宋史

列傳第一百七十一 孟珙 杜杲 王登 楊掞 張惟孝 陳咸

孟珙

孟珙、字は璞玉、隨州棗陽の人なり。四世の祖安は、嘗て岳飛の軍中に従い功有り。嘉定十年、金人襄陽を犯し、團山に駐る。父宗政は時に趙方の将たり、兵を以て之を禦ぐ。珙其の必ず樊城を窺わんことを料り、宗政に羅家渡より河を濟るの策を献ず。宗政之を然りとす。越えて翼日、諸軍渡に臨み陣を布く。金人果たして至り、半ば渡るに伏兵発し、其の半を殲す。宗政檄を被りて棗陽を援く。陣に臨み嘗て父子相失す。珙敵騎の中に素袍白馬なる者を望みて曰く、「吾が父なり」と。急ぎ騎軍を麾して陣を突かしめ、遂に宗政を脱せしむ。功を以て進勇副尉を補す。

十二年、完顏訛可歩騎二十萬を以て兩路に分ちて棗陽を攻め、城下に環集す。珙城に登りて之を射る。將士驚き服す。宗政珙を命じて他道を取り金人を劫かしむ。砦十有八を破り、首千餘級を斬り、大いに軍器を俘へて以て歸る。金人遁ぐ。功を以て下班祗應に升る。

十四年、入謁す。制置使趙方一見して之を奇とし、光化尉を辟し、進武校尉こういに轉ず。十六年、功を以て特授して承信郎とす。父憂に丁る。制置使起復せしむ。珙辭し、葬を訖へて職に就くを趣む。又辭し、成忠郎に轉ず。理宗即位し、特授して忠翊郎とし、尋いで峽州兵馬監押兼在城巡檢を差し、京湖制置司虎翼突騎軍馬を提督するを差し、又京西第五副將を辟し、權めて神勁左右軍統制を管す。

初め、宗政唐・鄧・蔡の壯士二萬餘人を招き、「忠順軍」と號し、江海をして之を總ばしむ。衆安ぜず。制置司珙を以て海に代ふ。珙其の軍を三つに分つ。衆乃ち帖然たり。紹定元年、珙制置司に白して平堰を棗陽に創る。城より軍西十八里に至り、八疊河より漸水の側を經、水九阜に跨り、通天槽八十有三丈を建て、田十萬頃を溉ぎ、十莊三轄を立て、軍民をして分屯せしむ。是の年十五萬石を収む。又忠順軍の家に自ら馬を畜はしめ、官芻粟を給す。馬益々蕃息す。二年、京西第五正將・棗陽軍總轄に升り、本軍忠順三軍に屯駐す。明年、京西兵馬都監を差す。母憂に丁る。又明年、起復して京西兵馬鈐轄・棗陽軍駐劄とし、仍て三軍を總ぶ。

六年、大元の將那顏倴盞金主完顏守緒を追ひ、蔡に逼る。珙に檄して鄂を戍らしめ、金の唐・鄧行省武仙を討たしむ。仙は時に武天錫及び鄧守移剌瑗と相掎角し、金の爲に力を盡くし、守緒を迎へてしょくに入らしめんと欲し、光化を犯し、鋒剽甚だし。天錫は、鄧の農夫にして、亂に乘じて衆二十萬を聚め邊患と爲る。珙其の壘に逼り、一鼓して之を拔く。壯士張子良天錫の首を斬りて以て献ず。是の役首五千級を獲、其の將士四百餘人を俘へ、戶十二萬二十有奇、乃ち江陵府副都統制を授け、金帶を賜ふ。

制置司珙に檄して邊事を問ふ。珙曰く、「金人若し呂堰に向かば、則ち八千人少からずと雖も、然れども須らく木查・騰雲・呂堰等の砦節制を受くる有らば乃ち濟ふ可し」と。已にして劉全・雷去危兩部金人と夏家橋に戰ひ、小捷す。有頃、金人呂堰を犯す。珙喜びて曰く、「吾が計得たり」と。亟に諸軍を命じて呂堰を追撃せしめ、大河に進逼し、山險に退逼せしむ。砦軍四合し、金人輜重を棄てて走る。甲士五十有二を獲、首三千を斬り、馬牛橐駝萬を以て計ひ、其の民三萬二千有奇を歸す。瑗其の部曲馬天章を遣はし書を奉りて降を請ふ。縣五、鎮二十二、官吏一百九十三、馬軍千五百、步軍萬四千、戶三萬五千三百、口十二萬五千五百五十三を得。珙城に入る。瑗階下に伏して死を請ふ。珙之が爲に衣冠を易へ、賓禮を以て見る。

初め、仙順陽に屯し、宋軍に撓まれて、退きて馬蹬に屯す。金の順陽令李英縣を以て降り、申州安撫張林州を以て降る。珙言ふ、「歸附の人、宜しく其の鄉土に因りて之をして耕さしめ、其の人民に因りて之が長を立て、少壯は軍に籍し、自ら耕し自ら守らしめ、才能ある者は土地を分ち、職使を任じ、各其の徒を招きて以て其の勢を殺ぐべし」と。制置司之を是とす。七月己酉、仙の愛將劉儀壯士二百を領して降る。珙仙の虛實を問ふ。儀陳ぶ、「仙の據る所九砦、其の大砦石穴山は、馬蹬・沙窩・岵山の三砦を以て其の前を蔽ふ。三砦破れざれば、石穴未だ圖り易からず。若し先づ離金砦を破らば、則ち王子山砦も亦破れ、岵山・沙窩孤立し、三帥禽らるるなり」と。珙翼日に兵を遣はして離金に向かはしむ。廬秀黑旗を執り衆を帥ひて砦に入る。金人宋軍なるを疑はず、乃ち巷道に分據し、大呼して火を縱ち、掩殺すること幾くも盡くす。是の夜、壯士楊青等王子山砦を搗く。護帳軍酣寢す。王建帳中に入り、金將の首を斬りて囊に佩く。平明之を視るに、金の小元帥なり。

