宋史

列傳第一百六十九 婁機 沈煥 舒璘 曹彦約 范應鈴 徐經孫

婁機

婁機、字は彦発、嘉興の人。乾道二年に進士となり、塩官尉に任ぜられる。母の喪に服し、喪が明けて、含山主簿に転ずる。郡より銅城圩八十四箇所の治水を委ねられ、役夫三千有余を動員し、仮小屋を設けて彼らを収容し、器具や材木は全て官より支給したので、民は喜んで勤労に赴き、二十日で完工を告げた。七度隣県を兼務し、いずれも治績をもって聞こえた。於潜県丞に転じ、賦税を軽減し、戸籍を正し、訴訟を簡素化し、学校を興した。父の喪に遭い、喪が明けて、江東提挙司幹弁公事となり、淮東に移るが、やがて元の職に戻り、西安県知事に改める。豪族が墓地として土地を購い、掘り返して石に当たり、元の代金の返還を求めた。機は言う、「仮に金が出たとして、誰に帰すというのか」。饒州通判となり、冤罪を平反する。しょくの帥袁説友が参議として幕下に招聘したが、就かず、諸司審計司幹弁に改める。転対に際し、経費の削減を請い、また刑名疑獄の弊を論じた。宗正寺主簿に遷り、太常博士・秘書郎となり、『中興館閣書目』の続編を請い、また淮・浙の旱魃に遭った州県の救恤を請うた。

時に皇太子が初めて外傅に就き、学官を選ぶに、機を兼ねて資善堂小学教授とする。機は日々正言正道を述べ、また累朝の事親・修身・治国・愛民の四事を、手ずから書いて献上し、太子はこれを座右に置き、朝夕観覧した。事に随って啓発し、裨益するところ多かった。太常丞に遷り、依然として資善を兼ねる。まもなく右曹郎官・秘書省著作郎に遷り、兼官を駕部に改める。都城に大火あり、機は詔に応じて封事を上奏し、力説して朝臣が奉承に務め、己の見解を出して国論を補うことができないこと、外臣が職にふさわしくなく、甚だしくは苛刻をもって民財を困窮させていること、将帥や偏裨が交際に務め、訓練や検閲を行って軍律を強化することを知らないことを論じた。時に年七十、閑職を請うたが、許されず。太子が機の著した『広干禄字』一編を得て、殊に喜び、戴溪に跋を書かせた。監察御史に抜擢され、講義が未だ終わらぬうちに任命が下り、太子は恋々としてほとんど捨てがたく、機もまたこれに感激して涙した。

京官は必ず二任を経て、挙主があり、年齢三十以上であることを論じ、初めて県令となることを許すべきだと論じた。また郡守の軽率な任用が甚だしく、千里に害を及ぼすと論じた。蘇師旦が権勢を頼んで妄りに振る舞い、自らを蔽いほしいままにし、彼に言及する者は皆罪を得て去ったが、機だけは恐れた。韓侂冑が辺境を開くことを議し、機は極力これに反対し、「恢復の名は美しくないわけではないが、今士卒は驕慢で安逸であり、急に鋒鏑の下に駆り立てるのは、人材は得難く、財力は未だ豊かでない。万一兵禍が連鎖して、久しく解けぬ場合はどうするか」と言った。侂冑はこれを聞いて喜ばず、その議論はますます秘密となり、外廷は測り知れなかった。また上疏して極論し、「たとえ密謀は人知れずとも、軍書が一度馳せれば、内外は惶恐疑惑する」と。侍御史鄧友龍は初め兵を知らず、書を飛ばして迎合し、妄りに大将を推薦し、召還されてからは、専らこの議論を主導した。機は友龍に語って言う、「今日誰が大将となれようか。誰が計臣となれようか。たとえ殿帥・巌帥をもってこれに当たらせたとして、その有用を保証できようか」。

右正言兼侍講に遷り、まず広く人材を蓄えることを論じ、侍従・台諫・学士・待制・三衙管軍に詔して各々将帥・辺郡の者一二人を挙薦させ、召し出して問い甄別抜擢し、優遇養成して緩急に備えるよう請うた。太常少卿兼権中書舎人に進み、詔して荊・襄に宣諭使として派遣されようとしたが、機は公然と言う、「使いとして往きて人心を慰安するのはよいが、必ずや辺境を開き戦端を啓かんとするなら、死ぬのみであり、従うことはできない」と。泗州の捷報が聞こえると、ますます憂慮危惧を増し、かつ言う、「もしこれより成功し、列聖の宿憤を晴らすことができれば、老臣たる身たとえ死すとも幸いであるが、ただ恐れるのは、進むは鋭く退くは速く、禍いがますます深まることである」と。友龍はついに堪えられず、「この人を逐わなければ、異議を翻す余地がない」と言った。機は遂に言論によって去った。

