傅伯成
慶元初め、召されて将作監と為り、太府寺丞に進む。呂祖儉が上書を以て貶せらるるは当たらずと言う。また御史に言い、朱熹は大儒なり、偽学を以てこれを目すべからずと。また朋党の弊は、人主の好悪の偏より起こると言う。これに坐して合わず、出でて漳州知州となり、律己愛民を本と為す。朱熹の遺意を推しこれを遵行し、惠民局を創め、民の病を済し、禨鬼の俗を革む。郡の南門より漳浦に至り、橋三十五を為し、道千二百丈を治む。
二度部使者と為り、工部侍郎に遷る。時に権臣辺境を開かんとし、語尚お秘なり。伯成言う、「天下の勢いは、譬えば舟に乗るが如し、中興して且つ八十年なり、外よりこれを望めば、舟は堅緻なる若し、歳月既に久しく、罅漏漸く多く、苟も旦夕を安んずるも、猶覆敗を懼るるに、乃ち倖いに図りて古人の難き所を為さんと欲す、臣は則ち未だこれを知らざるなり」と。相府災あり、同列相率いて丞相を弔問し、或いは偶然なる者と為すも、伯成正色して謂う、「天意此くの如し、官師相い規る時なり、偶然と為すか」と。丞相色動く。遂に三事を陳ぶ。一は民心を失う、二は軍政を隳す、三は辺釁を啓く。右司郎官に進み、権幸に私謁する者有れば、皆峻しくこれを拒ぐ。出でて湖広総領と為る。朝議金人の叛降する者を納れんと欲す。伯成軽く信誓を棄つべからずと言い、将帥に事を生ぜしむるなからんことを乞い戒む。御史中丞鄧友龍遂に伯成を劾し、これを罷む。
伯成未だ諫官と為らざるも、嘗て言う、「弥遠侂冑を誅せんと謀る、事遂がざれば則ちその家先ず破れ、侂冑誅せられて史これに代わる、勢いなり。諸公要は相い協和し、共に国事を議すべし。若し党を立てて相い擠せば、必ず勝負有り、国の福に非ざるなり」と。また丞相錢象祖を勧めて、「安危の大事は、死を以てこれを争うべし。差除の小なる者は、何ぞ必ずしも乖異せん」と。左諫議大夫を拝し、疏を抗すること十有三、皆軍国の大義なり。或いは弥遠の意を致し、弾劾せしむる所あらんと欲し、将にこれを引きて政を共にせんと謂う。これを謝して曰く、「吾豈に人を傾けて以て利と為さんや」と。疏して大臣に公を以て私を滅すべしと詔することを乞う。
左遷されて権吏部侍郎と為る。集英殿修撰を以て建寧府知府となる。蔡元定道州に謫死し、建陽に帰葬す。乃ちその冤を朝に雪ぐ。宝謨閣待制に進み、鎮江府知府となる。飢民を全活し、野殍を瘞蔵すること、勝えず数うべからず。制置司焦山の防江軍を圌山石碑に移さんと欲す。伯成謂う、「此を虚しくし彼を実にするは、利害等しきのみ。包港は焦・圌の中に在り、両砦の兵をして迭りに戍らしむるに若かず」と。圌山砦の兵、素より海盜と地を為す。伯成廉かに姓名を知り、会に郡都試みて捕えこれを鞫す。一も逸去する者無し。獄具わり、その死を貸し、黥して諸軍に隷せしむることを請う。
嘉定八年、闕に赴くことを召す。辞するも獲ず、莆に至り、疏を拝して曰く、「臣病みて進む能わず」と。宝謨閣直学士・通奉大夫を除し、致仕す。理宗即位し、直学士に昇り、致仕を落とし、祠を予け、金帯を錫う。伯成辞免し、乃ち「天常を昭明にし、人極を扶持す」の説を進め、詔して一官を進む。
葛洪
葛洪、字は容父、婺州東陽の人。呂祖謙に従い学び、淳熙十一年の進士第に登る。嘉定年間、枢密院編修官兼国史院編修官・実録院検討官と為る。守尚書工部員外郎兼権枢密院検詳諸房文字に遷る。上疏して言う、
「今の将帥、その才と否とは、臣知り尽くすことを得ず。惟だ忠誠の在る所、凡そ人臣たる者斯須も離るべからざるは、則ち是れを以てこれを責めざるべからざるのみ。今安居して事無し、必ずしも奮いて死を顧みず、水火を冒し、白刃を蹈んで、而る後にこれを忠と謂うに非ざるなり。第にその憂いを職と思うを忠と謂い、公にして私を忘るるを忠と謂い、純実にして欺かざるを忠と謂う。
また士卒を慰撫し養うことは、将帥の職務である。朝廷は毎度、搾取を厳しく禁じ、営運の未納分を免除しており、その戒めは極めて压重である。今や別に名目を設け、ますます貪欲にふるまい、生計がやや豊かな者を見ては無実の罪を着せ、動もすれば財産を査定して没収し、俸給がやや優れた者を選んでは強いて庫務の職に就かせ、糧秣の調達を命じ、軍需品を割り当てて強制するなど、慰撫養成の何があろうか。軍旅を訓練し統率することも、将帥の職務である。朝廷は毎度、点検試験の法を厳しくし、階級の令を申し渡しており、その戒めもまた切実である。今顧みれば、教練・検閲を形式だけのものと見なし、坐作進退は児戯に等しく、武芸に優れた者には表彰・賞与を与えず、拙劣で懦弱な者を戒め励ますこともなく、兵士は日々横暴で驕り、概ね使役し難い状態にある。訓練統率の何があろうか。