丙辰、師を馬蹬に出し、樊文彬を遣はして其の前門を攻めしめ、成明等西路を邀截す。一軍訖石烈を圍み、一軍小總帥砦を圍む。火天を燭し、殺僇山積す。餘逸去する者復た成明の伏軍を得る。壯士老少萬二千三百來歸す。師還り、沙窩の西に至り、金人と遇ひ、大捷す。是の日、三戰三克す。未だ幾からず、丁順等又默候里砦を破る。珙儀を召して曰く、「此の砦既に破れり、板橋・石穴必ず震はん、汝能く我が爲に之を招かんや」と。儀曰く、「晉德は花腿王顯・金鎮撫安威と故舊なり、之を招かば必ず來らん」と。乃ち德を行かしむ。儀又婦人三百を選び偽りて逃歸せしめ、招軍の榜を懷きて向かはんことを請ふ。珙之に從ふ。威德を見て、情好を敘すること甚だ歡び、德を介して顯を見しむ。顯即日書を以て降を乞ふ。德復た珙に請ひて劉儀をして之を候はしむ。顯の軍約五千、未だ甲を解かず。珙栲栳陣を作らしむ。陣に入り、周視すること良久くして、乃ち去り、素より撫循するが如し。牛酒を以て饗すれば、皆醉飽して歌舞す。珙武仙將に岵山の絕頂に上り窺伺せんことを料り、樊文彬を令して詰旦岵山を奪はしめ、其の下に軍を駐め、前に當りて伏を設け、後歸路を遮らしむ。已にして仙の衆果たして山に登る。半ばに及ぶや、文彬旗を麾す。伏兵四起す。仙の衆措く所を知らず、枕藉して崖谷に滿つ。山之が爲に赬し。其の將兀沙惹を殺し、七百三十人を擒へ、鎧甲を棄つること山の如し。薄暮、珙進軍して小水河に至る。儀還り、具に仙降らんと欲せず、謀りて商州に往き險に依りて守らんとす、然れども老稚北に去るを願はざるを言ふ。珙曰く、「進兵緩にす可からず」と。夜漏十刻、文彬等を召して方略を受けしむ。明日石穴九砦を攻めしむ。丙辰、蓐食して啟行し、晨に石穴に至る。時に積雨未だ霽れず。文彬之を患ふ。珙曰く、「此れ雪夜吳元濟を擒ふるの時なり」と。策馬して直ちに石穴に至り、兵を分ちて進攻し、而して文彬を以て往來給事せしむ。寅より巳に至るまで力戰し、九砦一時に俱に破る。武仙走る。追ひて鯰魚砦に及ぶ。仙望見し、服を易へて遁ぐ。復た銀葫蘆山に戰ひ、軍又敗る。仙と五六騎奔る。之を追ふも、隱れて見えず。其の衆七萬人を降し、甲兵を獲ること算無し。軍を還して襄陽に至り、修武郎・鄂州江陵府副都統制に轉ず。

大元の兵は宣撫王楫を遣わして共に蔡を攻めることを約し、制置使は孟珙と謀り、孟珙は二万の兵を以て行くことを請う、因って命じて孟珙に諸将を尽く護らしむ。金兵二万騎、真陽横山より南来す、孟珙鼓行して前に進み、金人戦いに敗れ、却走す、高黄陂に追い至り、首級千二百を斬る。

倴盞は兔花忒・沒荷過出・阿悉の三人を派遣して迎えさせた。珙は彼らと狩猟をし、獲物の肉を切り分けて酒を飲み、馬を走らせてその陣幕に入った。倴盞は喜び、兄弟の契りを結び、馬乳酒を酌み交わして飲んだ。金兵一万が東門から出撃して戦い、珙はその帰路を遮り、汝河に追い込んで、その副将八十七人を生け捕りにした。蔡州からの降伏者を得て、城中が飢えていると聞き、珙は言った、「すでに窮している。必死で守りを固め、突囲を防がねばならぬ。」珙は倴盞と約束し、南北両軍は互いに侵犯しないこととした。堰を切って水を流し、虎落(逆茂木)を敷設した。倴盞が万戸張柔に精兵五千を率いて城に入らせると、金人が鉤で兵士二人を引き寄せた。張柔は流れ矢を蝟のごとく受け、珙は先鋒を指揮して救わせ、張柔を挟み出させた。撥発官の宋栄が規律を守らなかったので、斬ろうとしたところ、兵士たちが馬から下りて跪いて請うたので、杖刑に留めた。黎明、珙は石橋に進んで迫り、生け捕りにした郭山を鉤で引き寄せたが、戦いは少し後退した。金兵が突然到来し、珙は馬を躍らせて陣中に突入し、郭山を斬って示し、軍の気勢は再び高まり、死に物狂いで戦い、柴潭に進んで柵を立て、金兵百二人を捕虜とし、三百余級を斬首した。翌日、諸将に命じて柴潭楼を奪取させた。金兵が楼を争い、諸軍は魚貫として登った。金人はまた美しい婦人を飾り立てて兵士を惑わそうとしたが、麾下の張禧らがこれを殺し、ついに柴潭楼を陥とし、その将士五百三十七人を捕虜とした。蔡州の者は潭を頼みとして堅固とし、外は汝河に接し、潭は河より五、六丈高く、城上の金字型大小楼には巨大な弩が伏せられ、伝えでは下に龍がいて人は近づけないといい、将士は疑い恐れた。珙は麾下を召し集めて酒を飲み、二巡して言った、「柴潭は天造地設のものではなく、楼に伏せた弩は遠くまで届くが近くは射られぬ。彼らの頼みはこの水だけだ。堤を切って注げば、干上がるのは待つまでもない。」皆が言った、「堤は堅固で穿ち難い。」珙は言った、「堅固というのは、ただ両堤の端を築いただけだ。その両翼を穿てばよい。」潭は果たして決壊し、柴や葦で埋めると、ついに軍を渡して城を攻め、その二将を生け捕りにして斬り、殿前右副点検の温端を捕らえ、城下で磔刑に処し、土門に進んで迫った。金人は老人や子供を駆り立てて油を熬り、「人油砲」と号した。人はその苦しみに耐えられず、珙は道士を遣わして説得させ止めさせた。

端平元年正月辛丑の日、黒気が城上を圧し、日は光無く、降伏する者の言うには、「城中に糧食絶えて已に三月、鞍靴敗鼓皆糜煮し、且つ老弱を互いに食わしむるを聴き、諸軍は日に人畜の骨を以て芹泥と和して之を食い、又往々にして敗軍の全隊を斬り、其の肉を拘えて以て食らう、故に降らんと欲する者衆し」と。珙は諸軍に枚を銜ませるを下令し、分かち運んで雲梯を城下に布く。己酉の日、珙は師を帥いて南門に向かい、金字楼に至り、雲梯を列ね、諸将に鼓を聞けば則ち進むべしと令し、馬義先ず登る。趙栄之に継ぎ、万衆競いて登り、城上に大戦し、其の丞相烏古論栲栳を降し、其の元帥兀林達及び偏裨二百人を殺す。門西開き、倴盞を招き入れ、江海其の参政張天綱を執して以て帰る。珙守緒の在る所を問うと、天綱曰く、「城危き時即ち宝玉を取りて小室に置き、草を以て環らし、号泣して自ら経し、曰く『死すれば便ち我を火せよ』と、煙焰未だ絶えず」と。珙と倴盞と守緒の骨を分かち、金諡宝・玉帯・金銀印牌を得ること差有り。軍を還して襄陽に至り、特ち武功郎・主管侍衛馬軍行司公事を授く。建康府都統制兼権侍衛馬軍行司職事に擢でる。

太常寺簿の朱楊祖と看班祗候の林拓が八陵に朝するにあたり、諜報によれば大元の兵が宋が河南府を争うために来ると伝え、哨兵はすでに盟津に及び、陝府・潼関・河南はいずれも屯兵を増やし伏兵を設け、また淮閫が日を刻んで進軍すると聞き、衆は畏れて進まなかった。

三年、珙は黄州に至り、城壁を増築し堀を浚い、軍需物資を探し求め、国境の民で帰順する者は日に千数を数え、三萬間の家屋を造って彼らを住まわせ、手厚く救済し貸し与えた。また兵と民が雑居することを慮り、高い丘に因って齊安・鎮淮の二砦を築き、諸軍を住まわせた。章家山・毋家山の両堡を創設して先鋒・虎翼・飛虎の営とした。管内安撫司公事を兼ね主管し、黄・蘄・光・信陽の四郡の軍馬を節制した。

