宋史

列傳第一百六十四 李宗勉 袁甫 劉黻 王居安

李宗勉

李宗勉、字は彊父、富陽の人。開禧元年の進士。黄州教授・浙西茶塩司・江西転運司の幹官を歴任。嘉定十四年、吏部架閣を主管し、まもなく太学正に改める。明年、博士となり、また明年、国子博士に遷る。宝慶初、添差通判嘉興府。三年、召されて秘書郎となる。

紹定元年、著作郎に遷る。入対し、辺境の事は日夜震懼すべきことを言い、以て咎殃を消すべしとす。明年、兼ねて権兵部郎官。時に李全の叛謀は既に露わなり、人敢えて言う者なし、宗勉独り累疏して之に及ぶ。又言す、「人謀の合わんことを欲すれば、下情を通ずるに若かず。人は多く諂うことを好み、悦ばしむ所を揣れば則ち其の言を侈り、悪しみ聞く所を度れば則ち其の事を小にす。上既に壅塞し、下亦欺誣す、則ち成敗得失の機・理乱安危の故、将に孰れか従って上聞せんや。聞かざれば則ち戒めず、其の事至るを待ちて乃ち駭いて之を図るは、抑も已に晩し。財計の豊かならんことを欲すれば、国用を節するに若かず。国を善く為す者は常に財をして事に勝たしめ、事をして財に勝たしめず。今山東の旅は、坐して我が金穀を糜し、湖南・江右・閩中の寇は、我が州県を蹂躙す。苟も浮費泛用し、又従って之を侵耗せば、則ち漏卮盈ち難く、蠹木壊れ易し。緩急有らば設け、必ず将に調度に窘しむべく、而して事機失わん。邦本の固からんことを欲すれば、民力を寛にするに若かず。州県の間、聚斂する者多く、椎剝の風、浸して以て習と成る。民生窮踧し、怨憤伸ぶる莫く、山林に嘯聚するは、勢の必至る所なり。焚を捄い溺を拯うは、亟に之が謀を為さざるべけんや」と。尋いで兼侍右郎官に改む。明年入対し、天災を言うこと甚だ切なり。

四年、差して台州を知る。明年、直秘閣・婺州知州。六年冬、行在に召し赴かす、未だ行かず。端平元年、直宝章閣に進み、旧任のまま。月を越え、宗正丞兼権右司を以て召され、尚左郎官に改め、兼職仍び旧のまま。尋いで左司を兼ぬ。五月、面對し、四事を言う、「公道を守りて以て人心を悦ばしめ、実政を行いて以て治功を興し、命令を謹みて以て観聴を一にし、賞罰を明らかにして以て勧懲を示す」と。次に楮幣を言う、「願わくは有司に詔し、始め乗輿宮掖より、下は百司庶府に至るまで、其の冗蠹なる者を核して之を節し、歳に十万を省すれば則ち十万の楮は捐つべく、歳に百万を省すれば則ち百万の楮は捐つべし。之を行うこと既に久しく、之を捐つこと益多ければ、錢楮相い当たり、至る所流転し、則ち吾が贏縮の柄を操るは楮に在らず」と。

監察御史に拝す。時に方に汴・洛に出師せんと謀る、宗勉言す、「今朝廷安恬、常時に異ならず。士卒未だ精鋭ならず、資糧未だ充衍せず、器械未だ犀利ならず、城壁未だ繕修せず。斯の時に於て、守禦猶お不可なるに而して進取を欲す、可ならんや。仮に今日蔡を得、明日海を得、又明日宿・毫を得ると曰うとも、然れども之を得る者は未だ必ずしも守るべからず。万一怒を含み忿を蓄え、変倉卒に生ずれば、将に何を以てか済わん。臣の陳ぶる所、豈に外患の終に平らげ可からず・土宇終に復す可からずと曰わんや。亦た力を量りて以て為す有り、時に相い而して後動かんことを欲するのみ。願わくは大臣に詔し、日力を愛して以て内治を修め、人謀を合して以て辺防を厳にし、冗費を節して以て邦財を裕かにし、強勇を招いて以て国勢を壮にすべし。仍ち沿辺の将帥を飭し、虚名を好んで実害を受くること無く、左に控え右に扼し、機先を失うこと無からしむべし。則ち逸を以て労を待ち、主を以て客を御すれば、庶幾くは其の虞無きを保たん。若し本根を壮固にし、士馬を精強にし、釁を観て動かば、兵を用うるは未だ晩しからず」と。已にして洛師潰ゆ、又言す、「昔の慮うる所は当に守るべくして冒進するに在り、今の慮うる所は守らんと欲して能わざるに在り。何の地か控扼すべく、何の兵か調遣すべく、何の将か捍禦すべく、何の糧か給餉すべきか、皆当に預め措画を作すべし」と。又内降の弊を言う、大略に謂う、「王府後宅の宮僚、戚里奄寺の恩賞、綸綍直下し、都省を経ず、竿牘陳請し、時に禁廷より出づ、此れ皆大臣の当に執奏すべき所なり。夫れ事に先だちて言い、幾を見て諫むるは、専と謂うべからず。善なれば則ち之を行い、否なれば則ち之を止むるは、専と謂うべからず。命は君上に出で、政は中書に帰すは、専と謂うべからず。苟も専権を嫌い、過ちを救うを急とせず、毎事旨に希い迎合し、迨に其の命令已に下り、闕失已に彰るるに及び、然る後に言事の人従って之を論列す、其れ聖徳を累する亦た多し。況んや言うも未だ必ずしも聴かず、聴くも未だ必ずしも行わざるをや」と。

左司諫に進む。明年春、侍講を兼ぬ。首に言す、「均・房・安・蘄・光・化等の処、兵禍甚だ烈し、然れども江面以て無憂を藉す可きは、猶お襄州有り、今又変を告ぐ。襄州失すれば則ち江陵危く、江陵危ければ則ち長江の険恃むに足らず。昔の慮うる所は猶お秋に在り、今の慮うる所は祗だ旦夕に在り。江陵或いは守らざれば、則ち事迫り勢蹙り、必ず存亡の憂い有らん、悔い将に何ぞ及ばん」と。殿中侍御史に拝す。時に淮西制置使兼沿江制置副使史嵩之、鄂州知州を兼ね、鄂に就きて牙を建つ。宗勉言す、「荊・襄残破し、淮西正に南北の交に当たる、嵩之当に司を淮西に置くべく、則ち脈絡相い連なり、以て応援す可く、邈として鄂渚に在り、豈に鞭腹に及ばざるの慮い無からんや。若し江を防ぐを急と為すと云い、嵩之を藉りて鄂渚に於て経理せんと欲するも、然れども齊安正に武昌と対す、彼に就きて防扼を措置せば、則ち藩籬壮にして江面安し。所謂江南を保たんと欲すれば先ず江北を守るなり。当に別に鄂守を擇び、径に嵩之をして司を齊安に移さしむべし」と。

