宋史

列傳第一百六十八 高定子 高斯得 張忠恕 唐璘

列傳第一百六十八 高定子 高斯得 張忠恕 唐璘

高定子

原文高定子

高定子、字は瞻叔、利州路提点刑獄兼知沔州たる高稼の弟なり。嘉泰二年に進士に挙げられ、郪県主簿を授かる。呉曦が叛くと、官を解き母を養うことを乞う。曦誅せられ、府事を摂行す。宇文公紹、忠孝両全を以て之を薦め、中江県丞に調ぜらる。父、就養して疾を得、定子は衣帯を解かざること六十日に及ぶ。喪に居り、哀毀して骨立す。服除け、成都府路諸司、丹棱令に辟す。尋いで同産弟の魏了翁が眉を守るに及び、監資州酒務に改む。母憂に遭い、服除け、知夾江県を差す。

原文高定子,字瞻叔,利州路提點刑獄兼知沔州稼之弟也。嘉泰二年舉進士,授郪縣主簿。吳曦畔,乞解官養母。曦誅,攝府事,宇文公紹以忠孝兩全薦之,調中江縣丞。父就養得疾,定子衣不解帶者六旬。居喪,哀毀骨立。服除,成都府路諸司辟丹棱令,尋以同產弟魏了翁守眉,改監資州酒務。丁母憂,服除,差知夾江縣。

これ以前、酒酤は商人より秫を借りしが、定子は銭を給して糴せしめ、且つ榷酤を寛めしむ。民、便と為す。麻菽は旧に征有りしが、定子は悉く之を弛む。会に水潦重なりて饑え、貧民競いて訴えて糴する所無し。定子曰く、「汝ら憂うる毋れ、汝ら第に銭を持ち往時の糴せし家に往きて俟てよ」と。乃ち県廩を発して諸富家に給し、時価を以て糶せしめ、秋に至りて償わしむ。須臾にして米市に溢る。隣邑に田を争うこと十余年決せざる有り。部使者、定子に属す。定子、偽りて質剤を為せるを察知す。其の人伏せず。定子曰く、「嘉定改元の詔三月に至りて県に始めて到る。安んぞ嘉定元年正月の文書有らんや」と。両造遂に決す。四川総領所、主管文字に辟す。同幕に趣辦を能と為し諸郡を迫促する者有り。定子、使者に白して之を斥去せしむ。総領所は利州に治し、酒榷に倚りて軍用を佐く。吏の奸盤錯す。定子躬自ら究詰し、酒政遂に平らぐ。後来者復た課を増やさんと欲す。定子曰く、「前に吏の蠹を以てすでに之を革めしに、今又益を求む。是れ再榷なり」と。乃ち止む。

原文前是,酒酤貸秫於商人,定子給錢以糴,且寬榷酤,民以為便。麻菽舊有征,定子悉弛之。會水潦洊饑,貧民競訴無所於糴,定子曰:「汝毋憂,汝第持錢往常所糴家以俟。」乃發縣廩給諸富家,俾以時價糶,至秋而償,須臾米溢於市。鄰邑有爭田十餘年不決,部使者以屬定子,定子察知偽為質劑,其人不伏。定子曰:「嘉定改元詔三月始至縣,安得有嘉定元年正月文書邪?」兩造遂決。四川總領所辟主管文字,同幕有以趣辦為能迫促諸郡者,定子白使者斥去之。總領所治利州,倚酒榷以佐軍用,吏姦盤錯,定子躬自究詰,酒政遂平。後來者復欲增課,定子曰:「前以吏蠹,亦既革之,今又求益,是再榷也。」乃止。

制置使鄭損、彊愎自用にして、誤って総領所が十一州の小会子の利を擅にすと謂い、奏請して之を廃せんとす。令下り、民疑いて市を罷む。定子力爭し、謂く、「小会子は実に銭に代わる。百姓貿易、是れに頼りて川引を権る。罷むれば則ち関・隴の民交わりて病まん。況んや又隆興間旨を得て之を為す。擅に非ざるなり」と。乃ち其の半を存するを得。損又た総領所の塩課を増やさんと欲し、旧に軍費を貸せしを取りんとす。定子其の顛末を弁じ、損乃ち釈然として曰く、「二司相関する処、公毎に明白洞達之を言う。人をして爽然自失せしむ」と。尋いで知長寧軍を差す。長寧の地は夷獠に接し、公家の百需皆淯井塩利に仰ぐ。来者往々にして因りて自ら封殖す。制置司又た其の半を榷入す。定子至り、制置使と爭い、重賦を蠲かるを得たり。

原文制置使鄭損彊愎自用,誤謂總領所擅十一州小會子之利,奏請廢之,令下,民疑而罷市。定子力爭,謂:「小會子實以代錢,百姓貿易,賴是以權川引,罷則關、隴之民交病,況又隆興間得旨為之,非擅也。」乃得存其半。損又欲增總領所鹽課,取舊貸軍費,定子辨其顛末,損乃釋然曰:「二司相關處,公每明白洞達言之,使人爽然自失。」尋差知長寧軍。長寧地接夷獠,公家百需皆仰淯井鹽利,來者往往因以自封殖,制置司又榷入其半。定子至,爭於制置使,得蠲重賦。

知綿州を差す。大元兵、鳳州塞を穿ち、武休を破り、興元を下す。小校張鉞、其の徒を率いて潰れて文州に入り、守臣楊必復を殺し、将に龍より綿に趨り、以て成都を闖かんとす。安撫使黄伯固之を聞き、亟に定子を参議官を兼ね、文・龍の備禦を措置せしむるを奏す。定子乃ち諸軍を部分して清塘嶺を扼せしめ、鉞就擒す。已にして剣南大いに震う。定子僚吏に語りて曰く、「諸君の去留は敢えて拘えず。若し某が如きは則ち城郭封疆を守るの臣、死有るのみ」と。群胥に戒めて曰く、「潰軍流民は過ぎず銭糧を得んと欲する爾。吾将に吾が州の蔵を尽く発し諸司の綱を截ち、朝廷の為に扞蔽し全蜀しょくを全うせん。我去らば、汝等我を殺すを聴け。汝等逃げば、吾汝が頭を斫らん」と。乃ち令を下して潰卒を招き、人ごとに緡銭五十・米一石を給し、都監陳訓に専ら接納を任ぜしむ。訓忽ち奔告して曰く、「諸軍招を受くると雖も、甲を釈くを肯せず。奈何」と。定子乃ち帳下の卒に令し衷甲して両廡に俟たしめ、軽動する毋かれと戒む。俄にして諸軍盛んに兵を陳べて以て至る。吏士皆股栗す。定子堂上に坐し、伝令して之を労苦しむ。諸軍皆拝す。定子理を以て開諭し、還りて本部にし、以て犒を給するを俟たしむ。諸将之を聞き、亦来り上謁す。定子復た之を慰安す。因りて問う、「汝等何を為して此に至る」と。皆曰く、「制置使存亡を知らず、諸軍主無し」と。定子曰く、「大帥は暫く治を移すに過ぎず。已に人を遣わし所在を訪わしむ。苟も終に獲ずば、我当に汝曹の為に主張せん。且つ諸軍此に至るは糧無き故なり。吾が州当に供億を任ず」と。又曰く、「敵将に復た此に会せん。盍ぞ之を避けざる」と。定子曰く、「我は文官なり。死を畏れず。汝は将軍なり。世々衣食県官す。乃ち敵を避けんと欲する乎。我は守臣なり。死すれば則ち此に死せん爾。太守を殺さんと欲する者あれば、一槍足れり。軍器安んぞ多きを為さん。今諸軍大いに集まる。万一敵至らば、能く戮力して出戦せば、是れ汝曹功を立て国に報ゆるの機なり。猶お内郡に深入して罪滋だ大なるに愈りざらんや」と。衆悦びて去る。乃ち吏を遣わし令の如く犒を給し、寺観祠宇を辟きて以て之を舎せしむ。

原文差知綿州。大元兵穿鳳州塞,破武休,下興元,小校張鉞以其徒潰入文州,殺守臣楊必復,將自龍趨綿,以闖成都。安撫使黃伯固聞之,亟奏定子兼參議官,措置文、龍備禦。定子乃部分諸軍扼清塘嶺,鉞就擒。已而劍南大震,定子語僚吏曰:「諸君去留不敢拘,若某則守城郭封疆之臣,有死而已。」戒群胥曰:「潰軍流民不過欲得錢糧爾,吾將盡發吾州之藏與截諸司之綱,為朝廷扞蔽全蜀。我去,聽汝等殺我;汝等逃,吾斫汝頭矣。」乃下令招潰卒,人給緡錢五十、米一石,命都監陳訓專任接納。訓忽奔告曰:「諸軍雖受招,不肯釋甲,奈何?」定子乃令帳下卒衷甲於兩廡以俟,戒毋輕動。俄而諸軍盛陳兵以至,吏士皆股栗,定子坐堂上,傳令勞苦之,諸軍皆拜。定子開諭以理,使還本部,以俟給犒。諸將聞之,亦來上謁,定子復慰安之。因問:「汝等何為至此?」皆曰:「制置使未知存亡,諸軍無主。」定子曰:「大帥不過暫移治爾,已遣人訪所在,苟終不獲,我當為汝曹主張。且諸軍至此以無糧故,吾州當任供億。」又曰:「敵將復會於此,盍避之?」定子曰:「我文官也,不畏死,汝將軍也,世世衣食縣官,乃欲避敵乎?我是守臣,死則死於此爾。有欲殺太守者,一槍足矣,軍器安用多為?今諸軍大集,萬一敵至,能戮力出戰,是汝曹立功報國之機也,不猶愈於深入內郡為罪滋大乎?」眾悅而去。乃遣吏給犒如令,辟寺觀祠宇以舍之。