侂冑が誅せられると、吏部侍郎兼太子左庶子として召され、朝廷に還り、言う、「至公をもって初めて天下を服せしめることができる。権臣が私意を以て横溢し、国を敗り民を滅ぼした。今は至公を行わねばならない。もし私恩未だ報いずと言って、まず引き立て、私仇未だ復せずと言って、かつ抑圧するなら、ひとたび私に陥れば、人心は観感するところなくなるであろう」。また言う、「両淮で敢勇を招集するのは、招くは難くないが、処するは難しい。もし紀律をもって統制し、勤惰を考課しなければ、必ず後害となる」。なお請うて権臣・内侍等の没収家財を検校し、専ら養兵の助けとすべきだと。機の郷里の者に旧吏部の官吏がおり、喪が未だ挙げられぬうちに子が官選に赴こうとした。機は彼が既に法禁を犯しているのに、部の胥吏がこれを問わぬと言い、即ち数名の吏を鞭打ち、葬儀を執り行ってから来るよう命じた。聞く者はこれを正しいとした。

太子詹事を兼ね、『歴代帝王総要』を著して考訂の補いとした。給事中に遷る。海巡八廂の親従・都軍頭・指揮使の年功による転資が、恩旨により甚だしく濫り、未だ年格に応じざる者の恩典を収め寝かせ、年齢既に及ぶ者にはこれを与えるよう請うた。帝は長く善しと称えた。飛蝗が災いとなる。機は詔に応じて言う、「和議成りたてで、まずは安静を務め、隙漏を繕って紀綱を成し、財用を節して邦本を固め、士卒を練って国威を壮にすべきである」。

礼部尚書兼給事中に遷り、同知枢密院事兼太子賓客に抜擢され、参知政事に進む。干戈がようやく定まり、信使往来の始まりにあたり、瘡痍まさに深く、弊害蠹害紛然たる中、機は縫い合わせ補い助けるところ多くあった。特に名器を惜しみ、法度を守り、人物を進退し、可否を直言し、私恩を売らず、嫌疑怨みを避けなかった。挙薦員が資格に達し、官位を改めて県令となるべきところ、必ず朝廷への出仕を望む者がいた。機は言う、「もしそうするならば、功労ある者はどうやって勧められようか。孤寒の者はどうやって伸びられようか。もし御前に出るならば、自ら執奏すべきである」。堂吏が寄資して未だ仕官せず、例によって升朝官の賞を以て封贈を陳乞する者がいた。機は言う、「進士は通籍しなければ親に及ばない。汝らは白衣の身でこれを得ようとするのか」。嘉定二年八月、皇太子冊命の儀が行われ、機は中書令を摂り冊文を読む。九月明堂の祭祀に、礼儀使となる。数度上章して老齢を理由に退任を請うたが、帝は許さず、皇太子は官属を遣わして慰留した。資政殿学士として福州知事となるが、力辞する。洞霄宮提挙として帰り、遂に卒す。金紫光禄大夫を贈られ、さらに特進を加贈される。

機が初めて登第した時、その父の寿は戒めて言う、「官を得るは誠に喜ばしいが、然れども官たることは正に未だ易しからざるものなり」。機はその弟の模・棟を養育し、遂に善士となす。郷里に居ては誠をもって人に接し、是非曲直は言葉の下に判じ、後言せず、人は畏れて服した。人材を称揚して、寸長をも遺さず、賢能を訪問して、姓名とその可用の実を列挙し、採用に備え、その薦挙した者も、人に知らせようとはしなかった。著書にまた『班馬字類』がある。機は書学に深く、尺牘は人多くこれを蔵したという。

