭州通判と為る。日食し、詔に應じて封事を上りて曰く、「熙寧初元日食し、詔して郡縣に骼を掩わしめ、令と為すに著す。故王一抔の淺土、其れ暴骸と為る亦た大なり。請う王禮を以て改葬せんことを」と。又た丞相游似に移書して之を申し言う、似其の言を善しと心にし、方に將に收用せんとし、而して牥卒す。

洪芹

洪芹、尚書右僕射适の曾孫、大父の澤を以て官に入り、甫更調し、進士第に登る。南平司法より欽州教授に改む。部使者其の才を愛し、先後並びに之を薦む、旨有り召し審察す。内外艱に丁る。入りて省架閣を主り、太學博士に遷る。輪對し、絜矩の道を發明す。國子博士に擢でられ、出でて南劍通判と為り、入りて太常博士と為り、累遷して將作少監に至る。屬に詞臣上意に當たる無く、慨然として天下の士を得んと思い、丞相程元鳳言う當今地望洪芹に逾る者無しと、進めて兼翰林と為し、權直秘書少監を權む。

開慶元年、直學士院に升り、繼いで權禮部侍郎・中書舍人を權む。屬に兵興し、帝悟る柄任人に非ざるを、自ら國禍を貽すと、詔書の至る所、聞く者奮激す、蓋し芹の草する所なり。丁大全相を罷め、出でて鄉郡を典す。芹禮部侍郎に遷り、繳奏す、「大全鬼蜮の資、穿窬の行、暴戾淫黷、兇惡を引用し、忠良を陷害し、言路を遏塞し、朝綱を濁亂す。乞うらくは盡く諫臣の請う所に從い、官を追い遠く竄し、以て國法を伸べ、以て天下に謝せんことを」と。沈炎上怒に乘じ、丞相吳潜を攻む、芹獨り繳奏して曰く、「方に國本多虞なるに、潜星馳して闕に赴き、紛を理め浮を鎮め、力に陳する多し。一旦之を弁髦と視る、得無や《詩》の所謂『將に安からんとし將に樂しまんとすれば女轉た予を棄つ』が如からん乎」と。慷慨敢言、天下之を義とす。

禮部侍郎に遷り、帝銳意向用せんとし而して論を以て去り、退きて永嘉に寓し、怡然自適す。咸淳初、起きて寧國府知事と為る。卒す。文集有り。

趙景緯

趙景緯、字は德父、臨安府於潛の人。幼くして学に勤しみ、弱冠にして周惇頤・程顥兄弟らの諸書を得て読み、朱熹の門に登れなかったことを恨んだ。朱熹の門人葉味道がこれに言う、「度正は我が党中の第一人者なり」。遂に往きて見え、まず放心を求むるを本とすべしと教えられた。ここにおいて味道・正の間を往来し、研究思索益々精しくなる。太学に入り、淳祐元年の進士第に登る。江陰軍教授に授けられ、諸生はその規矩法度を守った。母の憂に服し、禄が養いに及ばず、喪が明けても転任を求めなかった。『読易庵懸霤山』を作る。江東提点刑獄の呉勢卿が幹弁公事に辟すも、就かず。史館検閲に召されるも、辞し、許されず。待次教授への換任を乞い、許されず。岳祠を乞い、また許されず。致仕を乞い、返答なし。旨ありて特に合入官に改めることを与え、崇道観を主管す。三度辞すも、許されず。景定元年、特に秘書郎を授けられ、二度辞すも、許されず。著作郎に遷り、辞すも、許されず。病を以て祠官を乞い、佑神観主管兼史館校勘を差す。史書が成り、二度外祠を乞い、直秘閣に進み、在外宮観を与えられ、職名を辞すも、許されず。崇禧観主管を差す。

台州守の王華甫が上蔡書院を建て、景緯を礼遇して堂長とす。病を以て辞す。旧職のまま台州知事に差す。二度辞すも、許されず、催促の命益々厳し。郡に至り、民を化し俗を成すを先務とし、まず陳述古の『諭俗文』を取り諸邑に書き示し、且つ自らその説を為し、その民をして互いに告諭・諷誦・服行せしめ、期して失墜なからしむ。官吏の民を擾す五事を制約す。『孝経』の「庶人章」を取り四言とし、その義を詠賛し、朝夕これを歌わしめ、これがために感涙する者あり。遺逸の車若水・林正心を朝廷に挙ぐ。孝行を旌表し、『訓孝文』を作りてその俗を励ます。重刑を平らげ、嘩訐を懲らし、豪横を治む。黄巖県に社倉六十六を建つ。河道九十里を浚い、堤防道路三十里を築く。浮費を節し、下戸の為に秋苗を代わって納む。五邑の坊河渡銭の免除を奏す。

一年の内に、田舎に帰ることを乞うこと再びあり。考功郎官に進み、再び辞すも、許されず。沂靖恵王府教授を兼ね、辞すも、許されず。この冬、新命を四度辞し、且つ祠官を乞うも、皆許されず。乃ち赤城・桐柏の間に於いて薬を採り書を著し、後学に補うこと有らんことを乞う。病廃の身をして聖世に無用ならしめざらんとす。許されず。御筆にて崇政殿説書を兼ね、三度辞すも、許されず。乃ち朝廷に詣で、緝熙殿に侍し、『易』を以て進講し、「聖人の元を体する妙は惟幾に在り。人君此を得れば、則ち天下に治有りて乱無く、人事に吉有りて凶無し」と論ず。又曰く、「惕厲祗懼は乃ち天心の存する所なり。聖人は先ず憂に処するを以て、故に能く憂無く、先ず危に処するを以て、故に能く危無し。若し先ず自ら安楽に処せば、則ち憂危之に乗ずるなり」。又監司守令を論じ、その説に曰く、「人を知ることの難きは、古より已然たり。人材の使に乏しきは、今を甚だしと為す莫し。或いは観望して勢に撓み、或いは阿私して情に徇い、或いは是非公ならずして枉を以て直と為し、或いは毀誉実を失して汚を以て廉と為す。遂に挙刺当たらず、以て天下の心を服するに足らず。其の罪有るの後に糾劾するに若くは、未だ用いざる先に精択し、之をして各其の職に称せしむるに如かず」。

