高定子
制置使鄭損、彊愎自用にして、誤って総領所が十一州の小会子の利を擅にすと謂い、奏請して之を廃せんとす。令下り、民疑いて市を罷む。定子力爭し、謂く、「小会子は実に銭に代わる。百姓貿易、是れに頼りて川引を権る。罷むれば則ち関・隴の民交わりて病まん。況んや又隆興間旨を得て之を為す。擅に非ざるなり」と。乃ち其の半を存するを得。損又た総領所の塩課を増やさんと欲し、旧に軍費を貸せしを取りんとす。定子其の顛末を弁じ、損乃ち釈然として曰く、「二司相関する処、公毎に明白洞達之を言う。人をして爽然自失せしむ」と。尋いで知長寧軍を差す。長寧の地は夷獠に接し、公家の百需皆淯井塩利に仰ぐ。来者往々にして因りて自ら封殖す。制置司又た其の半を榷入す。定子至り、制置使と爭い、重賦を蠲かるを得たり。
知綿州を差す。大元兵、鳳州塞を穿ち、武休を破り、興元を下す。小校張鉞、其の徒を率いて潰れて文州に入り、守臣楊必復を殺し、将に龍より綿に趨り、以て成都を闖かんとす。安撫使黄伯固之を聞き、亟に定子を参議官を兼ね、文・龍の備禦を措置せしむるを奏す。定子乃ち諸軍を部分して清塘嶺を扼せしめ、鉞就擒す。已にして剣南大いに震う。定子僚吏に語りて曰く、「諸君の去留は敢えて拘えず。若し某が如きは則ち城郭封疆を守るの臣、死有るのみ」と。群胥に戒めて曰く、「潰軍流民は過ぎず銭糧を得んと欲する爾。吾将に吾が州の蔵を尽く発し諸司の綱を截ち、朝廷の為に扞蔽し全蜀を全うせん。我去らば、汝等我を殺すを聴け。汝等逃げば、吾汝が頭を斫らん」と。乃ち令を下して潰卒を招き、人ごとに緡銭五十・米一石を給し、都監陳訓に専ら接納を任ぜしむ。訓忽ち奔告して曰く、「諸軍招を受くると雖も、甲を釈くを肯せず。奈何」と。定子乃ち帳下の卒に令し衷甲して両廡に俟たしめ、軽動する毋かれと戒む。俄にして諸軍盛んに兵を陳べて以て至る。吏士皆股栗す。定子堂上に坐し、伝令して之を労苦しむ。諸軍皆拝す。定子理を以て開諭し、還りて本部にし、以て犒を給するを俟たしむ。諸将之を聞き、亦来り上謁す。定子復た之を慰安す。因りて問う、「汝等何を為して此に至る」と。皆曰く、「制置使存亡を知らず、諸軍主無し」と。定子曰く、「大帥は暫く治を移すに過ぎず。已に人を遣わし所在を訪わしむ。苟も終に獲ずば、我当に汝曹の為に主張せん。且つ諸軍此に至るは糧無き故なり。吾が州当に供億を任ず」と。又曰く、「敵将に復た此に会せん。盍ぞ之を避けざる」と。定子曰く、「我は文官なり。死を畏れず。汝は将軍なり。世々衣食県官す。乃ち敵を避けんと欲する乎。我は守臣なり。死すれば則ち此に死せん爾。太守を殺さんと欲する者あれば、一槍足れり。軍器安んぞ多きを為さん。今諸軍大いに集まる。万一敵至らば、能く戮力して出戦せば、是れ汝曹功を立て国に報ゆるの機なり。猶お内郡に深入して罪滋だ大なるに愈りざらんや」と。衆悦びて去る。乃ち吏を遣わし令の如く犒を給し、寺観祠宇を辟きて以て之を舎せしむ。
