宋史

列傳第一百八十三 陸持之 徐鹿卿 趙逢龍 趙汝騰 孫夢觀 洪天錫 黃師雍 徐元杰 孫子秀 李伯玉

陸持之

陸持之、字は伯微、荊門軍知事九淵の子なり。七歳にして文を作る能し。九淵、象山の上に徒を授け、学者数百人、未だ達せざる者有り、持之之が為に敷繹す。荊門郡治火災に遭い、持之倉卒に指授して程に中り、九淵之を器とす。

韓侂冑兵を用いんとす、持之時を憂いて懌しまず、乃ち時賢を歴聘し、将に以て告げんとす、九江に於いて徐誼を見る、時に江を防ぐを議す、持之僚吏を択び地形を察し、孰れか険にして守り、孰れか易にして戦い、孰れか隘にして伏すべきかを請い、専ら江を守ることを為す毋かれとす。具に言う、「古より事を興し業を造るは、学を以て之を輔くる有らざれば、往々にして皆血気の盛衰を以て鋭惰と為す。故に三国・両晋の諸賢、多く盛年に功名を成す。公天下の事変を更むること多し、未だ一事を挙げずして、朝に思い夕に惟い、利害先ず中に入る、愚かにして其の之を為す難きを恐る。」誼憮然たり。又鄂に之き薛叔似・項安世を謁し、荊に之き呉獵を謁す、争いて之を留めんと欲す、尋いで皆謝して帰る。書十篇を著し、名づけて『戇説』と曰う。

嘉定三年、江西転運司の預選を試み、常平使袁燮朝に於いて之を薦め、持之の議論空言に為らず、緩急に倚仗すべき有りと謂う。報いず。章東湖書院を建つ、連帥書幣を以て強いて持之を起し之を長とす。嘉定十六年、寧宗特詔して持之に秘書省に読書せしむ、固辞す、獲ず。既に至り、又詔して迪功郎を以て省に入らしむ、帰を乞う、許さず。理宗即位し、修職郎に転じ、差して浙西安撫司を幹弁せしむ、疾を以て致仕を請う、特命して通直郎に改む。著する所に『易提綱』・『諸経雑説』有り。

徐鹿卿

徐鹿卿、字は徳夫、隆興豊城の人なり。経史に博通し、文学を以て郷に名有り、後進争いて師宗とす。嘉定十六年、廷試進士、有司其の対を第して二に居す、詳定官其の直を以て之を抑え、猶お第十に置く。

南安軍学教授に調ず。張九成嘗て直道を以て謫居す、鹿卿其の言行を摭い、諸学に刻して以て訓む。先ず是れ周惇頤・程顥と其の弟頤皆此の邦に講学す、鹿卿其の教を申し、是より理義の学復た明らかなり。養士の綱条を立て、学田多くは溪峒に在り、異時に之を征するに藝無く、農之を病む、鹿卿撫恤し、逋租する者無し。其の後盗作し、城を環る屋皆燬ゆ、惟だ学宮免る、曰く、「是れ我を撓ます無き者なり。」

福建安撫司幹弁公事に辟す。会に汀・邵の寇作す、鹿卿備禦を賛画し、動きて機会に中る。寇を避くる者城に入る、多方振済し、全活甚だ衆し。郡多く火災有り、救護方有り。会に都城火災有り、鹿卿詔に応じて封事を上す、積陰の極まるは、其の徴を火と為すと言い、惑嬖寵・溺燕私・用小人の三事を指言すること尤も切なりと。真徳秀其の気平にして論正しく、憂愛の誠心有りと称す。尤渓県知事に改む。徳秀泉を守り、南安を宰するを辟す、鹿卿養い便ならざるを以て辞す。徳秀曰く、「道同じく志合わば、以て民を拯うべし、何ぞ来たらざるを憚らん。」鹿卿入りて其の母に白す、欣然として之を許す。既に至り、首に科斂の名無き者を罷め、版籍を明らかにし、預借を革め、壅滞を決し、冤抑を達し、邑大いに治まる。徳秀尋いで閩を帥とし、其の政を疏して以て列邑を勧む。歳饑え、之を処するに法有り、富者は分かつを楽み、民死徙する無し。最聞こえ、令して都堂に赴き審察せしむ。母喪を以て去る。

詔して服闋して枢密に赴き稟議せしむ、首に辺事・楮幣を言う。官告院を主管し、諸司審計司を幹弁す。故相の子集英殿修撰を以て祠祿を食み、又司農少卿の米麦を幫す、鹿卿曰く、「奈何ぞ一人の為に成法を壊さん。」持して不可とす。国子監主簿に遷る。入対し、六事を陳ぶ、曰く、「凡陋を洗いて以て事功を起し、勧懲を昭かにして以て主柄を収め、班著を清くして以て実才を儲け、藩輔を重くして以て都邑を蔽い、閩・越の舟師を用いて以て海を防ぎ、東南の全力を合して以て江を守らん。」と。上皆嘉納す。枢密院編修官に改め、右司を権め、二府を賛画し、通じて法を守る。会に右史方大琮・編修劉克荘・正字王邁言事を以て黜せらる、鹿卿詩を以て贈り、言者並びに之を劾す、太学諸生『四賢詩』を作る。建昌軍を知る、未だ上せずして、崇教・龍会の両保と建黎原・鉄城の民怨みを修め兵を交う、鹿卿馳書して之を諭し、手を斂めて命を聴く。既に至り、則ち賦斂を寛め、掊克を禁ず。贓濫を汰し、強禦を抑え、寡弱を恤い、黠吏をげいし、戍兵を訓え、百丈砦を創り、兵官を択び、属県を城し、治行大いに孚き、田里歌誦す。

