宋史

列傳第一百七十八 宣繒 薛極 陳貴誼 曾從龍 鄭性之 李鳴復 鄒應龍 余天錫 許應龍 林略 徐榮叟 別之傑 劉伯正 金淵 李性傳 陳韡 崔福

宣繒

宣繒は慶元府の人である。嘉泰三年、太学の両優により初任官を得た。歴任の官を経て太学博士として召されて試験を受け、秘書省校書郎となった。著作佐郎兼権考功郎官・吉州知州・福建提点刑獄に昇進した。考功員外郎に転じ、さらに秘書少監に遷った。時に暫く兼権侍立修注官・守起居舍人を兼ね、起居郎兼権侍左侍郎となり、『孝宗宝訓』を編纂した。吏部侍郎を試任し、権兵部尚書となった。嘉定十四年、同知枢密院事兼参知政事となった。翌年、参知政事に任じられた。資政殿学士の職で祠官となった。端平三年、朝廷に召され、大学士・提挙洞霄宮に昇進し、観文殿大学士の職で致仕した。卒去し、少師を追贈された。詔により、繒はかつて皇位継承策定に参与したとして、王堯臣の故事に倣い太師を追贈され、諡は「忠靖」とされた。

薛極

薛極、字は会之、常州武進の人である。父の任官により上元主簿に調任された。詞科に合格し、大理評事・温州通判となり、広徳軍知軍となった。参知政事楼鑰の推薦により、大理正・刑部郎官に遷り、司封郎中・権右司郎中となり、右司郎中兼提領雑売場・寄樁庫、兼敕令所刪修官、中書門下省検正諸房公事、兼刪修敕令官に遷った。司農卿兼権兵部侍郎に任じられ、まもなく正任となった。

嘉定八年、上疏して奏上した。「願わくは陛下には顧みて諟(正す)ことの難しさを深く思い、いよいよ兢業(慎み勤める)の念を懐かれますように。帝徳に過ちなしと謂って進修に怠らず、天災は代々にあると謂って実を以て応じないように。政綱は挙げられていても、必ずその未だ至らざる所を益すことを求め、徳沢は布かれていても、必ずその未だ周らざる所に及ぶことを思いますように。今日の災異に遇って警懼する心を誓い、永く異時の暇逸(安逸)の戒めとされますように。将に見るべし、天心は明らかに通じ、はい然たる恩沢は崇朝(短時)の間に響応することを」。権刑部尚書に遷り、まもなく戸部尚書を試任し兼権吏部尚書となり、遂に正任となり、時に暫く兼権戸部尚書を務めた。十五年、特賜で同進士出身とされ、端明殿学士・簽書枢密院事に任じられた。

紹定元年、参知政事兼同知枢密院事に任じられた。まもなく知枢密院事兼参知政事となり、毗陵郡公に封じられた。観文殿大学士として紹興府知府兼浙東安撫使となった。端平元年、少保・和国公を加えられ、致仕し、卒去した。

陳貴誼

陳貴誼、字は正甫、福州福清の人である。慶元五年の進士となり、瑞州観察推官を授かった。父母の喪に服し、喪明け後、安遠軍節度掌書記に調任され、辟差で四川制置司書写機宜文字となった。博学宏詞科に合格し、江南東路安撫司機宜文字を授かった。太社令に遷った。武学諭・国子録に改められ、太学博士に遷った。

時に楮幣法の変更が議論され、貴誼は転対して言上した。「人主が令を行い禁を止めるのは、民の好悪と同じくするがゆえである。楮券の法令は、かえって奸悪の者をして思いを遂げさせ、路上に怨嗟の声がある。これは天に祈り命を永くし、人心を固結する道ではない」。そこで熙寧の新法を引き合いに出して論じた。また言った。「明鋭果敢の才は、事を成すに足りるが剽軽(軽率)に失い、老成寬博の士は、風俗を厚くするに足りるが循理(道理に従うこと)に欠ける。衆を以て挙げ、公を以て取るに如くはない」。幣法変更を主導する者は、新法などの語句を摘んで時相(宰相)を激怒させ、かつ貴誼が同類を引き連れ党を植えつけるとし、人々は彼を危ぶんだ。

太常博士に遷った。兄の貴謙が礼部郎官を兼ねたため、嫌疑を避け、将作監丞兼魏恵憲王府小学教授に遷った。転対し、謂う。「言路は開かれているが、忌諱に触れる者は好名と指弾され、時政を切瑳する者は法令を軽んじると指弾される。利害は天下に関わり、是非は人心に公である。一人が言い終わらぬうちに、あるいは十数人が言うに至れば、また朋党と指弾される。是非が入れ替わり、忠佞が分かたれぬ」。史弥遠はますます快く思わず、貴誼を秘書郎に遷し、江陰軍知軍として出向させ、江西常平提挙とした。行在(臨安)に召されたが、到着前に礼部郎官を授かった。

折しも金人が淮・しょくを大いにかき乱したため、貴誼は言上した。「人材は国を立てる所以であるが、今は傍蹊曲径(邪道)が開け、幸門(抜け道)が四方に開かれている。言路は下情を通ずる所以であるが、今は媕阿(迎合)して黙従し、口を閉ざして言わない。民力は既に尽きているのに、科斂のほか、進用を謀って贈り物をする者が絶えない。軍中では敗北を恥じるあまり、陣亡者を憐れまず、棄潰を恥じるあまり、逃竄者を再び招集する」。また言った。「婉順で従順な者は、災いや病であって、我を愛する者ではない。外に斥けるべきである。矯めて救い正す者は、薬石であって、我を愛する者である。用いてその言を聴くべきである」。弥遠はますます快く思わず、言事官に諷して弾劾させ免職とし、崇禧観主管とした。

徽州知州として起用され、召されて司封郎官兼翰林権直、兼玉牒所検討を授かった。折しも明堂の祭祀があり、まず包拯が皇祐中に肆赦(大赦)に因んで聚斂掊克(収奪)の弊を除くよう請えた故事を引き、州県府庫が余剰を生む由縁を察すべきと論じた。成周(周)で邦饗(国の宴)に必ず王事に死した者の子を及ぼし、漢が羽林孤児を置き、専ら従軍して死事した者の後裔を取り、五兵を教えた故事に倣えと論じた。

