宋史

列傳第一百七十  湯璹 蔣重珍 牟子才 朱貔孫 歐陽守道

湯璹

湯璹、字は君保、瀏陽の人なり。淳熙十四年進士に及第し、徳安府学教授に調せられ、三省枢密院架閣に転じ、国子博士に遷る。

時に朱熹を召して侍講と為すも、未幾にして辞して帰らんと請ふ。朝廷其の請に従ひ、祠を予ふ。璹上疏して言ふ、「熹は正学を以て講官と為し、四方顒望す。其の啓沃の益有らんや。曾て時を踰へずして、輙ち其の去るを聴かば、必ずや物論を駭かさん。宜しく熹を追召して還し、仍へて講職を授くべし」と。疏上るも報ひず。是より権相の意に浸く悪まれ、而して璹の直声も亦た大いに時に聞こゆ。礼部・駕部の二郎官を歴て、出でて常州を知り、入りて大理少卿と為り、直徽猷閣に進み、卒す。

璹は直槩を負ひ、韓侂胄・陳自強と合はず。故に屢び言者を嗾して中傷せしむ。璹生平、祠を奉じて閒居する日、揚歴に多し。其の礼曹に在りし時、例に三省の奏記を掌る。臨安大火し、寧宗災に遇ひ、正殿を避く。中書三表を上して復するを請ふも、許さず。璹属辞するに、務めて大體を持ちて、阿曲を為さず。言者其の語の上に涉りて訕るを摭ふも、朝廷実に其の他無きを知る。故に起復の制詞に「清風峻節」の語有り。璹嘗て壻を択ぶに、蔣重珍を得たり。後に進士第一に挙がる。

蔣重珍

蔣重珍、字は良貴、無錫の人なり。嘉定十六年進士第一、建康軍簽判に任ず。母憂に服し、昭慶軍に改む。尋いで公事を以て、部使者と議を異にし、祠を請ひ、簽判奉国軍に易ふ。紹定二年、召されて入対す。首に天子より庶人に至るまで当に先知るべき者は、本心・外物の二者の界限を言と為す。界限明らかなれば、則ち天下の治乱有るを知るのみ。何ぞ其の尊きを楽しまん。生民の休戚有るを知るのみ。何ぞ其の奉ずるを楽しまん。且つ論じて曰く、「苞苴には昔所未有の物有り。故に吾が民は昔所未有の害に罹る。苞苴には勝へて窮むべからざるの費有り。故に吾が民には勝へて窮むべからざるの憂ひ有り」と。

秘書省正字に遷る。屢び祠を乞ふ。伯父の喪を以て、告を予へられ、校書郎に遷る。辞すも、許さず。明年、霅川にて待命す。閣門に移文して対を請ふ。当路之を憚り、添差通判鎮江府を授く。辞す。会に行都火災有り、詔に応じて曰く、

「臣頃に本心外物界限の説を進む。蓋し陛下の親しく大柄を攬り、人に退託せざらんことを欲す。恩私を尽く破り、己に愧ぢざるを求めんとす。儻し富貴の私を以て之を視ば、一言一動、其の私を忘れず。則ち是れ天下生霊・社稷宗廟の事を軽しと為し、而して一身富貴の従来する所を重しと為すに在り。惟だ上は天命と先帝・聖母及び公卿百執事の以て陛下を望む所以に負くのみならず、亦た此の如くならざるなり。

昔、周勃は今日璽を握りて文帝に授け、是の夜即ち宋昌をして南北軍を領せしむ。霍光は今年策を定めて宣帝を立て、而して明年稽首して政を帰す。今臨御八年、未だ作為有るを聞かず。人才を進退し、政事を興廃するに、天下皆曰く『此れ丞相の意なり』と。一時の恩怨は、廟堂に帰すと雖も、異日の治乱は、実に陛下に在り。天の子と為り、人の主と為りて、自ら朝廷より天下に達するまで皆相を言ひて君を言はざる者あらんや。天の宗廟を火し、都城を火する所以の者は、殆ど此を以てす。臣の以て痛心する者は、九廟至重、事生存の如し。而して小を徹して大を塗り、火の未だ至らざるに防がず。宰相の居る所、華屋廣袤なり。而して焦頭爛額、独り火の未だ然らざるに全かる。亦た以て人心の䧟溺し、権勢有るを知りて、君父有るを知らざるを見るに足る。他に変故有らば、何れの所にか倚仗せん。陛下自ら視るに、亦た孤ならずや。昔、史浩両たび相に入るも、纔かに五月、或は九月にして即ち罷む。孝宗の功に報ゆるや、寧くも窮已む有らんや。顧みて此の如く其の亟きは、何ぞや。功臣を保全するの道は、富貴を以て厚くすべく、権を以て久しくすべからざるなり」と。