彗星、柳宿に出づ。景緯、詔に応じて封事を上ぐ。曰く、

「今日天意を解く所以を求むるは、人心を悦ばすに過ぎず。百姓の心即ち天心なり。私蔵を錮して天下の同欲を専らにすれば、則ち人悦ばず。私人を保って天下の公議に違えば、則ち人悦ばず。閭閻の糟糠厭わざるに、燕私の供奉自如なれば、則ち人悦ばず。百姓の膏血日々に朘せられ、符移の星火愈急なれば、則ち人悦ばず。己に公ならずして天下の私を絶たんと欲すれば、則ち人悦ばず。其の源を澄まさずして天下の貪を止めんと欲すれば、則ち人悦ばず。夫れ必ず是の数者有りて、斯に怨を召し災を致すに足る。

願わくは陛下、内帑を捐てて壅利の謗を絶ち、嬪嬙を出して用度の奢を節せよ。弄権の貂寺、素より天下の共に悪む所の者は、之を屏け之を絶て。民を毒する恩沢侯、嘗て百姓の憤る所の者は、之を黜し之を棄てよ。忠鯇敢言の士を択びて之を台諫に置き、関鬲の壅を通ぜしめよ。慈恵忠信の人を選びて之を守宰と為し、元気の残を保たしめよ。又必ず乾道・淳熙以来、凡そ利源窠名の百司庶府に在る者、悉く其の旧に隷せしめ、以て経用の急を済さしめよ。公田派買不均の弊は、民の自ら陳ずるに聴き、宜に随い通変し、以て田里の生を安んぜしめよ。則ち人心悦び、天意解くべし。人の常情、懼るる心は災異初見の時に発する毎に、諂諛交至の後に潜かに移らざる能わず。万一左右の寛譬の言を過聴し、曲って他の説を為して自ら解き、細故を毛挙して以て責を塞ぎ、恐懼の初心弛らば、則ち下は人心に拂い、上は天意に違ひ、国の安危或いは未だ知るべからず」。

又曰く、「玉食を損ずるは、内帑を損じ貢奉を却くるの実に若かず。正朝を避くるは、幸門を塞ぎ忠諫を広むるの実に若かず。大眚を肆うは固より仁恩を広むる所以なれども、又循良を択び貪暴を黜するの実に若かず。蓋し天意方に回りて未だせず、人心乍ち悦びて旋て疑う。此れ正に陰陽勝復の会、眷命隆替の機なり」。国史院編修官・実録院検討官を兼ね、辞すも、許されず。転対し、言う、「願わくは義利の限を明弁し、力めて繫吝の私を破り、天を以て自ら処して内外の分を絶ち、道を以て欲を制して耳目の累を黜せよ。閨闥の賤を以て公議を干すこと無く、戚畹の私を以て国常を紊すこと無かれ」。田里に帰るを乞うも、許されず。太府少卿に拝し、兼職仍り旧の如し。再び辞すも、許されず。復た上疏して帰るを乞うも、許されず。

直敷文閣を以て嘉興府知府に任ず。辞し、仍り祠官奉るを乞うも、皆許されず。咸淳元年、郡に至り、まず根本を護り風俗を正すを先務とす。三度辞すを乞うも、許されず。宗正少卿に拝し、御筆にて侍講を兼ねる。辞すも、許されず。乃ち家に帰り、三度祠官を乞う。御筆にて行を促され、猶い告を寛うるを乞うも、許されず。国門に至り、御筆にて工部侍郎権官を兼ね、時暫く中書舎人権官を兼ねる。三度辞すも、許されず。『礼記』を以て進講し、敬恕の義を開陳す。濫恩の詞頭を封還す。帝之に従う。又言う、「徳を損ない身を害するの大なるは嗜欲に過ぐる莫く、而して嗜欲を窒むの要は思に切なる莫し。居処すれば則ち敬を思い、動作すれば則ち礼を思い、祭祀すれば則ち誠を思い、親に事うれば則ち孝を思う。一食を御する毎に、則ち天下の飢うる者を思え。一衣を服する毎に、則ち天下の寒むる者を思え。嬪嬙列に在れば、必ず夏桀の嬖色を以て其の国を亡ぼすを思え。飲燕方に歓なれば、必ず商紂の沈湎を以て其の身を喪うを思え。念起これば而して思之に随えば、則ち念必ず息む。欲萌れば而して思之を制すれば、則ち欲必ず消ゆ。志気日々に剛健を以てし、徳性日々に充実を以てせば、豈盛ならずや」と。

