吳淵
父憂に丁し、詔して前職を以て起復せしむ、力辭す、許さず、再び辭し、且つ政府に書を貽して曰く、「人道は親に事ふるより大なるは莫く、親に事ふるは死を送るより大なるは莫し、苟も哀を冒して榮を求むれば、則ち平生の大節已に地を掃す、他日何を以て君に事へん」と。時に丞相史嵩之方に起復せんとす、或ひは曰く、「時宰に礙るを得ざらんか」と。淵顧みず、詔之に從ふ。服除け、浙東提舉茶鹽司幹辦公事に差し、尋で鎮江府節制司、沿江制置使司幹辦公事に改む。皆就かず。武陵縣を知り、揚子縣に改め淮東轉運司幹辦公事を兼ね、添差して眞州を通判す。入りて將作監丞と爲り、樞密院編修官に遷り刑部郎官を兼ね、再び秘書丞に遷り仍て刑部郎官を兼ぬ。直煥章閣を以て平江府を知り許浦水軍を節制し、浙西刑獄を提點す。
會ふに衢・嚴に盜起り、警報至る、將士を調遣し之を招捕し、其の渠魁を殲し、其の支黨を散ず、功を以て樞密院檢詳諸房文字兼國史院編修官、實錄院檢討官兼左司と爲る。右文殿修撰、樞密副都承旨兼右司兼檢正に進む。適ひ政府中原に用兵せんと欲し、關を據へ河を守るを以て説と爲すに、淵力めて其の不可を陳し、大要國家の力決して取ること能はず、縱ひ之を取るとも決して守ること能はざるを謂ふ。丞相鄭清之樂しまずして罷む。出でて江州を知り、江・淮・荊・浙・福建・廣南都大提點坑冶に改む。都司袁商、御史王定をして淵を劾せしむ、罷す。侍御史洪咨夔之を直とせず、定を劾して左遷す。未だ幾ばくもせず、邊事果たして淵の言ふ如く、清之書を致して咎を引き巽に謝す。鎮江府を知るに差し、防江軍の擾を定め、淮東總領を兼ね、功を以て太府少卿に遷り、復た總領を以て鎮江を知り、集英殿修撰を加へられ、鎮江を知り總領を兼ぬ。權工部侍郎に進み、職任舊の如し。權兵部侍郎、權戶部侍郎、再び總領として鎮江を知る。
時に淵闕下に造り入對し、歷て九事を陳す。甫かに殿を下るや、御史唐璘之を撃つ。璘蓋し淵の薦むる所の者なり。遂に仍て前職、太平興國宮を提舉す。久しくして、寶章閣待制を加へられ、再び起きて鎮江を知り總領を兼ぬ。未だ幾ばくもせず、戶部侍郎を以て鎮江府を知り、行在に召し赴かしむ。寶章閣直學士を以て太平州を知り、尋で江東轉運使を兼ぬ。
時に兩淮の民流徙して境に入る者四十餘萬、淵亟に慰撫を加へて之を賙濟し、之を什伍にし、土著の人相犯ふこと無からしむ。旁郡の流民焚劫すること虛日無し、獨り太平の境內肅然として敢へて譁する者無し。功を以て華文閣直學士、沿海制置使、慶元府を知るを加へらる、赴かず。工部尚書、沿海制置副使を以て江州を知るも、亦赴かず。華文閣學士に昇り、隆興府を知り江西安撫使兼轉運副使と爲る。會ふに歲大祲有り、荒政を行ふを講じ、全活する者七十八萬九千餘人。潭州に徙り湖南安撫使を知らんとす、赴かず。敷文閣學士を加へられ、仍て隆興府を知り、安撫、轉運副使舊の如し。鎮江府を知り浙西沿海諸州軍、許浦、澉浦等處の兵船を都大提舉するを改む。歲亦大祲有り、淵に因りて全活する者六十五萬八千餘人。右正言三たび疏して淵を劾し、職を奪ふ。尋で職を復し、太平興國宮を提舉す。未だ幾ばくもせず、鴻慶宮に改む。
