宋史

列傳第一百六十七 呉昌裔 汪綱 陳宓 王霆

呉昌裔

呉昌裔、字は季永、中江の人である。幼くして孤となり、兄の泳と共に痛切に自立を志し、時の好みに従うことを肯ぜず、程頤・張載・朱熹らの書を得ては、研鑽を倦まなかった。嘉定七年に進士に挙げられ、漢陽守の黄𠏉が朱熹の学を修めていると聞き、往きてこれに従った。

閩中尉に転じた。利路転運使の曹彦約がその賢を聞き、糴場を司らせた。時に凶歳にて、上流で買い入れることを議したが、昌裔は本倉の儲蓄数万を発して徐々に買い入れ償うことを請い、これに従った。眉州教授に転じた。眉の士人は従来蘇軾の学を尊んでいたが、昌裔は諸経を取ってこれを講説し、周惇頤及び程顥・程頤・張載・朱熹を祠り、『白鹿洞学規』を掲げ、潭州の釈奠儀を模倣し、祭器を簿正して、士風は大いに変わった。制置使の崔与之がこれを推薦し、華陽県知事に改めた。学宮を修め、四方の士を招き、余剰の銭二十万緡を斥けて良田を買い旱魃に備えた。眉州通判となり、『苦言』十篇を著し、しょくのことを甚だ詳細に慮った。郡事を摂行し、軍を御するに紀律有り。まもなく漢州を権知し、故事によれば摂官に比し、俸給の供給は皆本官の如くであるが、昌裔はその半ばを削ぐことを命じた。兵籍を核査し、社倉を興し、郡政はことごとく挙がった。興元帥の趙彦呐が東は武仙を招き入れ、西は秦・鞏と結ぶことを議し、人敢えて言う者無かったが、昌裔独り奮筆してその非を力辨した。未幾、武仙は敗れ、二州の民果たして叛いた。

端平元年、入朝して軍器監簿となり、将作監簿に改めた。太常少卿に改めた。徐僑は人を許すこと少なかったが、独り昌裔を賢とした。皇后宅教授を兼ねたが、昌裔は祖宗の旧典に職事官を以て充てた例無しとして、力辞し、呉・益王府教授に改めた。転対にて、まず六事を陳べ、その目は、天理未だ純ならず、天徳未だ健ならず、天命未だ敕ならず、天工未だ亮ならず、天職未だ治まらず、天討未だ公ならず、と曰う。およそ君臣の綱、兄弟の倫、挙世が大戒として敢えて言わざる所のもの、皆痛切にこれを陳べた。辺臣が法令を玩び、陟罰に章無きに至っては、特に拳拳としてこれを言った。監察御史に拝され、弾劾に避く所無く、且つ曰く、「今の朝綱は果たして撓がれる所無きか。親故に言及すればこれを留中と為し、私昵に言及すればこれを訖了と為し、事に窒礙有れば節帖を以て付出し、情に嫌疑有れば調停を以て寝行す。今日一人を遷せば、近臣の体を存すと曰い、明日一人を遷せば、遠臣の勧めと為すと曰う。風憲の精采を屈し、人情の去留に徇い、士気は銷耎し、下情は壅滞す。官邪を糾正し、国脈を助くる所以に非ず」と。

台臣の故事として、季毎に獄に詣り点検す。時に常州の田一万四千畝を争う事有り、平江も亦数百畝、株連して逮うる者百余り、その牘を視れば、乃ち趙善湘の子の汝櫄・汝榟なり。州県敢えて決せず、昌裔連疏してこれを劾罷した。冬に雷重なり、春に大雨雪有り、昌裔は斎宮に居て燭を秉り疏を草し、凡そ上躬の缺失、宮庭の嬖私、廟堂の除授、皆以て言と為した。又言う、「将帥は方命し、女寵は私謁し、旧党を用い、辺疆の禍有り、皆此の陰類なり」と。且つ曰く、「今大昕に坐朝すれど、時に事を視ざるの文有り。私第に謁假すれど、時に堂に入らざるの報有り。上には耽楽慆逸の漸有り、下には協恭和衷の風無し。内には則ち嬖御私を懐きて君心の蠹と為り、外には則ち子弟謹み寡くして朝政の累と為る。遊言噂遝し、寵賂章聞す。『簫』『勺』の大和を得んと欲するも、得べしや」と。

又蜀の事の危険に瀕するを思い、四事を条して進む。規橅を実にし、功賞を審にし、軍実を訪れ、帥才を儲う、と。時に果・閬州の守臣逃遁して進職する者有り、遂寧を知る李煒父子は足跡辺庭に至らずして賞を受ける者有り、軍を僨わせし趙楷・城を棄てし朱揚祖は皆罰を加えられず。又帥臣趙彦呐は年老いて智衰え、その子は刑を淫し貨を黷し、士卒は命を用いず。安癸仲は抨弾に遭うを恥じ、経営して復用せられ、謫籍を起して帥垣に代わらんと欲す。昌裔は皆抗疏してこれを弾撃した。

