陳敏
陳敏、字は元功、贛の石城の人である。父の皓は才武あり、建炎末年に贛の賊李仁を破った功により、官に補せられて承信郎に至った。敏は身長六尺余、騎射に精しく、官を積んで忠靖郎に至った。楊存中の推薦により、擢て閤門祗候となった。
時に閩の地は寇多く、殿司の兵が往戍するも、率ね水土に習わず。ここに至り、初めて三千の兵を募りて左翼軍を置き、敏を以て統制と為し、漳州に駐紮せしむ。敏は諸郡の要害を按じ、凡そ十三箇所、悉く兵を分かちて之を扼し、盗発すれば輒ち獲たり。贛州の齊述が城を拠りて叛き、数万を嘯聚し、将に城南を棄てて寇せんとす。敏之を聞きて曰く、「贛兵は精勁にして、嶮を走るに善し、若し朝廷の兵を発する未だ至らざるに、万一奔衝すれば、江・湖・閩・広騒動せん」と。命を俟たず、領する所部を馳せて七日、径ちに贛に抵り其の城を囲む。一月を逾え、朝廷李耕を命じて諸路の兵を以て至らしめ、之を破る。功を累ねて右武大夫を授けられ、武功県男に封ぜられ、興州刺史を領す。召して闕に赴かしむ、高宗其の状貌魁岸なるを見て、破敵軍統制を除す。尋いで母憂に丁し、詔して起復を命じ、以て所部をして太平州に駐せしむ。
紹興三十一年、金主亮来攻し、成閔を京湖路招討使と為し、敏の軍を以て之に隷せしめ、馬司統制に昇り、荊・漢の間に軍す。敏閔に説きて曰く、「金人の精騎は悉く淮に在り、汴都は必ず守備無からん、若し陳・蔡より径ちに大梁を搗き、其の腹心を潰さば、此れ江・淮を救うの術なり」と。聴かず。閔に従いて還り広陵に駐す、時に金兵未だ淮を渡さず、敏又閔に説きて其の帰師を邀えんことを請う、復た聴かず。敏遂に疾を移して姑孰に帰る。
孝宗即位し、張浚江・淮を宣撫し、敏を奏して神勁軍統制と為す。浚師を視るに、都督府武鋒軍都統制に改む。朝廷李顯忠を遣わして北伐せしむ、浚敏を以て偕に行かんと欲す、敏曰く、「盛夏師を興すは時に非ず、且つ金人の重兵は皆大梁に在り、我は客にして彼は主たり、勝負の勢先ず形れり。願わくは少しく緩にせよ」と。浚聴かず、敏をして盱眙に屯せしむ。顯忠符離に至り、果たして律を失い、敏遂に泗州に入りて之を守る。金人和を議し、詔して敏をして退きて滁陽を守らしむ。敏朝に請うて、滁は敵を受くるの所に非ずと謂い、戍を高郵に改め、兼ねて軍事を知る。金人と射陽湖に戦い、之を敗り、其の舟を焚き、沛城に追い至り、復た之を敗る。
四年、北界の人侍旺漣水軍に叛き、密かに本朝に款し、山東十二州の豪傑を結約して起義し、以て中原を復せんと称す。上以て敏に問う、敏曰く、「旺は吾が国の威を仮りて以て劫を行わんと欲するのみ、必ず事を成す能わず、願わくは聴く勿れ」と。適に屯田統領官旺と交通し、旺敗れ、金間言有り、上敏の罪に非ざるを知り、乃ち敏を召して左驍衛上将軍と為す。
言事者議して清河口を戍守せんと欲す、敏言う、「金兵毎に清河を出づるに、必ず人馬を遣わして先ず上流より潜かに渡る、今必ず其の地を守らんと欲せば、宜しく先ず楚州の城池を修むべし、蓋し楚州は南北の襟喉たり、彼此必ず争うの地なり。長淮二千余里、河道北方に通ずる者五、清・汴・渦・潁・蔡是なり;南方に通じて以て江に入る者は、惟だ楚州の運河のみ。北人の舟艦五河より下り、将に江を渡らんと謀るも、楚州の運河を得ざれば、自ら達する縁無し。昔周世宗楚州の北神堰より老鸛河を鑿ち、戦艦を通じて以て大江に入り、南唐遂に両淮の地を失う。此れより之を言えば、楚州実に南朝の司命たり、願わくは朝廷留意せよ」と。是に及び、再び出でて高郵を守るに、乃ち詔して楚州の守臣左祐と同く楚州に城せしむ、祐卒す、遂に移りて楚州を守る。北使過ぐる者其の雉堞堅新なるを観て、「銀鑄城」と号す。
帰正人二百家の逃げ帰るを以て、降授して忠州團練使と為し、罷めて福建路総管と為し、江西路総管に改め、贛州に駐劄す。月余り、朝廷命じて往きて福州に軍を揀せしめ、又命じて豫章に還り江西團結諸郡の人馬を教閲せしむ。俄に佑神観を提挙し、仍って朝請を奉じ、継いて復た蘄州防禦使と為し、再び武鋒軍都統制を除し兼ねて楚州を知り、光州觀察使に復し、疾を以て卒す。特ちに慶遠軍承宣使を贈る。
張詔
