宋史

列傳第一百八十一 林勳 劉才邵 許忻 應孟明 曾三聘 徐僑 度正 程珌 牛大年 陳仲微 梁成大 李知孝

林勳

林勳は賀州の人である。政和五年の進士となり、廣州の教授となった。建炎三年八月、『本政書』十三篇を献上し、言うには、

「国家の兵農の政は、おおむね唐末の旧制に因っている。今、農民は貧しく多くは生業を失い、兵士は驕って用いるに堪えず、この故に飢えた民や逃亡の兵卒は、多く盗賊となる。古の井田の制にならい、民に一夫が五十畝の田を占めさせ、余分の田を持つ家は、田を売買させず、田を持たぬ者と遊惰で末業に従う者は、皆これを駆り立てて隷農とし、余分の田を耕させ、雑多な税銭や穀物を合わせて、什一の税とするのがよい。宋の二税の額は、唐に比べて七倍に増えている。今、本政の制では、十六夫をもって一井とし、百里四方の地を提封すれば、三千四百井となり、税米は五万一千斛、銭は一万二千緡となる。毎井、兵二名と馬一匹を賦し、兵は六千八百人、馬は三千四百匹となり、毎年その五分の一を取って上番の定員とし、征役に供給する。事なき時はさらに四番に分け、官府に直し、守衛に供給する。これにより民は凡そ三十五年にして役使を一遍受けることになる。全て上番させれば、毎年米一万九千余斛、銭三千六百余緡を食するが、事なき時は四分の三を減じ、皆、一同の租税をもってこれを供給する。匹婦の貢は、絹三尺、綿一両とする。百里四方の県は、毎年絹四千余匹、綿三千四百斤を収める。養蚕の郷でなければ布六尺、麻二両とし、収める額は絹綿に比べて概ね倍とする。これを十年行えば、民の口算、官の酒酤、及び凡そ茶・塩・香・礬の専売は、皆、弛めて民に与えることができる。」

その説は甚だ詳備であった。書が奏上され、勳を以て桂州節度掌書記とした。

その後、勳はまた『比較書』二篇を献上し、大略において謂うには、

「桂州の地は東西六百里、南北五百里あり、古尺をもってこれを計れば、百里四方の国四十に当たり、墾田すべきは二百二十五万二千八百頃、田夫二百四万八千あり、米二十四万八千斛を出し、卿大夫以下四千人に禄を給し、兵三十万人に禄を給する。今、桂州の墾田は約一万四十二頃、丁二十一万六千六百一十五、税銭一万五千余緡、苗米五万二百斛余あり、州県の官は百員に満たず、官兵五千一百人である。蓋し土地は荒蕪し、遊手で末業に従う者が多いため、地利多く遺され、財用足らず、皆、本政が修まらぬ故である。」

朱熹は甚だその書を愛した。東陽の陳亮曰く、「勳がこの書を作るに当たり、古を考証し今を検証し、思慮周密であり、勤勉であると言えよう。世の井地の学を為す者で、勳に勝る者があろうか。要は必ず英雄特起の君がおり、一変の後に用いられ、順を成し利を致せば、民は驚かずしてその後の善政を為すことができるであろう。」

劉才邵

劉才邵、字は美中、吉州廬陵の人である。その上世の鶚は、太宗に召し見えられたが、用いられるに及ばずして卒した。嘗て五代の文辞の卑弱を憤り、楊雄の『法言』に倣い、『法語』八十一篇を著して世に行われた。才邵は大観二年に上舍より釋褐し、贛・汝二州の教授となり、また湖北提挙学事管幹文字となった。宣和二年、宏詞科に中り、司農寺丞に遷った。靖康元年、校書郎に遷った。

高宗が即位すると、親老を以て帰り侍し、閑居すること十年。御史中丞廖剛がこれを推薦し、召し見えられ、祕書丞に遷り、駕部員外郎を歴任し、吏部員外郎に遷り、侍右選事を典した。先に、宗室が宮観・岳廟に注するには、例として部に赴くを須い、遠方の者は行くに難いことがあった。才邵は、所属を経て部に聞かせ、条に依り注擬することを許すよう言上し、行って便利であった。軍器監に遷り、既にして起居舍人に遷り、未だ幾ばくもせず、中書舍人兼権直学士院となった。帝はその能文を称したが、時の宰相に忌まれ、漳州知州として出された。即ち城東に渠を十四開き、閘と斗門を設けて瀦え匯わせ決し、田数千畝を溉いだ。民は甚だこれを徳とした。二度祠官を奉じた。紹興二十五年、召されて工部侍郎兼直学士院に拝され、尋いで権吏部尚書となった。疾を以て祠を請い、顯謨閣直学士を加えられた。卒し、通奉大夫を贈られた。

才邵は気和ぎ貌恭しく、権臣が事を用いる時に当たり、雍容として遜避し、以て名節を保った。著すところの『檆溪居士集』が世に行われる。

許忻

許忻は拱州の人である。宣和三年の進士、高宗の時、吏部員外郎となり、引見の旨があった。この時、金国の使人張通古が館に在った。忻は上疏して和議の不便を極論し、曰く、

臣は二度召見を受け、文館に抜擢され置かれたが、今また叡旨を降して引對せしめられた。今、陛下が多難の時にあって、千慮の一得を採りて聰明を広めんとされるのを見るは、臣が萬分の一を圖り報いんとする秋である。故に敢えて愚を竭くし忠を效さんとす。

