宋史

列傳第一百七十五 呉淵 余玠 汪立信 向士璧 胡穎 冷應澂 曹叔遠 王萬 馬光祖

吳淵

吳淵、字は道父、祕閣修撰吳柔勝の第三子なり。幼より端重にして寡言、苦志力學す。五歳にして母を喪ひ、哭泣哀慕すること成人の如し。嘉定七年進士に挙げられ、建徳縣主簿に調せらる。丞相史彌遠、館して留め、語ること竟日、大いに悦び、淵に謂ひて曰く、「君は國器なり、今開化に新たに尉を置く、即日にして上ること可し、此を以て君を處せんと欲す」と。淵對へて曰く、「甫かに一官を得たり、何ぞ敢へて躁進せん、況んや家に嚴君有り、當に稟命すべき所なり」と。彌遠之が爲に容を改め、復た強ひず。官に至り、令を辟す。江東九郡の冤、諸使者に訟するもの、皆淵に送ることを乞ふ。改めて浙東制置使司幹辦公事に差す。

父憂に丁し、詔して前職を以て起復せしむ、力辭す、許さず、再び辭し、且つ政府に書を貽して曰く、「人道は親に事ふるより大なるは莫く、親に事ふるは死を送るより大なるは莫し、苟も哀を冒して榮を求むれば、則ち平生の大節已に地を掃す、他日何を以て君に事へん」と。時に丞相史嵩之方に起復せんとす、或ひは曰く、「時宰に礙るを得ざらんか」と。淵顧みず、詔之に從ふ。服除け、浙東提舉茶鹽司幹辦公事に差し、尋で鎮江府節制司、沿江制置使司幹辦公事に改む。皆就かず。武陵縣を知り、揚子縣に改め淮東轉運司幹辦公事を兼ね、添差して眞州を通判す。入りて將作監丞と爲り、樞密院編修官に遷り刑部郎官を兼ね、再び秘書丞に遷り仍て刑部郎官を兼ぬ。直煥章閣を以て平江府を知り許浦水軍を節制し、浙西刑獄を提點す。

會ふに衢・嚴に盜起り、警報至る、將士を調遣し之を招捕し、其の渠魁を殲し、其の支黨を散ず、功を以て樞密院檢詳諸房文字兼國史院編修官、實錄院檢討官兼左司と爲る。右文殿修撰、樞密副都承旨兼右司兼檢正に進む。適ひ政府中原に用兵せんと欲し、關を據へ河を守るを以て説と爲すに、淵力めて其の不可を陳し、大要國家の力決して取ること能はず、縱ひ之を取るとも決して守ること能はざるを謂ふ。丞相鄭清之樂しまずして罷む。出でて江州を知り、江・淮・荊・浙・福建・廣南都大提點坑冶に改む。都司袁商、御史王定をして淵を劾せしむ、罷す。侍御史洪咨夔之を直とせず、定を劾して左遷す。未だ幾ばくもせず、邊事果たして淵の言ふ如く、清之書を致して咎を引き巽に謝す。鎮江府を知るに差し、防江軍の擾を定め、淮東總領を兼ね、功を以て太府少卿に遷り、復た總領を以て鎮江を知り、集英殿修撰を加へられ、鎮江を知り總領を兼ぬ。權工部侍郎に進み、職任舊の如し。權兵部侍郎、權戶部侍郎、再び總領として鎮江を知る。

時に淵闕下に造り入對し、歷て九事を陳す。甫かに殿を下るや、御史唐璘之を撃つ。璘蓋し淵の薦むる所の者なり。遂に仍て前職、太平興國宮を提舉す。久しくして、寶章閣待制を加へられ、再び起きて鎮江を知り總領を兼ぬ。未だ幾ばくもせず、戶部侍郎を以て鎮江府を知り、行在に召し赴かしむ。寶章閣直學士を以て太平州を知り、尋で江東轉運使を兼ぬ。

時に兩淮の民流徙して境に入る者四十餘萬、淵亟に慰撫を加へて之を賙濟し、之を什伍にし、土著の人相犯ふこと無からしむ。旁郡の流民焚劫すること虛日無し、獨り太平の境內肅然として敢へて譁する者無し。功を以て華文閣直學士、沿海制置使、慶元府を知るを加へらる、赴かず。工部尚書、沿海制置副使を以て江州を知るも、亦赴かず。華文閣學士に昇り、隆興府を知り江西安撫使兼轉運副使と爲る。會ふに歲大祲有り、荒政を行ふを講じ、全活する者七十八萬九千餘人。潭州に徙り湖南安撫使を知らんとす、赴かず。敷文閣學士を加へられ、仍て隆興府を知り、安撫、轉運副使舊の如し。鎮江府を知り浙西沿海諸州軍、許浦、澉浦等處の兵船を都大提舉するを改む。歲亦大祲有り、淵に因りて全活する者六十五萬八千餘人。右正言三たび疏して淵を劾し、職を奪ふ。尋で職を復し、太平興國宮を提舉す。未だ幾ばくもせず、鴻慶宮に改む。

母憂に丁し、服除け、龍圖閣學士、江西安撫使に進み江州を知り、尋で沿江制置副使兼南康軍兵甲公事を提舉し、蘄黃州、安慶府屯田使を節制す。湖南の峒寇蔓りて江右の境に入り、數縣を破り、袁・洪大いに震ふ。淵將を命じ兵を調へ、其の渠魁を生禽し、亂遂に平ぐ。兵部尚書に遷り平江府を知り浙西兩淮發運使を兼ぬ。尋で平江府を知るを兼ね、歲亦大祲有り、淵に因りて全活する者四十二萬三千五百餘人。浙西提點刑獄、太平州を知り兩淮茶鹽所を提領するを兼ね、功を以て端明殿學士、沿江制置使、江東安撫使に進み建康府を知り、行宮留守を兼ね、和州無爲軍安慶府を節制し三郡屯田使を兼ぬ。

朝廷淵に光・豐・蘄・黃の事を付す。凡そ司空しくう山、燕家山、金剛臺の三大砦を創り、嵯峨山、膺山、什子山等二十二小砦を築き、丁壯を團し軍を置き、隊伍を分ち立て、星の聯なり棋の布くが如く、脈絡貫通し、事無きときは耕し、警有るときは禦ぐ。詔して淵の利を興し害を除く所列する二十有五事を以て、軍民に心を究むるにより、資政殿大學士を拜し、職任舊の如く、執政の恩例に與り、金陵侯に封ぜられ、復た「錦繡堂」、「忠勤樓」の大字を賜ふ。公に爵を進め、福州に徙り福建安撫使を知る。平江府を知り發運使を兼ぬるに改む。

