汪若海
京城失守す。若海は麟を述べて書を作り以て献ず。二帝北行するに及び、袖に書をして粘罕に抗し、趙氏を存せんことを請う。縋りて出で、済州において康王に謁し、神器久しく虚しく、異姓僣窃す、宜しく早く即位し、以て中興を図るべしと言う。一日の間に三たび顧問を受け、修職郎に補し、帳前差使を充てる。高宗即位するや、推恩して承奉郎に改め、江南経制使に遷し、転じて承事郎、登聞検院を監す。五府交わって辟し、右府に属す。
朝廷、張浚を以て川・陝を宣撫せんとし、議未だ決せず。若海曰く、「天下は常山の蛇の勢いなり。秦・蜀は首、東南は尾、中原は脊なり。今東南を以て首と為す、安んぞ能く天下の脊を起こさんや。将に恢復を図らんとせば、必ず川・陝に在り」。乃ち往きて浚に見え、終日極談す。浚大いに驚き、自らに随わしめんと辟す。親老を以て辞す。継いて軍食を論じ、執政に迕い、沅州通判と為り、讒により籍を奪われ、英州に謫せらる。道、臨川に出づ。時に江夏軍馬を節制する李允文、衆数十万を擁し、跋扈して朝命を用いず。朝廷、招討使張俊に命じ江西に屯せしむ。参謀官湯東野は若海と故あり、若海が道中に在るを得て、甚だ喜ぶ。謂いて曰く、「李允文は反側を懐く、君に非ざれば能くその自新を開く莫し」。若海即ち馳せ往き、成敗逆順を以て諭し、朝廷の威徳を示し、復た三策を談じて以てこれを動かす。辞旨明暢なり。允文大いに感悟し、即ち軍を挙げて東下す。
若海復た書を為してその徒張用・曹成・李宏・馬友を招き、同じく朝廷に帰せしむ。用は一見し、その衆二十万を以て甲を解きて順を効す。惟だ成は疑貳して他志あり。若海書を移してこれを責む。成怒り、将に若海を殺さんとす。若海夜に王林の軍帳に宿し、計をもって林の軍印を得、遂にその衆五千人を奪う。翌日、成遂に遁る。若海宏に書を遺し、成を刺して以て自ら帰らしめんとす。宏書を得て成を図るも力勝たず、復た長沙に走りて友を刺す。群盗解散す。若海遂に林の五千人を以て招討使張俊に帰す。俊乃ち師を班して凱旋し、軍容愈よ盛ん。
時に朝廷方に師を出さんとす。若海以爲く、国家の為にする者は、当に盗賊を化して我が用と為すべく、英雄を失いて国患と為すべからず。因って平寇の策を献ず。朝廷悉くこれを用う。その後、李宏は劉忠に併せられ、長沙に死す。劉忠は韓世忠に破られ、劉豫に走る。曹成は広に走りて復た降る。湖湘遂に安んず。尋いで承務郎・監潭州南岳廟・辰州通判を復す。
紹興九年、三京を復す。祗謁して陵寢に詣で、事還る。以前の功により、旬月の間に四遷して承議郎・順昌府通判に至る。金人奄至す。太尉劉錡甫として至るも、衆三万に満たず。人を遣わして朝に援を丐うも、敢えて往く者無し。若海毅然として行きを請い、錡の方略明らかなるを具述し、兵を用いるに善く、偏師を以てこれを済せば、必ず成功有らんことを述ぶ。朝廷これに従う。金兵果たして敗れて去る。淮北宣撫司主管機宜文字に辟す。拓皐の役、復た労により両転して朝散郎・洪州通判に至る。未だ上らず、内艱に丁す。服除け、添差して信州通判と為る。秩満ち、湖北帥司参議に遷る。道州を知る。陛辞して対を得る。上曰く、「久しく卿を見ず、卿向は安くにか在りし」。直秘閣・江州知事を授く。父憂に丁す。時に方に中原を経略せんとし、朝廷議して若海を起さんとす。而して若海死す。
若海は豁達高亮、深沈として度有り、世俗の章句の学を恥じ、文を為すに紙筆を操りて立ちどころに就き、蹈厲風発す。高宗嘗て片紙に若海の名を書いて張浚に諭して曰く、「似たり此人材、卿宜しく收拾すべし」。会に浚国を去り、果たして召さず。