また曰く、「雷が時ならず発するのは、窃かに今日の事跡を跡づけて疑わしいものがある。内批が重ねて下されれば名器は軽んぜられ、宮閫が厳しからざれば主威は冒され、濫りに施す恩は収められてまた出で、貪りを止める詔は厳しくしてすぐ弛む。宮正の什伍の令は奇衺を防ぐ所以なれど、或いは乞憐の卑祠に縦せられる。緇黄の出入の禁は宸居を厳にする所以なれど、間には禬禳の小術に惑わされる。甚だしきは弾劾の墨も未だ乾かざるに、拭い去るの旨已に下り、駁奏未だ幾ばくもあらざるに、捷出の径已に開かる。命令に疑いなきは、則ち陽に縦して収めず。主意堅からざるは、則ち陰に閉じて密ならず。陛下、災いを致す由を思わずして、急ぎ以て之を正す所以を求めざるべけんや。願わくは其の天君を清くして、以て治を出すの源を端にし、其の号令を謹んで、以て紀綱の本を粛にすべし。私恩に牽かれてもって公法を撓ることなく、邇言に遷りてもって旧章を乱すことなく、讒を去りて色を遠ざけ、貨を賤しめて徳を貴べば、則ち人心悦びて天意得、以て太平を開き中興を兆すべし」。

権礼部侍郎兼修玉牒に進み、再び辞し、許されず。兼侍読に昇り、辞し、許されず。『聖学四箴』を進む:一に曰く日力を惜しみて以て其の勤を致し、二に曰く体認を精にして以て其の知を充たし、三に曰く嗜好を屏げて以て其の業に専にし、四に曰く行事を謹んで以て其の用を験す。五たび帰田里を乞い、帝勉めて之を留め、請い益々力む。特授に集英殿修撰・知建寧府と為し、辞し、許されず、乃ち家に還る。召されて中書舎人と為し、三たび辞し、許されず、請い益々力む。顕文閣待制に進み、乞う所に依り祠を予う、職名を辞し、許されず、遂に差して玉隆万寿宮を提挙す。疾有り、医を謝し薬を却け、曰く、「我をして心を清くして以て天命に順わしめ、重ねて我が懐を悩ます毋れ」と。拱手して三揖して乃ち卒す。詔して特に四官を贈り中奉大夫に至り、謚して「文安」とす。景緯は天性孝友、雅志沖澹、親没して仕進に意無く、故に其の朝に立つ日の久しからざるなり。

馮去非

馮去非、字は可遷、南康軍都昌県の人。父は椅、字は儀之、家に居て徒を授け、注したる所の『易』・『書』・『詩』・『語』・『孟』・『太極図』、『西銘輯説』、『孝経章句』、『喪礼小学』、『孔子弟子伝』、『読史記しき』及び詩文・志録、合わせて二百余巻。

去非は、淳祐元年の進士。嘗て淮東転運司の幹弁を務め、儀真を治む。欧陽脩の東園其処に在り、使者黄濤之を以て仏寺と為さんと欲す。時に已に薦挙を許されしも、去非力争して得ず、寧ろ使者の薦を受けず、謁告して去る。宝祐四年、召されて宗学諭と為る。丁大全が左諫議大夫と為るに及び、三学の諸生閽を叩き言うこと不可なりと。帝為に詔を下し禁戒し、詔して石を三学に立てしむ。去非独り肯て碑の下方に名を書かず。監察御史呉衍・翁応弼諸生を劾して獄に下し、去非復た宗学生の就逮する者を調護す。未幾、大全枢密院事を簽書し参知政事と為り、蔡抗国を去る。去非も亦た言を以て罷めらる。帰舟金・焦山に泊す。僧有り上謁す。去非其の大全の人たるを虞わず、周旋甚だ款し。僧間に乗じて大全の意を致し、願わくは遽に帰ること毋れ、少しく収召を俟て、誠に尺書を以て往かば、成命即ち下らんと。去非奮然として正色して曰く、「程丞相・蔡参政老夫を牽率して此に至らしむ。今吾が廬山に帰り、復た仕えざるなり。斯の言何為ぞ我に至る」と。之を絶ち、復た与に言わず。

徐霖

徐霖、字は景説、衢州西安県の人。年十三、聖人の道に志し、作れる所の文を取って焚き、『六経』の奥を研精し、先儒の心伝の要を探賾す。淳祐四年、礼部を試みて第一。知貢挙官入見す。理宗曰く、「第一名人を得たり」と。嘉獎再三す。第に登り、沅州教授を授かる。

時に宰相史嵩之辺功を挟み君に要し、党を植え国を専らにす。霖上疏し歴に其の姦深の状を言い、以て「其の先ずは陛下の心を奪い、其の次には士大夫の心を奪い、而して其の甚だしきは豪傑の心を奪う。今日の士大夫、嵩之皆其の心を変化して之を収摂せり。且つ其の変化の術甚だ深く、章章然として人に号して之を小人と為さしむるに非ず。常に善類に於て其の質柔気弱にして以て奪い易き者を択び、一二を親任し、其の或いは稍々已に異なる有らば、則ち潜かに棄てて之を擯遠し、以て其の余を風す。彼は名節の尊も以て富貴の願に易うるに足らず、義利の弁も亦た終に妻妾宮室の私に暗くんば、則ち亦た之に従うのみ」と。疏奏す。見る者舌を吐き、霖の為に危ぶむ。未幾、嵩之父の喪を匿して起復を求めんとす。君子並び起ちて之を攻む。上大いに感悟す。