御史劉元龍淵を劾す。帝其の奏を寢し、寧國府を知るに改む。累り辭免を具し、且つ祠を丐ひ、本官を以て洞霄宮を提舉す。起きて潭州を知り湖南安撫使と爲る、赴かず。太平を知り江淮茶鹽所を提領するを兼ぬるに改め、荊湖制置大使、江陵府を知り夔路策應大使を兼ね、京湖屯田大使を兼ね、京湖安撫制置大使を行ひ帶ぶ。觀文殿學士を拜し、職任舊の如く、湖廣江西京西の財賦、湖北京西の軍馬錢糧を總領するを兼ぬ。淵兵二萬を調へ川しょくに往き援はしむ。其の後力戰すること白河、沮河、玉泉に於てす。寶祐五年正月朔、功を以て參知政事を拜す。七日を越へて卒す。少師を贈り、賻銀絹五百を以て計す。

淵材略有り、事功を濟すに迄る。至る所學を興し士を養ふ。然れども政嚴酷を尚び、羅織の獄を興すを好み、豪橫を籍没す。故に時に「蜈蚣」の謠有り。其の弟潛亦數たび之を諫めて止む。著す所に『易解』及び『退庵文集』、奏議有り。

余玠

余玠、字は義夫、蘄州の人。家貧しく、落魄して行ひ無く、功名を喜び、大言を好む。少くして白鹿洞の諸生と爲り、嘗て客を携へ茶肆に入り、賣茶の翁を毆ち死なせ、身を脱して襄淮に走る。時に趙葵淮東制置使と爲り、玠長短句を作りて上謁す。葵之を壯とし、之を幕中に留む。未だ幾ばくもせず、功を以て進義副尉を補し、將作監主簿、權發遣招進軍に擢でられ、制置司參議官を充て、工部郎官に進む。

嘉熙三年(1239年)、大元の兵と汴城・河陰において戦い功績を挙げ、直華文閣・淮東提點刑獄兼知淮安州兼淮東制置司參謀官に任ぜられた。淳祐元年(1241年)、余玠は兵を率いて安豐を救援し、大理少卿に任ぜられ、制置副使に昇進した。進み出て対して言うには、「必ずや国中の人々、上下ともに事に当たって確実でないものなくせねばならず、そうしてこそ華夏の民はみな信服し、天と人とが感応し通じるのであります」と。また言うには、「今、世冑の俊才、科挙の士人、田舎の豪族が、ひとたび軍務に就けば、すぐに粗野な者と指さされ、樊噲の仲間と斥けられます。願わくは陛下には文武の士を一体と見なし、偏って一方を重んじることのないようになさってください。偏れば必ず激しい反発を生み、文武が互いに激しく対立することは、国の幸いではありません」と。帝は言われた、「卿の人物・議論は並々ならぬものがある。独りで一面を担当できるであろう。卿は少し留まるがよい、必ず抜擢して用いることとしよう」と。そこで権兵部侍郎・四川宣諭使を授け、帝はゆったりと慰めて送り出された。余玠もまた自ら任じて、必ずや自らの手で全蜀を本朝に取り戻し、その功績は日を追って期待できると期した。

まもなく兵部侍郎・四川安撫制置使兼知重慶府兼四川總領兼夔路轉運使を授けられた。宝慶三年(1227年)から淳祐二年(1242年)までの十六年間、宣撫使を三人、制置使を九人、副使を四人授けたが、ある者は老い、ある者は暫定的で、ある者は凡庸、ある者は貪欲、ある者は残酷、ある者は誤り多く、ある者は遠方から遥任して赴かず、ある者は不和を生んでそれぞれ謀るばかりで、ついに成果は上がらなかった。このため東川・西川にはもはや統制規律がなく、残された民はみな生きるに耐えず、監司や軍の将帥はそれぞれ号令を専行し、勝手に守宰を任用し、規律綱紀は蕩然としてなく、蜀は日増しに荒廃していった。余玠が蜀に入ると聞いて、人心はようやくほぼ落ち着き、初めて土地に安住しようとする志が生まれた。

余玠は大いに弊政を改め、守宰を厳選し、府の左側に招賢館を築き、その設備供応は帥の居所と全く同じにした。命令を下して言うには、「衆知を集め、忠益を広める、これこそ諸葛孔明が蜀を用いた所以である。謀略を以て我に告げようとする者は、近ければ直接公府に至れ、遠ければ自ら郡に申し出よ。所在の地では礼を以て送り出せ。高い爵位と重い賞賜は、朝廷も功績に報いることを惜しまない。豪傑の士が期に赴いて事を成そうとするなら、今がその時である」と。士で来る者には、余玠は礼をもって接することを厭わず、皆その歓心を得た。言うところに用いるべきものがあれば、その才能に応じて任用し、もし用いるに足らなければ、厚く贈り物をして謝した。

播州の冉氏兄弟、璡と璞は文武の才があり、蛮地に隠居していた。前後の将帥が召し出そうとしたが、堅く肯まず起ち上がらなかった。余玠の賢さを聞き、互いに言った、「この人なら語ることができる」と。そこで府に赴いて謁見を求めた。余玠はかねてより冉氏兄弟のことを聞いていたので、名刺が入るとすぐに出て会い、対等の礼をもって遇し、賓館での待遇も、冉氏兄弟は平然として以前からのことのようにしていた。数ヶ月経っても、何も言わなかった。余玠が辞去させようとした時、宴を設け、余玠自らが主となった。酒が酣になった頃、座の客はやっと紛紛とそれぞれの長所を競って言い合ったが、璡兄弟は飲食するばかりであった。余玠がほのめかして探ると、ついに黙ったままだった。余玠は言った、「これは我が士を待つ礼がどうであるかを見ているのだ」と。翌日、別館を改めて設けて彼らを住まわせ、かつ毎日そのすることを窺わせた。兄弟は終日ものを言わず、ただ向かい合って蹲り、白土で地面に山川城池の形を描いては、立ち上がると消し去るばかりであった。こうしてまた十日ほど経ち、余玠に面会を請い、人を退けて言った、「我々兄弟は明公の礼遇を辱うけ、少しでも裨益するところがあろうと思い、敢えて衆人と同じくはなりません。今日の西蜀の計は、合州城を移すことにあるのではありますまいか」。余玠は思わず躍り上がり、その手を執って言った、「これこそ玠の志である。ただその適地を得なかっただけだ」。彼らは言った、「蜀の入口の形勝の地は釣魚山に如くはありません。ここに移すことを請います。もし適任を得て、穀物を蓄えてこれを守れば、十万の軍にも優るはるかなものであり、巴蜀はしょくを守るに足ります」。余玠は大いに喜んで言った、「玠はもとより先生方が浅薄な士でないと疑っていた。先生方の謀略を、玠が掠めて己のものとすることはできない」。そこで衆に諮ることなく、密かにその謀略を朝廷に上奏し、常例を超えて官職を与えるよう請うた。詔して璡を承事郎・権発遣合州とし、璞を承務郎・権通判州事とした。城を移す事は、全て彼らに任せた。命令が下ると、府中はみな喧々として同調し、できないと言った。余玠は怒って言った、「城が完成すれば蜀はこれによって安泰となる。完成しなければ、玠が独りでその責を負う。諸君は関わるな」。ついに青居・大獲・釣魚・雲頂・天生など十余りの城を築き、皆山に因って堡塁とし、碁盤や星のように配置して諸郡の治所とし、兵を屯し糧を聚めて必ず守る計略を立てた。かつ敗走した将を誅して軍令を粛正した。また金州の軍を大獲に移して蜀の入口を守らせ、沔州の軍を青居に移し、興州の軍は先に合州旧城に駐屯させておき、釣魚に移して守らせ、内水の防備を共にさせた。利州の軍を雲頂に移して外水の防備に当たらせた。こうして臂の指を使うが如く、気勢は連絡した。また嘉定の俞興に命じて成都に屯田を開かせ、蜀は富み実ることとなった。