亡き幾何、敗将和彦威・陳邦佐・曹篪・張涓・姚承祖等皆彰明に集まり、剽掠尤甚だし。彦威、邦佐を州に入れしめ、大言して衆を駭かし、定子に謂いて曰く、「知府何ぞ去らざる。和太尉両戎司を兼ね、威権甚だ重く、麾下の兵将に二万余、来たりて此に駐せんと欲す。今至らんとす」と。定子之に謂いて曰く、「本州素より備禦の地に非ず。大将兵を以て入る、何を為さんと欲する。第に来れ、吾固より以て相待する有らん」と。邦佐色沮み、乃ち曰く、「已に幕府を遣わし来たり議せんとす」と。至れば則ち一遊士爾。繆りて恭敬を為し、要索甚だ大なり。定子答えて曰く、「軍将吾が境に入らば、当に吾が節制を受くべし。惟だ各々紀律を守らば、則ち以て銭糧を給せん。若し敵至らば、国の為に一死し、忠臣孝子と作る。五日汗せずして死するに病むに愈れり」と。幕府対ふる能わず。彦威の符移を出だす。云う有り、「大府散軍を招戢し、人ごとに銭米若干を給す。今部する所二万人に下らず、願わくは数の如く之を得ん」と。定子報じて曰く、「本州已に此の令を下す。何ぞ敢えて食言せん。但だ給する所は乃ち潰軍招に就き罪を免るるの人なり。都統の部する所は潰に非ず。若し此の例を以て相給せば、其れ肯て受けんや」と。彦威檄を得て甚だ慙じ、乃ち別に銭糧を給し以て軍を饟わんことを乞う。定子即ち四十万緡を捐てて之に与え、仍て其の還りて戍るを趣す。蓋し定子身を以て両司の責を任じ、其の労勩を極め、張鉞を収捕する功を以て、三官を進め、防遏し潰兵を招收する功を以て、又た一官を進め、直宝章閣に進み、再任す。
頃く之を以て、召し入れて奏事せしむ。吏民追送し、涕を流さざる莫し。隣郡定子の至るを聞き、香を焚きて道を夾し、手を挙げて額に加えて曰く、「公微ならば、吾属塗炭久しからん」と。定子の未だ郡を去らざるや、伯兄稼は権利路提刑を以て印を上して帰り、了翁亦た靖州より至り、綿に於いて定子に過ぐ。定子之が為に棣萼堂を築き、酒を飲み詩を賦して楽しましむ。一時以て美談と為す。入りて対し、極めて時弊を言う。時に史弥遠国柄を執ること久し。故に曰く、「陛下元勲を優礼し、以て繁機を弛め静寿を養わしめ、朝廷以て百度を新たにし因循を革むるを得しむ。亦た善からずや」と。既に対し、人定子の為に危ぶむ。定子曰く、「乖逢得喪は是れ命有り。吾言を尽くすを得ば、乃ち君に報ゆる職分なり」と。両月を越え、乃ち刑部郎中に遷す。弥遠没し、之を言う者紛然たり。識者謂う、定子先事に言有り、諸人を視るに難しと。
まもなく直宝謨閣・江南東路転運判官に任ぜられる。辞去のため宮中に参上すると、帝は言った、「淮師が辺境を巡視していることは、卿は知っているか。輔車の勢いにおいて、漕運が急務である。卿のこのたびの赴任は緩急を斟酌し、以て相通融すべきである」。定子はこれにより上疏して辺境の事を論じ、甚だ周到詳細であり、帝は嘉納した。一年余りして、召されて入朝し奏事する。ちょうど高稼が沔州において国事に殉じたので、上疏して病を引き合いに出し、帰田を乞うたが、許されなかった。まもなく軍器監に遷り、また太府少卿に遷り、計度転運副使に昇進した。明堂の祭祀があったとき、天は大雷雨となり、詔して直言を求めたので、定子は災異を畏れ敬う意を反覆して論じた。再び召されて入朝し、司農卿兼玉牒所検討官に遷った。
入朝して対し、言うには、「内治修まらず、外懼謹まず、近親に政事に預かる漸あり、近習に権力を弄ぶ漸あり、小人に再び用いられる漸あり、国柄に陵夷の漸あり、士気に委靡の漸あり、主勢に孤立の漸あり、宗社に危険に瀕する漸あり。天変日増し、地形日蹙む。昔に危脈ありしが、今に危形あり。昔に亡理ありしが、今に亡証あり」。また詔を明らかにして沿流の帥守将吏に、奇を出し険に乗ずることを思い、水陸より進むべき策を求むることを請うた。