丞相范鍾召して試みし館職二人を進む。上霖の忠を思い、親しく其の一を去り、霖の名に易う。試みに及ぶと、則ち曰く、「人主に自強の志無く、大臣に患失の心有り。故に元良未だ建たず、兇姦未だ竄ぜず」と。是の時、丞相杜範已に薨じ、而して鍾は位を得たれども、姦人の覆い出でて己が禍と為るを畏るる故なり。秘書省正字に擢ぐ。霖辞して命を得ず、遂に職に就く。会う日食有り。霖詔に応じて封事を上ぐるに曰く、「日は陽類なり、天理なり、君子なり。吾が心の天理人欲に勝たず、朝廷の君子小人に勝たず。宮闈の私匿未だ屏げず、瑣闥の姦邪未だ弁ぜず、台臣の賊を討つこと決せず。精祲感浹し、日之が為に食らう」と。又た数え太子を建立することを言う。校書郎に遷る。七年夏、大旱す。霖詔に応じて言う、「諫議大夫易えざれば則ち雨降らず、京兆尹易えざれば則ち雨降らず」と。報いず、国を去る。上著作郎姚希得を遣わし之を留めしむ。還らず。御筆にて合入官を改む。乃ち宣教郎に改む。霖屡辞し、曰く、「向は身死して敢えて其の君父を欺かざらんとし、今は官高きを以て平生に自ら眩き、其の本心を失わば、何を以て其の忠志を暴かん」と。又た曰く、「志は潔きを貴び、忠は精なるを尚ぶ。即ち取る有らば、則ち自ら垢汚に蹈む」と。

八年夏、添差にて信州通判と為す。霖皆力辞し、竟に未だ拝せず。改秩の命なる故なり。尋いで守臣に令し之を勉諭せしむ。特改に宣教郎・雲台観主管と為す。霖乃ち拝受す。十二年、秘書省著作郎に遷る。累辞すれども許されず。国史編修・実録検討を兼ぬ。上曰く、「今日言う当き者は、備えて之を陳ぶべし」と。霖復た太子の名を正すことを以て言い、又た奏す、「万化の本は心に在り、心を存するの法は敬に在り」と。尚左郎官を兼権し、崇政殿説書を兼ぬ。乃ち上疏して言う、「葉大有は陰柔姦黠にして、群憸の冠と為る。長く台諫に在る宜しからず。乞う斥去せん」と。報いず。左司を兼権す。霖言わざる無きを知る。是に於て讒嫉する者中傷を以てせんと思い、而上も亦た悦ばず。補外を乞い、撫州を知る。先賢を祠し、租賦を寛め、饑窮を振い、悍将を誅し、営砦を建つ。幾一月にして政挙がり化行わる。言を以て去らんとす。士民道を遮り、行くを得ず。暝に及び、始めて径より以て出づ。

寶祐元年、衡州知事に任ぜられる。三年、官に赴くべき時となり、辞退し、袁州知事に任ぜられる。五年、父の喪に服し、悲嘆に暮れて号泣し、七日間水漿を口にせず。翌年開慶元年、崇禧観主管に任ぜられる。景定二年、汀州知事となる。翌年、卒す。臨終に際し、長男の心亨に告げて曰く、「生ある者は必ず死あり、古より聖賢も皆然り、吾また何を憾みんや」と。尚書省は優遇を加えることを請う、詔して一子に恩沢を与う。度宗は祭田百畝を賜い、以て直臣を旌す。霖は衢に閑居す、太守の游鈞が精舎を築き、霖を聘して学者に道を講ぜしむ、この日聴く者三千余人。

徐宗仁

徐宗仁、字は求心、信州永豊の人。淳祐十年の進士。歴官して国子監主簿となる。開慶元年、闕下に伏して上書して曰く、

「賞罰は軍国の綱紀なり。賞罰明らかならざれば、則ち綱紀立たず。今、天下は器の傾きて未だ地に墜ちざるが如し、存亡の機、固より髪を容るるに暇あらず。兵虚にして将惰、力匱れ財殫え、四境を環視するに、類みな恃むに足らず。而して恃むに以て人心を維持し、豪傑を奔走せしむるは、惟だ陛下の賞罰の微権の在るのみ。権は陛下に在り、而して陛下其の用ゆる所以を知らざれば、未だ墜ちざる者安んぞ其の終に墜ちざるを保せんや。臣此れが為に懼るること久し。

陛下危急の時に当たり、金幣を出だし土田を賜い、節鉞を授け、爵秩を分ち、尺寸の功も必ず賞すべき所に在り。故に当に心を悉くして効力し、以て万分の報いを図るべし。然るに幹腹の兵が江を越え広を踰えて以来、凡そ数箇月を閲すも、未だ戦陣に死し、封疆に死し、城郭に死する者のあるを聞かず。豈に賞罰の以て之を勧懲するに足らざるや。今、通国の所謂罰を逸する者は、丁大全・袁玠・沈翥・張鎮・吳衍・翁應弼・石正則・王立愛・高鑄の徒に過ぎず、而して首悪は則ち董宋臣なり。是を以て廷紳は疏を抗し、学校は閽を叩き、至っては尚方の剣を借りて陛下の為に悪を除かんと欲する者有り。而して陛下乃ち釈して問わず、豈に真に此の数人を愛護して千万人の心を重ねて咈えんと欲するや。天下の事勢急なり、朝廷の紀綱壊れり。若し誤国の罪を誅せざれば、則ち兵を用うるの士勇ならず。今、東南の一隅、天下の半は已に此の数人の手に壊れ、而して罰其の毫毛を損ぜず。彼方厚貲を擁し、声色を挟み、華屋に高臥して、陛下と二三大臣をして心を焦し思を労せしむ、可ならんや。三軍の行に在る者は、豈に憤然として平らかならずして曰わざらんや、『禍を稔らす者は誰ぞ、而して我をして躯を兵革の間に捐てしむ』と。百姓の難に罹る者は、豈に群然として胥に怨みて曰わざらんや、『乱を召す者は誰ぞ、而して我をして血を鋒鏑の下に流さしむ』と。陛下亦嘗て此れに一念及ばるるか」と。