上之を読んで感動し、寳章閣を授け、雲臺観を主管せしむ。則ち吏部に告げ、貼職の禄を受けず、貼職の恩を願はず。他日、星変有りて言を求め、復た前説を申す。又た柄臣或は果たして去位せば、君心縱に易く、大権旁落せんことを慮り、則ち《為君難》六箴を進む。召されて秘書郎と為り、庄文府教授を兼ぬ。端平初、入対し、五事を上る。且つ曰く、「君徳を隠蔽するは、昔は故相を咎む。故に臣は専ら権臣を詆するを得たり。君徳を昭明するは、今は陛下に在り。故に臣は君父に難きを責むるを得たり。真徳秀・魏了翁を召して用ひんことを乞ふ」と。帝之に謂ひて曰く、「人主の職他無し。惟だ君子小人を辨するのみ」と。重珍対へて曰く、「小人も亦た君子を指して小人と為す。此れ辨するに難きと為す。人主当に人望を精擇し、之を要津に処し、正論日に聞こゆれば、則ち必ずや君子の姓名、小人の情状を知らん」と。崇政殿説書を兼ぬ。家事を以て白する勿からしめ、務めて精神を積みて以て上意を寤ます。毎に奏を草するに、心を齋ひ服を盛んにす。密啓有れば、則ち手書して槀を削る。帝其の平実を称す。著作佐郎に遷る。

邉帥《八陵圖》を以て来り上る。詔して百官を集めて議せしむ。重珍言ふ、「史嵩之既に相位を失ひ、幕巣に危きも、猶ほ功を邀へて自ら其の位を固めんと欲す。賢帥を択ぶを請ふ。漢の充国を用ふるが如く、之をして親しく邉境に至らしめ、事勢を審度せしめ、便宜を條上せしむべし」と。丞相は関洛に出師するを主とす。重珍力爭す。会に邉帥和戦を議するに一せず、復た集めて議す。重珍奏す、「曩に専意備守を乞ひ、已むを得ざれば則ち応兵を用ふ。今敢へて前説を変ぜず」と。聴かず。遂に自ら劾して以て密勿清光に在りて、乃ち兵端を遏むること能はざるを、説書の職を免ぜんことを乞ふ。著作郎に遷り、司封郎官・起居舍人を権めて兼ぬ。言ふ、「近く侍講の席に当らんとし、旋ち之を止むるを命ず。或は曰く、是の日道流の生朝なりと。夫れ講を輟むるは、偶ひ他故に以てす。則ち当に聖躬挙措の難きを知るべし。或は伝ふる所果たして其の実を得ば、則ち当に聖心持守の難きを知るべし」と。帝曰く、「卿に非ざれば、此の言を聞かず」と。

関洛の師大いに衂く。復た兵を進む。重珍言ふ、「若し敗を恥じて之に勝たんと欲せば、則ち心平らかならずして忿と成り、気平らかならずして怒と成らん。生霊の命、豈に忿怒を以て用ふべけんや」と。又た言ふ、「邇来台諫を用ふるに、頗る必ずしも矯激せざるの説を主とす。剛方過ぐるの士を畏るるに似たり。窃かに選用の意を窺ふに、正に其の平易にして事を省くを謂ふ耳。然れども数月の間、一には某に失ひ、再には某に失ふ。仮に台綱を慎重すと曰ふも、而して其の激するを憂ふるも、亦た平正なる者を以て之に居らしむべし」と。又た禁旅の貧弱、教習頻りに厳なるを論ず。輙ち堪ふること能はず。稍くも変通せざれば、変を消すの道に非ずと。国史院編修官・実録院検討官を兼ぬ。言ふ、「更化以来、旧𡚁未だ去らざる者五つ有り。徇私・調停・覆護・姑息・依違是れなり。今又た之に輕易を以て益す」と。起居郎に遷る。疾を以て去らんことを求む。集英殿修撰を以て、安吉州を知る。刑部侍郎を権む。三たび辞すも、許さず。自ら其の朝廷に取信すること能はざるの罪を劾し、鐫斥を乞ひ、閒散に置かんとす。覲を促すこと愈よ力むれども、疾起つべからず。詔して刑部侍郎を守りて致仕せしむ。朝請大夫を贈られ、謚して「忠文」と曰ふ。

牟子才

牟子才、字は存容、井研の人。八世の祖允良は、生後一歳の時、淳化年間に盗賊が起こり、挙家殲滅されたが、ただ一人の姑が未だ笄をしていなかったため、甕で覆われて免れた。子才は幼くして父に従い陳咸に客寓し、咸が音楽を張り大宴を催すと、子才は戸を閉めて読書し、聞かず見ざるが如く、咸はこれを異とした。魏了翁・楊子謨・虞剛簡に学び、また李方子に従う——方子は朱熹の門人である。