亡き幾何、敗将和彦威・陳邦佐・曹篪・張涓・姚承祖等皆彰明に集まり、剽掠尤甚だし。彦威、邦佐を州に入れしめ、大言して衆を駭かし、定子に謂いて曰く、「知府何ぞ去らざる。和太尉両戎司を兼ね、威権甚だ重く、麾下の兵将に二万余、来たりて此に駐せんと欲す。今至らんとす」と。定子之に謂いて曰く、「本州素より備禦の地に非ず。大将兵を以て入る、何を為さんと欲する。第に来れ、吾固より以て相待する有らん」と。邦佐色沮み、乃ち曰く、「已に幕府を遣わし来たり議せんとす」と。至れば則ち一遊士爾。繆りて恭敬を為し、要索甚だ大なり。定子答えて曰く、「軍将吾が境に入らば、当に吾が節制を受くべし。惟だ各々紀律を守らば、則ち以て銭糧を給せん。若し敵至らば、国の為に一死し、忠臣孝子と作る。五日汗せずして死するに病むに愈れり」と。幕府対ふる能わず。彦威の符移を出だす。云う有り、「大府散軍を招戢し、人ごとに銭米若干を給す。今部する所二万人に下らず、願わくは数の如く之を得ん」と。定子報じて曰く、「本州已に此の令を下す。何ぞ敢えて食言せん。但だ給する所は乃ち潰軍招に就き罪を免るるの人なり。都統の部する所は潰に非ず。若し此の例を以て相給せば、其れ肯て受けんや」と。彦威檄を得て甚だ慙じ、乃ち別に銭糧を給し以て軍を饟わんことを乞う。定子即ち四十万緡を捐てて之に与え、仍て其の還りて戍るを趣す。蓋し定子身を以て両司の責を任じ、其の労勩を極め、張鉞を収捕する功を以て、三官を進め、防遏し潰兵を招收する功を以て、又た一官を進め、直宝章閣に進み、再任す。

原文亡幾何,敗將和彥威、陳邦佐、曹篪、張涓、姚承祖等皆集於彰明,剽掠尤甚。彥威遣邦佐入州,大言駭眾,謂定子曰:「知府何不去?和太尉兼兩戎司,威權甚重,麾下兵且二萬餘,欲來駐此,今至矣。」定子謂曰:「本州素非備禦之地,大將以兵入,欲何為者?第來,吾固有以相待。」邦佐色沮,乃曰:「已遣幕府來議。」至則一遊士爾,繆為恭敬,要索甚大。定子答曰:「軍將入吾境,當受吾節制,惟各守紀律,則給以錢糧。若敵至,為國一死,作忠臣孝子,愈於病五日不汗死也。」幕府莫能對,出彥威符移,有云:「大府招戢散軍,人給錢米若干,今所部不下二萬人,願如數得之。」定子報曰:「本州已下此令,何敢食言;但所給者乃潰軍就招免罪之人,都統所部非潰也,若以此例相給,其肯受乎?」彥威得檄甚慙,乃乞別給錢糧以饟軍,定子即捐四十萬緡與之,仍趣其還戍。蓋定子身任兩司之責,極其勞勩,以收捕張鉞功,進三官,以防遏招收潰兵功,又進一官,進直寶章閣,再任。

頃く之を以て、召し入れて奏事せしむ。吏民追送し、涕を流さざる莫し。隣郡定子の至るを聞き、香を焚きて道を夾し、手を挙げて額に加えて曰く、「公微ならば、吾属塗炭久しからん」と。定子の未だ郡を去らざるや、伯兄稼は権利路提刑を以て印を上して帰り、了翁亦た靖州より至り、綿に於いて定子に過ぐ。定子之が為に棣萼堂を築き、酒を飲み詩を賦して楽しましむ。一時以て美談と為す。入りて対し、極めて時弊を言う。時に史弥遠国柄を執ること久し。故に曰く、「陛下元勲を優礼し、以て繁機を弛め静寿を養わしめ、朝廷以て百度を新たにし因循を革むるを得しむ。亦た善からずや」と。既に対し、人定子の為に危ぶむ。定子曰く、「乖逢得喪は是れ命有り。吾言を尽くすを得ば、乃ち君に報ゆる職分なり」と。両月を越え、乃ち刑部郎中に遷す。弥遠没し、之を言う者紛然たり。識者謂う、定子先事に言有り、諸人を視るに難しと。

原文頃之,召入奏事,吏民追送,莫不流涕;鄰郡聞定子至,焚香夾道,舉手加額曰:「微公,吾屬塗炭久矣。」定子之未去郡也,伯兄稼以權利路提刑上印而歸,了翁亦至自靖州,過定子於綿,定子為築棣萼堂,飲酒賦詩為樂,一時以為美談。入對,極言時弊。時史彌遠執國柄久,故有曰:「陛下優禮元勳,俾得以弛繁機而養靜壽,朝廷得以新百度而革因循,不亦善乎?」既對,人為定子危之,定子曰:「乖逢得喪,是有命焉,吾得盡言,乃報君職分也。」越兩月,乃遷刑部郎中。彌遠沒,言之者紛然,識者謂定子先事有言,視諸人為難。

まもなく直宝謨閣・江南東路転運判官に任ぜられる。辞去のため宮中に参上すると、帝は言った、「淮師が辺境を巡視していることは、卿は知っているか。輔車の勢いにおいて、漕運が急務である。卿のこのたびの赴任は緩急を斟酌し、以て相通融すべきである」。定子はこれにより上疏して辺境の事を論じ、甚だ周到詳細であり、帝は嘉納した。一年余りして、召されて入朝し奏事する。ちょうど高稼が沔州において国事に殉じたので、上疏して病を引き合いに出し、帰田を乞うたが、許されなかった。まもなく軍器監に遷り、また太府少卿に遷り、計度転運副使に昇進した。明堂の祭祀があったとき、天は大雷雨となり、詔して直言を求めたので、定子は災異を畏れ敬う意を反覆して論じた。再び召されて入朝し、司農卿兼玉牒所検討官に遷った。

原文尋以直寶謨閣、江南東路轉運判官。陛辭,帝曰:「淮師巡邊,卿知之乎?輔車之勢,漕運為急,卿是行宜斟酌緩急,以相通融。」定子因上疏論邊事甚周悉,帝嘉納焉。逾年,召入奏事。會稼死事於沔州,上疏引疾,乞歸田里,不許。尋遷軍器監,又遷太府少卿,升計度轉運副使。有事於明堂,天大雷雨,詔求言,定子反覆論敬懼災異之意。復召入,遷司農卿兼玉牒所檢討官。

入朝して対し、言うには、「内治修まらず、外懼謹まず、近親に政事に預かる漸あり、近習に権力を弄ぶ漸あり、小人に再び用いられる漸あり、国柄に陵夷の漸あり、士気に委靡の漸あり、主勢に孤立の漸あり、宗社に危険に瀕する漸あり。天変日増し、地形日蹙む。昔に危脈ありしが、今に危形あり。昔に亡理ありしが、今に亡証あり」。また詔を明らかにして沿流の帥守将吏に、奇を出し険に乗ずることを思い、水陸より進むべき策を求むることを請うた。

原文入對,言:「內治不修,外懼不謹,近親有預政之漸,近習有弄權之漸,小人有復用之漸,國柄有陵夷之漸,士氣有委靡之漸,主勢有孤立之漸,宗社有阽危之漸。天變日多,地形日蹙。昔有危脈,今有危形;昔有亡理,今有亡證。」又請明詔沿流帥守將吏,思出奇乘險,求為水陸可進之策。

兼樞密都承旨に昇進し、また太常少卿兼国史院編修官に遷った。累次にわたり辺境の事を上言し、起居舎人に遷り、まもなく兼中書舎人となり、京湖・江西督視府事に参賛した。定子は親しく往きて新城を周視し、諸軍を大いに犒労し、守将を激励した。礼部侍郎に遷り、なお兼中書舎人を帯び、即ち軍中において金帯を賜った。詔して督府の事を以て入奏せしめ、既に至ると、帝は労問甚だ厚く、特に一官を進め、まもなく兼崇政殿説書兼直学士院を兼ねた。間もなく、侍講・権礼部尚書に改め、兼侍読に昇進した。入奏して言うには、「国に仁賢なく、礼義なく、政事なく、叔世に類す」。帝は竦然とした。まもなく兼直学士となり、孝宗・寧宗の『日暦』を修し、書成りて上進すると、擢て翰林学士・知制誥兼吏部尚書に拝し、兼修国史・実録院修撰に昇進し、衣帯・鞍馬を賜った。李心伝を召し収めて四朝の志・伝を卒成することを乞うた。