大元の兵が蘄州を攻め、珙は兵を遣わしてその包囲を解かせた。また襄陽を攻め、随の守張龜壽・荊門の守朱楊祖・郢の守喬士安は皆郡を棄てて去り、復州の施子仁はこれに死し、江陵は危急となった。詔して沿江・淮西に援兵を遣わすべしとし、衆人は珙に及ぶ者なしと謂い、乃ち先ず張順を遣わして江を渡らせ、珙は全軍を以てこれに続いた。大元の兵は両路に分かれた。一は復州を攻め、一は枝江監利県に在りて筏を編み江を窺う。珙は旌旗と服色を変易し、循環して往来し、夜は則ち炬を列ねて江を照らし、数十里相接した。また外弟の趙武等を遣わして共に戦わせ、躬から往きて節度し、砦二十四を破り、民二万を還した。嘉熙元年、随県男に封ぜられ、高州刺史に擢てられ、忠州団練使兼江陵府知事・京西湖北安撫副使に任ぜられた。未だ幾ばくもせず、鄂州諸軍都統制を授けられた。

大元の大将忒沒䚟は漢陽の境に入り、大将口溫不花は淮甸に入り、蘄州の守張可大と舒州の李士達は郡を棄てて去り、光州の守董堯臣は州を以て降った。三郡の人馬と糧食兵器を合わせて黄州の守王鑒おうかんを攻め、江州の帥万文勝は戦い利あらず。珙は城に入ると、軍民喜んで曰く、「我が父来たれり」と。帳を城楼に駐め、戦守の策を指画し、遂に其の城を全うし、逗留する者四十九人を斬りて以て衆に示す。御筆を以て戦功を賞して将士に賜い、特に珙に金碗を賜う。珙は更に白金五十両を益して之を諸将に賜う。将士は弥月苦戦し、病傷する者相継ぎ、珙は医を遣わして視療せしむると、士皆感泣す。

二年の春、寧遠軍承宣使・帯御器械・鄂州江陵府諸軍都統制に任ぜられた。珙は三軍の賞典が未だ頒布されていないことを理由に、上表して辞退した。詔して曰く、「功あれば賞せざれば、人朕を何と謂わん。三軍の勲労、その上るを促せ。封爵の序は将帥より始まる、卿何ぞ辞するや」と。未だ幾ばくもせず、枢密副都承旨・京西湖北路安撫制置副使兼督視行府参謀官に任ぜられた。未だ幾ばくもせず、制置使に昇進し、岳州知州を兼ねた。乃ち江陵節制司に檄を飛ばして襄・郢を攻撃させた。ここにおいて張俊は郢州を奪回し、賀順は荊門軍を奪回した。十二月壬子、劉全は塚頭にて戦い、樊城にて戦い、郎神山にて戦い、屡々捷報を聞かせた。三年春正月、曹文鏞は信陽軍を奪回し、劉全は樊城を奪回し、遂に襄陽を奪回した。枢密都承旨・制置使兼鄂州知州に任ぜられた。劉全は譚深を派遣して光化軍を奪回させた。息州・蔡州が降伏したので、珙は兵を以てこれを迎えさせ、壮士百余りを得て、忠衛軍に編入した。

初め、詔により珙が京・襄を収復すべしとされた時、珙は郢を得て然る後に糧餉の輸送が可能となり、荊門を得て然る後に奇兵を出すことができると論じ、これに基づいて方略を指示し、兵を発して深く侵入させ、至る所で捷報を聞かせた。珙は奏上して大略に曰く、「襄を取るは難からずして守るは難し。将士の勇ならざるに非ず、車馬器械の精ならざるに非ず、実に事力の給せざるに在るのみ。襄・樊は朝廷の根本なり、今百戦してこれを得たり、当にこれを経理すべく、元気を護るが如くすべし。甲兵十万なければ、分守するに足らず。敵来の後に兵を抽くよりは、この全勝を保つに若かず。上兵は謀を伐つ、これ争わざるの争いなり」と。乃ち先鋒軍を設置し、襄・郢の帰順人をこれに隷属させた。

庚寅、諜報により大元兵が大挙して江に臨まんと欲すると知る。珙は必ずや施・黔の道を経て湖湘に透るであろうと策し、軍糧として粟十万石を請い、二千人を峡州に屯させ、千人を帰州に屯させた。忠衛軍の旧将晋徳が光化より来帰したので、珙はこれを賞用した。珙の弟の瑛に精兵五千を率いさせて松滋に駐屯させ、夔州の声援と為した。于徳興を派遣して兵を増やし、帰州の隘口である万戸谷を守らせた。大元兵が随州より江を窺うと、珙は密かに劉全を派遣して敵を防がせ、伍思智に千人を率いさせて施州に屯させた。大元の大将タハイ(塔海)及びトクセ(禿雪)が師を率いて蜀に入り、号八十万と称した。珙は営砦を増設し、戦艦を分布させ、張挙に兵を提げさせて間道より均州に至らせて防遏させた。大元兵が万州湖灘を渡ると、施・夔は震動した。珙の兄の璟は当時湖北安撫副使・峡州知州であり、急ぎ書を以て防禦の策を謀った。珙は督府に請い、師を率いて西上した。璟は金鐸の一軍を調発し、帰州大𤦩砦において迎え撃たせた。劉義は巴東県の清平村において勝利した。珙の弟の璋は精兵二千を選んで澧州に駐屯させ、施・黔路を防がせた。四年、子爵に進封された。

珙は上流の備禦について、三層の藩籬を設けるべきことを条上した。制副司を創設し、関外都統の一軍を夔に移して、涪州以南の江面の責を任せ、第一層と為すことを請う。鼎・澧を備えて第二層と為す。辰・沅・靖・桂を備えて第三層と為す。峡州・松滋には各々万人を屯させ、水軍をこれに隷属させる。帰州には三千人を屯させる。鼎・澧・辰・沅・靖には各々五千人、郴・桂には各々千人を置く。かくの如くすれば江西は保たれん。又、楊鼎・張謙を辰・沅・靖の三州に派遣し、守倅と共に熟蛮を諭し、思・播・施・黔の支径を講求して、図を上進させた。

諜報により大元兵が襄・樊・随・信陽において軍民を招集し布種し、船材を鄧州の順陽に積んでいることを知ると、乃ち張漢英を派遣して随より出撃させ、任義を派遣して信陽より出撃させ、焦進を派遣して襄より出撃させ、分路してその勢いを撹乱させた。王堅に潜かに兵を遣わして積み置かれた船材を焼かせた。又、敵師が必ずや蔡州において糧食を因ると推測し、張徳・劉整に分兵して蔡州に入らせ、その積聚を焼かせた。寧武軍節度使・四川宣撫使兼夔州知州に任命された。麻城県・巴河・安楽磯・管公店の淮民三百五十九人を招集した。皆、辺境に沿って戦いを経た士であり、「寧武軍」と号し、璋にこれを統率させた。漢東郡侯に進封され、京湖安撫制置使を兼ねた。

回鶻のアイリ・バドゥル(愛里八都魯)が壮士百余り、老幼百十五人、馬二百六十匹を率いて来降した。「飛鶻軍」を創設し、アイリの名をアイ・チョンシャオ(艾忠孝)と改め、総轄に充て、官を補うことを請うた。四川制置使陳隆之と副使彭大雅が不和で、互いに朝廷に上奏文を送った。珙は曰く、「国事かくの如し、智を合わせ謀を並べても、なお克たざるを懼るるに、両司は方に私闘に勇む、廉頗・藺相如の風を愧じざらんや」と。書を馳せてこれを責めたところ、隆之・大雅は書を得て大いに慚じた。

