宋史

列傳第一百七十六 喬行簡 范鍾 游似 趙葵 謝方叔

喬行簡

喬行簡、字は壽朋、婺州東陽の人。呂祖謙の門に学ぶ。紹熙四年の進士に及第。官を歴て通州知州となり、民に便なる事を条上す。戸部架閣を主管し、召されて館職を試みられ、秘書省正字兼樞密院編修官となる。秘書郎に昇り、淮西轉運判官となり、嘉興府知府となる。淮南轉運判官兼淮西提點刑獄・提挙常平に改む。金に必ず亡ぶべき形有り、中国は静かにして変を観るべしと言う。因りて備辺の四事を列上す。近臣に戦を主とする者有るに会い、師遂に出で、金人因りて蘄・黄を破る。浙西提點刑獄兼鎮江府知府に移る。起居郎兼国子司業に遷り、国史編修・実録検討を兼ね、侍講を兼ぬ。尋いで宗正少卿・秘書監に遷り、権工部侍郎と為り、皆兼職を任ず。

理宗即位す。行簡、丞相史彌遠に書を貽し、帝に孝宗に法りて三年の喪を行わんことを請う。詔に応じて疏を上して曰く、

「賢を求め、言を求むる二詔の頒布は、果たして能く初意を確かに守り、深く実益を求めば、則ち人才振い治本立ち、国威張りて姦宄銷ゆ。臣窃かに近事を観るに、似たり或いは然らず。夫れ侍従より郎官に至るまで凡そ幾人、監司より郡守に至るまで凡そ幾人、今其の挙ぐる賢能才識の士また其の幾人なるかを知らず、陛下蓋し嘗て其の一二を摭りて召し用いんと欲す。凡そ内外大小の臣の囊封上る所、或いは直く或いは巽なり、或いは切なり或いは泛なり、有らざる所無し、陛下亦た嘗て其の一二を摭りて施行に見え且つ褒賞す。而して天下終に陛下の具文たるを疑う。

蓋し召す所の者は、久しく宦情無く決して肯て来らざるの人ならざれば、則ち年既に衰暮にして決して来るべからざるの人なるのみ。彼の風節素より著しく、正を執りて阿わず、廉介にして守り有り、事に臨みて撓がざる者は、論薦多くと雖も、固より未だ嘗て收拾して之を召さず。其の施行褒賞する所の者は、往々皆末節細故にして、理乱に関せず、古今を粗述するも、抵触に至らず、然る後に之を取って吾が聴受の意有るを示す。其の間亦た豈に深憂遠識衆見の表に高く出で、忠言至計聖聴の聡きを補う者有らざらんや、固より未だ采納して之を用うるを聞かず。

陛下の御宇より今に至るまで、班行の彦、麾節の臣、論列に因りて去る者有り、自請に因りて帰る者有り。其の人、或いは職業に聞こえ有り、或いは言語自ら見ゆ。天下其の得罪の由を知らず、徒らに其の散に置き閑に投ぜられ、倏かに来り驟かに去り、甚だしきに至りては廃罷して鐫褫せられ、削奪して流竄せらるるを見て、皆以て陛下善士を黜遠し直言を厭悪すと為す。去る者遂に此に因りて名を得、朝廷乃ち是に因りて謗を致す、其れ亦た何ぞ此に便ならん。夫れ賢路は広くすべくして狭くすべからず、言路は開くべくして塞ぐべからず、治乱安危、此より起こらざるは莫し。」

又た天命を敬い士気を伸ぶべきことを言う。時に帝清燕殿に移御す。行簡「願わくは畏謹を加えよ」と奏し、且つ言う、「群賢方に集まる、願わくは済王の議の異同に因りて、渙散有るを致すこと勿れ」。侍読を兼ね、国子祭酒・吏部侍郎を兼ね、権礼部尚書となる。権刑部尚書となり、端明殿学士・同簽書樞密院事を拝し、簽書樞密院事に進む。

太后崩ず。疏を上して言う、

「向者、陛下の内廷の挙動は、皆稟承有りき。小人縦えに蠱惑干求の心有りと雖も、猶お忌憚する所有りて敢えて発せず、今者、安んぞ能く小人の是の心を萌さざるを保せん。陛下又た安んぞ能く聖心の少しく肆する無きを保せん。陛下天下の君と為り、当に皇極を懋建し、一に大公に循うべく、応に私に小人に徇いて其の誤られるべからず。

凡そ此を為す者は、皆戚畹肺肝の親、近習貴幸の臣、奔走使令の輩なり。外に貨財を取り、内に綱紀を壊す。上は以て人君の聡明を罔し、天下の怨謗を来たし、下は以て官府の公道を撓し、民間の曲直を乱す。縦えて已まずば、其の勢必ずや采聽の言を仮りて善類を傷動し、衆人の誉を設けて憸人を進拔し、忠を納れ勤を效すの意を借りて其の陰険巧佞の姦を售るに至らん。日積月累し、気勢益々張り、人主の威権、将に其の窃弄する所と為りて自ら知らざらんとす。

陛下衰絰身に在り、愈々当に警戒すべく、宮庭の間既に厳憚する所無く、嬪御の人又た昔より多く、春秋方に富める年を以て、声色縦え易き地に居る。万一此に於いて能く自ら制せずんば、必ず盛徳に大いに虧損有らん。願わくは陛下常に警省を加えよ。」

又た火災に因り言を求むることを論じ、其の切なる者を取って外に付し行わんことを乞う。又た許国の文資に換うべからざるを論じ、其の慮るべき者五有りとす。鄭損のしょくを帥たるべからざるを論ず。

又た言う、「時青なる者は、官を以てすれば国家の節度、人を以てすれば辺陲の大将、一旦遽かに李全の為に所戕せらる。是れ必ず其の終に我が用いる所と為るを疑い、変の肘腋に生ずるを慮り、故に其の未だ発せざるに先んじて之を駆除せしなり。窃かに意うに軍中必ず憤激思奮の人あるを、勢いに乗じ就きて淮陰一軍の尤なる者を抜きて以て其の師を護らしめ、然る後に明らかに青を殺す者の姓名を指し、之をして誅戮せしめ、贈恤の典を青に加うれば、則ち其の勢自ずから分かれ、而して吾此に籍りて以て之を制すれば、則ち其の姦心を折りて吾が大體を存することを得ん。然らずんば、跋扈する者は専殺して敢えて誅せず、功有る者は殺さるるを見て敢えて訴えず、彼朝廷一たび柔道を用い威断施さざるを知り、烏んぞ其の遞いに視效せざるを保せん。則ち其の慮るべき者は、独り李全一人のみに非ざる而已。」

また言うには、「山陽の民は離散し財は尽き、凶賊が長く安住する地にあらず、日夜鴟張の計を為すべし。揚州の城は堅く勢いは壮にして、全淮を坐して制するに足る。此の曹(賊徒)窺伺の心無きに非ざるべく、或いは其れに入らば、則ち淮東俱に我が有する所に非ず、先ず之を慮るべからざるなり」と。また重兵を海道に屯駐せしめ、内には呉・越の捍蔽と為し、外には南北の制限と為すことを請うた。