十年(1250年)冬、余玠は諸将を率いて辺境を巡り、直ちに興元を攻撃し、大元の兵と大戦を交えた。十二年(1252年)、また嘉定において大戦した。初め、利州司の都統王夔は平素より残忍で強悍、「王夜叉」と号し、功績を恃んで驕り恣に、桀驁として節度を受けず、至る所で掠奪し、富家を得るごとに、穴の開いた箕を首にかけ、四方から箕に火を点け、「蟇蝕月」と称し、弓の弦を鼻の下に繫ぎ、高く格子に懸けて「錯繫喉」と称し、人の両股を縛り、木を交差させて圧し、「乾榨油」と称し、さらには醋を鼻に注ぎ、汚水を耳や口に注ぐなど、毒虐は一つではなく、金帛を脅し取った。少しでも意に沿わなければ、即座にその手にかかって死に、蜀人はこれを患い苦しんだ。かつ部将の副馬を全て徴収して己のものとし、戦いになると、高く値踏みして彼らに売りつけた。朝廷はその不法を知りながらも、遠方にあり詰問できなかった。大帥の処分も、少しでもその意に満たなければ、あらゆる手段で妨害し、何もさせなかった。余玠が嘉定に至ると、王夔は配下の兵を率いて迎え謁見したが、疲弊した弱兵わずか二百人であった。余玠は言った、「かねてより都統の兵は精鋭と聞いていたが、今このように疲弊しているのは、全く期待に沿わぬ」。王夔は答えて言った、「夔の兵は精鋭でないわけではありません。敢えてすぐに見せなかったのは、従者を驚かすことを恐れたからです」。しばらくすると、兵の整列する音が雷の如く、江水は沸き立つが如く、音が止むと円陣は即座に整い、旗幟は鮮明で、武器は厳然とし、砂浜の兵士は望む限り林立し、一人として乱れて動く者はなかった。舟中は皆震え上がって顔色を失ったが、余玠は泰然自若であった。ゆったりと吏に命じて差等をつけて賞を与えさせた。王夔は退いて人に言った、「儒者の中にこのような人物がいるとは!」

余玠は久しく夔を誅せんと欲し、ただその重兵を握りて外に居るを患え、軽挙すれば蜀を危うくするを恐れ、親将楊成と謀る。成曰く、「夔は蜀に久しく、その部する兵は精鋭なり。前時の大帥、夔は皆勢いその右に出ず、その意は此れに止まらず。侍郎を文臣と視、必ずや甘心して令に従わんとせず。今仮に誅せずとも、その勢いを養い成さば、後一挙足するに、西蜀危うからん。」玠曰く、「我れ之を誅せんと欲すること久し、ただその党与衆多なるを患え、未だ発せざるのみ。」成曰く、「侍郎、夔が蜀に久しく、威名有るを以てす、誰か呉氏と為すに比せん。夔は固より及ばざるなり。夫れ呉氏は中興の危難の時に当たり、能く百戦して蜀を保ち、之を四世に伝え、恩威益々張り、根本益々固し。蜀人は呉氏有るを知りて朝廷を知らず。一旦曦叛逆を為すや、諸将之を誅すること孤豚を取るが如し。況んや夔は呉氏の功無くして、曦の逆心有り、豨突の勇を恃み、敢えて法度を慢にし、兵を縦して民を残し、同列を奴視す。呉氏の人を得て固き有るに非ざるなり。今之を誅せば、一夫の力のみ。その発するを待ちて之を取らば、難からん。」玠の意遂に決す。夜に夔を召して事を計り、潜かに成を以てその衆を代領せしむ。夔纔に営を離るるや、而して新将已に単騎して入る。将士皆愕眙相顧み、何を為すべきかを知らず。成、帥の指を以て譬え曉す。遂に相率いて拝賀す。夔至りて之を斬る。成因りにその悪を為すに与る者数人を察し、稍稍法を以て之を誅す。乃ち成を薦めて文州刺史と為す。

戎帥、統制姚世安を挙げて代とせんと欲す。玠は素より軍中の挙代の弊を革めんと欲し、三千騎を以て雲頂山下に至り、都統金某を遣わして世安に代わらしむ。世安は関を閉ざして納れず。且つ危言有り。然れども常に玠が己を図るを疑う。丞相謝方叔の家の子侄、永康より雲頂に避地するに属し、世安厚く之を結び、方叔に援を求めしむ。方叔因りに玠が戎の心を失えるを倡言し、「我が調停に非ざれば、且つ旦夕に変有らん」とし、又陰に世安を嗾して密かに玠の短を求め、帝の前に陳ぶ。ここに於いて世安は玠と抗し、玠は鬱々として楽しまず。宝祐元年、召命有るを聞き、愈々自ら安からず。一夕、暴下して卒す。或いは仰薬して死せりと謂う。蜀の人、悲慕せざるは莫く、父母を失えるが如し。

玠、蜀に入るより、華文閣待制に進み、金帯を賜い、権兵部尚書、徽猷閣学士に進み、大使に昇り、又龍図閣学士・端明殿学士に進み、及び召さるるに及び、資政殿学士を拝し、恩例は執政に視る。その卒するや、帝は朝を輟み、特に五官を贈る。監察御史陳大方の言に以て職を奪わる。六年、之を復す。

玠の蜀を治むるや、都統張実に軍旅を治めしめ、安撫王惟忠に財賦を治めしめ、監簿朱文炳に賓客を接せしめ、皆常度有り。学を修め士を養い、徭を軽くして民力を寛にし、征を薄くして商賈を通ずるに至りては。蜀既に富実す。乃ち京湖の餉を罷む。辺関に警無く、又東南の戍を撤す。宝慶以来、蜀閫能く之に及ぶ者未だ有らざるなり。惜しむべし、其の遽かに太平を以て自ら詫ち、蜀錦蜀箋を進め、文飾に過ぐるを。久しく便宜の権を仮り、嫌疑を顧みず、勇退に暗く、遂に讒賊の口を来たす。而又機捕官を置く。雖だ事の情を廉を得るに足れども、然れども耳目を群小に寄せ、虚実相半ばす。故に人多く疑懼を懐く。世安の命を拒ぐに至りては、玠の威名頓に挫け、志を齎して没す。子曰く如孫有り、「当に孫仲謀の如くすべし」の義を取り、論に遭いて師忠と改む。大理寺丞を歴り、賈似道に殺さる。

