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宋史
列傳第一百七十九 王伯大 鄭寀 應㒡 徐淸叟 李曾伯 王埜 蔡抗 張磻 馬天驥 朱熠 饒虎臣 戴慶炣 皮龍榮 沈炎
王伯大
王伯大、字は幼學、福州の人。嘉定七年の進士。歴任して戸部架閣を主管し、国子正に遷り、臨江軍を知る。歳饑饉にて、荒政を振るうに法あり。国子監丞に遷り、信陽軍を知り、改めて池州を知り江東提挙常平を兼ね権む。久しくして、旧に依り直秘閣・江東提挙常平に任じ、仍って池州知事を兼ねる。端平三年、闕下に召され、尚右郎官に遷り、尋いで左司郎官を兼ね権む。右司郎官に遷り、将作監を試みて右司郎中を兼ね、鎮江・建寧府転般倉の提領を兼ね、平江府百万倉の提領を兼ね、官田措置の提領を兼ねる。直宝謨閣に進み、枢密副都承旨兼左司郎中となる。進み対して言う。
「今、天下の大勢は江河の決するが如く、日に趨り日に下りて挽くべからざるなり。その始めは、縉紳の論、交口して誦詠せざる莫く、太平の期は矯足して待つべしと謂う。未だ幾ばくもせず、則ち治乱安危の制を以て言と為す。また未だ幾ばくもせず、則ち治安を置きて言わずして直ちに危乱を以て言う。また未だ幾ばくもせず、則ち危乱を置きて言わずして直ちに亡を以て言う。嗚呼、亡を以て言と為すは、猶お亡あるを知るなり。今は亡を置きて言わざるなり。人主の患、危亡に処りて知らざるより大なるは莫し。人臣の罪、危亡を知りて言わざるより大なるは莫し。
陛下親政すること、茲に五年、盛徳大業未だ天下に著見すること能わずして、天下の謗議を招く者、何ぞ其れ籍籍として未だ已まざるや。逸欲の徳を害するを議すれば、則ち天下将に陛下を以て商紂・周幽の人主と為さんとす。戚宦近習の政を撓ますを議すれば、則ち天下将に朝廷を以て恭・顕・許・史・武・韋・仇・魚の朝廷と為さんとす。奸儔佞朋の国を誤るを議すれば、則ち天下また将に漢の党錮・元祐の党籍の君子と為さんとす。数者は皆な前古危亡の轍迹を犯す。忠臣懇惻として之を言い、志士憤激して之に和す。陛下日に治朝に御し、日に儒者に親しみ、日に辞を修め色を飾ると雖も、終に天下の議を弭すること能わず。言う者は之を執して肯て置かず、聴く者は之に厭いて憚り煩わしからず。ここに厭いて転じて疑と為し、疑増えて忿と為し、忿極まりて愎と為す。則ち言を罪し諫を黜するの意、陛下の胸中に蔵伏して、凡そ己に迕う者は皆な逐うべきの人となる。彼の中人の性、利害一身に出でず、莫く厓を破り角を絶ちて以て陛下の好む所に阿らざるは無し。其の稍や名義を畏るる者は、則ち羞を包み黙して閔み、跋前疐後の憂い有り。若し其の顧恋する所無き者は、則ち皆な袂を攘ぎて遠く引き、王の朝に立つことを願わざるなり。
陛下試みに身に反りて自ら省みて曰わく、『吾が制行、屋漏上に在りて之を知る者下に在ること有ること無からんや』と。徒らに嬖昵の多きを見、選択未だ已まず、排当の声、時に流聞あるを見れば、則ち精神の内守、血気の軌に順うは未だ可ならずと謂う。陛下また試みに宮閫の内に於いて加えて省みて曰わく、『凡そ吾が左右近属、微に因りて入り、形に縁りて出で、意の狎信する所猜覚せざる者無からんや』と。徒らに内降の干請、数えて有司に至り、裏言臣を除くこと、毎に人口を実すを見れば、則ち浸潤の行わざる、邪径の已に塞がるは未だ可ならずと謂う。陛下また試みに朝廷政事の間に於いて三たび省みて曰わく、『凡そ吾が諸臣、讒説殄行有りて朕が師を震驚せしめ、直を悪み正を醜くし、側言して度を改むる者無からんや』と。徒らに剛方峭直の士、昔者の進めたる所、今其の亡きを知らず、柔佞闒茸の徒、適に何れの所より来たりて、遽かに斯に集まるを見れば、則ち挙国皆な忠臣、聖朝闕事無しと謂うは未だ可ならず。
