宋史

列傳第一百六十二 趙方 賈渉 扈再興 孟宗政 張威

列傳第一百六十二 趙方 賈渉 扈再興 孟宗政 張威

趙方

原文趙方

趙方は、字を彦直といい、衡山の人である。父の棠は、若くして胡宏に学び、慷慨として大志を抱いた。かつて督府において張浚に謁見し、浚はその才能を深く敬い、右選の官に任じようとしたが、棠は屈しなかった。たびたび策を以て兵事を論じ、浚はこれを奇とし、子の栻に命じて棠と交わらせた。方(趙方)はここに従って栻に学んだ。

原文趙方,字彥直,衡山人。父棠,少從胡宏學,慷慨有大志。嘗見張浚於督府,浚雅敬其才,欲以右選官之,棠不為屈。累以策言兵事,浚奇之,命子栻與棠交,方遂從栻學。

淳熙八年に進士に挙げられ、蒲圻尉に調任され、疑わしい獄事を多く委ねられて裁決した。大寧監教授に任じられ、その風俗は甚だ鄙陋であったが、方(趙方)は教えうる者を選び自ら訓導し、人々は皆感奮し、ここに初めて進士が輩出するようになった。青陽県知事となり、その上司の史弥遠に告げて言うには、「租税の取り立てが民を乱さぬこと、これこそ取り立ての中にある撫民であり、刑罰に誤りがないこと、これこそ刑罰の中にある教化である」と。人はこれを名言とした。

原文淳熙八年舉進士,調蒲圻尉,疑獄多所委決。授大寧監教授,俗陋甚,方擇可教者親訓誘之,人皆感勵,自是始有進士。知青陽縣,告其守史彌遠曰:「催科不擾,是催科中撫字;刑罰無差,是刑罰中教化。」人以為名言。

江西安撫司機宜文字を主管し、京湖の帥(長官)李大性が随州知事として召し出した。南北(宋と金)が初めて和議を講じた頃、旱魃と蝗害が相次ぎ、方(趙方)は自ら四郊を巡って祈願し、一晩で大雨が降り、蝗は尽く死に、その年は大豊作となった。ちょうど和議が成立し、諸郡は次第に守備を緩めていたが、方(趙方)のみは兵を募り将を選び、土豪の孟宗政らを抜擢して官に補した。京西常平を提挙し、転運判官・提点刑獄を兼ねた。時に劉光祖が老徳を以て帥となると、方(趙方)は師礼を以てこれに仕え、自ら言うには、「我が性はあまりに剛直である。劉公に会うたびに、人をして更に和やかで緩やかにさせる」と。かつて光祖に「勤謹和緩」の四字を書いてもらい、座席の隅に掲げて戒めとした。金部員外郎として召され、まもなく直秘閣を加えられ、湖北転運判官兼鄂州知事に改められた。直煥章閣に昇進し江陵府を権知し、三海八匱を増築して形勢を壮麗にした。秘閣修撰に進み、江陵府知事・湖北安撫司事主管兼荊湖置司権知となった。

原文主管江西安撫司機宜文字,京湖帥李大性辟知隨州。南北初講和,旱蝗相仍,方親走四郊以禱,一夕大雨,蝗盡死,歲大熟。適和議成,諸郡寖弛備,方獨招兵擇將,拔土豪孟宗政等補以官。提舉京西常平兼轉運判官、提點刑獄。時劉光祖以耆德為帥,方事以師禮,自言:「吾性太剛,每見劉公,使人更和緩。」嘗請光祖書 「勤謹和緩」四字,揭坐隅以為戒。以金部員外郎召,尋加直秘閣,改湖北轉運判官兼知鄂州。升直煥章閣兼權江陵府,增修三海八匱,以壯形勢。進秘閣修撰、知江陵府、主管湖北安撫司事兼權荊湖置司。

時に金は兵に迫られ、必ずや南遷するであろうと計算し、日夜備えを固めた。荊門には東西両山の険要があり、方(趙方)はその上に堡塁を築き、守備兵を増やしてその要衝を扼した。右文殿修撰に進んだ。金の樊快明が宋に帰順しようと謀り、追兵が襄陽に至ると、方(趙方)は孟宗政・扈再興に百騎を率いさせてこれを邀撃させ、千余人を殺し、金人は遁走した。工部侍郎・宝謨閣待制・京湖制置使兼襄陽府知事を権任した。諜報により金人が決意して国境を侵犯すると知り、夏の防備に関する命令を下した。金の宰相高琪およびその枢密烏古倫慶寿が陳・光化・随・棗陽・信陽・均州を侵犯した。方(趙方)は夜半にその子の范・葵を呼んで言うには、「朝廷の和戦の議論は未だ定まらず、これを見ればますます人心を乱す。我が策は決した。ただ兵を率いて辺境に臨み決戦して国に報いるのみである」と。ここに抗疏して主戦を唱え、自ら襄陽に赴いた。

原文時金偪於兵,計其必南徙,日夜為備。荊門有東西兩山險要,方築堡其上,增戍兵以遏其衝。進右文殿修撰。金樊快明謀歸宋,追兵至襄陽,方遣孟宗政、扈再興以百騎邀之,殺千餘人,金人遁去。權工部侍郎、寶謨閣待制、京湖制置使兼知襄陽府。諜知金人決意犯境,乃下防夏之令。金相高琪及其樞密烏古倫慶壽犯陳、光化、隨、棗理、信陽、均州,方夜半呼其子范、葵曰:「朝廷和戰之說未定,觀此益亂人意,吾策決矣,惟有提兵臨邊決戰以報國耳。」遂抗疏主戰,親往襄陽。

金人が棗陽を急囲した。方(趙方)は宗政・再興らを派遣して棗陽を救援させ、なお光化・信陽・均州の守備を増強して、声勢を連絡させた。やがて棗陽守の趙観が城外で金人を破り、再興・宗政が到着し、観と挟撃してまたこれを破り、棗陽の包囲は解けた。方(趙方)は諸将に厳命し、国境線上で食い止めるべきであり、敵を侵入させてから城下で防ぐようなことがあってはならないとした。時に麦はちょうど実り、方(趙方)は兵を派遣して民の刈り入れを護衛させ、野を清らかにして敵を待つよう命じた。再び上疏して和議を不可とする七つの理由を力説し、戦う方針はここに定まった。

原文金人圍棗陽急,方遣宗政、再興等援棗陽,仍增戍光化、信陽、均州,以聯聲勢。已而棗陽守趙觀敗金人於城外,再興、宗政至,與觀夾擊,又敗之,棗陽圍解。方申飭諸將,當遏於境上,不可使之入而後拒之於城下。時麥正熟,方遣兵護民刈之,令清野以俟。再疏力陳不可和者七,戰議遂定。