また論じて曰く、「李全泰州を攻囲す。剿除の兵は今已むべからず。此の賊は気貌人を逾えること無く、長算深謀有るに非ざるべし。直に剽捍勇決にして、能く其の党に長雄するのみ。況んや其れ泗の西城を守れば則ち西城を失い、下邳を守れば則ち下邳を失い、青社を守れば則ち青社を失い、既に又北に降る。此れ特なる敗軍の将なり。十年の内、白丁より三孤に至り、功薄くして報豊なり。反って義に背き恩を忘る。此れ天理人情の共に憤る所なり。惟だ意を決して之を行え」と。後皆行簡の料る所の如し。参知政事兼知枢密院事に拝す。時に三京を収復せんと議す。行簡告に在り、上疏して曰く、

「八陵に朝すべきの路有り、中原に復すべきの機有り。大いに為す有るの資を以て、為すべきの会に当たれば、則ち事の成る有るは、固より坐して策すべし。臣は師を出すの功無きを憂えずして、事力の継ぐべからざるを憂う。功有りて遂に継ぐべからざるに至れば、則ち其の憂い始めて深し。夫れ古よりの英君は、必ず先ず内を治めて後に外を治む。陛下今日の内治を視るに、其れ已に挙げたるか、其れ未だ挙げざるか。向に権を攬る前に、其の弊凡そ幾つか有りし。今既に親政したる後に、其の已に更新したる者凡そ幾つか有る。君子を用いんと欲すれば、則ち其の志未だ尽く伸びず。小人を去らんと欲すれば、則ち其の心未だ尽く革まず。上に厲精更始の意有りて、而して士大夫の苟且にして任責を務めざる者は自若たり。朝廷に包苴を禁じ、貪墨を戒むるの令有りて、而して州県の黷貨盈厭を知らざる者は自如たり。楮令を行わんと欲すれば、則ち外郡の新券は低価と雖も売れず。物価を平らげんと欲すれば、則ち京師の百貨は旧直を視て殊ならず。紀綱法度は多く頽弛して未だ張らず。賞刑号令は皆玩視して粛ならず。此れ皆陛下国内の臣子にして、猶お之を令して従わず、之を作して応ぜざるに、乃ち乾坤を闔辟し、区宇を混一し、姦雄を制し戎狄を折らんと欲す。其れ能く尽く吾が意の如くならんや。此れ臣の憂うる所の一なり。

古よりの帝王、其の民を用いんと欲する者は、必ず先ず其の心を得て以て根本と為す。数十年來、上下皆利を懐いて以て相接し、而して義と謂う所有るを知らず。民方に守令に憾み、緩急に死を効して去らざるの人あらんや。卒は其の将校を愛せず、臨陳に奮勇直前の士あらんや。怨を蓄え憤を含み、平日に積り、難を見れば則ち避け、敵に遇えば則ち奔り、惟だ利を顧み、皇ぞ其の他を恤わん。人心此の如し。陛下曾て之を転移固結する所有らず。遽かに之を北郷に駆り、鋒鏑に事えしめんと欲す。忠義の心何に由てか発せん。況んや境内の民は、州県の貪刻に困り、勢家の兼へいに厄せられ、饑寒の氓は常に時に乗じて怨を報ぜんと欲し、茶塩の寇は常に間を伺いて窃発せんと欲す。蕭牆の憂え凛として保つべからず。万一兵外に興り、強敵に綴られて休むを得ず、潢池の赤子、復た江・閩・東浙の事の如き有らば、其れ将に奈何せん。夫れ民は至愚と雖も忽にすべからず。内郡の武備は単弱にして、民の素より易うる所なり。往時江・閩・東浙の寇は、皆辺兵を藉りて以て之を制す。今此の曹猶お多く山谷に竄伏し、田里を窺伺す。彼は朝廷方に北方に事有るを知り、其の勢以て相及ぶべからざるを、寧く又其の姦心を動かさざらんや。此れ臣の憂うる所の二なり。

古よりの英君、規恢進取せんと欲すれば、必ず将を選び兵を練り、財を豊かにし食を足し、然る後に事を挙ぐ。今辺面遼闊にして、師を出すに一途に非ず。陛下の将、一面に当たるに足る者幾人か。勇にして能く闘う者幾人か。智にして善く謀る者幾人か。指を屈して二三十輩を得ずんば、恐らくは駆馳に備うるに足らず。陛下の兵、戦う能くする者幾万か。道を分かちて京・洛に趣く者幾万か。留屯して淮・襄を守る者幾万か。籍を按じて二三十万の衆を得ずんば、恐らくは進取に事うるに足らず。仮に曰く帥臣の威望素より著しく、意気を以て招徠し、功賞を以て激勧し、行伍を推択すれば即ち将と為す可く、降附を接納すれば即ち兵と為す可しと。臣実に錢糧の出づる所を知らず。師十万を興せば、日費千金。千里糧を饋れば、士に饑色有り。今の饋餉は、累日已まず、累月に至り、累月已まず、累歳に至る。累幾千金にして後に以て其の費を供す可きを知らず。今百姓多く垂罄の室有り、州県多く赤立の帑有り。大軍一たび動けば、厥費多端なり。其れ将に何を以てか之を給せん。今陛下金幣を愛しまずして辺臣の求に応ずるも、一たびは可なりと雖も再たびす可からず、再たびは可なりと雖も三たびす可からず。再三の後、兵事未だ已まず、中輟せんと欲すれば則ち前功を廃し、勉強せんと欲すれば則ち事力無し。国既に足らず、民亦堪えず。臣恐らくは北方未だ図る可からずして、南方已に先ず騒動せんと。中原蹂踐の餘、所在空曠たり。縦え東南に米有りて運ぶ可しと雖も、然れども道里遼遠にして、寧く乏絶を免れんや。淮より進むに由れば、縦え河渠通ず可き有ると雖も、寧く盗賊邀取の患無からんや。襄より進むに由れば、必ず二十鍾を負載して一石を致すを須い、亦た達する能わざるを恐る。若し師を千里の外に頓すれば、糧道継がず。此の時に当たりて、孫・吳を謀主と為し、韓・彭を兵帥と為すも、亦た策無きを恐る。他日糧を運ぶこと継がず、進退能わずんば、必ず聖慮を労せん。此れ臣の憂うる所の三なり。願わくは陛下聖意を堅持し、国論を定めて、以て紛紛の説を絶たんことを。」

果たして従わず。知枢密院事に進む。

時に御閲の議果たさず、反って驟かに之を汰う。殿司軍閧き、之が為に主帥を黜し、都司官を罷め、黄榜を給して撫存す。軍愈よ呼噪す。行簡以て聞き、首を為す者二十余人を戮し、衆乃ち帖息す。尋いで右丞相に拝す。言うに、「三京撓敗の餘、事は前と異なり、但だ益々戦守の備を修むべし。襄陽失守せり。急ぎ収復を請う」と。或いは又進取の計を陳ぶ。行簡奏して今内外の事勢憂うべく恃むべからざる者七つ有りとす。言甚だ懇切なり。師出づるを得ず。

端平三年九月、明堂に事有り、大雷雨。行簡と鄭清之並びに策免せらる。既に去りて、而して独り行簡を召し還して京に留め、左丞相に拝す。韓琦の故事に援い、辺防・財用を分けて三執政に委ぬるを乞い、中興五朝国事を修むるを請う。十上章して謝事を請う。嘉熙三年、平章軍国重事に拝し、肅国公に封ぜらる。毎に上游の重地を念い、節度宣撫使を建て、兵を提して夔を戍せしむるを請う。辺事稍く寧らぎ、復た老を告ぐ。章十八上す。四年、少師・保寧軍節度使・醴泉観使を加えられ、魯国公に封ぜらる。淳祐元年二月、家に薨ず。年八十六。太師を贈られ、諡して「文惠」と曰う。