臣聞く、金使の来朝に、陛下は祖宗の陵寢が祭祀を廃せられ、徽宗皇帝・顕粛皇后の梓宮が遠方にあり、母后の春秋既に高く、久しく晨昏の奉を闕き、淵聖皇帝と天族の還帰期無きを以て、己を屈して和に就かんとし、使を遣わして聘に報いんとされたと。この事は體大なるが故に、既に侍従・臺諫に詔して各おの見聞を具えさせた。侍従臺諫が皆可と為すや否や、或いは可否雑進して陛下未だ擇ぶところ無きか、或いは金が既に恭順となり、復た難行の禮を以て我を邀えずや、この数者は臣の得て聞くところに非ず。請う試みに利害を別白し、陛下の為に詳しくこれを陳べん。

そもそも金人の始め寇入した時、固より講和せんと云う。靖康の初め、肅王を大河に至らしめて返すと約し、已にしてこれを挟み北行し、終に音耗無し。河朔千里、焚掠遺すところ無く、老稚係累して死する者億萬計、復た威勝・隆德等州を破る。淵聖皇帝嘗て詔書を降し、金人の盟を渝つるは必ず守るべからずと謂う。是の歳又復た深入し、朝廷の制置宜しからず、都城遂に陥つ。敵情狡甚だしく、我が百万の衆必ず死を以て争わんことを懼れ、諸道の勤王の師を止め、則ち又た講和せんと曰う。乃ち淵聖を邀えて出郊せしめ、次いで徽宗を邀えて継いで往かしめ、宗族を追取すること殆んど虚日無く、府庫を傾竭して孑遺有ること無く、公卿大臣類みな拘執せられ、然る後に偽りに張邦昌を立てて去る。則ち是れ金人の所謂講和なる者は、果たして信ずべけんや。

これは已に然る禍にして、陛下の親しく見られしところなり。今徒に王倫の繆悠の説に由り、遂に金人を誘致して我を責むるに必ず行うべからざる禮を以てし、而して陛下遂に已に屈己してこれに従わんとす。臣是を以て覺えず涕泗の横流するなり。而して彼は『詔諭江南』を名として来る。則ち是れ尺書を飛ばして本朝を下すなり。豈に講和と謂わんや。我躬としてこれを受くれば、真に臣妾と為るなり。陛下方に苫を寝て塊を枕す。其れ穹廬の拜に下るを忍びんや。臣窃かに料るに、陛下必ず忍びて為さざるべし。万一其の詔令を奉ずれば、則ち将に吾が大臣を変置し、吾が諸将を分部し、邀求厭くこと無く、窮極有ること無からん。此の時に当たり、陛下従わんと欲すれば則ち以て国を立つる無く、従わざれば則ち復た我を責むるに違令を以てせん。其れ何を以て自ら処せん。況んや犬羊の群、我が陵寢を驚動し、我が宗廟を戕毀し、我が二帝を劫遷し、我が祖宗の地を据守し、我が祖宗の民を塗炭し、而して又た徽宗皇帝・顕粛皇后の鑾輿返らず、遂に万国をして痛心せしむ。是れ不倶戴天の仇と謂う。彼は我の必ず此の仇を復たすを意とし、未だ嘗て頃刻も我を図るを忘れず。豈に一王倫能く平げんや。方に王倫の此の行を為すや、閭巷の人と雖も、其の外夷に取笑され、国の為に事を生ずるを知る。今故無く狂敵を誘いて悖慢此の如し。若し猶お其の説を倚信して寝めざらば、誠に慟哭すべし。賈誼をして復た生ぜしめば、国に人ありと謂わんか、人無しと謂わんか。

古の外夷に、固より已むを得ずして之に事うるに皮幣を以てし、珠玉を以てし、犬馬を以てする者有り。曽て其の詔を受け、唯だ外夷の欲に従うこと、今日の事の如き有りや。脱或いは羞を包み恥を忍び、其の詔諭を受け、而して彼の我に許すところ復た約の如くならざれば、則ち徒に莫大の辱を受け、万世の譏を貽す。縦え約の如くせしむるとも、則ち是れ我が今日所有の土地、先ず拱手して外夷に奉ずるなり。祖宗の在天の霊、以て如何と謂わん。徽宗皇帝・顕粛皇后の不倶戴天の仇、遂に復たすべからざるなり。豈に痛まざらんや。陛下其れ審らかにこれを思え。断じて聖心の能く安んずる所に非ざるなり。金使の入境以来、内外惶惑す。儻或いは陛下終に王倫の説を妄ならずと為し、金人の詔を従うべしと為さば、臣恐るらくは唯だ外夷の姦計に堕つるのみならず、意外の虞、将に勝え言うべからざる者有らんと。此れ衆の共に暁くところ、陛下も亦た嘗て此に慮及せられたるか。