汪立信

汪立信は、汪澈の従孫なり。立信の曾大父汪智は、汪澈に従い湖北を宣諭し、六安に道すがら、その山水を愛し、因りて居す。

淳祐元年、立信は策を献じて安慶の劇賊胡興・劉文亮等を招安し、承信郎を借補す。六年、進士第に登る。理宗、立信の状貌雄偉なるを見て、侍臣を顧みて曰く、「此れ閫帥の才なり。」と。烏江主簿を授け、沿江制幕に辟す。桐城県を知り、未だ上らざるに、荊湖制司幹辦・建康府通判に辟さる。荊湖制置趙葵、策応使司及び本司参議官に充てんと辟す。葵去りて馬光祖之に代わる。立信是の時猶府に在り。

鄂州の囲み解け、賈似道既に上を罔みて功を要し、閫外の臣が己と功を分かつを悪み、乃ち打算法を諸路に行い、軍興の時に支散したる官物を以て罪と為し、之を撃ち去らんと欲す。光祖と葵は素より隙有り、且つ似道に迎合せんと欲し、旨を被りて即ち吏を召し簿書を稽勾せしむも、卒に其の疵を得ること能わず。乃ち開慶二年正月望の夕、灯を張り宴を設け銭三万緡を費やすを、葵の官物を放散せることとして朝に聞こゆ。立信力之を争い、不可と謂い、且つ曰く、「艱難の時に方り、趙公は事に蒞みて勤労す。而るに公は非理を以て之を捃拾す。公一旦此れを去らば、後来者復た公の為す所を效わん、可ならんや。」光祖怒りて曰く、「吾不才、度外の事を為す能わず、朝命を奉ずるを知るのみ。君他日此れに処らば、勉めて之を為せ。」立信曰く、「某をして為さざらしめば則ち已まん。果して之を為さしむれば、必ずや公の為す所を效わじ。」光祖益々怒り、議行わず。立信遂に劾を投じて去る。初め、立信は江陵府を通判し、葵は荊湖を制置し、嘗て公事を以て立信を劾す。及び沿江府に在りしも、亦謀議寡く諧わず。立信の葵に於けるは蓋し未だ一日の歓も嘗て有らざるなり。

京西提挙常平に擢げられ、昭信軍を知り、権淮東提刑に改む。景定元年、差して池州を知り、江東常平を提挙し、権めて常州を知り、浙西提点刑獄と為る。明年の冬、即ち嘉興の治所に於いて荒政を講行す。尋いで江州を知るに改め、沿江制置副使・蘄黄興国軍馬を節制し、饒州南康兵甲を提挙し、江西安撫使に昇る。祠祿を乞い、差して鎮江を知り、尋いで湖南安撫使・潭州知事に充つ。官に至り、供帳の物悉く官庫に置き、積む所の銭は連年潭民の夏税を代納し、貧にして告ぐる無き者には銭粟を与え、病める者には薬餌を加え、雨雪旱潦に軍民皆給有り。学校を興し、士習変ず。潭を湖湘の重鎮と為すを以て、威敵軍を創め、募る所の精鋭数千人、後来者果たして其の用に頼る。権兵部尚書・荊湖安撫制置・江陵府知事と為る。

時に襄陽は包囲され危急に陥り、汪立信は上疏して安陸府の駐屯兵を増やすことを請い、およそ辺境の守備兵はすべて引き抜き減らすべきでないとし、黄州の守臣陳奕は平素より異心を抱いているので、朝廷はこれを防ぐべきであるとした。そこで賈似道に書を送り、言うには、「今、天下の形勢は十のうち八九を失い、しかるに君臣は安楽に宴を張り、憂いとしない。天が容易に時を与えないことは、古よりかくの如し、これはまさに上下交えて修め、天命を迎え継ぐ機であり、寸陰を惜しんで事に赴き工を励むべき日である。しかるに深宮で酒宴に耽り、湖山に嘯傲し、歳月を浪費し、緩急を倒錯して施し、卿士たちは徒らに度を失い、百姓は鬱積して怨み、上に非を求め、天心に応え、下って民物を遂げようとし、拱手して指揮し、万里の敵を退けることなど、また難からぬことか。今日の計を為すには、その策三つあり。内郡に何の用があって多くの兵を置く必要があろうか、すべてを江岸に出して、外敵への防備を充実すべきである。兵籍を計算すれば現兵は七十余万人、老弱や脆弱な者は十分の二を淘汰し、選兵五十余万人とする。そして長江沿岸の守りは、七千里に過ぎず、もし百里ごとに駐屯させ、屯ごとに守将を置き、十屯を一府とし、府ごとに総督を置き、特に要害の地には、兵を三倍に増やす。事なき時は長淮に舟を浮かべ、往来して巡察し、事ある時は東西ともに奮い立ち、戦いと守りを併用する。刁斗の音が相聞こえ、糧秣の補給が絶えず、互いに応援し、連絡の固きをなす。宗室の親王や忠良にして幹用ある大臣を選び、統制とし、東西二府に分けて任に当たらせ、人を得れば、率然の勢いとなる、これが上策である。長く聘使を拘束しても、我に益なく、ただ敵に口実を与えるのみである、礼を尽くして帰し、歳幣を納めることを許して師期を緩め、二三年もせず、辺境の急報はやや休み、藩垣はやや固まり、新たな兵は日々増え、戦うことも守ることもできる、これが中策である。二つの策がもし行われなければ、天が我を敗るのであり、璧を銜み櫬を輿する礼(降伏の礼)については、備えて待つことを請う。」賈似道は書を得て大いに怒り、地に投げつけ、罵って言うには、「隻眼の賊め、狂言をよくも言うな。」これは汪立信の目が少し小さかったからである。まもなく危法を以て中傷し、彼を廃して斥けた。

咸淳十年、大元の兵が大挙して宋を伐ち、賈似道は諸軍を督して出陣し江上に駐屯し、汪立信を端明殿学士・沿江制置使・江淮招討使とし、建康府の庫を以て兵を募り、江上の諸郡を救援させた。汪立信は詔を受けて辞さず、即日上路し、妻子を愛将の金明に託し、その手を握って言うには、「我は国家に背かぬ、汝も必ずや我に背くことなかれ。」遂に行った。賈似道と蕪湖で出会うと、賈似道は汪立信の背を撫でて泣きながら言うには、「公の言を用いなかったために、ここに至った。」汪立信は言うには、「平章、平章、隻眼の賊めは今日さらに一言も言えぬ。」賈似道が汪立信にどこへ行くのかと問うと、言うには、「今、江南に一寸の清き地もなし、某は一片の趙家の地を尋ねて死ぬ、ただ死に様を分明にせんがためなり。」既に到着すると、建康の守兵はすべて潰走し、四面すべて北軍であった。汪立信は事の成らぬを知り、嘆いて言うには、「我は生きて宋の臣、死して宋の鬼、終には国のために一死するも、ただ徒らに死して益なきのみ、これをもって国に背く。」配下の数千人を率いて高郵に至り、淮漢を制して後の図りとせんとした。