理宗が即位すると、宗正少卿兼侍講、兼権直学士院に任じられた。まもなく起居舍人に遷った。宝慶初年、詔して賢能才識の士を推挙させた。貴誼はそこで言上した。「世間では、口を閉ざし凝り固まることを賢とし、苛刻で事を起こすことを能とし、褊狭で迅速に処理することを才とし、軽率で試みることを識としている。今この初政に当たり、忠実正直で、公に奉じ民を愛し、礼義廉恥を知りながら防範を越えない者を求めて、中外の選に充てるべきである」。また言った。「成王の初年、元臣故老が『無逸』をもって戒めたのは、その寿を全うさせんがためであり、敬徳をもって勉めたのは、その命を永からしめんがためであり、豈弟(穏やかで思いやりがあること)を期したのは、その受命を長からしめんがためであった。これは君を愛する切にして、患を慮ること深いと言えよう」。

中書舎人に遷り、兼直学士院を昇任す。内侍が濫りに恩賞を受くると、詔書を封じて返上せり。郊祀を行わんとするに当たり、貴誼は以て曰く、「民生は実に艱難にして、吏員は尚ほ多く、征斂は奪取に幾く、公費は私蔵に掩はる。宜しく大明に黜陟を行ひ、庶幾くは以て郊に帝を見る有らん」と。礼部侍郎に遷り、仍として中書舎人・権刑部尚書を兼ぬ。修玉牒官兼侍読を昇任す。礼部尚書兼給事中・端明殿学士・簽書枢密院事となる。

紹定六年冬、上始めて親政し、参知政事に進む。上面諭して之に曰く、「頃に憂国の言を聞く、朕忘れず」と。同知枢密院事を兼ぬ。汴・洛に出師する時、貴誼は既に疾を移し、猶上疏して力争す。五たび章を上して帰を乞ひ、四官を転じ、邑封を加へ、致仕す。卒し、少保・資政殿大学士を贈らる。

曾従龍

曾従龍、字は君錫、左僕射公亮の四世従孫なり。初め一龍と名づく、慶元五年、進士第一に擢でられ、始めて今の名を賜ふ。簽書奉国軍節度判官庁公事を授かる。兵部員外郎・左司郎中・起居舎人兼太子右諭徳に遷る。

金に使いして還り、官を転ず。疏を上して言ふ、「州郡累月守を闕き、以て次官に権摂せしむる者は、彼其の摂事なるを惟ひ、自ら久しからざるを知る、何ぞ暇あらん民事に心を尽すに。獄訟淹延し、政令玩弛し、一郡の事を挙げて之を胥吏に付す。幸ひにして一人を除授すとも、民其の至るを望むこと飲を渇するが如く、足未だ境に及ばずして復た他故を以て罷め去る。且つ毎に一守を易ふるに、供帳借請少なくも万緡に下らず。郡帑の入る所、歳に常数有り、而るに頻年将迎し、費ふ所勝計す可からず。然らば則ち軽く易置するは、公私倶に其の病を受く。願くは明詔して二三大臣に、郡守闕有らば即時に進擬せしめよ。其れ避け行くを憚るを求むる有らば、悉く其の請を杜絶し、其れ劾を繳し拠する者は、疾速に行へ。蓋し郡計寛なれば則ち民力裕なり、利害常に相関ふ故なり」と。又振済したる者は其の後を免ぜんことを請ふ。

開禧間外を丐ひ、信州を知る。戍卒行ひ境内を掠むるを、従龍法に置き、婦人の衣を得て索め、市に梟すを命ず。権礼部侍郎兼中書舎人兼太子左諭徳を召す。張鎡の復官詞頭を繳還す、鎡が令姪女に資財を竭して蘇師旦の子と姻を結ばしむるを抑へし故なり。尋で太子諭徳を兼ね、同修国史・実録院同修撰を兼ね、国子祭酒を兼ぬ。吏部侍郎となり、仍として職を兼ね太子右庶子を兼ね、給事中を兼ね、直学士院を兼ね、権刑部尚書となる。

嘉定六年秋、陰雨し、繫囚を放つことを乞ふ。進対し、言ふ「徳政を修め、人材を蓄へ、辺備を飭ふ」と。帝其の言を善しとす。七年、貢挙を知る。疏を奏して曰く、「国家科目を以て天下の英雋を網羅し、義を以て其の経を通ずるを観、賦を以て其の古に博なるを観、論を以て其の識を観、策を以て其の才を観る。異時王に謀り国を断つは、皆此れより其の選に繋る。比来習ひ循りて風と成り、文気振はず、学根柢を務めず、辞体要を尚ばず、渉獵未だ精ならず、議論疎陋、綴緝繁と雖も、気象萎苶たり。願くは臣が此の章を下し、中外に風厲し、源を澄まし本を正すは、斯れより甚しきは莫し」と。詔して之に従ふ。

端明殿学士・簽書枢密院・太子賓客に進み、参知政事に改む。胡榘の憸壬を疾み、正論を排沮するを、其の罪を陳ぶ。榘言者を嗾して劾罷せしめ、前職を以て洞霄宮を提挙す。起きて建寧府を知る。内艱に丁し、服除け、湖南安撫使となる。峒獠を撫安し、威恵並びに行はれ、学を興し士を養ひ、湘人之を石に紀す。隆興府を知るに改め、復た洞霄宮を提挙し、万寿観兼侍読に改め、朝請を奉ず。

端平元年、資政殿大学士・沿江制置使兼知建康府兼行宮留守を授かる。参知政事兼同知枢密院事を拝す。時に三京の役有り、極めて南兵の軽進易退を論ず。未だ幾ばくもせず言験ふ。知枢密院事兼参知政事に進み、枢密院使を以て江淮・荊襄軍馬を督視す。疏を上して言ふ、「辺面遼遠にして、声援接せず、請ふ並びに二閫を建てん」と。詔して之を許し、専ら江淮を畀へ、荊襄を魏了翁に属す。朝論辺用給はざるに、詔して従龍・了翁に並びに督府を領せしむ。従龍卒するに及び、少師を贈らる。弟用虎・天麟・治鳳、皆歴顕任す。