ましてや、声色の奉仕に深く耽溺し、田宅の計画に心を奪われて国事を顧みない者がある。また、終日奔走して専ら交際に努め、書状や贈り物の往来が道路に満ち、妄りに昇進を希求する者がある。自らは武器甲冑を整備し、戦艦を修造したと称するが、その実を究めれば、古いものを飾り立てて新しく見せただけである。自らは財用を節約し、剰余金があると称するが、その根源を尋ねれば、下を搾取して上を欺いているだけである。将帥を厳しく戒め、上下ともに奮い立たせ、軍備を整え、常に敵が来襲する憂いがあるかのようにせよ。磨き上げ奮い起こし、以て新たな気風を求めれば、それもまた用いられることになろう。」
帝はこれを嘉して受け入れた。
直煥章閣に進み、国子祭酒となり、引き続き国史編修・実録検討を兼ねた。工部侍郎に転じ、引き続き祭酒・同修国史実録院同修撰を兼ね、工部尚書に任じられ、これもまた祭酒・侍読を兼ねた。端明殿学士・同簽書枢密院事に進み、参知政事に任じられ、東陽郡公に封ぜられた。李全討伐を補佐し、王素が仁宗に諫めて王德用の娘の献上を退けた故事を引き合いに出し、後宮の妃嬪を補充することを止めさせたので、世間は多くこれを称えた。資政殿学士・提挙洞霄宮となり、大学士に進んだ。行在に召し出され、元の職のまま万寿観使兼侍読を充てられ、まもなく提挙万寿観兼侍読となり、本官のまま致仕し、死去した。帝は一日視朝を停止し、「端献」と諡した。杜範は、彼が侃々として正しきを守り、大臣の風格があったと称えた。奏議・雑著文二十四巻がある。
曾三復
黄疇若
韓侂冑が敗れると、疇若は上章して去ることを請うた。帝はその上奏に批答して言った:「卿は忠藎を懐いている。朕はもとより知っている。」疇若はそこで鄧友龍・陳景俊の悪事を上疏した。先に、江淮督府がすでに功績なく、罷めて更に設置しなかった。疇若は上奏し、和戦が未決であるのに、近臣を派遣して幕府を置かなければ、諸将を統率できないと論じた。以前の上奏を検討して、速やかに大臣に命じて人材を科条し宣撫使とすることを詔するよう請うた。帝は即日、丘崈を江淮制置使とした。まもなく疇若を殿中侍御史兼侍講に遷した。朝廷が金人と和約を結ぶと、金人は侂冑の首を函に入れて送ることを約した。詔して台諫・侍従・両省に雑議させた。疇若は章燮らと上奏した:「乞う、梟首した後、函に入れて敵国に送らせよ。」人々はその国体を失することを譏った。
疇若は上奏した:「今、国庫に余りがなく、歳幣がもし必ず百姓に目を向けるならば、願わくは宮禁から宰執百官に至るまで共に節約し、逐年に積み立てられよ。」そこで安辺所を設置した。戸部侍郎の沈詵が節約すべきこと・取り立てるべきことを条具した。疇若はさらに請うた:「仁宗・孝宗両朝の成訓に依り、凡そ節約の事は、内の諸司では内侍長一員を選び、自ら探し訪ねさせ、条具して上らせよ。外廷の三省では宰掾・枢属に委ね、六曹では長貳に委ね、無駄な費用に関する事は奏聞せよ。」また、官司の房廊及び激賞庫の四季の献上分、並びに侂冑の万畝荘などを、一括して取り立て積み立てることを請うた。後に内廷及び酒務所の減省は、議論が多く阻まれたが、ただ奸贓の査定没収及び房廊の臨時の供給需要など五項目だけが認められ、総計緡銭九百一十三万有余、外に留保された産業からは毎年さらに七十一万五千三百余緡を得ることができた。疇若は、後省に命じて更化以来の臣下の章奏を分類集め、実行可能なものを察して奏聞し、中書に付するよう請うた。
都城で穀物価格が高騰した。詔して価格を下げて積み立て管理していた米十万石を売り出させた。そこで淮・浙の流民が集まった。臨安府は戸籍に照らして救済したが、わずか五千人に満たず、三月後に麦が熟して救済を止め、それぞれ食糧を与えて帰還させた。疇若は言う:「これは実に彼らを追い払うことである。」そこで上奏した:「乞う、実態を調査させよ。近郊の者で、帰って田畑に就くことを願う者は問わない。まだ帰れない者には、さらに二ヶ月救済せよ。都城にいる淮民は、その家は既に破れ、また余財もないので、必ずや急に去ることは難しい。引き続き救済恤を与え、早く作物が熟するのを待って止めよ。」そこで詔して救済を六月まで続けることとした。