張詔、字は君卿、成州の人。少くして張浚の帳下に隷し、功を積んで和州を守る。嘗て旨を被りて介聘す、一日金人持する所繪の祐・献二陵の像を館中に至らしむ、皆北地の服、詔之に向かって再拝す。館者之を問う、答えて曰く、「詔雖も其の人を識らず、但だ龍鳳の姿、天日の表、疑わくは北朝の祖宗に非ざるかと、敢えて拝せざらんや」と。孝宗聞きて之を喜び、是より驟用す。
畢再遇
畢再遇、字は德卿、兗州の人なり。父は進、建炎年間に岳飛に従い八陵を護衛し、江・淮の間を転戦し、累階して武義大夫に至る。再遇は恩蔭により官を補せられ、侍衛馬司に隷し、武藝人に絶し、弓を挽くこと二石七斗に至り、背にて一石八斗を挽き、歩射は二石、馬射は一石五斗なり。孝宗召見し、大いに悦び、戦袍・金銭を賜う。
倪は李汝翼・郭倬を調して宿州を取らしめ、復た孝慶等を遣わして之に継がしむ。再遇に四百八十騎を以て先鋒と為し徐州を取らしむことを命ず。虹に至り、郭・李の兵創を裹みて還るに遇う。之を問うに、則ち曰く「宿州城下大水有り、我が師利あらず、統制田俊邁既に敵の擒と為る」と。再遇兵を督して疾く趨き、霊壁に次ぐ。孝慶が鳳凰山に兵を駐め、将に還らんとするに遇う。再遇曰く「宿州は捷からざれども、然れども兵家の勝負常ならず。豈に遽に自ら挫くべけんや。吾は招撫の命を奉じて徐州を取らんとし、此に於いて仮道す。寧ろ霊壁北門外に死すとも、南門外に死せじ」と。会に倪書を以て孝慶に抵れ、師を班せしむ。再遇曰く「郭・李の軍潰ゆ。賊必ず追躡せん。吾自ら之を禦すべし」と。金果たして五千余騎を以て両道より来たる。再遇敢死二十人に命じて霊壁北門を守らしめ、自ら兵を領して敵陣を衝く。金人其の旗を見て呼びて曰く「畢将軍来たる」と。遂に遁る。再遇手に双刀を揮い、水を絶ちて追撃し、敵甚だ衆くを殺し、甲裳尽く赤し。北に逐うこと三十里。金将双鉄簡を持ち馬を躍して前に進む者有り。再遇左刀を以て其の簡を格し、右刀を以て其の脅を斫つ。金将馬より墮ちて死す。諸軍霊壁を発つ。再遇独り留まりて未だ動かず。軍の行くこと二十余里を度り、乃ち霊壁に火を放つ。諸将問う「夜は火せず、火今日す、何ぞや」と。再遇曰く「夜は則ち照らして虚実を見、晝は則ち煙埃睹る莫し。彼は已に敗れて敢えて迫らず、諸軍乃ち安んじて行きて虞無かるべし。汝輩安んぞ兵の進むは易くして退くは難きを知らんや」と。
金兵七万楚州城下に在り、三千淮陰の糧を守り、又糧三千艘を載せて大清河に泊す。再遇謀りて之を知り、曰く「敵衆十倍、力を以て勝つは難し。計を以て破るべし」と。乃ち統領許俊を遣わし間道より淮陰に趨かしめ、夜二鼓銜枚して敵営に至らしめ、各火を携えて潜かに入り、糧車の間に五十余所に伏す。哨声を聞きて火を挙つ。敵驚き擾い奔竄す。烏古倫帥勒・蒲察元奴等二十三人を生擒す。
金人復た黄狗灘より淮を渡り、渦口の戍将風を望みて遁れ、濠・滁相継いで失守し、又安豊を破る。再遇諸将に謂いて曰く「楚城堅く兵多し。敵の糧草已に空し。慮る所独り淮西のみ。六合最も要害なり。彼必ず力を併せて之を攻めん」と。乃ち兵を引きて六合に赴く。尋いで命じて淮東軍馬を節制せしむ。金人竹鎮に至り、六合より二十五里を距つ。再遇城に登り、旗鼓を偃し、伏兵を南土門にし、弩手を土城上に列ぶ。敵方に濠に臨むや、衆弩俱に発す。宋師出でて戦う。鼓声を聞き、城上の旗幟並びに挙がる。金人驚き遁る。追撃して大いに之を敗る。金万戸完顔蒲辣都・千戸泥龐古等十万騎を以て成家橋・馬鞍山に駐まり、進兵して城を数重に囲み、壩木を焼き壕水を決せんと欲す。再遇勁弩を令して之を射退す。既にして紇石烈都統兵を合して進攻すること益々急なり。城中矢尽きる。再遇人をして青蓋を張り往来して城上に往來せしむ。金人其の主兵官なるを意い、争いて之を射る。須臾にして矢楼墻に集まりて蝟の如し。矢二十余万を獲る。紇石烈兵を引きて退く。已にして乃ち益々兵を増し、城を環る四面の営帳三十里に亙る。再遇門に臨みて楽を作して閑暇を示し、而して間に出でて奇兵を以て之を撃つ。敵晝夜休むことを得ず。乃ち引きて退く。再遇其の将に復た来たらんことを料り、乃ち自ら兵を提げて城東野新橋を奪い、敵の背に出づ。金人遂に遁り去る。滁に追い至る。大雨雪。乃ち旋る。騾馬一千五百三十一・鞍六百を獲、衣甲旗幟之に称す。忠州団練使を授く。