夫れ陛下の好悪用捨、人言を招致するの道無きに非ざるなり。人言の来るに及んで、また復た推して受けず。平素の際遇信任する者、肯て陛下の為に此の謗を分かんやを知らず。無きなり。陛下誠に能く失う所を天下に布きて、必ずしも曲げて之が回護を為さず、凡そ人言の貸さざる所の者、一朝赫然として尽く之を去り、務めて蠹根悉く抜き、孽種留めず、日月の更むるが如く、風雷の迅かなるが如くせば、則ち天下の謗、改めずして自ら息まん。陛下何をか憚り何をか疑って此れを為さざるや」。
また辺事を極言し、事情を曲尽す。
直宝謨閣を以て婺州を知る。秘書少監に遷り、司農卿を拝し、復た秘書少監となり、太常少卿兼中書門下検正諸房公事に進む。起居舎人に遷り、起居郎に昇り刑部侍郎を兼ね権む。臣僚論じて罷めらる。集英殿修撰を以て太平興国宮を提挙す。起きて、再び婺州を知る。辞免し、旧祠に復す。
淳祐四年、闕に召され、権吏部侍郎兼権中書舎人を授かる。尋いで吏部侍郎と為り仍って権中書舎人・侍読を兼ねる。時に暫く権侍右侍郎を兼ね、国史同修撰・実録院同修撰を兼ねる。権刑部尚書となり、尋いで真となる。七年、端明殿学士・簽書枢密院事兼権参知政事を拝す。八年、参知政事を拝す。監察御史陳垓の論ずる所により罷めらる。資政殿学士を以て建寧府を知る。宝祐元年、卒す。
鄭寀
鄭寀、何れの郡の人なるか詳らかならず。初め歴官して秘書省校書郎兼国史編修・実録検討と為る。著作佐郎に遷り権侍右郎官を兼ね、著作郎に昇り侍講を兼ねる。右正言を拝し、言う、「丞相史嵩之、父憂を以て去る。遽かに之を起さんと欲す。意甚だ厚し。奈何すべからん、謗議未だ息まず、事名教に関わり、其の行を尼ぐ者有り」。帝答えて曰わく、「卿の言事理に切なれども、大臣の進退豈に易き事ならんや」。
殿中侍御史に擢でらる。疏して言う、「台諫は官邪を糾察するを職とし、国の紀綱之に係る。比来劉漢弼司農卿謝逵を劾奏す。陛下已に其の言を行えり。未だ両月に及ばず、忽ち復た叙用す。何ぞ其れ速きや。漢弼亡くと雖も、官は廃すべからず。臣漢弼の為に惜しむに非ず、朝廷の為に惜しむなり」。また奏して王瓚・龔基先・胡清献を劾す。秩を鐫じ祠を罷む。皆な之に従う。三人は、才なき台諫なり。
侍御史に遷る。疏して言う、「比年以来、旧章寢くに廃る。外に諸閫、勲労の有無を問わずして爵秩皆な例を以て遷ることを得、内に侍従、才業の優劣を問わずして職位皆な例を以て進むことを得。執政の田里に帰休する者は、之に貼職を与うるも可なりと雖も、凡そ外に補する者は皆な之を授く。故に公侯より節度に至るまで、序補に同じく、書殿より秘閣に至るまで、周行に錯立す。名器の軽き、此れを為すより甚だしきは莫し。功無き者賞を受くれば、則ち何を以てか功有るの士を旌せん。罪有る者寵を仮れば、則ち何を以てか罪無きの人を服せしめん。況んや事変窮まり無く、而して名器限り有り。名器をして常に上に重からしめば、則ち人心敢えて下に軽視せず。才無くして功無き者は其の間を覬幸することを得ず。則ち慷慨の気を負い功名の願いを懐く者、陛下始めて得て之を鼓舞せん」。左諫議大夫に遷る。
淳祐七年、端明殿学士・同簽書枢密院事に任ぜられる。監察御史陳求魯の論劾により罷免。淳祐九年五月、卒去す。蔡の言路に在りし時、工部侍郎曹豳・主管吏部架閣文字洪芹を弾劾したが、大いに公論を傷つけたという。
応㒡
