宋史

列傳第一百八十  楊棟 姚希得 包恢 常挺 陳宗禮 常楙 家鉉翁 李庭芝

列傳第一百八十  楊棟 姚希得 包恢 常挺 陳宗禮 常楙 家鉉翁 李庭芝

楊棟

原文楊棟

楊棟、字は元極、眉州青城の人。紹定二年の進士第二。簽書劍南西川節度判官廳公事を授かる。未だ赴任せず、母の喪に服す。喪が明けて、荊南制置司に移り、改めて西川に辟せられ、入って太学正となる。父の喪に服し、喪が明けて、召されて試みられ、秘書省正字兼呉益王府教授を授かり、校書郎・枢密院編修官に遷る。入内して対し、言う、「飛蝗天を蔽う。願わくは陛下が終始一徳を保たれ、天心を感格し、災咎を消弭せられんことを」。また言う、「近来中外の臣、兵を主り財を理むる者は、その言を聴けば用いられざるはなく、その実を跡づければ皆欺誣に類し、上下相蒙り、一として信ずべきなし。陛下まず至誠をもってし、然る後に天下の事為すべし」。また言う、「祖宗の国を立てるや、兵財法を恃まず、ただ民心の固結を恃むのみ。願わくは陛下常に忠厚の意を存し、峻急の人を用いられざらんことを」。理宗悦び、臣僚の言によりて祠を奉ず。

原文楊棟,字元極,眉州青城人。紹定二年進士第二。授簽書劍南西川節度判官廳公事。未上,丁母憂。服除,遷荊南制置司,改辟西川,入為太學正。丁父憂,服除,召試授祕書省正字兼吳益王府教授,遷校書郎、樞密院編修官。入對,言:「飛蝗蔽天,願陛下始終一德,庶幾感格天心,消弭災咎。」又言:「邇來中外之臣,如主兵理財,聽其言無非可用,跡其實類皆欺誣,上下相蒙,無一可信。陛下先之以至誠,而後天下之事可為也。」又言:「祖宗立國,不恃兵財法,惟恃民心固結而已。願陛下常存忠厚之意,勿用峻急之人。」理宗悅,以臣僚言奉祠。

起きて興化軍を知る。孔子の裔に潯頭鎮に居る者有り、棟は廟を建て田を闢き、その子弟を訓う。福建提点刑獄に遷り、尋ねて直秘閣を加えられ福州を権知し、兼ねて本路安撫使となり、都官郎官に遷り、また左司郎官に遷り、尋ねて右司郎官兼玉牒所検討官となり、宗正少卿を除く。進み対し、帝曰く、「ただ正心修身の説に止まるか」。棟対えて曰く、「臣が学ぶこと三十年、ただこの一説に止まる。これを以て親に事え友を取るに用い、凋弊の郡を治め冤獄を察するに用いれば、至って簡易なり」。時に女冠有りて宮禁に出入し、請謁を通ずること頗る多く、外廷多く以て言う者有り。棟上疏して曰く、「陛下何ぞ一女冠を惜しみ、天下の側目する所にして急ぎ去らざるや」。帝然りとせず。棟曰く、「この人小人と密交し、甚だ慮るべし」。また言う、「京・襄・両淮・四川の残破郡県の吏は、多くは兵将の権摂にて、科取無藝、その民矜るべし。陛下哀しまざれば、誰か実にこれを哀しまん」。帝これに従う。

原文起知興化軍。孔子之裔有居𣷉頭鎮者,棟為建廟闢田,訓其子弟。遷福建提點刑獄,尋加直祕閣兼權知福州,兼本路安撫使,遷都官郎官,又遷左司郎官,尋為右司郎官兼玉牒所檢討官,除宗正少卿。進對,帝曰:「止是正心修身之說乎?」棟對曰:「臣所學三十年,止此一說。用之事親取友,用之治凋郡、察冤獄,至為簡易。」時有女冠出入宮禁,頗通請謁,外廷多有以為言者。棟上疏曰:「陛下何惜一女冠,天下所側目而不亟去之乎?」帝不謂然。棟曰:「此人密交小人,甚可慮也。」又言:「京、襄、兩淮、四川殘破郡縣之吏,多是兵將權攝,科取無藝,其民可矜,非陛下哀之,誰實哀之?」帝從之。

太常少卿・起居郎に遷り、差して滁州を知るも、殿中侍御史周坦の論によりて罷められる。起きて直龍図閣・建寧府知府となるも、拝せず。千秋鴻禧観を提挙し、起居郎兼権侍左侍郎・崇政殿説書に遷り、継いで吏部侍郎兼同修国史・実録院同修撰兼侍読となり、集英殿修撰兼中書舎人兼侍講を以て、出でて太平州を知るも、右補闕蕭泰来の論によりて罷められ、旧職のまま太平興国宮を提挙す。起きて婺州を知る。召されて奏事し、旧職を以て祠を奉ず。度宗太子に立てらるるや、帝親しく棟を擢て太子詹事とす。工部侍郎に遷り、仍って詹事兼同修国史・実録院同修撰兼中書舎人となり、兼ねて直学士院、権刑部尚書兼国子祭酒、礼部尚書に遷り、端明殿学士・同簽書枢密院事兼太子賓客を加えられ、同知枢密院事兼権参知政事に進み、参知政事に拝す。

原文遷太常少卿、起居郎,差知滁州,以殿中侍御史周坦論罷。起直龍圖閣、知建寧府,不拜。提舉千秋鴻禧觀,遷起居郎兼權侍左侍郎、崇政殿說書,繼遷吏部侍郎兼同修國史、實錄院同修撰兼侍讀,以集英殿修撰兼中書舍人兼侍講,出知太平州,以右補闕蕭泰來論罷,依舊職提舉太平興國宮。起知婺州。召奏事,以舊職奉祠。度宗立為太子,帝親擢棟太子詹事。遷工部侍郎,仍為詹事兼同修國史、實錄院同修撰兼中書舍人,兼直學士院,權刑部尚書兼國子祭酒,遷禮部尚書,加端明殿學士、同簽書樞密院事兼太子賓客,進同知樞密院事兼權參知政事,拜參知政事。

台州守王華甫上蔡書院を建て、朝に言い、棟を山主とせんことを乞う。詔してこれに従う。因って台に卜居す。尋ねて資政殿学士・建寧府知府を授かるも拝せず。旧職を以て洞霄宮を提挙し、復た旧職のまま慶元府知府・沿海制置使となる。監察御史胡用虎の言によりて罷められ、仍って祠を奉ず。観文殿学士を加えられ慶元府知府・沿海制置使となるも、また拝せず、仍って祠を奉ず。乃ち資政殿大学士を以て万寿観使を充つ。卒す。遺表上る。帝朝を輟め、特に少保を贈る。

原文台州守王華甫建上蔡書院,言於朝,乞棟為山主,詔從之。因卜居於台。尋授資政殿學士、知建寧府,不拜。以舊職提舉洞霄宮,復依舊職知慶元府、沿海制置使。以監察御史胡用虎言罷,仍奉祠。加觀文殿學士知慶元府、沿海制置使,又不拜,仍奉祠。乃以資政殿大學士充萬壽觀使。卒,遺表上,帝輟朝,特贈少保。

棟の学は周・程氏に本づき、海内の重望を負う。賈似道の相に入るや、故老を登用し、従官に列ねしめ、棟もまたこれに預かる。彗星見るや、棟乃ち蚩尤旗なり、彗にあらずと言う。故に世に少しまれしむ云う。或いは棟姑くこの言を為し、陰かに帝に告げ、似道を逐わんと謀りしも、似道これを覚り、遂に疑いを蒙りて去ると謂う。著す所に『崇道集』『平舟文集』有り。

原文棟之學本諸周、程氏,負海內重望。方賈似道入相,登用故老,列之從官,棟亦預焉。及彗星見,棟乃言蚩尤旗,非彗也,故為世所少云。或謂棟姑為是言,陰告於帝,謀逐似道,似道覺之,遂蒙疑而去。所著有《崇道集》《平舟文集》。

姚希得

原文姚希得

姚希得、字は逢原、一字は叔剛、潼川の人。嘉定十六年の進士。小溪主簿を授かる。待次すること三年、朝夕『六経』・諸子百家の言を討論す。盤石令に調ず。会に蜀しょくに兵難有り、軍需調度擾わずして集まる。改めて嘉定府司理参軍に調ず。蒲江県知県に改む。巨室勢を挟み、邑は治め難きを号す。希得強きを綏め弱きを扶け、声聞著聞す。同知枢密院事游似、希得の名を以て聞こえ、召して審察し、行在都進奏院に遷し、太平州通判とし、福州に改む。徒歩にて候官に至るも、吏その通判たるを知らず。

原文姚希得,字逢原,一字叔剛,潼川人,嘉定十六年進士。授小溪主簿,待次三年,朝夕討論《六經》、諸子百家之言。調盤石令。會蜀有兵難,軍需調度不擾而集,更調嘉定府司理參軍。改知蒲江縣。巨室挾勢,邑號難治。希得綏強扶弱,聲聞著聞。同知樞密院事游似以希得名聞,召審察,遷行在都進奏院,通判太平州,改福州,徒步至候官,吏不知為通判也。

