宋史

列傳第一百八十一 林勳 劉才邵 許忻 應孟明 曾三聘 徐僑 度正 程珌 牛大年 陳仲微 梁成大 李知孝

列傳第一百八十一 林勳 劉才邵 許忻 應孟明 曾三聘 徐僑 度正 程珌 牛大年 陳仲微 梁成大 李知孝

林勳

原文林勳

林勳は賀州の人である。政和五年の進士となり、廣州の教授となった。建炎三年八月、『本政書』十三篇を献上し、言うには、

原文林勳,賀州人。政和五年進士,為廣州教授。建炎三年八月,獻《本政書》十三篇,言:

「国家の兵農の政は、おおむね唐末の旧制に因っている。今、農民は貧しく多くは生業を失い、兵士は驕って用いるに堪えず、この故に飢えた民や逃亡の兵卒は、多く盗賊となる。古の井田の制にならい、民に一夫が五十畝の田を占めさせ、余分の田を持つ家は、田を売買させず、田を持たぬ者と遊惰で末業に従う者は、皆これを駆り立てて隷農とし、余分の田を耕させ、雑多な税銭や穀物を合わせて、什一の税とするのがよい。宋の二税の額は、唐に比べて七倍に増えている。今、本政の制では、十六夫をもって一井とし、百里四方の地を提封すれば、三千四百井となり、税米は五万一千斛、銭は一万二千緡となる。毎井、兵二名と馬一匹を賦し、兵は六千八百人、馬は三千四百匹となり、毎年その五分の一を取って上番の定員とし、征役に供給する。事なき時はさらに四番に分け、官府に直し、守衛に供給する。これにより民は凡そ三十五年にして役使を一遍受けることになる。全て上番させれば、毎年米一万九千余斛、銭三千六百余緡を食するが、事なき時は四分の三を減じ、皆、一同の租税をもってこれを供給する。匹婦の貢は、絹三尺、綿一両とする。百里四方の県は、毎年絹四千余匹、綿三千四百斤を収める。養蚕の郷でなければ布六尺、麻二両とし、収める額は絹綿に比べて概ね倍とする。これを十年行えば、民の口算、官の酒酤、及び凡そ茶・塩・香・礬の専売は、皆、弛めて民に与えることができる。」

原文「國家兵農之政,率因唐末之故。今農貧而多失職,兵驕而不可用,是以饑民竄卒,類為盜賊。宜仿古井田之制,使民一夫占田五十畝,其有羨田之家,毋得市田,其無田與游惰末作者,皆驅之使為隸農,以耕田之羨者,而雜紐錢穀,以為十一之稅。宋二稅之數,視唐增至七倍。今本政之制,每十六夫為一井,提封百里,為三千四百井,率稅米五萬一千斛、錢萬二千緡;每井賦二兵、馬一匹,率為兵六千八百人、馬三千四百匹,歲取五之一以為上番之額,以給征役。無事則又分為四番,以直官府,以給守衛。是民凡三十五年而役使一遍也。悉上則歲食米萬九千餘斛,錢三千六百餘緡,無事則減四分之三,皆以一同之租稅供之。匹婦之貢,絹三尺,綿一兩。百里之縣,歲收絹四千餘匹,綿三千四百斤。非蠶鄉則布六尺、麻二兩,所收視絹綿率倍之。行之十年,則民之口算,官之酒酤,與凡茶、鹽、香、礬之榷,皆可弛以予民。」

その説は甚だ詳備であった。書が奏上され、勳を以て桂州節度掌書記とした。

原文其說甚備。書奏,以勳為桂州節度掌書記。

その後、勳はまた『比較書』二篇を献上し、大略において謂うには、

原文其後,勳又獻《比較書》二篇,大略謂:

「桂州の地は東西六百里、南北五百里あり、古尺をもってこれを計れば、百里四方の国四十に当たり、墾田すべきは二百二十五万二千八百頃、田夫二百四万八千あり、米二十四万八千斛を出し、卿大夫以下四千人に禄を給し、兵三十万人に禄を給する。今、桂州の墾田は約一万四十二頃、丁二十一万六千六百一十五、税銭一万五千余緡、苗米五万二百斛余あり、州県の官は百員に満たず、官兵五千一百人である。蓋し土地は荒蕪し、遊手で末業に従う者が多いため、地利多く遺され、財用足らず、皆、本政が修まらぬ故である。」

原文「桂州地東西六百里,南北五百里,以古尺計之,為方百里之國四十,當墾田二百二十五萬二千八百頃,有田夫二百四萬八千,出米二十四萬八千斛,祿卿大夫以下四千人,祿兵三十萬人。今桂州墾田約萬四十二頃,丁二十一萬六千六百一十五,稅錢萬五千餘緡,苗米五萬二百斛有奇,州縣官不滿百員,官兵五千一百人。蓋土地荒蕪而遊手末作之人眾,是以地利多遺,財用不足,皆本政不修之故。」

朱熹は甚だその書を愛した。東陽の陳亮曰く、「勳がこの書を作るに当たり、古を考証し今を検証し、思慮周密であり、勤勉であると言えよう。世の井地の学を為す者で、勳に勝る者があろうか。要は必ず英雄特起の君がおり、一変の後に用いられ、順を成し利を致せば、民は驚かずしてその後の善政を為すことができるであろう。」

原文朱熹甚愛其書。東陽陳亮曰:「勳為此書,考古驗今,思慮周密,可謂勤矣。世之為井地之學者,孰有加於勳者乎?要必有英雄特起之君,用於一變之後,成順致利,則民不駭而可以善其後矣。」

劉才邵

原文劉才邵

劉才邵、字は美中、吉州廬陵の人である。その上世の鶚は、太宗に召し見えられたが、用いられるに及ばずして卒した。嘗て五代の文辞の卑弱を憤り、楊雄の『法言』に倣い、『法語』八十一篇を著して世に行われた。才邵は大観二年に上舍より釋褐し、贛・汝二州の教授となり、また湖北提挙学事管幹文字となった。宣和二年、宏詞科に中り、司農寺丞に遷った。靖康元年、校書郎に遷った。

原文劉才邵,字美中,吉州廬陵人。其上世鶚,太宗召見,未及用而卒。嘗憤五季文辭卑弱,仿楊雄《法言》,著《法語》八十一篇行於世。才邵以大觀二年上舍釋褐,為贛、汝二州教授,復為湖北提舉學事管幹文字。宣和二年,中宏詞科,遷司農寺丞。靖康元年,遷校書郎。

高宗が即位すると、親老を以て帰り侍し、閑居すること十年。御史中丞廖剛がこれを推薦し、召し見えられ、祕書丞に遷り、駕部員外郎を歴任し、吏部員外郎に遷り、侍右選事を典した。先に、宗室が宮観・岳廟に注するには、例として部に赴くを須い、遠方の者は行くに難いことがあった。才邵は、所属を経て部に聞かせ、条に依り注擬することを許すよう言上し、行って便利であった。軍器監に遷り、既にして起居舍人に遷り、未だ幾ばくもせず、中書舍人兼権直学士院となった。帝はその能文を称したが、時の宰相に忌まれ、漳州知州として出された。即ち城東に渠を十四開き、閘と斗門を設けて瀦え匯わせ決し、田数千畝を溉いだ。民は甚だこれを徳とした。二度祠官を奉じた。紹興二十五年、召されて工部侍郎兼直学士院に拝され、尋いで権吏部尚書となった。疾を以て祠を請い、顯謨閣直学士を加えられた。卒し、通奉大夫を贈られた。

原文高宗即位,以親老歸侍,居閑十年。御史中丞廖剛薦之,召見,遷祕書丞,歷駕部員外郎,遷吏部員外郎,典侍右選事。先是,宗室注宮觀、岳廟,例須赴部,遠者或難於行。才邵言許經所屬以聞於部,依條注擬,行之而便。遷軍器監,既而遷起居舍人,未幾,為中書舍人兼權直學士院。帝稱其能文,時宰忌之,出知漳州。即城東開渠十有四,為閘與斗門以瀦匯決,溉田數千畝。民甚德之。兩奉祠。紹興二十五年,召拜工部侍郎兼直學士院,尋權吏部尚書。以疾請祠,加顯謨閣直學士。卒,贈通奉大夫。

才邵は気和ぎ貌恭しく、権臣が事を用いる時に当たり、雍容として遜避し、以て名節を保った。著すところの『檆溪居士集』が世に行われる。

原文才邵氣和貌恭,方權臣用事之時,雍容遜避,以保名節。所著《檆溪居士集》行世。

許忻

原文許忻

許忻は拱州の人である。宣和三年の進士、高宗の時、吏部員外郎となり、引見の旨があった。この時、金国の使人張通古が館に在った。忻は上疏して和議の不便を極論し、曰く、

原文許忻,拱州人。宣和三年進士,高宗時,為吏部員外郎,有旨引見。是時,金國使人張通古在館,忻上疏極論和議不便,曰:

臣は二度召見を受け、文館に抜擢され置かれたが、今また叡旨を降して引對せしめられた。今、陛下が多難の時にあって、千慮の一得を採りて聰明を広めんとされるのを見るは、臣が萬分の一を圖り報いんとする秋である。故に敢えて愚を竭くし忠を效さんとす。

原文「臣兩蒙召見,擢置文館,今茲復降睿旨引對。今見陛下於多故之時,欲采千慮一得之說以廣聰明,是臣圖報萬分之秋也,故敢竭愚而效忠。

臣聞く、金使の来朝に、陛下は祖宗の陵寢が祭祀を廃せられ、徽宗皇帝・顕粛皇后の梓宮が遠方にあり、母后の春秋既に高く、久しく晨昏の奉を闕き、淵聖皇帝と天族の還帰期無きを以て、己を屈して和に就かんとし、使を遣わして聘に報いんとされたと。この事は體大なるが故に、既に侍従・臺諫に詔して各おの見聞を具えさせた。侍従臺諫が皆可と為すや否や、或いは可否雑進して陛下未だ擇ぶところ無きか、或いは金が既に恭順となり、復た難行の禮を以て我を邀えずや、この数者は臣の得て聞くところに非ず。請う試みに利害を別白し、陛下の為に詳しくこれを陳べん。

原文臣聞金使之來,陛下以祖宗陵寢廢祀,徽宗皇帝、顯肅皇后梓宮在遠,母后春秋已高,久闕晨昏之奉,淵聖皇帝與天族還歸無期,欲屈己以就和,遣使報聘。茲事體大,固已詔侍從、臺諫各具所見聞矣,不知侍從臺諫皆以為可乎?抑亦可否雜進,而陛下未有所擇乎?抑亦金已恭順,不復邀我以難行之禮乎?是數者,臣所不得而聞也。請試別白利害,為陛下詳陳之。

そもそも金人の始め寇入した時、固より講和せんと云う。靖康の初め、肅王を大河に至らしめて返すと約し、已にしてこれを挟み北行し、終に音耗無し。河朔千里、焚掠遺すところ無く、老稚係累して死する者億萬計、復た威勝・隆德等州を破る。淵聖皇帝嘗て詔書を降し、金人の盟を渝つるは必ず守るべからずと謂う。是の歳又復た深入し、朝廷の制置宜しからず、都城遂に陥つ。敵情狡甚だしく、我が百万の衆必ず死を以て争わんことを懼れ、諸道の勤王の師を止め、則ち又た講和せんと曰う。乃ち淵聖を邀えて出郊せしめ、次いで徽宗を邀えて継いで往かしめ、宗族を追取すること殆んど虚日無く、府庫を傾竭して孑遺有ること無く、公卿大臣類みな拘執せられ、然る後に偽りに張邦昌を立てて去る。則ち是れ金人の所謂講和なる者は、果たして信ずべけんや。

原文夫金人始入寇也,固嘗云講和矣。靖康之初,約肅王至大河而返,已而挾之北行,訖無音耗。河朔千里,焚掠無遺,老稚係累而死者億萬計,復破威勝、隆德等州。淵聖皇帝嘗降詔書,謂金人渝盟,必不可守。是歲又復深入,朝廷制置失宜,都城遂陷。敵情狡甚,懼我百萬之眾必以死爭也,止我諸道勤王之師,則又曰講和矣。乃邀淵聖出郊,次邀徽宗繼往,追取宗族,殆無虛日,傾竭府庫,靡有孑遺,公卿大臣類皆拘執,然後偽立張邦昌而去。則是金人所謂講和者,果可信乎?

これは已に然る禍にして、陛下の親しく見られしところなり。今徒に王倫の繆悠の説に由り、遂に金人を誘致して我を責むるに必ず行うべからざる禮を以てし、而して陛下遂に已に屈己してこれに従わんとす。臣是を以て覺えず涕泗の横流するなり。而して彼は『詔諭江南』を名として来る。則ち是れ尺書を飛ばして本朝を下すなり。豈に講和と謂わんや。我躬としてこれを受くれば、真に臣妾と為るなり。陛下方に苫を寝て塊を枕す。其れ穹廬の拜に下るを忍びんや。臣窃かに料るに、陛下必ず忍びて為さざるべし。万一其の詔令を奉ずれば、則ち将に吾が大臣を変置し、吾が諸将を分部し、邀求厭くこと無く、窮極有ること無からん。此の時に当たり、陛下従わんと欲すれば則ち以て国を立つる無く、従わざれば則ち復た我を責むるに違令を以てせん。其れ何を以て自ら処せん。況んや犬羊の群、我が陵寢を驚動し、我が宗廟を戕毀し、我が二帝を劫遷し、我が祖宗の地を据守し、我が祖宗の民を塗炭し、而して又た徽宗皇帝・顕粛皇后の鑾輿返らず、遂に万国をして痛心せしむ。是れ不倶戴天の仇と謂う。彼は我の必ず此の仇を復たすを意とし、未だ嘗て頃刻も我を図るを忘れず。豈に一王倫能く平げんや。方に王倫の此の行を為すや、閭巷の人と雖も、其の外夷に取笑され、国の為に事を生ずるを知る。今故無く狂敵を誘いて悖慢此の如し。若し猶お其の説を倚信して寝めざらば、誠に慟哭すべし。賈誼をして復た生ぜしめば、国に人ありと謂わんか、人無しと謂わんか。

原文此已然之禍,陛下所親見。今徒以王倫繆悠之說,遂誘致金人責我以必不可行之禮,而陛下遂已屈己從之,臣是以不覺涕泗之橫流也。而彼以『詔諭江南』為名而來,則是飛尺書而下本朝,豈講和之謂哉?我躬受之,真為臣妾矣。陛下方寢苫枕塊,其忍下穹廬之拜乎?臣竊料陛下必不忍為也。萬一奉其詔令,則將變置吾之大臣,分部吾之諸將,邀求無厭,靡有窮極。當此之時,陛下欲從之則無以立國,不從之則復責我以違令,其何以自處乎?況犬羊之群,驚動我陵寢,戕毀我宗廟,劫遷我二帝,據守我祖宗之地,塗炭我祖宗之民,而又徽宗皇帝、顯肅皇后鑾輿不返,遂致萬國痛心,是謂不共戴天之仇。彼意我之必復此仇也,未嘗頃刻而忘圖我,豈一王倫能平哉?方王倫之為此行也,雖閭巷之人,亦知其取笑外夷,為國生事。今無故誘狂敵悖慢如此,若猶倚信其說而不寢,誠可慟哭,使賈誼復生,謂國有人乎哉,無人乎哉?

古の外夷に、固より已むを得ずして之に事うるに皮幣を以てし、珠玉を以てし、犬馬を以てする者有り。曽て其の詔を受け、唯だ外夷の欲に従うこと、今日の事の如き有りや。脱或いは羞を包み恥を忍び、其の詔諭を受け、而して彼の我に許すところ復た約の如くならざれば、則ち徒に莫大の辱を受け、万世の譏を貽す。縦え約の如くせしむるとも、則ち是れ我が今日所有の土地、先ず拱手して外夷に奉ずるなり。祖宗の在天の霊、以て如何と謂わん。徽宗皇帝・顕粛皇后の不倶戴天の仇、遂に復たすべからざるなり。豈に痛まざらんや。陛下其れ審らかにこれを思え。断じて聖心の能く安んずる所に非ざるなり。金使の入境以来、内外惶惑す。儻或いは陛下終に王倫の説を妄ならずと為し、金人の詔を従うべしと為さば、臣恐るらくは唯だ外夷の姦計に堕つるのみならず、意外の虞、将に勝え言うべからざる者有らんと。此れ衆の共に暁くところ、陛下も亦た嘗て此に慮及せられたるか。

原文古之外夷,固有不得已而事之以皮幣、事之以珠玉、事之以犬馬者,曷嘗有受其詔,惟外夷之欲是從,如今日事哉?脫或包羞忍恥,受其詔諭,而彼所以許我者不復如約,則徒受莫大之辱,貽萬世之譏;縱使如約,則是我今日所有土地,先拱手而奉外夷矣,祖宗在天之靈,以謂如何?徽宗皇帝、顯肅皇后不共戴天之仇,遂不可復也,豈不能痛哉!陛下其審思之,斷非聖心所能安也。自金使入境以來,內外惶惑,儻或陛下終以王倫之說為不妄,金人之詔為可從,臣恐不惟墮外夷之姦計,而意外之虞,將有不可勝言者矣。此眾所共曉,陛下亦嘗慮及於此乎?

