吳潛
紹定四年(1231年)、尚右郎官に遷る。都城に大火あり、潛は上疏して災害の原因を論じた。「願わくは陛下、斎戒して修省し、畏懼して天に対し、粗衣粗食を以て、必ず国人に信ぜしめ、徒に膳を減ずるのみに止まることなかれ。声楽女色を疎遠にし、必ず天下に信ぜしめ、徒に楽を撤くのみに止まることなかれ。威福を窃み弄ぶ閹官を親しまず、禍患の根萌たる女寵を昵近せず。暗室屋漏を以て尊厳の区となし、必ず敬し必ず戒め、恆舞酣歌を以て乱亡の宅となし、淫せず泆せず。皇天后土に陛下に畏るるの心あるを知らしめ、三軍百姓に陛下に憂うるの心あるを知らしめよ。然る後、明詔を二三大臣に下し、衷を和らげ慮を竭くし、力めて弦轍を改め、賢哲を召し集め、忠良を用いよ。貪残なる者は屏け、回衺なる者は斥け、姦を懐き賊に党する者は誅し、怨を賈い国を誤る者は黜けよ。君子・小人を併進して包荒と為すことなく、邪説・正論を兼容して皇極と為すことなく、以て国家一線の脈を培い、以て生民一旦の命を救え。庶幾くば天意回らしめ、天災息み、災を弭して祥と為し、乱を易えて治と為さんことを。」
また言う。「重地要区は、患いに備えて予め人材を蓄うべし。大順の理を論ずれば、天人に貫通す、これを以て致治の本と為すべし。」また書を丞相史彌遠に貽して事を論ず。一に君心を格す、二に奉給を節す、三に都民を振恤す、四に老成廉潔の人を用う、五に良将を用いて外患を御す、六に吏弊を革して治道を新たにす、と。直寶章閣・浙東提挙常平を授かるが、赴かず。吏部員外郎兼国史編修・実録検討に改め、太府少卿・淮西総領に遷る。
また執政に告げ、用兵して河南を回復することは軽々にすべからざるを論じ、以て「金人既に滅び、北を隣と為せば、法として和を形とし、守を実とし、戦を応とすべし。荊襄より首として空城を納め、合兵して蔡を攻めてより、兵事一たび開くや、調度漸く広く、百姓狼狽し、死者枕藉し、生霊をして肝脳地に塗らしめ、得る城は荊榛の区に過ぎず、獲る俘は曖昧の骨に過ぎず。然るに吾が内地の荼毒すること此の如し、辺臣の国を誤るの罪は、言を待たずして明らかなり。恢復の画を進むる者あるを聞く、その算は俊傑と謂うべし、然れどもこれを取ること若し易きも、これを守ること実に難し。征行の具、何れの所にか資を取らん、民窮み堪えず、激して変と為し、内郡率ね盗賊と為らん。今日の事、豈に軽く議するを容れんや」と。この後、師を興して洛に入り、潰敗失亡資に計い難く、潛の言は率ね験あらわる。太府卿兼権沿江制置・知建康府・江東安撫留守に遷る。上疏して蜀を保つ方、襄を護る策、江を防ぐ算、海を備うる宜を論じ、進取に甚だ難きこと三事ありとす。
右文殿修撰・集英殿修撰・枢密都承旨・督府参謀官兼知太平州に進むが、五たび辞して許されず。また和戦成敗の大計、宜しく急ぎ襄陽等を救うべきことを言う。書を執政に貽し、京西既に失わるれば、当に京淮の丁壮を招收して精兵と為し、以て江西を保つべしと論ず。権工部侍郎・知江州となるが、辞して赴かず。宗子を養いて以て国本に係え、人心を鎮むるを請う。権兵部侍郎兼検正に改む。士大夫私意の弊を論じ、以て「襄・漢潰決し、興・沔破亡し、両淮俶擾し、三川陷没す。願わくは陛下、大業将に傾かんとし、士習已に壊れたるを念い、静専を以て群情を察し、剛明を以て衆慝を消し、有位に警めて、各おの至公を励ましめよ。術数を以て相高むることなくして、事功を以て相勉め、陰謀を以て相訐つことなくして、識見を以て相先んぜよ。謀を協わせ智を並べ、力戮め心を一にせば、則ち危き者は尚お安んずべく、衰證は尚お起つべし」と。また路を分かちて士を取るを請い、以て淮・襄の人物を収めんとす。
試工部侍郎・知慶元府兼沿海制置使となり、知平江府に改まる。財計凋敝の本末を条具し、以て郡民を寛め、転運使王埜と利害を争論す。寶謨閣待制を授かり、太平興国宮を提挙し、玉隆万壽宮に改む。試戸部侍郎・淮東総領兼知鎮江府となる。辺儲防禦等十五事を言う。寶謨閣直学士に改め、兼浙西都大提点坑冶、権兵部尚書・浙西制置使となる。防拓江海、団結措置等の事を申論す。工部尚書に進み、吏部尚書兼知臨安府に改まる。乃ち艱屯蹇困の時に当たり、身を反して徳を修めざれば、亨通の理を求むること無きを論ず。近族を遴選して以て人望に係え、太子の生を俟つことを乞う。帝嘉納す。兼侍読経筵となるが、台臣徐榮叟の論列により、寶謨閣学士・知紹興府・浙東安撫使を授かるも辞し、南京鴻慶宮を提挙す。遂に致仕を請い、華文閣学士知建寧府を授かるも辞す。