金将の完顔賽不が侵入し、兵数は十万と号した。方(趙方)は諸将を配置し、棗陽を侵犯する金人は、宗政が尚家川でこれを破り、随州を侵犯する金人は、劉世興が磨子平でこれを破った。相持すること一年余り、方(趙方)は世興を移師させ、許国・再興とともに棗陽を救援させ、張興・李雄韜を随州救援に派遣した。随州の包囲が解け、再興らは転戦して棗陽に入った。時に宗政は城を守り、城東に伏兵を置き、金人は伏兵に遭遇して敗走した。間もなく再び来襲したが、再興がまたこれを破り、これより後は一日として戦わない日はなかった。金人が三面から攻撃してくると、宗政は東門から、再興は南門から、世興は北門から出撃し、大いに合戦してこれを破った。金人は朝に進み夕に退き、力及ばず防ぎきれず、諸将は内外相謀り、許国は南山から進み、張威は瀼河から進み、世興・李琪は城を出て許国と合流し、再興は城を出て張威と合流し、犄角の勢いで追撃し、金人はついに潰走した。光化守の潘景伯もまた趙家橋で伏兵を設けて金人を破り、孟宗徳もまた随州鴨児山でこれを破り、賽不の妻の弟である王醜漢を生け捕りにした。金人はここに賽不を誅殺した。方(趙方)は功により龍図閣待制に遷り、長沙県男に封ぜられ、食邑を賜った。

原文金將完顏賽不入境,兵號十萬。方部分諸將,金人犯棗陽者,宗政敗之於尚家川;犯隨州者,劉世興敗之於磨子平。相持逾年,方調世興移師,與許國、再興援棗陽;張興、李雄韜援隨州。隨州圍解,再興等轉戰入棗陽。時宗政守城,伏兵城東,金人遇伏敗走。未幾再至,再興又敗之,自是無日不戰。金人三面來攻,宗政出東門,再興出南門,世興出北門,大合戰敗之。金人朝進莫退,力不能捍;諸將表裏合謀,國自南山進,張威自瀼河進,世興、李琪出城與國會,再興出城與威會,掎角追擊,金人遂潰。光化守潘景伯亦設伏敗金人於趙家橋,孟宗德又破之於隨州鴨兒山,擒賽不妻弟王醜漢,金人遂誅賽不。方以功遷龍圖閣待制,封長沙縣男,賜食邑。

金人が再び大挙して来襲し、訛可に命じて棗陽を包囲させ、その外側に壕を掘り、土城を巡らせた。方(趙方)は、彼らが巣穴を空にして来たと計算し、もしその虚を衝けば、棗陽の包囲は自ずと解けるであろうと考えた。ここに許国に命じて東の唐州に向かわせ、再興に西の鄧州に向かわせ、また子の范に監軍を命じ、葵を後詰めとした。時に宗政は城中にあって日夜激戦し、敵の攻城兵器を焼き払い、金人は城に近づくことができなかった。西の軍は光化の境内から出撃し、三尖山に砦を築き、順陽県を陥落させた。金人が衆を率いて仰ぎ攻めたが大敗した。再興と許国は両道並行して進撃し、唐・鄧の境を掠め、その城柵と糧食貯蔵を焼き払った。棗陽城は堅固で、金兵は八十余日も頓兵した。方(趙方)はその気力が既に尽きたと知り、ここに許国・再興を召還し、併せて東の軍を再興の麾下に属させ、期日を定めて合戦させた。再興は瀼河で金人を破り、また城南でこれを破り、宗政が城中から出撃して挟撃し、その衆三万を殺した。金人は大いに潰走し、訛可は単騎で遁走し、その物資・糧食・武器・甲冑を獲ること数え切れなかった。方(趙方)は煥章閣直学士に進んだ。官軍と民兵の俸給を均しくすることを奏請し、自ら馬を備える者は倍給とした。また奏上して言うには、「民兵を夏に帰郷させて月給を節減し、秋に再び屯所に赴かせて守備に当たらせるべきである」と。これに従った。

原文金人復大舉,命訛可圍棗陽,塹其外,繞以土城。方計其空巢穴而來,若搗其虛,則棗陽之圍自解。乃命國東向唐州,再興西向鄧州,又命子范監軍,葵後殿。時宗政在城中,日夜鏖戰,焚其攻具,金人不敢近城。西師由光化境出,砦於三尖山,拔順陽縣,金人率眾仰攻,大敗。再興與國兩道並進,掠唐、鄧境,焚其城柵糧儲。棗陽城堅,金頓兵八十餘日,方知其氣已竭,乃召國、再興還,併東師隸於再興,尅期合戰。再興敗金人於瀼河,又敗之城南,宗政自城中出夾擊,殺其眾三萬,金人大潰,訛可單騎遁,獲其貲糧、器甲不可勝計。進方煥章閣直學士。奏乞均官軍民兵廩給,自備馬者倍之。又奏:「使民兵夏歸,以省月給,秋復詣屯守禦。」從之。

方(趙方)は、金人が数度にわたり棗陽で志を得られなければ、必ずや同時に諸城を攻撃するであろうと見込み、先手を打ってこれを制すべきであると考えた。許国・宗政に命じて唐州に向かって出師させ、再興に鄧州に向かわせ、戒めて言うには、「深く入るなかれ、城を攻めるなかれ、ただその保甲を潰し、その城砦を焼き払い、その物資・糧食を空しくするのみである」と。宗政は進撃して湖陽県を陥落させ、その千戸趙興児を生け捕りにした。許国は部将の耶律均を派遣し、金人と北陽で戦い、その将李提控を殺戮した。再興は高頭城を陥落させ、金兵を大いに破り、ついに鄧州に迫った。唐州の兵が来援したが、迎え撃ってこれを破り、降伏する者が続々と至った。やがて金兵が樊城に至ると、方(趙方)は再興に命じて陣を布いてこれを待たせ、自らその軍を視察した。金人は三日間動くことができず、ついに遁走した。

原文方料金人數不得志於棗陽,必將同時並攻諸城,當先發以制之。命國、宗政出師向唐,再興向鄧,戒之曰:「毋深入,毋攻城,第潰其保甲,燬其城砦,空其貲糧而已。」宗政進破湖陽縣,擒其千戶趙興兒;國遣部將耶律均與金人戰於北陽,戮其將李提控;再興破高頭城,大敗金兵,遂薄鄧州。唐州兵來援,迎敗之,降者踵至。已而金兵至樊城,方命再興陣以待之,方視其師;金人三日不敢動,遂遁。

金将の駙馬阿海が淮西を侵犯し、枢密完顔小驢が唐州に屯して後詰めとなった。方(趙方)は先んじて唐州を攻撃してその謀略を挫き、また再興に命じて棗陽の兵を発してその西を撃たせ、許国に桐栢の兵を発してその東を撃たせた。再興は唐城で金人を破り、小驢を斬り、その城を五重に包囲して陥落寸前とした。ちょうど蘄州・黄州が相次いで陥落し、詔が下って方(趙方)に救援派遣を促した。方(趙方)は急ぎ許国に命じて鄂州を守らせ、再興に淮西を救援させた。許国は鄂州に戻って江を守り、再興の軍は蘄州の霊山に至り、金人の帰還を待ち伏せてこれを撃った。土豪の祝文蔚が横から陣に突入し、金人は大敗した。許国が張宝に兵を率いさせて来援し、李全らの兵もまた到着し、金人はついに潰走した。再興は六十里にわたって追撃し、その監軍合答を生け捕りにした。方(趙方)は顕謨閣直学士・太中大夫・権刑部尚書に進んだ。

