宋史

列傳第一百八十  楊棟 姚希得 包恢 常挺 陳宗禮 常楙 家鉉翁 李庭芝

楊棟

楊棟、字は元極、眉州青城の人。紹定二年の進士第二。簽書劍南西川節度判官廳公事を授かる。未だ赴任せず、母の喪に服す。喪が明けて、荊南制置司に移り、改めて西川に辟せられ、入って太学正となる。父の喪に服し、喪が明けて、召されて試みられ、秘書省正字兼呉益王府教授を授かり、校書郎・枢密院編修官に遷る。入内して対し、言う、「飛蝗天を蔽う。願わくは陛下が終始一徳を保たれ、天心を感格し、災咎を消弭せられんことを」。また言う、「近来中外の臣、兵を主り財を理むる者は、その言を聴けば用いられざるはなく、その実を跡づければ皆欺誣に類し、上下相蒙り、一として信ずべきなし。陛下まず至誠をもってし、然る後に天下の事為すべし」。また言う、「祖宗の国を立てるや、兵財法を恃まず、ただ民心の固結を恃むのみ。願わくは陛下常に忠厚の意を存し、峻急の人を用いられざらんことを」。理宗悦び、臣僚の言によりて祠を奉ず。

起きて興化軍を知る。孔子の裔に潯頭鎮に居る者有り、棟は廟を建て田を闢き、その子弟を訓う。福建提点刑獄に遷り、尋ねて直秘閣を加えられ福州を権知し、兼ねて本路安撫使となり、都官郎官に遷り、また左司郎官に遷り、尋ねて右司郎官兼玉牒所検討官となり、宗正少卿を除く。進み対し、帝曰く、「ただ正心修身の説に止まるか」。棟対えて曰く、「臣が学ぶこと三十年、ただこの一説に止まる。これを以て親に事え友を取るに用い、凋弊の郡を治め冤獄を察するに用いれば、至って簡易なり」。時に女冠有りて宮禁に出入し、請謁を通ずること頗る多く、外廷多く以て言う者有り。棟上疏して曰く、「陛下何ぞ一女冠を惜しみ、天下の側目する所にして急ぎ去らざるや」。帝然りとせず。棟曰く、「この人小人と密交し、甚だ慮るべし」。また言う、「京・襄・両淮・四川の残破郡県の吏は、多くは兵将の権摂にて、科取無藝、その民矜るべし。陛下哀しまざれば、誰か実にこれを哀しまん」。帝これに従う。

太常少卿・起居郎に遷り、差して滁州を知るも、殿中侍御史周坦の論によりて罷められる。起きて直龍図閣・建寧府知府となるも、拝せず。千秋鴻禧観を提挙し、起居郎兼権侍左侍郎・崇政殿説書に遷り、継いで吏部侍郎兼同修国史・実録院同修撰兼侍読となり、集英殿修撰兼中書舎人兼侍講を以て、出でて太平州を知るも、右補闕蕭泰来の論によりて罷められ、旧職のまま太平興国宮を提挙す。起きて婺州を知る。召されて奏事し、旧職を以て祠を奉ず。度宗太子に立てらるるや、帝親しく棟を擢て太子詹事とす。工部侍郎に遷り、仍って詹事兼同修国史・実録院同修撰兼中書舎人となり、兼ねて直学士院、権刑部尚書兼国子祭酒、礼部尚書に遷り、端明殿学士・同簽書枢密院事兼太子賓客を加えられ、同知枢密院事兼権参知政事に進み、参知政事に拝す。

台州守王華甫上蔡書院を建て、朝に言い、棟を山主とせんことを乞う。詔してこれに従う。因って台に卜居す。尋ねて資政殿学士・建寧府知府を授かるも拝せず。旧職を以て洞霄宮を提挙し、復た旧職のまま慶元府知府・沿海制置使となる。監察御史胡用虎の言によりて罷められ、仍って祠を奉ず。観文殿学士を加えられ慶元府知府・沿海制置使となるも、また拝せず、仍って祠を奉ず。乃ち資政殿大学士を以て万寿観使を充つ。卒す。遺表上る。帝朝を輟め、特に少保を贈る。

棟の学は周・程氏に本づき、海内の重望を負う。賈似道の相に入るや、故老を登用し、従官に列ねしめ、棟もまたこれに預かる。彗星見るや、棟乃ち蚩尤旗なり、彗にあらずと言う。故に世に少しまれしむ云う。或いは棟姑くこの言を為し、陰かに帝に告げ、似道を逐わんと謀りしも、似道これを覚り、遂に疑いを蒙りて去ると謂う。著す所に『崇道集』『平舟文集』有り。

姚希得

姚希得、字は逢原、一字は叔剛、潼川の人。嘉定十六年の進士。小溪主簿を授かる。待次すること三年、朝夕『六経』・諸子百家の言を討論す。盤石令に調ず。会にしょくに兵難有り、軍需調度擾わずして集まる。改めて嘉定府司理参軍に調ず。蒲江県知県に改む。巨室勢を挟み、邑は治め難きを号す。希得強きを綏め弱きを扶け、声聞著聞す。同知枢密院事游似、希得の名を以て聞こえ、召して審察し、行在都進奏院に遷し、太平州通判とし、福州に改む。徒歩にて候官に至るも、吏その通判たるを知らず。