国家両たび淮甸にて外夷を敗る。未だ中原の地を克復せずと雖も、大江の南も亦た足りて支吾す。軍声粗く震い、国勢粗く定まる。故に金人王倫の往復に因り、使を遣わして朝廷を嘗試せしむ。我若し其の請うところに従えば、正に計中に堕つ。其の欲に従わざれば、且つ厚く我が金幣を携えて去らん。亦た何を適として彼の利に非ざらんや。今の計たる、独り陛下幡然として慮を改め、中外に布告して人心を収め、祖宗の陵寢祭祀を廃し、徽宗皇帝・顕粛皇后の梓宮遠方に在り、母后・淵聖・宗枝族属未だ還らず、故に使を遣わして迎請し、冀くは遂に南帰せんとす。今敵の来たり、朝廷を邀うるに必ず従うべからざる禮を以てするは、実に王倫の売国の罪なり。当に行って誅責し、以て天下の疑を釈すべし。然る後に諸将を激厲し、謹んで辺陲を捍ぎ、敵計に堕ちず、忠正を進用し、姦邪を黜遠し、以て紀綱を振い、政事を修め、務めて実效を為し、虚名に事せず、夕に慮り朝に謀り、以て興復を図れば、庶幾くは可ならん。

今金使既に館に就くも、謂う当に別に区処の宜を議すべし。臣聞く、万人の聚まる所、必ず公言有りと。今廷に在る百執事の臣、中外と一心にして、皆以て金人の詔は従うべからずと為す。公言此の如し。陛下独り察せざるか。若し夫れ粘罕の既に死し、外夷内乱し、契丹林牙復た立つを以て、故に今の金主復た我と平等に語ると謂うは、是れ皆詐を行い我が師を款すの計にして、臣の敢えて知る所に非ず。或いは又た謂う、金使館に在り、今稍々恭順なりと。臣の聞く所に如くは、又何ぞ其れ前に悖慢にして、後に遽かに恭順を設くんや。敵情変詐百出、豈に宜しく唯だ其の甘言を聴き、遂に備預の深計を忘れ、其の禍乱の已に至るを待ち、又た及ぶ所無からんや。此れ誠に事情に切る。今日の挙、存亡の繫る所、愚衷感発して已む能わず。望むらくは其の惓惓の忠を鑒み、特垂れて采納せられ、更に三二の大臣と其の便を熟議し、異時の悔を貽さざらんことを。社稷天下幸甚なり。

疏入るも省みられず。後に忻は故に託して外補に従わんことを乞う。乃ち荊湖南路転運判官を授かる。謫居して撫州に居り、起きて邵陽を知り、卒す。

応孟明

応孟明、字は仲実、婺州永康の人。少くして太学に入り、隆興元年進士第に登る。教官に試中し、臨安府教授に調じ、継いで浙東安撫司幹官・楽平県丞と為る。侍御史葛邲・監察御史王藺が詳定一司勅令所刪定官に薦む。

輪対にて、まず論じて曰く、「南北通好し、疆場に虞無きも、将を選び兵を練り、常に大敵の境に在るが如くすべし、而して一日忽にすべけんや。貪残苛酷の吏去らず、吾が民安んじて其の生を為さざる者無からんや。賢士は下僚に匿れ、忠言は上聞に壅がる、衆正の門未だ尽く開かず、兼聴の意未だ尽く孚かざるに非ずや。君臣の間、戒懼して自ら持せず、勤労して自ら寧からず、君子を進め、小人を退け、民隠を以て憂いと為し、辺陲を以て警めと為さば、則ち政治自ずから修まり、紀綱自ずから張らん」と。孝宗曰く、「朕早夜戒懼し、頃刻も忘れず、退朝の暇も亦た他に好む所無し、正に臨朝或いは稍く晏んずるを恐るるのみ、則ち万幾の曠つる此より始まらんとす」と。次に監司の貪吏を庇うの禁、薦挙の私情に徇うの禁を申厳せんことを乞う。帝久しく嘉奨す。他日、宰相進擬す、帝掌中より片紙を出だし、二人の姓名を書きて曰く、「卿何故か此に及ばざるや」と。其の一は則ち孟明なり。乃ち大理寺丞を拝す。

故大将李顕忠の子の家僮溺死す、有司殺人を以て誣い、逮繫すること幾三百家。孟明其の冤を察し、長官に白きて之を釈す。出でて福建提挙常平と為り、陛辞す、帝曰く、「朕卿の百姓を愛し、贓吏を悪むを知る、事民に便ならざる有らば、宜しく意を悉くして以て聞かしむべし」と。因りて当世の人才を問う、孟明対えて曰く、「才有りて学ばざれば、則ち刻薄に流る、惟だ上の教化明らかにし、取舍正しうして、回心して道に向わしむれば、則ち成就必ず人に倍せん」と。帝曰く、「誠に人上たる者の責なり」と。孟明部に至り、具に臨遣の意を以て之を諮訪す。帝一日経筵に御す、因りて監司の按察を論じ、顧みて講読官に謂いて曰く、「朕近日数人を得たり、応孟明、其の最なり」と。尋いで浙東提点刑獄を除し、郷部に引嫌して、江東に使わしむるを改む。