又歴に三辺の事を言うに曰く、「今朝廷の上、百辟晏然たり。言論は施行に多く、浮文は実務を妨ぐ。后族王宮の冗費、列曹坐局の常程、群工閑慢の差除、諸道非泛の申請、乃至土木の経営、時節の宴遊、神霄の祈禳、大礼の錫賚、藻飾治具、平時に異ならず。治兵足食の方、車を修め馬を備うるの事に至っては、乃ち缺略して講ぜず」と。且つ靖康の敝を援け、痛哭してこれを言う。

大理少卿に出され、屢疏して去らんことを引くも、許されず。会に杜範再び台に入り、参政の李鳴復を撃つ。昌裔は範と善し、必ず相謀る者と謂い、数これを讒す。権工部侍郎を以て出で四川宣撫司軍事を参賛す。人曰く、「此れ李綱の太原を救うなり。太原は救うべからず、只だ綱が主戦を為すを以ての故に、これを出だすのみ」と。昌裔曰く、「君命なり、亟に行かざるべからず」と。慷慨して襆被し関を出づ。忽ち疾を得、中道病甚だし。帝これを聞き、秘閣修撰を授け、嘉興府に改む。昌裔曰く、「吾疾を以て帰り父母を救う能わず、上は聖恩に負い、下は此の心に負う。若し遠きを捨てて近きに就き、危きを捨てて安きに就かば、人其れ我を何と謂わん」と。辞すること四五に至るも、言者は避事を以て論ず。

贛州に改む。辞し、右文殿修撰を以て鴻慶宮を主管す。浙東提刑に遷る。辞し、婺州知事に改む。婺は旱を告ぐ。民日夜これを望む。乃ち終に辞するに忍びず、騶従供帳を減じ、僚佐を遣わして邑令を召し阡陌を行わしめ、粟八万一千石・銭二十五万緡有奇を蠲免す。集英殿修撰を加えられ、卒す。宝章閣待制を以て致仕す。

昌裔は剛正荘重、事に遇いて敢えて言い、典章に多く閑習す。嘗て至和・紹興の諸臣奏議の本末を輯め、名づけて『儲鑒』とす。又周・漢より宋に至る蜀道の得失、師を興し財を取る所を会粋し、名づけて『蜀鑒』とす。奏議・『四書講義』・『郷約口義』・『諸老記聞』・『容台議礼』・文集、世に行わる。

初め、昌裔は徐清叟・杜範と一日に並び台に入る。皆天下の正士、四方その風采を想い聞き、人至って『三諫詩』を和してこれを侈す。然れども才七箇月にして以て遷る。故に惋惜せざる莫し。後に諡して「忠肅」とす。

汪綱

汪綱、字は仲挙、黟県の人、簽書樞密院事汪勃の曾孫なり。祖の任により官に入り、淳熙十四年に銓試に中り、鎮江府司戸参軍に転じた。

馬大同が京口を鎮守し、剛毅自任する中、綱の言論は独り詭随せず。議者、両淮の鉄錢交子を沿江に施行せんと欲し、朝廷の議は大同に率先して之を行わしむるを令す。綱、書を貽して曰く、「辺面に鉄錢を行ふは、銅宝の外に泄るるを慮るのみ。私鋳盛行するが故に、錢軽くして物重し。今若し場務の出納、鉄錢を以て息を取らず、四色請買の旧制を堅守し、冶鑄の定額、余羨を求めず、重禁を以て私鋳を戢め、辺戍に支散するは軍中半者と異ならず、鉄錢を以て準折せざれば、則ち淮民将に自ら之を便とす、何ぞ至らんや内郡を敝はしむるに。」大同始めて悟る。湖南転運司に試み、又中る。綱笑ひて曰く、「此れ豈に以て世を用ひ物を澤すに足らんや。」乃ち意を刻みて学を問ひ、古今に博通し、義理を精究す。本原に覃思す。

桂陽軍平陽県令に調ず。県は溪峒に連なり、蠻蜒と居を同じくす。綱、一たび恩信を以て之に遇ふ。科罰の害既に三十年、綱下車し、首に諸臺に白し、之を罷む。桂陽、歳貢銀二万九千余両、而して平陽其の三分の二に当る。綱謂ふ、向者銀礦坌発し価軽し、故に勉めて応ずる可し、今地宝已に竭き、他郡に市す、其の価倍蓰す、願はくは力を請ひて痛く之を蠲損せんと。歳饑し、旁邑に曹伍有る者、群を聚めて悪少、境に入り、強ひて貸し廩を発す。衆千余に至り、界頭・牛橋の二砦の兵を挟みて援と為す。地は万山の間に盤踞し、前後の令未だ嘗て一たび其の境に渉らず、綱の至るを虞ひず、相率ひ出で迎ふ。綱已に夙に酒食を具へ、之を令して曰く、「汝何ぞ敢て乱す、順ふ者は食を得、乱す者は誅に就かん。」夜砦中に宿し、砦官を呼びて防守能はざる状を詰責す。皆皇恐して地に伏し死を請ふ。其の首悪者八人を杖し、粟を発して振糶す。民之に頼りて安んず。