母憂に丁し、服除け、龍圖閣學士、江西安撫使に進み江州を知り、尋で沿江制置副使兼南康軍兵甲公事を提舉し、蘄黃州、安慶府屯田使を節制す。湖南の峒寇蔓りて江右の境に入り、數縣を破り、袁・洪大いに震ふ。淵將を命じ兵を調へ、其の渠魁を生禽し、亂遂に平ぐ。兵部尚書に遷り平江府を知り浙西兩淮發運使を兼ぬ。尋で平江府を知るを兼ね、歲亦大祲有り、淵に因りて全活する者四十二萬三千五百餘人。浙西提點刑獄、太平州を知り兩淮茶鹽所を提領するを兼ね、功を以て端明殿學士、沿江制置使、江東安撫使に進み建康府を知り、行宮留守を兼ね、和州無爲軍安慶府を節制し三郡屯田使を兼ぬ。
朝廷淵に光・豐・蘄・黃の事を付す。凡そ司空山、燕家山、金剛臺の三大砦を創り、嵯峨山、膺山、什子山等二十二小砦を築き、丁壯を團し軍を置き、隊伍を分ち立て、星の聯なり棋の布くが如く、脈絡貫通し、事無きときは耕し、警有るときは禦ぐ。詔して淵の利を興し害を除く所列する二十有五事を以て、軍民に心を究むるにより、資政殿大學士を拜し、職任舊の如く、執政の恩例に與り、金陵侯に封ぜられ、復た「錦繡堂」、「忠勤樓」の大字を賜ふ。公に爵を進め、福州に徙り福建安撫使を知る。平江府を知り發運使を兼ぬるに改む。
御史劉元龍淵を劾す。帝其の奏を寢し、寧國府を知るに改む。累り辭免を具し、且つ祠を丐ひ、本官を以て洞霄宮を提舉す。起きて潭州を知り湖南安撫使と爲る、赴かず。太平を知り江淮茶鹽所を提領するを兼ぬるに改め、荊湖制置大使、江陵府を知り夔路策應大使を兼ね、京湖屯田大使を兼ね、京湖安撫制置大使を行ひ帶ぶ。觀文殿學士を拜し、職任舊の如く、湖廣江西京西の財賦、湖北京西の軍馬錢糧を總領するを兼ぬ。淵兵二萬を調へ川蜀に往き援はしむ。其の後力戰すること白河、沮河、玉泉に於てす。寶祐五年正月朔、功を以て參知政事を拜す。七日を越へて卒す。少師を贈り、賻銀絹五百を以て計す。
淵材略有り、事功を濟すに迄る。至る所學を興し士を養ふ。然れども政嚴酷を尚び、羅織の獄を興すを好み、豪橫を籍没す。故に時に「蜈蚣」の謠有り。其の弟潛亦數たび之を諫めて止む。著す所に『易解』及び『退庵文集』、奏議有り。
余玠
余玠、字は義夫、蘄州の人。家貧しく、落魄して行ひ無く、功名を喜び、大言を好む。少くして白鹿洞の諸生と爲り、嘗て客を携へ茶肆に入り、賣茶の翁を毆ち死なせ、身を脱して襄淮に走る。時に趙葵淮東制置使と爲り、玠長短句を作りて上謁す。葵之を壯とし、之を幕中に留む。未だ幾ばくもせず、功を以て進義副尉を補し、將作監主簿、權發遣招進軍に擢でられ、制置司參議官を充て、工部郎官に進む。
余玠は大いに弊政を改め、守宰を厳選し、府の左側に招賢館を築き、その設備供応は帥の居所と全く同じにした。命令を下して言うには、「衆知を集め、忠益を広める、これこそ諸葛孔明が蜀を用いた所以である。謀略を以て我に告げようとする者は、近ければ直接公府に至れ、遠ければ自ら郡に申し出よ。所在の地では礼を以て送り出せ。高い爵位と重い賞賜は、朝廷も功績に報いることを惜しまない。豪傑の士が期に赴いて事を成そうとするなら、今がその時である」と。士で来る者には、余玠は礼をもって接することを厭わず、皆その歓心を得た。言うところに用いるべきものがあれば、その才能に応じて任用し、もし用いるに足らなければ、厚く贈り物をして謝した。