兼樞密都承旨に昇進し、また太常少卿兼国史院編修官に遷った。累次にわたり辺境の事を上言し、起居舎人に遷り、まもなく兼中書舎人となり、京湖・江西督視府事に参賛した。定子は親しく往きて新城を周視し、諸軍を大いに犒労し、守将を激励した。礼部侍郎に遷り、なお兼中書舎人を帯び、即ち軍中において金帯を賜った。詔して督府の事を以て入奏せしめ、既に至ると、帝は労問甚だ厚く、特に一官を進め、まもなく兼崇政殿説書兼直学士院を兼ねた。間もなく、侍講・権礼部尚書に改め、兼侍読に昇進した。入奏して言うには、「国に仁賢なく、礼義なく、政事なく、叔世に類す」。帝は竦然とした。まもなく兼直学士となり、孝宗・寧宗の『日暦』を修し、書成りて上進すると、擢て翰林学士・知制誥兼吏部尚書に拝し、兼修国史・実録院修撰に昇進し、衣帯・鞍馬を賜った。李心伝を召し収めて四朝の志・伝を卒成することを乞うた。
時に礼部尚書杜範・吏部侍郎李韶は皆剛直を以て称せられ、或いは身を乞うて去らんとし、或いは家に臥して出でず。定子は言う、「人主が耳目を寄せる者は、台諫なり。耳目の及ばざる所を補う者は、法従の論思、百官の輪対なり。然らば上には必ず君徳の純駁を論じ、次には必ず朝政の得失を言う。これを捨てて、ただ常程を言わしめ、姑く故事に応じ、雷霆の威を畏縮し、宰執の好みに阿徇し、耳目の官を遜避せしむれば、則ち凡そ論思等の事は、皆講ずる必ずず。速やかに李韶を返して不諱の門を開き、杜範を勉めて起し、敢言の気を伸べしむべし」。これにより帰田を乞うこと甚だ力を入れた。
端明殿学士・簽書樞密院事に進み、まもなく兼権参知政事を兼ねた。旧職のまま、福州知州・福建安撫使に任ぜられたが、固辞し、洞霄宮提挙となった。これにより致仕を請うたが、許されず、潭州知州・湖南安撫大使に改められたが、力辞し、呉中に退居し、深衣大帯を着け、日に著述を以て自ら楽しんだ。資政殿学士を以て一官を転じて致仕し、卒す。少保を贈られた。
定子は夾江に同人書院を作り、長興の学を修め、六先生祠を創建し、蓋し教化を以て先務と為した。著す所に『存著斎文集』『北門類稿』『薇垣類稿』『経説』『紹熙講義』『奏議』『歴官表奏』、世に行わる。
高斯得
一年余りして、添差通判台州となる。杜範が既に宰相に入ると、召されて太常博士と為り、秘書郎に遷った。六年正月朔、日食あり。斯得は詔に応じて封事を上し、言うには、「大奸権力を嗜み、巧みに営みて喪服を奪わんとす。陛下独断を奮ってこれを罷退せしめ給うた。是なり。諫憲の臣、交えてその悪を疏し、或いはこれを荒裔に投ぜんことを請い、或いはこれを休致せしめんことを請う。陛下苟もその言を行わば、亦た意向を昭示し、群疑を渙釈するに足る。乃ち一切寝して宣べず、時を歴ること既に久しく、人言止まず、然る後に黽勉して諭を伝え、委曲に奸を誨い、襲絰の時に於いて、妄りに掛冠の請を致さしめ、因りて祠命を降し、苟くも人言を塞ぎ、又た奸人陰にこれが地と為す。是を以て訛言並び興り、善類解体し、聖意の測り難きを謂い、而して大奸の必ず還らんことを謂い、莽・卓・操・懿の禍、将に言うに忍びざる者有らんとす」。時に監察御史江万里及び他の台諫累次に嵩之の罪悪を疏論したが、竟に施行されず、第に嵩之の致仕に因り、祠官を与えたのみであった。故に斯得の封事はまずこれに及んだ。