鄭性之

鄭性之、字は信之、初め自誠と名づく、後今の名に改む、福州の人なり。嘉定元年、進士第一、歴官して贛州を知り、隆興府を知るに改む。後宝章閣待制を以て玉隆万寿宮を提挙し、華文閣待制・提挙上清太平宮に進む。敷文閣待制に進み、建寧府を知る。

端平元年、召されて吏部侍郎と為る。入対し、言ふ、「陛下大いに言路を開き、以て壅蔽を通ず、心苟くも君を愛せば、誰か言はざらんと欲せざらん、言切直ならざれば、何ぞ能く感動せん。譬へば積水の如し、久しく壅りて一たび決すれば、其の勢必ず盛んにし、其の声必ず激し。故に言者多ければ則ち厭ふを取るに易く、言の激しければ則ち受くるを楽むに難し。若し少しく厭倦有らば、詞色に動かば、則ち讒諂間に乗じ、或は自ら知らざる矣」と。又言ふ、「願くは陛下明詔して百辟に、旧汙を滌ひ去り、一に清白を以て相師はしめよ。権の在る所、勢必ず趨る所、恐懼戒謹し、尤も其の微を防ぎ、以て終誉を保て。謗議を招く毋れ。則ち朝綱粛として国体尊し」と。又曰く、「君と為る者は堯・舜を以て自ら期せざれば、則ち善治無し。君に告ぐる者は堯・舜の道を陳べざれば、則ち遠猷無し」と。

左諫議大夫に擢でられ、言ふ、「台臣章を交へ互ひに詆る、願くは陛下古今天下安危の変、君子小人消長の機を鑒み、公を以て之を処し、乃ち其の当を得ん。況んや言を聴くの道は、宜しく事を以て観るべし、若し言果して国体に関し、治道に補ひ、主徳に益有らば、則ち言の過激なるも、夫れ何ぞ傷かん。彼は名を采ると雖も、我は実に益有り。惟だ虚心に善を納るれば、江河を決するが若く、則ち激する者自ら平らかなり」と。

端明殿学士・簽書枢密院事を拝し、同知枢密院事兼権参知政事に進む。尋で参知政事兼同知枢密院事を拝す。尋で知枢密院事兼参知政事となり、観文殿学士を加へ、致仕す。宝祐二年卒す。

李鳴復

李鳴復は、字を成叔といい、瀘州の人である。嘉定二年に進士となった。官歴は権発遣金州兼幹弁安撫司公事を経た。制置使鄭損が朝廷に推薦し、召し出して審察を乞うた。司農寺丞を授かり、駕部員外郎に遷り、兵部郎中に遷った。対面して奏上し、軍器少監・大理少卿に遷り、侍御史兼侍講に拝された。進み出て対し、言うには、「荊襄の制臣に戒むべきこと三つあり。曰く、私を去り、暴を禁じ、怒りを懲らすことである」と。権工部尚書兼権吏部尚書となった。また権刑部尚書兼給事中・簽書枢密院事となった。端平三年、参知政事に拝された。資政殿学士として紹興府を治めた。嘉熙元年、再び参知政事となった。翌年、知枢密院事兼参知政事となり、資政殿大学士を加えられ、衣帯・鞍馬を賜った。淳祐四年、再び参知政事となった。間もなく、出て福州・福建安撫使を治め、まもなく祠官を授けられた。監察御史蔡次伝が弾劾して落職させ、宮観を罷めさせた。後に嘉興で卒した。

鄒応龍

鄒応龍は、字を景初という。慶元二年に進士となった。官歴は起居舎人となり、直龍図閣を以て権知贛州となり、江西提点刑獄に遷った。まもなく中書舎人兼太子右諭徳に遷り、再び太子左庶子・試戸部尚書を兼ねた。金に使いして還り、太子詹事兼中書舎人となった。給事中兼太子詹事に遷った。権礼部侍郎兼侍講となった。権工部尚書兼同修国史・実録院同修撰となった。刑部尚書に遷った。祠官を乞い、敷文閣学士として安慶府真原万寿宮を提挙した。徽猷閣学士として起用され太平州を治め、臣僚の論議により罷免された。敷文閣学士として玉隆万寿宮を提挙し、礼部尚書兼侍読に拝された。嘉熙元年、端明殿学士・簽書枢密院事に拝された。資政殿学士に進み、慶元府を治め沿海制置使を兼ね、旧職のまま洞霄宮を提挙した。淳祐四年に卒し、少保を贈られた。

余天錫

余天錫は、字を純父といい、慶元府昌国の人である。丞相史弥遠が招いて子弟の師とし、性質は謹直で、決して外事に関与せず、弥遠は彼を器重した。この時、弥遠は相位に在ること久しく、皇子の竑はこれを深く憎み、廃立しようと念じていた。折しも沂王宮に後嗣がなく、丞相はこれに乗じて密かに後継者を立てようとした。天錫が秋に郷試を受けるため帰省を告げると、弥遠は言った、「今、沂王に後嗣がない。宗子で賢く篤実な者がいれば、幸いにも連れてきてほしい」。

天錫は江を渡り越の僧と同舟した。舟が西門に着くと、大雨が降り、僧が言うには、「門の左に全保長という者がおり、雨宿りできる」と。その言う通りに訪ねると、保長は丞相の館客であると知り、鶏と黍を整えて丁重にもてなした。しばらくして二人の子が傍らに侍立した。全は言った、「これはわが外孫である。占い師がかつて、この二児は後に極めて貴くなると言った」。姓を問うと、長男は趙与莒、次男は与芮といった。天錫は弥遠が嘱託したことを思い出し、その素行もまた良かったので、弥遠に報告し、二人の子を来させるよう命じた。保長は大いに喜び、田を売って衣冠を整え、沂邸の後継者となることを期待し、姻族を集めてその幸運を誇って出発した。

