宋史

列傳第一百八十二 吳泳 徐範 李韶 王邁 史彌鞏 陳塤 趙與𥲅 李大同 黃㽦 楊大異

列傳第一百八十二 吳泳 徐範 李韶 王邁 史彌鞏 陳塤 趙與𥲅 李大同 黃㽦 楊大異

吳泳

原文吳泳

吳泳、字は叔永、潼川の人なり。嘉定二年の進士、歴官して軍器少監となり、行太府寺丞、行校書郎を経て、秘書丞に昇進し権司封郎官を兼ね、枢密院編修官を兼ね、著作郎に昇進し、時に暫く権直舎人院を兼ねる。

原文吳泳,字叔永,潼川人。嘉定二年進士,歷官為軍器少監,行太府寺丞,行校書郎,升祕書丞兼權司封郎官,兼樞密院編修官,升著作郎,時暫兼權直舍人院。

順番に対応して言う、「願わくは陛下、心を養い以て清明に、己を約し以て恭儉に、徳を進め以て剛毅に発強せられ、旨酒を以て善言に違わず、嬖御を以て荘士を嫉まず、靡曼の色を以て天性を伐たざらんことを。漸を杜ぎ微を防ぎ、源を澄まし本を正し、君身の自立する所先ず其の地有らしめよ。然る後に留むる所の聰明を移して以て世務を経め、捨つる所の精神を移して以て国政を強くし、用うる所の心力を移して以て疲民を恤み、当に省すべき浮費を移して以て辺上久戍の士を犒うべし。則ち惟に災変を消弭し、姦兇を攘除し、寇賊を殄滅するのみならず、是を以て久安長治の策を建つるも可なり」と。

原文輪對,言:「願陛下養心,以清明約己,以恭儉進德,以剛毅發強,毋以旨酒違善言,毋以嬖御嫉莊士,毋以靡曼之色伐天性。杜漸防微,澄源正本,使君身之所自立者先有其地。夫然後移所留之聰明以經世務,移所舍之精神以強國政,移所用之心力以恤疲民,移所當省之浮費以犒邊上久戍之士,則不惟可以消弭災變,攘除姦兇,殄滅寇賊,雖以是建久安長治之策可也。」

他日入朝して対し、また言う、「往哲の遺言を誦し、謀国の上策を進むるは、実に『内に政事を修む』と曰うに過ぎず。然れども所謂内修は、但だ車馬器械を謂うのみに非ず。袞職の闕は、修むべしと当にす。官師の曠は、修むべしと当にす。出令の清かならざる所は、修むべしと当にす。本兵の地厳ならざるは、修むべしと当にす。直言敢諫の未だ其の職を得ざるは、修むべしと当にす。折衝禦侮の堪えざるは、修むべしと当にす。陛下上に退きて修め、百官有司下に交わりて修む。朝廷既に正しく、人心既に附せば、然る後に国人に申警し、軍実を精討し、内修外攘を合して一事と為し、神州赤縣皆吾が指顧の中に在らん」と。

原文他日入對,又言:「誦往哲之遺言,進謀國之上策,實不過曰『內修政事』而已。然所謂內修者,非但車馬器械之謂也。袞職之闕,所當修也;官師之曠,所當修也;出令之所弗清,所當修也;本兵之地弗嚴,所當修也;直言敢諫之未得其職,所當修也;折衝禦侮之弗堪其任,所當修也。陛下退修於其上,百官有司交修於其下,朝廷既正,人心既附,然後申警國人,精討軍實,合內修外攘為一事,神州赤縣,皆在吾指顧中矣。」

火災あり、詔に応じて封事を上ぐるに曰く、「京城の災は、京城の見る所なり。四方に敗有らば、陛下亦た得て之を見るや。夫れ惨なるは兵に莫く、而るに連年戢えず、則ち火に甚だし。酷なるは吏に莫く、而るに頻歳横征す、則ち火より猛し。閩の民は盗に困み、浙の民は水に困み、蜀しょくの民は兵に困む。横斂の源既に上に澄まず、包苴の根又下に絶えず。譬えば彼の壞木の如く、疾用いて枝無く、而して内涸の形見る」と。

原文火災,應詔上封曰:「京城之災,京城之所見也。四方有敗,陛下亦得而見之乎?夫慘莫慘於兵也,而連年不戢,則甚於火矣。酷莫酷於吏也,而頻歲橫征,則猛於火矣。閩之民困於盜,浙之民困於水,蜀之民困於兵。橫斂之原既不澄於上,包苴之根又不絕於下。譬彼壞木,疾用無枝,而內涸之形見矣。」

秘書少監に遷り、権中書舎人を兼ね、尋いで起居舎人に遷り権吏部侍郎を兼ね、直学士院を兼ねる。疏を上て言う、「世の治体を識り時幾を憂うる者は、以て天運将に変じ、世道将に降り、国論将に更り、正人将に引去りて旧人将に登用せられんとすと為す。初意を執持し、正論を封植するは、茲れ傾頹の時を砥柱するに非ずや。若し廉通敏慧なる者をして専ら財賦を治めしめ、淑慎曉暢なる者をして専ら軍旅を御せしめ、明清敬謹なる者をして専ら刑獄を典とせしめ、経術通明なる者をして訓典を道わしめ、文雅麗則なる者をして訓辞を作らしめ、秉節堅厲なる者をして風憲を備えしめ、奉法循理なる者をして牧守に居らしめ、剛直有守なる者は其の引去るを聴かず、恬退無競なる者は其の里居を聴かず、功名慷慨なる者は之を祠庭に佚せず、言論闓爽なる者は之を外服に置かず、才に随い器に使い、各其の分を尽くさしむれば、則ち短長小大、安くか適用せざる者有らんや」と。又た政体を謹み、道揆を正し、臣節を厲し、軍務を綜ぶる四事を言う。

原文遷祕書少監,兼權中書舍人,尋遷起居舍人兼權吏部侍郎,兼直學士院。疏言:「世之識治體而憂時幾者,以為天運將變矣,世道將降矣,國論將更矣,正人將引去而舊人將登用矣。執持初意,封植正論,茲非砥柱傾頹之時乎?若使廉通敏慧者專治財賦,淑慎曉暢者專御軍旅,明清敬謹者專典刑獄,經術通明使道訓典,文雅麗則使作訓辭,秉節堅厲使備風憲,奉法循理使居牧守,剛直有守者不聽其引去,恬退無競者不聽其里居,功名慷慨者不佚之以祠庭,言論闓爽者不置之於外服,隨才器使,各盡其分,則短長小大,安有不適用者哉!」又言謹政體、正道揆、厲臣節、綜軍務四事。

権刑部尚書となり玉牒の修撰を兼ね、宝章閣直学士として寧国府を知り、太平興国宮を提挙し、宝章閣学士に進み、差遣せられて温州を知る。官に赴く途上、温州の饑饉を聞き、処州に至り、租科の減免を乞い、饑者四万八千余を救い、夏税十二万余を放免し、秋苗二万八千余を放免し、病者にはまた薬を与う。事聞こえ、衣帯鞍馬を賜う。泉州知事に改め、言事により罷免さる。著す所に『鶴林集』有り。

原文權刑部尚書兼修玉牒,以寶章閣直學士知寧國府,提舉太平興國宮,進寶章閣學士,差知溫州。赴官,道間聞溫州饑,至處州,乞蠲租科降,救饑者四萬八千有奇,放夏稅一十二萬有奇,秋苗二萬八千有奇,病者復與之藥。事聞,賜衣帶鞍馬。改知泉州,以言罷。所著有《鶴林集》。

徐範

原文徐範

徐範、字は彜父、福州候官の人なり。少にして孤となり、刻苦して授徒し以て母を養う。兄と同く郷挙に挙げられ、太学に入り、未だ嘗て疾言遽色を以て人に先んぜず。

原文徐範,字彜父,福州候官人。少孤,刻苦授徒以養母。與兄同舉於鄉,入太學,未嘗以疾言遽色先人。

丞相趙汝愚位を去り、祭酒李祥・博士楊簡之を論救す、俱に斥逐せらる。同舎生議りて閽を叩き上書せんとし、書既に具わる。閩の士も亦た署名す。忽ち夜伝う、韓侂胄言者を重辟に置かんとすと。閩の士怖れ、名を削るを請う。範の友も亦た之を止むるを勧む。範慨然として曰く、「業すでに名を書す。尚何ぞ変えん」と。書奏す。侂胄果たして大いに怒り、其の国是を扇搖すと謂い、各五百里に送り編管す。範は臨海に謫せられ、兄と帰り同く往き、禁錮すること十余年。

原文丞相趙汝愚去位,祭酒李祥、博士楊簡論救之,俱被斥逐。同舍生議叩閽上書,書已具,有閩士亦署名,忽夜傳韓侂胄將置言者重辟,閩士怖,請削名,範之友亦勸止之。範慨然曰:「業已書名矣,尚何變?」書奏,侂胄果大怒,謂其扇搖國是,各送五百里編管。範謫臨海,與兄歸同往,禁錮十餘年。

嘉定元年進士第に登る。清江県尉を授かり、江淮制置司準備差遣に辟さる。辺事紛糾に属し、営砦の子弟軍籍に募隷する者未だ涅せず、洶洶として相驚く。一夕、燭を秉て千余人を招刺し、踴躍争奮す。差遣せられ戸部架閣を主管し、太学録に改め、国子監主簿に遷る。入朝して対し、言う、「時平なれば、不急の務・無用の官、猶当に痛く裁節を加うべし。矧んや多事の秋、貴ぶ所は万民の命を全うし、一時の急を紓うに在り。独奈何其の救無きを坐視し、虚文を以て自ら蔽うや。願わくは既往の失を懲り、無用の文を廃し、一意民を養い、以て国本を培わん」と。

原文登嘉定元年進士第。授清江縣尉,辟江淮制置司準備差遣。屬邊事紛糾,營砦子弟募隸軍籍者未及涅,洶洶相驚。一夕,秉燭招刺千餘人,踴躍爭奮。差主管戶部架閣,改太學錄,遷國子監主簿。入對,言:「時平,不急之務、無用之官,猶當痛加裁節,矧多事之秋,所貴全萬民之命,紓一時之急,獨奈何坐視其無救而以虛文自蔽哉!願懲既往之失,廢無用之文,一意養民,以培國本。」