播州の冉氏兄弟、璡と璞は文武の才があり、蛮地に隠居していた。前後の将帥が召し出そうとしたが、堅く肯まず起ち上がらなかった。余玠の賢さを聞き、互いに言った、「この人なら語ることができる」と。そこで府に赴いて謁見を求めた。余玠はかねてより冉氏兄弟のことを聞いていたので、名刺が入るとすぐに出て会い、対等の礼をもって遇し、賓館での待遇も、冉氏兄弟は平然として以前からのことのようにしていた。数ヶ月経っても、何も言わなかった。余玠が辞去させようとした時、宴を設け、余玠自らが主となった。酒が酣になった頃、座の客はやっと紛紛とそれぞれの長所を競って言い合ったが、璡兄弟は飲食するばかりであった。余玠がほのめかして探ると、ついに黙ったままだった。余玠は言った、「これは我が士を待つ礼がどうであるかを見ているのだ」と。翌日、別館を改めて設けて彼らを住まわせ、かつ毎日そのすることを窺わせた。兄弟は終日ものを言わず、ただ向かい合って蹲り、白土で地面に山川城池の形を描いては、立ち上がると消し去るばかりであった。こうしてまた十日ほど経ち、余玠に面会を請い、人を退けて言った、「我々兄弟は明公の礼遇を辱うけ、少しでも裨益するところがあろうと思い、敢えて衆人と同じくはなりません。今日の西蜀の計は、合州城を移すことにあるのではありますまいか」。余玠は思わず躍り上がり、その手を執って言った、「これこそ玠の志である。ただその適地を得なかっただけだ」。彼らは言った、「蜀の入口の形勝の地は釣魚山に如くはありません。ここに移すことを請います。もし適任を得て、穀物を蓄えてこれを守れば、十万の軍にも優るはるかなものであり、巴蜀を守るに足ります」。余玠は大いに喜んで言った、「玠はもとより先生方が浅薄な士でないと疑っていた。先生方の謀略を、玠が掠めて己のものとすることはできない」。そこで衆に諮ることなく、密かにその謀略を朝廷に上奏し、常例を超えて官職を与えるよう請うた。詔して璡を承事郎・権発遣合州とし、璞を承務郎・権通判州事とした。城を移す事は、全て彼らに任せた。命令が下ると、府中はみな喧々として同調し、できないと言った。余玠は怒って言った、「城が完成すれば蜀はこれによって安泰となる。完成しなければ、玠が独りでその責を負う。諸君は関わるな」。ついに青居・大獲・釣魚・雲頂・天生など十余りの城を築き、皆山に因って堡塁とし、碁盤や星のように配置して諸郡の治所とし、兵を屯し糧を聚めて必ず守る計略を立てた。かつ敗走した将を誅して軍令を粛正した。また金州の軍を大獲に移して蜀の入口を守らせ、沔州の軍を青居に移し、興州の軍は先に合州旧城に駐屯させておき、釣魚に移して守らせ、内水の防備を共にさせた。利州の軍を雲頂に移して外水の防備に当たらせた。こうして臂の指を使うが如く、気勢は連絡した。また嘉定の俞興に命じて成都に屯田を開かせ、蜀は富み実ることとなった。
余玠は久しく夔を誅せんと欲し、ただその重兵を握りて外に居るを患え、軽挙すれば蜀を危うくするを恐れ、親将楊成と謀る。成曰く、「夔は蜀に久しく、その部する兵は精鋭なり。前時の大帥、夔は皆勢いその右に出ず、その意は此れに止まらず。侍郎を文臣と視、必ずや甘心して令に従わんとせず。今仮に誅せずとも、その勢いを養い成さば、後一挙足するに、西蜀危うからん。」玠曰く、「我れ之を誅せんと欲すること久し、ただその党与衆多なるを患え、未だ発せざるのみ。」成曰く、「侍郎、夔が蜀に久しく、威名有るを以てす、誰か呉氏と為すに比せん。夔は固より及ばざるなり。夫れ呉氏は中興の危難の時に当たり、能く百戦して蜀を保ち、之を四世に伝え、恩威益々張り、根本益々固し。蜀人は呉氏有るを知りて朝廷を知らず。一旦曦叛逆を為すや、諸将之を誅すること孤豚を取るが如し。