召されて国子監丞と為り、太府寺丞に遷る。時に暫く金部文字を書擬し兼ねて沂靖王府教授と為る。時に帝権奸を斥逐し、名徳を収召す。挙朝相慶す。希得は外観形状は、清明の朝の如しと為すも、内に脈息を察すれば、危亡の証有るに類すと以為う。乃ち上疏して言う、「堯・舜・三代の時は、危亡の事無くして、常に危亡の言を喜び、秦・漢以来は、危亡の事多くして、常に危亡の言を諱る。夫れ危亡の事は有るべからず、而して危亡の言は亡ぶべからず。後世の人主は乃ち危きを履むこと坦なるが如くし、言を諱むこと病を諱むが如し」。また言う、

原文召為國子監丞,遷太府寺丞,時暫書擬金部文字兼沂靖王府教授。時帝斥逐權姦,收召名德,舉朝相慶。希得以為外觀形狀,似若清明之朝;內察脈息,有類危亡之證。乃上疏言:「堯、舜、三代之時,無危亡之事,而常喜危亡之言;秦、漢以來,多危亡之事,而常諱危亡之言。夫危亡之事不可有,而危亡之言不可亡。後世人主乃履危如履坦,諱言如諱病。」又言:

「君子は収召せられざるに非ず、而して意向猶未だ一に調わず。小人は斥逐せられざるに非ず、而して根株猶未だ痛く断たれず。大権は操握するが若くして、旁蹊曲逕の疑い無きに能わず。大勢は更張するが若くして、長治久安の道有るを見ず。廷臣の諷諫する所、封囊の奏陳する所、激切に非ざるは無し、而して陛下固よりこれを罪せず、またこれを行わず。古より危亡の機に甘んじて蹈むは、暗主のみに非ず、而して明君も亦たこれ有り。これ臣の甚だ懼るる所なり。朝廷は万化の出づる所、実に人君の一心に根ざす。何ぞ大明天に当たりて、猶い議すべき者有るや。内小学の建つるは、人皆陛下建儲の意有るを知る。然るに歳月逾邁し、施行を見ず、人心危疑し、係属する所無し。秦・漢而下、嗣早く定まらず、事倉卒に出ず。或いは宮闈令を出し、或いは宦寺謀を主り、或いは奸臣首めて議す。これ皆人の国を危うくするに足る。陛下何ぞ憚りて早く大計を定めざるや。邸第の盛んなるは、人皆親愛に篤きを知る。然るに依馮する者衆く、王法を軽視し、請託の行い、影響に捷かなり。楊干は晋侯の弟なり、曲梁に行いを乱し、而して魏絳その僕を戮す。晋侯始め怒りて終に悔い、晋遂に以て覇たり。平原君は趙王の弟なり、租税を出さず、而して趙奢その用事者を刑す。趙王賢としてこれを用い、趙遂に以て強し。皆人の国を興すに足る。陛下何ぞ為すに少しくも国法を伸べざるや。今女冠の流は、衆の指目する所。近璫の小臣は、時に威福を窃む。これ皆陛下の心の乍明乍晦するに致る所、豈に危うしと謂わざらんや。国に善類有るは、猶人に元気有るが如し。善類一たび敗れ一たび消え、元気一たび病み一たび衰う。善類幾ばくか有る、数え消えんに堪えんや。消極まれば則ち国これに随う。陛下人を知るに明らかに、人を用うるに公なり。固より権奸再用の意無し。然るに道路の人往々窃に議す、これ元祐・紹聖将に分かたんとする機なりと。禍根猶伏して去らず、その危きを安んずるに幾からずや」。

原文「君子非不收召,而意向猶未調一;小人非不斥逐,而根株猶未痛斷。大權若操握,而不能無旁蹊曲逕之疑;大勢若更張,而未見有長治久安之道。廷臣之所諷諫,封囊之所奏陳,非不激切,而陛下固不之罪,亦不之行。自古甘蹈危亡之機,非獨暗主,而明君亦有焉,此臣之所甚懼。朝廷者,萬化之所自出也,實根於人君之一心。夫何大明當天,猶有可議者?內小學之建,人皆知陛下有意建儲也。然歲月逾邁,未覩施行,人心危疑,無所係屬。秦、漢而下,嗣不蚤定,事出倉卒,或宮闈出令,或宦寺主謀,或姦臣首議,此皆足以危人之國也。陛下何憚而不蚤定大計?邸第之盛,人皆知篤於親愛也。然依馮者眾,輕視王法,請託之行,捷於影響。楊干,晉侯弟也,亂行於曲梁,而魏絳戮其僕,晉侯始怒而終悔,晉卒以霸。平原君,趙王弟也,不出租稅,而趙奢刑其用事者,趙王賢而用之,趙卒以強。皆足以興人之國也。陛下何為而不少伸國法?今女冠者流,眾所指目;近璫小臣,時竊威福。此皆陛下之心乍明乍晦之所致,豈不謂之危乎?國有善類,猶人有元氣,善類一敗一消,元氣一病一衰。善類能幾,豈堪數消,消極則國隨之矣。陛下明於知人,公於用人,固無權姦再用之意。然道路之人往往竊議,此元祐、紹聖將分之機也。禍根猶伏而未去,不幾於安其危乎?」

帝は顔色を改めて曰く、「朕は決して史嵩之を用いぬ」と。

原文帝改容曰:「朕決不用史嵩之。」

大宗正丞に遷り、金部郎官を兼ねて権知す。李韶が病を告げ、十度上疏して去らんと欲す。希得言う、「韶は徳望あり、病を告ぐるといえども、内祠に留めて奉ぜしめ、経幄に侍らしむるは、亦た朝廷の重きを為すに足る」と。又言う、「財用困竭し、民生憔悴す。此の不急の費を移して、以て軍儲を実にし、以て民生を厚くするは、天を敬うこと此より大なるは莫し。豈に大宮宇を崇め、設像を荘厳するに在らんや」と。又た救錢楮の三策を条陳し、惠民局を置くを請う。帝皆以て行う可しと為す。

原文遷知大宗正丞兼權金部郎官。李韶以病告,十上疏欲去。希得言:「韶有德望,雖以病告,曷若留奉內祠,侍經幄,亦足為朝廷重。」又言:「財用困竭,民生憔悴,移此不急之費,以實軍儲,以厚民生,敬天莫大於此,豈在崇大宮宇,莊嚴設像哉!」又條救錢楮三策,請置惠民局,帝皆以為可行。

秘書丞に進み、尋いで著作郎に遷り、江西提挙常平を授かる。役法久しく壊れ、臨川の富室に吏に賂して免れんと求むる者有り。希得遂に之を罪す。乃ち提点刑獄に転じ、直秘閣を加う。未だ幾ばくもせず、度支員外郎を加え、尋いで直宝章閣に転じ、贛州に移治す。盗に「崔太尉」と偽号する者有り、石壁に拠り、数郡を連結す。劉老龍等衆を聚めて焚掠し、一方繹騷す。希得方略を指授し、五旬を経ずして之を平らぐ。直宝謨閣・広西転運判官を以て静江府を兼ねて権知す。尋いで直徽猷閣を授かり、静江府を知り、広西経略安撫司公事を主管し、転運判官を兼ぬ。母喪に遭い免ず。召されて秘書少監兼中書門下省検正諸房公事と為る。入対し、君子小人邪正の弁を言い、且つ曰く、「君子は顔を犯して敢えて諫め、陛下の意を拂い、退きて甘んじて家食す。此れ乃ち国の為に計るなり。身の為に計るに非ざるなり。小人は自ら朋党を植え、正人を擠排し、甘言佞語、一切陛下の意に順い、遂に陛下の官爵を取る。此れ乃ち身の為に計るなり。国の為に計るに非ざるなり」と。宗正少卿兼国史編修・実録検討に遷り、給事中を兼ねて権知し、刑部侍郎を兼ねて権知し、同修国史・実録院同修撰を兼ぬ。時に西方兵を用う。嵩之の復出を計る者有り、此の人に非ざれば能く弁ぜずと謂う。帝再び用いんとする意有り、希得必ず之を執らんことを知り、旨を出して意を諭す。希得毅然として疏を具して密奏す。報いず。又た鄧泳に祠を予くるの命を繳す。右正言邵澤・監察御史呉衍・殿中侍御史朱熠相継いで論じて罷む。

原文進祕書丞,尋遷著作郎,授江西提舉常平。役法久壞,臨川富室有賂吏求免者,希得竟罪之。遂提點刑獄,加直祕閣。未幾,加度支員外郎,尋直寶章閣,移治贛州。盜有偽號「崔太尉」者,據石壁,連結數郡;劉老龍等聚眾焚掠,一方繹騷。希得指授方略,不五旬平之。以直寶謨閣、廣西轉運判官兼權靜江府。尋授直徽猷閣、知靜江府、主管廣西經略安撫司公事兼轉運判官。母喪,免。召為祕書少監兼中書門下省檢正諸房公事。入對,言君子小人邪正之辯,且曰:「君子犯顏敢諫,拂陛下之意,退甘家食,此乃為國計,非為身計也。小人自植朋黨,擠排正人,甘言佞語,一切順陛下之意,遂取陛下官爵,此乃為身計,非為國計也。」遷宗正少卿兼國史編修、實錄檢討兼權給事中,兼權刑部侍郎、同修國史、實錄院同修撰。時西方用兵,有為嵩之復出計者,謂非此人不能辦。帝有意再用,知希得必執之,出旨諭意,希得毅然具疏密奏,不報。又繳鄧泳予祠之命。右正言邵澤、監察御史吳衍、殿中侍御史朱熠相繼論罷。