督府横に秋苗の斛面を取る、建昌は米五千斛と為す。鹿卿之を争いて曰く、「守は去る可しと雖も、米は得可からず。」民鹿卿を失わんことを恐れ、之を輸して以て命に共にせんことを請う。鹿卿曰く、「民守の為に計るは則ち善し。守独り民の為に計らざる可けんや。」卒に争いて以て免る。行在に赴くを召す、将に行かんとす、盗南豊に発す、渠首二十人を捕斬し、余は問わず。度支郎官兼右司に擢でる。入対し、極めて時弊を陳ぶ。侍右郎官兼勅令刪修官に改め、右司を兼ぬ。鹿卿又当時並相の弊を言う。宰相甘言を以て鹿卿を誘う、退きて人に語りて曰く、「是れ牢籠なり、吾れ宰相の私人と為る能わず。」と。言者他事を以て鹿卿を詆り、雲台観を主管す。月を越え、起して江東転運判官と為す。歳大いに饑え、人相食む、留守別之傑詰むるを諱み、鹿卿人を食む者を掩捕するを命じ、之を市に屍す。又奏して真徳秀が漕と為りし時錢を撥して以て振給を助けしを援く、報いず。遂に本司の積米三千余石を出し半価を減じて以て糶き、及び抵当庫の息を減じ、緡錢一万七千を出して以て貧民に予え、居民を勧めて遺孩を収めしめ、日ごとに錢米を給し、活く所数百人。宴集楽を用いず。

会に岳珂当塗を守り、茶塩を制置し、自ら利を興すを詭とし、横斂百出し、商旅行かず、国計反って初めに屈す。命有りて鹿卿之を覈せしむ、吏争いて竄匿す。鹿卿其の期限を寛め、躬自ら鉤考し、尽く其の実を得。珂貪刻の吏を辟置し、告訐を開いて以て民を罔し、其の財を没し、民李士賢稻二千石有り、之を囚すること半歳。鹿卿悉く縱捨して而して其の余分を以てすことを勧む、皆感泣して命に奉ず。珂罷め、鹿卿を以て太平を兼領せしめ、仍暫く茶塩事を提挙せしむ。苛征を弛め、米石・蕪湖の両務の蘆税を蠲す。江東諸郡飛蝗天を蔽い、当塗の境に入る、鹿卿香を露し黙祷す、忽ち飄風大いに起り、蝗悉く淮を度る。之傑密かに鹿卿を移して浙東提点刑獄と為すを請い、直秘閣を加え兼ねて常平を提挙せしむ。鹿卿浮塩・経界・鹼地を罷むるを言い、先ず相家の築く所を撤し、就捕する者自ら言う、「我は相府の人なり。」と。鹿卿曰く、「法を行わんとすれば必ず貴近より始む。」卒に法の如く論ず。丞相史弥遠の弟温州を通判し、韓世忠家の宝玩を利し、之を籍す、鹿卿其の官を削るを奏す。

初めに、鹿卿は衢州推官の馮惟説に檄を飛ばして婺州の獄事を決せしめた。惟説は元来廉潔公平であり、到着すると曲直を弁別し、長く拘禁されていた者を釈放した。豪族はその行いを快く思わず、郷里の者が言路(諫言の道)に居合わせたので、弾劾を依頼した。州は印紙(官吏の勤務評定書)を求めると、惟説は笑って言った、「これでもまだ官に仕えることができようか」と。自ら詩を印紙に題して去った。衢州の鄭逢辰は誤って推薦したことを、鹿卿は使者を委任するのが不適当であったことを、相次いで自ら弾劾し、且つ互いにその詩を和した。御史は二人を兼ねて弾劾し罷免した。泉州の知事に及んで、贛州に改めたが、いずれも辞退した。浙西提点刑獄、江淮都大坑冶に遷ったが、いずれも病気を理由に固辞し、遂に玉局観を主管した。召還された時もまた辞退し、直宝章閣・寧国府知事に改め、江東常平を提挙したが、また辞退した。

淳祐三年、右司として召されたが、なお辞退した。丞相杜範が書を送って言った、「直道が容れられず、人をして節を打たしむ。君が出仕しないのは、果たして馮惟説のためか。惟説の行く末にはやがて天命があるであろう」と。鹿卿はようやく出仕した。太府少卿兼右司に抜擢された。入朝して対し、国本の安定、紀綱の正し、規模の確立を請い、「時事は艱難多く、人心は揺らぎ易い。独力で重責を担う臣もなく、節義を守る士もいない。願わくは早く大計を決せられよ」と。上は嘉納した。中書門下省検正諸房公事を兼ね、崇政殿説書を兼ねた。一年余りして、吏部侍郎を権兼した。時に、執政に兵と財を分治させようとの議があったが、鹿卿は執議して不可とした。病気を理由に祠官を乞い、右文殿修撰・平江府知事兼発運副使に遷った。力を尽くして祠官を乞うと、上は丞相に命じて引き留めさせた。兵部侍郎を権召したが、固辞した。上は丞相に書を送らせて招いた。鹿卿が至ると、また君子小人について極言し、当世の急務に切実であった。国子祭酒を兼ね、礼部侍郎を権兼し、同修国史を兼ね、実録院同修撰を兼ね、侍講を兼ね、給事中を権兼した。鹿卿は言った、「瑣闥(給事中)の職は問わざる所なく、近年は命令が下っても給事中が知ることができない。旧制に復することを請う」と。従われた。

上の眷遇は深く篤かったが、妬む者も次第に多くなった。偽の上疏を撰んで鹿卿に託して流布させた者がおり、宰相から百執事に至るまで歴々と誹謗した。鹿卿は初め知らず、遂に上面前で力強く弁明し、因みに去ることを乞うた。上は言った、「去れば、奸人の計に中るであろう」と。臨安府に命じて根拠を捕らえさせたが、事は権勢のある者に連なり、獄は完結に及ばなかった。礼部侍郎に遷った。累次上疏して老齢を理由に退くことを告げ、宝章閣待制・寧国府知事を授けられたが、引退を願う上疏を五度上奏し、許されず、鴻禧観を提挙し、遂に致仕した。華文閣待制に進んだ。卒去し、遺表が聞こえ、四官を追贈された。

鹿卿は家に居ては孝友であり、喜怒を顔に出さず、恩も怨みも共に消し去り、宗族や郷党は各々その心を得て喜んだ。官に居ては廉潔で倹約し清峻であり、毫髪も妄りに取らず、一軒の家屋は僅かに風雨を凌ぐのみであった。著書に『泉谷文集』、奏議、講義、『塩楮議政稿』、『歴官対越集』があり、手編で『漢唐文類』、『文苑菁華』を編み、諡は「清正」である。

