杜範
秘書郎に改め、まもなく監察御史に拝された。上奏して言った。「かつて権臣の用いた台諫は、必ずその私人であり、言を約して既に堅くして後、命を出す。その弾撃する所は、悉く風旨を承け、これにより紀綱は蕩然とし、風俗は大いに壊れた。陛下が親政し、まず洪咨夔・王遂を用い、宿弊を痛く矯め、奸邪を斥去した。然れども廟堂の上には、奉制なお多く、貴近に言及すれば、或いは委曲回護し、先んじて丐祠の請を行い、事に掣肘あれば、或いは彼此調停し、ついに論罪の章を収むる。また弾墨なお新たなのに既に除目を頒ち、沙汰未だ幾ばくもせずして旋って美官を得る。ここより台諫の風采は、昔振揚したものが日に以て鑠け、朝廷の紀綱は、昔漸く起きたものが日に以て壊れる。」理宗は深くこれを然りとした。
また九江守の何炳が年老いて風寒を備えるに足らざることを奏したが、事は寝て行われなかった。範は再び奏して言った。「一守臣の未だ罷められざるはその事小さし、台諫の言の行われざるはその事大なり。台諫の言を阻むは猶し可なり、陛下の旨を匿して行われざるに至っては、これ励精親政の時に宜しき所ならんや。」丞相の鄭清之はこれを見て大いに怒り、五たび上章して去らんことを丐い、「危機将に発せんとし、朋比禍作らん」との語あり、かつ範を「風旨に順承し、粉飾して擠陷す」と謂う。範は遂に自ら劾し、言った。「宰相と台諫とは、官に尊卑ありながら事は一体に関わり、ただ当に同心して国の為にすべく、豈に私を以て公を害するを容れんや。行う者は宰相、言う者は台諫。行う者は豈に尽く事宜に合せんや、言う者は或いは攻詆を免れざるも、清明の朝には、これ特なる常事なり。古より大臣は紀綱を扶持せんと欲すれば、故に必ず台諫を崇奨し、言に因りて待罪する者あるを聞くも、言を諱みて怒を含む者あるを聞かず。かつて柄臣の用いた台諫は、必ずその私人なり。陛下が庶政を更新するに、台諫は皆親擢より出づ。もし廟堂が臣にその親故を言わしめず、その口を鉗し、その気を奪わんとすれば、則ちかつての私人を用いるに何を以て異ならん。所謂『風旨に承順する』者は何人ぞ、『粉飾して擠陷す』者は何事ぞ知らず。願わくは臣の前奏を検し、罷黜を賜い、以て臣の退きて田里に安んぜんとする欲いに従わしめられたい。」
時に清之は妄りに辺功を邀え、河・洛に師を用い、兵民の死者十数万、資糧器甲は悉く敵に委ね、辺境は騒然とし、中外大いに困った。範は合台を率いてその事を論じ、併せて制閫の詐謀が上を罔くするを言った。ここにおいて凡そ侍従・近臣の時望に合わざる者、監司・郡守の貪暴民を害する者は、皆次第に論斥された。清之はますますこれを忌み、太常少卿に改めた。転対して言った。「今日の病は、賄賂交結の風より大なるは莫し。名誉既に隆んなる者は左右の誉を買いて以て寵を固め、宦遊未だ達せざる者は惟だ梯級の求を以て身を進む。辺方の帥臣は、黄金を反間に行わずして以て朝廷を探刺し、厚賜を士卒に優れずして以て勢要に交通す。以て賞罰は顛倒し、威令は慢褻され、罪貶の者は命を拒んで行わず、城を棄つる者は巧計を以て免れんことを求め、援兵を提ぐる者は乱を召して肆に掠め、重任に当たる者は勢を怙って奪攘す。下は禁旅に至るまで、驕悍にして制し難く、監軍は群聚して相剽劫す。願わくは陛下、小恩を以て大誼を廃せず、私情を以て公法を撓さず、宮掖を厳制し、片言も以て閫に入るを得ざらしめ、閹宦を禁約し、讒諂も以てその姦を售すを得ざらしめられんことを。」範は台に入ってより、屡々祠を丐うたが、ここに至ってまた五たび帰田の請を上し、皆允されなかった。
秘書監兼崇政殿説書に遷った。大元の兵が江陵に徇うや、範は兵を蘄・黄に屯して江を窺うを防ぎ、且つ沿江の帥臣に江淮制置大使を兼ねさせて以てその権を重くし、淮西の帥臣に急に兵を調え糧を撥って以て江陵を援けしむることを請うた。殿中侍御史に拝されたが、辞して得ず、乃ち講筵に因りて奏した。