召されて国子監丞と為り、太府寺丞に遷る。時に暫く金部文字を書擬し兼ねて沂靖王府教授と為る。時に帝権奸を斥逐し、名徳を収召す。挙朝相慶す。希得は外観形状は、清明の朝の如しと為すも、内に脈息を察すれば、危亡の証有るに類すと以為う。乃ち上疏して言う、「堯・舜・三代の時は、危亡の事無くして、常に危亡の言を喜び、秦・漢以来は、危亡の事多くして、常に危亡の言を諱る。夫れ危亡の事は有るべからず、而して危亡の言は亡ぶべからず。後世の人主は乃ち危きを履むこと坦なるが如くし、言を諱むこと病を諱むが如し」。また言う、

「君子は収召せられざるに非ず、而して意向猶未だ一に調わず。小人は斥逐せられざるに非ず、而して根株猶未だ痛く断たれず。大権は操握するが若くして、旁蹊曲逕の疑い無きに能わず。大勢は更張するが若くして、長治久安の道有るを見ず。廷臣の諷諫する所、封囊の奏陳する所、激切に非ざるは無し、而して陛下固よりこれを罪せず、またこれを行わず。古より危亡の機に甘んじて蹈むは、暗主のみに非ず、而して明君も亦たこれ有り。これ臣の甚だ懼るる所なり。朝廷は万化の出づる所、実に人君の一心に根ざす。何ぞ大明天に当たりて、猶い議すべき者有るや。内小学の建つるは、人皆陛下建儲の意有るを知る。然るに歳月逾邁し、施行を見ず、人心危疑し、係属する所無し。秦・漢而下、嗣早く定まらず、事倉卒に出ず。或いは宮闈令を出し、或いは宦寺謀を主り、或いは奸臣首めて議す。これ皆人の国を危うくするに足る。陛下何ぞ憚りて早く大計を定めざるや。邸第の盛んなるは、人皆親愛に篤きを知る。然るに依馮する者衆く、王法を軽視し、請託の行い、影響に捷かなり。楊干は晋侯の弟なり、曲梁に行いを乱し、而して魏絳その僕を戮す。晋侯始め怒りて終に悔い、晋遂に以て覇たり。平原君は趙王の弟なり、租税を出さず、而して趙奢その用事者を刑す。趙王賢としてこれを用い、趙遂に以て強し。皆人の国を興すに足る。陛下何ぞ為すに少しくも国法を伸べざるや。今女冠の流は、衆の指目する所。近璫の小臣は、時に威福を窃む。これ皆陛下の心の乍明乍晦するに致る所、豈に危うしと謂わざらんや。国に善類有るは、猶人に元気有るが如し。善類一たび敗れ一たび消え、元気一たび病み一たび衰う。善類幾ばくか有る、数え消えんに堪えんや。消極まれば則ち国これに随う。陛下人を知るに明らかに、人を用うるに公なり。固より権奸再用の意無し。然るに道路の人往々窃に議す、これ元祐・紹聖将に分かたんとする機なりと。禍根猶伏して去らず、その危きを安んずるに幾からずや」。

帝は顔色を改めて曰く、「朕は決して史嵩之を用いぬ」と。

大宗正丞に遷り、金部郎官を兼ねて権知す。李韶が病を告げ、十度上疏して去らんと欲す。希得言う、「韶は徳望あり、病を告ぐるといえども、内祠に留めて奉ぜしめ、経幄に侍らしむるは、亦た朝廷の重きを為すに足る」と。又言う、「財用困竭し、民生憔悴す。此の不急の費を移して、以て軍儲を実にし、以て民生を厚くするは、天を敬うこと此より大なるは莫し。豈に大宮宇を崇め、設像を荘厳するに在らんや」と。又た救錢楮の三策を条陳し、惠民局を置くを請う。帝皆以て行う可しと為す。

秘書丞に進み、尋いで著作郎に遷り、江西提挙常平を授かる。役法久しく壊れ、臨川の富室に吏に賂して免れんと求むる者有り。希得遂に之を罪す。乃ち提点刑獄に転じ、直秘閣を加う。未だ幾ばくもせず、度支員外郎を加え、尋いで直宝章閣に転じ、贛州に移治す。盗に「崔太尉」と偽号する者有り、石壁に拠り、数郡を連結す。劉老龍等衆を聚めて焚掠し、一方繹騷す。希得方略を指授し、五旬を経ずして之を平らぐ。直宝謨閣・広西転運判官を以て静江府を兼ねて権知す。尋いで直徽猷閣を授かり、静江府を知り、広西経略安撫司公事を主管し、転運判官を兼ぬ。母喪に遭い免ず。召されて秘書少監兼中書門下省検正諸房公事と為る。入対し、君子小人邪正の弁を言い、且つ曰く、「君子は顔を犯して敢えて諫め、陛下の意を拂い、退きて甘んじて家食す。此れ乃ち国の為に計るなり。身の為に計るに非ざるなり。小人は自ら朋党を植え、正人を擠排し、甘言佞語、一切陛下の意に順い、遂に陛下の官爵を取る。此れ乃ち身の為に計るなり。国の為に計るに非ざるなり」と。宗正少卿兼国史編修・実録検討に遷り、給事中を兼ねて権知し、刑部侍郎を兼ねて権知し、同修国史・実録院同修撰を兼ぬ。時に西方兵を用う。嵩之の復出を計る者有り、此の人に非ざれば能く弁ぜずと謂う。帝再び用いんとする意有り、希得必ず之を執らんことを知り、旨を出して意を諭す。希得毅然として疏を具して密奏す。報いず。又た鄧泳に祠を予くるの命を繳す。右正言邵澤・監察御史呉衍・殿中侍御史朱熠相継いで論じて罷む。