況んや夔は呉氏の功無くして、曦の逆心有り、豨突の勇を恃み、敢えて法度を慢にし、兵を縦して民を残し、同列を奴視す。呉氏の人を得て固き有るに非ざるなり。今之を誅せば、一夫の力のみ。その発するを待ちて之を取らば、難からん。」玠の意遂に決す。夜に夔を召して事を計り、潜かに成を以てその衆を代領せしむ。夔纔に営を離るるや、而して新将已に単騎して入る。将士皆愕眙相顧み、何を為すべきかを知らず。成、帥の指を以て譬え曉す。遂に相率いて拝賀す。夔至りて之を斬る。成因りにその悪を為すに与る者数人を察し、稍稍法を以て之を誅す。乃ち成を薦めて文州刺史と為す。
玠、蜀に入るより、華文閣待制に進み、金帯を賜い、権兵部尚書、徽猷閣学士に進み、大使に昇り、又龍図閣学士・端明殿学士に進み、及び召さるるに及び、資政殿学士を拝し、恩例は執政に視る。その卒するや、帝は朝を輟み、特に五官を贈る。監察御史陳大方の言に以て職を奪わる。六年、之を復す。
玠の蜀を治むるや、都統張実に軍旅を治めしめ、安撫王惟忠に財賦を治めしめ、監簿朱文炳に賓客を接せしめ、皆常度有り。学を修め士を養い、徭を軽くして民力を寛にし、征を薄くして商賈を通ずるに至りては。蜀既に富実す。乃ち京湖の餉を罷む。辺関に警無く、又東南の戍を撤す。宝慶以来、蜀閫能く之に及ぶ者未だ有らざるなり。惜しむべし、其の遽かに太平を以て自ら詫ち、蜀錦蜀箋を進め、文飾に過ぐるを。久しく便宜の権を仮り、嫌疑を顧みず、勇退に暗く、遂に讒賊の口を来たす。而又機捕官を置く。雖だ事の情を廉を得るに足れども、然れども耳目を群小に寄せ、虚実相半ばす。故に人多く疑懼を懐く。世安の命を拒ぐに至りては、玠の威名頓に挫け、志を齎して没す。子曰く如孫有り、「当に孫仲謀の如くすべし」の義を取り、論に遭いて師忠と改む。大理寺丞を歴り、賈似道に殺さる。
汪立信
汪立信は、汪澈の従孫なり。立信の曾大父汪智は、汪澈に従い湖北を宣諭し、六安に道すがら、その山水を愛し、因りて居す。
咸淳十年、大元の兵が大挙して宋を伐ち、賈似道は諸軍を督して出陣し江上に駐屯し、汪立信を端明殿学士・沿江制置使・江淮招討使とし、建康府の庫を以て兵を募り、江上の諸郡を救援させた。汪立信は詔を受けて辞さず、即日上路し、妻子を愛将の金明に託し、その手を握って言うには、「我は国家に背かぬ、汝も必ずや我に背くことなかれ。」遂に行った。賈似道と蕪湖で出会うと、賈似道は汪立信の背を撫でて泣きながら言うには、「公の言を用いなかったために、ここに至った。」汪立信は言うには、「平章、平章、隻眼の賊めは今日さらに一言も言えぬ。」賈似道が汪立信にどこへ行くのかと問うと、言うには、「今、江南に一寸の清き地もなし、某は一片の趙家の地を尋ねて死ぬ、ただ死に様を分明にせんがためなり。」既に到着すると、建康の守兵はすべて潰走し、四面すべて北軍であった。汪立信は事の成らぬを知り、嘆いて言うには、「我は生きて宋の臣、死して宋の鬼、終には国のために一死するも、ただ徒らに死して益なきのみ、これをもって国に背く。」配下の数千人を率いて高郵に至り、淮漢を制して後の図りとせんとした。
やがて賈似道の軍が蕪湖で潰えたと聞き、江漢の守臣は皆風を見て降り逃げた。汪立信は嘆いて言うには、「我は今日なお宋の土にて死すを得るなり。」そこで酒を設け賓佐を召して訣別し、自ら表を作って三宮に起居を奏し、従子に書を送り、家事を託した。夜半に起きて庭中を歩き、慷慨悲歌し、拳を握り机を撫でること三度、これにより声を失い、三日にして吭を扼して卒した。光禄大夫を以て致仕し、遺表が聞こえ、太傅を贈られた。
