宣繒
薛極
薛極、字は会之、常州武進の人である。父の任官により上元主簿に調任された。詞科に合格し、大理評事・温州通判となり、広徳軍知軍となった。参知政事楼鑰の推薦により、大理正・刑部郎官に遷り、司封郎中・権右司郎中となり、右司郎中兼提領雑売場・寄樁庫、兼敕令所刪修官、中書門下省検正諸房公事、兼刪修敕令官に遷った。司農卿兼権兵部侍郎に任じられ、まもなく正任となった。
嘉定八年、上疏して奏上した。「願わくは陛下には顧みて諟(正す)ことの難しさを深く思い、いよいよ兢業(慎み勤める)の念を懐かれますように。帝徳に過ちなしと謂って進修に怠らず、天災は代々にあると謂って実を以て応じないように。政綱は挙げられていても、必ずその未だ至らざる所を益すことを求め、徳沢は布かれていても、必ずその未だ周らざる所に及ぶことを思いますように。今日の災異に遇って警懼する心を誓い、永く異時の暇逸(安逸)の戒めとされますように。将に見るべし、天心は明らかに通じ、沛然たる恩沢は崇朝(短時)の間に響応することを」。権刑部尚書に遷り、まもなく戸部尚書を試任し兼権吏部尚書となり、遂に正任となり、時に暫く兼権戸部尚書を務めた。十五年、特賜で同進士出身とされ、端明殿学士・簽書枢密院事に任じられた。
陳貴誼
陳貴誼、字は正甫、福州福清の人である。慶元五年の進士となり、瑞州観察推官を授かった。父母の喪に服し、喪明け後、安遠軍節度掌書記に調任され、辟差で四川制置司書写機宜文字となった。博学宏詞科に合格し、江南東路安撫司機宜文字を授かった。太社令に遷った。武学諭・国子録に改められ、太学博士に遷った。
時に楮幣法の変更が議論され、貴誼は転対して言上した。「人主が令を行い禁を止めるのは、民の好悪と同じくするがゆえである。楮券の法令は、かえって奸悪の者をして思いを遂げさせ、路上に怨嗟の声がある。これは天に祈り命を永くし、人心を固結する道ではない」。そこで熙寧の新法を引き合いに出して論じた。また言った。「明鋭果敢の才は、事を成すに足りるが剽軽(軽率)に失い、老成寬博の士は、風俗を厚くするに足りるが循理(道理に従うこと)に欠ける。衆を以て挙げ、公を以て取るに如くはない」。幣法変更を主導する者は、新法などの語句を摘んで時相(宰相)を激怒させ、かつ貴誼が同類を引き連れ党を植えつけるとし、人々は彼を危ぶんだ。
太常博士に遷った。兄の貴謙が礼部郎官を兼ねたため、嫌疑を避け、将作監丞兼魏恵憲王府小学教授に遷った。転対し、謂う。「言路は開かれているが、忌諱に触れる者は好名と指弾され、時政を切瑳する者は法令を軽んじると指弾される。利害は天下に関わり、是非は人心に公である。一人が言い終わらぬうちに、あるいは十数人が言うに至れば、また朋党と指弾される。是非が入れ替わり、忠佞が分かたれぬ」。史弥遠はますます快く思わず、貴誼を秘書郎に遷し、江陰軍知軍として出向させ、江西常平提挙とした。行在(臨安)に召されたが、到着前に礼部郎官を授かった。
折しも金人が淮・蜀を大いにかき乱したため、貴誼は言上した。「人材は国を立てる所以であるが、今は傍蹊曲径(邪道)が開け、幸門(抜け道)が四方に開かれている。言路は下情を通ずる所以であるが、今は媕阿(迎合)して黙従し、口を閉ざして言わない。民力は既に尽きているのに、科斂のほか、進用を謀って贈り物をする者が絶えない。軍中では敗北を恥じるあまり、陣亡者を憐れまず、棄潰を恥じるあまり、逃竄者を再び招集する」。また言った。「婉順で従順な者は、災いや病であって、我を愛する者ではない。外に斥けるべきである。矯めて救い正す者は、薬石であって、我を愛する者である。用いてその言を聴くべきである」。弥遠はますます快く思わず、言事官に諷して弾劾させ免職とし、崇禧観主管とした。