外任を乞い、添差通判として沢州に任ず。湖湘大旱あり、振救多く裨益す。邵武軍を知り、尋いで行在に召し赴く。言う、「功利は道德に若かず、刑罰は恩厚に若かず、雑伯は純王に若かず、異端は儒術に若かず、諛佞は直諫に若かず、便嬖は正人に若かず、奢侈は詩書に若かず、盤遊は節儉に若かず、玩好は宵衣旰食に若かず、窮黷は偃兵息民に若かず。是非両立し、明白易見なり。幾微の際、大體に関わる。積習移らずば、治道舛し」と。国子監丞に遷り、太常丞に徙り、権都官郎官となり、秘書丞・著作郎・起居郎に改め、国史編修・実録検討を兼ねる。朝奉大夫を以て致仕す。卒し、朝請大夫・集英殿修撰を贈らる。

原文丐外,添差通判澤州。湖湘大旱,振救多所裨益。知邵武軍,尋召赴行在,言:「功利不若道德,刑罰不若恩厚,雜伯不若純王,異端不若儒術,諛佞不若直諫,便嬖不若正人,奢侈不若詩書,盤遊不若節儉,玩好不若宵衣旰食,窮黷不若偃兵息民。是非兩立,明白易見。幾微之際,大體所關。積習不移,治道舛矣。」遷國子監丞,徙太常丞,權都官郎官,改祕書丞、著作郎、起居郎、兼國史編修、實錄檢討。以朝奉大夫致仕。卒,贈朝請大夫、集英殿修撰。

李韶

原文李韶

李韶は、字を元善といい、李彌遜の曾孫である。父の李文饒は台州司理参軍となり、常に人に言うには、「私は司法に携わり多くの陰徳を積んだから、後に栄える者がいるであろう」と。李韶は五歳にして、梅花の賦を作ることができた。嘉定四年、兄の李寧とともに進士に挙げられた。南雄州教授に任じられた。広州で文書を校閲したとき、当時国政を執る者の親戚故旧が私的に自分の文章を報告してきたが、李韶はこれを退けた。慶元に転任した。丞相史彌遠が士人を推薦して学職に充てようとしたが、李韶はこれに与しなかった。袁燮が学宮の射圃を求めて自分の住居を広げようとしたが、これにも与せず、袁燮はこれによってかえって李韶を敬重した。

原文李韶,字元善,彌遜之曾孫也。父文饒,為台州司理參軍,每謂人曰:「吾司臬多陰德,後有興者。」韶五歲,能賦梅花。嘉定四年,與其兄寧同舉進士。調南雄州教授。校文廣州,時有當國之親故私報所業,韶卻之。調慶元。丞相史彌遠薦士充學職,韶不與。袁燮求學宮射圃益其居,亦不與,燮以此更敬韶。

廉潔勤勉として推薦され、主管三省架閣文字に昇進し、太学正に転じ、太学博士に改めた。上封事をして済王趙竑の獄を諫め、また書を以て史彌遠を諭し、言葉は甚だ懇切であった。また太学生の寗式を救おうとして、学官に逆らった。外任を請い、泉州通判を添差された。郡守の遊九功は平素清廉厳格であったが、李韶だけを特に顧みた。道州知州に改めた。周惇頤の故居を修復し、その子孫を学宮に登録し、かつその家を援助した。紹定四年、行都で災害があり、李韶は詔に応じて時事を論じた。福建市舶提挙となった。星変があった際、また詔に応じて時事を論じた。入朝して国子監丞となり、泉州知州兼市舶に改めた。

原文以廉勤薦,遷主管三省架閣文字,遷太學正,改太學博士。上封事諫濟王竑獄,且以書曉彌遠,言甚懇到。又救太學生寗式,迕學官。丐外,添差通判泉州。郡守遊九功素清嚴,獨異顧韶。改知道州。葺周惇頤故居,錄其子孫於學宮,且周其家。紹定四年,行都災,韶應詔言事。提舉福建市舶。會星變,又應詔言事。入為國子監丞,改知泉州兼市舶。

端平元年、召還された。翌年、太府寺丞に転じ、都官郎官に昇進し、尚左郎官に転じた。間もなく、右正言に任ぜられた。上奏して、国事と辺防の二事を専ら丞相鄭清之と喬行簡に委ね、それぞれ責任を負わせることを請うた。兵の淘汰、財の節約および襄・蜀の辺防について論じた。また史嵩之と王遂の和戦に関する異議を論じ、結局成功しなかったので、王遂を要藩に出し、史嵩之を辺境に替えて、各々その才を尽くさせることを請うた。史宅之が袁州太守になろうとしたとき、李韶は同僚を率いて再三これを弾劾した。いずれも聞き入れられなかった。言職の解任を請い、殿中侍御史に任ぜられたが、辞退し、許されなかった。上奏して言うには、「近頃臣と同じく言職にあった者は四人で、一ヶ月も経たぬうちに徐清叟が去り、三ヶ月も経たぬうちに杜範と呉昌裔が免ぜられ、ただ臣だけがなお列に就いている。清叟はかつて『三漸』を言い、臣はその説を継ぎ、李宗勉がまたこれを継いだ。陛下は初め少しも怒らず、しかるに清叟は結局去った。それでも清叟が唱えたからだと言える。今、臣と杜範・昌裔が言うことは、未だ嘗て相表裏しなかったことはなく、二臣が御史台を出て、臣だけが留まる。これは臣の言が二臣より切実でないからか、あるいは先に二臣を去らせて臣を戒め、言うことを選んでから言わせようとするのか。清叟の言った『三漸』は、臣はなお甚だ切実でないと思う。今、国柄には衰微の兆しがあり、士気には萎靡の兆しがあり、君主の勢いには孤立の兆しがあり、宗廟社稷には危険に瀕する兆しがある。上下安きに偷み、人言を忌み諱る。この考えを改めなければ、その禍いはただ三漸だけであろうか」と。

原文端平元年,召。明年,轉太府寺丞,遷都官郎官,遷尚左郎官。未幾,拜右正言。奏乞以國事、邊防二事專委丞相鄭清之、喬行簡各任責。論汰兵、節財及襄、蜀邊防。又論史嵩之、王遂和戰異議,迄無成功,請出遂於要藩,易嵩之於邊面,使各盡其才。史宅之將守袁州,韶率同列一再劾之。俱不報。乞解言職,拜殿中侍御史,辭,不允。奏曰:「頃同臣居言職者四人,未逾月徐清叟去,未三月杜範、吳昌裔免,獨臣尚就列。清叟昨言『三漸』,臣繼其說,李宗勉又繼之,陛下初不加怒,而清叟竟去,猶曰清叟倡之也。今臣與範、昌裔言,未嘗不相表裏,二臣出臺,臣獨留,豈臣言不加切於二臣邪?抑先去二臣以警臣,使知擇而後言邪?清叟所言『三漸』,臣猶以為未甚切。今國柄有陵夷之漸,士氣有委靡之漸,主勢有孤立之漸,宗社有阽危之漸,上下偷安,以人言為諱,此意不改,其禍豈直三漸而已。」

時に魏了翁が督師を罷められ祠官にされたので、李韶は弁護して言うには、「了翁は志を刻んで学問に励むことほぼ四十年、忠言讜論は国史に載せられ、去就出処には全て本末がある。端平の時に召還され、事を論ずること益々切実であった。去年の督府派遣は、体制が統一されず、識者は予めその無功を知っていた。了翁は君命に迫られ、努力して奔走したが、大きな過失はなく、襄州の変事は肘腋から出たもので、了翁の罪とすべきではない。枢密院への召還は、間もなく鎮守に改められ、鎮守に改めて間もなく、祠官にせよとの旨があった。国家が四十年にわたって人材を収拾して、燁然として称えられる者が了翁のような者は何人いるか。願わくは速やかに召還し、台輔の地位に処せられたい」と。また陳洵益を弾劾上奏し、刑余の腐夫で、粗く文墨に通じ、掃除の賤隸であった者が、威権を窃み弄んでいるとして、洵益を外祠にすべきことを請うた。女冠の呉知古が宮中で権勢を招き賄賂を受け取っていることを弾劾し、禁庭から出すべきであるとした。帝は怒り、李韶は笏を殿陛に還して帰郷を請うた。ちょうど明堂の祭祀があり、雷電があったので、二相を免じ、李韶は権工部侍郎・正言となり、起居舎人に昇進した。再び洵益と知古について上疏したが、聞き入れられなかった。新たな任命を辞退したが、許されなかった。詔に応じて上封事し、数千言に及んだ。帝は左右に諭して言うには、「李韶は真に朕を愛し国を憂うる心がある」と。凡そ三度辞退したが聞き入れられず、生死をかけて哀願して去ろうとした。帝は顔を曇らせて李韶に言うには、「どうか朕のために留まれ」と。退いて、再び累次上疏して外任を請い、集英殿修撰として漳州知州となり、廉潔公平と称された。朝廷が部使者を諸路に分遣して官楮の価値を引き上げようとしたとき、李韶は上疏してその弊害を極言した。

原文時魏了翁罷督予祠,韶訟曰:「了翁刻志問學,幾四十年,忠言讜論,載在國史,去就出處,具有本末。端平收召,論事益切。去年督府之遣,體統不一,識者逆知其無功。了翁迫於君命,黽勉驅馳,未有大闕,襄州變出肘腋,未可以為了翁罪。樞庭之召,未幾改鎮,改鎮未久,有旨予祠。不知國家四十年來收拾人才,燁然有稱如了翁者幾人?願亟召還,處以臺輔。」又劾奏陳洵益刑餘腐夫,粗通文墨,掃除賤隸,竊弄威權,乞予洵益外祠。劾女冠吳知古在宮掖招權納賄,宜出之禁庭。帝怒,韶還笏殿陛乞歸。會祀明堂,雷電,免二相,韶權工部侍郎、正言,遷起居舍人。復疏洵益、知古,不報。辭新命,不許。應詔上封事,幾數千言。帝諭左右曰:「李韶真有愛朕憂國之心。」凡三辭不獲,以生死祈哀乞去。帝蹙額謂韶曰:「曲為朕留。」退,復累疏乞補外,以集英殿修撰知漳州,號稱廉平。朝廷分遣部使者諸路稱提官楮,韶疏極言其敝。

嘉熙二年、召還された。翌年、召還命令を取りやめるよう上疏して言うには、

原文嘉熙二年,召。明年,上疏乞寢召命云:

「端平以来、天下の患は、敵兵が毎年来寇し、和することもできず、戦うこともできないことより大きいものはなく、紙幣は日々価値が下がり、民生は流離し、物価は高騰し、遂には為すべき事が無くなった。臣は窃かに論じて、必ず上から始めなければならないと思う。陛下が粗衣粗食し、臥薪嘗胆して、上下に考えを改めさせ聞く耳を持たせ、その後ではじめて図ることができる。今、二つの患いは益々深く、たとえ忠を尽くそうとしても、他に説くべきことが無い。これが進まない第一の理由である。

