吳泳
順番に対応して言う、「願わくは陛下、心を養い以て清明に、己を約し以て恭儉に、徳を進め以て剛毅に発強せられ、旨酒を以て善言に違わず、嬖御を以て荘士を嫉まず、靡曼の色を以て天性を伐たざらんことを。漸を杜ぎ微を防ぎ、源を澄まし本を正し、君身の自立する所先ず其の地有らしめよ。然る後に留むる所の聰明を移して以て世務を経め、捨つる所の精神を移して以て国政を強くし、用うる所の心力を移して以て疲民を恤み、当に省すべき浮費を移して以て辺上久戍の士を犒うべし。則ち惟に災変を消弭し、姦兇を攘除し、寇賊を殄滅するのみならず、是を以て久安長治の策を建つるも可なり」と。
他日入朝して対し、また言う、「往哲の遺言を誦し、謀国の上策を進むるは、実に『内に政事を修む』と曰うに過ぎず。然れども所謂内修は、但だ車馬器械を謂うのみに非ず。袞職の闕は、修むべしと当にす。官師の曠は、修むべしと当にす。出令の清かならざる所は、修むべしと当にす。本兵の地厳ならざるは、修むべしと当にす。直言敢諫の未だ其の職を得ざるは、修むべしと当にす。折衝禦侮の堪えざるは、修むべしと当にす。陛下上に退きて修め、百官有司下に交わりて修む。朝廷既に正しく、人心既に附せば、然る後に国人に申警し、軍実を精討し、内修外攘を合して一事と為し、神州赤縣皆吾が指顧の中に在らん」と。
火災あり、詔に応じて封事を上ぐるに曰く、「京城の災は、京城の見る所なり。四方に敗有らば、陛下亦た得て之を見るや。夫れ惨なるは兵に莫く、而るに連年戢えず、則ち火に甚だし。酷なるは吏に莫く、而るに頻歳横征す、則ち火より猛し。閩の民は盗に困み、浙の民は水に困み、蜀の民は兵に困む。横斂の源既に上に澄まず、包苴の根又下に絶えず。譬えば彼の壞木の如く、疾用いて枝無く、而して内涸の形見る」と。
秘書少監に遷り、権中書舎人を兼ね、尋いで起居舎人に遷り権吏部侍郎を兼ね、直学士院を兼ねる。疏を上て言う、「世の治体を識り時幾を憂うる者は、以て天運将に変じ、世道将に降り、国論将に更り、正人将に引去りて旧人将に登用せられんとすと為す。初意を執持し、正論を封植するは、茲れ傾頹の時を砥柱するに非ずや。若し廉通敏慧なる者をして専ら財賦を治めしめ、淑慎曉暢なる者をして専ら軍旅を御せしめ、明清敬謹なる者をして専ら刑獄を典とせしめ、経術通明なる者をして訓典を道わしめ、文雅麗則なる者をして訓辞を作らしめ、秉節堅厲なる者をして風憲を備えしめ、奉法循理なる者をして牧守に居らしめ、剛直有守なる者は其の引去るを聴かず、恬退無競なる者は其の里居を聴かず、功名慷慨なる者は之を祠庭に佚せず、言論闓爽なる者は之を外服に置かず、才に随い器に使い、各其の分を尽くさしむれば、則ち短長小大、安くか適用せざる者有らんや」と。又た政体を謹み、道揆を正し、臣節を厲し、軍務を綜ぶる四事を言う。
権刑部尚書となり玉牒の修撰を兼ね、宝章閣直学士として寧国府を知り、太平興国宮を提挙し、宝章閣学士に進み、差遣せられて温州を知る。官に赴く途上、温州の饑饉を聞き、処州に至り、租科の減免を乞い、饑者四万八千余を救い、夏税十二万余を放免し、秋苗二万八千余を放免し、病者にはまた薬を与う。事聞こえ、衣帯鞍馬を賜う。泉州知事に改め、言事により罷免さる。著す所に『鶴林集』有り。
徐範
徐範、字は彜父、福州候官の人なり。少にして孤となり、刻苦して授徒し以て母を養う。兄と同く郷挙に挙げられ、太学に入り、未だ嘗て疾言遽色を以て人に先んぜず。
丞相趙汝愚位を去り、祭酒李祥・博士楊簡之を論救す、俱に斥逐せらる。同舎生議りて閽を叩き上書せんとし、書既に具わる。閩の士も亦た署名す。忽ち夜伝う、韓侂胄言者を重辟に置かんとすと。閩の士怖れ、名を削るを請う。範の友も亦た之を止むるを勧む。範慨然として曰く、「業すでに名を書す。尚何ぞ変えん」と。書奏す。侂胄果たして大いに怒り、其の国是を扇搖すと謂い、各五百里に送り編管す。範は臨海に謫せられ、兄と帰り同く往き、禁錮すること十余年。