帝は蝗害のため、監司の不適任者を摘発して推挙するよう命じた。疇若は台監とともに考察して上奏した。また言う:「湖・広の盗賊は、確かに飢寒に迫られたものであるが、また刺激されて成ったものもある。黒風峒の賊寇は、実は官が訴訟を決断しなかったことによる。宜しく湖・広の諸司に戒め、法を申し明らかにし、賊となることを禁じ、関防を時を定めて行い、心を平らかにして訴訟を決断し、砦官・巡尉に侵漁させないようにせよ。」権戸部侍郎となり、金使が君主の喪を告げたので、館伴に差し充てられた。
そこで面会して地方官への補任を求め、退出後も上章し、詔を下して許さず、また連続して上疏して辞任を願い出た。ちょうど旱魃と蝗害が再び激しくなり、御筆(皇帝直筆の命令)によって朝廷の百官に封事(密封した上奏文)を条陳するよう命じられた。疇若は「官吏の苛酷さ、賦役の頻繁な重複、賦税の繁重さ、刑法の遅延」の四事を奏上した。皇太子を冊立する際、引見礼儀使を拝命した。華文閣待制に進み、成都府知事となった。蜀では呉曦の叛乱以来、制置使の役所が興元に移され、朝廷の議論には偏重の嫌疑があった。朝廷は人選を慎重に行い、あえて疇若をこれに充てたのであり、三度辞退したが許されなかった。諱を避けて、宝謨閣待制に改めた。詔が下った。「凡そ軍民の利害、吏治の善悪に関することは、すべて諮問訪問して奏聞することを許す」。当時、積み残した未納分十余万を徴収しようとしていたが、疇若は急いで九つの県に告示を出して全て免除させた。官吏の冗員を調査し、勅命による差注(任命)でない者は全て罷免した。民衆に代わって六年分の布估銭(布税)を納め、総計二十万二千四百緡に及んだ。また別に庫を設けて二十五万三千緡を貯蔵し、将来に備えて継続的に代納する計画とした。また米十五万石余りを買い入れ、広恵倉の備蓄を充足させた。さらに他の重い賦税を減らしたので、民力はようやく緩和された。
当初、沈黎の蛮族がたびたび辺境を侵犯していたが、疇若が着任すると、禍福を説いた布告を掲示して諭したので、青羌と弥羌の両部族は降伏を請うた。嘉定四年、董蛮がその部族を糾合して犍為の利店に侵入した。疇若は急いで兵を調達し、方略を設けて捕らえようとしたが、皆逃げ去った。これ以前に、疇若は嘉定の辺備が廃弛していることを察知し、平戎荘の子弟が役に立つと考え、そこで嘉定府に檄を飛ばして平戎荘の当年の炭估銭と麻租を一時免除し、荘の子弟に即日に辺境に赴いて守備に当たらせた。ちょうど嘉定に守備が不在となり、蛮族は利店に備えがないと窺い、ついに侵入した。疇若はさらに西軍を選抜し、しばらく防衛に出向かせようとし、転運司に文書を送って支給を求めると、返答がなかった。蛮族が再び龍鳩堡を侵犯すると、転運司はようやくその要請にかなり従った。蛮族がさらに龍門隘に迫ったが、守備があると知って退却した。龍図閣待制に進み、引き続き成都府知事を務めた。
大使司の軍が出動し、東路提刑も兵を徴発したため、三方が警報を告げ、叙南からの急報が再び迫り、両路が震動した。疇若は急いで両軍に文書を送り、速やかに軍を返して要害を守り、後日の計画とすべきだと説き、西軍はついに沐川に退いて守備した。やがて疇若が叙州の兵甲公事を兼ねて統制するようになり、専断の権を得ると、ますます守備を厳重にし、蛮首の昔丑はついに降伏した。朝廷は蛮族平定の功を賞し、疇若の官階一級を進めた。
疇若は蜀に四年留まり、弊害の根源や蝕む穴を、苗を刈り髪を梳くように整理した。例えば、移駐した西兵と義勇兵を選抜して留め置き、不意の反乱を防ぎ、偏重を救うことを請うた。また東南の賢士を登用して蜀の四路に派遣し、蜀の守臣で治績のある者を抜擢して東南の監司とし、州県間の姻戚による私情を杜絶しようとした。さらに銭引(紙幣)の貼期(期限切れ手数料)の費用を軽減し、民力を休養させようとした。いずれも強く上疏して朝廷に請い、力を入れて実行するよう求めた。また、大玄城は張儀が築き、高駢が修築したもので、崩壊して久しく、修復費用が重いことを思い、節約して余った銭四十万貫を修城の準備に充てた。疇若は制置使として漢中に留まれば、諸将を統率するのに適していると考えた。行在(臨安)に召還され、延和殿で入対し、権兵部尚書・太子右庶子に転じた。