又た極めて辺事を論じ、恵褻にして威振わずと謂う。董宋臣の盤固日久く、蒙蔽日久きを論ず。又た「言責ある者をして皆其の言を尽くすを得しめよ、則ち国論伸びて国威振い、臣たとえ山林に屏処すとも、亦た生気有らん」と請う。国子監丞・祕書省著作佐郎に遷り、崇禧観を主管す。考功郎官兼崇政殿説書に遷り、『敬天図』を進読す。太府少卿兼侍講・兼侍立修注官に遷り、太常少卿兼国史編修・実録検討に遷る。寧国府知事となる。監察御史郭閶の論に坐して罷免さる。

德祐元年、起用されて吏部侍郎兼中書門下検正諸房公事に授けられ、兼ねて豊儲倉所提領、兼同修国史・実録院同修撰、侍左侍郎を帯ぶる。督府の名称を仮りて本州に往き守臣と共に防拓せんことを乞うも、許されず。権礼部尚書兼益王府賛読を帯ぶる。益王を衛して海上に走り、厓山にて兵敗れ、其処に死す。

危昭德

危昭德、邵武の人。寶祐元年の進士。歴官して史館検閲校勘・武学諭・宗正寺簿兼崇政殿説書となり、祕書郎に遷る。疏を上りて言う、「国の命は民に在り、民の命は士大夫に在り。士大夫廉ならざれば、民の膏血を朘り、己が為に甘腴と為し、民命に堪えず」と。又た言う、「願わくは陛下二三大臣と利害の実を察し、安危の本を究め、明詔を郡国に下し、号令を申厳し、以て其の急とする所を急がしめ、凡そ荒政の挙ぐべき者は、一日とて念に置くべからず。其の緩むべきを緩め、凡そ苛賦の肆に擾す者は、此時の寛征と為し易くす。人心を固結するは、乃ち以て天命を延ぶる所以なり」と。又た言う、「願わくは陛下考課の事を挙げ、内に以て諸の弾糾の職を責め、外に以て諸の監司・郡守の計を責めよ。貪濁昏庸は固より必ず懲むべし。廉能正直は尤も当に勧を示すべし。之を精に察すれば則ち黜陟咸く服し、之を力に行えば則ち観聽具に孚く、而して吏を課するの実得たり」と。

兼侍講に進む。又た言う、「民は邦の命脈なり、国脈を寿からしめんと欲すれば、必ず民生を厚くし、民生を厚くせんと欲すれば、必ず民力を寛にせよ」と。且つ民を厲する四弊を条上す。又た言う、「願わくは陛下万世根本の慮りを為し、一時倉卒の防を為し、必ず安節の亨を求め、不節の咎を招くこと無く、節して又た節せば、則ち宮闈の費差し省み、帑蔵の積自ら充ち、上用足りて下匱せず」と。又た「欣瘁休戚の故を察し、利害損益の宜を酌み、孰れが当に因るべきか、孰れが当に革すべきか、孰れが罷むべきか、孰れが行うべきかを明らかにせよ、則ち泉貨を折衷して遠近便ならしめ、関梁を開通して商賈行わしむ。下修身奉法の詔を出だして吏自新を得しめ、輸倉助貸の令を出だして民貴糴を免れしめ、墨敕の門を窒めて官府黜陟の異無くし、輪臺の議を止めて疆界彼此の分無からしめよ、則ち気脈蘇醒し意向翕合せん」と乞う。

起居舎人兼国史編修・実録検討に遷り、尋いで殿中侍御史・侍御史に遷る。宗陽宮の造作を諫む。権工部侍郎兼同修国史実録院を帯び、致仕を乞う、特旨にて一官を転ず。昭德経筵に在りて、『易』・『春秋』・『大学衍義』を以て進講し、反覆規正する者甚だ多し。著す所に『春山文集』有り。

子の徹孫、咸淳元年の進士。

陳塏

陳塏、字は子爽、嘉興の人。京湖制置使司主管機宜文字を歴任し、差遣にて德安府知事となり、直寶謨閣を加えられ、江西提点刑獄に転じ、直敷文閣に改められ、千秋鴻禧観提挙となり、司農寺丞に転じ、崇道観主管・安慶府知事を兼ねる。召されて闕に赴き、直顯謨閣を加えられ、湖南提点刑獄となる。再び召されて右司郎官となり、直寶文閣を加えられ隆興府知事・江西安撫使となり、江州知事に改められ、江西安撫司事を主管す。召されて右司郎官となり、直龍図閣に進み、浙西提点刑獄となり、司農少卿に遷り、祕閣修撰を以て慶元府知事兼沿海制置副使となり、大理卿に遷り、右文殿修撰に進み平江府知事兼淮浙発運使となる。

戸部侍郎趙必愿が塏を最上と推挙し、詔により特に一官を転じ、太府卿・司農卿に遷り、権工部侍郎兼同詳定勅令官、兼中書門下省検正諸房公事を拝命した。入奏して言うには、「願わくは陛下、世道の枢機を転移し、士大夫の廉恥を砥礪し、名義を重しとし、利禄を軽しとすることを知らしめ給え。久しく国を去り恬退をもって聞こえる者を召し、久しく朝に立ち更迭を請う者に従い、甘言容悦の者は必ず斥け、真情をもって閑を丐う者は留めざらしめ給え。かくの如くすれば、君臣上下皆以て真実を相与し、四維既に張り、士大夫の難進易退の風、まさに聖世に見るべく、人才幸甚なり」と。また言うには、「従官に古昔の人臣が出藩するの意に倣わせ、その従臣が諸路の憲漕たる時は、提点刑獄使・転運使を以て銜を繫ぎ、『使』の名を仮し、庶官と別なるを示し、なお乞うらくは除授を臣より始めしめ給え」と。是より帝の前で屡々言上したが、許されず。言論により罷免された。