大元の丞相伯顔が建康に入ると、金明はその家族を以て免れ、ある者が伯顔に汪立信を讒し、その二つの策と死を告げ、かつその妻子を戮することを請うた。伯顔は久しく嘆息し、言うには、「宋にこの人あり、この言ありや。もし果たして用いられていたならば、我どうしてここに至らん。」命じてその家を求め厚く恤い、言うには、「忠臣の家なり。」金明は汪立信の喪を以て丹陽に帰葬した。
汪立信の子麟は、内書写機宜文字であり、建康において衆に従って降ることを肯ぜず、崎嶇として閩に走りて死せり。
初め、汪立信が未だ仕えざりし時、家は甚だ貧しかりき。時に大飢饉あり、呉淵が鎮江を守り、粥を作って流民に食わせよと命じ、その客の黄応炎にこれを主たらしめた。黄応炎は一度汪立信を見て、語り、心にその常人にあらざるを知り、呉淵に言うと、呉淵は大いにこれを奇とし、上客の礼を以て遇し、すべて供張や服禦は黄応炎よりも厚くしたので、黄応炎は甚だ怏怏とした。呉淵はこれを解きて言うには、「この君は、我が地位の人なり、ただ時に遭うこと異なるのみ。君の識度志業は、皆その比にあらず、少しばかり下るがよい。」この年、江東転運司の試験を受け、明年及第し、後にその履歴はほぼ呉淵の如くにして、ついに難に死せり。人は呉淵は人を知る能ありという。
向士璧
向士璧、字は君玉、常州の人。才気に負い、精悍にして甚だ自らを好み、紹定五年進士、累遷して平江府通判となり、臣僚の言により罷免される。起用されて淮西制置司参議官となり、また監察御史胡泓の言により罷免される。起用されて高郵軍知事となり、制置使丘崇また論じて罷免す。起用されて安慶府知事・黄州知事となり、遷って淮西提点刑獄兼黄州知事、直宝章閣を加えられ、旧職のまま、鴻禧祠を奉ず。特授にて将作監・京湖制置参議官となり、進んで直煥章閣・湖北安撫副使兼峡州知事、兼ねて帰峡施黔・南平軍・紹慶府鎮撫使、遷って太府少卿・大理卿、進んで直龍図閣。合州が危急を告げると、制置使馬光祖は向士璧に赴援を命じ、数々の奇功を立てた。帝もまた群臣に語りて言うには、「向士璧は朝命を待たず、進軍して帰州に至り、かつ家財百万を捐げて軍費に供す、その志嘉むに足る。」祕閣修撰・枢密副都承旨に進み、旧職のまま。
賈似道が宰相に入ると、その功を嫉み、ただ賞を加えぬのみならず、反って監察御史陳寅・侍御史孫附鳳を諷して一再に弾劾して罷免し、漳州に居住を命ず。また守城の時に用いた金穀を査定し、行部に逮えて責めて償わせた。幕属の方元善という者、極意賈似道の意に逢迎し、向士璧はこれに坐して死し、またその妻妾を拘えて徴した。その後、方元善は吉水県知事に改まるが、俄かに帰りて狂疾を得、常に向士璧を呼ぶ。時に王輔佑もまた遠く謫せられ、文天祥が兵を起こして謫所より王輔佑を召すと、すでに死していた。
胡頴
胡頴は、字を叔獻といい、潭州湘潭の人である。父の𤩰は、趙方の弟趙雍の娘を娶り、二人の子があった。長子は顯といい、拳勇があり、材武をもって官に入り、数々の戦功を立てた。事績は『趙范伝』に見える。頴は幼い頃から風神秀異で、機警にして常ならず、趙氏の諸舅は彼が自分に似ているとして、常に賞賛し見込んだ。成童(十五歳)にしてすでに諸経を暗誦でき、童子科に及第し、また従兄について弓馬を学ぼうとしたが、母は許さず、「汝が家は代々儒業を以てしてきた。再びそうすべきではない」と言った。そこで感奮して苦学し、特に『春秋』に長じた。