蜀の政務の弊を正し、条規を諸郡県に頒布した。差除計属・功賞不明・減克軍糧・官吏貪黷・上下欺罔の諸条である。又曰く、「険要を択ばずして砦柵を立てざれば、兵を責めて民を衛わしむるは難く、流離を集めて安んじて耕種せしめざれば、民を責めて兵を養わしむるは難し」と。乃ち賞罰を立てて殿最を課し、諸司にこれを奉行させた。黎州守の閻師古が大理国が黎・雅を経由して入貢を請うと上言した。珙は、大理は自ら邕・広を通ずるべきで、川蜀を取る道は宜しくないと報じて、これを退けた。夔路制置大使兼屯田大使を兼ねた。軍に宿儲なく、珙は大いに屯田を興し、人夫を調発して堰を築き、農民を募って種を与えた。秭帰を始めとし、漢口を終わりとし、屯二十、荘百七十、頃十八万八千二百八十を設け、屯田の始末と券食を減じた数を上奏した。詔を降りてこれを賞諭した。靖州の徭、リン・サイリャン(琳賽良)が乱を起こしたので、王瑀を派遣してこれを平定させた。

淳祐二年、珙は京・襄において節を死に事に死した臣を朝廷に請い、岳陽に祠を建て、歳時に祭祀を行い、旨を賜って「閔忠廟」と名付けた。淮東が兵を受けると、枢密は珙に応援を命じ、李得に精兵四千を率いさせて赴かせ、珙の子の之経を監軍とした。諜報により京兆府のエケ・ノヤン(也可那延)が騎兵三千を率いて商州を経て鶻嶺関を取り、房州竹山より出ると知る。王令を派遣して江陵に屯させ、まもなく郢州に進んで屯させた。劉全を沙市に屯させ、焦進に千人を提げさせて江陵・荊門より襄に出撃させた。劉全に檄を飛ばし十日分の糧食を持たせ、南漳を経由して襄に入り、諸軍と合流させた。

大元の兵が三川に至ると、孟珙は出戍の主兵官に対し、寸土たりとも失棄することを許さぬと下令した。権開州の梁棟が糧食に乏しく、司への帰還を請うたが、珙は「これは城を棄てるものなり」と言った。棟が夔州に至ると、高達に命じてその首を斬り、衆に示した。これにより諸将は命令を謹んで承った。大元の兵が瀘州に至ると、珙は重慶分司に命じて兵を発し応援させ、張祥を涪州に屯させた。検校少保に拝され、漢東郡公に進封された。珙は言う、「沅州の険は辰州に及ばず、靖州の険は沅州に及ばず、三州ともに措置すべきであるが、靖州が特に急務である。今、三州は粒米寸兵も出すところなく、これが京湖の憂いの一つである。江防は上は秭帰より、下は寿昌に至るまで、二千里に亘り、公安より峡州の灘磧に至るまで凡そ十余箇所あり、厳冬に水が涸れると、節々に防がねばならず、兵は備え多きを嫌う、これが京湖の憂いの二つである。今、尺籍の数が減り、灘磧を守り、また関隘を守る、これが京湖の憂いの三つである。陸抗が言う、『荊州は国の藩表なり、もし事あらば、ただ一郡を失うのみならず、国を傾けてこれを争わん』と。もし兵を八万増やして力を合わせて備え防がねば、たとえ韓信かんしん・白起が復活しても、巧みを施すところなし。今日の事勢は大略これに似ており、利害は極めて重い」。余玠が四川を宣諭するため、道中で珙のところを通った。珙は重慶の蓄積した粟が少ないのを以て、屯田米十万石を送り、晋徳に師六千を率いさせて蜀を援けさせ、之経を策応司都統制とした。四年、江陵府知事を兼ねた。珙はその補佐官に言った、「政府はこれを考えていないだけである。彼らがもし兵をもって我を引きつけ、上流・下流が急ならば、どうするつもりか。珙が行けば彼らは我が虚を衝き、行かなければ誰が実患を防ぐのか」。識者はこれを是とした。

詔して京湖に兵五千を調発し安豊を戍らせ、寿春を援けさせた。珙は劉全を将としてこれに従わせた。続いて命があり、兵三千を分けて斉安に備えさせた。珙は言う、「黄州と寿昌の三江口は一水を隔てるのみであり、兵が必要ならば即時に渡ればよく、なぜ予め派遣せねばならぬのか。一日早ければ一日の費用があり、益なくして損あり、万一上流に警報があれば、我が軍はすでに疲れており、得策ではない」。聞き入れられなかった。五年、御筆をもって職事が修め挙げられたとして、官位を二階転じ、回授を許す旨があった。珙が江陵に至り、城に登って嘆いて言う、「江陵が恃むところは三海であるが、沮洳が桑田に変ずるものがあることを知らず、敵が一たび鞭を鳴らせば、即ち城外に至る。城より東は、古嶺先鋒より直ちに三氵義に至るまで、限り隔てるものなし」。そこで内隘十一箇所を修復し、別に外に十の隘を作り、城より数十里離れたものもあった。沮水・漳水は、もと城西より江に入っていたが、堤防を築いてこれを東へ導き、城北を巡らせて漢水に入らせ、三海は遂に一つに通じた。その高低に随い、貯水池として蓄え泄らし、三百里の間に、渺然たる巨大な湖沼となった。土木の工事は百七十万を要したが、民は労役を知らず、図を描いて上奏した。

珙は身をもって江陵を鎮め、兄の孟璟は武昌を帥いた。故事によれば、兄弟が同じ一路に同処することはないので、帰田を乞うたが、許されなかった。詔して兵五千をもって淮を援けさせた。珙は張漢英にこれを帥わせた。枢密が兵五千を広西に赴かせようとすると、珙は執政に書を送って言う、「大理から邕州に至るまで、数千里にわたり部落が隔絶している。今は人を選んで数郡に分かち布き、これに生夷を分治させ、険要の形勢に随い適宜措置し、関を創り兵を屯し、糧を積み芻を聚めるべき地を定め、声勢既に張れば、国威自ずから振るう。この計を出さずして風聞に基づき調遣すれば、空しく錢糧を費やし、事に補わない」。聞き入れられなかった。大元の大将大納が江陵に至ると、楊全に命じて荊門に伏兵させて戦おうとした。珙は事前に諜報で知り、枢密に通報した。枢密は両淮に備えを命じる檄を発したが、両淮は知らなかった。後になって果たして珙の報告の通りとなった。珙は上奏した、「襄陽・蜀は蕩析し、士人の帰る所がない。蜀の士人は公安に聚まり、襄の士人は郢渚に聚まっている。臣は公安・南陽の両書院を作り、没収した田宅をこれに属させ、教養を受ける所あらしめたい」。帝にその扁額の題字を賜うよう請うた。

