宋史

列傳第一百七十二 趙汝談 趙汝讜 趙希錧 趙彦吶 趙善湘 趙與懽 趙必愿

列傳第一百七十二 趙汝談 趙汝讜 趙希錧 趙彦吶 趙善湘 趙與懽 趙必愿

趙汝談

原文趙汝談

趙汝談、字は履常、生まれながらに聡明で悟りが早く、十五歳の時、祖父の恩蔭により将仕郎に補せられた。淳熙十一年の進士に及第した。丞相周必大はその文章を得てこれを異とし、参知政事施師點に語って曰く、「この子は他日世に大いなる名声を得るであろう」と。汀州教授に調せられ、広徳軍教授に改め、添差で江西安撫司幹辦公事となった。かつて朱熹に従い疑義十数条を訂正し、朱熹はこれを嘆異した。

原文趙汝談,字履常,生而穎悟,年十五,以大父恩補將仕郎。登淳熙十一年進士第。丞相周必大得其文異之,語參知政事施師點曰:「是子他日有大名於世。」調汀州教授,改廣德軍,添差江西安撫司幹辦公事。嘗從朱熹訂疑義十數條,熹嗟異之。

丞相趙汝愚を補佐して大策を定め、汝愚は急いで詞掖の職に処そうとしたが、力辞して去った。祖母の喪に服した。汝愚が国を去ると、その弟の汝讜が力を尽くして上疏し、汝愚を留め侂冑を斬ることを乞い、聞く者は舌を吐いた。兄弟は党禍に罹って斥けられ去った。まもなく安慶府教授に調せられ、添差で浙東安撫司幹辦公事となった。母の憂いに遭い、喪が明けると、召されて太社令となった。

原文佐丞相趙汝愚定大策,汝愚欲驟以詞掖處之,力辭去。持祖母服。汝愚去國,其弟汝讜力上疏乞留汝愚、斬侂胄,聞者吐舌。兄弟罹黨禍斥去。尋調安慶府教授,添差浙東安撫司幹辦公事。丁母憂,免喪,召為太社令。

当時、侂冑の権勢が甚だ熾烈であったので、汝談は痛憤し、壇に登って祝文を読み、大声で侂冑及び陳自強の名を呼んだ。自強は堪えられず、ある日汝談を指して曰く、「末座の色白の者は誰か」と。汝談は動じなかった。参知政事李壁の推薦により、召されて館職を試みられ、正字に擢げられた。この時、呉曦が叛き、上下手を束ねていたが、或る者が曦を王に就けよと請うた。その人が汝談を訪ねると、汝談は詰って曰く、「曦を王にせんと欲する者は誰か、斬るべし」と。その人は顔を赤らめて答えることができず、汝談は言によって去り、崇道観を主管した。添差で嘉興府通判となり、郡守の王介と志を合わせた。無為軍知軍に改められ、光州守の柴中行、安豊守の陸峻とともに循吏と称された。

原文時侂胄用事熾甚,汝談痛憤,登壇讀祝,大呼侂胄及陳自強名。自強不能堪,它日指汝談曰:「末坐白皙者何人?」汝談不為動。以參知政事李壁薦,召試館職,擢正字。是時吳曦叛,上下束手,或請就以曦為王,其人造汝談,汝談詰之曰:「孰欲王曦者,可斬!」其面發赤不能對,遂以言去,主管崇道觀。添差通判嘉興府,與郡守王介志合。改知無為軍,與光州守柴中行、安豐守陸峻俱稱循吏。

時に金人に内変があり、旨を奉じて料敵・備辺の二策を献上するよう命ぜられた。その料敵の策に曰く、「禍乱はなお河北に在り、未だ遽かに河南に至らず。蓋し豪雄は形勢を択び、大盗は貨宝を窺う。金帛重器は俱に河北に聚まり、河南には大川無くして険と為すものなし。起こらんと欲すれば安くにか憑らん。且つ金は素より河南を我に近しとし、守りを置くこと多くは完顔氏の親党、その下も亦た蕃漢を錯居せしめ、防慮を備うること尽くせり。仮に彼に喪乱有りとも、守将は叛かんと欲すれば則ち自ら叛くのみ、何ぞ相率いて尽く反せんに至らんや。然れども天下を有する者は、自ら容易に一日も備えを廃せず。豈に金人の存亡の候を以て吾が緩急と為さんや」と。その備辺の策に曰く、「今、辺州は大抵城無く、兵を缺き糧少なく、鎧仗足らず。若し自ら弁ぜしめば、何にか取って資とせん。朝廷に丐えば、安くにか力を給せん。若し古の藩封に倣い、英傑を抜用して郡を守らしめば、則ち租税市榷の利を併せて之に与え、その貢を共にすることを免じ、上は監臨を置かず、下は悉く選辟を聴し、民は自ら賦するを得、兵は自ら募るを得、凡百悉く為す所を聴す。その功有る者も亦た遽かに徙さず、峻なる爵秩に就き、車服を異に増し、美田宅を与え、その子孫を官し、凡そ優寵すべきこと、極まらざる無からしめ、内に公卿と為るも、貴と雖も曾て守辺の楽に如かざらしむ。かくの如くすれば、則ち才ある者は争いて自ら奮励し、緩急必ず能く死力を出して上に報いん」と。後に河南は二十余年猶お金の守りと為り、宋の沿辺諸郡は権大いに削がれ、兵事に肯って責を任ずる者無く、汝談の言は蓍亀の如し。

原文時金人內變,有旨令獻料敵、備邊二策。其料敵之策曰:「禍亂猶在河北,未遽至河南,蓋豪雄擇形勢,大盜窺貨寶,金帛重器俱聚河北,河南無大川為之險,欲起安所憑?且金素以河南近我,置守多完顏氏親黨,其下亦令蕃漢錯居,所以防慮備盡。縱彼喪亂,守將欲叛則自叛,何至相率盡反。然有天下者,自不容易一日廢備,豈以金人存亡之候為吾緩急哉!」其備邊之策曰:「今邊州大抵無城,缺兵少糧,鎧仗不足。若使自辦,何所取資?丐諸朝廷,安得力給?若仿古藩封,拔用英傑守郡,則並租稅市榷之利盡與之,免其共貢,上不置監臨,下悉聽選辟,民得自賦,兵得自募,凡百悉聽所為。其有功者亦不遽徙,就峻爵秩,增異車服,給美田宅,官其子孫,凡可優寵,無不極至,使內為公卿,雖貴曾不如守邊之樂。如此則有才者爭自奮勵,緩急必能出死力報上。」於後河南二十餘年猶為金守,宋沿邊諸郡權大削,兵事無肯任責者,汝談之言若蓍龜然。

湖北提挙常平に改められ、飢饉を救済するに力を尽くした。温州知州となり、外宗正知事に改められ、詩を作ってその族属を勉め、皆風望して化した。江西提挙常平に遷った。寧宗崩御の際、哀痛により疾を得た。理宗を賀する表に、力を寓して勧戒とした。陳碩曰く、「これ諫書なり」と。数度祠官を乞い、江西転運判官を授けられたが、辞するを得ず、官に赴いて一月、言者により罷免された。

原文改湖北提舉常平,振饑盡力。知溫州,改知外宗正,作詩勉其族屬,皆望風而化。遷江西提舉常平。寧宗崩,以哀痛得疾。賀理宗表,力寓勸戒。陳碩曰:「此諫書也。」數丐祠,授江西轉運判官,辭不獲命,之官一月,以言者罷。

先に、汝談は疾により官を去り、言者はその傲睨軒冕、世の用と為るを楽しまずと謂う。ここに至って弥遠は祠を与えず、乃ち門を杜して著述に従った。

原文先是,汝談因疾去官,言者謂其傲睨軒冕,不樂為世用。至是彌遠不與祠,乃杜門著述。

端平初め、礼部郎官として召され、入対して言う、「老成を倚用し、忠智を広く集め、衆弊の原を訪求し、可行の策を辟取し、以て積蠹の蠱を飭め、終泰の功を成さんことを、願わくは聖心に加えられん」と。又言う、「大佞は忠に似、大姦は聖に似、免れずして信向し擢任す。始めは甚だしき失いを見ず、久しくして乃ち漸く差訛に至れば、則ち綱維の臣は将に執らざるを得ず、議論の士は将に言わざるを得ん。執ること堅ければ、寧くんぞその権を侵すを疑わざらんや。言うこと数なれば、寧くんぞその直を売るを意わざらんや。ここに至れば則ち唯だ是非邪正の易位のみならず、而して黜陟予奪の中を失うこと多し」と。又曰く、「外の吾が聴を窒み、吾が目を雑え、吾が天君を擾らすを得る所以は、吾が未だ虚一にして静の理を得ざるに在り。苟くも之を得ば、我を導く声色も能く入らず、我に投ずる宝貨も能く中らず、我を扇ぐ功名も能く動かさず、凝然湛然として、孰か能く之を干せん」と。秘書少監兼権直学士院に改められた。時に集議して出師し、汝談は反覆して軽戦すべからず、而して和は尤も計に非ずと言う。既にして三京を収復し、先に用兵の不便を言う者も亦た喜んだが、汝談独り憂色有り。未だ幾ばくもせず、洛師敗れ、朝論始めてその先見に服した。

原文端平初,以禮部郎官召,入對言:「倚用老成,廣集忠智,訪求眾弊之原,辟取可行之策,以飭積蠹之蠱,而成終泰之功者,願加聖心焉。」又言:「大佞似忠,大姦似聖,未免信向而擢任之。始未見甚失,久乃寖至差訛,則綱維之臣將不能不執,議論之士將不得不言。執之堅,寧不疑其侵權?言之數,寧不意其賣直?至是則不特是非邪正易位,而黜陟予奪失中多矣。」又曰:「外之得以窒吾聽、雜吾目、擾吾天君者,以吾未得虛一而靜之理也。苟得之,導我聲色而不能入,投我寶貨而不能中,扇我以功名而不能動,凝然湛然,孰得干之哉?」改秘書少監兼權直學士院。時集議出師,汝談反覆言不可輕戰,而和尤非計。既而三京收復,雖前言用兵不便者亦喜,汝談獨有憂色。未幾,洛師敗,朝論始服其先見。