原文升兼樞密都承旨,又遷太常少卿兼國史院編修官。累言邊事,遷起居舍人,尋兼中書舍人,參贊京湖、江西督視府事,定子親往周視新城,大犒諸軍,激厲守將。遷禮部侍郎,仍兼中書舍人,即軍中賜金帶。詔以督府事入奏,既至,帝勞問甚渥,特進一官,尋兼崇政殿說書兼直學士院。未幾,改侍講、權禮部尚書,升兼侍讀。入奏,言:「國無仁賢,無禮義,無政事,有類叔世。」帝竦然。尋兼直學士,修孝宗、寧宗《日曆》,書成上進,擢拜翰林學士、知制誥兼吏部尚書,升兼修國史、實錄院修撰,賜衣帶、鞍馬。乞召收李心傳卒成四朝志、傳。

時に礼部尚書杜範・吏部侍郎李韶は皆剛直を以て称せられ、或いは身を乞うて去らんとし、或いは家に臥して出でず。定子は言う、「人主が耳目を寄せる者は、台諫なり。耳目の及ばざる所を補う者は、法従の論思、百官の輪対なり。然らば上には必ず君徳の純駁を論じ、次には必ず朝政の得失を言う。これを捨てて、ただ常程を言わしめ、姑く故事に応じ、雷霆の威を畏縮し、宰執の好みに阿徇し、耳目の官を遜避せしむれば、則ち凡そ論思等の事は、皆講ずる必ずず。速やかに李韶を返して不諱の門を開き、杜範を勉めて起し、敢言の気を伸べしむべし」。これにより帰田を乞うこと甚だ力を入れた。

原文時禮部尚書杜範、吏部侍郎李韶皆以伉直稱,或乞身求去,或臥家不出。定子言:「人主寄耳目者,臺諫也,補耳目之所不逮者,法從之論思,百官之輪對,則上必論君德之粹駁,次必言朝政之得失。舍是而使之但言常程,姑應故事,畏縮乎雷霆之威,阿徇乎宰執之好,遜避乎耳目之官,則凡論思等事,皆不必講矣。宜速返李韶以開不諱之門,勉起杜範以伸敢言之氣。」因乞歸田甚力。

端明殿学士・簽書樞密院事に進み、まもなく兼権参知政事を兼ねた。旧職のまま、福州知州・福建安撫使に任ぜられたが、固辞し、洞霄宮提挙となった。これにより致仕を請うたが、許されず、潭州知州・湖南安撫大使に改められたが、力辞し、呉中に退居し、深衣大帯を着け、日に著述を以て自ら楽しんだ。資政殿学士を以て一官を転じて致仕し、卒す。少保を贈られた。

原文進端明殿學士、簽書樞密院事,尋兼權參知政事。仍舊職,知福州、福建安撫,固辭,提舉洞霄宮。因請致仕,不許,改知潭州、湖南安撫大使,力辭,退居吳中,深衣大帶,日以著述自娛。以資政殿學士轉一官致仕,卒,贈少保。

定子は夾江に同人書院を作り、長興の学を修め、六先生祠を創建し、蓋し教化を以て先務と為した。著す所に『存著斎文集』『北門類稿』『薇垣類稿』『経説』『紹熙講義』『奏議』『歴官表奏』、世に行わる。

原文定子作同人書院於夾江,修長興學,創六先生祠,蓋以教化為先務。所著《存著齋文集》、《北門類稿》、《薇垣類稿》、《經說》、《紹熙講義》、《奏議》、《曆官表奏》行世。

高斯得

原文高斯得

高斯得、字は不妄、利州路提点刑獄・沔州知州高稼の子なり。幼くして李坤臣に学び、坤臣は盲目なりしが、斯得は左右に扶持した。成都路転運司の試に中り、太学に補入された。紹定二年に進士に挙げられ、利州路観察推官に授けられた。二年を越え、辟差されて四川茶馬幹弁公事となる。李心伝が著作佐郎を以て史事を領し、即ち成都において『国朝会要』を修し、辟して検閲文字とした。端平二年九月、高稼が沔州において国事に殉じた。時に大元の兵は沔に屯し、斯得は日夜西に向かいて号泣した。ちょうどその僮僕が沔より至り、高稼の戦没した処を知り、斯得と潜かに行きてその地に至り、遂に高稼の遺体を得て、奉じて帰った。見る者感泣した。喪服を除くも哀傷止まず、仕進の意無し。心伝は方に四朝史を修し、辟して史館検閲とし、秩は秘閣校勘に同じ。蓋し創設の員なり。斯得は光宗・寧宗二帝の『紀』を分修した。まもなく史館校勘に遷り、また軍器監主簿兼史館校勘に遷った。

原文高斯得,字不妄,利州路提點刑獄、知沔州稼之子也。少從李坤臣學,坤臣瞽,斯得左右扶持之。中成都路轉運司試,補入太學。紹定二年舉進士,授利州路觀察推官。越二年,辟差四川茶馬幹辦公事。李心傳以著作佐郎領史事,即成都修《國朝會要》,辟為檢閱文字。端平二年九月,稼死事於沔,時大元兵屯沔,斯得日夜西嚮號泣。會其僮至自沔,知稼戰沒處,與斯得潛行至其地,遂得稼遺體,奉以歸,見者感泣。服除而哀傷不已,無意仕進。心傳方修四朝史,辟為史館檢閱,秩同秘閣校勘,蓋創員也。斯得分修光、寧二帝《紀》。尋遷史館校勘,又遷軍器監主簿兼史館校勘。

時に丞相史嵩之が国政を握り、斯得は対遇し、臆することなく言を尽くした。冬に雷あり、斯得は詔に応じて封事を上し、才を択び相を並べることを乞うた。これにより嵩之の意に迕う。太常寺主簿に遷り、なお兼史館校勘を帯びた。時に斯得の叔父高定子が礼部尚書を以て史事を領し、時人は美談と為した。ちょうど太学博士劉応起が入対し、嵩之を弾劾したので、嵩之は恚り、その党に言わしめて叔父と兄の子は同じ朝廷にあってはならぬとし、斯得を添差通判紹興府とした。淳祐二年、四朝の『帝紀』が書成り、上進された。嵩之は理宗・済王について妄りに毀誉を加え、斯得の草した『寧宗紀』末巻を改めたので、斯得は史官杜範・王遂とこれを弁明した。範の返書にも「奸人邪説を剿入す」の語ありしが、然れども書は既に進上されていた。心伝は斯得の草稿を蔵し、その末尾に「前史官高某撰」と題したのみであった。

原文時丞相史嵩之柄國,斯得遇對,空臆盡言。冬雷,斯得應詔上封事,乞擇才並相,由是迕嵩之意。遷太常寺主簿,仍兼史館校勘。時斯得叔父定子以禮部尚書領史事,時人以為美談。會太學博士劉應起入對,拄嵩之,嵩之恚,使其黨言叔父兄子不可同朝,以斯得添差通判紹興府。淳祐二年,四朝《帝紀》書成,上之。嵩之妄加毀譽於理宗、濟王,改斯得所草《寧宗紀》末卷,斯得與史官杜範、王遂辨之。範報書亦有「姦人剿入邪說」之語,然書已登進矣。心傳藏斯得所草,題其末曰「前史官高某撰」而已。

一年余りして、添差通判台州となる。杜範が既に宰相に入ると、召されて太常博士と為り、秘書郎に遷った。六年正月朔、日食あり。斯得は詔に応じて封事を上し、言うには、「大奸権力を嗜み、巧みに営みて喪服を奪わんとす。陛下独断を奮ってこれを罷退せしめ給うた。是なり。諫憲の臣、交えてその悪を疏し、或いはこれを荒裔に投ぜんことを請い、或いはこれを休致せしめんことを請う。陛下苟もその言を行わば、亦た意向を昭示し、群疑を渙釈するに足る。乃ち一切寝して宣べず、時を歴ること既に久しく、人言止まず、然る後に黽勉して諭を伝え、委曲に奸を誨い、襲絰の時に於いて、妄りに掛冠の請を致さしめ、因りて祠命を降し、苟くも人言を塞ぎ、又た奸人陰にこれが地と為す。是を以て訛言並び興り、善類解体し、聖意の測り難きを謂い、而して大奸の必ず還らんことを謂い、莽・卓・操・懿の禍、将に言うに忍びざる者有らんとす」。時に監察御史江万里及び他の台諫累次に嵩之の罪悪を疏論したが、竟に施行されず、第に嵩之の致仕に因り、祠官を与えたのみであった。故に斯得の封事はまずこれに及んだ。

