趙汝談
趙汝談、字は履常、生まれながらに聡明で悟りが早く、十五歳の時、祖父の恩蔭により将仕郎に補せられた。淳熙十一年の進士に及第した。丞相周必大はその文章を得てこれを異とし、参知政事施師點に語って曰く、「この子は他日世に大いなる名声を得るであろう」と。汀州教授に調せられ、広徳軍教授に改め、添差で江西安撫司幹辦公事となった。かつて朱熹に従い疑義十数条を訂正し、朱熹はこれを嘆異した。
丞相趙汝愚を補佐して大策を定め、汝愚は急いで詞掖の職に処そうとしたが、力辞して去った。祖母の喪に服した。汝愚が国を去ると、その弟の汝讜が力を尽くして上疏し、汝愚を留め侂冑を斬ることを乞い、聞く者は舌を吐いた。兄弟は党禍に罹って斥けられ去った。まもなく安慶府教授に調せられ、添差で浙東安撫司幹辦公事となった。母の憂いに遭い、喪が明けると、召されて太社令となった。
当時、侂冑の権勢が甚だ熾烈であったので、汝談は痛憤し、壇に登って祝文を読み、大声で侂冑及び陳自強の名を呼んだ。自強は堪えられず、ある日汝談を指して曰く、「末座の色白の者は誰か」と。汝談は動じなかった。参知政事李壁の推薦により、召されて館職を試みられ、正字に擢げられた。この時、呉曦が叛き、上下手を束ねていたが、或る者が曦を王に就けよと請うた。その人が汝談を訪ねると、汝談は詰って曰く、「曦を王にせんと欲する者は誰か、斬るべし」と。その人は顔を赤らめて答えることができず、汝談は言によって去り、崇道観を主管した。添差で嘉興府通判となり、郡守の王介と志を合わせた。無為軍知軍に改められ、光州守の柴中行、安豊守の陸峻とともに循吏と称された。
時に金人に内変があり、旨を奉じて料敵・備辺の二策を献上するよう命ぜられた。その料敵の策に曰く、「禍乱はなお河北に在り、未だ遽かに河南に至らず。蓋し豪雄は形勢を択び、大盗は貨宝を窺う。金帛重器は俱に河北に聚まり、河南には大川無くして険と為すものなし。起こらんと欲すれば安くにか憑らん。且つ金は素より河南を我に近しとし、守りを置くこと多くは完顔氏の親党、その下も亦た蕃漢を錯居せしめ、防慮を備うること尽くせり。仮に彼に喪乱有りとも、守将は叛かんと欲すれば則ち自ら叛くのみ、何ぞ相率いて尽く反せんに至らんや。然れども天下を有する者は、自ら容易に一日も備えを廃せず。豈に金人の存亡の候を以て吾が緩急と為さんや」と。その備辺の策に曰く、「今、辺州は大抵城無く、兵を缺き糧少なく、鎧仗足らず。若し自ら弁ぜしめば、何にか取って資とせん。朝廷に丐えば、安くにか力を給せん。若し古の藩封に倣い、英傑を抜用して郡を守らしめば、則ち租税市榷の利を併せて之に与え、その貢を共にすることを免じ、上は監臨を置かず、下は悉く選辟を聴し、民は自ら賦するを得、兵は自ら募るを得、凡百悉く為す所を聴す。その功有る者も亦た遽かに徙さず、峻なる爵秩に就き、車服を異に増し、美田宅を与え、その子孫を官し、凡そ優寵すべきこと、極まらざる無からしめ、内に公卿と為るも、貴と雖も曾て守辺の楽に如かざらしむ。かくの如くすれば、則ち才ある者は争いて自ら奮励し、緩急必ず能く死力を出して上に報いん」と。後に河南は二十余年猶お金の守りと為り、宋の沿辺諸郡は権大いに削がれ、兵事に肯って責を任ずる者無く、汝談の言は蓍亀の如し。
湖北提挙常平に改められ、飢饉を救済するに力を尽くした。温州知州となり、外宗正知事に改められ、詩を作ってその族属を勉め、皆風望して化した。江西提挙常平に遷った。寧宗崩御の際、哀痛により疾を得た。理宗を賀する表に、力を寓して勧戒とした。陳碩曰く、「これ諫書なり」と。数度祠官を乞い、江西転運判官を授けられたが、辞するを得ず、官に赴いて一月、言者により罷免された。
先に、汝談は疾により官を去り、言者はその傲睨軒冕、世の用と為るを楽しまずと謂う。ここに至って弥遠は祠を与えず、乃ち門を杜して著述に従った。
