宋史

列傳第一百六十三 汪若海 張運 柳約 李舜臣 孫逢吉 章穎 商飛卿 劉穎 徐邦憲

列傳第一百六十三 汪若海 張運 柳約 李舜臣 孫逢吉 章穎 商飛卿 劉穎 徐邦憲

汪若海

原文汪若海

汪若海、字は東叟、歙の人。弱冠に至らず、京師に遊学し、太学に入る。靖康元年、金人が侵擾し、朝廷は兵を知る者を求める詔を下す。若海は詔に応じ、三刻に満たずして文章が成り、高等に抜擢される。時に既に河北の地を割譲していた。その年冬、再び京師を犯す。若海は言う、「河北は国家の重地、河北を用いて天下の権を攬るべし、怯懦して自守し、関を閉ざして敵を養い、坐してその弊を受くべからず」。康王が相州に起兵するに属し、枢密曹輔に上書し、王を立てて大元帥とし、兵を擁して河北を鎮撫し、以て金人の後を掎し、則ち京城の囲み自ずから解かんことを請う。輔は大いに喜び、即ちその書を欽宗に進め、参謀として用い、康王の所に遣わさんとす。宰相何㮚は異議を執り、道梗を以て辞とし、果たして遣わさず。

原文汪若海,字東叟,歙人。未弱冠,遊京師,入太學。靖康元年,金人侵擾,朝廷下詔求知兵者,若海應詔,未三刻而文成,擢高等。時已割河北地。其年冬,再犯京師,若海謂:「河北國家重地,當用河北以攬天下之權,不可怯懦以自守,閉關養敵,坐受其敝。」屬康王起兵相州,乃上書樞密曹輔,請立王為大元帥,擁兵鎮撫河北,以掎金人之後,則京城之圍自解。輔大喜,即以其書進欽宗,用為參謀,遣如康王所。宰相何㮚執異議,以道梗為辭,不果遣。

京城失守す。若海は麟を述べて書を作り以て献ず。二帝北行するに及び、袖に書をして粘罕に抗し、趙氏を存せんことを請う。縋りて出で、済州において康王に謁し、神器久しく虚しく、異姓僣窃す、宜しく早く即位し、以て中興を図るべしと言う。一日の間に三たび顧問を受け、修職郎に補し、帳前差使を充てる。高宗即位するや、推恩して承奉郎に改め、江南経制使に遷し、転じて承事郎、登聞検院を監す。五府交わって辟し、右府に属す。

原文京城失守,若海述麟為書以獻。及二帝北行,袖書抗粘罕,請存趙氏。縋而出,謁康王於濟州,謂神器久虛,異姓僭竊,宜蚤即位,以圖中興。一日間三被顧問,補修職郎,充帳前差使。高宗既即位,推恩改承奉郎,遷江南經制使,轉承事郎,監登聞檢院。五府交辟,改屬右府。

朝廷、張浚を以て川・陝を宣撫せんとし、議未だ決せず。若海曰く、「天下は常山の蛇の勢いなり。秦・蜀しょくは首、東南は尾、中原は脊なり。今東南を以て首と為す、安んぞ能く天下の脊を起こさんや。将に恢復を図らんとせば、必ず川・陝に在り」。乃ち往きて浚に見え、終日極談す。浚大いに驚き、自らに随わしめんと辟す。親老を以て辞す。継いて軍食を論じ、執政に迕い、沅州通判と為り、讒により籍を奪われ、英州に謫せらる。道、臨川に出づ。時に江夏軍馬を節制する李允文、衆数十万を擁し、跋扈して朝命を用いず。朝廷、招討使張俊に命じ江西に屯せしむ。参謀官湯東野は若海と故あり、若海が道中に在るを得て、甚だ喜ぶ。謂いて曰く、「李允文は反側を懐く、君に非ざれば能くその自新を開く莫し」。若海即ち馳せ往き、成敗逆順を以て諭し、朝廷の威徳を示し、復た三策を談じて以てこれを動かす。辞旨明暢なり。允文大いに感悟し、即ち軍を挙げて東下す。

原文朝廷以張浚宣撫川、陝,議未決。若海曰:「天下者,常山蛇勢也,秦、蜀為首,東南為尾,中原為脊。今以東南為首,安能起天下之脊哉?將圖恢復,必在川、陝。」乃往見浚,極談終日,浚大驚,辟以自隨,以親老辭。繼論軍食,迕執政,通判沅州,以讒奪籍,謫英州。道出臨川,時節制江夏軍馬李允文擁眾數十萬,跋扈不用朝命,朝廷命招討使張俊屯江西,參謀官湯東野與若海故,得若海道中,喜甚。謂曰:「李允文懷反側,非君莫能開其自新。」若海即馳往,諭以成敗逆順,示以朝廷威德,復談三策以動之,辭旨明暢。允文大感悟,即舉軍東下。

若海復た書を為してその徒張用・曹成・李宏・馬友を招き、同じく朝廷に帰せしむ。用は一見し、その衆二十万を以て甲を解きて順を効す。惟だ成は疑貳して他志あり。若海書を移してこれを責む。成怒り、将に若海を殺さんとす。若海夜に王林の軍帳に宿し、計をもって林の軍印を得、遂にその衆五千人を奪う。翌日、成遂に遁る。若海宏に書を遺し、成を刺して以て自ら帰らしめんとす。宏書を得て成を図るも力勝たず、復た長沙に走りて友を刺す。群盗解散す。若海遂に林の五千人を以て招討使張俊に帰す。俊乃ち師を班して凱旋し、軍容愈よ盛ん。

原文若海復為書招其徒張用、曹成、李宏、馬友同歸朝廷。用一見,以其眾二十萬解甲效順,惟成疑貳有他志,若海移書責之。成怒,將殺若海,若海夜宿王林軍帳,以計得林軍印,遂奪其眾五千人。翼日,成遂遁。若海遺宏書,使刺成以自歸;宏得書圖成而力不勝,復走長沙刺友,群盜解散。若海遂以林五千人歸招討使張俊,俊乃班師凱旋,軍容愈盛。

時に朝廷方に師を出さんとす。若海以爲く、国家の為にする者は、当に盗賊を化して我が用と為すべく、英雄を失いて国患と為すべからず。因って平寇の策を献ず。朝廷悉くこれを用う。その後、李宏は劉忠に併せられ、長沙に死す。劉忠は韓世忠に破られ、劉豫よに走る。曹成は広に走りて復た降る。湖湘遂に安んず。尋いで承務郎・監潭州南岳廟・辰州通判を復す。

原文時朝廷方出師,若海以為為國家者,當化盜賊為我用,不可失英雄為國患。因獻平寇策,朝廷悉用之。其後李宏為劉忠所並,死長沙;劉忠為韓世忠所破,走劉豫;曹成走廣而復降,湖湘遂安。尋復承務郎、監潭州南岳廟、通判辰州。

紹興九年、三京を復す。祗謁して陵寢に詣で、事還る。以前の功により、旬月の間に四遷して承議郎・順昌府通判に至る。金人奄至す。太尉劉錡甫として至るも、衆三万に満たず。人を遣わして朝に援を丐うも、敢えて往く者無し。若海毅然として行きを請い、錡の方略明らかなるを具述し、兵を用いるに善く、偏師を以てこれを済せば、必ず成功有らんことを述ぶ。朝廷これに従う。金兵果たして敗れて去る。淮北宣撫司主管機宜文字に辟す。拓皐の役、復た労により両転して朝散郎・洪州通判に至る。未だ上らず、内艱に丁す。服除け、添差して信州通判と為る。秩満ち、湖北帥司参議に遷る。道州を知る。陛辞して対を得る。上曰く、「久しく卿を見ず、卿向は安くにか在りし」。直秘閣・江州知事を授く。父憂に丁す。時に方に中原を経略せんとし、朝廷議して若海を起さんとす。而して若海死す。