嘉定十六年、進士に挙げられ、策問に対し、丞相史弥遠を詆毀し、嘉定府洪雅県尉に調せられ、成都府専売茶司売引所を監し、四川提挙茶馬司準備差遣に辟せられる。使者魏泌が衆人同様に遇すと、子才は衣を払って遂に去り、泌が書状と幣帛で謝するも受けず、改めて総領四川財賦所幹辦公事に辟せられる。詔して李心伝に成都で『四朝会要』を修めさせ、兼ねて検閲文字を辟す。制置司が彼を文州に遣わし、王宣の軍糧を視察させた。鄧艾が兵を縋り下ろした所である。道中で宣に遇い、「敵は将に境を圧せんとし、宣は既に退いた。君は往くに及ばず」と言う。子才は不可とし、遂に州に至り軍の倉庫を視て還る。境を出るや否や、文州陥つ。成都府温江県事を知るに辟せられるも、未だ上らず、連続して内外の艱に遭う。時に成都は既に破られ、遂に全家を挙げて東下し、喪を免れると、心伝が『中興四朝国史』を修めるに当たり、子才に自助を請い、史館検閲に擢げられる。入朝して対し、まず大臣の不公不和六事を言い、次いで辺備三策を陳ぶ。理宗の顧問甚だ悉く、将に殿を下らんとするに、復た召して語らう。翌日、帝宰相に諭して曰く、「人材此の如きは、峻く之を擢ぐべし」と。左丞相李宗勉は秘書郎に擬し、右丞相史嵩之は子才が己を言うを怨み、遽かに曰く、「姑く校勘に遷すべし」と。

俄かに宗勉卒す。嵩之独り相たり。亟に外を請い、吉州通判に転じ、衢州通判に転ず。日食あり、詔して言を求め、封事万言を上し、極めて時政の得失を陳べ、且つ早く太子を立てんことを乞う。入りて国子監主簿兼史館校勘となる。一年余りを踰え、太常博士に遷る。鄭清之再び相たり。子才両たび封事を上し、今日に徽欽の時の十の証有るを言い、又た済王の後を立て、以て天の怒りを回らさんことを請う。校書郎徐霖が諫議大夫鄭寀・臨安府尹趙与𥲅を言うも、報いられず関を出る。子才言う、「陛下霖の言を行えば、則ち霖留まる。然らずんば、則ち留まらずなり。二人の中、寀は尤も恥無し。先ず之を罷むるを請う」と。寀去る。至るに嵩之の相に復さんことを謀り、清之の誤って嵩之の党別之傑を引きて共に政をなすに至るまで、皆歴歴として上に之を言う。書を作りて孔光・張禹に与え、清之を切責す。清之復書して愧謝す。謁告し、安吉州の寓舎に還る。秘書郎に遷るも、屡辞し、崇道観を主管す。一年余りを踰え、著作佐郎に遷るも、又た辞す。

清之卒するの明日、詔して子才を朝に還らしめ、著作郎に遷る。左丞相謝方叔・右丞相呉潜交書して道上の意を伝え、行を趣る益急なり。乃ち至る。崇政殿説書を兼ね、子才は事に随い奏陳す。挙朝子才の奏疏を誦し、皆曰く有徳の言なりと。国史院編修官・実録院検討官を兼ね、兼ねて権礼部郎官となる。時に『四朝史』を修むるに当たり、乃ち復た史館検討を兼ねる。信州守徐謂礼が経界を奉行し、苛急にして、又た脊杖を以て催科を比校し、飢民嘯聚して乱を為す。子才上に言い、直ちに経界を罷め、謂礼を浙東に謫す。福建九郡同日に大水有り。子才言う、「今日私謁を納れ、近習に溺れ、土木を労し、小人を庇い、人心を失うの五者は、皆宣和の失を蹈む。苟くも恐懼修省せずんば、臣恐らくは宣和の京城の水将に至らんとす。陰陽を燮理するは、大臣の事なり。宜しく大臣に諭し、乖争を息めて以て和気を召し、壅蔽を除いて以て下情を通ずべし。今使を遣わして水災を訪問するは、徳至って渥し。願わくは内帑を出して之を振せよ」と。又た言う、「君子は聚まり難くして散じ易し。今聚まる者は将に散ぜんとす。其の幾十有り」と。又た言う、「諡は以て勧懲す。当に朝廷より出づべく、其の家の自ら請うを待つ毋れ」と。左司徐霖が諫議大夫葉大有を言う。帝大いに怒り、霖を逐う。給事中趙汝騰之を封還す。他官に徙す。汝騰即ち関を出づ。子才上疏して之を留めんことを請う。大有遂に汝騰を劾す。子才上疏して、汝騰の誣を訟い、及び大有の欺に及ぶ。未だ幾ばくもなく、大有の言職を罷む。