外任を乞い、添差通判として沢州に任ず。湖湘大旱あり、振救多く裨益す。邵武軍を知り、尋いで行在に召し赴く。言う、「功利は道德に若かず、刑罰は恩厚に若かず、雑伯は純王に若かず、異端は儒術に若かず、諛佞は直諫に若かず、便嬖は正人に若かず、奢侈は詩書に若かず、盤遊は節儉に若かず、玩好は宵衣旰食に若かず、窮黷は偃兵息民に若かず。是非両立し、明白易見なり。幾微の際、大體に関わる。積習移らずば、治道舛し」と。国子監丞に遷り、太常丞に徙り、権都官郎官となり、秘書丞・著作郎・起居郎に改め、国史編修・実録検討を兼ねる。朝奉大夫を以て致仕す。卒し、朝請大夫・集英殿修撰を贈らる。
李韶
李韶は、字を元善といい、李彌遜の曾孫である。父の李文饒は台州司理参軍となり、常に人に言うには、「私は司法に携わり多くの陰徳を積んだから、後に栄える者がいるであろう」と。李韶は五歳にして、梅花の賦を作ることができた。嘉定四年、兄の李寧とともに進士に挙げられた。南雄州教授に任じられた。広州で文書を校閲したとき、当時国政を執る者の親戚故旧が私的に自分の文章を報告してきたが、李韶はこれを退けた。慶元に転任した。丞相史彌遠が士人を推薦して学職に充てようとしたが、李韶はこれに与しなかった。袁燮が学宮の射圃を求めて自分の住居を広げようとしたが、これにも与せず、袁燮はこれによってかえって李韶を敬重した。
廉潔勤勉として推薦され、主管三省架閣文字に昇進し、太学正に転じ、太学博士に改めた。上封事をして済王趙竑の獄を諫め、また書を以て史彌遠を諭し、言葉は甚だ懇切であった。また太学生の寗式を救おうとして、学官に逆らった。外任を請い、泉州通判を添差された。郡守の遊九功は平素清廉厳格であったが、李韶だけを特に顧みた。道州知州に改めた。周惇頤の故居を修復し、その子孫を学宮に登録し、かつその家を援助した。紹定四年、行都で災害があり、李韶は詔に応じて時事を論じた。福建市舶提挙となった。星変があった際、また詔に応じて時事を論じた。入朝して国子監丞となり、泉州知州兼市舶に改めた。
時に魏了翁が督師を罷められ祠官にされたので、李韶は弁護して言うには、「了翁は志を刻んで学問に励むことほぼ四十年、忠言讜論は国史に載せられ、去就出処には全て本末がある。端平の時に召還され、事を論ずること益々切実であった。去年の督府派遣は、体制が統一されず、識者は予めその無功を知っていた。了翁は君命に迫られ、努力して奔走したが、大きな過失はなく、襄州の変事は肘腋から出たもので、了翁の罪とすべきではない。枢密院への召還は、間もなく鎮守に改められ、鎮守に改めて間もなく、祠官にせよとの旨があった。国家が四十年にわたって人材を収拾して、燁然として称えられる者が了翁のような者は何人いるか。願わくは速やかに召還し、台輔の地位に処せられたい」と。また陳洵益を弾劾上奏し、刑余の腐夫で、粗く文墨に通じ、掃除の賤隸であった者が、威権を窃み弄んでいるとして、洵益を外祠にすべきことを請うた。女冠の呉知古が宮中で権勢を招き賄賂を受け取っていることを弾劾し、禁庭から出すべきであるとした。帝は怒り、李韶は笏を殿陛に還して帰郷を請うた。ちょうど明堂の祭祀があり、雷電があったので、二相を免じ、李韶は権工部侍郎・正言となり、起居舎人に昇進した。再び洵益と知古について上疏したが、聞き入れられなかった。新たな任命を辞退したが、許されなかった。詔に応じて上封事し、数千言に及んだ。帝は左右に諭して言うには、「李韶は真に朕を愛し国を憂うる心がある」と。凡そ三度辞退したが聞き入れられず、生死をかけて哀願して去ろうとした。帝は顔を曇らせて李韶に言うには、「どうか朕のために留まれ」と。退いて、再び累次上疏して外任を請い、集英殿修撰として漳州知州となり、廉潔公平と称された。朝廷が部使者を諸路に分遣して官楮の価値を引き上げようとしたとき、李韶は上疏してその弊害を極言した。