天錫が引見すると、弥遠は人相を見るのが巧みで、大いに奇異とした。事が漏れると都合が悪いと考え、急いでまた帰らせた。保長は大いに恥じ、その郷人も密かに笑った。一年余りして、弥遠は突然天錫に言った、「二人の子をまた連れて来られるか」。保長は断って遣わさなかった。弥遠は密かに諭して言った、「二人の子のうち、長男が最も貴い。君の家で養育するのがよい」。そこで車に乗せて帰った。天錫の母朱氏が沐浴させ、字を教え、礼儀作法はますます熟達した。間もなく、召し入れて沂王を嗣がせ、ついに帝位に即いた。これが理宗である。

天錫は、嘉定十六年に進士に挙げられ、慈利県の税を監察し、籍田令となり、超えて起居舎人を授かった。権吏部侍郎兼玉牒所検討官に遷り、兼崇政殿説書となった。戸部侍郎兼知臨安府・浙西安撫使に遷った。試戸部侍郎、権戸部尚書となり、いずれも知臨安府を兼ねた。兼詳定勅令官に昇り、宝文閣学士として婺州を治め、旧職のまま祠官に奉じた。起用されて寧国府を治め、華文閣学士に進み福州を治めた。

召されて吏部尚書兼給事中兼侍読となった。上疏して奏上した、「臣は国恩を蒙り、閫外の任から起用され、間もなく覲見を促され、近侍の列に辱くも列せられました。当時、権礼部侍郎曹豳がまさに諫官の職にあり、かつて上疏して臣の任用が急すぎると抗弁しました。臣は豳の父と交わり最も久しく、相知ること最も深い。今その論ずるところを観ますに、君父に対して善を陳べる敬いがあり、友朋に対して善を責める道があります。ところが豳は遷官し、臣はついに要路を汚しました。豳は言を得ず、累次上疏して去らんことを乞いました。旧人を急用して遂に二つの荘士を退かせたならば、これを何と謂わんや。豳は老成の望があり、直諒で益多く、近班に置けば、乃ち辟を正し、有位を儀とすることができます。願わくは委曲を尽くして留任させ、彼が疑いなく、安んじて就職するようにさせてください。そうすれば陛下は既に賢を好む美を昭らかにし、微臣もまた賢を妨げる愧を免れましょう」。帝はこれに従った。

嘉熙二年、端明殿学士・同簽書枢密院事に拝された。まもなく参知政事兼同知枢密院事に拝され、奉化郡公に封ぜられた。資政殿学士を授かり、紹興府・浙東安撫使を治めた。観文殿学士として致仕した。朱氏もまた周・楚国夫人に封ぜられ、寿は九十を過ぎた。天錫の誕生日に丞相に任じようとしたが、天錫は卒した。少師を贈られ、まもなく太師を加えられ、諡を「忠恵」といった。

弟の天任は兵部尚書となった。兄弟は友愛し、貧しい時には、互いに着物を取り替えて外出し、一年中同じ衾を共にした。従子の晦は、官歴を経て尚書となり、出て全蜀を統帥し、かつて義壮を設けて宗族を養った。しかし蜀において、諫言に違ったとして知閬州王惟忠を死に至らしめ、士論はこれを軽んじた。

許応龍

許応龍は、字を恭甫といい、福州閩県の人である。五歳で経書の主旨を通じ、座客が「小児気食牛(小児の気魄は牛を食らう)」と言うと、応龍は即座に「丈夫才吐鳳(丈夫の才は鳳を吐く)」と対句を返し、座中の人々は賞賛した。太学に入り、嘉定元年に進士に挙げられた。汀州教授に調せられ、浙東宣撫司掾を差遣され、戸部架閣を差遣された。籍田令・太学博士に遷った。当時、李全・時青の輩が帰附したが、応龍が入対し、「䒪蜂是懲、養虎遺患(蜂の害を懲らしめず、虎を養って患いを遺す)」との説を述べ、後になっても皆その言う通りとなった。国子博士・国子丞・宗学博士に遷った。

理宗が即位すると、応龍は真っ先に正心を治国平天下の綱領として陳べた。秘書郎兼権尚右郎官に遷り、著作郎に遷った。外任を乞い、潮州を治めた。盗賊の陳三槍が贛州で起こり、江・閩・広の間に出没し、勢いは甚だ熾んであった。また盗賊の鍾全が相挺って乱を為し、枢密陳韡が江西を統帥して招捕を担当し、三路から軍を調発し、分道して追剿した。盗賊が境上に迫ると、応龍は急ぎ水軍・禁卒・士兵・弓級を調発し、要害を分かち扼させた。間諜を明らかにし、関隘を守り、橋を断ち塹を開き、木を斬って塗を塞いだ。民兵を点検召集し、隅総を激励し、郷井を保ち、室廬を守り、妻子を全うすることを諭し、親兵を蒐補し、日を追って訓練・検閲を加えた。やがて横岡・桂嶼で相次いで捷報が聞こえた。

招捕司は統領官の齊敏に師を率いさせて漳より潮へ向かわせ、贛の寇の残党を遮断せしめた。応龍は敏に諭して曰く、「兵法に瑕を攻むとあり、今鍾の寇は将に窮せんとし、陳の寇は猖獗す。若し先ず鍾を破らば、則ち陳は戦わずしてとらうるべし」と。敏は命に従い、ここにおいて諸寇皆平らぐ。未だ厳戒を解かざる時、数人の行旅あり、隅総ぐうそうがその橐中の金銀を捜索し、賊党と指す。応龍はその盗に非ざるを弁じ、これを釈す。皆羅列して拝し感泣す。初め、人は応龍を儒者にして戎事にならわざるを疑えり。その区画事宜、斉民を分別し、静練雍容たるを見るに及び、歎服せざるは莫し。僚属功を上ぐるを請う。応龍曰く、「職を守り城を捍ぎ民を保つ、何の功か之れあらん」と。州より六七十里を距てて山斜と曰う。峒獠の聚まる所、土田をうて耕し賦を輸せず。禁兵とこうす。応龍これを平決す。その首感悦し、父老を率いて缶を鳴らし筒を撃ち、踴躍して郡に詣で謝す。去るの日、闔郡道を遮りすがりて送る。