原文金將駙馬阿海犯淮西,樞密完顏小驢屯唐州為後繼。方先攻唐伐其謀,及使再興發棗陽兵擊其西,國發桐栢兵擊其東。再興敗金人於唐城,斬小驢,圍其城五匝,垂下。會蘄、黃繼陷,詔趣方遣救,方亟命國保鄂,再興援淮西。國還鄂州保江;再興軍至蘄之靈山,伺金人歸而擊之,土豪祝文蔚橫突入陣,金人大敗,國遣張寶將兵來會,李全等兵亦至,金人遂潰,再興追逐六十里,擒其監軍合答。進方顯謨閣直學士、太中大夫、權刑部尚書。

まもなく病を得た。徽猷閣学士・京湖制置大使に進んだ。帰還し、病躯を押して軍を犒労し、その功績を順位づけて上奏した。病が重篤になると、言うには、「死なぬ一日は、一日の紀綱を立てねばならぬ」と。再興を寝室に引き入れ、心を合わせて国に報いるよう励ました。宰相に書を送り、国境の大計について論じた。まもなく卒去した。この夜、大きな星が襄陽に落ちた。端明殿学士・正議大夫の官で致仕し、銀青光禄大夫を追贈され、累贈して太師となり、諡は「忠肅」とされた。

原文俄得疾,進徽猷閣學士、京湖制置大使。歸還,力疾犒師,第其功上之。病革,曰:「未死一日,當立一日紀綱。」引再興臥內,勉以協心報國。貽書宰相,論疆場大計。尋卒。是夕有大星隕於襄陽。以端明殿學士、正議大夫致仕,贈銀青光祿大夫,累贈太師,諡「忠肅」。

趙方は儒生より起ち、辺境を十年にわたり帥し、戦を以て守りと為し、官・兵・民を一体に合せ、制置司と総領所を通じて一家と為す。軍を厳しく持し、毎に諸将に酒を飲むも酔う勿からしめ、日々戦う可きを以てせしむ。淮・蜀しょくの沿辺は屡々金人の禍に遭えども、京西一境は独り全きを保つ。嘗て劉清之に相業を問うに、清之は人材に留意するを以て対ふ。故に知名の士たる陳晐・游九功の輩は皆抜擢して大吏と為し、諸名将多く其の麾下に在り。若し扈再興・孟宗政の如きは皆土豪より起り、誠を推して擢任し、其の死力を致し、一方を藩屏と為し、朝廷に北顧の憂い無からしむ。故に其の没するや、人皆之を惜しむ。子に董・薿・范・葵有り。范・葵に伝有り。

原文方起自儒生,帥邊十年,以戰為守,合官民兵為一體,通制總司為一家。持軍嚴,每令諸將飲酒勿醉,當使日日可戰。淮、蜀沿邊屢遭金人之禍,而京西一境獨全。嘗問相業於劉清之,清之以留意人才對。故知名士如陳晐、游九功輩皆拔為大吏,諸名將多在其麾下。若扈再興、孟宗政皆起自土豪,推誠擢任,致其死力,藩屏一方,使朝廷無北顧之憂。故其沒也,人皆惜之。子:董、薿、范、葵。范、葵有傳。

賈涉

原文賈涉

賈涉、字は濟川、天台の人。幼より古書を読むを好み、慷慨として大志有り。父の任により高郵尉に補せられ、万安丞に改む。宝応県令を選ぶに当たり、堂差にて賈涉を邑に至らしめ、城を請うて之を築く。役事興り、憂に因り去る。金人光州を犯すや、賈涉を起して前の役を竟わしむ。真州通判に転じ、大理司直・盱眙軍知事に改む。

原文賈涉,字濟川,天台人。幼好讀古書,慷慨有大志。以父任高郵尉,改萬安丞。寶應擇令,堂差涉至邑,請城之。役興,以憂去。金人犯光州,起涉竟前役。通判真州,改大理司直、知盱眙軍。

淮人の季先・沈鐸、楚州守の応純之を説きて山東人を招かしむ。純之、鐸をして周用和を遣わし楊友・劉全・李全等を説かしめ、其の衆を以て至らしむ。先ず石珪・葛平・楊徳広を招き、通号して「忠義軍」と為す。珪等反し、鐸を漣水にて斃す。純之罷免せられ、通判梁丙守事を行い、其の糧を省きて自潰せしめんと欲す。珪・徳広等、漣水の諸軍を以て淮を渡り南渡門に屯し、焚掠すること幾くも尽くす。謂く「朝廷は残金と和せんと欲し、我が軍を何れの地に置かんとするか」と。丙、李全・季先を遣わして之を拒がしむも止まず、事甚だ危し。賈涉時に宝応に在り、上書して曰く「降附踵ぎて至るに、金は乃ち和を請う。此れ正に高澄が侯景を間する遺策を用うるが如く、恐らくは山東の禍必ずや両淮に移らん。況んや金人の乏する所は唯財と糧のみ、若し数年の歳幣を挙げて之に還せば、是れ肉を以て飢えたる虎に啖わしむるが如く、啖い尽くせば将に反噬ぜいせんとす。至りて忠義の人源々として来たり、定額を立てず、自ら一軍を為し、之を北岸に処すれば、安んぞ能以て有限の財を以て窮り無き須いに応ぜんや。飢うれば則ち人を噬い、飽けば則ち命を用う、其の勢然り」と。淮東提点刑獄兼楚州節制本路京東忠義人兵を授く。賈涉亟に傅翼を遣わし珪等に逆順禍福を諭さしめ、自ら軽車を以て山陽に抵る。徳広等郊迎し、地に伏して死を請い、自新を誓う。

原文淮人季先、沈鐸說楚州守應純之以招山東人,純之令鐸遣周用和說楊友、劉全、李全等以其眾至,先招石珪、葛平、楊德廣,通號「忠義軍」。珪等反,斃鐸於漣水,純之罷,通判梁丙行守事,欲省其糧使自潰。珪、德廣等以漣水諸軍度淮屯南渡門,焚掠幾盡。謂:「朝廷欲和殘金,置我軍何地?」丙遣李全、季先拒之,不止,事甚危。涉時在寶應,上書曰:「降附踵至,而金乃請和,此正用高澄間侯景遺策,恐山東之禍必移於兩淮。況金人所乏惟財與糧,若舉數年歲幣還之,是以肉㗖餒虎,㗖盡將反噬。至若忠義之人源源而來,不立定額,自為一軍,處之北岸,則安能以有限之財應無窮之須?饑則噬人,飽則用命,其勢然也。」授淮東提點刑獄兼楚州節制本路京東忠義人兵。涉亟遣傅翼諭珪等逆順禍福,自以輕車抵山陽,德廣等郊迎,伏地請死,誓以自新。

金の太子及び僕散万忠・盧国瑞等数十万大いに侵入し、且つ計を以て珪等を誘わんとす。賈涉、珪等の金に用いられんことを慮り、亟に陳孝忠をして滁州に向かわしめ、珪と夏全・時青をして濠州に向かわしめ、季先・葛平・楊徳広をして滁・濠に趨らしめ、李全・李福をして其の帰路を要せしめ、傅翼を以て監軍と為す。数日を経て、孝忠の捷報至る。珪屡々金人を破り、遂に季先及び李全と共に安豊に趨る。時に金人百余の砦を環らし、攻具甫めて畢わりしに、珪等其の囲みを解く。李全、僕散万忠を挟んで帰る。事は『李全伝』に見ゆ。金人淮東を窺わざること六七年。