母憂に服し、服除けて、中大夫・試兵部尚書兼侍読に転じ、翰林学士・知制誥兼侍読に転じ、端明殿学士・簽書枢密院事に改め、金陵郡侯に進封さる。亢旱により罷免を乞い、免ぜられ、資政殿学士・提挙洞霄宮に改め、知福州兼本路安撫使となる。知紹興府・浙東安撫使に徙る。
同知枢密院兼参知政事として召される。入対し、言う。「国家の敝無からざるは、人の病無からざるが如し。今日の病は、倉公・扁鵲の望みて驚くのみならず、庸医も亦望みて驚く所なり。願わくは陛下、元老を篤く任じて以て医师と為し、衆益を博採して以て医工と為し、臣輩をして牛溲馬勃の助を効するを得しめ、以て陛下の知人の明を辱しめざらしめよ。」
淳祐十一年(1251年)、参知政事として入り、右丞相兼枢密使に拝される。明年、水災により機政を解くことを乞う。観文殿大学士・提挙洞霄宮となる。また四年を経て、沿海制置大使を授かり、判慶元府となる。官に至り、軍民久遠の計を条具し、政府に告げ、奏して皆これを行わしむ。また銭百四十七万三千八百有奇を積み、民に代わって帛を輸し、前後蠲免する所五百四十九万一千七百有奇。久任により祠を丐い、且つ累章を以て帰田里を乞う。崇国公に進封され、判寧国府となる。家に還り、醴泉観使兼侍読となり、召されて入対し、天命を畏れ、民心を結び、賢才を進め、下情を通ずるを論ず。帝嘉納す。特進・左丞相に拝され、慶国公に進封さる。奏す。「在朝の臣に各おの所見を陳べしめて、以て処置の宜を決せしむることを乞う。」と。許国公に改封さる。
又た国家の安危治乱の原を論じて曰く、「蓋し近年より公道晦蝕し、私意横流し、仁賢空虚にして、名節喪敗し、忠嘉は絶響となり、諛佞は風を成す。天怒るも而も陛下知らず、人怨むも而も陛下察せず、兵戈の禍を稔らし、宗社の憂を積む。章鑑・高鑄は嘗て丁大全と同官たりしも、心を傾けて附麗し、要途に躐躋す。蕭泰来等の群小噂沓し、国事日々に非なり、浸淫して今日に至る。陛下稍々日月の明を垂れ、小人の翕聚するを以て善類の禍を貽すこと毋からしめよ。沈炎は実に趙与𥲅の腹心爪牙にして、而も臺臣を任じ、甘んじて其の為に搏撃す。姦党盤据し、血脉貫穿し、以て陛下を欺く。危乱を致す者は、皆此等の小人の為す所なり」。又た大全をして致仕せしめ、炎等を祠に与え、高鑄を州軍に羈管せんことを乞う。報いず。
程元鳳
六年、秘書丞に進み兼ねて権刑部郎官と為る。七年、兼ねて権右司郎官と為り、著作郎に遷り、仍って権右司郎官と為る。輪対し、時病を指陳すること尤も激切なり。国を当る者、以て己を厲すと為す。外を丐い、饒州を知る。郡初めて水災に罹る。元鳳、民の疾苦を訪い、夙夜究心し、城堞を修め、義阡を置き、誅求を寛げ、誣證を察す。江・淮・荊・浙・福建・広南都大提点坑冶に進み、仍って饒州を知り冶司を兼ぬ。歳に冬夏帳銀有り、悉く挙げて以て郡の積年の諸税斂の足らざる者を補う。芝、治所に生ず。衆、治行の致す所と為す。元鳳曰く、「五穀熟すれば則ち民恵を蒙る。此れ異とするに足らず」。
余晦、従父天錫の恩に恃みて妄作するを以て、三学の諸生、闕に伏して上書し其の罪状を白くす。司業蔡抗又た力を以て之を言う。元鳳、其の罪を数えて之を劾す。奏上る。晦を以て大理少卿と為し、抗を以て宗正少卿と為す。元鳳又た疏を上して抗を留め晦を黜け、以て士心を安んぜんことを請う。乃ち命じて抗をして仍って司業を兼ねしめ、晦に郡を予う。
殿中侍御史に昇り、仍って侍講を兼ぬ。京城災有り。疏して言う、「土木の益無き役を輟め、以て暴露の民を済わしめよ。緇流の泛濫の恩を移し、以て顛沛の衆に給せよ。寛大の政を行い務め、億兆の心を固結せよ。旁ら俊乂を招き、而して私昵に濫及の恩無からしめよ。奸私を屏去し、而して貪黷に覆出の患無からしめよ。便嬖の防を謹み、而して之をして権を弄ばしめず。恩澤の請を抑え、而して節無きに至らしめず」。言多く剴切なり。
蜀境と沅・靖と交わり急なり。朝廷、重臣を択びて上流に出鎮せしめんと欲し、徐敏子を用いて蜀帥を易え及び向士璧を用いて鎮撫と為す。元鳳、荊南に下り、兵を調えて蜀を援い、呂文徳を移して沅・靖に上らしめんことを請う。前職に依りて進み、簽書枢密院事兼権参知政事と為り、参知政事に進み、尋いで右丞相兼枢密使を拝し進み、新安郡公に封ぜらる。力を以て辞す。御筆に勉諭す。猶ほ周回累日にして而る後に事を治む。正心・臣を待ち・賢を進め・民を愛し・辺を備え・法を守り・微を謹み・令を審にする八事を疏奏す。高・孝・光・寧の四朝国史未だ就かず。尤焴を転任して其の事を領せしめ、纂修して之を成さしむるを奏す。会うに丁大全、相位を奪わんと謀る。元鳳、力を以て辞す。観文殿大学士判福州・福建安撫使を授く。又た力を以て辞す。前職に依り、洞霄宮を提挙す。