沈煥

沈煥、字は叔晦、定海の人。太学に試験入学し、初めて臨川の陸九齢と友となり、これに従って学ぶ。乾道五年に進士に挙げられ、餘姚尉・揚州教授に任ぜられる。太学録として召され、自ら躬行することを以て人を善導し、朝夕学者を引見し、孜々として教え誘い、長官や同僚はその異を立てることを忌んだ。殿試考官を充たすことになり、唱名の日に庭下に序立していると、帝はその儀容の立派さに感心し、内侍を遣わして姓名を問わせたので、衆人はますますこれを嫉んだ。ある者が職務に専念するよう勧め、道はまだ行えないと言うと、煥は言う、「道と職は二つあるのか」。たまたま私試で策問を出題するに当たり、『孟子』の「人の本朝に立ちて道行われざるは、恥なり」を引き、言路がこれを己を誹謗するものとして、罷免を請うた。在職わずか八十日、高郵軍教授に転じて去った。

後に幹辦浙東安撫司公事を充任した。高宗の山陵(陵墓)に際し、百官の宿舎や供帳・酒食の需要が供給に追いつかず、沈煥は急ぎ安撫使鄭汝諧に言上して曰く、「国に大いなる喪(大喪)ありながら、臣下が宴楽を自らに如くするは、安んずるを得ようか」と。汝諧は煥に条奏を整えるよう命じた。修奉官を充任し、御史に文書を送り、喪紀の本来の意義を明示するよう請い、貴近(貴人近臣)の哀戚の心を重んじさせれば、仮設の宿舎や粗末な食事も自ら安んずるようになり、煩わしく弾劾せずとも需索(要求)は絶えるであろう、と。ここにおいて縁故を利用して姦を行う者を糾明し、率斂(割り当て徴収)した者に償還を求め、支費は頓に減少した。

旱魃の年、常平使が官属を分けて選び救恤を行わせた際、上虞・餘姚の二県を得て、再び流亡餓死者は出なかった。婺源県知事に転じ、三省が推薦書を類聚して上聞に達し、ついに舒州通判となった。閑居の時も病中であってもなお読書を廃さず、拳拳として母の老いを思い、善類の凋零を憂えた。卒去すると、丞相周必大がこれを聞き曰く、「朝廷に立ちて賢を推し善を揚げられなかったことを追思すれば、我は叔晦(沈煥)に愧じる。益者三友(有益な三種の友)、叔晦は我に愧じるところなし」と。

煥の人品は高明であったが、その心中安からざる所があれば、苟も自らを恕さず、常に曰く、「昼はこれを妻子に、夜は諸を夢寐にうらなう。両者愧ずること無くして、初めて学を言うべし」と。直華文閣を追贈され、特諡して「端憲」とされた。煥の友に舒璘がいる。

舒璘 附

璘、字は元質、一字は元賓、奉化の人。太学に補入された。張栻が中都に官した時、璘はこれに従い、啓発を受けた。また陸九淵に遊学し、曰く、「我はただ朝にここに於いて、夕に斯に於いて、刻苦磨厲し、過ちを改め善に遷り、日に新たなる功あらば、亦たそむかざるべし」と。朱熹・呂祖謙が婺州で講学すると、璘は徒歩で往き謁見し、家に書を告げて曰く、「敝れたる床疏あらき席も、総て佳趣なり。櫛風沐雨も、反って美境なり」と。

乾道八年の進士に挙げられ、二度郡教授に授けられたが赴任しなかった。引き続き江西轉運司幹辦公事となった。或る者は璘の学ぶ所を忌み、風聞に基づき心中で非議したが、璘と処するに及んで、全く疑いの隔たりは無かった。徽州教授となり、徽州の風習は頓に異なった。『詩経』・『礼記』は長く貢士(科挙受験者)の対象とならず、学はほとんど伝わらなかったが、璘は『詩礼講解』を作り、家に伝え人が習い、ここよりその学は次第に盛んとなった。丞相留正は璘を以て当今第一の教官と称し、司業汪逵は真っ先に璘を推薦しようとした。或る者が璘の推薦員数は既に足りていると言うと、逵は曰く、「我が職は教官を挙げるべきものである。この人を捨てて誰を先にしようか」と。ついに上奏して推薦した。平陽県知事となり、郡政は頗る苛酷であったが、璘が民の苦しみを告げるに及んで、言葉は厳しく義は正しく、太守は顔色を改めた。任期満了後、宜州通判となり、卒去した。

璘は人を教えることを楽しみ、嘗て曰く、「師道の尊厳たるは、璘は叔晦(沈煥)に如かず。若し後進を啓迪するについては、則ち璘は敢えて多く譲らざる所あり」と。袁燮は璘を篤実にして欺かず、毫髪の矯偽無しと評した。楊簡は璘を孝友忠実にして、道心融明と評した。樓鑰は璘の人に対することを、あたたかなる陽春の如しと評した。淳祐年中、特諡して「文靖」とされた。