嘉定八年、四月に雨が降らず、詔を下して直言を求めた。疇若は三事を条陳した。まず言うには、「近ごろ紙幣の価値引き上げを称えるが、州県の執行が切迫しているため、坐減陌(紙幣の額面割引)を理由に財産を没収される者が多い。返還することをお願いしたい。下戸の畸零税賦(零細な税)を免除することをお願いしたい。雄淮軍の困窮を救済し養うことをお願いしたい」。まもなくいずれも実行された。権の官を解かれ、左庶子に昇進し、引き続き国史編修を兼ね、太子詹事に抜擢された。疇若は范鎮の故事を引き合いに出し、田舎に帰ることを請うた。
嘉定十年春、貢挙(科挙)の知貢挙を拝命し、礼部尚書を試みたが、足の病気を理由に帰郷を請うた。煥章閣学士に進み、福州知事となったが、強く辞退したので、提挙鴻慶宮に改任された。関外で軍が潰走し、言事官が疇若に言及して論難したため、職を奪われ祠官を罷免されたが、後に煥章閣学士として致仕した。著書に『竹坡集』、奏議、講議、『経筵故事』がある。
袁韶
袁韶、字は彦淳、慶元府の人。淳熙十四年の進士。嘉泰年間、呉江県丞となる。蘇師旦が韓侂冑の威光を頼み、役法を乱し、提挙常平の黄栄が袁韶に檄を飛ばして田畑を査定し役法を定めさせた。師旦は密かに意を伝えて言った。「呉江には私の姻戚が多い。もし寛大に見てくれれば、京朝官に推薦しよう」。袁韶は聞き入れなかった。この年、戸籍を改定し、徭役と賦税を担当させた者は、皆師旦の党与であった。師旦は言事官にそそのかして袁韶を追い落とそうとした。黄栄は急いでこの事を朝廷に報告し、かつ袁韶を推薦した。まもなく師旦は失脚した。桐廬県知事に転じた。桐廬には宗室が多く、県政を執る者は善く去った者がいなかった。袁韶が着任すると、私的な請託を絶ち、敢えて乱す者はいなかった。銭塘の堤防は毎年潮に侵食され、いつも石材を桐廬から取っていた。袁韶は言った。「廟子山に石がある。わざわざ隣郡から取る必要はない」。これによって石材供出が免除された。嘉定四年、太常寺主簿に召された。父老たちは旗鼓を連ね江を覆って餞別し、富陽に至るまで、泣いて感謝して言った。「我々はもう石材を運ばなくて済むのです」。
韶の父は郡の小吏となり、通判庁に給事し、勤勉謹厳で過失なく、任期満了で交代すべきところ、去ることを許されなかった。後に通判が着任し、再び留めて任用したため、これによって豊かになった。夫妻ともに五十歳近くになり、子がなく、妻は財を出して彼を臨安に行かせ妾を置かせた。妾を得た後、彼女に憂色があるのを察し、かつ麻で髪を束ね、外側を彩りで飾っていた。問うと、泣いて言うには、「妾はもと趙知府の娘でございます。家は四川にあり、父が亡くなり家が貧しかったため、妾を売って帰葬の費用にあてようとしたのです」と。すぐに送り返した。その母は泣いて言うには、「娘の聘財を計ってもまだ帰路の費用を賄うには足りず、しかも使い果たしてしまいました。どうしてお返しできましょうか」と。徐に言うには、「賤しい吏が娘子を辱めることはできません。聘財はすべてお受け取りください」と。またその家がまだ困窮していると聞き、袋の中の財をすべて与え、ただ一人で帰った。妻は迎えて問うた、「妾はどこにいるのか」と。そのわけを告げ、かつ言うには、「私は考えた。子がないのは運命だ。私はお前と長く連れ添ってきたが、もし子があれば、お前が育てないはずがない。必ず他の女を待って育てるということがあろうか」と。妻も喜んで言うには、「あなたがこのように心を配るなら、きっと子ができるでしょう」と。翌年、韶が生まれた。
危稹
危稹、字は逢吉、撫州臨川の人。旧名は科、淳熙十四年に進士に挙げられ、孝宗が名を稹と改めた。時に洪邁が稹の文章を得て、これを賞賛激励した。南康軍教授に転任した。転運使の楊万里が管区を巡察し、突然会って嘆賞し、ともに廬山に遊び、互いに詩を唱和した。広東帳司に転任したが、赴任せず、父の喪に服し、免官、臨安府教授に転任した。倪思が彼を推薦し、かつ人に語って言うには、「私はこの一人の士を得て、国に報いることができる」と。母の憂いに服し、免官、京西安撫司公事を幹弁した。入朝して武学諭となり、太学録に改めた。
翌年、武学博士に遷り、また諸王宮教授に遷った。稹は、教を名とする官でありながら実は教えたことがないとして、宗子学を新設し、両学(太学・武学)のような課試法を立てるよう請い、これに従った。嘉定九年、新たな学舎が完成し、博士に改めて充てられ、その教養の規程は、稹が論じて建策したものであった。秘書郎・著作佐郎に遷り、兼ねて呉益王府教授を務めた。著作郎に昇進し、兼ねて屯田郎官を務めた。