久しくして、集英殿修撰を以て千秋鴻禧観を提点す。未だ幾ばくもせず、旧職のまま両淮宣撫使司判官と為り、俄かに宝謨閣待制を加え、京西・湖南北・四川に移る。詔して元官に復するを叙す。江陵を護り功有り、召されて戸部侍郎と為る。帝曰く、「姚希得の才望は閫帥と為す可し」と。乃ち煥章閣待制に進め、慶元府を知り、沿海制置使と為り、継いで敷文閣待制に昇る。詔して沿海舟師を増す。希得之が為に広く水軍を募り、戦艦を造り、糧食を蓄え、米一万二千石・旧逋一百万を蠲免す。官を去るに当たり、庫余の羨は悉く以て民の輸を代う。召されて工部尚書兼侍読と為る。経筵に侍し、帝慶元の政を問うこと甚だ悉し。華文閣直学士・沿江制置使を以て建康府を知り、江東安撫使・行宮留守と為る。希得江上に按行し、士卒を慰労す。衆皆歓説す。溧陽饑う。稟を発し分ちて勧む。全活する者衆し。寧江軍を創め、建康・太平より池州に至るまで砦を列ね屋二万余間を置き、屯戍七千余人す。帝之を聞き、一再詔を降して諭を獎す。宝章閣学士を加え、尋いで刑部尚書を加え、旧任のまま淮西総領を兼ぬ。

景定五年、召されて兵部尚書兼侍読と為る。乃ち人才を用い、政事を修め、兵甲を治め、財用を惜しむの四事を言う。端明殿学士・簽書枢密院事兼太子賓客を拝す。会に星変有り、上疏して咎を引き、機務を解かんことを乞う。参知政事を兼ねて権知す。度宗即位し、同知枢密院事兼権参知政事を授かり、尋いで参知政事を授かる。言有りて罷められ、資政殿学士・提挙洞霄宮を授かる。起きて潭州を知り、湖南安撫使と為る。疾甚だしきを以て辞し、乃ち旧職のまま祠を奉ず。致仕を請う。詔して許さず。力を請うて、資政殿大学士・金紫光禄大夫・旧のまま潼川郡公を以て致仕す。咸淳五年、卒す。遺表聞こゆ。帝朝を輟み、少保を贈る。

希得は忠亮平実にして、清儉自ら将い、善類を引くを好み、虚誉を求めず。蓋し上に誦薦して其の人之を知らざる者有り。広西の官署錦を以て帟幕と為す。希得曰く、「吾は書生より起身す。安くんぞ此を用いん」と。命じて繒纈を以て之に易えしむ。蜀の親族姻旧相依う者数十家、希得之に廩して終身に及び、昏喪悉く己が力を損ない、晚年口を計りて田を授く。各差有り。著す所に『続言行録』『奏稿』『橘州文集』有り。

包恢

包恢、字は宏父、建昌の人。其の父揚・世父約・叔父遜より朱熹・陸九淵に学ぶ。恢少くして諸父の門人に為り『大学』を講ず。其の言高明なり。諸父驚く。嘉定十三年、進士に挙げらる。金谿主簿に調ず。邵武守王遂辟きて光沢主簿と為し、寇乱を平らぐ。建寧守袁甫薦めて府学教授と為し、虎翼軍を監し、土豪を募りて唐石の寇を討つ。掌故を授かり、沿海制置司幹官に改む。会に歳饑え、盗金壇・溧陽の間に起こる。恢諸将を部し十と為して之を誅夷す。沿江制置使陳韡辟きて機宜と為し、復た寇を平らぐる功有り、吉州永豊県を知るに改む。未だ行かず、発運幹官に差す。福建安撫使陳塏檄して寇を平らぐ。武学諭・宗正寺主簿に遷り、通判台州に添差す。徐鹿卿温寇を討つ。辟きて提点刑獄司主管文字を兼ね、収捕を議す。通判臨安府に改め、宗正寺主簿に遷り、台州を知る。妖僧山中に居り、「活仏」と号す。男女争いて之に事え、因って姦利を為し、豪貴風靡す。恢其の僧を誅す。

左司郎官に進む。未だ行かず、湖北提点刑獄に改む。未だ行かず、福建に移り建寧を兼ねて知る。閩の俗九月を以て「五王」の生日を祠る。金帛を靡き、市を傾けて之を奉ず。恢曰く、「彼は犬豕に非ず。安んぞ一日にして五子同じく生まるるを得ん。不祥なる者に非ずや。而して尊畏すること是の若きは」と。衆感悟し、之が為に衰止す。転運判官を兼ぬ。侍御史周坦の論に依り罷む。光州の布衣陳景夏上書して云く、「包恢は剛正屈せざるの臣なり。言者は之を汚蔑するのみ」と。又た四年を経て、起きて広東転運判官と為り、経略使を権知し、侍右郎官に遷り、尋いで大理少卿と為り、即日直顕文閣・浙西提点刑獄を除く。是の時海寇乱を為す。恢単車道に就き、許・澉浦を調えて分屯し砦を建て、一旦諸軍を集めて之を討平す。嘉興の吏和糴に因り賕百万を受く。恢旨を被り囚を慮る。曰く、「吾は此を用いて沴気を消さん」と。乃ち死を減じ、其の手を断つ。