故事によれば、早講には講読官が皆出席し、晩講には説書一員のみであった。宰相は子才が己を言上することを恐れ、晩講を早講に併せたため、これより独りで対面することができなくなった。軍器少監に転じたとき、御史蕭泰来が高斯得・徐霖を弾劾し、右司李伯玉が泰来の弾劾は不当であると上言したので、上は伯玉を厳しく責めて両官を降格し罷免させた。子才は言う、「陛下が更化を行い、諸賢を召し用いられた。今、汝騰・斯得・霖が相次いで弾劾されて去り、伯玉はさらに重く罪を得た。善人は尽きてしまった」と。兼侍立・修注官に任ぜられたが、力辞した。行都で大火があり、子才は詔に応じて封事を上奏し、言上は甚だ切直であった。兼直舎人院を兼ねたが、ちょうど泰来も起居郎に遷ったので、泰来と同列となることを恥じ、七度上疏して力辞した。上は泰来を出させたが、子才もまた去ることを請いやまず、「泰来が既に去った以上、臣どうして独り留まることができましょうか」と言った。上は許さず、また言う、「しょくは嘉・渝・夔の三城を要とすべきである。夔を保たんとすれば、巴・蓬の間に屯兵を置いてこれを控扼せざるべからず。渝を保たんとすれば、利・閬の間に屯兵を置いてこれを遮断せざるべからず。嘉を守らんとすれば、潼・遂の間に屯兵を置いてこれを掎角せざるべからず。屯兵は必ず万人でなければならぬ」と。兼侍読に昇進した。御史徐経孫が府尹厲文翁を弾劾したが、返答なく出関したので、子才は彼を留めるよう上奏した。文翁は紹興府知事に改任されたが、またその任命を留保した。伯玉の降官は既に一年を過ぎていたが、舎人院は詞を書くことを敢えてしなかった。子才は言う、「故事によれば、文書の施行は百刻を過ぎなければ、書行とし、叙復の余地とすべきである」と。帝は言う、「謫詞は皆褒める言葉であるから、改めるがよい」と。子才は詔を奉ぜず、丞相もまた帝の意を伝えたが、子才は言う、「腕は断たれようとも、詞は改められぬ。丞相が改めたいならば、自ら改めよ」と。そこでやめた。淮東制置使賈似道が海州の勝利により、子才が奨諭の詔を起草したが、ただ軍容の盛んなりしを述べるのみで、その功を言わず、かつ言葉多く戒勅を含ませたので、似道は喜ばなかった。また言う、「全蜀の盛んなりし時、官軍は七八万人、忠義軍を合わせて十四万であった。今、官軍は五万に過ぎない。新軍三万を招き、併せて田・楊の二家を撫慰し、毎年兵を率いて来援させよ。かくすれば蜀はなお保たれよう。さもなければ、三年を出でずして蜀は必ず亡びるであろう」と。湯漢・黄蛻が学士院に召試されたとき、子才が策を発し、蛻が嵩之を称賛したので、蛻の正字を罷免して去らせた。起居郎に遷り、言う、「外郡は進奉をもって富貴を易え、左右は土木をもって上心を惑わし、小人は譁競・朋比をもって君子を陥れる。これ天災がしばしば現れる所以である」と。明堂の礼が成り、帝が西太乙宮に幸して謝恩せんとしたが、実は西湖を遊覧せんとするに過ぎなかった。子才は力諫して止めさせた。皇子の冠礼に際し、面諭して楽章を作らせようとした。礼部は言う、「古より、適子は一醮にして楽なく、庶子は三醮にして楽あり。楽を用いるは是ならず」と。子才は言う、「嫡庶の分は、ただ立てられた地が同じからざるによるのであって、適が専ら醴を用い、庶が専ら醮を用いるのではない。楽章は学士院の故事であり、況んや面諭された以上、臣は作らざるを得ない」と。詔してこれに従わせた。また言う、「蜀の首より呉の尾まで二万里に近く、今、両淮には賈似道のみ、荆蜀には李曾伯のみの二人に過ぎない。寒心すべきである」と。合肥に別に淮西制置司を立て、江淮に別に荆湖制置司を立て、かつ漣・楚・光・黄・均・房・巴・閬・綿・剣の要害の郡において、或いは城を築き、或いは戍を増してこれを守るべきであると言った。似道はこれを聞いて怒り、「これは我が地を削らんとするものだ」と言った。正月の望日に、妓を禁中に召し入れた。子才は言う、「これらは皆、董宋臣の輩が陛下の素履を壊すものである」と。権兵部侍郎に任ぜられ、たびたび辞したが、帝は許さなかった。同修国史・実録院同修撰に昇進した。御史洪天錫が宋臣・文翁及び謝堂らを弾劾したが、返答なく出関した。子才はその言を行わせるよう請い、文翁は別に州郡を与え、堂は自ら外補を請い、宋臣は自ら内轄の職を辞するよう請わせた。しかし宋臣の録黄はついに院に至らず、子才がまた言上することを恐れたからである。呉子聰の姑の知古は女冠となり、寵愛を得た。子聰はこれによって進み、知閤門事を得た。子才はこれを留保して言う、「子聰は城社に依憑し、勢焔は薰灼し、官爵を市とし、恥を知らぬ縉紳はその門に輻湊する。公論が平素より切歯する者であり、用いるべからず」と。帝は言う、「子聰の除目は将に一月になる。今になって始めて留保するのは何故か。直ちに書行せよ」と。子才は言う、「文書は百刻を過ぎざるは、これ旧制である。今、子聰の録黄は二十余日を経て後省に至った。おそらくその供職を待ち、臣が留保できぬようにしたのであろう。給舎は紀綱の地である。どうしてこの輩がその間に私を行わせることを許せようか」と。ここにおいて子聰は澧州知事に改められ、待次となった。子才は力辞して去ろうとした。帝は検正姚希得を遣わしてこれを引き留めさせたが、できなかった。集英殿修撰をもって太平州知事とした。これ以前は例によって江淮茶塩提領を兼ねていたが、子才は財に諳んじないことを理由に懇願して免じられた。