元鳳の政府に在るや、一の契家の子、貳令を求めんとす。元鳳之に謝して曰く、「除授は須らく資に由るべし」。其の人累請すも許さず。乃ち先世を以て言う。元鳳曰く、「先公疇昔相薦する者は、某の粗かに恬退を知る故なり。今子の求むる所躐次す。豈に先大夫の意ならんや。況んや国家の官爵を以て私恩に報いんや。某の敢えてせざる所なり」。嘗て元鳳の論列に遭える者有り。其の後其の用いる可きを見て、更に薦抜す。毎に曰く、「前日の弾劾は、其の才を成すなり。今日の擢用は、其の才を尽くすなり」。著す所に『訥斎文集』若干巻有り。
江萬里
賈似道が両浙を宣撫すると、参謀官に辟召した。及び似道が同知樞密院事となり、京湖宣撫大使となると、萬里を帯行の宝章閣待制として、参謀官とした。大元の兵が鄂を包囲すると、似道は右丞兼樞密使として軍を漢陽に移し、萬里は刑部侍郎に遷った。似道が宰相に入ると、萬里は国子祭酒・侍読を兼ねた。入朝して対し、権吏部尚書に遷り、また端明殿学士・同簽書樞密院事兼太子賓客を拝した。すぐに言事者のために官を去った。後に原職をもって建寧府知府兼権福建転運使となった。やがて、資政殿学士を加えられ、旧職のまま、福州知州兼福建安撫使となった。
度宗が即位すると、同知樞密院事に召され、また権参知政事を兼ね、参知政事に遷った。萬里は初めこそ俯仰して容默し、似道に用いられたが、性質は峻直であり、事に臨んでは言わざるを得なかった。似道は常にその軽率な発言を憎み、故に毎度入朝しても久しく在位することができなかった。似道が去ることを以て君に要請すると、帝は即位したばかりで、彼を「師相」と呼び、涙を流して拝み留めるほどであった。萬里は身をもって帝を支え、「古よりこのような君臣の礼はなく、陛下は拝すべからず、似道もまた去ることを言うべからず」と言った。似道はどうすべきか分からず、殿を下がって笏を挙げて萬里に謝し、「公がなければ、似道は千古の罪人となるところであった」と言った。しかしこれによって一層彼を忌むようになった。
翌年、大元の兵が江を渡ると、萬里は草野の間に隠れたが、遊騎に捕らえられ、大声で罵り、自害しようとしたが、やがて脱して帰った。先に、萬里は襄樊が陥落したと聞き、芝山の後ろの庭園に池を掘り、その亭に「止水」と扁額を掲げたが、人はその意を理解しなかった。警報を聞くと、門人陳偉器の手を執り、「大勢は支え難く、余は位にいないとはいえ、国と存亡を共にすべきである」と言った。及び饒州城が陥落すると、軍士が萬頃を捕らえ、金銀を求めたが得られず、四肢を切断して殺した。萬里は遂に止水に赴いて死んだ。左右の者や子の鎬が相次いで沼に身を投じ、屍は積み重なった。翌日、萬里の屍だけが水上に浮かび出たので、従者が草を以て殯した。萬里には子がなく、蜀人の王橚の子を後嗣とした。それが鎬である。事が聞こえ、太傅・益国公を贈られ、後に太師を加贈され、諡は「文忠」とされた。
萬頃は歴任して大郡を守り、提挙江西常平茶塩となり、官は正郎に至った。城が陥落した時、郴州守の趙崇榞が城中に寓居しており、これもまた死んだ。
王爚
上奏して言う、「今、天下がかくも大いに壊れてこのようになったのは、まさに一つの私心が蟠り塞がり、賞罰に章法がないが故である。これを救う策は、それが壊れた原因に反するにある。大いに賞罰を明らかにし、動きが天に合うならば、おそらく人心は奮い起こり、天下の事はなお為すべきことがあろう」。ここにおいて賈似道の国を誤り軍を喪った罪を言上し、ここに始めて詔を降して似道の不忠不孝を厳しく責めた。六月庚子朔、日食あり、爚上奏す、「日食は尽きず僅か一分、白昼暗冥となること数刻。陰盛にして陽微、災異はこれより大なるは未だあらず。臣、首相に待罪し、上は天子を佐けて陰陽を理め、下は万物を遂げ、外は諸侯を鎮むるは、皆その職なり。氛祲充塞して消す能わず、生民塗炭にして救う能わず、反覆これを思うに、咎は実に臣に在り、罷黜を乞いて以て天譴に答う」。詔を答えて許さず、ただ金紫光禄大夫に降授するのみ。降官を辞し、罷斥を乞う、また許さず。
まもなく平章軍国重事に進む、辞す、許されず。或る者請う、「宜中あるいは夢炎を出して呉門を督せしむべし、然らずば臣、老いて無能と雖も、若し封疆に効死せんは、亦敢えて辞せず」。詔して三省に集議せしむ。平章事の罷免を乞う、許されず。京学生上書して宜中を誹謗す、宜中も亦上疏して骸骨を乞う。初め、宜中相位に在りし時、政事多く爚に関白せず、或いは謂う、京学の論は、実に爚が嗾けたものなりと。