端平初め、礼部郎官として召され、入対して言う、「老成を倚用し、忠智を広く集め、衆弊の原を訪求し、可行の策を辟取し、以て積蠹の蠱を飭め、終泰の功を成さんことを、願わくは聖心に加えられん」と。又言う、「大佞は忠に似、大姦は聖に似、免れずして信向し擢任す。始めは甚だしき失いを見ず、久しくして乃ち漸く差訛に至れば、則ち綱維の臣は将に執らざるを得ず、議論の士は将に言わざるを得ん。執ること堅ければ、寧くんぞその権を侵すを疑わざらんや。言うこと数なれば、寧くんぞその直を売るを意わざらんや。ここに至れば則ち唯だ是非邪正の易位のみならず、而して黜陟予奪の中を失うこと多し」と。又曰く、「外の吾が聴を窒み、吾が目を雑え、吾が天君を擾らすを得る所以は、吾が未だ虚一にして静の理を得ざるに在り。苟くも之を得ば、我を導く声色も能く入らず、我に投ずる宝貨も能く中らず、我を扇ぐ功名も能く動かさず、凝然湛然として、孰か能く之を干せん」と。秘書少監兼権直学士院に改められた。時に集議して出師し、汝談は反覆して軽戦すべからず、而して和は尤も計に非ずと言う。既にして三京を収復し、先に用兵の不便を言う者も亦た喜んだが、汝談独り憂色有り。未だ幾ばくもせず、洛師敗れ、朝論始めてその先見に服した。
宗正少卿に遷り、兼権直、兼編修国史・検討実録、兼崇政殿説書を兼ねた。『論語』を講ずるに因り、漢の元帝は恭儉にして過無しとし、惟だ剛を克さず改めず、明にして繹せず、優柔にして断ぜず、以て漢の業遂に衰うと。権吏部侍郎、侍読に昇り、兼直学士院、兼同修国史院同修撰を兼ね、注した『易』を以て進講した。時に朝議して畝に履みて楮を称す。汝談は便ならずと言い、時宰の意に迕る。京師に軍変有り、宰相は秩を貶することを乞い、上已に允したが、汝談は奏して体を失わんことを恐れ、持して不可とす。答詔を草し、以て秩を貶するは易く、挙措を審にするは難しと為し、宰相ますます悦ばず。言によって国を去り、崇禧観を提挙した。婺州知州として起用されたが、四度辞して允されず。郡に至り、力を尽くして祠官を乞うた。行在に召し赴かせられたが、四度辞した。
権礼部侍郎兼学士院となり、兼直を力辞した。時に金兵新たに破れ、三閫は秩を増し、官楮を称提し、四郡は賞を獲た。汝談独り額を蹙め、登対して、まず疏を上りて言う、「辺面に倚仗すべきもの無し。拘攣を超越し、俊傑を簡抜することを乞う。呉が周瑜・魯肅を用い、晋が祖逖・陶侃を任ぜし故事の如く、之をして各々方面を分かち、数十城を連ね、推轂して権を授け、尽く賜履に帰せしむ。巴蜀一人、荊襄一人、両淮各一人、一切便宜を行い、復た更に中より御せず、庶幾くは伸縮己に由り、機用心より出ん」と。蓋し向の備辺の策を推広するものなり。且つ曰く、「臣の此の策は、開禧の未だ兵を用いざる前に行わば、決して今日の患いに罹らざるべし」と。その楮法を論ずるは、尤も時に敝を中て、上称歎すること久しく、且つ謂う、「卿の文学は世に高し、宜しく予の言に代わるべし。力を辞するは何ぞ為さん」と。終に老を以て免ぜんことを祈り、章四上り、兼直を免ぜられ、侍講に改められた。数日にして、仍って兼直学士院と為り、五度辞した。権給事中、権刑部尚書となり、及び卒すに及び、両官を転じた。遺表上り、又た四官を転じた。
汝談は天資人に絶し、沈思高識にして、少より老に至るまで、一日も書冊を去ることなし。其の『易』を論ずるに、占者の為に作ると為す。『書』の『堯典』『舜典』二典は宜しく一に合すべく、禹の功は只だ河洛に施し、『洪範』は箕子の作に非ず。『詩』は『小序』を以て信と為さず。『礼記』は諸生の手より雑出し、『周礼』は宜しく女主の書に傅会すべしとす。要するに亦卓絶特立の見なり。文章を作るに天巧有り。倫誼に篤くして仇怨を忘る。御史王益祥嘗て之を劾す。後汝談其の郷に官す。益祥愧じて敢へて見ず。汝談乃ち数へて之に過ぎ、相得て歓甚だし。嘗て韓非・李斯を論議して、皆荀卿の才有りと為す。惟だ其の富貴利欲の心重きを以て、故に世得て之を賤しむ。惟だ卿独り能く其の身を守り、苟も希合せず。士何ぞ自ら重んぜざらんや。著する所に『易』『書』『詩』『論語』『孟子』『周礼』『礼記』『荀子』『莊子』『通鑑』『杜詩注』有り。