原文「端平以來,天下之患,莫大於敵兵歲至,和不可,戰不能;楮券日輕,民生流離,物價踴貴,遂至事無可為。臣竊論以為必自上始,九重菲衣惡食,臥薪嘗膽,使上下改慮易聽,然後可圖。今二患益深,雖欲效忠,他莫有以為說。此其不敢進者一。

史宅之は故宰相の子で、郡守に任じられたが、外の議論は皆、引き立てる一派がこれからまた用いられると言う。故に嘗て再三論じた。今、聖断は赫然としており、用捨は己によるので、人材は一変した。前に朝廷にいた臣を見渡すと、流落し排斥されており、臣はたとえ進みたがっても、どう身を処すべきか分からない。これが進まない第二の理由である。

原文史宅之,故相子,予郡,外議皆謂扳援之徒將自是復用,故嘗論列至再。今聖斷赫然,用舍由己,人才一變矣。環視前日在廷之臣,流落擯棄,臣雖欲貪進,未知所以處其身。此其不敢進者二。

初め臣が郎官であったとき、蜀が兵禍を被りまさに急であり、廟堂は既に小使を派遣し、特に史嵩之を家から起用したが、言官の攻撃は止まなかった。臣は妄りに論じて、講和は確かに良策ではないが、まず兵を起こすこともまた罪が無いわけではあるまいと思った。故に言路に居たとき、まず高論を唱える者を出して兵事を委ね、少しでも敵情を知る者にその説を閫外で試させようと請うた。事勢の推移を知らず、遂に竟に罷廃され、敵に和して功の無い者が、白麻で朝廷に揚げられた。あるいは臣が以前何かに附会したと議するであろう。これが臣が重ねて進まない第三の理由である。

原文始臣為郎,蜀受兵方亟,廟堂已遣小使至,特起嵩之於家,而言者攻擊不已。臣妄論以為講和固非策,而首兵亦豈能無罪。故居言路,首乞出高論者付以兵事,使稍知敵情者嘗試其說於閫外。不知事勢推移,遂竟罷廢,而款敵無功者,白麻揚廷矣。或者將議臣前日有所附會。此臣重不敢進者三。

また臣はかつて内侍女冠を弾劾したが、行われず、退いて思うに聖主は高明で、必ずやその政事への干渉を許さないであろう。しかし間もなく首相が去位し、臣も御史台を出た。伝聞によると、その人が臣が廟堂の風旨を受けたと言い、故に決意して外任を請うた。今、臣の言は結局行われず、もし君命に貪って進めば、窃かに恐れるには、ある者がかつて何を聞いて去り、今何を見て来たのかと臣を譏るであろう。これが臣が重ねて進まない第四の理由である。」

原文又臣昨彈內侍女冠,不行,退惟聖主高明,必不容其干政。然未幾首相去位,臣亦出臺,傳聞其人謂臣受廟堂風旨,故決意丐外。今臣言迄不行,茍貪君命,竊恐或者譏臣向何所聞而去,今何所見而來。此臣重不敢進者四。」

四年、詔して赴闕を促したが、辞退し、戸部侍郎に昇進した。再び辞退したが、許されなかった。五年、礼部侍郎に改めたが、辞退し、詔して許さず、所在の州軍に護送して闕下に至らせるよう命じた。史嵩之が人を遣わして李韶に言うには、「済邸・宮媼おう・国本のことを言うな」と。李韶は答えなかった。上疏して言うには、「臣は淳熙初年に生まれ育ち、なお江を渡った盛時の民生の富楽、吏治の修め挙げられた様子を見ることができた。事変が少し異なり、政が私門に帰し、紹定の末には、元気は尽きた。端平の更化は、陛下の初意は豈に甚だ美しくなかったか。国事は日々悪化し、その人々は或いは罷められ或いは死に、陛下のためにその責任を負う者は無い。ここまで論じ究めれば、天下の事は豈に陛下が自ら任じて力を尽くすべきではないか。《左氏伝》に史墨の言を載せている:『魯公は世々その失に従い、季氏は世々その勤めを修めた』と。蓋し由来する所は漸くであると言う。陛下が臨御されて久しく、宜しく深く思い熟慮し、威福は自分から出し、誰が盗むことができようか。これを捨てて為さず、悠悠と時を過ごし怠けていれば、乃ち《左氏伝》の所謂世々その失に従う者に近い」と。蓋し世卿のことを以て史嵩之を風刺したのである。上疏が出ると、史嵩之は快く思わず、言うには、「《春秋》を治める者は言葉が毒である」と。当時、杜範もまた列に在り、二人は廉潔正直で、中外は「李杜」と称した。

原文四年,詔趣赴闕,辭,遷戶部侍郎,再辭,不許。五年,改禮部侍郎,辭,詔不允,令所在州軍護遣至闕。嵩之遣人謂詔曰:「毋言濟邸、宮媼、國本。」韶不答。上疏曰:臣生長淳熙初,猶及見度江盛時民生富樂,吏治修舉。事變少異,政歸私門,紹定之末,元氣索矣。端平更化,陛下初意豈不甚美。國事日壞,其人或罷或死,莫有為陛下任其責者。考論至是,天下事豈非陛下所當自任而力為乎?《左氏》載史墨言:『魯公世從其失,季氏世修其勤。』蓋言所由來者漸矣。陛下臨御日久,宜深思熟念,威福自己,誰得而盜之哉?舍此不為,悠悠玩愒,乃幾於《左氏》所謂世從其失者。」蓋以世卿風嵩之也。疏出,嵩之不悅,曰:「治《春秋》人下語毒。」當是時,杜範亦在列,二人廉直,中外稱為「李杜」。

兼侍講を拝命し、累次辞退し、兼國史編修・實錄檢討を拝命し、辞退し、吏部侍郎兼中書舍人に遷り、三度辞退したが、許されなかった。淳祐二年、上疏して言うには、「道揆の地(宰相の職)においては、善類を愛する心が爵祿を愛する心に勝らず、公議を畏れる心が権勢を畏れる心に勝らない。陛下が腹心を大臣に託し、大臣が腹心を一二の都司に託すならば、恐らく天下の慮りを周くすることはできまい。故にこれをもって人を用いれば、則ちその知る所の者を用いることはできても、その知らざる所の者を用いることはできまい。これをもって法を守らせれば、則ちその与えざる所の法は守れても、必ずやその与えようと欲する所の法は守れまい」。また濟王・國本・宮媼の事に及んだ。三度上疏して帰郷を乞い、宝章閣直学士として泉州知州を拝命したが、辞退し、祠禄を賜わるよう乞うたが、許されなかった。既に帰郷した後、三度辞退したが、旧職のまま鴻慶宮提挙に任じられた。

原文兼侍講,累辭,兼國史編修、實錄檢討,辭,遷吏部侍郎兼中書舍人,三辭,不許。淳祐二年,疏言:「道揆之地,愛善類不勝於愛爵祿,畏公議不勝於畏權勢。陛下以腹心寄之大臣,大臣以腹心寄之一二都司,恐不能周天下之慮。故以之用人,則能用其所知,豈能用其所不知;以之守法,則能守其所不與,必不能守於其所欲與。」又及濟王、國本、宮媼。三上疏乞歸,以寶章閣直學士知泉州,辭,乞畀祠,不許。既歸,三辭,仍舊職提舉鴻慶宮。

淳祐五年、韶は召しを受けたが、再び辞退した。詔して本州通判に赴闕を勧勉させた。礼部侍郎に遷り、三度辞退し、権礼部尚書に遷り、また三度辞退したが、許されなかった。入見し、上疏して言うには、「陛下は正権を改めて授け、時望ある者を並び進用された。天下誰か大治を冀って首を長くしない者があろうか。臣ひそかに窺うに、恐らくは猶前日の如きであろう。君子と小人とは、倫類を異にする。ただ近功を計らず、小利を急がざるにありて、然る後に君子自らを顕わすことができ、過ちを聞くことを悪まず、言を尽くすことを諱まざるにありて、然る後に小人自らを託する所なし。然らずんば、治乱安危は、手を反すが如きものとなろう」。

原文淳祐五年,韶被召,再辭,詔本州通判勸勉赴闕。遷禮部侍郎,三辭,遷權禮部尚書,復三辭,不許。入見,疏曰:「陛下改畀正權,並進時望,天下孰不延頸以覬大治。臣竊窺之,恐猶前日也。君子小人,倫類不同。惟不計近功,不急小利,然後君子有以自見;不惡聞過,不諱盡言,然後小人無以自託。不然,治亂安危,反覆手爾!」

また言うには、「陛下が謀る所は嬪妃近習であり、信ずる所は貴戚近親である。『政和令』を按ずるに、『諸国の国戚・命婦若しくは女冠・尼にして、大礼等によらずして輒ち内に入ることを求むる者は、台諫に察知弾奏を許す』とある。乞う、禁廷の籍を厳しく申し明かし、以て天下の謗りを絶たれんことを。世臣貴戚を牽連して並び進めるのは、何ぞ人に不広を示すこと甚だしきや。仮に才をもって選ぶと謂うも、他時万一非才の者これに援りて以て進を求むるあらんには、将に何を以て之を抑えんや」。

原文又曰:「陛下所謀者嬪妃近習,所信者貴戚近親。按《政和令》:『諸國戚、命婦若女冠、尼,不因大禮等輒求入內者,許臺諫覺察彈奏。』乞申嚴禁廷之籍,以絕天下之謗。世臣貴戚,牽聯並進,何示人以不廣也。借曰以才選,他時萬一有非才者援是以求進,將何以抑之耶?」

また言うには、「今、土地日々に蹙まる者は未だ反せず、人民喪敗する者は未だ復せず、兵財は止むこと此の数にあり。旦旦として之を理めれば、州県を椎剥し、里閭を朘削するに過ぎない。仮令韓信かんしん・白起復活し、桑弘羊・孔僅継出するも、能く陛下の為に兵を強くし財を理むるも、治乱安危の数に何の補いがあろう。徒らに国家に不韙の名を負わせるのみ。況んや議論紛然として、賢者は苟も容れられて去り、不肖者は反って是に因りて以て其身を媒し、忠言至計行われず、浅功末利を是れ計る。此れ君子小人進退の機括の係る所、何ぞ甚だしきを思わざるや」。

原文又曰:「今土地日蹙者未反,人民喪敗者未復,兵財止有此數,旦旦而理之,不過椎剝州縣,朘削里閭。就使韓、白復生,桑、孔繼出,能為陛下強兵理財,何補治亂安危之數,徒使國家負不韙之名。況議論紛然,賢者不過茍容而去,不肖者反因是以媒其身,忠言至計之不行,淺功末利之是計,此君子小人進退機括所係,何不思之甚也!」