応㒡、字は之道、慶元府昌国県の人。学問に志を励ます。嘉定十六年、南省の試験で第一となり、進士に挙げられ、臨江軍教授となる。入朝して国子学録兼荘文府教授。太学博士に遷り、さらに秘書郎に遷り、早く太子を立てるよう請う。入対し、帝が星変を問うと、㒡は実徳を修めて天戒に答えるよう請う。帝が州県の貪風を問うと、㒡は言う、「貪黷は色に殉ずるより起こります。成湯が官刑を制し、有位を戒め、まず巫風・淫風に及んだのは、道理があるのです。」帝が蔵書を問うと、㒡は先儒の経解・史注を訪求するよう請い、程迥・張根の著書に及び、いずれも世教に益ありとし、帝はこれを善しとする。秘書省著作佐郎兼権尚左郎官・兼翰林権直に遷る。さらに著作郎に遷り、なお兼職を帯びるが、言事により罷免。
淳祐二年、叙復して祠官に奉ずる。宗正寺丞兼権礼部郎官に遷り、兼国史編修・実録検討を帯びるが、言事により罷免。差遣されて台州知州となり、召されて礼部郎官・崇政殿説書を兼ねる。秘書少監に遷り、なお兼職を帯び、兼権直学士院。さらに起居舍人・権兵部侍郎に遷り、時暫に兼権吏部侍郎兼直学士院となる。帝、一夜に㒡を召して麻を草せしむると、夜四鼓に五つの制書皆成る。帝、その才を奇とす。吏部侍郎に遷り、なお兼職を帯びる。翰林学士兼中書舎人に進む。
八年、同知枢密院事兼参知政事を授かる。九年、参知政事に任ぜられ、臨海郡侯に封ぜられるが、田里に帰ることを請う。資政殿学士として平江府知府となり、洞霄宮を提挙す。宝祐三年、殿中侍御史丁大全の論劾により罷免、まもなく卒去す。徳祐元年、詔して元の職を復し致仕す。
徐清叟
徐清叟、字は直翁、煥章閣学士応龍の子。嘉定七年の進士。戸部架閣主管を歴任し、籍田令に遷る。上疏して言う、「近ごろ江右・閩嶠に盗賊窃発す。監司帥守は、少なからず威名を立て、専ら誅戮を行い、これはただ権をもって事を済ますに過ぎない。しかるに偏州僻塁は、習熟して見聞し、転相して模倣し、また皆、論報を待たず、輒ち専殺を行う。明らかに行いを禁じ、臣下の嗜殺希進の心を一変し、以て祖宗の立国の仁厚の意を墜とさざらんことを望む。」軍器監主簿に遷る。入対し、言う、「太后挙哀の日、陛下は后服を以て媵妾と下同じくせしめ、別に大袖一襲を置かしめ給う。文思院は観望し、后飾の如くせんと欲し、再び其一を造りて進むるも、詔してこれを退く。これ真に嫡庶の弁を知る者なり。請う、史館に宣付し、以て後世に法を垂れん。」
太常博士に遷る。入対し、疏を上して言う、「陛下親政以来、精神少しく振るうも気脈未だ復せず、条目畢挙するも綱紀未だ張らず、公道伸ぶるが若くも私意の未だ尽く克たざるは、則ちまた風化の先務、勧戒の大権、及び選用の要術、猶お闕略にして之を講明せざる者あるが故なり。何をか風化の先務と謂う。曰く、人倫を原いて以て群惑を釈する者は是れなり。何をか勧戒の大権と謂う。曰く、名器を惜しんで以て正義を示す者は是れなり。何をか選用の要術と謂う。曰く、物望に因りて以て人材を進むる者は是れなり。」蓋し皇子竑の王爵を復し、史弥遠の恤典を裁抑し、真徳秀・魏了翁を召用せんことを請わんと欲するなり。
兼崇政殿説書。秘書郎に遷り、著作佐郎兼権司封郎官に昇り、軍器少監に遷る。皆、兼職は旧の如し。将作監に遷り、殿中侍御史兼侍講に任ぜられる。太常少卿兼権戸部侍郎兼侍講に遷る。三たび疏を上して外任を乞うも、給事中洪咨夔・起居舎人呉泳皆抗疏してこれを留む。まもなく権工部侍郎。右文殿修撰として泉州知州となり、集英殿修撰として静江府知府・広西経略安撫使となる。侍右侍郎に遷り、雲台観を主管す。召されて闕に赴き、戸部侍郎に遷り、再び侍右侍郎となる。宝章閣直学士として温州知州となり、福建安撫使に改め、婺州知州に改む。煥章閣直学士として差遣され泉州知州となるも、辞免す。袁州知州に改め、また紹興府知府・両浙東路安撫使に改むも、辞免す。潭州知州に改め、まもなく広州知州兼広東経略安撫使となる。