趙逢龍

趙逢龍、字は応甫、慶元府鄞県の人である。刻苦して自ら修め、学問は広博で純粋実質を重んじた。嘉定十六年の進士に及第した。国子正、太学博士を授かり、興国・信・衢・衡・袁の五州の知事を歴任し、広東・湖南・福建の常平を提挙した。官に着く毎に、役所が例によって供応の設備を設けると、全て撤去するよう命じ、日々野菜の食事を整え、公署に座り、事が起これば直ちに面と向かって問い決裁した。政治は寛恕を務め、撫で諭すには哀れみの情を持ち、一貫して天理と民の倫理を説き、民はそれ故に欺くに忍びなかった。官にある時は常禄の外には、一介のものも取らなかった。民の賦税に滞納があれば、全て代わって納入した。特に荒政に心を砕き、余剰を平糴の元手とした。将作監に遷り、宗正少卿兼侍講に拝された。凡そ道徳性命の蘊奥、礼楽刑政の事柄を、縷々と上に開陳した。上疏奏上は甚だ多かったが、草稿は全て焼き棄てた。八十八歳で家にて終えた。

逢龍は家に居て道を講じ、四方から遊学する者は皆、大官や名士であった。丞相葉夢鼎が慶元府の判官として出向した時、弟子の礼を修め、常に師の門が狭陋であると言い、その隣家を買い取って拡充しようとした。逢龍は言った、「隣里は粗く安んじている。一旦驚かせ騒がせれば、彼らは強いて従うとしても、我が心に愧じることがないと言えようか」と。逢龍は嗜欲が少なく、名声を好まず、官歴は長かったが、淡泊として富貴の味を知らなかった。或る人が子孫を豊かにする方法を問うと、逢龍は笑って言った、「我は子孫の学問品行が進まないことを憂え、その飢え寒さを患わないのだ」と。

趙汝騰

趙汝騰、字は茂実、宗室の子である。福州に居住した。宝慶二年の進士。歴任して礼部・兵部架閣を主管する官に差し遣わされ、籍田令に遷り、館職に召し試され、秘書省正字を授かり、校書郎に昇進し、尋いで秘書郎兼史館校勘に昇進した。輪対して、節用はまず乗輿(天子の車駕)と宮掖(宮中)から始めるべきと進言した。玉牒所検討官を兼ね、直煥章閣・温州知事となり、直徽猷閣・江東提点刑獄に進み、また直宝文閣に進み、婺州知事に差し遣わされた。召されて宮闕に赴き、起居舎人に遷り、中書舎人を権兼し、起居郎に昇進し、時に暫く吏部侍郎を権兼し、国史編修・実録検討を兼ね、同修国史・実録院同修撰を兼ね、侍講を兼ね、吏部侍郎兼侍講に遷り、工部尚書兼権中書舎人を権兼し、皆同修撰を兼ねたが、左司諫陳垓の論劾により罷免された。礼部尚書兼給事中として召され、国史・実録院修撰を兼ねた。入奏して言った、「前後の奸諛の臣は、善を傷つけ賢を害し、自ら高官要職を得るが、陛下にとって何の益があり、聖徳を深く損なうことになるか。利を興す臣は、東を移して西に就き、宮禁に順い適い、自ら谿壑の飽くことなき欲を遂げるが、陛下にとって何の益があり、国脈を深く傷つけることになるか。然らば陛下が群小に私恵を施す心は、止めることができるであろう」と。また言った、「陛下には君子を用いる名はあれど、君子を用いる実はない」と。

直学士院を兼ね、翰林学士兼知制誥に拝され、侍読を兼ねた。故郷に帰ることを辞し、累次召されたが、力を尽くして辞退し、龍図閣学士・紹興府知事・浙東安撫使となった。宮闕に召し出され、端明殿学士・佑神観提挙となり、翰林学士承旨を兼ね、泉州知事・南外宗正事知事となり、再び佑神観提挙兼侍読となった。翰林学士承旨を兼ねた。景定二年、卒去し、遺表が上ると、特に四官を追贈された。

孫夢観

孫夢觀、字は守叔、慶元府慈溪の人なり。宝慶二年の進士。桂陽軍教授・浙西提挙司幹弁公事に調じ、差遣にて吏部架閣文字を主管し、武学諭となれり。輪対にて言う、「人主は憚る所あるを容れず、殊に玩ぶ所あるを容るべからず。憚れば言有りと雖も容れず、玩べば其の言を容るると雖も用ふること能はざるなり」と。力を外任を請うて、添差通判厳州となり、崇道観を主管し、召されて武学博士・太常寺丞兼諸王宮大小学教授となり、大宗正丞兼屯田郎官・将作少監となれり。嘉興府を知府し、旧班の儘に右司郎官・将作監を兼ぬ。転対にて極言す、「風憲の地に、十八の疏を以て一の竦を攻むる有りと聞かず。封駁の司に、三舍人の制を草せずと肯はざる有りと聞かず。道揆明らかならず、法守乱れ滋し、天下の権将に寄する所有らんとし、而して倒持の患作らん」と。当路の者滋に悦ばず。出でて泉州を知府し提挙市舶を兼ね、寧国府に改めて知府す。逋負を蠲め賦を減じ、算なき泛入の者は尽く公帑に籍す。戸部官を遣わして賦を督むること星火の若く急なり、郡を挙げて皇駭し、計を知る莫し。夢観曰く、「吾は寧ろ官を委ねて去らん、病民して留まるに毋んぞ寧からん」と。力を祠を丐ひ、且つ将に府印を以て所遣の官に牒せんとす、所遣の官聞きて夜遁す。他日夢観寧国を去るに、人の之を言ふに之が為に流涕す。