国家両たび淮甸にて外夷を敗る。未だ中原の地を克復せずと雖も、大江の南も亦た足りて支吾す。軍声粗く震い、国勢粗く定まる。故に金人王倫の往復に因り、使を遣わして朝廷を嘗試せしむ。我若し其の請うところに従えば、正に計中に堕つ。其の欲に従わざれば、且つ厚く我が金幣を携えて去らん。亦た何を適として彼の利に非ざらんや。今の計たる、独り陛下幡然として慮を改め、中外に布告して人心を収め、祖宗の陵寢祭祀を廃し、徽宗皇帝・顕粛皇后の梓宮遠方に在り、母后・淵聖・宗枝族属未だ還らず、故に使を遣わして迎請し、冀くは遂に南帰せんとす。今敵の来たり、朝廷を邀うるに必ず従うべからざる禮を以てするは、実に王倫の売国の罪なり。当に行って誅責し、以て天下の疑を釈すべし。然る後に諸将を激厲し、謹んで辺陲を捍ぎ、敵計に堕ちず、忠正を進用し、姦邪を黜遠し、以て紀綱を振い、政事を修め、務めて実效を為し、虚名に事せず、夕に慮り朝に謀り、以て興復を図れば、庶幾くは可ならん。

原文國家兩嘗敗外夷於淮甸,雖未能克復中原之地,而大江之南亦足支吾。軍聲粗震,國勢粗定,故金人因王倫之往復,遣使來嘗試朝廷。我若從其所請,正墮計中;不從其欲,且厚攜我之金幣而去,亦何適而非彼之利哉!為今之計,獨有陛下幡然改慮,布告中外,以收人心,謂祖宗陵寢廢祀,徽宗皇帝、顯肅皇后梓宮在遠,母后、淵聖、宗枝族屬未還,故遣使迎請,冀遂南歸。今敵之來,邀朝廷以必不可從之禮,實王倫賣國之罪,當行誅責,以釋天下之疑。然後激厲諸將,謹捍邊陲,無墮敵計,進用忠正,黜遠姦邪,以振紀綱,以修政事,務為實效,不事虛名,夕慮朝謀,以圖興復,庶乎可矣。

今金使既に館に就くも、謂う当に別に区処の宜を議すべし。臣聞く、万人の聚まる所、必ず公言有りと。今廷に在る百執事の臣、中外と一心にして、皆以て金人の詔は従うべからずと為す。公言此の如し。陛下独り察せざるか。若し夫れ粘罕の既に死し、外夷内乱し、契丹林牙復た立つを以て、故に今の金主復た我と平等に語ると謂うは、是れ皆詐を行い我が師を款すの計にして、臣の敢えて知る所に非ず。或いは又た謂う、金使館に在り、今稍々恭順なりと。臣の聞く所に如くは、又何ぞ其れ前に悖慢にして、後に遽かに恭順を設くんや。敵情変詐百出、豈に宜しく唯だ其の甘言を聴き、遂に備預の深計を忘れ、其の禍乱の已に至るを待ち、又た及ぶ所無からんや。此れ誠に事情に切る。今日の挙、存亡の繫る所、愚衷感発して已む能わず。望むらくは其の惓惓の忠を鑒み、特垂れて采納せられ、更に三二の大臣と其の便を熟議し、異時の悔を貽さざらんことを。社稷天下幸甚なり。

原文今金使雖已就館,謂當別議區處之宜。臣聞萬人所聚,必有公言。今在廷百執事之臣,與中外一心,皆以金人之詔為不可從,公言如此,陛下獨不察乎?若夫謂粘罕之已死,外夷內亂,契丹林牙復立,故今金主復與我平等語,是皆行詐款我師之計,非臣所敢知也。或者又謂金使在館,今稍恭順。如臣之所聞,又何其悖慢於前,而遽設恭順於後?敵情變詐百出,豈宜惟聽其甘言,遂忘備預之深計,待其禍亂之已至,又無所及?此誠切於事情。今日之舉,存亡所繫,愚衷感發,不能自己,望鑒其惓惓之忠,特垂采納,更與三二大臣熟議其便,無貽異時之悔,社稷天下幸甚。」

疏入るも省みられず。後に忻は故に託して外補に従わんことを乞う。乃ち荊湖南路転運判官を授かる。謫居して撫州に居り、起きて邵陽を知り、卒す。

原文疏入,不省。後忻託故乞從外補,乃授荊湖南路轉運判官。謫居撫州,起知邵陽,卒。

応孟明

原文應孟明

応孟明、字は仲実、婺州永康の人。少くして太学に入り、隆興元年進士第に登る。教官に試中し、臨安府教授に調じ、継いで浙東安撫司幹官・楽平県丞と為る。侍御史葛邲・監察御史王藺が詳定一司勅令所刪定官に薦む。

原文應孟明,字仲實,婺州永康人。少入太學,登隆興元年進士第。試中教官,調臨安府教授,繼為浙東安撫司幹官、樂平縣丞。侍御史葛邲、監察御史王藺薦為詳定一司敕令所刪定官。

輪対にて、まず論じて曰く、「南北通好し、疆場に虞無きも、将を選び兵を練り、常に大敵の境に在るが如くすべし、而して一日忽にすべけんや。貪残苛酷の吏去らず、吾が民安んじて其の生を為さざる者無からんや。賢士は下僚に匿れ、忠言は上聞に壅がる、衆正の門未だ尽く開かず、兼聴の意未だ尽く孚かざるに非ずや。君臣の間、戒懼して自ら持せず、勤労して自ら寧からず、君子を進め、小人を退け、民隠を以て憂いと為し、辺陲を以て警めと為さば、則ち政治自ずから修まり、紀綱自ずから張らん」と。孝宗曰く、「朕早夜戒懼し、頃刻も忘れず、退朝の暇も亦た他に好む所無し、正に臨朝或いは稍く晏んずるを恐るるのみ、則ち万幾の曠つる此より始まらんとす」と。次に監司の貪吏を庇うの禁、薦挙の私情に徇うの禁を申厳せんことを乞う。帝久しく嘉奨す。他日、宰相進擬す、帝掌中より片紙を出だし、二人の姓名を書きて曰く、「卿何故か此に及ばざるや」と。其の一は則ち孟明なり。乃ち大理寺丞を拝す。

原文輪對,首論:「南北通好,疆場無虞,當選將練兵,常如大敵之在境,而可以一日忽乎?貪殘苛酷之吏未去,吾民得無不安其生者乎?賢士匿於下僚,忠言壅於上聞,無乃眾正之門未盡開,而兼聽之意未盡孚乎?君臣之間,戒懼而不自持,勤勞而不自寧,進君子,退小人,以民隱為憂,以邊陲為警,則政治自修,紀綱自張矣。」孝宗曰:「朕早夜戒懼,無頃刻忘,退朝之暇,亦無它好,正恐臨朝或稍晏,則萬幾之曠自此始矣。」次乞申嚴監司庇貪吏之禁,薦舉徇私情之禁,帝嘉獎久之。它日,宰相進擬,帝出片紙於掌中,書二人姓名,曰:「卿何故不及此?」其一則孟明也。乃拜大理寺丞。

故大将李顕忠の子の家僮溺死す、有司殺人を以て誣い、逮繫すること幾三百家。孟明其の冤を察し、長官に白きて之を釈す。出でて福建提挙常平と為り、陛辞す、帝曰く、「朕卿の百姓を愛し、贓吏を悪むを知る、事民に便ならざる有らば、宜しく意を悉くして以て聞かしむべし」と。因りて当世の人才を問う、孟明対えて曰く、「才有りて学ばざれば、則ち刻薄に流る、惟だ上の教化明らかにし、取舍正しうして、回心して道に向わしむれば、則ち成就必ず人に倍せん」と。帝曰く、「誠に人上たる者の責なり」と。孟明部に至り、具に臨遣の意を以て之を諮訪す。帝一日経筵に御す、因りて監司の按察を論じ、顧みて講読官に謂いて曰く、「朕近日数人を得たり、応孟明、其の最なり」と。尋いで浙東提点刑獄を除し、郷部に引嫌して、江東に使わしむるを改む。

原文故大將李顯忠之子家僮溺死,有司誣以殺人,逮繫幾三百家。孟明察其冤,白於長官,釋之。出為福建提舉常平,陛辭,帝曰:「朕知卿愛百姓,惡贓吏,事有不便於民,宜悉意以聞。」因問當世人才,孟明對曰:「有才而不學,則流為刻薄,惟上之教化明,取舍正,使回心向道,則成就必倍於人。」帝曰:「誠為人上者之責。」孟明至部,具以臨遣之意咨訪之。帝一日御經筵,因論監司按察,顧謂講讀官曰:「朕近日得數人,應孟明,其最也。」尋除浙東提點刑獄,以鄉部引嫌,改使江東。

会に広西帥を謀る、帝輔臣に謂いて曰く、「朕熟思す、応孟明に易うる者無し」と。即ち手筆を以て孟明に賜いて曰く、「朕聞く広西の塩法利害相半すと、卿任に到り、自ら詳しく事実を究むべし」と。直秘閣に進み、静江府を知り広西経略安撫を兼ぬ。初め、広西塩官般を易えて客鈔と為す、客戶多からず、折閲逃避す、遂に民に抑配す。之を行うこと六年、公私交わりて病み、追逮禁錮し、民聊生すべからず。孟明条具して駅奏し其の弊を除く、詔して之に従う。禁卒朱興党侶を結集し、兵を雷・化の間で弄び、声勢漸く長ず、孟明将を遣わし縛致して轅門に斬る。