召されて闕に赴き、権兵部尚書兼侍読。淳祐九年、兼同修国史・実録院同修撰、権吏部尚書、礼部尚書に遷る。端明殿学士・簽書枢密院事に任ぜられ、同知枢密院事に進み、晋寧郡公に封ぜられる。『四朝国史』志伝の修撰を奏上し、五たび章を上って機政を改めんことを乞うも、帝許さず。十二年、参知政事に任ぜられる。まもなく枢密院事兼参知政事となるが、監察御史朱応元の論劾により罷免、資政殿大学士として玉隆万寿宮を提挙し、洞霄宮に改め、また監察御史朱熠の論劾により罷免。久しくして、旧職をもって洞霄宮を提挙す。
開慶元年、召されて闕に赴き、旧職をもって佑神観を提挙し兼侍読。出て泉州知州となり、再び佑神観を提挙す。景定三年、両官を転じて致仕し、卒去す。少師を贈られ、諡して「忠簡」とす。清叟父子兄弟皆、風節を以て相尚うも、清叟が袁甫を劾罷したことは、公論において少しく貶せらる。
李曾伯
李曾伯、字は長孺、覃懐の人、後に嘉興に居住す。濠州通判を歴任し、軍器監主簿に遷り、添差鄂州通判兼沿江制置副使司主管機宜文字となる。度支郎官に遷り、左司郎官・淮西総領を授かる。まもなく右司郎官、太府少卿兼左司郎官、兼勅令所刪修官に遷る。太府卿・淮東制置使兼淮西制置使に遷り、詔して軍事便宜を行わしむ。曾伯、三事を疏奏す。天心に答え、地勢を重んじ、人謀を協わせる。また言う、「辺餉は広積を貴び、将材は素儲を貴び、賞与は精ならざるべからず、戦士は恤れざるべからず。」また条上して、淮面舟師の戒むべき所、湖面険阻の治むべき所を論ず。華文閣待制を加えられ、さらに宝章閣直学士を加えられ、権兵部尚書に進む。
淳祐六年正月朔、日食あり。曾伯、詔に応え、先朝が天象に因りて辺備を謹み帥材を図りしことを歴陳し、早く閫寄を易え、田里に帰放せんことを乞う。また泗州西城の修浚を請う。煥章閣学士を加えられるも、言者相継いで論劾し罷免。
九年、旧職をもって静江府知府・広西経略安撫使兼広西転運使となる。守辺の宜しき五事を陳ず。徽猷閣学士・京湖安撫制置使・江陵府知府に進み、兼湖広総領、兼京湖屯田使、龍図閣学士に進む。疏を上して言う、「襄陽は新たに復した地、城池は修浚すれども田野未だ加うるに辟かず、室廬は草創すれども市井未だ阜通せず。租を蠲免すること三年を請う。」詔してこれに従う。端明殿学士兼夔路策応大使を加えられる。資政殿学士に進み、四川辺面を制置し、執政の恩例を与えらる。まもなく四川宣撫使を授かり、特賜して同進士出身とす。召されて闕に赴き、大学士を加えられ、福州知州兼福建安撫使となる。辞免し、大学士として洞霄宮を提挙す。
湖南安撫大使兼知潭州として起用され、広南を節制することを兼ね、治所を静江に移す。開慶元年、観文殿学士に進み、諫議大夫沈炎らの論劾により罷免される。景定五年、慶元府知事兼沿海制置使として起用される。咸淳元年、殿中侍御史陳宗礼の論劾により、官職を剥奪される。德祐元年、元の官職を追復される。
曾伯は初め賈似道とともに閫帥(地方軍司令官)となり、辺境の事柄については知る限りを言わぬことはなかった。似道はついに彼を嫉み、その才能を十分に用いさせなかったという。
王埜