原文逾年,添差通判台州。範既入相,召為太常博士,遷秘書郎。六年正月朔,日有食之,斯得應詔上封事,言:「大姦嗜權,巧營奪服,陛下奮獨斷而罷退之,是矣。諫憲之臣,交疏其惡,或請投之荒裔,或請勒之休致。陛下苟行其言,亦足昭示意向,渙釋群疑。乃一切寢而不宣,歷時既久,人言不置,然後黽勉傳諭,委曲誨姦,俾於襲絰之時,妄致掛冠之請,因降祠命,苟塞人言,又有姦人陰為之地。是以訛言並興,善類解體,謂聖意之難測,而大姦之必還,莽、卓、操、懿之禍,將有不忍言者。」時監察御史江萬里及它臺諫累疏論嵩之罪惡,竟不施行,第因嵩之致仕,予祠而已,故斯得封事首及之。

また言うには、「大臣たるものは道をもって君に仕えることを貴ぶべきである。今や献替の義は少なく、容悦の意は多く、恥を知る念は軽く、患失の心は重い。内降は執奏すべきであるのに、下殿を待たずして既に行われ、濫恩は裁抑すべきであるのに、中覆に従わずして急に命ずる。正を嫉み邪を庇い、同を喜び異を悪み、術を任じ道を詭とし、媮(安易)を楽しみ労を憚る。陛下虚心に委ね寄せられる、責められるべきは何事か、しかるにその応えはかくの如し」と。時に范鍾独り国政を執り、過失日々に顕著であったので、斯得はこれを及ぼしたのである。また言うには、「便嬖側媚の人は、特に清明の累いとなるに足り、腐夫巧讒して伝幾を揺るがせ、妖㜮外通して魁邪密かに主たり、陰奸伏蠱、互いに煽り交えて攻め、陛下の心は至ってこれに存するもの幾ばくも無し。陛下の心は、大化の本なり。洗濯磨淬し、これを更える所以を思うに、乃ち徒らに虚言無実の名を立てて、これを更化と謂う、これ天心の未だ当たらざる所以、大異の儆めを示す所以なり」と。言は特に切直であり、帝は嘉してこれを納れた。

原文又言:「大臣貴乎以道事君,今乃獻替之義少而容悅之意多,知恥之念輕而患失之心重。內降當執奏,則不待下殿而已行;濫恩當裁抑,則不從中覆而遽命。嫉正而庇邪,喜同而惡異,任術而詭道,樂媮而憚勞。陛下虛心委寄,所責者何事,而其應乃爾。」時范鍾獨當國,過失日章,故斯得及之。又言:「便嬖側媚之人,尤足為清明之累,腐夫巧讒而使傳幾搖,妖㜮外通而魁邪密主,陰奸伏蠱,互煽交攻,陛下之心至是其存者幾希矣。陛下之心,大化之本也。洗濯磨淬,思所以更之,乃徒立為虛言無實之名,而謂之更化,此天心之所以未當,大異之所以示儆也。」言尤切直,帝嘉納焉。

また言うには、「群臣厖雑にして、宮禁奇衺、黷貨外交、豈に坐視してこれを問わざるべけんや?顧みるに乃ち並包兼容の意多く、別邪辨正の慮浅く、憂讒避謗の心重く、直前邁往の志微なり、遂に衆臣をして争衡せしめ、大権旁落し、積軽の勢いを養成して、窺覬の漸を開く。設い不幸ありて、変故これに乗ずれば、上心一たび移り、凶渠立ち至り、宗社に淪亡の憂いを有せしめ、衣冠魚肉の禍に遭い、生靈塗炭の厄に罹らしめん。当の時にあたりて、潔身して去るも、能く万世の清議を逃れんや?」と。ここにおいて群憸悚懼し、或いは泣訴して上前に及び、或いは上章して去らんことを求め、合力して排擯す。斯得遂に補外を求め、在告すること百余日に及び、ここにおいて差して厳州知州と為す。斯得三たび祠官を乞うも、許されず。厳州は山をめぐらして郡と為り、豊歳といえどもなお他州に仰ぐ。夏旱に際し、斯得は租を蠲免し廩を発し、糴を招き分を勧め、朝に請うて、米一万石を得て振済す。

原文又言:「群臣厖雜,宮禁奇衺,黷貨外交,豈可坐視而不之問?顧乃並包兼容之意多,別邪辨正之慮淺,憂讒避謗之心重,直前邁往之志微,遂使眾臣爭衡,大權旁落,養成積輕之勢,以開窺覬之漸。設有不幸,變故乘之,上心一移,凶渠立至,使宗社有淪亡之憂,衣冠遭魚肉之禍,生靈罹塗炭之厄。當是時也,能潔身以去,其能逃萬世之清議乎?」於是群憸悚懼,或泣訴上前,或上章求去,合力排擯,斯得遂求補外。在告幾百餘日,於是差知嚴州,斯得三請乞祠,不許。嚴環山為郡,雖豐歲猶仰它州。夏旱,斯得蠲租發廩,招糴勸分,請於朝,得米萬石以振濟。

浙東提点刑獄に遷る。ここにおいて処州知州趙善瀚・台州知州沈塈等七人が勢いに倚りて民を厲するを劾奏す。疏上るも、報いられず。江西転運判官に改まる。斯得は辞免の具を備え、上奏して曰く、「臣、趙善瀚等七人を劾奏す。未だ報可を聞かず、固より疑う必ず党与有りて営救し、聖聴を惑誤すと。今恩除を奉るに、乃ち臣の料る所に中るを知る。善瀚は、侍御史周坦の婦翁なり。贓吏の魁にして、聖世に錮せらる。鄭清之これと旧有り、復た州符を与う。沈塈は、同簽書枢密院事史宅之の妻党なり。祖宗以来、監司の吏を按ずるに一も施行せざるは未だ有らず。法を壊し紀を乱す、これに甚だしきは未だ有らず。臣身使者たり。吏を劾して行わず、反って節を易うるを叨む。若し栄を貪りて冒して拝すれば、則ち世の頑頓無恥者と何ぞ異ならん?乞うらくは臣を併せて鐫罷し、以て奉使無状なる者を戒めん」と。章既に上るや、坦は自ら己が台諫を任ずるに反って攻めらるるを謂い、遍く同列に懇願して斯得を論ぜしむ。同列これを難ず。計急なり、自ら上章して斯得の新任を劾罷す。未だ幾ばくもせず、坦もまた罷めらる。七人は竟に罷め去る。

原文遷浙東提點刑獄,遂劾知處州趙善瀚、知台州沈暨等七人倚勢厲民,疏上,不報。改江西轉運判官,斯得具辭免,上奏曰:「臣劾奏趙善瀚等七人,未聞報可,固疑必有黨與營救,惑誤聖聽,今奉恩除,乃知中臣所料。善瀚者,侍御史周坦之婦翁也,贓吏之魁,錮於聖世,鄭清之與之有舊,復與州符。沈塈者,同簽書樞密院事史宅之妻黨也。祖宗以來,未有監司按吏一不施行者,壞法亂紀,未有甚此。臣身為使者,劾吏不行,反叨易節,若貪榮冒拜,則與世之頑頓無恥者何異?乞並臣鐫罷,以戒奉使無狀者。」章既上,坦自謂己任臺諫而反見攻,遍懇同列論斯得,同列難之,計急,自上章劾罷斯得新任,未幾,坦亦罷,七人竟罷去。

湖南提点刑獄に移る。潭州通判徐経孫等六人を薦む。攸県の富民陳衡老、家丁糧食を以て強賊に資し、平民を劫殺す。斯得至るに、その事を訴うる者有り。首吏賄を受け左右す。衡老庭に造るに、首吏拱立す。斯得其の姦を発し、首吏を械して獄に下す。群胥色を失い股栗す。ここにおいて研鞫して具にその状を得、乃ち首吏を黥げい配す。朝省に具白し、衡老の官資を追毀し、その家を簿録す。会うに諸邑水災有り、衡老米五万石を出して振済し以て罪を贖わんことを願う。衡老の婿吳自性、衡老の館客太学生馮煒等と謀りて斯得を中傷し官櫝を盗み拆く。斯得朝に白し、復たその罪を正す。一篋の書を出だし、具に自性等の省部吏胥と交通する情状を得る。斯得併せて朝に言い、その事を大府に下す。賄銀六万余両を索め出だし、自性及び省寺の高鑄等二十余人を黥配す。初め、自性厚く宦者に賂して理宗に言わしめて曰く、「斯得緡銭百万を進め、願わくは近地一節に易えん」と。理宗曰く、「高某は硬漢なり、安んぞかくの如き有らん」と。而して斯得力に去らんことを求め、清之書を以てこれを留む。また李晞顔等五人を薦む。

原文移湖南提點刑獄,薦通判潭州徐經孫等六人。攸縣富民陳衡老,以家丁糧食資強賊,劫殺平民。斯得至,有訴其事者,首吏受賕而左右之,衡老造庭,首吏拱立。斯得發其姦,械首吏下獄,群胥失色股栗。於是研鞫具得其狀,乃黥配首吏,具白朝省,追毀衡老官資,簿錄其家。會諸邑水災,衡老願出米五萬石振濟以贖罪。衡老婿吳自性,與衡老館客太學生馮煒等謀中傷斯得盜拆官櫝。斯得白於朝,復正其罪,出一篋書,具得自性等交通省部吏胥情狀,斯得並言於朝,下其事大府,索出賕銀六萬餘兩,黥配自性及省寺高鑄等二十餘人。初,自性厚賂宦者言於理宗曰:「斯得以緡錢百萬進,願易近地一節。」理宗曰:「高某硬漢,安得有是。」而斯得力求去,清之以書留之。又薦李晞顏等五人。