直龍圖閣に進み、權發運となり、祕閣修撰に昇進し、隆興府を管轄し江西轉運を兼ねた。妖しい妓女を水中に沈めると狐に化けたので、人々は皆これを神異視した。子を訴える母がおり、年月の後に書かれた訴状に「疏」の字があったので、恢はこれを疑い、その子を呼び寄せると、泣いて言わなかった。事情を得たところ、母は寡居して僧と通じ、子の諫めを憎み、不孝の罪に坐せようとしたのであり、訴状は僧が作ったものであった。そこで子に養護を命じて一歩も離れさせず、僧が近づく隙を与えなかった。母は夫の命日に託けて寺に入り仏事を行い、籠に衣帛を盛り、その中に僧を隠して帰ろうとした。恢はこれを知り、人を遣わして途中で遮らせ、籠を公庫に置いた。十日余りして、吏が籠の中から外に達する臭気がすると報告したので、恢は命じてこれを江に沈め、その子に言った、「汝のためにこの害を除いた」。また姑が死んだ時、子の嫁の棺を借りて埋葬し、家が貧しく償うことができず、嫁が恢に訴えた。恢は怒り、一つの棺を買い、その嫁を欺いて棺の中に寝かせて試みると、そのまま蓋をして葬ってしまった。湖南轉運使に改められ、罷免された。

景定初年、大理卿・樞密都承旨兼侍講に拝され、權禮部侍郎となり、まもなく中書舍人となった。林希逸が恢が法を守り公に奉じ、その心は水の如しと奏上した。權刑部侍郎となり、華文閣直學士に進み、平江府を管轄し發運を兼ねた。豪族が民の包挙の田を奪い公租に寄せて上を誣いた者がいたので、恢は上疏し、これを小民が天に祈り命を永らえる一事の妨げと指摘した。帝は奏疏を覧て憫然とし、事を担当した者を罪に処し、直ちに民の田を返還させた。召されて闕に赴くよう命じられたが辞退し、紹興府の長官に改められたが、また辞退した。度宗が即位すると(1264年)、召されて刑部尚書となり、端明殿學士に進み、簽書樞密院事となり、南城縣侯に封ぜられた。郊祀の礼が終わり、帰還後、資政殿學士をもって致仕した。

恢が歴任した所至において、豪猾を打ち破り、奸姦を除き、蠱毒の獄を治め、盆塩を徴収し、銀の欠損を整理し、政声は赫々たるものがあった。嘗て輪対の際に言った、「これが臣の惻隠の心から深く切に陛下に告げる所以であります。陛下の惻隠の心は天地日月の如く、それを閉ざし蝕む者は近習・外戚であります」。參知政事の董槐はこれを見て歎じて言った、「我々は慚愧の色がある」。ある日講官が恢の上疏が切実であると称え、容れられることを願った。理宗は欣然として言った、「その言は甚だ直である。朕どうして直言を怒ることがあろうか」。経筵での奏対は誠実で懇切であり、身心の要に至っては、常に従容として諄々と説いた。度宗は恢を程顥・程頤に比した。恢は父の病気に侍る時、洗濯掃除の役を僮僕に命じなかった。八十七歳で、臨終に際し、盧懷慎が簀の上に臥して窮約した故事を挙げて諸子に戒め、深衣で斂めるようにし、書を作って親戚に別れを告げてから卒した。光がその地に隕ちた。遺表が聞こえると、帝は朝を停め、少保を追贈し、「文肅」と諡し、銀絹五百を賻った。

常挺

常挺、字は方叔、福州の人。嘉熙二年の進士。歴官して太學錄となり、召されて館職を試みられ、秘書省正字兼莊文府教授に遷り、校書郎に昇進した。輪対し、李若水を高宗に配享することを乞うた。祕書郎兼考功郎官に改められ、出て衢州を管轄し、監察御史兼崇政殿說書に拝された。辺境の三事について上疏して言った、実才を登用すること、実功を奏上すること、実兵を招集すること。朝廷の二事について、良吏を選ぶこと、正人を抜擢すること。また言った、「願わくは陛下は宏遠なる規模を深く考え、清明なる志気を奮い起こし、綱紀を立て陳べること必ず万世の法程と為し、徳を昭かにし違を塞ぐこと以て百官の憲度を示されたし」。太常少卿兼國子司業に遷り、國史編修・實錄檢討兼直舍人院を兼ねた。起居郎に遷り、權工部侍郎兼直學士院となった。工部侍郎・給事中に遷った。右諫議大夫陳堯道の論劾により罷免された。寶章閣直學士として漳州を管轄し、泉州の長官に改められ、權兵部尚書兼侍読となり、權禮部尚書兼同修國史・實錄院同修撰となった。『帝學發題』を進め、吏部尚書に遷った。咸淳三年、同知樞密院事兼權參知政事を授かり、合沙郡公に封ぜられ、參知政事に拝された。四年(1268年)、致仕し、まもなく卒し、少保を追贈された。

陳宗禮

陳宗禮、字は立之。少時貧しくして力学し、袁甫が江東提点刑獄であった時、宗禮は往って学を問うた。淳祐四年、進士に挙げられた。邵武軍判官に調じられ、入って國子正となり、太學博士・國子監丞に遷り、祕書省著作佐郎に転じた。入対し、火(火星)が軌道に循わないと言った。帝は星変を憂えたが、宗禮は言った、「上天が戒めを示されるのは、陛下が徳を修め政を布いて天意を回らされることにあります」。また言った、「天下は今利欲の中に事を為し、士大夫は奔競して利に趨きます。ただ至公のみがこれを遏止できます」。考功郎官を兼ね、國史實錄院校勘を兼ね、景獻府教授を兼ね、著作郎に昇進し、尚左郎官兼右司に遷った。当時丁大全が國柄を擅にし、言論を忌諱としていた。宗禮は歎じて言った、「これに一日も居られようか」。陛対し、言った、「願わくは宗社の大計を為し、ただ倉廩府庫の小計のみを為さず、天下四海の心を得て、ただ左右の便嬖戚畹の心のみを得ず、腹心を忠良に寄せて、ただ耳目を卑近に寄せず、四通八達して正人を来たらせ、ただ旁蹊曲径に類して貪濁を引き入れないでください」。太常少卿に拝され、直寶謨閣・廣東提点刑獄を以て直煥章閣に進み、秘書監に遷った。監察御史虞慮の言により両官を追奪され、永州に居住を命ぜられた。