枢密都承旨として広東経略安撫使となった。潮州の僧寺に大蛇がいて人を驚動させることができ、前後潮州に仕えた者たちは皆これを信奉していた。前任の太守が去ると、州人は心に疑い、彼が蛇を詣でなかったからだと思った。やがて旱魃があり、皆、太守が蛇神を敬わなかった故にこれが起こったと咎めた。後任の太守はやむを得ず詣でたが、やがて蛇が蜿蜒として現れ、太守は大いに驚き病を得て、まもなく死去した。頴が広州に到着し、この事を聞くと、潮州に檄を飛ばし僧に蛇を担がせて来させた。到着してみると、その大きさは柱のようで黒色であり、檻に載せて運んだ。頴はこれに命じて言った、「お前に神霊があるならば三日の内に変怪を見せるがよい。三日を過ぎればお前には神が無いということだ」。期日が来ると、蠢然としてただの蛇と同じであった。そこでこれを殺し、その寺を壊し、僧も罪に処した。広西に転任し、まもなく京湖総領財賦に昇進した。咸淳年間(1265-1274年)に卒去し、四官を追贈された。
頴は人となり正直剛果で、博学強記、言葉を吐けば文となり、書判は下筆すれば千言に及び、経史を援用し根拠とし、事柄の実情に切当し、倉卒の際にも対句は皆精妙で、読む者は驚歎した。政務に臨んで善く決断し、強権を畏れなかった。浙西にいた時、栄王府の十二人が強盗を働いたが、頴は皆これを斬った。ある日の輪対で、理宗が言った、「卿が殺すことを好むと聞く」。意は浙西の獄事にあった。頴は言った、「臣は太祖の法を曲げて陛下に背くことは敢えてしません。殺すことを嗜むのではありません」。帝はこれに対して黙然とした。
冷応澂
万載県知事となり、大いに学舎を修築し、俊秀を招いてその学業に励ませ、経書に通じ行いを整えた者を表彰して勧めた。凶年の時、捨てられた子供が道に満ちたので、民に自由に収養させるよう命じ、捨てた父母は再び問うことを許さず、多くを全活させた。葉夢得がその行いを列挙し、他の県に風紀を励ました。道州通判となった。行在(臨安)の榷貨務に入って監となり、登聞鼓検院に遷った。
所属県の租賦は、道が険阻であると称して長らく郡に届かなかったが、応澂はこれに対して期限を定めて言った、「最初に納める者は分を減じ、最後に届いた者は減じた分を償え」。民は遅れを恐れ、一月と経たずに事を終えた。凡そ諸綱の官稟・軍券で、前任の政務で積もって支給されなかったものは全て補って返還し、上下が喜び従った。応澂もまた極力慰撫し、簡便な方法をとった。一年で政績を報告し、抑配塩法の廃止と、楮券(紙幣)を用いて銀綱を折納する等の五事を奏上し、民力を緩和させた。詔して本道の提挙常平兼転運使に昇進させ、その意見を行わせた。まず守令の貪横不法な者十余人を弾劾し、諸郡は粛然とした。最上の評価が聞こえ、直秘閣を加えられた。時に経略使陳宗礼が参知政事として朝廷に入った。帝が誰が卿に代わり得るかと問うと、宗礼は応澂を以て答えた。まもなく都官郎官として召されたが、赴任せず、直宝章閣・広州知事に昇進し、広南東路経略安撫司公事・馬歩軍都総管を主管し、漕・庾(転運・倉庫)の職務は従前通り兼ねた。