丞相董槐召し還され、帝江東の廉吏を問う、槐首めて夢観を以て対ふ、帝悦び、乃ち司農少卿兼資善堂賛読に遷す。輪対にて謂ふ、「今内外の臣、陛下を恃みて各其の私を遂るるに、陛下独り一も恃む可き無し、寒心と為す可し」と。次に論ず、「郡国は当に斯の民の為に計るべく、朝廷は当に郡国の為に計るべし。大臣に命じて応に前に主計の臣の州県の利を奪ひて版曹に帰せしむる所の者を、復た所属に帰せしむるを乞ふ、庶幾くば郡国一分の寛を蒙らば、則ち斯の民も亦一分の賜を受くべし」と。帝其の言を善しとす。太府卿・宗正少卿に遷り、給事中・起居舎人・起居郎を兼ぬ。八たび章を上りて辞免し、監察御史呉燧の論に依り罷められ、直龍図閣と祠を与へられ、秘閣修撰・江淮等路提点鋳銭司公事を授かる。甫く官に至りて、即ち復た召されて起居郎兼侍右侍郎・給事中兼賛読となり、国子祭酒を兼ね、権吏部侍郎となれり。奏事に抗論益々切にして、寵賂彰はれ、仁賢逝き、貨財偏に聚まるを以て言と為し、且つ謂ふ、「相を易へざる前は、敝政固より少からず、相を易へたる後も、敝政亦自ら若し」と。廷に在るの士皆之を危ぶむ。夢観曰く、「吾一布衣を以て上恩を蒙り此に至る、軀を捐つと雖も以て報ゆる無し、利鈍は計ふる所に非ざるなり」と。

力を補外を求めて、集英殿修撰を以て建寧府を知府す。租税を蠲め、刑罰を省み、郡人徐清叟・蔡抗以て古循吏の風有りと為す。民夢に従者甚だ郡に多き有り、祠山神を迎ふるに、出でて之を視れば則ち夢観なり。俄にして夢観疾を得、口授して遺表を為し、規諫を忘れず、遂に卒す。帝悼惜すること久しく、賻銀帛三百を賜ふ。夢観退然として衣に勝へざるが若し、然れども義の当に行ふ所は、奮往直前にす。其の敗屋数間に居り、布衣蔬食して、而して名節を重んずと云ふ。

洪天錫

洪天錫、字は君疇、泉州晉江の人なり。宝慶二年の進士。広州司法を授かる。長吏僚属を待つに盛気を以てす、天錫糾正する所多し。内艱に丁し、喪を免れて、潮州司理に調ず。勢家民田を奪ふ、天錫守に言ひて、之を還す。

帥方大琮真州判官に辟し、幕府に留置す。秩を改めて古田県を知府す。郷飲酒礼を行ふ。邑劇にして、牒訴猥りに多し、天錫剖決して留難無し。王邸の勢に倚りて人を殺す者有り、之を誅して少も貸さず。建寧府通判に調ず。大水に、擅に常平倉を発して之を振ふ。諸司糧料院に擢げられ、監察御史兼説書を拝す。累疏して言ふ、「天下の患三つ有り、宦官なり、外戚なり、小人なり」と。董宋臣・謝堂・厲文翁を劾す、理宗力を文翁を護る、天錫又言ふ、「文翁を斥けざれば、必ず王府の累と為らん」と。上呉燧をして再三宣諭せしむ、天錫力争して謂ふ、「貴幸姦を作し科を犯す、根柢蟠固なり、乃ち遅回護惜して、法を以て縄せんと欲せず、勢焰愈々張り、紀綱愈々壊れ、異時に禍成れば、之を治めんと欲すと雖も得可からざるなり」と。上又御札を出だし、天錫をして疏を易へしめ、自ら戒飭せんと欲す。天錫又言ふ、「古より姦人は怙に憑ると雖も、其の心未だ人主の知るを畏れざるは無し、苟くも之を知りて止むるに戒飭を以てせば、則ち憑怙愈々張り、反って知らざるが若くは為らざるなり」と。章五たび上り、関を出でて罪を待つ。詔して二人已に命を改め、宋臣続いて之を処すとす。天錫言ふ、「臣留まらば則ち宋臣去り、宋臣留まらば則ち臣当に斥かるべし、願はくは早く裁断を賜へ」と。月を越えて、天土を雨ふ、天錫其の異を以て蒙と為し、力を陰陽君子小人の辨ふる所以を言ひ、又内司の修するの民害と為す者を言ふ。

広東提点刑獄に改任されたが、五度辞退した。翌年、潭州知州として起用され、久しくしてようやく官に赴いた。盗賊を鎮め、先賢を尊び、一年を経ずして大いに治まった。直宝謨閣となり、広東転運判官に遷り、疑わしい獄事を裁決し、貪婪な官吏を弾劾し、財賦を治めること、すべて法があった。秘書監兼侍講として召されたが、耳が聞こえないことを理由に辞退し、秘閣修撰・福建転運副使に昇進したが、また辞退した。度宗が即位すると、侍御史兼侍読として召されたが、累次辞退したが、許されず、赴任の途上、監察御史張桂が弾劾して罷免させた。そこで上疏して、民を苦しめる五つの事柄について対処したいと述べた。それは公田、関子、銀綱、塩鈔、賦役である。また言った。「朝廷に厳しく畏れ憚る士がいなければ、どうして奸謀を止められようか。事に遇って敢えて諫める臣がいなければ、どうして大節に臨めようか。人物は疎らで、気力は萎え、隠れて怠け己を惜しむ者は多く、身を忘れて国に殉ずる者は少ない。」工部侍郎兼直学士院に進み、顕文閣待制・湖南安撫使・潭州知州を加えられ、潭州に改任されたが、いずれも力強く辞退した。

また翌年、福建安撫使に改任されたが、力強く辞退したが、許されなかった。亭戸が塩を買わされて家を破り身を滅ぼす者があり、天錫がまずこれを罷めたので、民は仏事を行って報いた。荔枝の貢納を罷めた。刑部尚書として召されたが、詔により憲守の臣が催促して行かぬ日はなく、起ち上がらなかった。久しくして、顕文閣直学士に進み、太平興国宮を提挙したが、三度御札を下して催促され、また力強く辞退した。一年を経て、華文閣直学士に進み、引き続き宮観の任にあり、まもなく致仕し、端明殿学士を加えられ、一官を転じた。病が重篤となり、遺表を草して君相を戒めた。上は震悼し、特に正議大夫を贈り、「文毅」と諡した。