行簡は歴練老成、識量弘遠にして、官に居るに言わざる所無し。士を薦むるを好み、多く顕達に至る。錢時・吳如愚を挙ぐるに至っては、又皆当時隠逸の賢者なり。著す所に《周禮總説》、《孔山文集》有り。

范鍾

范鍾は、字を仲和といい、婺州蘭溪の人である。嘉定二年に進士に挙げられた。官歴を経て武学博士に転じ、添差として太平州を通判し、徽州の知州となった。召されて朝廷に赴き、刑部郎官に遷り、また尚右郎官に遷り崇政殿説書を兼ねた。進み出て応対すると、帝が言われた、「仁宗の時は非常に事が多かった。」范鍾は答えて言った、「仁宗は初めは確かに事が多かったが、憂い勤めて治世を成し遂げられました。徽宗は初めは事がなかったが、その余患が今日に至っているのです。」帝は喜んだ。まもなく吏部郎中に遷り説書を兼ね、また秘書少監・国子司業に遷り国史編修・実録検討を兼ねた。起居郎に拝され祭酒を兼ね、権兵部侍郎に任じ同修国史・実録同修撰を兼ねた。兵部侍郎に遷り給事中を兼ね、権兵部尚書に任じ侍講を兼ね、まもなく侍読を兼ねた。嘉熙三年、端明殿学士・簽書枢密院事に拝された。四年、参知政事を授けられた。淳祐元年、帰郷を願い出たが、許されなかった。四年、枢密院事を知り、帰郷を願い出た。五年、特旨をもって左丞相兼枢密使に拝され、東陽郡公に封ぜられ、再び帰郷を願い出たが、許されなかった。六年、再び請うと、許された。観文殿大学士・醴泉観使兼侍読を加えられたが、辞して拝せず、晩節を保とうとして、洞霄宮の提挙となった。九年正月、薨去した。

范鍾が宰相であった時、直情で清廉に法を守り、名器を重んじ惜しんだ。赫々たる称えるべき事績はなかったが、清徳と雅量は、杜範・李宗勉と並び称された。少師を追贈され、諡は「文肅」といった。著した書に『礼記解』がある。

游似

游似は、字を景仁といい、利路提点刑獄游仲鴻の子である。嘉定十四年の進士で、官歴を経て大理司直となり、大理寺丞に昇進し、太常丞に遷り権兵部郎官を兼ねた。秘書丞に遷り権考功郎中・直秘閣・夔路転運判官を兼ね、潼川提点刑獄に移り常平提挙を兼ねた。田錫に封諡を請うことを上奏し、従われた。軍器監・宗正少卿に遷り権枢密都承旨を兼ねた。

時に暫く礼部侍郎権官兼侍講・権礼部侍郎を兼ねた。明堂の祭祀があった時、游似は上疏して言った、「天に事える礼を尽くそうと欲すれば、天を敬う心を尽くすべきである。心が存すれば政事は必ずその宜しきに適い、言動は必ずその理に当たり、雨や日照りは必ずその順序に従い、夷狄と中華は必ずその生を安んずるであろう。」同修国史・実録院同修撰を兼ね、権礼部尚書兼侍読となった。言うには、「軍功の賞が濫り冒されるので、告身を与える制度を請う。功績を奏上する者は真の任命を書き記して交付し、軍に従事して十年を経て、別に功を立て、統領以上に昇進した時、初めて所属する所から保証を明らかにして朝廷に申し出させ、名を立てて告身を与えるならば、濫り冒す者は改まり、功労ある者は勧められるであろう。」

礼部尚書に遷り給事中・修国史・実録院修撰を兼ね、権工部侍郎に任じ、四川宣撫司参賛軍事兼給事中を充任した。吏部尚書に遷り、経幄に侍した。帝が問われた、「唐太宗の貞観の治の効果は何故このように速いのか。」游似は答えて言った、「君主の一念の烈しさは、乾坤を回転させるに足ります。或いは覇道の図は速く王道は遅いと言いますが、一日仁に帰すれば、一ヶ月で可能であることを知らず、王道は嘗て速くないことがありましょうか。一念に時として間断があれば、天下の大勢を挽回する術がありません。憂い勤めること宸念に切であっても、補佐する者が人を得なければ、またどうして九重の実を布き宣べることができましょう。」そこで太宗の事を拾い集めて陳べ、かつ言った、「太宗は矜る心が容易に啓かれ、次第に終わりを保てず、僅かに貞観の治に止まりました。陛下が位を継がれて十五年、艱難危険の勢いはますます甚だしく、太宗の治の効果の敏速さを顧みると、隔たりはこのようであります。思うに、儒を親しみ諫に従い、畏敬して身を検することは、貞観の超卓さに及ばないのでしょうか。用を節して愛を致し、廉を選んで共に治めることは、貞観の切至さに及ばないのでしょうか。願わくは陛下がますます聖心を加えられますように。」

嘉熙三年正月、端明殿学士・同簽書枢密院事に拝され、南充県伯に封ぜられた。八月、参知政事に拝された。四年閏月、枢密院事を知り参知政事を兼ねた。淳祐四年、万寿観提挙兼侍読となり、なお朝請に奉じ、枢密院事を知り参知政事を兼ねることを授けられ、郡公に爵を進めた。五年、右丞相兼枢密使に拝された。十度上章して、帰郷を願い出たが、帝は許さなかった。七年、特旨をもって観文殿大学士・醴泉観使兼侍読を授けられ、国公に爵を進めた。十一年、二官を転じて致仕し、薨去した。特旨をもって少師を追贈された。

趙葵

趙葵は、字を南仲といい、京湖制置使趙方の子である。初めて生まれた時、或る人が南岳の神がその家に降りた夢を見た。趙方が襄陽にいた時、趙葵に飲食供養の事を専ら監督させた。兄の趙範と共に事功を志し、趙方は彼らを器として、鄭清之・全子才を師として招聘した。また南康の李燔に従わせて有用の学をさせた。警報を聞く毎に、諸将と共に出陣し、敵に遇えば深く入って死戦し、諸将は制置使の子を失うことを恐れ、必死で救ったので、屡々これによって勝利を得た。一日、趙方が将士を賞したが、恩が労に償わず、軍が変を起こそうとした。趙葵は十二、三歳の時で、これを察し、急いで呼んで言った、「これは朝廷の賜り物である、本司では別に賞を与える。」軍心はこの一言によって安定し、人はその機警さに服した。

嘉定十年、金の将軍高琪・烏古論慶寿が襄陽を侵犯し、棗陽を包囲した。当時辺境の烽火は久しく絶えていたので、金兵が突然到来し、人情は震え恐れた。趙方は趙範・趙葵を率いて戦いに行き、敗走させた。十三年、趙方は趙葵及び都統の扈再興を遣わして金人を高頭まで攻撃させた。高頭は、金人が必ず守る所である。精兵を出して迎え戦い、趙葵が先鋒を率いて奮撃し、扈再興が続いて進み殲滅した。翌日、進んで鄧州に駐屯し、金人は沘河を阻んで防いだ。趙葵は軍を指揮して進撃し、楊義ら諸将が続いて到着し、金兵もまた大挙して出て合戦したが、大いにこれを破り、捕虜斬殺及び降伏した者は二万近く、万戸以下十数人を捕え、馬八百頭を奪い、敗走を追って直ちに城下に迫ってから還った。