王埜、字は子文、宝章閣待制王介の子である。父の蔭により官に補され、嘉定十二年の進士に及第する。潭州で仕えた時、長官の真徳秀は彼を見てただちに異才と認め、幕下に招き、ついに弟子の礼を執らせた。徳秀は彼に詞学を授けようとしたが、埜は言う、「私が学問を求める所以は、義理の奥義にあるのです。詞科はただ記憶力の強い者が為し得るものです」と。徳秀はますます彼を器重した。
紹定初年、汀州・邵州で賊が起こると、議幕参贊に辟召され、邵武県の知事を代行し、後にまた軍務を代行する。唐石で賊が起こると、自ら兵を率いてこれを討伐した。後に枢密院編修兼検討となる。襄陽・蜀の情勢が緊迫し、使者を派遣して講和することを議したが、時の宰相は態度を明確にせず決断しなかった。史嵩之が武昌の長官となると、真っ先に和議を進言した。埜は言う、「今日の事態はまず方針を定め、力を合わせて攻守に当たるべきである」と。八つの事柄について上疏する。続いて副都承旨となり、出師を奏請し、和議の使者を断ち、淮東・淮西に挟撃を命ずるよう求めた。さもなければ、利害はさらに深まると。理宗は深くこれを認め、枢密院に命じて三閫(三つの軍管区)に諭旨を下させた。嘉熙元年、輪対にて、安危に関わる四つの要点を採り上げ、ひたすら司馬光の仁・明・武の説を推し進めて論じた。さらに以前に言った八事を敷衍し、孝宗が軍備を整えた故事を引き、帝の意を奮い立たせた。
淳祐初年、江西から朝廷に赴き、天の命を永く保つための十事を上奏する。嵩之が喪中に起用されると、国中が争って反対したが、埜は上疏して喪に服することを終えるまで待つよう乞い、後にまた嵩之を公然と絶ち、最終的に斥けるべきだと述べ、君子と小人の区別を一層厳しくすべきだと説いた。礼部尚書に拝され、十事を上奏し、最後に言う、「陛下の一心こそが、十事の綱領であります」と。前後して上奏陳述したことは、すべて明らかで正しく、切実であり、確実に実行可能であった。両浙転運判官として、察訪使として出向き江防を視察し、まず嘉興から京口に至るまで官軍・民船を増強し修繕し、要害を守る備えを整えた。江西転運副使・知隆興府となり、後に他の任命があったが、当時は米綱(米の輸送)が不便であったため、湖口に転般倉を造り、任務完了後に交代することを請うた。
知鎮江府となり、都大提挙浙西兵船を兼ねる。江面はほぼ千里に及び、兵を調達して防禦したが、江を守ることは淮を守るよりもさらに重要であると考え、瓜洲の渡しは非常に狭いので、鎮江水軍の徴発を免除し、専ら江を守らせ、呂蒙が言った「蒋欽に万人を将いて江上を巡らせる」ような遊兵を置き、水艦を増造し、揚子江で水戦を訓練し、金山に登って指揮した。この冬、揚子橋に警報があり、急ぎ湯孝信の率いる遊兵を調達して救援し、賊を退かせた。
淳祐末年、沿江制置使・江東安撫使・和州無為軍安慶府の三郡の屯田を節制し、行宮留守を兼ねることに遷る。江を巡視し、水軍を率いて大閲兵を行い、艦船が連なりほぼ三十里に及んだ。高所に登って遠くを望み、山川の険阻を考察し、要務は屯田に如くはないと論じた。事業の実施について講じ、行宮の諸殿室を修繕整備し、京口の法を推し広め、遊撃軍一万二千、蒙衝船一万艘を創設し、江上は平穏であった。宝祐二年、端明殿学士・簽書枢密院事に拝され、呉郡侯に封ぜられる。宰相と合わず、言官が彼を攻撃したため、以前の職で洞霄宮を主管する。卒去し、七官を追贈され、位は特進となる。
埜は徳秀を通じて朱熹の学問を知り、凡そ熹の門人で高弟とされる者には、必ず敬礼を加えた。建寧府知事として、建安書院を創設し、朱熹を祀り、徳秀を配祀した。奏議・文集若干巻がある。埜は詩に巧みで、書法は唐の欧陽詢を祖とし、特に署書は清らかで力強い。
蔡抗