詔して侍従・両省・台諫に辺事を条陳せしむ、宗勉合台を率いて奏す、「しょくの四路、已に其二を失い、成都隔絶し、存亡を知る莫し。諸司退きて夔門を保つも、未だ必ずしも能く守らず。襄漢昨九郡を失い、今郢破れ、荊門又破れ、江陵孤城、何を以てか立つ能わん。両淮の地、人民奔迸し、井邑丘墟、嗚呼危しき哉。陛下誠に能く亟に哀痛の詔を下し、身を以て率先し、深く自ら貶損し、服御飲宴、一に簡儉に従い、後宮浮食の女を放ち、掖庭不急の費を罷め、錫齎を止め、工役を絶ち、内帑の儲蓄を出して以て四方を風動すべし。然る後に戚畹・世臣を勧諭し、力に随い財を輸し、以て公家の調度を佐けしむ。上流・淮西・淮東を分かちて三帥と為し、而して江淮の大帥を以て之を総べし。或いは今任に因り、或いは長才を擇び、地を分かちて守り、令を聴きて行わしむ。公私の財を以て四処に分給し、之をして潰卒を招き、流民の強壮なる者を募り、以て遊兵に充て、軍籍に補わしむ。仍ち沿流諸郡の将士を選びて捍禦の図を為さば、猶お支吾す可し。然らずんば将に水陸俱に下り、大いに荊楚の衆を合し、我が上流を擾わし、江以南震盪せん。或いは其の勢強盛を謂い、宜しく講和に於てすべしとし、金繒を出して以て之を奉ぜんと欲するは、是れ薪を抱きて火を救い、国を空しくして敵に与うるなり」と。

工部侍郎兼給事中に進み、なお侍講を兼ねる。再び上疏して言う、「陛下は路朝の頃には憂勤なさるが、内に入れば宴安に移され、広廈の間では切に切磋なさるが、退けば便佞に惑わされる。宮女を減退させたと聞かず、嬪嬙はすでに昔時に溢れ、功臣を褒録したと聞かず、節鉞は先に外戚に加えられ、内貯を出して戦士を犒うと聞かず、金帛は多く浮費に靡く。陛下の挙動は、人心がこれを見て巻舒とする所である。陛下すでに憂いとされなければ、誰が再び陛下のために憂えようか」。諫議大夫兼侍読に抜擢される。まず辺境の事について、上流を防托するために兵を増やすべきと進言。また言う、「諫を求めるは難しからずして諫を受けるが難く、諫を受けるは難しからずして諫に従うが難しい。もし聞いても戒めとせず、玩んで信じず、ついに危言鯁論をして、世用に益なく、時危に救いなきに至らしむれば、諫を拒む者と相去ること一間のみである」。

端明殿学士・同簽書枢密院事に進む。間もなく、簽書に進む。時に王檝が再び歳幣銀絹各二十万を求める。宗勉は言う、「軽諾する者は後患多く、元の約を守るべきである。しかし開禧の時に比べれば、物価の騰踊は何ぞ倍蓰のみならん」。史嵩之が督府を開き、力めて和議を主とする。宗勉は言う、「使者に疑うべきこと三あり。嵩之の職は督戦に在り、もし襄・光を収復し、施・澧を控扼し、山砦を招集し、江流を保固するは、皆な今なすべき所である。もし主とするところが和に在れば、則ち凡そ機会乗ずべき有るも、退縮の意無からず、必ず歳月を虚捐し、事功を坐失するに至らん」。

参知政事に進む。左丞相兼枢密使に拝せられると、法度を守り、僥倖を抑え、親党を私せず、老成を召用し、特に讜言を聞くことを喜ぶ。趙汝騰は嘗て宗勉を公清の相と為す。光禄大夫・観文殿大学士を以て致仕し、卒す。少師を贈られ、諡して「文清」と曰う。

袁甫

袁甫、字は広微、宝文閣直学士袁燮の子なり。嘉定七年進士第一。簽書建康軍節度判官庁公事に任じ、秘書省正字を授かる。入対して論ず、「天下を君たる者は一日も懼れの心無かるべからず。今懼るべきもの、大端五あり。端良なる者は斥けられ、諂諛なる者は用いられ、忠臣の敢諫の門を杜つは、懼るべし一なり。兵戈既に興り、饋餉継がず、根本一たび虚しければ、則ち蕭牆の憂い有り、懼るべし二なり。陛下深く高拱し、群臣簿書を奉行し、独り密謀を運するの意勝りて、虚心諮訪の意微なり、天下の迫切の情上聞する由無し、懼るべし三なり。外患未だ弭がず、内患方に深く、而して熙熙然として平時に異ならず、自ら雅量以て浮を鎮むるに足ると謂うも、宴安実に鴆毒たるを知らず、懼るべし四なり。陛下恭儉余り有りて、剛断足らず、庸夫憸人、苟も富貴を求め、未だ大明の黜陟を聞かず、軍帥交結し、州郡賄賂し、皆な貴近より之を化す、懼るべし五なり。その他の禍幾乱萌、悉く数うべからず、将に何を以てか天譴に答え、和気を召さんや」。次に厳に守帥の選を守り、大軍の権を併せ、屯田の利を興すことを乞う。

校書郎に遷り、転対して言う、「辺境の事の病は、外に在らずして内に在り。偷安の根去らざれば、規摹終に立たず。壅蔽の根去らざれば、血脈終に通ぜず。忌嫉の根去らざれば、将帥終に択ぶべからず。欺誕の根去らざれば、兵財終に治め難し。祖宗の天下を御するや、政事は中書に委すと雖も、然れども必ず風采著聞なる者を台諫と為し、敢えて論駁する者を給・舎と為す、官邪を戢え朝綱を粛にする所以なり。今日誠に是の意を体して之を行わば、豈に復た偷安壅蔽する者あらんや」。湖州通判に出る。常平の弊原を考へ積貯を増し、隠産を核し、附嬰児局を増す。

秘書郎に遷り、尋いで著作佐郎・徽州知州に遷る。治め先ず教化を重んじ、学校を崇め、便民事を訪れて上す。婺源の綢絹一万七千余匹、茶租折帛銭一万五千余貫、月樁銭六千余貫の蠲減を請う。咸平・紹興・乾道の寛恤指揮に照らし、徽絹の受納を定めて匹毎に十両とすべしと請う。転運・常平の両司に下し、常平義倉を予め蓄えて備荒とし、陂塘を興修し、百梁を創築すべしと請う。父の憂に服し、服除けて衢州知州となる。旬講を立て、務めて理義を以て士心を淑くし、歳毎に助養士のため千緡を撥つ。西安・龍游・常山の三邑の積窘預借を代わって三万五千緡を輸し、四万七千緡を蠲放す。郡に義庄有り、良田二百畝を買いて之を益す。

提挙江東常平に移る。歳旱に適い、急ぎ庫庾の積を発し、凡そ州県の窠名倉司に隷するものは、新旧を問わず皆な催すを住め、銭六万一千緡、米十三万七千石、麦五千八百石に及び、官を遣わし分行して振済し、飢うる者には粟を与え、病む者には薬を与え、尺籍の単弱者、市民の失業者、皆な曲く之を軫む。又朝に告げて曰く、「江東は或いは水にして旱、或いは旱にして水、重ねて雨雪連月、道殣相望み、挙家枕藉して死する者有るに至る。此れ麦熟に去る尚ほ賒く、事勢益々急なり」。詔して度牒百道を給し費を助く。時に江・閩の寇饒・信に迫り、民情動き易きを慮り、分榜して諭し之を安んず。諸郡に檄し、制司に関し、朝に聞け、保境捍患の図と為す。寇ついに犯さず。遂に本路刑獄提点兼提挙となり、司を番陽に移す。霜桑を殺し、春夏雨久しく、湖溢れ、諸郡水に被る。連ねて朝に請い、度牒二百道を給して之を賑恤す。盗常山に起こり、他州の兵千人を調へ広信に屯して以て備えと為す。