趙汝讜
趙汝讜は字は蹈中、少にして俶儻軼材有り、智略人上に出づ。龍泉の葉適嘗て其の家に過ぐ。汝讜年少、短後衣を衣て避くるを得ず。適之を勧めて曰く「名門の子安んぞ学ばざらんや」。汝讜慚じ、是より終身短後衣を衣ず。節を折りて書を読み、兄汝談と齊名し、天下「二趙」と称す。祖の遺恩を以て承務郎に補せられ、歴て泉州市舶務・利州大軍倉属に任ず。従臣宗室の賢者を薦む。行在右蔵西庫を監す。
汝讜常に言う「宗子は君を忘れず、孝子は身を辱めず。難に臨めば則ち功業朱虚の如くあるべく、身を立つるは子政の如くあるべし」と。
趙希錧
夔州路転運司帳司を主管に調ず。大寧塩井の利病を疏す。使者之を諸朝に上る。民之に便す。玉山県を知るに改む。行かず。召対す。希錧首に民力は貪吏に困り、軍力は僨帥に困り、国家の力は則ち外は帰附の卒に困り、内は浮冗の費に困ると言い、次に四蜀の銓科挙の弊を論じ、次に大寧塩井の本末を論ず。寧宗嘉納す。
大理寺丞を授け、大宗正丞に遷り、権工部郎官を兼ぬ。宗姓貧しき者多し。而して始めて生まるるに訓名有り、人の後たるに過礼有り。吏賕を受け藝無し。敢へて自ら陳する者莫し。希錧其の長に白して之を行わしむ。会に朝議す。燕邸の近属朝参に赴く者少なし。希錧に命じて班を易えしむ。希錧力辞す。克たず。特に吉州刺史・提挙佑神観を換授す。未だ幾ばず、廷臣言う宗姓換班の人嘗て進士を挙ぐる者、朝士を視ることを請い、輪対を聴かしむ。是に於いて希錧次対の時首に論ず「今日多事の際にして、未だ事を弁ずるの人無し。朝紳は清選なり。緘黙を以て清重と為し、刻薄を以て挙職と為し、可否無きを以て体を識ると為す。閫寄は重任なり。大言を以て志有りと為し、過を使うを以て恩を知ると為す。臣敢へて厚く天下を誣いて人無しと為さず。患ひは選択未だ其の道を得ず、器使未だ其の才に当たらずに在り」。成州団練使を授け、金帯を賜い、服繫せしむ。宝璽を以て恩を推し、和州防禦使に進む。
理宗即位す。潭州観察使に進み、公族近邸を以て、恩特だ厚く加う。又た安德軍承宣使に進む。希錧引対し、言う「初政の急務、道を明かにし、治統を総べ、人心を収むるより先なるは莫し」。上為に動容す。明年を越え、祠祭蠲れず、禁衛肅ならざるを論ず。慈明宮上寿す。節度に升り、信安郡公に封ぜらる。卒す。遺奏聞こゆ。上震悼して視朝を輟み、含斂を賜い、金幣を以て贈る。
希錧風資凝重、胸抱魁壘、人の善を揚げ、人の過を記せず、人の難を急ぎ、人の恩を忘れず。官に居り、祁寒盛暑未だ嘗て謁告せず、衣食裁足を取るのみ。追って信安郡王に封ぜらる。
趙彦呐
趙彦呐は字は敏若、彭州の人。四川類試第に登る。少より材を以て称せらる。呉曦叛く。禄禧を以て偽りて夔を守らしむ。彦呐義士を結び之を殺す。遂に名を顕す。
趙善湘
時に善湘范・葵の進取するを見、慰藉殷勤に、饋問踵を接し、請ふ有れば必ず應ず。諸子を遣はし寶應に屯して從はしむ。范・葵亦功を督府に讓り、凡そ捷を得れば、皆汝櫄等筆を握り草報す。善湘の季子汝楳は、丞相史彌遠の婿なり、故に奏報達せざる無し。閩寇を平ぐる功を以て、江淮安撫制置使に轉ず。五年、泰州・淮安州・鹽城・淮陰縣の四城を復し、及び京湖に策應する功を以て、端明殿學士に進み、執政の恩例と與にし、仍て任じ、留守に升り、食邑を加ふ。金の樞密副使納合買住の降を受くるを以て、復た盱眙軍・泗・壽二州の功を以て、資政殿學士に進み、食邑を加へ、使を遣はし手詔・金器等の物を賜ふ。九たび疏を上りて歸らんことを丐ふも、皆許さず。請ふこと愈よ力む。大學士に進み洞霄宮を提舉し、天水郡公を封じ、食邑を加ふ。監察御史善湘を劾奏す。御筆を以て善湘討逆復城の功有りとし、其の奏を寢す。
趙與懽