天錫は言行に準則があり、官に在っては清廉で節操があり、事に臨んでは是非を曲げることがなかった。著した奏議、《経筵講義》、《進故事》、《通祀輯略》、《味言発墨》、《陽巖文集》がある。

黄師雍

黄師雍、字は子敬、福州の人。幼少時に黄𠏉に師事して学んだ。太学に入る。宝慶二年、進士に挙げられた。詔により楚州の官属となった。盗賊の白刃の衝に出るも、畏れず怯まなかった。李全の反状は既に露わになっており、師雍は密かに忠義軍別部都統の時青と結んでこれを図ったが、謀が漏れ、全は青を殺したが、師雍は動じず、全も害を加えなかった。任期が満ち、朝廷の評議で褒め異例の扱いを受けたが、師雍は史弥遠の門を出ることを恥じて、彼に会いに行かなかった。婺州教授に転じ、学政はすべて呂祖謙を手本とした。李完勉、趙必愿、趙汝談が皆彼を推薦した。

師雍は徐僑に清望があることを慕い、謁見しようとしたが、ちょうど彼に召命があったので、師雍は言った。「今は行くべきではない。」僑はこれを聞いて賢しとし、朝廷に至り、その学問が最も優れていると上聞し、宗勉が政府に在って、丞相喬行簡に力説したので、行簡は既に朝除を与えることを承諾した。師雍は書を送って行簡に会い、老いて帰るよう勧めたので、行簡は喜ばず、宗勉の請願は遂に阻まれた。

遂州の龍溪県知事となり、転運使王伯大がその県を最上と上奏した。行簡が罷免され、宗勉と史嵩之が宰相に入ると、師雍を審察として召したが、到着する前に宗勉が卒去した。嵩之は師雍を引き留め、密かに親しみの意を示したが、師雍は受け入れなかった。糧料院に遷ると、また言った。「料院は相府に近く、それで君を処遇するのだ。」師雍もまた受け入れなかった。嵩之が単独で宰相となり、権勢が次第に盛んになると、上下は禍を恐れ、その奸を発する者はいなかった。博士劉応起がまず上疏して嵩之を論じ、帝は感ずるところがあり、嵩之を追い出そうと考えた。師雍は応起と仲が良かったので、嵩之は師雍がそばで操っていると疑い、御史梅杞に師雍を攻撃させ、興化軍知軍に差し出すが、すぐに奪い、邵武軍知軍に改めた。応起が監察御史となると、師雍は宗正寺簿に遷り、まもなく監察御史に任じられた。まず上疏して金淵の官位を削り、外に居住させるよう請うた。再び上疏して趙綸、項容孫、史肎之を排斥した。嵩之が喪に服し終えると、正言李昴英と殿中侍御史章琰が共に上疏して彼を追放するよう請うたので、師雍もまた上疏して論列し、帝は感ずるところがあり、その日のうちに詔を下して致仕を命じた。権直舎人院劉克莊が詞頭を封還し、嵩之に宰臣が国を去る故事のように貼職を与えるよう請うたので、遂に金紫光禄大夫・観文殿学士を守って致仕することとなった。議者は言った。「大夫は官である。観文は職である。元の降下した御筆にはただ『官を守る』とあり、『本官職』の辞はない。観文の命は、克庄がこれを開いたのだ。邪に朋び顧望する、赦すべからず。」師雍は遂に克庄を弾劾し、事に臨んで身を失い義を犯したとして、居官を免じ、琰もまた継いで克庄を弾劾し、師雍はまた嵩之の家僕張叔儀を籍没するよう請うたが、いずれも従われた。

間もなく、昴英が臨安尹趙与𥲅及び執政を弾劾し、琰もまた執政を弾劾したので、帝は昴英に怒り琰にも及んだ。鄭寀が隙に乗じて琰、昴英を弾劾し、また同列を唆して再び上疏させ、昴英を某に属させ、琰を師雍に属させた。師雍は毅然として従わず、ただ葉閶こそ与𥲅の腹心であると撃った。琰、昴英が国を去ると、寀はそこで周坦、葉大有を推薦して台に入れ、まず程公許、江万里を弾劾したので、善類は日に日に危うくなった。一月も経たぬうちに、坦が参政呉潜を攻めて去らせ、陳垓が監察御史となった。時に寀、与𥲅、坦、垓、大有が一つに合し、師雍は孤立した。寀は彼を特に憎み、師雍を去らせる方法を考えたが、得られず、四人を招いて共に謀った。ちょうど大旱があり言を求めたので、応じる者は多く寀、坦らを災いの原因として指摘し、牟子才、李伯玉、盧鉞の言葉は特に峻烈であった。坦らは偽って匿名の書を作り、三士を誣告したので、師雍は御前で弁明し、「匿名の書は条令で禁じられており、公論ではない。どうして御前に至ったのか分からない。」と言い、その偽造の跡を暴いた。ちょうど鉞が上疏して師雍を称賛したので、寀は鉞が師雍に附いているとし、帝は聞き入れず、師雍を左司諫に抜擢した。

間もなく、寀が政府に入ると、謝方叔、趙汝騰がその奸を上疏したので、寀は遂に罷免されて去った。師雍は丞相鄭清之と昔同舎であったが、劉用行、魏峴を弾劾したのは皆清之の親戚故旧であったので、清之は快く思わなかった。坦は喜んで言った。「彼を去らせる方法を得た。」その妻を遣わして日々清之の妻のもとに行かせ、讒言して言った。「彼が用行、峴を去らせたのは、丞相を去らせる始まりです。」帝が師雍を侍御史にしようとすると、清之は言った。「そうなれば、臣は留まれません。」起居舎人兼侍講に遷し、すぐに力強く去ることを請うた。清之はなお師雍が少し譲ることを望んだが、師雍は言った。「私は全人たらんと欲する。」終に屈しなかった。数か月後、坦は遂に師雍及び高斯得を弾劾して共に罷免させた。久しくして、直宝文閣を以て祠を奉じたが、陳垓がまた同列を唆してこれを止めさせた。清之が卒去すると、師雍を左史として起用し、既にして江西転運使に改め、礼部侍郎に遷ったが、命令が下った時に江西の官舎で卒去した。