やがて賈似道の軍が蕪湖で潰えたと聞き、江漢の守臣は皆風を見て降り逃げた。汪立信は嘆いて言うには、「我は今日なお宋の土にて死すを得るなり。」そこで酒を設け賓佐を召して訣別し、自ら表を作って三宮に起居を奏し、従子に書を送り、家事を託した。夜半に起きて庭中を歩き、慷慨悲歌し、拳を握り机を撫でること三度、これにより声を失い、三日にして吭を扼して卒した。光禄大夫を以て致仕し、遺表が聞こえ、太傅を贈られた。

大元の丞相伯顔が建康に入ると、金明はその家族を以て免れ、ある者が伯顔に汪立信を讒し、その二つの策と死を告げ、かつその妻子を戮することを請うた。伯顔は久しく嘆息し、言うには、「宋にこの人あり、この言ありや。もし果たして用いられていたならば、我どうしてここに至らん。」命じてその家を求め厚く恤い、言うには、「忠臣の家なり。」金明は汪立信の喪を以て丹陽に帰葬した。

汪立信の子麟は、内書写機宜文字であり、建康において衆に従って降ることを肯ぜず、崎嶇として閩に走りて死せり。

初め、汪立信が未だ仕えざりし時、家は甚だ貧しかりき。時に大飢饉あり、呉淵が鎮江を守り、粥を作って流民に食わせよと命じ、その客の黄応炎にこれを主たらしめた。黄応炎は一度汪立信を見て、語り、心にその常人にあらざるを知り、呉淵に言うと、呉淵は大いにこれを奇とし、上客の礼を以て遇し、すべて供張や服禦は黄応炎よりも厚くしたので、黄応炎は甚だ怏怏とした。呉淵はこれを解きて言うには、「この君は、我が地位の人なり、ただ時に遭うこと異なるのみ。君の識度志業は、皆その比にあらず、少しばかり下るがよい。」この年、江東転運司の試験を受け、明年及第し、後にその履歴はほぼ呉淵の如くにして、ついに難に死せり。人は呉淵は人を知る能ありという。

向士璧

向士璧、字は君玉、常州の人。才気に負い、精悍にして甚だ自らを好み、紹定五年進士、累遷して平江府通判となり、臣僚の言により罷免される。起用されて淮西制置司参議官となり、また監察御史胡泓の言により罷免される。起用されて高郵軍知事となり、制置使丘崇また論じて罷免す。起用されて安慶府知事・黄州知事となり、遷って淮西提点刑獄兼黄州知事、直宝章閣を加えられ、旧職のまま、鴻禧祠を奉ず。特授にて将作監・京湖制置参議官となり、進んで直煥章閣・湖北安撫副使兼峡州知事、兼ねて帰峡施黔・南平軍・紹慶府鎮撫使、遷って太府少卿・大理卿、進んで直龍図閣。合州が危急を告げると、制置使馬光祖は向士璧に赴援を命じ、数々の奇功を立てた。帝もまた群臣に語りて言うには、「向士璧は朝命を待たず、進軍して帰州に至り、かつ家財百万を捐げて軍費に供す、その志嘉むに足る。」祕閣修撰・枢密副都承旨に進み、旧職のまま。

開慶元年、涪州が危うくなると、また向士璧に往援を命じ、北兵は江を挟んで営を為し、長さ数十里、舟師を阻んで浮橋まで進めず。時に朝廷は揚州より賈似道を移して枢密使として六路を宣撫せしめ、峡州に進駐し、檄を以て向士璧に軍事を呂文徳に付すべしとす。向士璧は従わず、計を以て橋を断ちて捷を奏し、方略を詳しく言上す。未だ幾ばくもせず、呂文徳もまた捷を以て聞こゆ。向士璧は峡州に還り、まさに傾奪の疑いを懐くところ、まもなく宣撫司参議官に辟せられ、遷って湖南安撫副使兼潭州知事、兼ねて京西・湖南北路宣撫司参議官、右文殿修撰を加えられ、まもなく権兵部侍郎・湖南安撫使兼潭州知事を授かる。頃くして、湖南制置副使に昇る。大元の将兀良哈䚟の兵が交阯より北還し、前鋒が城下に至り、攻囲急なり。向士璧は極力守禦し、後隊まさに至らんとするを聞き、王輔佑を遣わし五百人を率いてこれを覘わしめ、易正大にその軍を監せしむ。南岳市にて遭遇し、一戦して功あり、潭州の包囲は遂に解けた。事が聞こえ、金帯を賜い、服して繫げしめ、兵部侍郎兼転運使に進み、余は旧職のまま。

賈似道が宰相に入ると、その功を嫉み、ただ賞を加えぬのみならず、反って監察御史陳寅・侍御史孫附鳳を諷して一再に弾劾して罷免し、漳州に居住を命ず。また守城の時に用いた金穀を査定し、行部に逮えて責めて償わせた。幕属の方元善という者、極意賈似道の意に逢迎し、向士璧はこれに坐して死し、またその妻妾を拘えて徴した。その後、方元善は吉水県知事に改まるが、俄かに帰りて狂疾を得、常に向士璧を呼ぶ。時に王輔佑もまた遠く謫せられ、文天祥が兵を起こして謫所より王輔佑を召すと、すでに死していた。

德祐元年(1275年)三月、詔を下して元の官職を追復し、なお従官の恩数(恩典)を還し、廟を潭州に立てた。翌年正月、太府卿柳岳がその子孫を録用するよう請うたので、詔してこれに従った。

胡頴

胡頴は、字を叔獻といい、潭州湘潭の人である。父の𤩰は、趙方の弟趙雍の娘を娶り、二人の子があった。長子は顯といい、拳勇があり、材武をもって官に入り、数々の戦功を立てた。事績は『趙范伝』に見える。頴は幼い頃から風神秀異で、機警にして常ならず、趙氏の諸舅は彼が自分に似ているとして、常に賞賛し見込んだ。成童(十五歳)にしてすでに諸経を暗誦でき、童子科に及第し、また従兄について弓馬を学ぼうとしたが、母は許さず、「汝が家は代々儒業を以てしてきた。再びそうすべきではない」と言った。そこで感奮して苦学し、特に『春秋』に長じた。

紹定三年(1230年)、趙范が李全を討伐するにあたり、頴を檄で幕下に招いた。頴は常に微服で諸営を巡行し、兵士たちの志向を察し、帰るのは必ず三鼓(深夜)であった。後に李全が敗れると、頴を使者として朝廷に俘虜を献上させ、その賞をもって官に補せられた。五年(1232年)、進士に及第し、ただちに京官の官職を授かった。歴任して平江府知事兼浙西提点刑獄となり、湖南に移り兼ねて提挙常平を務め、自宅に役所を置いた。性、邪佞を喜ばず、特に神異を言うことを憎み、赴任先で淫祠数千区を破壊し、風俗を正した。衡州に霊祠があり、官吏・民衆がかねてより畏怖し祀っていたが、頴はこれを撤去し、来諗堂を作って母を住まわせた。かつて道州教授の楊允恭に語って言った、「私は夜必ずこの室で瞑坐し、霊験の有無を察するが、皆無い」。允恭が答えて言った、「無いと為せば無いのです。それに従って察するのは、また疑って有るとするからです」。頴はその言葉を大いに良しとした。