久しくして、集英殿修撰を以て千秋鴻禧観を提点す。未だ幾ばくもせず、旧職のまま両淮宣撫使司判官と為り、俄かに宝謨閣待制を加え、京西・湖南北・四川に移る。詔して元官に復するを叙す。江陵を護り功有り、召されて戸部侍郎と為る。帝曰く、「姚希得の才望は閫帥と為す可し」と。乃ち煥章閣待制に進め、慶元府を知り、沿海制置使と為り、継いで敷文閣待制に昇る。詔して沿海舟師を増す。希得之が為に広く水軍を募り、戦艦を造り、糧食を蓄え、米一万二千石・旧逋一百万を蠲免す。官を去るに当たり、庫余の羨は悉く以て民の輸を代う。召されて工部尚書兼侍読と為る。経筵に侍し、帝慶元の政を問うこと甚だ悉し。華文閣直学士・沿江制置使を以て建康府を知り、江東安撫使・行宮留守と為る。希得江上に按行し、士卒を慰労す。衆皆歓説す。溧陽饑う。稟を発し分ちて勧む。全活する者衆し。寧江軍を創め、建康・太平より池州に至るまで砦を列ね屋二万余間を置き、屯戍七千余人す。帝之を聞き、一再詔を降して諭を獎す。宝章閣学士を加え、尋いで刑部尚書を加え、旧任のまま淮西総領を兼ぬ。

原文久之,以集英殿修撰提點千秋鴻禧觀。未幾,依舊職兩淮宣撫使司判官,俄加寶謨閣待制,移京西、湖南北、四川。詔敘復元官。護江陵有功,召為戶部侍郎。帝曰:「姚希得才望可為閫帥。」乃進煥章閣待制、知慶元府、沿海制置使,繼升敷文閣待制。詔增沿海舟師,希得為之廣募水軍,造戰艦,蓄糧食,蠲米一萬二千石、舊逋一百萬。去官,庫餘羨悉以代民輸。召為工部尚書兼侍讀。入侍經筵,帝問慶元之政甚悉。以華文閣直學士、沿江制置使知建康府、江東安撫使、行宮留守。希得按行江上,慰勞士卒,眾皆歡說。溧陽饑,發稟勸分,全活者眾。創寧江軍,自建康、太平至池州列砦置屋二萬餘間,屯戍七千餘人。帝聞之,一再降詔獎諭。加寶章閣學士,尋加刑部尚書,依舊任兼淮西總領。

景定五年、召されて兵部尚書兼侍読と為る。乃ち人才を用い、政事を修め、兵甲を治め、財用を惜しむの四事を言う。端明殿学士・簽書枢密院事兼太子賓客を拝す。会に星変有り、上疏して咎を引き、機務を解かんことを乞う。参知政事を兼ねて権知す。度宗即位し、同知枢密院事兼権参知政事を授かり、尋いで参知政事を授かる。言有りて罷められ、資政殿学士・提挙洞霄宮を授かる。起きて潭州を知り、湖南安撫使と為る。疾甚だしきを以て辞し、乃ち旧職のまま祠を奉ず。致仕を請う。詔して許さず。力を請うて、資政殿大学士・金紫光禄大夫・旧のまま潼川郡公を以て致仕す。咸淳五年、卒す。遺表聞こゆ。帝朝を輟み、少保を贈る。

原文景定五年,召為兵部尚書兼侍讀。乃言用人才、修政事、治兵甲、惜財用四事。拜端明殿學士、簽書樞密院事兼太子賓客。會星變,上疏引咎,乞解機務。兼權參知政事。度宗即位,授同知樞密院事兼權參知政事,尋授參知政事。以言罷,授資政殿學士、提舉洞霄宮。起知潭州、湖南安撫使,以疾甚,辭,乃仍舊職奉祠。請致仕,詔不許,力請,以資政殿大學士、金紫光祿大夫、依舊潼川郡公致仕。咸淳五年,卒。遺表聞,帝輟朝,贈少保。

希得は忠亮平実にして、清儉自ら将い、善類を引くを好み、虚誉を求めず。蓋し上に誦薦して其の人之を知らざる者有り。広西の官署錦を以て帟幕と為す。希得曰く、「吾は書生より起身す。安くんぞ此を用いん」と。命じて繒纈を以て之に易えしむ。蜀の親族姻旧相依う者数十家、希得之に廩して終身に及び、昏喪悉く己が力を損ない、晚年口を計りて田を授く。各差有り。著す所に『続言行録』『奏稿』『橘州文集』有り。

原文希得忠亮平實,清儉自將,好引善類,不要虛譽,蓋有誦薦於上而其人莫之知者。廣西官署以錦為帟幕,希得曰:「吾起身書生安用此!」命以繒纈易之。蜀之親族姻舊相依者數十家,希得廩之終身,昏喪悉損己力,晚年計口授田,各有差。所著有《續言行錄》《奏稿》《橘州文集》。

包恢

原文包恢

包恢、字は宏父、建昌の人。其の父揚・世父約・叔父遜より朱熹・陸九淵に学ぶ。恢少くして諸父の門人に為り『大学』を講ず。其の言高明なり。諸父驚く。嘉定十三年、進士に挙げらる。金谿主簿に調ず。邵武守王遂辟きて光沢主簿と為し、寇乱を平らぐ。建寧守袁甫薦めて府学教授と為し、虎翼軍を監し、土豪を募りて唐石の寇を討つ。掌故を授かり、沿海制置司幹官に改む。会に歳饑え、盗金壇・溧陽の間に起こる。恢諸将を部し十と為して之を誅夷す。沿江制置使陳韡辟きて機宜と為し、復た寇を平らぐる功有り、吉州永豊県を知るに改む。未だ行かず、発運幹官に差す。福建安撫使陳塏檄して寇を平らぐ。武学諭・宗正寺主簿に遷り、通判台州に添差す。徐鹿卿温寇を討つ。辟きて提点刑獄司主管文字を兼ね、収捕を議す。通判臨安府に改め、宗正寺主簿に遷り、台州を知る。妖僧山中に居り、「活仏」と号す。男女争いて之に事え、因って姦利を為し、豪貴風靡す。恢其の僧を誅す。

原文包恢,字宏父,建昌人。自其父揚、世父約、叔父遜從朱熹、陸九淵學。恢少為諸父門人講《大學》,其言高明,諸父驚焉。嘉定十三年,舉進士。調金谿主簿。邵武守王遂辟光澤主簿,平寇亂。建寧守袁甫薦為府學教授,監虎翼軍,募土豪討唐石之寇。授掌故,改沿海制置司幹官。會歲饑,盜起金壇、溧陽之間,恢部諸將為十誅夷之。沿江制置使陳韡辟為機宜,復有平寇功,改知吉州永豐縣,未行,差發運幹官。福建安撫使陳塏檄平寇,遷武學諭、宗正寺主簿,添差通判台州。徐鹿卿討溫寇,辟兼提點刑獄司主管文字,議收捕。改通判臨安府,遷宗正寺主簿、知台州。有妖僧居山中,號「活佛」,男女爭事之,因為姦利,豪貴風靡,恢誅其僧。

左司郎官に進む。未だ行かず、湖北提点刑獄に改む。未だ行かず、福建に移り建寧を兼ねて知る。閩の俗九月を以て「五王」の生日を祠る。金帛を靡き、市を傾けて之を奉ず。恢曰く、「彼は犬豕に非ず。安んぞ一日にして五子同じく生まるるを得ん。不祥なる者に非ずや。而して尊畏すること是の若きは」と。衆感悟し、之が為に衰止す。転運判官を兼ぬ。侍御史周坦の論に依り罷む。光州の布衣陳景夏上書して云く、「包恢は剛正屈せざるの臣なり。言者は之を汚蔑するのみ」と。又た四年を経て、起きて広東転運判官と為り、経略使を権知し、侍右郎官に遷り、尋いで大理少卿と為り、即日直顕文閣・浙西提点刑獄を除く。是の時海寇乱を為す。恢単車道に就き、許・澉浦を調えて分屯し砦を建て、一旦諸軍を集めて之を討平す。嘉興の吏和糴に因り賕百万を受く。恢旨を被り囚を慮る。曰く、「吾は此を用いて沴気を消さん」と。乃ち死を減じ、其の手を断つ。

原文進左司郎官,未行,改湖北提點刑獄,未行,移福建兼知建寧。閩俗以九月祠「五王」生日,靡金帛,傾市奉之。恢曰:「彼非犬豕,安得一日而五子同生,非不祥者乎?而尊畏之若是。」眾感悟,為之衰止。兼轉運判官,以侍御史周坦論罷。光州布衣陳景夏上書云:「包恢剛正不屈之臣,言者汙蔑之耳。」又四年,起為廣東轉運判官,權經略使,遷侍右郎官,尋為大理少卿,即日除直顯文閣、浙西提點刑獄。是時海寇為亂,恢單車就道,調許、澉浦分屯建砦,一旦集諸軍討平之。嘉興吏因和糴受賕百萬,恢被旨慮囚,曰:「吾用此消沴氣。」乃減死,斷其手。