景定四年、侍御史に拝され、直龍圖閣・淮西轉運判官となり、刑部尚書に遷った。起居舍人曹孝慶の言により罷免された。度宗が即位すると、侍講を兼ね、殿中侍御史に拝された。上疏して言った、「恭儉の徳は上躬より始め、清白の規は宮禁より始め、左右の利を言う者は必ず斥け、蹊隧の私献する者は必ず誅せよ」。『詩経』を進講するに因み、奏上した、「帝王の挙動は微なるも顕われざるはなく、古人が慎独を貴んだ所以である」。權禮部侍郎兼給事中となった。『孝宗聖訓』を進読するに因み、奏上した、「安危治乱は常に一念慮の間に起こり、念慮少しでも差れば禍乱は随って現れる。天下の乱は微より起こり著しく成らざるはない」。また言った、「私意を以て公法を害さざるは、乃ち国家の福である」。帝は言った、「孝宗の家法は、ただ善を賞し悪を罰することを特に謹んだ」。宗禮は言った、「功有りて賞せず、罪有りて罰せざれば、堯舜と雖も天下を治められません。誠に謹まざるべからずです」。

禮部侍郎に遷り、まもなく權禮部尚書となり、祠官を奉ずることを乞うた。帝は言った、「豈に朕と共に為すに足らざるか」。華文閣直學士として隆興府を管轄し、再び辞退し、旧職のままで待次差遣となった。一年余りして、旧職のままで廣東經略安撫使兼廣州の長官となり、端明殿學士・簽書樞密院事を加えられ、まもなく權參知政事を兼ねた。上疏して奏上した、「国が立つ所以は、天命と人心である。その警めに因って敬畏を加えれば、天命回らざるはない。その未だ墜ちざるに因って綏定を加えれば、人心回らざるはない」。官に卒した。遺表が上ると、開府儀同三司・盱江郡侯を追贈され、「文定」と諡された。著書に『寄懷斐稿』『曲轅散木集』『兩朝奏議』『經筵講義』『經史明辯』『經史管見』『人物論』がある。

常楙

常楙、字は長孺、顯謨閣直學士常同の曾孫なり。太學に入る。淳祐七年進士に挙げらる。常熟尉に調ず。公廉自ら持ち、強禦を畏れず、部使者交はって之を薦む。婺州推官に調ず。滞訟を疏決し、剸繁裁劇を以て称せらる。臨安府尹馬光祖また朝に薦む。平江府百萬倉檢察を辟差す。和糴事例を受けず、吏卒の苛取を戢む。發運使趙與𥲅提點刑獄を兼ね、楙に檢覆を属す。無錫翟氏の冤獄を雪ぐ。江淮茶鹽所蕪湖局を監す。商稅の贏を受けず、光祖益々之を敬す。嘉定縣知縣に改む。歳大水、分を勸め和糴し、籍に按じて均しく敷く。發運使王爚、提點刑獄孫子秀俱に特に朝に薦む。簽書臨安府判官と為り、權勢に撓がず。淮東提舉常平と為る者有り、楙を提管に辟す。楙其の與に共に事を為すべからざるを知り、笑って之を却く。未幾、政府強いて楙を行かしむ。遂に衣を拂いて去る。朝野之を高しとす。城南廂を主管し、訟を聽くこと嚴明、豪右益々之を憚る。都城火災の後、瓦礫充斥す。民船を差して徙運せしむ。籍に在る者百五十家、惟だ二十有五家のみ役に応ず。餘は率ね勢要宦官の庇うる所と為る。楙悉く之を追う。服せざる者は其の人を杖ち、他所に械す。命を聽かざる者無し。又力めて戶部の科買を拒ぐ。葉夢鼎、陳昉深く期獎す。臨安通判を添差す。朝命封樁庫吏范成の獄を鞫く。廟堂の風旨を承くるを肯はず、無辜の者悉く之を出だす。

廣德軍を知る。郡水災有り、社倉粟を発して饑民を活かす。官吏之を難くす。楙先ず発して後に專命の罪を請う。慈幼局を置き、先賢祠を立つ。故事、郡守秋苗例として米千石を得べし。乃ち以て属縣に代わり大農綱の欠を償う。監察御史を拝す。知る有れば言わざる無し。嘗て天變及び賈似道家の田を争う事を論じ、継皇子竑の嗣を論ず。度宗の怒に触れ、司農卿に遷り、尋いで兩浙轉運使と為る。吏姦を禁戢し、急符を以て常賦を督めず。海鹽歳毎に鹹潮の稼を害するを為す。楙朝に請う。金を捐て粟を発し、復た己の帑を輟き、大いに修築を加え新塘三千六百二十五丈、名づけて「海晏塘」と曰う。是の秋、風濤大いに作る。塘浸からざる者尺許。民奠居を得、歳復た稔りを告ぐ。邑人之を徳とす。