枢密都承旨として広東経略安撫使となった。潮州の僧寺に大蛇がいて人を驚動させることができ、前後潮州に仕えた者たちは皆これを信奉していた。前任の太守が去ると、州人は心に疑い、彼が蛇を詣でなかったからだと思った。やがて旱魃があり、皆、太守が蛇神を敬わなかった故にこれが起こったと咎めた。後任の太守はやむを得ず詣でたが、やがて蛇が蜿蜒として現れ、太守は大いに驚き病を得て、まもなく死去した。頴が広州に到着し、この事を聞くと、潮州に檄を飛ばし僧に蛇を担がせて来させた。到着してみると、その大きさは柱のようで黒色であり、檻に載せて運んだ。頴はこれに命じて言った、「お前に神霊があるならば三日の内に変怪を見せるがよい。三日を過ぎればお前には神が無いということだ」。期日が来ると、蠢然としてただの蛇と同じであった。そこでこれを殺し、その寺を壊し、僧も罪に処した。広西に転任し、まもなく京湖総領財賦に昇進した。咸淳年間(1265-1274年)に卒去し、四官を追贈された。

頴は人となり正直剛果で、博学強記、言葉を吐けば文となり、書判は下筆すれば千言に及び、経史を援用し根拠とし、事柄の実情に切当し、倉卒の際にも対句は皆精妙で、読む者は驚歎した。政務に臨んで善く決断し、強権を畏れなかった。浙西にいた時、栄王府の十二人が強盗を働いたが、頴は皆これを斬った。ある日の輪対で、理宗が言った、「卿が殺すことを好むと聞く」。意は浙西の獄事にあった。頴は言った、「臣は太祖の法を曲げて陛下に背くことは敢えてしません。殺すことを嗜むのではありません」。帝はこれに対して黙然とした。

冷応澂

冷応澂は、字を公定といい、隆興分寧の人である。宝慶元年(1225年)の進士、廬陵主簿に調任され、早くも廉潔・有能で著名となった。台府に用事のある者は必ず言った、「廬陵の清主簿の下に願いたい」。特に楊長孺に見出され抜擢された。静江府司録参軍に転じ、獄事を公平・寛恕に治め、転運使范応鈴が朝廷に列挙して推薦した。

万載県知事となり、大いに学舎を修築し、俊秀を招いてその学業に励ませ、経書に通じ行いを整えた者を表彰して勧めた。凶年の時、捨てられた子供が道に満ちたので、民に自由に収養させるよう命じ、捨てた父母は再び問うことを許さず、多くを全活させた。葉夢得がその行いを列挙し、他の県に風紀を励ました。道州通判となった。行在(臨安)の榷貨務に入って監となり、登聞鼓検院に遷った。

景定元年(1260年)、江上で糧秣を監督する使者として派遣され、帰還後、徳慶府知事となった。前任の太守は政務を立てず、豪吏を放任して漁獵(収奪)させたため、峒獠(山岳地帯の少数民族)が大いに反乱を起こし、城から六十里の地点に陣営を張った。応澂は未だ境内に入らず、馳せて檄を飛ばし諭して言った、「汝らは已むを得ずここに至ったのだ。新太守がまさに着任する。禍を転じて福と為すは、一つの機会である。脅迫されて付き従い影の如く附く者も、早く去就を計るべきである。そうでなければ免れない」。獠は感じ悟り自ら帰順しようとしたが、謀主に惑わされて果たせず、衆は次第に引き去った。応澂はその勢いが緩んだと知ると、直ちに兵士・馬匹を励まし、不意を突いて一鼓にこれを擒らえ、帰農させるために釈放し帰したが、なお千余人いた。そこで諸監司に請い、郡の避難して幕府に留まっていた者を帰還させ、禍を激化させた豪吏を誅した。初め経略使の雷宜中は、応澂が必ず援軍を求めて来請うだろうと思っていたが、この時になって歎服し、急いでその事績を上奏し、応澂を大用に堪えると推薦した。

所属県の租賦は、道が険阻であると称して長らく郡に届かなかったが、応澂はこれに対して期限を定めて言った、「最初に納める者は分を減じ、最後に届いた者は減じた分を償え」。民は遅れを恐れ、一月と経たずに事を終えた。凡そ諸綱の官稟・軍券で、前任の政務で積もって支給されなかったものは全て補って返還し、上下が喜び従った。応澂もまた極力慰撫し、簡便な方法をとった。一年で政績を報告し、抑配塩法の廃止と、楮券(紙幣)を用いて銀綱を折納する等の五事を奏上し、民力を緩和させた。詔して本道の提挙常平兼転運使に昇進させ、その意見を行わせた。まず守令の貪横不法な者十余人を弾劾し、諸郡は粛然とした。最上の評価が聞こえ、直秘閣を加えられた。時に経略使陳宗礼が参知政事として朝廷に入った。帝が誰が卿に代わり得るかと問うと、宗礼は応澂を以て答えた。まもなく都官郎官として召されたが、赴任せず、直宝章閣・広州知事に昇進し、広南東路経略安撫司公事・馬歩軍都総管を主管し、漕・庾(転運・倉庫)の職務は従前通り兼ねた。

五つの役所の事務が煩雑であったが、応澂は時を分けて事務を処理し、煩わさず倦まず、常に言った、「官事を治めるは家事の如くすべし。官物を惜しむは己が物の如くすべし。方今、国計は内に虚しく、辺境の声は外に震う。吾らは上より厚恩を受ける身、どうして清談を以て自ら高くし、世を誤ることができようか。陶士行(陶侃)・卞望之(卞壼)が我が師である」。襄陽・樊城が包囲されたと聞いて以来、日々器械を整え、財粟を豊かにし、突然の事態に備えた。後、その備えが役立つこととなり、屡々大寇を平定したが、軽々しく殺すことはせず、笞杖以下の刑罰にもまた審慎を加え、事に臨んで断ずるに至っては、たとえ権勢家であっても屈服させ奪うことはなかった。後に家で卒去した。

曹叔遠

曹叔遠は、字を器遠といい、温州瑞安の人である。若くして陳傅良に学んだ。紹熙元年(1190年)の進士に及第した。久しくして、李壁が推薦して国子学録となったが、韓侂冑に逆らい罷免された。涪州通判となり、後に遂寧を守った。営卒の莫簡が総領所の侵刻(侵害・搾取)に苦しみ、相率いて乱を称し、勢いは甚だ張り、遂寧の境内に入ると、直ちにその徒を戒めて暴行を恣にしないようにし、「これは江南の好官員である」と言った。朝廷に入り、工部郎となり、出て袁州知事となった。太常少卿として召され、権礼部侍郎を務め、事に遇って献替(進言と廃止)し、裨益するところ多かった。終に徽猷閣待制に至り、諡は「文肅」。かつて『永嘉譜』を編纂し、識者は彼に史才があると評した。子の觱、孫の邰は、皆進士に及第した。族子に豳がいる。