直龍圖閣に進み、權發運となり、祕閣修撰に昇進し、隆興府を管轄し江西轉運を兼ねた。妖しい妓女を水中に沈めると狐に化けたので、人々は皆これを神異視した。子を訴える母がおり、年月の後に書かれた訴状に「疏」の字があったので、恢はこれを疑い、その子を呼び寄せると、泣いて言わなかった。事情を得たところ、母は寡居して僧と通じ、子の諫めを憎み、不孝の罪に坐せようとしたのであり、訴状は僧が作ったものであった。そこで子に養護を命じて一歩も離れさせず、僧が近づく隙を与えなかった。母は夫の命日に託けて寺に入り仏事を行い、籠に衣帛を盛り、その中に僧を隠して帰ろうとした。恢はこれを知り、人を遣わして途中で遮らせ、籠を公庫に置いた。十日余りして、吏が籠の中から外に達する臭気がすると報告したので、恢は命じてこれを江に沈め、その子に言った、「汝のためにこの害を除いた」。また姑が死んだ時、子の嫁の棺を借りて埋葬し、家が貧しく償うことができず、嫁が恢に訴えた。恢は怒り、一つの棺を買い、その嫁を欺いて棺の中に寝かせて試みると、そのまま蓋をして葬ってしまった。湖南轉運使に改められ、罷免された。

原文進直龍圖閣、權發運,升祕閣修撰,知隆興府兼江西轉運。沈妖妓於水,化為狐,人皆神之。有母訴子者,年月後狀作「疏」字,恢疑之,呼其子至,泣不言。及得其情,母孀居,與僧通,惡其子諫,以不孝坐之,狀則僧為之也。因責子侍養跬步不離,僧無由至。母乃託夫諱日,入寺作佛事,以籠盛衣帛,因納僧於內以歸。恢知之,使人要之,置籠公庫,逾旬,吏報籠中臭達於外,恢命沉於江,語其子曰:「為汝除此害矣。」又姑死者,假子婦棺以斂,家貧不能償,婦愬於恢,恢怒,買一棺,紿其婦臥棺中以試,就掩而葬之。改湖南轉運使,罷。

景定初年、大理卿・樞密都承旨兼侍講に拝され、權禮部侍郎となり、まもなく中書舍人となった。林希逸が恢が法を守り公に奉じ、その心は水の如しと奏上した。權刑部侍郎となり、華文閣直學士に進み、平江府を管轄し發運を兼ねた。豪族が民の包挙の田を奪い公租に寄せて上を誣いた者がいたので、恢は上疏し、これを小民が天に祈り命を永らえる一事の妨げと指摘した。帝は奏疏を覧て憫然とし、事を担当した者を罪に処し、直ちに民の田を返還させた。召されて闕に赴くよう命じられたが辞退し、紹興府の長官に改められたが、また辞退した。度宗が即位すると(1264年)、召されて刑部尚書となり、端明殿學士に進み、簽書樞密院事となり、南城縣侯に封ぜられた。郊祀の礼が終わり、帰還後、資政殿學士をもって致仕した。

原文景定初,拜大理卿、樞密都承旨兼侍講,權禮部侍郎,尋為中書舍人。林希逸奏恢守法奉公,其心如水。權刑部侍郎,進華文閣直學士、知平江府兼發運。豪有奪民包舉田寄公租誣上者,恢上疏,指為以小民祈天永命之一事,帝覽奏惻然,罪任事者,即歸民田。召赴闕,辭,改知紹興,又辭。度宗即位(1264年),召為刑部尚書,進端明殿學士,簽書樞密院事,封南城縣侯。郊祀禮成,還,以資政殿學士致仕。

恢が歴任した所至において、豪猾を打ち破り、奸姦を除き、蠱毒の獄を治め、盆塩を徴収し、銀の欠損を整理し、政声は赫々たるものがあった。嘗て輪対の際に言った、「これが臣の惻隠の心から深く切に陛下に告げる所以であります。陛下の惻隠の心は天地日月の如く、それを閉ざし蝕む者は近習・外戚であります」。參知政事の董槐はこれを見て歎じて言った、「我々は慚愧の色がある」。ある日講官が恢の上疏が切実であると称え、容れられることを願った。理宗は欣然として言った、「その言は甚だ直である。朕どうして直言を怒ることがあろうか」。経筵での奏対は誠実で懇切であり、身心の要に至っては、常に従容として諄々と説いた。度宗は恢を程顥・程頤に比した。恢は父の病気に侍る時、洗濯掃除の役を僮僕に命じなかった。八十七歳で、臨終に際し、盧懷慎が簀の上に臥して窮約した故事を挙げて諸子に戒め、深衣で斂めるようにし、書を作って親戚に別れを告げてから卒した。光がその地に隕ちた。遺表が聞こえると、帝は朝を停め、少保を追贈し、「文肅」と諡し、銀絹五百を賻った。

原文恢歷仕所至,破豪猾,去奸姦,治蠱獄,課盆鹽,理銀欠,政聲赫然。嘗因輪對曰:「此臣心惻隱所以深切為陛下告者,陛下惻隱之心如天地日月,其閉而食之者曰近習、曰外戚耳。」參知政事董槐見而歎曰:「吾等有慚色矣。」他日講官因稱恢疏剴切,願容納。理宗欣然曰:「其言甚直,朕何嘗怒直言!」經筵奏對,誠實懇惻,至身心之要,未嘗不從容諄至。度宗至比恢為程顥、程頤。恢侍其父疾,滌濯掃除之役不命僮僕。年八十有七,臨終,舉盧懷慎臥簀窮約事戒諸子斂以深衣,作書別親戚而後卒,有光隕其地。遺表聞,帝輟朝,贈少保,謚「文肅」,賻銀絹五百。

常挺

原文常挺

常挺、字は方叔、福州の人。嘉熙二年の進士。歴官して太學錄となり、召されて館職を試みられ、秘書省正字兼莊文府教授に遷り、校書郎に昇進した。輪対し、李若水を高宗に配享することを乞うた。祕書郎兼考功郎官に改められ、出て衢州を管轄し、監察御史兼崇政殿說書に拝された。辺境の三事について上疏して言った、実才を登用すること、実功を奏上すること、実兵を招集すること。朝廷の二事について、良吏を選ぶこと、正人を抜擢すること。また言った、「願わくは陛下は宏遠なる規模を深く考え、清明なる志気を奮い起こし、綱紀を立て陳べること必ず万世の法程と為し、徳を昭かにし違を塞ぐこと以て百官の憲度を示されたし」。太常少卿兼國子司業に遷り、國史編修・實錄檢討兼直舍人院を兼ねた。起居郎に遷り、權工部侍郎兼直學士院となった。工部侍郎・給事中に遷った。右諫議大夫陳堯道の論劾により罷免された。寶章閣直學士として漳州を管轄し、泉州の長官に改められ、權兵部尚書兼侍読となり、權禮部尚書兼同修國史・實錄院同修撰となった。『帝學發題』を進め、吏部尚書に遷った。咸淳三年、同知樞密院事兼權參知政事を授かり、合沙郡公に封ぜられ、參知政事に拝された。四年(1268年)、致仕し、まもなく卒し、少保を追贈された。

原文常挺,字方叔,福州人。嘉熙二年進士。歷官為太學錄,召試館職,遷秘書省正字兼莊文府教授,升校書郎。輪對,乞以李若水配享高宗。改祕書郎兼考功郎官,出知衢州,拜監察御史兼崇政殿說書。疏言邊閫三事:曰辟實才,曰奏實功,曰招實兵。朝廷二事:曰選良吏,曰擢正人。又言:「願陛下深思宏遠之規模,奮發清明之志氣,立綱陳紀必為萬世之法程,昭德塞違以示百官之憲度。」遷太常少卿兼國子司業,兼國史編修、實錄檢討兼直舍人院。遷起居郎,權工部侍郎兼直學士院。遷工部侍郎、給事中。右諫議大夫陳堯道論罷。以寶章閣直學士知漳州,改知泉州,權兵部尚書兼侍讀,權禮部尚書兼同修國史、實錄院同修撰。進《帝學發題》,遷吏部尚書。咸淳三年,授同知樞密院事兼權參知政事,封合沙郡公,拜參知政事。四年(1268年),致仕,尋卒,贈少保。

陳宗禮

原文陳宗禮

陳宗禮、字は立之。少時貧しくして力学し、袁甫が江東提点刑獄であった時、宗禮は往って学を問うた。淳祐四年、進士に挙げられた。邵武軍判官に調じられ、入って國子正となり、太學博士・國子監丞に遷り、祕書省著作佐郎に転じた。入対し、火(火星)が軌道に循わないと言った。帝は星変を憂えたが、宗禮は言った、「上天が戒めを示されるのは、陛下が徳を修め政を布いて天意を回らされることにあります」。また言った、「天下は今利欲の中に事を為し、士大夫は奔競して利に趨きます。ただ至公のみがこれを遏止できます」。考功郎官を兼ね、國史實錄院校勘を兼ね、景獻府教授を兼ね、著作郎に昇進し、尚左郎官兼右司に遷った。当時丁大全が國柄を擅にし、言論を忌諱としていた。宗禮は歎じて言った、「これに一日も居られようか」。陛対し、言った、「願わくは宗社の大計を為し、ただ倉廩府庫の小計のみを為さず、天下四海の心を得て、ただ左右の便嬖戚畹の心のみを得ず、腹心を忠良に寄せて、ただ耳目を卑近に寄せず、四通八達して正人を来たらせ、ただ旁蹊曲径に類して貪濁を引き入れないでください」。太常少卿に拝され、直寶謨閣・廣東提点刑獄を以て直煥章閣に進み、秘書監に遷った。監察御史虞慮の言により両官を追奪され、永州に居住を命ぜられた。