宗正少卿に遷り、兼権直、兼編修国史・検討実録、兼崇政殿説書を兼ねた。『論語』を講ずるに因り、漢の元帝は恭儉にして過無しとし、惟だ剛を克さず改めず、明にして繹せず、優柔にして断ぜず、以て漢の業遂に衰うと。権吏部侍郎、侍読に昇り、兼直学士院、兼同修国史院同修撰を兼ね、注した『易』を以て進講した。時に朝議して畝に履みて楮を称す。汝談は便ならずと言い、時宰の意に迕る。京師に軍変有り、宰相は秩を貶することを乞い、上已に允したが、汝談は奏して体を失わんことを恐れ、持して不可とす。答詔を草し、以て秩を貶するは易く、挙措を審にするは難しと為し、宰相ますます悦ばず。言によって国を去り、崇禧観を提挙した。婺州知州として起用されたが、四度辞して允されず。郡に至り、力を尽くして祠官を乞うた。行在に召し赴かせられたが、四度辞した。

原文遷宗正少卿,兼權直,兼編修國史、檢討實錄,兼崇政殿說書。因講《論語》而言漢元帝恭儉無過,惟以剛不克改,明不能繹,優柔不斷,而漢業遂衰。權吏部侍郎,升侍讀,兼直學士院,兼同修國史院同修撰,以所注《易》進講。時朝議履畝稱楮,汝談言非便,迕時宰意。京師軍變,宰相乞貶秩,上已允,汝談奏恐失體,持不可。草答詔,以為貶秩易,審舉措難,宰相滋不悅。以言去國,提舉崇禧觀。起知婺州,四辭不允。至郡,力丐祠。召赴行在,四辭。

権礼部侍郎兼学士院となり、兼直を力辞した。時に金兵新たに破れ、三閫は秩を増し、官楮を称提し、四郡は賞を獲た。汝談独り額を蹙め、登対して、まず疏を上りて言う、「辺面に倚仗すべきもの無し。拘攣を超越し、俊傑を簡抜することを乞う。呉が周瑜・魯肅を用い、晋が祖逖・陶侃を任ぜし故事の如く、之をして各々方面を分かち、数十城を連ね、推轂して権を授け、尽く賜履に帰せしむ。巴蜀しょくはしょく一人、荊襄一人、両淮各一人、一切便宜を行い、復た更に中より御せず、庶幾くは伸縮己に由り、機用心より出ん」と。蓋し向の備辺の策を推広するものなり。且つ曰く、「臣の此の策は、開禧の未だ兵を用いざる前に行わば、決して今日の患いに罹らざるべし」と。その楮法を論ずるは、尤も時に敝を中て、上称歎すること久しく、且つ謂う、「卿の文学は世に高し、宜しく予の言に代わるべし。力を辞するは何ぞ為さん」と。終に老を以て免ぜんことを祈り、章四上り、兼直を免ぜられ、侍講に改められた。数日にして、仍って兼直学士院と為り、五度辞した。権給事中、権刑部尚書となり、及び卒すに及び、両官を転じた。遺表上り、又た四官を転じた。

原文權禮部侍郎兼學士院,力辭兼直。時金兵新破,三閫增秩,稱提官楮,四郡獲賞。汝談獨蹙額,登對,首疏言:「邊面無可倚仗,乞超越拘攣,簡拔俊傑,如吳用周瑜、魯肅,晉任祖逖、陶侃故事,使之各分方面,連數十城,推轂授權,盡歸賜履。巴蜀一人,荊襄一人,兩淮各一人,一切便宜行事,不復更從中御,庶幾伸縮由己,機用出心。」蓋推廣向者備邊之策。且曰:「臣之此策,行於開禧未用兵之前,決不至罹今日之患。」其論楮法,尤中時敝,上稱歎久之,且謂:「卿文學高世,宜代予言,力辭何為?」卒以老祈免,章四上,免兼直,改侍講。數日,仍兼直學士院,五辭。權給事中,權刑部尚書,及卒,轉兩官。遺表上,又轉四官。

汝談は天資人に絶し、沈思高識にして、少より老に至るまで、一日も書冊を去ることなし。其の『易』を論ずるに、占者の為に作ると為す。『書』の『堯典』『舜典』二典は宜しく一に合すべく、禹の功は只だ河洛に施し、『洪範』は箕子の作に非ず。『詩』は『小序』を以て信と為さず。『礼記』は諸生の手より雑出し、『周礼』は宜しく女主の書に傅会すべしとす。要するに亦卓絶特立の見なり。文章を作るに天巧有り。倫誼に篤くして仇怨を忘る。御史王益祥嘗て之を劾す。後汝談其の郷に官す。益祥愧じて敢へて見ず。汝談乃ち数へて之に過ぎ、相得て歓甚だし。嘗て韓非・李斯を論議して、皆荀卿の才有りと為す。惟だ其の富貴利欲の心重きを以て、故に世得て之を賤しむ。惟だ卿独り能く其の身を守り、苟も希合せず。士何ぞ自ら重んぜざらんや。著する所に『易』『書』『詩』『論語』『孟子』『周礼』『礼記』『荀子』『莊子』『通鑑』『杜詩注』有り。

原文汝談天資絕人,沈思高識,自少至老,無一日去書冊。其論《易》,以為為占者作;書《堯》、《舜》二典宜合為一,禹功只施於河洛,《洪範》非箕子之作;《詩》不以《小序》為信;《禮記》雜出諸生之手;《周禮》宜傅會女主之書。要亦卓絕特立之見。為文章有天巧。篤於倫誼而忘仇怨,御史王益祥嘗劾之,後汝談官其鄉,益祥愧不敢見,汝談乃數過之,相得歡甚。嘗論議韓非、李斯皆有荀卿之才,惟其富貴利欲之心重,故世得而賤之,惟卿獨能守其身,不苟希合,士何可不自重哉。所著有《易》、《書》、《詩》、《論語》、《孟子》、《周禮》、《禮記》、《荀子》、《莊子》、《通鑒》、《杜詩注》。

趙汝讜

原文趙汝讜

趙汝讜は字は蹈中、少にして俶儻軼材有り、智略人上に出づ。龍泉の葉適嘗て其の家に過ぐ。汝讜年少、短後衣を衣て避くるを得ず。適之を勧めて曰く「名門の子安んぞ学ばざらんや」。汝讜慚じ、是より終身短後衣を衣ず。節を折りて書を読み、兄汝談と齊名し、天下「二趙」と称す。祖の遺恩を以て承務郎に補せられ、歴て泉州市舶務・利州大軍倉属に任ず。従臣宗室の賢者を薦む。行在右蔵西庫を監す。

原文趙汝讜,字蹈中,少俶儻有軼材,智略出人上。龍泉葉適嘗過其家,汝讜年少,衣短後衣,不得避。適勸之曰:「名門子安可不學。」汝讜慚,自是終身不衣短後衣。折節讀書,與兄汝談齊名,天下稱為「二趙」。以祖遺恩補承務郎,歷泉州市舶務、利州大軍倉屬。從臣薦宗室之賢者,監行在右藏西庫。

韓侂冑趙汝愚を逐はんと謀る。汝讜兄弟昌言して是に非ずとし、且つ上言して汝愚の冤を訟ぐ。侂冑其の詞直なるを懼れ、其の党胡紘をして再び汝愚を攻めしむ。汝讜兄弟汝愚の厚恩を受け、私に属して之が為に策を画し、天聴を惑乱すと為すを以て言と為し、斥して国を去らしむ。坐して十年を廢し、華亭浦東塩場に調じ、職を棄てて去る。浙西安撫司幕官を辟し、簽書昭慶軍節度判官に調ず。皆赴かず。前官を以て鎮東軍に改む。嘉定元年進士第に登り、太社令と為り、将作監簿・大理司農丞に遷る。史弥遠と合わず、外を請う。湖南提挙常平に改め、江西に易え、尋いで提点刑獄と為る。瑞州の大姓幸氏徐氏の田を貪りて得ること能わず、強ひて其の禾を取り、終に与えず、婢を殺すを以て誣う。徐を獄に置く。徐其の冤を訴う。汝讜反坐の法を以て幸氏を黥げい竄し、其の家を籍す。幸氏走り、中宮に告急す。汝讜を湖南に徙す。既に至れば、則ち直臣龔夬の墓を表す。瀏陽に豪民羅氏民の田を奪う有り。汝讜復た法を以て懲す。温州を知りて遷り、卒す。

原文韓侂胄謀逐趙汝愚,汝讜兄弟昌言非是,且上言訟汝愚冤。侂胄懼其詞直,使其黨胡紘再攻汝愚,以汝讜兄弟受汝愚厚恩,私屬為之畫策,惑亂天聽為言,斥使去國。坐廢十年,調華亭浦東鹽場,棄職去。辟浙西安撫司幕官,調簽書昭慶軍節度判官,皆不赴。以前官改鎮東軍。登嘉定元年進士第,為太社令,遷將作監簿、大理司農丞。與史彌遠不合,請外,改湖南提舉常平,易江西,尋提點刑獄。瑞州大姓幸氏貪徐氏田不可得,強取其禾,終不與,誣以殺婢,置徐獄。徐訴其冤,汝讜以反坐法黥竄幸氏,籍其家。幸氏走,告急於中宮,徙汝讜湖南。既至,則表直臣龔夬墓。瀏陽有豪民羅氏奪民田,汝讜復懲以法。遷知溫州,卒。

汝讜常に言う「宗子は君を忘れず、孝子は身を辱めず。難に臨めば則ち功業朱虚の如くあるべく、身を立つるは子政の如くあるべし」と。

原文汝讜常言:「宗子不忘君,孝子不辱身,臨難則功業當如朱虛,立身當如子政。」

趙希錧

原文趙希錧

趙希錧は字は君錫、旧名は希喆、慶元二年進士第に登り、改めて今の名を賜う。少くして父の喪を扶けて帰る。道寇に遇う。左右駭散す。希錧棺を拊して慟哭し懾れず。寇義として去る。陳傅良・徐誼に学ぶ。既に進士を挙げ、汀州司戸に調ず。峒寇李元礪方に起る。汀人震懼す。郡僚佐を会して城を守るを議す。希錧下坐にて一語も無し。守之を異として曰く「言わざるは得て無くや見る所有らんや」。希錧曰く「城を守るは策に非ず。城を距ること三十里に関有り、古城と曰う。若し悉く精鋭を以て其の衝を扼せば、賊慮うるに足らず」。守之を希錧に付す。人危ぶむ。希錧関に至り、形を審にし間を明かにし、令を申し候を謹み、分画粗だ定まる。賊已に諜を遣わし関を窺わしむ。希錧諜を得て之を詰む。其の火を挙げて相示すを縱し、而して師を羸して以て之を誤る。夜半、賊数百枚を銜して突き至る。希錧兵を厳して以て待つ。賊将に至らんとして、始めて矢石を倶に下すことを命ず。賊一も免るる無し。余党風を聞いて遁る。希錧引き還る。老稚羅拜して相属す。希錧他道を繇りて以て之を避く。事聞こゆ。詔して州推官を升し、疑獄を治め、滞訟を決し、下邑を摂し、乱卒を弭す。去るの日、軍民道を遮り泣送すること数十里。