「臣嘗て耳目の寄を冒し、輒ち宰相に忤い、陛下の委曲調護を煩わすに至った。今また向者の負芒の地に居らしむるは、豈に臣が私比を絶ち、その言なお取るべき有るを以てか。抑や臣の巽懦の質、調護に易きを以て、姑くこれに数を備えしむるか。昔、人主の諍臣に対するや、楽しんでこれを聴くか、即ち勉めてこれに従うか、さもなくば疏遠するかであって、その言を用いずしてまたその人を用いる者あるを聞かず。陛下が端平より親政以来、正人を召用して台綱を振うも、未だ幾ばくもせずして委曲調護の弊あり、その弾撃する所は或いは牽制されて行われず、その斥逐する所はまた因縁を以て進まんことを求む。臣が台に入るの初め、固より已に力を以てこれを言ったが、惟だこれを革めざるのみならず、その弊ますます甚だしく、甚だしきは節貼して文理全からず、易写して台印無く、中書は敢えて執奏せず、見る者これが為に疑いを致す。聖明の時にその弊一たびここに至るを意いざるなり。陛下はその言の用いるべからざるを以て、また従ってこれを超遷すれば、則ち台諫の官は専ら仕途の捷徑となる。陛下は但だ台諫を崇奨するを盛徳と知りて、直言を阻抑するを弊政と知らざれば、則ち陛下は外に好諫の名ありながら、内に拒諫の実あり、天下豈に虚を以て実を蓋うことあらんや。」
範は初めその言を得ざるを去らざるを恨みとしたが、ここに至って遂に極言して台諫の失職の弊を論じた。
時に襄陽・蜀は共に破壊され、江陵は孤立して危殆にあり、両浙は震動して恐れ、また言うには、「清之がみだりに辺境の争いを起こし、ほとんど宗廟の祭祀を危うくし、その子が権勢を招き賄賂を受け、貪欲で飽くことを知らず、朝廷の銭帛を盗用して外国と交易し、しかも確かな事実がある」と。併せて言うには、「簽書樞密院事李鳴復が史寅午・彭大雅と賄賂で結託し、曲げて彼らの地歩を固めている。鳴復は既に父母の郷里を顧みないならば、どうして陛下の社稷をあろうか」と。帝は清之が潜邸の旧臣であること、鳴復には未だ大罪が見られないとして、直ちに処分せず、範もまた御史臺に入らなかった。帝が促すと、範は奏上して、「鳴復が去らなければ臣は去ります。どうして経筵に入ることができましょうか」と。ちょうど再び奏上しようとした時、鳴復が抗疏して自ら弁明し、言うには、「臺臣が臣を論ずるのは、何を指すのか知らない。まさか臣がかつて和議を主張したからであろうか?幸いに斥退されずにいるならば、国家を安んじ、社稷を利することを、死生をかけて行う。そうでなければ帰る家がなく、ただ五湖に扁舟を浮かべるのみである」と。範はまた極言してその廉恥心のなさを論じ、やがて全臺で弾劾し、太学の諸生もまた上書して相次いで攻撃した。鳴復が関を出ようとした時、帝はまた使者を遣わして召し戻し、範は再び全臺と共に奏上して、「鳴復が宰執として交わるのは史寅午・彭大雅のみであり、これらと共に陰謀をめぐらし、近習を賄賂で買収し、上聴を蒙昧にして、ひそかに相位を図っている。臣は近ごろその自弁の上奏文を見ると、辺境の臣を交えて争わせて嫌疑の隙を生じさせ、妄りに和戦を論じて脅迫をほしいままにし、かつ蜀が既に破壊されたからといって五湖に舟を浮かべようとし、また国家を安んじ社稷を利することを自任しているが、鳴復が久しく政府に居ながら、今またいかなる安利の策があるのか知らない。君を欺き上を罔くすること、至らざるところなし。もし臣らの言うことが正しければ、すなわち乞うてこれを実行せられたい。もし言うことが正しくなければ、早く罷斥を賜わりたい」と。起居郎に改められると、範は奏上して、「臣が鳴復を論じたのに、未だ施行されず、突然左史の命を拝したのは、すなわち言うところが当たらず、暫し優れた転任を示されたのである。臣は以前に嘗て奏上したことがある、臺諫はただ仕途の捷徑であり、初めから朝廷の紀綱に益するところはないと。自ら言いながら、自らそれを踏むとは、臣の罪は大きい」と。すなわち江を渡って帰った。江東提点刑獄を授けられ、まもなく浙西提点刑獄に改められたが、範は力を尽くして辞退し、鳴復もまた越を守るとして出た。
四年、朝廷に還り、まず言うには、