十四年、金人が蘄州を侵犯したので、趙葵は趙範と共に唐州・鄧州を攻撃した。趙方は彼らに命じて言った、「敵に勝たなければ、互いに会うな。」三月丁亥の日、唐州に到着し、城に迫って陣を布いた。金の大将阿海が兵を率いて出て戦い、趙葵は精騎を率いて敵に赴き、扈再興がこれに従い、大勝し、斬首一万余りを挙げた。金人は門を閉じて出て来なかった。当時、蘄州を陥落させた金兵が久長に至り、数十騎が山の頂から出て来たので、趙葵は楊大成を率いて十四騎でこれを追った。金の騎兵は次第に増えて数百に至り、趙葵は力戦して連続してこれを破ったが、金の歩兵騎兵が大いに集結した。丁度趙範・扈再興の軍が合流して戦い、夜半になってようやく解けた。庚寅の日、官軍は二つの陣に分かれ、趙範が左を将い、扈再興が右を将い、趙葵は突騎を率いて左右に策応した。金人も山を背にして二つに分かれて相対したが、先に動かなかった。趙範が言った、「金人は必ずまた夜戦を謀って幸いを得ようとする。」そこで予め大鼓を準備し、軍中に連続した鼓の声を聞いてから動くように命じ、もし彼らが五十歩以内に至らないうちに軽々しく動く者は斬るとした。間もなく、金兵が少し下山し、扈再興が急いでこれを衝くと、果たして敵に乗ぜられ、遂に趙範の軍に迫った。趙範は連続した鼓を鳴らして軍を指揮して突撃させ、趙葵が続いて進み、金兵数千を殲滅した。敵は力を併せて扈再興に向かい、趙葵は土豪の祝文蔚らを率いて精騎で横からこれを衝き、金人の死体は連なった。再び夜半まで相持ちしたが、金人は引き下がったものの、陣は元のままだった。趙範・趙葵は急いで将校を集め、死士数千を選び、黎明に四面から奮撃し、喚声は山谷を揺るがした。金人は逃走し、勝に乗じて敗走を追い、数千級を斬首し、副統軍は戈を投げて降伏し、掠め取られた子女一万余りを救い出し、輜重器械を山のように得た。趙葵は承務郎・知棗陽軍に補され、趙範は安撫司内機に授けられた。

方(趙方)が卒去すると、十五年、起復して直祕閣となり、廬州の通判を務め、進んで大理司直・淮西安撫參議官となった。十七年、李全が青州へ赴こうとした時、淮東制置使許國が趙葵に兵議を檄した。趙葵が至って言うには、「君侯は賊を図ろうとしながら、賊の罠の中に座している。後悔しても及ばない。ただ帳前の兵を厚くするのみが、なおこれを制するに足るであろう。」許國が言うには、「兵は集めることができず、集めても精鋭にはならぬ。どうすればよいか。」趙葵が言うには、「趙葵が両路の兵を見て、その精鋭を選別することを請う。君侯が三万を帳前に留めれば、賊は動くことができまい。」許國が言うには、「淮兵を集めて来て閲兵し、君がこれを監督するに如くはない。既に衆に示すに足り、また鋭兵を選ぶこともできる。」趙葵が言うには、「兵を有する郡は、必ず衝要の地にあり、守将がどうして城を空にして制使の命に従えようか。必ず朝廷に力争し、分かれて自衛のために留まるであろう。一旦朝命を得れば、必ずその強壮な者を匿し、老弱を遣わして数を備えようとする。鋭兵を選ぼうとする本意が、かえって鈍兵を得、衆に示そうとする本意が、かえって単弱を示すこととなり、徒らに戎心を啓くのみである。」許國は聞き入れず、ついに敗れた。

宝慶元年、范(趙范)が揚州の知事となると、趙葵に強勇・雄辺軍五千を調発して宝応に駐屯させ賊に備えることを請うた。趙葵は廬州におり、しばしば私財を費やして諸将と毬射を会したが、制置使曾式中と合わず、趙葵は去った。言事官がこれを専擅とみなしたため、ついに祠官を奉じた。三年、起用されて将作監丞となった。

紹定元年、出て滁州の知事となった。二年、李全が浙西に入って糴を告げようとしたが、実は畿甸を覗こうとしたのである。初め、李全が俘虜を献じた時、朝廷は節鉞を授けたが、趙葵はその必ず叛くと策し、丞相史彌遠に上書して言うには、「この賊がもし粟を得るに止まるならば、なお軽々しく内地に至らせるべきではない。況んや禍心を包蔵し、糴を告げるに止まらぬ。もしその萌芽を痛く抑えなければ、これより肆行して憚るところなく、いわゆる盗を室に延べ入れることとなり、畿内に諱むべからざる憂い有らんことを恐れる。」滁州に至り、その地が賊の衝に当たり、また金人と境を対する、実に両淮の門戸であるとして、城を修め隍を浚い、武事を経営して少しの暇もなかった。秦喜に青平を守らせ、趙必勝に万山を守らせ、形勢を壮んにした。趙葵の母が病み、謁告して省侍しようとしたが叶わず、股を刲って薬に混ぜてこれを寄せた。母が卒去すると、趙葵は官を解くことを求めたが、許されず、已むなく、卒哭して復た視事した。

李全は舟造りをますます急にした。趙葵はまた史彌遠に書を致して言うには、「李全は既に塩城を破りながら、反って陳知県が自ら城を棄てたと称する。これは朝廷を欺いて討罪の師を緩めようとし、彼が一意に舟楫を修め、器械を造り、城邑を窺伺し、あるいは直ちに海を浮かんで腹心を搗かんとするがためである。この奸謀は、火を観るが如く明らかである。趙葵は塩城の失守を聞いてより、日夕に首を延べて制帥の施設を俟っていた。今に至っては、かえって王節を塩城に遣わして逆賊に哀れみを乞うたと聞く。趙葵はまた二吏を山陽に遣わし、賊婦に命を請うたと聞く。堂堂たる制閫が、このような挙措をなすとは、豈に賊の計に堕ち、天下に笑われ、外夷に笑われぬことがあろうか。また聞くに、張國明が此前山陽を出た時、既に賊が塩城の兵を挙げんとするを知っていた。今もし國明の言を聴き、更に闊略に従うならば、これより人心解體し、万事渙散し、社稷の憂い諱むべからざる者有らん。趙葵は張皇して事を生じ釁を啓かんとするのではない。李全は決して忠臣ではなく、孝子ではない。丞相もし趙葵の言を聴き、翻然として図を改め、兵を発して叛を討つならば、豈に独り国勢を強くし社稷を安んずるのみならん。趙葵父子は世に国恩を受け、亦た万一の報いを庶幾う。丞相がもし趙葵の言を聴かず、兵を発して賊を討たざれば、豈に特り国勢を強くし社稷を安んずるべからざるのみならず、趙葵も亦た死する所を知らず、復た君相の恩に報いる可からん。一安一危、一治一乱は、朝廷の叛を討つか討たざるかに係るのである。淮東安んずれば江南安んじ、江南安んずれば社稷安んじ、社稷安んずれば丞相安んじ、丞相安んずれば凡そ国の臣子たり、丞相の門人弟子たる者、安からざるは莫し。」