原文趙希錧,字君錫,舊名希喆,登慶元二年進士第,改賜今名。少扶父喪歸,道遇寇,左右駭散,希錧拊棺慟哭不懾,寇義而去。學於陳傅良、徐誼,既舉進士,調汀州司戶。峒寇李元礪方起,汀人震懼,郡會僚佐議守城,希錧下坐無一語,守異之曰:「不言得無有所見乎?」希錧曰:「守城非策也,距城三十里有關曰古城,若悉精銳以扼其衝,賊不足慮矣。」守以付希錧,人為危之。希錧至關,審形明間,申令謹候,分畫粗定,賊已遣諜窺關。希錧得諜詰之,縱其舉火相示,而羸師以誤之。夜半,賊數百銜枚突至,希錧嚴兵以待。賊且至,始命矢石俱下,賊無一免,餘黨聞風而遁。希錧引還,老稚羅拜相屬,希錧繇他道以避之。事聞,詔升州推官,治疑獄,決滯訟,攝下邑,弭亂卒。去之日,軍民遮道泣送者數十里。

夔州路転運司帳司を主管に調ず。大寧塩井の利病を疏す。使者之を諸朝に上る。民之に便す。玉山県を知るに改む。行かず。召対す。希錧首に民力は貪吏に困り、軍力は僨帥に困り、国家の力は則ち外は帰附の卒に困り、内は浮冗の費に困ると言い、次に四蜀の銓科挙の弊を論じ、次に大寧塩井の本末を論ず。寧宗嘉納す。

原文調主管夔州路轉運司帳司,疏大寧鹽井利病,使者上諸朝,民便之。改知玉山縣,未行。召對,希錧首言民力困於貪吏,軍力困於僨帥,國家之力則外困於歸附之卒,內困於浮冗之費;次論四蜀銓科舉之弊;次論大寧鹽井本末。寧宗嘉納之。

大理寺丞を授け、大宗正丞に遷り、権工部郎官を兼ぬ。宗姓貧しき者多し。而して始めて生まるるに訓名有り、人の後たるに過礼有り。吏賕を受け藝無し。敢へて自ら陳する者莫し。希錧其の長に白して之を行わしむ。会に朝議す。燕邸の近属朝参に赴く者少なし。希錧に命じて班を易えしむ。希錧力辞す。克たず。特に吉州刺史・提挙佑神観を換授す。未だ幾ばず、廷臣言う宗姓換班の人嘗て進士を挙ぐる者、朝士を視ることを請い、輪対を聴かしむ。是に於いて希錧次対の時首に論ず「今日多事の際にして、未だ事を弁ずるの人無し。朝紳は清選なり。緘黙を以て清重と為し、刻薄を以て挙職と為し、可否無きを以て体を識ると為す。閫寄は重任なり。大言を以て志有りと為し、過を使うを以て恩を知ると為す。臣敢へて厚く天下を誣いて人無しと為さず。患ひは選択未だ其の道を得ず、器使未だ其の才に当たらずに在り」。成州団練使を授け、金帯を賜い、服繫せしむ。宝璽を以て恩を推し、和州防禦使に進む。

原文授大理寺丞,遷大宗正丞,權工部郎官。宗姓多貧,而始生有訓名,為人後有過禮,吏受賕亡藝,莫敢自陳,希錧白其長推行之。會朝議,燕邸近屬赴朝參者少,命希錧易班,希錧力辭,弗克。特換授吉州刺史、提舉佑神觀。未幾,廷臣言宗姓換班人嘗舉進士,請視朝士,聽輪對。於是希錧次對時首論:「今日多事之際,而未有辦事之人。朝紳,清選也,以緘默為清重,以刻薄為舉職,以無所可否為識體。閫寄,重任也,以大言為有志,以使過為知恩。臣非敢厚誣天下以為無人,患在選擇未得其道、器使未當其才爾。」授成州團練使,賜金帶,令服繫。以寶璽推恩,進和州防禦使。

理宗即位す。潭州観察使に進み、公族近邸を以て、恩特だ厚く加う。又た安德軍承宣使に進む。希錧引対し、言う「初政の急務、道を明かにし、治統を総べ、人心を収むるより先なるは莫し」。上為に動容す。明年を越え、祠祭蠲れず、禁衛肅ならざるを論ず。慈明宮上寿す。節度に升り、信安郡公に封ぜらる。卒す。遺奏聞こゆ。上震悼して視朝を輟み、含斂を賜い、金幣を以て贈る。

原文理宗即位,進潭州觀察使,以公族近邸,恩特加厚。又進安德軍承宣使。希錧引對,言:「初政急務,莫先於明道,總治統,收人心。」上為動容。越明年,論祠祭不蠲,禁衛不肅。慈明宮上壽,升節度,封信安郡公。卒,遺奏聞,上震悼輟視朝,賜含斂,贈以金幣。

希錧風資凝重、胸抱魁壘、人の善を揚げ、人の過を記せず、人の難を急ぎ、人の恩を忘れず。官に居り、祁寒盛暑未だ嘗て謁告せず、衣食裁足を取るのみ。追って信安郡王に封ぜらる。

原文希錧風資凝重,胸抱魁壘,揚人之善,不記人之過,急人之難,不忘人之恩。居官,祁寒盛暑未嘗謁告,衣食取裁足而已。追封信安郡王。

趙彦呐

原文趙彥呐

趙彦呐は字は敏若、彭州の人。四川類試第に登る。少より材を以て称せらる。呉曦叛く。禄禧を以て偽りて夔を守らしむ。彦呐義士を結び之を殺す。遂に名を顕す。

原文趙彥呐,字敏若,彭州人。登四川類試第。少以材稱。吳曦叛,以祿禧偽守夔,彥呐結義士殺之,遂顯名。

嘉定十二年、関外西和州新に兵を被る。制使安丙檄して經理せしむ。金人再び至る。戦いて之を卻す。因りて州北の水関を修め、民を募り耕戦して以て守らしむることを請う。又た丙を勧めて関外四州の租を尽く捐て、民兵を結びて各々守らしむ。皆行はれず。州に在ること五年、軍民の心を得、提点刑獄に転じ、尋いで沔を帥す。時誉甚だ都し。崔与之の丙に代わるに及び、始めて其の大言実無きを察し、他日事を誤る者は必ず此人なりと謂い、廟堂に請う辺藩を付する無からんことを。尋いで其の節制を奪う。

原文嘉定十二年,關外西和州新被兵,制使安丙檄使經理,金人再至,戰卻之。因請修州北水關,募民耕戰以守;又勸丙盡捐關外四州租,結民兵使各自為守。皆不行。在州五年,得軍民心,轉提點刑獄,尋帥沔,時譽甚都。及崔與之代丙,始察其大言無實,謂他日誤事省必此人,請廟堂毋付以邊藩。尋奪其節制。

寶慶元年、乃ち興元に移帥す。三年、鄭損の四州を棄てて三關に退保するに會し、彥吶力爭すれども勝たず、罷められて家に歸すること五年。紹定四年、桂如淵損に代はり、彥吶を副使より起し、更に李𡌴・黃伯固あり、皆彥吶之を副へし。端平元年、遂に正使に昇り、丞相鄭清之其の出兵を趣し、以て入洛の役に應ぜしむるも、從はず。秦・鞏の豪汪世顯久しく內附を求む。是に至り彥吶爲に力請すること數四、清之亦終に從はず。三年、金人大いに入りて三泉に至り、彥吶大いに敗れ、衡州に貶せらる。其の子洸夫用事す、亦嶺南に竄す。史嵩之之を江陵に留むること兩年、卒す。

原文寶慶元年,乃移帥興元。三年,會鄭損棄四州,退保三關,彥呐力爭不勝,罷歸家者五年。紹定四年,桂如淵代損,起彥呐於副使,更李𡌴、黃伯固,皆彥呐副之。端平元年,遂升正使,丞相鄭清之趣其出兵,以應入洛之役,不從。秦、鞏之豪汪世顯久求內附。至是彥呐為力請數四,清之亦訖不從。三年,金人大入至三泉,彥呐大敗,眨衡州,其子洸夫用事,亦竄嶺南,史嵩之留之江陵兩年,卒。

趙善湘

原文趙善湘

趙善湘、字は清臣、濮安懿王の五世孫なり。父は武翼郎不陋、高宗に從ひて江を渡り、明州に名儒多しと聞き、徙りて居す。善湘恩を以て保義郎を補し、成忠郎・監潭州南嶽廟に轉じ、忠翊郎に轉じ、又忠訓郎に轉ず。慶元二年進士に舉げられ、近屬を以て秉義郎に轉じ、承事郎に換へ、金壇縣丞を調す。五年、餘姚縣を知る。

原文趙善湘,字清臣,濮安懿王五世孫。父武翼郎不陋,從高宗渡江,聞明州多名儒,徙居焉。善湘以恩補保義郎,轉成忠郎、監潭州南嶽廟,轉忠翊郎,又轉忠訓郎。慶元二年舉進士,以近屬轉秉義郎,換承事郎,調金壇縣丞。五年,知餘姚縣。

開禧元年、婺州を通判すべく添差す。嘉定元年、茶寇を招く功を以て、都堂に赴き審察せられ、文思院を提轄す。出でて無爲軍を判し、淮南轉運判官・淮西提點刑獄を兼ぬ。四年、常州を知るに改む。八年、武夷山冲佑觀を主管す。十年、湖州を知る。十一年、內艱に丁し、明年起復し、和州を知る。三たび辭すれども命を獲ず。大宗正丞に遷り戶部郎官を權ね、秘閣を知るに改め、淮南轉運判官に轉じ、淮西提舉常平を兼ね、無爲軍を知るを兼ぬ。直徽猷閣に進み、淮南制置司公事を主管し、廬州を知るを兼ね、本路安撫を兼ね、仍て轉運判官・提舉常平を兼ぬ。