曹彥約

曹彥約、字は簡甫、都昌の人。淳熙八年の進士。嘗て朱熹に従い講学し、建平尉・桂陽司録・辰溪令を歴任し、楽平県知事、江西安撫司機宜文字を主管した。澧州知事に任じられたが未だ着任せず、薛叔似が京湖を宣撫すると、機宜文字主管に辟召された。漢陽に守が欠けたため、檄を以て軍事を摂行させた。時に金人が大いに侵入し、郡兵は平素より寡弱であったが、彦約は土豪を捜索訪問し、許禼を得て民兵を総率させ、趙観を得て水路を防がせ、党仲昇に宣撫司の軍を率いさせ郡城に屯させた。金の重兵が安陸を包囲し、遊騎が漢川に闖入すると、彦約は観に方略を授け、漁戸を結集して南河を拒み守らせた。観は逆撃し、その先鋒を斬り、且つ死士を遣わしてその戦艦を焼き、昼夜を分かたず殊死に戦い、北に渡って追撃し、金人は大いに敗れて去った。また仲昇を遣わして金人の砦を襲撃させ、千余人を殺したが、仲昇は流れ矢に当たって死んだ。観を成忠郎・漢川簿尉に補するよう奏上し、仲昇には修武郎を追贈し、その子孫二人に官職を与えた。彦約は守禦の功により官位を二等進められ、そのまま漢陽知事となった。

嘉定元年、詔して言を求むると、彦約は封事を上書し、謂く、「敵は歳幣を利とせざらんや。ただその向かう所にすなわち応じ、その求むる所に輒ち得るを以て、我を以て易与(容易に対処できる相手)と為し、その欲をほしいままにす。小使を遅留させ、辺備を督責し、歳月をすにかず。真偽を知るに当たるべし。もしまた大挙するも、則ち民は固より已に怨む。進まんと欲すれば我は已に戒厳し、退かんと欲すれば彼には叛兵あり。決勝は期して待つべし」と。尋いで湖北常平提挙となり、権知鄂州兼湖広総領を経て、提点刑獄に改められ、湖南転運判官に遷った。

時に賊徒羅世傳・李元礪・李新等が相継いで窃発し、桂陽・茶陵・安仁の三県は皆破られ、千里をめぐる地は、莽々として盗賊の区域と化した。彦約は到着して糧運を監督し、人心始めて定まった。直祕閣に遷り、潭州知事・湖南安撫使となった。時に江西が李元礪を招安しようと上言し、朝廷の命令が湖南に下り招討の適否を議させると、彦約は言上して曰く、「今討捕を行わず、まげて招安にしたがえば、朝廷の威重を失う。若し元礪が疑わしい言葉を設けて重兵をなずめれば、兵は戍を撤くべからず、民は業を安んずるを得ず」と。元礪は果たして降伏せず、彦約は諸将を督して賊の巣窟に逼って屯し、李新を酃洣で撃破した。新は創を受け死に、賊衆は李如松を首領に推した。如松が降伏し、ここにおいて桂陽を回復した。世傳は平素より元礪と不和があり、この時に至り密かに元礪を図って自らの功績としたいと請うた。彦約は賞格を記録してこれに報い、且つ朝廷に報告し、また一万緡の銭を与えてその軍を犒労した。世傳は遂に元礪をとりこにした。彦約は長沙に還ったが、間もなく、再び出て督戦し、余党悉く平定した。

世傳は既に自ら功績と為した後、遅留して重い賄賂を要求した。彦約は格分外の要求はすべからざることを諭した。時に池州副都統許俊が吉州の龍泉に兵を駐め、厚く賄賂して世傳と結び、格を超えて転官資を許すと、世傳は遂に元礪を江西に送還した。胡榘が右司となって、世傳に諸峒を尽く統率させてその帥と為し、江西・湖南の戍兵を悉く撤収させようとしたが、彦約は固くこれに争い、榘は悦ばなかった。然れども世傳は終に桀驁ごうけつとして峒を出ようとしなかった。彦約は密かに羅九遷を間者として遣わし、胡友睦を誘い、重賞を以て許すと、友睦は遂に世傳を殺した。江西が功績を争いに来たが、争わなかった。侍右郎官に抜擢されたが、右正言鄭昭先の上言により、その任命は留保された。