また朝廷に言上して曰く、「趙葵父子兄弟は、世に国恩を受け、外夷・盗賊が国家を侵侮するを見る毎に、忠憤の激する為せざるはなかった。今大逆不道、朝廷を邈視し、君相の卵翼の恩に負うこと、李全に如くはない。此前は畔逆未だ顕わならず、猶言う可しであったが、今已に城邑を破蕩し、少しも忌憚するところがない。もし朝廷更に隠忍に従うならば、将に何を以て国と為さんとするのか。願わくは特り剛断を発し、其れを賊と名指し、即日に将を命じ師を遣わし、水陸並びに進み、此の逆を誅鋤し、以て社稷を安んじ、生霊を保たんことを。趙葵不才と雖も、願わくは身を朝廷に許さん。もし然らずば、趙葵を早く処分を賜わり、以て辺鄙を安んじ、国事に便ならしめられんことを。」

彌遠はなお討伐を興さんと欲せず、参知政事鄭清之が決断を賛した。そこで趙葵に直宝章閣・淮東提点刑獄を加え、滁州知事を兼ねさせた。趙范は日を刻んで趙葵と約し、趙葵は雄勝・寧淮・武定・強勇の歩騎一万四千を帥い、王鑒おうかん・扈斌・胡顯等にこれを将とさせ、趙葵を以て参議官を兼ねさせた。胡顯は胡穎の兄であり、拳力人に絶し、襄陽に在った時、出師する毎に必ず胡顯及び趙葵に各々精鋭を領せしめて分道戦に赴かせ、堅を摧き陣を陷れ、聚散離合、前に勁敵無く、功によりて檢校太尉に至った。

已にして、李全が揚州の東門を攻めた。趙葵は親しく出て搏戦した。賊将張友が城門を呼んで趙葵の出ることを請うた。出ると、李全は隔壕に在って立馬し相労苦した。左右が李全を射ようとしたが、趙葵はこれを止め、李全に来て何を為すかと問うた。李全は言うには、「朝廷は動もすれば猜疑を見る。今又我が糧餉を絶つ。我は背叛するにあらず、銭糧を索むるのみ。」趙葵が言うには、「朝廷は汝に銭糧を資し、汝に官職を寵する、蓋し貲うべからざるほどである。汝を忠臣孝子として待つに、乃ち反って戈を反し城邑を攻陷する。朝廷安んぞ汝の銭糧を絶たざらん。汝の云う、叛に非ずとは、人を欺くか、天を欺くか。」切責の言甚だ多く、李全は以て応えること無く、弓を彎ぎ矢を抽いて趙葵に向かい去った。ここにおいて数戦皆捷した。四年正月壬寅、ついに李全を殺した。事は李全の『伝』に見える。趙葵を進めて福州観察使・左ぎょう衛上将軍としたが、趙葵は辞して受けなかった。八月、召して樞密院に封じ稟議させ、宝章閣待制・樞密副都承旨を受け、旧職のまま仍って起復を落とし、尋いで兵部侍郎に進んだ。

六年十一月、詔して淮東制置使兼揚州知事を授けられた。入対すると、帝が言うには、「卿父子兄弟、力を宣べること甚だ多し。卿は行陣に在りて又能く率先士卒し、身を捐げて国に報いる。此れ尤も儒臣の難くするところ、朕甚だ之を嘉す。」趙葵頓首して謝して言うには、「臣不佞なりと雖も、忠孝の義は、嘗て君子に教えを奉ず。世に国恩を受け、当に躯を捐げて以て陛下に報いん。」

端平元年、朝議して三京を収復しようとし、趙葵は上疏して出戦を請うた。そこで権兵部尚書・京河制置使を授け、応天府知事・南京留守兼淮東制置使とした。時に盛暑に行師し、汴隄破決し、水潦泛溢し、糧運継がず、復した州郡は皆空城で、兵食に因る可きものが無かった。未幾、北兵南下し、河を渡り、水閘を発し、兵多く溺死し、遂に潰れて帰った。趙范が上表して趙葵を劾した。詔して全子才と各々一秩を降とし、兵部侍郎・淮東制置使を授け、司を泗州に移した。

嘉熙元年、宝章閣学士として揚州知事となり、旧制置使のままとした。二年、安豊を応援して捷したことを以て、奏して刑部尚書を拝し、端明殿学士に進み、特り執政の恩例を与え、復た本路屯田使を兼ねた。趙葵は前後揚州に留まること八年、田を墾き兵を治め、辺備益々飭う。淳祐二年、大学士に進み、潭州知事・湖南安撫使となり、福州に改めた。

三年、母を葬り、服喪期間を満了するまで追服を請うたが、許されなかった。范葵が上疏して言うには、「忠を移して孝となすは、臣子の通誼なり。孝を教えて忠を求むるは、君父の至仁なり。忠孝は一原にして、並行して悖らざるなり。故に曰く、忠臣は以て其の君に事え、孝子は以て其の親に事う、其の本は一なりと。臣不佞、戒謹して持循し、唯だ先づ墜つるを恐る。往年事任に叨り、戎行に服し、同気と偕に以て率先し、万死を冒して顧みず、躯を捐て難を戡え、命を効して封を守る、是れ孝を以て君に事うるの充たるなり。陛下昭示し顕揚し、優崇し寵数し、人子たる者をして恩を感ぜしめ、人親たる者をして勧めを知らしむ。臣昨草土に於て、命を被り起家し、権制に従うを勉め、国家の急を先にして親喪を後ろにせり。今位を釈ぎ官を去り、既に追服して廬に居る、彝制に従わんことを乞う」と。また許されなかった。再び上疏して言うには、「臣昔者詔を奉じて逆を討たんとし、適丁家難に遭い、閔然たる哀疚の中に、命を以て駆馳の事に就く、孝を移して忠となす、敢えて辞せざる所なり。是れ臣嘗て国家の急を先にし、臣子の義を効せしなり。親恩未だ報いず、浸く一紀を踰ゆ、稻を食い錦を衣る、俯仰愧を増す。且つ臣業已に衰麻の制を追い、苫塊の哀を伸べ、土を負いて墳を成し、廬に倚りて尽くるを待つ、喪事進む有りて退く無し、固より数ヶ月にして除くべからざるなり」と。乃ち洞霄宮提挙を命ぜられたが、拝受しなかった。

淳祐四年、同知樞密院事を授けられた。疏を奏して言うには、「今天下の事、其の大なる者幾何ぞ。天下の才、其の用う可き者幾何ぞ。吾其の大なる者に従いて之を講明し、其の用う可き者を疏して之を任使せん。勇略有る者は兵を治め、心計有る者は財を治め、寛厚なる者は牧養を任じ、剛正なる者は風憲を持す。官の為に人を択び、人の為に官を択ばず。之を用うる既に当たり、之を任ずる既に久しければ、然る後に以て其の成效を責む可し」と。又、亟に宰臣と講求規画し、凡そ宗社の安危治乱に関する大計有る者を条具して聞こえ、其の先後緩急を審らかにして以て籌策を図らしむることを乞うた。然らば則ち治功成る可く、外患畏るるに足らずと。又、遊撃軍三万人を創設して江を防がんことを乞うた。詔して従う。十二月、知樞密院事兼参知政事を拝した。又、特授にて樞密使兼参知政事、江・淮・京西・湖北軍馬を督視し、長沙郡公に封ぜられた。尋いで建康府知事・行宮留守・江東安撫使を拝した。