再遇は姿形雄傑にして、早くより拳力をもって聞こえ、時に兵を寝かすに属し、自ら見る所なし。一旦辺事起こり、諸将風を望んで奔衄するに及び、再遇の威声始めて著しく、遂に名将となる。
安丙
先ず是れ、従事郎銭鞏之の曦に従いて河池に在りしに、嘗て曦の神祠に祷り、銀杯を以て珓と為し之を擲つを夢み、神起立して曦に謂いて曰く、「公何をか疑う?公何をか疑う?後の政事已に安子文に分付せり」と。曦未だ省みず、神又曰く、「安子文才有り、足能く此を弁ず」と。鞏之覚め、心に其の事を異とし、具に以て曦に語る。事既に熾んずるに及び、丙脱するを得ず、徒に死するは益無しと度り、陽に与して陰に之を図る。遂に楊巨源・李好義等と謀りて曦を誅す。語は『巨源』『好義伝』に見ゆ。徐景望利州に在り、土人を逐い、財賦を擅にす。丙弟の煥を遣わし往きて諸将を約し、相与に拠定す。景望誅せらるるに及び、軍民嘩する者敢えて無し。是に於て檄を諸道に伝え、堵の如く故に按ず。曦位を僭すること凡そ四十一日。三月戊寅、曦の反する所以及び矯制して賊を平げ便宜に功を賞する状を陳べ、自ら劾して罪を待つ。曦の首級・違制の法物と曦の受けし金人の詔印及び匿う所の庚牌を函し、駅に附す。
朝廷初め変を聞き、為す所を知る莫し。韓侂冑曦に与うる書にも亦「茅土の封を嗣に頒つ」と謂い、亟に知鎮江府宇文紹節を召して之を問う。紹節曰く、「安丙逆に附する者に非ず、必ず能く賊を討たん」と。是に於て密かに帛書を降して曰く、「安丙素より才具を推し、事功に志有り。今曦の謀の軌に不なるを聞く。爾其の脅かす所と為る。諒らくは凶焰方に張るを以て、恐らくは重ねて蜀の禍と為さんことを恐るる故に、権且く之に従う爾。豈に一日君父を忘れんや。如し能く曦を図り国に報い、以て本心を明らかにせば、即ち当に次を不にして賞を推すべし。二府の崇と雖も亦吝う所無し。更に宜しく機便を審度し、務めて事を成すに在りて、以て委属の意に副わん」と。帛書未だ至らざるに、露布已に聞こえ、上下動色して交えて慶す。辛丑、丙に端明殿学士・中大夫・知興州・安撫使兼四川宣撫副使を加え、詔して諭を獎し、恩数執政を視す。帛書の旨の如し。
時に都統孫忠鋭鳳州より由りて大散関を攻め克たず、統領強徳等奇道より出で松林堡より由りて金の砦を破る。四月癸丑、之を克つ。忠鋭功を貪り財を吝しみ、賞罰迷繆し、大いに軍心を失う。且つ速やかに鳳州に還り、関鑰を庸将陳顕に付す。癸酉、大散関復た陥つ。巨源自ら収復を請う。丙朱邦寧を遣わし之を佐く。丙深く忠鋭を悪み、檄して司に赴き事を議せしめ、之を廃せんと欲す。巨源鳳に至り、忠鋭及び其の子揆を斬る。丙遂に忠鋭の偽に附し進表の罪を以て朝に聞こゆ。先ず是れ、曦を誅する功を以て、巨源朝奉郎を補し、通判差遣と与う。巨源其の親校傅檜を遣わし功を朝に訴う。語は『巨源伝』に見ゆ。是に於て丙疏を拝して閑を丐う。是に至り、金人境上に掲示し、丙の首を得る者銀絹二万匹両を与え、即ち四川宣撫を授けんとす。
時に方に和を議し、丙独り将士を戒飭し、恫疑虚喝し、攻を以て守と為し、威声甚だ著し。詔して蜀平を以て、呉獵を遣わし四川を撫諭す。時に沿辺の関隘悉く金の毀する所と為る。丙時相に遺す書に謂く、「西和の一面、已に仇池を修し、糧を聚め芻を積み、軍民をして守る可からしむ。若し敵至らば、則ち堅壁して戦わず。彼攻めんと欲すれば則ち不可、越えんと欲すれば則ち敢えず。若し西和守る可くば、成州の境自ら敢えて犯さず。成州黒谷・南谷も亦皆重兵を頓す。天水は守る可からずと雖も、天水より十里所に距り、白環堡を創するを見る。西和と相い掎角を為し、又堡を鶏頭山に増し、咸く民卒を以て之を守らしむ。及び黄牛堡を修し、興趙原を築き、千余人を屯す。鳳州秋防原尤も険絶なり。紹興初、州此に治す。宣撫呉玠嘗て家計砦を為す。前即ち馬嶺堡、正に鳳州の後を扼す。凡そ此の数堡既に堅くば、金人決して敢えて近づかず。而して河池・殺金平・魚関皆大軍の屯聚する所。其他の径路、関の裏の如きは大安と雖も、亦陰に民卒を招き、器械を授け、掩撃の備えと為す」と。又云く、「関表に於て広く義士を結び、月に糧を給し、各々田廬墳墓を保たしむ。事定まるに逮り、則ち之を尺籍に係し而して耕を勧め、庶幾くは久しきを経ん。丙の見る所を以てすれは、直に守の計と為せば、則ち五万人を精選するも亦余り有りと為す」と。