五つの役所の事務が煩雑であったが、応澂は時を分けて事務を処理し、煩わさず倦まず、常に言った、「官事を治めるは家事の如くすべし。官物を惜しむは己が物の如くすべし。方今、国計は内に虚しく、辺境の声は外に震う。吾らは上より厚恩を受ける身、どうして清談を以て自ら高くし、世を誤ることができようか。陶士行(陶侃)・卞望之(卞壼)が我が師である」。襄陽・樊城が包囲されたと聞いて以来、日々器械を整え、財粟を豊かにし、突然の事態に備えた。後、その備えが役立つこととなり、屡々大寇を平定したが、軽々しく殺すことはせず、笞杖以下の刑罰にもまた審慎を加え、事に臨んで断ずるに至っては、たとえ権勢家であっても屈服させ奪うことはなかった。後に家で卒去した。
曹叔遠
族子 豳
王萬
当時金が滅んだばかりで、当路の者は多く彼が人傑であることを知り、諮問する者が錯綜した。鄭清之が初め虚に乗じて河洛を取らんと謀ったが、王萬は急ぎ自治の規律を整えるべきであると論じた。やがて大元の兵が国境に迫った。三辺が震動し、理宗は己を責める詔を下し、呉泳が起草し、また王萬に諮った。王萬は言うには、「兵は確かに失ったが、それを過度に言い立てるのも恐らく良くない。今、辺境の民の生気は髪の毛ほど細い、奮い立たせ奮発させ、人心を鼓舞すべきである」と。辺境の事柄について条陳し、大臣や要官に広く告げて言うには、「長淮千里、中間に大山沢がなく限界となり、頭を撃てば尾が応じ、まさに常山の蛇の勢いの如し、まず両淮を一つに併せて制置司の命令に従うべきである。両淮の中で濠州のみが中央にある。濠の東は盱眙、楚州で、塩城に至り、淮水の流れは深く広く、敵が渡るのは難しい。濠の西は安豊、光州で、信陽に至り、淮水の流れは浅く澁み、敵はしばしば浅瀬を歩いて渡る。法としては揚州の北軍三千人を調発し、淮東から虚を衝き、常に宿州、亳州の間を往来させ、敵が東を意に介さず、我が力を合わせて淮西に当たるべきである。淮西ではまた合肥のみが江、淮の南北の中にあり、法としては合肥に制置司を設置し、濠梁、安豊、光州を臂とし、黄岡を肘後の緩急の援けとすべきである。また必ず荊、襄に命じて、西の兵が東来するのを見るごとに、常にその尾を追わせ、淮、襄の勢いも合わせ、然る後に大規模な計画が立てられる」と。
用兵について論じると、言うには、「五千人を一屯とし、毎屯に一将、二長を置き、一大将が一路を統べ、また一大将を合わせて制置使に併合し総統とすべきである。淮東には精兵三万、光州、黄州には二万を置き、東西から挟撃し、沿江制置司は合肥の兵二万と合流し、その中を牽制すべきである。行軍には営陣を与え、駐屯には城塁に依拠すべし。行軍には乾糧を持たせ、駐屯には州県で食を調達すべし」と。屯田について論じると、言うには、「新たに回復した州軍において、東は海州、邳州、依るは水の険、西は唐州、鄧州、依るは山の険、このように区画すれば地なくして田なく耕さざるはなく、帰附した新軍や流落した余民もまた固い志を持つであろう」と。