原文紹興九年,復三京,祗謁陵寢,事還,以前功,旬月四遷至承議郎、通判順昌府。金人奄至,太尉劉錡甫至,眾不滿三萬,遣人丐援於朝,無敢往者。若海毅然請行,具述錡明方略,善用兵,以偏師濟之,必有成功,朝廷從之,金兵果敗去。辟淮北宣撫司主管機宜文字。拓皐之役,復以勞兩轉至朝散郎、通判洪州,未上,丁內艱。服除,添差通判信州。秩滿,遷湖北帥司參議。知道州,陛辭得對,上曰:「久不見卿,卿向安在?」授直秘閣、知江州,丁父憂。時方經略中原,朝廷議起若海,而若海死矣。

若海は豁達高亮、深沈として度有り、世俗の章句の学を恥じ、文を為すに紙筆を操りて立ちどころに就き、蹈厲風発す。高宗嘗て片紙に若海の名を書いて張浚に諭して曰く、「似たり此人材、卿宜しく收拾すべし」。会に浚国を去り、果たして召さず。

原文若海豁達高亮,深沈有度,恥為世俗章句學,為文操紙筆立就,蹈厲風發。高宗嘗以片紙書若海名諭張浚曰:「似此人材,卿宜收拾。」會浚去國,不果召。

張運

原文張運

張運、字は南仲、信の貴溪の人、唐の宰相文瓘の後。父貫、右通直郎、累贈して太中大夫。運年二十五、太学生を以て宣和三年の進士第に登り、同上舎出身を賜い、桂陽監藍山県丞に調ず。県令闕く。運県事を摂す。県は諸獠と接壤し、俗に因りて治め、吏民これを安んず。臨武の寇と諸獠合し、大いに剽掠す。運親しく兵を帥いてこれを禽す。潭州攸県尉に遷る。高宗南渡す。劇賊王在、岐山に拠る。潭帥兵を徴して岳を戍らしむ。運二千人を将いて先ず岳に至る。賊平ぐ。臨江新淦丞に改む。県新たに兵を受け、令支うる能わず。沿江撫諭使張匯これを劾罷す。運を以て県事を摂せしむ。運煨燼を撥き、版籍を考へ、租賦を正す。数月の間、弊除きて民定まる。

原文張運,字南仲,信之貴溪人,唐宰相文瓘之後。父貫,右通直郎,累贈太中大夫。運年二十五,以太學生登宣和三年進士第,賜同上舍出身,調桂陽監藍山縣丞。縣闕令,運攝縣事。縣與諸獠接壤,因俗為治,吏民安之。臨武寇與諸獠合,大剽掠,運親帥兵禽之。遷潭州攸縣尉。高宗南渡,劇賊王在據岐山,潭帥徴兵戍岳,運將二千人先至岳。賊平,改臨江新淦丞。縣新被兵,令不能支,沿江撫諭使張匯劾罷之,以運攝縣事。運撥煨燼,考版籍,正租賦,數月之間,弊除而民定。

紹興五年、鼎州通判と為る。賊楊么・黄誠、衆数万を擁し、城邑を残破し、湖北に跳梁す。高宗、張浚を遣わして都督ととくとして師を董し、岳飛を以て招討として兵を挙げてこれを撃たしむ。賊軽鋭を率いて径ちに武溪南興に趨き、以て鼎州に臨む。城中大いに震う。運と太守程昌宇、兵を勒して城に登り、上下を控扼し、以てその勢いを張る。賊宵潰す。澧の賊雷徳進、険に柵して乱を称す。帥檄を運に下してこれを討たしむ。運、都統梁吉等を将いて兵を率いて直ちにその巣を搗き、四十二柵を破り、その衆を降す。

原文紹興五年,通判鼎州。賊楊么、黃誠擁眾數萬,殘破城邑,跳梁湖北。高宗遣張浚以都督董師,岳飛以招討舉兵擊之,賊率輕銳徑趨武溪南興,以臨鼎州,城中大震。運與太守程昌宇勒兵登城,控扼上下,以張其勢,賊宵潰。澧賊雷德進柵險稱亂,帥檄運討之。運將都統梁吉等率兵直搗其巢,破四十二柵,降其眾。

濡須の貳に移る。金人廬・寿等州を犯す。大将兵を駐めて淮壖に在りて以てこれを拒ぐ。運餉を給して嘗て乏絶せず。歳余、親老を以て江東に還り、鄱に寓居す。既にして母及び父の憂に丁す。服除け、起きて桂陽監を知る。五月にして境内治まると称せらる。部使者と奏して監を軍に升む。大いに庠序の教を修め、漢以来守令にして桂陽に功德有る者衛颯・唐羌等七人を学に祠り、『続顔氏家訓』・『四時纂要』等の書を刻し、これを民間に散じ、以てその徳を修め本を務めしむ。召し入れて対せしめ、達州知事を除す。方に大旱す。境に入りて雨す。病民五事を奏除す。

原文移貳濡須。金人犯廬、壽等州,大將駐兵淮壖以拒之,運給餉未嘗乏絕。歲餘,以親老還江東,寓居鄱。既而丁母及父憂,服除,起知桂陽監。五月而境內稱治,與部使者奏升監為軍。大修庠序之教,祠漢以來守令有功德於桂陽者衛颯、唐羌等七人於學,刻《續顏氏家訓》、《四時纂要》等書,散之民間,使之修德而務本。召入對,除知達州。方大旱,入境而雨。奏除病民五事。

度支郎中に召さる。臨安楼店務の銭歳三十余万緡、請うて十万を以て省額に帰せしむ。戸部の儲うる所、三仏斉国の貢ぐる所の乳香九万一千五百斤、直ちに百二十余万緡に可し。請うて分かち送りて江・浙・荊湖の漕司に売らしめ、以て軍餉を糴せしむ。及び諸路の綱運七弊を陳べ、十術を懲革し、遠近遞輸して以て労逸を均しくす。事皆施行さる。枢密院検詳を兼ね、軍器監に遷る。尋いで大理少卿に改む。両浙の塩法を正し、以て私鬻の禁を寛にせんことを請う。紹興永裕・昭慈二陵の官地と民犬牙相い入る。請うて県重価を以て民に券を保持して献納せしめ、以て誤犯の罪を免れしむ。尤も獄を治むるに明らかにし、獄これが為に空し。

原文召為度支郎中。臨安樓店務錢歲三十餘萬緡,請以十萬歸省額。戶部所儲三佛齊國所貢乳香九萬一千五百斤,直可百二十餘萬緡,請分送江、浙、荊湖漕司賣之,以糴軍餉。及陳諸路綱運七弊,懲革十術,遠近遞輸以均勞逸。事皆施行。兼樞密院檢詳,遷軍器監。尋改大理少卿,請正兩浙鹽法,以寬私鬻之禁。紹興永裕、昭慈二陵官地與民犬牙相入,請縣重價聽民持券獻納,以免誤犯之罪。尤明於治獄,獄為之空。