久しくして、利路転運判官兼知利州と為された。関外は食糧に乏しく、彦約は本司の儲蓄を悉く発して減価で出糶し、分を勧めて役を免じ、商を通じ税をめぐみ、民はこれに頼って救われた。時に沔州都統制王大才が驕横で、制置使董居誼は既にその権柄を得られず、反って曲意してこれに奉じた。彦約は蜀の辺境において諸司が並列し、兵権が一でなく、些細な警報があれば紛然として奏議し、財理を行う者は兵弱を怨みに帰し、兵権を握る者は財寡を咎に帰する状況を以て、『病夫議』を作り、廟堂に献じて曰く、

「古、辺境に臨むに、一の賢者を求めて尽くこれに兵権を付す。兵権正しければ則ち事体重く、兵権専一ならば則ち号令一なり。今廟堂の上に在りては、士大夫の詔令を奉行せざるを患い、士大夫の忠実を恪守せざるを悪む。故に信じて用いるも、又人を以てこれをまじえ、事権を以てこれに付するも、又中より御して以てこれを繫維けいいす。致して知事する者をして敢えて事を任ぜしめず、事を畏るる者常に事を失うに至らしむ。ついに緩急あれば、各おの己見を持ち、兵権と財計と、互いに咎を帰す。

昔、秦・隴の風俗は、兵を知り戦に善くして天下に聞こえた。呉氏が世襲して以来、兵権を握る者の志は勢いに恃むことにあり、上を尊ぶことに在らず;兵を用いる者の志は財貨を誅求することにあり、民を安んずることに在らざりき。本原一たび壊れて、百病間より出で、遂には世将既に叛くも宣威覚えず、四郡既に割かるも諸将知らざるに至る。更化の後、逆党既に誅せられしも、土俗人心その実未だ改まらず。軍官を任じて州事を領せしむる者は、藩鎮の権を成し易く;行伍より起りて微効を立てし者は、漸く階級の分無きに至る。皂郊より宕昌に至るまで、即ち隴西天水の地、その忠義民兵は戦闘に利あり、緩急の際固より鼓率し易し、若しその勇を恃み利を貪り、上を犯し乱を作さば、則ち又た大軍に止まらざるのみならん。苟もその本原を正さず、歳月を以て之を磨き、礼義を以て之を漸まさば、未だ其の可なるを見ざるなり。

今日の帥権を領する者は、必ず辺境に近く、必ず親兵を擁すべし;兵権ある者は、必ず経費を領し、必ず用度を寛にすべし。忠義の兵に至りては、又た徳ある者を以て統率と為し、書を知る者を選びて教導と為し、古人の所謂く民を教えて後に之を用うるが如くすべし。今議此より出でず、乃ち幸いに勝ちて以て功と為し、苟も安んじて以て免れんことを求む、天下を誤る者は必ず此の人なり。」

時に朝論未だ以て然りとせず。

差して寧国府を知り、又た改めて隆興府・江西安撫を知る。居ること亡き幾ばくもせず、蜀辺兵に被り、内に張福・莫簡の変あり、彦約の言一つとして験ならざる無し。遷りて大理少卿と為り、又た権めて戸部侍郎と為り、宝謨閣待制を以て成都を知る。彦約闕に赴きて奏事せんことを乞うも、允さず、又た省に申して入対せんことを乞うも、報いず。改めて福州を知り、又た改めて潭州を知る。彦約力辞し、明道観を提挙し、尋いで煥章閣待制を以て崇福宮を提挙す。

理宗即位し、擢て兵部侍郎兼国史院同修撰と為る。宝慶元年入対し、帝に講学を勧め、近習を防がんことを勧む。次に言う、「慶暦・元祐の言を聴くを法と為し、紹聖・崇寧・大観の言を諱むを戒と為すべし。比年以來、直を売り名を好むの説を以て奏対に見る者有り、願わくは陛下忠直を蓍亀の如く倚り、邪佞を蟊賊の如く去り、其れ讜言を沮撓する者有らば、必ず斥逐を加えよ。」