また言うには、「道路に聞く、徳音下る毎に、昆虫草木咸く潤沢を被るも、恩独り一つの枯胔に及ばず。威断出ずれば、公卿大夫より後先を敢えてせざる者莫しも、令独り一つの老媼に行われず。大小の臣労を積み爵を受くるは、皆以て世に延ぶるを得るも、而るに国儲君副(皇太子)、社稷の頼りて霊長たる者は、独り早く計らずして豫よめ定めず」。また上疏して還任を乞うたが、許されなかった。兼侍読を拝命し、三度辞退したが、許されず。また三度上疏して帰郷を乞うた。

原文又曰:「聞之道路,德音每下,昆蟲草木咸被潤澤,恩獨不及於一枯胔。威斷出,自公卿大夫莫敢後先,令獨不行於一老媼。小大之臣積勞受爵,皆得以延於世,而國儲君副,社稷所賴以靈長,獨不蚤計而豫定。」又疏乞還,不許。兼侍讀,三辭,不許。又三疏乞歸。

時に游似が人望をもって用いられたが、然し之を牽制する者あり。韶上奏して云う、「人主の職は一相を論ずるのみ。その人に非ざれば軽々しく授けず。始めて之を授くるや已むを得ざるが如くし、既にして乃ち之を疑い、反って之をして為す所あることを得ざらしむるは、是れ豈に専任責成の体たるべけんや。言う所の事は必ずしも聴かず、用うる所の人は必ずしも従わず、疑畏憂沮して、権之を去る」。翰林学士兼知制誥・兼侍読に擢でられたが、拝命せず。詔して許さず、また三度辞退したが、許されなかった。

原文時游似以人望用,然有牽制之者,韶奏云:「人主職論一相而已,非其人不以輕授。始而授之,如不得已,既乃疑之,反使不得有所為,是豈專任責成之體哉!所言之事不必聽,所用之人不必從,疑畏憂沮,而權去之矣。」擢翰林學士兼知制誥、兼侍讀,不拜,詔不許,又三辭,不許。

嵩之が服喪を終え、再び用いられんとする意向あり。殿中侍御史章琰・正言李昂英・監察御史黄師雍が嵩之を厳しく論列し、詔して職を落とし祠禄を与えた。韶は従官と共に抗疏して曰く、「臣等謹んで按ずるに『春秋』桓公五年の書に『蔡人・衛人・陳人、王に従いて鄭を伐つ』とある。春秋の初め、君無く親無き者鄭荘公に甚だしきは莫し。二百四十二年の経文に、未だ『王、国を伐つ』と云うものなく、而して『王』と書き『伐』と書くは、以て鄭の王無きことを見せ、而して天王の声罪して以て討つべき所たるを示す。未だ諸侯の王に従いて以て伐つと書するものなく、而して三国の王に従いて鄭を伐つと書するは、又諸侯の王に従いて罪を伐つ者無く、而して三国の微なる者の独り至るは、天王の義を伸ばすに足らず、初めより其の嘗て王の卿士たりしを以てして其の伐を薄しとするを聞かず。今、陛下姦臣の罪を正すこと能わず。其の過ち専ら上に在るに非ず、蓋し大臣百執事、天子を輔けて以て罪有る者を討つこと能わざるは、皆『春秋』の赦さざる所なり。乞う、『春秋』の義を断じて、亟に裁処を賜わらんことを」。詔して嵩之を勒令致仕させた。既にして嵩之が観文殿大学士に進んだので、韶は上疏して之を争うこと甚だ力めた。未幾、琰・昂英が他に論ずる所あり、並びに言職を罷められた。韶は復た上疏して之らを留めんとした。

原文嵩之服除,有鄉用之意,殿中侍御史章琰、正言李昂英、監察御史黃師雍論列嵩之甚峻,詔落職予祠。韶同從官抗疏曰:「臣等謹按《春秋》桓公五年書:『蔡人、衛人、陳人從王伐鄭。』春秋之初,無君無親者莫甚於鄭莊。二百四十二年之經,未有云『王伐國』者,而書『王』書『伐』,以見鄭之無王,而天王所當聲罪以致討。未有書諸侯從王以伐者,而書三國從王伐鄭,又見諸侯莫從王以伐罪,而三國之微者獨至,不足伸天王之義,初不聞以其嘗為王卿士而薄其伐。今陛下不能正姦臣之罪,其過不專在上,蓋大臣百執事不能輔天子以討有罪,皆《春秋》所不赦。乞斷以《春秋》之義,亟賜裁處。」詔嵩之勒令致仕。既而嵩之進觀文殿大學士,韶上疏爭之甚力。未幾,琰、昂英他有所論列,並罷言職。韶復上疏留之。

七年、韶は十度上疏して去ることを乞い、端明殿学士として玉隆宮提挙に任じられた。時に直学士院応㒡・中書舎人趙汝騰が疏を奉りて韶を内祠に留めんとしたが、報いられず。韶は陛辞に際し、疏を上すること甚だ剴切なり。其の略に曰く、「彼此相視て、其の志を行う莫く、而して庶政を剸裁し、人物を品量するは、相与に冥冥の中に運らざるを得ず、他に人あるを免れず。是れ中書の手は束ね可く、而して台諫の口は鈐す可し。朝廷の事力為すべく、枚挙す可からざるも、皆其の責を任ずる者莫し。甚だ四方に示し、体統を一にする所以に非ず」。万寿観提挙兼侍読に改められたが、即ち国門を出で、力辞し、道次三衢にて、詔して命を受くるを促した。再び辞退し、仍って玉隆宮に奉祠した。

原文七年,韶十上疏丐去,以端明殿學士提舉玉隆宮。時直學士院應㒡、中書舍人趙汝騰拜疏留韶內祠,未報。韶陛辭,疏甚剴切,其略曰:「彼此相視,莫行其志,而剸裁庶政,品量人物,相與運於冥冥之中者,不得不他有人焉。是中書之手可束,而臺諫之口可鈐,朝廷之事所當力為,不可枚舉,皆莫有任其責者,甚非所以示四方、一體統。」改提舉萬壽觀兼侍讀,即出國門,力辭,道次三衢,詔趣受命,再辭,仍奉祠玉隆。

八年、召しを受けたが、辞退し、許されず。再び辞退し、旧職のまま万寿観に奉祠し兼侍読、守臣に礼を以て行を趣えしむ。又辞退したが、許されず。九年、仍って玉隆宮に奉祠した。十一年、祠禄満期となり再任された。卒す。年七十五。韶は忠厚純実、平穏簡淡、声色貨利に溺れず、黙坐一室、門に雑賓無しと云う。

原文八年,被召,辭,不許。再辭,仍舊職奉祠萬壽兼侍讀,令守臣以禮趣行。又辭,不許。九年,仍奉祠玉隆。十一年,祠滿再任。卒,年七十五。韶忠厚純實,平粹簡淡,不溺於聲色貨利,默坐一室,門無雜賓云。

王邁

原文王邁

王邁、字は貫之、興化軍仙遊県の人。嘉定十年の進士、潭州観察推官となる。母の喪に服し、浙西安撫司幹官に調じられた。廷試を考査するに、詳定官王元春は私的に親しい者を高第に置かんと欲し、邁は其の謬りを顕わに摘発した。元春怒り、諫官李知孝を嗾けて邁が殿廬にて語声高かりしと誣うせしめ、免官させた。

原文王邁,字貫之,興化軍仙遊人。嘉定十年進士,為潭州觀察推官。丁內艱,調浙西安撫司幹官。考廷試,詳定官王元春欲私所親置高第,邁顯擿其繆,元春怒,嗾諫官李知孝誣邁在殿廬語聲高,免官。

南外睦宗院教授に転じた。真徳秀が福州を守っていた時、史邁は忠を尽くして郡政を補佐した。都堂の審察に赴くと、丞相鄭清之は言った、「学官の掌故など、わが貫之を煩わせるに足らぬ」。やがて学士院に召されて試みられ、楮幣について策問された。史邁は古今を援引し、本末を考究して言った、「国が貧しく楮幣が多い弊害は、兵事に始まる。乾道・淳熙の初めに楮幣を行った時は、わずか二千万であった。当時は南北ともに休息していたからである。開禧の兵事が起こると、一億四千万に増えた。紹定に山東で事があれば、二億九千万に増えた。議者はただ楮幣の窮乏を憂えるだけで、兵禍を懲らしめようとせず、今の軍籍で校べば、嘉定年間には二十八万八千余りに増えている。謀略の乏しい者を用い、直突の説を試みて、発することはできても収めることができず、取ることはできても守ることができない。今ほかの策はなく、軍実を核べ、辺境の争いを塞ぎ、楮幣を救うことが第一義である」。また言った、「修内司の営繕は広く、内帑からの宣索は多く、僧侶・道士への厚い施し、嬪御への濫りある賜与、このようなことを未だ裁ち詰めたことがないのに、ただ田畑を括り、塩を専売にする議論があると聞く。もしこの二事が実行可能なら、故相がすでに久しく行っていたであろう。更化の始めに当たり、どうして前日が不屑とした行いを取って行おうとするのか」。また楮幣に因んで時事に及び、言った、「君子の類は進んだが、その道は行われず、小人の跡は退けられたが、その心は服していない」。真徳秀が病危篤の時、史邁の答えたことを聞き、これを善しとした。

原文調南外睦宗院教授。真德秀方守福州,邁竭忠以裨郡政。赴都堂審察,丞相鄭清之曰:「學官掌故,不足凂吾貫之。」俄召試學士院,策以楮幣,邁援據古今,考究本末,謂:「國貧楮多,弊始於兵。乾、淳初行楮幣,止二千萬,時南北方休息也。開禧兵興,增至一億四千萬矣。紹定有事山東,增至二億九千萬矣。議者徒患楮窮,而弗懲兵禍,姑以今之尺籍校之,嘉定增至二十八萬八千有奇。用寡謀之人,試直突之說,能發而不能收,能取而不能守。今無他策,核軍實,窒邊釁,捄楮幣第一義也。」又言:「修內司營繕廣,內帑宣索多,厚施緇黃,濫予嬪御,若此未嘗裁撙,徒聞有括田、榷鹽之議者。向使二事可行,故相行之久矣。更化伊始,奈何取前日所不屑行者而行之乎?」又因楮以及時事,言:「君子之類雖進,而其道未行;小人之迹雖屏,而其心未服。」真德秀病危,聞邁所對,善之。