会に広西帥を謀る、帝輔臣に謂いて曰く、「朕熟思す、応孟明に易うる者無し」と。即ち手筆を以て孟明に賜いて曰く、「朕聞く広西の塩法利害相半すと、卿任に到り、自ら詳しく事実を究むべし」と。直秘閣に進み、静江府を知り広西経略安撫を兼ぬ。初め、広西塩官般を易えて客鈔と為す、客戶多からず、折閲逃避す、遂に民に抑配す。之を行うこと六年、公私交わりて病み、追逮禁錮し、民聊生すべからず。孟明条具して駅奏し其の弊を除く、詔して之に従う。禁卒朱興党侶を結集し、兵を雷・化の間で弄び、声勢漸く長ず、孟明将を遣わし縛致して轅門に斬る。

光宗即位し、浙西提点刑獄に遷り、尋いで召されて吏部員外郎と為り、左司に改め、右司に遷り、再び中書門下省検正諸房公事に遷る。寧宗即位し、太府卿兼吏部侍郎を拝す。慶元初、権吏部侍郎、卒す。

孟明儒学を以て奮身して人主の知を受く、官職嘗て倖遷せず。韓侂冑嘗て其の密客を遣わし諫官を以て誘い、俾く趙汝愚を誣わしめんとす、孟明答えず、士論此を以て之を重んず。

曾三聘

曾三聘、字は無逸、臨江新淦の人。乾道二年進士。調べて贛州司戸参軍、累遷して軍器監主簿。旨有りて划車弩を造らしむ、三聘謂う、「划車弩六人これを挽き、而して箭の及ぶ所止むるに二百六十歩。今用うる所の克敵弓之に較ぶれば、工費其の十の三に及ばず、一人これを挽きて射すること三百六十歩に及ぶ可し、利害暁然たり」と。乃ち果たして造らず。

光宗重華宮に朝せず、中外疑懼す、三聘書を以て丞相留正に抵る。正未だ言わざるに、会に他事を以て合わず去らんことを求む。三聘謂う、「丞相今泯黙して退かんや、亦た将に今日言い難き所の者を取って別白に之を言いて而る後に退かんや。凡そ今闕庭の内、閨門衽席の間、父子夫婦の際、群臣深く言うこと敢えざるは、嫌を避け罪を遠ざくるのみ。丞相身退き計決す、之を言う何の嫌か有らん」と。秘書郎に遷る。帝玉津園に幸せんと欲す、三聘上疏して言う、「今人心既に離れ、大乱将に作らんとす、小大の臣震怖して命を請う、而して陛下安意肆志して聞知せず、万一敵人の諜知するに、一介の使を馳せ、北宮に安否を問わば、何を以てか之に答うるを知らず。姦宄間を窺い、一紙の檄を伝え、乗輿を指斥せば、何を以てか之を禦ぐを知らず。望むらくは亟に法駕を備えて朝謁せよ、然らずんば、臣実に死する所を知らず」と。

孝宗病革す、復た上疏して言う、「道路流言、洶洶日甚だし、臣恐らくは不幸にして狂夫姦人有り、忠憤を託して詐を行い、曲直を仮りて衆を動かさんことを、此に至りて後悔せば、則ち恐らくは及ぶ無からん」と。帝意動かさる。孝宗崩ずるに及び、帝疾有りて喪を執ること能わず、朝論益震洶す、三聘今日の事勢は、儲を建つるに若かずと謂う。或る之を戒めて曰く、「前日台諫諸公汝の其の職を奪うと謂えり、今復た疏有るや」と。三聘曰く、「此何の時ぞ而して煩言を避くべけんや」と。

寧宗立ち、考功郎を兼ね、後郢州を知る。会に韓侂冑相と為り、三聘を指して故相趙汝愚の腹心と為し、坐して両官を追う。久しくして、元官を復し祠と与う。差して郴州を知らしめ、提点広西・湖北刑獄に改む、皆辞して赴かず。侂冑誅せられ、諸賢竄斥に遭う者相継いで召用せらる、三聘禄及ばず、終に自ら言わず。嘉熙間、三聘已に卒す、旨有りて特だ三官を贈り、直龍図閣、謚を「忠節」と賜う。

徐僑

徐僑、字は崇甫、婺州義烏の人。蚤く呂祖謙の門人葉邽に従いて学ぶ。淳熙十四年、進士に挙げらる。調べて上饒主簿、始めて朱熹の門に登り、熹其の明白剛直を称し、命じて「毅」を以て斎を名づけしむ。入りて秘書省正字・校書郎兼呉・益王府教授と為る。直宝謨閣・江東提点刑獄、丞相史弥遠に迕いて劾罷せらる。宝慶初、葛洪・喬行簡代わって祠を請う、遂に禄を受けず。紹定中、老を告げ、請いを得る。

端平初、諸賢と俱に召され、秘書少監・太常少卿に遷る。趣きて入覲し、手疏数千言、皆感憤剴切にして、上は主闕を劘き、下は群臣に逮り、黒白を分別し、回隠する所無し。帝数え慰諭す、顧みて其の衣履垢敝するを見て、愀然として謂いて曰く、「卿清貧と謂うべし」と。僑対えて曰く、「臣貧しからず、陛下乃ち貧しきなり」と。帝曰く、「朕何を為して貧しきや」と。僑曰く、「陛下国本未だ建たず、疆宇日蹙く。権幸用事し、将帥材に非ず。旱蝗相仍い、盗賊並び起つ。経用芸無く、帑蔵空虚す。民横斂に困しみ、軍掊克に怨む。群臣交を養いて天子孤立し、国勢阽危にして陛下悟らず。臣貧しからず、陛下乃ち貧しきなり」と。又言う、「今女謁・閹宦相為に囊橐と為り、誕めて二豎を為し、以て国の膏肓に処る。而して執政大臣又和緩の術無し。陛下此れを慮わずして耽楽是に従う、世に扁鵲有らば、将に見て却走せん」と。時に貴妃閻氏方に寵有り、而して内侍董宋臣表裏して用事す、故に僑論じて之に及ぶ。帝之が為に感動改容し、咨嗟太息す。明日、手詔して辺帥の尤も状無き者を罷め、群臣に申儆して朋党を以て之を戒めしめ、有司に命じ中外の浮費を裁節せしめ、而して僑に金帛を賜うこと甚だ厚し。僑固く辞して受けず。