好義西和を守り、四州兵後の、民聊生せずと謂い、租を蠲して以て創痍を恵まんことを請う。丙朝に請う。又沔州都統司の統ぶる所の十軍権太重きを以て、故に呉璘より挺・曦に至るまで皆尾大不掉の憂い有り。乃ち副都統制を分置し、各々相い隷せず、以前右中左後の五軍を都統司に隷し、踏白・摧鋒・選鋒・策鋒・遊奕の五軍を副司に隷せんことを請う。詔皆之に従う。
時に方信孺使いより還り、金人の和意未だ決せず、且つ首に興師を議するの人を得んと欲す。侂冑大いに怒る。上手書を賜い丙に、謂く、「金人必ず再び至らん。当に将士を激勵し、戮力して功に赴くべし」と。侂冑既に誅せらるるに及び、丙に金器百二十両・細幣二十匹を賜い、資政殿学士に進む。和議成り、大散・隔牙関を還す。丙僚吏を分遣し、洋・沔・興元・大安の民田を経量し、別に租税を定む。
右丞相史彌遠が起復(服喪中に官職に復帰すること)を命ぜられると、安丙は書状を送って言った、「昔、仁宗が富鄭公(富弼)・文潞公(文彦博)を起復し、孝宗が蔣丞相(蔣芾)を起復した時、皆力強く辞退した。名教に関わることであり、人の言葉は畏るべきである。閣下が速やかに成命を辞退され、議論する者の口を止められることを望む。」と。論者はこれを是とした。大学士に昇進し、四川制置大使を兼ねて興元府知事となった。諜報により金人が汴(開封)に遷都し、関輔の豪傑が国境に赴いて降伏を願う者が多いことを知った。安丙はこれこそ冉閔が晉に告げた時と同じであると考え、宰臣に書状を送り、問罪の師を起こすべきであると述べた。朝廷の議論は安丙が軽挙することを憂い、詔を下して安丙に守備を一層修めるよう命じた。
嘉定七年(1214年)春、安丙は寵愛する官吏の安蕃・何九齢に命じて官軍と合流させ夜襲で秦州を攻撃させたが、敗れて帰還した。王大才が何九齢ら七人を捕らえて斬り、朝廷に安丙を訴えた。三月、詔により安丙を同知樞密院事兼太子賓客とし、親筆の詔書を賜って召還した。広徳軍まで行ったところで、観文殿學士に進み、潭州知事・湖南安撫使に任じられた。任地に着くと、学校に留意し、太常に大成楽を創設するよう請願した。しかし政治は厳酷を尚び、転運判官の章徠が安丙を弾劾したが、回答はなかった。御史の李安行が章徠と共に弾劾したため、章徠は罷免され、安丙は崇信軍節度使・開府儀同三司・萬壽觀使を授けられた。譴閣門舍人の聞人璵に命書を賜い、旌節・金印・衣帯・鞍馬を下賜された。三度辞退し、蜀に帰還した。
当時、四川は大いに震動し、呉曦の変乱の時よりも甚だしかった。張方がまず上奏し、勲望が安丙の如き者は、今なお用いることができると述べた。魏了翁は宰執に書状を送り、安丙が起用されなければ、賊は即座に平定されず、蜀は安定せず、賊でさえも「安相公が宣撫とならなければ、事は定まらない」と言っていると述べた。李壁・李篁は当時ともに潼川府・遂寧府を鎮守していたが、皆国事をもって安丙を励ました。五月乙未の日、安丙は果州に到着し、この日、賊は蓬渓県を焼いた。
己酉の日、詔を下して安丙を四川宣撫使として起用し、便宜を許し、まもなく制を降して保寧軍節度使兼興元府知事・利東安撫使を授けた。安丙は上奏して言った、「臣は老いを辞さず国に報いようとするが、事が怨みを引き受けるものでなければ、成し遂げるのは難しく、誹謗が交々攻め寄せ、臣が独り赤心を抱きながら、上に申し開きする術がないことを恐れる。昔、秦が甘茂に宜陽を攻めさせた時、『息壤が彼処にある』と質に取り、魏が楽羊に中山を攻めさせた時、誹謗の書簡一箱を示した。君臣の間では、このようである必要はないと思われる。しかし古より今に至るまで、誹謗は疑いと離間によって成り立ち、禍いは嫉妬によって得られる。況や臣は既に過去に傷ついた弓であり、どうして今来たるべき沸騰を戒めないでいられようか。」詔は言った、「昔、唐太宗は西寇が未だ平定されないとして、詔を下して李靖を起用した。靖は慷慨として行くことを請い、老病を理由にしなかった。代宗は朔方の難があり、郭子儀を任用しようと図り、命を聞いて道を引き、讒言や猜疑を自ら疑うこともなかった。皆時勢に乗じて功を立て、竹帛に輝いた。朕は甚だこれを慕う。今、蜀道が乱れ、顧み憂いを緩めることができない。朕は卿を閑居から起用し、方面を委ねる。そして卿は国に報いることに忠であり、難を辞さない義である。朕の用人はほぼ唐宗に近く、卿が朕に仕えることは李・郭に愧じない。勉めて優れた功績を図り、国事を助けよ。」まもなく丁焴をして興元府知事に改任させた。