戶部侍郎に遷る。四方の民詞を受け、務めて下情を通ず。中書門下省檢正諸房公事を兼ね、刑部侍郎を兼ぬ。檢覆の弊を極論す。上に故事を進む。首に雷雪非時の變を論ず。帝意悦ばず。祠を丐う。許さず。集英殿修撰を以て平江を知る。旱に値う。故事、郡守合うべき緡錢十五萬、悉く以て民食・軍餉の助と為す。苗九萬、稅十三萬、版帳十六萬を蠲ち、又新苗二萬八千を蠲つ。大いに公私の力を寬ぐ。飛蝗幾ば境に及ばんとす。疾風飄ちて太湖に入る。浮費を節し、府庫を修む。既に代わり、送還事例有り。吏卒に給する外、餘金萬楮、楙悉く受けず。吏驚きて曰く「人言う常侍郎錢を愛せずと、果然なり」と。浙東安撫使に改む。水災に値う。萬楮を捐てて之を振い、復た朝に糴を請う。米萬石を得、新苗三萬八千を蠲つ。又諸暨水に被ること尤も甚だしきを以て、二萬楮を給し縣に付して折運せしむ。民食乏絶に至らず。民各々家に祀る。兩浙及び會稽・山陰の死者暴露する者と貧しくして以て殮うる無き者有れば、乃ち十萬楮を以て普惠庫を置き、息を取って棺を造り以て之に給す。尋いで刑部侍郎を以て召さる。期赦敘改法を申明し、廟堂と可否を争い、偽關の獄を辯じ、八倉の虧欠を救い死罪を免れしめ、天井巷殺人の獄を平反す。全活する者甚だ衆し。給事中を兼ね、隆國夫人の從子黃進觀察使の錄黃を封還す。帝怒る。似道御書を以て令し委曲書行せしむ。楙遂に命に奉ぜず。寶章閣待制を以て太平興國宮を提挙す。

德祐元年、吏部尚書を拝す。老病を以て辭す。累詔許さず。專官行を趣ること甚だ峻し。楙入見す。首に言う「霅川の變、其の本心に非ず。之を死に置く、過ちなり。後を立たず、又過ちなり。巴陵帝王の胄、生にして正命を得ず、死して血食を得ず。沈冤幽憤、鬱結すること四五十年の久しき、妖と為り劄と為らざるは冥冥の中に幾ばくぞ。願わくは陛下浮議を搖がさず、特だ神斷を発し給え。宗社幸い甚だし」と。ここに於て詔し國史院典故を討論して以て聞かしむ。明堂禮成り、端明殿學士に進み、戶部財用を提領す。特と執政恩數を与う。楙國歩方に艱きを以て、臣子榮を貪るの時に非ずとし、力めて恩數を辭す。廟堂と議事合わず、疾を以て謁告す。二年春、參知政事を拝す。夏士林に繳駁せられ、疏を拝して關を出づ。後六年卒す。

家鉉翁

家鉉翁、眉州の人。蔭を以て官を補う。累官常州を知り、政譽翕然たり。浙東提點刑獄に遷り、入りて大理少卿と為り、直華文閣、祕閣修撰を以て紹興府長史を充て、樞密都丞旨に遷り、建寧府を知り福建轉運副使を兼ね、權戶部侍郎兼知臨安府・浙西安撫使、戶部侍郎に遷り、權侍右侍郎、仍て樞密都丞旨を兼ぬ。進士出身を賜い、端明殿學士・簽書樞密院事を拝す。

大元兵近郊に次る。丞相吳堅・賈餘慶檄を以て天下の守令に告げ城を降さしむ。鉉翁獨り署せず。元帥使を遣わす。縛せんと欲す。鉉翁曰く「中書省に執政を縛するの理無し」と。堅表を奉り大元に祈請す。鉉翁を以て之に介す。禮成りて命を得ず、館中に留まる。宋の亡ぶを聞き、旦夕哭泣し飲食せざること數月。大元其の節高きを以て、尊官せんと欲し、以て南服を示す。鉉翁義二君にせず、詭對無く辭す。宋三宮北還す。鉉翁再び故臣を率いて迎謁し、地に伏して流涕し、頓首して奉使無状を謝し、上衷を感動する能わず、其の國を保存する無きを謝す。見る者歎息せざる莫し。文天祥の女弟兄の故に坐し、奚官に繫がる。鉉翁橐中の裝を傾けて贖い出だし、以て其の兄璧に帰す。

鉉翁狀貌奇偉、身長七尺、被服儼雅。其の學《春秋》に邃く、自ら「則堂」と號す。河間に館を改め、乃ち《春秋》を以て弟子に教授す。數たび諸生に宋の故事及び宋興亡の故を談じ、或いは流涕太息す。大元成宗皇帝即位し、放還し、號「處士」を賜い、金幣を錫賫す。皆辭して受けず。又數年を以て壽終す。