未幾、集英殿修撰・婺州知州に進み、太平州知州兼江東転運副使に改まる。諸郡の災傷を蠲放するよう請うた。戸部侍郎・淮東総領を加えられ、尋いで江淮茶塩所提領兼太平州知州を拝命した。公帑を発して三県の輸ずべき折糸帛銭五十万九千三百六十余貫を代納した。また浮淮書堂を作り、両淮の民を処してこれを教えた。顕謨閣待制・広州知州に進み、権兵部尚書、さらに宝章閣直学士・婺州知州に進み、権戸部尚書に遷り、尋いで正官となり、時暫く吏部尚書を兼ね、宝文閣学士として潭州知州兼湖南安撫使を拝命した。召されて闕に赴き、旧職をもって太平興国宮提挙とされ、龍図閣学士を加えられ、従前のごとく宮観に任ぜられた。久しくして、端明殿学士を加えられた。咸淳四年、卒し、諡して「清毅」と曰う。

塏は屡々麾節を歴任し、軍民に愛戴され、幕客多く盛んにして、また塏は士を薦むるを楽しんだ。著すところに『可斎瓿稿』二十巻あり。

楊文仲

楊文仲、字は時発、眉州彭山の人。七歳にして孤となる。母胡氏、年二十八にして、節を守り自ら誓い、諸子を教養す。文仲既に冠し、『春秋』をもって貢挙に挙げられし時、その母喜びて曰く、「汝が家、汝に至り、三世この経をもって効を収む」と。

淳祐七年、文仲は胄試第一をもって太学に入る。九年、また公試第一をもって内舎に昇る。時に言路頗る壅がれしが、季冬の雷震に因り、首として同舎を帥い閽を叩き時事を極言し、曰く、「天は本怒らず、人これを激して怒らしむ。人は本言わず、雷これを激して言わしむ」と。一時争いてこれを伝誦す。上舎に昇り、西廊学録となる。丞相謝方叔嘗て文仲に問うて曰く、「今日何事最も急なる」と。対えて曰く、「国本未だ建たず、これより大なるは莫し。上意未だ暁らかならず、死を以て請うべし」と。宝祐元年、進士第に登る。母憂に服し、喪を除くや、従叔父棟が婺州を守り罷め帰るに属し、余杭に寓す。文仲往きて伊・洛の学を問う。

復州学教授に調ぜられる。転運使印応飛、幕下に辟く。嫠婦の冤獄を明らかにし、応飛悉く文仲の議に従い、かつこれを薦む。荊湖宣撫使趙葵、文仲を署して分司幕を佐けしむ。姚希得・江万里、合して文仲を薦め、学有用なるを以てす。四川宣撫司準備差遣に辟せられ、沿海制置司幹弁公事を添差す。召されて戸部架閣となり、太学正に遷り、博士に昇る。時に棟は祭酒たり、講学益々精邃に詣る。国子博士に遷る。外任を丐い、通判台州を添差す。故事に、守貳は尚華侈にして、正月の望、民間より灯を取る。吏以て白す。文仲曰く、「吾がために一灯を然すは足れり」と。東郊に農を劭し、守因りて湖に泛ばんと欲す。文仲即ち先んじて馳せ帰る。通判揚州を添差す。牙契の旧額、歳に銭四万緡たりしが、累政を経て十六万に増し、告訐を開きて羨を求む。文仲曰く、「賞を希いて民を擾す、吾は為さざるなり」と。遂に十八界一を増すのみ。制置使李庭芝、檄して機宜文字を主管せしむ。時に沙田あり、使者行わんと欲す。文仲力爭し、以て「事は妄りに興すべからず、蓋し民に与うる恵は限りあり、擾さざる恵は窮まりなし。江北は風寒の地、民力竭きたり。利と為すこと幾何ぞ、安んぞ忍びて重ねて吾が民を擾さんや」と。事遂に行われず。

召されて宗学博士となる。郊祀に際し、圜壇子階監察御史を摂す。近輔に兵変水患あり、輪対して言うには、「皇天眷命し、四百年を垂れ、天命久しく熟するの余、国脈癃老の候、これ豈一大喜懼の交わるにあらざるか。願わくは陛下一初清明に、自ら主宰を作し給え」と。また曰く、「春多く沈陰、豈に但だ麦秋の憂いのみならん。時に『夬』たり、尤も莧陸の慮いを軫む。天目には則ち洪水発し、蘇・湖には則ち弄兵興る。峨冠千千たりと雖も、毎に大夫の使に乏しきを見、佩印累累たりと雖も、常に貪瀆の厭うこと無きを慮う。将は黄金横帯の娛に習い、兵は赤籍掛虚の穴に疲る。蚩蚩たる編氓、以て統府を軽んずるを得、瑣瑣たる警遽、輒ち以て朝廷を憂う。設い不幸にしてこれより大なる事あるに、国何に頼らん」と。帝竦然として聴き、顧問甚だ至れり。太常丞に遷り、尋いで倉部郎官を兼権し、崇政殿説書を兼ね、将作少監に遷り、また将作監に遷る。