七月壬辰、詔す、「給・舎の奏三入、爚と宜中は必ず難く共に処すべく、兼ねて爚近く奏して平章侍経筵の免を乞い、辞気平らかならず、誠に人の言うが如き者有り」。ここにおいて爚の平章を罷め、前の如く少保とし、特授して観文殿大学士充醴泉観使とす。爚、人となり清修剛勁、似道天台に帰り母を葬るに、新昌を過ぐるも、爚独り之を見ず。後に元老として相位に入る、国勢危亡の際に値い、天下の属望する所なりしが、遂に宜中と協せずして去るという。
章鑑
後に鑑の家が宝璽を匿うと告ぐる者有り、霜の朝、鑑方に敗衾を擁して臥す、兵士至り、大いに其の室を索むるに、惟だ敝篋に一つの玉杯を貯うるのみ、余に一物も無し、人頗る其の清約を嘆ず。鑑、朝に在りし日、寛厚と号す、然れども人に多く許可を与え、士大夫之を目して「満朝歓」という。
陳宜中
程元鳳再び相と為り、似道其の権を侵すを恐れ、之を去らんと欲す。宜中首めて元鳳が丁大全をして悪を肆わしめ、宗社の禍を基づくを劾す。命格み、太府卿を除く。宜中も亦自ら外を請い、江東提挙茶塩常平公事と為る。四年、浙西提刑に改む。五年、召されて崇政殿説書と為り、累遷して礼部侍郎兼中書舎人。七年、閩に帥を闕き、敷文閣待制・知福州を以てす。官に在りて民心を得、歳余して入りて刑部尚書と為る。十年、簽書枢密院事兼権参知政事を拝す。
時に右丞相章鑑宵に遁れ、曾淵子等宜中に丞相事を摂るを命ぜんことを請う。詔して王爚を左丞相とし、宜中に特進・右丞相を拝す。四月、爚朝に還り事を論ずるや、即ち宜中と合わず。台臣孫嶸叟、潜説友・呉益・李珏を竄籍せんことを請う、宜中以為う、「簿録は盛世の事に非ず、祖宗忠厚、未だ軽く之を用いず。珏方に召されて朝に入らんとす、遽かに重刑を加うるは、恐らく後も以て信を示すこと無からん」。爚力争し、以て嶸叟の議の如くすべしと為す。会に留夢炎湖南より朝に入る、爚と宜中俱に罷政を乞い、夢炎を以て相と為さんことを請う。太皇太后乃ち宜中を左丞相とし、夢炎を右丞相とし、爚を平章軍国重事に進む。爚命を拝し、即日民居を僦い、丞相府を宜中に譲る、宜中上疏し、以て「一辞一受、何を以て天下の譏を解かん」と為し、亦去る。使い数輩を遣わして之を遮留し、始めて至る。
時に命じて張世傑等四道より師を進めしむ、二丞相軍馬を都督して出で督せず。爚請う、一丞相を以て閫を呉門に建て、以て諸将を護らしめんと;然らずば則ち己行かんことを請う。宜中愧じ、始めて夢炎と上疏して辺に行かんことを乞う。事を公卿に下して議せしむ、決せず。七月、世傑等の兵果たして焦山に敗る。爚奏言す、「事、兵より重きは無し、今二相並びに都督を建つ、廟算指授するも、臣得て知るべからず。比者、六月師を出だすも、諸将統ぶる無し。臣豈に呉門京より遠からざるを知らざらんや、而して必ず此の請を為すは、蓋し大敵境に在り、陛下自ら将たらざれば則ち大臣督を開く。今世傑諸将心力一ならざるを以て敗る、国家尚た幾敗を堪えんとするを知らずや?臣既に其の職を得ず、又其の言を得ず、罷免を乞う」。允さず。
爚の子弟乃ち京学生を嗾き闕に伏して上書せしめ、宜中の過失数十事を数う、其の略以て為す、「趙溍・趙与鑑皆城を棄てて遁る、宜中乃ち使過を借るの説を以て、私恩に報ゆ。令狐槩・潜説友皆城を以て降る、乃ち其の包苴を受け而して之が為に羽翼と為る。文天祥兵を率いて王に勤む、讒を信じて之を沮撓す。似道師を喪い国を誤る、陽に致罰を請いて陰に之を佑く。大兵国門に迫る、王に勤むの師乃ち之を京城に留めて遣わさず。宰相当に出でて督すべく、而して畏縮猶豫し、第に集議を令して行わず。呂師夔狼子野心、而して之を通好乞盟せしむ。張世傑は歩兵にして之を水に用い、劉師勇は水兵にして之を歩に用い、指授宜しきを失い、因って以て事を敗る。臣誤国将に一似道に止まらんことを恐る」。
臨安府京学生を捕逮す。召すも亦至らず。太皇太后自ら書を為して其の母楊に遺し、使いて勉めて之を諭さしむ、宜中始めて祠官を以て入侍せんことを乞い、乃ち醴泉観使を拝す。十月壬寅、始めて朝に造り、尋いで右丞相と為る、然れども事既に去れり。宜中倉皇として京城の民を発して兵と為し、民年十五以上なる者は皆之に籍す、人皆以て笑いと為す。十一月、張全を遣わして尹玉・麻士龍の兵を合せ常州を援わしむ、玉と士龍皆戦死し、全一矢も発せず、奔りて還る。文天祥全を誅せんことを請う、宜中釈して問わず。已にして、常州破れ、兵独松関に迫る、鄰邑風望みて皆遁る。