張運
紹興五年、鼎州通判と為る。賊楊么・黄誠、衆数万を擁し、城邑を残破し、湖北に跳梁す。高宗、張浚を遣わして都督として師を董し、岳飛を以て招討として兵を挙げてこれを撃たしむ。賊軽鋭を率いて径ちに武溪南興に趨き、以て鼎州に臨む。城中大いに震う。運と太守程昌宇、兵を勒して城に登り、上下を控扼し、以てその勢いを張る。賊宵潰す。澧の賊雷徳進、険に柵して乱を称す。帥檄を運に下してこれを討たしむ。運、都統梁吉等を将いて兵を率いて直ちにその巣を搗き、四十二柵を破り、その衆を降す。
濡須の貳に移る。金人廬・寿等州を犯す。大将兵を駐めて淮壖に在りて以てこれを拒ぐ。運餉を給して嘗て乏絶せず。歳余、親老を以て江東に還り、鄱に寓居す。既にして母及び父の憂に丁す。服除け、起きて桂陽監を知る。五月にして境内治まると称せらる。部使者と奏して監を軍に升む。大いに庠序の教を修め、漢以来守令にして桂陽に功德有る者衛颯・唐羌等七人を学に祠り、『続顔氏家訓』・『四時纂要』等の書を刻し、これを民間に散じ、以てその徳を修め本を務めしむ。召し入れて対せしめ、達州知事を除す。方に大旱す。境に入りて雨す。病民五事を奏除す。
度支郎中に召さる。臨安楼店務の銭歳三十余万緡、請うて十万を以て省額に帰せしむ。戸部の儲うる所、三仏斉国の貢ぐる所の乳香九万一千五百斤、直ちに百二十余万緡に可し。請うて分かち送りて江・浙・荊湖の漕司に売らしめ、以て軍餉を糴せしむ。及び諸路の綱運七弊を陳べ、十術を懲革し、遠近遞輸して以て労逸を均しくす。事皆施行さる。枢密院検詳を兼ね、軍器監に遷る。尋いで大理少卿に改む。両浙の塩法を正し、以て私鬻の禁を寛にせんことを請う。紹興永裕・昭慈二陵の官地と民犬牙相い入る。請うて県重価を以て民に券を保持して献納せしめ、以て誤犯の罪を免れしむ。尤も獄を治むるに明らかにし、獄これが為に空し。
刑部侍郎に任ぜられ、言上した。「赦令が累次下されたにもかかわらず召還されていない追放者どもは、洗い清めるべきである。諸々の条制を申請するものは、多く重複し矛盾しており、煩瑣に過ぎる。編置(辺境への配流)の刑は赦免によっても原状回復せず、蔭(恩蔭)によっても論じられないなどという類は、厳し過ぎる。地方の刑獄が三度も翻異(翻案)された場合は、大理寺に移送するが、刀鋸(刑罰)をしばしば施すのは、遠方の民に示すべき道ではない。」その他不便な事どもについて、皆これに従った。また蓄積を広め、鼓鑄(貨幣鋳造)を興し、屯田を修め、郷兵を作ることを請うた。これも皆聞き入れられた。兼ねて権戸部侍郎を務めた。当時長雨により蚕や麦が損傷し、また辺境からの報せに警報があったため、詔により侍従・台諫に災害を消し外侮を防ぐ策を陳述させた。李運は言った。「天災と人事には、甚だ畏るべきでありながら畏るに足らぬものがある。それは我が政事の修められているか否かによる。甚だ憂うべきでありながら憂うに足らぬものがある。それは我が自ら治めることが善いか否かによる。」また淮河沿いに三大鎮を築いて守るべきであると述べた。