師雍は簡素で淡泊、寡欲であり、静かで厚く節操があり、言葉は口に出さぬようであったが、邪正の弁別は甚だ明らかで、外物を軽んずること甚だしく、故に広く公論を採り、官に当たって行動し、名節を愛護して、師友に愧じることがなかったという。

徐元𤇍

徐元𤇍、字は仁伯、信州上饒の人。幼少より聡明で悟りが早く、書を誦すること日数千言、常に深く思索を凝らした。陳文蔚が鉛山で講書していると聞き、これは朱熹の門人であるので、師事しに行った。後に真徳秀に師事した。紹定五年、進士及第した。鎮東軍節度判官庁公事に簽書した。

嘉熙二年(1238年)、召されて秘書省正字となり、校書郎に遷った。否泰・剥復の理を奏上し、それに因んで右轄(右丞相)の職が久しく空位であることについて、骨鯁の老臣で世を担うに足る者でなければ軽々しく任ずべきではないと述べた。また、皇子の竑には後継者を立てるべきこと及び早期の太子冊立を論じ、早く大計を定めるよう請うた。当時、諫官の蔣峴が竑の後継立ての説を力強く排撃していたため、遂に外任を強く請うたが、許されず、直ちに謁告して帰郷し、祠禄を乞うた。上奏は十二回に及んだ。三年、著作佐郎兼兵部郎官に遷ったが、病気を理由に辞退した。安吉州知州に差遣されたが、辞退した。行在に召されて奏事するよう命じられたが、辞意を一層固くした。

淳祐元年(1241年)、南剣州知州に差遣された。峡陽で賊徒が蜂起した際には、首魁八人を捕らえて斬り、残りは釈放して問わなかった。父老が互いに語り合って言うには、「侯(長官)が来られなかったら、我々は魚肉の憂き目に遭っていたであろう」と。郡には延平書院があり、郡の博士を率いて諸生と会し、自ら講説した。民の訴訟は、大抵呼び出して道理をもって教化諭し、多くは感悦して去った。租税の納入は各自の概量に任せ、郡中はその徳を慕った。母の喪に服して官を去る時、民衆が道を遮って跪き留めた。喪が明けた後、侍左郎官に任じられた。敵国と外患について言上し、宗廟社稷を心に留めるよう請うた。また、銭塘(臨安)に駐蹕して以来、驕奢が甚だしく、文を抑えて質を尚ぶべきであると述べた。崇政殿説書を兼ね、毎回講義に入る前には必ず斎戒した。かつて仁宗の詔勅で内降の指揮があっても執奏を許し、台諫に察挙の故事を戒めとしたことを進言し、その言葉は多く宮中のことを切に論じた。将作監に拝され、楊雄の『大匠箴』を進呈し、古の節倹を陳べた。当時、長く雨が降らなかったため、転対の機会に『洪範』の天人感応の理及び古今の災難に遇って修省した実例を極論し、言葉は一層忠懇であった。

丞相の史嵩之が父の喪に服した時、詔により起復(喪中での復職)の命があったが、朝廷内外で敢えて言う者なく、ただ学校(太学生)のみが宮門を叩いて力強く争った。徐元杰がちょうど輪対の番であった時、言上した。「臣が先日経筵に侍し、大臣史嵩之の起復について聖上より親しくお尋ねを受けた際、臣は陛下が命令を出すのが軽すぎ、人言を沮抑すべきではないと奏上しました。陛下は陛下の礼を尽くされ、大臣は大臣の礼を尽くすべきであり、玉音でお許しを賜った以上、臣がまたどうして口を挟めましょう。今、学校(太学生)の上書を見ると、人を感歎させます。そもそも大臣は聖賢の書を読み、天命を畏れ、人言を畏れるものです。家庭の変故(喪)に際しては、哀戚をもって喪を終え、礼制には常軌があります。臣はひそかに推し量りますに、どうして突然、送死という大事を忽せにし、軽々しく出仕して清議を犯すようなことがありましょうか。先日、朝廷で命令が出されるのが容易であったことについて、士論が凛々としているのは、実に陛下が四海の綱常の主であり、大臣はみずから道揆を任じ、綱常を扶け翊ける者であるからです。大臣に起復の命があったと聞いて以来、その避就がどうなるかは未だ知りませんが、父母を持つ心ある者はみな声を失って涙を流さずにはいられません。これは果たして何故そうなるのでしょうか。人心天理は、誰が実は持っていないことがありましょうか。このことに言及するのは、隣国に聞かせるべきことではありません。陛下はどうして悔悟なさらず、大臣はどうして堅忍なさらないのでしょうか。臣が懇々と忠を納れるのは、敢えて誹謗中傷するためではなく、ただ陛下のために民彝を愛惜し、大臣のために名節を愛惜するだけです。」上疏が出ると、朝野に伝誦され、帝もその忠亮を察知し、常にゆったりと天下の事を訪ね、経筵では以前の議論を一層展開した。間もなく、夜に御筆が降り、四名の不才な台諫官を罷免し、起復の命令は遂に中止された。

元老旧徳の臣が次々に召し出され、徐元杰もまた右司郎官を兼ね、太常少卿に拝され、給事中・国子祭酒を兼ね、権中書舎人となった。杜範が宰相に入ると、再び軍国事について議論に加わるよう招かれた。書をしたためることは数十通に及ぶことも厭わず、言うところは皆朝廷の大政や辺境遠方への慮りであった。書を作成する毎に宗廟社稷の隠れた憂いの箇所に至ると、筆を置いて涙を揮い、書が出来上がるとすぐに草稿を削り、子弟であっても知る者はなかった。六月朔日(一日)、侍立の番に当たったが、急病を理由に謁告した。特に工部侍郎に拝され、すぐに納官(辞職)を乞うた。詔により一官を転じて致仕とした。夜の四更(午前二時頃)に、遂に卒去した。