都城大火す。封事を上りて言う、「上下交わらず、言を以て諱と為す、天意人心、実に同一機なり、災変の作るは、端に此れに由る。願わくは哀痛の詔を下し、以て天意を回らさん」。詔して直言を求め、復た上疏して言う、「災都邑に起こるは、天意蓋し陛下の因りて其の見る所の有るを以て、其の見ざる所を察し、至公無私の心を行い、大臣を保護するの体を全うし、群工を率い、大明に黜陟し、天下と更始せんことを欲するなり」。行部して民の疾苦を問い、循良を薦め、姦貪を劾し、滞獄を決す。至る所学宮に詣で講説し、書院を貴渓の南に創し、先儒陸九淵を祠る。歳大旱し、朝に請い、度牒・緡銭・綾紙を得て以て賑恤を助く。疫癘大いに作る、薬院を創めて之を療す。前後江東に持節すること五年、活かす所殆ど数計すべからず。将作監に転じ、事を領すること如し。継いて力めて常平の事を辞す。彗星見ゆ。詔して直言を求め、上疏して言う、「皇天の震怒する所以は、愁苦の民衆に由り、人民の愁苦する所以は、貪冒の風熾なるに由る。願わくは一変して上下交征の習を、大公至正の帰と為さん」。

帝が親政を始めると、徐甫は直徽猷閣の職を以て建寧府の知事となり、翌年、福建轉運判官を兼ねた。福建の塩政は漕司に属し、慣例として二綱を運んで費用に充てていたが、後に十二綱にまで増加し、吏卒が皆これに便乗して不正を行い、かつ州県に強制的に売却させたため、公私ともに苦しんでいた。甫は上奏して旧例に戻すことを請うた。丁米銭は長らく泉州・漳州・興化軍の民の憂いとなっていたが、ちょうど漳州知事趙以夫が廃寺の租税を以て民に代わって納入することを請うたのに合わせ、甫は三郡が毎年本司に上納する銭二万七千貫を全て免除してこれを助けた。郡には左翼軍が駐屯していたが、本来は峒寇に備えるためであり、招捕司がこれを江西に移そうとした。甫は檄を飛ばして営に戻らせた。間もなく寇が唐石で起こると、直ちにこれを調発して出陣させ、賊を悉く平定した。秘書少監に遷る。入朝して謁見すると、帝は言った、「卿は久しく外で労苦し、篤く民を愛する意があり、その上奏する所を覧るごとに、懇切な心情が余すところなく見える」。甫は『無逸』の意義を奏上し、農夫の耕作の艱難を知れば、自然と安逸と欲望の念は起こらないと述べた。更化以来の、賢者を求めて及ばざるが如き当初の心意を力強く守ることを乞うた。

起居舍人兼崇政殿説書に遷る。経筵において奏上して言った、「『剛』という一字は、陛下にとって最も切実なものである。陛下は漢の宣帝が励精して治めようとした名声を慕うばかりで、かえって元帝や文宗の柔弱で振るわない失策に陥っている。元帝と文宗の果断は、邪佞を斥けるために用いられず、反って賢人を追い払うために用いられた。この二君は剛徳の真実を識らなかった。いわゆる真の剛とは、為すべき事は必ず行い、為すべからざる事は断じて行わないことである」。また「経典の訓えに専意し、精神を養育し、必ずこれを充実させて、上は天と一となり、下は人心に合うようにすべきである」と乞うた。帝は功臣の家系を全うしようと意図し、詔を下して今後は内外の臣僚が上奏する際、他人の過失を摘まないように命じた。甫はこれについて奏上して言った、「これは天下の直言の気を消すものであり、陛下をどう言わせようというのか」。中書舍人を兼ね、上奏文を差し戻す際には些細な点を摘まなかった。言うには、「監司や郡守がその人に非ざれば、それは一路一州の蠹害である」。

時の宰相鄭清之は国用が不足しているとして、田畑の面積に応じて会子(紙幣)を納めさせた。甫は奏上して言った、「貴人を避けて賤民を虐げるものであり、有力な者は頑として命令に応じず、追い立て催促されて家を破り産を蕩尽し、悲痛で頼るもののない者は、大抵は中下の戸である」。嘗て講義が終わった後、帝が近頃の事を問うと、甫は奏上して言った、「ただ田畑測量の事が、人心が最も喜ばない」。また嘗て『資治通鑑』を講読し、漢の高祖こうそが関中に入って秦の民から牛と酒を辞退したところまで来た時、これに因んで奏上して言った、「今日は人に与えるものはなく、反って不当な賦課をしている。その心は喜ぶか、怒るか。本朝は仁を以て国を立てた。陛下はこの挙措が仁であるか否かとお考えか」。帝はこれを憫れんだ。

当時、朝廷は辺境の事を憂慮しており、史嵩之が江西を統帥し、力を込めて和議を主張していた。甫は奏上して言った、「臣は嵩之と同郷に住むが、かつて知り合ったことはない。しかし嵩之の父弥忠は、臣と旧知の間柄である。嵩之は安易に主和するが、弥忠は常にその軽率さを戒めていた。今、朝廷は父子で心を異にする者を用いることを甘んじている。臣は思うに、嵩之が安易に主和するだけでなく、朝廷もまた安易に人を用いることを免れていないのである」。上疏が入ったが、回答はなかった。そこで帰郷を乞うたが、許されなかった。起居郎兼中書舍人に任じられた。間もなく、嵩之を刑部尚書に抜擢すると、再び上疏して言った、「臣は嵩之と本来仇怨はないが、国事に関わることゆえ、義として黙していることは難しい」。嵩之の任命書(誥命)については、終始これに署名して発行せず、そこで甫は江州知事に出された。王遂が抗疏して力強く争うと、帝は言った、「本来はその兄の袁肅に授けるはずであったが、報告を処理する際に誤ったのだ」。遂に命じて甫に他意のないよう励ますようにさせた。翌日、ようやく袁肅に江州を与えた。ところが殿中侍御史徐清叟がまた、甫が富沙を守っていた時に贓六十万を取ったと論劾した。湯巾らがまたこれに争い、清叟も後悔した。間もなく、婺州知事に改められたが、拝命しなかった。