金人が盟約を破ると、特に戸部侍郎に昇進し、専ら糧餉の供給を担当した。丞相陳康伯が李宝を四明から派遣して海道を制圧することを議したが、衆論紛紜とした。李運は直ちに入って決断を支持し、これを上策とし、金人は果たして敗走した。そこで上疏して言った。「詔を下して将士を慰撫し、租賦を免除し、信使を派遣し、豪傑を結び、城守を堅固にし、漢中の将士を督して関陝に急行させてその背後を制することを乞う。両淮・襄漢の間に四鎮三帥を置いて内側の固めとし、進取を図るべきである。」御営随軍都転運使として従い、江上で師を労った。車駕が還ると、これに因み入対し、固く外補を請うた。そこで集英殿修撰を授けられ、太平州知州として出向した。兵乱・飢饉・疫病の後にあたり、労徠安輯の方策を尽くし、斥候と攻守の備えを厳しくした。財賦を管理し、戦艦を造り、甲兵を修繕し、禁令を申し立て、民はこれによって安んじた。
孝宗が禅を受けると、李運もまた老齢を理由に致仕を請い、敷文閣待制として江州太平興国宮の提挙となった。まもなく広東経略に任ぜられたが赴任せず、再び祠祿を与えられた。乾道七年、鄱陽で大飢饉が起こると、李運は真っ先に粟二千石を出してこれを救済し、これより民は競って粟を出して救済に当たった。連続して致仕を求める上章をしたが許されず、病気で卒去した。少師・左光禄大夫を追贈され、子孫三人に官職が与えられた。嘉定六年、開府儀同三司を追贈された。
柳約
高宗が平江に行幸しようとした時、柳約は上疏して兵は進むべきであり、退いて敵に臆病を示すべきでないと述べた。そこで直龍図閣として台州知州となったが、赴任せず、厳州に転任し、兼ねて浙西兵馬都監・節制管內軍馬を務めた。当時、金人が大挙侵入し、杜充が衆を擁して北去し、諸郡は震恐し、官守を訪ね奔る者はなかった。柳約は横潰の中にあって孤城を屹然と保ち、全力で防禦した。境内が安堵すると、慨然として上書し、諸郡を糾合して呉会を克復することを請うた。上はその忠を嘉し、右文殿修撰に進め、郡守は元の通りとした。詔して、軍興による費用が法度なく出され、吏が怠慢で恭しくない中、柳約のみが賦輸を謹み、率先して督促したとして、官秩一等を進めた。また詔して言った。「柳約の郡は兵衝に当たりながら、難を辞せず、事を避けず、ますます柵を厳しく列ね、一方を保綏した。朕は甚だこれを嘉する。柳約を以て集英殿修撰を充任せよ。」召し入れて対し、再三にわたり褒め労い、権戸部侍郎に抜擢した。
柳約はここに至り感激して言うところを尽くし、例外的な宣索(上命による徴発)は全て執奏して進めなかった。呉幵らの罪が正されていないのは、臣節を励ますものではないと論じた。諸大将が兵を率いて入覲し、それぞれ自家の名を掲げるのは、尾大不掉の患いがあるとし、これらは人が敢えて言わないことであった。また言った。「軍興による科需(臨時課税)が百出している。官戸で名田が制を過ぎている者は、編戸と均一に科敷すべきである。諸路の酒銭を増額し、その半分を提刑司に樁管(積み立て)させ、軍費に備えることを請う。」皆これに従った。高麗が貢を修めることを請うた時、使節を派遣して報聘することを議し、上は廷臣を見回して柳約より優れた者はいないとし、試みに戸部侍郎を加えてその任に充て、かつ大用しようとした。当路の者がこれを忌み、言事官に事を誣わせて、提挙太平観に罷免された。七年間在任し、復して秘閣修撰となった。
金人が侵した疆土を返還すると、起用されて蔡州知州となり、命を受けて赴き、少しも顧み避けるところがなかった。やがて金人が和平を破り、河南に檄を伝えると、守臣は皆城を挙げて降ったが、柳約のみは数輩の使者を武昌に遣わし、返報を得てから帰還した。まもなく、敷文閣待制として祠祿を受けた。十五年後に卒去した。四官を追贈された。