趙與懽、字は悅道、燕懿王の八世孫なり。嘉定七年進士、會稽尉を調し、建寧司戶參軍に改む。明法科に中り、浦城縣を攝す。父憂に丁し、《善慶五規》を作りて子孫に示す。喪を免れ、大理評事を授かる。轉對し、天變・民情・國威の三事を言ひ、又言ふ、「死囚は取會駁勘を以て、動もすれば歲時に涉り、類て瘐死し、而して干證者は多く逆旅に斃る。宜しく憲臣を精擇し、悉く詳覆せしむべし。果たして疑はしければ則ち親往きて鞫正し、必ず情法輕重閔む可きに始めて審奏を許すべし。」
籍田令に遷る。久しくして、宗正寺簿を拜し、軍器監・司農寺丞を歷、宗正丞に遷り都官郎官を權ね、倉部に改め、度支を權ね、直寶章閣を以て安吉州を知る。郡計は榷醋に仰ぐも、禁網峻密なり。與懽首として之を捐てて民に予ふ。銅鉦を縣門に設け、訴へんと欲する者之を撃たしむ。冤れて直さざる無し。富民幼子を訴ふる有り。之を察するに其の本心に非ざるを、姑く其の子を逮へて獄に付し、徐に之を廉るに、乃ち二兄其の父を強ひて業を析かしむるなり。與懽法を以て曉し、天理を以て開くに、皆忻然として感悟す。又嫠媼僅かに一子有り、亦以て不孝を告ぐ。之を郡聽に留め、日饌を給し、俾く親しく饋らしめ、晨昏禮を以てす。未だ周月せずして、母子初めの如し。二家皆畫像して之を事ふ。母に喪す。朝廷屢ひ之を起すも、可からず。議して邊を守らしめ、淮西提點刑獄を授くも、奪ふ能はず。再期し、刑部郎官を以て召さる。終禫を乞ひ、祠を奉ず。復た半載にして、乃ち朝に趨る。
恢復退師より、又使を納るるを議す。與懽言ふ、「朝に在りて迎合し、政多門より出づ。必ず智識氣節の士を得て、中外に布列する可し。」檢正を權ね兼ぬ。宗正少卿に遷り戶部侍郎を權ね、尋いで臨安府を知り浙西安撫使を兼ぬるを兼ぬ。同詳定し、剖決明暢にして、罪する者咸く服す。郊祀の夕、大風雷有り。與懽國本未だ定まらざるを言ひ、又盜を弭ぎ本を固むるの策を陳ず。刑罰術數を以て帝に言ふ者有り。與懽言ふ、「民を導くに本有り。臣の如き天府に待罪するも、豈に遽かに能く民に及ばんや。惟だ其の真實相ひ孚れ、擾れずして待つに、數月にして庭訟彌寡し。人心本善にして、感有れば必ず從ふ。或は威を以て厲し、術を以て待つと謂ふは、本を知るの論に非ず。」且つ言ふ、「朝令夕改は、以て作新を示すに非ず。旁蹊曲徑は、以て紀綱を肅むるに非ず。」帝爲に悚然たり。又建言す、「秦の刻頌に『端平法度』の語有り。」
翌年、年号を嘉熙と改めた。襄陽・蜀の地は破壊され、ある者は風聞に従って土地を放棄した。便殿に召見され、言うには、「韓琦は仁宗朝にあってさえ、昼夜血の涙を流した。今、主上憂え、臣下辱しめられている。」そこで辺境防備の道を詳しく述べ、その多くは後に施行された。与歓は三千人を募集して忠毅軍とし、また言うには、「禁衛の空名の兵籍および京口諸郡において、ことごとく兵士を募るべきであり、郡将に統率させ、財はまず軍を養い、余りを上供すべきである。不急の費用を省くことを乞う。」文武の士四十人を推薦した。戸部侍郎に遷り、兵部尚書を兼権し、辺境の事について論じること極めて深切であった。
星変があり、上章して罷免を請うた。大火があり、災変の烈しさを力説し、言うには、「臣の罪は髪を抜いても数えきれないほどであるのに、なお国を去ることを言って、少しでも上聞を悟らせようとする。天威を畏れ敬い、実徳をもって民に及ぼすことを思い、まず上躬より始め、痛く節約を加え、広く救済を推し進められることを願う。」五度にわたり流罪を請うた。ここにおいて中書の方が大琮が言うには、「与歓は平素より自ら潔く修め、財を疎んじ爵を軽んずることは、人の共に知るところである。不幸にもこれに遇い、その罪を待つ上章を見れば、懇切至到であり、その義を知ることを歎かない者はない。その請いを許し、大小の臣をして、皆咎を引くことを知らしめるべきである。」そこで一階を収められた。まもなく復職した。与歓は先に同降した官属の叙復を請い、また言うには、「艱難にして為すべからざる時にあっては、慷慨して志を励まし、深く人才と兵力のために思うべきである。」戸部尚書に遷り吏部を兼権し、累次祠官を乞うたが、許されなかった。