初め、珙は鎮北軍を招いて襄陽に駐屯させたが、李虎・王旻の軍が乱を起こし、鎮北軍もまた潰走した。そこで厚く招撫し、降る者は絶えなかった。行省の范用吉が密かに降伏の意を通じ、受け取った告身を質とした。珙は朝廷に上申したが、聞き入れられなかった。珙は嘆いて言う、「三十年かけて中原の人を收拾したが、今その志を伸ばすことができない」。病が遂に重くなり、休致を乞うた。検校少師・寧武軍節度使を授けられて致仕し、江陵府治で没した。時に九月戊午のことであった。その月の朔日、大星が境内に隕ち、声雷の如し。薨去の夕、大風が屋を発し木を折った。訃報が届くと、帝は震悼して朝を罷め、賻として銀絹各千を賜い、特に少師を贈り、三度贈官して太師に至り、吉国公に封じ、諡して「忠襄」とし、廟号を「威愛」とした。

孟珙の君主に忠を尽くし国を体する念いは、金石をも貫くことができた。軍中において参佐・部曲と事を論ずるに、言うことが人々異なっても、珙は徐かに片言をもって折衷し、衆志皆な満足した。士人や遊客を謁見し、老校や退卒にも、一様に恩意をもって撫で接した。名位は重いが、ただ鼓旗を建て、将吏に臨むときは色凛然として、敢えて涕唾する者もなかった。退けば香を焚き地を掃き、机に寄りかかり端座して、あたかも蕭然として事の外に在るが如かった。貨色を遠ざけ、滋味を絶った。その学は『易』に深く、六十四卦それぞれに四句を繫げ、『警心易贊』と名付けた。また仏学にも通じ、自ら「無庵居士」と号した。

杜杲

杜杲、字は子昕、邵武の人。父の杜穎は、官は江西提点刑獄に至り、故に杲は任子の恩により海門買納塩場に授けられたが、赴任せず、福建提点刑獄の陳彭寿が檄を発して閩尉を摂行させた。民に甲という者の子が死に、乙を誣ってこれを殺したと訴えた。検視すると髪の中から砂を得た。甲の家の傍らに池があり、その砂は髪の中のものに似ていた。訊問すると、子は果たして溺死していた。

江淮制置使の李珏が幕下に招き寄せた。滁州が兵を受けると、檄を発して杜杲に偏師を率いて往き援けさせた。ちょうど到着すると、民が野を蔽って入城して避難することを求めたが、滁州守は固く拒絶した。杲は鍵を開いて彼らを納れた。金人が城を数重に囲んだ。杲が城壁に登ると矢に当たったが、ますます奮励し、ついにその城を全うした。

江山県丞に転じた。両浙転運使の朱在が崇明鎮を監するよう辟召した。崇明鎮が淮東総領に改めて隷属すると、総領の岳珂と議が合わず、慨然として引き去った。珂が文書一卷を出して言う、「挙状である」。杲は言う、「並べて禽獣を得るも、たとえ丘陵の如くとも、為さない」。珂は怒った。杲は言う、「劾すべきは文林(文書の林)であり、強いることのできないのは杜杲である」。珂はついに蘆銭を負っていると劾奏したが、朝廷が蘆に欠損ないことを察知し、三度の劾奏はいずれも取り上げられなかった。

淮西制置の曾式中が廬州節度推官に辟召した。浮光で兵変が起こると、杲は単騎で往き、その渠魁を誅した。守将が争って金幣を贈ろうとしたが、杲はすべて一室に封じて貯え、出発する際、通判の鄭準に命じて返させた。安豊守が、戍将が軍情を扇動し、かつ変を為さんとしていると告げた。帥はこれを討とうとしたが、杲は言う、「これは彼らを刺激して叛かせるものなり」。兵卒二人を連れて往くことを請い、将を呼んで諭して言う、「もしお前に他意がなければ、我が書を持って制府に詣れ」。将は即日発ち、一軍は平穏となった。

六安県知事となった。民に妾を寵愛する者がおり、遺言で二人の子と均分するよう命じた。二人の子は妾には分与の法がないと言った。杲はその判決文に書いて言う、「『伝』に云う、『子は父の令に従う』と。律に曰く、『父の教令に違う』と。これは父の言が令であるからである。父の令に子が違うのは、以て訓とすべからず。しかし妾が志を守るならば可である。或いは去り、或いは終わる(死ぬ)ならば、その分は二人の子に帰すべきである」。部使者の季衍がこれを見て、机を打って言う、「九州三十三県の県令の中で最も優れている」。

定遠県知県に任ぜられ、時に李全が辺境を侵犯す。杜衍は当時淮帥たり、濠州通判に辟す。朝廷は杜杲が久しく辺事に習熟するを以て、濠州知州に抜擢す。制置大使趙善湘は盱眙を回復せんと謀り、密かに杜杲に諮る。杜杲曰く、「賊は外援を恃む、盱眙の橋梁を断ちて以て之を困すべし」と。遂に其の策を用いて成功す。金の衆数万、榆林阜に駐して降を請う。輜重甚だ富み、或いは誘いて図らんことを請う。杜杲曰く、「降を殺すは仁ならず、貨を奪うは義ならず、之を納るれば則ち後患有り」と。諭して遣わす。召されて奏事し、差して主管官告院、安豊軍知軍に任ず。趙善湘と趙范、范の弟趙葵が出師す。淮西転運判官に遷る。詔して守禦の策を問う。杜杲、封事を上ぐるに曰く、「淮に沿いて旱蝗有り、征役に任ずべからず。中原は赤立し、糧に因る可き無し。若し内を虚しくして外に事え、南を移して北を実にせば、腹心の地、必ず慮る可き有らん」と。時に外に在りて出師を諫むる者は杜杲一人のみ。及び兵、洛陽らくように敗るるに及び、人は始めて其の先見に服す。崇道祠を奉じ、再び濠州知州に任ぜらる。未だ行かず、安豊に改む。大元の兵、城を囲み、杜杲と大戦す。明年、大兵復た大いに至り、又大戦す。将作監に擢でられ、御書を以て慰諭せらる。丞相李宗勉、参知政事徐榮叟曰く、「淮西を帥するに杜杲に逾ぐる者無し」と。詔して安撫を兼ね廬州を守らしめ、太府卿、淮西制置副使兼転運使に進む。復た大元の兵と戦う。累疏して老を請うも、許さず。権刑部尚書。

淳祐元年、去るを乞うこと愈よ力む。工部尚書に擢でられ、遂に直学士を以て祠を奉ず。帝、之を起して広西を帥せしめんと欲すも、言者に因り罷む。帝曰く、「杜杲は両たび守功有り。若し兵権を脱せしめて後禍有らしめば、朕何を以て人を使わんや」と。乃ち起して太平州知州とす。俄かに華文閣学士、沿江制置使、建康府知府、行宮留守に擢でられ、安慶・和・無為の三郡を節制す。

杜杲、楊林堡を罷め、其の費を以て歴陽に備え、淮の民沙上に寓する者を師を以て護る。首めて程顥の祠に謁す。総領所は即ち張栻の宦游の処たり、像を陳べて祀る。貢士荘を置き、民租二万八千石を蠲す。復た大元の兵と真州に於いて戦う。敷文閣学士に進み、刑部尚書に遷る。引見せられ、帝、奨労を加う。帰るを乞うも、許さず、吏部尚書を兼ぬ。杜杲、資格に随いて其の碍を通じ、銓綜精なり。梁成大の子、当国者に賂して銓試を求む。杜杲曰く、「昔、沈継祖は朱文公を論じ、成大も亦た真文忠公を論ず。皆名教に得罪する者なり。子孫は宜く錮すべく、安んぞ仕え得んや」と。徽猷閣に進み、奉祀す。老を請い、宝文閣を升て致仕す。帝、前功を思い、龍図閣に進めんとすれども杜杲卒す。遺表上る。開府を贈らる。