原文開禧元年,添差通判婺州。嘉定元年,以招茶寇功,赴都堂審察,提轄文思院。出判無為軍兼淮南轉運判官、淮西提點刑獄。四年,改知常州。八年,主管武夷山冲佑觀。十年,知湖州。十一年,丁內艱,明年起復,知和州,三辭不獲命。遷知大宗正丞兼權戶部郎官,改知秘閣、淮南轉運判官,兼淮西提舉常平,兼知無為軍。進直徽猷閣、主管淮南制置司公事,兼知廬州,兼本路安撫,仍兼轉運判官、提舉常平。

十三年、直寶文閣に進む。固始の寇を平ぐる功を以て、金帶を賜ひ、服繫を令むるを許す。十四年、直龍圖閣に進み、鎮江府を知る。十七年、大理少卿を拜し、右文殿修撰に進み鎮江府を知り、祥符縣男を封じ、食邑を賜ふ。寶慶二年、集英殿修撰に進み、大理卿を拜し刑部侍郎を權ね、寶章閣待制に進み沿海制置使となり建康府を知り、江東安撫使を兼ね行宮留守司公事を主管す。仙花金帶を賜ひ、子に進封し、食邑を加ふ。

原文十三年,進直寶文閣。以平固始寇功,賜金帶,許令服繫。十四年,進直龍圖閣、知鎮江府。十七年,拜大理少卿,進右文殿修撰、知鎮江府,封祥符縣男,賜食邑。寶慶二年,進集英殿修撰,拜大理卿兼權刑部侍郎,進寶章閣待制、沿海制置使兼知建康府、江東安撫使兼主管行宮留守司公事。賜仙花金帶,進封子,加食邑。

紹定元年、防江軍・寧淮軍を創り、及び楚州の畔寇劉慶福等を平ぐる功を以て、皆其の官を升し、龍圖閣待制に進み、仍て任じ、江東轉運副使を兼ぬ。三年、煥章閣直學士に進み、仍て任じ、伯に進封し、食邑を加ふ。李全の淮東を犯すを以て、煥文閣學士・江淮制置使に進み、乃ち專ら討伐を命ぜられ、便宜從事を許さる。四年、侯に進封し、食邑を加ふ。全を戮するに及び、善湘使を遣はし露布を以て上る。乃ち兵部尚書に進み、仍て兼任す。

原文紹定元年,以創防江軍、寧淮軍及平楚州畔寇劉慶福等功,皆升其官,進龍圖閣待制,仍任,兼江東轉運副使。三年,進煥章閣直學士,仍任,進封伯,加食邑。以李全犯淮東,進煥文閣學士、江淮制置使,乃命專討,許便宜從事。四年,進封侯,加食邑。及戮全,善湘遣使以露布上,乃進兵部尚書,仍兼任。

時に善湘范・葵の進取するを見、慰藉殷勤に、饋問踵を接し、請ふ有れば必ず應ず。諸子を遣はし寶應に屯して從はしむ。范・葵亦功を督府に讓り、凡そ捷を得れば、皆汝櫄等筆を握り草報す。善湘の季子汝楳は、丞相史彌遠の婿なり、故に奏報達せざる無し。閩寇を平ぐる功を以て、江淮安撫制置使に轉ず。五年、泰州・淮安州・鹽城・淮陰縣の四城を復し、及び京湖に策應する功を以て、端明殿學士に進み、執政の恩例と與にし、仍て任じ、留守に升り、食邑を加ふ。金の樞密副使納合買住の降を受くるを以て、復た盱眙軍・泗・壽二州の功を以て、資政殿學士に進み、食邑を加へ、使を遣はし手詔・金器等の物を賜ふ。九たび疏を上りて歸らんことを丐ふも、皆許さず。請ふこと愈よ力む。大學士に進み洞霄宮を提舉し、天水郡公を封じ、食邑を加ふ。監察御史善湘を劾奏す。御筆を以て善湘討逆復城の功有りとし、其の奏を寢す。

原文時善湘見范、葵進取,慰藉殷勤,饋問接踵,有請必應。遣諸子屯寶應以從,范、葵亦讓功督府,凡得捷,皆汝櫄等握筆草報。善湘季子汝楳,丞相史彌遠婿也,故奏報無不達。以平閩寇功,轉江淮安撫制置使。五年,復泰州淮安州、鹽城淮陰縣四城,及策應京湖功,進端明殿學士,與執政恩例,仍任,升留守,加食邑。以受金樞密副使納合買住降,復盱眙軍、泗、壽二州功,進資政殿學士,加食邑,遣使賜手詔、金器等物。九疏丐歸,皆不許。請愈力,進大學士、提舉洞霄宮,封天水郡公,加食邑。監察御史劾奏善湘,御筆以善湘有討逆復城之功,寢其奏。

嘉熙二年、四川宣撫使を授けられ成都府を知るを兼ぬ。未だ拜せず、沿海制置使に改め慶元府を知るを兼ぬ。即ち祠を丐ひ、紹興府を知るに改め浙東安撫使を兼ぬ。三年、兩たび休致を請ひ、四たび歸田を乞ひ、復た洞霄宮を提舉す。淳祐二年、帝手詔して其の解する所の《春秋》を求め、觀文殿學士に進み、本官を守りて致仕し、卒す。遺表聞こゆ。帝震悼し視朝を輟み、少師を贈り、賻贈を加等す。所著に《周易約說》八卷、《周易或問》四卷、《周易續問》八卷、《周易指要》四卷、《學易補過》六卷、《洪範統論》一卷、《中庸約說》一卷、《大學解》十卷、《論語大意》十卷、《孟子解》十四卷、《老子解》十卷、《春秋三傳通議》三十卷、詩詞雜著三十五卷有り。

原文嘉熙二年,授四川宣撫使兼知成都府,未拜,改沿海制置使兼知慶元府。即丐祠,改知紹興府兼浙東安撫使。三年,兩請休致,四乞歸田,復提舉洞霄宮。淳祐二年,帝手詔求所解《春秋》,進觀文殿學士,守本官致仕,卒。遺表聞,帝震悼輟視朝,贈少師,賻贈加等。所著有《周易約說》八卷,《周易或問》四卷,《周易續問》八卷,《周易指要》四卷,《學易補過》六卷,《洪範統論》一卷,《中庸約說》一卷,《大學解》十卷,《論語大意》十卷,《孟子解》十四卷,《老子解》十卷,《春秋三傳通議》三十卷,詩詞雜著三十五卷。

趙與懽

原文趙與懽

趙與懽、字は悅道、燕懿王の八世孫なり。嘉定七年進士、會稽尉を調し、建寧司戶參軍に改む。明法科に中り、浦城縣を攝す。父憂に丁し、《善慶五規》を作りて子孫に示す。喪を免れ、大理評事を授かる。轉對し、天變・民情・國威の三事を言ひ、又言ふ、「死囚は取會駁勘を以て、動もすれば歲時に涉り、類て瘐死し、而して干證者は多く逆旅に斃る。宜しく憲臣を精擇し、悉く詳覆せしむべし。果たして疑はしければ則ち親往きて鞫正し、必ず情法輕重閔む可きに始めて審奏を許すべし。」

原文趙與懽,字悅道,燕懿王八世孫。嘉定七年進士,調會稽尉,改建寧司戶參軍。中明法科,攝浦城縣。丁父憂,作《善慶五規》示子孫。免喪,授大理評事。轉對,言天變、民情、國威三事,又言:「死囚以取會駁勘,動涉歲時,類瘐死,而干證者多斃逆旅,宜精擇憲臣,悉使詳覆,果可疑則親往鞫正,必情法輕重可閔,始許審奏。」

籍田令に遷る。久しくして、宗正寺簿を拜し、軍器監・司農寺丞を歷、宗正丞に遷り都官郎官を權ね、倉部に改め、度支を權ね、直寶章閣を以て安吉州を知る。郡計は榷醋に仰ぐも、禁網峻密なり。與懽首として之を捐てて民に予ふ。銅鉦を縣門に設け、訴へんと欲する者之を撃たしむ。冤れて直さざる無し。富民幼子を訴ふる有り。之を察するに其の本心に非ざるを、姑く其の子を逮へて獄に付し、徐に之を廉るに、乃ち二兄其の父を強ひて業を析かしむるなり。與懽法を以て曉し、天理を以て開くに、皆忻然として感悟す。又嫠媼おう僅かに一子有り、亦以て不孝を告ぐ。之を郡聽に留め、日饌を給し、俾く親しく饋らしめ、晨昏禮を以てす。未だ周月せずして、母子初めの如し。二家皆畫像して之を事ふ。母に喪す。朝廷屢ひ之を起すも、可からず。議して邊を守らしめ、淮西提點刑獄を授くも、奪ふ能はず。再期し、刑部郎官を以て召さる。終禫を乞ひ、祠を奉ず。復た半載にして、乃ち朝に趨る。

原文遷籍田令。久之,拜宗正寺簿,歷軍器監、司農寺丞,遷宗正丞兼權都官郎官,改倉部,權度支,以直寶章閣知安吉州。郡計仰榷醋,禁網峻密,與懽首捐以予民。設銅鉦縣門,欲訴者擊之,冤無不直。有富民訴幼子,察之非其本心,姑逮其子付獄,徐廉之,乃二兄強其父析業。與懽曉以法,開以天理,皆忻然感悟。又嫠媼僅一子,亦以不孝告,留之郡聽,日給饌,俾親饋,晨昏以禮,未周月,母子如初。二家皆畫像事之。喪母,朝廷屢起之,不可,議使守邊,授淮西提點刑獄,弗能奪。再期,以刑部郎官召,乞終禫,奉祠,復半載,乃趨朝。