侍講として、友愛の大義を開陳し、これにより皇子趙竑の爵位を復し、周敦頤・程顥・程頤・張載・朱熹を従祀すること、趙汝愚を寧宗廟に配享することを請うた。帝はその請いをすべて聞き入れた。金の使者が来たとき、葉僑は国書がないので外に宿泊させるべきであり、叔向が鄭を辞した故事のようであるとし、丞相の意に逆らい、強く休致を願い出たが、帝はきわめて懇ろに慰留した。工部侍郎に遷るが、辞意はますます固く、遂に内祠侍読の職を命じられ、やむを得ず就職した。事に遇っては言うべきことを尽くした。病を理由に前の請いを申し立て、宝謨閣待制の祠官となった。卒し、諡は「文清」である。

葉僑はかつて言った。「近年、朱熹の書は天下に満ちているが、それはただ切り裂き拾い集めて、進取の資とするに過ぎず、その専精篤実にして、その言うところを得る者は少ない。」故にその学は一に真践実履を尚ぶことを旨とした。奏対の言葉は、理と欲を剖析し、それによって勧懲を致した。弘益するところ多かった。その官を守り家に居る、清苦刻厲の操は、人の為し難きところである。

度正

度正、字は周卿、合州の人。紹熙元年の進士。歴官して国子監丞となる。当時、士大夫は賢愚を問わず、皆李全が必ず反すると策していたが、敢えて言う者はなく、度正ただ一人上疏して極言し、かつ李全を斃す策を三つ献じた。その言葉は鯁亮激切であった。

軍器少監に遷る。輪対して言う。「陛下が聖学を推し行われるには、まず家を正すことから始められるべきである。」太常少卿に進む。ちょうど太廟の災があり、二つの説を献じた。その一つは朱熹の議を用い、その一つは宋朝の廟制に因り朱熹の議を参酌したものである。「西から東へと一列とし、各室の後ろに一室を設け、祧廟の主を蔵する。例えば僖祖廟には次第に祧せられた主を蔵し、昭は左に居し、穆は右に居する。後世、穆の祧主は太祖廟に蔵し、昭の祧主は太宗廟に蔵する。仁宗は百世遷さざる宗とし、後世の昭の祧主はこれを蔵する。高宗は百世遷さざる宗とし、後世の穆の祧主はこれを蔵する。室の前に両室を設ける。三年の祫享には、帷帳で幕して一室に通じ、諸廟の主および祧廟の主をすべて出して一列とし、その上で合食する。従来この廟は一室であり、祫享のたびに室内で合祭し、名は合享といいながら実は未だ嘗て合享したことがなかった。この三室を増し、後に祧主を蔵する所があり、前に祖宗合食の地があれば、本朝の制に初めから更改はなく、しかもすでに三年大祫の義を得ている。」

権礼部侍郎兼侍右郎官に遷り、兼ねて同修国史・実録院同修撰となる。礼部侍郎に遷り、一官を転じ、礼部侍郎のまま致仕した。卒し、四官を贈られ、賻として銀絹三百を賜った。著すところに『性善堂文集』がある。

程珌

程珌、字は懷古、徽州休寧の人。紹熙四年の進士。昌化主簿に授かり、建康府教授に調じ、富陽県知事に改め、主管官告院に遷る。宗正寺主簿・枢密院編修官を歴任し、権右司郎官・秘書監丞、江東転運判官となる。陛辞の際、寧宗が宰臣に言う。「程珌をどうして外補させることができようか。」遂に旧職に復した。

浙西提挙常平に遷り、また秘書丞に遷り、秘書省著作郎に昇進し、まもなく軍器少監兼権左司郎官となる。国子司業兼国史編修・実録検討に遷り、兼ねて権直舎人院となり、起居舎人に遷り、兼職は旧のまま。権吏部侍郎、直学士院兼同修国史・実録院同修撰となり、兼ねて権中書舎人となる。礼部侍郎に遷りなお侍読を兼ね、権刑部尚書となり、休寧県男に封ぜられる。礼部尚書兼同修国史・実録院同修撰に授かり、兼ねて権吏部尚書となり、翰林学士・知制誥に拝され、兼ねて玉牒官を修し、子に進封される。五度上疏して祠官を請い、煥章閣学士・建寧府知事となり、福建路招捕使を授かる。旧職をもって玉隆万寿宮を提挙し、伯に進封される。敷文閣学士・寧国府知事に進み、贛州知事に改まるが、いずれも赴任せず。新安郡侯に進封され、宝文閣学士を加えられ、福州知事兼福建安撫使となる。再び祠官を奉じ、また龍図閣学士を加えられる。端明殿学士をもって致仕し、卒す。年七十九。特進・少師を贈られた。