原文陳宗禮,字立之。少貧力學,袁甫為江東提點刑獄,宗禮往問學焉。淳祐四年,舉進士。調邵武軍判官,入為國子正,遷太學博士、國子監丞,轉祕書省著作佐郎。入對,言火不循軌。帝以星變為憂,宗禮曰:「上天示戒,在陛下修德布政以回天意。」又曰:「天下方事於利欲之中,士大夫奔競趨利,惟至公可以遏之。」兼考功郎官,兼國史實錄院校勘,兼景獻府教授,升著作郎,遷尚左郎官兼右司。時丁大全擅國柄,以言為諱。宗禮歎曰:「此可一日居乎!」陛對,言:「願為宗社大計,毋但為倉廩府庫之小計;願得天下四海之心,毋但得左右便嬖戚畹之心;願寄腹心於忠良,毋但寄耳目於卑近;願四通八達以來正人,毋但旁蹊曲徑類引貪濁。」拜太常少卿,以直寶謨閣、廣東提點刑獄進直煥章閣,遷秘書監。以監察御史虞慮言追兩官,送永州居住。

景定四年、侍御史に拝され、直龍圖閣・淮西轉運判官となり、刑部尚書に遷った。起居舍人曹孝慶の言により罷免された。度宗が即位すると、侍講を兼ね、殿中侍御史に拝された。上疏して言った、「恭儉の徳は上躬より始め、清白の規は宮禁より始め、左右の利を言う者は必ず斥け、蹊隧の私献する者は必ず誅せよ」。『詩経』を進講するに因み、奏上した、「帝王の挙動は微なるも顕われざるはなく、古人が慎独を貴んだ所以である」。權禮部侍郎兼給事中となった。『孝宗聖訓』を進読するに因み、奏上した、「安危治乱は常に一念慮の間に起こり、念慮少しでも差れば禍乱は随って現れる。天下の乱は微より起こり著しく成らざるはない」。また言った、「私意を以て公法を害さざるは、乃ち国家の福である」。帝は言った、「孝宗の家法は、ただ善を賞し悪を罰することを特に謹んだ」。宗禮は言った、「功有りて賞せず、罪有りて罰せざれば、堯舜と雖も天下を治められません。誠に謹まざるべからずです」。

原文景定四年,拜侍御史,直龍圖閣、淮西轉運判官,遷刑部尚書。以起居舍人曹孝慶言罷。度宗即位,兼侍講,拜殿中侍御史。疏言:「恭儉之德自上躬始,清白之規自宮禁始,左右之言利者必斥,蹊隧之私獻者必誅。」以《詩》進講,因奏:「帝王舉動,無微不顯,古人所以貴於慎獨也。」權禮部侍郎兼給事中。進讀《孝宗聖訓》,因奏:「安危治亂,常起於一念慮之間,念慮少差,禍亂隨見。天下之亂未有不起於微而成於著。」又言:「不以私意害公法,乃國家之福。」帝曰:「孝宗家法,惟賞善罰惡為尤謹。」宗禮言:「有功不賞,有罪不罰,雖堯舜不能治天下,信不可不謹也。」

禮部侍郎に遷り、まもなく權禮部尚書となり、祠官を奉ずることを乞うた。帝は言った、「豈に朕と共に為すに足らざるか」。華文閣直學士として隆興府を管轄し、再び辞退し、旧職のままで待次差遣となった。一年余りして、旧職のままで廣東經略安撫使兼廣州の長官となり、端明殿學士・簽書樞密院事を加えられ、まもなく權參知政事を兼ねた。上疏して奏上した、「国が立つ所以は、天命と人心である。その警めに因って敬畏を加えれば、天命回らざるはない。その未だ墜ちざるに因って綏定を加えれば、人心回らざるはない」。官に卒した。遺表が上ると、開府儀同三司・盱江郡侯を追贈され、「文定」と諡された。著書に『寄懷斐稿』『曲轅散木集』『兩朝奏議』『經筵講義』『經史明辯』『經史管見』『人物論』がある。

原文遷禮部侍郎,尋權禮部尚書,乞奉祠,帝曰:「豈朕不足與有為耶?」以華文閣直學士知隆興府,再辭,依舊職與待次差遣。逾年,依舊職廣東經略安撫使兼知廣州,加端明殿學士、簽書樞密院事,尋兼權參知政事。疏奏:「國所以立,曰天命人心。因其警而加敬畏,天命未有不可回也;因其未墜而加綏定,人心未嘗不可回也。」卒官,遺表上,贈開府儀同三司、盱江郡侯,謚「文定」。所著有《寄懷斐稿》《曲轅散木集》《兩朝奏議》《經筵講義》《經史明辯》《經史管見》《人物論》。

常楙

原文常楙

常楙、字は長孺、顯謨閣直學士常同の曾孫なり。太學に入る。淳祐七年進士に挙げらる。常熟尉に調ず。公廉自ら持ち、強禦を畏れず、部使者交はって之を薦む。婺州推官に調ず。滞訟を疏決し、剸繁裁劇を以て称せらる。臨安府尹馬光祖また朝に薦む。平江府百萬倉檢察を辟差す。和糴事例を受けず、吏卒の苛取を戢む。發運使趙與𥲅提點刑獄を兼ね、楙に檢覆を属す。無錫翟氏の冤獄を雪ぐ。江淮茶鹽所蕪湖局を監す。商稅の贏を受けず、光祖益々之を敬す。嘉定縣知縣に改む。歳大水、分を勸め和糴し、籍に按じて均しく敷く。發運使王爚、提點刑獄孫子秀俱に特に朝に薦む。簽書臨安府判官と為り、權勢に撓がず。淮東提舉常平と為る者有り、楙を提管に辟す。楙其の與に共に事を為すべからざるを知り、笑って之を却く。未幾、政府強いて楙を行かしむ。遂に衣を拂いて去る。朝野之を高しとす。城南廂を主管し、訟を聽くこと嚴明、豪右益々之を憚る。都城火災の後、瓦礫充斥す。民船を差して徙運せしむ。籍に在る者百五十家、惟だ二十有五家のみ役に応ず。餘は率ね勢要宦官の庇うる所と為る。楙悉く之を追う。服せざる者は其の人を杖ち、他所に械す。命を聽かざる者無し。又力めて戶部の科買を拒ぐ。葉夢鼎、陳昉深く期獎す。臨安通判を添差す。朝命封樁庫吏范成の獄を鞫く。廟堂の風旨を承くるを肯はず、無辜の者悉く之を出だす。

原文常楙,字長孺,顯謨閣直學士同之曾孫。入太學。淳祐七年舉進士。調常熟尉。公廉自持,不畏強禦,部使者交薦之。調婺州推官。疏決滯訟,以剸繁裁劇稱。臨安府尹馬光祖又薦於朝,辟差平江府百萬倉檢察,不受和糴事例,戢吏卒苛取。發運使趙與𥲅兼提點刑獄,屬楙檢覆,雪無錫翟氏冤獄。監江淮茶鹽所蕪湖局,不受商稅贏,光祖益敬之。改知嘉定縣。歲大水,勸分和糴,按籍均敷。發運使王爚、提點刑獄孫子秀俱特薦於朝,簽書臨安府判官,不為權勢撓。有為淮東提舉常平,辟楙提管,楙知其不可與共事,笑而卻之。未幾,政府強楙行,遂拂衣去,朝野高之。主管城南廂,聽訟嚴明,豪右益憚之。都城火後,瓦礫充斥,差民船徙運,在籍者百五十家,惟二十有五家應役,餘率為勢要宦官所庇。楙悉追之,不服者杖其人,械於他所,無不聽命。又力拒戶部科買。葉夢鼎、陳昉深期獎焉。添差臨安通判。朝命鞫封樁庫吏范成獄,不肯承廟堂風旨,無辜者悉出之。

廣德軍を知る。郡水災有り、社倉粟を発して饑民を活かす。官吏之を難くす。楙先ず発して後に專命の罪を請う。慈幼局を置き、先賢祠を立つ。故事、郡守秋苗例として米千石を得べし。乃ち以て属縣に代わり大農綱の欠を償う。監察御史を拝す。知る有れば言わざる無し。嘗て天變及び賈似道家の田を争う事を論じ、継皇子竑の嗣を論ず。度宗の怒に触れ、司農卿に遷り、尋いで兩浙轉運使と為る。吏姦を禁戢し、急符を以て常賦を督めず。海鹽歳毎に鹹潮の稼を害するを為す。楙朝に請う。金を捐て粟を発し、復た己の帑を輟き、大いに修築を加え新塘三千六百二十五丈、名づけて「海晏塘」と曰う。是の秋、風濤大いに作る。塘浸からざる者尺許。民奠居を得、歳復た稔りを告ぐ。邑人之を徳とす。

原文知廣德軍。郡有水災,發社倉粟以活饑民,官吏難之,楙先發而後請專命之罪,置慈幼局,立先賢祠。故事,郡守秋苗例可得米千石,乃以代屬縣償大農綱欠。拜監察御史,知無不言。嘗論天變及賈似道家爭田事,論繼皇子竑嗣,觸度宗怒,遷司農卿,尋為兩浙轉運使。禁戢吏姦,不以急符督常賦。海鹽歲為鹹潮害稼,楙請於朝,捐金發粟,復輟己帑,大加修築新塘三千六百二十五丈,名曰「海晏塘」。是秋,風濤大作,塘不浸者尺許,民得奠居,歲復告稔,邑人德之。