甲申の日、果州を出発した。丙戌の日、遂寧に到着した。賊はなお普州の茗山に拠って固守していた。安丙は諸軍に合囲を命じ、薪や水を汲む道を絶って賊を困窮させた。まもなく、張威・李貴が張福ら十七人を捕虜として献上した。安丙は王大才を臠(細切れ)にして楊九鼎の霊前に捧げるよう命じた。七月庚子の日、残党千余人を全て捕虜とし、皆斬った。庚戌の日、軍を返し、治所を利州に移した。保寧軍節度使の印を賜った。癸仲もまた三階進級し、直華文閣に進み、起復して宣撫司機宜文字を主管した。翌年、安丙を少保に進め、衣帯・鞍馬を賜った。
安丙は関表(関外)の営田に多くの未収益があると考え、官吏に命じて調査させた。文垓という者がおり、ちょうど母の喪に服していたが、便宜により起復させ、魚関糧料院の幹辦とし、措置を担当させ、さらに宣撫副使の印を仮に与えた。また馮安世という者は、利州に根括局を設置した。そこで魏了翁は安丙に書状を送り、「幕府が人材を推挙登用するには、経術に通じ信義厚い士人を用いるべきで、喪中を冒す者を用いるべきではない。かつ公は八年蜀を鎮守し、恩があれば怨みもある。どうして一人一人と争い、一事一事と理められようか。自らの立場を甚だ狭くするだけで、子孫や賓客に果てしない累を残す恐れがある。今日の財政は従来の常套に拘り難いとはいえ、絶産を告げ、白契を首とし、隠田をあばき、富民の過失を伺い、塩酒戸の不足額を糾弾し、怨みを晴らし憤りを抱き、権力を招き賄賂を受け取る者が、必ずや紛然として起こるであろう。そして公がその怨みを負うことになる。」と述べた。安丙は返書で言った、「関外での買い入れには四百万緡が必要であるが、総所に見える緡は二十五万に過ぎない。様々な方法で措置するのは、已むを得ずして已まないのである。もし皆清流であれば、どうして事務を処理できようか。蜀の士人の中で令弟の嘉父(魏了翁の弟)・李成之の輩は、清ければ清く、高ければ高いが、彼らが銭穀のような俗務を処理しようとするだろうか。劉徳修(劉光祖)はかつて楊嗣勲が義を挙げて叛徒を誅殺できなかったことを雅に責めたが、嗣勲は言った、『徳修はただ当局でなかっただけだ』と。丙も華父(魏了翁)に対して同じことを言う。」その後、安世の不法はますます甚だしくなり、近臣が安丙に書状を送り、また安世の徒党もその事を発覚させた。安丙は安世を枷をはめて大安に送り、徹底的に取り調べさせた。
先に、夏人が援軍を請い、共に金人を攻撃しようとした。安丙は上奏すると同時に行動を起こし、将士を分遣して秦・鞏・鳳翔に向かわせ、丁焴に節制を委ねた。軍は鞏に駐屯した。夏人は枢密使の甯子寧に二十万余りの兵を率いさせ、夏兵は野戦を、宋軍は攻城を担当することを約束した。その後、鞏を攻撃したが陥落せず、そこで止めた。
安丙が卒去すると、訃報が届き、少傅を以て致仕とし、視朝を二日間停止し、少師を追贈し、賻として銀絹千単位を賜い、沔州の祠額に「英恵廟」と賜った。理宗は親筆の劄を賜い、「忠定」と諡した。安丙の著作に『皛然集』がある。
楊巨源
楊巨源、字は子淵、その先祖は成都の人である。父の信臣は益昌に客居し、そこで家を構えた。巨源は倜儻として大志を持ち、騎射を得意とし、諸子百家の書に広く涉獵した。進士に応じたが及第せず、武挙にも及第しなかった。劉光祖は彼を見て異才と認め、総領銭糧の陳曄に推薦し、右職として挙げられて鳳州堡子原の倉官となった。駆け回り狩猟をし、財産を傾けて士人を養い、沿辺の忠義の人々は皆その才能に服した。魚関糧料院に分差され、興州合江の贍軍倉の監に移った。
呉曦が反乱を起こすと、楊巨源は密かに賊を討つ志を持ち、義士三百人を結集し、彼らに銭糧を与えた。遊奕軍統領の張林という者がおり、力は二石の弓を引くことができ、隊将の朱邦寧は身長六尺で、勇力は人に優れていた。二人とも曦に忌まれ、たとえ戦功があっても賞を与えられず、張林らはこれを恨んでいた。当時、張林は罝口におり、朱邦寧は合江にいた。巨源は彼らと深く結びつき、さらに忠義の人である朱福・陳安・傅檜の徒を集めた。