稹が初めて進み対して、軍功の賞を復活させて叙することを請い大信を立て、功臣の罪を拭い去って忠節を励まし、局を置いて武事を立て、使を遣わして辺防を視察し、厚く賞して間諜を精鋭にするよう論じた。次いで和・戦・守の利害を論じ、専ら守りに意を用いるよう請うた。この年、春から夏にかけて雨が降らず、稹は詔に応じて言上した、「安辺所の徴収収奪の害、無罪でありながら財産を没収する害、楮幣の改鋳による一を以て二を奪う害、塩鈔の変更による新を以て旧を廃する害、さらに軍功の賞を阻み、死士を放散することに至るまで、すべて怨みを招いて旱魃を引き起こすに足る」と。
翌年また論じて言うには、「国を謀る者は安靖を以て安靖としようとし、国を憂う者は振厲を以て安靖としようとする。この二つの議論が合わないため、国には成謀がなく、人には定志がない。願わくは大臣に詔して二つの議論を合わせて共に図らせ、かつ両淮の帥臣に下して、守禦の備えを講究させたい」。最後に言うには、「成規のない事は、すべて為すべからず。意向が明らかでなければ、衆の聴従を一つにすることはできない。信誓が立たなければ、人心を結ぶことはできない。報応が急でなければ、事機に赴くことはできない。賞罰が果断でなければ、士気を奮い立たせることはできない」。
番易の柴中行が国を去ると、稹は詩を賦してこれを送り、宰相に逆らい、潮州知州として出された。まもなく金華の徐僑に送った書簡の内容によって罷免を論じられ、千秋鴻禧観提挙となった。久しくして、漳州知州となった。漳州の風俗は親を葬らないことを常とし、しばしば僧寺に仮葬していた。稹は高燥の地を営んで義塚を三つ造り、期日を約して葬ることを責め、主のないもの、あるいは主はあっても力の及ばないものは、官がこれを葬り、合わせて二千三百余りに及び、石に刻んで記した。郡に臨漳台があり、溪山の最も勝れた場所を占めていたので、その上に龍江書院を建てた。完成すると、自ら経書を講じ、人々は感化された。県令に賄賂の噂のある者を弾劾して罷免し、その財産を没収して民に返した。郡には経制銭・総制銭の無名の錢が毎年五千緡あり、民を苦しめることが甚だしかった。前任の太守趙汝讜がその五分の二を免除するよう奏上していたが、稹は朝廷に上疏して、すべて廃止させた。たまたま常平使に意見があったが、稹は弁明せず、ただちに自ら請願して帰郷した。久しくして、崇禧観提挙となり、郷里の長老七人と真率会を結んだ。卒去、七十四歳。
稹は性、至孝であり、父が病気の時、己の寿命を減らして親の年を増やそうと願い、病気はまもなく癒えた。真徳秀が従班に登ると、稹を挙げて自らの代わりとし、稹が没すると、またその墓に銘を書いた。著書に『巽斎集』があり、諸経に講義・集解があり、諸々の魏・晋・唐の詩文にはすべて編纂があり、先賢の奏議を輯めて『玉府』『薬山』と題した。
程公許
程公許、字は季與、一字は希穎、敘州宣化の人。幼少より孝養と敬愛を知り、大母の侯氏が病気の時、公許は数ヶ月まばたきもせずに看病し、病状が危篤になると、その痰沫を嘗め、亡くなると後、哀傷して礼制を超えた。嘉定四年に進士に挙げられ、温江尉に転任したが、赴任せず、母の憂いに服した。喪が明けると、華陽尉に任じられ、再び綿州教授に転任した。制置使の崔与之が大いに器量を賞賛し、官階を改めて崇寧県知事とし、前借りを免除し、強制的な割り当てを免じ、人々は大いにその徳を慕った。
簡州通判に差遣された。隆州に改めたが、赴任しなかった。ちょうど金人が閬中を侵犯し、制置使の桂如淵が逃亡したため、三川が震動し、朝廷は李𡌴を抜擢してこれに代え、公許を施州通判に辟召し、戸房公事を行わせた。兵将が奔潰した後において、公許は力を尽くしてこれを補佐し、無駄な費用を節減し、利益の源を開拓したため、民は賦税を増やさずとも費用は自ら足りた。時に諸将は乱に乗じて掠奪し、事態が収まると自ら危惧し、重い賄賂で幕府と結んだ。大将の和彦威は金宝を懐にして献上したが、公許は厳しい顔色でこれを退け、彦威は恥じて退いた。呉彦という者は、僧の度牒を書簡の末尾に封じて進上したが、公許は巻き返してその使者を責め、聞いた者は畏服した。秦・鞏の大姓を招くことを𡌴に献策する者があり、多くの者が従ったが、公許だけは山東の二の轍を踏むのは遠くないとし、反復論難したので、𡌴はこれに従った。その後、趙彦呐が閫を開くと、再びその策を行った。まもなく、金人が成都を攻め、大姓の者が実際に案内したため、初めて公許の先見の明に敬服した。