徽州知州として起用され、召されて司封郎官兼翰林権直、兼玉牒所検討を授かった。折しも明堂の祭祀があり、まず包拯が皇祐中に肆赦(大赦)に因んで聚斂掊克(収奪)の弊を除くよう請えた故事を引き、州県府庫が余剰を生む由縁を察すべきと論じた。成周(周)で邦饗(国の宴)に必ず王事に死した者の子を及ぼし、漢が羽林孤児を置き、専ら従軍して死事した者の後裔を取り、五兵を教えた故事に倣えと論じた。
理宗が即位すると、宗正少卿兼侍講、兼権直学士院に任じられた。まもなく起居舍人に遷った。宝慶初年、詔して賢能才識の士を推挙させた。貴誼はそこで言上した。「世間では、口を閉ざし凝り固まることを賢とし、苛刻で事を起こすことを能とし、褊狭で迅速に処理することを才とし、軽率で試みることを識としている。今この初政に当たり、忠実正直で、公に奉じ民を愛し、礼義廉恥を知りながら防範を越えない者を求めて、中外の選に充てるべきである」。また言った。「成王の初年、元臣故老が『無逸』をもって戒めたのは、その寿を全うさせんがためであり、敬徳をもって勉めたのは、その命を永からしめんがためであり、豈弟(穏やかで思いやりがあること)を期したのは、その受命を長からしめんがためであった。これは君を愛する切にして、患を慮ること深いと言えよう」。
中書舎人に遷り、兼直学士院を昇任す。内侍が濫りに恩賞を受くると、詔書を封じて返上せり。郊祀を行わんとするに当たり、貴誼は以て曰く、「民生は実に艱難にして、吏員は尚ほ多く、征斂は奪取に幾く、公費は私蔵に掩はる。宜しく大明に黜陟を行ひ、庶幾くは以て郊に帝を見る有らん」と。礼部侍郎に遷り、仍として中書舎人・権刑部尚書を兼ぬ。修玉牒官兼侍読を昇任す。礼部尚書兼給事中・端明殿学士・簽書枢密院事となる。
紹定六年冬、上始めて親政し、参知政事に進む。上面諭して之に曰く、「頃に憂国の言を聞く、朕忘れず」と。同知枢密院事を兼ぬ。汴・洛に出師する時、貴誼は既に疾を移し、猶上疏して力争す。五たび章を上して帰を乞ひ、四官を転じ、邑封を加へ、致仕す。卒し、少保・資政殿大学士を贈らる。
曾従龍
金に使いして還り、官を転ず。疏を上して言ふ、「州郡累月守を闕き、以て次官に権摂せしむる者は、彼其の摂事なるを惟ひ、自ら久しからざるを知る、何ぞ暇あらん民事に心を尽すに。獄訟淹延し、政令玩弛し、一郡の事を挙げて之を胥吏に付す。幸ひにして一人を除授すとも、民其の至るを望むこと飲を渇するが如く、足未だ境に及ばずして復た他故を以て罷め去る。且つ毎に一守を易ふるに、供帳借請少なくも万緡に下らず。郡帑の入る所、歳に常数有り、而るに頻年将迎し、費ふ所勝計す可からず。然らば則ち軽く易置するは、公私倶に其の病を受く。願くは明詔して二三大臣に、郡守闕有らば即時に進擬せしめよ。其れ避け行くを憚るを求むる有らば、悉く其の請を杜絶し、其れ劾を繳し拠する者は、疾速に行へ。蓋し郡計寛なれば則ち民力裕なり、利害常に相関ふ故なり」と。又振済したる者は其の後を免ぜんことを請ふ。
開禧間外を丐ひ、信州を知る。戍卒行ひ境内を掠むるを、従龍法に置き、婦人の衣を得て索め、市に梟すを命ず。権礼部侍郎兼中書舎人兼太子左諭徳を召す。張鎡の復官詞頭を繳還す、鎡が令姪女に資財を竭して蘇師旦の子と姻を結ばしむるを抑へし故なり。尋で太子諭徳を兼ね、同修国史・実録院同修撰を兼ね、国子祭酒を兼ぬ。吏部侍郎となり、仍として職を兼ね太子右庶子を兼ね、給事中を兼ね、直学士院を兼ね、権刑部尚書となる。