直秘閣を加えられ、湖南転運判官と為り、尚右郎官に改まる。未だ至らず、礼部郎中に改まる。上疏して極めて時事を論ず。権左司に改まり、力辞す。内批して侍立修注官を兼ぬ。水災を論じて曰く、「願わくは陛下立って新寺の土木を罷め、速やかに迕旨の諸臣を反し、邪説を遏絶し、善良を主張し、刑辟を謹重し、士類を愛惜し、佞臣を抑遠し、その幹撓を絶たん。則ち天意回らしめ可く、和気召し可し」と。会うに左司徐霖を斥く。帝、給事中趙汝騰の霖事を争逐するを慮い、乃ち汝騰を翰林学士に徙す。汝騰命を聞き即ち去国す。斯得言う、「汝騰は一世の望、宗老の重き、飄然として引去す。陛下遂にまたこれを弁髦の如く棄つ。中外驚怪し、将に見ん賢者力争して勝たずして去り、小人踊躍して気を増して来らんと。陛下改紀すること僅かに数月、初意遽に変ず。臣深くこれを惜しむ」と。

原文加直秘閣、湖南轉運判官,改尚右郎官,未至,改禮部郎中。上疏極論時事,改權左司,力辭,內批兼侍立修注官。言水災曰:「願陛下立罷新寺土木,速反迕旨諸臣,遏絕邪說,主張善良,謹重刑辟,愛惜士類,抑遠佞臣,絕其幹撓,則天意可回,和氣可召矣。」會斥左司徐霖,帝慮給事中趙汝騰爭逐霖事,乃徙汝騰翰林學士,汝騰聞命即去國。斯得言:「汝騰一世之望,宗老之重,飄然引去,陛下遂亦棄之有如弁髦,中外驚怪,將見賢者力爭不勝而去,小人踴躍增氣而來。陛下改紀僅數月,初意遽變,臣深惜之。」

時に上封事して得失を言う者衆し。或いはその讙詉を悪み、遂に謂う、「空言徒らに人の聴を乱し、国事に補わず」と。斯得因って転対し、言う、「諸臣の言は、上は則ち聖主を切劘し、下は則ち大臣を砥礪し、内は則ち姦邪を摧圧し、外は則ち寇虐を銷遏す。顧みて以て実政に補わざると為さんや?空言の譏、好名の説、一網を以て君子を尽く去らんと欲す。その言入り易く、その禍言い難し。これ君子去留の機、国家安危の候、深く聖慮に留めざるべからざるなり」と。監察御史蕭泰来これを論じて罷む。

原文時上封事言得失者眾,或者惡其讙詉,遂謂:「空言徒亂人聽,無補國事。」斯得因轉對,言:「諸臣之言,上則切劘聖主,下則砥礪大臣,內則摧壓姦邪,外則銷遏寇虐,顧以為無補於實政乎?空言之譏,好名之說,欲一網君子而盡去之,其言易入,其禍難言,此君子去留之機,國家安危之候,不可不深留聖慮者也。」監察御史蕭泰來論罷。

一年余りを経て、直宝文閣を以て泉州知州と為る。力辞す。福建路計度転運副使に遷る。朝廷自実田を行わんとす。斯得言う、「『史記しき』を按ずるに、秦始皇三十一年、民に自実田を令す。主上臨御恰も三十一年、而して異日史冊にこれを書せば、自実の名正に秦と同し」と。丞相謝方叔大いに媿じ、即ちこれを為して罷む。董槐相に入り、召されて司農卿と為る。程元鳳相に入り、秘書監に改まる。丁大全相に入り、監察御史沈炎斯得を論じて閩漕交承の銭物を以てす。郡吏大府に下し、数人を榜死せしむ。先に、吳自性の獄に、高鑄首悪として黥配され広州に至る。資を捐てて行を免る。至るに是に相府の監奴と為り、炎を嗾してその端を発せしむ。京尹顧岩その獄に傅会し、安吉守何夢然その事を行い奉る。陵鑠甚だしきも、斯得少しも挫けず、竟に得る所無し。大全既に謫せらる。朝廷その委任人に非ざるを罪し、遂に鑄を斬る。斯得既に浙西提点刑獄の命を拝す。炎は浙西の人、上に泣して、更えることを乞う。浙東提挙常平に移す。命下るや、給事中章鑒これを繳還す。斯得門を杜して出でず、『孝宗繫年要録』を著す。

原文踰年,以直寶文閣知泉州,力辭,遷福建路計度轉運副使。朝廷行自實田,斯得言:「按《史記》,秦始皇三十一年,令民自實田。主上臨御適三十一年,而異日書之史冊,自實之名正與秦同。」丞相謝方叔大媿,即為之罷。董槐入相,召為司農卿。程元鳳入相,改祕書監。丁大全入相,監察御史沈炎論斯得以閩漕交承錢物,下郡吏大府,榜死數人。先是,吳自性之獄,高鑄為首惡黥配廣州,捐資免行,至是為相府監奴,嗾炎發其端。京尹顧岩傅會其獄,安吉守何夢然奉行其事,陵鑠甚至,斯得不少挫,竟無所得。大全既謫,朝廷罪其委任非人,遂斬鑄。斯得既拜浙西提點刑獄之命,炎,浙西人,泣於上前,乞更之,移浙東提舉常平。命下,給事中章鑒繳還。斯得杜門不出,著《孝宗繫年要錄》。

彗星が現れたので、詔に応じて封事を上奏し、言うには、「陛下が一相を専任し、虚心にこれを委ねられたが、もし真に適任の人を得たならば、天心がよく受け入れられ、災害は生じないはずである。ところが庚申・己未の年には、大水が災いとなり、浙西の民の死者は数百千万に及んだ。連年の旱魃により、田野は蕭條とし、物価は高騰し、民命は糸のようである。今、妖星が突如として現れ、その変異は小さくない。もし大いに人心を失わなければ、どうしてこれほど烈しい天の怒りを招くことがあろうか」と。封事が上奏されたが、賈似道はこれを隠して奏聞しなかった。

原文彗星見,應詔上封事,曰:「陛下專任一相,虛心委之,果得其人,宜天心克享,災害不生。而庚申、己未之歲,大水為災,浙西之民死者數百千萬。連年旱暵,田野蕭條,物價翔躍,民命如線。今妖星突出,其變不小。若非大失人心,何以致天怒如此之烈。」封事之上也,似道匿不以聞。

度宗が即位すると、秘書監に召されたが、またも論じられて罷免された。再び秘書監に遷され、たびたび辞退したが許されず、起居舍人兼国史院編修官・実録院検討官兼侍講に抜擢された。進講の際には、毎回、天命の去就の機微、人心の得失の原因、前代の治乱の故実、祖宗の基業の困難について、必ず反復してこれを陳述した。工部侍郎を兼権し、ついで同修国史・実録院同修撰を兼ね、依然として侍講を兼ねた。『高宗繫年要録綱目』を進呈すると、帝はこれを良しとした。大元軍が襄陽を陥落させると、高斯得は疏を上奏して時事を論じ、最も切実かつ要を得ていたので、帝は嘉納し、工部侍郎に遷された。たびたび外任を求めたため、顕文閣待制・建寧府知事となった。

原文度宗即位,召為秘書監,又論罷。復遷祕書監,屢辭不許,擢起居舍人兼國史院編修官、實錄院檢討官兼侍講。進讀之時,每於天命去留之際,人心得失之因,前代治亂之故,祖宗基業之難,必反復陳之。兼權工部侍郎,遂兼同修國史、實錄院同修撰,仍兼侍講。進《高宗繫年要錄綱目》,帝善之。大元軍下襄陽,斯得疏論言事,最為切要,帝嘉納,遷工部侍郎。屢求補外,以顯文閣待制、知建寧府。

度宗が崩御すると、陳宜中が宰相となり、権兵部尚書として召された。斯得は国事の危殆を痛み、疏を上奏して、奸臣を誅して天下に謝し、言路を開いて天心を回らせ、人材を集めて国事を助け、節義を表彰して懦夫を励まし、財力を尽くして離散した者を収容すべきであると述べた。忠誠と憤激が激烈で、当時の事柄を指摘陳述して遺漏するところがなかった。翰林学士・知制誥兼侍読に抜擢され、端明殿学士・簽書枢密院事兼参知政事に進み、同提挙として『勅令』及び『経武要略』の編修を担当した。大元兵が饒州を陥落させ、江万里が水に赴いて死んだ。事が聞こえると、太傅を追贈された。斯得は、追贈と撫恤の典は、故例を超えて行い、天下を風化激励すべきであると述べ、ついに太師を加贈させた。また、池州通判趙卯発の死節に対する賞が薄すぎると言い、ついに待制を加贈させた。