金壇県知事に改め、親嫌あり、弋陽県に更む。父義和、侍御史たり、佑神観を主管す。尋いで父喪に丁し、服除け、蘭溪県知事となり、決擿神の如し。歳旱し、郡は勸分に倚りて辦す。綱謂ふ、勸分は義倉を助くる所以なり、一切之を行ふは、所謂富を安んじ貧を恤むるに非ざるなり、願はくは常平銭を仮りて糶本と為し、循環迭濟を得しめんと。又躬から富民を勸めて塘堰を浚築し、水利を大興す。餓ふる者其の力を食し、全活甚だ衆し。郡守張抑及び部使者、綱を列して一道の荒政の冠と為す。言を以て去る。邑人相率ひて匭に投じ其の事を直さんとす。綱力を以て之を止む。

継いで太平県知事となり、両浙転運司文字を主管す。未だ赴かず、内艱に罹り、行在左蔵西庫監に擢でらる。時に金人其の主允済を殺し自立し、使を遣はして襲位を告ぐ。議者即ち幣を遣はさんと欲す。綱言ふ、「使名遜らず、当に境上に止め、姑く左帑に例を視はしめ計辦せしめ、或は且く京口総司に留め、盱眙をして之に諭さしめて曰はしむ、『紀年名節、皆先朝の避忌に犯す、歳幣乃ち爾が前主の増す所、今既に易代す、当に隆興・大定の旧に復すべし。』と。此の議定まりて而る後に正旦・生辰の使を遣はす可し。歳月を以て遅らしめ、吾邊将を択び城堡を葺き、軍実を簡び、糗糧を儲峙し、沿邊をして屹然として犯す可からざるの勢有らしめ、其の自ら相攻擊するを聴き、然る後に全力を以て其の後を制せん。」廟堂之を韙とす。

東西庫提轄に任じ、又諸司審計司幹辦を兼ぬ。選を以て高郵軍知事となる。陛辞に言ふ、「揚・楚二州は当に各二万人を屯し、其の声勢を壮にし、而して高郵を以て家計砦と為すべし。高郵は三面水に阻まれ、湖澤奥阻にして、戎馬の騁る能はざる所、独り西南の一路天長に直距し、険無くして守る可し。乃ち城を去ること六十里に随ひて地を経畫し、或は溝塁を浚ひ、或は設伏を備へ、以て其の衝を扼すべし。」又湖の以て淮に入る可きを慮り、水卒五千人を招き百艘を造り三砦に列して非常を戒む。興化の民田は海に濱す。昔范仲淹堰を築き以て舄鹵を障ぎ、守毛澤民石䃮を置き函管に達し以て運河の水勢を疏く。歳久しくして皆壞る。綱乃ち之を増修す。部使者朝に聞こゆ。一秩を増し、淮東常平提挙に任ず。淮米の江を越ゆるに禁有り。綱念ふ、「淮民警有れば則ち室廬保つ莫く、歳凶なれば則ち轉徙して帰る無し。豊年は以て少しく蘇る可し、重ねて苛禁を以てし、自ら畛域を分つは、豈に民の父母たるの意ならんや。請ふ、金陵に下りて三十万を糴し以て淮西の運を通じ、京口に下りて五十万を糴し以て淮東の運を通ぜん。」又言ふ、「両淮の積は多き可からず、昇・潤の積は少なき可からず。平江は米数百万を積み、陳陳相因り、久しくして紅腐す。宜しく其の収貯の近久を視て、輦下の百司・諸軍に取餉すべし。江上の歳餫、京に当に至る者は、之を京口・金陵に貯し轉漕すべし。両淮・中都の諸倉も亦当に広く糴して以て其の数を補ふべし。」