恢復退師より、又使を納るるを議す。與懽言ふ、「朝に在りて迎合し、政多門より出づ。必ず智識氣節の士を得て、中外に布列する可し。」檢正を權ね兼ぬ。宗正少卿に遷り戶部侍郎を權ね、尋いで臨安府を知り浙西安撫使を兼ぬるを兼ぬ。同詳定し、剖決明暢にして、罪する者咸く服す。郊祀の夕、大風雷有り。與懽國本未だ定まらざるを言ひ、又盜を弭ぎ本を固むるの策を陳ず。刑罰術數を以て帝に言ふ者有り。與懽言ふ、「民を導くに本有り。臣の如き天府に待罪するも、豈に遽かに能く民に及ばんや。惟だ其の真實相ひ孚れ、擾れずして待つに、數月にして庭訟彌寡し。人心本善にして、感有れば必ず從ふ。或は威を以て厲し、術を以て待つと謂ふは、本を知るの論に非ず。」且つ言ふ、「朝令夕改は、以て作新を示すに非ず。旁蹊曲徑は、以て紀綱を肅むるに非ず。」帝爲に悚然たり。又建言す、「秦の刻頌に『端平法度』の語有り。」

原文自恢復退師,又議納使,與懽言:「在朝迎合,政出多門,必得智識氣節之士,布列中外可也。」兼權檢正,遷宗正少卿兼權戶部侍郎,尋兼知臨安府、浙西安撫使,同詳定,剖決明暢,罪者咸服。郊祀之夕,大風雷,與懽言國本未定,又陳弭盜固本之策。有以刑罰術數言於帝者,與懽言:「導民有本。如臣待罪天府,豈遽能及民,惟其真實相孚,待以不擾,數月而庭訟彌寡。人心本善,有感必從。或謂厲以威、待以術者,非知本之論。」且言:「朝令夕改,非以示作新;旁蹊曲徑,非以肅紀綱。」帝為悚然。又建言:「秦刻頌有『端平法度』語。」

翌年、年号を嘉熙と改めた。襄陽・蜀の地は破壊され、ある者は風聞に従って土地を放棄した。便殿に召見され、言うには、「韓琦は仁宗朝にあってさえ、昼夜血の涙を流した。今、主上憂え、臣下辱しめられている。」そこで辺境防備の道を詳しく述べ、その多くは後に施行された。与歓は三千人を募集して忠毅軍とし、また言うには、「禁衛の空名の兵籍および京口諸郡において、ことごとく兵士を募るべきであり、郡将に統率させ、財はまず軍を養い、余りを上供すべきである。不急の費用を省くことを乞う。」文武の士四十人を推薦した。戸部侍郎に遷り、兵部尚書を兼権し、辺境の事について論じること極めて深切であった。

原文明年改元嘉熙,襄、蜀殘破,或望風棄地,召見便殿,言:「韓琦當仁宗朝,猶晝夜泣血。今主憂臣辱矣。」因具言防邊之道,其後多見施行。與懽招刺三千人為忠毅軍,又言:「禁衛虛籍及京口諸郡,悉宜募兵,統以郡將,財先贍軍,餘始上供,乞省不急之費。」薦文武士四十人。遷戶部侍郎兼權兵部尚書,論邊事至為深切。

星変があり、上章して罷免を請うた。大火があり、災変の烈しさを力説し、言うには、「臣の罪は髪を抜いても数えきれないほどであるのに、なお国を去ることを言って、少しでも上聞を悟らせようとする。天威を畏れ敬い、実徳をもって民に及ぼすことを思い、まず上躬より始め、痛く節約を加え、広く救済を推し進められることを願う。」五度にわたり流罪を請うた。ここにおいて中書の方が大琮が言うには、「与歓は平素より自ら潔く修め、財を疎んじ爵を軽んずることは、人の共に知るところである。不幸にもこれに遇い、その罪を待つ上章を見れば、懇切至到であり、その義を知ることを歎かない者はない。その請いを許し、大小の臣をして、皆咎を引くことを知らしめるべきである。」そこで一階を収められた。まもなく復職した。与歓は先に同降した官属の叙復を請い、また言うには、「艱難にして為すべからざる時にあっては、慷慨して志を励まし、深く人才と兵力のために思うべきである。」戸部尚書に遷り吏部を兼権し、累次祠官を乞うたが、許されなかった。

原文星變,上章請罷。大火,力言災變之烈,謂:「臣罪擢髮莫數,猶欲以去國為言,少悟上聽。願祗畏天威,思以實德及民,始自上躬,痛加節約,廣推振恤。」五請竄。於是中書方大琮言:「與懽素自潔修,疏財輕爵,人所共知,不幸遇此,觀其待罪之章,懇切至到,未嘗不歎其知義也。乞俞所請,使小大之臣,皆知引咎。」乃收一階。尋復之。與懽請先敘復同降官屬,又言:「艱難不可為之時,當慷慨厲志,深為人才兵力思。」遷戶部尚書兼權吏部,累丐祠,不許。

紙幣(楮幣)について論じ、嘉定以来、一を以て二と易えることにより、天下に信を失い、かつて内帑を出して収換し、屡々称提したが、価値下落はますます甚だしくなった。かつて新旧両界を併せて十年延長し、新紙幣製造を議しないよう請い、州県に損汚を理由に抑止しないよう責めたが、ここに至って遂に界限を設けず以てその疑いを絶つことを請い、その区画するところは甚だ完備していた。その後、詔して宰相に侍従に遍く諮問させたが、与歓はまた以前の説を以てこれを陳べた。端平銭を五文として通用させようとする者があったが、与歓は言うには、「開禧の時に二を以て三と当てたことがあったが、紙幣を何ら救ったか?」また曰く、「士大夫が清白に法を奉じ、謹んで扶持しなければ、たとえ一日に一法を改めても、紙幣を救うことはなく、国はその国ではなくなる。法が削がれ国が弱れば、独り富貴を享けることができようか?」常に言うには、「端平以来、贓吏を流罪にし、賄賂を禁じ、奔走競争を戒め、横暴な徴収を止めたが、風俗の沈痾は依然として変わらない。ある者は口では仁義を唱えながら身は市井にあり、概して君を欺くことを常とし、家を肥やすことを楽しみとし、遂に事に臨んで使う者に乏しく、小人が傍らから間隙に乗じて官爵を窃取するに至った。」上疏して乞うには、「邪正を別ち、怠惰を戒め、恬退質直の士を奨励任用し、以て躁競浮靡の習いを絶つこと。内廷に除授に関わる者があれば必ず斥け、暗室に誹謗議論に及ぶ者があれば必ず思い、心を清く欲を寡なくし、以て酣歌黷貨の風を革めること。その機は皆陛下より始まる。」また言うには、「軍政は弛緩し兵籍は明らかでなく、兵を総べる者は功賞に縁って嫌隙を開くことがあり、内では班行は速やかな昇進のみを求め、守牧は多く貪欲で凡庸である。紙幣の事は日々非なるものとなり、浮費冗費は節制されず、指摘陳述する日がない。」

原文論楮幣自嘉定以一易二,失信天下,嘗出內帑收換,屢稱提而折閱益甚。嘗請兩界並展十年勿議造新,責州縣毋以損汙抑沮,至是遂請不立界限以絕其疑,所以區畫者甚備。其後詔宰相遍詢侍從,與懽又以前說陳之。有欲以端平錢當五行使,與懽謂:「開禧嘗以二當三,何救於楮?」且曰:「士大夫不清白奉法,恪意扶持,雖日易一法,無救於楮,而國非其國矣。法削國弱,能獨享富貴乎?」每言「端平以來,竄贓吏,禁包苴,戒奔競,戢橫斂,而風俗沈痼自若。或口仁義而身市井,率以欺君為常,肥家為樂,遂臨事乏使,而小人得從旁乘間竊取官爵矣。」疏乞:「別邪正,警偷惰,獎用恬退質直之士,以絕躁競浮靡之習。內廷有關於除授者必斥,暗室有涉於謗議者必思,清心寡欲,以革酣歌黷貨之風,其機皆自陛下始。」又言:「軍政弛而尺籍不明,總兵者或緣功賞開嫌隙,內則班行惟求速化,守牧類多貪庸,楮事日非,浮冗不節,指陳無虛日。」

大風・震雷が屡々見られたため、辺境の事を詳しく陳べ、かつ言うには、「人才・国用・民力・兵威について、この機に乗じ、根本に意を加え、ただ除授に精神を困らせ、行移に歳月を老いさせ、公道を私情に委ね、事功を无可奈何に付すことなきを願う。」吏部尚書に遷る。講筵において言うには、「慈雨降らず、星変頻りに仍く。在京では物価騰踊し、民は訛言し士は騒ぐ。在外では兵権渙散し、流民充斥す。元老を登崇し、宰輔を並建したのは、その風采振揚すべき謂いであるが、事勢なおこの若きは、士大夫必ずしも天下の責を任ぜず、天下必ずしも陛下の志を知らざるなり。」力めて帰田を求め、潮汐が堤防を齧るに会い、執政が帝の意を伝えて留め治めさせた。手詔に云う、「忠正廉勤、卿の如きはなし。」端明殿学士・知臨安府・浙西安撫使を授かる。江堤が竣功し、獄が空となり、力めて罷免を乞うた。旧のまま端明殿学士、万寿観提挙となる。戸部財用提領兼侍読兼修国史・実録院修撰を拝命。奉朝請し、関を出て、使者を遣わして還らせようとした。

原文大風震雷數見,因具陳邊事,且言:「人才國用,民力兵威,願乘此機,加意根本,勿徒困精神於除授,老歲月於行移,委公道於私情,付事功於無可奈何也。」遷吏部尚書。講筵言:「膏雨不降,星變頻仍。在京物價騰踴,民譌士噪;在外兵權渙散,流民充斥。登崇元老,並建宰輔,謂宜風采振揚,而事勢猶若此,士大夫未必任天下之責,天下未必知陛下之志。」力求歸田,會潮汐齧堤,執政道帝意留治之,手詔云:「忠正廉勤,無如卿者。」授端明殿學士、知臨安府、浙西安撫使。江隄竣事,獄空,力丐罷。依舊端明殿學士,提舉萬壽觀。提領戶部財用兼侍讀兼修國史、實錄院修撰。奉朝請,出關,遣使趣還。

飢民が相携えて溺死するに会い、帝はなお臨安府の事を付せられ、恩例は執政に準じた。与歓は涕泣して詔を奉じ、急ぎ榜示して諭して曰く、「今、奏上して救済を求めている。しばらく死を忍び各々性命を全うし、聖恩を浴するを待つべし。」都人は互いに死ぬなと言い合った。与歓は上では公朝に哀願を祈り、下では誠を推して分け与えるよう勧め、慈雨随いて至り、米商来り集い、流移して来る者を以て済すことができた。力めて禄を納めることを求め、資政殿学士・万寿観提挙兼侍読・監修国史・実録院修撰を授かる。奉朝請し、与歓が浙江に至ると、上は召還し、即日江を渡り去った。帝はこれを悵然とした。与歓は三度府尹となり、民事に尽力し、都人は「趙端明」と呼び、必ず手を額に加えて「趙仏子」と言った。