刑部侍郎に任ぜられ、言上した。「赦令が累次下されたにもかかわらず召還されていない追放者どもは、洗い清めるべきである。諸々の条制を申請するものは、多く重複し矛盾しており、煩瑣に過ぎる。編置(辺境への配流)の刑は赦免によっても原状回復せず、蔭(恩蔭)によっても論じられないなどという類は、厳し過ぎる。地方の刑獄が三度も翻異(翻案)された場合は、大理寺に移送するが、刀鋸(刑罰)をしばしば施すのは、遠方の民に示すべき道ではない。」その他不便な事どもについて、皆これに従った。また蓄積を広め、鼓鑄(貨幣鋳造)を興し、屯田を修め、郷兵を作ることを請うた。これも皆聞き入れられた。兼ねて権戸部侍郎を務めた。当時長雨により蚕や麦が損傷し、また辺境からの報せに警報があったため、詔により侍従・台諫に災害を消し外侮を防ぐ策を陳述させた。李運は言った。「天災と人事には、甚だ畏るべきでありながら畏るに足らぬものがある。それは我が政事の修められているか否かによる。甚だ憂うべきでありながら憂うに足らぬものがある。それは我が自ら治めることが善いか否かによる。」また淮河沿いに三大鎮を築いて守るべきであると述べた。

原文拜刑部侍郎,言:「諸斥逐累赦未還者,宜從湔洗。諸申請條製,多重復牴牾,失於太煩。諸編置不以赦原、不以蔭論之類,失於太重。外路刑獄三經翻異,移送大理,刀鋸數施,非所以示遠。」及諸不便,皆從之。又請廣儲蓄,興鼓鑄,修屯田,作鄉兵。亦皆聽納。兼權戶部侍郎。時久雨傷蠶麥,及邊報有警,詔侍從臺諫陳弭災禦侮之策。運言:「天災人事,有甚可畏而不足畏者,視吾政之修不修;有甚可憂而不足憂者,視吾自治之善不善。」及宜邊淮建三大鎮以守之。

金人が盟約を破ると、特に戸部侍郎に昇進し、専ら糧餉の供給を担当した。丞相陳康伯が李宝を四明から派遣して海道を制圧することを議したが、衆論紛紜とした。李運は直ちに入って決断を支持し、これを上策とし、金人は果たして敗走した。そこで上疏して言った。「詔を下して将士を慰撫し、租賦を免除し、信使を派遣し、豪傑を結び、城守を堅固にし、漢中の将士を督して関陝に急行させてその背後を制することを乞う。両淮・襄漢の間に四鎮三帥を置いて内側の固めとし、進取を図るべきである。」御営随軍都転運使として従い、江上で師を労った。車駕が還ると、これに因み入対し、固く外補を請うた。そこで集英殿修撰を授けられ、太平州知州として出向した。兵乱・飢饉・疫病の後にあたり、労徠安輯の方策を尽くし、斥候と攻守の備えを厳しくした。財賦を管理し、戦艦を造り、甲兵を修繕し、禁令を申し立て、民はこれによって安んじた。

原文會金人渝盟,特遷戶部侍郎,以專饋餉。丞相陳康伯議遣李寶自四明控制海道,眾論紛紜,運直入贊決,以為上策,金人果敗走。因上疏:「乞降詔撫將士,蠲租賦,遣信使,結豪傑,堅城守,督漢中將士趨關陝以制其後。置四鎮三帥於兩淮、襄漢之間以為內固,以圖進取。」以御營隨軍都轉運使從上勞師江上。及駕還,因入對,固請補外。乃授集英殿修撰,出知太平州。當兵饑疾癘之餘,殫勞徠安輯之方,嚴斥堠攻守之備。理財賦,造戰艦,繕甲兵,申禁令,民賴以安。

孝宗が禅を受けると、李運もまた老齢を理由に致仕を請い、敷文閣待制として江州太平興国宮の提挙となった。まもなく広東経略に任ぜられたが赴任せず、再び祠祿を与えられた。乾道七年、鄱陽で大飢饉が起こると、李運は真っ先に粟二千石を出してこれを救済し、これより民は競って粟を出して救済に当たった。連続して致仕を求める上章をしたが許されず、病気で卒去した。少師・左光禄大夫を追贈され、子孫三人に官職が与えられた。嘉定六年、開府儀同三司を追贈された。

原文孝宗既受禪,運亦請老,以敷文閣待制提舉江州太平興國宮,尋授廣東經略,不赴,乃復祠祿。乾道七年,鄱大饑,運首發粟二千石以振之,自是民爭出粟以濟。連上章致政,不許,以疾卒。贈少師、左光祿大夫,官其後三人。嘉定六年,贈開府儀同三司。

柳約

原文柳約

柳約、字は元礼、秀州華亭県の人。大観三年の上舎進士となり、学官の試験に合格し、霸は州教授となった。睦州に転任し、入朝して辟雍正となった。博士に昇進し、宣議郎に改め、広親宅宗子博士を充任した。柳約は経学に深く通じ、文章は純粋で精微であり、大いに学者に師事・慕われた。福建塩事を提挙し、召されて対し、内外の学政を論じ、次いで内外の官が堂日に牒を投じて官を求めることを止めて風俗を厚くすることを乞うた。秘書省校書郎を授かり、著作佐郎・徽州司録に進み、通判宿州に改められ、召されて監察御史に任ぜられた。靖康初年、兼ねて権殿中侍御史を務め、三鎮を棄てるべからざることを論じた。尚書工部員外郎に改め、左司員外郎に進んだ。父の喪で官を去り、服喪が終わると、直顕謨閣として御営司参謀官を充任し、太常少卿に昇進した。

原文柳約,字元禮,秀州華亭人。大觀三年上舍進士,試中學官,為霸州教授。徙睦州,入為辟雍正。遷博士,改宣議郎,充廣親宅宗子博士。約深於經學,屬辭粹微,大為學者師慕。提舉福建鹽事,召對,論內外學政,次乞罷內外官到堂日投牒求官,以厚風俗。授秘書省校書郎,進著作佐郎、徽州司錄,改通判宿州,召拜監察御史。靖康初,兼權殿中侍御史,論三鎮不可棄。改尚書工部員外郎,進左司員外郎。父憂去官,服除,以直顯謨閣充御營司參謀官,遷太常少卿。

高宗が平江に行幸しようとした時、柳約は上疏して兵は進むべきであり、退いて敵に臆病を示すべきでないと述べた。そこで直龍図閣として台州知州となったが、赴任せず、厳州に転任し、兼ねて浙西兵馬都監・節制管內軍馬を務めた。当時、金人が大挙侵入し、杜充が衆を擁して北去し、諸郡は震恐し、官守を訪ね奔る者はなかった。柳約は横潰の中にあって孤城を屹然と保ち、全力で防禦した。境内が安堵すると、慨然として上書し、諸郡を糾合して呉会を克復することを請うた。上はその忠を嘉し、右文殿修撰に進め、郡守は元の通りとした。詔して、軍興による費用が法度なく出され、吏が怠慢で恭しくない中、柳約のみが賦輸を謹み、率先して督促したとして、官秩一等を進めた。また詔して言った。「柳約の郡は兵衝に当たりながら、難を辞せず、事を避けず、ますます柵を厳しく列ね、一方を保綏した。朕は甚だこれを嘉する。柳約を以て集英殿修撰を充任せよ。」召し入れて対し、再三にわたり褒め労い、権戸部侍郎に抜擢した。

原文高宗將幸平江,約疏言兵可進,毋退以示怯於敵。乃以直龍圖閣知台州,未赴,徙嚴州,兼浙西兵馬都監、節制管內軍馬。當是時,金人大入,杜充擁眾北去,列郡震恐,莫有奔問官守者。約於橫潰中屹保孤城,悉力捍禦。境內按堵,則慨然上書,請糾合諸郡克復吳會。上嘉其忠,進右文殿修撰,守郡如故。詔以軍興費出無藝,吏慢弗虔,柳約獨謹賦輸,率先程督,進秩一等。又詔:「約郡當兵衝,而能不辭難、不避事,益嚴列柵,保綏一方,朕甚嘉之。其以約充集英殿修撰。」召入對,獎勞再三,擢權戶部侍郎。