戶部侍郎に遷る。四方の民詞を受け、務めて下情を通ず。中書門下省檢正諸房公事を兼ね、刑部侍郎を兼ぬ。檢覆の弊を極論す。上に故事を進む。首に雷雪非時の變を論ず。帝意悦ばず。祠を丐う。許さず。集英殿修撰を以て平江を知る。旱に値う。故事、郡守合うべき緡錢十五萬、悉く以て民食・軍餉の助と為す。苗九萬、稅十三萬、版帳十六萬を蠲ち、又新苗二萬八千を蠲つ。大いに公私の力を寬ぐ。飛蝗幾ば境に及ばんとす。疾風飄ちて太湖に入る。浮費を節し、府庫を修む。既に代わり、送還事例有り。吏卒に給する外、餘金萬楮、楙悉く受けず。吏驚きて曰く「人言う常侍郎錢を愛せずと、果然なり」と。浙東安撫使に改む。水災に値う。萬楮を捐てて之を振い、復た朝に糴を請う。米萬石を得、新苗三萬八千を蠲つ。又諸暨水に被ること尤も甚だしきを以て、二萬楮を給し縣に付して折運せしむ。民食乏絶に至らず。民各々家に祀る。兩浙及び會稽・山陰の死者暴露する者と貧しくして以て殮うる無き者有れば、乃ち十萬楮を以て普惠庫を置き、息を取って棺を造り以て之に給す。尋いで刑部侍郎を以て召さる。期赦敘改法を申明し、廟堂と可否を争い、偽關の獄を辯じ、八倉の虧欠を救い死罪を免れしめ、天井巷殺人の獄を平反す。全活する者甚だ衆し。給事中を兼ね、隆國夫人の從子黃進觀察使の錄黃を封還す。帝怒る。似道御書を以て令し委曲書行せしむ。楙遂に命に奉ぜず。寶章閣待制を以て太平興國宮を提挙す。

原文遷戶部侍郎。受四方民詞,務通下情。兼中書門下省檢正諸房公事,兼刑部侍郎。極論檢覆之弊。上進故事,首論雷雪非時之變,帝意不悅。丐祠,不許,以集英殿修撰知平江。值旱。故事,郡守合得緡錢十五萬,悉以為民食、軍餉助。蠲苗九萬、稅十三萬、版帳十六萬,又蠲新苗二萬八千,大寬公私之力。飛蝗幾及境,疾風飄入太湖。節浮費,修府庫。既代,有送還事例,自給吏卒外,餘金萬楮,楙悉不受。吏驚曰:「人言常侍郎不愛錢,果然。」改浙東安撫使。值水災,捐萬楮以振之,復請糴於朝,得米萬石,蠲新苗三萬八千。又以諸暨被水尤甚,給二萬楮付縣折運,民食不至乏絕。民各祀於家。兩浙及會稽、山陰死者暴露與貧而無以為殮者,乃以十萬楮置普惠庫,取息造棺以給之。尋以刑部侍郎召。申明期赦敘改法,與廟堂爭可否,辯偽關獄,救八倉虧欠免死罪,平反天井巷殺人獄,全活者甚眾。兼給事中,封還隆國夫人從子黃進觀察使錄黃。帝怒,似道以御書令委曲書行,楙迄不奉命。以寶章閣待制提舉太平興國宮。

德祐元年、吏部尚書を拝す。老病を以て辭す。累詔許さず。專官行を趣ること甚だ峻し。楙入見す。首に言う「霅川の變、其の本心に非ず。之を死に置く、過ちなり。後を立たず、又過ちなり。巴陵帝王の胄、生にして正命を得ず、死して血食を得ず。沈冤幽憤、鬱結すること四五十年の久しき、妖と為り劄と為らざるは冥冥の中に幾ばくぞ。願わくは陛下浮議を搖がさず、特だ神斷を発し給え。宗社幸い甚だし」と。ここに於て詔し國史院典故を討論して以て聞かしむ。明堂禮成り、端明殿學士に進み、戶部財用を提領す。特と執政恩數を与う。楙國歩方に艱きを以て、臣子榮を貪るの時に非ずとし、力めて恩數を辭す。廟堂と議事合わず、疾を以て謁告す。二年春、參知政事を拝す。夏士林に繳駁せられ、疏を拝して關を出づ。後六年卒す。

原文德祐元年,拜吏部尚書,以老病辭,累詔不許,專官趣行甚峻。楙入見,首言:「霅川之變,非其本心,置之死,過矣,不與立後,又過矣。巴陵帝王之胄,生不得正命,死不得血食,沉冤幽憤,鬱結四五十年之久,不為妖為劄於冥冥中者幾希。願陛下勿搖浮議,特發神斷,宗社幸甚。」於是詔國史院討論典故以聞。明堂禮成,進端明殿學士、提領戶部財用,特與執政恩數。楙以國步方艱,非臣子貪榮之時,力辭恩數。與廟堂議事不合,以疾謁告。二年(1276年)春,拜參知政事,為夏士林繳駁,拜疏出關,後六年(1282年)卒。

家鉉翁

原文家鉉翁

家鉉翁、眉州の人。蔭を以て官を補う。累官常州を知り、政譽翕然たり。浙東提點刑獄に遷り、入りて大理少卿と為り、直華文閣、祕閣修撰を以て紹興府長史を充て、樞密都丞旨に遷り、建寧府を知り福建轉運副使を兼ね、權戶部侍郎兼知臨安府・浙西安撫使、戶部侍郎に遷り、權侍右侍郎、仍て樞密都丞旨を兼ぬ。進士出身を賜い、端明殿學士・簽書樞密院事を拝す。

原文家鉉翁,眉州人。以蔭補官。累官知常州,政譽翕然。遷浙東提點刑獄,入為大理少卿,直華文閣,以祕閣修撰充紹興府長史,遷樞密都丞旨,知建寧府兼福建轉運副使,權戶部侍郎兼知臨安府、浙西安撫使,遷戶部侍郎,權侍右侍郎,仍兼樞密都丞旨。賜進士出身,拜端明殿學士、簽書樞密院事。

大元兵近郊に次る。丞相吳堅・賈餘慶檄を以て天下の守令に告げ城を降さしむ。鉉翁獨り署せず。元帥使を遣わす。縛せんと欲す。鉉翁曰く「中書省に執政を縛するの理無し」と。堅表を奉り大元に祈請す。鉉翁を以て之に介す。禮成りて命を得ず、館中に留まる。宋の亡ぶを聞き、旦夕哭泣し飲食せざること數月。大元其の節高きを以て、尊官せんと欲し、以て南服を示す。鉉翁義二君にせず、詭對無く辭す。宋三宮北還す。鉉翁再び故臣を率いて迎謁し、地に伏して流涕し、頓首して奉使無状を謝し、上衷を感動する能わず、其の國を保存する無きを謝す。見る者歎息せざる莫し。文天祥の女弟兄の故に坐し、奚官に繫がる。鉉翁橐中の裝を傾けて贖い出だし、以て其の兄璧に帰す。

原文大元兵次近郊,丞相吳堅、賈餘慶檄告天下守令以城降,鉉翁獨不署。元帥遣使至,欲加縛,鉉翁曰:「中書省無縛執政之理。」堅奉表祈請於大元,以鉉翁介之,禮成不得命,留館中。聞宋亡,旦夕哭泣不食飲者數月。大元以其節高,欲尊官之,以示南服。鉉翁義不二君,辭無詭對。宋三宮北還,鉉翁再率故臣迎謁,伏地流涕,頓首謝奉使無狀,不能感動上衷,無以保存其國。見者莫不歎息。文天祥女弟坐兄故,繫奚官,鉉翁傾橐中裝贖出之,以歸其兄璧。

鉉翁狀貌奇偉、身長七尺、被服儼雅。其の學《春秋》に邃く、自ら「則堂」と號す。河間に館を改め、乃ち《春秋》を以て弟子に教授す。數たび諸生に宋の故事及び宋興亡の故を談じ、或いは流涕太息す。大元成宗皇帝即位し、放還し、號「處士」を賜い、金幣を錫賫す。皆辭して受けず。又數年を以て壽終す。

原文鉉翁狀貌奇偉,身長七尺,被服儼雅。其學邃於《春秋》,自號「則堂」,改館河間,乃以《春秋》教授弟子,數為諸生談宋故事及宋興亡之故,或流涕太息。大元成宗皇帝即位,放還,賜號「處士」,錫賫金幣,皆辭不受。又數年以壽終。