嘉熙元年、中書舍人に遷る。入朝して謁見し、心源の説を陳べた。帝が辺境の事を問うと、甫は奏上して言った、「上流を急務とすべきであり、和議は恐らく事を誤るでしょう」。当時、清叟と甫は共に召されていたが、清叟はまだ到着していなかった。甫は奏上して言った、「台諫が風聞を以て事を言うのも、初めは何らかの心があるからである。今、人物が少なくなっている中、清叟のような者は朝廷にいるべきである。彼が辞退して避けているのは、実は臣のためである。どうか彼を急ぎ宮廷に赴かせてください」。また辺備に関する四事を奏上した。曰く、江陵を固め、瓦梁に堰を築き、流民をして旧業に復させることである。嵩之が京湖沿江制置使・鄂州知事に移ると、甫は奏上して言った、「嵩之は軽率で信じ難い。去年、嵩之が淮西にいた時、檝が淮西から来て、北軍がその後を追った。今また湖南をも彼に付託する。臣は彼が再び淮西を誤ったように湖南を誤ることを恐れる」。上疏は宮中に留め置かれ、行われなかった。翌日、権吏部侍郎となる。病気を理由に八度上疏し、一ヶ月の休暇を賜り、そこで帰郷した。従臣たちがまた共に上奏して留めるよう請うた。間もなく、玉牒官兼国子祭酒を兼ねるよう命じられたが、皆辞して拝命しなかった。嘉興府知事、婺州知事に改められたが、いずれも辞して拝命しなかった。

兵部侍郎に遷り、入朝して謁見し、奏上して言った、「江の潮が暴かに湧き、旱魃が虐げ、紙幣(楮幣)がその心腹を蝕み、大敵がその四肢を剥いでいる。危亡の禍いは旦夕に迫っている。どうか一徳を堅持し、邪な道を塞がれんことを乞う」。給事中を兼ねる。岳珂が兵財に通じているとして召されると、甫は奏上して、珂が二十年も糧餉を総管し、林を焼き沢を涸らすようなことをしたと述べ、珂は結局外任に補された。吏部侍郎兼国子祭酒に遷り、日々諸生を召してその学問と理義の講習の益を尋ねた。当時、辺境からの急報が日々届き、甫は十条の事柄を条陳し、極めて詳細明瞭であった。権兵部尚書、暫く吏部尚書を兼ね、卒去した。通奉大夫を追贈され、諡は「正肅」である。著書に『孝説』、『孟子解』、『後省封駁』、『信安志』、『江東荒政録』、『防拓録』、『楽事録』及び文集が世に行われている。

甫は幼少より父の訓戒に従い、学者は聖人に師事し、自得を貴ぶべきであると言った。また楊簡に従って学問を問い、自ら言うには、「私は草木の発生を観、禽鳥の和鳴を聴き、それが我心と契合するのを感じ、その楽しみは涯りがない」と。

劉黻

劉黻、字は聲伯、楽清の人である。早くから良い評判があり、雁蕩山の中の僧寺で読書した。三十四歳の時、淳祐十年に試験を受けて太学に入り、同輩たちは既に一致して彼を称賛した。当時、丁大全がちょうど台属として、丞相董槐を弾劾上奏し、追い立てて国から去らせ、その地位を奪おうとしていた。黻は同舎の生員を率いて宮門に伏して上書し、おおよそ朝廷が大臣を進退させるには、礼を以てすべきであると述べた。上書が奏上され、執政に逆らい、南安軍に送られて安置され、帰って母の解氏に別れを告げた。解氏は言った、「臣として忠に死ぬこと、直を以て貶されることは、本分である。速やかに行け」。黻は南安に至ると、濂溪・洛陽らくようの諸子の書を全て取り寄せ、その精切な語句を摘録し、十巻の書に輯めて『濂洛論語』と名付けた。大全が貶されると、黻は太学に戻った。間もなく、侍御史陳垓が程公許を誣告して弾劾し、右正言蔡滎が黄之純を誣告して弾劾し、二公が罷免されて出された。六館の者は顔を見合わせて色を失い、黻はまた諸生を率いて上書して言った。

「黻らは教養を蒙り、国家の休戚利害を己の痛痒の如く視ている。朝廷が一君子を進用し、台諫が一公論を発すれば、冠を弾いて互いに慶び、喜びが胸中に溢れる。もし君子が鬱屈して用いられず、公論が阻まれて伸びないようなことがあれば、憂憤が結びつき、寝食ともに廃する。臣は聞く、宗社を扶植するは君子に在り、君子を扶植するは公論に在りと。陛下が在位することほぼ三十年、端平年間には公正な者が朝廷に集まり、忠讜の士が続いて現れ、天下は一致して言った、『これこそ小元祐である』と。淳祐の初め、大奸が跡を潜め、善類が在位し、天下はまた一致して言った、『これこそ又一つの端平である』と。どうして年来の培養保護の初心が、転移せざるを得ないようになってしまったのか。

祖宗が臺諫を設置したのは、もともと君子を伸張させ小人を折伏し、公論を盛んにして私説を杜絶するためであった。ところが今、老いた貪婪の徒が勝手気儘に振る舞い、奸悪の種族が相次ぎ、諂諛をもって風旨を承け、傾險をもって機阱を設け、淟涊をもって官爵を盗んでいる。陛下は群賢を抜擢されないわけではないが、彼らは君子の党を空しくすることを忍び、陛下は直言を受け容れられないわけではないが、彼らは公議の戈を倒すことに勇んでいる。陛下がこの輩に何を負われたというのか、彼らがかくも陛下に背くとは。

陛下が英俊を召し起された折、公許は在野より起用され、正人君子はこれを観て、進退の機と見做した。ところが今、坐席も温まらぬうちに弾劾の上奏文がすでに上がり、一公許が去ったことは害にならないように見えようが、臣は恐れる、草野の諸賢が機先を見て深く遁れ、君子の脈はここに絶えるであろうと。近年、邪党が炎を煽り、緘黙が風潮となり、奏事する者は陳言を襲い故事に応じるのみである。幸い之純の二つの上疏は、やや人意に強く、今、軟媚な者は全身を保ち、鯁直な者は国を去る。一之純が去ったことは害にならないように見えようが、臣は恐れる、道路で目を合わせるのみで、言おうとすればすぐに阻まれ、公論の脈はここに絶えるであろうと。

況や今、天下において言うべき事少なくなく、攻撃すべき悪多くないわけではない。術は桑弘羊・孔僅に窮まり、次第に上を逼る嫌疑あり、勢いは金日磾・張安世に挟み、濫りに牧民の職に処す。乳臭い愚かな子が従橐に躐登し、光範の私的な者が累ねて輔藩を典す。錢神は傍らの蹊に神通し、公器はかえって互市の類となる。天下皆これを知る、どうして陛下のみこれを知らぬことがあろうか。ただ陛下の紀綱を司る者が身の謀りを知り、陛下のためを謀らないからである。陛下は事の機微を明らかに照らされる、どうしてこの輩の蒙蔽の術に堕ちられようか、どうして祖宗三百年の風憲の司を一二の小人の手に壊されることを忍びられようか。臣汝騰は陛下の劉向であるのに、忠鯁をもって斥けられ、臣子才・臣棟・臣伯玉は陛下の汲黯であるのに、切直をもって罷免された。遂に淳祐の諸君子を日消月磨させ、今に至ってほとんど一空に近い。彼らは誠に何の心ぞ。

高宗紹興二十年の詔に、「臺諫は風憲の地であるが、年来、人を用いること拠るところなく、大臣と友党をなし、その喜怒を助け、耳目の寄託たるに甚だ非ず」とある。臣窃かに近事を観るに、臺諫のみが大臣の友党たるにあらず、内簡相伝え、風旨相諭し、かつ鷹犬となってその指嗾を聴くことを甘んじている。宰相の楽しまざる者は、外には優容を示すように見せて、内実は陰に臺諫を頤指して去らせ、臺諫の弾撃する者は、外には相謀らないように見せて、内実は陰に宰相を奉承して行う。公許が召された時、天下皆宸衷の独断と知り、公許が来た時、天下もまた時宰に罪を得たと知った。どうして陛下の恩が終いに恃むに足らず、宰相の嗔りが竟に逃れられぬと予測できようか。