柳約はここに至り感激して言うところを尽くし、例外的な宣索(上命による徴発)は全て執奏して進めなかった。呉幵らの罪が正されていないのは、臣節を励ますものではないと論じた。諸大将が兵を率いて入覲し、それぞれ自家の名を掲げるのは、尾大不掉の患いがあるとし、これらは人が敢えて言わないことであった。また言った。「軍興による科需(臨時課税)が百出している。官戸で名田が制を過ぎている者は、編戸と均一に科敷すべきである。諸路の酒銭を増額し、その半分を提刑司に樁管(積み立て)させ、軍費に備えることを請う。」皆これに従った。高麗が貢を修めることを請うた時、使節を派遣して報聘することを議し、上は廷臣を見回して柳約より優れた者はいないとし、試みに戸部侍郎を加えてその任に充て、かつ大用しようとした。当路の者がこれを忌み、言事官に事を誣わせて、提挙太平観に罷免された。七年間在任し、復して秘閣修撰となった。

原文約於是感激盡言,凡例外宣索,皆執奏不進。論吳幵等罪未正,非所以厲臣節;諸大將提兵入覲,各名其家,將有尾大不掉之患,皆人不敢言者。又言:「軍興科需百出,望官戶名田過制者,與編戶均一科敷。請增諸路酒錢,其半令提刑司樁管,以備軍費。」皆從之。會高麗請修貢,議遣使報聘,上顧廷臣無出約右,加試戶部侍郎充其選,且將大用。當路忌之,諷言者誣以事,罷為提舉太平觀。居七年,復秘閣修撰。

金人が侵した疆土を返還すると、起用されて蔡州知州となり、命を受けて赴き、少しも顧み避けるところがなかった。やがて金人が和平を破り、河南に檄を伝えると、守臣は皆城を挙げて降ったが、柳約のみは数輩の使者を武昌に遣わし、返報を得てから帰還した。まもなく、敷文閣待制として祠祿を受けた。十五年後に卒去した。四官を追贈された。

原文金人歸侵疆,起知蔡州,被命而往,一無顧避。既而金人渝平,傳檄河南,守臣皆舉城降,約獨遣使數輩於武昌,得報而後返。未幾,以敷文閣待制食祠祿。十有五年,卒。贈四官。

柳約は天性至孝であり、母が重病となると、泣いて天に祈り、自らの寿命を減らして親の寿命を増やすことを願った。母はまもなく快方に向かい、柳約は結局母より二ヶ月先に卒去した。

原文約天性至孝,母病甚,泣禱於天,願損壽以益親壽。母尋愈,約竟先母兩月卒。

李舜臣

原文李舜臣

李舜臣、字は子思、隆州井研県の人。四歳で読書を知り、八歳で文章を作ることができ、少し成長すると古今に通じ、興廃の跡を推し、根本を洞見し、慨然として天下に志を抱いた。

原文李舜臣,字子思,隆州井研人。生四年知讀書,八歲能屬文,少長通古今,推迹興廢,洞見根本,慨然有志於天下。

紹興末年、張浚が江・淮の師を視察した時、李舜臣は詔に応じて上書し言った。「乗輿が出なければ、大計を定めることができない。武昌に行幸すべきである。」また言った。「江東の六朝はいずれも北方に勝ったことがあるが、機に乗じて天下を争おうとせず、今日の鑑とすべきである。」『江東勝後之鑑』十篇を著してこれを上った。乾道二年の進士に及第した。当時朝廷は既に兵を罷めていたが、宰相となる者はますます天下の望みに厭わなかった。李舜臣の対策文は、金人は世仇であり和議の道理はなく、宰輔大臣は奉行文書を職業とすべきではないと論じた。考官はこれを憎み、下第に落とし、邛州安仁県主簿に調任した。年に大凶作があり、飢民千百人が鉏や棘を持って大呼し、その響きは邑市を震わせ、県令は恐れて門を閉じた。李舜臣は言った。「これは盗賊ではない。何を恐れることがあろうか。」急いで出て慰労し帰らせた。

原文紹興末,張浚視師江、淮,舜臣應詔上書,言:「乘輿不出,無以定大計,宜徙幸武昌。」又謂:「江東六朝皆嘗取勝北方,不肯乘機爭天下,宜為今日監。」著《江東勝後之鑒》十篇上之。中乾道二年進士第。時朝廷既罷兵,而為相者益不厭天下望。舜臣對策,論金人世仇,無可和之義,宰輔大臣不當以奉行文字為職業。考官惡焉,絀下第,調邛州安仁縣主簿。歲大祲,饑民千百持鉏棘大呼,響震邑市,令懼閉門。舜臣曰:「此非盜也,何懼為?」亟出慰勞遣之。

成都府教授となった。当時虞允文が関上で師を撫していたが、幕府に辟召して置き、挙薦者によって宣教郎に改め、饒州徳興県知県となり、専ら風化を重んじた。母と子、兄弟の訴訟が連年決しない民がいたが、慈孝友恭の道を説き、遂に元の通り母子兄弟となった。折に触れて学舎に赴き講説し、邑の士人は皆「蜀先生」と称した。百姓の預貸(前貸し)を廃止し、前任官の積もった未納分三万緡以上を弁償した。民は差役に苦しんでいたので、李舜臣は諸郷を勧め糾合し、税額の高低によって役期の長短を定める義役とした。一年で役が成立し、民は大いに便利となった。銀坑は既に久しく廃止されていたが、小戸はなお銀本銭を敷かされていたので、官がこれを弁償した。天申の大礼の助賞や軍器の需要は、全て民を煩わせなかった。

原文教授成都府。時虞允文撫師關上,辟置幕府,用舉者改宣教郎、知饒州德興縣,專尚風化。民有母子昆弟之訟連年不決,為陳慈孝友恭之道,遂為母子兄弟如初。間詣學講說,邑士皆稱「蜀先生」。罷百姓預貸,償前官積逋逾三萬緡。民病差役,舜臣勸糾諸鄉,以稅數低昂定役期久近為義役。期年役成,民大便利。銀坑罷雖久,小戶猶敷銀本錢,官為償之。天申大禮助賞及軍器所需,皆不以煩民。

幹辦諸司審計司を務め、宗正寺主簿に遷り、『裕陵玉牒』を重修した。曾布・呂惠卿が初めて任用された時は必ず謹んで記し、或いは執政の任免でないから書式に応じずと謂う者もあったが、舜臣は曰く、「治乱に関わること、どうして常法に拘ることができようか」と。他の筆削も皆この類であった。特に『易』に精通し、嘗て曰く、「『易』は画(卦)より起こり、理・事・象・数は皆画によって現れる。画を捨てて論ずるは、『易』に非ざるなり。画は中より起こり、乾坤の中画は誠敬、坎離の中画は誠明なり」と。『本傳』三十三篇を著す。朱熹は晚年、毎度学者にこれを称した。著書に『群經義』八巻、『書小傳』四巻、文集三十巻、『家塾編次論語』五巻、『鏤玉餘功錄』二巻がある。子に心傳・道傳・性傳あり。性傳が二府の官に至ったことにより、太師を贈られ、崇国公を追封された。

原文幹辦諸司審計司,遷宗正寺主簿,重修《裕陵玉牒》。當曾布、呂惠卿初用,必謹書,或謂非執政除免,格不應書。舜臣曰:「治忽所關,何可拘常法。」他所筆削類此。尤邃於《易》,嘗曰:「《易》起於畫,理事象數,皆因畫以見,舍畫而論,非《易》也。畫從中起,乾坤中畫為誠敬,坎離中畫為誠明。」著《本傳》三十三篇。朱熹晚歲,每為學者稱之。所著書《群經義》八卷、《書小傳》四卷、文集三十卷、《家塾編次論語》五卷、《鏤玉餘功錄》二卷。子心傳、道傳、性傳。以性傳官二府,贈太師、追封崇國公。