杜杲は淹貫にして多能、文を為すに麗密清厳、行草急就章を善くす。晩歳、専ら理学に意を用い、嘗て言う、「吾が兵間に悖謀左画無きは、『四書』に得たり」と。子に杜庶有り。

子、杜庶。

杜庶、字は康侯。幼より倜儻として大志有り、性剛勁、宋の典故に通じ、文を善くす。父に従い兵間に在り、辺事に習う。未だ仕えざるに已に戦功を立てる。明堂の恩に補官せらる。大元の兵、安豊を囲む。兵将相下らず。杜庶、調護して咸く其の歓心を得、遂に協力して捍禦す。杜杲、淮西を帥す。書写機宜文字に辟す。廬州の囲解く。杜庶、廟堂に事を白す。諸将、金を饋して上功の費を助く。皆之を受く。賞典行わる。帰りて悉く饋する所のものを反す。籍田令兼制機督幹に遷る。呂文徳・聶斌の軍を監し、大元の兵と朱皋・白冢に戦い、将作監簿に遷る。

杜杲、建康に在り。杜庶、和州通判、権知真州。郡は素より備えを缺く。杜庶、大いに守禦を修め、具えとして排杉木を積むこと殆ど十万株。差して興化軍知軍、鴻禧観を奉祀す。起して邕州知州、潮州に改む。言者に因り命を寝す。淮東制司議幕に赴く。闕を過ぎ、将作監丞に遷る。司農丞、和州知州に遷る。陛辞に、言う、「今天時は幸いす可からず、地利は恃む可からず、人和は保つ可からず。苟も天幸を恃み、長江を恃み、清野を恃みて、辺事を素より諳歴せざる人に付せば、其の可なるを見ざるなり」と。帝嘉納す。

尋いで淮西提点刑獄を兼ぬ。城濠を浚い、守備を増し、学宮を修む。真州知州兼淮東提点刑獄。逾年、直秘閣に進み、淮西に移り兼ねて廬州安撫副使。人、歓迎すること慈父を見るが如し。治績甚だ多し。就任して刑部郎中を加えられ、宝文閣に昇り、大元の兵と望仙・白沙城に於いて戦う。華文閣に昇る。開慶元年冬、大理少卿、淮東転運副使、両淮制置司参謀官に進み、特授して両淮制置使、揚州知州。射陽湖の饑民嘯聚す。杜庶曰く、「吾が赤子なり」と。将を遣わして招刺し、丁壮万余を得、戮するは首悪数人のみ。明年四月、火災有り、抗章して自ら劾す。行在に召し赴く。尋いで直宝文閣、隆興府知府、江西転運副使、卒す。

王登。

王登、字は景宋、徳安の人。少くして書を読み、古兵法を喜び、慷慨として大志有り、生産に事とせず。制置使孟珙の幕府に出で、久しくして権知巴東県。制置司に俘を献ず。王登、奮起すること書生よりするを念い、拝せず。吏曰く、「拝せざれば則ち上ぐることを敢えず」と。之を難じ、竟に功を棄てて去る。淳祐四年、進士に挙げられ、興山主簿に調す。総領賈似道、檄して江陵城を修めしむ。条画法有り。明年、制置使李曾伯、襄陽を經理す。王登、行に在り、積功を以て升り、尋いで母憂に因り去る。

及て呉淵が制置使と為る。辺事甚だ亟し。弟の呉潜が王登の才略を盛んに言うを憶い、書幣を具えて之を招く。王登、方に客と奕す。書を発し、衣冠して家廟に拝し、長揖して門を出づ。牛幾何なるかを問い、尽く発して師を犒う可しとす。淵慨然として曰く、「事亟し、奈何」と。王登曰く、「亟に諸将を呼びて共に議せよ」と。衆至り、歓躍して曰く、「景宋此に在り」と。淵曰く、「汝輩は西門より出でんと欲し、景宋は方城より従わんと欲す。如何」と。衆曰く、「惟だ命を奉ず」と。王登曰く、「兵を用いるは一ならざるを患う。登は書生、過ぎたるは軾に馮りて戦を観るのみ。五大帥の中より一人を択びて節制と為さんことを請う」と。淵曰く、「監丞の出づるを請うは、正に此れを謂うなり」と。即ち銀牌に書して曰く、「監丞某に代わりて親しく行う。将士命を用い命を用いざるに、賞罰畢く具えて申すべし」と。王登、沙市に至り、牛を椎き酒を釃し、七千人を得て誓いて曰く、「登と諸将は義骨肉に同じ。今日の事、登命を用いざれば、諸将登を殺して以て主帥に献ぜよ。諸将に一たり命を用いざる者あれば、登に制劄在り、敢えて私せず」と。衆股栗して命を聴き、竟に沮河に於いて奇功を立てる。趙葵、制置使と為り、王登を見て手を握りて曰く、「景宋は一身の胆なり。相見ゆること晩きを惜しむ」と。宣撫司に参ぜしめ兼ねて京西両節を掌らしむ。馬光祖、制置使と為り、参謀官に辟充し、軍器少監、京西提点刑獄に遷す。

王登の威声日を逐うて振るう。余思忠及び徐制幾有りて、馬光祖に讒して曰く、「京湖は王景宋有るを知り、馬制置有るを知らず。久しからずして位を易えん」と。光祖疑わしむ。王登を出して郢州に屯せしむ。後、幹弁鐘蜚英の調護に因り、情好初めの如し。侍御史戴慶炣、余思忠を劾す。其の党の過元龍・沈翥、幕中に在りて、又之を傾く。是を以て議論合わず、才略施す能わず。識者之を惜しむ。

開慶元年(1259年)、王登は兵を率いて蜀を救援し、期日を定めて合戦しようとした。夜半、登が軍事を処理していると、突然倒れ、五臓から出血した。幕客の唐舜申が到着したとき、登はまだ机の上の文書を睨みつけていたが、やがて死去した。後日、舜申の船が漢陽を通過すると、蜀の訛りで唐舜申を三度呼ぶ声がした。左右の者が言うには、「これは王景宋(王登)の声である」と。その夜、舜申は急死した。

楊掞

楊掞は、字を純父といい、撫州臨川の人である。若くして詞賦に長じ、同里の陳氏が彼を招いて子弟を教えさせたが、数か月で衣を払って去った。襄・漢を遊歴し、やがて陳氏の代わりに科挙に合格した。陳氏が謝礼として一万緡を贈ると、車に載せて妓楼に運び入れ、箱がほぼ空になるまで使い果たした。夜中に突然自ら呼んで言うには、「純父、ここで何をしているのか」と。翌日、すぐに立ち去った。旧友の推薦により、淮東制置使杜杲の幕下に出仕した。杲は言った、「風采がこのようであるからには、将来は私の下には留まらないだろう」と。これにより、法の運用や征戦の謀略について多く掞に諮問した。一年余り後、安豊が兵乱に遭うと、掞は慨然として言った、「事態は切迫しております。掞が行くことを請います」と。そこで奇策をもって包囲を解き、七官の補任を上奏された。