陛下は万機の暇に、公許・之純と垓・滎らを試みに熟思静評されよ、その言論孰れか正しく孰れか邪か、孰れか忠で孰れか佞か、中智以下の主でもなお是非を判別するを知る、まして陛下の明聖をもってしてこのことを察されぬことがあろうか。近ごろ公許の奏疏を見るに、陛下に至公を掲げて天下に示すよう告げ、垓は秘密の説をもって上聴を惑わし、公許は陛下に寵賂日章、官邪警めなしと告げ、幸門を塞ぎ曲径を絶たんとし、垓は侠客を縦って関節を兜攬し、闊扁を持って挙状を脅取し、賂門を開いて按章を簸弄す。至って之純の陛下への告げは、力めて邪正の弁を伸べ、明らかに媚相の非を斥け、謇謇諤諤、肺肝より流出す。滎は言責の身にあり、その風声を聞けば、自ら愧死すべきところ、尚お妄りに萋菲を肆う、少しも人心なきか。

かつ陛下が臺諫を擢用された、臣磊卿・臣咨夔・臣応起・臣漢弼・臣凱・臣燧らは、光明俊偉、卓然として天下の称首たるも、甫んで入りて遽かに遷り、或いは一鳴いて輒ち斥かる。独り垓・滎の輩は貪饕頑忍、久しく要津を汚し、根据して抜かず。劉向の所謂「賢を用うるは石を転がすが如く、佞を去るは山を抜くが如し」とは、今まさに見る、畏れざらんや。況んや今、国嗣未だ正さず、事会方に殷なり、民生の膏血、朘削殆んど尽き、頼って以て天命を祈り人心を繋ぐは、惟だ君子と公論の一脈のみ。小人は恤れざるの心を以て、忌憚なきの事を為し、その意は爵位日に穹く、権勢日に盛んにして、富貴を子孫に遺さんと欲するに過ぎず、豈に暇あって国家の計を為さんや。

昔より天下の患、挙朝公論無く、空国君子無きより大なるは莫し。我が朝は本より天下に大いなる失徳無きに、乃ち宣和・靖康の禍有り、夫れ豈に故無からんや。始めは邪正交攻し、更に出で迭りに入り、中には朋邪偽を翼け、陰に陷れ潜に詆し、終には是非を倒置し、黒白を変乱し、党禍に至らざるは止まざりき。向い使うに劉安世・陳瓘諸賢尚お恙無く、楊畏・張商英・周秩の輩久しく臺綱を据えざりせば、その禍豈にここまで烈しくならんや。古語に云う、「前車覆る、後車戒む。」今、朝廷の善類幾ばくも無く、心に奸険を懐く者は、文藻を以て佞舌を飾り、志に依違を在す者は、首鼠を以て円機を持す。宗社の大計、孰れか肯えて明目張胆として陛下の為に一喙を伸べんとする者あらん、則ちその勢い必ず終に空国君子無く、挙朝公論無きに至らん。君子無く、公論無く、脱ゆるに緩急有らば、彼一二の憸人を、陛下独り倚仗すべきか。

垓の罪は、また滎に浮ぶ、両観の誅、四裔の投も、なお軽典と為す。陛下これを一日留めれば、則ち一日の禍を長くし、異時に尚方の剣を借りてその首を礪くとも、尚お何ぞ国事の万の一を救わんや。」

また曰く、「昔より大奸巨孽、閑散の地に投ぜられ、惟だ朝廷の意向を覘い、以て進用の機を図る。元祐の間、章惇・呂恵卿皆貶所に在り。呂大防が楊畏を御史に用いた初意は、私人を信用し局面を牢護するに過ぎざりしも、小人の志を得て、唇を搖るぎ吻を鼓すれば、一時の正人旋ち斥逐され、継いて章惇復た柄用され、大防と雖も亦た朝廷の上にその身を安んずる能わざりき。今、右轄久しく虚しく、奸臣垂涎すること日有り。道路に聞く、饋遺は鞭鞾に止まらず、脈絡は禁近に潜通す、正に陛下が事機を明察すべき時なり。若し公論明らかならず、正人引去せば、則ち遅回輾転し、鈞衡の重寄は、必ず章惇等に帰するに至らん。今日の天下は、乃ち祖宗の艱難積累の天下なり、豈にこの輩の再び壊すに堪えんや。」

また遊幸を諫める疏に曰く、

「天下道有れば、人主は憂勤を以て逸楽を忘れ、天下道無ければ、人主は逸楽を以て憂勤を忘る。昔より国家乂安、四夷賓服し、国を享くること日久しく、侈心漸く生ず。漢武帝の単于震懾するに、千門萬戸の観有り、唐明皇の北辺事無きに、山温泉の幸有り。隋の煬帝、陳の後主に至っては、危亡日迫し、遊観度無く、效うに足らず。堯・舜・禹・湯・文・武の競業祗懼、終始憂勤、『無逸』に遊畋を言えば則ち敢えず、日昃すれば則ち暇あって食らわず。曽て祈禳の説を借りて、以て遊観の逸を事とせしことあらんや。比年以來、幸を以て利と為し、玩を以て常と為し、世故を軽視し天下を眇忽するの心免れず。単于未だ嘗て震讋せずして、武帝の多欲の費耗有り、北辺未だ嘗て事無からずして、明皇の宴安の鴆毒有り。

陛下は年齢がまだ若く、後世に謀を遺し憲法を垂れる機会は、すべて陛下にあり、法に則らずに行えば、後嗣は何を見るべきか。この十数年の間に、龍翔宮を創建し、集慶宮を創建し、西太一宮を創建し、さらに遊幸を示し、禱祠に導き、虚誕で経典に合わぬ説で惑わしてきた。孔子は言う、『少成若天性、習慣如自然』と。積み重なって慣れ熟すと、固くて破れず、誰がこれを正すことができようか。しかも西太一の工事について、諂う者が進言して言う、『太一神が臨む分野は福となす、近年は呉から蜀に移った』と。もし祈禳の説を信じるなら、西北の坤維(地の隅)は安堵すべきである。今や五六十州のうち、安全なものは十数州にも満たず、敗北し降伏する者が相次いでいる。福はどこにあるのか。武帝は長安ちょうあんで太一を祀ったが、晩年に至って虚耗して禍を受け、その後になって方士の誤りを悔いた。その悔いが早くなかったとはいえ、終に悔いを知らぬ者よりはまだましである。

およそ人主は過ちがないわけにはいかず、もし過言や過行があれば、宰執・侍従はこれを言うべきであり、給事中・中書舎人・台諫はこれを言うべきであり、縉紳士大夫はこれを言うべきである。これらは皆、君を正しい道に導く所以である。今、陛下は道を知らないわけではなく、人の言を受け入れないわけでもない。宰執以下は寵を望んで言わず、あるいは言っても力強くない。これらは皆、陛下を愛する所以ではない。その心は、これを当然として言う必要がないと思っているのだろうか。ただ陛下を堯・舜・禹・湯・文・武の主と見なすに足らず、漢の武帝や唐の明皇をもって陛下を待遇しているのである。