族子 豳

游豳、字は西士、幼くして錢文子に師事し、嘉泰二年の進士に及第し、安吉州教授に任ぜられた。重慶府司法参軍に転じ、郡守の度正が彼を推薦しようとしたが、游豳は辞して言うには、「章司録は母が老いておられる、先に彼を推挙してください」と。度正は敬服して嘆息した。建昌県知事に改め、故尚書李常の山房を復興し、斎舎を建てて諸生を住まわせた。秘書丞兼倉部郎官に抜擢された。浙西提挙常平として出向し、和糴折納の弊害を面陳し、虎丘書院を建てて尹焞を祀った。浙東提点刑獄に移り、寒食節に囚人を釈放して先祖を祀らせたところ、囚人は感激して涙し、期日通りに戻ってきた。左司諫に召され、王萬、郭磊卿、徐清叟とともに直諫の名声を負い、当時「嘉熙四諫」と号された。上疏して言うには、「太子を立て、倫紀を厚くして、火災を鎮めよ」と。また余天錫、李鳴復の過失を論じ、上意に逆らい、起居郎に遷った。礼部侍郎に進んだが拝命せず、七度上疏し、古詩を進めて規諫の意を寓した。久しくして福州知事として起用され、再び侍郎として召されたが、台臣に阻まれて止んだ。遂に宝章閣待制を守り致仕し、卒して諡は「文恭」とされた。子の愉老もまた進士に及第した。

王萬

王萬、字は処一、家は婺州の出身、父が淮水の間を遊歴し、王萬はそれゆえ濠州で生まれ育った。幼少より忠直で大志があり、当世の急務を究め、特に辺防の要害に精通した。嘉定十六年の進士に及第し、和州教授に任ぜられた。端平元年、尚書吏部架閣文字を主管し、国子学録に遷った。翌年、鎮江府通判を添差された。

当時金が滅んだばかりで、当路の者は多く彼が人傑であることを知り、諮問する者が錯綜した。鄭清之が初め虚に乗じて河洛を取らんと謀ったが、王萬は急ぎ自治の規律を整えるべきであると論じた。やがて大元の兵が国境に迫った。三辺が震動し、理宗は己を責める詔を下し、呉泳が起草し、また王萬に諮った。王萬は言うには、「兵は確かに失ったが、それを過度に言い立てるのも恐らく良くない。今、辺境の民の生気は髪の毛ほど細い、奮い立たせ奮発させ、人心を鼓舞すべきである」と。辺境の事柄について条陳し、大臣や要官に広く告げて言うには、「長淮千里、中間に大山沢がなく限界となり、頭を撃てば尾が応じ、まさに常山の蛇の勢いの如し、まず両淮を一つに併せて制置司の命令に従うべきである。両淮の中で濠州のみが中央にある。濠の東は盱眙、楚州で、塩城に至り、淮水の流れは深く広く、敵が渡るのは難しい。濠の西は安豊、光州で、信陽に至り、淮水の流れは浅く澁み、敵はしばしば浅瀬を歩いて渡る。法としては揚州の北軍三千人を調発し、淮東から虚を衝き、常に宿州、亳州の間を往来させ、敵が東を意に介さず、我が力を合わせて淮西に当たるべきである。淮西ではまた合肥のみが江、淮の南北の中にあり、法としては合肥に制置司を設置し、濠梁、安豊、光州を臂とし、黄岡を肘後の緩急の援けとすべきである。また必ず荊、襄に命じて、西の兵が東来するのを見るごとに、常にその尾を追わせ、淮、襄の勢いも合わせ、然る後に大規模な計画が立てられる」と。

用兵について論じると、言うには、「五千人を一屯とし、毎屯に一将、二長を置き、一大将が一路を統べ、また一大将を合わせて制置使に併合し総統とすべきである。淮東には精兵三万、光州、黄州には二万を置き、東西から挟撃し、沿江制置司は合肥の兵二万と合流し、その中を牽制すべきである。行軍には営陣を与え、駐屯には城塁に依拠すべし。行軍には乾糧を持たせ、駐屯には州県で食を調達すべし」と。屯田について論じると、言うには、「新たに回復した州軍において、東は海州、邳州、依るは水の険、西は唐州、鄧州、依るは山の険、このように区画すれば地なくして田なく耕さざるはなく、帰附した新軍や流落した余民もまた固い志を持つであろう」と。

また言うには、「戎司は旧来、地域を分けて戍守し、殿前司歩兵は真州、揚州、六合を守り、鎮江兵は揚州、楚州、盱眙を守り、建康馬司兵は滁州、濠州、定遠を守り、都統司兵は廬州、和州、安豊を守り、池州司兵は舒州、蘄州、巣県を守り、江州司兵は蘄州、黄州、浮光を守った。地勢は皆順当で、皆統制が部を率いて出陣し、常に帥臣が内に居て、本軍の財賦で営柵を修繕し、士卒を撫慰し、器械を整備したので、軍事は常に整然としていた。警急に遇えば帥臣自ら重兵を統率して出陣した。近ごろは建康の馬帥でありながら黄州を知り、都統でありながら光州を知り、池州司都統でありながら楚州にあり、鎮江都統でありながら応天にある者がある。将は兵を知らず、兵は将に属さず、往々にして本軍の財を以て他処の用に供し、そのため営柵は壊れて修繕されず、士卒は貧しくして給与されず、器械は鈍って繕われない。旧制に尽く戻すべきである」と。また辺民を寛大に扱うこと、民兵を団結させること、浮光を救援すること、辺境を防衛できる辺民には常に賞を厚くし官を小さくして、常にその力を得るようにすることを請うた。その後、兵興して用が窮し、履畝の令が行われると、また廟堂に言上して言うには、「今、名目上は更化しているが、故相の為さなかったことを反って為すことができようか」と。その他の敷陳も、往々にして数万言に及び、その自任の篤さは、当世に対してこのように切実であった。三年、枢密院編修官に任ぜられた。

嘉熙六年、屯田郎中を兼権し、転対の機会に言うには、「天命の去留は君心に由来する、陛下は一つ一つ思われよ、凡そ心に触れて惻然とし、安んじられないものは、皆心が天と同じくしていないのである。天は天にあるのではなく、陛下の心の中にある。もし天人合一を成し、永く絶やさなければ、天命は我にある」と。台州知事を差遣され、郡に着いた日から、ただ蔬飯をとり、終日庁事に坐し、事が至れば直ちに裁断し、吏は不正を働く余地がなく、往々にして改業して去り、民もまた感化されて再び訴訟せず、上下粛然とし、郡は大いに治まった。わずか五ヶ月で、祠官を乞うて去った。三年、屯田員外郎兼編修に遷り、転対して言うには、「君臣上下、私心を尽く克し、人心を服させ、天心を回らすべし」と。尚右郎官に遷り、まもなく崇政殿説書を兼ねた。