先だって、徐元杰が死なない前の一日、ちょうど左丞相の范鍾を謁見して帰った後、また察院の劉応起に手紙を送り、翌日の奏事を約束していた。その夜、俄かに高熱が激しく起こり、翌朝朝廷に出仕できず、夜になると煩悶が一層甚だしく、指の爪が突然裂け、そのまま死んだ。朝紳及び三学(太学・武学・宗学)の諸生が弔問に訪れ、互いに顔を見合わせ驚き泣いた。訃報が伝わると、帝は震悼して言われた。「徐元杰は先日まだ侍立していたのに、病気と聞かなかった。どうして死がこんなに急なのか。」直ちに中使を遣わして状況を問わせ、賻贈として銀絹二百を数えた。間もなく太学の諸生が宮門に伏して、彼が中毒死したと訴え、かつ言うには、「昔、小人が君子を陥れる時は、せいぜい蛮煙瘴雨の地で自死させる程度であったが、今や蛮煙瘴雨は領海ではなく、陛下の朝廷にあるのです。奮発して睿断を下し、典刑を大いに明らかにされることを望みます。」そこで三学の諸生が相次いで宮門を叩いて冤罪を訴え、台諫も交互に上疏して論奏し、監学官もまた一致して朝廷に上聞した。二人の子、直諒と直方は、恤典(弔慰金)を賞金に充てるよう請うた。旨があり、臨安府に医者の孫志寧及び常日頃給使していた者を逮捕して審理させた。後にまた大理寺に変更し、詔により殿中侍御史の鄭寀がこれを監督し、かつ告発者に賞として緡銭十万、初品の官を与えることを募った。大理寺正の黄濤は伏暑の証(夏の熱病)であると言い、二人の子は黄濤を斬って先臣に謝罪するよう請うた。しかし、獄事は結局決着がつかず、海内の人士はこれを傷み、帝も悼み慕って止まず、官田五百畝と緡銭五千をその家に給し、諡を「忠愍」と賜った。

孫子秀

孫子秀、字は元実、越州餘姚県の人。紹定五年(1232年)の進士。呉県主簿に調任された。「水仙太保」と称する妖人がおり、郡守の王遂がこれを取り締まらせようとしたが、敢えて行く者なく、子秀は奮然として行くことを請い、その小屋を焼き、像を砕き、その者を太湖に沈め、「お前の水仙という名を実現してやろう」と言った。妖術は遂に絶えた。日々学宮に赴き諸生と義理を討論した。淮東総領所中酒庫に辟召され、宜興県の囲田租の督催を命じられた。帰還後、水害を報告すると、総領は憤って言った。「軍餉に関わることだというのに、敢えてこのようにするとは、一身のことを考えないのか。」子秀は言った。「どうして一身のことを考えられましょう。寧ろ罪を得て去るだけです。」と力強く争い、遂に(租の)免除が認められた。

滁州教授に転任し、着任途中で金壇県知県に改任された。保伍を厳しくし、経界を整理し、義役を結成し、全てを民の休息に合わせた。訴訟する者には牒状を持たせて自ら里正の所へ行き、隣人証人と共に来てから処理するようにし、事実でない者は往々にして自ら牒状を隠した。ただ豪強で狡猾な者が罪を犯せば、痛く縄墨にかけ少しも容赦しなかった。淮地の民が流入してくること万を数えたが、救済撫恤し、小屋を建て、田を調査して耕させ、その才能ある者を抜擢して分治させた。学校を崇め、教化を明らかにし、郷飲酒礼を行った。国初の茅山書院の旧跡を訪ね、これを新たにし、遠方より遊学する士を待った。

慶元府通判となり、浙東塩事を主管した。先だって、諸塩場で塩百袋ごとに五袋を附加し、「五厘塩」と称していたが、間もなく提挙官がこれを正数としたため、民は非常に困窮した。子秀は上奏してこれを免除した。行在諸司糧料院の幹辦に辟召された。衢州で賊徒が蜂起し、水が城郭に迫った。朝廷は郡守を選び、子秀に任ずることとした。子秀は、賊を捕らえる責務は有司にあるとはいえ、必ずや土地の風俗に習熟した者でなければ、その依拠する所を断ち切り、奔突するのを抑えられないと考えた。そこで保伍を立て、土豪を選抜任用し、まず常山県令の陳謙亨や寓居の士人周還淳らの防禦の労を表彰し、かつ朝廷に上表して優れた賞を加えるよう請うた。人心はこれにより競って奮い立った。間もなく、賊が再び江山・玉山の間に起こったが、わずか七日で、衆が四十八人を捕らえて来た。子秀の任期が終わるまで、賊は再び動かず、水害の及んだ所には橋梁を修築し、堰や水門を修理し、城壁を補修し、水源を浚渫し、民家の修繕を助け、銭米で救済し、隣接地域との米穀取引を招き通した。秋苗(秋の租税)一万五千石余りの免除を奏上し、その夏税を全て代納し、公私一切の負債を免除した。崩れた渓流や砂で埋まった田については、朝廷に請願して永久にその税を免除し、民は蘇生した。

南渡の後、孔子の裔孫は衢州に寓居し、詔して衢州の学を以って暫定的に祭祀を奉ぜしめたが、因循して年を踰え、専ら饗する廟がなかった。子秀は廃仏寺を撤去し、闕里の如き家廟を立てることを奏上した。既に成ると、釈菜の礼を行った。政績最上により太常丞に遷り、言事により罷免された。未だ幾ばくもせず、大宗正丞に遷り、金部郎官に遷った。金部は旧来、州郡に必ず辨じ難き泛数を責め、吏は顛倒して姦欺を為した。子秀は日夜討論し、冊を給して転遞して其の輸を均しくし、人々は債が身に切なるが如く、一字を遣わさずして輸は足りた。将作監・淮東総領に遷り、辞した。寧国府知事に改め、辞した。左司兼右司となり、再び金部を兼ねた。丞相丁大全と議が合わず、国を去った。吉州知事を差し遣わされ、尋ねて官を鐫されて罷免された。