会に詔して言を求むる下る、彦約封事を上ぐるに曰く、「陛下定省を謹みて以て長楽に事え、王社を開きて以て天倫を篤くす、孝友の行、宜しく以て天下に信を取るに足るべし。然るに兄弟至親、猶お狂妄小人の手に誤り、道路異説、猶お尺布縫わずの謡に襲わる。臣以為う、法を守るは人臣の職なり、恩を施すは人主の柄なり。漢の淮南王社稷を危うくせんと欲す、張蒼・馮敬等請う法の如く論ずるを、文帝既に其の罪を赦し廃徙し、王不幸にして死す、其の二子を故地に封ず。此れ往事の明験、本朝太宗皇帝の既に行いし所なり。今若し文帝縁情の義に徇い、太宗継絶の意を法とし、好悪を明示し、隙指す可き無くんば、謗を止めずと雖も而して謗息まん。」又た言う、「陛下言を求むるの詔、惟だ及ばざるを恐るるも、然れども外議疑いを致し、文武を明言するは、或いは搢紳に止まるに似たりと為し、小大を泛言するは、恐らくは韋布に及ばざらんと為し、引きて之を伸ばすは、特にある一命令の間のみ。」又た隆州布衣李心伝の素より史学に精しきを薦め、初品を以て官し、之を史館に置かんことを乞う、之に従う。

尋いで侍読を兼ね、俄かに遷りて礼部侍郎と為る。宝謨閣直学士を加え、佑神観を提挙し侍読を兼ぬ。兵部尚書を授かるも、力辞して拝せず。改めて宝章閣学士・常徳府知府と為り、陛辞に際し、下情未だ通ぜず、横斂未だ革まらざるを言う。帝曰く、「其の病安在にか。」対えて曰く、「台諫専ら人主を言い、時政に及ばず、下情安んぞ得て通ぜん。包苴都城に公行すれば、則ち州郡横斂するは、疑う可き無き者なり。」崇福宮を提挙し、卒す。華文閣学士を以て通議大夫に転じ致仕し、宣奉大夫を贈らる。嘉熙初め、諡して「文簡」を賜う。

范応鈴

范応鈴、字は旂叟、豊城の人。方に娠するや、大父双日の庭を照らすを夢み、応鈴生まる。稍く長じて、志を学に厲し、丞相周必大其の文を見て、之を嘉賞す。開禧元年、進士に挙げられ、永新尉に調う。県は龍泉・茶陵溪峒の衝に当たり、寇甫めて平らぎ、乱を喜ぶ者詐りて驚擾を為す。応鈴廉かに主名を得て、捽えて之を治む。県十三郷、寇擾るる者時に依らず、安撫使司を移して郡を兼ぬ。初め八郷民の租を二年弛めんことを奏し、詔下りて章の如し。既にして復た検核の数を以て催す。応鈴力争うも従わず。即ち郡に詣りて自ら言い、反覆数四す。帥声色倶に厲し、応鈴従容として曰く、「某徒らに八郷貧民の為のみに非ず、乃ち深く州の為に計る耳。民貧にして之を急に迫れば、将に不肖の心を以て之に応じ、租得可からずして禍未だ易く弭ぎ難し。」帥色動き、下戸を免ぜしめよと令す。既に令出づるも、復た之を征す。応鈴歎じて曰く、「是れ我をして重ねて民に失信せしむるなり。」又た之を力争い、訖う所請を得、民大いに感悦す。大姓有りて転運使と連なり、家僮恣横に民を厲す。応鈴笞して之を獄に繫ぐ。郡吏庭に令を辱しむ。応鈴吏を執りて之を囚し、状を以て聞す。

衡州録事に調う。総領応鈴の名を聞き、辟いて属と為す。改めて崇仁県知県と為る。初めて至り、約束を明かにし、期会を信じ、紀綱を正し、吏民に曉諭して、趨避すべき所を知らしむ。然る後郷吏の供需を罷め、版籍の欺敝を校す。数ヶ月ならずして省簿成る。即ち其の簿及び苗税則例を以て之を総領所に上ぐ。此より賦役均し。夙に興き、冠裳を着て訟を聴き、発擿神の如し。故事期に依らずして結正せざる無く、負くる者と雖も心服せざる無し。真徳秀其の堂に扁して「対越」と曰う。将に代らんとす、整治初めに至るが如し。歳杪、百姓と休息し、債負を閣き、租税を蠲め、囚繫を釈し、生を恤い死を瘞い、孝を崇め睦を勧む、仁民厚俗の事、悉く挙げて以て行い、之を榜揭に形し、見る者嗟歎す。提轄文思院に調い、幹辦諸軍審計を為し、添差通判撫州と為る。言者を以て罷められ、祠を与えらる。内艱に丁し、服除け、通判蘄州と為る。