原文會廣西謀帥,帝謂輔臣曰:「朕熟思之,無易應孟明者。」即以手筆賜孟明曰:「朕聞廣西鹽法利害相半,卿到任,自可詳究事實。」進直祕閣、知靜江府兼廣西經略安撫。初,廣西鹽易官般為客鈔,客戶無多,折閱逃避,遂抑配於民。行之六年,公私交病,追逮禁錮,民不聊生。孟明條具驛奏除其弊,詔從之。禁卒朱興結集黨侶,弄兵雷、化間,聲勢漸長,孟明遣將縛致轅門斬之。

光宗即位し、浙西提点刑獄に遷り、尋いで召されて吏部員外郎と為り、左司に改め、右司に遷り、再び中書門下省検正諸房公事に遷る。寧宗即位し、太府卿兼吏部侍郎を拝す。慶元初、権吏部侍郎、卒す。

原文光宗即位,遷浙西提點刑獄,尋召為吏部員外郎,改左司,遷右司,再遷中書門下省檢正諸房公事。寧宗即位,拜太府卿兼吏部侍郎。慶元初,權吏部侍郎,卒。

孟明儒学を以て奮身して人主の知を受く、官職嘗て倖遷せず。韓侂冑嘗て其の密客を遣わし諫官を以て誘い、俾く趙汝愚を誣わしめんとす、孟明答えず、士論此を以て之を重んず。

原文孟明以儒學奮身受知人主,官職未嘗倖遷。韓侂胄嘗遣其密客誘以諫官,俾誣趙汝愚,孟明不答,士論以此重之。

曾三聘

原文曾三聘

曾三聘、字は無逸、臨江新淦の人。乾道二年進士。調べて贛州司戸参軍、累遷して軍器監主簿。旨有りて划車弩を造らしむ、三聘謂う、「划車弩六人これを挽き、而して箭の及ぶ所止むるに二百六十歩。今用うる所の克敵弓之に較ぶれば、工費其の十の三に及ばず、一人これを挽きて射すること三百六十歩に及ぶ可し、利害暁然たり」と。乃ち果たして造らず。

原文曾三聘,字無逸,臨江新淦人。乾道二年進士。調贛州司戶參軍,累遷軍器監主簿。有旨造划車弩,三聘謂:「划車弩六人挽之,而箭之所及止二百六十步。今所用克敵弓較之,工費不及十之三,一人挽之而射可及三百六十步,利害曉然。」乃不果造。

光宗重華宮に朝せず、中外疑懼す、三聘書を以て丞相留正に抵る。正未だ言わざるに、会に他事を以て合わず去らんことを求む。三聘謂う、「丞相今泯黙して退かんや、亦た将に今日言い難き所の者を取って別白に之を言いて而る後に退かんや。凡そ今闕庭の内、閨門衽席の間、父子夫婦の際、群臣深く言うこと敢えざるは、嫌を避け罪を遠ざくるのみ。丞相身退き計決す、之を言う何の嫌か有らん」と。秘書郎に遷る。帝玉津園に幸せんと欲す、三聘上疏して言う、「今人心既に離れ、大乱将に作らんとす、小大の臣震怖して命を請う、而して陛下安意肆志して聞知せず、万一敵人の諜知するに、一介の使を馳せ、北宮に安否を問わば、何を以てか之に答うるを知らず。姦宄間を窺い、一紙の檄を伝え、乗輿を指斥せば、何を以てか之を禦ぐを知らず。望むらくは亟に法駕を備えて朝謁せよ、然らずんば、臣実に死する所を知らず」と。

原文光宗不朝重華宮,中外疑懼,三聘以書抵丞相留正。正未及言,會以它事不合求去。三聘謂:「丞相今泯默而退耶,亦將取今日所難言者別白言之而後退?凡今闕庭之內,閨門衽席之間,父子夫婦之際,群臣莫敢深言者,避嫌遠罪耳。丞相身退計決,言之何嫌乎?」遷祕書郎。帝欲幸玉津園,三聘上疏言:「今人心既離,大亂將作,小大之臣震怖請命,而陛下安意肆志而弗聞知,萬一敵人諜知,馳一介之使,問安北宮,不知何以答之?姦宄窺間,傳一紙之檄,指斥乘輿,不知何以禦之?望亟備法駕朝謁,不然,臣實未知死所也。」

孝宗病革す、復た上疏して言う、「道路流言、洶洶日甚だし、臣恐らくは不幸にして狂夫姦人有り、忠憤を託して詐を行い、曲直を仮りて衆を動かさんことを、此に至りて後悔せば、則ち恐らくは及ぶ無からん」と。帝意動かさる。孝宗崩ずるに及び、帝疾有りて喪を執ること能わず、朝論益震洶す、三聘今日の事勢は、儲を建つるに若かずと謂う。或る之を戒めて曰く、「前日台諫諸公汝の其の職を奪うと謂えり、今復た疏有るや」と。三聘曰く、「此何の時ぞ而して煩言を避くべけんや」と。

原文孝宗病革,復上疏言:「道路流言,洶洶日甚,臣恐不幸而有狂夫姦人,託忠憤以行詐,假曲直以動眾,至此而後悔之,則恐無及矣。」帝意為動。及孝宗崩,帝疾不能執喪,朝論益震洶,三聘謂今日事勢,莫若建儲。或戒之曰:「前日臺諫諸公謂汝奪其職,今復有疏耶?」三聘曰:「此何時而可避煩言也。」

寧宗立ち、考功郎を兼ね、後郢州を知る。会に韓侂冑相と為り、三聘を指して故相趙汝愚の腹心と為し、坐して両官を追う。久しくして、元官を復し祠と与う。差して郴州を知らしめ、提点広西・湖北刑獄に改む、皆辞して赴かず。侂冑誅せられ、諸賢竄斥に遭う者相継いで召用せらる、三聘禄及ばず、終に自ら言わず。嘉熙間、三聘已に卒す、旨有りて特だ三官を贈り、直龍図閣、謚を「忠節」と賜う。

原文寧宗立,兼考功郎,後知郢州。會韓侂胄為相,指三聘為故相趙汝愚腹心,坐追兩官。久之,復元官與祠。差知郴州,改提點廣西、湖北刑獄,皆辭不赴。侂胄誅,諸賢遭竄斥者相繼召用,三聘祿不及,終不自言。嘉熙間,三聘已卒,有旨特贈三官,直龍圖閣,賜謚「忠節」。

徐僑

原文徐僑

徐僑、字は崇甫、婺州義烏の人。蚤く呂祖謙の門人葉邽に従いて学ぶ。淳熙十四年、進士に挙げらる。調べて上饒主簿、始めて朱熹の門に登り、熹其の明白剛直を称し、命じて「毅」を以て斎を名づけしむ。入りて秘書省正字・校書郎兼呉・益王府教授と為る。直宝謨閣・江東提点刑獄、丞相史弥遠に迕いて劾罷せらる。宝慶初、葛洪・喬行簡代わって祠を請う、遂に禄を受けず。紹定中、老を告げ、請いを得る。

原文徐僑,字崇甫,婺州義烏人。蚤從學於呂祖謙門人葉邽。淳熙十四年,舉進士。調上饒主簿,始登朱熹之門,熹稱其明白剛直,命以「毅」名齋。入為祕書省正字、校書郎兼吳、益王府教授。直寶謨閣、江東提點刑獄,以迕丞相史彌遠劾罷。寶慶初,葛洪、喬行簡代為請祠,迄不受祿。紹定中,告老,得請。

端平初、諸賢と俱に召され、秘書少監・太常少卿に遷る。趣きて入覲し、手疏数千言、皆感憤剴切にして、上は主闕を劘き、下は群臣に逮り、黒白を分別し、回隠する所無し。帝数え慰諭す、顧みて其の衣履垢敝するを見て、愀然として謂いて曰く、「卿清貧と謂うべし」と。僑対えて曰く、「臣貧しからず、陛下乃ち貧しきなり」と。帝曰く、「朕何を為して貧しきや」と。僑曰く、「陛下国本未だ建たず、疆宇日蹙く。権幸用事し、将帥材に非ず。旱蝗相仍い、盗賊並び起つ。経用芸無く、帑蔵空虚す。民横斂に困しみ、軍掊克に怨む。群臣交を養いて天子孤立し、国勢阽危にして陛下悟らず。臣貧しからず、陛下乃ち貧しきなり」と。又言う、「今女謁・閹宦相為に囊橐と為り、誕めて二豎を為し、以て国の膏肓に処る。而して執政大臣又和緩の術無し。陛下此れを慮わずして耽楽是に従う、世に扁鵲有らば、将に見て却走せん」と。時に貴妃閻氏方に寵有り、而して内侍董宋臣表裏して用事す、故に僑論じて之に及ぶ。帝之が為に感動改容し、咨嗟太息す。明日、手詔して辺帥の尤も状無き者を罷め、群臣に申儆して朋党を以て之を戒めしめ、有司に命じ中外の浮費を裁節せしめ、而して僑に金帛を賜うこと甚だ厚し。僑固く辞して受けず。