原文會饑民相攜溺死,帝仍付臨安府事,恩例視執政。與懽涕泣奉詔,亟榜諭曰:「今申奏振救,宜忍死須臾各全性命,佇沐聖恩。」都人相謂毋死。與懽上則祈哀公朝,下則推誠勸分,甘雨隨至,米商來集,流移至者有以濟之。力求納祿,授資政殿學士、提舉萬壽觀兼侍讀、監修國史、實錄院修撰。奉朝請,與懽至浙江,上召還,即日絕江去,帝為悵然。與懽三為府尹,盡力民事,都人稱「趙端明」,必以手加額曰「趙佛子」也。

久しくして、旧職を以て温州知事となり、政事は必ず自ら行い、吏は敢えて欺かず、水砦を創設し、貢院を修築した。侍読として召されたが、辞し、許されず。入対し、爵禄の濫りを言い、国本の事に及んだ。五度帰ることを乞うたが、また許されず。『春秋解』を進め、大学士に昇進し、士六十人を推薦した。史嵩之が再び宰相に入らんとし、人言止まず、帝は与歓に問うた。言うには、「嵩之は師老し財を費やし、私昵は貪り富み、過って名誉を立てる。必ず復用すべからず。」時に嵩之の猶子の璟卿がその過ちを誦言して忽ち斃れ、杜範・劉漢弼・徐元傑の三賢が暴死したため、人皆嵩之が毒を致したと疑った。与歓は漢弼・元傑の家を優しく恤うることを請い、帝はこれに従ったが、優恤の手詔は、与歓が起草して入れたものである。

原文久之,以舊職知溫州,政事必親,吏不敢欺,創水砦,修貢院。以侍讀召,辭,不許。入對,言爵祿之濫,因及國本事。五丐歸,又不許。進《春秋解》,升大學士,薦士六十人。史嵩之將復入相,而人言不已,帝以問與懽。言:「嵩之老師費財,私昵貪富,過立名譽,必不宜復用。」時嵩之猶子璟卿誦言其過忽斃,而杜範、劉漢弼、徐元傑三賢暴死,人皆疑嵩之致毒。與懽請優恤漢弼、元傑家,帝從之,而優恤手詔,則與懽所擬入也。

また兵権と財用を輔臣に分任させることを請うた。講筵において言うには、「壊れた病症を庸医に付せば、僅かに残息を支えるのみで、巧みな心を徒らに運ぶだけで、天下の事、尚た再び誤りに堪えようか?」時の宰相はこれを忌んだ。まもなく安德軍節度使・開府儀同三司・万寿観使を授かる。日食があり、詔に応じて事を言うこと益々切直であった。月ごとに内帑を賜うたが、与歓は辞して受け取らなかった。帝は「安貧楽道、植節秉忠」の字を書いて賜うた。皇太子の冊立が未定であったため、これを重ねて言い、また言うには、「人才使うに乏しく、贓吏悔い改めず、民は昔は南に流れ、今は北に流れ、盗賊は昔は遠くに伏し、今は近くに伏す。体認真実ならず、賢否区別なく、国は誰と与に立たんとするか?一代の儲君を富ませ、小人の間隙に投ずる余地なくし、以て隠伏の禍を絶つことを願う。」帝は顔色を改めた。

原文又請以兵財分任輔臣。在講筵言:「以壞證付庸醫,僅支殘息,徒運巧心,天下事尚堪再誤耶?」時相忌之。尋授安德軍節度使、開府儀同三司、萬壽觀使。日食,應詔言事益切。月賜內帑,與懽辭不取。帝書「安貧樂道,植節秉忠」字賜之。建儲未定,乃申言之,又言:「人才乏使,贓吏不悛,民昔流而南,今流而北,盜昔伏於遠,今伏於近,體認不真,賢否無別,國將誰與立邪?願富一代之儲,使小人無間可投,以絕隱伏之禍。」帝為改容。

袁士・宋斌は若くして黄𠏉・李燔に従い朱熹の門に登り、学禁厳しく、羈旅困沮し、年八十に近かった。与歓はこれを招き、父の行いとして事え、旌礼布衣の故事を用いるよう奏請し、死しては西湖上に葬り、歳一祭することを求めた。帝が二諫臣を追放したとき、与歓は力を争った。五度朝請を免じることを乞い、三度致仕を乞うたが、俱に許されず、『泰卦詩』・『忠邪辨』を賜うた。この後、国事について皆縷々として言い、書き尽くせないほどであった。その君を愛し国を憂うるは、天性に本づくものである。少傅を拝し、卒す。遺表においてなお規正を忘れなかった。帝は震悼して朝を輟み、賻贈を加え、有司に葬儀を行わせるよう詔し、少師を贈り、奉化郡王を追封し、諡して「清敏」とし、累贈して太師とした。

原文袁士、宋斌少從黃𠏉、李燔登朱熹之門,學禁方嚴,羈旅困沮,年且八十,與懽延之,事以父行,奏乞用旌禮布衣故事,死葬西湖上,歲一祭焉。帝逐二諫臣,與懽力爭之。五乞免朝請,三乞致仕,俱不允,賜《泰卦詩》、《忠邪辨》。自是,國事皆縷縷言之,有不勝書,蓋其愛君憂國,本諸天性。拜少傅,卒,遺表猶不忘規正。帝震悼輟朝,賻贈有加,詔有司治葬,贈少師,追封奉化郡王,諡「清敏」,累贈太師。

自ら『六経』及び『仁皇訓典詳釈』に注を加え、また『高宗宝訓要釈』・奏議・詩文百巻がある。与歓は嘗て言うには、「士大夫に貪婪の名声があれば、たとえ奇才奥学あろうとも、徒らに国を蠹し民を害するのみである。」故に斂の夕べ、金帯はなお民家に質入れされていたという。

原文手注《六經》及《仁皇訓典詳釋》,又有《高宗寶訓要釋》、奏議、詩文百卷。與懽嘗謂:「士大夫有貪聲,則雖奇才奧學,徒以蠹國害民爾。」故斂之夕,而金帶猶質錢民家云。

趙必愿

原文趙必愿

趙必愿は、字を立夫といい、広西経略安撫使趙崇憲の子である。弱冠に至らぬうちに祖母の喪に遭い、哀哭して骨立した。喪が明けると、祖父趙汝愚の遺表により、承務郎に補せられた。

原文趙必愿,字立夫,廣西經略安撫崇憲之子也。未弱冠,丁大母憂,哀毀骨立。服闋,以大父汝愚遺表,補承務郎。

開禧元年、選を経て平江府糧料院を監し、常熟県丞に転じた。嘉定七年に進士に挙げられ、崇安県知県となり、裁決は流れる如くで、吏らは困らせることができなかった。学政を整え、租税徴収法を定め、戸籍名を三等に分け、三回の期限を約束とし、足りる者は表彰し、未だ足りぬ者は寛容に督促し、期限を過ぎて納めぬ者は里胥に監督させたので、民は皆感激して喜んで納めた。胥吏の塩売買の弊害を改めた。独断で光化の社倉を開いて飢民を救い、安撫使は怒り、吏を捕らえて懲らしめようとしたが、必愿は言った、「民を養うのは職務である、吏に何の罪があろうか」と。荷物をまとめて譴責を待ったので、安撫使は詰問できずにやめた。旧来の均恵倉には蓄えがなかったので、必愿は銭を出して買い増し、二千石に至った。義役の法を力説し、郷里で善士を選び、戸等査定を担当させ、資金を出して田を買い役を助けさせると、資産家を励まし、感化された者が自らの田を出して率先したので、遂に一県に広く行き渡り、上下ともに便利とした。監司・府がこれを聞き上げ、その方式を八郡四十八県に下した。任期が満ちると、民は共に祠を建て石碑を刻んだ。

原文開禧元年,銓監平江府糧料院,調常熟丞。嘉定七年舉進士,知崇安縣,剖判如流,吏不能困。修學政,立催科法,列戶名為三等,以三期為約,足者旌之,未足者寬以趣之,逾期不納者里胥程督之,民皆感懌願輸。革胥吏鬻鹽之弊。擅發光化社倉活饑民,帥怒,逮吏欲懲之,必愿曰:「芻牧,職也,吏何罪。」束擔俟譴,帥無以詰而止。舊有均惠倉,無所儲,必愿捐緡錢增糴,至二千石。力主義役之法,鄉選善士,任以推排,入資買田助役,則勉有產之家,有感化者,出己田以倡,遂遍行一邑,上下便之。臺府以聞,下其式八郡四十八縣。秩滿,民共立祠刻石。

湖広総領所幹辦公事に任ぜられた。父の喪に遭い、喪に服する礼を尽くし、黄𠏉に書を送って学問を問うた。喪が明けると、差遣で両浙運転司主管文字を充てられた。再考の後、特差で提領安辺所主管文字を充てられた。差遣で全州知州となり、陛辞の際、道州・江州に周惇頤の子孫を訪ねるよう奏上して請うた。常州知州となり、処州知州に改め、折帛銭を銀で納める害悪を陳述し、いずれも聞き届けられた。泉州に移り、白土の課税を廃し、吏を差し遣わして鉄を専売することを免じ、諸県に義役を行うよう勧めた。秋の旱魃に際し、荒政の実施を力説し、永儲・広儲両倉の米を撥出して救済するよう請うた。主管官告院に差遣された。五日を経ず、詔により旧例のごとく主管官告院を兼ねて台州知州となり、一貫して祖父の政事に従い、民の苦しみを察し、疲弊した民を慰撫し、養済院を修築し、陳瓘の祠を建て、政事と教化を共に挙げた。

原文授湖廣總所幹辦公事。丁父憂,居喪盡禮,貽書問學於黃𠏉。服除,差充兩浙運司主管文字。再考,特差充提領安邊所主管文字。差知全州,陛辭,奏乞下道、江二州訪周惇頤之後。知常州,改知處州,陳折帛納銀之害,皆得請。移泉州,罷白土課及免差吏榷鐵,諷諸邑行義役。秋旱,力講行荒政,乞撥永儲、廣儲二倉米振救。差主管官告院。越五日,詔依舊主管官告院兼知台州,一循大父之政,察民疾苦,撫摩凋瘵,修養濟院,建陳瓘祠,政教兼舉。