時に江右峒寇乱を為し、吉州八邑、七たび残毀せらる。差して吉州知州と為る。応鈴慨然として曰く、「此れ豈に臣子難を辞すべき時ならんや。」即ち親を奉じて以て行く。下車、首に練兵・足食を先務と為し、然る後冗吏を去り、軍籍を覈し、老弱を汰い、以て次第に行うを罷む。応鈴財計の本末を洞究し、毎に榷酤の利を興すを鄙み、蘄五邑悉く戸に改む。吉は舟車の会にして、且つ大軍を屯し、六万戸、人之に榷せんことを勧む。応鈴曰く、「財を理め辞を正す、吾縦え百姓の群飲を禁ぜずと雖も、其れ之を誘きて其の贏を利せしむ可けんや。」永新禾山群盗嘯聚し、数日の間応ずる者千数を以てす。応鈴過客趙希邵に才略有るを察し、檄して之をして邑を摂せしめ、郡兵を調い、隅保を結び、道を分かちて其の巣穴を搗ち、之を禽え、其の首と為る者七人を誅し、一郷以て定まる。贛叛卒朱先主帥を賊殺す。応鈴曰く、「此れ小変に非ず。」密かに諜を遣わし厚賞を以て之を捕わしむ。部使者其の軽発を劾し、一官を鐫る。閑居六年、親を養い書を読み、泊如たり。起きて広西提点刑獄と為るも、力辞し、年を逾えて乃ち命を拝す。既に至り、平反する所多し。丁銭民を蠹す、力を奏して之を免ぜしむ。

金部郎官に召され、入見すると、まず言うには、「今、朝に立てて暮に改めるような規模で、累年にわたる上は遊び下は怠慢の積習を変えようとし、悠悠たる内治の弊政をもって、一旦の赫々たる外攘の大功を図ろうとしている」と。また曰く、「公論は君子より出ずるにあらず、君に逢う小人を参じており、紀綱は朝廷に正しからず、権を弄ぶ閹寺に牽かれている」と。言は皆讜直にして、識者はこれを是とした。尚左郎官に遷り、まもなく浙東提点刑獄となるが、力んで便養を乞い、直秘閣・江西提挙常平に改め、併せて詭挾三萬戸を正し、風采凛然たり。

父の喪に服し、喪が明けて、軍器監兼尚左郎官に遷る。召見され、奏して曰く、「国事の大にして急なるものは、儲貳を先とす。陛下宸衷より断ぜず、徒に左右近習の言に眩惑され、宮庭嬪御の見に転移し、今を失って図らざれば、姦臣夜半に乗じ、片紙或いは中より出で、忠義の士束手策無からん」と。帝これに動容す。塩法の屡変するに属し、商賈の贏は、上は朝廷の自鬻に奪われ、下は都郡の拘留に奪わる。九江・章はその襟喉を扼し、江右の貧民は終歳淡食す。商と民ともに困窮す。応鈴力んで四害を陳べ、祖宗の入粟易塩の法を用いんことを願う。

直宝謨閣を授かり、湖南転運判官兼安撫司となる。峒獠の蒋・何の三族、千余人を聚め、県令を執り、王官を殺す。帥憲は招捕すれども、年を逾えても至らず。応鈴曰く、「これを招くは適に寇を長ずるに等しく、亟にこれを捕うべし」と。即ち飛虎等の軍を調し、隅総と会してこれを討つ。応鈴親臨して誓師し、号令明壮、士卒鼓勇して前に進み、蒋時選父子及び凶渠五人を禽えて誅す。脅従する者はこれをして安業せしめ、一月に満たずして全師して帰る。直煥章閣を授かり、上疏して事を謝し、允されず。大理少卿に擢げられ、再び請うもまた允されず。一朝に府庫を籍し、簿書を核し、官事を処決し終わり、遂に家務に及び、纖悉遺すことなし。僚属清心省事を勧むるに、曰く、「生死は数なり、平生の学力、正に今日に在り」と。帥の別之傑疾を問うに、応鈴冠を整え肅然として入り、言論平常の如し。之傑退きし後、倏然として逝く。