才能により昭慶軍節度掌書記に任じられ、学官から館職を試みた。咸淳三年、監察御史に拝命し、内降による恩沢について論じて言った。

天下を治める要は、命令を謹むことに先んずるものはなく、命令を謹む要は、内批を塞ぐことに先んずるものはない。命令は帝王の枢機であり、必ず中書省の参議試験を経て、門下省の封駁を受け、その後尚書省に付して施行する。凡そ三省を経由せずに施行するものは、『斜封墨勅』と称し、倣うに足りない。臣は、陛下が郊祀の慶成以来、恩数が繰り返され、指揮が煩雑であるのを見る。今日は内批、明日は内批、邸報のうち、内批によって行われるものがその半分を占めている。ひそかに陛下のために惜しむ。

『出納朕命』は『書経』に載り、『出納王命』は『詩経』に詠まれている。専ら『出』と言わず必ず『納』と言うのは、命令が朝廷の大事に関わるため、すべて理に中るわけではなく、それゆえに出した後また納めることがあるからである。祖宗の時代、禁中で処分した軍国事を外に付すのを内批と称した。たとえば太原を取る、江南を下すなど、韓琦が袖に入れて進呈すると、英宗は恐れおののいて座を避けた。これこそ内批を謹む根源ではなかったか。臣は日夜これを思い、官爵は陛下の官爵であり、三省は陛下の三省であると考えている。いわゆる『同奉聖旨』とは、すなわち三省が出す命令は、陛下の命を出すことである。必ずしも内批でなければ恩とならないのか。情実に縁って事を起こし、義をもって欲を制し、ある事は行うべきであり、ある事は止めるべきであり、条貫が備わっている。どうして三省から行わないのか。公論に合わないものがあれば、執奏することを許す。これこそ善くないことではないか。

元祐年間、三省が李用和等の改官・移鎮の恩例について言上した。今、高氏・朱氏は皆、故事を挙げる。皇太后は言われた、『外戚の恩沢は、今まさに除損しようとしているのに、また増長させることができようか』と。治平初年、曹佾に使相を加えようとしたが、皇太后は再三許されなかった。また聖旨があり、皇后の本家が親しい骨肉を分析して奏聞させ、これにも推恩を行うよう命じたが、司馬光が力諫し、皇太后が既に外戚を抑制されたのであれば、后族も褒め進めるのは宜しくないと論じた。今や前の恩数が未だ終わらぬうちに、後の恩数が既に乗じている。宰執は専断を恐れて奏上せず、給舎・台諫は逆らうことを恐れて言わない。このまま数年が過ぎれば、何をもって国と為すことができようか。故に政事は中書省によるならば治まり、中書省によらなければ乱れる。天下の事は天下と共にすべきであり、人主が私すべきものではない。

四年、正字に改め、言上した。「正学が明らかでなければ義理は日に微細となり、異端が止まなければ煽惑はますます盛んとなる。臣は顔を犯し耳に逆らうことが臣子の難事であることを知らないわけではない。実に君徳と世道が重大に関係するため、懇切に開陳せざるを得ない。上疏して一日を過ぎたが、未だ外に付されない。孟軻は言う、『言責ある者は、その言を得ざれば去る』と。臣は諫省の職を辱うけ、義として言い尽くすべきである。今やその言を得られないのに、もしさらに恩栄を貪り慕い、退くことを思わなければ、朝廷が官を設けた意に背くのみならず、孟軻の明訓に対しても、実にまた慊(満たされぬ思い)がある。

ちょうど父の喪に服して去位し、喪が明けると、集英殿修撰・沿海制置・慶元府知事に任じられた。済民荘を建て、士民の急を救い、貢士の春官(礼部試)の費用を助け、郡庠の耆老の緩急の需に備えた。また慈湖書院の建立を請うた。八年、召還されて刑部侍郎に拝命した。九年、朝奉郎に改め、吏部尚書を試み、工部尚書を兼ね、中書舎人を兼ね、玉牒の修纂を兼ね、侍読を兼ねた。上疏して王十朋の祠堂に田土を給することを請うた。十年、母の喪に服した。翌年、長江の防衛軍が潰え、丞相陳宜中が黻を起復して端明殿学士とし、起きなかった。賈似道・韓震が死ぬと、宜中は二王を擁して温州から海に入ることを謀り、兵をもって黻を迎えて共に政を執らせ、相位を譲ろうとした。ここにおいて黻は宗祀のことを母弟の成伯に託し、遂に起ち、羅浮に至り、病により卒した。

初め、陳宜中は夢で人に告げられることがあった。「今年は天災が流行し、人が死ぬこと半ば、大黄を服する者は生きる」と。その後疫癘が大いに起こり、服した者は果たして死なずに済んだ。黻が病んだ時、宜中は服するよう命じたが、ついに救うことができなかった。その配偶者林氏は一家挙げて海に身を投じた。間もなく、海上の事も瓦解した。黻に『蒙川集』十巻あり、世に行われる。

王居安

王居安、字は資道、黄巖の人。初めは居敬と名乗り、字は簡卿といったが、祧廟の諱を避けて改めた。物言い始めた時、『孝経』を読み、傍らから指して「これを理解するか」と言うと、即座に答えて「夫子は人に孝を教えられるだけです」と言った。劉孝韙が七月八日にその家塾を過ぎ、居安が凡児と異なるのを見て、八夕の詩を賦させると、筆を取ってこれを成し、思致があった。孝韙は驚いてその背を撫でて言った。「君は他日、名位必ず我を過ぎるであろう」。太学に入り、淳熙十四年に進士に挙げられ、徽州推官に授けられた。内外の艱(父母の喪)に連続して遭い、柄国者が居安の十年間の不遇を慮り、直接職事官を授けようとしたが、居安自ら民事を試みることを請い、そこで江東提刑司幹官に授けられた。使者の王厚之は鋒気が厳しく、人は敢えて逆らわなかったが、居安は事に遇って不可なことがあれば、平然と力争して少しも屈しなかった。

国子正・太学博士として召し出される。入内して対面し、まず言う、「君主は人を知り民を安んずることを要とすべきである。人は容易に知り難く、必ず宰輔・侍従の賢者を選び、その類を引き合わせるべきである。民は容易に安んじ難く、必ず愷悌(和やかで親しみ深い)で循良(善良で従順)な官吏を求め、その恩沢を施すべきである」。次に言う、「火政(消防)が修まらぬのは京尹の罪であり、軍律が明らかでないのは殿前司・歩軍司両司の罪である。罪が同等であれば異なる罰は固より不可であり、どうして歩軍帥を軽く罰し、二人を問わずに置くことがあろうか」。校書郎に遷る。居安は召し出して試験するよう請う、言う、「祖宗の時はただ進士第一(状元)のみ試験せず、蘇軾は高科(優れた科挙成績)で重名を負い、英宗が館職を授けようとしたが、韓琦はなお執って従わなかった」。執政が居安に言う、「朝廷は節度使でさえ尚お較べず、まして館職をどうして較べようか」。居安はこれに因って言う、「節鉞(節度使の印)の重さは、文官では位極まらず、武官では勲高からずして、どうして妄りに得られよう。丞相が較べぬと言うは、過ちである」。時に蘇師旦の任命が下らんとしていたので、故に居安はこれに言及したのである。司農丞に改める。御史が意を迎えて論劾し、仙都観を主管させる。