原文金太子及僕散萬忠、盧國瑞等數十萬大入,且以計誘珪等。涉慮珪等為金用,亟遣陳孝忠向滁州,珪與夏全、時青向濠州,先、平、德廣趨滁、濠,李全、李福要其歸路,以傅翼監軍。數日,孝忠捷至,珪屢破金人,遂與先及李全趨安豐。時金人環百餘砦,攻具甫畢,珪等解其圍,李全挾僕散萬忠以歸,見《李全傳》。金人不敢窺淮東者六七年。

南渡門の変に、葛平・楊徳広等実に預かる。賈涉既に降を受くれば、置いて問わず。葛平等尚お異志を懐く。賈涉密かに季先をして計を以て之を殺さしむ。而して季先の勢も亦孤し。忠義諸軍漣水・山陽に在る者既に衆し。賈涉其の乱を思わんことを慮り、滁・濠の役に因り、石珪・陳孝忠・夏全を分かち両屯と為し、李全軍を五砦と為す。又た陝西義勇の法を用い其の手に涅し、諸軍を合せて淘汰する者三万有余、涅する者六万人に満たず。正軍常に七万余を屯し、主をして客に勝たしめ、朝廷歳に費を省くこと十の三四。

原文南渡門之變,平、德廣等實預,涉既受降,置弗問。平等尚懷異志,涉密使先以計殺之,而先之勢亦孤。忠義諸軍在漣水、山陽者既眾,涉慮其思亂,因滁、濠之役,分珪、孝忠、夏全為兩屯,李全軍為五砦,又用陝西義勇法涅其手,合諸軍汰者三萬有奇,涅者不滿六萬人,正軍常屯七萬餘,使主勝客,朝廷歲省費十三四。

賈涉又た李全を遣わし万人を以て海州を取り、復た密・濰を取る。王琳、寧海州を以て帰順し、遂に登・萊二州を収む。青州守張林、濱・棣・淄州を以て降り、又た済・沂等州を取る。是より恩・博・景・徳より邢・洺に至る十余州相継いで降を請う。賈涉檄を中原に伝え「地を以て来帰し及び戈を反して自ら効する者は、朝廷地を裂き爵を封じて吝るところ無し」と。仍って諸将を厲し、未だ下らざる州郡を図らしむ。太府少卿・制置副使兼京東・河北節制に擢でらる。

原文涉又遣李全以萬人取海州,復取密、濰。王琳以寧海州歸,遂收登、萊二州。青州守張林以濱、棣、淄州降,又取濟、沂等州。自是恩、博、景、德至邢、洺十餘州相繼請降。涉傳檄中原:「以地來歸及反戈自效者,朝廷裂地封爵無所吝。」仍厲諸將,圖未下州郡。擢太府少卿、制置副使兼京東、河北節制。

金十余万の衆黄州を犯す。淮西帥趙善湘、朝廷に援を請う。賈涉、李全等を遣わして之に赴かしめ、翟朝宗等を後継と為す。丞相史弥遠、李全を留後に擬して升せんとす。賈涉曰く「初め李全貧窶にして聊かする所無く、能く財を軽んじ衆と甘苦を同じくす。故に下其の用いらるるを楽しましむ。主帥に逮るや、為す所反って是に非ず。積怨既に多し。衆皆不平。近く西城を棄つるや、死を免るるを幸いと為す。若し故無く升遷して以て其の志を驕らせば、李全の福に非ず、亦た豈に国家の福ならんや。何ぞ事定まるを待ち、諸将と同升するを可とせざらん」と。金人黄を破り蘄を陥とす。安慶甚だ危し。李全馳せ至りて遂に之を定む。李全久長鎮に至り、京湖制置使趙方の二子范・葵に遇い、掎角連戦俱に勝つ。彭義斌等を遣わし進めて下湾渡に至らしめ、尽く金人を淮に掩う。権吏部侍郎に遷る。金人再び淮西を犯す。先ず、蘄州囲みを受く。徐暉往きて援らんとすれど、乃ち衆を鼓して宵遁す。金乗間に城に登り、一郡血と化す。前帥敢えて問わず。賈涉暉を斬りて以て徇しむ。諸将畏懼し、命を用いざる無し。淮西の勢大いに振う。

原文金十餘萬眾犯黃州,淮西帥趙善湘請援於朝,涉遣李全等赴之,翟朝宗等為後繼。丞相史彌遠擬升全留後,涉曰:「始全貧窶無聊,能輕財與眾同甘苦,故下樂為之用。逮為主帥,所為反是,積怨既多,眾皆不平。近棄西城,免死為幸,若無故升遷以驕其誌,非全之福,亦豈國家之福。曷若待事定,與諸將同升可也。」金人破黃陷蘄,安慶甚危,全馳至,遂定。全至久長鎮,與京湖制置使趙方二子范、葵遇,掎角連戰俱勝,遣彭義斌等進至下灣渡,盡掩金人於淮。遷權吏部侍郎。金人再犯淮西。先是,蘄州受圍,徐暉往援,乃鼓眾宵遁,金乘間登城,一郡為血,前帥不敢問。涉斬暉以徇,諸將畏懼,無不用命,淮西之勢大振。

初め、翟朝宗玉璽を得て之を朝廷に献ず。是に至り趙拱還り、又た玉印を得る。文は璽と同じくして大なり。朝廷璧の帰するを喜び、慶賞を行わんとす。賈涉書を弥遠に遺し謂く「天意は隠れて明らかにし難く、人事は切にして見易し。当に今日の人事未だ天意に答うる可き者有らざるを思うべし。昔の患は亡金に過ぎず、今の患は又た山東忠義と北辺有り。宜しく亟に之を図るべし」と。弥遠悦ばず。李全終に璽賞を以て節度使と為る。賈涉又た言う「盗賊血気正に盛んにして、官職分を過ぐれば、将に後憂有らん」と。弥遠然りとせず。賈涉曰く「朝廷只だ官爵を以て其の心を得可きを知るのみ。寧んぞ驕れば則ち将に勧む可からざるに至るを知らざらんや」と。

原文初,翟朝宗得玉璽獻諸朝,至是趙拱還,又得玉印,文與璽同而加大。朝廷喜璧之歸,行慶賞。涉遺書彌遠謂:「天意隱而難明,人事切而易見,當思今日人事尚未有可答天意者。昔之患不過亡金,今之患又有山東忠義與北邊,宜亟圖之。」彌遠不懌,李全卒以璽賞為節度使。涉又言:「盜賊血氣正盛,官職過分,將有後憂。」彌遠不以為然。涉曰:「朝廷但知官爵可以得其心,寧知驕則將至於不可勸邪?」