四年、監察御史に抜擢された。まず史宅之を論じ、故相の子で、かつて権勢を弄した者が、再び従班に玷辱すべきではないと。上は丞相に命じて再三諭旨したが、ついに詔を奉じなかった。上は已むなく、史宅之を平江府知府として出した。またこれを論じ、上疏は合わせて五度に及んだ。史嵩之が江上から師を督して入相すると、王萬はまたまずこれを論じ、その「事体が逼迫し、気象が傾揺し、太学生がその帰還を促そうとすれば、賄賂の跡が既に現れている。近ごろ或いはその族人がその私事を暴き、醜く誹謗する者があるというが、相国大臣にしてこのようであるのは、書にいう大臣ではない」と。しかし当時、宰相の事は既に決しており、上疏が入ると、大理少卿に遷された。王萬は即日、常熟の寓居に帰った。太常少卿に遷されたが、辞した。寧国府知事を差遣されたが、辞した。行在に召されて奏事を命ぜられ、福建提点刑獄として出され、直煥章閣、四川宣諭司参議官を加えられたが、皆力辞し、休致を乞うた。詔して特に朝奉郎に転じ、太常少卿を守り致仕し、卒した。史嵩之が罷相すると、衆はこぞってその非を論じたが、上は王萬の先見を思い、親しく御札を賜り、王萬を「立朝して蹇諤、古の遺直、郡を治めて廉平、古の遺愛。その母老いて家貧しきを聞く、朕甚だこれを念う、新会五千貫、田五百畝を賜い、以てその家を贍給す」とされた。
初め、王萬の学問は専ら「時習」の語に得るところあり、学は言が行を顧みるに先んずるものなしと謂い、言は然るに、行は未だ然らざるは、言の偽なるに非ず、習熟せざるなり、熟すれば則ち言行一なり、故にその身を終えるまで、行は言を顧みざるはなし、施設論諫に発するや、皆中心に根ざす、遺文に『時習編』及びその他の奏劄及び天下の事を論ずるもの凡そ十巻あり。
馬光祖
戸部尚書兼臨安府知事・浙西安撫使に拝す、帝、丞相謝方叔に諭して入覲を趣めしむ、下海米禁を厳にすべく乞い、京師の艱食・和糴の増価・海道の寇を致すの三害を歴陳す、宝章閣直学士・沿江制置使・江東安撫使・建康府知事兼行宮留守兼節制和州無為軍安慶府三郡屯田使を加え、煥章閣を加え、尋いで宝章閣学士を加う、初めて官に至り、即ち常例の公用器皿銭二十万緡を以て軍民を支犒し、租税を減じ、鰥寡孤疾告ぐる無きの人を養い、兵を招き砦を置き、銭を給して諸軍の昏嫁を助く、属県の税は折収して絲綿絹帛とし、倚閣除免すること数万を計る、学校を興し、賢才を礼し、僚属を辟召し、皆一時の選に極む。
端明殿学士・荊湖制置・江陵府知事に拝す、去りて建康の民之を思いて已まず、帝聞き、資政殿学士・沿江制置大使・江東安撫使を以て再び建康を知らしむ、士女相慶す、光祖益々民力を寛養し、廃を興し壊を起し、知りて為さざる無く、前政の逋負銭百余万緡を蠲除し、魚利税課悉く罷減して民に予し、明道・南軒書院及び上元県学を修建す、費用を撙節し、平糴倉を建て、米十五万石を貯え、又庫を為して糴本二百余万緡を貯え、その折閲を補い、糴を発するに常に市価より減じて、小民を利す、武備を修飭し、要害を防拓し、辺これに頼りて安んず、その政を為すに寛猛適宜にして、事は大體を存す。
光祖の外に在りては、兵を練り財を豊かにす、朝廷これを以て京尹と為せば、則ち専ら浩穰を治め、風績凛然たり、三たび建康に至り、終始一紀、威恵並び行わり、百廃修挙せざる無しと云う。
論じて曰く、呉淵は才具優長なりしも、厳酷これを累す、余玠は意気豪雄なりしも、志克く信ぜられず、賈似道は汪立信の策を用いざりしは、殆ど天その魄を奪えるか、向士璧は卒に似道に厄せられ、宋の図存に足らざるは、蓋し知るべしなり、胡頴は淫祠を毀つを好みしも、その中の慊き無きに非ざれば、能く爾くする能わざるなり、冷応澂は辺を安んずるの才あり、曹叔遠・王萬は皆正人端士なり、馬光祖の建康を治むるは、今に逮ぶまで遺愛猶ほ民心に在り、能臣と謂うべし。