郡に至ると、まず民に孝悌を教え、前人の『慈竹』『義木』の二詩を刻んで頒布した。時折学に詣で、諸生のために経義を講説した。采石の戦艦百余艘を修復し、兵仗を千計り造った。前任者が負っていた上供綱及び総所綱七十万緡を、悉く補填した。黄池の酒息六十余万貫、三県の秋苗畸零一万五千余石、夏税畸零の紬帛四千五百余匹、絲七百余両、綿一万三千余両、麦二千余石を免除した。郡に平糴倉があり、米五千石をこれに加え、また緡銭二十六万をもって抵庫を創設し、毎年その利息を収めて糴本の助けとした。召されて入対し、権工部侍郎となった。当時、丁大全と宋臣が表裏して朝政を濁乱していたので、子才は累疏して帰郷を請うた。

初め、子才は太平において李白祠を建て、自ら記して言う、「白の斥けられたるは、実に高力士が、靴を脱がされた恨みを報いるために妃子を激怒させたことによる。力士は貴倨なる身であり、どうして奴隷の身分に甘んじようか。白はただ気概をもって亢直に臨んだのみならず、おそらく掃除の職は固よりかくあるべきものと考え、その極めて重き勢いを反転させようとしたのであろう。彼の昏き者は知らず、かえってその忌むところを逐い、力士の声勢はますます張り、宦官の盛んなるはここより始まった。その後、禁旅を分提し、宮庭に血を踏みしだき、天子といえどももはや彼らを奴隷のごとく扱うことができなくなった」と。また力士が靴を脱がされる様子を描いて賛とし、これを石に刻んだ。折しも拓本が宋臣に贈られたので、宋臣は大いに怒り、二つの碑を持って帝に泣いて訴えた。そこで大全と謀を合わせ、御史に嗾して交章し、子才が郡において公燕を開き、過客に餽遺したものを私したと誣告して弾劾した。両官を降格してもまだやまず、帝は疑い、密かに槧をもって安吉守呉子明に問わせた。子明は奏上して言う、「臣かつて子才の家に至りしに、四壁蕭然たり。人皆その清貧なるを知る。陛下、讒言を信ぜられませぬように」と。帝は経筵官に語って言う、「牟子才の件について、呉子明は無いと言う。何故か」と。衆は敢えて答えず、戴慶炣が言う、「臣、子才がかつて子明の兄の子聰を留保したことを憶えています」と。帝は言う、「そうであったな」と。事はここに解けた。公論の存するところは、たとえ仇讐といえども廃することはできないのである。未だ幾ばくもせず、大全は敗れ、宋臣は斥けられ、子才を誣告弾劾した者は悉く嶺海外に流された。そこで子才の官職を復し、玉隆万寿宮提挙とした。

帝は直ちに子才を召そうとしたが、ちょうど似道が宰相となり、平素より子才を畏れ、また詔書起草の件を恨んでいたので、僅かに宝章閣待制・温州知事に進めたのみであった。さらに御史を唆して流言を捏造させ、子才を潜の党徒と目し、危険な禍を中てんしようとしたが、上意は動かず、遂に礼部侍郎として召し出した。子才は再三辞退したが、許されず、帝は御筆を賜って曰く、「朕は久しく卿に会いたく思っていたので、この命がある。卿は疑うことなく、我がために強いて起ち上がれ」と。故事によれば、近臣が外から召される者は、必ず先ず帝に謁見してから職務に就くものであった。子才が北関に至り、内引して奏事することを請うと、宦官が傍らでこれを阻んだが、帝は特に謁見を許し、大いに喜び、長く慰諭した。時に似道は自ら再興の功があると称し、四方に憂いがないのは皆その力によるものとし、故に勝手気ままに安逸と享楽にふけ、直言を聞くことを嫌った。子才は言う、「開慶の時、天下は危うくして殆うかった。今幸いに再び安泰となったが、天が疾を取り去ろうとして、遂に再び憂いが無くなるのか、それとも我が意に順い適うだけで、異時に測り難き禍の基を築くのか。どうして宴安を懐いて鴆毒とし、暇な時の政刑を明らかにしないのか。忠厚なることは、我が朝の家法である。ところが先の小人が国を妨げ、初めて一切の手段を用いてその脈を傷つけた。今はその行いを反すべきであるのに、どうしてますます甚だしくするのか」と。「祖宗が士を待ち民を愛し、天に祈り命を永くした所以のものを悉く取り、これに従って行うべきである。言論は国の元気である。今、言及すること天子に関することでも、尚お優しく寛大に扱われるが、事が朝廷に関することでは、忿怒の形がこれに現れる。朝政の欠失、臣下の蒙昧は、どうして上に達することができようか」と。帝曰く、「卿でなければこの言葉は聞けなかった」と。座を賜い茶を賜り、外事を甚だ詳しく問うと、子才は田舎の苦しみを具に対えた。帝はしばらく眉をひそめた。直ちに侍読を兼ね、まもなく国史同修撰・実録院同修撰を兼ねた。宋臣に内侍省押班の任命があったが、朝廷を挙げて争っても得られなかった。子才が上疏すると、翌朝、帝はその上疏を輔臣に示し、皆曰く、「子才には君を憂い国を愛する真実があり、名誉を求め名を売る巧みさはない」と。権礼部尚書に抜擢した。明堂の祭祀に、子才は執綏官となり、帝が漢唐の文物について問うと、詳しく贍かに答えた。時に士大夫が少しでも権臣に逆らうと、すぐに流罪にされた。子才は重い者は量移し、軽い者は放還することを請うた。直学士院を兼ねた。これ以前は、儤直は多く病気を理由に免じられていたが、子才が初めて旧制を復した。帝は詩を賜って褒め賞し、毎回直すごとに、内殿に召して対し、夜分まで語り、あるいは酒果を賜った。給事中を兼ねた。彗星が現れ、詔に応じて封事を上じ、公田を罷め、七司法を改めることを請うた。正として尚書となったが、力辞したが許されず、修国史実録院修撰に昇進した。徐敏子が星変の赦により量移しようとしたが、似道は彼が潜に用いられたことを憎み、後省に諷してこれを却下させようとしたが、子才は認めなかった。葉李・呂宙之らが上書して似道を攻撃すると、似道は怒って彼らを殺そうとし、別の事を理由に天府の獄に下した。子才は彼らを赦すことを請うた。また似道に書を送ると、似道は返書し、言葉は甚だ忿っていた。直接天府から処断を下し、再び上聞に及ぼさなかった。子才が再び論駁するのを恐れたからである。度宗が東宮にいた時、雅に子才を敬い、言うこと必ず先生と称した。即位すると、翰林学士・知制誥を授けたが、力辞して拝せず、去ることを請うて止まなかった。端明殿学士に進め、資政殿学士をもって致仕した。卒し、四官を贈られ、その子孫二人に官職が与えられた。