帝が再び喬行簡を丞相とした。あるいは史嵩之が再び用いられるとの風聞があった。史邁は封事を上奏して言った、「天下の宰相を、天下と共に謀らずに決めるのは、必ずや冥々の中にこれを為す者がいるからである。かつ旧相は奸邪で刻薄、天下の知るところであり、再び用いられれば、君子は一網打尽にされてしまうであろう」。また呉知古・陳洵益が政事を撓乱していると述べた。輪対において言った、「君は天を欺くべからず、臣は君を欺くべからず、権臣を厚くし同気を薄くするは、天を欺くことの著しいものである」。史邁は疏遠の身から帝に謁見し、臆することなく隠さずに言ったので、帝は顔色を改めた。言事官が史邁が辺境の事を論じて事実を過ぎたと弾劾した。魏了翁が経筵に侍し、帝にその去るを惜しむと述べたので、通判漳州に改めた。禋祀の際に雷雨があり、史邁は詔に応じて言った、「天と寧考(寧宗)の怒りは久しい。酒色が病を招き、妖艶が性を伐つ。初秋より十数日を過ぎても、政務を顧みず、道路には憂い疑う声がある。これが天と寧考の怒る所以である。趙竑(済王)は覆滅し、趙竑の子は絶え、史弥遠・韓侂冑は尊寵され、綱紀は廃れ法は乱れ、上に行えば下はこれを倣い、京卒や外兵が狂悖を繰り返し起こす。これが天と寧考の怒る所以である。陛下はこれを思わず、ただ漢代の災異により三公を免ずる故事を用いようとし、廷臣を顧みても、誰に託すべきか知らない。遠く崔與之を相としようとするが、臣は恐れる、與之が至らず、政柄が他に属することを。これが世道の否泰、君子小人の進退の機である」。そこで台官李大同が、史邁が徳秀・了翁及び洪咨夔と交結して虚誉を収めたと上言し、一階を削られ免官となった。蔣峴が史邁の前の上疏が倫紀を妄りに論じたと弾劾し、言うべからざる罪に坐すべきと請い、二階を削られた。久しくして、再び通判贛州となり、福州・建康府・信州に改められたが、いずれも赴任しなかった。淳祐に改元すると、通判吉州となった。右正言江萬里が袖に上疏を隠して御前で言った、「史邁の才は惜しむべきであり、すぐに召さなければ、老いて及ばぬという嘆きがあろう」。帝はもっともだと思った。これを阻む者がいたので、遂に止まった。

原文帝再相喬行簡,或傳史嵩之復用,邁上封事曰:「天下之相,不與天下共謀之,是必冥冥之中有為之地者。且舊相姦憸刻薄,天下所知,復用,則君子空於一網矣。」又言吳知古、陳洵益撓政。輪對,言:「君不可欺天,臣不可欺君,厚權臣而薄同氣,為欺天之著。」邁由疏遠見帝,空臆無隱,帝為改容。言者劾邁論邊事過實,魏了翁侍經筵,為帝言惜其去,改通判漳州。禋祀雷雨,邁應詔言:「天與寧考之怒久矣。麴糵致疾,妖冶伐性,初秋逾旬,曠不視事,道路憂疑,此天與寧考之所以怒也。隱、刺覆絕,攸、熺尊寵,綱淪法斁,上行下效,京卒外兵,狂悖叠起,此天與寧考之所以怒也。陛下不是之思,方用漢災異免三公故事,環顧在廷,莫知所付。遙相崔與之,臣恐與之不至,政柄他有所屬,此世道否泰,君子小人進退之機也。」於是臺官李大同言邁交結德秀、了翁及洪咨夔以收虛譽,削一秩免。蔣峴劾邁前疏妄論倫紀,請坐以非所宜言之罪,削二秩。久之,復通判贛州,改福州、建康府、信州,皆不行。淳祐改元,通判吉州。右正言江萬里袖疏榻前曰:「邁之才可惜,不即召,將有老不及之歎。」帝以為然。有尼之者,遂止。

邵武軍知軍となった。郡において、旱魃により直言を求める詔があり、史邁は駅伝で七事を奏上し、龍翔宮を撤去し、済王の後を立てることを先とした。時に鄭清之が再び丞相となり、左司郎官として召されたが、力辞した。直祕閣・提点広東刑獄となったが、これも辞し、侍右郎官に改められたが、諫官焦炳炎の論奏により罷免された。祠官を与えられ、卒去し、司農少卿を贈られた。

原文知邵武軍。在郡,詔以亢旱求言,邁驛奏七事,而以徹龍翔宮、立濟王後為先。時鄭清之再相,以左司郎官召,力辭。以直祕閣提點廣東刑獄,亦辭,改侍右郎官,諫官焦炳炎論罷。予祠,卒,贈司農少卿。

史邁は学問と詞章をもって身を起こし、特に世務に練達していた。易祓が潭州の人々に戒めて言った、「この君には逆らうべからず」。勢家が不法に占拠した田数百畝を奪い返して民に還した。李宗勉がかつて史邁を論じたことがあったが、史邁が近世の宰輔を評する時、宗勉に至っては必ず「賢相」と言った。徐清叟は史邁と意見を異にしていたが、史邁は晚年に詔に応じて、清叟は人望があり用いるべきだと述べた。世はその公正さに服したという。

原文邁以學問詞章發身,尤練世務。易祓戒潭人曰:「此君不可犯。」奪勢家冒占田數百畝以還民。李宗勉嘗論邁,然邁評近世宰輔,至宗勉,必曰「賢相」。徐清叟與邁有違言,邁晚應詔,謂清叟有人望可用。世服其公云。

史弥鞏

原文史彌鞏

史弥鞏、字は南叔、史弥遠の従弟である。好学で記憶力が強かった。紹熙四年、太学に入り、上舎に昇った。時に史弥遠が国政を執り、寄理のため試験を受けられず、十年間抑圧された。嘉定十年、ようやく進士に及第した。

原文史彌鞏,字南叔,彌遠從弟也。好學強記。紹熙四年,入太學,升上舍。時彌遠柄國,寄理不獲試,淹抑十載。嘉定十年,始登進士第。

時に李𡌴が鄂州の軍府を開き、弥鞏が持論を曲げないと知り、幕府の事を諮問するよう招聘した。寿昌の戍卒が軍律を失い、乱を起こした者を皆誅しようとしたが、弥鞏は首謀者一人を誅するよう請うたので、軍心は感服した。溧水県知県に改まり、まず学校の教育を厳しくした。端平初年、都進奏院を監察する官に入った。転対において、君子小人の才不才についての上奏、蜀を守り江を保つことについての上奏があった。嘉熙元年、都城で火災があり、弥鞏は詔に応じて上書し、修省が至らぬ点が五つあると述べた。また言った、「天倫の変は、世に誰にないことがあろうか。陛下の友愛の心も毎度発現されている。洪咨夔が陛下の殊なる知遇を受けた所以は、霅川の変(済王の乱)は済邸(済王)の本心ではなく、済邸の死は陛下の本心ではないと言い、その言葉が深く聖心に合致したからである。ましてや先帝の子、陛下の兄にして、その体魄を地下に安んじさせることができないのは、和気を干し、災異を招くことにならないだろうか。蒙蔽し把握する者がいるからである」。

原文時李𡌴開鄂閫,知彌鞏持論不阿,辟咨幕府事。壽昌戍卒失律,欲盡誅其亂者,乃請誅倡者一人,軍心感服。改知溧水縣,首嚴庠序之教。端平初,入監都進奏院。轉對,有君子小人才不才之奏,護蜀保江之奏。嘉熙元年,都城火,彌鞏應詔上書,謂修省之未至者有五。又曰:「天倫之變,世孰無之。陛下友愛之心亦每發見。洪咨夔所以蒙陛下殊知者,謂霅川之變非濟邸之本心,濟邸之死非陛下之本心,其言深有以契聖心耳。矧以先帝之子,陛下之兄,乃使不能安其體魄於地下,豈不干和氣,召災異乎?蒙蔽把握,良有以也。」

提点江東刑獄として出向した。年に大旱があり、饒州・信州・南康軍の三郡が大いに凶作となった。救荒は人を得るに在りと考え、戸を五等に分け、甲乙を等第に従って救済米を売り、丙は自給、丁は買い入れ、戊は救済とし、全活した者は口数にして百十四万余りであった。徽州休寧県に淮民三十余人が、戈を操って人財を劫略し、逮捕された。法曹は人を傷つけなかったとして論罪した。弥鞏は言った、「兵器を持って盗賊を働き、これを許せば、盗賊を増やすことになる」。情状の重い者数人を推して誅し、一道は平穏となった。饒州の兵籍が数を超過し、供給が続かなかったので、冗兵を淘汰するよう請うた。命令が下ると、営門で大いに騒いだ。そこで諸校を呼んで言った、「淘汰が不当なら、自ら陳述することを許す。敢えて騒ぐ者は斬る」。皆叩頭して罪を請うたので、諸営は平穏となり、糧秣の給与も大いに省けた。召されて司封郎中となったが、兄の子嵩之が丞相となったので、嫌疑を避けて祠官を乞い、直華文閣・婺州知州となった。時に年は既に七十で、祠官を乞い、提挙崇禧観となった。郷里に居ては時事を口にすることは絶った。卒去、年八十。真徳秀はかつて言った、「史南叔は宗袞(史弥遠)の門に登ること三十年、未仕の時はその寄理により、既に仕えてはその排擯を受け、皎然として汚れず、このようであった」。

原文出提點江東刑獄。歲大旱,饒、信、南康三郡大祲,謂振荒在得人,俾𨤲戶為五,甲乙以等第振糶,丙為自給,丁糴而戊濟,全活為口一百一十四萬有奇。徽之休寧有淮民三十餘輩,操戈劫人財,逮捕,法曹以不傷人論罪。彌鞏曰:「持兵為盜,貸之,是滋盜也。」推情重者僇數人,一道以寧。饒州兵籍溢數,供億不繼,請汰冗兵。令下,營門大噪。乃呼諸校謂曰:「汰不當,許自陳,敢譁者斬。」咸叩頭請罪,諸營帖然,稟給亦大省。召為司封郎中,以兄子嵩之入相,引嫌丐祠,遂以直華文閣知婺州。時年已七十,丐祠,提舉崇禧觀。里居絕口不道時事。卒,年八十。真德秀嘗曰:「史南叔不登宗袞之門者三十年,未仕則為其寄理,已仕則為其排擯,皭然不汙有如此。」

五人の子、長男は肎之、刑部郎官で終わり、能之・有之・胄之は皆進士であった。肎之の子蒙卿は、咸淳元年の進士、江陰軍教授に調じ、早く色川陽恪に師事し、学問は淹博で、著書立言は一に朱熹を法とした。