程珌は十歳のとき氷を詠じ、言葉は人を驚かせた。直学士院のとき、寧宗が崩御し、丞相史弥遠が夜に程珌を召すと、一家は大いに驚いた。程珌の妻は丞相王淮の娘であり、泣いて、不測の事を疑い、人をやって窺わせたが、弥遠が出迎えているのを知り、その後で涙を収めた。弥遠は程珌とともに禁中に入り矯詔を草し、一晩で制誥二十五通を作った。初め程珌に政府(政事堂)への参与を許し、楊皇后は金一囊を封じて程珌に賜った。程珌はこれを受けて辞さず、帰って見ると、その価値は計り知れなかった。弥遠はこれによって程珌を恨み、ついに共に政務を執らせなかったという。

牛大年

牛大年、字は隆叟、揚州の人。慶元二年の進士。歴官して将作監主簿となる。入対して言う。「人主がまずなすべきことは、要するに天命人心の繫がる所に念を致すことである。人主は富貴崇高の位に居り、重くして宗社の託を承け、尊くして臣辟の戴するところとなり、一指意すれば衆敢て違わず、一動作すれば人孰れか敢て議するも、しかし天心は常ならず、畏るべし。」また言う。「今日の士気もまた久しく靡いている。立国の意を体してこれを振起すべきである。扶持作興の意あって、その後にはじめて縉紳に貪名嗜利の習いがなく、貪名嗜利の習いがなくて、その後にはじめて持正秉義の操がある。国家の休戚は士大夫の風俗にあり、而して風俗の善悪は朝廷にある。惟うに陛下がこれを振起され、機括一たび運ばば、天下は転移し、風俗は改まるであろう。」

軍器監主簿・大宗正丞・四川提挙茶馬兼権総領・黎州知事兼管内安撫司公事・黎雅州屯戍軍馬節制に遷り、直宝章閣を加えられ、工部郎官となる。入対して、貪吏を懲らすことを請う。侍左郎中に遷り、直華文閣・浙東提点刑獄に進み、守秘書少監・宗正少卿に遷り、秘書監に昇進し、起居舎人に遷り、起居郎兼崇政殿説書に昇る。宝章閣待制をもって太平興国宮を提挙し、卒す。特旨により四官を贈られた。牛大年は清操凛然として、至るところ廉潔を以て自らを将いた。

陳仲微

陳仲微、字は致廣、瑞州高安の人。その先祖は江州に居住し、義門として旌表された。嘉泰二年、進士に挙げられる。莆田尉に調じ、守令が欠員となり、通判もまた疲軟で任に堪えず、台閫より県事を委ねられた。時に凶年にあたり、部卒が飢民とともに乱を起こした。陳仲微は直ちに首謀者を召し出してこれを誅した。穀物の密売を籍没し、強制的な買い占めを抑え、一境粛然とした。囊山の浮屠(僧侶)が郡学と水利を争い、久しく決しなかった。陳仲微は法に按じて言う。「曲は浮屠にある。」他日、檄に沿って寺を過ぎると、その徒は久しくこの事を鐘の上に掲げて冤罪とし、朝夕に呪詛していたが、誰もこれが陳仲微であることを知らなかった。陳仲微これを見て言う。「我れ何の心ぞや。我れ何の心ぞや。」夜明けに、首僧は病なくして死んだ。寓公(地方に寓居する高官)で、当路に陳仲微を称え、密かに推薦状を授けた者がいた。陳仲微はこれを受け取って蔵した。一年余りして、その家が県の租税を負い、ついにその奴僕を逮捕した。寓公は怨言を言った。陳仲微はその推薦状を返し、封は旧のままである。その人は慚愧して謝し、その任が終わるまで私事をもって干渉しようとしなかった。

海鹽丞に遷る。隣邑に十年にわたる疑獄あり、郡は仲微に命じてこれを按じさせたところ、一問して即座に決した。崇陽県知事に改め、公署の傍らに寝食し、日々父老や樵夫と親しく語り合い、下情はことごとく上達し、吏は手の下しようがなかった。黄州通判となり、職務は糧秣の供給を兼ね、自ら身をもって下を律し、事に応じて検察し、軍事の興起もこれによって欠乏しなかった。制置使がその最上を上奏したが、辞して曰く、「職分なり、何の最上かあらんや」と。再び江州通判となり、諸司審計事幹辦に遷り、贛州知州・江西提点刑獄を歴任したが、丞相賈似道に逆らい、監察御史舒有開の上言により罷免された。久しくして、惠州知州として起用され、太府寺丞兼権侍右郎官に遷る。輪対にて言う、「禄の餌は天下の中才を釣ることはできても、天下の豪傑を飽かせることはできない。名の舟は天下の猥りなる士を載せることはできても、天下の英雄を陸沈させることはできない」と。似道は怒り、また言官をそそのかしてその官を罷奪させた。久しくして、叙復された。