孫逢吉

原文孫逢吉

孫逢吉、字は従之、吉州龍泉の人である。隆興元年に進士に及第し、郴州司戸に授けられた。乾道七年、太常の黄鈞が丞相の虞允文・梁克家に推薦し、学官に処そうとしたが、逢吉は結局常徳教授に就いて帰った。李燾・劉珙・鄭伯熊・劉焞が相次いでこれを推薦し、萍郷県知県となり、治績最上と聞こえた。諸軍審計司・国子博士に除せられる。司農寺丞兼実録院検討官に遷る。紹熙元年、秘書郎兼皇子嘉王府直講に遷る。

原文孫逢吉,字從之,吉州龍泉人也。隆興元年進士第,授郴州司戶。乾道七年,太常黃鈞薦於丞相虞允文、梁克家,將處以學官,逢吉竟就常德教授以歸。李燾、劉珙、鄭伯熊、劉焞相繼薦之,知萍鄉縣,以治最聞。除諸軍審計司、國子博士。遷司農寺丞兼實錄院檢討官。紹熙元年,遷秘書郎兼皇子嘉王府直講。

二年春二月、雷雪の災害が交作し、直言を求める詔が下り、八事を上疏した:蔽諛を去り、講読に親しみ、論駁を伸べ、気節を崇め、用度を省き、名器を惜しみ、材武を抜き、戎備を飭う。右正言に抜擢され、建言して曰く、「都城の民は安居して移転を憚る。宗戚の営繕が次第に広がり、毎に一第を建てるごとに民家数百を撤去し、怨みを訴える者多い」と。時に親王が楼観の改築を未だ止めず、これを聞き、急ぎ工事を罷めさせた。浙漕の沈詵が逢吉に会い、謝して曰く、「正言でなければ、漕計は殆ど支えられなかったであろう」と。初め、工部侍郎兼知臨安府の潘景珪が貴幸に結びついて進み、司諫の鄧馹が屡々その罪を疏したが、景珪はかえって計略でこれを陥れ、馹を匠監に除した。逢吉曰く、「その官を優遷して言職を罷めるは、後来の者、まさに言を以て戒とすべし」と。両度上疏して馹の新命を収めることを乞うたが、報いられず;併せて景珪が台諫を脅持し、朝綱を蔑視することを弾劾し、景珪は遂に罷免された。諫垣に在ること七十日、上疏二十回、詞旨は切実で、皆人の言い難きことばかりであった。国子司業に改められ、去ることを求め、湖南提刑となる。秘書監として召され、吏部侍郎を兼ねる。俄かに孝宗攅宮按行使となる。

原文二年春二月,雷雪之沴交作,詔求直言,疏八事:去蔽諛、親講讀、伸論駁、崇氣節、省用度、惜名器、拔材武、飭戎備。擢為右正言,建言:「都城之民,安居憚徙。宗戚營繕寖廣,每建一第,撤民居數百,咨怨者多。」時親王方更造樓觀未已,聞之,亟令罷役。浙漕沈詵見逢吉,謝曰:「非正言,漕計殆不可支。」初,工部侍郎兼知臨安府潘景珪結貴幸以進,司諫鄧馹屢疏其罪,景珪反以計傾之,除馹匠監。逢吉曰:「優遷其官而罷言職,後來者且以言為戒。」兩疏乞收馹新命,不報;並劾景珪脅持臺諫,蔑視朝綱,景珪遂罷。在諫垣七十日,章二十上,詞旨剴切,皆人所難言者。改國子司業,求去,為湖南提刑。以秘書監召,兼吏部侍郎。俄為孝宗攢宮按行使。

朱熹が経筵において持論が切直であったため、小人らは共にこれを快とせず、密かに上怒を煽り、中批をもって祠官とされた。劉光祖が逢吉と共に講筵に在った時、吏が請うて曰く、「今日は某侍郎が輪講すべきところ、疾を以て告げ、孫侍郎が次に居ります、代わりを請う」と。逢吉曰く、「常に講ずる所の『論語』、今どうして即ち講義があるだろうか」と。已にして某侍郎の講義の在り処を問い、取って観ると、則ち『詩経・権輿篇』を講じ、康公が賢者と始め有りて終わり無きを刺しており、朱熹を逐う事と相類するので、逢吉は欣然として代わってこれを講じた。因って上前において甚だ苦しく争論した。上曰く、「朱熹の言は多く用いるべからず」と。逢吉曰く、「熹が祧廟を議するは臣と合わず、他の言う所は皆正しく、未だその用いるべからざるを見ず」と。次第に上意を失う。

原文朱熹在經筵持論切直,小人共不便,潛激上怒,中批與祠。劉光祖與逢吉同在講筵,吏請曰:「今日某侍郎輪講,以疾告,孫侍郎居次,請代之。」逢吉曰:「常所講《論語》,今安得即有講義?」已而問某侍郎講義安在,取觀之,則講《詩·權輿篇》,刺康公與賢者有始而無終,與逐朱熹事相類,逢吉欣然代之講。因於上前爭論甚苦。上曰:「朱熹言多不可用用。」逢吉曰:「熹議祧廟與臣不合,他所言皆正,未見其不可用。」寖失上意。

会に彭亀年が韓侂冑の専僭を論じ、郡に補外される。逢吉が入疏して曰く、「道徳崇重にして、陛下の敬礼する者、朱熹に如くは無く、志節端亮にして、陛下の委信する者、彭亀年に如くは無し。熹は既に侂冑を論じて去り、亀年はまた侂冑を論じて絀けられんとす、臣は恐らく賢者皆固き志無からん。陛下の用いる所は皆庸鄙憸薄の徒、何を以て国を立たんとするか」と。侂冑はこれを見て悪んだ。丞相の趙汝愚が既に罷免されると、侂冑が国政を専らにした。一日、従臣が重華宮に扈従し、上が礼を畢え、駕が興ると、扈従者は宮門を出て馬に上ろうとしたが、忽ち侂冑到ると伝呼され、扈従者は却って入り、笏を斂めて甚だ恭しかった。逢吉曰く、「既に出でて復た入り揖す、臣子が君父に事える礼、当に是くの如くすべきか」と。揖せずして去った。

原文會彭龜年論韓侂胄專僭,出補郡。逢吉入疏曰:「道德崇重,陛下所敬禮者無若朱熹,志節端亮,陛下所委信者無若彭龜年。熹既以論侂胄去,龜年復以論侂胄絀,臣恐賢者皆無固志。陛下所用皆庸鄙憸薄之徒,何以立國?」侂胄見而惡之。丞相趙汝愚既罷,侂胄專國。一日從臣扈從重華宮,上行禮畢,駕興,扈從者出宮門上馬,忽傳呼侂胄至,扈從者卻入,斂板甚恭。逢吉曰:「既出復入揖,臣子事君父之禮當如是耶?」不揖而去。

会に部中で会食する時、吏が密かに報じて優人の王喜が閤職に除せられると、逢吉は即ち言う、「上前において朱侍講の進趨を真似、儒を以て戯れとする者、どうして閤職を汚すことを許せようか」と。即ち抗疏して力を争った。同列が密かにこれを侂冑に告げる。時に王喜の任命は実は未だ出されず、遂に誣詆を以て、太平州知州に出される。祠を丐い、江州太平興国宮提挙となる。起用されて贛州知州となるが、既に疾に属し、卒す。諡して「献簡」。弟の逢年・逢辰、皆文学行義有り、時に「孫氏三龍」と称された。