一年余りして、興化軍の知事として起用される。到着すると、便民事を条奏し、経界(土地測量と税制)の施行を請う。かつ言う、「蕃舶(外国船)は多く香・犀角・象牙・翠玉を得て、奢侈の風俗を崇め、銅銭(銅鏹)を流出させ、損あって益なし、宜しく遏絶禁止すべきである」。皆要務である。商賈を通じて米価を下げ、大盗を誅して民害を除く。秘書丞として召される。転対(順番に応じた上奏)し、言う、「宣撫司を置くも、進取の良規を聞かず、小使を遣わすも、確たる許諾の実報は寂として無し。ただ厳しく守備を整え、兵を増やして険阻を拠りてこれを待つのみ、これが廟算(朝廷の策)の上策である」。李壁は嘗て人に語って言う、「近年国境の事を論ずるに、王秘丞の如く明白なるは無し」。

著作郎兼国史実録院検討編修官に遷り、兼ねて権考功郎官を務める。韓侂冑を誅するに、居安は実にその決断を助けた。翌日、右司諫に抜擢される。まず論ずる。

「侂冑は内禅(譲位)に預かり聞く功を以て、大権を窃取し、童奴に節鉞を濫授し、寵妾を宮庭に籍を置かしむ。亭館を創造し、太廟の山を震驚せしめ、燕楽語笑、神御(先帝の御霊)の在所に徹聞し、宗廟を忽慢す、罪は万死に宜し。大臣の推薦に託し、軍国の権を尽く取りし。台諫・侍従は、ただ意のままに用い、公議を恤れず、親党姻婭は、美官を躐取し、流品を問わず、名器は僭濫し、動もすれば成法に違う。威柄を窃弄し、妄りに辺境の隙を開く。兵端一たび開くより、南北の生霊、壮者は鋒刃に死し、弱者は溝壑に填まる。荊襄・両淮の地、暴屍野に盈ち、号哭天を震わす。軍需百費、州県を科擾し、海内騒然たり。その罪状を跡づくれば、人怨み神怒り、衆情洶洶、物議沸騰す。然るに侂冑は中外を箝制し、陛下に聞知せしめず、宦官宮妾、皆その私人にして、肯て陛下の為に言う者無し。西蜀の呉氏、世々重兵を掌る。頃に呉挺の死に縁り、朝廷その兵柄を取り、改めて他の将に畀う、その策は至善なり。侂冑は曦と死党を結び、これに節鉞を仮し、復た全蜀の兵権を授く。曦の叛逆、罪は誰に帰せん。曦を死なせずんば、侂冑は未だ知るべからざるなり。

侂冑は数年之間に、位は三公に極まり、爵を列ねて王と為り、外には東西二府(中書・枢密院)の権を専制し、内には宮禁の厳を窺伺す。奸心逆節、顕著なる状有り。仮令侂冑が身斧鉞に膏すとも、尚お余罪有り。況んや兵釁未だ解けず、朝廷儻も明らかに典刑を正さずんば、何を以て国法を昭かにし、何を以て敵に示し、何を以て天下に謝せん。今誠に侂冑を取って市朝にさらすは、是れ一人を戮して千万人その生を安んずるを得るなり。侂冑は既に非常の罪有り、当に非常の誅に伏すべし。豈に常典を以て論ぜんや。

右丞相陳自強は素行污濁、老いて益々貪鄙、徒らに貧賤の私交を以て、一県丞より超遷し、径に宰輔に至る。奸憸(邪悪で諂う者)附麗し、国経を黷乱す。その罪悪を較ぶれば、侂冑と相去ること幾ばくも無し。追責して遠く竄えることを乞い、以て臣として忠ならず、邪にむつみて国を誤る者の戒めと為すべし」。

また曦の外姻(母方の姻族)郭倪・郭僎を劾し、嶺表(嶺南)に竄(流罪)す。天下これを快とす。

続いて侍講を兼ねる。方に侂冑が権勢を振るい、天下の口を箝し、己を議せしめざりし時、太府寺丞呂祖儉は謫死し、布衣呂祖泰は上書して直言し、危法(危険な法律)を以ててられ、遠郡に流される。居安はその冤を明らかにするよう奏請し、以て忠鯁の気を伸ばす。また疏を上して言う、「古今の治の本・乱の階は、更めて倚伏(よりかかり伏す、盛衰)す。治を以て乱を易うれば則ち反掌にして治むべく、乱を以て乱を治めれば則ち乱去りて復た生ず。人主、公に聴けば則ち治まり、偏に信ずれば則ち乱る。政事、外朝に帰すれば則ち治まり、内廷に帰すれば則ち乱る。百辟士大夫に問えば則ち治まり、左右近習に問えば則ち乱る。大臣公心にして党無ければ則ち治まり、党を植えて私を行えば則ち乱る。大臣正しく、小臣廉なれば則ち治まり、大臣汚れ、小臣貪なれば則ち乱る。もし用人を稍々誤らば、是れ一つの侂冑死して、一つの侂冑生ずるなり」。

趙彦逾と楼鑰・林大中・章燮が並び召される。居安言う、「鑰と大中を用うるは、宗廟社稷の霊、天下蒼生の福なり。彦逾はこれと同日に語るべからず。彦逾は始め趙汝愚が同列として政地(政権の中枢)に与えざるを以て、遂に侂冑の専政の謀を啓きし。汝愚の斥死は、彦逾の力居多し。而して彦逾は、汝愚の罪人なり。陛下乃ち二人と同く昇らしむるは、幾ばくか薫蕕(香草と臭草)同じき器、邪正並び用うるに近からずや。天下に趨向を示す所以に非ざるなり」。疏は既に具わる。微かに聞く者有り、除目(任命書)夜に下り、起居郎兼崇政殿説書に遷る。ここに於いて諫官として才十有八日。既に職に供するや、即ち直前に出て奏して曰く、「陛下特に臣を柱下史(起居郎)に遷すは、豈に臣をして言うを得ざらしめんと欲するに非ずや。二史(起居郎・起居舎人)は直前奏事を得る、祖宗の法なり」。遂に極めてこれを論じ、また言う、「臣は陛下の耳目官なり。諫紙未だ乾かざるに、乃ち権要にさからうを以て他職に徙す。その言を得ざれば則ち去る。臣復た留まらず」。帝は為に容色を改む。御史中丞雷孝友がその越職を論じ、一官を奪い、罷免す。太学の諸生に幡を挙げて留まるを乞う者あり。四明の楊簡は山陰の道中に邂逅し、謂う、「この挙は吾が道を増重す」。江陵の項安世は書を致して曰く、「左史(起居郎)は、人中の龍なり」。