応鈴は開明磊落、正を守りて阿わず、是非を別白し、義を見て必ず為し、得失利害を以てその心を動かさず。書饋上官に交わらず、薦挙権門に徇わず、官に当たりて行い、非義を以て撓がすを敢えてせず。至る所に留訟無く、滞獄無く、吏を繩するに少も貸さず、また未だその資を没することなく、曰く、「彼の貨は悖りて入る、官また従って悖りてこれを入る、可ならんや」と。進修潔に励み、姦贓を案じ、風声を振樹し、聞く者興起す。家居の時、人に不平あれば、官府に走らずして応鈴の門に走り、不善を為す者は、輒ち相戒めて曰く、「范公にこれを聞かしむるなかれ」と。書を読みて大義を明らかにし、特に『左氏春秋』を喜び、著す所に『西堂雑著』十巻あり、訟を断ずる語を『対越集』四十九巻と曰う。徐鹿卿曰く、「応鈴の経術は児寛に似、決獄は雋不疑に似、民を治むるは龔遂に似、風采は范滂に似、財を理むるは劉晏に似、而して正大はこれを過ぐ」と。人これを名言とす。

徐経孫

徐経孫、字は中立、初名は子柔。宝慶二年の進士、瀏陽主簿を授かる。潭守、牙契銭を部して州に至らしむ。告ぐる者有りて曰く、「朝廷方に令を下し十七界会を頒行せんとす、今若し此の銭皆会を用い、小須すれば、則ち幸いにして大利を獲ん」と。経孫曰く、「此の銭は保司より取り、公庫より出ず。吾会を納めて私に其の銭を取らば、外は其の民を欺き、内は其の心を欺く、奚ぞ可ならんや」と。詰旦、悉く部する所の銭を上ぐ。其の人驚服し愧色有り。

永興令に辟され、臨武県を知り、潭州通判となる。帥の陳韡雅に相知り、事必ず咨して後に行う。秩満し、豊儲倉提管より進み権轄となり、国子博士兼資善堂直講となる。監察御史として、京尹厲文翁を劾し言偽にして辨なりとす。疏入り、中に留まる。宣諭再び至り、即日に関を出づ。上使いを遣わしてこれを追うも、及ばず。直宝章閣・福建提点刑獄に進み、平允と称せらる。歳余にして安撫使に昇り、秘書監兼太子諭徳に召される。経孫安撫たりし時、韡家居す。門人故吏に法を撓ます者ありて逞しを得ず、相与に摇撼す。ここに至りて韡起家し本郡を判す。私を懐き忿を逞うし、復た交承の礼無く、即日通判を劾奏し、語経孫を侵し、府庫を席卷して去ると謂う。ここにおいて通判を罷め、其の秩を削る。経孫朝に造り、政府に具に白す。事上聞し、帝大いに怒り、宰執に諭して曰く、「陳韡老繆此に至る、宜しく亟にこれを罷むべし」と。ここにおいて経孫再び政府に詣り、言うには、「某、韡の門生なり、前日の白は、公事なり。苟も韡此を以て罪を得ば、人我を何と謂わん」と。請うて置かず、自ら閑を乞わしめ、明らかに通判無罪なることをせしむ。識者これを是とす。

宗正少卿・起居舎人・起居郎に遷り、入奏して曰く、「人君たる者は理欲の界限を守るべし」と。刑部侍郎兼給事中に遷り、太子左庶子・太子詹事に昇り、東宮を輔導すること三年、経義を敷陳し、事に随い啓迪す。太子入侍するときは、必ず其の講聞する所を悉く奏す。帝未だ嘗て善しと称せざることなし。景定三年春雷す。詔して直言を求む。経孫対えて曰く、「三数年来、言論する者は靖共を主とし、懐く者有れば譁訏を戒とす。忠讜の気、鬱して行わるること得ず。上帝降監し、雷を仮りて鳴らす」と。時に病を切中す。

公田法行わる。経孫其の利害を条す。丞相賈似道に忤う。翰林学士・知制誥を拝す。月を逾えず、御史舒有開に諷して奏免せしめ、罷めて帰す。湖南安撫使・知潭州を授かるも拝せず。端明殿大学士を授かり、閑居十年、卒す。金紫光禄大夫を贈られる。経孫の薦むる所の陳茂濂、公田官となり、嘉興に分司す。経孫の国を去るを聞き、曰く、「我徐公に負くべからず」と。遂に親老を以て謝して帰り、終身起たず。

論じて曰く、嗚呼、寧宗の君たる、韓侂冑の相たる、豈に兵を用うるの時ならんや。故に婁機力を以てこれを止む。小学の廃くること久し、而して機独り此に致力するを知る。沈煥・舒璘は学遠く識明らかなり。曹彦約は与に事功を建立すべし。范応鈴は赫然として政事神明の如し。徐経孫は清慎にして守る有り、卒に公田を争いて賈似道に迕い国を去る。君子これを称す。