紙幣(楮幣)について論じ、嘉定以来、一を以て二と易えることにより、天下に信を失い、かつて内帑を出して収換し、屡々称提したが、価値下落はますます甚だしくなった。かつて新旧両界を併せて十年延長し、新紙幣製造を議しないよう請い、州県に損汚を理由に抑止しないよう責めたが、ここに至って遂に界限を設けず以てその疑いを絶つことを請い、その区画するところは甚だ完備していた。その後、詔して宰相に侍従に遍く諮問させたが、与歓はまた以前の説を以てこれを陳べた。端平銭を五文として通用させようとする者があったが、与歓は言うには、「開禧の時に二を以て三と当てたことがあったが、紙幣を何ら救ったか?」また曰く、「士大夫が清白に法を奉じ、謹んで扶持しなければ、たとえ一日に一法を改めても、紙幣を救うことはなく、国はその国ではなくなる。法が削がれ国が弱れば、独り富貴を享けることができようか?」常に言うには、「端平以来、贓吏を流罪にし、賄賂を禁じ、奔走競争を戒め、横暴な徴収を止めたが、風俗の沈痾は依然として変わらない。ある者は口では仁義を唱えながら身は市井にあり、概して君を欺くことを常とし、家を肥やすことを楽しみとし、遂に事に臨んで使う者に乏しく、小人が傍らから間隙に乗じて官爵を窃取するに至った。」上疏して乞うには、「邪正を別ち、怠惰を戒め、恬退質直の士を奨励任用し、以て躁競浮靡の習いを絶つこと。内廷に除授に関わる者があれば必ず斥け、暗室に誹謗議論に及ぶ者があれば必ず思い、心を清く欲を寡なくし、以て酣歌黷貨の風を革めること。その機は皆陛下より始まる。」また言うには、「軍政は弛緩し兵籍は明らかでなく、兵を総べる者は功賞に縁って嫌隙を開くことがあり、内では班行は速やかな昇進のみを求め、守牧は多く貪欲で凡庸である。紙幣の事は日々非なるものとなり、浮費冗費は節制されず、指摘陳述する日がない。」
大風・震雷が屡々見られたため、辺境の事を詳しく陳べ、かつ言うには、「人才・国用・民力・兵威について、この機に乗じ、根本に意を加え、ただ除授に精神を困らせ、行移に歳月を老いさせ、公道を私情に委ね、事功を无可奈何に付すことなきを願う。」吏部尚書に遷る。講筵において言うには、「慈雨降らず、星変頻りに仍く。在京では物価騰踊し、民は訛言し士は騒ぐ。在外では兵権渙散し、流民充斥す。元老を登崇し、宰輔を並建したのは、その風采振揚すべき謂いであるが、事勢なおこの若きは、士大夫必ずしも天下の責を任ぜず、天下必ずしも陛下の志を知らざるなり。」力めて帰田を求め、潮汐が堤防を齧るに会い、執政が帝の意を伝えて留め治めさせた。手詔に云う、「忠正廉勤、卿の如きはなし。」端明殿学士・知臨安府・浙西安撫使を授かる。江堤が竣功し、獄が空となり、力めて罷免を乞うた。旧のまま端明殿学士、万寿観提挙となる。戸部財用提領兼侍読兼修国史・実録院修撰を拝命。奉朝請し、関を出て、使者を遣わして還らせようとした。
飢民が相携えて溺死するに会い、帝はなお臨安府の事を付せられ、恩例は執政に準じた。与歓は涕泣して詔を奉じ、急ぎ榜示して諭して曰く、「今、奏上して救済を求めている。しばらく死を忍び各々性命を全うし、聖恩を浴するを待つべし。」都人は互いに死ぬなと言い合った。与歓は上では公朝に哀願を祈り、下では誠を推して分け与えるよう勧め、慈雨随いて至り、米商来り集い、流移して来る者を以て済すことができた。力めて禄を納めることを求め、資政殿学士・万寿観提挙兼侍読・監修国史・実録院修撰を授かる。奉朝請し、与歓が浙江に至ると、上は召還し、即日江を渡り去った。帝はこれを悵然とした。与歓は三度府尹となり、民事に尽力し、都人は「趙端明」と呼び、必ず手を額に加えて「趙仏子」と言った。