端平の初め、召されて礼部郎官と為る。入対す。帝応龍に謂いて曰く、「卿の潮を治むるに声有り、李宗勉の台を治むるに名をひとしくす」と。応龍頓首して曰く、「民は化すべからざるは無し、牧民者如何なるを顧みるのみ。臣の州を治めて幸いに曠瘝を免るるは、皆陛下の徳化のおよぶ所、臣能くすと曰うに非ず」と。栄文恭王府教授を兼ぬ。力辞し、国子司業に遷る。祭酒徐僑学校の差職を議し、先ず誉望を以てせんと欲す。応龍は資格を以て差するに若かずと為す。資格一定すれば、則ち僥幸の門杜ふさがれ造請の風息むと。僑然りと為す。時に勢に憑りて職をもとむる者あり、力めてこれを却く。

権直舍人院を兼ね、国子祭酒に遷る。侍右侍郎兼学士院権直を摂す。この日、鄭清之・喬行簡の制を罷む。応龍の草する所なり。翼日文徳殿に宣布畢りて、帝中使を遣わし応龍を召して之に諭して曰く、「制を草すること甚だ善し」と。応龍復た謝して曰く、「臣聞く、昔人の言う有り、人を進むるは将にこれを膝に加うるが若く、人を退くるは将に諸を淵に墜とすが若しと。今二相機政を罷むるを乞う。陛下の大臣を体貌するの意と、両つながら其の美を尽くすべし」と。帝之を善しとし、ついで勅書を草し諸閫を戒諭せしむ。権吏部侍郎兼侍講、兼権直学士院。吏部侍郎を試み、侍読に升り、権兵部尚書。

時に楮幣甚だおとろう。行簡は称提の説を行なうを主とす。州県旨にい奉承し、貧富猜懼す。応龍民に従い便ならしむ、用を節すの二説を奏す。行簡之を然りとす。吏部尚書を兼ね、兵部兼中書舎人に遷る。三たび章を上りて外を丐う。允さず。給事中を兼ね、吏部尚書を兼ぬ。外を請う。詔して中書を兼ぬるを免じ、端明殿学士・簽書枢密院事を拝す。累辞す。会に正言郭磊卿論疏有り、端明殿学士を以て洞霄宮を提挙す。卒す。年八十一。資政殿学士・銀青光禄大夫を贈らる。応龍は躁がず競わず、激せず随わず、妄りに士を薦めず、而も亦た人を傷つけ物を害するの事無し。潮州の治、最も紀す可し。

林略

林略、字は孔英、温州永嘉の人。慶元五年、進士に挙げらる。歴て饒州大寧監教授、辟かれて幹弁四川茶馬司公事と為る。崔與之蜀に帥す、之を目して曰く、「此れ台閣の瑞なり」と。之を薦む。武学博士・国子監丞・太常寺丞に遷る。祠を奉じ、宗正少卿兼崇政殿説書を拝す。右司諫に遷り、尋いで左司諫兼侍講に遷り、帝に告げて曰く、「虚心以て諫に従うの本と為し、諫に従う以て治を求むるの本と為す」と。殿中侍御史を拝し、侍御史に升り、右諫議大夫を試む。嘉熙三年、端明殿学士を以て同簽書枢密院事と為り、言に以て罷められ、洞霄宮を提挙す。資政殿学士を以て致仕す。淳祐三年八月卒す。特に宣奉大夫を贈らる。

徐栄叟

徐栄叟、字は茂翁、煥章閣学士応龍の子。嘉定七年、進士に挙げらる。歴官して通判臨安府、太学博士兼崇政殿説書に遷り、秘書郎に遷り、著作佐郎兼侍左郎官に升る。出でて江東提点刑獄と為り、直秘閣・知婺州。著作郎兼礼部郎官に遷り、集英殿修撰を以て知静江府兼広西経略安撫使と為る。召されて行在司諫と為り、復た説書兼侍講を兼ぬ。

嘉熙四年、右諫議大夫を拝す。入対し、言う、「楮幣通ぜざるより、物価倍長し、而して民始めて怨む。米運多く阻まるより、粒食甚だ艱しく、而して民益々怨む。此れ京師に見る者然り。外にして郡邑、苛征横斂、有らざる所無く、厳刑峻罰、施さざる所無し。和糴は則ち科抑して以て贏を取る。軍需は則ち並縁して以て利をはかる。逃亡は強いて代納せしめ、蠲放は忍びて重催に至る。私販を犯す者は多寡を問わず、概ねげい徒に遭う。官課をのがるる者は有無をめぐみず、動輒監繫す。囹圄充斥す。率ね是れ干連。詞訟追呼す。莫非これ枝蔓。此くの如くんば則ち民安んぞ怨まざるを得ん。甚だしきは富家巨室、郷閭に武断し、貴族豪宗、民庶を侵牟す。冤をふくむ者は敢えて告げず、抑を負う者は伸ぶるを得ず。怨気薰蒸し、天之に応を示す。此れ亢陽の以てわざわいと為る所以なり」と。

権礼部尚書兼権吏部尚書に遷り、端明殿学士・簽書枢密院事を拝す。淳祐二年、田里に帰るを乞う。資政殿大学士を以て洞霄宮を提挙す。六年、一官を転じて致仕す。卒す。

別之傑

別之傑、字は宋才、郢州の人。嘉定二年進士。歴官して差充京西安撫司参議官、太府寺主簿に遷り、又将作監丞に遷り、差知澧州・知徳安府。親喪有り、起復し、知徳安府。直宝謨閣を加えられ、知江陵府・湖北安撫副使。直煥章閣に進み、親年八十なるを言い、祠を乞うて帰養し、庶幾くば君親の義両全ならんことを乞う。之に従う。京湖安撫制置使陳亥の論に以て罷められ、前職を以て崇禧観を主管す。直敷文閣に進み、知江陵府・湖北安撫使。起復し、知真州、改めて知江寧府・湖北安撫副使、兵部郎官を加えられ、差充督視行府参謀官。軍器監に遷り、直宝文閣を加えられ、京西転運判官兼提点刑獄。秘閣修撰を加えられ、知江陵兼京湖制置副使。宝章閣待制に進み、知太平州。又宝謨閣学士に進み、旧に依り沿江制置使兼知建康府・江東安撫使。兵部尚書兼淮西制置使を加えられ、辺事便を行うに聴す。端明殿学士を加えらる。淳祐二年、同知枢密院事兼権参知政事を授けられ、資政殿学士・湖南安撫使兼知潭州に進む。監察御史蔡次伝の論に以て罷む。七年、参知政事を拝す。田里に帰るを乞う。前職に依り知紹興府、復た両浙転運判官翁甫の論に以て罷む。宝祐元年卒す。特に少師を贈らる。