原文度宗崩,陳宜中入相,以權兵部尚書召。斯得痛國事之阽危,疏言誅姦臣以謝天下,開言路以回天心,聚人才以濟國事,旌節義以厲懦夫,竭財力以收散亡。忠憤激烈,指陳當時之事無所遺。擢翰林學士、知制誥兼侍讀,進端明殿學士、簽書樞密院事兼參知政事,同提舉編修《敕令》及《經武要略》。大元兵下饒州,江萬里赴水死,事聞,贈太傅。斯得言贈恤之典,所當度越故常,以風厲天下,遂加贈太師。又言賞通判池州趙卯發死節太薄,乃加贈待制。

台諫の徐直方ら四人が賈似道の誤国の罪を論じ、嶺表への安置とその家の財産没収を請うた。丞相留夢炎は賈似道を庇護し、ただ散官として居住させるのみとし、かつ財産没収は無辜の者にまで及ぶと述べた。斯得は言った、「散官とは安置のことであり、官を追降して分司とするのは居住のことである。これは祖宗の制度である」と。夢炎は言葉に詰まった。夢炎は隙をみて直ちに平章事王鑰・監察御史俞浙を罷免し、同時に斯得も罷免した。こうして宋は滅亡した。著書に『詩膚説』、『儀礼合抄』、『増損刊正杜佑通典』、『徽宗長編』、『孝宗繫年要録』、『恥堂文集』が世に行われている。

原文臺諫徐直方等四人論似道誤國之罪,乞安置嶺表,簿錄其家。丞相留夢炎庇護似道,止令散官居住,且謂簿錄擾及無辜。斯得謂:「散官則安置,追降官分司則居住,祖宗制也。」夢炎語塞。夢炎乘間直罷去平章事王鑰、監察御史俞浙,並罷斯得,於是宋亡矣。所著有《詩膚說》、《儀禮合抄》、《增損刊正杜佑通典》、《徽宗長編》、《孝宗繫係年要錄》、《恥堂文集》行世。

張忠恕

原文張忠恕

張忠恕、字は行父、右僕射張浚の孫である。祖父の任官により、楼店務を監った。府の幕僚に入ると、時に韓侂冑の権勢が盛んで、民間の既に嫁ぎ先が決まった娘を奪ったことがあった。夫の家が訴えると、忠恕は府尹に申し出てその娘を父母に帰らせたが、府尹は反論できなかった。再び広西転運司主管文字に転じ、沅州通判に改められ、京湖宣撫司機宜文字を主管し、澧州知事となった。開禧の末、籍田令として入朝した。太廟の鴟吻が雷雨で破損し、神主が遷御された際に、忠恕は輪対の機会に、言路を広げ下情を通じさせることを請い、寧宗は嘉納した。

原文張忠恕,字行父,右僕射浚之孫。以祖任,監樓店務。入府幕,時韓侂胄權勢熏灼,嘗奪民間已許嫁女,夫家以告,忠恕白尹歸其父母,尹不能難。再調廣西轉運司主管文字,改通判沅州,主管京湖宣撫司機宜文字,知澧州。開禧末,入為籍田令。屬太廟鴟吻為雷雨壞,神主遷御,忠恕因輪對,請廣言路,通下情,寧宗嘉納。

嘉定五年、軍器丞に遷り、太府丞に進んだ。湖州知事として出向した。司農丞に遷り、寧国府知事となった。夏に旱魃があり、朝廷に請うて、僧牒五十、米十万七千余石の賜与を得た。常平使者は均等に救済して売り出しを勧めようとしなかったが、忠恕は後々救済できなくなることを憂い、ついに戸口を調査し年月を計算し、諸邑に厳しく戒め、大戸に蔵米を発出するよう諭した。意見が次第に合わなくなり、言論によって去り、冲佑観を主管した。起用されて鄂州知事となり、湖北転運判官兼鄂州知事に改められた。屯田郎官として召されたが、母の喪に服した。喪が明けると、戸部郎官として入朝した。入対し、辺境の事柄を極言し、その慮りは非常に遠大であった。

原文嘉定五年,遷軍器丞,進太府丞。出知湖州。遷司農丞、知寧國府。夏旱,請於朝,得賜僧牒五十,米十萬七千餘石。常平使者欲均濟而勿勸糶,忠恕慮後無以濟,遂核戶口、計歲月,嚴戒諸邑,諭大家發蓋藏。所見寖異,以言去,主管冲佑觀。起知鄂州,改湖北轉運判官兼知鄂州。召為屯田郎官,丁內艱。免喪,入為戶部郎官。入對,極言邊事,其慮至遠。

理宗が即位すると、忠恕は史弥遠に書を送り、孝宗に倣って三年の喪に服することを請い、かつ言った、「孝宗は践祚の初めから、子としての職務に勤しむこと凡そ二十七年、今上は外邸より大統を継がれたが、一日も定省の労を躬ら尽くされたことはない。その恩に報いようとすれば、孝宗よりも増すべきである」と。既に宰輔が百官を率いて太母の同聴政を請うたが、忠恕は再び史弥遠に書を送り、言った、「英宗は病気のため、仁宗・哲宗は幼少のため、母后が垂簾したのは已むを得なかった。ただ欽聖皇后の場合はやむを得ず出たもので、抑制と減損に務められた。今、我が君は成人された。もし仮にこれを援用して請うても、これも中策に過ぎない」と。詔して群臣に廟制を集議させたが、忠恕は言った、「九廟は古制ではない。もし先帝を昇祀すれば、則ち十世の廟が今日に始まることになり、礼に拠るところがない」。

原文理宗即位,忠恕移書史彌遠請取法孝宗,行三年喪,且曰:「孝宗始自踐祚,服勤子職凡二十有七年,今上自外邸入繼大統,未嘗躬一日定省之勞,欲報之德,視孝宗宜有加。」既而宰輔率百僚請太母同聽政,忠恕復貽書史彌遠,謂:「英宗以疾,仁、哲以幼,母后垂簾,有不容已,惟欽聖出於勉強,務從抑損。今吾君長矣,若姑援以請,此亦中策爾。」詔群臣集議廟制,忠恕謂:「九廟非古。若升先帝,則十世之廟昉於今日,於禮無稽。」

宝慶初年、詔して直言を求めると、忠恕は封事を上奏し、八事を陳述した。

原文寶慶初,詔求直言,忠恕上封事,陳八事:

「第一に、天と人の応報は、影と響のように速い。冬から春にかけて、雷雪が時ならず発生し、西の霅、東の淮では、狂悖な者が相次いで起こった。客星が妖変となり、太白星が昼間に現れた。正統に関わることであるから、分野に帰するのは宜しくない。

原文「一曰天人之應,捷於影響。自冬徂春,雷雪非時,西霅、東淮,狂悖洊興。客星為妖,太白見晝,正統所係,不宜諉之分野。

第二に、人道は孝に先立つものはなく、死者を送ることは特に大事である。孝宗の朝衣・朝冠は、皆大布を用いた。迨って寧宗が適孫として承重した時、光宗は病があっても、宮中で喪に服さなかったことはない。光宗が崩御された時、権勢の炎が盛んで、敢えて言う者はいなかった。去秋、礼寺が胥吏の成案を受け、未だ義をもって折衷しなかった。慶元年間、再期して祥祭を行い、百官は初めて純吉服となった。今、もし練祭を経たばかりで、朝臣の一帯のような微細な物にさえ、もはや凶服と吉服の区別がなければ、則ち三年の喪が期服に降格したことになり、理を害すること甚だしい。況や人主が内で喪に服し、群臣の服が平常と変わらないならば、父子はあっても君臣がないことになる。

原文二曰人道莫先乎孝,送死尤為大事。孝宗朝衣朝冠,皆以大布,迨寧考以適孫承重,光宗雖有疾,未嘗不服喪宮中也。洎光宗上賓,權焰方張,莫有言者。去秋禮寺受成胥吏,未嘗以義折衷。慶元間,再期而祥,百僚始純服吉。今若甫經練祭,雖朝臣一帶之微,不復有凶吉之別,則是三年之喪降而為期,害理滋甚。況人主執喪於內,而群工之服無異常日,是有父子而無君臣也。

第三に、太母は垂簾の請を退けられたばかりであるのに、慶寿の前には、陛下が吉服で杯を挙げ、詩歌として広められた。これは世俗の見解であり、天下に模範を示すものではない。

原文三曰太母方卻垂簾之請,而慶壽前期,陛下吉服稱觴,播為詩什,此世俗之見,非所以表儀於天下也。

第四に、陛下は斬然として喪中にある。大婚の期日は、固より問う暇もないが、予め講じ定めておかなければ、俗説が隙に乗じて入り込む恐れがある。臣が今日に望むところもまた、取捨を厳しくし法度を正し、諮謀を広くして公議に協うことである。