子才は親に仕えること甚だ孝であった。弟子の子方が公安で客死すると、その柩を抱いて安吉に葬った。妹が眉山にいたが、その家族を兵火から救い出し、安吉に招き寄せた。吉州にいた時、文天祥が童子として謁見したが、直ちに遠大なることを期待した。推薦した士、李芾・趙卯発・劉黻・家鉉翁のごときは、後皆忠義の士となった。平江守の呉淵が富民の田を没収し、千余畝を子才に贈ったが、全て辞退した。死後、家に余財なく、金帯を売ってようやく葬ることができた。『存斎集』・内制・外制・『四朝史稿』・奏議・経筵講義・口義故事・四尚易編・春秋輪輻がある。

子:献、大理少卿。

朱貔孫。

朱貔孫、字は興甫、浮梁の人。淳祐四年の進士、臨江軍学教授を授かる。丞相の史嵩之が貔孫の名を聞き、館下に招こうとしたが、禄が親に及ばないことを理由に辞退した。父に喪に服し、服喪が終わると、福州学教授を授かり、江東安撫司幹辦公事を差し充てられた。制置使の王埜・丘岳・馬光祖・趙与陋が皆これを推薦した。丁大全が台諫にあり、勢威が燃え盛っていた。天が久しく陰雨であったので、貔孫は政府に書を送り、「積陰を回らす道は、奸邪を去り、手実を罷め、米税を免ずることである」と言った。奸邪とは大全を指す。丞相の董槐はこの書を得て賞賛した。尚書刑工部架閣文字を主管した。宦官の董宋臣が寵幸されて権勢を振るっていた。貔孫が策を発して胄子を試験し、極論して宦官寺人が専権する禍患を論じた。宋臣は言官を唆してこれを弾劾させ罷免させた。

光祖が添差江東安撫司機宜文字に辟召し、史館校勘に抜擢した。時に大全が執政し、その党に急な抜擢を以て約束させたが、貔孫は強くこれを拒絶し、かつ帰省のため謁告した。太学博士に遷り、帝が自ら監察御史を選び、崇政殿説書を兼ねた時に属した。まず上疏して大全の権奸が国を誤った罪を論じ、学校六士の冤罪を主張した。また、人才を集め、人心を凝固させ、人言を精選し、禁旅を増やして帝畿を壮んにし、良守を選んで内郡を治めさせ、全才を選んで江面を守らせ、舟師を厳しくして海道を防ぎ、地に因って兵を募り突如として至る敵に応じ、力を合わせ勢いを併せて必ず守るべき地を援けることを論じた。時に四明に遷都する建議があった。貔孫は急ぎ上疏して言う、「鑾輿もし動けば、則ち三辺の将士は瓦解し、四方の盗賊は蜂起する。必ず不可である」と。遂に止んだ。