久しくして、旧職を以て温州知事となり、政事は必ず自ら行い、吏は敢えて欺かず、水砦を創設し、貢院を修築した。侍読として召されたが、辞し、許されず。入対し、爵禄の濫りを言い、国本の事に及んだ。五度帰ることを乞うたが、また許されず。『春秋解』を進め、大学士に昇進し、士六十人を推薦した。史嵩之が再び宰相に入らんとし、人言止まず、帝は与歓に問うた。言うには、「嵩之は師老し財を費やし、私昵は貪り富み、過って名誉を立てる。必ず復用すべからず。」時に嵩之の猶子の璟卿がその過ちを誦言して忽ち斃れ、杜範・劉漢弼・徐元傑の三賢が暴死したため、人皆嵩之が毒を致したと疑った。与歓は漢弼・元傑の家を優しく恤うることを請い、帝はこれに従ったが、優恤の手詔は、与歓が起草して入れたものである。
また兵権と財用を輔臣に分任させることを請うた。講筵において言うには、「壊れた病症を庸医に付せば、僅かに残息を支えるのみで、巧みな心を徒らに運ぶだけで、天下の事、尚た再び誤りに堪えようか?」時の宰相はこれを忌んだ。まもなく安德軍節度使・開府儀同三司・万寿観使を授かる。日食があり、詔に応じて事を言うこと益々切直であった。月ごとに内帑を賜うたが、与歓は辞して受け取らなかった。帝は「安貧楽道、植節秉忠」の字を書いて賜うた。皇太子の冊立が未定であったため、これを重ねて言い、また言うには、「人才使うに乏しく、贓吏悔い改めず、民は昔は南に流れ、今は北に流れ、盗賊は昔は遠くに伏し、今は近くに伏す。体認真実ならず、賢否区別なく、国は誰と与に立たんとするか?一代の儲君を富ませ、小人の間隙に投ずる余地なくし、以て隠伏の禍を絶つことを願う。」帝は顔色を改めた。
袁士・宋斌は若くして黄𠏉・李燔に従い朱熹の門に登り、学禁厳しく、羈旅困沮し、年八十に近かった。与歓はこれを招き、父の行いとして事え、旌礼布衣の故事を用いるよう奏請し、死しては西湖上に葬り、歳一祭することを求めた。帝が二諫臣を追放したとき、与歓は力を争った。五度朝請を免じることを乞い、三度致仕を乞うたが、俱に許されず、『泰卦詩』・『忠邪辨』を賜うた。この後、国事について皆縷々として言い、書き尽くせないほどであった。その君を愛し国を憂うるは、天性に本づくものである。少傅を拝し、卒す。遺表においてなお規正を忘れなかった。帝は震悼して朝を輟み、賻贈を加え、有司に葬儀を行わせるよう詔し、少師を贈り、奉化郡王を追封し、諡して「清敏」とし、累贈して太師とした。
自ら『六経』及び『仁皇訓典詳釈』に注を加え、また『高宗宝訓要釈』・奏議・詩文百巻がある。与歓は嘗て言うには、「士大夫に貪婪の名声があれば、たとえ奇才奥学あろうとも、徒らに国を蠹し民を害するのみである。」故に斂の夕べ、金帯はなお民家に質入れされていたという。
趙必愿
趙必愿は、字を立夫といい、広西経略安撫使趙崇憲の子である。弱冠に至らぬうちに祖母の喪に遭い、哀哭して骨立した。喪が明けると、祖父趙汝愚の遺表により、承務郎に補せられた。
湖広総領所幹辦公事に任ぜられた。父の喪に遭い、喪に服する礼を尽くし、黄𠏉に書を送って学問を問うた。喪が明けると、差遣で両浙運転司主管文字を充てられた。再考の後、特差で提領安辺所主管文字を充てられた。差遣で全州知州となり、陛辞の際、道州・江州に周惇頤の子孫を訪ねるよう奏上して請うた。常州知州となり、処州知州に改め、折帛銭を銀で納める害悪を陳述し、いずれも聞き届けられた。泉州に移り、白土の課税を廃し、吏を差し遣わして鉄を専売することを免じ、諸県に義役を行うよう勧めた。秋の旱魃に際し、荒政の実施を力説し、永儲・広儲両倉の米を撥出して救済するよう請うた。主管官告院に差遣された。五日を経ず、詔により旧例のごとく主管官告院を兼ねて台州知州となり、一貫して祖父の政事に従い、民の苦しみを察し、疲弊した民を慰撫し、養済院を修築し、陳瓘の祠を建て、政事と教化を共に挙げた。