端平元年、直秘閣を以て婺州知州となった。州に至ると、紹定六年分の小戸の綾羅銭三万貫余りの徴収を免除した。淳良・頑慢の二つの籍簿を立て、民戸を勧善懲悪した。広恵倉及び諸倉の穀物蓄積を措置した。内蔵庫の綾羅の上納を寛減するよう奏上し、省に申し立てて旧例の使用を免じ、諸色の窠名銭の前納を止め、開化の税場を廃止した。太府寺丞に遷り、まもなく度支郎中に遷った。趙汝愚を寧宗の配享とする詔は、必愿の請いに従ったものである。右司郎中を兼ね、引見され、疏を上奏して言った。

原文端平元年,以直祕閣知婺州。至郡,免催紹定六年分小戶綾羅錢三萬緡有奇。立淳良、頑慢二籍,勸懲人戶。措置廣惠倉及諸倉積穀。奏乞寬減內帑綾羅,申省免用舊例,預解諸色窠名錢,罷開化稅場。遷太府寺丞,尋遷度支郎中。詔以汝愚配享寧宗,從必愿請也。兼右司郎中,引見,疏言:

「陛下は英明に密かに運営され、独断で裁決なさる、確かに一切を転換しようとされている。しかしながら大権が我に在るとしても、あるいはなお下に移る疑いがあり、衆正の道が既に開かれているとしても、あるいはなお傍らの道の疑いがある。二相を策免されたのは、天変を消すためであるが、去った者は固より再び留まることは難く、留まった者は恐らく終に去ることになろう。宰相の席を虚しくして故老を待つのは、疑う者はあるいはその必ずしも来らぬことを思い、まして数千里の外におられる。次補を責めて大政を任せるのは、疑う者はあるいはその敢えて専断せぬことを思い、ましてその位に安んじていない。中書は政事の根本である。今は果たしていかなる時か、なお曖昧な意向をもって天下の疑いを啓くことができようか。親しく台諫を抜擢されるのは、言路を開くためであるが、用いて未だ久しくない者を、何故軽々しく替えるのか。去って未だ幾ばくもない者を、何故再び呼び戻すのか。外任から召される者は、果たして用いられ必ず堅固にされるか知れず、任命文書が周行する者は、果たして聞き入れられて憚るところがないか知れぬ。

原文「陛下英明密運,斷出於獨,固欲一切轉移之。然而大權若在我,或者猶有下移之疑;眾正若已開,或者猶有旁徑之疑。策免二相,銷天變也,去者固難以復留,留者恐終於引去。虛鼎席以待故老,疑者或意其未必來,而況在數千里之外;責次補以任大政,疑者或意其不敢專,而況於不安其位。中書,政之本也。今果何時,尚可含糊意向以啟天下之疑乎?親擢臺諫,開言路也,用之未久者,何為輕於易去?去之未幾,何為使之復來?召於外服者,不知果能用之而必堅;除目周行者,不知果能聽之而無諱乎?

朝廷の任官、軍国の賞罰は、本来至って公平である。今、姓名が廟堂に達しないうちに、昇進が突然中から出たり、三衙を斥逐しても、終に罪状を指名せず、人は始めて陛下を疑うことができるようになった。一つの任官文書の発布、一つの号令の発出は、必ずしも宦官によるものではないが、人はあるいは宦官によるのではないかと疑い、必ずしも私的な請託によるものではないが、人はあるいは私的な請託によるのではないかと疑い、必ずしも外戚や宗室の邸宅によるものではないが、人はあるいは外戚や宗室の邸宅によるのではないかと疑う。天下は祖宗の天下であって、陛下が私的に所有されるものではない。陛下には弊害を除くお心があっても、動くたびに疑わしい跡に及べば、陛下もまた何を楽しまれるというのか。」

原文朝廷除授,軍國賞罰,本至公也,今有姓名未達於廟堂,而遷擢忽由於中出,斥逐三衙,竟不指名罪狀,而人始得以疑陛下矣。一除目之頒,一號令之出,雖未必由於閹宦,而人或疑於閹宦;雖未必由於私謁,而人或疑於私謁;雖未必由於戚畹宗邸,而人或疑於戚畹宗邸。夫天下者,祖宗之天下也,非陛下所私有也,陛下雖有去弊之心,而動涉可疑之跡,陛下亦何樂於此。」

当時の議論はこれを偉とした。

原文時論偉之。

三京の兵が敗れ、辺境の事態が甚だ急迫したので、詔して守禦の計を条上せよとあり、必愿は十事を言った。哀痛の詔を下すこと、江淮の兵を合わせること、江陵の急を救うこと、財用の適宜を節すること、和議の使者を繋ぎとめること、帰る所なき民を撫すること、北から来る衆を処すること、鎮撫使を置くこと、帥閫の代わりを選ぶこと、未だ用いられざる将を抜擢すること、いずれも辺境の要務に切実であった。政府が紙幣の日々軽くなることを議し、諸州に再び印を用いさせ、その他称提の法を行おうとしたが、必愿は強く争って不可とした。嘉熙元年、政府に書を送り、辺防の事について論じ、右司郎中に任ぜられた。

原文三京兵敗,邊事甚亟,詔條上守禦計,必愿言十事:下哀痛之詔,合江淮之兵,救江陵之急,節財用之宜,縻議和之使,撫無歸之民,處北來之眾,置鎮撫之使,擇帥閫之代,拔未用之將,皆切於邊要。政府議楮幣日輕,欲令諸州再用印及他為稱提之法,必愿力爭不可。嘉熙元年,貽書政府,論邊防事宜,授右司郎中。

火災があり、必愿は詔に応じて封事を上奏し、言った、「辺境を開いて禍を醸した刑罰は、牽制されて行われず、変を激して城を棄てた誅戮は、姑息にして行われない。京・襄は陥没し、祖宗の基業を保つことができず、淮・蜀は蹂躙され、民衆の冤魂は依る所がない。田畝調査の命令が下され、さらに抑配が加わり、称提の法が厳しく、さらに告発が重ねられる。民に蓄えがなく、常に溝に転落する憂いがあり、士は飽くに及ばず、常に乱を思う志がある。」また言った、「台諫・給舎の骨鯁の論は容れられず、左右の便嬖の讒言は入り易い。春夏の常享は、原廟の尊厳を疎略にし、節鉞の隆恩は、邸第の貴きに殷勤である。」また言った、「必ずや故相が国政を専断した罪を正し、貪夫が国に殉ずる誅罰を厳しくし、家屋の鬼が高明に見下ろすことを思え。まず編氓を先にし、後で親貴とし、木妖が競って治める争いを去り、堅固を尚び、奢華を改め、宴殿の度を越した宴飲を戒め、内庭の不急の営繕を節せよ。」また済王及び国本の事について論じた。

原文火災,必愿應詔上封事,曰:「開邊稔禍之刑,牽制而未行;激變棄城之戮,姑息而未舉。京、襄淪沒,祖宗之基業莫能保;淮、蜀蹂躪,赤子之冤魂無所依。履畝之令下而加以抑配,稱提之法嚴而重以告訐。民無蓋藏,每有轉壑之憂;士不宿飽,常有思亂之志。」又曰:「臺諫、給舍骨鯁之論莫容;左右便嬖浸潤之言易入。春夏常享,闊略於原廟之尊;節鉞隆恩,殷勤於邸第之貴。」又曰:「必也正故相專國之罪,嚴貪夫徇國之誅,思室鬼高明之瞰。先編氓,後親貴,去木妖競治之釁;尚堅固,革奢華,戒宴殿無度之宴酣,節內庭不急之營繕。」又論濟王及國本事。

左司郎中に遷り、また司農少卿を兼ね左司を兼ねた。転対し、言った、「正気は日々消え月々沮え、次第に今日に至り、ただ搢紳が事を論じようとしないのみならず、下って草茅の士に至るまで、皆舌を結んでいる。端平初年、重い病が去り、新たな病は未だ起こらず、陛下はなお諮問に勤め、及ばぬことを恐れられた。今、病は心腹を攻め、決裂して潰えんとしているのに、眩暈を起こすような激しい薬を求めずしてその危殆を起こさぬとは、甚だ惑わしい。」また言った、「人臣に指弾を以て疑われることなからしめ、陛下に厭言を以て謗られることなからしめよ。」当時、直士が相次いで去ったので、必愿はこれに言及したのである。敕令所刪修官を兼ね、司農卿に拝され、兼職は元の如し。翌日、宗正少卿に改め、なお刪修敕令及び国史編修実録検討を兼ね、まもなく左司を兼ね、太府卿に遷り、なお編修・検討を兼ね、宗正少卿に遷った。詔して旧例のごとく太府卿とし、なお兼職のままとし、かつ中書門下検正諸房公事を兼ねた。転対し、言った、「中才の庸主は、ただその知覚することがないが故に、言が入らず、敗亡がそれに随う。陛下は敬天の図を作り、朝夕に対越される、天意は回らしめ得るべきであるというに、しかるに熒惑が度を失い、鬱攸が災を煽り、禁門に迫近し、ほとんど左蔵を焼き尽くさんとした。煙埃がようやく収まり、白昼に隕星があり、日を貫く虹、陽を脅かす雹が、重なって現れ層を成して出る。陛下は時を観て変を察せられるが、何によってこれが起こるのか。今日の事は、動くに良策なく、ただ身を側めて行いを修め、天に祈って命を永くするのみである。」起居舎人に遷り、兼職は元の如し。