曦は安丙を脅迫して丞相長史に任じたが、丙は病気と称した。眉州の士人程夢錫が丙に面会し、丙は嘆息して言った、「世事この如し、世に豪傑無し!」夢錫はそこで巨源の謀議に及んだ。丙は言った、「私に会ってくれるか?」そこで夢錫に書簡を託して巨源に届けさせ、臥所に招き入れた。巨源は言った、「先生は逆賊の丞相長史となられたのか?」丙は声をあげて泣きながら言った、「目前の兵将は、私の知る所では、奮起することができない。必ずや豪傑を得て、初めてこの賊を滅ぼすことができ、そうすれば丙は再び憂い無し。」巨源は言った、「先生の御決意は固いか?」丙は天を指して誓って言った、「もしこの賊を誅することができれば、たとえ死して忠鬼となろうとも、また何の恨みがあろうか!」巨源は大いに喜び、言った、「先生でなければこの事を主導するに足らず、巨源でなければこの事を成し遂げるに足りない。」
この時、李好義・好問もまた李貴・楊君玉・李坤辰ら数十人を結集していた。坤辰が巨源を招き、好義と会わせた。巨源はまた大いに喜んで言った、「私は安長史と議し、三月六日に曦を廟参に招き、勇士を合わせてこれを刺殺しようとしている。」好義は言った、「彼が出れば巷は狭く、従衛は千人に及ぶであろうから、事は必ず成就し難い。聞くところによれば、熟食の日に東園で祭祀を行うという。これを図るはこの時が良い。」巨源はこれを然りとした。好義は信を確かめるため長史に一度会いたいと願った。巨源は言った、「私はまず長史に話しておこう。明日、偽りの宮中で、長史に君の先代について尋ねさせればよい。」巨源は丙に告げた。翌日、好義は偽宮で丙に会い、揖した。丙は言った、「かつて尊父と同僚であった。楊省幹(君玉)が盛んに君の才略を語っていた。早晩、職事を委ねよう。」その謀議はここに決した。
巨源は丙に言った、「曦は死に、賊の胆は破れた。関外の四州は蜀の要害である。どうして勢いに乗じて取り戻さないのか。」好義もまたこの意見を述べた。丙は軍に現存の糧食がないことを憂慮したが、巨源は四州を取らなければ必ず後患があると力説し、自ら進んで随軍措置糧運となることを請うた。そこで好義を分遣して西和州を回復させ、張林・李簡に成州を回復させ、劉昌国に階州を回復させ、孫忠鋭に散関を回復させた。まもなく詔があり、巨源は朝奉郎に転じ、通判差遣を兼ね、四川宣撫使司参議官を兼任した。丙はもとより忠鋭を憎んでおり、忠鋭が散関を失守したと聞くと、檄を飛ばしてその帰還を命じ、これを廃そうと考え、まず巨源に邦寧とともに沔州の兵二千を率いて策応するよう命じた。巨源が鳳州に至ると、忠鋭が出迎えた際を捉え、幕の後に壮士を伏せさせ、突出してこれを斬り、その子の揆も共に斬った。丙はそこで忠鋭が偽りの賀表に附したことを朝廷に奏聞し、かつ待罪した。
先に、叛徒誅殺を褒賞する詔書が沔州に届いた時、巨源は人に言った、「詔命は一字も巨源に及ばない。我が功績を蔽う者がいるのではないか。」まもなく王喜が節度使に任じられたと報じられ、巨源はますます不平を抱いた。当時、趙彦吶は夔州で禄禧を誅殺したことで州通判を得ていた。巨源は言った、「禄禧を殺して通判を得、呉曦を殺しても通判か?」啓を以て丙に謝し言った、「飛矢を以て聊城を下す、深く魯仲連の高誼を慕う;印を解きて彭沢を去る、庶幾く陶靖節の清風に及ばん。」また朝廷に功績を訴え出るとともに、興元都統制彭輅に書簡を韓侂冑に届けるよう乞い、輅は表向き承諾しながら密かに丙に報告した。ある者が巨源がその徒の米福・車彦威と謀って乱を起こそうとしていると告げ、丙は喜にこれを取り調べるよう命じ、福と彦威はともに罪に当たった。正将の陳安がさらに、巨源が死士を結集して関に入り、沔州の州治を焼き払い、丙が出たところを殺そうとしていると告発した。丙は以前からの事柄を積み重ね、巨源を除こうと考えたが、まだ発端がなかった。