九年、特授にて光禄大夫・右丞相兼樞密使、信国公に封ぜられた。四度上表して力辞し、言者以て宰相は須らく読書人を用うべしとし、観文殿学士に罷められ、醴泉観使兼侍読を充て、仍って朝請を奉じた。尋いで潭州判・湖南安撫使を判じ、特進を加えられた。宝祐二年、広西を宣撫した。三年、荊湖に鎮を改め、荊門及び郢州を城した。湖南路安撫使・潭州判に改授されたが、再辞し、旧職の醴泉観使に依った。五年、少保・寧遠軍節度使に進み、魏国公・醴泉観使兼侍読に進封された。四度辞して免ぜられた。開慶元年、慶元府判・沿海制置使を判じ、尋いで沿江・江東宣撫使を授かり、司を建康府に置き、隆興府・饒州・江州・徽州両界の防拓調遣を任責し、時暫く建康府判・行宮留守を兼判し、尋いで江東西宣撫使を授かり、饒・信・袁・臨江・撫・吉・隆興の官軍民兵を節制調遣した。百姓の疾苦を訪問し、罷行黜陟し、並びに便宜従事を許された。

景定元年、両淮宣撫使・揚州判を授かり、魯国公に進封され、尋いで祠を奉じた。咸淳元年、少傅を加えられた。二年、致仕を乞うたが、特授にて少師・武安軍節度使を授かり、冀国公に進封された。舟小孤山に次ぎ、薨じ、年八十一。是の夕、五洲星隕ちて箕の如し。太傅を贈られ、諡して「忠靖」と曰う。

兄 范

范は、字を武仲と云い、少くより父の軍中に従う。嘉定十三年、嘗て弟の葵と共に金人を高頭に殲滅す。十四年、唐・鄧に出師し、范は葵と共に監軍となる。孟宗政時に棗陽を知り、供億に憚り、人を遣わして問うて曰く、「金人は蘄・黄に在り、而して君は唐・鄧を攻む、何ぞや」と。范曰く、「然らず、襄陽の備を徹して以て蘄・黄を救わば、則ち唐・鄧必ず将に吾が後を躡わん。且つ蘄・黄の寇正に鋭し、何ぞ唐・鄧を先づ搗ちて以て余有るを示さざらんや、唐・鄧我に応うるに暇あらず、則ち吾が圉守らずして自ら固く、寇蘄・黄に在りて師日を以て老ゆ、然る後に師を回して之を蹙めば、敵に勝ちて後患無かる可し」と。又、金人を久長に敗り、弟の葵と共に制置安撫司内機を授けられ、事は『葵伝』に具わる。

十五年、父憂に遭い、起復して直祕閣・揚州通判となる。十六年、軍器監丞となり、直祕閣を以て光州知事となる。十七年、入りて知大宗正丞・刑部侍郎・試将作監兼権知鎮江府となる。直徽猷閣に進み、揚州知事・淮東安撫副使となる。劉全・王文信の二軍の老幼は揚州に留まる。范軍政を修めんと欲し、其の徒の兵機を漏泄するを懼れ、乃ち時に饋労す。二家既に大喜し、范即ち徐晞稷に書を遺し、二人をして家を挈げて楚に帰らしむるを教えしむ。二人之に従う。范厚く賚して以て遣わす。孫海と云う者有り、其の衆亦八百。范並びに抽還して楚州に帰さんことを請い、又、馬軍三千を創設し、游手の強壮なる者を招き及び牢城の重役人を籍して之を充てんことを請う。別に民を籍して半年兵と為し、春夏は田に在り、秋冬は教閲す。官は砦を建つるを免れ、而して私農を廃せず。

彭義斌、統領の張士顯をして范に見えしめ、合謀して李全を討たんことを請う。范、制置使趙善湘に告げて曰く、「義斌を以て全を蹙むるは、山の卵を圧するが如し。然れども必ず請うて後に討つ者は、朝廷有るを知るなり。此を失いて右せずして、凶徒を右せば、則ち権綱解紐す。万一義斌朝命無くして大勲を成さば、是れ又た唐の藩鎮の事、計の得る所に非ざるなり。揚州増戍の兵を移して盱眙に往かしめ、而して四総管の兵は各々半ばを留めて以て金人に備え、余は皆起発し、一の能く将する者を択びて之を統べしめ、葵を命じて淮西の精鋭万人を摘みて楚州に会わしめ、許浦海道より出で、五十艘を以て淮に入り、以て賊の帰路を断ち、密かに義斌と約して北より之を攻めしむれば、事済まざる無し。四総管の権位相侔う、劉琸能く其の歓心を得と雖も、其の死命を制する能わず。琸を用うるは、須らく親しく行陣に履行し、四人を指蹤せしむべく、止だ籌帷幄に坐するのみに可からず」と。報いず。

范また曰く、「国家賊を討てば則ち此より中興し、然らずば則ち此より振わず。若し朝廷張皇せんと欲せざれば、則ち范は提刑たり、職は盗を捕うるに在り、但だ范をして本路の兵を以て楚州の塩賊を措置せしめ、范は時に時青・張惠両軍の半を調え、及び其の船数百を以て、径に楚城に薄き、以て賊路を遏し、夏全・范成進の半を調え、漣・海を拠りて之を守り、又揚州の戍を移して以て盱眙を戍らしむ。然して親しく精鋭雄勝・強勇等を提げて時青に就くことを城外に得、賊に形勢を示し、賊に禍福を諭せば、賊必ず自ら降らん。若し猶拒守せば、則ち南北の軍民雑処し、必ず内応する者有らん。別に義斌を約して之を北より攻めしめ、山陽下れば則ち進みて漣・海に駐り以て之に応じ、帰附の家属を撫して以て其の党を離せば、半月を出でず、此の賊必ず亡びん。是くの如くせば、則ち許浦の水軍を調えず、但だ趙葵の三千人を得るも亦足れり。若し朝廷費を憚れば、則ち全く預買軍需銭二十万有りて真州に在り、且つ漣・楚の積聚、多く自ら用に足る。」

丞相史彌遠、范に書を報じ、四総管に諭して各安靖の福を享けしむ。范の遣わしし計議官之を聞きて曰く、「但だ禍根転た深くして、安靖を得ざるを恐るるのみ。」各涕を揮いて帰る。会に全将に至らんとす、范又計を献じて曰く、「機を撫でて発せざれば、事已に及ぶ無し。侯景河南に困喪し、蕭氏に毒を致す;今逆全義斌に志を得ずして、復た四総管の之に応ずるを慮り、旧巣に帰り拠らば、其の謀必ず急ならん。然れども之を喪敗の余に蹙するは易く、之を休息の後に図るは難し;況んや四総管合謀章露し、必ず遂に已め難からん。但だ事機既に変じ、局面同じからず。若し廟算果たして定まり、教令を出さんと欲せざれば、但だ密賜を以て指授を得、范一切伏蔵して動かず、只だ義斌を約し、使に彼より其の必ず救わんとする所を攻めしめば、則ち機会我に在り、而して前日の策用いる可し。」還報し、范に出位専兵せざるを戒む。