夏、行都(臨安)に大火あり、殿中侍御史蔣峴は君に逢い寵を希い、邪説を創め、言者を禁錮す。公許詔に応じて曰く、「群臣忠告する者衆し、而るに聖意確乎として回らすべからず。聖意回らすべからず、而して言者は激に免れず。陛下宜しく大舜の怒を蔵れ怨を宿さざるを以て心と為し、漢文帝の淮南厲王を待つに参酌し、我が太宗の秦邸を待つる故事を以て、和気を召し、眚災を弭ぎ、特にある一念転移の頃に在るのみ」と。秘書丞兼考功郎官に遷るも、竟に峴に劾せられて去り、差遣にて雲臺観を主管し、衢州を知るも、未だ上らず。江東宣撫司参議官に改むるも、赴かず。
李宗勉相に入り、著作佐郎を以て召され、尚左郎官を兼権し、直舎人院を兼ね、著作郎に遷る。時に諫官郭磊卿は事を論じて報いられずして関を出で、徐榮叟も亦抗章して引去す。公許奏す、「言官を還し、厥の位を安んぜしむるを乞う」と。既にして史嵩之江上より相に入る。台諫謝方叔・王萬及び磊卿相継いで他に徙る。公許又奏す、「外難憑陵し、国勢岌として綴旒の若く、朝廷上自ら靖かならず、陽に遷除と為し、陰に言職を奪う。此れ中外怏怏たる所以なり」と。
将作少監に遷る。大旱あり、詔に応じて時事四條を疏す。又言う、儲極虚位にして、天下寒心すと。時に朝廷侍従・台諫に令して楮幣の利害を條具せしめ、尋いで旨を降して新造の十八界を以て五行使に折するを以てす。公許省に繳申し、謂う、「廟堂決意更革す、本十八界を重んぜんと欲す、亦た十六界・十七界を令して稍く分別有らしむべし。若し一時皆以て五を以て一に折せば、安んぞ将来十七界と十八界と並行して折閲せざることを保せんや。曷ぞ十七界を将いて且つ三を以て一に兌し、民間に尚ほ此の一界を宝するを知らしめ、一旦貿易行はれざるに至らしめず、三界をして各等第有らしめ、庶幾く公私両便ならん」と。嵩之格して行はず、径に黄榜を掲ぐ。公許謂う、「鳳閣鸞台を経ずして、敕と為すべからず。朝廷令を出だして宰相擅に行うこと此の如くんば、則ち掖垣廃すべし」と。累ねて奏牘を上し、径に引去らんと欲す。宗勉及び参知政事遊似面して奏して之を留め、国史編修・実録検討を兼ぬ。
時に二相尚ほ遜り、機務多く壅ぐ。公許奏す、「輔臣謙遜を崇執し、形跡を避遠し、色を以て示して明言せず。事幾無窮、日月易く失す。今最も急なるは疆場の事に若かず。帥才蓄えず、一旦議して易置せんと欲すれば、茫然として付する所を知らず。九江守を択ぶに至りては、近く廃斥せしめ朋附して欺くの台察を以て其の選に充つ。同時に言責を任ずる者は、心跡に顕晦有り、過悪に重軽有れども、清議に獲罪するは則ち同じ。一人抆拭するの驟なること是の如くんば、三人の者寧ろ玷缺の復するを望みて引领せざらんや。況んや近く言官方に劉晉之・鄭起潜・濮斗南の三人を以て其の罪を明正し、以て警戒を示すを乞うに、忽ち龔基先の用いらるるを聞く。議者咸に謂う、改紀の初め、為す所錯繆し、邪枉善類を窺伺す、何ぞ高枕して臥すべけんや」と。帝公許の疏を見て善しと称し、且つ言う、基先の用いらるるは太だ早しと。
右史徐元杰暴亡す。司諫謝方叔・御史劉応起言うも、報いず。公許亟に奏して曰く、「正月、侍御史劉漢弼死す。四月、右丞相杜範死す。六月、右史徐元杰死す。漢弼の死は固より疑わしむべく、範の死は人言已に籍籍たり。然れども漢弼は風淫末疾に類し、範も亦た尫弱多病、諉して天命と曰うは、猶お可なり。元杰は気体魁碩、神采厳毅、議論英発、甫く謁告を聞くや、奄かに暴亡に至る。口鼻四体変異の状、人をして之が為に雪涕止まざらしむ。六館諸生閽を叩き籲告す。陛下始めて有司に命じて獄を置き鞫勘せしむ。謂う、当に朝紳の中より公正明決顧忌無き者を選び、専ら其の事に蒞り、情を尽くして研究し、務めて実を得しむべし。朝堂に集議し、首従を分列し、必ず誅して赦す無からしむべし」と。疏入るも、報いず。物論沸騰す。臨安尹趙与𢤉奏して天府に獄を置くを乞う。帝之に従う。公許繳奏す、「与𢤉は乃ち嵩之の死党なり。改めて大理寺に送り、台臣に之を董せしむるを乞う」と。詔して殿中侍御史鄭寀にす。寀回懦首鼠し、事竟に白からず。然れども公論公許を偉しとせざる莫し。