制置使綱に訪ふ、備禦孰れか宜しく先にすべき。綱言ふ、「淮の地は昔より財賦の淵藪と號す。西に鉄冶有り、東に魚稻富み、以て自給するに足る。淮右は山多く、淮左は水多く、以て自固するに足る。誠に能く両淮を合して一家と為し、兵財を通融し、声勢を合一せば、江・浙の力を仮らずと雖も可なり。祖宗の盛時、邊郡の儲へは十年を支ふるに足れり。慶暦の間、中山一鎮尚ほ百八十万石有り。今宜しく先朝に法り、商旅をして粟を近塞に入れしめ、而して銭貨を京師に算請せしむべし。粟を入れて爵を拜し、之を信を以て守らば、則ち輸する者必ず多く、邊儲は豊かならざるを患へず。州郡の禁兵は本より役を供するに非ず、乃ち外郡に就糧するのみ。今戦闘の用に為さず、乃ち之をして力を役に共にせしむ。緩急戍守するに、専ら大軍に倚る。指日して更を待ち、風土に安んぜず。豈に土兵の邊地に生長し、墳墓室家し、人自ら守るが若からんや。当に伉壯を精択し、其の尺籍を広め、悉く御前軍額に隷し、券を分擘して給し以て州郡の衣糧の供を助くべし。大率山陽武鋒軍の制の如くせば、則ち邊面は必ずしも江上の戍を抽さず、江上は必ずしも禁闈の師を出さず。生券更番し、労費俱に息まん。」

時に制司に献言する者有り、荒田を広く買ひ開墾し、以て営田と為さんとす。綱以為ふ、「荒瘠の地は辦むるに難からず、而して工力・水利は久しからざれば可ならず。産を棄て官を欺き、良田終に得可からず。公帑を耗費し、開墾難く就かん。曷ぞ民を勸めて閑田を尽く耕さしめ、川澮堙塞すれば則ち官之を助け、瘠を變じて沃と為し、民をして余蓄有らしめんや。晁錯の入粟の議、本朝の便糴の法、其の中に在り。」制司其の益無きを知り、乃ち止む。

淮東煮塩の利は、本天下の半に居る。歳久しくして敝滋し、塩本日々に侵され、帑儲空竭す。両総司に五十余万を負ひ、亭戸二十八万に借撥し、朝廷より五十万を借る。又餉所の復する塩鈔に会す。旧制、商人の預けて貼鈔銭を供するを許さず。塩司是に坐して窘みて支ふる能はず。綱隱伏を抉擿し、凡そ虚額実無く、詭りて出内し、飛走移易し、事制曲防するを抉る。課乃ち更に羨む。既に負ふ所を尽く償ひ、又金三十万緡を贏す。之を以て樁辦庫と為し、以て塩本の闕を備ふ。新たに灶五十所を添置す。諸場悉く乾道の旧額三百九十万石に視、一千三百万緡を通ず。課を以て官吏の殿最とす。綱己を約し下を率ひ、臺郡の互饋を辞し、独り場官の奉を増して以て其の廉を養ふ。

戸部員外郎に抜擢され、淮東軍馬財賦を総領した。当時、辺境では生券が多く発行され、山東の帰順者への月例の銭糧は、緡を単位として三十三万増加し、米は石を単位として六万増加した。真州・楚州などの諸州では新たに万弩手を招集し、いずれも総領所の供給に依存していたが、浙西の塩利の滞納は七十余万緡に達し、諸州の漕運は期日に到着しなかった。綱は名実を検核し、怠慢を戒め、計画を立て処置し、兵糧の事はこれによって欠乏することがなかった。

病気を理由に転任して閑職を求め、直秘閣・婺州知州を得た。提点浙東刑獄に改められたが、いずれもたびたび辞退しても許されなかった。囚徒を審理し、婺州に至ると、奴隷が刃物を持って主人を害そうとしたが、会えずにその子を殺し、偽りの供述で妄りに他人を連座させたので、ただちにこれを斬り出した。衢州の囚人で冤罪の者を釈放した。台州の盗賊鍾百一は共犯ではなく、県尉が賞金を欲し、制置司に越級して申告した。綱は言った、「盗賊の取り締まりは厳格さを重んじるとはいえ、どうしてでっち上げて罪を構成することができようか」と。そこで死刑を減じることができた。龍瑞宮で雨乞いをすると、朱色の蜿蜒たるものが、三日間壇上を盤旋した。綱は言った、「私は雨を望むだけであり、異変を起こして衆を惑わすな」と。言い終わらないうちに、雷雨が大いに至り、その年は大豊作となった。

直煥章閣に進み、紹興府知府・主管浙東安撫司公事兼提点刑獄となった。民の苦しみを訪ね、廃止と施行は特に切実であった。蕭山に古運河があり、西は銭塘に通じ、東は台州・明州に達するが、砂が三十余里にわたって堆積し、舟が航行すると座礁した。そこで八千余丈を開削疏浚し、さらに江口に閘を設け、泥の堆積が入らないようにし、河水が漏れ出さないようにした。陸路にはすべて舗装して城に達するようにした。十里ごとに一つの小屋を設け、「施水」と名付け、道士に管理させた。これにより舟車水陸、昼夜・寒暑を問わず、思いのままに行き渡り、喜び奮い立って労苦を忘れた。管轄下の諸県は海に臨み、諸暨の十六郷は湖に臨み、沼沢の灌漑の利は甚だ広かったが、勢家の豪族はおしなべて私的に堤防を築き、囲んで田とし、湖の流れが狭められると、水が去ることができず、雨が少し多いと町中に溢れ出し、田畑や家屋が浸水した。海辺は塘堤によって守られていたが、堤岸は崩れやすく、塩分が農作物を害し、毎年数十万畝が損害を受け、租税免除も万単位に及んだ。綱の上言により、詔が提挙常平司に命じて田園を調査させ、奇怪な口実や巧みな要求は一切厳しく退け、湖田はようやく元に戻った。郡は三万緡を準備して専ら修築に充て、海辺の田はようやく堅固になった。綱は言った、「この地は海路を控え、都畿に密接に拱衛しているが、軍籍は薄弱である」と。そこで水軍を招集し、叉手を刺配し、教練を非常に専念させ、他の役務には就かせなかった。兵営千余間を創建し、広く整然として堅固緻密であり、甲兵を増設し、威勢は赫々たるものがあった。司農卿を兼権し、まもなく直龍図閣となり、そのまま留任した。