范乃ち書を為して廟堂に謝し、且つ之を決して曰く、「今上は一人より、下は公卿百執事に至り、又下は士民軍吏に至るまで、禍賊の必ず反すを知らざる無し。先生の心と雖も、亦其の必ず反すを知る。衆人の之を知れば則ち之を言い、先生知りて独り言わず、言わざる誠に是なり。内に臥薪嘗胆の志無く、外に戦勝攻取の備無く、先生隠忍して言わず而して徐に之を制する所以を思う、此れ廟謨の高き所以なり。然れども撫定を以て晞稷に責め、而して鎮守を以て范に責む。晞稷を責むる者は函人の事なり、范を責むる者は矢人の事なり。既に范を惟だ人を傷つけざるを恐れざるの事を以て責め、又其の人を傷つくるの痛みを為すを禁め、其の人を傷つくるの言を為すを悪むは、何ぞや?其の禍賊范の備えを為すを見れば、則ち必ず忌みて以て其の姦を肆にするを得ず、他日必ず将に范を指して首禍激変の人と為し、朝廷を劫して以て范を去らしめん。先生始め之を信ぜず、左右曰く可、卿大夫曰く可、先生必ず将に曰く、『是れ何ぞ一の趙范を惜しんで以て禍を紓えざるや?』必ず将に范を縛して以て賊に授け、而して范遂に宋の晁錯と為らん。然りと雖も、范を以て賊に授けて而して果たして以て国禍を紓うるに足らば、范死すとも何の害かあらん?諺に曰く、『家を護るの狗は、盗賊の悪む所。』故に盗賊家を護るの狗有るを見れば、必ず将に主人に指斥し、使いて先ず之を去らしめ、然る後穿窬の姦を肆にして忌むる所無し。然らば則ち犬を殺すは固より盗を弭むるに益無し。願わくは矜憐を欲望し、別に閑慢の差遣を与えん。」彌遠書を得て、之が為に心を動かす。

二年春、祠を奉ず。三年、安慶府を知る、未だ行かず、池州を知るに改め、継いで江東提挙常平を兼ぬ。彌遠葵に将材を訪う、葵范を以て対う。范を進めて直敷文閣・淮東提点刑獄兼ねて滁州を知らしむ。范曰く、「弟にして兄を薦む、順ならず。」母老を以て辞す。乃ち上書して彌遠に曰く、「淮東の事、日異月新なり。然れども淮有れば則ち江有り、淮無ければ則ち長江以北、港𣿭蘆葦の処、敵人皆潜師を以て済する可く、江面数千里、何よりかして防がん?今或いは巽辞厚恵を以て賊を啖う可しと謂い、而して彼が款兵の計に陷るを知らず。或いは兵を斂め屯を退きて以て賊を緩ます可しと謂い、而して彼が深入の謀を成すを知らず。或いは清野を行いて以て城に嬰らんと欲し、或いは烏合を聚めて而して浪戦せんと欲し、或いは賊詞の乍順乍逆を以て喜懼と為し、或いは賊兵の乍進乍退を以て寛緊と為す、皆失策なり。失策すれば則ち淮を失い、淮を失えば則ち江を失い、而して其の失い勝って諱む可からざる者有らん。夫れ寇を遏するの兵有り、遊撃の兵有り、賊を討つの兵有り。今宝応の山陽に逼り、天長の盱眙に逼るは、須らく各戍兵万人を増し、良将を遣わして之を統べしめ、賊来れば則ち堅壁を以て其の鋒を挫き、来らざれば則ち武を耀わして以て其の境を圧す;而又釁を観て隙に伺い、時に偏師を遣わして其の備えざるを掩い、以て敢戦を示し、使いて深く入らんと欲すと雖も吾が其の虚を搗くを畏れしむ、此れ寇を遏するの兵なり。盱眙の寇、素より儲蓄無く、金人亦以て之を養う無く、兵を分かち擄掠して食うに過ぎず;当に精兵を量り出だし、勇校を授け、土豪を募り、奇を出だし伏を設けて以て之を剿殺すべし、此れ遊撃の兵なり。惟だ揚・金陵・合肥、各二三万人を聚め、人物必ず精しく、将校必ず勇なり、器械必ず利く、教閲必ず熟し、紀律必ず厳しく、賞罰必ず公なり、其の心術念慮必ず人々其の上に親しみ其の長に死せんと思わしむ;信じて能く此を行えば、半年にして以て国を強うる可く、一年にして以て賊を討つ可し。賊既に深く入る能わず、擄掠復た獲る所無く、而又討たるるの恐れを懐けば、則ち必ず反って贍を金に求めん;金余力此に及ぶ無くば、則ち必ず之を怨み之を怒らん、吾は是に於いて以て禍を金人に嫁す可し。或いは揚州に重兵を屯す可からずと謂い、連ねて賊禍を恐る、是れ然らず。揚州は、国の北門、一に以て淮を統べ、一に以て江を蔽い、一に以て運河を守る、豈に備無かる可けんや。善く守る者は、敵攻むる所を知らず。今若し宝応・天長二屯を設けて以て其の衝を扼し、復た二三の帥閫を重くして以て吾が勢を張らば、賊将攻むる所を知らず、而して敢えて我が揚州を犯さんや?設い賊兵勢を知らずして揚州を犯せば、是れ死を送るなり。」朝廷乃ち范を召して稟議せしめ、復た池州を知らしむ。

紹定元年、将作監を試み、鎮江府を知る。三年、母憂に丁し、官を解かんことを求む、許さず。起復して直徽猷閣・淮東安撫副使。尋いで右文殿修撰に転じ、章服金帯を賜う。已むを得ず、卒哭して復た事を視る。又書を為して廟堂に告げ、「調停の議を罷めんことを請い、一に沿江制置司に檄し、王明本軍を調えて泰興港に駐し以て泰州下江の捷徑を扼せしむることを請い;一に射陽湖の人を兵と為し、其の半を高郵に屯して以て賊の後を制し、其の半を瓜州に屯して以て賊の前を扼せしむることを請い;一に速やかに淮西兵を調えて滁陽・六合諸軍と合し江面を救わんことを図らしむることを請う。然らずば、范江臯に死すと雖も益無し。」朝旨乃ち范に射陽湖兵を刺すこと二万人を過ぎざるを許し、就いて節制を聴かしむ。

范はまた善湘に書を送りて曰く、「今日宗社と休戚を同じくする者は、内には惟だ丞相、外には惟だ制使と范及び范の弟葵のみ。賊若し志を得ば、此の四家は必ず存する理無からん」と。是に於て賊を討つ謀遂に決し、遂に全を戮す。范を兵部侍郎・淮東安撫使兼知揚州兼江淮制置司参謀官に進め、以て次第に淮東を復す。吏部侍郎を加え、工部尚書・沿江制置副使に進み、権めて司を移し兼ねて黄州を知り、尋いで兼ねて淮西制置副使と為す。未だ幾もせず、両淮制置使・節制巡辺軍馬と為り、仍って沿江制置副使を兼ぬ。