李庭芝

李庭芝、字は祥甫。其の先汴の人、十二世同居し、「義門李氏」と號す。後に隨の應山縣に徙る。金亡び、襄・漢兵に被り、又隨に徙る。然れども特だ武を以て顯る。

庭芝が生まれた時、屋根の棟に霊芝が生じ、郷人が集まって見物し、男子誕生の瑞祥であるとして、これに因んで名付けた。幼少より聡明で、一日に数千言を誦することができ、智識は常に年長者を上回った。王旻が随州を守っていた時、庭芝は十八歳で、諸父に告げて言うには、「王公は貪欲で下を顧みず、下の者は多く彼を怨んでおり、随は必ず乱れるでしょう。どうか家族を徳安に移して避難させてください」と。諸父は無理に従ったが、十日も経たぬうちに、王旻は果たして配下の者に挟持されて叛き、随の民で死んだ者は甚だ多かった。嘉熙の末、江防が非常に緊迫し、庭芝は郷挙を得たが行かず、策を以て荊州の帥孟珙に干謁し、自ら効力を請うた。孟珙は人相を見るのが巧みで、かつ夜、車騎が李尚書と称して自分を謁すると夢見た。翌日、庭芝が到着した。孟珙はその魁偉な姿を見て、諸子を顧みて言うには、「私は多くの人相を見てきたが、李生に及ぶ者はいない。その名位は私を超えるであろう」と。時に四川に警報があり、直ちに庭芝を施州の建始県の権知事とした。庭芝が到着すると、農を訓え兵を治め、壮士を選んで官軍に混ぜて教練した。一年後、民は皆戦い守ることを知り、駆け回ることに長け、事が無ければ戈を立てて耕し、兵が来れば悉く出て戦った。夔州の帥はその法を下して管轄区域で行わせた。淳祐初年に初めて去り、進士に挙げられ、及第した。孟珙の幕下に辟召され、機宜文字を主管した。孟珙が卒去すると、遺表を以て賈似道を挙げて自らの後任とし、また庭芝を似道に推薦した。庭芝は孟珙の知己を感じ、その柩を扶けて興国に葬り、直ちに官を棄てて帰り、孟珙のために三年の喪に服した。

似道が京湖を鎮守すると、起用して制置司参議とし、両淮に移鎮すると、似道と議して清河の五河口に柵を設け、淮南の烽火台を百二十増やした。続いて濠州知事となり、また荊山に城を築いて淮南に備えた。いずれも時機に適切であった。開慶元年、似道が京湖を宣撫し、庭芝を留めて揚州の権知事とした。間もなく大軍が蜀に在ることを以て、上奏して峡州知事とし、蜀の江口を防がせた。朝廷は趙与𥲅を淮南制置とし、李応庚を参議官とした。応庚は両路の兵を発して南城を築かせたが、酷暑の中で熱射病で死んだ者は数万に及んだ。李璮はその無謀さを窺い、漣水の三城を奪い、淮を渡って南城を奪った。鄂州の兵が解かれると、庭芝は母の喪に服して去った。朝議で揚州を守る者を選ぶと、帝は言うには、「李庭芝に及ぶ者はいない」と。そこで喪中を奪情して両淮制置司事を主管させた。庭芝は再び李璮の兵を破り、璮の将である厲元帥を殺し、南城を平らげて帰還した。明年(1261年)、また喬村で李璮を破り、東海・石圃等の城を陥れた。また明年(1262年)、李璮が降伏すると、三城の民を通州・泰州の間に移した。また蘄県を破り、守将を殺した。

庭芝が初めて揚州に着任した時、揚州は新たに火災に遭い、家屋は全て焼失していた。州は塩を利頼みとしていたが、亭戸(塩戸)の多くが逃亡し、公私共に寂れていた。庭芝は民の負った滞納を全て免除し、銭を貸して家屋を建てさせ、家屋が完成するとまたその貸付金を免じ、凡そ一年で、官民の住居が全て整った。河を四十里掘って金沙余慶場に通し、車による輸送を省いた。兼ねて他の運河を浚渫し、亭戸の負った塩二百余万を免除した。亭民は車による輸送の労が無く、また負債を免れることができたので、逃亡した者も皆帰って来て、塩の利益が大いに興った。初め、平山堂は揚州城を見下ろしており、大元の兵が来ると、その上に望楼を構え、車弩を張って城中を射た。庭芝はそこで大城を築いてこれを包囲し、城中で汴南の流民二万人を募って実兵とし、詔命により武鋭軍と称した。また大いに学校を修築し、詩書・俎豆を備え、士人と共に習射の礼を行った。郡中に水害・旱害があれば、直ちに命じて倉を開き、不足すれば私財を以て救済した。揚州の民は彼を父母のように徳とした。劉槃が淮南から入朝すると、帝が淮の事情を問うと、槃は答えて言うには、「李庭芝は老成で謹厳重厚であり、軍民は安心しております。今、辺境に塵埃が驚かず、百般の事柄が全て整っておりますのは、皆陛下が委任して適材を得られた効果でございます」と。

咸淳五年、北兵が襄陽を急に包囲し、夏貴が救援に入ったが、虎尾州で大敗した。范文虎が諸兵を総率して再び入ったが、また敗れ、文虎は軽舟で逃げ、兵は乱れ、士卒で漢水に溺死した者は甚だ多かった。冬、庭芝に京湖制置大使を以て師を督し襄陽を救援することを命じた。文虎は庭芝が来ると聞き、似道に書を送って言うには、「私は数万の兵を率いて襄陽に入り、一戦で平定できますが、ただ京閫(庭芝)の命令を聞かせないでください。事が成れば功績は恩相(似道)に帰するでしょう」と。似道は喜び、直ちに文虎を福州観察使に任じ、その兵は中央から統制した。文虎は毎日美妾を連れ、馬を走らせ蹴鞠をして軍中で楽しんだ。庭芝は屡々進兵しようとしたが、文虎は言うには、「私は取旨(命令)が未だ届いていない」と。明年(1270年)六月、漢水が溢れ、文虎は已むを得ず初めて出師したが、鹿門に至らず、途中で逃げ去った。庭芝は数度自らを弾劾して後任を請うたが、許されず、遂に襄陽を失った。陳宜中は文虎を誅することを請うたが、似道が庇い、ただ一階降格して安慶府知事とするのみで、庭芝及び部将の蘇劉義・范友信を広南に貶した。庭芝は罷免されて京口に居住した。