ちょうど巨源が鳳州で檄書を金の鳳翔都統使に送った。その文面は間者を用いるようなものであり、かつ自ら宣撫副使を称し、参議官の印を押していた。金はこの檄書を丙に送り届けた。巨源はちょうど金と戦い、長橋で敗北していた。丙はそこで書簡を送って巨源を召還したが、巨源は疑った。梁泉主簿の高岳成という者がおり、巨源が随軍撥運に推薦した人物であったが、巨源に会いに来て、帰還を勧めたので、巨源はこれを信じた。
当時、輅はすでに沔州に到着していた。六月壬申、巨源が幕府に戻ると、丙は密かに輅に巨源を捕らえるよう命じた。巨源は全く知らず、輅が自分に謁見に来たと思い、話が終わると、輅が立ち上がり、巨源はこれを賓次まで送った。武士がその裾を掴んだが、巨源はなお叱りつけたが、すでに庭下に引きずり出されていた。巨源は大声で叫んだ、「我に何の罪があるというのか?」丙は屏風の向こうから人を遣わして言わせた、「お前が宣撫副使を詐称したのはどういうことか?」閬州の獄に檻送するよう命じた。巨源は言った、「私は一時的に間者を用いただけだ。いずれ時が来れば必ず私の事を明らかにしてくれる者が現れよう。」丙は肴酒を送ったが、巨源は言った、「一身に愧じるところ無し、死すともまた憾み無し。ただ妹が未だ嫁がずにいることがある。宣撫はこれを思いやられよ。」癸酉、巨源の舟が大安の龍尾灘に着いた時、将校の樊世顯という者が岸から呼びかけた。巨源は殺されようとしていることを悟り、その地を指して言った、「これは良い一片の葬地だ。」世顯は言った、「そんなことがあるものか。」舟が数歩進むと、言った、「宣参(巨源)は久しく渇しておられる。一杯の酒を進めようか?」巨源は飲まないと辞した。また言った、「宣参は枷を担いで久しい。少し休まれよか?」巨源が答える前に、左右の者がたちまち利刀を取ってその首を断ち、一寸余り切れ残った。そこで巨源が自殺したと宣撫司に報告した。数日後、丙はこれを埋葬するよう命じた。
巨源が死ぬと、忠義の士はそのために腕を扼み、聞く者は涙を流した。剣外の士人張伯威が文を作ってこれを弔い、その文辞は特に悲切であり、伯威は巨源の属吏であった。李壁が政府にいた時、これを聞いて言った、「ああ、巨源は死んだのだな!」丙は人情が騒然としているため、封章を上奏して免職を求めた。楊輔もまた、丙が巨源を殺せば必ず変事を招くと述べ、劉甲を代わりに任じるよう請うた。初め、巨源は好義と官軍を結集し、丙は密かに反正の計略を立てていたが、互いに知らず、巨源と好義を合わせたのは李坤辰であり、好義と丙を合わせたのは巨源であった。巨源が光祖に送った書簡には、丙の応答の言葉が記されており、版を刻んで広く伝えられたので、丙はすでに快く思わず、讒言が絶えず、積もり積もってこの禍に至った。
李好義
時に曦は李貴を遣わして宣撫程松を追殺せしめんとしたが、貴はその徒に語って曰く、「程宣撫は朝廷の重臣なり、殺すべからず」と。好義はその赤心なるを知り、以て謀る所を告ぐるべしとす。貴は遂に李彪・張淵・陳立・劉虎・張海等と約し、好義はまた密かに親衛軍の黄術・趙亮・吳政等と結ぶ。女弟の夫楊君玉もまた与り知る。好義は戒めて言う、「この事は誓って死を以て国に報い、四蜀の生霊を救わんとす。慎んで漏らすことなかれ」と。その母を留めて質とす。好義兄弟謀りて曰く、「今日、人皆曦を殺すべく、皆曦たりうべし。曦死した後、もし威望ある者なくして鎮撫せば、恐らくは一変未だ息まず、一変また生ぜん」と。期に至りて長史安丙を立てて以て事を主らしめんと欲す。蓋し曦嘗て丙に偽丞相を授けしも、丙は疾いと託して往かず、故に兄弟この謀り有りしなり。
既にして君玉と李坤辰なる者来たり、坤辰因りて言う、丙もまた合江倉の楊巨源と陰に結び忠義を以て曦を図らんと欲すと。好義は遂に君玉を遣わし坤辰とともに巨源を約して以て丙に報ぜしむ。丙大いに喜びて曰く、「統制李定一の子ならずや。この人既に来たり、曦の臂を断つべし」と。遂に好義と二月晦に事を挙げんと約す。『巨源伝』に見ゆ。乃ち彪・術・貴等七十四人及び士人路良弼・王芾と約す。好義夜に士を饗し、衆を麾して甲を受けしむ。好古・好仁及び子姓と家廟に拝別し、妻馬氏に嘱して曰く、「日出でて耗無くば、当に自ら計いを為すべし。死生ここより決す」と。馬氏これを叱して曰く、「汝朝廷の為に賊を誅す。何を以て家を為さんや。我決して李家の門戸を辱しめじ」と。馬氏の母もまた曰く、「行け、勉めよ。汝兄弟生くるは壮夫、死するは英鬼たれ」と。好義喜びて曰く、「婦人女子すら尚お朝廷を念い性命を愛せず。我輩当に如何すべきや」と。衆皆踴躍す。既に行かんとす、小将祿禕十卒を引いて来たり助け、各黄帛を以て号と為す。好義衆に誓いて曰く、「宮に入りて妄りに人を殺し、財物を掠むる者は死す」と。