「旱魃が重なって至り、人は一粒の食もない。紙幣は軽く濫発され、物価は高騰する。行都の内は気象が蕭条とし、左浙の近畿では餓死者が道に満ちている。流民が充満し、安んじ集める政を聞かず、掠奪が風となり、すでに兵を弄ぶ萌芽が開かれている。これが内憂が既に迫っていることである。新興の北兵は勝ちに乗じて善く戦い、中原の群盗は名を借りて崛起する。我が巴蜀を衝き、我が荊襄を占拠し、我が淮堧をかき乱し、近ごろはまた夔・峽より鼎・澧を瞰る。辺境の臣はほしいままに欺瞞し、勝てば大げさに功を言い、敗れれば覆い隠して言わない。もし上流の無備に乗じて、長江に馬を飲ませる謀をなすならば、誰がこれを防ぐのか。これが外患が既に深いことである。
人主が上に事える者は天であり、下に恃む者は民である。近ごろ天文が変を示し、妖しい彗星が芒を吐き、冬なのに雷が鳴り、春になったのに雪が降り、海潮が都城に衝突し、赤地が幾らか畿甸に遍く及んでいる。これは天を得ずして天が既に怒っているのである。人が干戈のために死に、飢饉のために死に、父子は互いに見捨て、夫婦は互いに保たず、怨気は腹に満ち、誹謗の言葉は道に満ちている。『等しく死ぬ』という一念が萌せば、どこに至らないことがあろうか。これは民を得ずして民が既に怨んでいるのである。内憂外患が交々至り、天心と人心が共に失われて、陛下は二三大臣と共に天下の上に安んじて居ることができようか。陛下もまたこれに至った原因を考えたことがあるか。
蓋し昔の権相が表面上は妾婦のような小忠を進め、陰に君人の大権を窃み、声色と玩好で内に陛下の心術を惑わし、廃置生殺を一切その意の欲するままに任せたため、紀綱が衰え、風俗が頽廃し、軍政が修まらず辺備が廃れたのである。凡そ今日の内憂外患はすべて権相が三十年かけて醸成したもので、癰疽を養い護って時を待って破裂させるようなものである。端平は更化と号したが、相位に居る者はその人にあらず、その旧を改めることができず、敗壊汚穢はかえって甚だしかった。ここから聖意は惶惑し、何に倚仗すべきか知らず、かえって彼を仇とせずに徳とし、彼を罪とせずに功とした。ここにおいて天が陛下に望むところは孤となり、変怪が現れ、人が陛下に望むところは欠け、怨叛の形が現れたのである。
陛下は天を敬う図があり、旨酒を戒める箴があり、緝熙を記す記があり、この一念を持ち続けて傾頽を振り起こすならば、宜しく難しからざるべきである。然るに道で聞くところによれば、警懼の意はただ外朝で政を視る時に見え、好楽の私情は多く内廷の燕褻の際にほしいままにされているという。名は賢を任ずるといいながら、左右の近習がひそかに間に入ることがあり、政は中書より出るといいながら、御筆特奏が時に従って中より出る。左道の蠱惑、私親の請託が陛下の聡明を蒙昧にし、陛下の心術を転移させている。」
ここにおいて範が国を去って四年であったが、帝は慰労を極めて周到に行った。
権吏部侍郎兼侍講に遷る。久しい旱魃のため、また言うには、「陛下が宝位を嗣いで二十余年、災異の譴告は歳としてない年はなく、今に至って一層甚だしい。陛下が天に応ずる所以を求めるのは、ただ減膳徹楽・群祀に分けて祈るだけで止まるのか。それともこれを外にして自らに反って求めるべきか。自らに反り悔い改めることを務めず、ただ天怒の解けることを願うだけでは、天下にこのような道理があろうか。願わくは陛下が旧習を一掃して天下を新たにし、宮女を出して声色を遠ざけ、近習を斥けて蔽欺を防ぎ、浮費を省いて国用に充て、征斂を薄くして民力を寛かにされたい。且つ儲貳が未だ立てられず、国本が尚虚である。乞う、宗姓の賢者を選んで宮中に養い教導されたい。」また銓法の壊れたことを言うには、「廟堂には既に堂除があり、また時に部の欠員を取って人情に従う。士大夫は既に贓濫に陥りながら、時に推勘を経ずして改正する。凡そこれらはすべて私に従って公を忘れる害である。」間もなく、また上疏して言うには、