李庭芝

原文李庭芝

李庭芝、字は祥甫。其の先汴の人、十二世同居し、「義門李氏」と號す。後に隨の應山縣に徙る。金亡び、襄・漢兵に被り、又隨に徙る。然れども特だ武を以て顯る。

原文李庭芝,字祥甫。其先汴人,十二世同居,號「義門李氏」,後徙隨之應山縣。金亡,襄、漢被兵,又徙隨。然特以武顯。

庭芝が生まれた時、屋根の棟に霊芝が生じ、郷人が集まって見物し、男子誕生の瑞祥であるとして、これに因んで名付けた。幼少より聡明で、一日に数千言を誦することができ、智識は常に年長者を上回った。王旻が随州を守っていた時、庭芝は十八歳で、諸父に告げて言うには、「王公は貪欲で下を顧みず、下の者は多く彼を怨んでおり、随は必ず乱れるでしょう。どうか家族を徳安に移して避難させてください」と。諸父は無理に従ったが、十日も経たぬうちに、王旻は果たして配下の者に挟持されて叛き、随の民で死んだ者は甚だ多かった。嘉熙の末、江防が非常に緊迫し、庭芝は郷挙を得たが行かず、策を以て荊州の帥孟珙に干謁し、自ら効力を請うた。孟珙は人相を見るのが巧みで、かつ夜、車騎が李尚書と称して自分を謁すると夢見た。翌日、庭芝が到着した。孟珙はその魁偉な姿を見て、諸子を顧みて言うには、「私は多くの人相を見てきたが、李生に及ぶ者はいない。その名位は私を超えるであろう」と。時に四川に警報があり、直ちに庭芝を施州の建始県の権知事とした。庭芝が到着すると、農を訓え兵を治め、壮士を選んで官軍に混ぜて教練した。一年後、民は皆戦い守ることを知り、駆け回ることに長け、事が無ければ戈を立てて耕し、兵が来れば悉く出て戦った。夔州の帥はその法を下して管轄区域で行わせた。淳祐初年に初めて去り、進士に挙げられ、及第した。孟珙の幕下に辟召され、機宜文字を主管した。孟珙が卒去すると、遺表を以て賈似道を挙げて自らの後任とし、また庭芝を似道に推薦した。庭芝は孟珙の知己を感じ、その柩を扶けて興国に葬り、直ちに官を棄てて帰り、孟珙のために三年の喪に服した。

原文庭芝生時,有芝產屋棟,鄉人聚觀,以為生男祥也,遂以名之。少穎異,日能誦數千言,而智識恒出長老之上。王旻守隨,庭芝年十八,告其諸父曰:「王公貪而不恤下,下多怨之,隨必亂,請徙家德安以避。」諸父勉強從之,未浹旬,旻果為部曲挾之以叛,隨民死者甚眾。嘉熙末,江防甚急,庭芝得鄉舉不行,以策干荊帥孟珙請自效。珙善相人,且夜夢車騎稱李尚書謁己,明日庭芝至。珙見其魁偉,顧諸子曰:「吾相人多,無如李生者,其名位當過我。」時四川有警,即以庭芝權施之建始縣。庭芝至,訓農治兵,選壯士雜官軍教之。期年,民皆知戰守,善馳逐,無事則植戈而耕,兵至則悉出而戰。夔帥下其法於所部行之。淳祐初始去,舉進士,中第。辟珙幕中,主管機宜文字。珙卒,遺表舉賈似道自代,而薦庭芝於似道,庭芝感珙知己,扶其柩葬之興國,即棄官歸,為珙行三年喪。

似道が京湖を鎮守すると、起用して制置司参議とし、両淮に移鎮すると、似道と議して清河の五河口に柵を設け、淮南の烽火台を百二十増やした。続いて濠州知事となり、また荊山に城を築いて淮南に備えた。いずれも時機に適切であった。開慶元年、似道が京湖を宣撫し、庭芝を留めて揚州の権知事とした。間もなく大軍が蜀に在ることを以て、上奏して峡州知事とし、蜀の江口を防がせた。朝廷は趙与𥲅を淮南制置とし、李応庚を参議官とした。応庚は両路の兵を発して南城を築かせたが、酷暑の中で熱射病で死んだ者は数万に及んだ。李璮はその無謀さを窺い、漣水の三城を奪い、淮を渡って南城を奪った。鄂州の兵が解かれると、庭芝は母の喪に服して去った。朝議で揚州を守る者を選ぶと、帝は言うには、「李庭芝に及ぶ者はいない」と。そこで喪中を奪情して両淮制置司事を主管させた。庭芝は再び李璮の兵を破り、璮の将である厲元帥を殺し、南城を平らげて帰還した。明年(1261年)、また喬村で李璮を破り、東海・石圃等の城を陥れた。また明年(1262年)、李璮が降伏すると、三城の民を通州・泰州の間に移した。また蘄県を破り、守将を殺した。

原文似道鎮京湖,起為制置司參議,移鎮兩淮,與似道議柵清河五河口,增淮南烽百二十。繼知濠州,復城荊山以備淮南。皆切中機會。開慶元年,似道宣撫京湖,留庭芝權揚州。尋以大兵在蜀,奏知峽州,以防蜀江口。朝廷以趙與𥲅為淮南制置,李應庚為參議官。應庚發兩路兵城南城,大暑中暍死者數萬。李璮窺其無謀,奪漣水三城,渡淮奪南城。鄂兵解,庭芝丁母憂去。朝議擇守揚者,帝曰:「無如李庭芝。」乃奪情主管兩淮制置司事。庭芝再破璮兵,殺璮將厲元帥,夷南城而歸。明年(1261年),復敗璮於喬村,破東海、石圃等城。又明年(1262年),璮降,徙三城民於通、泰之間。又破蘄縣,殺守將。

庭芝が初めて揚州に着任した時、揚州は新たに火災に遭い、家屋は全て焼失していた。州は塩を利頼みとしていたが、亭戸(塩戸)の多くが逃亡し、公私共に寂れていた。庭芝は民の負った滞納を全て免除し、銭を貸して家屋を建てさせ、家屋が完成するとまたその貸付金を免じ、凡そ一年で、官民の住居が全て整った。河を四十里掘って金沙余慶場に通し、車による輸送を省いた。兼ねて他の運河を浚渫し、亭戸の負った塩二百余万を免除した。亭民は車による輸送の労が無く、また負債を免れることができたので、逃亡した者も皆帰って来て、塩の利益が大いに興った。初め、平山堂は揚州城を見下ろしており、大元の兵が来ると、その上に望楼を構え、車弩を張って城中を射た。庭芝はそこで大城を築いてこれを包囲し、城中で汴南の流民二万人を募って実兵とし、詔命により武鋭軍と称した。また大いに学校を修築し、詩書・俎豆を備え、士人と共に習射の礼を行った。郡中に水害・旱害があれば、直ちに命じて倉を開き、不足すれば私財を以て救済した。揚州の民は彼を父母のように徳とした。劉槃が淮南から入朝すると、帝が淮の事情を問うと、槃は答えて言うには、「李庭芝は老成で謹厳重厚であり、軍民は安心しております。今、辺境に塵埃が驚かず、百般の事柄が全て整っておりますのは、皆陛下が委任して適材を得られた効果でございます」と。

原文庭芝初至揚時,揚新遭火,廬舍盡燬。州賴鹽為利,而亭戶多亡去,公私蕭然。庭芝悉貸民負逋,假錢使為屋,屋成又免其假錢,凡一歲,官民居皆具。鑿河四十里入金沙餘慶場,以省車運。兼浚他運河,放亭戶負鹽二百餘萬。亭民無車運之勞,又得免所負,逃者皆來歸,鹽利大興。始,平山堂瞰揚城,大元兵至,則構望樓其上,張車弩以射城中。庭芝乃築大城包之,城中募汴南流民二萬人以實之,有詔命為武銳軍。又大修學,為詩書、俎豆,與士行習射禮。郡中有水旱,即命發廩,不足則以私財振之。揚民德之如父母。劉槃自淮南入朝,帝問淮事,槃對曰:「李庭芝老成謹重,軍民安之。今邊塵不驚,百度具舉,皆陛下委任得人之效也。」

咸淳五年、北兵が襄陽を急に包囲し、夏貴が救援に入ったが、虎尾州で大敗した。范文虎が諸兵を総率して再び入ったが、また敗れ、文虎は軽舟で逃げ、兵は乱れ、士卒で漢水に溺死した者は甚だ多かった。冬、庭芝に京湖制置大使を以て師を督し襄陽を救援することを命じた。文虎は庭芝が来ると聞き、似道に書を送って言うには、「私は数万の兵を率いて襄陽に入り、一戦で平定できますが、ただ京閫(庭芝)の命令を聞かせないでください。事が成れば功績は恩相(似道)に帰するでしょう」と。似道は喜び、直ちに文虎を福州観察使に任じ、その兵は中央から統制した。文虎は毎日美妾を連れ、馬を走らせ蹴鞠をして軍中で楽しんだ。庭芝は屡々進兵しようとしたが、文虎は言うには、「私は取旨(命令)が未だ届いていない」と。明年(1270年)六月、漢水が溢れ、文虎は已むを得ず初めて出師したが、鹿門に至らず、途中で逃げ去った。庭芝は数度自らを弾劾して後任を請うたが、許されず、遂に襄陽を失った。陳宜中は文虎を誅することを請うたが、似道が庇い、ただ一階降格して安慶府知事とするのみで、庭芝及び部将の蘇劉義・范友信を広南に貶した。庭芝は罷免されて京口に居住した。

原文咸淳五年,北兵圍襄陽急,夏貴入援,大敗虎尾州;范文虎總諸兵再入,又敗,文虎以輕舠遁,兵亂,士卒溺漢水死者甚眾。冬,命庭芝以京湖制置大使督師援襄陽。文虎聞庭芝至,貽書似道曰:「吾將兵數萬入襄陽,一戰可平,但無使聽命於京閫,事成則功歸恩相矣。」似道喜,即除文虎福州觀察使,其兵從中制之。文虎日攜美妾,走馬擊毬軍中為樂。庭芝屢欲進兵,曰:「吾取旨未至也。」明年(1270年)六月,漢水溢,文虎不得已始一出師,未至鹿門,中道遁去。庭芝數自劾請代,不允,竟失襄陽。陳宜中請誅文虎,似道庇之,止降一官知安慶府,而貶庭芝及部將蘇劉義、范友信廣南。庭芝罷居京口。