四年、監察御史に抜擢された。まず史宅之を論じ、故相の子で、かつて権勢を弄した者が、再び従班に玷辱すべきではないと。上は丞相に命じて再三諭旨したが、ついに詔を奉じなかった。上は已むなく、史宅之を平江府知府として出した。またこれを論じ、上疏は合わせて五度に及んだ。史嵩之が江上から師を督して入相すると、王萬はまたまずこれを論じ、その「事体が逼迫し、気象が傾揺し、太学生がその帰還を促そうとすれば、賄賂の跡が既に現れている。近ごろ或いはその族人がその私事を暴き、醜く誹謗する者があるというが、相国大臣にしてこのようであるのは、書にいう大臣ではない」と。しかし当時、宰相の事は既に決しており、上疏が入ると、大理少卿に遷された。王萬は即日、常熟の寓居に帰った。太常少卿に遷されたが、辞した。寧国府知事を差遣されたが、辞した。行在に召されて奏事を命ぜられ、福建提点刑獄として出され、直煥章閣、四川宣諭司参議官を加えられたが、皆力辞し、休致を乞うた。詔して特に朝奉郎に転じ、太常少卿を守り致仕し、卒した。史嵩之が罷相すると、衆はこぞってその非を論じたが、上は王萬の先見を思い、親しく御札を賜り、王萬を「立朝して蹇諤、古の遺直、郡を治めて廉平、古の遺愛。その母老いて家貧しきを聞く、朕甚だこれを念う、新会五千貫、田五百畝を賜い、以てその家を贍給す」とされた。

初め、王萬の学問は専ら「時習」の語に得るところあり、学は言が行を顧みるに先んずるものなしと謂い、言は然るに、行は未だ然らざるは、言の偽なるに非ず、習熟せざるなり、熟すれば則ち言行一なり、故にその身を終えるまで、行は言を顧みざるはなし、施設論諫に発するや、皆中心に根ざす、遺文に『時習編』及びその他の奏劄及び天下の事を論ずるもの凡そ十巻あり。

馬光祖

馬光祖、字は華父、婺州金華の人、宝慶二年進士、新喻主簿に調じ、既に能名あり、真徳秀に従い学ぶ、餘干県知事に改め、高郵軍知事を差し知り、軍器監主簿に遷り、督視行府参議官を差し充てる、雲臺祠に奉ず、処州知事を差し知り、登聞鼓院を監し、太府寺丞兼庄文府教授・右曹郎官に進む、出でて処州を知り、僧道の牒を降して振済を乞う、詔してこれに従う、直秘閣を加え、浙東提挙常平となる、浙西提点刑獄に移り、時に暫く兼ねて権浙西提挙常平をす、起復して軍器監・総領淮東軍馬銭糧兼鎮江知事となる、直徽猷閣に進み、江西転運副使兼隆興府知事となる、右正言劉漢弼の言により罷む、後九年、起きて直徽猷閣・太平州知事・提領江西茶塩所となる、直宝文閣に進み、太府少卿に遷り、仍って太平州知事・提領江淮茶塩所をす、司農卿・淮西総領兼権江東転運使に遷る。

戸部尚書兼臨安府知事・浙西安撫使に拝す、帝、丞相謝方叔に諭して入覲を趣めしむ、下海米禁を厳にすべく乞い、京師の艱食・和糴の増価・海道の寇を致すの三害を歴陳す、宝章閣直学士・沿江制置使・江東安撫使・建康府知事兼行宮留守兼節制和州無為軍安慶府三郡屯田使を加え、煥章閣を加え、尋いで宝章閣学士を加う、初めて官に至り、即ち常例の公用器皿銭二十万緡を以て軍民を支犒し、租税を減じ、鰥寡孤疾告ぐる無きの人を養い、兵を招き砦を置き、銭を給して諸軍の昏嫁を助く、属県の税は折収して絲綿絹帛とし、倚閣除免すること数万を計る、学校を興し、賢才を礼し、僚属を辟召し、皆一時の選に極む。

端明殿学士・荊湖制置・江陵府知事に拝す、去りて建康の民之を思いて已まず、帝聞き、資政殿学士・沿江制置大使・江東安撫使を以て再び建康を知らしむ、士女相慶す、光祖益々民力を寛養し、廃を興し壊を起し、知りて為さざる無く、前政の逋負銭百余万緡を蠲除し、魚利税課悉く罷減して民に予し、明道・南軒書院及び上元県学を修建す、費用を撙節し、平糴倉を建て、米十五万石を貯え、又庫を為して糴本二百余万緡を貯え、その折閲を補い、糴を発するに常に市価より減じて、小民を利す、武備を修飭し、要害を防拓し、辺これに頼りて安んず、その政を為すに寛猛適宜にして、事は大體を存す。

公田法行わる、光祖書を移して賈似道に公田法便ならざるを言い、江東に及ぼさざるを乞い、必ずこれを行わんと欲せば、光祖を罷むるにしかずと、大学士兼淮西総領に進む、行在に召し赴き、提領戸部財用兼臨安府知事・浙西安撫使に遷る、会に歳饑し、栄王府積粟して廩を発せず、光祖王に謁す、故を以て辞す、明日往くも、またこれの如く、又明日また往き、客次に臥す、王已むを得ずして見る、光祖声を厲して曰く「天下孰か大王子儲君たるを知らざらん、大王此時に人心を収めざるか」と、王粟無きを以て辞す、光祖懐中の文書を探りて曰く「某庄某倉若干」と、王辞する無く、粟を得て民を活かすこと甚だ多し、同知枢密院事に進み、尋いで福州知事・福建安撫使を差し知り、侍御史陳堯道の言により罷む、前職を以て洞霄宮を提挙す、再び沿江制置・江東安撫使を以て建康を知り、郡民為に祠六所を建つ、致仕を乞う、許さず、咸淳三年、参知政事に拝す、五年、知枢密院事兼参知政事に拝す、監察御史曾淵子の言により罷む、給事中盧鉞復た新命を繳奏し、金紫光禄大夫を以て致仕し、卒す、諡して「荘敏」とす。

光祖の外に在りては、兵を練り財を豊かにす、朝廷これを以て京尹と為せば、則ち専ら浩穰を治め、風績凛然たり、三たび建康に至り、終始一紀、威恵並び行わり、百廃修挙せざる無しと云う。

論じて曰く、呉淵は才具優長なりしも、厳酷これを累す、余玠は意気豪雄なりしも、志克く信ぜられず、賈似道は汪立信の策を用いざりしは、殆ど天その魄を奪えるか、向士璧は卒に似道に厄せられ、宋の図存に足らざるは、蓋し知るべしなり、胡頴は淫祠を毀つを好みしも、その中の慊き無きに非ざれば、能く爾くする能わざるなり、冷応澂は辺を安んずるの才あり、曹叔遠・王萬は皆正人端士なり、馬光祖の建康を治むるは、今に逮ぶまで遺愛猶ほ民心に在り、能臣と謂うべし。