一年余りして、官を復し、太平州の知事となる。辺境の急報甫はじめて定まり、歳は凶作、淘汰された軍兵が群聚して寇攘(略奪)す。居安の威恵流行し、晏然として事無き時の若し。将副の劉佑が怨家に闕下に詣でて告密され、金陵に獄を置く。居安は書を以て当路におくりてその冤を弁じ、或る人謂う、「佑は自ら誣服す、党逆の嫌疑無からんや」。居安曰く、「郡に無辜の死者有らば、何を以て守と為さん」。事果たしてはっきりす。直龍図閣・提点浙西刑獄となる。葛懌という者、戚属の恩で官を補し、資財にゆたかなり。嘗て父の寵妾を憾み、既に去りて後、盗みを以て誣う。株連して獄死する者数人、懌は乃ち嘗て一度も庭(役所)に造らず。居安一たび閲して実を得、直ちに捕らえ繫ぎ論罪し、械をかけて他州に送る。入内して対面し、帝曰く、「卿は有用の才なり」。権工部侍郎、集英殿修撰を以て隆興府の知府となる。

初め、盗賊が郴州の黒風峒に起こり、羅世傳がその首唱者となり、勢いは甚だ盛んとなった。湖南の各地は兵を発して要衝を扼し、義勇兵が内外で応援し、賊は食糧に乏しくなり、やや弛緩した。主兵の者が少し堅持すれば、すなわち捕らえられるのであった。時に江西の帥臣が降伏を買って功としようと欲し、間道を遣わして賊を説き、塩と糧を饋った。賊は喜び、謀略はますます逞しくなった。帥臣は病で卒し、後継者はその弊を踏襲した。賊はひそかに兵器を整え、外には降伏を申し出て、身は官を峒中に受けながら、公府には至らなかった。義勇兵は皆憤って言うには、「賊をなす者が官を得る。我らは身を捨て産業を損なうが、何を得るというのか」と。ここにおいて五合六聚し、各々峒の名をもってその郷とし、李元勵・陳延佐の徒が並び起こって賊となった。兵を放って四方を劫略し、永新を掀ぎ、龍泉を撇き、江西の諸城は皆震動した。朝廷は江・鄂の兵を調発して衡・贛に屯させ、他の龍泉に駐屯する兵は吉州守に節制させた。吉州守は師を率いて往き、ほとんど賊に困らされ、池州の兵が来援して敗れた。朝廷これを憂い、遂に居安を帥とした。

居安は書を以て都統制の許俊に諭して言うには、「賊が勝てば民は皆賊となり、官軍が勝てば賊は皆民となる。勢いの翕張は、この挙に決する。将軍は素より勇名あり、山賊に挫かれてよいのか」と。俊は書を得て惶恐し、他の帥のごとく居安に事えることを敢えてせず、居安は黄山において戦いを督し、これを勝ち、賊は初めて懼れ、韶州に走り、摧鋒軍に敗れ、勢いは日々に蹙んだ。吉州守は前に戦い利あらず、招降の策を用い、吏を遣わして降伏受諾の図を持たせ来たり、賊の官銜に「江湖両路大都統」と書いていた。居安は笑って言うには、「賊がこのように玩侮するとは、なお国に人あるか」と。諸朝に白し、吉州守は祠官となって去った。遂に居安に命じて江・池の大軍を節制させ、廬陵に駐屯して督捕し、郡事を領せしめた。土豪を召して便宜を問うと、皆言うには、「賊は険に恃み、陟降すること猿猱の如し。もし我が糧を鈔すれば、我が事危うし」と。居安は言うには、「吾れ自ら賊を破る所以あり」と。時に元勵が練木橋の賊首李才全を執って至る。居安は才全を厚く待遇し、元勵を賞した。衆は皆感ず。羅世傳は果たして元勵が己に貳するを疑い、遂に交悪した。元勵は衆を率いて世傳を攻む。居安は俊に語って言うには、「両虎穴に闘う。吾れは卞莊子の功を成すべし」と。世傳は練木橋の賊党を嗾して元勵を襲わしめ、その妻子を俘え、元勵を禽えて献じた。時に青草峒の賊もまた禽えられ、並びに吉州の南門で磔にされた。元勵が既に誅せられると、世傳は功を以て恃み負うてますます驕蹇となり、名は順を効するが実は自らを保つ。俊は班師を請うたが、居安は許さず、賊の堡壁に因って固守させた。居ることしばらくして、世傳は果たして兄の世祿とともに叛いた。居安は奏して朝廷に憂いなからんことを乞い、今その角距を落とせば、一戦にして禽えるべしと言う。乃ち密かに方略を為し、官軍・民兵を遣わして合囲させると、世傳は自経して死に、その首を斬って徇し、群盗は次第に平定された。居安の軍中に在りしは、賞厚く罰明らかで、将吏は力を尽くし、終始賊を以て賊を撃つ策を用いた。故に兵民に傷つく者無し。江西人は祠を建ててこれを祝し、石に刻んで功を紀した。襄陽に移鎮し、言者に因り罷められ、閑居すること十一年。

嘉定十五年、魏了翁とともに召され、工部侍郎に遷る。時に方に宝璽を受ける。中朝は皆動色して相賀す。入対し、まず言うには、「人主は難無きを畏れ、難多きを畏れず。輿地宝玉の帰するや、何ぞ当時の失う所以を思わざる」と。言、極めて切至なり。甫に両月、集英殿修撰を以て玉隆宮を提挙す。未幾、宝謨閣待制を以て温州を知り、郡政大いに挙がる。

理宗即位し、敷文閣待制を以て福州を知り、龍図閣直学士に昇り、大中大夫に転じ、崇福宮を提挙す。将に行かんとするに、塩寇が寧化に起こる。居安は書を以て汀州守に諭して言うには、「土瘠しく民貧し。塩に業むこと尽く禁ずべけんや。且つ彼は三首悪を執って自ら贖う。宜しくこの三人を治め、他の者は治めずとも可なり」と。部使者は左翼軍将の鄧起を遣わし兵を提して往かしむ。起は貪夜に険を冒して寇と角し、死をもってし、軍潰え、民相驚き逃げ去る。事聞こえ、居安に専ら招捕を任ぜしむ。居安は既に留まり、軍校の劉華・丘鋭なる者を募り、計画を授く。汀州に至れば賊は既に郡に至り、州人は大いに懼る。賊は帥に撫納の意あるを知り、即ち引き退く。華・鋭は賊中に出入りし、期を指して降を約す。右班をもって汀州守を摂する者有り、倔強にして大言を好み、兵を知ることを自任し、不意に出でて己が功とせんと欲す。賊はその謀を知り、降約を敗り、而して建州・剣州の諸郡並びに江西において嘯聚蜂起す。居安は議合わず、歎いて言うには、「吾れ復た焦頭爛額の功を求むべけんや」と。即ち疏を拝して帰る。

居安は書生として、兵事に学ばずして能くし、必ず峒寇を誅し汀寇を降す。皆苟然たる者に非ず。卒し、累贈して少保。居安は心を公明に宅し、物を待つに貳せず。『方巖集』行わる。

論ずるに、李宗勉は庶僚に在りて事を論ずるに平直なり。相に入るに及び、公清の称を負う。袁甫は学に本原あり、善くその用を達し、節を持して過ぐる所、その民今に至るもこれを思う。劉黻は邪正を分別し、侃侃として敢えて言う。亦た難能なる者なり。王居安は群邪を掃除し、以て王国を匡う。その志壮なるかな。