原文四曰陛下斬然在疚,大昏之期,固未暇問,然非豫講夙定,恐俚說乘間而入。臣所望於今日者,亦曰嚴取舍而正法度,廣詢謀而協公議爾。

第五に、陛下の済王に対する恩は、自ら縫い合わせを尽くしたとおっしゃる。しかし、京師に留めず外郡に移し、牧守を選ばず民家に混ぜた。一人が奮呼すれば、城全体が風靡し、すぐに禍患は鎮めたものの、初志には副わなかった。この時に、直ちに哀詔を下し、痛く自ら咎を引き、恤典を優崇し、嗣子を選んで立てるべきであった。そうすれば、陛下が自ら処せられたことは、ほぼ遺憾なく、偽りを造り誹謗を飛ばす者も、力を尽くすところがなかったであろう。始めから今に至るまで、概ね曖昧に誤り、なおこれを思わないのは、臣の理解できないところである。

原文五曰陛下於濟王之恩,自謂彌縫曲盡矣。然不留京師,徙之外郡,不擇牧守,混之民居,一夫奮呼,闔城風靡,尋雖弭患,莫副初心。謂當此時,亟下哀詔,痛自引咎,優崇恤典,選立嗣子,則陛下所以身處者,庶幾無憾,而造訛騰謗者,靡所致力。自始至今,率誤於含糊,而猶不此之思,臣所不解也。

第六に、近世の奸佞の徒は、凡そ直言正論を、率ねて好名帰過と指す。好名帰過というのは、自ら行う者は誤りであるが、もし初めから逆億厭悪の心を萌えさせれば、今後言論する者は風を見て疑われるようになり、これは国を危うくする鴆毒である。

原文六曰近世憸佞之徒,凡直言正論,率指為好名歸過;夫好名歸過,其自為者非也,若首萌逆億厭惡之心,則自今言者望風見疑,此危國之鴆毒。

第七に、当今の名流は既に褒顕されているが、搜羅は未だ広くなく、遺才は尚多く残されている。経明行修の如き柴中行・陳孔碩・楊簡、識高気直の如き陳宓・徐僑・傅伯成は、僉論の推す所である。史筆の如き李心傳に至っては、何ぞ一官を惜しみて、与聞せしめざるや。況んや邇来、人を取るに、名節を以て矯激と為し、忠讜を以て迂疏と為し、介潔を以て不通と為し、寛厚を以て無用と為し、趣辦を以て強敏と為し、拱黙を以て靖共と為し、迎合を以て適時と為し、操切を以て任事と為す。是を以て正士は遇わず、小人は親しまれる。

原文七曰當今名流雖已褒顯,而搜羅未廣,遺才尚多。經明行修如柴中行、陳孔碩、楊簡,識高氣直如陳宓、徐僑、傅伯成,僉論所推:史筆如李心傅,何惜一官,不俾與聞。況邇來取人,以名節為矯激,以忠讜為迂疏,以介潔為不通,以寬厚為無用,以趣辦為強敏,以拱默為靖共,以迎合為適時,以操切為任事。是以正士不遇,小人見親。

第八に、士習は日に異なり、民生は益々艱し。第宅の麗、声伎の美、服用の侈、饋遺の珍は、向は宗戚・閹官に猶或いは間見されたるも、今や縉紳士大夫は殆ど之に過ぐ。公家の財を、己が物と視る。薦挙・獄訟、軍伎・吏役・僧道・富民、凡そ賄を得べくんば、為さざる無し。其の譏を避け進を媒るに至っては、往々にして厥の余を分献す。基本の揺がざるを欲せば、却行して前を求むるが如きなり。

原文八曰士習日異,民生益艱。第宅之麗,聲伎之美,服用之侈,饋遺之珍,向來宗戚、閹官猶或間見,今縉紳士大夫殆過之。公家之財,視為己物。薦舉、獄訟,軍伎、吏役、僧道、富民,凡可以得賄者,無不為也。至其避譏媒進,往往分獻厥餘。欲基本之不搖,殆卻行而求前也。」

疏が入ると、朝紳伝誦す。初め魏了翁嘗て忠恕を勉めて「名節を植立し、家声を隤す無かれ」とせしが、是に及びて歎じて曰く「忠献に後有り」と。真徳秀之を聞き、更に交を納る。

原文疏入,朝紳傳誦。始魏了翁嘗勉忠恕以「植立名節,無隤家聲」。及是歎曰:「忠獻有後矣!」真德秀聞之,更納交焉。

忠恕又た輪対に因り、伯父栻の孝宗に告げし語を引いて曰く「事を暁するの臣を求むべく、事を弁ずるの臣を求むべからず。節を伏し義に死するの臣を求めんと欲せば、必ず顔を犯し敢て諫むるの臣を求むべし」と。語益々剴切なり。忠恕は自ら時の容るる所たらざるを知り、力を請いて外補せんとし、遂に直秘閣を以て贛州を知る。郡に抵ること纔に両月、言者其を朋比と指し、職を落とし、両官を降し、罷む。紹定三年、元官を復し、秩一等を進め、冲佑観を提挙す。卒し、一官を遷して致仕す。魏了翁嘗て忠恕を許して「拳拳として国を体するは浚に似、繁を撥し劇を剸むは其の父枃に似、華を斂めて実に就くは則ち義理の学に志有り、嘗て栻の教に聞く有り」と。

原文忠恕又因輪對,引以伯父栻告孝宗之語曰:「當求曉事之臣,不求辦事之臣;欲求伏節死義之臣,必求犯顏敢諫之臣。」語益剴切。忠恕自知不為時所容,力請外補,遂以直秘閣知贛州。抵郡才兩月,言者指為朋比,落職,降兩官,罷。紹定三年,復元官,進秩一等,提舉冲佑觀。卒,遷一官致仕。魏了翁嘗許忠恕「拳拳體國似浚,撥繁剸劇似其父枃,斂華就實則有志義理之學,嘗有聞乎栻之教矣。」

唐璘

原文唐璘

唐璘、字は伯玉、古田の人。太学に遊ぶ。嘉定十年進士に挙げらる。時に台臣李安行、次対官の辺事を論ずるを許さずと奏す。璘、対策に極めて之を詆し、曰く「吾始めて進む、天子の庭に於いて壊さるべけんや」と。吳縣尉に調ず。貨を殺して其の舟を挟みて亡ぶる者有り。有司賊を求むること急なり。屠者自ら告げて「吾が児実に之を殺せり」とす。児亦自ら誣伏す。璘問う「舟は安在ぞ。錢は何に用ゆる」と。其の辞差有り、之を緩む。果たして賊を太湖に得、舟と倶に至る。挙県感服す。県に勢家圃を治め、将に渠を鑿ちて舟を通さんとし、謬りて古に渠有りと言い、常平使者之を主る。璘、乾道の故籍を視るに、則ち誠に民田なり。力争し、使者の意に迕う。縣稅を監するに移す。璘遂に直を以て聞こゆ。瑞州学教授に調ず。白鹿洞の教法を用い、礼譲を崇げ、文芸を後ろにす。士翕然として嚮を知る。行在の榷貨務門を監す。

原文唐璘,字伯玉,古田人。遊太學。嘉定十年舉進士,時臺臣李安行奏次對官不許論邊事,璘對策極詆之,曰:「吾始進,可壞於天子之庭乎?」調吳縣尉,有殺人於貨挾其舟亡者,有司求賊急,屠者自告吾兒實殺之,兒亦自誣伏。璘問:「舟安在?錢何用?」其辭差,為緩之,果得賊太湖,與舟俱至,舉縣感服。縣有勢家治圃,將鑿渠通舟,繆言古有渠,常平使者主之。璘視乾道故籍,則誠民田也,力爭,迕使者意,移監縣稅。璘遂以直聞。調瑞州學教授,用白鹿洞教法,崇禮讓,後文藝,士翕然知嚮。監行在榷貨務門。

淮東運司の催轄綱運官を辟す。楚州に出師するに属し、尽瘁す。捷聞く。金人の淮陰に据わるを以て、勢に乗じて之を取らんと欲す。璘言す「捷奏は多く誇り、詎ぞ信ずべけんや。兵二十万を聚め、日費米斛余五千、緡錢余二万、夫幾万人を調べ、僅かに賊をして全師北去せしむるを得ん。今漣・海に出没し、謀りて北辺に結び、政に迭り出でて我を撓さんと欲するは、憂方に大なる爾。淮陰の緊壘は楚城と等しく、濠の広さ又之に過ぐ。我が士疲れ丁困す。一抜して得べけんや。恢復は美名なり。而して実禍を賈う。僕窃に之を危ぶむ」と。聴かず。制司は楚城の捷を趙範と葵の出づるに自るを恥じ、議して淮陰二城を贖いて功と為さんとす。金変を聞くに洎びて、即ち転じて之を攻む。我が師死傷する者六万。璘兵間に在りて之を憤り、『讜論』を著し、直に其の事を書して之を上る。晉陵縣を知る。隣州の田訟、至っては諸使に泣訴し願うて晉陵に送り可否せしむる者有り。制置使陳韡建康に留守し、通判に辟す。挙げて府事を以て聴かしむ。