また言うには、「大臣たるものは道をもって君に仕えることを貴ぶべきである。今や献替の義は少なく、容悦の意は多く、恥を知る念は軽く、患失の心は重い。内降は執奏すべきであるのに、下殿を待たずして既に行われ、濫恩は裁抑すべきであるのに、中覆に従わずして急に命ずる。正を嫉み邪を庇い、同を喜び異を悪み、術を任じ道を詭とし、媮(安易)を楽しみ労を憚る。陛下虚心に委ね寄せられる、責められるべきは何事か、しかるにその応えはかくの如し」と。時に范鍾独り国政を執り、過失日々に顕著であったので、斯得はこれを及ぼしたのである。また言うには、「便嬖側媚の人は、特に清明の累いとなるに足り、腐夫巧讒して伝幾を揺るがせ、妖㜮外通して魁邪密かに主たり、陰奸伏蠱、互いに煽り交えて攻め、陛下の心は至ってこれに存するもの幾ばくも無し。陛下の心は、大化の本なり。洗濯磨淬し、これを更える所以を思うに、乃ち徒らに虚言無実の名を立てて、これを更化と謂う、これ天心の未だ当たらざる所以、大異の儆めを示す所以なり」と。言は特に切直であり、帝は嘉してこれを納れた。
また言うには、「群臣厖雑にして、宮禁奇衺、黷貨外交、豈に坐視してこれを問わざるべけんや?顧みるに乃ち並包兼容の意多く、別邪辨正の慮浅く、憂讒避謗の心重く、直前邁往の志微なり、遂に衆臣をして争衡せしめ、大権旁落し、積軽の勢いを養成して、窺覬の漸を開く。設い不幸ありて、変故これに乗ずれば、上心一たび移り、凶渠立ち至り、宗社に淪亡の憂いを有せしめ、衣冠魚肉の禍に遭い、生靈塗炭の厄に罹らしめん。当の時にあたりて、潔身して去るも、能く万世の清議を逃れんや?」と。ここにおいて群憸悚懼し、或いは泣訴して上前に及び、或いは上章して去らんことを求め、合力して排擯す。斯得遂に補外を求め、在告すること百余日に及び、ここにおいて差して厳州知州と為す。斯得三たび祠官を乞うも、許されず。厳州は山をめぐらして郡と為り、豊歳といえどもなお他州に仰ぐ。夏旱に際し、斯得は租を蠲免し廩を発し、糴を招き分を勧め、朝に請うて、米一万石を得て振済す。
浙東提点刑獄に遷る。ここにおいて処州知州趙善瀚・台州知州沈塈等七人が勢いに倚りて民を厲するを劾奏す。疏上るも、報いられず。江西転運判官に改まる。斯得は辞免の具を備え、上奏して曰く、「臣、趙善瀚等七人を劾奏す。未だ報可を聞かず、固より疑う必ず党与有りて営救し、聖聴を惑誤すと。今恩除を奉るに、乃ち臣の料る所に中るを知る。善瀚は、侍御史周坦の婦翁なり。贓吏の魁にして、聖世に錮せらる。鄭清之これと旧有り、復た州符を与う。沈塈は、同簽書枢密院事史宅之の妻党なり。祖宗以来、監司の吏を按ずるに一も施行せざるは未だ有らず。法を壊し紀を乱す、これに甚だしきは未だ有らず。臣身使者たり。吏を劾して行わず、反って節を易うるを叨む。若し栄を貪りて冒して拝すれば、則ち世の頑頓無恥者と何ぞ異ならん?乞うらくは臣を併せて鐫罷し、以て奉使無状なる者を戒めん」と。章既に上るや、坦は自ら己が台諫を任ずるに反って攻めらるるを謂い、遍く同列に懇願して斯得を論ぜしむ。同列これを難ず。計急なり、自ら上章して斯得の新任を劾罷す。未だ幾ばくもせず、坦もまた罷めらる。七人は竟に罷め去る。
湖南提点刑獄に移る。潭州通判徐経孫等六人を薦む。攸県の富民陳衡老、家丁糧食を以て強賊に資し、平民を劫殺す。斯得至るに、その事を訴うる者有り。首吏賄を受け左右す。衡老庭に造るに、首吏拱立す。斯得其の姦を発し、首吏を械して獄に下す。群胥色を失い股栗す。ここにおいて研鞫して具にその状を得、乃ち首吏を黥配す。朝省に具白し、衡老の官資を追毀し、その家を簿録す。会うに諸邑水災有り、衡老米五万石を出して振済し以て罪を贖わんことを願う。