柳約は天性至孝であり、母が重病となると、泣いて天に祈り、自らの寿命を減らして親の寿命を増やすことを願った。母はまもなく快方に向かい、柳約は結局母より二ヶ月先に卒去した。
李舜臣
李舜臣、字は子思、隆州井研県の人。四歳で読書を知り、八歳で文章を作ることができ、少し成長すると古今に通じ、興廃の跡を推し、根本を洞見し、慨然として天下に志を抱いた。
成都府教授となった。当時虞允文が関上で師を撫していたが、幕府に辟召して置き、挙薦者によって宣教郎に改め、饒州徳興県知県となり、専ら風化を重んじた。母と子、兄弟の訴訟が連年決しない民がいたが、慈孝友恭の道を説き、遂に元の通り母子兄弟となった。折に触れて学舎に赴き講説し、邑の士人は皆「蜀先生」と称した。百姓の預貸(前貸し)を廃止し、前任官の積もった未納分三万緡以上を弁償した。民は差役に苦しんでいたので、李舜臣は諸郷を勧め糾合し、税額の高低によって役期の長短を定める義役とした。一年で役が成立し、民は大いに便利となった。銀坑は既に久しく廃止されていたが、小戸はなお銀本銭を敷かされていたので、官がこれを弁償した。天申の大礼の助賞や軍器の需要は、全て民を煩わせなかった。
幹辦諸司審計司を務め、宗正寺主簿に遷り、『裕陵玉牒』を重修した。曾布・呂惠卿が初めて任用された時は必ず謹んで記し、或いは執政の任免でないから書式に応じずと謂う者もあったが、舜臣は曰く、「治乱に関わること、どうして常法に拘ることができようか」と。他の筆削も皆この類であった。特に『易』に精通し、嘗て曰く、「『易』は画(卦)より起こり、理・事・象・数は皆画によって現れる。画を捨てて論ずるは、『易』に非ざるなり。画は中より起こり、乾坤の中画は誠敬、坎離の中画は誠明なり」と。『本傳』三十三篇を著す。朱熹は晚年、毎度学者にこれを称した。著書に『群經義』八巻、『書小傳』四巻、文集三十巻、『家塾編次論語』五巻、『鏤玉餘功錄』二巻がある。子に心傳・道傳・性傳あり。性傳が二府の官に至ったことにより、太師を贈られ、崇国公を追封された。
孫逢吉
朱熹が経筵において持論が切直であったため、小人らは共にこれを快とせず、密かに上怒を煽り、中批をもって祠官とされた。劉光祖が逢吉と共に講筵に在った時、吏が請うて曰く、「今日は某侍郎が輪講すべきところ、疾を以て告げ、孫侍郎が次に居ります、代わりを請う」と。逢吉曰く、「常に講ずる所の『論語』、今どうして即ち講義があるだろうか」と。已にして某侍郎の講義の在り処を問い、取って観ると、則ち『詩経・権輿篇』を講じ、康公が賢者と始め有りて終わり無きを刺しており、朱熹を逐う事と相類するので、逢吉は欣然として代わってこれを講じた。因って上前において甚だ苦しく争論した。上曰く、「朱熹の言は多く用いるべからず」と。逢吉曰く、「熹が祧廟を議するは臣と合わず、他の言う所は皆正しく、未だその用いるべからざるを見ず」と。次第に上意を失う。
会に彭亀年が韓侂冑の専僭を論じ、郡に補外される。逢吉が入疏して曰く、「道徳崇重にして、陛下の敬礼する者、朱熹に如くは無く、志節端亮にして、陛下の委信する者、彭亀年に如くは無し。熹は既に侂冑を論じて去り、亀年はまた侂冑を論じて絀けられんとす、臣は恐らく賢者皆固き志無からん。陛下の用いる所は皆庸鄙憸薄の徒、何を以て国を立たんとするか」と。侂冑はこれを見て悪んだ。丞相の趙汝愚が既に罷免されると、侂冑が国政を専らにした。一日、従臣が重華宮に扈従し、上が礼を畢え、駕が興ると、扈従者は宮門を出て馬に上ろうとしたが、忽ち侂冑到ると伝呼され、扈従者は却って入り、笏を斂めて甚だ恭しかった。逢吉曰く、「既に出でて復た入り揖す、臣子が君父に事える礼、当に是くの如くすべきか」と。揖せずして去った。