劉伯正

劉伯正、字は直卿、饒州餘干県の人。父の簡は、丞相趙汝愚の客となり、嘗て慶曆の四諫の奏議を書して伯正に授け、伯正は開禧元年に進士に挙げられた。太平主簿に調せられ、棗陽軍の通判となり、荊湖制置司機宜・両浙転運司主管公事に辟せられた。軍器・将作・太府の三監主簿、枢密院編修官、兵部郎官、監察御史を歴任した。明堂に事有る時、雷電忽ち至り、執事者は鮮からず次を離れたが、伯正は殿下に立ち、紳笏儼然として、声色動かず。帝遂に大任を以て之を期した。

左司諫に遷り、疏を上言して曰く、「兵籍漸く広く、糧餉益々艱し、軍食を予備せんことを請う」と。又た銓選・財計・刑獄の積弊を言い、「願治の心を以て治官を董正するの図を急がしめ、勤政の思を以て計吏を察するの法を厳にせんことを乞う」と。又た言う、「憂うる所は一に非ず、而して急務の当に慮るべき者三有り。曰く、辺備を申飭し、流民を区処し、姦盗を堤防すと」と。帝皆其の言を善しとした。右正言に昇る。華文閣待制を以て広州を守り、広東経略安撫使を兼ねる。召見せられ、金帯鞍馬を賜う。転運使に改め、宝章閣直学士を以て太平州を守る。礼部侍郎兼中書舎人に召され、吏部侍郎兼侍講・同修国史・実録院同修撰に遷る。給事中を兼ね、権刑部尚書兼侍読を権む。

淳祐四年、端明殿学士・簽書枢密院事兼権参知政事に拝す。真に参知政事に拝す。監察御史孫起予の言に依り罷められ、資政殿学士・提挙洞霄宮を授かる。監察御史蔡次伝の言に依り、一官を降され、尋いで旧官に復して致仕す。卒す。正奉大夫を贈られ、少保を加えられる。時論、伯正の朝に立つは、静重を以て浮を鎮め、名誉を求めず、其の用を善く蔵すと謂う。

金淵

金淵、字は淵叔、臨安府の人。嘉定七年の進士。歴官して太学博士となり、太府寺丞・秘書郎に遷る。著作佐郎兼権司封郎官に昇る。秘書丞に遷り、右正言兼工部侍郎に拝す。将作少監兼侍右郎官に遷り、国子司業・国史編修・実録検討・崇政殿説書を兼ねる。監察御史に拝し、曹豳・項寅孫を論ず。侍講を兼ね、礼部侍郎に遷り、尋いで国子祭酒を兼ねる。吏部侍郎に遷り、右諫議大夫に拝し、左諫議大夫に改む。礼部尚書兼給事中に遷る。淳祐四年、貢挙を掌り、端明殿学士・同簽書枢密院事に拝す。侍御史劉漢弼、淵の尸位妨賢を論じ、政を罷め祠を予う。監察御史劉応起の言に依り、職を落とし祠を罷む。十一年、妻盛氏朝に訴え、曲く貸宥を加え、少しく官職を叙せんことを乞う。詔して止だ平江府に量移居住せしむ。卒す。

李性傳

李性傳、字は成之、宗正寺主簿舜臣の子なり。嘉定四年進士に挙げられる。行在諸軍審計司の幹弁を歴任す。進対して曰く、「道学を崇尚するの名有りて、未だ其の実に遇わず」と。帝曰く、「実は何れの処にか在る」と。性傳対えて曰く、「陛下の物に格り知を致し、以て治を出すの本と為すに在り」と。武学博士に遷る。尋いで太常博士兼諸王宮大小学教授と為る。太常寺丞兼権工部郎中に昇り、権都官郎官を兼ね、起居舎人兼侍講に遷る。

疏を上言して曰く、「東周以後、諸侯卿大夫皆葬を既にし服を除く。秦漢の際、尤も浅促にして、孝文三十六日の制を定むれば、則ち孝惠以前より視れば已に加うる有り。東漢以後又之を損じて二十七日と為し、之を以日易月と謂うは、則ち薄きの至りなり。千数百年、惟だ晋武帝・魏孝文の能く古の制を復するも、群臣沮格し、未だ克く尽く行わず。惟だ孝宗通喪三年は、近古独り有り。陛下之を継ぎ、至性克く尽くし、前烈光有り。乞うらくは此の疏を史官に付し、庶幾くは四海風を聞き、民徳厚きに帰せん」と。

起居郎に遷り、国史編修・実録検討を兼ねる。権刑部侍郎、礼部侍郎に進む。臣僚の言に依り罷む。尋いで宝章閣待制を以て饒州を守り、寧国府を守るに改め、再び饒州を守り、復た言に依り罷む。兵部侍郎兼侍講に召され、同修国史・実録院同修撰を兼ねる。侍読を兼ねて昇り、権兵部尚書を権む。『仁皇訓典』を進読し、『帝学』を読まんことを乞い、之に従う。権吏部尚書を権む。臣僚、舜臣の立廟封爵の事を論じ、職を落とし、太平興国宮を提挙す。

淳祐四年、権礼部尚書兼給事中、兼同修国史・実録院同修撰、兼侍読を権む。五年、端明殿学士・簽書枢密院事兼権参知政事に拝す。尋いで同知枢密院事と為る。未だ幾もせず、職を落とし郡を与う。十二年、資政殿大学士を以て洞霄宮を提挙す。宝祐二年、旧職のまま万寿観を提挙し侍読を兼ねる。観文殿学士を以て致仕す。卒す。特に少保を贈らる。