掞は、自らが行伍の中に身を置くことを考え、騎射は当然習熟すべきものとした。夜に青布を地面に敷き、調教されていない馬に乗って跳躍し、初めは三尺を越え、次に五尺、ついには一丈に至った。何度も転倒しても気にしなかった。制置使孟珙が彼を幕下に召し抱え、かつてその献策を用いて「若き張子房」と呼び、茶局を任せてその費用を賄った。掞は元手の銭数万をこれに費やした。総領賈似道が数を調べて弁償を求めたので、珙は白金六百両を掞に与えて弁償させたが、掞はまたそれを賓客に分け与え、酒を飲み歌を歌って気に留めなかった。似道は彼を殺そうとした。掞は言った、「漢の高祖こうそは黄金四万斤を陳平に預け、出納を問わなかった。公はかようなわずかなものを気にかけ、豪傑の心を結びつけることに用いられないのですか」と。似道はようやくこれを取りやめた。珙がかつて客を招いて宴を催したとき、ある将校が言葉遣いが不遜であったので、斬首を命じた。掞は従容として言った、「斬るのは確かに正しいのですが、ただ今は客を集めて広く謀議をしている最中であり、時も場所も適切ではありません」と。珙は大いに感服した。間もなく、ある大将が功を立て、珙が座ったままその拝礼を受けた。掞は顔色を変え、ため息をついて言った、「大将が功を立て、庭で拝礼を受ける。確かに兜鍪(武官)は毛錐子(文官)に及ばないものだ」と。ここにおいて賓客を謝絶し、進士の学業に専念し、ついに科挙に合格した。麻城県尉に任じられた。

向士璧が黄州を守備したとき、掞を幕下に招く檄文を送った。まもなく戦功により三官昇進した。間もなく、心疾を患い、「私はもはや用をなさない」と言った。そこで潭州節度推官に転任した。趙葵が京湖制置使となったとき、掞は彼に従って行動を共にした。王登が沙市で出迎え、夜半まで極めて熱心に語り合った。掞が退いて言うには、「王景宋(王登)は全身が胆であるが、惜しいことに沈着細心さが欠けている。もし私(掞)がその補佐をすれば、何事でも成し遂げられようが、ただ最後には勇猛さゆえに敗れることを恐れる」と。後に王登が死ぬと、人々はこれを知言とした。時が経ち、向士璧が峽州を守備したとき、掞を招いたが、病のため結局行かずに死去した。架閣の官を追贈された。

張惟孝

張惟孝は、字を仲友といい、襄陽の人である。身長六尺、『春秋』に通じ、科挙に落第したため、騎射を習熟した。城中が乱れると、人々は争って関所を出ようとした。惟孝は剣を抜いて数人を斬り、白河へと急いだ。一隻の非常に壮大な船を見つけ、急いで乗り込もうとしたが、船頭は許さなかった。惟孝は言った、「今日のことは、お前か私かのどちらかだ。私を殺せる者がこの船を得るのだ」と。一同はひれ伏し、これにより船で郢州に到達した。兵乱が起こり、沙洋に奔った。別之傑が帥となっていたが、すべての湖の水門を閉ざして水を流さなかった。惟孝は二人に商人の服を着させて先に行かせ、密かに水門の守備兵を偵察させた。そして言った、「容易い相手だ」と。そこで十騎の者と共に黒い袍を着て、敵兵を装い、「後続部隊がすぐに到着する」と言った。水門を守る四、五百人はことごとく潰走し、船は藕池へと向かった。

開慶元年(1259年)、江陵に居を定めようとし、沙市に至った。多くの船が大集し、渡ることができなかった。しばらくして、高い冠をかぶり傘を差し、従者数十人を従えた者がいた。宣撫使姚希得の弟である。彼は命令した、「敢えて岸を争う者は水中に投げ込む」と。惟孝はしばらく横目で睨んだ後、剣を提げて左右の者を駆り立てて進み出て、白旗を挙げて指揮し、すべての船に岸に上がるよう命じ、敢えて順序を乱す者はいなかった。幹官の鐘蜚英はこれを見て異才と感じ、唐舜申に告げた。舜申は言った、「私の旧友である」と。惟孝の平生を詳しく話した。蜚英は惟孝に言った、「今日こそ我々が事に赴き功を立てるべき秋である」と。惟孝は答えず、さらに問い詰めると、言った、「朝廷が人に背いている」と。翌日、蜚英は姚希得を導いて彼を招き寄せ、仲宣楼で宴を催した。蜚英は酒が酣になると言った、「国あって後に家あり。天下がこのような有様では、どこに帰すればよいのか」と。惟孝は躍り上がって言った、「公の命に従います」と。そこで空名の官帖三十通を請い受けて帰った。十日余り後、三十騎と共に甲士五千を擁して到着した。旗幟は鮮明で、部隊は厳粛であった。上は公安から下は墨山まで、斥候が相継いだ。希得は大いに喜び、統率する者の姓名を尋ねた。惟孝は言った、「朝廷が人に背いている。福は難く禍は易い。ただ君侯のために一時の難を和らげるだけです。姓名はお教えできません」と。当時、鼎州・澧州など五州が非常に危急であった。そこで太鼓を打ち鳴らして兵を誇示すると、数日も経たぬうちに、兵は一万人に達し、数度の戦いでことごとく勝利し、長江上流は平定された。制置使呂文徳が彼を招いたが、応じずに逃走し、探し求めても見つからなかった。ある者は淮甸方面へ向かったと言い、その後消息はわからなかった。

陳咸

陳咸は、字を逢儒といい、監察御史陳升卿の次子で、叔父の陳巨卿の後を継いだ。淳熙二年(1175年)の進士に合格し、内江県尉に任じられた。県の役人が賄賂を受け、民への賦課が公平でなかったので、咸は部使者(監司)に報告し、民に自ら利害を申告させ、咸に委ねてその賦課を公平にする命令を出させた。果州南充県知事に転任し、転運司に召されて主管文字となった。旱魃の年、税務司が下戸の両税を免除しようとしたが、転運使の安節は漕運の計画に支障が出ると考えた。咸は安節に申し出て言った、「もし民に利があるなら、それを妨げてはなりません」と。そして言った、「今、四川で流通する紙幣(楮幣)はほぼ三百万不足しています。もし百万を増刷すれば、免除分を補うのに十分です」と。安節はこれに従った。軍での不正な支給請求が多かったが、咸は常に削減した。帥の属官が意見を述べたが、咸は言った、「私の首は斬られようとも、不正な支給は認められません」と。蜀では毎年、激賞権(酒の専売益)の代わりに絹銭を納入させており、民は苦しんでいた。咸は安節に申し出て、収入を精査し支出を節減し、毎年二十余万緡を減額するよう上奏した。資州知事に抜擢された。当時長く旱魃が続き、咸は任命を受けるとすぐに帥臣に粟二千余石を出して救済するよう請願した。翌年、東川・西川ともに旱魃に見舞われた。総制二司は民の賦税を免除することを議したが、国家の収入が減ることを懸念した。咸は、まだ補填されていない塩引(塩の専売引換券)百九万を増刷して免除分に充てることを請願し、議論は決した。学宮を大修繕し、政績が最も優れていると評判となり、普州知事に転任した。