文仲、講筵に在りては、毎に積誠を以て感動せしめ、嘗て『春秋』を進読す。帝、五覇何を以て三王の罪人たるやと問う。文仲奏して云く、「斉桓公は王覇升降の会に当たり、向上の事業を為す能わざるも、独り世変の厲階を開く能えり。臣諸を『春秋』に考うるに、桓公初年は多く『人』と書き、二十年を越え、楚を伐ち世子を定むるの功既に成りて、然る後に『侯』の辞叠ねて見ゆ。これ以て王を尊び覇を抑うるの大法たり。然れども王は豈徒に尊ぶのみならんや。蓋し周王の子孫に文・武・成・康の法度を率いて修めしめ、以て文・武・成・康の徳沢を扶持せしめんと欲すれば、則ち王迹熄まず、西周の美尋ぬべく、かくの如くして方に『春秋』王を尊ぶの意に副う」と。帝曰く、「先帝の聖訓に曰く、『絲竹の耳を乱し、紅紫の目を眩ます、良心善性、皆本有す』と。また曰く、『聖賢心学の指要を得、本領端正にして、家に伝え世に守り、是を以て国に君たり民を子とし、是を以て天に祈り命を永くし、是を以て謀を貽し翼を燕す』と。大なるかな先訓、朕朝夕服膺す」と。時に帝は疾を以て連ねて朝を視ず。文仲奏して「声色の事、若し破り識得せば、元より好む可き無し」と。帝容を斂め端拱すること久し。

盛夏の頃、宗陽宮を建てるにあたり、民家を壊して移転させたため、畿甸は騒然となった。文仲は上疏して諫めた。「里巷の民の集まりを移して、香火の庭とすることは、善き計らいとは申せませぬ。陛下は祖宗の位を継がれたのであり、どうして黄老の居所を以て軽重とされましょうか。」翌日、面奏して、一層懇切に申し上げた。丞相賈似道は怒って言った。「楊文仲は口が多い!」卿監以上の者に人材を推薦するよう命じられ、文仲は陳存、呂折、鍾季玉ら十八人を推薦した。名士二人とは、金華の王栢と天台の車若水である。国子司業を兼ね、侍立修注官を兼ねた。また、太学教諭の彭成大を救おうとして似道に逆らい、崇禧観を主管させられ、出向して衡州知州となった。兵糧輸送に法があり民を乱さず、受け取るべき米八千石をもって思済倉を設立した。召されて秘書少監となり、まもなく崇政殿説書を兼ねた。病を理由に致仕を請うたが、許されなかった。国史院編修官・実録院検討官を兼ね、太常少卿兼国子司業に遷り、起居舎人に遷った。

瀛国公が即位すると、権工部侍郎兼権侍右郎官を授けられ、まもなく給事中を兼ねた。明堂の祭祀があり、上公が代行することを議したが、文仲は議して言った。「今、天地の始めを拝見しようとするに、幼沖ではあるが、喪に服する次第に比べれば、すでに拝跪に耐え、礼を執るのに違うところはなく、自ら饗すべきです。」時に丞相の王爚と陳宜中が不和であった。文仲は上疏して言った。「事態は危険かつ切迫しております。祖宗が深く頼み、億兆の民が命を託すところは、二相にあります。もし不和の故に、今日は戦わず、明日は征伐せずして、時は再び来たらず、後悔しても及ばないでしょう。」まもなく国子祭酒を兼ねた。金華の何基と王栢に諡号を請うた。時に大元の兵が江を渡り、畿甸が震動し、朝臣の多くが逃げ去る中、侍従の班には文仲ただ一人がおり、去らなかった列にいる者に二階級を旌賞する詔があった。文仲の病はますます重くなり、祠官を請い、集英殿修撰として漳州知州となった。三度上章して致仕を乞うたが、泉州知州に改められた。そこで家族を連れて嶺南を越えて赴任を待つ間に卒し、やがて宋は滅亡した。『見山文集』がある。

謝枋得

謝枋得、字は君直、信州弋陽の人である。人となり豪爽であった。書を読むごとに、五行を一度に見下ろし、一覧して終生忘れなかった。性来直言を好み、ひとたび人と古今の治乱国家の事を論じれば、必ず髯を掻き上げ机を叩き、躍り上がって自ら奮い立ち、忠義を以て自ら任じた。徐霖は彼を評して「驚鶴の霄を摩するが如く、籠と縶とに事とせず」と言った。

宝祐年間、進士に挙げられ、策問に対し丞相董槐と宦官董宋臣を極めて激しく攻撃したので、高第に抜擢されるものと思われたが、奏名されると乙科であった。撫州司戸参軍に任じられたが、すぐに棄て去った。翌年また出て、教官の試験を受け、兼経科に合格し、建寧府教授に任じられた。まだ赴任しないうちに、呉潜が江東・江西を宣撫し、辟召して幹辦公事に差遣した。民兵を団結させて饒・信・撫を守らせ、官から銭米を支給した。枋得は鄧・伝二社の諸大家を説得し、民兵一万余人を得て信州を守った。賊兵が退くと、朝廷が諸軍の費用を査定し、ほとんど罪を免れぬところであった。

五年、彗星が東方に出た。枋得は建康で試験官を務め、似道の政事を摘出して問題とし、「兵は必ず至り、国は必ず亡ぶ」と論じた。漕使の陸景思がこれを恨み、その草稿を似道に上った。郷里にいて法に従わず、兵を起こした時に官から支給された銭を不正に使い、かつ誹謗した罪に坐し、官位を二階級追奪され、興国軍に謫居させられた。咸淳三年、赦されて帰還を許された。徳祐元年、呂文煥が大元の兵を導いて東下し、鄂・黄・蕲・安慶・九江を陥とし、その親友や部下を皆誘い降ろしたので、ついに建康に駐屯した。枋得は呂師夔と親しかったので、詔に応じて上書し、一族を挙げて師夔が信頼できることを保証し、沿江の諸屯兵を分けて彼を鎮撫使とし、和議を行わせるよう請い、自ら江州に至って文煥に会い協議することを願った。朝廷はこれに従い、彼を沿江察訪使として行かせたが、文煥が北帰したのに会えず、果たせずに帰った。