礼部侍郎を権め、差充して執綏官と為す。鄭起潜・劉晉之及び陳一薦は台臣の論劾を以て遷謫せらる。公許其の下に附き上を罔くする罪を疏し、各州軍に下して厳に行い押発せしむるを乞う。鄭清之少保を以て祠を奉ず。侍講幄中に在り、其の子士昌の官職を批復し、内祠を与え、且つ行在所に侍養するを許す。蓋し士昌嘗て詔獄に追逮せられ、或いは云う、詐りて死を以て聞かすと。清之闕を造り、帝に泣いて請う。故に是の命有り。公許繳奏す、「士昌罪重し。京都浩穰、奸宄雑糅す。恐らくは其の積習沈痼、重ねて清之の累と為らん。莫しと雖も且つ甄復を与え、少しく清之を慰め、内祠侍養の命は宜しく収寝すべし」と。帝密かに中貴人を遣わして公許の疏を清之に示す。項容孫罪を以て家に遣還せられ、道に死す。時に官を叙し職を復す。公許駁奏す。命遂に格す。
中書舎人に遷り、礼部侍郎に進む。嵩之喪を免じ、観文殿大学士を以て洞霄宮を提挙す。台諫・給舎交章して論奏す。公許疏す、「睿断を乞い亟に明詔を下し、邦典を正すべし」と。殿中侍御史章琰・正言李昴英は執政及び府尹を論ずるを以て、帝怒り、二人を出だす。公許力めて之を争う。公許自ら士昌の命を繳してより、清之日夜経筵に於て公許を短す。周坦の妻清之の妻と善し。因りて坦を拝して殿中侍御史と為す。坦首めて疏して公許を劾し、宝章閣待制を以て建寧府を知らしむ。諫議大夫鄭寀又之を劾す。命遂に寝す。
清之が再び宰相となると、公許は湖州に隠居すること四年、再び玉隆観の提挙に任ぜられ、婺州知州を命ぜられたが、未だ赴任せず。帝は文字官として召し出そうとしたが、清之が既に婺州を守らせると奏上したので、帝は「朕は彼を来させたい」と言い、そこで権刑部尚書を授けた。公許はたびたび辞退したが許されず。入朝して対面し、上疏して貨財、興繕、諫臣の追放、辺境の争いの惹起など当時の弊害七事を論じ、知名の士二十九人を推薦した。
当時、京学の類申が廃止され、生徒が散遣された。公許は奏上して言うには、「京学が士を養う法は、本来三学とは同じではない。かつて類申の法を立てた時は、軽重が適宜であり、人情も安んじていた。近ごろ突然、郷庠の教選によってこれを変更し、士人もまた自ら反省すべきであり、すべてを朝廷の過失に帰すべきではない。この令が施行された当初、臣はちょうど朝廷に戻ったばかりで、既に出された令を乱すような強弁はできなかった。今、士子が道中で騒ぎ、朝夕に奔走している。今や旧来の数をすべて復活させることができないなら、いっそ便宜的に五百人を定員とし、依然として類申の法を用いて、遠方から遊学する者がその間で学業を修めることができるようにすべきである。京邑は四方の中心でありながら、学校が空しく、弦誦の声も寂寥として、かくて逢掖の徒は慌ただしく、市井の民は怨みながらも敢えて議論しない。これは士気を振るい起こし、教化を尊崇する方策ではない。」清之はますます快く思わなかった。原案を殿中侍御史陳垓に与えて公許を弾劾させた。参知政事呉潛が公許を留任するよう奏上し、帝は夜半に小黄門を遣わして垓の上疏を取り寄せた。二日後、二府が公許を去らせるべきでないと奏上し、同知枢密院事徐清叟が上疏して垓を論難した。太学生劉黻ら百余人、布衣の方和卿が宮門に伏して上書し垓を論じた。朝廷はまもなく宝章閣学士・隆興府知府を授けたが、公許は既に死去していた。遺表が上ると、帝は嘆き悼み、龍図閣学士致仕に進め、宣奉大夫を追贈し、子孫に官職を与え、賜賻は令式の通りとした。
公許は淡泊で寡欲であり、晚年はただ一人の童子が侍るのみで、食事に二品を重ねず、一つの裘を十数年も替えなかった。家に余剰の蓄えはなく、親戚を敬愛すること極めて厚かった。蜀に兵乱があると、一族や姻戚で東南に逃れる者は多く公許に寄って住んだ。著書に『塵缶文集』、内外制、奏議、『奏常擬諡』、『掖垣繳奏』、『金革講義』、『進故事』が世に行われている。
羅必元
羅必元、字は亨父、隆興進賢の人。嘉定十年の進士。咸寧尉に調じ、撫州司法参軍、崇仁丞を歴任し、再び司法を代行した。郡の士人曾極が金陵行宮の龍屏に題詩し、丞相史弥遠に逆らい、道州に流罪となった。護送の吏が極をひどく窘めたので、必元はその縄を解き、無事に到着させた。真徳秀が大政に参与すると、必元は手紙を送って言った、「老医が嘗て言うには、傷寒の悪化した症状は、独参湯のみがこれを救えるが、それでも生きる者は十のうち二三もいない。先生は今の独参湯ではなかろうか。」福州観察推官に転じた。勢家の李遇が民の荔枝園を奪ったので、必元はこれを正した。遇が言官となると、私怨によって必元を罷免させた。餘干県知事となる。趙福王府が驕横で、前後の長官・次官は多く排斥・陥陷された。この時、汝愚の墓が周囲の民山を占めたことについても、必元はこれを正し、州に言って曰く、「区区の小官、罷められることが何の害があろうか。」人々はますますその風骨を壮とした。