四年、詔して赴闕を促したが、辞退し、戸部侍郎に昇進した。再び辞退したが、許されなかった。五年、礼部侍郎に改めたが、辞退し、詔して許さず、所在の州軍に護送して闕下に至らせるよう命じた。史嵩之が人を遣わして李韶に言うには、「済邸・宮媼・国本のことを言うな」と。李韶は答えなかった。上疏して言うには、「臣は淳熙初年に生まれ育ち、なお江を渡った盛時の民生の富楽、吏治の修め挙げられた様子を見ることができた。事変が少し異なり、政が私門に帰し、紹定の末には、元気は尽きた。端平の更化は、陛下の初意は豈に甚だ美しくなかったか。国事は日々悪化し、その人々は或いは罷められ或いは死に、陛下のためにその責任を負う者は無い。ここまで論じ究めれば、天下の事は豈に陛下が自ら任じて力を尽くすべきではないか。《左氏伝》に史墨の言を載せている:『魯公は世々その失に従い、季氏は世々その勤めを修めた』と。蓋し由来する所は漸くであると言う。陛下が臨御されて久しく、宜しく深く思い熟慮し、威福は自分から出し、誰が盗むことができようか。これを捨てて為さず、悠悠と時を過ごし怠けていれば、乃ち《左氏伝》の所謂世々その失に従う者に近い」と。蓋し世卿のことを以て史嵩之を風刺したのである。上疏が出ると、史嵩之は快く思わず、言うには、「《春秋》を治める者は言葉が毒である」と。当時、杜範もまた列に在り、二人は廉潔正直で、中外は「李杜」と称した。
淳祐五年、韶は召しを受けたが、再び辞退した。詔して本州通判に赴闕を勧勉させた。礼部侍郎に遷り、三度辞退し、権礼部尚書に遷り、また三度辞退したが、許されなかった。入見し、上疏して言うには、「陛下は正権を改めて授け、時望ある者を並び進用された。天下誰か大治を冀って首を長くしない者があろうか。臣ひそかに窺うに、恐らくは猶前日の如きであろう。君子と小人とは、倫類を異にする。ただ近功を計らず、小利を急がざるにありて、然る後に君子自らを顕わすことができ、過ちを聞くことを悪まず、言を尽くすことを諱まざるにありて、然る後に小人自らを託する所なし。然らずんば、治乱安危は、手を反すが如きものとなろう」。
また言うには、「陛下が謀る所は嬪妃近習であり、信ずる所は貴戚近親である。『政和令』を按ずるに、『諸国の国戚・命婦若しくは女冠・尼にして、大礼等によらずして輒ち内に入ることを求むる者は、台諫に察知弾奏を許す』とある。乞う、禁廷の籍を厳しく申し明かし、以て天下の謗りを絶たれんことを。世臣貴戚を牽連して並び進めるのは、何ぞ人に不広を示すこと甚だしきや。仮に才をもって選ぶと謂うも、他時万一非才の者これに援りて以て進を求むるあらんには、将に何を以て之を抑えんや」。
また言うには、「今、土地日々に蹙まる者は未だ反せず、人民喪敗する者は未だ復せず、兵財は止むこと此の数にあり。旦旦として之を理めれば、州県を椎剥し、里閭を朘削するに過ぎない。仮令韓信・白起復活し、桑弘羊・孔僅継出するも、能く陛下の為に兵を強くし財を理むるも、治乱安危の数に何の補いがあろう。徒らに国家に不韙の名を負わせるのみ。況んや議論紛然として、賢者は苟も容れられて去り、不肖者は反って是に因りて以て其身を媒し、忠言至計行われず、浅功末利を是れ計る。此れ君子小人進退の機括の係る所、何ぞ甚だしきを思わざるや」。
また言うには、「道路に聞く、徳音下る毎に、昆虫草木咸く潤沢を被るも、恩独り一つの枯胔に及ばず。威断出ずれば、公卿大夫より後先を敢えてせざる者莫しも、令独り一つの老媼に行われず。大小の臣労を積み爵を受くるは、皆以て世に延ぶるを得るも、而るに国儲君副(皇太子)、社稷の頼りて霊長たる者は、独り早く計らずして豫め定めず」。また上疏して還任を乞うたが、許されなかった。兼侍読を拝命し、三度辞退したが、許されず。また三度上疏して帰郷を乞うた。