又た端明殿学士に進み、京河関陝宣撫使・知開封府・東京留守兼江淮制置使と為る。洛に入るの師大いに潰え、乃ち京湖安撫制置使兼知襄陽府を授く。范至れば、則ち王旻・樊文彬・李伯淵・黄国弼数人を腹心に倚り、朝夕酣狎し、了として上下の序無し。民訟・辺防、一切廃弛す。南北軍将の交争に属し、范撫御に失す。是に於て北軍の王旻内に叛き、李伯淵之に継ぎ、襄陽を焚きて北去す。南軍の大将李虎焚を救わず、変を定めず、乃ち之に因りて劫掠す。城中の官民尚ほ四万七千有奇、倉庫に在る銭糧慮る無く三十万、弓矢器械二十有四庫、皆敵の有と為る。蓋し岳飛の収復より百三十年、生聚繁庶し、城高く池深く、西陲に甲たりしが、一旦灰燼かいじんと化し、禍至って惨し。言者范を劾し、三官を降し職を落とし、旧の如く制置使と為す。尋いで祠を奉じ、言に以て罷む。論者未だ已まず、再び両官を降し、建寧府に居住を送る。嘉熙三年、官職を叙復し、宮観を与う。四年、静江府を知り、後ち家に卒す。

謝方叔

謝方叔、字は徳方、威州の人。嘉定十六年進士、歴官監察御史。疏を奏して曰く、「剛徳を秉りて以て上帝の心を回らし、威断を奮い起こして以て天下の勢を回らす。或いは猶ほ前習の便嬖の人、以て私に陛下の聴を有ちて陛下の心を悦ばすを恐る。則ち前日の畏るる者は怠り、憂うる者は喜び、慮るる者は玩ぶ。左右前後の人、憂危恐懼の言を進むる者は、是れ忠を上に納るるなり。燕安逸楽の言を進むる者は、是れ上に忠ならざるなり。凡そ水旱盗賊の奏有る者は、必ず忠臣なり。諂諛蒙蔽の言有る者は、必ず佞臣なり。陛下玉食珍羞の奉を享け、当に両淮流莩転壑の矜る可きを思うべし。管弦鐘鼓の声を聞き、当に西蜀白骨山の如きの念う可きを思うべし」と。又た言う、「儉徳を崇くして以て天理に契い、人材を儲えて以て天職に供え、遠略を恢めて以て天討を需い、仁政を行いて以て天意に答う」と。帝悦ぶ。差して衡州を知り、宗正少卿を除き、又た太常少卿兼国史編修・実録検討を除く。

時に劉漢弼・杜範・徐元杰相継いで死す。方叔言う、「元杰の死、陛下既に官を命じて獄を鞫し、賞を立てて姦を捕う。罪人未だ得ず、忠冤未だ伸びず。陛下苟くも始終主持せずんば、将に恐らくは紀綱地を掃い、而して国以て国と為す無からん」と。殿中侍御史に遷り、進み対し、言う、「操存は方寸に本づき、治乱は天下に係る。人主法宮蠖𫉯の邃きに宅し、朝夕親近する者は左右近習承意伺旨の徒、往々にして上の好む所を覘う。過ぎずんば恩寵を保ち、貨利を希うのみ。而して冥冥の中、或いは游揚の説有り、潜伏して之を覚ゆる莫し。微を防ぎ漸を杜ぐは、実に是の心を以て之を主とす」と。又た言う、「今日両淮の為に謀る者に五有り。一に曰く間諜を明らかにす、二に曰く馬政を修む、三に曰く山水砦を営む、四に曰く近城の方田を經理す、五に曰く遊騎を遏絶し及び擄掠を救奪するの賞罰を加重す」と。限田を行うを請い、朱熹の門人胡安定・呂燾・蔡模を録するを請う。詔皆従う。

権刑部侍郎兼権給事中、升めて兼侍講、正しく刑部侍郎を授け、権国史編修・実録検討。端明殿学士・簽書枢密院事・参知政事を拝す。淳祐九年、参知政事を拝し、永康郡侯に封ず。十一年、特に知枢密院事兼参知政事を授け、尋いで左丞相兼枢密使を拝し、進みて惠国公に封ず。帝に愛身育徳を勧む。

監察御史洪天錫の宦者盧允升・董宋臣を論ずるに属し、疏留中して下さず。大宗正寺丞趙崇璠方叔に書を移して云く、「閹寺驕恣甚だ甚だし。宰執正救を聞かず、台諫誰何を敢えせず。一新入孤立の察官、乃ち鋭意身を出だして之を攻む。此れ豈に易くして得んや。側耳数日、寂として聞く所無し。公議は他人を責めずして、宰相に責備す。然らずんば、倉卒に御筆を出だし、某人に少卿を授くとも、亦た必ず遏むるの理無からん。丞相我が責に非ずと謂う可からず。丞相君を得ること最深く、名位已に極まれり。倘し言の勝たば、宗社之に頼る。言の勝たざれば、則ち去る。去れば則ち諸君必ず容れずして争わざる可からず。是れ勝つも勝ち、負くるも勝ち。況んや必ずしも去らざるや」と。方叔書を得て、赧色有り。

翼日、果たして御筆を得て天錫に大理少卿を授け、而して天錫国を去る。是に於て太学生池元堅・太常寺丞趙崇潔・左史李昴英皆允升・宋臣を論撃す。而して讒する者又た曰く、「天錫の論は、方叔の意なり」と。天錫の去るに及び、亦た曰く、「方叔の意なり」と。方叔上疏自ら解す。是に於て監察御史朱応元方叔を論じ、相を罷む。既に罷めて、允升・宋臣猶ほ以て未だ快とせず、厚く太学生林自養に賂し、上書力めて天錫・方叔を詆り、且つ曰く、「方叔を誅するを乞い、天下に明らかに宰相台諫の去る、独断に出づるを知らしめ、内侍に初め預かり無きをせん」と。書既に上る。学舎自養の姦に党するを悪み、相与に鼓を鳴らして之を攻め、上書して其の罪を声す。乃ち方叔に観文殿大学士・提挙洞霄宮を授く。復た監察御史李衢の両劾に以て、職を褫し祠を罷む。後ち旧職に依り、祠を与う。起居郎召沢・中書舎人林存劾して罷む。監察御史章士元更に降削を与うるを請い、広南に竄す。景定二年、致仕を請う。乃ち官職を叙復す。

度宗即位す。方叔一琴・一鶴・金丹一粒を以て来り進む。丞相賈似道其の希望を恐れ、権右司郎官盧越・左司諫趙順孫・給事中馮夢得・右正言黄鏞に諷し相継いで方叔の官職封爵を奪うるを請わしむ。制置使呂文徳己が官を以て其の罪を贖わんことを願う。咸淳七年、詔して致仕を叙復す。八年卒す。特に少師を贈る。方叔相位に在りし時、子弟政に干し、若し余玠の類を讒するは是れなり。

論ずるに、喬行簡は弘深にして賢を好み、事を論ずるに通諫たり。范鍾・游似は同じく相位に在り、皆謹飭にして自ら将するも、而して意見は侔わず。趙方は予め二子の後当に若何なるかを計り、而して葵・范の立つ所、皆言う所の如し、所謂子を知ること父に若くは莫しなり。然れども宋は端平以来、淮・蜀両辺を捍禦する者は、葵の材館の士に非ざれば、即ち其の偏裨の将なり。朝廷之に倚る、長城の勢の如し。其の筋力既に老ゆるに及び、而して衛国の志衰えず、亦た曰く壮なるかな!謝方叔の相業は人に過ぐる者無く、晩年権臣に困じ、至っては玩好丹剤を以て人主の寿を為し、是に坐して貶削せられ、金鏡に愧ずること多し!