宜中使いを軍中に遣わして和を請うも得ず、即ち群臣を率いて宮に入り遷都を請う、太皇太后不可とす。宜中痛哭して之を請う、太皇太后乃ち装して車に升るを俟たしめ、百官に路費銀を給す。暮に及ぶも、宜中入らず、太皇太后怒りて曰く、「吾初め遷らんと欲せず、而して大臣数え以て請う、顧みて我を欺くか?」簪珥を脱ぎ地に擲ち、遂に閤を閉ざす、群臣内引を求むるも、皆納れず。蓋し宜中実は明日遷らんとし、倉卒奏陳して審らかさを失えるのみ。
宜中は初め大元の丞相伯顔と軍中で会合を約したが、後にこれを悔い、遂に行かなかった。伯顔が兵を率いて皋亭山に至ると、宜中は夜中に逃げ去り、陸秀夫が二王を奉じて温州に入り、人を遣わして宜中を召した。宜中は温州に至ったが、その母が死去した。張世傑がその棺を舟に載せ、遂に共に閩中に入った。益王が立つと、再び左丞相とした。井澳の敗戦の後、宜中は王を奉じて占城に走らんと欲し、乃ち先んじて占城に赴き意を諭したが、事の成り難きを量り、遂に帰らなかった。二王は累次使者を遣わして召したが、終に至らなかった。至元十九年、大軍が占城を伐つと、宜中は暹に走り、後に暹で没した。
宜中は人となり多く術数に長け、若くして県学生となり、その父が吏として賄賂を受け黥刑に当たる時、宜中は上書して温州守魏克愚に請いこれを赦免させんとした。克愚はこれを狡猾な吏とみなし、終に法に置いて処した。その後宜中が浙西提刑となると、克愚は郊外に出迎えたが、宜中は返礼の文書に官職名を書かず、ただ「部下の民陳某」と云うのみであった。克愚は恐惶して受けず、袖に収めて謝した。宜中は表向き礼を尽くしたが、陰にその過失を探り、得る所無し。その後、克愚が賈德生の官木を借り受けた件を発覚させ、賈似道に逆らい、罷免されて家に居た。宜中が朝廷に入ると、乃ち極言して克愚の郷里における不法の事を述べ、似道に章鑑に勅させ、厳州に貶した。克愚の死は、宜中がこれを排斥した所が多い。
論じて曰く、孔子は「才は難し、然らざるか」と曰われた。理宗の在位は長久で、宰相に命じた者は実に多く、若し呉潛の忠亮剛直なるを見れば、数人いるのみである。潛が事を論ずるは雖も近くは訐に似るが、度宗の立つに当たり、謀議が及んだ時、潛は正対した。人臣として顧望を懐き子孫の地と為さんとする者に、能く斯の言を為し得ようか。程元鳳は謹飭にして余裕あるも風節に乏しく、尚お賈似道に讒せられた。江萬里は学問徳望諸臣に優れていたが、免れず似道に籠絡され、晚年微かに鋒穎を露わすや、直ちに擯斥された。士大夫不幸にして権姦と朝を同じくするは、自ら処する難きことである。似道が江上の師を督視するに当たり、国事を王爚・章鑑・陳宜中に付したのは、蓋しその平時より素より己と与する者を取ったのである。爚・宜中はその既に出でし後、稍々自ら異ならんと欲し、その敗北を聞くや、勢いに乗じてこれを窘しめた。既にして、二人自ら矛盾し、宋の事ここに至り、危急存亡の秋である。国を当たる者が交歓戮力しても、猶お及ばざるを懼れるに、為す所かくの如し、何ぞ其の能く匡済するを望まんや。似道誅され、爚死し、鑑遁し、宜中海島に走り、宋亡ぶ。
文天祥
開慶(1259年)の初め、大元の兵が宋を伐つと、宦官董宋臣が上に遷都を説き、人その非を議する者無し。天祥は時に召されて寧海軍節度判官となり、上書して宋臣を斬るを乞い、以て人心を一つにせんとしたが、報いず、即ち自ら免じて帰った。後稍々遷って刑部郎官に至る。宋臣復た入って都知となると、天祥また上書して極言してその罪を論じたが、亦報いず。出でて瑞州を守り、江西提刑に改め、尚書左司郎官に遷り、累ねて臺臣に論ぜられて罷免される。軍器監兼権直学士院を除す。賈似道病と称し、致仕を乞い、以て君を要す。詔有りて允さず。天祥制を当たり、語皆似道を諷す。時に内制は相承して皆稿を呈す。天祥稿を呈さず、似道楽しまず、臺臣張志立を使い勅してこれを罷めしむ。天祥既に数たび斥けられ、錢若水の例に援いて致仕し、時に年三十七(1272年)。
咸淳九年、起用されて湖南提刑となり、因って故相江萬里に謁す。萬里は素より天祥の志節を奇とし、国事に及び、愀然として曰く、「吾老いたり、天時人事を観るに変有るべし、吾人多く閲す、世道の責め、其れ君に在るか。君其れ之を勉めよ」と。十年(1274年)、知贛州に改む。