理宗が即位すると、詔により右文殿修撰となり、集英殿修撰を加えられ、また留任し、さらに宝謨閣待制を加えられた。宝慶三年に大水害があり、綱は粟三万八千余石・銭五万緡を発して救済し、租税六万余石を免除したので、飢え疲れた者はたちまち蘇生し、平年と変わらなかった。越には経総制銭の項目名目四十一万があり、そのうち二十五万は、紹興以来の虚額であった。前後の長官は成績不良を恐れ、欑宮(仮の皇陵)修築奉仕の費用として偽って増額していた。綱は言った、「成績不良の責めは小さく、上を欺く罪は大きい」と。その実情を摘出して上奏した。詔により九万五千緡が免除され、積年の弊害はこれによって明らかになった。

紹定元年、行在(臨安)に召還された。綱が入見し、言上した、「臣下は利を先にする心が義に殉ずることを過ぎ、身のための計らいが国を謀ることを過ぎています。怠惰で退縮し、奔走競争して貪欲汚職にふけり、互いに欺き合っています。これを転換させるべきです」と。帝は言った、「卿の治績が甚だ美しいと聞く。越中の民力はどうか」と。これに対し、「去年は水害があり、諸暨が最も甚だしく、今年は幸い中程度の収穫です。十年の間、千里が安泰なのは、すべて朝廷の威徳の及ぶところであり、臣に何の力がありましょう」と答えた。戸部侍郎を権任した。数か月後、上章して致仕を請うた。特別に二階級を与えられ、戸部侍郎のまま留任し、なお金帯を賜った。死去すると、越の人々はこれを聞いて多く涙を流し、寺観で相率い哭した者があった。

綱の学問には本原があり、見聞広く博識で、兵農・医卜・陰陽・律暦などの諸書に、研究しないものはなかった。機知は明敏鋭利で、事に遇すればたちどころに決断した。越では四つの印を佩び、文書は山のように積もっていたが、簡約を操って詳細を統御し、政務を処理するのに二十刻(約五時間)を超えず、公庭は水のごとく静粛であった。卑官や下吏でも、一言道理に適えば、慨然としてこれに従った。文章は特に事を論じるのに長け、古今を援引し、弁論広博で雄勁であった。衣服や器物は奢侈華麗を好まず、供帳や車乗は、たとえ古びていても取り替えなかった。著作に『恕斎集』・『左帑志』・『漫存録』がある。

陳宓

陳宓、字は師復、丞相陳俊卿の子である。若くして朱熹の門に及んだことがあり、朱熹は彼を器量非凡として異視した。成長して黄𠏉に師事した。父の任子の恩蔭により泉州南安塩税を歴任し、主管南外睦宗院、再び主管西外を経て、安渓県知県となった。

嘉定七年、進奏院監に任じられた。当時、慷慨して言い尽くす者は誰もいなかった。宓は封事を上奏して言った、「宮中での宴飲は時に節度を失い、時宜を失した賜与は数が膨大である。一人が粗食なのに嬪御は鮮魚を撃つ(美食する)ことを廃さず、辺境の事態が緊迫しているのに積み立てた財貨はかえって妄りな用途に供される。これは宮闈の儀範刑罰が正されていないからである。大臣が用いる者は親族か旧知ばかりであり、執政は制御しやすい者を選び、台諫は慎重沈黙な士を用い、都司や枢掾は親昵でない者はなく、貪吏はことごとく志を得、廉士は動けば怨みを招く。これは朝廷の権柄が分散しているからである。塩鈔の変易、紙幣(楮幣)の価格維持策、安辺所の創立は、固執して己の意見を押し通し、動けば人心を失い、敗軍の将が殿巖(殿前司)に躍り出て登用され、凡庸卑陋の者が長く京兆尹を務め、宿将には守成の功があるのに、小さな過失で貶黙され、三衙(殿前司・侍衛親軍馬軍司・歩軍司)には汗馬の労がないのに、公務勤勉と称して抜擢される。これは政令刑賞が多く背逆しているからである。もし内外に戒めを交わし、一たび紀綱を正すならば、天がなお雨を降らさないならば、臣は面と向かって欺いた罪に伏すことを請います」と。奏上されると、丞相史弥遠は快く思わず、中宮(皇后)の慶寿に際し、三衙が献上物を贈ったが、このことでこれを退けさせた。まもなく軍器監主簿に遷った。