原文遷左司郎中,又遷司農少卿兼左司。轉對,言:「正氣日消月沮,馴至今日,非惟搢紳不肯論事,下至草茅之士,皆結舌矣。端平初年,沉屙方去,新病未作,陛下猶勤於咨訪,如恐不及。今疾攻心腹,決裂將潰,乃不求瞑眩之劑以起其殆,甚可惑也。」又曰:「毋使人臣以指斥懷疑,毋致陛下以厭言得謗。」時直士相繼去,故必愿及之。兼敕令所刪修官,拜司農卿,兼職如故。翼日,改宗正少卿,仍兼刪修敕令兼國史編修實錄檢討,尋兼左司,遷太府卿,仍兼編修、檢討,遷宗正少卿。詔依舊太府卿,仍兼職,且兼中書門下檢正諸房公事。轉對,言:「中才庸主,惟其無所知覺,故言不可入,而敗亡隨之。陛下作敬天之圖,朝夕對越,謂宜天意可回,而熒惑失度,鬱攸煽災,迫近禁門,幾燬左藏。煙埃方息,白晝隕星,貫日之虹,脅陽之雹,疊見層出。陛下觀時察變,何由致此?今日之事,動無良策,惟在側身修行,祈天永命而已。」遷起居舍人,兼職仍舊。

大水が起こり、上封事して曰く、「海潮が堤防を毀ち、禁城に迫る。災異の来るは、理虚しからず、必ず上は天戒を畏れ、下は人事を修め、沴を易えて和を召し、転移は陛下の方寸の間に在り」と。又曰く、「『周官』に国に大事有れば、則ち大詢の理を挙ぐと。今日の事は迫れり、謂う宜しく衆謀を合わし、君策を屈し、上は縉紳より、下は芻蕘に至るまで、各々所見を陳べ、其の用うべき策を択び、以て事を任ずる臣に授け、庶幾くは千慮一得、以て天下の人因らざるの意を成すべし」と。暫く右郎官を兼権す。言う、「財は天雨鬼輸に非ず、豈に軽く施し妄りに用うべけんや。此のまま長く已まずば、必ず顛覆に至り、異時に或いは罪を得ん。今の大夫は能く国の為に財を生ぜず、程異・皇甫鏄の徒間を乗じて捷出し、推敲克剝し、以て術相勝ち、鑿空取辦し、以て計巧みに取り、事掊斂し、羨餘を献じ、間架緡錢の令下りて、唐の祚愈促し。願わくは陛下精思熟慮し、己を約して民を愛し、必ずや勾践の臥薪嘗膽の如く、必ずや衛文公の帛衣布冠の如くせられよ」と。吏部右侍郎を権じ、兼ねる檢正を免ぜんことを乞う。之に従う。国史修撰を兼ぬ。

原文大水,上封事曰:「海潮毀隘,侵迫禁城,災異之來,理不虛發,必上畏天戒,下修人事,易沴召和,轉移於陛下方寸間耳。」又曰:「《周官》國有大事,則舉大詢之理。今日之事迫矣,謂宜合眾謀,屈君策,上而搢紳,下而芻蕘,各陳所見,擇其可用之策,以授任事之臣,庶幾千慮一得,以成天下人不因之意。」暫兼權右郎官。言:「財非天雨鬼輸,豈可輕施妄用。長此不已,必至顛覆,異時或得罪。今之大夫不能為國生財,程異、皇甫鏄之徒乘間捷出,推敲克剝,以術相勝,鑿空取辦,以計巧取,事掊斂,獻羨餘,間架緡錢之令下,而唐祚愈促矣。願陛下精思熟慮,約己愛民,必如勾踐之臥薪嚐膽,必如衛文公之帛衣布冠可也。」權吏部右侍郎,乞免兼檢正,從之。兼國史修撰。

時に邊事急なり、必愿詔に応じて言う、「宜しく彭大雅を敕して重慶より王青の兵を領して東下し、以て夔を復せしめ、李安民及び歸・峽の二守を責めて以て自ら效わしめ、一将を調べて中流の師を督し、以て其の順流の謀を伐ち、一将を調べて間道より鼎・澧の後に出でしめ、以て其の搗虚の鋒を折り、一将を調べて芮興の勢を助けしめ、以て江陵の急を備うべし。又た宜しく湖南に下し、飛軍及び團結民兵の類を遣わして沅江・益陽江を守らしめ、以て長沙に衝突するを防ぎ、江上の民船を尽く収め、敵の用に資すこと毋からしむべし」と。区画皆事機に中る。暫く侍左侍郎を兼権す。李宗勉毎に其の平允を称す。暫く戸部侍郎を兼権し、同詳定敕令を兼ぬ。国本を立てんことを請い、親しく雨を祷らんことを請う。戸部侍郎に遷り、暫く給事中を兼ぬ。

原文時邊事急,必愿應詔言:「宜敕彭大雅自重慶領王青之兵東下以復夔,責李安民及歸、峽二守以自效,調一將督中流之師,以伐其順流之謀,調一將自間道出鼎、澧之後,以折其搗虛之鋒,調一將助芮興之勢,以備江陵之急。又宜下湖南遣飛軍及團結民兵之類守沅江、益陽江,以防衝突長沙,盡收江上民船,毋資敵用。」區畫皆中事機。暫兼權侍左侍郎。李宗勉每稱其平允。暫兼權戶部侍郎,兼同詳定敕令。請立國本,請親禱雨。遷戶部侍郎,暫兼給事中。

先に、錢相常に陳洵益の節使贈官を繳して行わず、必愿復た繳奏して曰く、「李韶向に殿中侍御史たりし時、洵益を疏論し、外祠を予うるを乞い、以て窺伺を絶たんとす。陛下其の言を行わず、復た其の職を奪う。韶自ら安んぜず、径に外補を求む。今召すも至らず、正に此の故なり。若し洵益を超贈し、又た繳駁して行わずんば、韶愈来期無からん。陛下一の賢なる従官を去るに忍びて、一の已に死せる内侍を沮むに忍びざるは、則ち何を以て治功を興起し、国勢を振揚せん。洵益の節鉞を寝め、韶を趣して職に供せしめんことを望む」と。ここに於て必愿三たび疾を以て祠を乞う。許さず。

原文先是,錢相常繳陳洵益贈節使不行,必愿復繳奏曰:「李韶向為殿中侍御史,疏論洵益,乞予外祠,以絕窺伺,陛下不行其言,復奪其職,韶不能自安,徑求外補。今召之不至,正以此故。若超贈洵益,又繳駁不行,韶愈無來期矣。陛下忍於去一賢從官,而不忍於沮一已死之內侍,則何以興起治功,振揚國勢?欲望寢洵益節鉞,趣韶供職。」於是必愿三以疾乞祠,不許。

戸部尚書を権じ、疏を上りて言う、「端平元年、洛師軽く出づ。明年、德安失う、襄陽失う。又明年、固始失う、定遠失う、六安失う、郢・復・荊門失う、蜀道蹂躙せられ、成都破る。又明年、夔・峽徙り、浮光降る。又明年、滁陽殲さる。二年を越えて、寿春棄つ。明年、真陽擾わされ、安豐危うく、成都遺燼、孑遺有ること靡し」と。又曰く、「去冬安豐危うくして復た安んずるは、特天幸のみ。君臣動色し、太平自ら賀す。雷は雪宴の先期に作り、蜀警は大宴の朌命に在り、戒心一たび弛めば、赫鑒已に之に随う」と。又た太府丞を諭し、戸部の收支数目を覈せしめ、庶幾くは多寡盈虚の実を見、余有れば則ち之を儲えて以て朝廷の取撥を待ち、闕有れば則ち之を助けて以て宮府の一体を示さんことを乞う。二疏丞相史嵩之に迕い、官を免ぜんこと、祠を乞うことを乞う。皆許さず。司諫鄭起潜の論列を以て、宝謨閣直学士を以て祠に奉ず。職名を辞す。許さず。淳祐五年、華文閣直学士を以て福州を知り、福建安撫使と為る。三たび辞す。許さず。閩人必愿の至るを聞き、欣然として歎羨す。

原文權戶部尚書,疏言:「端平元年,洛師輕出。明年,德安失,襄陽失。又明年,固始失,定遠失,六安失,郢、復、荊門失,蜀道蹂,成都破。又明年,夔、峽徙,浮光降。又明年,滁陽殲。越二年,壽春棄。明年,真陽擾,安豐危,成都遺燼,靡有孑遺。」又曰:「去冬安豐危而復安,特天幸爾。君臣動色,太平自賀。雷作於雪宴之先期,蜀警於大宴之朌命,戒心一弛,赫鑒已隨之矣。」又乞諭太府丞,覈戶部收支數目,庶見多寡盈虛之實,有餘則儲之以待朝廷之取撥,闕則助之以示宮府之一體。二疏迕丞相史嵩之,乞免官、乞祠,皆不許。以司諫鄭起潛論列,以寶謨閣直學士奉祠;辭職名,不許。淳祐五年,以華文閣直學士知福州、福建安撫使,三辭,不許。閩人聞必愿至,欣然歎羨。

必愿平易を以て民に近く、忠信を以て俗を厚くし、惻怛を以て政を勤め、郷飲酒を行い、退士を旌し、高年を奨め、僧寺実封の数を裁く。尤も武事に留意し、甫く境に入るや、即ち軍礼を以て戎帥に見え、左翼軍節制の事宜を申明し、海道修水を措置し、士卒を教士て知らしむるに勸む。官に居ること四年、累ねて帰らんことを乞い、及び召命有るや、又た三たび辞す。皆許さず。卒す。遺表上る。銀青光禄大夫を贈らる。

原文必愿平易以近民,忠信以厚俗,惻怛以勤政,行鄉飲酒,旌退士,獎高年,裁僧寺實封之數。尤留意武事,甫入境,即以軍禮見戎帥,申明左翼軍節制事宜,措置海道修水,教士卒知勸。居官四年,累乞歸,及命召,又三辭,皆不許。卒,遺表上,贈銀青光祿大夫。

必愿才周く器博く、心平かに量広く、而して又た蚤く家庭忠孝の訓、師友正大の言を聞く。故に立つ所卓然として称す可し。

原文必愿才周器博,心平量廣,而又蚤聞家庭忠孝之訓、師友正大之言,故所立卓然可稱云。

論じて曰く、宋の公族は、往々にして亦た科第より顕用せられ、各々能く術業を以て自ら見る。汝談・汝讜・希錧是れなり。彥呐邊を帥いて功を墮すは、亦た廟算の短きに由る。善湘父子大盗を平ぐるに克つ。與懽は長者を以て称せらる。必愿世其の美を濟す。信厚の公子と謂う可し。

原文論曰:宋之公族,往往亦由科第顯用,各能以術業自見,汝談、汝讜、希錧是已。彥呐帥邊而墮功,亦由廟算之短。善湘父子克平大盜。與懽以長者稱。必愿世濟其美,可謂信厚之公子矣。