衡老の婿吳自性、衡老の館客太学生馮煒等と謀りて斯得を中傷し官櫝を盗み拆く。斯得朝に白し、復たその罪を正す。一篋の書を出だし、具に自性等の省部吏胥と交通する情状を得る。斯得併せて朝に言い、その事を大府に下す。賄銀六万余両を索め出だし、自性及び省寺の高鑄等二十余人を黥配す。初め、自性厚く宦者に賂して理宗に言わしめて曰く、「斯得緡銭百万を進め、願わくは近地一節に易えん」と。理宗曰く、「高某は硬漢なり、安んぞかくの如き有らん」と。而して斯得力に去らんことを求め、清之書を以てこれを留む。また李晞顔等五人を薦む。
直秘閣を加えられ、湖南転運判官と為り、尚右郎官に改まる。未だ至らず、礼部郎中に改まる。上疏して極めて時事を論ず。権左司に改まり、力辞す。内批して侍立修注官を兼ぬ。水災を論じて曰く、「願わくは陛下立って新寺の土木を罷め、速やかに迕旨の諸臣を反し、邪説を遏絶し、善良を主張し、刑辟を謹重し、士類を愛惜し、佞臣を抑遠し、その幹撓を絶たん。則ち天意回らしめ可く、和気召し可し」と。会うに左司徐霖を斥く。帝、給事中趙汝騰の霖事を争逐するを慮い、乃ち汝騰を翰林学士に徙す。汝騰命を聞き即ち去国す。斯得言う、「汝騰は一世の望、宗老の重き、飄然として引去す。陛下遂にまたこれを弁髦の如く棄つ。中外驚怪し、将に見ん賢者力争して勝たずして去り、小人踊躍して気を増して来らんと。陛下改紀すること僅かに数月、初意遽に変ず。臣深くこれを惜しむ」と。
時に上封事して得失を言う者衆し。或いはその讙詉を悪み、遂に謂う、「空言徒らに人の聴を乱し、国事に補わず」と。斯得因って転対し、言う、「諸臣の言は、上は則ち聖主を切劘し、下は則ち大臣を砥礪し、内は則ち姦邪を摧圧し、外は則ち寇虐を銷遏す。顧みて以て実政に補わざると為さんや?空言の譏、好名の説、一網を以て君子を尽く去らんと欲す。その言入り易く、その禍言い難し。これ君子去留の機、国家安危の候、深く聖慮に留めざるべからざるなり」と。監察御史蕭泰来これを論じて罷む。
一年余りを経て、直宝文閣を以て泉州知州と為る。力辞す。福建路計度転運副使に遷る。朝廷自実田を行わんとす。斯得言う、「『史記』を按ずるに、秦始皇三十一年、民に自実田を令す。主上臨御恰も三十一年、而して異日史冊にこれを書せば、自実の名正に秦と同し」と。丞相謝方叔大いに媿じ、即ちこれを為して罷む。董槐相に入り、召されて司農卿と為る。程元鳳相に入り、秘書監に改まる。丁大全相に入り、監察御史沈炎斯得を論じて閩漕交承の銭物を以てす。郡吏大府に下し、数人を榜死せしむ。先に、吳自性の獄に、高鑄首悪として黥配され広州に至る。資を捐てて行を免る。至るに是に相府の監奴と為り、炎を嗾してその端を発せしむ。京尹顧岩その獄に傅会し、安吉守何夢然その事を行い奉る。陵鑠甚だしきも、斯得少しも挫けず、竟に得る所無し。大全既に謫せらる。朝廷その委任人に非ざるを罪し、遂に鑄を斬る。斯得既に浙西提点刑獄の命を拝す。炎は浙西の人、上に泣して、更えることを乞う。浙東提挙常平に移す。命下るや、給事中章鑒これを繳還す。斯得門を杜して出でず、『孝宗繫年要録』を著す。
彗星が現れたので、詔に応じて封事を上奏し、言うには、「陛下が一相を専任し、虚心にこれを委ねられたが、もし真に適任の人を得たならば、天心がよく受け入れられ、災害は生じないはずである。ところが庚申・己未の年には、大水が災いとなり、浙西の民の死者は数百千万に及んだ。連年の旱魃により、田野は蕭條とし、物価は高騰し、民命は糸のようである。今、妖星が突如として現れ、その変異は小さくない。もし大いに人心を失わなければ、どうしてこれほど烈しい天の怒りを招くことがあろうか」と。封事が上奏されたが、賈似道はこれを隠して奏聞しなかった。