賈涉時に既に疾有り、力めて事任を辞す。値うるに金人大いに侵入し、強いて起きて視事す。金将時全・合連・孛術魯答哥、細軍及び衆軍を率い三道より淮を渡る。賈涉、合連の善戦するを以て、乃ち張惠をして之に当たらしむ。張惠は金の驍ぎょう将、所謂「賽張飛」なる者。既に宋に帰順し、金人其の妻を殺す。統ぶる所の花帽軍は紀律有り、他の軍及ばず。張惠諸軍を率いて出戦し、辰より酉に至り、金人大いに敗れ、答哥溺死し、陷失太半に及び、細軍喪う者幾二千。賈涉既に病めり。乃ち獲たる所の京・河の版籍及び金銀牌銅印の属を朝廷に上る。卒す。超えて龍図閣学士・光禄大夫を贈らる。

原文涉時已疾,力辭事任。值金人大入,強起視事。金將時全、合連、孛術魯答哥率細軍及眾軍三道渡淮,涉以合連善戰,乃命張惠當之。惠,金驍將,所謂「賽張飛」者,既歸宋,金人殺其妻,所部花帽軍,有紀律,它軍不及也。惠率諸軍出戰,自辰至酉,金人大敗,答哥溺死,陷失太半,細軍喪者幾二千。涉既病,乃以所獲京、河版籍及金銀牌銅印之屬上於朝。卒,超贈龍圖閣學士、光祿大夫。

賈涉の父偉、嘗て開江を守り、書を丞相趙雄に貽し、武興守呉挺の横なるを極論す。他日陛対し、又た郭棣・郭杲の兵権を裁抑せんことを乞う。孝宗嘉納す。後反って其の擠排に遭い以て没す。賈涉弱冠にして父の冤を直し、寒暑を避けず、泣訴すること十年、闕下に書を伏するに至る。子に似道有り。伝有り。

原文涉父偉,嘗守開江,貽書丞相趙雄,極論武興守吳挺之橫,它日陛對,又乞裁抑郭棣、郭杲兵權,孝宗嘉納,後反為所擠以沒。涉弱冠直父冤,不避寒暑,泣訴十年,至伏書闕下。子:似道,有傳。

扈再興

原文扈再興

扈再興、字は叔起、淮の人である。膂力あり、機変に長じた。戦う毎に、髪を振り乱し、肌を露わし、裸足で、双刃を揮い奮呼して陣に突入し、人馬は辟易した。金人が襄陽・棗陽を侵犯すると、京西制置使趙方は再興らに檄を飛ばしてこれを防がせた。金人が団山より来たり、その勢いは風雨の如し。再興は孟宗政・陳祥とともに三つの陣に分かれ、伏兵を設けて待ち受けた。到着すると、再興は中より一つの陣を出し、また退却し、金人がこれを追うと、宗政と祥が左右の両翼を合わせてこれを掩撃し、金人は三面より敵を受け、大敗し、血肉は山谷に枕藉した。神勁統制に任ぜられる。また棗陽を侵犯すると、再興は師を率いて赴援し、金人は風聞して夜のうちに潰走した。やがて数万の兵を増やして再び城を囲み、九十日間相持した。再興は夜に鉄蒺藜を密かに地に布き、黎明に偽って遁走し、金人が馳せて蒺藜に中る者は十のうち七八が倒れた。敵は退却し走り、これを十五里岡まで追撃した。やがて金兵が城の東隅を攻め、南門北角に迫ると、再興は宗政・劉世興と各々一面を受け持ち、数十合に及ぶ大戦を交え、金兵を大破した。金帥完顔訛可が歩騎数万を擁して城に迫ると、再興と宗政はこれを濠を渡らせ、半渡にしてこれを撃ち;また守塁の者に偽って走らせ、金人が塁を争うところを急撃し、多くは水中に堕ちた。金人は対楼・鵞車・革洞を造り、濠の水を決し、土石を運んで城下を埋めた。再興は死士を募り、鉄面具を着け、氈を披き、陣を列ねてこれを待ち受けた。金人は計略施すところなくして去り、旗甲輜重を野に満ちて棄てた。范家荘にて大戦し、金人は敗れ、これを泊湖まで追撃し、その巡検亢師礼酒・都監納蘭福昌を擒え、その壮丁を降し、牛馬を多く獲た。

原文扈再興,字叔起,淮人也。有膂力,善機變。每戰,被髮肉袒徒跣,揮雙刃奮呼入陣,人馬辟易。金人犯襄陽、棗陽,京西制置使趙方檄再興等禦之。金人來自團山,勢如風雨。再興同孟宗政、陳祥分三陳,設伏以待。既至,再興中出一陳,復卻,金人逐之,宗政與祥合左右兩翼掩擊之,金人三面受敵,大敗,血肉枕藉山谷間。授神勁統制。又犯棗陽,再興率師赴援,金人聞風夜潰。既而益兵數萬復圍城,相持九十日。再興夜以鐵蒺藜密布地,黎明佯遁,金人馳中蒺藜者十踣七八。敵卻走,追至十五里岡。已而金兵攻城東隅,薄南門北角,再興與宗政、劉世興各當一面,大戰數十合,大敗金兵。金帥完顏訛可擁步騎數萬傅城,再興與宗政縱之涉濠,半渡擊之;又令守壩者佯走,金人爭壩,急擊之,多墮水中。金人創對樓、鵝車、革洞,決濠水,運土石填城下。再興募死士著鐵面具,披氈,列陳以待之。金人計無所施而去,棄旗甲輜重滿野。大戰於范家莊,金人敗,追之至泊湖,禽其巡檢亢師禮酒、都監納蘭福昌,降其壯丁,獲牛馬甚眾。

これより宗政・世興と日を経ずして戦わざる日なし。再興はまた順昌県を破り、甲馬三千を奪い、淅川鎮を破り、金人三百を殺し、馬磴砦まで追撃し、その城柵を焼いた。また瀼河にてその護駕騎軍を破った。鄧州に入り、高頭を破り、その歩軍五千・騎軍五百を破り、その積聚を焼いた。遂に高頭に営し、唐州を進攻し、三家河に至ると、金の騎軍二千・歩軍七千が城を出て迎戦し、またこれを破り、死者は十のうち七八に及び、城下まで追撃した。金将の従義なる者が残騎三百を収めて城に奔ると、再興は門を占拠して戦いを拒み、従義を斬った。遂に唐州を囲み、兵を分けて州境を焚蕩し、その帰路を遮断し、久長に砦を築き、厳陣を敷いてこれを待ち受けた。残兵を捜剿し、その副統軍広威将軍衲撻達を獲た。金兵が殲滅されると、髑髏を収めて人頭堠を立てた。

原文自是與宗政、世興無日不戰。再興又破順昌縣,奪甲馬三千,破淅川鎮,殺金人三百,追至馬磴砦,焚其城柵。又敗其護駕騎軍於瀼河。入鄧州,破高頭,敗其步軍五千、騎軍五百,焚其積聚。遂營於高頭,進攻唐州,至三家河,金騎軍二千、步軍七千出城迎戰,又敗之,死者十七八,追及城下。金將從義者收殘騎三百奔城,再興據門拒戰,斬從義。遂圍唐州,分兵焚蕩州境,截其歸路,砦於久長,嚴陳以待之。搜剿殘兵,獲其副統軍廣威將軍衲撻達。金兵殲,乃斂髑髏立人頭堠。