嘉定六年秋、陰雨し、繫囚を放つことを乞ふ。進対し、言ふ「徳政を修め、人材を蓄へ、辺備を飭ふ」と。帝其の言を善しとす。七年、貢挙を知る。疏を奏して曰く、「国家科目を以て天下の英雋を網羅し、義を以て其の経を通ずるを観、賦を以て其の古に博なるを観、論を以て其の識を観、策を以て其の才を観る。異時王に謀り国を断つは、皆此れより其の選に繋る。比来習ひ循りて風と成り、文気振はず、学根柢を務めず、辞体要を尚ばず、渉獵未だ精ならず、議論疎陋、綴緝繁と雖も、気象萎苶たり。願くは臣が此の章を下し、中外に風厲し、源を澄まし本を正すは、斯れより甚しきは莫し」と。詔して之に従ふ。
端明殿学士・簽書枢密院・太子賓客に進み、参知政事に改む。胡榘の憸壬を疾み、正論を排沮するを、其の罪を陳ぶ。榘言者を嗾して劾罷せしめ、前職を以て洞霄宮を提挙す。起きて建寧府を知る。内艱に丁し、服除け、湖南安撫使となる。峒獠を撫安し、威恵並びに行はれ、学を興し士を養ひ、湘人之を石に紀す。隆興府を知るに改め、復た洞霄宮を提挙し、万寿観兼侍読に改め、朝請を奉ず。
鄭性之
左諫議大夫に擢でられ、言ふ、「台臣章を交へ互ひに詆る、願くは陛下古今天下安危の変、君子小人消長の機を鑒み、公を以て之を処し、乃ち其の当を得ん。況んや言を聴くの道は、宜しく事を以て観るべし、若し言果して国体に関し、治道に補ひ、主徳に益有らば、則ち言の過激なるも、夫れ何ぞ傷かん。彼は名を采ると雖も、我は実に益有り。惟だ虚心に善を納るれば、江河を決するが若く、則ち激する者自ら平らかなり」と。
李鳴復
鄒応龍
余天錫
余天錫は、字を純父といい、慶元府昌国の人である。丞相史弥遠が招いて子弟の師とし、性質は謹直で、決して外事に関与せず、弥遠は彼を器重した。この時、弥遠は相位に在ること久しく、皇子の竑はこれを深く憎み、廃立しようと念じていた。折しも沂王宮に後嗣がなく、丞相はこれに乗じて密かに後継者を立てようとした。天錫が秋に郷試を受けるため帰省を告げると、弥遠は言った、「今、沂王に後嗣がない。宗子で賢く篤実な者がいれば、幸いにも連れてきてほしい」。
天錫は江を渡り越の僧と同舟した。舟が西門に着くと、大雨が降り、僧が言うには、「門の左に全保長という者がおり、雨宿りできる」と。その言う通りに訪ねると、保長は丞相の館客であると知り、鶏と黍を整えて丁重にもてなした。しばらくして二人の子が傍らに侍立した。全は言った、「これはわが外孫である。占い師がかつて、この二児は後に極めて貴くなると言った」。姓を問うと、長男は趙与莒、次男は与芮といった。天錫は弥遠が嘱託したことを思い出し、その素行もまた良かったので、弥遠に報告し、二人の子を来させるよう命じた。保長は大いに喜び、田を売って衣冠を整え、沂邸の後継者となることを期待し、姻族を集めてその幸運を誇って出発した。
天錫が引見すると、弥遠は人相を見るのが巧みで、大いに奇異とした。事が漏れると都合が悪いと考え、急いでまた帰らせた。保長は大いに恥じ、その郷人も密かに笑った。一年余りして、弥遠は突然天錫に言った、「二人の子をまた連れて来られるか」。保長は断って遣わさなかった。弥遠は密かに諭して言った、「二人の子のうち、長男が最も貴い。君の家で養育するのがよい」。そこで車に乗せて帰った。天錫の母朱氏が沐浴させ、字を教え、礼儀作法はますます熟達した。間もなく、召し入れて沂王を嗣がせ、ついに帝位に即いた。これが理宗である。