度宗が即位すると、秘書監に召されたが、またも論じられて罷免された。再び秘書監に遷され、たびたび辞退したが許されず、起居舍人兼国史院編修官・実録院検討官兼侍講に抜擢された。進講の際には、毎回、天命の去就の機微、人心の得失の原因、前代の治乱の故実、祖宗の基業の困難について、必ず反復してこれを陳述した。工部侍郎を兼権し、ついで同修国史・実録院同修撰を兼ね、依然として侍講を兼ねた。『高宗繫年要録綱目』を進呈すると、帝はこれを良しとした。大元軍が襄陽を陥落させると、高斯得は疏を上奏して時事を論じ、最も切実かつ要を得ていたので、帝は嘉納し、工部侍郎に遷された。たびたび外任を求めたため、顕文閣待制・建寧府知事となった。
度宗が崩御すると、陳宜中が宰相となり、権兵部尚書として召された。斯得は国事の危殆を痛み、疏を上奏して、奸臣を誅して天下に謝し、言路を開いて天心を回らせ、人材を集めて国事を助け、節義を表彰して懦夫を励まし、財力を尽くして離散した者を収容すべきであると述べた。忠誠と憤激が激烈で、当時の事柄を指摘陳述して遺漏するところがなかった。翰林学士・知制誥兼侍読に抜擢され、端明殿学士・簽書枢密院事兼参知政事に進み、同提挙として『勅令』及び『経武要略』の編修を担当した。大元兵が饒州を陥落させ、江万里が水に赴いて死んだ。事が聞こえると、太傅を追贈された。斯得は、追贈と撫恤の典は、故例を超えて行い、天下を風化激励すべきであると述べ、ついに太師を加贈させた。また、池州通判趙卯発の死節に対する賞が薄すぎると言い、ついに待制を加贈させた。
台諫の徐直方ら四人が賈似道の誤国の罪を論じ、嶺表への安置とその家の財産没収を請うた。丞相留夢炎は賈似道を庇護し、ただ散官として居住させるのみとし、かつ財産没収は無辜の者にまで及ぶと述べた。斯得は言った、「散官とは安置のことであり、官を追降して分司とするのは居住のことである。これは祖宗の制度である」と。夢炎は言葉に詰まった。夢炎は隙をみて直ちに平章事王鑰・監察御史俞浙を罷免し、同時に斯得も罷免した。こうして宋は滅亡した。著書に『詩膚説』、『儀礼合抄』、『増損刊正杜佑通典』、『徽宗長編』、『孝宗繫年要録』、『恥堂文集』が世に行われている。
張忠恕
張忠恕、字は行父、右僕射張浚の孫である。祖父の任官により、楼店務を監った。府の幕僚に入ると、時に韓侂冑の権勢が盛んで、民間の既に嫁ぎ先が決まった娘を奪ったことがあった。夫の家が訴えると、忠恕は府尹に申し出てその娘を父母に帰らせたが、府尹は反論できなかった。再び広西転運司主管文字に転じ、沅州通判に改められ、京湖宣撫司機宜文字を主管し、澧州知事となった。開禧の末、籍田令として入朝した。太廟の鴟吻が雷雨で破損し、神主が遷御された際に、忠恕は輪対の機会に、言路を広げ下情を通じさせることを請い、寧宗は嘉納した。