時に游似が人望をもって用いられたが、然し之を牽制する者あり。韶上奏して云う、「人主の職は一相を論ずるのみ。その人に非ざれば軽々しく授けず。始めて之を授くるや已むを得ざるが如くし、既にして乃ち之を疑い、反って之をして為す所あることを得ざらしむるは、是れ豈に専任責成の体たるべけんや。言う所の事は必ずしも聴かず、用うる所の人は必ずしも従わず、疑畏憂沮して、権之を去る」。翰林学士兼知制誥・兼侍読に擢でられたが、拝命せず。詔して許さず、また三度辞退したが、許されなかった。
七年、韶は十度上疏して去ることを乞い、端明殿学士として玉隆宮提挙に任じられた。時に直学士院応㒡・中書舎人趙汝騰が疏を奉りて韶を内祠に留めんとしたが、報いられず。韶は陛辞に際し、疏を上すること甚だ剴切なり。其の略に曰く、「彼此相視て、其の志を行う莫く、而して庶政を剸裁し、人物を品量するは、相与に冥冥の中に運らざるを得ず、他に人あるを免れず。是れ中書の手は束ね可く、而して台諫の口は鈐す可し。朝廷の事力為すべく、枚挙す可からざるも、皆其の責を任ずる者莫し。甚だ四方に示し、体統を一にする所以に非ず」。万寿観提挙兼侍読に改められたが、即ち国門を出で、力辞し、道次三衢にて、詔して命を受くるを促した。再び辞退し、仍って玉隆宮に奉祠した。
八年、召しを受けたが、辞退し、許されず。再び辞退し、旧職のまま万寿観に奉祠し兼侍読、守臣に礼を以て行を趣えしむ。又辞退したが、許されず。九年、仍って玉隆宮に奉祠した。十一年、祠禄満期となり再任された。卒す。年七十五。韶は忠厚純実、平穏簡淡、声色貨利に溺れず、黙坐一室、門に雑賓無しと云う。
王邁
王邁、字は貫之、興化軍仙遊県の人。嘉定十年の進士、潭州観察推官となる。母の喪に服し、浙西安撫司幹官に調じられた。廷試を考査するに、詳定官王元春は私的に親しい者を高第に置かんと欲し、邁は其の謬りを顕わに摘発した。元春怒り、諫官李知孝を嗾けて邁が殿廬にて語声高かりしと誣うせしめ、免官させた。
帝が再び喬行簡を丞相とした。あるいは史嵩之が再び用いられるとの風聞があった。史邁は封事を上奏して言った、「天下の宰相を、天下と共に謀らずに決めるのは、必ずや冥々の中にこれを為す者がいるからである。かつ旧相は奸邪で刻薄、天下の知るところであり、再び用いられれば、君子は一網打尽にされてしまうであろう」。また呉知古・陳洵益が政事を撓乱していると述べた。輪対において言った、「君は天を欺くべからず、臣は君を欺くべからず、権臣を厚くし同気を薄くするは、天を欺くことの著しいものである」。史邁は疏遠の身から帝に謁見し、臆することなく隠さずに言ったので、帝は顔色を改めた。言事官が史邁が辺境の事を論じて事実を過ぎたと弾劾した。魏了翁が経筵に侍し、帝にその去るを惜しむと述べたので、通判漳州に改めた。禋祀の際に雷雨があり、史邁は詔に応じて言った、「天と寧考(寧宗)の怒りは久しい。酒色が病を招き、妖艶が性を伐つ。初秋より十数日を過ぎても、政務を顧みず、道路には憂い疑う声がある。これが天と寧考の怒る所以である。趙竑(済王)は覆滅し、趙竑の子は絶え、史弥遠・韓侂冑は尊寵され、綱紀は廃れ法は乱れ、上に行えば下はこれを倣い、京卒や外兵が狂悖を繰り返し起こす。これが天と寧考の怒る所以である。陛下はこれを思わず、ただ漢代の災異により三公を免ずる故事を用いようとし、廷臣を顧みても、誰に託すべきか知らない。遠く崔與之を相としようとするが、臣は恐れる、與之が至らず、政柄が他に属することを。これが世道の否泰、君子小人の進退の機である」。そこで台官李大同が、史邁が徳秀・了翁及び洪咨夔と交結して虚誉を収めたと上言し、一階を削られ免官となった。蔣峴が史邁の前の上疏が倫紀を妄りに論じたと弾劾し、言うべからざる罪に坐すべきと請い、二階を削られた。久しくして、再び通判贛州となり、福州・建康府・信州に改められたが、いずれも赴任しなかった。淳祐に改元すると、通判吉州となった。右正言江萬里が袖に上疏を隠して御前で言った、「史邁の才は惜しむべきであり、すぐに召さなければ、老いて及ばぬという嘆きがあろう」。帝はもっともだと思った。これを阻む者がいたので、遂に止まった。