天錫は、嘉定十六年に進士に挙げられ、慈利県の税を監察し、籍田令となり、超えて起居舎人を授かった。権吏部侍郎兼玉牒所検討官に遷り、兼崇政殿説書となった。戸部侍郎兼知臨安府・浙西安撫使に遷った。試戸部侍郎、権戸部尚書となり、いずれも知臨安府を兼ねた。兼詳定勅令官に昇り、宝文閣学士として婺州を治め、旧職のまま祠官に奉じた。起用されて寧国府を治め、華文閣学士に進み福州を治めた。
召されて吏部尚書兼給事中兼侍読となった。上疏して奏上した、「臣は国恩を蒙り、閫外の任から起用され、間もなく覲見を促され、近侍の列に辱くも列せられました。当時、権礼部侍郎曹豳がまさに諫官の職にあり、かつて上疏して臣の任用が急すぎると抗弁しました。臣は豳の父と交わり最も久しく、相知ること最も深い。今その論ずるところを観ますに、君父に対して善を陳べる敬いがあり、友朋に対して善を責める道があります。ところが豳は遷官し、臣はついに要路を汚しました。豳は言を得ず、累次上疏して去らんことを乞いました。旧人を急用して遂に二つの荘士を退かせたならば、これを何と謂わんや。豳は老成の望があり、直諒で益多く、近班に置けば、乃ち辟を正し、有位を儀とすることができます。願わくは委曲を尽くして留任させ、彼が疑いなく、安んじて就職するようにさせてください。そうすれば陛下は既に賢を好む美を昭らかにし、微臣もまた賢を妨げる愧を免れましょう」。帝はこれに従った。
弟の天任は兵部尚書となった。兄弟は友愛し、貧しい時には、互いに着物を取り替えて外出し、一年中同じ衾を共にした。従子の晦は、官歴を経て尚書となり、出て全蜀を統帥し、かつて義壮を設けて宗族を養った。しかし蜀において、諫言に違ったとして知閬州王惟忠を死に至らしめ、士論はこれを軽んじた。
許応龍
理宗が即位すると、応龍は真っ先に正心を治国平天下の綱領として陳べた。秘書郎兼権尚右郎官に遷り、著作郎に遷った。外任を乞い、潮州を治めた。盗賊の陳三槍が贛州で起こり、江・閩・広の間に出没し、勢いは甚だ熾んであった。また盗賊の鍾全が相挺って乱を為し、枢密陳韡が江西を統帥して招捕を担当し、三路から軍を調発し、分道して追剿した。盗賊が境上に迫ると、応龍は急ぎ水軍・禁卒・士兵・弓級を調発し、要害を分かち扼させた。間諜を明らかにし、関隘を守り、橋を断ち塹を開き、木を斬って塗を塞いだ。民兵を点検召集し、隅総を激励し、郷井を保ち、室廬を守り、妻子を全うすることを諭し、親兵を蒐補し、日を追って訓練・検閲を加えた。やがて横岡・桂嶼で相次いで捷報が聞こえた。
招捕司は統領官の齊敏に師を率いさせて漳より潮へ向かわせ、贛の寇の残党を遮断せしめた。応龍は敏に諭して曰く、「兵法に瑕を攻むとあり、今鍾の寇は将に窮せんとし、陳の寇は猖獗す。若し先ず鍾を破らば、則ち陳は戦わずして禽うるべし」と。敏は命に従い、ここにおいて諸寇皆平らぐ。未だ厳戒を解かざる時、数人の行旅あり、隅総がその橐中の金銀を捜索し、賊党と指す。応龍はその盗に非ざるを弁じ、これを釈す。皆羅列して拝し感泣す。初め、人は応龍を儒者にして戎事に閑わざるを疑えり。その区画事宜、斉民を分別し、静練雍容たるを見るに及び、歎服せざるは莫し。僚属功を上ぐるを請う。応龍曰く、「職を守り城を捍ぎ民を保つ、何の功か之れあらん」と。州より六七十里を距てて山斜と曰う。峒獠の聚まる所、土田を丐うて耕し賦を輸せず。禁兵と閧す。応龍これを平決す。その首感悦し、父老を率いて缶を鳴らし筒を撃ち、踴躍して郡に詣で謝す。去るの日、闔郡道を遮り攀りて送る。