德祐初年(1275年)、江上より急報至り、詔して天下に勤王を命ず。天祥詔を捧げて涕泣し、陳継周をして郡中の豪傑を発起せしめ、並びに溪峒の蛮を結び、方興をして吉州の兵を召させしむ。諸豪傑皆応じ、衆万人有り。事聞こえ、江西提刑安撫使として召し入衛せしむ。其の友これを止めて曰く、「今大兵三道より鼓行し、郊畿を破り、内地に迫る。君烏合の万余を以てこれに赴くは、是れ何ぞ群羊を駆りて猛虎と搏たしむるに異ならんや」と。天祥曰く、「吾亦其の然るを知る。第だ国家臣庶を養育すること三百余年、一旦急有り、天下の兵を徴するに、一人一騎関に入る者無し。吾深く此れを恨む、故に力の量らざるに自らせずして、身を以て之に殉ぜんとす。庶幾くは天下の忠臣義士将に風を聞きて起つ者有らん。義勝つ者は謀立ち、人衆き者は功済わん。此くの如くせば則ち社稷猶お保たるべし」と。
天祥の性豪華にして、平生自ら奉ずること甚だ厚く、声伎前に満つ。ここに至り、痛く自ら貶損し、尽く家財を以て軍費と為す。毎に賓佐と語り時事に及ぶや、輒ち流涕し、几を撫でて言う、「人の楽しむを楽しむ者は人の憂うるを憂い、人の食するを食する者は人の事に死す」と。八月、天祥兵を提げて臨安に至り、知平江府を除す。時に丞相宜中未だ朝に還らず、遣わさず。十月、宜中至り、始めて之を遣わす。朝議方に呂師孟を擢て兵部尚書とし、呂文徳を和義郡王に封じ、以て和好を求めんと欲す。師孟益々偃蹇として自ら肆にす。
天祥陛辞し、上疏して言う、「朝廷姑息牽制の意多く、奮発剛断の義少なし。師孟を斬りて鼓を釁ぎ、以て将士の気を作すを乞う」と。且つ言う、「宋五季の乱を懲り、藩鎮を削り、郡邑を建つ。一時は雖も尾大の弊を矯うるに足れども、然れども国亦以て寖に弱し。故に敵至れば一州則ち一州を破り、一県に至れば則ち一県を破り、中原陸沈し、痛悔何ぞ及ばん。今宜しく天下を分かちて四鎮と為し、都督を建てて其中に統御せしむべし。広西を以て湖南に益し、閫を長沙に建つ。広東を以て江西に益し、閫を隆興に建つ。福建を以て江東に益し、閫を番陽に建つ。淮西を以て淮東に益し、閫を揚州に建つ。長沙に責めて鄂を取らしめ、隆興に蘄・黄を取らしめ、番陽に江東を取らしめ、揚州に両淮を取らしむ。其の地大にして力衆く、以て敵に抗うに足らしむ。日を約して斉しく奮い、進みて退かず、日夜以て之を図らしむ。彼備多く力分かれ、奔命に疲れ、而して吾が民の豪傑なる者又間を伺いて其の中より出づ。此くの如くせば則ち敵却け難からず」と。時に議する者天祥の論闊遠なりとし、書奏して報いず。
十月、天祥平江に入る。大元の兵已に金陵を発ち常州に入る。天祥其の将朱華・尹玉・麻士龍を遣わし張全とともに常州を援けしむ。虞橋に至り、士龍戦死し、朱華広軍を以て五牧に戦い敗績し、玉の軍亦敗れ、水を渡らんと争い、全軍の舟を引き止む。全軍其の指を断ち、皆溺死す。玉残兵五百人を以て夜戦し、旦に比べて皆没す。全一矢も発せず、走りて帰る。大元の兵常州を破り、独松関に入る。宜中・夢炎天祥を召し、平江を棄て、餘杭を守らしむ。
翌年(1276年)正月、臨安府知事に任ぜられた。間もなく、宋は降伏し、陳宜中・張世傑は皆去った。なおも文天祥を枢密使に任じた。まもなく右丞相兼枢密使に任じ、軍中に赴いて和議を請わしめ、大元の丞相バヤン(伯顔)と皋亭山で激論を交わした。丞相は怒って彼を拘束し、左丞相呉堅・右丞相賈餘慶・知枢密院事謝堂・簽書枢密院事家鉉翁・同簽書枢密院事劉岊とともに北へ連行され、鎮江に至った。天祥はその客の杜滸ら十二人と共に、夜逃れて真州に入った。苗再成が出迎え、喜び且つ涙して言うには、「両淮の兵は興復に足りますが、ただ二つの統帥部の小さな不和ゆえに、合従することができないのです」と。天祥が「計略はどう出そうか」と問うと、再成は言った、「今まず淮西の兵に約して建康に向かわせれば、彼らは必ず全力を挙げて我が西兵を防ぎます。その時、東の諸将を指揮し、通州・泰州の兵で湾頭を攻め、高郵・宝応・淮安の兵で楊子橋を攻め、揚州の兵で瓜歩を攻めさせ、我らは水軍をもって直ちに鎮江を衝き、同日に大挙します。湾頭・楊子橋はいずれも長江沿いの脆弱な守備兵で、日夜我が軍の到来を待ち望んでいますから、攻めれば即座に陥ります。瓜歩の三面を合わせて攻撃し、我らは江中から一面を迫れば、たとえ知者がいても為す策はありません。瓜歩を挙げた後、東の兵を京口に入れ、西の兵を金陵に入れて、浙江からの帰路を遮断すれば、その大帥は座して捕らえることができます」と。天祥は大いに善しと称賛し、直ちに書を二つの制置使に送り、使者を四方に出して約束を結ばせた。