「天災の旱魃は、昔から固よりあった。然るに倉廩が枯渇し、月々の支給が続かず、一升の粟が千銭で、その増加が未だ止まず、富戸は零落し、十室九空である。これはまた昔にはなかったことである。甚だしきは一家揃って餓死し、相率いて江に投身し、里巷では集まって首を突き合わせて執政を議し、軍伍では罵る言葉に聞くに忍びない。これはいかなる気象か、京城の衆大の区に現れている。浙西は稻米の集まる所であるのに、赤地千里である。淮民は流離し、乳児を背負って相属し、帰る所がなく、かすかに息をして尽きるのを待つ。仮に辺境の塵埃が起こらなければ、尚互いに依って苟くも生き延びることができるが、万一敵騎が衝突すれば、彼らは必ず奔り迸って南に来るか、あるいは互いに携えて敵に従い、そのために郷導となるであろう。巴蜀の覆轍は鑑とすべきである。
臣は窃かに考えるに、陛下は夜遅くまで憂慮し恐れ、安んじて居処する暇もないであろう。しかし宮中での宴饗や賜与が減損されたと聞かず、左右の寵姫が放逐されたと聞かず、貂璫の近習が斥遠されたと聞かず、女冠の請謁が屏絶されたと聞かず、朝廷の政事が修飭されたと聞かず、諸官府の積年の弊害が捜査革正されたと聞かない。国政を執る者は私情のみに従い、道義を主とする者は法守を侵すのみで、国家の大政は相持して決せず、司存の細務は出意して直ちに行われる。命令は朝に改まり夕に変じ、紀綱は蕩廃して存せず、一事として弊なきはなく、一弊として極まらざるはない。陛下はどうして震懼自省されないのか。」
詔して曰く、「中外の臣庶は、当今の急務を考えよ。例えば河道が通じず、軍餉をどうすれば運べるか?浙右が旱魃で凶作であり、荒政をどうすれば行えるか?財計が空匱し、糴本をどうすれば充足できるか?流民が所を失い、遣使をどうすれば定められるか?敵情が測り難く、辺境をどうすれば固められるか?各々力を尽くし思慮を尽くし、危局を支え変乱を制する策を陳べよ。」
吏部侍郎兼中書舎人に拝され、再び宴賜の不節制、修造の不時宜、寇を玩び欲を縱すること数事を極言した。兵部尚書を兼権し、礼部尚書兼中書舎人に改めた。
時に親王近戚多く恩沢の降下を求め、前朝の杜衍の例を引いたが、范は皆封じて返上した。堂除の闕を吏部に撥して帰することを乞い、以て中書の務を清め、惟だ書庫、架閣、京教及び要地の幹官のみを留めた。人皆これを不便とした。太学生も上書してこれを言い、帝は范に示した。范は奏して曰く、「三四十年、権臣が国柄を執り、公朝の爵禄を以て私恩を市い、吏部の闕を取って堂除に帰し、太学諸生も見聞に習い、乃ち近年の弊政を以て祖宗の成法と為す。もし臣の言を是と為し、上下堅く守れば、諛う者必ず多くして謗る者は息むであろう。」未だ幾ばくもせず、選調に赴く者淹滞無く、資格に合う者は美闕を得、衆始めて服した。
帝は宰執に命じ、各々当今の利病と政事として行いうるものを条陳せしめ、范は十二事を上奏した。
時に孟珙が重兵を権めて久しく上流に居り、朝廷は素より其の制し難きを疑い、ここに至って書を以て来賀した。范は復た之に曰く、「古人は将相調和すれば則ち士豫て附くと謂う。此より但だ相与に同心して国に徇わん。若し術を以て相籠架せんとせば、范の屑として為す所に非ず。」珙大いに感服した。未だ幾ばくもせず、大元軍大いに五河に入り、中流を絶ち、営柵を置き、且つ重兵を以て合肥に綴り、相援するを得ざらしめ、必ず寿春を取らんと計った。范は惟揚・鄂渚の二帥に命じ、各々兵を調べて東西より応ぜしめ、卒に捷を以て聞こえた。范は功を計り賞を行い、曲当ならざるは無く、軍士皆悦んだ。
未だ幾ばくもせず、卒す。少傅を贈られ、諡して「清献」と曰う。其の著述する所、古律詩歌詞五巻、雑文六巻、奏稿十巻、外制三巻、『進故事』五巻、『経筵講義』三巻有り。
楊簡
楊簡、字は敬仲、慈渓の人。乾道五年進士に挙げられ、富陽主簿を授かった。会に陸九淵が富陽を道過し、問答して契る所有り、遂に師弟の礼を定めた。富陽の民多く賈に服して学ぶことを知らず、簡は学を興し士を養い、文風益々振るった。