時に国勢は甚だ危うく、仲微は封事を上奏し、その要旨は次のようであった。

「襄陽を誤ったのは、老将である。しかし襄陽の罪は専ら庸閫・疲将・孩兵にあるのではなく、君相も分かちその責を負い、先皇帝の在天の霊に謝すべきである。天子が『罪は朕に在り』と言い、大臣が『咎は臣等に在り』と言い、十年にわたる安逸を養った過去の誤りを宣布し、六年にわたる寇を玩んだ昨日の非を深く懲らしめ、過ちを未だ形なきうちに救うならば、固より極まりなきも、既往を追悔するは、なお迷うにまさる。あるいは覆護の意多く、克責の辞少なしと言い、あるいは陛下に哭師の誓い乏しく、師相は過ちを分かつ言葉を飾ると言う。これは甚だ死義を慰恤し、天に祈り禍を悔いるの道に非ざるなり。往々にして代言には知体の士乏しく、ぎょう館には識見ある人少なく、旨を吮い柔を茹で、積習して痼疾となり、君道と相業、両ながらに虧くところあり。方今いかなる時ぞ、朝廷には国を謀る臣なく、辺境には折衝の帥なし。これを先朝、宣和末乱の前、靖康既敗の後に監みるに、凡そ前日に日近く冕旒に近づき、朱輪華轂に乗り、首を俯せ心を吐き、奴顔婢膝した者は、即ち今日賊に奉じて臣と称する者なり。強力敏事、捷疾快意の者は、即ち今日君に畔き国を売る者なり。国を為す者はまた何ぞかくの若き人に便ならんや。国を迷わす者は慆憂の欺きを進めてその君に逢い、国を託する者は恥敗の局を護って敢えて議せず、国を当たる者は安危の機を昧ってこれを悔いず。臣嘗てこれを思うに、今の少なきは兵に止まらず。閫外の事は将軍これを制すべきに、一級半階、率ね中より出で、斗粟尺布、退くに後憂あり、平素は権なく、緩急には責あり。或いは督を建てるを請い、或いは辺を行くを請い、或いは京城を請う、創聞駭聴なり。諸閫が緩急の時に辞す有るにより、故に廟堂は敗闕の後に悪を掩わざるを得ず、謀る有りて展ぶることなく、敗るる有りて誅することなし。上下羞を包み、噤して敢えて議する者なし。ここをもって下は器仗甲馬に至るまで、衰颯厖涼、軍容を粛するに足らず。壁壘堡柵、折樊駕漏、衝突の騎を当つに足らず。帥閫と号し、名は存して実は亡びたり。城にして兵なきは、城を以て敵に与え、兵にして戦を知らざるは、将を以て敵に与え、将にして兵を知らざるは、国を以て敵に与う。光景は目睫に近く蹙迫せり。惟うに君相幡然として改悟せば、天下の事なお為すべし。敗を転じて成と為すは、君相の一念の間に在り。」

ここにおいて仲微を江東提点刑獄に出した。

徳祐元年、秘書監に遷り、尋ねて右正言・左司諫・殿中侍御史を拝命した。益王が海上に即位すると、吏部尚書・給事中を拝した。厓山にて兵敗れ、安南に走る。四年を経て卒す。年七十二。

その子文孫は安南王の族人益稷とともに出降し、我が師の南征を郷導した。安南王は憤り、仲微の墓を伐り、その棺を斧で破った。

仲微は天稟篤実にして、富貴に生長せしといえども、悪衣菲食、自ら窶人と同じくす。故に『六経』を涵飫し、理致を精研し、諸子百家・天文・地理・医薬・卜筮・釈老の学に至るまで、靡くことなくこれを搜獵せしという。

梁成大

梁成大、字は謙之、福州の人。開禧元年の進士。素より苟賤にして恥亡く、県令の任期満了後、史弥遠の家幹万昕に諂事し、昕が真徳秀を撃つべきと言うと、成大は曰く、「某もし台官に入らば、必ずやこの事を弁ぜん」と。昕はその言葉を伝えた。揚州通判となり、尋いで宗正寺簿に遷る。

宝慶元年冬、転対にて、まず言う、「大佞は忠に似、大弁は訥の若し。或いは名を好んで自ら鬻ぎ、或いは異を立てて自ら詭し、或いは高尚の節を仮りて君に要し、或いは矯偽の学を飾りて世を欺く。言は忠鯁の若く、心は実に回衺なり。一たび察せざれば、薰蕕同じき器に、涇渭雑流す。言は変に達せず、謀は機に中らず。或いは巧弁を以て能と為し、或いは詭訐を以て市の直とし、或いは奇険の説を設けて衆聴を駴し、或いは妄誕の論を肆にして士心を惑わす。行うところ言うところに非ず、守るところ学ぶところに非ず。一たび弁ぜざれば、枘鑿侔わず、矛盾相激す。」

六日を経て、監察御史を拝す。尋いで上奏す、「魏了翁は既に追竄せられたるも、人なお罪大罰軽しと為す。真徳秀は狂僭悖繆、了翁に減ぜず。相羊家食す。宜しく秩を削り貶竄し、一等施行すべし。」章既に上るも、下さること両月、或いは徳秀に衡陽の命有りと伝う。時宰帝前に於いてこれに及ぶ。帝曰く、「仲尼は已甚を為さず」と。遂に三秩を鐫くことを止む。明年三月、また楊長孺の新命を寝かせ、徐瑄を三秩追奪して象州居住に移し、胡夢昱を欽州編管に移すことを奏す。是の冬、右正言を拝す。紹定元年、左司諫に進む。四年正月、宗正少卿に遷る。五年二月、権刑部侍郎となり、明年十月、帝夜に旨を降してこれを黜し、千秋鴻禧観提挙とす。莫澤時に給事中を兼ね、別異に急ぎ、上疏してこれを駁し、遂に祠命を寝かす。端平初め、洪咨夔・吳泳交章して論駁し、両秩を鐫く。泳また上疏し、泉州居住に送る。会に王遂の論もまた上り、再び秩を鐫かれ、潮州に徙す。