天祥が到着する前に、揚州から脱走して帰った兵士が、「密かに一丞相を真州に入れて降伏を説かせた」と語った。李庭芝はこれを信じ、天祥が降伏を説きに来たのだと思った。再成に急いで彼を殺させようとした。再成は忍びず、天祥を欺いて城塁を見に出させ、制置使司の文書を見せて、門外に閉め出した。しばらくして、また二名の路分(下級武官)に天祥を偵察させ、もし本当に降伏を説く者ならば直ちに殺すように命じた。二名の路分が天祥と話し、その忠義を見て、やはり殺すに忍びず、兵二十人で彼を揚州まで送り届け、四更に城下に着いた。門の番兵の話を聞くと、制置使司が文丞相を厳重に警戒するよう下令しているというので、一同は顔を見合わせて舌を出し、そこで東へ海路に入った。兵に遭遇し、土塀に囲まれた中に伏して難を免れた。しかしまた飢えて起き上がることもできず、樵夫から残りの雑炊を乞うた。板橋に入って行くと、兵がまた来た。一同は走って竹藪の中に伏せたが、兵が入って索敵し、杜滸と金応を捕らえて去った。虞候の張慶は目に矢を受け、体に二ヶ所の傷を負ったが、天祥は偶然にも捕らえられなかった。杜滸と金応は懐中の金を兵卒に与え、捕縛を免れ、二名の樵夫を雇って天祥を藁籠で担がせて高郵まで行き、海を渡って温州に至った。
益王がまだ即位していないと聞き、そこで上表して即位を勧め、観文殿学士・侍読として福州に召され、右丞相に拝された。まもなく陳宜中らと議論が合わなかった。七月、同都督として江西に出ることとなり、遂に出発し、兵を収めて汀州に入った。十月、参謀趙時賞・諮議趙孟溁に一軍を率いて寧都を取らせ、参賛呉浚に一軍を率いて雩都を取らせた。劉洙・蕭明哲・陳子敬はいずれも江西から兵を起こして来て合流した。鄒㵯は招諭副使として寧都に兵を集めたが、大元の兵がこれを攻め、㵯の兵は敗れ、共に挙兵した劉欽・鞠華叔・顔斯立・顔起巖は皆死んだ。武岡教授の羅開礼は、兵を起こして永豊県を回復したが、やがて兵敗れて捕らえられ、獄中で死んだ。天祥は開礼の死を聞き、喪服を着けて哀哭した。
至元十四年正月、大元の兵が汀州に入ったので、天祥は遂に漳州に移り、入衛を請うた。趙時賞・趙孟溁も兵を率いて帰還したが、ただ呉浚の兵は来なかった。間もなく、浚は降伏し、天祥を説得しに来た。天祥は浚を縛り、絞め殺した。四月、梅州に入り、都統の王福・銭漢英が横暴であったので、斬って衆に示した。五月、江西に出て、会昌に入った。六月、興国県に入った。七月、参謀張汴・監軍趙時賞・趙孟溁らに大軍を率いて贛州城に迫らせ、鄒㵯に贛州諸県の兵をもって永豊を衝かせ、その副将の黎貴達に吉州諸県の兵をもって泰和を攻めさせた。吉州八県の半分は回復したが、ただ贛州だけは陥らなかった。臨江・洪州などの諸郡は、皆降伏の意を伝えてきた。潭州の趙璠・張虎・張唐・熊桂・劉斗元・呉希奭・陳子全・王夢応が邵州・永州の間に兵を起こし、数県を回復し、撫州の何時らも皆兵を起こして天祥に応じた。分寧・武寧・建昌の三県の豪傑は、皆人を軍中に遣わして指揮を受けた。
江西宣慰使李恆は兵を遣わして贛州を救援させ、自らは兵を率いて興国で天祥を攻めた。天祥は恆の兵が突然来ることを予期せず、そこで兵を率いて退き、永豊の鄒㵯のもとに赴いた。㵯の兵は先に潰え、李恆は方石嶺で天祥を執拗に追撃した。鞏信が防戦し、体中に矢を受けて戦死した。空坑に至ると、軍士は皆潰走し、天祥の妻妾子女は皆捕らえられた。趙時賞が腰輿に座っていると、後方の兵が誰かと問うた。時賞は「私は文という姓だ」と言った。衆は天祥と思い、捕らえて帰ったので、天祥はこれによって逃げ去ることができた。
孫㮚・彭震龍・張汴は戦死し、繆朝宗は自縊死した。呉文炳・林棟・劉洙は皆捕らえられて隆興に送られた。趙時賞は奮って罵り屈せず、捕らえられて連行されて来る者がいると、すぐに手で追い払い、「取るに足らない簽庁官に過ぎぬ、これを捕らえてどうするのか」と言った。これによって逃れ得た者は非常に多かった。臨刑の際、劉洙はかなり自己弁解したが、時賞は叱って「死ぬだけだ、どうして必ずそうする必要があるか」と言った。そこで林棟・呉文炳・蕭敬夫・蕭燾夫は皆免れられなかった。