九年、転対(皇帝への交替拝謁と上奏)で言上した、

「人主の徳は明であることを貴び、大臣の心は公であることを貴び、台諫の言は直であることを貴びます。陛下は政務に臨むことは勤勉ですが治績はまだ挙がらず、御身を捧げることは倹約ですが財用はまだ豊かでなく、民を愛することは仁ですが実恵はまだ行き渡りません。これはまさに上下が互いに欺き、欺瞞隠蔽に務めるからです。投書箱や封書による上奏は、思いをことごとく吐露し、陛下は近臣に委ねて選択差別されます。これはその言を行おうとするお心です。ところが有司は、専ら主上御自身を攻撃し、あるいは責任を州牧郡守に転嫁するような章奏だけを取り上げ、内外に伝播させて、見聞に応えるのです。今や赤地千里、蝗の飛ぶことが天を蔽うほどで、このように恐るべき状況であるのに、なお旱魃を災いとせず、蝗が農作物を害さないなどと隠蔽し、他の誣罔は、推して知るべきです。臣が故に『人主の徳は明であることを貴ぶ』と言う所以です。

大臣の施策は、次第にその初めと異なっています。およそ建議して言を求めた人々は、他の事を理由に追放し、諫官が事を言上するのが少し直截であれば、他の職に転任させます。忠憤の者は不穏と指弾され、切直な者は沽名と目されます。衆怨の集まる者は相継いで超升し、世論の帰する者は順次に疎遠にされます。某人の昇進は、かつて人の罪を重くして同列の私憤を快くした者であり、某人の抜擢は、かつて古事を援用して近日の天変を粉飾した者です。直節で重望ある者は私嫌によって久しく棄てられ、老奸で宿臧(蓄財した汚職官吏)は巧みな請願によっておしなべて復職します。もし大臣が果たして幸門(寵幸による登用の門)を杜絶し、邪径を塞ぐならば、挙措は適切となり人心は服します。臣が故に『大臣の心は公であることを貴ぶ』と言う所以です。

台諫官は平素において異論を立てず、事に遇えば敢えて言い尽くさず。例えば金人が再び通交を求めることは、最も国体に関わることであるが、近侍の臣から下は生徒に至るまで、力を争わずして、廟算を補わんと望む者はなく、ただ言責を負う者だけが、一言も発しない。輦轂の下においては、巨万の財を乾没する者あっても、誰がこれを咎めようか。州県の間では、罪は毫髪の如き僅かなりとも、これを摘発して責めを塞ぐ。大臣の為さんとする事はこれを遂げさせ、右せざる人にはこれを排す。仁宗の時には、宰相が台諫の風旨を奉行するという讒謗があったが、今は台諫が中書に違えざるという誚りがある。豈に祖宗が官を設けた初意であろうか。臣故に曰く、『台諫の言は直なるを貴ぶ』と。

この三つは機括の繫がる所である。願わくは陛下幡然として悔悟し、明徳を昭らかにして以て百官を照臨せられんことを。大臣・台諫も亦、公心直節を以て、治を望むの意に副うべし。

弊事を指陳し、前の疏に比べて一層剴切であった。宓は遂に罷帰を請うた。在告の日、太府丞に擢げられたが拝せず、出て南康軍を知る。史弥遠に別れを告げると、弥遠は曰く、「子の言は甚だ切当であるが、ただ愚昧にして行う能わず、殊に愧じる有り」と。官に至り、歳大いに凶作にて、その賦の十の九を蠲免するよう奏上した。流民の群集するに会し、宓はこれを就役させ、江堤を築かせてその食を給した。時に白鹿洞を造営し、諸生と討論した。南剣州知州に改める。時に大旱疫あり、逋賦十数万を蠲免し、且つ新たに輸すべきものの三分の一を弛め、自ら僚吏を率いて銭粟薬餌を持ち戸ごとに給与した。延平書院を創設し、悉く白鹿洞の規に倣った。

漳州知州に任ぜられたが、未だ赴任せず、寧宗の崩御を聞き、嗚咽すること累日。亡何、致仕を請う。宝慶二年、広東刑獄提点に任ぜられたが、章を三度上奏して、遂に就任せず。直秘閣、崇禧観主管となり、宓は祠命を拝して職名を辞した。卒し、職一等を進めて致仕す。三学の諸生が宓を起用するよう請うたが、既に没して一月余りを経ていた。