原文會部中會食,吏密報優人王喜除閤職,逢吉即言:「於上前效朱侍講進趨,以儒為戲者,豈可令汙閤職?」即抗疏力爭之。同列密以告侂胄。時王喜之命實未出,遂以誣詆,出知太平州。丐祠,提舉江州太平興國宮。起知贛州,已屬疾,卒,諡「獻簡」。弟逢年、逢辰,皆有文學行義,時稱「孫氏三龍」。

章穎

原文章穎

章穎、字は茂献、臨江軍の人。兼経をもって郷薦に中る。孝宗が嗣服し、詔を下して言を求むると、穎は万言書を附驛して聞かせ、礼部が奏名第一とし、孝宗はその文が陸贄に似ていると称した。道州教授に調され、周敦頤祠を作る。会に宜章の寇が乱を為し、郡僚が相次いで引き去る中、穎独り留まる。寇が平定されると、郡守が功を以て郎に入り、穎に協賛の功有り、大用すべしと奏す。乃ち召対し、太学録に除せられる。礼部正奏第一人で、初任即ち召対される者は穎より始まる。時に枢密都承旨の王抃が言者によって外祠に奉ぜられる。穎はまたその風を以て金使に過求させ、己が調護を任じて功と為さんとしたことを言う。孝宗はその言が太だ訐であると謂い、久しく遷さず。及んで考試官を奏する時、孝宗曰く、「章穎可なり」と。乃ち上なおその讜論を記憶していることを知る。頃にして、太学博士に遷る。丁内艱に遭い、服闋して、添差通判贛州となり、太常博士に除せられる。

原文章穎,字茂獻,臨江軍人。以兼經中鄉薦。孝宗嗣服,下詔求言,穎為萬言書附驛以聞,禮部奏名第一,孝宗稱其文似陸贄。調道州教授,作周敦頤祠。會宜章寇為亂,郡僚相繼引去,穎獨留。寇平,郡守以功入為郎,奏穎有協贊之功,可大用。乃召對,除太學錄。禮部正奏第一人,初任即召對者自穎始。時樞密都承旨王抃以言者奉外祠。穎復言其風金使過求,欲己任調護以為功。孝宗謂其言太訐,久之不遷。及奏考試官,孝宗曰:「章穎可。」乃知上猶記其讜論也。頃之,遷太學博士。丁內艱,服闋,添差通判贛州,除太常博士。

御史中丞の何澹が継母の訃を聞き、不逮事の文を引き、穎が解官と定議したが、澹は未だ去ることを決せず、侍従朝列に下して集議することを乞うた。太学諸生がこれを攻めて曰く、「朝廷は専ら奉常を設け、議礼の出づる所なり。今議礼の出づる所の地に従わず、反って議礼不公を以て、侍従朝列の集議を欲するは、豈に逢迎希合を啓き、苟も留まって進身の計と為さんとするか」と。左司諫に除せられ、時に左相の留正が去り、右相の葛邲が国政を当てる。穎は邲が大事を任すに足らざるを論じ、凡そ二十余疏。従官が議して穎を超除し、言職を去らしめ、両方留まらしめんとす。光宗曰く、「是は好諫官なり、何を以てこれを遷すか」と。邲は始めて出る。穎は屡々上疏して上に重華宮に問安することを請うたが、その稿を悉く焼いた。

原文御史中丞何澹聞繼母訃,引不逮事之文,穎定議解官,澹猶未決去,乞下侍從朝列集議。太學諸生攻之曰:「朝廷專設奉常,議禮之所由出也。今不從議禮所由出之地,反以議禮不公,而欲侍從朝列集議,豈將啟逢迎希合,而為苟留進身之計乎?」除左司諫,時左相留正去,右相葛邲當國,穎論邲不足任大事,凡二十餘疏。從官議欲超除穎,俾去言職,庶可兩留。光宗曰:「是好諫官,何以遷之?」邲始出。穎屢疏請上問安重華宮,悉焚其稿。

寧宗即位し、侍御史兼侍講に除せられ、尋いで権兵部侍郎となる。韓侂冑が権勢を振るうと、穎は経幃に侍す。上曰く、「諫官に趙汝愚に言及する者有り、卿等は何と謂うか」と。同列は謾に可否無く、穎は奏して言う、「天地変遷し、人情危疑し、加うるに敵人の嫚侮有り、国勢未だ安からず、容易に大臣を進退すべからず、願わくは詔を降して汝愚を宣諭し、その去るを聴かざらんことを」と。報いられず。奏して待罪を請い、郡を与えられる;御史が穎の阿党を劾し、罷免される。太学生の周端朝ら六人が闕に伏し、汝愚の誣されるを弁じ、且つ章穎の言は忠より発し、首に斥逐に遭うと謂う。端朝らは皆罪に被り、ここより党論遂に起こる。

原文寧宗即位,除侍御史兼侍講,尋權兵部侍郎。韓侂胄用事,穎侍經幃。上曰:「諫官有言及趙汝愚者,卿等謂何?」同列謾無可否,穎奏言:「天地變遷,人情危疑,加以敵人嫚侮,國勢未安,未可容易進退大臣,願降詔宣諭汝愚,無聽其去。」不報。奏請待罪,與郡;御史劾穎阿黨,罷。太學生周端朝等六人伏闕,辨汝愚被誣,且謂章穎言發於忠,首遭斥逐。端朝等皆被罪,自是黨論遂起矣。

劉穎は家に居ること久しく、起用されて衢州の知事となり、侍御史林行可が弾劾して罷免させた。まもなく贛州の知事となったが、御史王益祥が再び弾劾し、その任命を留保させ、再び祠官となり、順番を待って建寧府の知事となった。韓侂冑が誅殺されると、集英殿修撰に任じられた。累進して刑部侍郎兼侍講となり、延和殿で応対すると、上は嘆息して言われた、「卿は権臣に阻害抑制されて甚だ久しかった。」劉穎は『甲寅龍飛事跡』の誣筆を修訂することを乞うた。吏部侍郎に任じられ、まもなく礼部尚書に昇進し、侍読に昇格した。詔して劉穎に紹熙・慶元の譙令憲『玉牒辨誣』、余端禮・趙彥逾『甲寅龍飛記』及び趙汝愚の当時記した事を以て、考訂し誣りを削ぎ、実に従って上進せしめた。去ることを乞い、祠官となった。嘉定十一年に卒し、年七十八。

原文穎家居久之,起知衢州,侍御史林行可劾罷之。尋知贛州,御史王益祥復劾,寢其命,再祠,需次知建寧府。侂胄誅,除集英殿修撰。累遷刑部侍郎兼侍講,對延和殿,上歎曰:「卿為權臣沮抑甚久。」穎乞修改《甲寅龍飛事跡》誣筆。除吏部侍郎,尋遷禮部尚書,升侍讀。詔穎以紹熙、慶元譙令憲《玉牒辨誣》,余端禮、趙彥逾《甲寅龍飛記》及趙汝愚當時所記事,考訂削誣,從實上之。丐去,奉祠。以嘉定十一年卒,年七十八。

劉穎は操行が端正で、平生の風節は窮達によって移されなかった。仕官は多くは不遇であったが、清議は彼を支持した。党論が起こった時、朱熹は書を送り、おおよそ言った、「世道は反覆し、既に涙を流すに足る。而して事を握る者は怒り猶未だ已まず、未だ知らず終に何れの極みに至るか。然れども宗社に霊有り、公論未だ泯まず、異日必ず是れ責を任ずる者有らん。公に非ずして吾誰をか望まん。」光禄大夫を追贈され、諡は「文肅」。