蔡抗、字は仲節、処士蔡元定の孫である。紹定二年の進士。その後、主管尚書刑部・工部架閣文字に差遣される。召されて館職を試され、秘書省正字に遷る。校書郎兼枢密院編修官に昇進し、諸王宮大小学教授に遷る。上疏して奏す、「権姦は再び用いるべからず、国本は早く定めざるべからず」と。帝はその言を良しとした。枢密院編修官兼権屯田郎官に遷る。著作佐郎兼侍右郎官に遷り、枢密院編修官を兼ねる。まもなく国史院編修官・実録検討官を兼ねる。江東提点刑獄となり、直秘閣を加えられ、特旨により尚書司封員外郎を授かり、直宝章閣に進み、まもなく宝謨閣を加えられ、浙東に移る。召されて国子司業兼資善堂賛読となり、玉牒所検討官を兼ね、時暫(臨時)に侍立修注官を兼ねる。宗正少卿兼国子司業に拝される。直龍図閣に進み、知隆興府となる。国子祭酒兼侍立修注官を試みる。太常少卿に拝され、引き続き資善堂翊善を兼ねる。権工部侍郎兼国史院編修官・実録院検討官となる。
工部侍郎に遷り、時暫に礼部侍郎を兼ね、権吏部尚書を兼ねる。端明殿学士・同簽書枢密院事を加えられ、同提挙編修『経武要略』を兼ねることを差遣される。同知枢密院事となり、参知政事に拝される。落職して宮観を授けられるが、起居郎林存が流罪・削官を加えるよう請うたので、従う。一年を経ずして、再び端明殿学士・提挙洞霄宮となる。致仕を乞う。一官を転じ、本官職のまま致仕する。卒去し、諡は「文簡」であったが、祖諱に犯すため、改めて「文粛」と諡される。
張磻
張磻、字は渭老、福州の人。嘉定四年の進士。歴官し、点検贍軍激賞酒庫所主管文字に辟召され、主管尚書吏部架閣に差遣される。太常博士・宗正丞兼権兵部郎官に遷る。国子祭酒に遷り、時暫に権礼部侍郎を兼ね、まもなく正官となり、国史編修・実録検討を兼ねる。集英殿修撰を加えられ、知婺州に差遣される。再び礼部侍郎・権兵部尚書となり、時暫に権吏部尚書を兼ねる。右補闕程元鳳の論劾により罷免される。宝祐三年、再び権刑部尚書兼侍読となり、端明殿学士・簽書枢密院事に拝され、同知枢密院事兼参知政事に昇進する。五年、参知政事に拝される。長楽郡公に進封され、三官を転じ、参知政事のまま致仕する。九月、卒去する。遺表が上られ、少師を追贈される。
馬天驥
馬天驥は、字を德夫といい、衢州の人である。紹定二年に進士となり、補われて簽書領南判官廳公事となった。秘書省正字兼沂靖惠王府教授に遷った。秘書省校書郎に遷り、著作佐郎に昇進した。輪対に際し、司馬光の五規の名を借りて、時弊を条上し、言葉の趣旨は切実で率直であった。考功郎官に遷り、入対し、言うには、「周世宗は天下が四分五裂した後にあって、一念発起して刷新し、なお弱きを転じて強くすることができた。陛下にはそれを成し遂げる資質があり、為すべき時勢に乗っている。ただ一転換の間の問題である」と。
秘書監、直祕閣、知吉州に遷った。宗正少卿に遷り、祕閣修撰の職で紹興府知府となり、浙東安撫司公事を主管し、提挙常平を兼ねた。権兵部侍郎となり、沿海制置使を授かり、差遣されて慶元府知府となった。池州知府兼江東提挙常平に改めた。広州知府兼広東経略安撫使に改めた。宝祐四年、礼部侍郎に遷り、直学士院を兼ね、侍読を兼ね、国子祭酒を兼ねた。端明殿学士、同簽書枢密院事に拝され、信安郡侯に封ぜられた。五年、殿中侍御史朱熠、右正言戴慶炣、監察御史吳衍、翁應弼らの論劾により罷免され、旧職のまま洞霄宮提挙となった。景定元年、衢州知府となったが、兵部侍郎章鑒の論劾により罷免された。詔があり、旧職のまま祠官を与えられた。起用されて福州知府、福建安撫使となり、職務をよく行ったため、大学士に昇進した。平江府知府に改めた。また慶元府知府兼沿海制置使に改め、洞霄宮提挙となった。官職を剥奪され祠官も罷免された。咸淳三年、執政として受けた恩典を追奪され、信州に居住を命ぜられた。四年、自由にさせられ、後に家で卒した。