原文端平初,與諸賢俱被召,遷祕書少監、太常少卿。趣入覲,手疏數千言,皆感憤剴切,上劘主闕,下逮群臣,分別黑白,無所回隱。帝數慰諭之,顧見其衣履垢敝,愀然謂曰:「卿可謂清貧。」僑對曰:「臣不貧,陛下乃貧耳。」帝曰:「朕何為貧?」僑曰:「陛下國本未建,疆宇日蹙;權幸用事,將帥非材;旱蝗相仍,盜賊並起;經用無藝,帑藏空虛;民困於橫斂,軍怨於掊克;群臣養交而天子孤立,國勢阽危而陛下不悟:臣不貧,陛下乃貧耳。」又言:「今女謁、閹宦相為囊橐,誕為二豎,以處國膏肓,而執政大臣又無和緩之術,陛下此之不慮而耽樂是從,世有扁鵲,將望見而卻走矣。」時貴妃閻氏方有寵,而內侍董宋臣表裏用事,故僑論及之。帝為之感動改容,咨嗟太息。明日,手詔罷邊帥之尤無狀者,申儆群臣以朋黨為之戒,命有司裁節中外浮費,而賜僑金帛甚厚。僑固辭不受。

侍講として、友愛の大義を開陳し、これにより皇子趙竑の爵位を復し、周敦頤・程顥・程頤・張載・朱熹を従祀すること、趙汝愚を寧宗廟に配享することを請うた。帝はその請いをすべて聞き入れた。金の使者が来たとき、葉僑は国書がないので外に宿泊させるべきであり、叔向が鄭を辞した故事のようであるとし、丞相の意に逆らい、強く休致を願い出たが、帝はきわめて懇ろに慰留した。工部侍郎に遷るが、辞意はますます固く、遂に内祠侍読の職を命じられ、やむを得ず就職した。事に遇っては言うべきことを尽くした。病を理由に前の請いを申し立て、宝謨閣待制の祠官となった。卒し、諡は「文清」である。

原文侍講,開陳友愛大義,用是復皇子竑爵,請從祀周敦頤、程顥、程頤、張載、朱熹,以趙汝愚侑食寧宗,帝皆如其請。金使至,僑以無國書宜館之於外,如叔向辭鄭故事,迕丞相意,力丐休致,帝諭留甚勤。遷工部侍郎,辭益堅,遂命以內祠侍讀,不得已就職。遇事盡言。以疾申前請,乃以寶謨閣待制奉祠。卒,謚「文清」。

葉僑はかつて言った。「近年、朱熹の書は天下に満ちているが、それはただ切り裂き拾い集めて、進取の資とするに過ぎず、その専精篤実にして、その言うところを得る者は少ない。」故にその学は一に真践実履を尚ぶことを旨とした。奏対の言葉は、理と欲を剖析し、それによって勧懲を致した。弘益するところ多かった。その官を守り家に居る、清苦刻厲の操は、人の為し難きところである。

原文僑嘗言:「比年熹之書滿天下,不過割裂掇拾,以為進取之資,求其專精篤實,能得其所言者蓋鮮。」故其學一以真踐實履為尚。奏對之言,剖析理欲,因致勸懲。弘益為多。若其守官居家,清苦刻厲之操,人所難能也。

度正

原文度正

度正、字は周卿、合州の人。紹熙元年の進士。歴官して国子監丞となる。当時、士大夫は賢愚を問わず、皆李全が必ず反すると策していたが、敢えて言う者はなく、度正ただ一人上疏して極言し、かつ李全を斃す策を三つ献じた。その言葉は鯁亮激切であった。

原文度正,字周卿,合州人。紹熙元年進士。歷官為國子監丞。時士大夫無賢愚,皆策李全必反而不敢言,正獨上疏極言之,且獻斃全之策有三,其言鯁亮激切。

軍器少監に遷る。輪対して言う。「陛下が聖学を推し行われるには、まず家を正すことから始められるべきである。」太常少卿に進む。ちょうど太廟の災があり、二つの説を献じた。その一つは朱熹の議を用い、その一つは宋朝の廟制に因り朱熹の議を参酌したものである。「西から東へと一列とし、各室の後ろに一室を設け、祧廟の主を蔵する。例えば僖祖廟には次第に祧せられた主を蔵し、昭は左に居し、穆は右に居する。後世、穆の祧主は太祖廟に蔵し、昭の祧主は太宗廟に蔵する。仁宗は百世遷さざる宗とし、後世の昭の祧主はこれを蔵する。高宗は百世遷さざる宗とし、後世の穆の祧主はこれを蔵する。室の前に両室を設ける。三年の祫享には、帷帳で幕して一室に通じ、諸廟の主および祧廟の主をすべて出して一列とし、その上で合食する。従来この廟は一室であり、祫享のたびに室内で合祭し、名は合享といいながら実は未だ嘗て合享したことがなかった。この三室を増し、後に祧主を蔵する所があり、前に祖宗合食の地があれば、本朝の制に初めから更改はなく、しかもすでに三年大祫の義を得ている。」

原文遷軍器少監。輪對,言:「陛下推行聖學,當自正家始。」進太常少卿。適太廟災,為二說以獻,其一則用朱熹之議,其一則因宋朝廟制而參以熹之議:「自西徂東為一列,每室之後為一室,以藏祧廟之主。如僖祖廟以次祧主則藏之,昭居左,穆居右,後世穆之祧主藏太祖廟,昭之祧主藏太宗廟。仁宗為百世不遷之宗,後世昭之祧主則藏之。高宗為百世不遷之宗,後世穆之祧主則藏之。室之前為兩室;三年祫享,則帷帳幕之通為一室,盡出諸廟主及祧廟主並為一列,合食其上。往者此廟為一室,凡遇祫享合祭於室,名為合享,而實未嘗合享。合增此三室,後有藏祧主之所,前有祖宗合食之地,於本朝之制初無更革,而頗已得三年大祫之義。」

権礼部侍郎兼侍右郎官に遷り、兼ねて同修国史・実録院同修撰となる。礼部侍郎に遷り、一官を転じ、礼部侍郎のまま致仕した。卒し、四官を贈られ、賻として銀絹三百を賜った。著すところに『性善堂文集』がある。

原文遷權禮部侍郎兼侍右郎官,兼同修國史、實錄院同修撰。遷禮部侍郎,轉一官,守禮部侍郎致仕。卒,贈四官,賻銀絹三百。所著有《性善堂文集》。

程珌

原文程珌

程珌、字は懷古、徽州休寧の人。紹熙四年の進士。昌化主簿に授かり、建康府教授に調じ、富陽県知事に改め、主管官告院に遷る。宗正寺主簿・枢密院編修官を歴任し、権右司郎官・秘書監丞、江東転運判官となる。陛辞の際、寧宗が宰臣に言う。「程珌をどうして外補させることができようか。」遂に旧職に復した。

原文程珌,字懷古,徽州休寧人。紹熙四年進士。授昌化主簿,調建康府教授,改知富陽縣,遷主管官告院。歷宗正寺主簿、樞密院編修官,權右司郎官、秘書監丞,江東轉運判官。陛辭,寧宗謂宰臣曰:“程珌豈可容其補外?”遂復舊職。

浙西提挙常平に遷り、また秘書丞に遷り、秘書省著作郎に昇進し、まもなく軍器少監兼権左司郎官となる。国子司業兼国史編修・実録検討に遷り、兼ねて権直舎人院となり、起居舎人に遷り、兼職は旧のまま。権吏部侍郎、直学士院兼同修国史・実録院同修撰となり、兼ねて権中書舎人となる。礼部侍郎に遷りなお侍読を兼ね、権刑部尚書となり、休寧県男に封ぜられる。礼部尚書兼同修国史・実録院同修撰に授かり、兼ねて権吏部尚書となり、翰林学士・知制誥に拝され、兼ねて玉牒官を修し、子に進封される。五度上疏して祠官を請い、煥章閣学士・建寧府知事となり、福建路招捕使を授かる。旧職をもって玉隆万寿宮を提挙し、伯に進封される。敷文閣学士・寧国府知事に進み、贛州知事に改まるが、いずれも赴任せず。新安郡侯に進封され、宝文閣学士を加えられ、福州知事兼福建安撫使となる。再び祠官を奉じ、また龍図閣学士を加えられる。端明殿学士をもって致仕し、卒す。年七十九。特進・少師を贈られた。

原文遷浙西提舉常平,又遷祕書丞,升祕書省著作郎,尋為軍器少監兼權左司郎官。遷國子司業兼國史編修、實錄檢討,兼權直舍人院,遷起居舍人,兼職依舊。權吏部侍郎,直學士院兼同修國史、實錄院同修撰,兼權中書舍人。遷禮部侍郎仍兼侍讀,權刑部尚書,封休寧縣男。授禮部尚書兼同修國史、實錄院同修撰,兼權吏部尚書,拜翰林學士、知制誥,兼修玉牒官,進封子。五上疏丐祠,以煥章閣學士、知建寧府,授福建路招捕使。以舊職提舉玉隆萬壽宮,進封伯。進敷文閣學士、知寧國府,改知贛州,皆不赴。進封新安郡侯,加寶文閣學士、知福州兼福建安撫使。再奉祠,又加龍圖閣學士。以端明殿學士致仕,卒,年七十有九,贈特進、少師。