貔孫が講筵に在りて、宋臣の政事を撓ぐることに言及し、旨に忤い、大理少卿に遷り、また司農少卿に遷り、兼ねて太子右諭徳を帯び、詔して乗馬して講に赴くことを許す。貔孫は諭導得体を得、経義を衍説して君道に関わるものは必ず委曲に敷暢し、陰に警戒を寓す。太子毎に之が為に容を改む。国史院編修官・実録院検討官を兼ね、兼ねて権直舎人院を帯び、時に大礼成り、封命叢委す。吏が詞頭を持ち下る毎夕、無慮数十、貔孫は筆を運ぶこと飛ぶが如く、夜未だ中ならざるに已に就く。皆温潤典雅なり。宗正少卿に遷る。母憂に丁し、服除き、秘書監兼太子左諭徳を授けられ、監察御史兼崇政殿説書に改む。姓名已に外に付す。尋いで復た命を改めて浙西に赴かしむ。公田を行い、吏並びに縁りて姦を為す。貔孫其の弊を疏す。『春秋』の王を尊び覇を絀くの旨を推し、帝に仁政を崇め、吉士を用い、正論を行わんことを勧む。賜賚甚だ渥し。殿中侍御史兼侍講に擢でられ、京師の淫声奇服の禁を厳にせんことを請う。他の論ずる所、苗耗役害及び川蜀を經理するは、皆当世の急務なり。宋臣覆い出で、朝論紛然たり。貔孫対に因り、力めて其の姦を斥く。卒いに祠を奪う。侍御史兼侍講に升り、長星東方に出づ。貔孫力めて外戚・内臣及び進奉羡余の人心を失う者を詆り、且つ曰く「天心を回らすは自ら人心を回らすに始まる」と。辞旨懇切、帝之が為に感動す。侍読に升る。貔孫の再び台に入るや、疆場多事に属し、屡び備禦の策を陳ず。理宗春秋高く、成を賈似道に倚る。似道命を擅にす。貔孫事に随い進諫し、肯て阿附せず。至て公田の政を行うに及びては、屡び経筵に於いて密かに以て帝に告ぐ。似道是より深く之を忌む。貔孫累疏して去らんことを求む。理宗崩じ、度宗即位す。右諫議大夫に擢でられ、紫金魚袋を賜い、兼ねて章服・犀帯を賜う。疾を以て言職を辞せんことを乞い、吏部尚書に遷る。拝せず。帝旧学の故を以て、雅く貔孫を留めんと欲す。使者旁午として道に在り。而して貔孫辞益々力む。

華文閣学士を以て、寧国府を知る。似道言者に諷して論罷せしむ。久しきの後、太平興国宮を提挙す。復た華文閣学士・袁州知州に任ず。郡に至りて徳意を宣布し、暴を戢め貪を禁ずるを先務とす。郡倉租を受くるに、旧斛面に倚りて贏を取る。吏加えて漁取す。貔孫其の弊を知り、悉く榜して之を除き、民に自ら槩量することを許す。宿弊頓に革まり、田里歓声す。学校を興して士を勧む。敷文閣学士に升り、福州知州・福建安撫使を兼ねる。未だ幾ばくもあらず、袁の郡治に卒す。四官を贈られ、恩沢を与え、並びに所在に令して喪事を給せしむ。文集・奏議有りて世に行わる。

歐陽守道

歐陽守道、字は公権、一字は迂父、吉州の人。初め名は巽と曰う。自ら更名して挙に応ずるは、是に非ずとし、祭るに必ず巽と称す。少くして孤貧、師無く、自ら力を学に致す。里人聘して子弟の師と為す。主人其の毎食肉を捨て、密かに帰りて母に遺るを瞷り、二器を設けて馳送せしむ。乃ち肯て肉を食う。隣媪児歎息感動せざるは無し。年未だ三十ならず、翕然として徳行を以て郷郡の儒宗と為る。江萬里吉州を守る。守道適に郷に貢す。萬里独り之を異視す。

淳祐元年、進士に挙げられ、廷対し、言う「国事の成敗は宰相に在り、人才の消長は台諫に在り。昔者国に当たりて箴規を悪み、言者は触迕を疑う。其の位を去るに及び、共に才に非ずと謂う。或は時宰に迎合し、自ら殷勤を效し、亦た疾悪方に乖きて、苟くも疵纇を求む。以て忠邪辨わず、黜陟章無きに致す」と。唱名す。徐儼夫第一と為る。儼夫守道の手を握り起ちて曰く「吾君の上に出づるを愧づ。君の文未だ嘗て我が上に在らざるは無し」と。雩都主簿を授かる。母憂に丁し、服除き、贑州司戸に調ず。其の次十年の後、萬里白鷺洲書院を作り、首めて守道を致して諸生の為に講説せしむ。湖南転運副使吳子良守道を聘して嶽麓書院副山長と為す。守道初めて講を升り、孟氏の「人心を正し、三聖を承く」の説を発明す。学者悦服す。宗人歐陽新及び子必泰、先ず長沙に寓居す。守道の至るを聞き、往きて之を訪う。初め猶未だ識らず。晤語相契う。守道即ち子良に請い、新を礼して嶽麓書院講書と為す。新『礼記』の「天時雨を降し、山川雲を出す」の一章を講ず。守道起ちて曰く「長沙自ら仲齊有り。吾何を為して此に至らん」と。仲齊は新の字なり。踰年、新卒す。守道之を哭すること慟し、自ら其の墓に銘し、又其の子必泰を当道に薦む。子良代わり、守道復た吉州に還る。里に張基有り、其の父を喪い、小祥にして、而して舅氏事を以て訟え、之を獄に繫ぎ、祭るを得ざらしめ、已が地を售らしめて以て葬らしめんと邀う。守道之を聞き、歎じて曰く「吾惟だ斯の子の一たび其の父を哭するを得ざるを痛む。且つ其の痛み奈何」と。明日、之を邑令に告げて曰く「此れ人心に非ず。祭に濱りて之を縛し、葬を撓めて之を奪う。舅此くの如くは、是れ自ら其の肉を食うなり。請う斯の子を任して出で祭らしめ、而して後獄に復せしめよ」と。令亟に之を出だす。其の舅醜く守道を誣う。守道亦た自ら辨ぜず。