朱熠
朱熠は、温州平陽の人である。端平二年、武挙の第一となった。閤門舍人に遷り、差遣されて沅州知州となり、横州知州に改め、再び閤門舍人、雷州知州となった。入対したが、監察御史陳垓の論劾により罷免され、臣僚がさらに論劾したため、一官を降格された。久しくして、帯御器械兼幹辦皇城司を授かり、差遣されて興国軍知軍となった。度支郎官に遷り、監察御史兼崇政殿説書に拝された。右正言、殿中侍御史兼侍講に抜擢され、侍御史に遷った。宝祐六年、左諫議大夫に遷った。端明殿学士、簽書枢密院事に拝され、同知枢密院事となった。開慶元年、参知政事兼権知枢密院事に拝された。景定元年、知枢密院事兼参知政事となり、太子賓客を兼ねた。旧職のまま慶元府知府、沿海制置使となった。祠官となった。監察御史胡用虎の論劾により罷免された。久しくして、監察御史張桂、常茂が相次いで糾弾し、処州に居住を命ぜられた。咸淳四年、詔により自由にさせられた。五年、侍御史章鑒が再び上言し、彼を故郷に追い返し、まもなく卒した。朱熠は言路に在って最も多く弾劾し、一時の名士たる徐清叟、呂中、尤焴、馬廷鸞らも、皆免れることができなかったという。
饒虎臣
饒虎臣は、字を宗召といい、寧国の人である。嘉定七年の進士。歴任して将作監主簿に遷り、差遣されて徽州知州となった。秘書郎に遷り、著作郎に昇進し、権右司郎官を兼ねた。兵部郎官に遷り、権左司郎官を兼ね、特旨により左司郎中を授かった。司農少卿兼左司に遷り、国史編修、実録検討を兼ねた。司農卿、直龍図閣、福建転運判官、浙東提点刑獄に遷った。太府卿兼中書門下検正諸房公事に拝された。祕閣修撰、両浙転運使の職で権礼部侍郎となり、まもなく正任となった。時に暫く権侍右侍郎を兼ねた。宝祐六年、同修国史、実録院同修撰を兼ね、暫く吏部尚書の職務を代行した。端明殿学士、同簽書枢密院事に拝された。開慶元年、同知枢密院事となり、権参知政事を兼ねた。景定元年、参知政事に拝された。殿中侍御史何夢然の論劾により罷免され、資政殿学士の職で洞霄宮提挙となった。夢然が再び弾劾し、官職を剥奪され祠官も罷免された。四年、元の官位に復し、太平興国宮提挙となった。卒した。徳祐元年、礼部侍郎王応麟、右史徐宗仁が元の官位を追復し、資政殿学士の職で致仕させることを請うた。
戴慶炣
戴慶炣は、字を彦可といい、温州永嘉の人である。淳祐十年の進士。歴任して戸部架閣文字主管の差遣となった。館職に召し試され、秘書省正字兼史館校勘に遷った。校書郎に昇進し、右正言、左司諫、殿中侍御史に遷った。侍御史に昇進した。開慶元年、右諫議大夫に拝された。まもなく端明殿学士、簽書枢密院事兼権参知政事を加えられ、同知枢密院事兼参知政事となった。間もなく、本官のまま致仕した。卒し、特進、資政殿大学士を贈られた。
皮龍榮
皮龍榮は、字を起霖、また一字を季遠といい、潭州醴陵の人である。淳祐四年の進士。歴任して吏部架閣文字主管となり、宗学諭に遷り、諸王宮大小学教授兼資善堂直講を授かった。入対し、「改過の実をもって、運化の名と換え、一つの過ちを改めれば一つの善が顕れ、百の過ちを改めれば百の善が融和する」ことを請うた。秘書郎に遷り、著作郎に昇進した。入対し、真徳秀、崔與之の廉潔に言及した際、龍榮は言う、「今の天下に廉潔な者がいないわけではない。願わくは陛下が彼らを崇め奨励して天下の風とし、賞罰の公正を執って勧懲を示されたい」と。帝はその言を然りとした。兵部郎官を兼ね、差遣されて嘉興府知府となった。