紹興府司理となると、獄に必ず親臨し、端默として聴き、自ら吐露せしめた。越は陪都にて、台府鼎立し、簡は中平にして偏り無く、惟だ理に従った。一府の史が帥の怒りに触れ、之を鞫せしめると、簡は無罪を白し、平素を鞫せよと命じられた。簡は曰く、「吏の過ち豈に免れんや、今日実に無罪なり。必ず往事を擿げて法に置かんとせば、某は命に奉ずることを敢えず。」帥大いに怒り、簡は告身を取って之を納め、争い愈々力めた。常平使者朱熹之を薦めた。先に、丞相史浩も亦た簡を以て薦め、浙西撫幹に差され、尹張枃に白し、凶歳に因りて不虞を戒むべしと。乃ち簡に命じて三将の兵を督せしめ、恩信を以て接し、諸葛亮の正兵法を出だして之を肄習せしめると、軍政大いに修まり、衆大いに和悦した。
嵊県の知県に転じた。父の喪に服し、喪が明けて、楽平県の知県となり、学校を興して士人を訓導し、諸生の中にはその言葉を聞いて涙を流す者もあった。楊・石という二人の若者が民の害となっていたので、簡は彼らを獄中に置き、禍福を諭すと、共に感奮して悟り、自ら贖罪を願った。これにより県民は訴訟を恥じ、夜には盗賊の警報もなく、道に落ちた物を拾わぬようになった。紹熙五年、召されて国子博士となった。二人の若者は大いに県民を率いて境外まで見送り、「楊父」と呼んだ。時に丞相趙汝愚が排斥されると、祭酒の李祥が上疏して弁護したが、簡は上書して言うには、「先般の危急に際し、軍民は潰乱せんとし、社稷は傾危せんとしたことは、陛下がご覧になった通りである。汝愚は万死を冒して危険を安泰に変え、人心を安定させた。汝愚の忠誠は、陛下が心に知っておられることであり、深く弁明する必要はない。臣は祭酒の属官として、日々義をもって諸生を訓導している。もし利を見て義を忘れ、害を恐れて義を忘れるようなことがあれば、臣はそれを恥じる」。間もなく、簡もまた排斥され、崇道観を主管した。再任され、朝奉郎に転じた。嘉泰四年、緋衣と銀魚を賜り、朝散郎となり、権発遣全州となったが、上言のために罷免され、仙都観を主管した。
帝が使者を郡に遣わして視察させた。使者は簡の先祖と旧交があったため、郊外に出迎えたが、その礼を受けることができず、間道を通って州城に入り客位に着いた。簡はこれを聞いて入ることができず、往来して伝達を数度繰り返し、ようやく車を返した。車を降りようとすると、使者は急いで出て戟門の外に立ち、簡もまた急いで出て使者の外側に立ち、頓首して言った。「天子の使者です。私は謹んでお迎えせねばなりません」。使者は言った。「旧交の家の子です。礼には常の尊ぶべき序列があります」。簡は言った。「私は守臣です。使者は天子の命を帯び、弊邑に辱くも臨まれました。天子の使者です。私は謹んでお迎えせねばなりません」。そこで西側の翼から共に進み、礼は北面して東を上座としたが、簡が行く時は常に西側を、歩く時は後ろを歩き、階に及んでも、敢えて昇ろうとしなかった。その後、ようやく西階から共に昇り、足は謹んで敢えて主席に就こうとしなかった。使者は言った。「邦君の庭です。礼には常の尊ぶべき序列があります」。簡は言った。「『春秋』では、王人たる者はたとえ微賤であっても、例として大国の上に書きます。天子を尊ぶためです。ましてや今の天子の使者においておや」。ますます固く主張すると、使者の辞退もますます力があった。このように数刻が過ぎ、使者は変えられないと知り、ついに言った。「某不肖ではありますが、敢えて執事が天子を尊ばれるお義をお受けしないわけには参りません」。即座に揖をして出た。館に就いた後、簡は賓礼をもって会見した。儀典は久しく絶えており、邦人は初めてこれを見て、皆驚き畏まって見つめ、息を殺して立った。
簡は郡において廉潔・倹約を自ら行い、養うものは質素で、常に言った。「どうして赤子の膏血をもって自らを肥やすことができようか」。里巷は和やかで睦まじく、憤争の声はなく、民は父母のように彼を愛し、皆その像を描いて祀った。駕部員外郎に遷ると、老若男女が道に沿って支え擁し、城を挙げて泣いて送った。入対し、言うには、「喜んで順う者を好み、逆らう者を憎む私情をことごとく払い、善政をことごとく挙げ、弊政をことごとく除けば、民怨は自ずから消え、禍乱は起こらない」。工部員外郎に改め、転対に際し、また賢者を選んで久任させることを主張した。軍器監兼工部郎官に遷り、朝奉大夫に転じ、さらに将作監兼国史院編修官兼実録院検討官に遷り、朝散大夫に転じた。