原文辟淮東運司催轄綱運官。屬出師楚州,盡瘁焉。捷聞,以金人據淮陰,欲乘勢取之。璘言:「捷奏多誇,詎得信乎?須聚兵二十萬,日費米斛餘五千,緡錢餘二萬,調夫幾萬人,僅能使賊全師北去。今出沒漣、海,謀結北邊,政欲迭出撓我,憂方大爾。淮陰緊壘與楚城等,濠之廣又過之,我士疲丁困,可一拔得乎?恢復,美名也,而賈實禍,僕竊危之。」不聽,制司恥楚城之捷自趙范與葵出,議贖淮陰二城為功。洎聞金變,即轉攻之,我師死傷者六萬,璘在兵間憤之,著《讜論》,直書其事上之。知晉陵縣,鄰州田訟,至有泣訴諸使願送晉陵可否者。制置使陳韡留守建康,辟為通判,舉府事以聽。

六部門を監し、監察御史に擢でらる。台吏将に至らんとす。璘皇駭して趨避し、敢えて闕に詣らざらんとす。母曰く「人此の官は好しと言う。汝何ぞ憂うるを得ん」と。璘曰く「此の官は須らく朝廷の為に是非を争うべし。一たび上意に咈い或いは権貴に迕えば、重ねて大人の累と為るを恐る。何ぞ憂えざるを得ん」と。母曰く「而第に言を尽くせ。吾に而が兄在り。忽ちに憂うるなかれ」と。璘拝謝し、入りて職に就く。

原文監六部門,擢監察御史,臺吏且至,璘皇駭趨避不敢詣闕。母曰:「人言此官好,汝何得憂乎?」璘曰:「此官須為朝廷爭是非,一咈上意或迕權貴,恐重為大人累,何得不憂?」母曰:「而第盡言,吾有而兄在,忽憂。」璘拜謝,入就職。

故事に、御史は惟だ常服を以て拝下し、論奏有れば進めて繳す。是に至りて独り緝熙殿に召対せられ、窄衫を服して面読みせしむ。首めて疏を奏して曰く「天変して怒に至り、民怨みて幾くんか離る。海宇将に傾かんとし、天下勝えがたき諱るべき慮有り。陛下何の時と謂うや。縦欲して徳を累し、文過して非を飾り、正人を疏遠し、戚宦に狎昵し、朝政を濁乱し、自ら覆亡を取る。宰相は時文の才を以て経世の具と為し、民命を顧みず、軽く兵端を挑ぎ、事宜を度らず、頓に国帑を空うす。政を厥の子に委ね、商人に内交し、賄塗大いに開け、小雅尽く廃す。瑣瑣たる婣婭、敢えて邪謀に預かり、国事を俳優の如く視、神器を奇貨と為す。都人は側目し、朝士は痛心す。盍ぞ将無きの誅を正し、以て忠ならざるの戒を著さん。崔與之の操行は楊綰に類し、修途莫景と雖も、力は心に逮わずと雖も、命下の日、聞く者興起す。喬行簡は大體を頗る識り、朝望稍く孚る。而して除授偏私し、事多く遺忘す。宜しく家相を択び、宗子を賛し、民物を輔け、以て父母の望を慰むべし。天変の寖極まり、人心の愈離るるを毋からしむべし」と。上為に容を改む。又た土豪を召號し、荊・襄を經理し、亟に帥臣を択び、淮西を安集せんことを請う。帝嘉納す。辺事を問うこと甚だ悉しに至る。

原文故事,御史惟常服拜下,有論奏繳進,至是獨召對緝熙殿,令服窄衫面讀。首疏奏:「天變而至於怒,民怨而幾於離,海宇將傾,天下有不可勝諱之慮。陛下謂此何時,縱欲累德,文過飾非,疏遠正人,狎昵戚宦,濁亂朝政,自取覆亡。宰相用時文之才為經世之具,不顧民命,輕挑兵端,不度事宜,頓空國帑。委政厥子,內交商人,賄塗大開,小雅盡廢。瑣瑣婣婭,敢預邪謀,視國事如俳優,以神器為奇貨,都人側目,朝士痛心。盍正無將之誅,以著不忠之戒。崔與之操行類楊綰,雖修途莫景,力不逮心,而命下之日,聞者興起。喬行簡頗識大體,朝望稍孚,而除授偏私,事多遺忘。宜擇家相,贊宗子,輔民物,以慰父母之望,毋使天變寖極,人心愈離也。」上為改容。又請號召土豪,經理荊、襄,亟擇帥臣,安集淮西,帝嘉納;至問邊事甚悉。

璘感激して知遇を知り、是より弾撃するに避くるところ無し。再び疏して曰く「鄭清之妄庸にして国を誤る。職を褫ぎ祠を罷むるを乞う。其の子士昌は、権を招き賄を納れ、庸将を抜きて統帥と為し、贓吏を起して守臣と為す。籍を削り棄廃するを乞う。鄭性之は懦にして私多く、奸庸を党庇す。臣其の改官挙状を受け、嘗て陛下に之を薦めしことを蒙る。国事此に至る。敢えて私を顧みず。李鳴復は甘心して鄭損に諂い、薦を得て朝に入る。適た清之の張天綱の獄を議するに、迎合して軽きに従う。遂に台端に擢でらる。会す趙桄夫史寅午を遣わし清之父子に囑す。鳴復又た寅午に結びて政府に登るを得」と。会す杜範亦た鳴復を論ず。行わずして範去る。璘遂に力を丐いて外せんとし、疏七たび上る。広西運判を授けられ、嘉興府を知るに改め、尋いで江東運判に改む。

原文璘感激知遇,自是彈擊無所避,再疏:「鄭清之妄庸誤國,乞褫職罷祠。其子士昌,招權納賄,拔庸將為統帥,起贓吏為守臣,乞削籍廢棄。鄭性之懦而多私,黨庇奸庸,臣受其改官舉狀,嘗蒙薦之陛下,國事至此,不敢顧私。李鳴復甘心諂鄭損,得薦入朝,適清之議張天綱之獄,迎合從輕,遂擢臺端。會趙桄夫遣史寅午囑清之父子,鳴復又結寅午得登政府。」會杜範亦論鳴復,不行,而範去,璘遂力丐外,疏七上,授廣西運判,改知嘉興府,尋改江東運判。

時に辺事急なり。四察訪使を置き、就て詔して璘に建康・太平・池州・江西を分からしむ。璘榜を馬前に掲げ、利害を以て所部に諮り、又た土豪に戒めて漁業水手・茶塩舟夫・蘆丁を団結せしめ、悉く燎舟の具を備えしむ。人々奮わんと思う。即ち将を選び二州の兵舟を総べて以て敵を耀し、当塗に檄して宿に戦具を設けしめ、采石を防がしめ、和糴を撥して生券を続け、且つ総領所の錢二十万緡を損じて江防を助けしむるを奏す。軍声大いに振る。

原文時邊事急,置四察訪使,就詔璘分建康、太平、池州、江西。璘揭榜馬前,諮所部以利害,又戒土豪團結漁業水手、茶鹽舟夫、蘆丁,悉備燎舟之具,人人思奮。即選將總二州兵舟以耀敵,檄當塗宿設戰具,防采石,撥和糴續生券,且奏損總領所錢二十萬緡助江防,軍聲大振。

まもなく直華文閣に昇進し、広州知州・広東経略安撫使となった。梅州で賊が起こると、唐璘は威信を示し、賊はまもなく鎮まった。江淮が旱魃に遭い、広右で和糴を行うことが議論されたが、璘は言った。『公家は赤貧であり、糴の元手を調達する術がなく、結局は日々民から取り立てることになりましょう。臣が元手を撥ねたり、禍を招いて朝廷の多事の憂いを重くすることを恐れるのではありません』。翌年、致仕を乞う上奏をしたが、帝は彼に会いたいと思い、急いで入奏を命じ、太常少卿に抜擢した。まもなく母の喪に服し、璘は喪に服して哀傷のあまり食事をとらず、久しくして病状が重くなり、卒去した。

原文尋升直華文閣、知廣州、廣東經略安撫使。梅州寇作,璘示以威信,寇尋息。江淮旱,議下廣右和糴,璘言:「公家赤立,糴本無所辦,終恐日取於民,非臣不敢撥本,召釁重朝廷多事之憂。」明年上章乞致仕,帝思見之,亟命入奏,擢太常少卿。尋丁內艱,璘居喪哀毀不食,久之疾革,卒。

唐璘が御史台に立ったのはわずか百日であったが、世間は唐介の再来と称し、上躬を切に戒め、言うべきことを隠さず尽くしたので、帝はますます畏怖した。官に在っての大節は、母の教えの助けが多かった。

原文璘立臺僅百日,世謂再見唐介,至切劘上躬,盡言無隱,帝益嚴憚之。居官大節,則母教之助為多。

論じて言う。高定子が西陲にあって、政績が著しく聞こえたことを観る。李斯得はたびたび起用されながらも権臣の手によってたびたび倒され、その再起の時には、宋の事態はすでに以前のものではなかった。張忠恕が済王邸の事を論じたのは、父祖の風があった。唐璘は、古の遺直と謂うべき者である。

原文論曰:觀高定子在西陲,政業著聞矣。斯得屢起而屢仆於權臣之手,及其再起,宋事已非。張忠恕論濟邸事,有父祖風焉。唐璘者,亦可謂古之遺直。