原文五子,長肎之,終刑部郎官,能之、有之、胄之俱進士。肎之子蒙卿,咸淳元年進士,調江陰軍教授,蚤受業色川陽恪,為學淹博,著書立言,一以朱熹為法。

陳塤

原文陳塤

陳塤、字は和仲、慶元府鄞県の人。祖父の叔平は同郡の楼鑰と親しく、死んだ時、鑰はこれを哭した。塤が四歳の時、出て揖するのが成人のようであった。鑰が盤中の銀杏を指して対句を作らせると、塤は応声して「金桃」と言った。何に拠るのかと問うと、杜甫の詩「鸚鵡啄金桃」によると答えた。鑰は竦然として言った、「亡友は死なず」。成長して劉著に『周官』を受講し、たちまち数千百言を成した。江東転運司の試験で第一、礼部の試験でもまた第一となった。

原文陳塤,字和仲,慶元府鄞人。大父叔平與同郡樓鑰友善,死,鑰哭之。塤才四歲,出揖如成人。鑰指盤中銀杏使屬對,塤應聲曰:「金桃。」問何所據?對以杜詩「鸚鵡啄金桃」。鑰竦然曰:「亡友不死矣。」長受《周官》於劉著,頃刻數千百言輒就。試江東轉運司第一,試禮部復為第一。

嘉定十年(1217年)、進士に及第した。黄州教授に任じられた。父の喪に服し、憔悴して礼制を考究し、時祭・儀制・祭器を定めて実行した。ふと嘆息して言うには、「俗学は学ぶに足らぬ」と。そこで楊簡に師事し、苦労を厭わず粗食に甘んじ、昼夜怠ることなく学んだ。喪が明けると、史弥遠が国政を執っていたが、塤に言った、「省試の首席(省元)は数千人の中の魁であり、殿試の首席(状元)は百人の中の魁であるが、恩典の格は省元が上である。省元の初任を堂除の教授とするのは、君から始めてはどうか」。塤は辞退して言った、「廟堂(政府)のご配慮は大変ありがたいことですが、この措置を塤から始めますと、嫌疑を受けるのではありますまいか」。そのまま吏部の注擬により処州教授に任じられて赴任し、士論は彼を高く評価した。

原文嘉定十年,登進士第。調黃州教授。喪父毀瘠,考古禮制時祭、儀制、祭器行之。忽歎曰:「俗學不足學。」乃師事楊簡,攻苦食淡,晝夜不怠。免喪,史彌遠當國,謂之曰:「省元魁數千人,狀元魁百人,而恩數逾等,盍令省元初授堂除教授,當自君始。」塤謝曰:「廟堂之議甚盛,舉自塤始,得無嫌乎?」徑部注處州教授以去,士論高之。

理宗が即位し、詔を下して直言を求めた。塤は封事を上奏して言った、「上に憂い危惧の心があれば、下に安泰の象が現れ、これが世道の隆盛する由縁である。上に安泰の心があれば、下に憂い危惧の象が現れ、これが世道の汚れる由縁である。故に天下のために憂えれば、楽しみはそれに従う。天下を以て楽しみとすれば、憂いはそれに従う。天下を有つ者は、ただ憂楽の機微を善く審らかにするに在るのみである。今日の弊は、人心の合わざるより大なるはなく、紀綱の振わざるより大なるはなく、風俗の淳からざるより大なるはなく、国は疲弊し人は怠惰で救い難い。願わくは陛下、正しさを以てこれを養い、実を以てこれを励まし、明を以てこれに臨み、武を以てこれを断ぜられんことを」。かくして塤の直諫の名声は初めて天下に著しくなった。郡守の高似孫と合わず、職を去り、帰郷して母に仕えた。召されて太学録となり、一年余りしてようやく着任した。転対にて言上した、「天道は親しみを偏さず、民心は保ち難し。日月は過ぎ去り、事の機会は留まらない。始めは鋭くとも、久しければ怠る。始めは明らかでも、久しければ昏くなる。垂拱して成果を仰ぐのは、盛んな心ではあるが、これに因って有為の志を負うべきではない。時に従って晦ますのは、至徳ではあるが、これに因って時機に乗ずる機会を失うべきではない」。上はこれを嘉納した。太学博士に遷り、宗正寺主簿を兼ねた。都城が火災に遭うと、塤は歩いて玉牒所に赴き、玉牒を全て石室に蔵めた。詔により官を進められたが、受けなかった。詔に応じて言上し、天の非常の怒りに応ずるには、非常の挙動が当たるべきであるとし、災害を招いた原因を歴陳した。また呉潜・汪泰亨が史弥遠に上書し、馮榯・王虎の救火に尽力せざる罪を正し、臨安府知事林介・両浙転運使趙汝憚の処罰を行うよう求めた。人々は皆その勇気を称えた。

原文理宗即位,詔求言,塤上封事曰:「上有憂危之心,下有安泰之象,世道之所由隆。上有安泰之心,下有憂危之象,世道之所由汙。故為天下而憂,則樂隨之。以天下為樂,則憂隨之。有天下者,在乎善審憂樂之機而已。今日之敝,莫大於人心之不合,紀綱之不振,風俗之不淳,國敝人偷而不可救。願陛下養之以正,勵之以實,蒞之以明,斷之以武。」而塤直聲始著於天下。與郡守高似孫不合,去,歸奉其母。召為太學錄,逾年始至。轉對,言:「天道無親,民心難保。日月逾邁,事會莫留。始之銳,久則怠。始之明,久則昏。垂拱仰成,盛心也,不可因以負有為之志。遵養時晦,至德也,不可因以失乘時之機。」上嘉納之。遷太學博士,主宗正寺簿。都城火,塤步往玉牒所,盡藏玉牒於石室。詔遷官,不受。應詔言應上天非常之怒者,當有非常之舉動,歷陳致災之由。又有吳潛、汪泰亨上彌遠書,乞正馮榯、王虎不盡力救火之罪,及行知臨安府林介、兩浙轉運使趙汝憚之罰。人皆壯之。

太常博士に遷った。袁燮の諡号を議する際、ただ一人でこれを執り行い、他の者は皆筆を閣いた。そこで嘆息して言った、「幽王・厲王は百世経ても改まらない。諡には美悪があるのだから、墓を諂うことと同列に扱えるものか」。折しも朱端常の子が父の諡を乞うた。塤は言った、「端常は台諫の職にあっては善類を追い払い、地方長官としてはいちじるしい収奪に務めた。悪諡を得て、後世を戒めるべきである」。そこで「栄愿」と諡した。この議が公になると、宰相以下皆粛然として顔色を改めた。考功郎の陳耆が再審議し、宦官の陳洵益が改諡を望んだが、塤は終に答えなかった。

原文遷太常博士,獨為袁燮議謚,餘皆閣筆,因歎曰:「幽、厲雖百世不改,謚有美惡,豈諛墓比哉?」會朱端常子乞謚,塤曰:「端常居臺諫則逐善類,為藩牧則務刻剝,宜得惡謚,以戒後來。」乃謚曰「榮愿」。議出,宰相而下皆肅然改容。考功郎陳耆覆議,合宦者陳洵益欲改,塤終不答。

李全が楚州で異心を抱いていた。塤は書を送って史弥遠に告げた、「痛く警戒悔い改め、衆心を挽回せよ。早く典刑を正し、権綱を粛正せよ。黜陟を大いに明らかにし、政体を整えよ」。聞き入れられなかった。間もなく、賈貴妃が後宮に入ると、塤はまた言上した、「君側の媚び諂う者を除き、主君の徳を正されんことを。天下の公論に従い、万政を一新されんことを」。弥遠は塤を召して問うた、「我が甥(塤)は名声を好むのか」。塤は答えた、「名声を好むことは、孟子が取らぬところです。三代の上に士を求めるなら、その名声を好むことを恐れます。三代の下に士を求めるなら、その名声を好まぬことを恐れるのです」。強いて外任を願い出て、添差通判嘉興府となった。弥遠が没すると、召されて枢密院編修官となった。入対し、まず言った、「天下の安危は宰相に在る。南渡以来、機会を屡々失った。秦檜の死後、任じられたのは万俟卨・沈該のみ。韓侂冑の死後、任じられたのは史弥遠のみ。これが今日慎むべき点である」。次に言った、「内廷では宦官の禁令を厳しくすべきであり、外廷では台諫の選任を厳しくすべきである」。そこで陳洵益が密かに中傷し、監察御史王定が塤を弾劾した。出て常州知事となり、衢州知事に改めた。

原文李全在楚州有異志,塤以書告彌遠:「痛加警悔,以回群心。蚤正典刑,以肅權綱。大明黜陟,以飭政體。」不納。未幾,賈貴妃入內,塤又言:「乞去君側之蠱媚,以正主德;從天下之公論,以新庶政。」彌遠召塤問之曰:「吾甥殆好名邪?」塤曰:「好名,孟子所不取也。夫求士於三代之上,惟恐其好名;求士於三代之下,惟恐其不好名耳。」力丐去,添差通判嘉興府。彌遠卒,召為樞密院編修官。入對,首言:「天下之安危在宰相。南渡以來,屢失機會。秦檜死,所任不過万俟卨、沈該耳。侂胄死,所任史彌遠耳。此今日所當謹也。」次言:「內廷當嚴宦官之禁,外廷當嚴臺諫之選。」於是洵益陰中之,監察御史王定劾塤,出知常州,改衢州。

賊寇は吉日を選んで漈坑より発し、江山県に沿って東進しようとした。塤は間者を捕らえ、すぐに人を遣わして牛と酒を贈り諭した、「汝らは良民とならずして劫盗となり、耒耜に事とせずして甲兵を弄ぶ。今、汝らに牛酒を与えるのは、汝らが改業することを望むからである。さもなくば、赦さず殺す」。そこで自首する者が日に百数を数え、武器を献じた者には厚く報酬した。賊はついに潰散した。提点都大坑冶に改められ、福建転運判官に転じた。侍御史の蔣峴が常に『中庸』について論じ合ったが意見が合わず、また塤を弾劾した。主管崇道観となった。一年余りして、浙西提点刑獄に遷った。旱魃の年、盗賊が起こり、捕らえて斬った。盗賊は恐れて去った。安吉州の俞垓は丞相李宗勉と姻戚関係にあり、勢力を恃んで財貨を貪った。塤は自ら臨んで取り調べた。弓手の戴福は潘丙を捕らえた功績で副尉となり、宗勉は彼を腹心として頼ったが、横暴に貪り害をなした。塤が着任すると、福は風聞を聞いて逃げ去った。塤は宗勉に書を送った、「塤が福を処罰するのは、丞相に報いるためです。伝聞によれば、福は実は丞相の下へ逃げたとのことですが、賢明な輔弼たる者がこのようなことをすべきではありません」。宗勉は返書して答えた、「福の罪悪は極まり、君でなければ治められぬ。宗勉は不才ではあるが、奸兇を庇うことは敢えてしない。どうか君の留意を願う」。豫章で福を捕らえると、衆は皆殺そうとした。塤は言った、「そうすれば刑が濫る」。そこで市で墨刑を加えて晒し、牢獄に囚えた。吏部侍郎として召された。国子司業となると、諸生は皆互いに慶賀し、良師を得たと思った。