淳祐年間、贛州通判となる。賈似道が京湖を総領し、搾取が甚だしかった。必元は上疏し、国脈を蝕み、民命を傷つけるものと論じたので、似道はこれを恨んだ。汀州知事に改められ、御史丁大全の糾弾により去った。後に起用されて行在糧料院の幹事となる。銭塘に海鰍の災害があり、民家が流された。詔により方士にこれを治めさせたが、都人は扇動されて風潮となった。必元は上疏して強くこれを止めさせた。帝は召見して言った、「卿の『梅花詩』を見て、卿の志を知るに足る。」度宗が即位すると、直宝章閣兼宗学博士のまま致仕した。卒す、年九十一。必元はかつて危稹・包遜に師事し、最も淵源があり、道理を見ることに明らかで、風節は甚だ高く、今に至るまで郷人はなお尊慕しているという。
王遂
安豊軍知軍に改め、国子監主簿に遷り、また太常寺主簿に遷り、監察御史に任ぜられた。上疏して君子を進め小人を退けることを極論した。また風俗を正し、奔走競争を止めることを論じた。また言うには、「朝廷は史嵩之の小狡さを大智とし、近功を遠略と看做している。臣の言を軽んじ、必ずや嵩之が敗れないことを僥倖しようとしているが、国の為の至計ではない。君を欺き国を誤ることは、天下が知っているのに、朝廷はなおかつ惑っている。情勢は甚だ凛々たるものがある。」入朝して対面し、帝の知・仁・勇が、学ぶに至っていないと論じた。
右正言に遷り、まもなく殿中侍御史に任ぜられた。上疏して言うには、「三十年来、凶悪な輩が集まり、李知孝・梁成大・莫澤のように肆に忌憚なき者はなかった。三凶の罪は天に通じる。重刑を加えることを乞う。」また劉光祖が殿中侍御史であった時の奏格を取り上げ、風化に関し時宜に切なるものを選び、内外に頒示するよう請うた。いずれも従われた。また淮河沿いに屯田を置くことを請い、かつ辺境の事について条上して言うには、「当今の急務は、朝廷においては五つ:規摹を定め、意向を明らかにし、心力を一つにし、事権を謹み、号令を審らかにすること。辺境においては六つ:帰附者を恤れ、間諜を精選し、財用を節し、士兵を練り、将才を選び、軍実を計ること。」また言うには、「君の徳は必ず純粋に剛でなければならない。」帝はいずれもこれを善しとした。
戸部侍郎兼同修国史実録院同修撰に遷り、時に暫く侍左侍郎を兼権した。宝章閣待制として遂寧府知府を命ぜられる。煥章閣待制に進み、四川安撫制置副使兼成都府知府となる。平江府知府を命ぜられる。敷文閣待制に進み、慶元府知府となり、太平州知州に改められ、議論により罷免される。顕謨閣待制に進み、泉州知府となる。温州・寧国府知府に改められる。宝章閣直学士として建寧府知府となる。華文閣直学士として隆興府知府兼江西転運副使を命ぜられる。太平州知州に改められ、再び隆興府知府兼江西安撫使となる。召されて宮闕に赴き、権工部尚書を授けられる。
遂は同郷の劉宰と平素から志を同じくし、宰は嘗て遂の文章を雅健で世俗の浮靡の気がなく、世に名を成すに足ると称した。遂が平江を守る時、宰は言葉を贈って言った、「士友は親しむべきだが、賢否を弁えざるべからず。財利は遠ざけるべきだが、会計は明らかにせざるべからず。獄を情によって裁き、私意に牽かれるなかれ。士を才によって薦め、権要に奪われるなかれ。言うべき時は言い、時勢を見て退縮するなかれ。去るべき時は去り、利を計って躊躇するなかれ。これにてほぼ名節を全うし、簡冊に載ることに愧じないであろう。」これは格言である。
論じて曰く、傅伯成は晩年に楊簡と共に時の蓍亀となった。葛洪は正を守って阿らず。曾三復は淡泊として躁競の心無し。黄疇若は政治に優れていた。袁韶は李全を討つことを力請したが、蓋し丞相史弥遠の腹心である。危稹は徐僑に通問したことで罪を得たが、その人となりは知るべく、況んや州を治める政は循吏の風があった。羅必元は稹に学を受けた者である。程公許・王遂の正論が重なって現れたことは、豈に偉大ならずや。