嘉定五年、軍器丞に遷り、太府丞に進んだ。湖州知事として出向した。司農丞に遷り、寧国府知事となった。夏に旱魃があり、朝廷に請うて、僧牒五十、米十万七千余石の賜与を得た。常平使者は均等に救済して売り出しを勧めようとしなかったが、忠恕は後々救済できなくなることを憂い、ついに戸口を調査し年月を計算し、諸邑に厳しく戒め、大戸に蔵米を発出するよう諭した。意見が次第に合わなくなり、言論によって去り、冲佑観を主管した。起用されて鄂州知事となり、湖北転運判官兼鄂州知事に改められた。屯田郎官として召されたが、母の喪に服した。喪が明けると、戸部郎官として入朝した。入対し、辺境の事柄を極言し、その慮りは非常に遠大であった。
宝慶初年、詔して直言を求めると、忠恕は封事を上奏し、八事を陳述した。
疏が入ると、朝紳伝誦す。初め魏了翁嘗て忠恕を勉めて「名節を植立し、家声を隤す無かれ」とせしが、是に及びて歎じて曰く「忠献に後有り」と。真徳秀之を聞き、更に交を納る。
唐璘
唐璘、字は伯玉、古田の人。太学に遊ぶ。嘉定十年進士に挙げらる。時に台臣李安行、次対官の辺事を論ずるを許さずと奏す。璘、対策に極めて之を詆し、曰く「吾始めて進む、天子の庭に於いて壊さるべけんや」と。吳縣尉に調ず。貨を殺して其の舟を挟みて亡ぶる者有り。有司賊を求むること急なり。屠者自ら告げて「吾が児実に之を殺せり」とす。児亦自ら誣伏す。璘問う「舟は安在ぞ。錢は何に用ゆる」と。其の辞差有り、之を緩む。果たして賊を太湖に得、舟と倶に至る。挙県感服す。県に勢家圃を治め、将に渠を鑿ちて舟を通さんとし、謬りて古に渠有りと言い、常平使者之を主る。璘、乾道の故籍を視るに、則ち誠に民田なり。力争し、使者の意に迕う。縣稅を監するに移す。璘遂に直を以て聞こゆ。瑞州学教授に調ず。白鹿洞の教法を用い、礼譲を崇げ、文芸を後ろにす。士翕然として嚮を知る。行在の榷貨務門を監す。
淮東運司の催轄綱運官を辟す。楚州に出師するに属し、尽瘁す。捷聞く。金人の淮陰に据わるを以て、勢に乗じて之を取らんと欲す。璘言す「捷奏は多く誇り、詎ぞ信ずべけんや。兵二十万を聚め、日費米斛余五千、緡錢余二万、夫幾万人を調べ、僅かに賊をして全師北去せしむるを得ん。今漣・海に出没し、謀りて北辺に結び、政に迭り出でて我を撓さんと欲するは、憂方に大なる爾。淮陰の緊壘は楚城と等しく、濠の広さ又之に過ぐ。我が士疲れ丁困す。一抜して得べけんや。恢復は美名なり。而して実禍を賈う。僕窃に之を危ぶむ」と。聴かず。制司は楚城の捷を趙範と葵の出づるに自るを恥じ、議して淮陰二城を贖いて功と為さんとす。金変を聞くに洎びて、即ち転じて之を攻む。我が師死傷する者六万。璘兵間に在りて之を憤り、『讜論』を著し、直に其の事を書して之を上る。晉陵縣を知る。隣州の田訟、至っては諸使に泣訴し願うて晉陵に送り可否せしむる者有り。制置使陳韡建康に留守し、通判に辟す。挙げて府事を以て聴かしむ。
六部門を監し、監察御史に擢でらる。台吏将に至らんとす。璘皇駭して趨避し、敢えて闕に詣らざらんとす。母曰く「人此の官は好しと言う。汝何ぞ憂うるを得ん」と。璘曰く「此の官は須らく朝廷の為に是非を争うべし。一たび上意に咈い或いは権貴に迕えば、重ねて大人の累と為るを恐る。何ぞ憂えざるを得ん」と。母曰く「而第に言を尽くせ。吾に而が兄在り。忽ちに憂うるなかれ」と。璘拝謝し、入りて職に就く。