原文穎操履端直,生平風節不為窮達所移。雖仕多偃蹇,而清議與之。方黨論之興,朱熹遺以書,略曰:「世道反覆,已足流涕;而握其事者怒猶未已,未知終安所至極耶?然宗社有靈,公論未泯,異日必有任是責者,非公吾誰望耶?」贈光祿大夫,諡「文肅」。

商飛卿

原文商飛卿

商飛卿、字は翬仲、台州臨海の人。淳熙初年、太学より進士第に登り、無為軍教授に任じ、累官して工部郎官に至る。時に韓侂冑が国政を握り、気焰が人を灼くが如く、飛卿は到着して後、一度も進んで請謁せず、一月を過ぎて即ち去ることを乞い、福建路常平茶塩事を提挙した。監察御史に抜擢され、言事が侂冑に逆らい、罷められて奉常となった。外任を請い、秘閣修撰を以て荊湖南路転運判官となった。後に司農卿に改め、江東・淮西軍馬銭糧を総領した。金陵には元来帥・漕の治所があり、戎騎の二帥・留鑰・内侍と合わせて六司と号し、宴飲饋遺の費は万を動かす計であった。飛卿は身を以て倹約を率い、浮費苛斂を節減し、糧餉を時に斂散し、次第に裕福と聞こえた。開禧年中、就いて戸部侍郎に抜擢された。侂冑が師を挙げんとする時、嘗て餉計の豊約を問うと、飛卿は実情を告げた。調遣が浩繁となり、支えきれず、旨有って飛卿に軍前に伝宣撫労せしめんとするに属し、金兵の大至するに値し、幾ばくも免れず、憂いにより卒した。

原文商飛卿,字翬仲,台州臨海人。淳熙初,由太學登進士第,任無為軍教授,累官至工部郎官。時韓侂胄柄國,氣焰薰灼,飛卿既至,未嘗輒一造請,踰月即丐去,提舉福建路常平茶鹽事。擢監察御史,以言事迕侂胄,罷為奉常。請外,以秘閣修撰為荊湖南路轉運判官。後改司農卿,總領江東、淮西軍馬錢糧。金陵故有帥、漕治所,合戎騎二帥、留鑰、內侍,號六司,宴飲饋遺,費動萬計。飛卿以身率儉,節縮浮苛,糧餉時斂散,稍稍以裕聞。開禧中,就擢戶部侍郎。侂胄將舉師,嘗問餉計豐約,飛卿以實告。比調遣浩繁,不克支,屬有旨俾飛卿軍前傳宣撫勞,值金兵大至,幾不免,以憂卒。

劉穎

原文劉穎

劉穎、字は公實、衢州西安の人。紹興二十七年進士、溧陽主簿に調ず。時に張浚が建康留守となり、金師初めて退き、府は未納の民租を徴索した。穎は浚に言う、「師旅の後は、宜しく先ず撫摩すべし、当に逋賦を尽く蠲免すべし。」浚は喜び、即ち奏して閣免し、これにより彼を知り、其の子栻を遣わして交遊せしめた。全州教授となり、改官して鉛山県知事、外艱により去る。再び常熟県知事、潭州簽判となる。王佐が帥となり、其の才能を恃み、盛気を以て僚吏に臨む。穎は中道を以て約し、多く屈して改める。陳峒の反するに及び、擒えた賊多くは穎の計策による。帥は其の功を上奏し、「簽判は宜しく臣の上に居るべし。」と言う。召されて進奏院を監し、進んで太常寺主簿、丞に遷り、兵部郎官を兼ねる。

原文劉穎,字公實,衢州西安人。紹興二十七年進士,調溧陽主簿。時張浚留守建康,金師初退,府索民租未入者,穎白浚言:「師旅之後,宜先撫摩,當盡蠲逋賦。」浚喜,即奏閣免,由是知之,遣其子栻與遊。教授全州,改官知鉛山縣,以外艱去。再知常熟縣,簽判潭州。王佐為帥,負其能,盛氣以臨僚吏,穎約以中道,多屈而改為。及陳峒反,所擒賊多穎計策,帥上其功,曰:「簽判宜居臣上。」召監進奏院,進太常寺主簿,遷丞,兼兵部郎官。

浙西常平茶塩を提挙し、澱山湖に還り、以て呉松江の水を泄らし、民の侵築を禁じ、大流を逼塞せしめざらしむ。民田これに頼る。就いて提刑に遷り、洗冤沢物を任とし、間もなく獄に詣り、繫ぐべからざる者を察して縦遣す。御史が介僻を以て弾劾し罷免。江西運判に任ず。江州徳化県の田は逃徙すること大半、守は税の蠲免を乞うも、報ぜず。穎は現種の税を荒萊に均し、耕さんことを願う民には第にこれを減じ、上供は自ら若くして、逃田尽く復す。

原文提舉浙西常平茶鹽,還澱山湖,以泄吳松江一水,禁民侵築,毋使逼塞大流,民田賴之。就遷提刑,以洗冤澤物為任,間詣獄,察不應繫者縱遣之。御史以介僻劾罷。除江西運判。江州德化縣田逃徙太半,守乞蠲稅,不報。穎以見種之稅均於荒萊,民願耕者第減之,上供自若,而逃田盡復。

直秘閣・淮東転運副使に任ず。初め、水害により楚州城が敗れ、修補未だ竟わず、劉超は移築せんと欲す。穎は金国使の接伴に因り、入対して言う、「国家何ぞ苦しんで百万緡を捐てて軍帥の幸賞の地となさんや。」光宗これに従う。戸部郎中・淮東総領に任ず。務場は額鈔を以て賞に抵当し、陰に餉計を耗す。二十年この弊を知る者無し。穎は究覈してこれを得、売った数に論じて賞し、総餉は羨余を増す。司農少卿・淮西総領に遷る。前の主計者は自ら都醸を為さんことを請い、浄息を抱えて利の贏余を図る。その後稍々虧え、反って大軍の銭を以てこれを佐け、江・淮に邀糴し、回易は負販の状の如し。穎は王人の体を失うと以為い、遂にこれを罷む。内府の宣限既に迫り、毎に供軍の銭を移して歳輸に応ず。穎は吏弊を蒐し、冗員を汰し、月綱を分けて解送し、自ら是より復た那移せず。

原文除直秘閣、淮東轉運副使。初,水敗楚州城,修補未竟,劉超欲移築,穎因接伴金國使,入對言:「國家何苦捐百萬緡為軍帥幸賞地邪?」光宗從之。除戶部郎中、淮東總領。務場以額鈔抵賞,陰耗餉計,二十年無知此弊者,穎究覈得之,以所賣數論賞而總餉增羨,遷司農少卿、淮西總領。前主計者請自為都釀,抱淨息而利贏餘,其後稍虧,反以大軍錢佐之,邀糴江、淮,回易如負販狀。穎以為失王人之體,遂罷之。內府宣限既迫,每移供軍錢以應歲輸。穎蒐吏弊,汰冗員,分月綱解,自是不復那移。

まもなく直宝謨閣・江東運副・平江府知事に任ぜられるも、皆未だ行かず。宗正少卿に任じ、起居郎兼実録院検討官に遷り、権戸部侍郎、同修撰に昇る。疾を以て祠を乞い、興国宮を提挙す。集英殿修撰・寧国府知事に任じ、改めて紹興府知事となる。未だ幾ばくもせず、平江府知事となり、径ちに帰り、興国宮を提挙す。起用されて泉州知事、華文閣待制に昇り、興国祠を請いて帰る。興国祠満ち、敷文閣待制致仕に任ず。嘉定改元、行在に召し赴く、致仕を落とし、刑部侍郎に任ずるも辞し、進んで龍図閣待制・婺州知事となる。老を請い、宝謨閣直学士致仕となる。六年、家に卒す、年七十八。光禄大夫を追贈される。