転運使包恢が朝廷に祠官を請うと、萬里が国子祭酒に召され、史館検閲に推薦され、館職の召試を受け、秘書省正字を授かった。安南国王陳日照がその子に位を譲り、太上国王の封を求めたので、省官に議させたところ、守道は言うには、「太上とは、漢の高祖こうそがその父を尊んだ称であり、累朝これを改めなかった。もし詔書を賜い、太上国王と称するのは、よろしくない。南越の尉佗はかつて自ら蛮夷大長老と称したが、これは正に南夷の事である。『礼』によれば、方伯は自らを天子の老と称し、大夫が致仕すれば老と称し、自らもまた老と称する。夷蛮の立場から言えば、尉佗の故事があり、中国の立場から言えば、また方伯の致仕者の常称である。漢にも老上単于の号があり、『太』を『老』に易えても損はなく、あるいは上字を去って太字を存し、太王には古公・三太・三少・太宰・少宰があり、太は少と区別する所以である。父を太とすれば、子は少となる。太は尊称として言えば、太后・太妃・太子・太孫であり、卑称として言えば、太史・太卜・太祝・楽太師・太圉であり、上下ともに通用する。」時に足を病んで議に与ることができず、校書郎兼景憲府教授に遷り、秘書郎に遷った。転対し、言うには、「家を給し人を足らしめんと欲すれば、必ずや中外の臣庶に前日の利を言う風なきをさせ、しかる後に風化すべし。ただ身に反して倹をもって化し、彼倹ならざれば、吾れ惟うに宮室を卑くし、飲食を菲くするのみ。廉をもって化し、彼廉興らざれば、吾れ惟うに得難き貨を貴ばず、益なき蔵を厚くせざるのみ。」言によって罷められ、守道は徒歩で銭塘門を出たが、ただ書物二箋のみであった。理宗の遺詔を聞き、守道はその徒と相向かって哭踊し、僮奴・孺子も各々悲哀した。咸淳三年、特旨をもって祠官とし、詔して大臣に賢才を挙げさせたところ、少傅呂文徳が九十六人を挙げ、守道はこれに預かった。添差通判建昌軍に任じられたが、書を以て廟堂に謝し、曰く、「史は大将軍が士を薦めざるを賛す。今や大将軍は士を薦む。而して某何を以てか此れを大将軍に得んや。幸いに嘗て召擢を蒙り、三館に備数す。異時に或いは其の放廃無聊にして、諸貴人に身を託し、国体を虧傷すと謂わば、則ち寧んぞ解くを得ん。願わくは仍って祠禄を賦するに足れり。」著作佐郎兼崇政殿説書に遷り、兼権都官郎官となり、経筵に進む所は皆当世の務に切であり、上は色を動かした。著作郎に遷った。卒す。家に一銭も無し。

守道の兄の妻が早く喪われ、その子の演は五歳余りで、かつ病多く、浚は生まれて数ヶ月であり、守道は三十にして未だ室なく、顧みて乳哺する者無く、日夜二子を抱いて泣き、里巷これに憐れんだ。演が既に長ずると、出て行き、知る所無く、守道は哭いて野にこれを求め、終に得ることができず、三年肉を食わず、顦顇して釋さざる者終身であった。吉に賢守あり、而して大家これに怨み、贓を以て厚く誣うところとなり、その事を常平使者に下した。時に旱甚だしく、雲騰に祷ったが、守道は曰く、「祷るに以て無し。雲騰の神は、唐の郡守呉侯なり。冤は前守より甚だしきは莫し。冤直らざるに呉侯に祷らば、侯に辞あり。匹婦冤を蔵すれば、旱あること或いは三年、冤民牧に在り、害豈に小ならんや。」反覆千余言、或いは迂闊としてこれを笑ったが、守道は改めず、来る者に告げ倦まず、守は遂に直しを得た。著す所に易故文集あり。

論じて曰く、湯璹は立朝して蹇諤たり、蔣重珍は自ら巍科を擢げ、既に盛名の下に居りて能く当世に樹立し、難しと為すべし。牟子才・朱貔孫は直声中外に著わる。歐陽守道は、廬陵の醇儒なり。