間もなく、大元の兵が揚州を包囲し、制置使の印応雷が急死したので、直ちに庭芝を起用して両淮制置とした。庭芝は淮西を夏貴に分け与え、自らは淮東に専力することを請うた。これに従った。十年(1274年)、清河口に城を築き、詔により清河軍とした。十二月、大元の兵が鄂州を破り、詔して天下に勤王を命じると、庭芝は真っ先に兵を派遣して諸道の先駆けとした。徳祐元年春、似道の兵が蕪湖で潰え、沿江の諸郡は或いは降り或いは逃げ、一人として守れる者はいなかった。庭芝は配下の郡県を率いて城を守った。李虎という者が招降の榜文を持って揚州に入ったが、庭芝は李虎を誅し、その榜文を焼いた。総制の張俊が出戦し、孟之縉の書を持って招降に来たが、庭芝は書を焼き、張俊ら五人を市で梟首した。そして毎日、苗再成をして南で戦わせ、許文徳をして北で戦わせ、姜才・施忠をして中で戦わせた。時に金帛・牛・酒を出して将士を慰労し、人々はそのために死闘した。朝廷もまた督府の金を以て労い、庭芝に参知政事を加えた。七月、知枢密院事を以て朝に徴し入れ、夏貴を揚州知事に転任させたが、貴は赴任せず、事は遂に止んだ。

原文未幾,大元兵圍揚州,制置印應雷暴死,即起庭芝制置兩淮。庭芝請分淮西夏貴,而己得專力淮東,從之。十年(1274年),築清河口,詔以為清河軍。十二月,大元兵破鄂,詔天下勤王,庭芝首遣兵為諸道倡。德祐元年春,似道兵潰蕪湖,沿江諸郡或降或遁,無一人能守者。庭芝率所部郡縣城守。有李虎者持招降榜入揚州,庭芝誅虎,焚其榜。總制張俊出戰,持孟之縉書來招降,庭芝焚書,梟俊五人於市。而日調苗再成戰其南,許文德戰其北,姜才、施忠戰其中。時出金帛牛酒燕犒將士,人人為之死鬥。朝廷亦以督府金勞之,加庭芝參知政事。七月,以知樞密院事征入朝,徙夏貴知揚州,貴不至,事遂已。

十月、大元の丞相伯顔が臨安に入り、元帥阿术を鎮江に留めて軍を駐屯させ、淮兵を阻んだ。阿术は揚州を攻めて久しく陥落させず、ついに長囲を築いて包囲した。冬、城中の食糧が尽き、死者が道に満ちた。翌年(1276年)二月、飢えはますます甚だしく、濠の水に身を投じて死ぬ者は日に数百に及び、道に死者があれば、人々は争って切り取って食らい、たちまち尽きた。宋が滅び、謝太后及び瀛国公が詔を下して降伏を諭したが、庭芝は城に登って言った、「詔を奉じて城を守るのであり、降伏を諭す詔があるとは聞いていない」と。やがて両宮が朝見するため、瓜州に至ると、再び庭芝に詔して言った、「先に卿に帰順を命じたが、日久しく返答がない。はたして朕の意を理解せず、なお城郭を固守しようとするのか。今朕と嗣君は既に臣従した。卿はなお誰のために守るのか」と。庭芝は答えず、弩を発して使者を射させ、一人を斃し、残りは皆退去した。姜才が兵を出して両宮を奪おうとしたが、成功せず、再び城を閉じて守った。三月、夏貴が淮西を挙げて降伏し、阿术が降伏兵を駆り立てて城下に至らせてこれを見せると、旌旗が野を蔽った。幕客の中に言葉をもって庭芝の本心を探る者がいたが、庭芝は言った、「我はただ一死あるのみ」と。阿术の使者が詔を持って来て降伏を招いたが、庭芝は壁を開いて使者を入れ、これを斬り、詔を城壁の上で焼いた。やがて淮安州知事許文德・盱眙軍知事張思聰・泗州知事劉興祖が皆、食糧尽きて降伏したことを知った。庭芝はなおも民間の粟を徴発して兵に与え、粟が尽きると、官人に粟を出させ、粟がまた尽きると、将校に粟を出させ、牛皮や麹糵を混ぜて与えた。兵の中には子を烹って食う者もあり、なおも日々出て苦戦した。七月、阿术が庭芝の詔を焼いた罪を赦し、降伏させるよう請うたところ、詔がありこれに従った。庭芝もまた受け入れなかった。この月、益王が使者を遣わし、少保・左丞相として庭芝を召した。庭芝は朱煥に揚州を守らせ、姜才とともに兵七千人を率いて東へ海に入り、泰州に至ったが、阿术が兵を率いて追撃し包囲した。朱煥が既に城を挙げて降伏すると、庭芝の将士の妻子を駆り立てて泰州城下に至らせ、城壁の将孫貴・胡惟孝らが門を開いて降伏した。庭芝は変事を聞き、蓮池に身を投じたが、水が浅く死にきれなかった。捕らえられて揚州に至ると、朱煥が請うて言った、「揚州は用兵以来、積み重なった骸骨が野に満ちているが、皆、庭芝と姜才の仕業である。これを殺さずして何を待つのか」と。ここにおいてこれを斬った。死んだ日、揚州の民は皆涙を流した。

原文十月,大元丞相伯顏入臨安,留元帥阿术軍鎮江以遏淮兵。阿术攻揚久不拔,乃築長圍困之。冬,城中食盡,死者滿道。明年(1276年)二月,饑益甚,赴濠水死者日數百,道有死者,眾爭割啖之立盡。宋亡,謝太后及瀛國公為詔諭之降,庭芝登城曰:「奉詔守城,未聞有詔諭降也。」已而兩宮入朝,至瓜州,復詔庭芝曰:「比詔卿納款,日久未報,豈未悉吾意,尚欲固圉邪?今吾與嗣君既已臣伏,卿尚為誰守之?」庭芝不答,命發弩射使者,斃一人,餘皆退去。姜才出兵奪兩宮,不克,復閉城守。三月,夏貴以淮西降,阿术驅降兵至城下以示之,旌旗蔽野,幕客有以言覘庭芝者,庭芝曰:「吾惟一死而已。」阿术使者持詔來招降,庭芝開壁納使者,斬之,焚詔陴上。已而知淮安州許文德、知盱眙軍張思聰、知泗州劉興祖皆以糧盡降。庭芝猶括民間粟以給兵,粟盡,令官人出粟,粟又盡,令將校出粟,雜牛皮、麴糵以給之。兵有烹子而食者,猶日出苦戰。七月,阿术請赦庭芝焚詔之罪,使之降,有詔從之。庭芝亦不納。是月,益王遣使以少保、左丞相召庭芝,庭芝以朱煥守揚,與姜才將兵七千人東入海,至泰州,阿术將兵追圍之。朱煥既以城降,驅庭芝將士妻子至泰州城下,陴將孫貴、胡惟孝等開門降。庭芝聞變,赴蓮池,水淺不得死。被執至揚州,朱煥請曰:「揚自用兵以來,積骸滿野,皆庭芝與才所為,不殺之何俟?」於是斬之。死之日,揚之民皆泣下。

宋応龍という者がおり、泰州の諮議官であった。泰州守孫良臣の弟舜臣が軍中から来て降伏を説いたので、良臣は応龍を召して計った。応龍はひたすら国家の恩沢と君臣の大義を述べ、舜臣を殺して二心を持つ者を戒めるよう請うた。良臣はやむなくこれを殺した。泰州が降伏すると、応龍夫婦は自縊して死んだ。提刑司諮議の褚一正は高郵に役所を置き、督戦して傷を負い、水に没して死んだ。興化県知事胡拱辰は、城が破れてもまた死んだ。

原文有宋應龍者為泰州諮議官,泰守孫良臣之弟舜臣自軍中來說降,良臣召應龍與計,應龍極陳國家恩澤,君臣大義,請殺舜臣以戒持二心者,良臣不得已殺之。及泰州降,應龍夫婦自經死。提刑司諮議褚一正置司高郵,督戰被創,沒水死。知興化縣胡拱辰,城破亦死。

論じて言う。楊棟の学は伊・洛に本づくが、権臣に阻まれ、誹謗を速め、咎を招いた。誰の過ちであろうか。姚希得は藹然たる君子である。包恢は厳をもって治めとしたが、これは衰世の民は弛緩をもって扱うべきではないからか。常挺・陳宗礼は皆、事に通じ、声望を著した。常楙は晩年に皇子竑の事を論じ、光明正大で、公義が炳然としていた。家鉉翁は義をもって二君に仕えず、臣たる軌範に足る。李庭芝は国難に死した。まことに憫れむべきである。

原文論曰:楊棟學本伊、洛,而尼於權臣,速謗召尤,誰之過歟?姚希得藹然君子。包恢以嚴為治,抑以衰世之民非可以縱馳待之耶?常挺、陳宗禮咸通濟,著聲望。常楙晚訟皇子竑事,光明正大,公義炳然。家鉉翁義不二君,足為臣軌。李庭芝死於國難,其可憫哉!</onlyinclude>