邵武軍知軍となった。郡において、旱魃により直言を求める詔があり、史邁は駅伝で七事を奏上し、龍翔宮を撤去し、済王の後を立てることを先とした。時に鄭清之が再び丞相となり、左司郎官として召されたが、力辞した。直祕閣・提点広東刑獄となったが、これも辞し、侍右郎官に改められたが、諫官焦炳炎の論奏により罷免された。祠官を与えられ、卒去し、司農少卿を贈られた。
史邁は学問と詞章をもって身を起こし、特に世務に練達していた。易祓が潭州の人々に戒めて言った、「この君には逆らうべからず」。勢家が不法に占拠した田数百畝を奪い返して民に還した。李宗勉がかつて史邁を論じたことがあったが、史邁が近世の宰輔を評する時、宗勉に至っては必ず「賢相」と言った。徐清叟は史邁と意見を異にしていたが、史邁は晚年に詔に応じて、清叟は人望があり用いるべきだと述べた。世はその公正さに服したという。
史弥鞏
史弥鞏、字は南叔、史弥遠の従弟である。好学で記憶力が強かった。紹熙四年、太学に入り、上舎に昇った。時に史弥遠が国政を執り、寄理のため試験を受けられず、十年間抑圧された。嘉定十年、ようやく進士に及第した。
提点江東刑獄として出向した。年に大旱があり、饒州・信州・南康軍の三郡が大いに凶作となった。救荒は人を得るに在りと考え、戸を五等に分け、甲乙を等第に従って救済米を売り、丙は自給、丁は買い入れ、戊は救済とし、全活した者は口数にして百十四万余りであった。徽州休寧県に淮民三十余人が、戈を操って人財を劫略し、逮捕された。法曹は人を傷つけなかったとして論罪した。弥鞏は言った、「兵器を持って盗賊を働き、これを許せば、盗賊を増やすことになる」。情状の重い者数人を推して誅し、一道は平穏となった。饒州の兵籍が数を超過し、供給が続かなかったので、冗兵を淘汰するよう請うた。命令が下ると、営門で大いに騒いだ。そこで諸校を呼んで言った、「淘汰が不当なら、自ら陳述することを許す。敢えて騒ぐ者は斬る」。皆叩頭して罪を請うたので、諸営は平穏となり、糧秣の給与も大いに省けた。召されて司封郎中となったが、兄の子嵩之が丞相となったので、嫌疑を避けて祠官を乞い、直華文閣・婺州知州となった。時に年は既に七十で、祠官を乞い、提挙崇禧観となった。郷里に居ては時事を口にすることは絶った。卒去、年八十。真徳秀はかつて言った、「史南叔は宗袞(史弥遠)の門に登ること三十年、未仕の時はその寄理により、既に仕えてはその排擯を受け、皎然として汚れず、このようであった」。
陳塤
嘉定十年(1217年)、進士に及第した。黄州教授に任じられた。父の喪に服し、憔悴して礼制を考究し、時祭・儀制・祭器を定めて実行した。ふと嘆息して言うには、「俗学は学ぶに足らぬ」と。そこで楊簡に師事し、苦労を厭わず粗食に甘んじ、昼夜怠ることなく学んだ。喪が明けると、史弥遠が国政を執っていたが、塤に言った、「省試の首席(省元)は数千人の中の魁であり、殿試の首席(状元)は百人の中の魁であるが、恩典の格は省元が上である。省元の初任を堂除の教授とするのは、君から始めてはどうか」。塤は辞退して言った、「廟堂(政府)のご配慮は大変ありがたいことですが、この措置を塤から始めますと、嫌疑を受けるのではありますまいか」。そのまま吏部の注擬により処州教授に任じられて赴任し、士論は彼を高く評価した。
理宗が即位し、詔を下して直言を求めた。塤は封事を上奏して言った、「上に憂い危惧の心があれば、下に安泰の象が現れ、これが世道の隆盛する由縁である。上に安泰の心があれば、下に憂い危惧の象が現れ、これが世道の汚れる由縁である。故に天下のために憂えれば、楽しみはそれに従う。天下を以て楽しみとすれば、憂いはそれに従う。天下を有つ者は、ただ憂楽の機微を善く審らかにするに在るのみである。今日の弊は、人心の合わざるより大なるはなく、紀綱の振わざるより大なるはなく、風俗の淳からざるより大なるはなく、国は疲弊し人は怠惰で救い難い。