端平の初め、召されて礼部郎官と為る。入対す。帝応龍に謂いて曰く、「卿の潮を治むるに声有り、李宗勉の台を治むるに名を斉しくす」と。応龍頓首して曰く、「民は化すべからざるは無し、牧民者如何なるを顧みるのみ。臣の州を治めて幸いに曠瘝を免るるは、皆陛下の徳化の暨ぶ所、臣能くすと曰うに非ず」と。栄文恭王府教授を兼ぬ。力辞し、国子司業に遷る。祭酒徐僑学校の差職を議し、先ず誉望を以てせんと欲す。応龍は資格を以て差するに若かずと為す。資格一定すれば、則ち僥幸の門杜がれ造請の風息むと。僑然りと為す。時に勢に憑りて職を干むる者あり、力めてこれを却く。
権直舍人院を兼ね、国子祭酒に遷る。侍右侍郎兼学士院権直を摂す。この日、鄭清之・喬行簡の制を罷む。応龍の草する所なり。翼日文徳殿に宣布畢りて、帝中使を遣わし応龍を召して之に諭して曰く、「制を草すること甚だ善し」と。応龍復た謝して曰く、「臣聞く、昔人の言う有り、人を進むるは将に諸を膝に加うるが若く、人を退くるは将に諸を淵に墜とすが若しと。今二相機政を罷むるを乞う。陛下の大臣を体貌するの意と、両つながら其の美を尽くすべし」と。帝之を善しとし、就で勅書を草し諸閫を戒諭せしむ。権吏部侍郎兼侍講、兼権直学士院。吏部侍郎を試み、侍読に升り、権兵部尚書。
時に楮幣甚だ虧う。行簡は称提の説を行なうを主とす。州県旨に希い奉承し、貧富猜懼す。応龍民に従い便ならしむ、用を節すの二説を奏す。行簡之を然りとす。吏部尚書を兼ね、兵部兼中書舎人に遷る。三たび章を上りて外を丐う。允さず。給事中を兼ね、吏部尚書を兼ぬ。外を請う。詔して中書を兼ぬるを免じ、端明殿学士・簽書枢密院事を拝す。累辞す。会に正言郭磊卿論疏有り、端明殿学士を以て洞霄宮を提挙す。卒す。年八十一。資政殿学士・銀青光禄大夫を贈らる。応龍は躁がず競わず、激せず随わず、妄りに士を薦めず、而も亦た人を傷つけ物を害するの事無し。潮州の治、最も紀す可し。
林略
徐栄叟
徐栄叟、字は茂翁、煥章閣学士応龍の子。嘉定七年、進士に挙げらる。歴官して通判臨安府、太学博士兼崇政殿説書に遷り、秘書郎に遷り、著作佐郎兼侍左郎官に升る。出でて江東提点刑獄と為り、直秘閣・知婺州。著作郎兼礼部郎官に遷り、集英殿修撰を以て知静江府兼広西経略安撫使と為る。召されて行在司諫と為り、復た説書兼侍講を兼ぬ。
嘉熙四年、右諫議大夫を拝す。入対し、言う、「楮幣通ぜざるより、物価倍長し、而して民始めて怨む。米運多く阻まるより、粒食甚だ艱しく、而して民益々怨む。此れ京師に見る者然り。外にして郡邑、苛征横斂、有らざる所無く、厳刑峻罰、施さざる所無し。和糴は則ち科抑して以て贏を取る。軍需は則ち並縁して以て利を規る。逃亡は強いて代納せしめ、蠲放は忍びて重催に至る。私販を犯す者は多寡を問わず、概ね黥徒に遭う。官課を逋るる者は有無を恤みず、動輒監繫す。囹圄充斥す。率ね是れ干連。詞訟追呼す。莫非枝蔓。此くの如くんば則ち民安んぞ怨まざるを得ん。甚だしきは富家巨室、郷閭に武断し、貴族豪宗、民庶を侵牟す。冤を茹む者は敢えて告げず、抑を負う者は伸ぶるを得ず。怨気薰蒸し、天之に応を示す。此れ亢陽の以て沴と為る所以なり」と。
別之傑
劉伯正
左司諫に遷り、疏を上言して曰く、「兵籍漸く広く、糧餉益々艱し、軍食を予備せんことを請う」と。又た銓選・財計・刑獄の積弊を言い、「願治の心を以て治官を董正するの図を急がしめ、勤政の思を以て計吏を察するの法を厳にせんことを乞う」と。又た言う、「憂うる所は一に非ず、而して急務の当に慮るべき者三有り。曰く、辺備を申飭し、流民を区処し、姦盗を堤防すと」と。帝皆其の言を善しとした。右正言に昇る。華文閣待制を以て広州を守り、広東経略安撫使を兼ねる。召見せられ、金帯鞍馬を賜う。転運使に改め、宝章閣直学士を以て太平州を守る。礼部侍郎兼中書舎人に召され、吏部侍郎兼侍講・同修国史・実録院同修撰に遷る。給事中を兼ね、権刑部尚書兼侍読を権む。