間もなく、大元の兵が揚州を包囲し、制置使の印応雷が急死したので、直ちに庭芝を起用して両淮制置とした。庭芝は淮西を夏貴に分け与え、自らは淮東に専力することを請うた。これに従った。十年(1274年)、清河口に城を築き、詔により清河軍とした。十二月、大元の兵が鄂州を破り、詔して天下に勤王を命じると、庭芝は真っ先に兵を派遣して諸道の先駆けとした。徳祐元年春、似道の兵が蕪湖で潰え、沿江の諸郡は或いは降り或いは逃げ、一人として守れる者はいなかった。庭芝は配下の郡県を率いて城を守った。李虎という者が招降の榜文を持って揚州に入ったが、庭芝は李虎を誅し、その榜文を焼いた。総制の張俊が出戦し、孟之縉の書を持って招降に来たが、庭芝は書を焼き、張俊ら五人を市で梟首した。そして毎日、苗再成をして南で戦わせ、許文徳をして北で戦わせ、姜才・施忠をして中で戦わせた。時に金帛・牛・酒を出して将士を慰労し、人々はそのために死闘した。朝廷もまた督府の金を以て労い、庭芝に参知政事を加えた。七月、知枢密院事を以て朝に徴し入れ、夏貴を揚州知事に転任させたが、貴は赴任せず、事は遂に止んだ。

十月、大元の丞相伯顔が臨安に入り、元帥阿术を鎮江に留めて軍を駐屯させ、淮兵を阻んだ。阿术は揚州を攻めて久しく陥落させず、ついに長囲を築いて包囲した。冬、城中の食糧が尽き、死者が道に満ちた。翌年(1276年)二月、飢えはますます甚だしく、濠の水に身を投じて死ぬ者は日に数百に及び、道に死者があれば、人々は争って切り取って食らい、たちまち尽きた。宋が滅び、謝太后及び瀛国公が詔を下して降伏を諭したが、庭芝は城に登って言った、「詔を奉じて城を守るのであり、降伏を諭す詔があるとは聞いていない」と。やがて両宮が朝見するため、瓜州に至ると、再び庭芝に詔して言った、「先に卿に帰順を命じたが、日久しく返答がない。はたして朕の意を理解せず、なお城郭を固守しようとするのか。今朕と嗣君は既に臣従した。卿はなお誰のために守るのか」と。庭芝は答えず、弩を発して使者を射させ、一人を斃し、残りは皆退去した。姜才が兵を出して両宮を奪おうとしたが、成功せず、再び城を閉じて守った。三月、夏貴が淮西を挙げて降伏し、阿术が降伏兵を駆り立てて城下に至らせてこれを見せると、旌旗が野を蔽った。幕客の中に言葉をもって庭芝の本心を探る者がいたが、庭芝は言った、「我はただ一死あるのみ」と。阿术の使者が詔を持って来て降伏を招いたが、庭芝は壁を開いて使者を入れ、これを斬り、詔を城壁の上で焼いた。やがて淮安州知事許文德・盱眙軍知事張思聰・泗州知事劉興祖が皆、食糧尽きて降伏したことを知った。庭芝はなおも民間の粟を徴発して兵に与え、粟が尽きると、官人に粟を出させ、粟がまた尽きると、将校に粟を出させ、牛皮や麹糵を混ぜて与えた。兵の中には子を烹って食う者もあり、なおも日々出て苦戦した。七月、阿术が庭芝の詔を焼いた罪を赦し、降伏させるよう請うたところ、詔がありこれに従った。庭芝もまた受け入れなかった。この月、益王が使者を遣わし、少保・左丞相として庭芝を召した。庭芝は朱煥に揚州を守らせ、姜才とともに兵七千人を率いて東へ海に入り、泰州に至ったが、阿术が兵を率いて追撃し包囲した。朱煥が既に城を挙げて降伏すると、庭芝の将士の妻子を駆り立てて泰州城下に至らせ、城壁の将孫貴・胡惟孝らが門を開いて降伏した。庭芝は変事を聞き、蓮池に身を投じたが、水が浅く死にきれなかった。捕らえられて揚州に至ると、朱煥が請うて言った、「揚州は用兵以来、積み重なった骸骨が野に満ちているが、皆、庭芝と姜才の仕業である。これを殺さずして何を待つのか」と。ここにおいてこれを斬った。死んだ日、揚州の民は皆涙を流した。

宋応龍という者がおり、泰州の諮議官であった。泰州守孫良臣の弟舜臣が軍中から来て降伏を説いたので、良臣は応龍を召して計った。応龍はひたすら国家の恩沢と君臣の大義を述べ、舜臣を殺して二心を持つ者を戒めるよう請うた。良臣はやむなくこれを殺した。泰州が降伏すると、応龍夫婦は自縊して死んだ。提刑司諮議の褚一正は高郵に役所を置き、督戦して傷を負い、水に没して死んだ。興化県知事胡拱辰は、城が破れてもまた死んだ。

論じて言う。楊棟の学は伊・洛に本づくが、権臣に阻まれ、誹謗を速め、咎を招いた。誰の過ちであろうか。姚希得は藹然たる君子である。包恢は厳をもって治めとしたが、これは衰世の民は弛緩をもって扱うべきではないからか。常挺・陳宗礼は皆、事に通じ、声望を著した。常楙は晩年に皇子竑の事を論じ、光明正大で、公義が炳然としていた。家鉉翁は義をもって二君に仕えず、臣たる軌範に足る。李庭芝は国難に死した。まことに憫れむべきである。