金人が大飢饉に陥り、帰順して来る者が日に数千万の単位で計られた。辺境の官吏が淮水に臨んで彼らを射た。簡は憂い悲しんで言った。「土地を得るは易く、人心を得るは難し。四海の内外は、皆わが赤子である。中原の旧民が塗炭の苦しみから脱し、慈愛ある父母に投じようとするのに、わずかな粟を惜しんで迎え撃ち殺すとは、死を脱せんと願う者がかえって速やかに死を得ることであり、どうして上帝が四方を安んじる道と言えようか」。即日上奏し、哀痛を込めて述べたが、回答はなかった。時に病を得たため、去職を請うことがますます切実となり、直宝謨閣主管玉局観となった。直宝文閣主管明道宮・秘閣修撰主管千秋鴻禧観に昇った。特授で朝請大夫・右文殿修撰主管鴻慶宮となり、紫衣と金魚を賜った。宝謨閣待制・提挙鴻慶宮に進み、金帯を賜った。
簡の著作には『甲稿』・『乙稿』・『冠記』・『昏記』・『喪礼家記』・『家祭記』・『釈菜礼記』・『石魚家記』があり、また『己易』・『啓蔽』などの書がある。
銭時 附
徐時、字は子是、淳安の人である。幼少より奇偉にして群を抜き、読書するも世の儒者の習いに従わず。『易経』をもって漕司の試験に首位となり、その後科挙を断念し、理学を究明した。江東提刑の袁甫が象山書院を建てると、招かれて講席を主宰し、学者が奮い立ち、政事にも多く裨益した。郡守および新安・紹興の太守は皆厚礼をもって招き、郡庠において講義を開かせた。その学問はおおむね人心を発明し、議論は宏偉、指摘は痛烈決然として、聞く者皆何かを得るところがあった。丞相の喬行簡はその賢を知り、特に朝廷に推薦し、かつ言うには、「徐時は夙に才識を負い、特に世務に通じ、田里の休戚利病、当世の是非得失、詳しく究め熟知せざるはなく、ただ詩書に通じ陳言を守るのみにあらず」と。
秘閣校勘に任じられた。詔して守臣に徐時の著した書を上進させた。間もなく、出て浙東倉幕の佐官となり、太史の李心伝が奏上して史館検閲に召し出した。転対に際し、敷陳すること剴切にして、皆聖賢の精微に及んだ。やがて国史宏綱が未完成であることを理由に去職を求め、江東帥属に任じられて帰郷した。その著書に『周易釈伝』、『尚書演義』、『学詩管見』、『春秋大旨』、『四書管見』、『両漢筆記』、『蜀阜集』、『冠昏記』、『百行冠冕集』がある。宝祐年間、太守の季鏞が学宮に祠を建てた。
張虙
戸部架閣文字を主管し、太学正に改めた。当時、新進の者は多く小才を逞しくし、大体を害した。転対して言うには、「国を立つるに大経あり、人主は静をもって天下の動を制すべきである。今日の治、或いは鍥薄に隣り、人心に咈い国体を傷つくるものあり、これを革する所以あるべく、祖宗の意が常に一日の如くならしむるが可なり」と。帝は嘉納した。
太常博士に遷り、また国子博士に遷った。当時、金は亡びんとしていた。自治の道について論じ、謂うには、「天下の治には必ず根本がある。城郭は敵を防ぐためのものだが、溝壑に転徙の民あらば、何の敵を防げようか。儲峙は患いに備えるためのものだが、空腹の民が盻盻として食を得られなければ、何の患いに備えられようか。今日の吏は、辺境を守る務めを知る者は多いが、国を立てる意を明らかにする者は少ない。城郭を繕い、米粟を聚め、これに恃って民を恤れなければ、その策は下等である」と。
当時、旱魃により言上を求めると、即座に上疏して言うには、
「上天の心は即ち我が祖宗の心である。数年このかち、蓋し祖宗の敢えて為さざる所を行ったものがある。凡そ祖宗の時、幾度か挙行して遂げず、已に行ってまた中止し、初めは人言に従い、終わりに国体に回らされた事柄が、今は皆疑わずに処置されている。凡そ祖宗が長慮却顧し、悪運を銷し、乱原を遏え、兢兢として相与に守った事柄が、皆、目前の利便快意の謀に変わっている。議者はただ衰靡の俗は振起せざるべからず、壊れた風は整刷せざるべからずと知るが、振起整刷の術が、衰靡壊れた後に最も施し難いことを知らない。何となれば、元気已に傷つきて再び擾すべからず、人心方に蘇りて駭動すべからざる故である。かつ紙幣を造るのは初め民に便ならしめんとしたが、朝廷は既に一切の政令でその聴を駭かし、また一定の価格で従うことを迫り、郡県の間、遂に騒然となった。監司・郡守の老成遅鈍な者は悉く屏けて用いず、新進で功名を喜ぶ者を取ってこれに当たらせ、事を見れば風生じ、事に臨めば痛決し、事未だ果たして集まらずして根本已に朘かれ、国未だ益なくして民生已に困っている。凡てこれらは皆、祖宗の仁厚の徳に累いあり、これが旱勢の弥甚たる所以である」。