淳祐四年、端明殿学士・簽書枢密院事兼権参知政事に拝す。真に参知政事に拝す。監察御史孫起予の言に依り罷められ、資政殿学士・提挙洞霄宮を授かる。監察御史蔡次伝の言に依り、一官を降され、尋いで旧官に復して致仕す。卒す。正奉大夫を贈られ、少保を加えられる。時論、伯正の朝に立つは、静重を以て浮を鎮め、名誉を求めず、其の用を善く蔵すと謂う。
金淵
金淵、字は淵叔、臨安府の人。嘉定七年の進士。歴官して太学博士となり、太府寺丞・秘書郎に遷る。著作佐郎兼権司封郎官に昇る。秘書丞に遷り、右正言兼工部侍郎に拝す。将作少監兼侍右郎官に遷り、国子司業・国史編修・実録検討・崇政殿説書を兼ねる。監察御史に拝し、曹豳・項寅孫を論ず。侍講を兼ね、礼部侍郎に遷り、尋いで国子祭酒を兼ねる。吏部侍郎に遷り、右諫議大夫に拝し、左諫議大夫に改む。礼部尚書兼給事中に遷る。淳祐四年、貢挙を掌り、端明殿学士・同簽書枢密院事に拝す。侍御史劉漢弼、淵の尸位妨賢を論じ、政を罷め祠を予う。監察御史劉応起の言に依り、職を落とし祠を罷む。十一年、妻盛氏朝に訴え、曲く貸宥を加え、少しく官職を叙せんことを乞う。詔して止だ平江府に量移居住せしむ。卒す。
李性傳
李性傳、字は成之、宗正寺主簿舜臣の子なり。嘉定四年進士に挙げられる。行在諸軍審計司の幹弁を歴任す。進対して曰く、「道学を崇尚するの名有りて、未だ其の実に遇わず」と。帝曰く、「実は何れの処にか在る」と。性傳対えて曰く、「陛下の物に格り知を致し、以て治を出すの本と為すに在り」と。武学博士に遷る。尋いで太常博士兼諸王宮大小学教授と為る。太常寺丞兼権工部郎中に昇り、権都官郎官を兼ね、起居舎人兼侍講に遷る。
起居郎に遷り、国史編修・実録検討を兼ねる。権刑部侍郎、礼部侍郎に進む。臣僚の言に依り罷む。尋いで宝章閣待制を以て饒州を守り、寧国府を守るに改め、再び饒州を守り、復た言に依り罷む。兵部侍郎兼侍講に召され、同修国史・実録院同修撰を兼ねる。侍読を兼ねて昇り、権兵部尚書を権む。『仁皇訓典』を進読し、『帝学』を読まんことを乞い、之に従う。権吏部尚書を権む。臣僚、舜臣の立廟封爵の事を論じ、職を落とし、太平興国宮を提挙す。
陳韡
将作監丞に遷り、又太府寺丞に遷り、差して真州を守り淮東提点刑獄と為る。直宝章閣を加えられ、旧のまま提点刑獄を兼ね宝応州を守る。宗正寺丞・権工部郎中に遷り、倉部員外郎に改む。入対し、言う、「臣の陳ぶる所の夏・周・漢・唐数君の事は、徳を布き謀を兆し、賢を任じ能を使い、賞を信じ罰を必にし、藩鎮を区処し、姑息を事とせざるが如き、規摹此れより大なるは莫し」と。又た言う、「人主の天下を御する所以は、賞罰のみ」と。
賊は汀州を急攻し、淮西帥曾式中が精兵三千五百人を調発し、泉州・漳州の間道より汀州に入り、順昌において賊を撃ち、これを破った。六月、諸軍が大いに合流し、福建提点刑獄を加えられた。七月、韡はみずから兵を率いて沙県・順昌・将楽・清流・寧化に至り捕縛を督励し、赴くところことごとく勝利した。九月、兵を分けて進討した。十月、五つの賊の営砦を攻撃し、これを平定した。十一月、賊の起こった地である潭瓦磜を破り、その巣窟を平らげた。十二月、汀州の叛卒を誅し、連城の七十二砦を降伏させ、汀州の境内はすべて平定された。四年(1231年)正月、将を遣わして下瞿の張原砦を破った。二月、みずから邵武に赴き残党の捕縛を督励し、賊首晏彪が迎えて降伏したが、韡はその力尽きて降ったものとし、ついにこれを誅した。右文殿修撰に進み、もとのまま提点刑獄・招捕使を兼ね、建寧府知事となった。衢州の賊汪徐・来二が常山・開化を破り、勢いは甚だ盛んとなった。韡は淮将李大声に命じて兵七百を率い、賊の不意に出で、夜その砦に迫らせた。賊は出て迎え戦おうとしたが、算子旗を見て驚き、「これは陳招捕の軍である!」と皆泣き叫び、急ぎこれを撃ち、衢州の賊はすべて平定された。