会に部中で会食する時、吏が密かに報じて優人の王喜が閤職に除せられると、逢吉は即ち言う、「上前において朱侍講の進趨を真似、儒を以て戯れとする者、どうして閤職を汚すことを許せようか」と。即ち抗疏して力を争った。同列が密かにこれを侂冑に告げる。時に王喜の任命は実は未だ出されず、遂に誣詆を以て、太平州知州に出される。祠を丐い、江州太平興国宮提挙となる。起用されて贛州知州となるが、既に疾に属し、卒す。諡して「献簡」。弟の逢年・逢辰、皆文学行義有り、時に「孫氏三龍」と称された。
章穎
御史中丞の何澹が継母の訃を聞き、不逮事の文を引き、穎が解官と定議したが、澹は未だ去ることを決せず、侍従朝列に下して集議することを乞うた。太学諸生がこれを攻めて曰く、「朝廷は専ら奉常を設け、議礼の出づる所なり。今議礼の出づる所の地に従わず、反って議礼不公を以て、侍従朝列の集議を欲するは、豈に逢迎希合を啓き、苟も留まって進身の計と為さんとするか」と。左司諫に除せられ、時に左相の留正が去り、右相の葛邲が国政を当てる。穎は邲が大事を任すに足らざるを論じ、凡そ二十余疏。従官が議して穎を超除し、言職を去らしめ、両方留まらしめんとす。光宗曰く、「是は好諫官なり、何を以てこれを遷すか」と。邲は始めて出る。穎は屡々上疏して上に重華宮に問安することを請うたが、その稿を悉く焼いた。
寧宗即位し、侍御史兼侍講に除せられ、尋いで権兵部侍郎となる。韓侂冑が権勢を振るうと、穎は経幃に侍す。上曰く、「諫官に趙汝愚に言及する者有り、卿等は何と謂うか」と。同列は謾に可否無く、穎は奏して言う、「天地変遷し、人情危疑し、加うるに敵人の嫚侮有り、国勢未だ安からず、容易に大臣を進退すべからず、願わくは詔を降して汝愚を宣諭し、その去るを聴かざらんことを」と。報いられず。奏して待罪を請い、郡を与えられる;御史が穎の阿党を劾し、罷免される。太学生の周端朝ら六人が闕に伏し、汝愚の誣されるを弁じ、且つ章穎の言は忠より発し、首に斥逐に遭うと謂う。端朝らは皆罪に被り、ここより党論遂に起こる。
劉穎は家に居ること久しく、起用されて衢州の知事となり、侍御史林行可が弾劾して罷免させた。まもなく贛州の知事となったが、御史王益祥が再び弾劾し、その任命を留保させ、再び祠官となり、順番を待って建寧府の知事となった。韓侂冑が誅殺されると、集英殿修撰に任じられた。累進して刑部侍郎兼侍講となり、延和殿で応対すると、上は嘆息して言われた、「卿は権臣に阻害抑制されて甚だ久しかった。」劉穎は『甲寅龍飛事跡』の誣筆を修訂することを乞うた。吏部侍郎に任じられ、まもなく礼部尚書に昇進し、侍読に昇格した。詔して劉穎に紹熙・慶元の譙令憲『玉牒辨誣』、余端禮・趙彥逾『甲寅龍飛記』及び趙汝愚の当時記した事を以て、考訂し誣りを削ぎ、実に従って上進せしめた。去ることを乞い、祠官となった。嘉定十一年に卒し、年七十八。
劉穎は操行が端正で、平生の風節は窮達によって移されなかった。仕官は多くは不遇であったが、清議は彼を支持した。党論が起こった時、朱熹は書を送り、おおよそ言った、「世道は反覆し、既に涙を流すに足る。而して事を握る者は怒り猶未だ已まず、未だ知らず終に何れの極みに至るか。然れども宗社に霊有り、公論未だ泯まず、異日必ず是れ責を任ずる者有らん。公に非ずして吾誰をか望まん。」光禄大夫を追贈され、諡は「文肅」。