国子監丞に遷った。転対に際し、正論を力主し、迎合する者が我が機に投ずることを許さぬよう願った。秘書郎に遷り、『寧宗会要』の編纂に預かり、兼ねて呉・益王府教授となり、改めて兼ねて庄文府教授となった。『毛詩』を終篇まで講じ、読んでいた諸子を改めて『尚書』を読むことを乞うと、帝は言うには、「吾れ固より『詩』『書』をもって麟趾の美を成さんとす」と。
著作佐郎兼権都官郎官に遷った。転対して言うには、
「辺境の事に二つの弊病がある。戒敕千条、なお悖繆を患う。指意明白、なおまた背違す。その向かう所を示さずして、その成を責むべきと言えるものがあろうか。かつ戦を言うならば彼を知るべく、和を言うならば彼に請うべく、ただ守ることは自ら己に求めるのみである。もし可と為すならば、その説を力主し、明らかに天下に告げ、日々にその守る所以の策を講求すべきである。蓋し議論は合一を貴ぶが、今は雑なるを病としている。人を用いるには試みるべからず、人を任ずるには自ら疑うべからず。朝廷はただ独任の難勝を慮り、彼此互いに分かち、相い扶持せず、人は抗衡を得て、稟属する者なし。制置はただ虚器を存するのみで、便宜は反って多門より出る。蓋し体制は合一を貴ぶが、今は分かるるを病としている」。
秘書丞に遷り、著作郎に改めた。病を理由に外任を乞い、出て南康知軍となった。郡に至り、滞った訴訟を剖決し、衆皆悦服した。前任の太守陳宓が銭七千緡を出して済民庫を設け築城費としたが、張虙は至って言うには、「民より余剰を取る必要はない。吾れ万緡を捐げて率先し、これに継いで止まなければ、事の成り難きを患うることはない」と。転運使が銭一万二千緡を出して郡に平糴を設けると、張虙はまた銭一万二千緡を出してこれを増益し、民はその利に頼った。禁旅を増設しようとし、用地が民に属するものは、質剤を索めて元の価格を見てこれを償った。処州知州に転じ、温州知州に移されたが、力辞し、遂に直秘閣・主管千秋鴻禧観となった。制置使の幕中に参議し、使者は威力を尚び、諫めを愎んで自ら用いたが、張虙は正を守って阿らず、常に寛大をもってこれを補った。また上書して海防の利便を論じた。玉局観を主管した。
端平初年、召されて国子司業兼侍講となり、『礼記月令』を進講し、「獄訟必ず端平ならしむ」の語に至り、その旨を敷暢した。八陵が回復し、修奉を議しようとしたが、論者が未だ協一できず、張虙は議して言うには、「この時に乗じて官を遣わし威儀を粛清し、故事に則り祗奉を申し行うべきである。もし彼らに欺かれて功が即座に就かなくとも、天下の忠臣義士の心を感動させるには足る」と。勧講の職を力辞し、国子祭酒に昇った。『月令』の書は呂不韋に出自すれども、人主が天に後れて天時に奉ずるには、この書無益ならずと為した。乃ち已に講じたものを因りて十二巻とし、月に従ってこれを観ることを乞うた。権工部侍郎兼国子祭酒を兼ねたが、命が下った時に卒去した。詔して四官を追贈した。
呂午
呂午、字は伯可、歙県の人である。嘉定四年の進士、烏程主簿に任じられ、郡守が幕下に招き、事は全て呂午に決させた。太守の張忠恕は、丞相張浚の孫であり、呂午を特に強く推薦した。当時、忠恕の母が養われており、時に自ら簿庁に至り呂午の両親を郡に迎え入れ、呂午と共に綵衣を着て觴を奉じて寿を上け、邦人はこれを栄とした。