「陛下は英明に密かに運営され、独断で裁決なさる、確かに一切を転換しようとされている。しかしながら大権が我に在るとしても、あるいはなお下に移る疑いがあり、衆正の道が既に開かれているとしても、あるいはなお傍らの道の疑いがある。二相を策免されたのは、天変を消すためであるが、去った者は固より再び留まることは難く、留まった者は恐らく終に去ることになろう。宰相の席を虚しくして故老を待つのは、疑う者はあるいはその必ずしも来らぬことを思い、まして数千里の外におられる。次補を責めて大政を任せるのは、疑う者はあるいはその敢えて専断せぬことを思い、ましてその位に安んじていない。中書は政事の根本である。今は果たしていかなる時か、なお曖昧な意向をもって天下の疑いを啓くことができようか。親しく台諫を抜擢されるのは、言路を開くためであるが、用いて未だ久しくない者を、何故軽々しく替えるのか。去って未だ幾ばくもない者を、何故再び呼び戻すのか。外任から召される者は、果たして用いられ必ず堅固にされるか知れず、任命文書が周行する者は、果たして聞き入れられて憚るところがないか知れぬ。
朝廷の任官、軍国の賞罰は、本来至って公平である。今、姓名が廟堂に達しないうちに、昇進が突然中から出たり、三衙を斥逐しても、終に罪状を指名せず、人は始めて陛下を疑うことができるようになった。一つの任官文書の発布、一つの号令の発出は、必ずしも宦官によるものではないが、人はあるいは宦官によるのではないかと疑い、必ずしも私的な請託によるものではないが、人はあるいは私的な請託によるのではないかと疑い、必ずしも外戚や宗室の邸宅によるものではないが、人はあるいは外戚や宗室の邸宅によるのではないかと疑う。天下は祖宗の天下であって、陛下が私的に所有されるものではない。陛下には弊害を除くお心があっても、動くたびに疑わしい跡に及べば、陛下もまた何を楽しまれるというのか。」
当時の議論はこれを偉とした。
火災があり、必愿は詔に応じて封事を上奏し、言った、「辺境を開いて禍を醸した刑罰は、牽制されて行われず、変を激して城を棄てた誅戮は、姑息にして行われない。京・襄は陥没し、祖宗の基業を保つことができず、淮・蜀は蹂躙され、民衆の冤魂は依る所がない。田畝調査の命令が下され、さらに抑配が加わり、称提の法が厳しく、さらに告発が重ねられる。民に蓄えがなく、常に溝に転落する憂いがあり、士は飽くに及ばず、常に乱を思う志がある。」また言った、「台諫・給舎の骨鯁の論は容れられず、左右の便嬖の讒言は入り易い。春夏の常享は、原廟の尊厳を疎略にし、節鉞の隆恩は、邸第の貴きに殷勤である。」また言った、「必ずや故相が国政を専断した罪を正し、貪夫が国に殉ずる誅罰を厳しくし、家屋の鬼が高明に見下ろすことを思え。まず編氓を先にし、後で親貴とし、木妖が競って治める争いを去り、堅固を尚び、奢華を改め、宴殿の度を越した宴飲を戒め、内庭の不急の営繕を節せよ。」また済王及び国本の事について論じた。
左司郎中に遷り、また司農少卿を兼ね左司を兼ねた。転対し、言った、「正気は日々消え月々沮え、次第に今日に至り、ただ搢紳が事を論じようとしないのみならず、下って草茅の士に至るまで、皆舌を結んでいる。端平初年、重い病が去り、新たな病は未だ起こらず、陛下はなお諮問に勤め、及ばぬことを恐れられた。今、病は心腹を攻め、決裂して潰えんとしているのに、眩暈を起こすような激しい薬を求めずしてその危殆を起こさぬとは、甚だ惑わしい。」また言った、「人臣に指弾を以て疑われることなからしめ、陛下に厭言を以て謗られることなからしめよ。」当時、直士が相次いで去ったので、必愿はこれに言及したのである。敕令所刪修官を兼ね、司農卿に拝され、兼職は元の如し。翌日、宗正少卿に改め、なお刪修敕令及び国史編修実録検討を兼ね、まもなく左司を兼ね、太府卿に遷り、なお編修・検討を兼ね、宗正少卿に遷った。詔して旧例のごとく太府卿とし、なお兼職のままとし、かつ中書門下検正諸房公事を兼ねた。転対し、言った、「中才の庸主は、ただその知覚することがないが故に、言が入らず、敗亡がそれに随う。陛下は敬天の図を作り、朝夕に対越される、天意は回らしめ得るべきであるというに、しかるに熒惑が度を失い、鬱攸が災を煽り、禁門に迫近し、ほとんど左蔵を焼き尽くさんとした。煙埃がようやく収まり、白昼に隕星があり、日を貫く虹、陽を脅かす雹が、重なって現れ層を成して出る。陛下は時を観て変を察せられるが、何によってこれが起こるのか。今日の事は、動くに良策なく、ただ身を側めて行いを修め、天に祈って命を永くするのみである。」起居舎人に遷り、兼職は元の如し。