原文寇卜日發漈坑,遵江山縣而東。塤獲諜者,即遣人致牛酒諭之曰:「汝不為良民而為劫盜,不事耒耜而弄甲兵,今享汝牛酒,冀汝改業,否則殺無赦。」於是自首者日以百數,獻器械者重酬之,遂以潰散。改提點都大坑冶,徙福建轉運判官。侍御史蔣峴常與論《中庸》,不合,又劾之。主管崇道觀。逾年,遷浙西提點刑獄。歲旱,盜起,捕斬之,盜懼徙去。安吉州俞垓與丞相李宗勉連姻,恃勢黷貨,塤親按臨之。弓手戴福以獲潘丙功為副尉,宗勉倚之為腹心,盜橫貪害,塤至,福聞風而去。貽書宗勉曰:「塤治福,所以報丞相也。傳間實走丞相,賢輔弼不宜有此。」宗勉答書曰:「福罪惡貫盈,非君不能治。宗勉雖不才,不敢庇姦兇。惟君留意。」及獲福豫章,眾皆欲殺之,塤曰:「若是則刑濫矣。」乃加墨徇於市,囚之圜土。以吏部侍郎召,及為國子司業,諸生咸相慶,以為得師。

間もなく、玉牒検討・国史編修・実録修撰を兼ねたが、史館の兼職を辞した。領土の狭まること、民生の艱難、国計の窮乏を歴陳し、「既に経理し挽回する素地が無いならば、ただ感動して転移させる策があるのみで、必ずその根本となるものがある。根本とは何か。この心の妙を回復することである」。また言った、「泰平安泰に慣れて安逸楽しむ者は、安泰に慣れて危険を招く道理がある。艱難危険に因って戒め恐れる者は、危険を慮って安泰を図る機会がある。用捨を明らかにして紀綱を振るい、自ら節倹して冗濫を淘汰し、奸妄を退けて将士を励まし、貴近を抑えて糶糴を寛げ、郷社を結んで窃発を防ぎ、増創を罷めて根本を培うべきである。今、任用は混殽し、香草と臭草が同じ器に入れられ、賢者が同じ群れにいることを恥じるに至っている」。諫議大夫の金淵がこれを見て怒った。塤は外任を補うことを乞うたが、許されなかった。また和糴の功による転官の賞賜を辞退したが、これも許されなかった。温州知事に任じられたが、着任せず、上奏の故に罷免された。

原文未幾,兼玉牒檢討、國史編修、實錄修撰,乃辭兼史館。歷陳境土之蹙,民生之艱,國計之匱,「既無經理圖回之素,惟有感動轉移之策,必有為之本者,本者何?復此心之妙耳」。又言:「履泰安而逸樂者,有習安致危之理。因艱危而兢懼者,有慮危圖安之機。明用舍以振紀綱,躬節儉以汰冗濫,屏姦妄以厲將士,抑貴近以寬糶糴,結鄉社以防竊發,黜增創以培根本。今任用混殽,薰蕕同器,遂使賢者恥與同群。」諫議大夫金淵見之,怒。塤乞補外,不許,又辭免和糴轉官賞,亦不許。知溫州,未上,以言罷。

塤は家に居て、時に泉石をもって自ら楽しみ、四方の学者が続々と訪れた。財を軽んじ義に急き、道理に明らかで洞察が透徹しており、一言を発すれば、終身守り通すことができた。ある日突然臥病につき、子に命じて書架の書を引いて占わせた。『呂祖謙文集』を得て、その中の「墓志」を見ると、「祖謙は丁巳の年に生まれ、辛丑の年に没す」とあった。塤は言った、「奇なるかな!我は慶元丁巳(1197年)に生まれ、今年は辛丑(1241年)である。これで一甲子(60年)だ。我は死ぬであろう」。

原文塤家居,時自娛於泉石,四方學者踵至。輕財急義,明白洞達,一言之出,終身可復。忽臥疾,戒其子抽架上書占之,得《呂祖謙文集》,其《墓志》曰:「祖謙生於丁巳歲,沒於辛丑歲。」塤曰:「異哉!我生於慶元丁巳,今歲在辛丑,於是一甲矣。吾死矣夫!」

子に蒙がいる。

原文子 蒙

蒙は十八歳の時、万言の上書をして国事を論じた。呉子良はこれを奇異とし、娘を妻として与えた。太府寺主簿となった。入対し、極言して賈似道が宰相であった時の国政の欠失を論じたが、文章が多いのでここには記さない。淮東総領となったが、似道に貪汙の罪を誣告され、建昌軍の主簿に貶謫された。家財を没収したが、青氈(質素な毛氈)があるのみであった。徳祐初年(1275年)、礼部侍郎の李玨が彼の罪を赦して任用するよう請うた。刑部侍郎として召されたが、赴任せず、没した。

原文子蒙,年十八,上書萬言論國事。吳子良奇之,妻以女。為太府寺主簿。入對,極言賈似道為相時國政闕失,文多不錄。為淮東總領,似道誣以貪汙,貶建昌軍簿,錄其家,惟青氈耳。德祐初,禮部侍郎李玨乞放便,以刑部侍郎召,不赴,卒。

趙與𥲅

原文趙與𥲅

趙與𥲅、字は德淵、太祖の十世の孫なり。湖州に居住す。嘉定十三年の進士。歴官して差遣にて官告院を主管し、将作監主簿に遷り、差遣にて嘉興府の知府となり、大宗正を兼ね知り、権として樞密院檢詳諸房文字を兼ね、尋いで都官郎官となり、直寶章閣を加えられ、兩浙轉運判官となる。煥章閣に進み、慶元府の知府となり、沿海制置司公事を主管し、司農少卿を拝し、仍って慶元府の知府を兼ね、沿海制置副使を兼ねる。浙西提點刑獄に遷り、中書門下省檢正諸房公事を授かり、司農卿を拝し臨安府の知府を兼ね、浙西安撫司公事を主管し、権として刑部侍郎を兼ね詳定敕令官となり、権として兵部侍郎となり、戶部侍郎に遷り、権として戶部尚書となり、時暫に吏部尚書を兼ね、尋いで正官となり、戶部尚書を兼ね、時暫に浙西提舉常平を兼ね、端明殿學士を加えられ、戶部財用を提領し、皆な旧の如く臨安府の知府を兼ねる。執政の恩澤に與り、資政殿大學士を加えられる。観文殿學士を以て紹興府の知府・浙東安撫使となる。平江府の知府となり淮・浙發運使を兼ね、時暫に権として浙西提點刑獄を兼ねる。沿江制置使を授かり、建康府の知府・江東安撫使・馬步軍都總管兼行宮留守となり、和州・無為軍・安慶府の三郡屯田使を節制す。時暫に権として揚州・兩淮安撫制置使を兼ね、改めて揚州の知府を兼ね、尋いで鎮江府の知府を兼ね、淮東總領を兼ね、洞霄宮を提挙す。復た淮・浙發運使となり、差遣にて平江府の知府となり、特旨にて兩官を轉じて致仕す。景定元年八月、卒す。特旨にて少師を贈らる。與𥲅の至る所、財利に急にして、幾くんか聚斂の臣に近し。

原文趙與𥲅,字德淵,太祖十世孫。居湖州。嘉定十三年進士。歷官差主管官告院,遷將作監主簿,差知嘉興府,遷知大宗正兼權樞密院檢詳諸房文字,尋為都官郎官,加直寶章閣、兩浙轉運判官。進煥章閣、知慶元府,主管沿海制置司公事,拜司農少卿,仍兼知慶元府兼沿海制置副使。遷浙西提點刑獄,授中書門下省檢正諸房公事,拜司農卿兼知臨安府,主管浙西安撫司公事,權刑部侍郎兼詳定敕令官,權兵部侍郎,遷戶部侍郎,權戶部尚書,時暫兼吏部尚書,尋為真,兼戶部尚書,時暫兼浙西提舉常平,加端明殿學士、提領戶部財用,皆依舊兼知臨安府。與執政恩澤,加資政殿大學士。以觀文殿學士知紹興府、浙東安撫使;知平江府兼淮、浙發運使,時暫兼權浙西提點刑獄;授沿江制置使,知建康府、江東安撫使、馬步軍都總管兼行宮留守,節制和州、無為軍、安慶府三郡屯田使;時暫兼權揚州、兩淮安撫制置使,改兼知揚州,尋兼知鎮江府,兼淮東總領,提舉洞霄宮;復為淮、浙發運使,差知平江府,特轉兩官致仕。景定元年八月,卒,特贈少師。與𥲅所至急於財利,幾於聚斂之臣矣。

李大同

原文李大同

李大同、字は從仲、婺州東陽の人なり。嘉定十六年の進士。歴官して祕書丞兼崇政殿說書となり、右正言兼侍講を拝す。疏を上りて言う、「趙・冀の分野に、乃ち熒惑の填星を犯すの變あり、則ち我が師の出づるは、豈に長慮して却顧すべき者無からんや。故に臣願わくは陛下、星文を以て小異と為して或いは忽に加うること勿らんことを。一話一語、一政一事、必ず以て天心を格し災變を弭する有るを求めんことを。進兵攻討に至りては、尤も謹重を切にす。」太常少卿兼國史編修・實錄檢討に遷り、侍講を兼ね、権として侍立修注官を兼ね、起居郎に遷り、殿中侍御史を拝し、権として刑部侍郎兼同修國史・實錄院同修撰となり、吏部侍郎に選ばれ、工部尚書に進み、寶謨閣直學士を以て平江府の知府となり、江州太平興國宮を提挙す。致仕を乞うも、許さず、後に家にて卒す。

原文李大同,字從仲,婺州東陽人。嘉定十六年進士。歷官為祕書丞兼崇政殿說書,拜右正言兼侍講。疏言:「趙、冀分野,乃有熒惑犯填星之變,則我師之出,豈無當長慮而卻顧者。故臣願陛下勿以星文為小異而或加忽。一話一語,一政一事,必求有以格天心而弭災變。至於進兵攻討,尤切謹重。」遷太常少卿兼國史編修、實錄檢討,兼侍講,兼權侍立修注官,遷起居郎,拜殿中侍御史,權刑部侍郎兼同修國史、實錄院同修撰,選吏部侍郎,進工部尚書,以寶謨閣直學士知平江府,提舉江州太平興國宮。乞致仕,不許,後卒於家。