願わくは陛下、正しさを以てこれを養い、実を以てこれを励まし、明を以てこれに臨み、武を以てこれを断ぜられんことを」。かくして塤の直諫の名声は初めて天下に著しくなった。郡守の高似孫と合わず、職を去り、帰郷して母に仕えた。召されて太学録となり、一年余りしてようやく着任した。転対にて言上した、「天道は親しみを偏さず、民心は保ち難し。日月は過ぎ去り、事の機会は留まらない。始めは鋭くとも、久しければ怠る。始めは明らかでも、久しければ昏くなる。垂拱して成果を仰ぐのは、盛んな心ではあるが、これに因って有為の志を負うべきではない。時に従って晦ますのは、至徳ではあるが、これに因って時機に乗ずる機会を失うべきではない」。上はこれを嘉納した。太学博士に遷り、宗正寺主簿を兼ねた。都城が火災に遭うと、塤は歩いて玉牒所に赴き、玉牒を全て石室に蔵めた。詔により官を進められたが、受けなかった。詔に応じて言上し、天の非常の怒りに応ずるには、非常の挙動が当たるべきであるとし、災害を招いた原因を歴陳した。また呉潜・汪泰亨が史弥遠に上書し、馮榯・王虎の救火に尽力せざる罪を正し、臨安府知事林介・両浙転運使趙汝憚の処罰を行うよう求めた。人々は皆その勇気を称えた。
太常博士に遷った。袁燮の諡号を議する際、ただ一人でこれを執り行い、他の者は皆筆を閣いた。そこで嘆息して言った、「幽王・厲王は百世経ても改まらない。諡には美悪があるのだから、墓を諂うことと同列に扱えるものか」。折しも朱端常の子が父の諡を乞うた。塤は言った、「端常は台諫の職にあっては善類を追い払い、地方長官としてはいちじるしい収奪に務めた。悪諡を得て、後世を戒めるべきである」。そこで「栄愿」と諡した。この議が公になると、宰相以下皆粛然として顔色を改めた。考功郎の陳耆が再審議し、宦官の陳洵益が改諡を望んだが、塤は終に答えなかった。
李全が楚州で異心を抱いていた。塤は書を送って史弥遠に告げた、「痛く警戒悔い改め、衆心を挽回せよ。早く典刑を正し、権綱を粛正せよ。黜陟を大いに明らかにし、政体を整えよ」。聞き入れられなかった。間もなく、賈貴妃が後宮に入ると、塤はまた言上した、「君側の媚び諂う者を除き、主君の徳を正されんことを。天下の公論に従い、万政を一新されんことを」。弥遠は塤を召して問うた、「我が甥(塤)は名声を好むのか」。塤は答えた、「名声を好むことは、孟子が取らぬところです。三代の上に士を求めるなら、その名声を好むことを恐れます。三代の下に士を求めるなら、その名声を好まぬことを恐れるのです」。強いて外任を願い出て、添差通判嘉興府となった。弥遠が没すると、召されて枢密院編修官となった。入対し、まず言った、「天下の安危は宰相に在る。南渡以来、機会を屡々失った。秦檜の死後、任じられたのは万俟卨・沈該のみ。韓侂冑の死後、任じられたのは史弥遠のみ。これが今日慎むべき点である」。次に言った、「内廷では宦官の禁令を厳しくすべきであり、外廷では台諫の選任を厳しくすべきである」。そこで陳洵益が密かに中傷し、監察御史王定が塤を弾劾した。出て常州知事となり、衢州知事に改めた。
賊寇は吉日を選んで漈坑より発し、江山県に沿って東進しようとした。塤は間者を捕らえ、すぐに人を遣わして牛と酒を贈り諭した、「汝らは良民とならずして劫盗となり、耒耜に事とせずして甲兵を弄ぶ。今、汝らに牛酒を与えるのは、汝らが改業することを望むからである。さもなくば、赦さず殺す」。そこで自首する者が日に百数を数え、武器を献じた者には厚く報酬した。賊はついに潰散した。提点都大坑冶に改められ、福建転運判官に転じた。侍御史の蔣峴が常に『中庸』について論じ合ったが意見が合わず、また塤を弾劾した。主管崇道観となった。一年余りして、浙西提点刑獄に遷った。旱魃の年、盗賊が起こり、捕らえて斬った。盗賊は恐れて去った。安吉州の俞垓は丞相李宗勉と姻戚関係にあり、勢力を恃んで財貨を貪った。塤は自ら臨んで取り調べた。弓手の戴福は潘丙を捕らえた功績で副尉となり、宗勉は彼を腹心として頼ったが、横暴に貪り害をなした。