程珌は十歳のとき氷を詠じ、言葉は人を驚かせた。直学士院のとき、寧宗が崩御し、丞相史弥遠が夜に程珌を召すと、一家は大いに驚いた。程珌の妻は丞相王淮の娘であり、泣いて、不測の事を疑い、人をやって窺わせたが、弥遠が出迎えているのを知り、その後で涙を収めた。弥遠は程珌とともに禁中に入り矯詔を草し、一晩で制誥二十五通を作った。初め程珌に政府(政事堂)への参与を許し、楊皇后は金一囊を封じて程珌に賜った。程珌はこれを受けて辞さず、帰って見ると、その価値は計り知れなかった。弥遠はこれによって程珌を恨み、ついに共に政務を執らせなかったという。

原文珌十歲詠冰,語出驚人。直學士院時,寧宗崩,丞相史彌遠夜召珌,舉家大驚。珌妻丞相王淮女也,泣涕,疑有不測,使人瞷之,知彌遠出迎,而後收涕。彌遠與珌同入禁中草矯詔,一夕為制誥二十有五。初許珌政府,楊皇后緘金一囊賜珌,珌受之不辭,歸視之,其直不貲。彌遠以是銜之,卒不與共政云。

牛大年

原文牛大年

牛大年、字は隆叟、揚州の人。慶元二年の進士。歴官して将作監主簿となる。入対して言う。「人主がまずなすべきことは、要するに天命人心の繫がる所に念を致すことである。人主は富貴崇高の位に居り、重くして宗社の託を承け、尊くして臣辟の戴するところとなり、一指意すれば衆敢て違わず、一動作すれば人孰れか敢て議するも、しかし天心は常ならず、畏るべし。」また言う。「今日の士気もまた久しく靡いている。立国の意を体してこれを振起すべきである。扶持作興の意あって、その後にはじめて縉紳に貪名嗜利の習いがなく、貪名嗜利の習いがなくて、その後にはじめて持正秉義の操がある。国家の休戚は士大夫の風俗にあり、而して風俗の善悪は朝廷にある。惟うに陛下がこれを振起され、機括一たび運ばば、天下は転移し、風俗は改まるであろう。」

原文牛大年,字隆叟,揚州人。慶元二年進士。歷官將作監主簿。入對,言:「人主所當先者,要以天命人心之所繫致念焉。夫以人主居富貴崇高之位,重而承宗社之托,尊而為臣辟之戴,一指意而眾莫敢違,一動作而人孰敢議,然而天心靡常,則可畏也。」又言:「今日士氣亦久靡矣,宜體立國之意以振起之。夫有扶持作興之意,而後縉紳無貪名嗜利之習;無貪名嗜利之習,而後有持正秉義之操。國家之休戚,在士大夫之風俗,而風俗之善惡在朝廷。惟陛下為之振起,機括一運,天下轉移,而風俗易矣。」

軍器監主簿・大宗正丞・四川提挙茶馬兼権総領・黎州知事兼管内安撫司公事・黎雅州屯戍軍馬節制に遷り、直宝章閣を加えられ、工部郎官となる。入対して、貪吏を懲らすことを請う。侍左郎中に遷り、直華文閣・浙東提点刑獄に進み、守秘書少監・宗正少卿に遷り、秘書監に昇進し、起居舎人に遷り、起居郎兼崇政殿説書に昇る。宝章閣待制をもって太平興国宮を提挙し、卒す。特旨により四官を贈られた。牛大年は清操凛然として、至るところ廉潔を以て自らを将いた。

原文遷軍器監主簿、大宗正丞、四川提舉茶馬兼權總領、知黎州兼管內安撫司公事、節制黎雅州屯戍軍馬,加直寶章閣,為工部郎官。入對,請懲貪吏。遷侍左郎中,進直華文閣、浙東提點刑獄,遷守秘書少監、宗正少卿,升祕書監,遷起居舍人,升起居郎兼崇政殿說書。以寶章閣待制提舉太平興國宮,卒,特贈四官。大年清操凜然,所至以廉潔自將。

陳仲微

原文陳仲微

陳仲微、字は致廣、瑞州高安の人。その先祖は江州に居住し、義門として旌表された。嘉泰二年、進士に挙げられる。莆田尉に調じ、守令が欠員となり、通判もまた疲軟で任に堪えず、台閫より県事を委ねられた。時に凶年にあたり、部卒が飢民とともに乱を起こした。陳仲微は直ちに首謀者を召し出してこれを誅した。穀物の密売を籍没し、強制的な買い占めを抑え、一境粛然とした。囊山の浮屠(僧侶)が郡学と水利を争い、久しく決しなかった。陳仲微は法に按じて言う。「曲は浮屠にある。」他日、檄に沿って寺を過ぎると、その徒は久しくこの事を鐘の上に掲げて冤罪とし、朝夕に呪詛していたが、誰もこれが陳仲微であることを知らなかった。陳仲微これを見て言う。「我れ何の心ぞや。我れ何の心ぞや。」夜明けに、首僧は病なくして死んだ。寓公(地方に寓居する高官)で、当路に陳仲微を称え、密かに推薦状を授けた者がいた。陳仲微はこれを受け取って蔵した。一年余りして、その家が県の租税を負い、ついにその奴僕を逮捕した。寓公は怨言を言った。陳仲微はその推薦状を返し、封は旧のままである。その人は慚愧して謝し、その任が終わるまで私事をもって干渉しようとしなかった。

原文陳仲微,字致廣,瑞州高安人。其先居江州,旌表義門。嘉泰二年,舉進士。調莆田尉,會守令闕,通判又疲軟不任,臺閫委以縣事。時歲兇,部卒並饑民作亂,仲微立召首亂者戮之。籍閉糶,抑強糴,一境以肅。囊山浮屠與郡學爭水利,久不決,仲微按法曰:「曲在浮屠。」它日沿檄過寺,其徒久揭其事鐘上以為冤,旦暮祝詛,然莫省為仲微也。仲微見之曰:「吾何心哉?吾何心哉?」質明,首僧無疾而死。寓公有誦仲微於當路而密授以薦牘者,仲微受而藏之。踰年,其家負縣租,竟逮其奴。寓公有怨言,仲微還其牘,緘封如故,其人慚謝,終其任不敢撓以私。

海鹽丞に遷る。隣邑に十年にわたる疑獄あり、郡は仲微に命じてこれを按じさせたところ、一問して即座に決した。崇陽県知事に改め、公署の傍らに寝食し、日々父老や樵夫と親しく語り合い、下情はことごとく上達し、吏は手の下しようがなかった。黄州通判となり、職務は糧秣の供給を兼ね、自ら身をもって下を律し、事に応じて検察し、軍事の興起もこれによって欠乏しなかった。制置使がその最上を上奏したが、辞して曰く、「職分なり、何の最上かあらんや」と。再び江州通判となり、諸司審計事幹辦に遷り、贛州知州・江西提点刑獄を歴任したが、丞相賈似道に逆らい、監察御史舒有開の上言により罷免された。久しくして、惠州知州として起用され、太府寺丞兼権侍右郎官に遷る。輪対にて言う、「禄の餌は天下の中才を釣ることはできても、天下の豪傑を飽かせることはできない。名の舟は天下の猥りなる士を載せることはできても、天下の英雄を陸沈させることはできない」と。似道は怒り、また言官をそそのかしてその官を罷奪させた。久しくして、叙復された。

原文遷海鹽丞。鄰邑有疑獄十年,郡命仲微按之,一問立決。改知崇陽縣,寢食公署旁,日與父老樵豎相爾汝,下情畢達,吏無所措手。通判黃州,職兼餉餽,以身律下,隨事檢柅,軍興賴以不乏。制置使上其最,辭曰:「職分也,何最之有?」復通判江州,遷幹辦諸司審計事,知贛州、江西提點刑獄,迕丞相賈似道,監察御史舒有開言罷。久之,起知惠州,遷太府寺丞兼權侍右郎官。輪對,言:「祿餌可以釣天下之中才,而不可啖嘗天下之豪傑;名航可以載天下之猥士,而不可以陸沉天下之英雄。」似道怒,又諷言者罷奪其官。久之,敘復。

時に国勢は甚だ危うく、仲微は封事を上奏し、その要旨は次のようであった。

原文時國勢危甚,仲微上封事,其略曰:

「襄陽を誤ったのは、老将である。しかし襄陽の罪は専ら庸閫・疲将・孩兵にあるのではなく、君相も分かちその責を負い、先皇帝の在天の霊に謝すべきである。天子が『罪は朕に在り』と言い、大臣が『咎は臣等に在り』と言い、十年にわたる安逸を養った過去の誤りを宣布し、六年にわたる寇を玩んだ昨日の非を深く懲らしめ、過ちを未だ形なきうちに救うならば、固より極まりなきも、既往を追悔するは、なお迷うにまさる。あるいは覆護の意多く、克責の辞少なしと言い、あるいは陛下に哭師の誓い乏しく、師相は過ちを分かつ言葉を飾ると言う。これは甚だ死義を慰恤し、天に祈り禍を悔いるの道に非ざるなり。往々にして代言には知体の士乏しく、翹ぎょう館には識見ある人少なく、旨を吮い柔を茹で、積習して痼疾となり、君道と相業、両ながらに虧くところあり。方今いかなる時ぞ、朝廷には国を謀る臣なく、辺境には折衝の帥なし。これを先朝、宣和末乱の前、靖康既敗の後に監みるに、凡そ前日に日近く冕旒に近づき、朱輪華轂に乗り、首を俯せ心を吐き、奴顔婢膝した者は、即ち今日賊に奉じて臣と称する者なり。強力敏事、捷疾快意の者は、即ち今日君に畔き国を売る者なり。国を為す者はまた何ぞかくの若き人に便ならんや。国を迷わす者は慆憂の欺きを進めてその君に逢い、国を託する者は恥敗の局を護って敢えて議せず、国を当たる者は安危の機を昧ってこれを悔いず。臣嘗てこれを思うに、今の少なきは兵に止まらず。閫外の事は将軍これを制すべきに、一級半階、率ね中より出で、斗粟尺布、退くに後憂あり、平素は権なく、緩急には責あり。或いは督を建てるを請い、或いは辺を行くを請い、或いは京城を請う、創聞駭聴なり。諸閫が緩急の時に辞す有るにより、故に廟堂は敗闕の後に悪を掩わざるを得ず、謀る有りて展ぶることなく、敗るる有りて誅することなし。上下羞を包み、噤して敢えて議する者なし。ここをもって下は器仗甲馬に至るまで、衰颯厖涼、軍容を粛するに足らず。壁壘堡柵、折樊駕漏、衝突の騎を当つに足らず。帥閫と号し、名は存して実は亡びたり。城にして兵なきは、城を以て敵に与え、兵にして戦を知らざるは、将を以て敵に与え、将にして兵を知らざるは、国を以て敵に与う。光景は目睫に近く蹙迫せり。惟うに君相幡然として改悟せば、天下の事なお為すべし。敗を転じて成と為すは、君相の一念の間に在り。」

原文「誤襄者,老將也。夫襄之罪不專在於庸閫、疲將、孩兵也,君相當分受其責,以謝先皇帝在天之靈。天子若曰『罪在朕躬』,大臣宜言『咎在臣等』,宣布十年養安之往繆,深懲六年玩寇之昨非,救過未形,固已無極,追悔既往,尚愈於迷。或謂覆護之意多,克責之辭少;或謂陛下乏哭師之誓,師相飾分過之言,甚非所以慰恤死義,祈天悔禍之道也。往往代言乏知體之士,翹館鮮有識之人,吮旨茹柔,積習成痼,君道相業,兩有所虧。方今何時,而在廷無謀國之臣,在邊無折沖之帥。監之先朝宣和未亂之前、靖康既敗之後,凡前日之日近冕旒,朱輪華轂,俯首吐心,奴顏婢膝,即今日奉賊稱臣之人也;強力敏事,捷疾快意,即今日畔君賣國之人也。為國者亦何便於若人哉!迷國者進慆憂之欺以逢其君,託國者護恥敗之局而莫敢議,當國者昧安危之機而莫之悔。臣嘗思之,今之所少不止於兵。閫外之事,將軍制之,而一級半階,率從中出,斗粟尺布,退有後憂,平素無權,緩急有責,或請建督,或請行邊,或請京城,創聞駭聽。因諸閫有辭於緩急之時,故廟堂不得不掩惡於敗闕之後,有謀莫展,有敗無誅,上下包羞,噤無敢議。是以下至器仗甲馬,衰颯厖涼,不足以肅軍容;壁壘堡柵,折樊駕漏,不足以當衝突之騎。號為帥閫,名存實亡也。城而無兵,以城與敵;兵不知戰,以將與敵;將不知兵,以國與敵。光景蹙近目睫矣!惟君相幡然改悟,天下事尚可為也。轉敗為成,在君相一念間耳。」

ここにおいて仲微を江東提点刑獄に出した。

原文乃出仲微江東提點刑獄。

徳祐元年、秘書監に遷り、尋ねて右正言・左司諫・殿中侍御史を拝命した。益王が海上に即位すると、吏部尚書・給事中を拝した。厓山にて兵敗れ、安南に走る。四年を経て卒す。年七十二。

原文德祐元年,遷祕書監,尋拜右正言、左司諫、殿中侍御史。益王即位海上,拜吏部尚書、給事中。厓山兵敗,走安南。越四年卒,年七十有二。

その子文孫は安南王の族人益稷とともに出降し、我が師の南征を郷導した。安南王は憤り、仲微の墓を伐り、その棺を斧で破った。

原文其子文孫與安南王族人益稷出降,鄉導我師南征。安南王憤,伐仲微墓,斧其棺。

仲微は天稟篤実にして、富貴に生長せしといえども、悪衣菲食、自ら窶人と同じくす。故に『六経』を涵飫し、理致を精研し、諸子百家・天文・地理・医薬・卜筮・釈老の学に至るまで、靡くことなくこれを搜獵せしという。

原文仲微天稟篤實,雖生長富貴,而惡衣菲食,自同窶人。故能涵飫《六經》,精研理致,於諸子百家、天文、地理、醫藥、卜筮、釋老之學,靡不搜獵云。

梁成大

原文梁成大

梁成大、字は謙之、福州の人。開禧元年の進士。素より苟賤にして恥亡く、県令の任期満了後、史弥遠の家幹万昕に諂事し、昕が真徳秀を撃つべきと言うと、成大は曰く、「某もし台官に入らば、必ずやこの事を弁ぜん」と。昕はその言葉を伝えた。揚州通判となり、尋いで宗正寺簿に遷る。

原文梁成大,字謙之,福州人。開禧元年進士。素茍賤亡恥,作縣滿秩,諂事史彌遠家幹萬昕,昕言真德秀當擊,成大曰:「某若入臺,必能辯此事。」昕為達其語。通判揚州,尋遷宗正寺簿。

宝慶元年冬、転対にて、まず言う、「大佞は忠に似、大弁は訥の若し。或いは名を好んで自ら鬻ぎ、或いは異を立てて自ら詭し、或いは高尚の節を仮りて君に要し、或いは矯偽の学を飾りて世を欺く。言は忠鯁の若く、心は実に回衺なり。一たび察せざれば、薰蕕同じき器に、涇渭雑流す。言は変に達せず、謀は機に中らず。或いは巧弁を以て能と為し、或いは詭訐を以て市の直とし、或いは奇険の説を設けて衆聴を駴し、或いは妄誕の論を肆にして士心を惑わす。行うところ言うところに非ず、守るところ学ぶところに非ず。一たび弁ぜざれば、枘鑿侔わず、矛盾相激す。」

原文寶慶元年冬,轉對,首言:「大佞似忠,大辯若訥,或好名以自鬻,或立異以自詭,或假高尚之節以要君,或飾矯偽之學以欺世。言若忠鯁,心實回衺,一不察焉,薰蕕同器,涇渭雜流矣。言不達變,謀不中機,或巧辯以為能,或詭訐以市直,或設奇險之說以駴眾聽,或肆妄誕之論以惑士心。所行非所言,所守非所學,一不辯焉,枘鑿不侔,矛盾相激矣。」

六日を経て、監察御史を拝す。尋いで上奏す、「魏了翁は既に追竄せられたるも、人なお罪大罰軽しと為す。真徳秀は狂僭悖繆、了翁に減ぜず。相羊家食す。宜しく秩を削り貶竄し、一等施行すべし。」章既に上るも、下さること両月、或いは徳秀に衡陽の命有りと伝う。時宰帝前に於いてこれに及ぶ。帝曰く、「仲尼は已甚を為さず」と。遂に三秩を鐫くことを止む。明年三月、また楊長孺の新命を寝かせ、徐瑄を三秩追奪して象州居住に移し、胡夢昱を欽州編管に移すことを奏す。是の冬、右正言を拝す。紹定元年、左司諫に進む。四年正月、宗正少卿に遷る。五年二月、権刑部侍郎となり、明年十月、帝夜に旨を降してこれを黜し、千秋鴻禧観提挙とす。莫澤時に給事中を兼ね、別異に急ぎ、上疏してこれを駁し、遂に祠命を寝かす。端平初め、洪咨夔・吳泳交章して論駁し、両秩を鐫く。泳また上疏し、泉州居住に送る。会に王遂の論もまた上り、再び秩を鐫かれ、潮州に徙す。