時に偽宮の門洞開し、好義大呼して入りて曰く、「朝廷の密詔を奉ず。安長史宣撫と為り、我に令して反賊を誅せしむ。敢えて抗する者はその族を夷す」と。曦の護衛千兵皆梃を棄てて走る。遂に偽殿の東角小門に至り、世美堂に入り、曦の寝室に近づく。曦外の哄を聞き、倉皇として起き、頂を露わし徒跣にして、寝戸を開きて遁れんとす。貴を見て復た止まり、手を以て内戸を捍ぐ。貴前に進みて戸を争うに、戸の紐折る。曦走る。貴追い及び、手を以てその髻を執り、刃を挙げて曦の頰を中つ。曦素より勇にして力有り、貴を撲ちて地に仆す。起き上がること能わず。好義急ぎ呼びて王換にその腰を斧る者二たび。曦痛みを負いて手を放つ。貴起きて遂にその首を斫る。衆を引きて曦の首を擁し偽宮を出づ。亟に馳せて丙に告げ詔を宣す。軍民拝舞し、歓声天地を動かす。曦の首を持ちて城中を撫定す。市肆改まらず。
好義関外四州を取るに時を乗ずるを請う。巨源これを賛す。丙大いに喜ぶ。巨源行を輔く。王喜その能を忌み、これを沮む。好義曰く、「西和は乃ち腹心の地なり。西和下れば、則ち三州は戦わずして復すべし。今図らざれば、後悔も及ばん。願わくは馬歩千人、死士二百を得、十日糧を齎らしめば済まん」と。丙その請いに従う。忠義響応す。独頭嶺に次る。進士王榮仲兄弟民兵を率いて会合し夾撃す。金人死者路を蔽う。十戦して山砦高堡に至り、七日にして西和に至る。好義衆を率いて城を攻め、親しく矢石を犯す。人々死を楽み、少を以て衆を撃ち、前に留まる敵無し。金の西和節使完顏欽奔遁す。好義衆を整えて入る。軍民歓呼迎拝し、府庫を籍べて以て官に帰す。
好義初め勝に乗じて径ちに秦・隴を取らんと欲し、以て淮寇を牽制せんとす。然るに宣撫司は故疆を謹守し、侵越することを得ざるを令す。士気皆沮す。好義中軍統制として西和州を知る。卒す。丙労績を以て朝に上る。特に檢校少保を贈り、仍田を給して以てその家を贍う。後、吳獵為に諡を請うて「忠壯」と曰う。好義『孟子』及び『左伝』を誦するを喜び、以て終身これを行えば足ると為す。曦を誅する時、惟だ幼子植のみ家に留まる。事畢りて、人功賞を冒さんと争う。君玉植の名を注さんと欲す。好義心を指して曰く、「惟だこの物は欺くべからず」と。
曦既に誅せらる。好義丙の家に集まる。王喜後より至る。邪謀を懐き、好義を刃せんと欲す。丙力めて救い解く。然れども日を以て好義を殺さんことを心と為す。好義西和を守るに及び、喜その死党劉昌国を遣わして節制を聴かしむ。好義これと酬酢し、歓飲して旦に達す。好義心腹暴に痛み洞瀉す。而して昌国遁る。既に殮す。口鼻爪指皆青黒し。居民冤しまざる莫し。号慟すること私親の如し。摧鋒一軍幾ど変に至らんとす。既にして昌国白日好義の刃を持ちてこれを刺すを見て、驚怖して地に仆れ、疽発して殂く。
喜は曦の大将なり。貪淫狠愎なり。曦を誅するの日、詔を拝するを肯ぜず、その徒を遣わして偽宮に入り虜掠ことごとく尽くし、また曦の姬妾数人を取る。その後、好義を戕い曦に復讐せんと欲す。丙止むること能わず。便宜を以て節度使として興州を知らしむ。而して恨み猶未だ已まず。嘗て船柵嶺に出兵す。鋒未だ交わらざるに、軍を棄てて先ず遁る。金人遂に黒谷より長駆して境に入る。朝廷喜の変を為さんことを慮り、節度使を授け荊鄂都統制に移して死す。
論じて曰く、陳敏は守るに善く、畢再遇は戦うに善し。張詔は使を出して国を辱しめず、将と為りて士心を得、趙汝愚これを薦めて武興の帥と為す。その才以て曦を制するに足るが故なり。曦の畔く、向し安丙・楊巨源・李好義の謀り無くば、西方の憂いこれより大なるは莫からん。然るに丙卒に是を以て巨源を殺す。何ぞその疾きを冒して残賊なるや。李好義は周防に失い、竟に王喜に図らる。宋喜の曦党たるを知りて、既に罪すること能わず、また節鎮を以てこれを賞す。幾何ぞ唐末の姑息と為らざらん、以て藩鎮の禍を成さんや。