黃㽦

原文黃㽦

黃㽦、字は子耕、隆興分寧の人なり。嘗て郭雍・朱熹に從い學び、熹深く之を期し、而して㽦も亦た道を以て自ら任じ、反復論辯し、必ず疑う所無くして然る後止む。太學進士に挙げられ、瑞昌主簿となり、文思院を監し、盧陽縣の知縣となる。五溪の獠は獷悍なり、㽦詩を為りて之を諭すに、獠感悅し、公事有るも敢えて違わず。

原文黃㽦,字子耕,隆興分寧人。嘗從郭雍、朱熹學,熹深期之,而㽦亦以道自任,反復論辯,必無所疑然後止。舉太學進士,為瑞昌主簿,監文思院,知盧陽縣,五溪獠獷悍,㽦為詩諭之,獠感悅,有公事莫敢違。

處州の通判となり、經制錢・總制錢に額有りて錢無し、俗に殿最綱と號す。㽦十年中の賦を成したるを會し之を酌み取り、逋負を閣免し、錢額鈞等しくして、獨り最を以て聞こゆ。官告院を主管し、大理寺簿・軍器監丞となる。歳餘にして三遷すれども、㽦乃ち樂しまず。間いて西湖を行き、慨然として曰く、「我昔南・北山に在りしときは、一水一石、自ら題品せざるは無かりしに、今復た情味無し、何ぞや」と。

原文通判處州,經、總制有額無錢,俗號殿最綱,㽦會十年中成賦酌取之,閣免逋負,錢額鈞等,獨以最聞。主管官告院、大理寺簿、軍器監丞,歲餘三遷,㽦乃不樂。間行西湖,慨然曰:「我昔在南、北山,一水一石,無不自題品,今無復情味,何邪?」

外任を丐い、台州の知州となる。謝良佐の子孫の台に居る者、既に播越流落す。㽦之を民間に求め、収めて之を教う。夙夜勤苦し、先ず勧めて後に禁じ、訟牒銷縮し、郡平治と稱す。濟糶倉を為り、抵當庫を為り、民の棲寄暴露する者を葬るに棺千五百を為り、養濟院を置き、又た安濟坊を創めて以て病囚を居らしむ。皆な自ら子本錢有りて、使って廢せざらしむ。故に葉適、㽦の條目を建て置くこと、民を憂うること家の如しと謂う。袁州に遷る。從弟を哭して哀しみ甚だしく、疾を得て卒す。著する所に『復齋集』有り。

原文丐外,知台州。謝良佐子孫居台者既播越流落,㽦求之民間,收而教之。勤苦夙夜,先勸後禁,訟牒銷縮,郡稱平治。為濟糶倉,為抵當庫,葬民之棲寄暴露者為棺千五百,置養濟院,又創安濟坊以居病囚,皆自有子本錢,使不廢。故葉適謂㽦條目建置,憂民如家。遷袁州,哭從弟哀甚,得疾卒。所著有《復齋集》。

楊大異

原文楊大異

楊大異、字は同伯、唐の天平節度使漢公の後なり。十世の祖祥、地を醴陵に避け、因りて家す。祥、親に事えて孝なり、親亡びて哀毀し、泣き盡きて血に繼ぎ、墓に廬して終身す。白芝・白烏・白兔の瑞有り。事朝廷に聞こえ、至孝公に褒封せられ、名木を賜いて墓道に植え、以て其の孝を旌す。大異、胡宏に從い『春秋』の大義を受く。嘉定十三年の進士第に登る。衡陽主簿を授かり、惠政有り。龍泉尉に調じ、邑令を攝す。歳饑に適い、提刑司吏を遣わし和糴米二萬石を邑に於いてす。米價頓に増し、民食に乏し。大異即ち提刑司の糴する所の者を以て價の如く發糶し、民甚だ之を德とす。提刑趙與𥲅大いに怒り、其の罪を捃うるも得ず、方命を以て坐し、安遠尉に移す。

原文楊大異,字同伯,唐天平節度使漢公之後,十世祖祥避地醴陵,因家焉。祥事親孝,親亡哀毀,泣盡繼以血,廬墓終身,有白芝、白烏、白兔之瑞。事聞於朝,褒封至孝公,賜名木植墓道,以旌其孝。大異從胡宏受《春秋》大義。登嘉定十三年進士第。授衡陽主簿,有惠政。調龍泉尉,攝邑令。適歲饑,提刑司遣吏和糴米二萬石於邑,米價頓增,民乏食,大異即以提刑司所糴者如價發糶,民甚德之。提刑趙與𥲅大怒,捃其罪弗得,坐以方命,移安遠尉。

邑に峒寇有りて民を擾わす。官兵致討すれども、積年獲ること弗し。檄して大異をして往きて之を治めしむ。大異一僕を以て告身を負わしめ自ら隨い、肩輿にて賊峒に入り、尉至ると傳呼す。賊刃を露わして列を成して以て待つ。徐ろに禍福を以て諭すに、皆な地に伏して頭を叩き、過ちを改め自ら新たにせんことを願う。告身を留めて質とし、其の渠魁數輩と俱に出で降る。賞を以て吉州戶曹に遷り、廣西經幹に改め、復た盜を弭するの賞を以て、四川制置司參議官を除かる。北兵成都に入る。大異制置使丁黼に從い巷戰す。兵敗れ、身數創を被りて死す。闔門皆な難に遇う。詰旦、其の部曲竊かに往きて之を瘞す。大異復蘇し、負いて逃れ、免るることを獲る。朝奉郎に進み、石門縣を宰し、就いて溧陽の通判を除かれ、州事を攝す。皆な惠政有り。官を去るの日、老弱攀號して之を留む。大異服を易え潛かに去る。登聞鼓院の知事に擢でられ、大理寺丞に遷り、冤獄を平反すること七。召對に應じ、極めて時政の得失を言い、宰相の意に迕い、澧州の知州として出づ。理宗曰く、「是れ四川にて死節して更生せし者楊大異なるか。事を論ずること剴切にして、有用の材なり。何ぞ遽かに之を出すや」と。對えて曰く、「是の人は尤も民を治むるに長ず」と。命じて節を予け庾事を兼ねしめ、直祕閣に進め、廣東刑獄を提點し庾事を兼ねしむ。

原文邑有峒寇擾民,官兵致討,積年弗獲,檄大異往治之。大異以一僕負告身自隨,肩輿入賊峒,傳呼尉至,賊露刃成列以待,徐諭以禍福,皆伏地叩頭,願改過自新。留告身為質,偕其渠魁數輩出降。以賞遷吉州戶曹,改廣西經幹,復以弭盜賞,除四川制置司參議官。北兵入成都,大異從制置使丁黼巷戰,兵敗,身被數創死,闔門皆遇難。詰旦,其部曲竊往瘞之,大異復蘇,負以逃,獲免。進朝奉郎,宰石門縣,就除通判溧陽,攝州事,皆有惠政。去官之日,老弱攀號留之,大異易服潛去。擢知登聞鼓院,遷大理寺丞,平反冤獄者七。召對,極言時政得失,迕宰相意,出知澧州。理宗曰:「是四川死節更生者楊大異耶?論事剴切,有用之材也。何遽出之?」對曰:「是人尤長於治民。」命予節兼庾事,進直祕閣、提點廣東刑獄兼庾事。

時に常平司の逋負山積し、械繫して追索すれども、姦蠹百出す。大異之と約し、悉く縱遣し、負う者期の如く畢く輸す。吏其の姦を容るる所無し。張九齡の曲江故宅を訪い、相江書院を建て、以て九齡を祀る。廣西刑獄を提點し漕・庾の二司を兼ねることに改む。至る所姦吏屏息し、寇盜絕跡す。凡そ以て民の為に利を興し害を除くべき者は、必ず奏して行う。復た宣成書院を建て張栻・呂祖謙を祀る。廣海幅員數千里、道に遺物を拾わず、政を報ずること最と為す。未だ六十ならずして即ち致仕を丐うも、允さず。章四たび上り、祕閣修撰・太中大夫を除かれ、崇禧觀を提挙し、醴陵縣開國男、食邑三百戶、紫金魚袋を賜わる。里第に歸り、居民と異なること無し。學者之に從い、講肄諄諄、相與に經旨を發明し、理學を條析す。祠祿を食むこと二十四年、卒す。年八十二。子に霆・霖有り。霆は『忠義傳』に在り。

原文時常平司逋負山積,械繫追索,姦蠹百出。大異與之約,悉縱遣之,負者如期畢輸,吏無所容其姦。訪張九齡曲江故宅,建相江書院,以祀九齡。改提點廣西刑獄兼漕、庾二司,所至姦吏屏息,寇盜絕跡。凡可以為民興利除害者,必奏行之。復建宣成書院祀張栻、呂祖謙。廣海幅員數千里,道不拾遺,報政為最。未六十即丐致仕,不允,章四上,除祕閣修撰、太中大夫,提舉崇禧觀、醴陵縣開國男,食邑三百戶,賜紫金魚袋。歸里第,與居民無異,學者從之,講肄諄諄,相與發明經旨,條析理學。食祠祿者二十四年,卒,年八十二。子霆、霖。霆在《忠義傳》。

論ずるに、正論の天下に在るは、未だ嘗て亡びたることはない。徐範の韓侂胄に対する、呉泳・李韶・王邁の史氏に対する、皆能く回撓することなく、正色して直言す。史弥鞏に至っては則ち弥遠の弟、陳塤は其の甥なり、私親を以て天下の公論を廃せざりき。抑も孟子の所謂「寡助の至り」なる者か。趙与𥲅は揚歴最も久しく、甘んじて聚斂の臣と為る。李大同は郷人喬行簡を相と為し、薦めて起これり。黄㽦は出仕し、民を恤み賢を尊ぶを急務と為し、本を知ると謂うべし。大異の節義かくの如し、宜しく其の善政の世に著称するなり。

原文論曰:正論之在天下,未嘗亡也。徐範之於韓侂胄,吳泳、李韶、王邁之於史氏,皆能無所回撓,正色直言。至於史彌鞏則彌遠之弟,陳塤其甥也,不以私親而廢天下之公論。抑孟子所謂「寡助之至」者歟?趙與𥲅揚歷最久,甘為聚斂之臣。李大同以鄉人喬行簡為相,薦起之。黃㽦出仕,以恤民尊賢為急,可謂知本。大異節義如此,宜其善政之著稱於世也。