開禧元年(1205年)、辺境の戦争が起こると、四川宣撫使の程松はその才能を奇異に思い、主管機宜文字に召し抱えた。咸はまず書を送って、兵を軽々しく動かすべきではないと論じ、松に人材を求め軍備を練ることを勧めた。図籍を調べて財用の源を明らかにし、険要の地を視察して攻守の計を決すること。大将と面会して約束し、疑忌の嫌疑を免れること。金帛を投じて死士を募り、間諜・偵察を遠くまで行き渡らせること。虚を突き奇を搗く策は、用いるべき時に慎重にすること。幸運を頼み利益に趨る謀略は、取りやめて行わないこと。松は返書で深く受け入れたが、実際には用いることができなかった。副使の呉曦は松を蔑視し、将兵を配置換えするのに正使に報告しなかった。松は簡素で尊大な態度をとっていたので、咸はこれを憂い、さらに松を説得して、梁州・洋州以北の義士を収用して緊急時に備えること。険阻な地を占拠し、関所や堡塁を築き、支道を塞いで不測の事態に備えることを勧めた。松はまたこれを用いなかった。利州路転運判官に昇進した。

呉曦が叛き、金に臣従すると、関外の四州が相次いで陥落し、人心は大いに動揺した。陳咸は大安軍に留まって軍糧を監督し、その守将楊震仲に檄を飛ばして流民を救済し、奸賊や盗賊に備えさせたため、衆は次第に落ち着いた。安丙が密かに呉曦の謀反の計画を陳咸に告げると、陳咸はすぐに人を派遣して程松に報告したが、程松はこれを察知しなかった。呉曦は陳咸が蜀の名士であることから、まず彼を脅して他の者たちを命令させようとし、陳咸に議事を求める檄を送った。陳咸は行かず、利州へ向かった。城外に着くと、偽りの都運使徐景望が既に兵を率いて官衙に入り占拠していた。英宗の諱日(命日)に、徐景望は大いに音楽を奏でて宴会を開こうとしたが、陳咸は強く拒絶した。

当初、陳咸が大安から東へ下る途中、偽将の褚青と出会って語り合うと、褚青には悔悟の意があった。この時、主管文字の王釜と福艾が共に事を為せる人物と見て、二人と結んで徐景望を誅殺し、桟道を焼き、呉曦の援軍を絶とうとした。やがて王釜が官を棄てて帰ると、陳咸は褚青を頼りにできないと考え、謀はそこで頓挫した。李道傳が陳咸に「どうするおつもりか」と尋ねると、陳咸は言った。「事ここに至れば、せいぜい一死に過ぎぬ。必ずや我が蜀に累を及ぼすようなことはせぬ。」家の子(子息)の陳欽に語って言った。「咸は国より厚恩を受け、賊を討つは義の当然である。兵権なきを恨むが、下策として、髪を削って臣節を全うするのみ。」ちょうど呉曦が手紙で急ぎ招いたので、陳咸は返書を送り、朝廷の命令に従うよう勧めた。その後、自ら諭そうと思い、出発した。偽統領の孟可道に会い、呉曦が既に僭乱を起こしたことを知ると、「我が書状は用をなさぬ」と言った。後𨫼(地名)に戻り、帳中に入って刀で自ら髻を断ち、緇衣をまとって出た。徐景望は兵を遣わして陳咸を岸に拘束した。呉曦は聞いて大いに怒った。呉睍は呉曦に、陳咸を武興寺の主管に召し出してそこで殺すよう勧めたが、安丙が力を尽くして救い解き、ようやく釈放されて帰ることができた。呉曦が誅殺された後、陳咸は諸子に言った。「我は賊を討つことができず、官守を棄てた。罪である。」上表して自らを劾し、安丙や楊輔らは皆、彼が出仕するよう勧めた。安丙はまもなく陳咸に蜀の財政を総括させるよう上奏し、朝廷はこれに従った。

当時は僭乱の後で、国庫は空っぽであった。陳咸は武興に至り、安丙と利害を検討し、兵政と財政を一家のように合わせ、安丙に朝廷に奏上するよう請うた。諸司の余剰を査定し、常平倉・広恵倉の米を流用し、当五銭を鋳造し、官職売買を公示し、併せて四路の上供を一時的に留保し、弱兵二万余りを淘汰するなど、計画は隅々まで行き届いていた。そのため、軍興による増加分の支出八千七百五十余万は、全て民から徴収しなかった。陳咸が財政を総括し始めた当初、軍需を賄う国庫の銭は一千四十五万余に過ぎず、糧食は九十一万余、飼料は二万余であった。陳咸は昼夜を分かたず精勤し、調度に方策があったので、二年と経たぬうちに、益昌の大軍庫には紙幣(楮引)百八十万、成都の免引場には備蓄・割り当て二百十余万、城下の三倉には軍糧四十余万石、米の元手として前借りした百十余万、別に貯蔵した軍糧百四十九万石、飼料七万余が蓄えられ、布帛・絲綿・銅鉄銭と祠牒(寺観の任命書)はこれに含まれなかった。

剣外の民は長く役調に苦しんでいたため、ある者が東・西両路及び夔路の壮丁を徴発してその労役を分担させるよう建議した。命令が下り始めると、民は行くのを恐れ、安丙に駆けつけて訴え、代わりに銭を納めて行役を免じてほしいと乞うた。長く納められずにいた者が十五万余もいたが、陳咸はこれを免除した。蜀の銭引(紙幣)の旧来の規定では両界で五千余万とし、半分は官に蔵められていたが、軍興以来、紙幣は全て民に散らばり、宣撫司・総領司の二司が新たに三界を増発して通行させた八千余万は、価値が日々下落していた。陳咸は一千二百余万緡を投じて十九界の半分を回収し、また安丙と議して茶馬司の力を合わせ、さらに九十一界を回収し、続いて九十三界を造ってこれと交換した。これにより紙幣の価値は再び高騰し、米の買い入れ価格はたちまち下落した。

嘉陵江の流れが突然浅くなり、金人が上流をせき止めたという噂があったが、陳咸は動じず、疏浚して導水し、益昌から魚梁に至るまで、糧秣の輸送に支障がなくなった。金州は地勢が険しく、陳咸は供給する米を増やして充実させた。人々は皆、「金州の険しさは、金人が向かうことなどできぬ。何のためにそんなことをするのか」と言った。陳咸は言った。「敵が来てから考えても、間に合わぬ。」間もなく、金人が上津を侵犯したが、守備はこれによって堅固であった。召されて司農少卿となったが、死去した。安丙はその功績を列挙して上奏し、諡を「勤節」と賜った。初め、宣諭使の呉獵がその節義を上表したことがあり、詔によって官位を二階進められたが、陳咸は自分の実父母に回贈するよう乞うた。

論じて言う。宋が金に辱められたのは久しかったが、我が国家(宋)が師を興して罪を討ち、その声威が河朔に震うと、孟珙を派遣して師を率いさせて挟撃し、遂にその国を滅ぼし、百年の恥を雪いだ。そして孟珙は礼楽を説き、詩書を篤くし、誠に比類少ない人物である。杜杲・王登・楊掞・張惟孝は、功名をもって自らを顕そうと志し、その成したところに大小はあれ、皆奇才であった。陳咸は逆賊呉曦に従わず、死ぬことはできなかったが、喪乱の余りに財政を治め、蜀がこれによって固守できたことは、匹夫が溝瀆で自ら縊死するよりも、賢いと言えようか。