故事に、御史は惟だ常服を以て拝下し、論奏有れば進めて繳す。是に至りて独り緝熙殿に召対せられ、窄衫を服して面読みせしむ。首めて疏を奏して曰く「天変して怒に至り、民怨みて幾くんか離る。海宇将に傾かんとし、天下勝えがたき諱るべき慮有り。陛下何の時と謂うや。縦欲して徳を累し、文過して非を飾り、正人を疏遠し、戚宦に狎昵し、朝政を濁乱し、自ら覆亡を取る。宰相は時文の才を以て経世の具と為し、民命を顧みず、軽く兵端を挑ぎ、事宜を度らず、頓に国帑を空うす。政を厥の子に委ね、商人に内交し、賄塗大いに開け、小雅尽く廃す。瑣瑣たる婣婭、敢えて邪謀に預かり、国事を俳優の如く視、神器を奇貨と為す。都人は側目し、朝士は痛心す。盍ぞ将無きの誅を正し、以て忠ならざるの戒を著さん。崔與之の操行は楊綰に類し、修途莫景と雖も、力は心に逮わずと雖も、命下の日、聞く者興起す。喬行簡は大體を頗る識り、朝望稍く孚る。而して除授偏私し、事多く遺忘す。宜しく家相を択び、宗子を賛し、民物を輔け、以て父母の望を慰むべし。天変の寖極まり、人心の愈離るるを毋からしむべし」と。上為に容を改む。又た土豪を召號し、荊・襄を經理し、亟に帥臣を択び、淮西を安集せんことを請う。帝嘉納す。辺事を問うこと甚だ悉しに至る。
璘感激して知遇を知り、是より弾撃するに避くるところ無し。再び疏して曰く「鄭清之妄庸にして国を誤る。職を褫ぎ祠を罷むるを乞う。其の子士昌は、権を招き賄を納れ、庸将を抜きて統帥と為し、贓吏を起して守臣と為す。籍を削り棄廃するを乞う。鄭性之は懦にして私多く、奸庸を党庇す。臣其の改官挙状を受け、嘗て陛下に之を薦めしことを蒙る。国事此に至る。敢えて私を顧みず。李鳴復は甘心して鄭損に諂い、薦を得て朝に入る。適た清之の張天綱の獄を議するに、迎合して軽きに従う。遂に台端に擢でらる。会す趙桄夫史寅午を遣わし清之父子に囑す。鳴復又た寅午に結びて政府に登るを得」と。会す杜範亦た鳴復を論ず。行わずして範去る。璘遂に力を丐いて外せんとし、疏七たび上る。広西運判を授けられ、嘉興府を知るに改め、尋いで江東運判に改む。
時に辺事急なり。四察訪使を置き、就て詔して璘に建康・太平・池州・江西を分からしむ。璘榜を馬前に掲げ、利害を以て所部に諮り、又た土豪に戒めて漁業水手・茶塩舟夫・蘆丁を団結せしめ、悉く燎舟の具を備えしむ。人々奮わんと思う。即ち将を選び二州の兵舟を総べて以て敵を耀し、当塗に檄して宿に戦具を設けしめ、采石を防がしめ、和糴を撥して生券を続け、且つ総領所の錢二十万緡を損じて江防を助けしむるを奏す。軍声大いに振る。
まもなく直華文閣に昇進し、広州知州・広東経略安撫使となった。梅州で賊が起こると、唐璘は威信を示し、賊はまもなく鎮まった。江淮が旱魃に遭い、広右で和糴を行うことが議論されたが、璘は言った。『公家は赤貧であり、糴の元手を調達する術がなく、結局は日々民から取り立てることになりましょう。臣が元手を撥ねたり、禍を招いて朝廷の多事の憂いを重くすることを恐れるのではありません』。翌年、致仕を乞う上奏をしたが、帝は彼に会いたいと思い、急いで入奏を命じ、太常少卿に抜擢した。まもなく母の喪に服し、璘は喪に服して哀傷のあまり食事をとらず、久しくして病状が重くなり、卒去した。
唐璘が御史台に立ったのはわずか百日であったが、世間は唐介の再来と称し、上躬を切に戒め、言うべきことを隠さず尽くしたので、帝はますます畏怖した。官に在っての大節は、母の教えの助けが多かった。
論じて言う。高定子が西陲にあって、政績が著しく聞こえたことを観る。李斯得はたびたび起用されながらも権臣の手によってたびたび倒され、その再起の時には、宋の事態はすでに以前のものではなかった。張忠恕が済王邸の事を論じたのは、父祖の風があった。唐璘は、古の遺直と謂うべき者である。