塤が着任すると、福は風聞を聞いて逃げ去った。塤は宗勉に書を送った、「塤が福を処罰するのは、丞相に報いるためです。伝聞によれば、福は実は丞相の下へ逃げたとのことですが、賢明な輔弼たる者がこのようなことをすべきではありません」。宗勉は返書して答えた、「福の罪悪は極まり、君でなければ治められぬ。宗勉は不才ではあるが、奸兇を庇うことは敢えてしない。どうか君の留意を願う」。豫章で福を捕らえると、衆は皆殺そうとした。塤は言った、「そうすれば刑が濫る」。そこで市で墨刑を加えて晒し、牢獄に囚えた。吏部侍郎として召された。国子司業となると、諸生は皆互いに慶賀し、良師を得たと思った。
間もなく、玉牒検討・国史編修・実録修撰を兼ねたが、史館の兼職を辞した。領土の狭まること、民生の艱難、国計の窮乏を歴陳し、「既に経理し挽回する素地が無いならば、ただ感動して転移させる策があるのみで、必ずその根本となるものがある。根本とは何か。この心の妙を回復することである」。また言った、「泰平安泰に慣れて安逸楽しむ者は、安泰に慣れて危険を招く道理がある。艱難危険に因って戒め恐れる者は、危険を慮って安泰を図る機会がある。用捨を明らかにして紀綱を振るい、自ら節倹して冗濫を淘汰し、奸妄を退けて将士を励まし、貴近を抑えて糶糴を寛げ、郷社を結んで窃発を防ぎ、増創を罷めて根本を培うべきである。今、任用は混殽し、香草と臭草が同じ器に入れられ、賢者が同じ群れにいることを恥じるに至っている」。諫議大夫の金淵がこれを見て怒った。塤は外任を補うことを乞うたが、許されなかった。また和糴の功による転官の賞賜を辞退したが、これも許されなかった。温州知事に任じられたが、着任せず、上奏の故に罷免された。
塤は家に居て、時に泉石をもって自ら楽しみ、四方の学者が続々と訪れた。財を軽んじ義に急き、道理に明らかで洞察が透徹しており、一言を発すれば、終身守り通すことができた。ある日突然臥病につき、子に命じて書架の書を引いて占わせた。『呂祖謙文集』を得て、その中の「墓志」を見ると、「祖謙は丁巳の年に生まれ、辛丑の年に没す」とあった。塤は言った、「奇なるかな!我は慶元丁巳(1197年)に生まれ、今年は辛丑(1241年)である。これで一甲子(60年)だ。我は死ぬであろう」。
子に蒙がいる。
蒙は十八歳の時、万言の上書をして国事を論じた。呉子良はこれを奇異とし、娘を妻として与えた。太府寺主簿となった。入対し、極言して賈似道が宰相であった時の国政の欠失を論じたが、文章が多いのでここには記さない。淮東総領となったが、似道に貪汙の罪を誣告され、建昌軍の主簿に貶謫された。家財を没収したが、青氈(質素な毛氈)があるのみであった。徳祐初年(1275年)、礼部侍郎の李玨が彼の罪を赦して任用するよう請うた。刑部侍郎として召されたが、赴任せず、没した。
趙與𥲅
李大同
李大同、字は從仲、婺州東陽の人なり。嘉定十六年の進士。歴官して祕書丞兼崇政殿說書となり、右正言兼侍講を拝す。疏を上りて言う、「趙・冀の分野に、乃ち熒惑の填星を犯すの變あり、則ち我が師の出づるは、豈に長慮して却顧すべき者無からんや。故に臣願わくは陛下、星文を以て小異と為して或いは忽に加うること勿らんことを。一話一語、一政一事、必ず以て天心を格し災變を弭する有るを求めんことを。進兵攻討に至りては、尤も謹重を切にす。」太常少卿兼國史編修・實錄檢討に遷り、侍講を兼ね、権として侍立修注官を兼ね、起居郎に遷り、殿中侍御史を拝し、権として刑部侍郎兼同修國史・實錄院同修撰となり、吏部侍郎に選ばれ、工部尚書に進み、寶謨閣直學士を以て平江府の知府となり、江州太平興國宮を提挙す。致仕を乞うも、許さず、後に家にて卒す。
黃㽦
黃㽦、字は子耕、隆興分寧の人なり。嘗て郭雍・朱熹に從い學び、熹深く之を期し、而して㽦も亦た道を以て自ら任じ、反復論辯し、必ず疑う所無くして然る後止む。太學進士に挙げられ、瑞昌主簿となり、文思院を監し、盧陽縣の知縣となる。五溪の獠は獷悍なり、㽦詩を為りて之を諭すに、獠感悅し、公事有るも敢えて違わず。