陳韡

陳韡、字は子華、福州候官県の人。父の孔碩は、朱熹・呂祖謙の門人なり。韡は父の郊恩を弟の韔に譲る。開禧元年の進士第に登り、葉適に従い学ぶ。嘉定十四年、賈涉淮閫を開き、京東・河北の幹官に辟す。韡謂う、「山東・河北の遺民は、宜しく其の土に帰耕せしめ、耕牛農具を与え、内郡の貸死する者を以て分配すべし。然る後斉地を三分し、張林・李全各其の一に処し、其の一は功有る者を待つべし。河南の首領三両州を以て来帰する者は、節度使を与え、一州の者は其の土を守らしめ、忠義人は尽く北に還すべし。然る後淮甸の閑田を括り、韓琦の河北義勇法に倣い、民を募りて兵と為し、田を与えて薄く之を征し、土豪を択びて統率せしむべし。塩丁又別に廩して一軍と為し、此れ第二の重藩籬なり」と。

十五年、淮西捷を告ぐ。韡策す、金人必ず安豊に専ら向かい兵を分かち諸郡に綴らしむるを。卞整・張惠・李汝舟・范成進をして各其の兵を以て廬州に屯し之を待たしむ。金将盧皷捶潼関に新たに勝ち、鋭に乗じて急戦す、当に持久して之を困らしむべく、十日を過ぎず必ず遁る。伏を設けて邀撃せば、必ず勝つ可し。又た時青・夏全をして金人の深入を候わしめ、軽兵を以て其の巣穴を搗かしむ、是れ第一の策なり。其の後金人果たして安豊を犯す。韡盱眙に如き師を犒う。淮東制置司幹弁公事に改む。再び盱眙に如き劉琸に謁し、卞整・張惠・范成進・夏全諸軍を調し応援搗虚せしむ。皆韡の策を行い、遂に堂門の捷有り、其の四駙馬なる者を俘う。

将作監丞に遷り、又太府寺丞に遷り、差して真州を守り淮東提点刑獄と為る。直宝章閣を加えられ、旧のまま提点刑獄を兼ね宝応州を守る。宗正寺丞・権工部郎中に遷り、倉部員外郎に改む。入対し、言う、「臣の陳ぶる所の夏・周・漢・唐数君の事は、徳を布き謀を兆し、賢を任じ能を使い、賞を信じ罰を必にし、藩鎮を区処し、姑息を事とせざるが如き、規摹此れより大なるは莫し」と。又た言う、「人主の天下を御する所以は、賞罰のみ」と。

紹定二年(1229年)冬、盗賊が閩中に起こり、帥(安撫使)王居安は陳韡に四隅保甲の提挙を委嘱したが、韡は親の喪に服していたためこれを辞した。転運使陳汶・提挙常平史彌忠が朝廷に急を告げ、陳韡でなければ平定できないと述べた。翌年、宝章閣直学士の官で喪中起用され、南剣州知州となり、汀州・邵武軍の兵甲公事を提挙し、福建路兵馬鈐轄を兼ね、ともに盗賊招捕の措置を担当し、兼福建路招捕使となった。まもなく、提点刑獄を加えられた。韡は土民の丁壮を籍に編んで一軍とした。沙県の紫雲台が危急を告げた。沙県が陥落し、賊は間道より州城へ向かったが、忠勇軍が高橋でこれを破り、賊は邵武へ向かい、勢いはますます盛んとなった。時に招撫すべし捕縛すべからずと議する者があり、韡は言う、「初め賊は僅か百人ほどであったが、招撫して捕えず、養って千となり、また養って万となり、今またこれを養えば、数えきれぬほどになるであろう。淮西の兵五千人を求めれば万全を図ることができよう」。詔して韡に福建路招捕使を兼ねさせた。

賊は汀州を急攻し、淮西帥曾式中が精兵三千五百人を調発し、泉州・漳州の間道より汀州に入り、順昌において賊を撃ち、これを破った。六月、諸軍が大いに合流し、福建提点刑獄を加えられた。七月、韡はみずから兵を率いて沙県・順昌・将楽・清流・寧化に至り捕縛を督励し、赴くところことごとく勝利した。九月、兵を分けて進討した。十月、五つの賊の営砦を攻撃し、これを平定した。十一月、賊の起こった地である潭瓦磜を破り、その巣窟を平らげた。十二月、汀州の叛卒を誅し、連城の七十二砦を降伏させ、汀州の境内はすべて平定された。四年(1231年)正月、将を遣わして下瞿の張原砦を破った。二月、みずから邵武に赴き残党の捕縛を督励し、賊首晏彪が迎えて降伏したが、韡はその力尽きて降ったものとし、ついにこれを誅した。右文殿修撰に進み、もとのまま提点刑獄・招捕使を兼ね、建寧府知事となった。衢州の賊汪徐・来二が常山・開化を破り、勢いは甚だ盛んとなった。韡は淮将李大声に命じて兵七百を率い、賊の不意に出で、夜その砦に迫らせた。賊は出て迎え戦おうとしたが、算子旗を見て驚き、「これは陳招捕の軍である!」と皆泣き叫び、急ぎこれを撃ち、衢州の賊はすべて平定された。

六年(1233年)、宝章閣待制に進み、隆興府知事となった。贛州の賊陳三槍が松梓山砦を拠り、江西・広東に出没し、赴くところ殺戮破壊した。韡は官吏を遣わして降伏を諭したが、賊はこれを殺した。そこで韡は盗賊の起こりは貪吏によるものとし、特に甚だしい者二人を弾劾した。また言う、「寇盗の誅罰が遅延するのは、臣下の欺瞞虚誕と事権の散漫によるものであり、もし決意して掃討すれば、数ヶ月で完了するであろう」。十一月、詔して江西・広東・福建の三路捕寇軍馬を節制させた。韡は上奏して将劉師直を梅州に、斉敏を循州に派遣して扼守させ、みずから淮西兵及び親兵を率いて賊の巣窟を攻撃した。十二月、贛州知事を兼ねた。