まもなく病により卒す。子の世達もまた名将と称せられ、官は都統制に至った。

原文尋以病卒。子世達,亦以名將稱,官至都統制。

孟宗政

原文孟宗政

孟宗政、字は德夫、絳州の人である。父の林は、岳飛に従って随州に至り、ここに家を定めた。宗政は幼より豪偉にして、胆略あり、常に疆場に出没した。開禧二年、金将完顔董が襄・郢を侵犯すると、宗政は義士を率いて険阻に拠り遊撃し、その輜重を奪った。宣撫使呉獵はこれを奇とし、承節郎・棗陽令に補した。京西路分の趙方・呉柔勝ともにその才を薦め、秉義郎・京西鈐轄に転じ、襄陽に駐劄した。

原文孟宗政,字德夫,絳州人。父林,從岳飛至隨州,因家焉。宗政自幼豪偉,有膽略,常出沒疆場間。開禧二年,金將完顏董犯襄、郢,宗政率義士據險遊擊,奪其輜重。宣撫使吳獵奇之,補承節郎、棗陽令。京西路分趙方、吳柔勝皆薦其才,轉秉義郎、京西鈐轄,駐劄襄陽。

嘉定十年、金人が襄陽・棗陽を侵犯すると、趙方は宗政に檄を飛ばし神勁・報捷・忠義の三軍を節制させた。宗政は統制の扈再興・陳祥とともに三軍に分かれ、三箇所に伏兵を設け、蹀血して戦い、金兵は敗走した。まもなく棗陽の包囲が急を告げると、宗政は正午に峴首を発ち、夜明け前に棗陽に着き、神の如く馳突した。金人大いに駭き、夜遁した。趙方は時に京西に帥を移しており、捷報を聞き大いに喜び、権棗陽軍を差した。初めて事を視るや、一人の愛僕が新令を犯したので、直ちにこれを斬り、軍民は股慄した。ここにおいて堤を築き水を貯え、城堞を修治し、軍士を簡閲した。

原文嘉定十年,金人犯襄陽、棗陽,方檄宗政節制神勁、報捷、忠義三軍。宗政與統製扈再興、陳祥分為三軍,設伏三所,蹀血以戰,金兵敗走。尋報棗陽圍急,宗政午發峴首,遲明抵棗陽,馳突如神。金人大駭,宵遁。方時移帥京西,聞捷大喜,差權棗陽軍。初眡事,一愛僕犯新令,立斬之,軍民股栗。於是築隄積水,修治城堞,簡閱軍士。

十一年、金帥完顔賽不が歩騎を擁して城を囲むと、宗政は再興と合兵して敵と角し、三月を経て、大小七十余戦、宗政は身を士卒に先んじた。金人は戦う毎に敗れ、甚だ忿り、城を周回して濠を開き、四面に兵を控えて濠の外に列ね、鋒鏑を飛ばし、鈴をもって自ら警し、鈴が鳴れば犬が吠えた。宗政は厚く壮士を募り、間を乗じて突撃し、金人は支えることができず、盛んに兵を城に迫らせたが、宗政は方に随って力戦して拒いだ。随守の許国の援師が白水に至り、鼓声互いに聞こえた。宗政は諸将を率いて出戦し、金人は奔潰した。金帯を賜り、武德郎に転じた。

原文十一年,金帥完顏賽不擁步騎圍城,宗政與再興合兵角敵,歷三月,大小七十餘戰,宗政身先士卒。金人戰輒敗,忿甚,周城開濠,四面控兵列濠外,飛鋒鏑,以鈴自警,鈴響則犬吠。宗政厚募壯士,乘間突擊,金人不能支,盛兵薄城,宗政隨方力拒。隨守許國援師至白水,鼓聲相聞。宗政率諸將出戰,金人奔潰。賜金帶,轉武德郎。

十二年、金帥完顔訛可が歩騎を擁して城に迫ると、宗政は糠を嚢に盛り沙を以て楼棚を覆い、甕を列ねて水を貯え火を防ぎ、砲手を募ってこれを撃たせ、一砲する毎に数人を殺した。金人は精騎二千を選び、弩子手と号し、雲梯・天橋を擁して先登し、また銀鉱石工を募り昼夜城を塪き、茅葦を運んで直ちに圜楼の下に抵らせ、楼を焼かんとした。宗政は先んじて楼を毀ち、深坑を掘り、地道を防ぎ;戦棚を創り、城の損壊を防ぎ;穽を穿ちて透るや、直ちに毒煙烈火を施し、韝を鼓してこれを熏した。金人は湿氈をもって窒息させ、路を析ちて土を刳り、城は頽れ楼は陥没した。宗政は楼を撤去して薪を増し、火山を架してその路を絶ち、勇士を列ね、長槍勁弩をもってその衝に備えた。楼の陥没した所より数丈の距離に偃月城を築き、袤百余尺、正城に翼傅し、深坑は倍仞、躬ら役を督し、五日にして成った。金人は強兵を摘み厚鎧・氈衫・鉄面を披いて前進し、また湿氈濡革をもって火山を蒙り、冰雪を覆い、雲梯を擁して直ちに西北の圜楼に抵り城に登らんとした。城中の軍は長戈をもってその喉を舂き、これを殺し;敢勇軍は下より金兵を夾撃し、兵は墜ちて燎焰に死んだ。金将は後よりその軍を遮断し、拒馬して刀を揮い前を迫り、昕より昃に至るまで、死傷踵を接し、梯橋ことごとく毀された。金人は連ねて志を得ず、やがて順風に乗じて濠を渡り、脂革を飛ばして戦棚を焼かんとした。宗政は将士を激して血戦させ、凡そ十五陣、矢石交え、金兵の死者千余、弩子手は十のうち七八、その都統を射て殪した。天、風を反し、金人はますます忿り、砲はますます急であった。時に王大任が鋭卒一千を領いて重囲を冒し転闘して城に入り、内外勢を合わせ、士気大いに振るい、勇を賈って金営に入り、晡より三更に至るまで、金人は横屍遍地、その銅印十六を奪い、訛可は帳を棄てて走り、輜重牛馬万計を獲た。捷報至り、朝廷は前の戦守の功を録し、武功大夫兼閤門宣賛舎人に昇進し、重ねて金帯を賜った。

原文十二年,金帥完顏訛可擁步騎傅城,宗政囊糠盛沙以覆樓棚,列甕瀦水以隄火,募砲手擊之,一砲輒殺數人。金人選精騎二千,號弩子手,擁雲梯、天橋先登,又募鑿銀礦石工晝夜塪城,運茅葦直抵圜樓下,欲焚樓。宗政先毀樓,掘深坑,防地道;創戰棚,防城損;穿穽才透,即施毒煙烈火,鼓韝以熏之。金人窒以濕氈,析路以刳士,城頹樓陷。宗政撤樓益薪,架火山以絕其路,列勇士,以長槍勁弩備其衝。距樓陷所數丈築偃月城,袤百餘尺,翼傅正城,深坑倍仞,躬督役,五日成。金人摘強兵披厚鎧、氈衫、鐵面而前,又濕氈濡革蒙火山,覆以冰雪,擁雲梯徑抵西北圜樓登城。城中軍以長戈舂其喉,殺之;敢勇軍自下夾擊金兵,兵墜死燎焰。金將於後截其軍,拒馬揮刀迫前,自昕至昃,死傷踵接,梯橋盡燬。金人連不得志,俄乘順風渡濠,飛脂革燒戰棚,宗政激將士血戰,凡十五陣,矢石交,金兵死者千餘,弩子手十七八,射其都統殪。天反風,金人愈忿,炮愈急。會王大任領銳卒一千冒重圍轉鬥入城,內外合勢,士氣大振,賈勇入金營,自晡至三更,金人橫屍遍地,奪其銅印十有六,訛可棄帳走,獲輜重牛馬萬計。捷至,朝廷方錄前戰守功,升武功大夫兼閤門宣贊舍人,重賜金帶。