原文越六日,拜監察御史。尋奏:「魏了翁已從追竄,人猶以為罪大罰輕。真德秀狂僭悖繆,不減了翁,相羊家食,宜削秩貶竄,一等施行。」章既上,不下者兩月,或傳德秀有衡陽之命,時宰於帝前及之。帝曰:「仲尼不為已甚。」遂止鐫三秩。明年三月,又奏楊長孺寢新命,徐瑄追三秩移象州居住,胡夢昱移欽州編管。是冬,拜右正言。紹定元年,進左司諫。四年正月,遷宗正少卿。五年二月,權刑部侍郎,明年十月,帝夜降旨黜之,提舉千秋鴻禧觀。莫澤時兼給事中,急於別異,上疏駁之,遂寢祠命。端平初,洪咨夔、吳泳交章論駁,鐫兩秩。泳復上疏,送泉州居住。會王遂論亦上,再鐫秩,徙潮州。

成大は天資暴狠、心術嶮巇にして、凡そ忠を賊し良を害するに足るものは、率ね多く攘臂してこれを為す。四方の賂遺、堂廡に列置し、賓至れば則ちこれを導きして観せしめ、その尤を效わんことを欲す。尤も豪奪を嗜み、宇文氏の賜第を冒占す。既に擯帰せられし後、これを訟う者百数に下らず。竄せられし日、朝命その廬を毀つ。小人たる李知孝の如きも曰く、「堪えざる所は、他日成大と同伝せんことなり」と。

原文成大天資暴狠,心術嶮巇,凡可賊忠害良者,率多攘臂為之。四方賂遺,列置堂廡,賓至則導之使觀,欲其效尤也。尤嗜豪奪,冒占宇文氏賜第。既擯歸,訟之者不下百數。竄之日,朝命毀其廬,雖小人如李知孝亦曰:「所不堪者,他日與成大同傳耳。」

李知孝

原文李知孝

李知孝、字は孝章、参知政事李光の孫。嘉定四年の進士。嘗て右丞相府主管文字を為し、恥と為さず。幹辦諸司審計司に差充され、監察御史を拝す。

原文李知孝,字孝章,參知政事光之孫。嘉定四年進士。嘗為右丞相府主管文字,不以為恥。差充幹辦諸司審計司,拜監察御史。

宝慶元年八月、上疏す、「士大夫汲汲として名を好み、正救の力少なくして附和沽激の意多く、扶持の意微にして詆訾扇搖の意勝る。既に君上の用いざるを慮り、また朝廷の容れざるを恐れ、姑く激怒の辞を為し、退いて斥逐の命を俟つ。始めは慷慨激烈、終わりは懇切求去、将に奇節を樹て令名を求めんとす。これ臣の未だ解せざる所なり。」蓋し陰に真徳秀等を詆る。また洪咨夔の三秩鐫奪・放罷、胡夢昱の追毀・除名・勒停・象州羈管を奏す。知孝なお魏了翁に語りて曰く、「此に論ずる所の咨夔等は、乃ち府第の付出する全文なり」と。その情状変詐かくの如し。

原文寶慶元年八月,上疏:「士大夫汲汲好名,正救之力少而附和沽激之意多,扶持之意微而詆訾扇搖之意勝。既慮君上之或不能用,又恐朝廷之或不能容,姑為激怒之辭,退俟斥逐之命。始則慷慨而激烈,終則懇切而求去,將以樹奇節而求令名,此臣之所未解。」蓋陰詆真德秀等。又奏洪咨夔鐫三秩、放罷,胡夢昱追毀、除名、勒停,羈管象州。知孝猶語魏了翁曰:「此所論咨夔等,乃府第付出全文。」其情狀變詐如此。

一箇月を経て、また言上する。「近年以来、諸老凋零し、後学の輩は遅れて出で、先輩を見ず、義理を聞かず、綱常を講ぜず、識見卑陋にして、議論偏詖、更に唱え疊に和し、人心を蠱惑す。此の風披扇し、害を為すこと実に深し。臣の章を下し、内外を風厲し、各務めて靖共にして、以て乱の萌を杜がんことを乞う」。右正言に拝す。また言う。「徳秀は節を改めて聖語を繆謄し牒示し、邪説を導き信ぜしめ、同流を簧鼓す。其の或いは再び妄言有らば、当に追削流竄して、以て典刑を正すべし」。疏既に上るや、遂に鏤榜して天下に播告す。また言う。「趣召の人は、率皆遅回し、久しくして至らず、君を要するを高致と為し、命に共にするを常流と為し、行う可くして固より行わず、疾からずして疾有りと称し、比比として是れ皆是れ、相扇いで風を成す。難進易退の名を求めんと欲し、殊に尊君親上の義を失う。願わくは趣召の人を将て其の程途を計り、時日を以て限り、之をして朝に造らしめよ。其の衰病する者有らば、早く改命を与えよ」。時に傅伯成・楊簡・劉宰等を召すも皆至らず、故に知孝之を詆す。また張忠恕の落職・鐫秩・罷郡を奏す。

原文越月,復言:「近年以來,諸老凋零,後學晚出,不見前輩,不聞義理,不講綱常,識見卑陋,議論偏詖,更唱叠和,蠱惑人心,此風披扇,為害實深。乞下臣章,風厲內外,各務靖共,以杜亂萌。」拜右正言。又言:「德秀節改聖語,繆謄牒示,導信邪說,簧鼓同流,其或再有妄言,當追削流竄,以正典刑。」疏既上,遂鏤榜播告天下。又言:「趣召之人,率皆遲回,久而不至,以要君為高致,以共命為常流,可行而固不行,不疾而稱有疾,比比皆是,相扇成風,欲求難進易退之名,殊失尊君親上之義。願將趣召之人計其程途,限以時日,使之造朝;其有衰病者,早與改命。」時召傅伯成、楊簡、劉宰等皆不至,故知孝詆之。又奏張忠恕落職、鐫秩、罷郡。

知孝は殿中侍御史に拝し、侍御史に昇る。紹定元年、右司諫に遷り、右諫議大夫に進む。五年、工部尚書兼侍読に遷る。一箇月を経て、兵部に進む。明年、理宗親政し、宝謨閣直学士を以て寧国に出知せしむ。後省之を駁し、嵩山崇福宮を提挙せしむ。端平初め、監察御史洪咨夔・権直舎人院呉泳、交章して論駁し、鐫秩して祠を罷む。泳復た封駁し、継いで婺州に居住を送る。殿中侍御史王遂且て之を論じ、再び鐫秩し、瑞州に徙す。

原文知孝拜殿中侍御史,升侍御史。紹定元年,遷右司諫,進右諫議大夫。五年,遷工部尚書兼侍讀。越月,進兵部。明年,理宗親政,以寶謨閣直學士出知寧國,後省駁之,令提舉嵩山崇福宮。端平初,監察御史洪咨夔、權直舍人院吳泳交章論駁,鐫秩罷祠。泳復封駁,繼送婺州居住。殿中侍御史王遂且論之,再鐫秩,徙瑞州。

知孝は名家より起り、苟くも仕進に茍合し、庶頑を領袖し、諼を懐いて国を迷わし、諸賢を排斥すること殆んど尽くす。時に小輿に乗り、酔って従官の家を謁し、欲を侵して斂積し、紀極を知らず。紹定の末、猶自ら中丞たらんことを乞う。世、知孝及び梁成大・莫沢を指して三兇と為す。卒に貶死に以て終わり、天下之を快とす。

原文知孝起自名家,茍於仕進,領袖庶頑,懷諼迷國,排斥諸賢殆盡。時乘小輿,謁醉從官之家,侵欲斂積,不知紀極。紹定末,猶自乞為中丞,世指知孝及梁成大、莫澤為三兇。卒以貶死,天下快之。

論じて曰く、『本政書』を読みて、然る後に林勳の井地に於けること、密なりと謂う可しと知る。劉才邵は能く名節を権姦の時に全うす。許忻の和議を論ずるは、最も忠懇にして、卒に是を以て国を去り、尤も足ら悲しむべし。応孟明・曾三聘の韓侂冑に汚されざるは、孔子の所謂「歳寒く然る後に松柏の後凋るを知る」なり。徐僑の清節、度正の淳敏、牛大年の廉正、陳仲微の忠実、然れども皆大用に至らず、惜しむに非ずや。若し乃ち程珌の富貴を窃取し、梁成大・李知孝の史弥遠の鷹犬と為るを甘んずるは、万年に遺臭する者なり。

原文論曰:讀《本政書》,然後知林勳之於井地,可謂密矣。劉才邵能全名節於權姦之時。許忻之論和議,最為忠懇,卒以是去國,尤足悲夫。應孟明、曾三聘之不污韓侂胄,孔子所謂「歲寒然後知松柏之後凋也」。徐僑之清節,度正之淳敏,牛大年之廉正,陳仲微之忠實,然皆不至於大用,非可惜哉!若乃程珌之竊取富貴,梁成大、李知孝甘為史彌遠鷹犬,遺臭萬年者也。