成大は天資暴狠、心術嶮巇にして、凡そ忠を賊し良を害するに足るものは、率ね多く攘臂してこれを為す。四方の賂遺、堂廡に列置し、賓至れば則ちこれを導きして観せしめ、その尤を效わんことを欲す。尤も豪奪を嗜み、宇文氏の賜第を冒占す。既に擯帰せられし後、これを訟う者百数に下らず。竄せられし日、朝命その廬を毀つ。小人たる李知孝の如きも曰く、「堪えざる所は、他日成大と同伝せんことなり」と。

李知孝

李知孝、字は孝章、参知政事李光の孫。嘉定四年の進士。嘗て右丞相府主管文字を為し、恥と為さず。幹辦諸司審計司に差充され、監察御史を拝す。

宝慶元年八月、上疏す、「士大夫汲汲として名を好み、正救の力少なくして附和沽激の意多く、扶持の意微にして詆訾扇搖の意勝る。既に君上の用いざるを慮り、また朝廷の容れざるを恐れ、姑く激怒の辞を為し、退いて斥逐の命を俟つ。始めは慷慨激烈、終わりは懇切求去、将に奇節を樹て令名を求めんとす。これ臣の未だ解せざる所なり。」蓋し陰に真徳秀等を詆る。また洪咨夔の三秩鐫奪・放罷、胡夢昱の追毀・除名・勒停・象州羈管を奏す。知孝なお魏了翁に語りて曰く、「此に論ずる所の咨夔等は、乃ち府第の付出する全文なり」と。その情状変詐かくの如し。

一箇月を経て、また言上する。「近年以来、諸老凋零し、後学の輩は遅れて出で、先輩を見ず、義理を聞かず、綱常を講ぜず、識見卑陋にして、議論偏詖、更に唱え疊に和し、人心を蠱惑す。此の風披扇し、害を為すこと実に深し。臣の章を下し、内外を風厲し、各務めて靖共にして、以て乱の萌を杜がんことを乞う」。右正言に拝す。また言う。「徳秀は節を改めて聖語を繆謄し牒示し、邪説を導き信ぜしめ、同流を簧鼓す。其の或いは再び妄言有らば、当に追削流竄して、以て典刑を正すべし」。疏既に上るや、遂に鏤榜して天下に播告す。また言う。「趣召の人は、率皆遅回し、久しくして至らず、君を要するを高致と為し、命に共にするを常流と為し、行う可くして固より行わず、疾からずして疾有りと称し、比比として是れ皆是れ、相扇いで風を成す。難進易退の名を求めんと欲し、殊に尊君親上の義を失う。願わくは趣召の人を将て其の程途を計り、時日を以て限り、之をして朝に造らしめよ。其の衰病する者有らば、早く改命を与えよ」。時に傅伯成・楊簡・劉宰等を召すも皆至らず、故に知孝之を詆す。また張忠恕の落職・鐫秩・罷郡を奏す。

知孝は殿中侍御史に拝し、侍御史に昇る。紹定元年、右司諫に遷り、右諫議大夫に進む。五年、工部尚書兼侍読に遷る。一箇月を経て、兵部に進む。明年、理宗親政し、宝謨閣直学士を以て寧国に出知せしむ。後省之を駁し、嵩山崇福宮を提挙せしむ。端平初め、監察御史洪咨夔・権直舎人院呉泳、交章して論駁し、鐫秩して祠を罷む。泳復た封駁し、継いで婺州に居住を送る。殿中侍御史王遂且て之を論じ、再び鐫秩し、瑞州に徙す。

知孝は名家より起り、苟くも仕進に茍合し、庶頑を領袖し、諼を懐いて国を迷わし、諸賢を排斥すること殆んど尽くす。時に小輿に乗り、酔って従官の家を謁し、欲を侵して斂積し、紀極を知らず。紹定の末、猶自ら中丞たらんことを乞う。世、知孝及び梁成大・莫沢を指して三兇と為す。卒に貶死に以て終わり、天下之を快とす。

論じて曰く、『本政書』を読みて、然る後に林勳の井地に於けること、密なりと謂う可しと知る。劉才邵は能く名節を権姦の時に全うす。許忻の和議を論ずるは、最も忠懇にして、卒に是を以て国を去り、尤も足ら悲しむべし。応孟明・曾三聘の韓侂冑に汚されざるは、孔子の所謂「歳寒く然る後に松柏の後凋るを知る」なり。徐僑の清節、度正の淳敏、牛大年の廉正、陳仲微の忠実、然れども皆大用に至らず、惜しむに非ずや。若し乃ち程珌の富貴を窃取し、梁成大・李知孝の史弥遠の鷹犬と為るを甘んずるは、万年に遺臭する者なり。