制置司は湖陽県が金兵に境を迫られているとして、宗政に檄を飛ばしてこれを図らせた。宗政は一鼓にしてこれを抜き、積聚を燔焼し、営砦を夷蕩し、俘掠して帰った。金人はこれより襄・漢・棗陽を窺わざるに至った。許国が金陵に移ると、宗政は代わって荊鄂都統制となり、なお棗陽を知った。宗政は濠に迫って陣を布くことを以て、西北の濠の外に水を貯えて濘とし騎兵を制限した。中原の遺民で来帰する者は万数を数えた。宗政は倉を開いてこれを贍い、田を与え、屋を創って住まわせ、その勇壮なる者を籍して「忠順軍」と号し、唐・鄧の間に出没させ、威は境外に振るった。金人はこれを「孟爺爺」と呼んだ。やがて疽を病んで卒す。右武大夫・団練使・防禦使に転じた。

原文制置司以湖陽縣迫境金兵,檄宗政圖之。宗政一鼓而拔,燔燒積聚,夷蕩營砦,俘掠以歸。金人自是不敢窺襄、漢、棗陽。許國移金陵,宗政代為荊鄂都統制,仍知棗陽。宗政以迫濠而陳,乃於西北濠外瀦水為濘以限騎。中原遺民來歸者以萬數。宗政發廩贍之,為給田、創屋與居,籍其勇壯號「忠順軍」,俾出沒唐、鄧間,威振境外。金人呼為「孟爺爺」。俄病疽卒。轉右武大夫、團練使、防禦使。

宗政は功ある者には怨みあっても必ず賞し、罪ある者には親しき者でも必ず罰した。賢を好み善を楽しむこと、天性より出づ。未だ兵法を学ばずして、暗にこれと合う。死の日、辺城は市を罷めて慟哭した。子に珙あり、伝がある。

原文宗政於有功者怨必賞,有罪者親必罰。好賢樂善,出於天性。未嘗學兵法,而暗與之合。死之日,邊城為罷市慟哭。子:珙,有傳。

張威

原文張威

張威は、字を德遠といい、成州の人である。策選鋒軍の騎兵であった。軍中の馬料が多く、一頭につき米五石を給するので、騎兵はその余りを利して自らを給した。総領が実数を検覈して削減したので、張威は逃げ去った。帥の郭杲がその父に命じて招き帰らせ、隆慶府の後軍の效用に送った。張威は甚だ貧しく、薬を売って自らを給した。或る者がその才勇を言上したので、辺境を守らせることとなった。開禧の兵を用いるに及び、張威は金人と戦っては常に勝利し、たびたび功により本軍の将領に補された。

原文張威,字德遠,成州人。策選鋒軍騎兵也。軍中馬料多,匹馬給米五石,騎軍利其餘以自給。總領覈實裁抑,威逃去。帥郭杲使其父招之歸,送隆慶府後軍效用。威貧甚,賣藥自給。或言其才勇,乃令戍邊。開禧用兵,威與金人戰輒捷,屢以功補本軍將領。

呉曦が誅殺された後、将を遣わして失地を収復した。李貴が西和州を回復し、張威は衆を率いて先に登城し、金人を破り、板橋において戦い、遂に西和を奪取し、統制に昇進した。ここにおいて張威の名声は大いに振るった。天水県は金人の西進路に当たるので、県を軍に昇格させ、張威を守と命じ、たびたび奇功を立て、利州副都統制に抜擢された。父の喪に服し、喪が明けると、帯御器械を帯びた。久しくして、荊鄂都統制・襄陽府駐劄に転じ、沔州都統制に改めた。

原文吳曦既誅,遣將收復。李貴復西和州,威率眾先登,敗金人,戰於板橋,遂取西和,升統制。由是威名大振。天水縣當金人西入路,乃升縣為軍,命威為守,屢立奇功,擢充利州副都統制。丁父憂,服除,帶御器械。久之,調荊鄂都統制、襄陽府駐劄,改沔州都統制。

嘉定十二年、金人が分かれて蜀に入り、湫池堡を犯し、また白環堡を犯した。張威の部将の石宣・董炤が連続してこれを撃退した。やがて金人が成州を犯すと、張威は西和から退いて仙人原を守った。時に興元都統制の呉政が黄牛堡で戦死し、李貴が呉政に代わったが、急ぎ武休に赴いたところ、金人は既に武休を破り、遂に興元を陥落させ、また大安軍を陥落させた。

原文嘉定十二年,金人分道入蜀,犯湫池堡,又犯白環堡。威部將石宣、董炤連卻之。既而金人犯成州,威自西和退保仙人原。時興元都統制吳政戰死黃牛堡,李貴代政,亟走武休,金人已破武休,遂陷興元,又陷大安軍。

先に、利州路安撫使の丁焴は金人の深入りを聞き、急ぎ書を遣わして張威を招き東より入って蜀を救わせようとし、また檄を飛ばして忠義総管の李好古に北上して防禦させた。李好古は魚関を出て統領の張彪と遭遇し、張彪が迷竹関を放棄したことを理由に、これを斬った。張彪は張威の弟である。張威は張彪の死を聞き、兵を押さえて進まなかった。丁焴はこれを聞き、幕僚に言った。「呉政は身を失い、李貴もまた兵を敗った。金人の恐れる者は張威のみである。今、李好古が勝手にその弟を殺し、張威の心を失わせた。どうすればよいか。しかも金人は東におり、張威の管轄区域ではない。今、李好古はなくともよいが、張威はなくてはならない。」そこで李好古が入って来たのを機に、その張彪を擅に殺した罪を数え上げ、これを斬った。書を遣わして張威に急ぎ進軍して蜀を救うよう促し、かつ進士の田遂を遣わしてこれを説かせた。張威は感激し、夜半に調発し、鼓を鳴らして前進し、金斗鎮において金人を破った。金人は敗れたが未だ退かず、張威は兵を留めて動かず、密かに石宣らを遣わして大安軍を襲撃させ、これを大破した。金人の来寇に際し、二歳の馬と精兵合わせて三千人を選んでいたが、ここに至って全滅し、その将の巴土魯を捕虜とした。大将の包長寿はこれを聞き、夜遁した。