處州の通判となり、經制錢・總制錢に額有りて錢無し、俗に殿最綱と號す。㽦十年中の賦を成したるを會し之を酌み取り、逋負を閣免し、錢額鈞等しくして、獨り最を以て聞こゆ。官告院を主管し、大理寺簿・軍器監丞となる。歳餘にして三遷すれども、㽦乃ち樂しまず。間いて西湖を行き、慨然として曰く、「我昔南・北山に在りしときは、一水一石、自ら題品せざるは無かりしに、今復た情味無し、何ぞや」と。
外任を丐い、台州の知州となる。謝良佐の子孫の台に居る者、既に播越流落す。㽦之を民間に求め、収めて之を教う。夙夜勤苦し、先ず勧めて後に禁じ、訟牒銷縮し、郡平治と稱す。濟糶倉を為り、抵當庫を為り、民の棲寄暴露する者を葬るに棺千五百を為り、養濟院を置き、又た安濟坊を創めて以て病囚を居らしむ。皆な自ら子本錢有りて、使って廢せざらしむ。故に葉適、㽦の條目を建て置くこと、民を憂うること家の如しと謂う。袁州に遷る。從弟を哭して哀しみ甚だしく、疾を得て卒す。著する所に『復齋集』有り。
楊大異
邑に峒寇有りて民を擾わす。官兵致討すれども、積年獲ること弗し。檄して大異をして往きて之を治めしむ。大異一僕を以て告身を負わしめ自ら隨い、肩輿にて賊峒に入り、尉至ると傳呼す。賊刃を露わして列を成して以て待つ。徐ろに禍福を以て諭すに、皆な地に伏して頭を叩き、過ちを改め自ら新たにせんことを願う。告身を留めて質とし、其の渠魁數輩と俱に出で降る。賞を以て吉州戶曹に遷り、廣西經幹に改め、復た盜を弭するの賞を以て、四川制置司參議官を除かる。北兵成都に入る。大異制置使丁黼に從い巷戰す。兵敗れ、身數創を被りて死す。闔門皆な難に遇う。詰旦、其の部曲竊かに往きて之を瘞す。大異復蘇し、負いて逃れ、免るることを獲る。朝奉郎に進み、石門縣を宰し、就いて溧陽の通判を除かれ、州事を攝す。皆な惠政有り。官を去るの日、老弱攀號して之を留む。大異服を易え潛かに去る。登聞鼓院の知事に擢でられ、大理寺丞に遷り、冤獄を平反すること七。召對に應じ、極めて時政の得失を言い、宰相の意に迕い、澧州の知州として出づ。理宗曰く、「是れ四川にて死節して更生せし者楊大異なるか。事を論ずること剴切にして、有用の材なり。何ぞ遽かに之を出すや」と。對えて曰く、「是の人は尤も民を治むるに長ず」と。命じて節を予け庾事を兼ねしめ、直祕閣に進め、廣東刑獄を提點し庾事を兼ねしむ。
時に常平司の逋負山積し、械繫して追索すれども、姦蠹百出す。大異之と約し、悉く縱遣し、負う者期の如く畢く輸す。吏其の姦を容るる所無し。張九齡の曲江故宅を訪い、相江書院を建て、以て九齡を祀る。廣西刑獄を提點し漕・庾の二司を兼ねることに改む。至る所姦吏屏息し、寇盜絕跡す。凡そ以て民の為に利を興し害を除くべき者は、必ず奏して行う。復た宣成書院を建て張栻・呂祖謙を祀る。廣海幅員數千里、道に遺物を拾わず、政を報ずること最と為す。未だ六十ならずして即ち致仕を丐うも、允さず。章四たび上り、祕閣修撰・太中大夫を除かれ、崇禧觀を提挙し、醴陵縣開國男、食邑三百戶、紫金魚袋を賜わる。里第に歸り、居民と異なること無し。學者之に從い、講肄諄諄、相與に經旨を發明し、理學を條析す。祠祿を食むこと二十四年、卒す。年八十二。子に霆・霖有り。霆は『忠義傳』に在り。
論ずるに、正論の天下に在るは、未だ嘗て亡びたることはない。徐範の韓侂胄に対する、呉泳・李韶・王邁の史氏に対する、皆能く回撓することなく、正色して直言す。史弥鞏に至っては則ち弥遠の弟、陳塤は其の甥なり、私親を以て天下の公論を廃せざりき。抑も孟子の所謂「寡助の至り」なる者か。趙与𥲅は揚歴最も久しく、甘んじて聚斂の臣と為る。李大同は郷人喬行簡を相と為し、薦めて起これり。黄㽦は出仕し、民を恤み賢を尊ぶを急務と為し、本を知ると謂うべし。大異の節義かくの如し、宜しく其の善政の世に著称するなり。