時に嬖幸の朱熠が凡そ三度子秀を弾劾した。開慶元年、浙西提挙常平となった。先に、大全が私人を以って之を為し、亭民の塩本銭を尽く奪って、献羨の数を充てた。足らざれば、則ち籍を估して虚に攤した。一路騷動し、亭民多く流亡した。子秀は前政の塩本銭五十余万貫を還し、華亭茶塩分司官を省くことを奏し、衡量の非法に多く取る者を定め、ここに於いて流徙して復業した。浙西提点刑獄に移り常州知事を兼ねた。淮兵数百人が貢院に浮寓し、給餉時ならず、死者相継ぎ、子秀は朝に請い、名を忠衛軍と創め、砦を置いて居らしめ、上供を截撥して之を贍った。盗が呉大椿を劫き、前使者は其の事を諱り、大椿が兄の子焴と財を争い、自ら其の家を劫いたと誣い、大椿の官を追毀し、千里外に編置し、徙黥して其の臧獲にした。子秀は廉じて実を得、乃ち悉く平反した。尋ねて郡を兼ねれば行部便ならずとし、請いを得て専ら臬事に当たった。貪を撃ち廉を挙げ、風采凜然たり、犴獄清し。

大理少卿に進み、直華文閣・浙東提点刑獄兼婺州知事となった。婺州には勢家多く、田阡陌に連なりて賦税なき者有り、子秀は悉く其の田を覈し、諸牘に書し、勢家は以って己を厲しむとし、言者を嗾して之を罷めしめた。尋ねて湖南転運副使に遷り、迎養便ならずと辞し、浙西提点刑獄に移った。子秀は暑を冒して周行し八郡三十九県、獄之が為に清し。安吉州に婦人有り、人其の夫と二僕を殺せりと訴え、郡守賞万緡を捐て、逮繫考掠十余人、終に実を得ること莫し。子秀密かに之を訪うれば、乃ち婦人が宗室の子に賂して其の夫を殺さしめ、僕之を救うを、並びに殺して以って口を滅せしなり。一問して即ち誅に伏し、又偽会の連逮する者を釈し、遠近神明と称す。

初め、獄訟の滞るは、皆期限の応ぜざるに由る。使者下車し、或いは親しく書して州県に違う勿れと戒むるも、而して違うこと故の如く、則ち之を怒る。之を怒り、匣を改め、又違えば則ち又重ねて之を怒り、再三に至る。而して専卒四出し、巡尉等司限を繳し匣を抱き費貲せず、則ち其の勢必ず違う。子秀は州県と約し、限に到る者は径に庭下に詣り、吏要索すべからず、亦違う者無し。其の後、迴圈総匣を創めて各州の主管官に属し、凡そ管内の諸司報応は皆併せて匣に入れ、一日一遣し、公移は則ち又総べて実を匣に以って往く。ここに於いて事大小無く、纖悉畢く具わり、而して風聞する者は反って専卒州県を淩ぐと謂い、劾して之を罷めしむ。子秀笑うのみ。江東提点刑獄に移る。度宗即位し、太常少卿兼右司に進み、尋ねて臨安府知事を兼ね、言事により罷免された。婺州知事として起用され、卒す。

子秀は少くして上虞の劉漢弼に従い遊び、磊落英発、掌を抵て極談し、神采飛動す。人と交わり久しくして益々親しく、死生患難、營救して力を遺さず。一善を聞けば則ち手録す。

李伯玉

李伯玉、字は純甫、饒州餘干の人。端平二年、進士第二。初め名は誠、理宗の潜諱に犯すを以って今の名に更む。観察推官・太学正兼荘文府教授・太学博士を授かる。召されて館職を試み、歴ねて貴戚大臣を詆し、直声暴に起つ。校書郎に改め、奏言して台評が上意に迎合し、尤焴・楊棟・盧鉞の三人を論じて罷め、忠邪辨ぜず、同じく罷むるを乞うと。帝允さず。監察御史陳垓連ねて劾して之を罷めしむ。

雲台祠に奉じ、南康軍知事を差し遣わされ、著作佐郎兼沂靖恵王府教授に遷り、考功郎官を兼ね、尚書右司員外郎を兼ねる。故事を引きて台臣蕭泰来を弾劾し、著作郎に遷る。帝怒り、両官を降して罷叙す。復た邵武軍知事となり、湖北提点刑獄に改め、福建に移り、尚右郎官に遷る。侍御史何夢然、伯玉は乃ち呉潜の死党なりと論じ、奉祀し、福建提挙常平・淮西転運判官に遷る。召されて経筵に赴き、考功郎兼太子侍読に遷り、太府少卿・秘書少監・起居郎・工部侍郎を拝す。

度宗即位し、侍講を兼ね、権礼部侍郎、升めて同修国史・実録院同修撰を兼ねる。賈似道嘗て百官を集めて事を議し、忽ち厲声して曰く、「諸君は似道の拔擢に非ざれば、安んぞ此に到らんや」と。衆默然として敢えて応ずる者莫し。伯玉答えて曰く、「伯玉は殿試第二名、平章拔擢せずとも、伯玉の地步も亦以って此に到るべし」と。似道は容を改むるも而して怒色有り。既に退きて、即ち帰を治む。顕文閣待制を以って隆興府知事となり、右正言黄万石論じて罷めしむ。召されて入覲し、権礼部尚書兼侍読に擢でる。似道益々国柄を専にし、帝は伯玉が旧学を以って、之を臥内に進め、相対して泣下し、以って大政に参ぜんと欲す。似道益々之を忌み、而して伯玉尋ねて病卒す。

伯玉は嘗て童子科を罷むるを請い、以って人材を成し風俗を厚くする所以に非ずと為す。趙汝騰は嘗て八士を薦め、各々品目有り、伯玉に于ては曰く「銅山鉄壁」と。朝に立ちての風節、大較之に似たり。著す所に『斛峰集』有り。

論じて曰く、陸持之の学は以って其の家を承くるに足るも、不幸にして蚤く喪い、徐鹿卿の論議は明達にして、克く施すに政有り、趙逢龍の清操、汝騰の撓まず、孫夢観の平直、洪天錫・黄師雍・徐元𤇍・李伯玉は皆悉心直言し、権勢を避けず、孫子秀の政績著しく見え、皆当時の傑出なる云う。