天祥は残兵を収めて循州に奔り、南嶺に駐屯した。黎貴達は密かに降伏を謀り、捕らえて殺した。至元十五年(1278年)三月、麗江浦に進んで駐屯した。六月、船澳に入った。益王が崩じ、衛王が継いで立った。天祥は上表して自らを劾し、入朝を乞うたが、許されなかった。八月、天祥に少保・信国公を加えた。軍中に疫病が起こり、兵士数百人が死んだ。天祥にはただ一人の子がいたが、その母と共に死んだ。十一月、潮陽県に進んで駐屯した。潮州の賊陳懿・劉興は幾度も叛いたり帰順したりし、潮州の人々の害となっていた。天祥は陳懿を攻め走らせ、劉興を捕らえて誅した。十二月、南嶺に向かった。鄒㵯・劉子俊がまた江西から兵を起こして来て、再び陳懿の徒党を攻めたので、陳懿は密かに逃げ去った。元帥張弘範の兵が潮陽に渡海して来た。天祥がちょうど五坡嶺で食事をしていると、張弘範の兵が突然到来し、衆は戦う暇もなく、皆頓首して草むらに伏した。天祥は慌てて逃げ出したが、千戸王惟義が前に進んで彼を捕らえた。天祥は脳子(樟脳)を飲んだが、死ななかった。鄒㵯は自ら首を刎ね、衆が南嶺に扶け入れて死んだ。官属士卒で空坑で逃れた者も、この時に至って劉子俊・陳龍復・蕭明哲・蕭資は皆死に、杜滸は捕らえられ、憂い死した。ただ趙孟溁だけが逃れ去り、張唐・熊桂・呉希奭・陳子全は兵敗れて捕らえられ、皆そこで死んだ。張唐は、広漢の張栻の後裔である。
天祥は潮陽に至り、張弘範に会った。左右が拝礼を命じたが、拝礼せず、弘範は遂に客礼をもってこれに会い、共に厓山に入り、張世傑を招く書状を書かせた。天祥は言った、「私は父母(朝廷)を守ることができなかったのに、人に叛いて父母に背くことを教えられようか」。強く求められたので、そこで過ぎし日に詠んだ『零丁洋詩』を書いて与えた。その末尾に云う、「人生自古誰無死、留取丹心照汗青」。弘範は笑ってこれを放置した。厓山が陥落し、軍中で酒宴の大宴会を開いた。弘範は言った、「国は亡びました。丞相の忠孝は尽くされました。心を改めて宋に仕えたように皇上に仕えれば、宰相の地位を失うことはないでしょう」。天祥は涙を流して言った、「国が亡びるのを救えず、人臣たる者として死んでもなお罪があるのに、どうして死を逃れて二心を持てましょうか」。弘範はその義を感じ、使者を遣わして天祥を京師まで護送させた。
至元十九年、閩の僧が土星が帝座を犯すと言い、変事があるのではと疑われた。間もなく、中山に狂人が「宋の主」と自称し、兵千人を擁して文丞相を迎え取ろうとしているということがあった。京城にも匿名の書状があり、ある日に蓑城の葦を焼き、両翼の兵を率いて乱を起こし、丞相には心配ないと記されていた。時に盗賊が左丞相阿合馬を新たに殺害したため、城の葦を撤去し、瀛国公及び宋の宗室を開平に移すこととなり、丞相と疑われたのは天祥であった。召し入れて諭して言うには、「汝は何を願うか」と。天祥は答えて言った、「天祥は宋の恩を受け、宰相となった。どうして二姓に仕えようか。ただ一死を賜わることを願うのみである」と。しかしなお忍びず、急いで手を振って退かせた。言上する者が天祥の請いを容れるよう強く勧めたので、これに従った。間もなく詔使が止めるよう命じたが、天祥は既に死んでいた。天祥は臨刑に際し極めて従容として、吏卒に言った、「我が事は終わった」と。南に向かって拝礼して死んだ。数日後、その妻欧陽氏が屍を収めたところ、顔は生きているようであり、年四十七であった。その衣帯の中に賛が有り、こう記されていた、「孔は仁を成すと言い、孟は義を取ると言う。ただその義を尽くすことにより、仁が至るのである。聖賢の書を読み、学ぶところは何事か。今より後、ほぼ恥じるところなからん」。
論じて言う。古より志士、天下に大義を信ぜんとする者は、成敗利鈍によってその心を動かさず、君子はこれを「仁」と命ずる。それは天理の正に合い、即ち人心の安んずる所であるからである。商の衰え、周に代わるべき徳有り、盟津の師には期せずして会するもの八百国。伯夷・叔齊の両男子が馬の轡を取ってこれを止めようとしたが、三尺の童子もそれができないことを知っていた。後日、孔子はこれを賢とし、言うには、「仁を求めて仁を得たり」と。宋は徳祐に至って亡びた。文天祥は兵馬の間を往来し、初めは口舌をもってこれを存せんとし、事既に成らず、両の孱王を奉じて嶺海の地を崎岖とし、興復を図ったが、兵敗れて身は捕らわれた。我が世祖皇帝は天地の如き包容の量をもって、その節義を壮とし、またその才を惜しみ、数年留め置いたが、虎や犀が檻の中にいるが如く、百方手を尽くしてこれを馴らそうとしたが、終に得ることはできなかった。その従容として刑に伏し、死に就くこと帰るが如きを見れば、これその欲するところ生に甚だしいもの有り、これを「仁」と言わずして何と言おうか。宋三百余年、士を取る科目は進士より盛んなるはなく、進士は倫魁より盛んなるはない。天祥の死より後、世の高論を好む者は、科目をもって偉人を得るに足りぬと言うが、果たしてそうであろうか。