六年(1233年)、宝章閣待制に進み、隆興府知事となった。贛州の賊陳三槍が松梓山砦を拠り、江西・広東に出没し、赴くところ殺戮破壊した。韡は官吏を遣わして降伏を諭したが、賊はこれを殺した。そこで韡は盗賊の起こりは貪吏によるものとし、特に甚だしい者二人を弾劾した。また言う、「寇盗の誅罰が遅延するのは、臣下の欺瞞虚誕と事権の散漫によるものであり、もし決意して掃討すれば、数ヶ月で完了するであろう」。十一月、詔して江西・広東・福建の三路捕寇軍馬を節制させた。韡は上奏して将劉師直を梅州に、斉敏を循州に派遣して扼守させ、みずから淮西兵及び親兵を率いて賊の巣窟を攻撃した。十二月、贛州知事を兼ねた。
崔福 附
崔福という者は、もと群盗であり、かつて官軍に捕えられようとしたことがあった。ちょうど夜大雪で、幼児と同床していたところ、児が寒さで泣き止まず、福は眠れなかった。捕手が来たのを察知し、古着で児の口を覆い、ついに逃げ去った。そこで軍籍に属した。初め趙葵に従い、李全を討って功があり、名声は江・淮に重く、またしばしば陳韡に従って賊を捕え、功を積んで刺史・大将軍に至った。
後に陳韡に従って隆興に留まった。やがて韡が金陵に移ったが、福はなお隆興にいた。たまたま通判が郡の官僚と滕王閣で宴会を催した際、福は自分が招かれなかったことを憤り、道で冤罪を訴える民に出会うと、福はその者を連れて宴会の場に直行し、郡官が民事を処理しないことを責め、諸卒に命じて飲食用具をことごとく打ち砕かせ、官吏は皆恐れ慄いて逃げ去り、敢えてその鋒に当たる者はいなかった。韡はこれを知り、ついに建康に檄を飛ばし、鈐轄に任命した。福はまた統制官王明の鞍馬を奪い、および総領所の監酒官の親族を追い回した。韡は戒めて諭したが、聞き入れなかった。
ちょうど淮兵に警報があり、歩帥王鑒が出師することとなり、鑒は福の同行を請うた。韡は手厚く送り出した。福は王鑒に用いられることを喜ばず、敵に遭遇しても撃たず、娘の葬儀を口実に勝手に帰還し、制置司にも報告しなかった。鑒は怒り、ついにその前後の過悪を上申し、必ずその命令軽視の罪を正すよう請うた。ちょうど韡もまた彼を厭い忌んでいたため、ついに軍法に処し、その後朝廷にその罪状を奏上し、かつみずから専断で殺した罪を弾劾した。詔が下りてこれを賞諭し、その罪を免じた。
福は勇猛で戦いに長け、かなり威名を轟かせていた。その死に際し、軍中は惜しんだ。当時の論議では良将は得難く、陳韡が私憤でこれを殺したとされた。しかし福の跋扈の跡はすでに覆い隠せず、殺身の禍もまた自ら招いたところがあったのである。
論ずるに、宋は嘉定以来、宰相の位に居る者は賢否不同なり、故に執政者は各々その気類に依って之を用い、其の成す所に因りて後世其の人を考うるを得たり。宣繒・薛極は、史彌遠の腹心なり。陳貴誼・曾從龍・鄭性之・李性傳・劉伯正は、皆附麗する所無し。李鳴復・金淵は、史嵩之の羽翼なり。鄒應龍は考見すべき所無く、許應龍は郡を治めて循良と称せられ、林略の所謂虚心に諫に従う者は、人主に益有り。徐榮叟父子兄弟は皆名臣たり、陳韡は将帥の才なり、別之傑より優れること多し。