商飛卿
商飛卿、字は翬仲、台州臨海の人。淳熙初年、太学より進士第に登り、無為軍教授に任じ、累官して工部郎官に至る。時に韓侂冑が国政を握り、気焰が人を灼くが如く、飛卿は到着して後、一度も進んで請謁せず、一月を過ぎて即ち去ることを乞い、福建路常平茶塩事を提挙した。監察御史に抜擢され、言事が侂冑に逆らい、罷められて奉常となった。外任を請い、秘閣修撰を以て荊湖南路転運判官となった。後に司農卿に改め、江東・淮西軍馬銭糧を総領した。金陵には元来帥・漕の治所があり、戎騎の二帥・留鑰・内侍と合わせて六司と号し、宴飲饋遺の費は万を動かす計であった。飛卿は身を以て倹約を率い、浮費苛斂を節減し、糧餉を時に斂散し、次第に裕福と聞こえた。開禧年中、就いて戸部侍郎に抜擢された。侂冑が師を挙げんとする時、嘗て餉計の豊約を問うと、飛卿は実情を告げた。調遣が浩繁となり、支えきれず、旨有って飛卿に軍前に伝宣撫労せしめんとするに属し、金兵の大至するに値し、幾ばくも免れず、憂いにより卒した。
劉穎
劉穎、字は公實、衢州西安の人。紹興二十七年進士、溧陽主簿に調ず。時に張浚が建康留守となり、金師初めて退き、府は未納の民租を徴索した。穎は浚に言う、「師旅の後は、宜しく先ず撫摩すべし、当に逋賦を尽く蠲免すべし。」浚は喜び、即ち奏して閣免し、これにより彼を知り、其の子栻を遣わして交遊せしめた。全州教授となり、改官して鉛山県知事、外艱により去る。再び常熟県知事、潭州簽判となる。王佐が帥となり、其の才能を恃み、盛気を以て僚吏に臨む。穎は中道を以て約し、多く屈して改める。陳峒の反するに及び、擒えた賊多くは穎の計策による。帥は其の功を上奏し、「簽判は宜しく臣の上に居るべし。」と言う。召されて進奏院を監し、進んで太常寺主簿、丞に遷り、兵部郎官を兼ねる。
浙西常平茶塩を提挙し、澱山湖に還り、以て呉松江の水を泄らし、民の侵築を禁じ、大流を逼塞せしめざらしむ。民田これに頼る。就いて提刑に遷り、洗冤沢物を任とし、間もなく獄に詣り、繫ぐべからざる者を察して縦遣す。御史が介僻を以て弾劾し罷免。江西運判に任ず。江州徳化県の田は逃徙すること大半、守は税の蠲免を乞うも、報ぜず。穎は現種の税を荒萊に均し、耕さんことを願う民には第にこれを減じ、上供は自ら若くして、逃田尽く復す。
直秘閣・淮東転運副使に任ず。初め、水害により楚州城が敗れ、修補未だ竟わず、劉超は移築せんと欲す。穎は金国使の接伴に因り、入対して言う、「国家何ぞ苦しんで百万緡を捐てて軍帥の幸賞の地となさんや。」光宗これに従う。戸部郎中・淮東総領に任ず。務場は額鈔を以て賞に抵当し、陰に餉計を耗す。二十年この弊を知る者無し。穎は究覈してこれを得、売った数に論じて賞し、総餉は羨余を増す。司農少卿・淮西総領に遷る。前の主計者は自ら都醸を為さんことを請い、浄息を抱えて利の贏余を図る。その後稍々虧え、反って大軍の銭を以てこれを佐け、江・淮に邀糴し、回易は負販の状の如し。穎は王人の体を失うと以為い、遂にこれを罷む。内府の宣限既に迫り、毎に供軍の銭を移して歳輸に応ず。穎は吏弊を蒐し、冗員を汰し、月綱を分けて解送し、自ら是より復た那移せず。