調で當塗縣の丞となる。守の吳柔勝は午に操守ありと謂ひ、其の子淵・潛をして定交せしむ。會して司理蕪湖縣を攝り、廬州兩兵を遣はして公事に會せしむ。司理遂に廬兵縣民を奪ふを以て言ふ。柔勝怒り、悉く獄に置き、午に屬して之を問はしむ。午謂ふ、「廬州公櫝有り、民を奪ふと謂ふべからず」と。柔勝愈よ怒り、再び午に屬す。明日、午入り謁す。柔勝先づ左右をして若何と問はしむ。午前說を執る。柔勝益々怒りを加へ、「我廬兵の吾が百姓を奪ふを忍ばず」と謂ひ、出でて午を迎へず。午客位に坐して退かず、食はず。柔勝勉めて出づるも、怒り息まず、二兵を黥せんと欲す。午徐に曰く、「廬州初め公櫝無ければ則ち可なり、有らば縣處置を爲さずして反つて廬兵を罪す、恐らく不可ならん」と。久しうして、卒に午の請に從ふ。是に由りて柔勝益々午を知る。
陳貴誼太平を守り、午に屬して淮南の流民を安集せしむ。江東提舉徐僑、午の郡に在るを知り、驚喜し、辟して幕屬と爲す。午郡事を盡く決遣して而る後に行かんと欲し、帖を以て行を趣くること十八に至るも貴誼に白せず。僑貴誼に書を貽す。午始めて行く。既にして僑部を行く。田事を以て丞相史彌遠に迕ひ、言を以て罷む。午當塗に還る。溫州天富北監鹽場を監す。改めて餘杭縣を知る。亦た言を以て罷む。公論大いに平らかならず。然れども午此より名益々重し。浙東提舉章良朋之を幕に留む。旋ねて沿海制置司事を兼ぬ。海寇未だ平らかならず。良朋策の安在かを問ふ。午廉かに知る、軍を調へて海に出づれば、糧盡きて即ち還る。軍寇物を獲れば、官盡く拘收すと。乃ち制置司幹官施一飛と議し、糧盡きて再び給し、擅に還るを許さず、賊舟の所有するもの、悉く以て軍に給す。海道遂に清し。
差して龍陽縣を知る。豪民陶守忠人を殺す。其の獄を正して之を誅す。彌遠賢相に非ざれども、猶ほ人才簿を置き、賢士大夫を書して用を待つ。而して午縣を治むるの政も亦た之を書す。差して兩浙轉運司主管文字と爲す。彌遠病み久しく客を見ず。午入り謁す。特に出でて迎ふ。運使罷む。故に人を用ひず。午を以て印を護ること半年。或る人彌遠に問ふ、何を以て官を注せざるやと。彌遠曰く、「爾印を護る官能はざるを謂ふや」と。午聞きて力めて辭す。
差して三省樞密院門を監し、兼ねて提轄封樁上庫を監す。父憂に丁る。喪を免れて、大府寺簿に遷る。監察御史を拜す。帝親しく擢く所なり。鄭清之師を喪ふ。是に至りて丁黼成都に死す。史嵩之・孟珙京湖に在り。嵩之尋ねて督府に升る。陳韡・杜杲淮西に在り。王鑒黃州に在り。兵を用ふること十七萬人を計り、圍み始めて解く。獨り趙葵淮東に在りて兵を受けず。而して坐視して兵を出さず應援せず。午疏を上りて論ず、「邊閫角立す、當に心を協け嫌を釋くべし。而るに乃ち災を幸ひ禍を樂み、同舟共濟の心無し」と。葵以爲らく、午京湖制司に黨すと。而して嵩之も亦た午を憾む。乃ち宗正少卿兼國史院編修官・實錄院檢討官に遷す。出でて泉州を知る。初め、左丞相李宗勉深く葵の言を以て疑ふ。會して淮東より來る者有り。乃ち言ふ、臺官皆葵の交書を以てす、獨り呂御史之無しと。宗勉始めて午を賢と爲し、人に語りて曰く、「呂伯可獨立して黨無き者なり」と。嵩之彌遠の人才簿を得て、心敬ふことを知りて午を敬ふも、内に怨む所論の邊事を。午の浙東提刑に移るに及び、嵩之鄧咏をして嗾し董復亨をして論じて罷めしむ。中外嵩之を直しとせず。
崇禧觀を提舉す。再び浙東提刑に移る。復た監察御史と爲る。入り見ゆ。帝曰く、「卿向來議論甚だ明切なり」と。兼ねて崇政殿說書と爲る。嵩之雅に午の經筵に在るを欲せず。時に殿中侍御史項容孫、子午の從子を娶る。嵩之容孫をして疏を上りて午を避けしむ。之を撼して去らんと欲す。而して法に避くる無し。嵩之乃ち言路と密謀し、以爲らく午嘗て王瓚の姻家史洽を劾せりと。遂に瓚を以て右正言と爲す。午即ち裝を治めて去る。上手詔を下し留むるを趣す。午力めて辭す。允さず。是に由りて再び留まる。而して議論愈よ合はず。
起居郎兼史院官に遷る。官中奉大夫に至る。間居すること一紀にして卒す。年七十有七。累贈して華文閣學士・通奉大夫に至る。子沆。
子 沆
論ずるに曰く、杜範下僚に在りて、已に公輔の望有り。相に入るに及びて未だ久しからずして沒す。楊簡の學は、世儒の能く及ぶ所に非ず。諸れを有政に施せば、人をして百世にして能く忘れざらしむ。然れども高年を享くるも、用に究めず。豈に重ねて惜しむべからざらんや。張虙子諒易直、呂午風采凜然たり。皆世道に裨する者有り。