初め、宓が朝に在った時、寺丞丁焴が金に使いとして往くことあり、宓は歎いて曰く、「世仇未だ復せず、何を以て好と為さんや」と。餞別の詩に「百年中国豈に人無からんや」の句あり。後数年、関外の不靖を聞き、書を以て焴に抵りて曰く、「蜀口は関外より遠しと雖も、実に一身の如し。近事は心を寒からしむるに足り、皆士大夫の罪なり。豈に賄道絶えざるの故に非ずや」と。焴その言に服した。

宓は天性剛毅にして、道を信ずること尤も篤く、嘗て『朱墨銘』を作り、朱は陽に属し、墨は陰に属すと謂い、以て理欲の分寸の多寡を験す。自ら言う、官に居るには必ず顔真卿の如くし、家に居るには必ず陶潜の如くすと。而して諸葛亮の身死して家に余財無く、庫に余帛無きことを深く愛し、庶幾くはその語を蹈む者ならんと。端平初め、殿中侍御史王遂が首めて言う、「宓は先帝に事えて論諫の直ありながら、聖化の更まるを俟つに及ばず。宜しくその身後を褒めて、以て天下の臣たる者を勧むべし」と。帝感動し、詔して直龍図閣を贈る。著書に『論語注義問答』『春秋三伝抄』『読通鑑綱目』『唐史贅疣』の稿数十巻あり、家に蔵す。

王霆

王霆、字は定叟、東陽の人。高大父の豪、衆を帥いて方臘を誅し、功を以て官を補う。霆は少にして奇気有り、有司に試みるも偶わず、去って武挙に就く。嘉定四年、絶倫異等に中る。喬行簡が別頭で芸を考うるに、喜んで曰く、「吾朝廷の為に一の帥才を得たり」と。

承節郎を授かり、鄂に於いて軍に従う。帥の鍾興嗣が辺を戍り、枢密院に請うて、霆を随軍都銭糧官と為す。総領の綦奎、霆に委ねて専ら総効軍を教閲せしめ、尋いで師を帥いて黄州を守禦することを委ぬ。沿江製置副使李𡌴、幕下に辟置す。淮右の兵叛き、霆を遣わしてこれを招諭す。霆は軍事に於いて知る所は言わざる無く、謂う、「良家の子を募集するには、寅縁関節を以てその間に冒濫することを許すべからず。江面を防守するは、全く正軍に藉る。若し義勇・民兵は、特に声援と為す可きのみ。而して所謂大軍は、羸病の者多く、兵械は損旧し、豈に事を敗らざらんや。兵を調えて江を防ぐには、当に江岸に屋を創めてこれに居らしめ、専心に守禦せしむべし。諸軍の伍法既に廃れ、平居においてはその虚籍冒請の弊を稽うるに由無く、その竄逸生事の人を糾すに由無し。緩急においてはその併力して敵に向かうの志を稽うるに由無く、その陣を逃れて進まざるの心を連すに由無し。これ尉繚子の束部伍の令を著し、太公たいこうが伍法を要と為すと謂う所以なり。兵を用うるには人数の多寡を以て勝負と為さず、ただ教習の精否のみ。則ち勝負の形見ゆるなり」と。

理宗即位、特差にて浙西副都監・湖州駐劄を充つ。時に潘甫等兵を起こし、事甫めて定まる。霆は因ってこれを綏撫す。鎮江都統趙勝、計議官に辟く。時に李全塩城を寇し、海陵を攻む。勝は出でて揚州を戍る。属官多く従行を憚る。霆慨然として曰く、「これ豈に臣子難を辞すべき日ならんや」と。揚子橋に至り、人の言う、賊兵昨日南門に在りと。去って将に何くにか之かん。霆竟に南門に至り、帥憲の命を以て三城の事を董む。勝次第に城を出でて接戦す。霆は必ず身士卒に先んじ、大小十八戦、一として利ならざる無し。賊の壕を奪い、土城を築き、城門を焚く。賊気これに懾る。差して応州知州兼沿辺都巡検使と為し、枢密院命じて黄莆後営を節制し、諸道の軍馬を弾圧せしむ。諸道の兵二十万将に往きて楚州を収復せんとす。霆は帥する所の部を以て掎角の助と為す。