端平元年(1234年)正月、華文閣待制・江西安撫使に進んだ。二月に贛州に到着し、賊勢を誇張しあるいは子女財貨を掠奪した将士を斬った。斉敏・李大声の赴くところことごとく勝利した。三月、兵を分けて大石堡を守り、賊の糧道を断ち、ついに松梓山を破った。三槍は残党とともに崖を縋って逃れた。韡はみずから諸将を督励し、春の瘴気がまだ生じないうちに、松梓山に迫った。賊は精鋭を尽くして下山し迎え戦い、旗幟や服色は甚だ盛んであった。韡の軍は歩騎で挟撃し、また火を放って焼き払い、兵士は皆崖を攀じ登り、賊の巣窟は蕩然として煙埃と化し、賊首張魔王は自ら焼死した。千五百の首級を斬り、賊将十二人を捕え、掠められた婦女・牛馬及び僭称した服飾器物を各数百計得た。三槍は矢に中り、斉敏の軍と遭遇し、これを撃破され、賊は逃れた。翌日、下黄まで追及し、またこれを破った。残党はなお千余りあったが、薙ぎ払ってほぼ尽きた。三槍は僅か数十人で興寧に逃れ、ついに捕えられ、檻車に三槍ら六人を載せ、隆興の市で斬った。

初め、賊は三路数州六十砦に跨がっていたが、ここに至ってすべて平定された。詔して曰く、「韡は忠勤をもって国に尽くし、計慮は精審であり、みずから討捕の責を任じ、江・閩・東広を終に平穏ならしめた」。そこで権工部侍郎に進め、もとのまま隆興府知事兼江西安撫使とした。まもなく、工部侍郎となり、江東安撫使・建康府知事に改め、行宮留守を兼ねた。二年(1235年)、入朝して奏事し、帝はその寇賊平定の功を称えた。韡は頓首して言う、「臣は不才にして、ただ孤忠あるのみで、陛下の威霊に頼り、苟くも大敗を逃れたに過ぎず、何の功がありましょう」。権工部尚書に遷り、また権刑部尚書・沿江制置大使となり、もとのまま江東安撫使・建康府知事とした。往来して鄂州の江面を巡視し、防禦の措置を講じた。三年(1236年)、宝謨閣学士を加えられた。十月、詔して猛将精兵を選び、緩急を視て、地利に拠り、要衝を扼して、奸謀を伐つべしとした。嘉熙元年(1237年)、煥章閣学士に進んだ。四年(1240年)、刑部尚書に任ぜられたが、辞退した。徽猷閣学士を加えられ、潭州知事・荊湖南路安撫使となった。

淳祐四年(1244年)、召されて兵部尚書となり、礼部尚書兼侍読に遷り、国史・実録院の同修撰を兼ねた。端明殿学士・同簽書枢密院事兼参知政事に任ぜられた。まもなく参知政事兼同知枢密院事となった。七年(1247年)、知枢密院事・湖南安撫大使兼潭州知事となった。九年(1249年)、観文殿学士・福建安撫大使として福州知事となったが、五度上章して辞し、旧職をもって洞霄宮の提挙となった。開慶元年(1259年)、召されて朝廷に赴き、致仕を取り消され、醴泉観使兼侍読を充てられた。景定元年(1260年)、福建安撫大使兼福州知事を授けられた。久しくして、佑神観提挙となり、力を尽くして致仕を請うた。翌年卒去、八十三歳。少師を追贈され、諡して「忠肅」といった。

崔福 附

崔福という者は、もと群盗であり、かつて官軍に捕えられようとしたことがあった。ちょうど夜大雪で、幼児と同床していたところ、児が寒さで泣き止まず、福は眠れなかった。捕手が来たのを察知し、古着で児の口を覆い、ついに逃げ去った。そこで軍籍に属した。初め趙葵に従い、李全を討って功があり、名声は江・淮に重く、またしばしば陳韡に従って賊を捕え、功を積んで刺史・大将軍に至った。

後に陳韡に従って隆興に留まった。やがて韡が金陵に移ったが、福はなお隆興にいた。たまたま通判が郡の官僚と滕王閣で宴会を催した際、福は自分が招かれなかったことを憤り、道で冤罪を訴える民に出会うと、福はその者を連れて宴会の場に直行し、郡官が民事を処理しないことを責め、諸卒に命じて飲食用具をことごとく打ち砕かせ、官吏は皆恐れ慄いて逃げ去り、敢えてその鋒に当たる者はいなかった。韡はこれを知り、ついに建康に檄を飛ばし、鈐轄に任命した。福はまた統制官王明の鞍馬を奪い、および総領所の監酒官の親族を追い回した。韡は戒めて諭したが、聞き入れなかった。

ちょうど淮兵に警報があり、歩帥王鑒おうかんが出師することとなり、鑒は福の同行を請うた。韡は手厚く送り出した。福は王鑒に用いられることを喜ばず、敵に遭遇しても撃たず、娘の葬儀を口実に勝手に帰還し、制置司にも報告しなかった。鑒は怒り、ついにその前後の過悪を上申し、必ずその命令軽視の罪を正すよう請うた。ちょうど韡もまた彼を厭い忌んでいたため、ついに軍法に処し、その後朝廷にその罪状を奏上し、かつみずから専断で殺した罪を弾劾した。詔が下りてこれを賞諭し、その罪を免じた。

福は勇猛で戦いに長け、かなり威名を轟かせていた。その死に際し、軍中は惜しんだ。当時の論議では良将は得難く、陳韡が私憤でこれを殺したとされた。しかし福の跋扈の跡はすでに覆い隠せず、殺身の禍もまた自ら招いたところがあったのである。

論ずるに、宋は嘉定以来、宰相の位に居る者は賢否不同なり、故に執政者は各々その気類に依って之を用い、其の成す所に因りて後世其の人を考うるを得たり。宣繒・薛極は、史彌遠の腹心なり。陳貴誼・曾從龍・鄭性之・李性傳・劉伯正は、皆附麗する所無し。李鳴復・金淵は、史嵩之の羽翼なり。鄒應龍は考見すべき所無く、許應龍は郡を治めて循良と称せられ、林略の所謂虚心に諫に従う者は、人主に益有り。徐榮叟父子兄弟は皆名臣たり、陳韡は将帥の才なり、別之傑より優れること多し。