原文先是,利州路安撫使丁焴聞金人深入,亟遣書招威東入救蜀,又檄忠義總管李好古北上捍禦。好古出魚關與統領張彪遇,以彪棄迷竹關故,斬之。彪,威弟也。威聞彪死,按兵不進。焴聞之,謂僚佐曰:「吳政身死,李貴復以兵敗,金人所憚惟威。今好古擅殺其弟,失威心,奈何?且金人在東,非威地分,今可無好古,不可無威。」遂因好古入見,數其擅殺彪罪,斬之。遣書速威進救蜀,且使進士田遂往說之。威感激,夜半調發,鼓行而前,破金人於金斗鎮。金人雖敗未退,威頓兵不動,潛遣石宣等襲於大安軍,大破之。金人之來也,擇兩齒馬及精兵凡三千人,至是殲焉,俘其將巴土魯,大將包長壽聞之宵遁。

興元の叛兵の張福・莫簡が乱を起こし、赤い布で頭を覆い、「紅巾隊」と号し、利州を焼き、総領の楊九鼎を殺し、閬州・果州を破り、遂寧に入り、遊騎が潼川・漢州の境界に及び、成都を窺おうとした。制置司は賊の勢いが西に向かおうとしているので、張威でなければ防げないと言った。そこで張威に精兵六千人を率いさせ、剣州・綿州から広漢に至らせた。盛夏の酷暑のさなか、兵士を三日間休ませた。やがて安丙が檄を飛ばして張威に東進を命じた。時に賊は遂寧から普州の茗山に入り、張威は進軍して重囲し、その糧道を断ち、昼夜これを追い詰めた。間もなく張福ら十七人を捕らえてこれを殺し、莫簡は自殺し、賊は遂に平定された。

原文興元叛兵張福、莫簡作亂,以紅帕蒙首,號「紅巾隊」,焚利州,殺總領楊九鼎,破閬、果,入遂寧,遊騎在潼、漢界,將窺成都。制置司謂賊勢欲西,非威不可禦。乃遣威提精兵六千人,自劍、綿至廣漢,盛夏暑劇,休士三日。俄安丙檄威東進,時賊自遂寧入普州茗山,威進兵重圍,絕其糧道,晝夜迫之。未幾禽福等十七人戮之,簡自殺,賊遂平。

西夏が来て金人を挟撃することを約し、安丙はこれを許した。王仕信を遣わして鞏州で夏人と会合させ、また張威に命じて利州の帥の程信・興州の帥の陳立らと分道して並進させた。張威は秦州に向かった。議論が起こった当初、張威は言った。「金人は尚強く、夏人は反覆である。軽々しく動くべからず。」安丙は聞かず、ついに張威を派遣した。張威はやむなく出陣し、配下の者に軽挙妄動することを禁じた。諸将は城下に至ったが、功なくして帰還した。安丙は怒り、上奏してその兵権を罷免した。この年、利州において卒した。終官は揚州観察使であった。

原文西夏來約夾攻金人,丙許之。遣王仕信會夏人於鞏,又命威與利帥程信、興帥陳立等分道並進。威向秦州。議初起,威謂:「金人尚強,夏人反覆,未可輕動。」丙不聽,卒遣威,威黽勉而行,令所部毋得輕發,諸將至城下,無功而還。丙怒,奏罷其兵柄。是歲,卒於利州,終揚州觀察使。

張威は初め行伍に在って、勇をもって称せられ、進んで偏裨に充てられ、戦うごとに必ず勝利したので、金人はその名を聞いて畏れた。陣に臨み戦いが酣になると、精采ますます奮い、両眼ともに赤くなり、時に「張紅眼」と号し、また「張鶻眼」と号した。張威は「淨天鶻」の旗を立てて自らを表した。戦うごとに他の兵器を執らず、木の棒があり、「紫大蟲」と号し、円くして刃がなく、長さ六尺に満たず、これを振るって陣を掠めれば、敵は皆なびいた。荊州・鄂州は平野が多く広いので、張威は言った。「これは彼の騎兵の利である。鉄騎が一衝すれば、我が歩兵の技は窮する。蜀中の戦法は用いるべからず。」そこで意を創して法を立て、「撒星陳」と名付け、分合常ならず、鼓を聞けば集まり、鉦を聞けば散る。騎兵が至れば鉦を鳴らし、一軍が数十の群れに分かれる。金人がこれに従って兵を分ければ、また鼓を鳴らして集まる。瞬く間に分合数変し、金人が処置に困ったところで、これに撃ちかかる。これによって常に勝利した。張威は軍を統御するに紀律厳整で、兵が行くときは常に枚を銜んだようであり、その声を聞くことは稀であった。百姓と道を避けるときは、食物を買えば市価の倍を支払い、終に敢えて喧嘩する者はいなかった。晩年は嗜欲により多く病み、故に長寿でなかったという。

原文威初在行伍,以勇見稱,進充偏裨,每戰輒克,金人聞其名畏憚之。臨陳戰酣,則精采愈奮,兩眼皆赤,時號「張紅眼」,又號「張鶻眼」,威立「淨天鶻」旗以自表。每戰不操它兵,有木棓號「紫大蟲」,圜而不刃,長不六尺,揮之掠陣,敵皆靡。荊、鄂多平川廣野,威曰:「是彼騎兵之利也,鐵騎一衝,吾步技窮矣,蜀中戰法不可用。」乃意創法,名「撒星陳」,分合不常,聞鼓則聚,聞金則散。騎兵至則聲金,一軍分為數十簇;金人隨而分兵,則又鼓而聚之。倏忽之間,分合數變,金人失措,然後縱擊之,以此輒勝。威御軍紀律嚴整,兵行常若銜枚,罕聞其聲。每與百姓避路,買食物則賈倍於市,迄無敢喧。晚以嗜欲多疾,故不壽云。

論じて言う。宋の南渡以来、辺境の将の才が何と少ないことか。或いは「江南は武を用いる地にあらず」と言う。しかし古の兵を善くする者、例えば孫武子もまた呉の人である。あるいは先王の世には、文武二道なく、文武が既に分かれたので、その才が各々偏って勝るのも当然であろう。趙方は若くして張栻に学び、国に許す忠誠と、変に応ずる謀略は、隠然として尊俎折衝の風があった。その部曲の扈再興・孟宗政らは後皆名将となり、これも趙方がよく奨励統率したからである。趙方の子の趙范・趙葵、孟宗政の子の孟珙は、後皆功名をもって自らを現わし、その父に恥じず、称すべき者があった。賈涉は方面に居て、また才ありと号したが、その庶子(賈似道)に至って、遂に国を亡ぼすに至ったのは、歎かわしいことである。張威は衆を統御するに長けていたので、至るところで功を立てたという。

原文論曰:宋之南渡,邊將之才何其鮮哉!或曰「江南非用武之地」,然古之善兵者,若孫武子,亦吳人也。抑先王之世,文武無二道,文武既分,宜其才之各有所偏勝也。趙方少從張栻學、許國之忠,應變之略,隱然有尊俎折衝之風。其部曲如扈再興、孟宗政後皆為名將,亦方之能獎率也。方之子范、葵,宗政子珙,後皆以功名自見,不愧其父,有足稱者。賈涉居方面,亦號有才,及其庶孽,竟至亡國,為可歎也。張威者善於御眾,故所至立功云。