原文尋除直寶謨閣、江東運副、知平江府,皆未行。除宗正少卿,遷起居郎兼實錄院檢討官,權戶部侍郎,升同修撰。以疾丐祠,提舉興國宮。除集英殿修撰、知寧國府,改知紹興府。未幾,知平江府,徑歸,提舉興國宮。起知泉州,升華文閣待制,請興國祠以歸。興國祠滿,除敷文閣待制致仕。嘉定改元,召赴行在,落致仕,除刑部侍郎,辭,進龍圖閣待制、知婺州。請老,以寶謨閣直學士致仕。六年,卒於家,年七十八。贈光祿大夫。

孝宗朝に在り、人臣争いて意を承けて自ら献ず。穎上奏す、「今日の失は軽く人言を聴くに在り。昔の施為を、今復た棄置す。大いに盛徳を損ず。」孝宗嘉納す。光宗の時、人主の克ち難くして流れ易きもの四つを論ず。曰く、逸豫に節無く、賜予に度無く、儒臣は疏んじ易く、近幸は昵し易し。寧宗の時、学禁初めて起こり、党論日に興る。穎上奏す、「願わくは陛下、道を以てこれを御し、徳を以てこれを容れ給え。然らずんば、元祐・崇・観の事鑑とすべし。」其の言皆時に切中す。

原文在孝宗朝,人臣爭承意自獻。穎奏:「今日之失在輕聽人言,昔之施為,今復棄置,大損盛德。」孝宗嘉納之。光宗時,論人主難克而易流者四,曰:逸豫無節、賜予無度、儒臣易疏、近幸易昵。寧宗時,學禁初起,黨論日興。穎奏:「願陛下御之以道,容之以德,不然,元祐、崇、觀之事可鑒也。」其言皆切中於時。

浙西より外任を請いてより、凡そ麾節を徙ること十余年、淹速を以て玄訊する者有り。穎笑って曰く、「吾が欲する所なり。」其の従班に在る日、韓侂冑は旧より周旋して間無く、方に居中して事を用いんとするに、穎はこれを謝絶す。常に言う、「士は身を辱めざるを重しと為す。」其の少宗正たる時、丞相趙汝愚恰も帰り、廃寺に相遇う。泥雨足を伸ばす能わず、但だ僧床に立ちて語りて曰く、「余参政に寄謝せよ。某去るも猶人才は朝遷に在り、幸いに善くこれを持せよ。」穎曰く、「相公の人才即ち参政の人才なり。使し果たして賢ならば、参政の責にして、宰相の憂いならず。」余参政とは端禮なり。余相を継ぎ、善類を全佑すること多く、穎の助けと云う。

原文自浙西請外,凡徙麾節十餘年,有以淹速玄訊之,穎笑曰:「吾所欲也。」其在從班日,韓侂胄舊與周旋無間,方居中用事,而穎謝絕之。常言:「士以不辱身為重。」其為少宗正,而丞相趙汝愚適歸,相遇於廢寺,泥雨不能伸足,但僧床立語曰:「寄謝余參政,某雖去而人才猶在朝遷,幸善待之。」穎曰:「相公人才即參政人才也,使果賢,參政之責,非宰相之憂也。」余參政,端禮也。余繼相,卒於善類多所全佑,穎之助云。

徐邦憲

原文徐邦憲

徐邦憲、字は文子、婺州義烏の人。幼くして穎悟、陳傅良に従い名物義理を究め、以て史伝百家の書を通ず。紹熙四年、礼部を試み、第一人で進士第に登る。三遷して秘書郎となる。

原文徐邦憲,字文子,婺州義烏人。幼穎悟,從陳傅良究名物義理,以通史傳百家之書。紹熙四年,試禮部,第一人登進士第。三遷為秘書郎。

韓侂冑が兵端を開くや、同悪附和し、敢えて先ず一語を発して其の非を議する者無し。邦憲独り先ずこれを言う。外任を乞い、処州知事となる。陛辞に当たり、力諫して用兵は太だ驟るべからずとす。再び歳を経て召還され、言う、「名義を求めて兵を息ますは、建儲に因りて赦を肆るに若くは莫し。殊常の恩を借り、弭兵の名と為し、赦宥を行い、大いに徳沢を霈くす。東は宣諭に委ね、西は宣撫に委ね、弄兵の咎を洗い、戍辺の師を省く。倉粟を発して餓殍を賑し、農時に及びて民業を復す。此くの如くすれば、則ち建儲の義、正に息兵と相い表裏を為す。」

原文韓侂胄開兵端,同惡附和,無敢先發一語議其非者,邦憲獨首言之。丐外,知處州,陛辭,力諫用兵不可太驟。再歲召還,言:「求名義以息兵,莫若因建儲而肆赦,借殊常之恩,為弭兵之名,因行赦宥,大霈德澤。東委宣諭,西委宣撫,洗弄兵之咎,省戍邊之師;發倉粟以賑餓殍,及農時而復民業。如此則建儲之義,正與息兵相為表裏也。」

また韓侂冑に上書したが、侂冑はその言を憎み、御史徐柟を唆してこれを弾劾させ、官等を削られ祠官を罷免された。未だ幾ばくもせず官に復し、江西憲を除され、江東漕に改め、戸部郎を以て淮西総領となった。侂冑が既に誅された後、尚書倪思が邦憲を挙げて自らの代わりとした。召されて対し、上言して曰く、「今日の更化は、紹興乙亥(1155年)と同様に論ずるべからず。秦檜が権を専らにした時は、天下なお緝理すべく、今侂冑が権を専らにした時は、天下は敗壊し尽くした。」尚右郎兼太子侍講を除され、左司を除され、金の賀正使接伴となった。宗正少卿を除され、還って工部侍郎を権め、臨安府知府となった。祠官を乞い、江州知州となり、郡を奏乞し、屯戍兵を節制することを得た。郡に至りて疾に罹り、宝謨閣待制を以て致仕し、官にて卒した。年五十七、諡は「文粛」。

原文又上侂胄書,侂胄惡其言,嗾御史徐柟擊之,鐫秩罷祠。未幾復官,除江西憲,改江東漕,以戶部郎為淮西總領。侂胄已誅,尚書倪思舉邦憲自代。召對,上言:「今日更化,未可與紹興乙亥同論。秦檜專權,天下猶可以緝理,今侂胄專權,天下敗壞盡矣。」除尚右郎兼太子侍講,除左司,為金賀正使接伴。除宗正少卿,回權工部侍郎、知臨安府。丐祠,知江州,奏乞郡,得節制屯戍兵,至郡疾,以寶謨閣待制致仕,卒於官,年五十七,諡「文肅」。

論じて曰く、汪若海・柳約は南渡播遷の時に仕え、その志は君父を尊ばんとす、故にその『麟書』を読んで之を悲しむ。張運・李舜臣は職を挙げ事を修め、遺愛は民に在り。孫逢吉・章穎は正人の非邪を弁じ、正学の非偽を正す、君子なるかな。商飛卿・劉穎・徐邦憲は皆、権臣柄国の日に立ち、卓乎として勢利に移されざるものあり、故に能く然るか。

原文論曰:汪若海、柳約仕於南渡播遷之時,其志將以尊君父,故讀其《麟書》而悲之。張運、李舜臣職舉事修,遺愛在民。孫逢吉、章穎辨正人之非邪,正學之非偽,君子哉!商飛卿、劉穎、徐邦憲皆有立於權臣柄國之日,卓乎不為勢利所移,故能爾耶!