大水が起こり、上封事して曰く、「海潮が堤防を毀ち、禁城に迫る。災異の来るは、理虚しからず、必ず上は天戒を畏れ、下は人事を修め、沴を易えて和を召し、転移は陛下の方寸の間に在り」と。又曰く、「『周官』に国に大事有れば、則ち大詢の理を挙ぐと。今日の事は迫れり、謂う宜しく衆謀を合わし、君策を屈し、上は縉紳より、下は芻蕘に至るまで、各々所見を陳べ、其の用うべき策を択び、以て事を任ずる臣に授け、庶幾くは千慮一得、以て天下の人因らざるの意を成すべし」と。暫く右郎官を兼権す。言う、「財は天雨鬼輸に非ず、豈に軽く施し妄りに用うべけんや。此のまま長く已まずば、必ず顛覆に至り、異時に或いは罪を得ん。今の大夫は能く国の為に財を生ぜず、程異・皇甫鏄の徒間を乗じて捷出し、推敲克剝し、以て術相勝ち、鑿空取辦し、以て計巧みに取り、事掊斂し、羨餘を献じ、間架緡錢の令下りて、唐の祚愈促し。願わくは陛下精思熟慮し、己を約して民を愛し、必ずや勾践の臥薪嘗膽の如く、必ずや衛文公の帛衣布冠の如くせられよ」と。吏部右侍郎を権じ、兼ねる檢正を免ぜんことを乞う。之に従う。国史修撰を兼ぬ。
時に邊事急なり、必愿詔に応じて言う、「宜しく彭大雅を敕して重慶より王青の兵を領して東下し、以て夔を復せしめ、李安民及び歸・峽の二守を責めて以て自ら效わしめ、一将を調べて中流の師を督し、以て其の順流の謀を伐ち、一将を調べて間道より鼎・澧の後に出でしめ、以て其の搗虚の鋒を折り、一将を調べて芮興の勢を助けしめ、以て江陵の急を備うべし。又た宜しく湖南に下し、飛軍及び團結民兵の類を遣わして沅江・益陽江を守らしめ、以て長沙に衝突するを防ぎ、江上の民船を尽く収め、敵の用に資すこと毋からしむべし」と。区画皆事機に中る。暫く侍左侍郎を兼権す。李宗勉毎に其の平允を称す。暫く戸部侍郎を兼権し、同詳定敕令を兼ぬ。国本を立てんことを請い、親しく雨を祷らんことを請う。戸部侍郎に遷り、暫く給事中を兼ぬ。
先に、錢相常に陳洵益の節使贈官を繳して行わず、必愿復た繳奏して曰く、「李韶向に殿中侍御史たりし時、洵益を疏論し、外祠を予うるを乞い、以て窺伺を絶たんとす。陛下其の言を行わず、復た其の職を奪う。韶自ら安んぜず、径に外補を求む。今召すも至らず、正に此の故なり。若し洵益を超贈し、又た繳駁して行わずんば、韶愈来期無からん。陛下一の賢なる従官を去るに忍びて、一の已に死せる内侍を沮むに忍びざるは、則ち何を以て治功を興起し、国勢を振揚せん。洵益の節鉞を寝め、韶を趣して職に供せしめんことを望む」と。ここに於て必愿三たび疾を以て祠を乞う。許さず。
必愿平易を以て民に近く、忠信を以て俗を厚くし、惻怛を以て政を勤め、郷飲酒を行い、退士を旌し、高年を奨め、僧寺実封の数を裁く。尤も武事に留意し、甫く境に入るや、即ち軍礼を以て戎帥に見え、左翼軍節制の事宜を申明し、海道修水を措置し、士卒を教士て知らしむるに勸む。官に居ること四年、累ねて帰らんことを乞い、及び召命有るや、又た三たび辞す。皆許さず。卒す。遺表上る。銀青光禄大夫を贈らる。
必愿才周く器博く、心平かに量広く、而して又た蚤く家庭忠孝の訓、師友正大の言を聞く。故に立つ所卓然として称す可し。
論じて曰く、宋の公族は、往々にして亦た科第より顕用せられ、各々能く術業を以て自ら見る。汝談・汝讜・希錧是れなり。彥呐邊を帥いて功を墮すは、亦た廟算の短きに由る。善湘父子大盗を平ぐるに克つ。與懽は長者を以て称せらる。必愿世其の美を濟す。信厚の公子と謂う可し。