召されて朝廷に赴き、侍右郎官兼資善堂賛読に遷った。また吏部員外郎兼直講に遷った。入対し、言うには、「忠王の学問について、願わくは陛下が内において身をもって教え導かれたい」と。帝は嘉納した。将作監兼尚右郎官、秘書少監兼吏部郎中、宗正少卿、起居郎兼権侍左侍郎、給事中を兼ね、吏部侍郎兼賛読に遷り、醴陵県男に封ぜられた。集賢殿修撰、太平興国宮提挙に遷った。召見され、刑部侍郎に進み、宝章閣待制、荊湖南路転運使を加えられ、権刑部尚書兼翊善となった。景定元年四月、端明殿学士、簽書枢密院に拝され、伯に進封された。権参知政事兼太子賓客となった。二年、参知政事に拝され、引き続き太子賓客を兼ね、寿沙郡公に封ぜられた。三年、罷免されて湖南安撫使となり、潭州を判った。四年、資政殿大学士の職で洞霄宮提挙となった。右正言曹孝慶の論劾により罷免された。
咸淳元年、旧職のまま祠官となった。殿中侍御史陳宗礼、監察御史林拾が相次いで論劾し、一官を削られた。ある日、帝がふと龍榮の所在を問うたところ、賈似道は彼が召用されることを恐れ、密かに湖南提点刑獄李雷応に弾劾させた。雷応が任地に着き、龍榮を謁見したが、龍榮はわざと理由をつけて出なかった。退いた後、さらに彼を罵った。ある者がこのことを雷応に話すと、雷応は憤慨し、遂にその罪を上疏し、また、龍榮が人に対し、「我は至尊を膝の上に擁している」と語ったことがあると述べた。詔により衡州に居住を命ぜられた。湖南提刑が衡州を治めたが、龍榮は雷応に容れられないことを恐れ、任地に着く前に歿した。
龍榮は若い頃から志略があり、『春秋』の学に精通し、文集三十巻があった。性質は剛直で、似道が国政を執った時も、志を曲げようとしなかった。また度宗の旧学であったため、ついに似道に排斥された。徳祐元年、その官を復し致仕させた。二年、太府卿柳岳が贈官と諡号を加えることを請うたが、実行されないうちに宋は滅亡した。
沈炎
沈炎、字は若晦、嘉興の人なり。寶慶二年に進士となる。嵊縣主簿に調じ、廣西經略司準備差遣、湖南安撫司幹辦公事を歴任す。郴の寇を討つに功あり、金華縣知縣に改め、沿江制置司幹官となる。和州を通判し、沿江制置主管機宜文字に任ず。三省・樞密院の門を監し、樞密院編修官となる。監察御史・右正言・左司諫・殿中侍御史・侍御史を歴任す。景定元年、右諫議大夫を拝す。端明殿學士を加えられ、同簽書樞密院事兼太子賓客となる。二年、同知樞密院事を拝し、兼ねて權參知政事を務め、資政殿學士を以て洞霄宮を提挙す。三年、大學士に進み、致仕す。卒し、少保を贈らる。炎、言路に居り、嘗て福建轉運使の高斯得・觀文殿學士の李曾伯・沿江制置司參謀官の劉子澄・左丞相の吳潛を按劾す。然れども右丞相の丁大全及びその黨與を論じて罷めしむるは、則ち公論なり。
論ずるに曰く、王伯大は朝廷に立ちて直諒なり。鄭寀・沈炎は言路に居り、君子小人を弁ぜず、皆之を彈拄す、吾れ其の何の說ぞやを知らず。應㒡は清慎にして世を終ふ。徐清叟の風采は班行の間に凜乎たり。李曾伯の邊を治むるは、才に短き者なり。王埜は名父の師を得て、其の學問益々光る。蔡抗は君子と號せらる、史其の事を闕く。若し張磻・馬天驥・饒虎臣は未だ卓然として稱道すべきもの有るを見ず。戴慶炣・皮龍榮は登第皆未だ久しからずして位執政に至る、龍榮は權臣に附せず、擯斥せられて死す、猶ほ取るべき有り、慶炣は稱述すべきもの無し。朱熠は臺察に在りて狂猘の如く、人に遇へば輒ち之を噬ふと云ふ。