まもなく直宝謨閣・江東運副・平江府知事に任ぜられるも、皆未だ行かず。宗正少卿に任じ、起居郎兼実録院検討官に遷り、権戸部侍郎、同修撰に昇る。疾を以て祠を乞い、興国宮を提挙す。集英殿修撰・寧国府知事に任じ、改めて紹興府知事となる。未だ幾ばくもせず、平江府知事となり、径ちに帰り、興国宮を提挙す。起用されて泉州知事、華文閣待制に昇り、興国祠を請いて帰る。興国祠満ち、敷文閣待制致仕に任ず。嘉定改元、行在に召し赴く、致仕を落とし、刑部侍郎に任ずるも辞し、進んで龍図閣待制・婺州知事となる。老を請い、宝謨閣直学士致仕となる。六年、家に卒す、年七十八。光禄大夫を追贈される。
孝宗朝に在り、人臣争いて意を承けて自ら献ず。穎上奏す、「今日の失は軽く人言を聴くに在り。昔の施為を、今復た棄置す。大いに盛徳を損ず。」孝宗嘉納す。光宗の時、人主の克ち難くして流れ易きもの四つを論ず。曰く、逸豫に節無く、賜予に度無く、儒臣は疏んじ易く、近幸は昵し易し。寧宗の時、学禁初めて起こり、党論日に興る。穎上奏す、「願わくは陛下、道を以てこれを御し、徳を以てこれを容れ給え。然らずんば、元祐・崇・観の事鑑とすべし。」其の言皆時に切中す。
浙西より外任を請いてより、凡そ麾節を徙ること十余年、淹速を以て玄訊する者有り。穎笑って曰く、「吾が欲する所なり。」其の従班に在る日、韓侂冑は旧より周旋して間無く、方に居中して事を用いんとするに、穎はこれを謝絶す。常に言う、「士は身を辱めざるを重しと為す。」其の少宗正たる時、丞相趙汝愚恰も帰り、廃寺に相遇う。泥雨足を伸ばす能わず、但だ僧床に立ちて語りて曰く、「余参政に寄謝せよ。某去るも猶人才は朝遷に在り、幸いに善くこれを持せよ。」穎曰く、「相公の人才即ち参政の人才なり。使し果たして賢ならば、参政の責にして、宰相の憂いならず。」余参政とは端禮なり。余相を継ぎ、善類を全佑すること多く、穎の助けと云う。
徐邦憲
韓侂冑が兵端を開くや、同悪附和し、敢えて先ず一語を発して其の非を議する者無し。邦憲独り先ずこれを言う。外任を乞い、処州知事となる。陛辞に当たり、力諫して用兵は太だ驟るべからずとす。再び歳を経て召還され、言う、「名義を求めて兵を息ますは、建儲に因りて赦を肆るに若くは莫し。殊常の恩を借り、弭兵の名と為し、赦宥を行い、大いに徳沢を霈くす。東は宣諭に委ね、西は宣撫に委ね、弄兵の咎を洗い、戍辺の師を省く。倉粟を発して餓殍を賑し、農時に及びて民業を復す。此くの如くすれば、則ち建儲の義、正に息兵と相い表裏を為す。」
また韓侂冑に上書したが、侂冑はその言を憎み、御史徐柟を唆してこれを弾劾させ、官等を削られ祠官を罷免された。未だ幾ばくもせず官に復し、江西憲を除され、江東漕に改め、戸部郎を以て淮西総領となった。侂冑が既に誅された後、尚書倪思が邦憲を挙げて自らの代わりとした。召されて対し、上言して曰く、「今日の更化は、紹興乙亥(1155年)と同様に論ずるべからず。秦檜が権を専らにした時は、天下なお緝理すべく、今侂冑が権を専らにした時は、天下は敗壊し尽くした。」尚右郎兼太子侍講を除され、左司を除され、金の賀正使接伴となった。宗正少卿を除され、還って工部侍郎を権め、臨安府知府となった。祠官を乞い、江州知州となり、郡を奏乞し、屯戍兵を節制することを得た。郡に至りて疾に罹り、宝謨閣待制を以て致仕し、官にて卒した。年五十七、諡は「文粛」。
論じて曰く、汪若海・柳約は南渡播遷の時に仕え、その志は君父を尊ばんとす、故にその『麟書』を読んで之を悲しむ。張運・李舜臣は職を挙げ事を修め、遺愛は民に在り。孫逢吉・章穎は正人の非邪を弁じ、正学の非偽を正す、君子なるかな。商飛卿・劉穎・徐邦憲は皆、権臣柄国の日に立ち、卓乎として勢利に移されざるものあり、故に能く然るか。