大帥これを薦ぐ。召し試みて閤門舎人と為す。入対して言う、「恢復の説に二有り。曰く規橅、曰く機会。顧みるに今日の規橅何くにか在るや。守令は民を牧する所以なれども、恵養之を加えず。将帥は軍を御する所以なれども、拊循之を至らさず。邦財未だ裕ならず、而して楮券の弊浸く深し。軍儲未だ豊かならず、而して和糴の害徒に惨し。官に土地有りて荒蕪し、民は賦役に因りて破蕩す。獄訟類して冤抑を成し、銓曹率ね多く淹留す。薦挙に反坐無く、貪徒類を引いて班を通ずるを得。按刺公に徇わず、微官意に迕いて連譴せらるるに易し。郡計を言うに、則ち紛耗すること囊橐包苴に在り。戦功を言うに、則ち多く私すること親昵故旧に在り。至りて降卒を中処すれば、虎を養いて患を遺し、敵を軽んじて辺を開けば、肉を以て虎に餧う。夫れ規橅の切要なる者にして而も人の意を満たさざること此の如し。臣敢えて軽く恢復の説を進めて上聴を誤らんや。凡そ臣の陳ぶる所は、誠に中外の臣に播告し、悉くその旧を懲らしめてその新を図らしむ。規橅既に立ち、然る後に義旗一たび麾けば、諸道並びに進む。臣力尚ほ壮んなり、願わくは前駆を効さん。惟うに陛下堅定して勉めてこれを図らんことを」と。帝その言採る可しと称す。武功大夫に昇り、出でて濠州を知り、金帯を賜う。州に至り、浮費を節し、粟を糴し馬を買い、以て不虞に備う。尋いで差して安豊軍を知る。臣僚上言す、「王霆濠に在りて、人甚だこれを安んず。宜しく輕易すべからず」と。詔して再び濠に任じしむ。職事修挙し、特に関班に転ず。諸使交わってこれを薦ぐ。

北兵が浮光に至ると、その民は奔り逃れ、道に相連なり、朝廷の議論は霆がこれを守るべしとし、乃ち光州を知り兼ねて沿辺都巡檢使に任ぜられた。雪を冒して夜行し、倍道疾馳して州に至り、間探を分遣し、戦守の具を整飭し、謝令橋にて大戦し、光人は遂に安んず。督府魏了翁、書を以て来たりて之を慰安し、緡錢十万を以て其の軍を労う。霆は召により、尋いで吉州刺史と為り、仍りて光州を知る。霆固く辞し、丞相鄭清之、制置使史嵩之皆数たび書を以て霆を留めんとすれども、霆従わず、且つ曰く、「士大夫は当に世に従いて道を以てすべし、道を以て世に従うべからず」と。

再び閤門舍人を授かり、尋いで達州刺史、右屯衛大將軍兼蘄州知事に任ぜられたが、赴任せず。尋いで淮西馬步軍副總管兼淮西遊擊軍副都統制に遷る。遊擊軍に関する十事を論ずるも、報いられず。崇禧観を提挙す。高郵軍を知り、流民の弟邦傑が衆三千人を聚めて盗と為る。霆其の渠魁を剿ぎ、余党悉く散ず。時に師を出すを議し、和する者多く、霆以爲く、「間探を遣わして敵情を覘わしむるに若かず、已むを得ずして然る後に之を行わば;然らずんば故なくして自ら其の根本を蕩す、是れ外兵未だ至らずして内兵先ず惨烈なり」と。諸軍畢に行くも、惟だ高郵之を遅らせ、境内頼り以て安全なり。是れによりて時に迕い、而して讒する者益々衆し。

雲臺観を提挙す。執政、辺事を論ずるを期し、且つ朝廷即ちに齊安の命有らんと謂う。霆曰く、「秋防已に急なり、辺守は臨時に更易すべからず、盍ぞ少しく之を需まん」と。乃ち帯行左領軍衛大將軍を授かり、沿江制置副使司計議官を充て、霆乃ち『沿江等邊志』一編を撰して之を上る。制置使董槐、鄧泳交わりて之を薦め、差して壽昌軍を知り、蘄州に改め、学舎を建て、忠臣を祠る。嘗て歎じて曰く、「両淮は藩籬なり、大江は門戸なり、三輔は堂奥なり。藩籬固からずんば則ち門戸且つ危うく、門戸既に危うければ則ち堂奥豈に能く久しく安んぜんや」と。是れに於いて丞相杜範に書を貽り、江を瞰えて形勢を審察し、三新城を置かんことを乞う:蘄春は龍眼磯に置き、安慶は孟城に置き、滁陽は宣化に置かんと。報いられず。卒す。

初め、其の父業を析くに、霆独り以て之を其の兄に譲る。宗族に処するに恩意有り、嘗て其の子弟を訓えて曰く、「理を窮め性を尽くすは、学の本なり」と。『玉溪集』有りて世に行わる。

論じて曰く、吳昌裔、東南に道を訪う、何ぞ其れ勤なるかな!故に其の造詣深醇にして、諸の事功に現るる者は、以て其の学雑ならざるを知るに足る。汪綱の遺愛は越に在り、先民の所謂く賢を択び久しく任ずる者は、固より我を欺かず。陳宓は宰相の子を以てし、論諫の直なるは、今に於いて光有り。王霆は兵家の言に通じ、而して道を以て世に従うべからずと謂う、此れ古人の帥を謀るに「『禮』『樂』を説きて『詩』『書』を敦くす」を貴ぶ所以なり。