江東提刑・江西招諭使として信州知州となった。翌年正月、師夔と武万戸が江東の地を分定した。枋得は兵を率いてこれを迎え撃ち、先鋒に呼ばせた。「謝提刑が来たぞ」と。呂軍が馳せ至り、矢を射かけると、矢が馬の前に及んだ。枋得は安仁に逃げ込み、淮士の張孝忠を調発して団湖坪で迎え撃たせた。矢が尽きると、孝忠は双刀を振るって百余人を撃ち殺した。前軍が少し退くと、後軍が孝忠の背後に回り出たので、兵は驚いて潰走し、孝忠は流れ矢に当たって死んだ。馬が帰って来たのを、枋得が敵楼に座って見て言った。「馬が帰った。孝忠は敗れたのだ。」そこで信州に奔った。師夔は安仁を落とし、信州を攻めて守れなかった。枋得はそこで姓名を変え、建寧の唐石山に入り、茶阪に転じ、旅館に寓居した。毎日麻衣を着て草鞋を履き、東に向かって泣いたので、人は彼を識らず、病気にかかったのだと思った。やがて去り、建陽の市中で卜を売った。卜に来る者があれば、ただ米や草鞋を取るだけで、銭を委ねられても、ことごとく謝して取らなかった。その後、人々が次第に彼を識り、多くは家に招いて子弟に学問を論じさせた。天下が定まると、ついに閩中に住んだ。

至元二十三年、集賢学士程文海が宋臣二十二人を推薦し、枋得を筆頭としたが、辞して起たなかった。また翌年、行省丞相忙兀台が旨を奉じて彼を詔したが、手を執って互いに慰労した。枋得は言った。「上には堯・舜がおり、下には巣父・許由がおります。枋得の名姓は縁起が良くないので、詔に赴くことはできませぬ。」丞相は彼の義を認め、強要しなかった。二十五年、福建行省参政管如徳が旨を奉じて江南に人材を求めに行き、尚書留夢炎が枋得を推薦した。枋得は夢炎に書を送って言った。「江南に人材はおりませぬ。瑕呂飴甥や程嬰・杵臼のような賤しい卒でさえ一人求めることができませぬ。紂が亡んだ時、八百国の精兵を持ちながら、二人の正論に抗することができず、武王・太公たいこうは凛として居場所がなく、急いで滅びた国を興し絶えた家を継いで天下に謝罪しました。殷の後裔はついに周と並び立ちました。三監や淮夷が叛かなければ、武庚は必ず死なず、殷の天命は必ず廃されなかったでしょう。女真が二帝を扱ったことも惨めでした。しかし我が宋は今年は使を遣わして祈請し、明年は使を遣わして安否を問うた。王倫という一市井の無頼で邪な小人が、梓宮は還り、太后は帰られると言いました。結局二事ともその言に符合しました。今は一王倫さえおらず、江南に人材のないことが見て取れます。今私は六十余歳、欠けているのは一死のみ、どうして他に志がありましょうか!」結局行かなかった。郭少師が瀛国公に従って入朝し、その後南に帰り、枋得と時事を語り合い、言った。「大元は本来江南に意はなく、しばしば使を遣わして兵を留めさせ、深入りせぬよう命じ、歳幣が還れば即ち和を議し、無辜の生霊を害さぬようにしていました。張宴然が上書して兵を収めて和に従うよう乞うと、上はすぐにこれを許可しました。兵が交わって二年、一片の使者の礼もなかったのに、数百年の宗社を携えて降ったのです。」そこで互いに痛哭した。

福建行省参政魏天祐は、時方が人材を求めることを急務としているのを見て、枋得を推薦して功としようとし、その友の趙孟𨓴に言わせた。枋得は罵って言った。「天祐は閩に仕えて、毫髪たりとも徳意を推し広めることなく、反って銀の採掘を起こして民を苦しめ、我々をもって邪悪を飾ろうとするのか。」天祐に会うと、また傲岸として礼をせず、話しかけられても、座ったまま答えなかった。天祐は怒り、無理に北行させた。枋得はその日から菜果のみを食した。

二十六年四月、京師に至り、謝太后の仮葬所と瀛国公の所在を尋ね、再拝して慟哭した。やがて病にかかり、憫忠寺に移った。壁の間の『曹娥碑』を見て泣いて言った。「小女子でさえこうである。私はどうしてお前のようではいられようか。」留夢炎が医者に薬を米飲に混ぜて進めさせると、枋得は怒って言った。「私は死のうとしているのに、お前は私を生かそうとするのか。」それを地に棄て、ついに食さずして死んだ。

伯父の徽明は特奏の恩により當陽尉となり、縣事を攝行した。時に天基節の上壽に際し、大元の兵が急に至り、徽明は兵を出して戰ひ死し、二子は進み趨って父の屍を抱き、亦た死せり。

論ずるに曰く、劉應龍は賈似道に附せず、馮去非は丁大全に附せず、潘牥は皇子竑の事を論じ、坎壈として終はる。洪芹は吳潛を訟ふ、偉なるかな。趙景緯は醇儒なり、而して躁競の心無し。徐霖は進んでは朝に直言し、退きては里に道を講ず。徐宗仁は國亡ぶるに與に亡ぶ、二心を懷きて其の君に事ふる者に異なる。危昭德の經筵進對の言は、悉く諸の故史に載せらる。陳塏は能く意氣を以て人を感ぜしめ、楊文仲は搶攘の時に當り、猶ほ能く士を薦め、謝枋得は嶔崎として臣節を全うす、皆な宋末の卓然たる者なり。