宋史

列傳第一百六十一 陳敏 張詔 畢再遇 安丙 楊巨源 李好義

列傳第一百六十一 陳敏 張詔 畢再遇 安丙 楊巨源 李好義

陳敏

原文陳敏

陳敏、字は元功、贛の石城の人である。父の皓は才武あり、建炎末年に贛の賊李仁を破った功により、官に補せられて承信郎に至った。敏は身長六尺余、騎射に精しく、官を積んで忠靖郎に至った。楊存中の推薦により、擢て閤門祗候となった。

原文陳敏,字元功,贛之石城人。父皓,有才武,建炎末,以破贛賊李仁功,補官至承信郎。敏身長六尺餘,精騎射,積官至忠靖郎。以楊存中薦,擢閤門祗候。

時に閩の地は寇多く、殿司の兵が往戍するも、率ね水土に習わず。ここに至り、初めて三千の兵を募りて左翼軍を置き、敏を以て統制と為し、漳州に駐紮せしむ。敏は諸郡の要害を按じ、凡そ十三箇所、悉く兵を分かちて之を扼し、盗発すれば輒ち獲たり。贛州の齊述が城を拠りて叛き、数万を嘯聚し、将に城南を棄てて寇せんとす。敏之を聞きて曰く、「贛兵は精勁にして、嶮を走るに善し、若し朝廷の兵を発する未だ至らざるに、万一奔衝すれば、江・湖・閩・広騒動せん」と。命を俟たず、領する所部を馳せて七日、径ちに贛に抵り其の城を囲む。一月を逾え、朝廷李耕を命じて諸路の兵を以て至らしめ、之を破る。功を累ねて右武大夫を授けられ、武功県男に封ぜられ、興州刺史を領す。召して闕に赴かしむ、高宗其の状貌魁岸なるを見て、破敵軍統制を除す。尋いで母憂に丁し、詔して起復を命じ、以て所部をして太平州に駐せしむ。

原文時閩地多寇,殿司兵往戍,率不習水土。至是,始募三千兵置左翼軍,以敏為統制,漳州駐紮。敏按諸郡要害,凡十有三處,悉分兵扼之,盜發輒獲。贛州齊述據城叛,嘯聚數萬,將棄城南寇。敏聞之曰:「贛兵精勁,善走嶮,若朝廷發兵未至,萬一奔衝,江、湖、閩、廣騷動矣。」不俟命,領所部馳七日,徑抵贛圍其城。逾月,朝廷命李耕以諸路兵至,破之。累功授右武大夫,封武功縣男,領興州刺史。召赴闕,高宗見其狀貌魁岸,除破敵軍統制。尋丁母憂,詔起復,以所部駐太平州。

紹興三十一年、金主亮来攻し、成閔を京湖路招討使と為し、敏の軍を以て之に隷せしめ、馬司統制に昇り、荊・漢の間に軍す。敏閔に説きて曰く、「金人の精騎は悉く淮に在り、汴都は必ず守備無からん、若し陳・蔡より径ちに大梁を搗き、其の腹心を潰さば、此れ江・淮を救うの術なり」と。聴かず。閔に従いて還り広陵に駐す、時に金兵未だ淮を渡さず、敏又閔に説きて其の帰師を邀えんことを請う、復た聴かず。敏遂に疾を移して姑孰に帰る。

原文紹興三十一年,金主亮來攻,成閔為京湖路招討使,以敏軍隸之,升馬司統制,軍於荊、漢間。敏說閔曰:「金人精騎悉在淮,汴都必無守備,若由陳、蔡徑搗大梁,潰其腹心,此救江、淮之術也。」不聽。從閔還駐廣陵,時金兵尚未渡淮,敏又說閔邀其歸師,復不聽。敏遂移疾歸姑孰。

孝宗即位し、張浚江・淮を宣撫し、敏を奏して神勁軍統制と為す。浚師を視るに、都督ととく府武鋒軍都統制に改む。朝廷李顯忠を遣わして北伐せしむ、浚敏を以て偕に行かんと欲す、敏曰く、「盛夏師を興すは時に非ず、且つ金人の重兵は皆大梁に在り、我は客にして彼は主たり、勝負の勢先ず形れり。願わくは少しく緩にせよ」と。浚聴かず、敏をして盱眙に屯せしむ。顯忠符離に至り、果たして律を失い、敏遂に泗州に入りて之を守る。金人和を議し、詔して敏をして退きて滁陽を守らしむ。敏朝に請うて、滁は敵を受くるの所に非ずと謂い、戍を高郵に改め、兼ねて軍事を知る。金人と射陽湖に戦い、之を敗り、其の舟を焚き、沛はい城に追い至り、復た之を敗る。

原文孝宗即位,張浚宣撫江、淮,奏敏為神勁軍統制。浚視師,改都督府武鋒軍都統制。朝廷遣李顯忠北伐,浚欲以敏偕行,敏曰:「盛夏興師非時,且金人重兵皆在大梁,我客彼主,勝負之勢先形矣。願少緩。」浚不聽,令敏屯盱眙。顯忠至符離,果失律,敏遂入泗州守之。金人議和,詔敏退守滁陽。敏請於朝,謂滁非受敵之所,改戍高郵,兼知軍事。與金人戰射陽湖,敗之,焚其舟,追至沛城,復敗之。

乾道元年、宣州觀察使に遷り、召して主管侍衛歩軍司公事を除す。歳余を居るに、敏章を抗して曰く、「久しく周廬に任ずれば、以て鷹犬の効をなす無し、況んや敵情は詐多く、和は恃むに足らず。今両淮に備え無し、臣故部の兵を以て、再び高郵に戍らんことを乞う」と。仍って請うて更に其の城を築かんことを。乃ち常階を落とし、光州觀察使を除し、武鋒を分かちて四軍と為し、敏を昇めて都統制と為し兼ねて高郵軍事を知らしめ、仍って城を築き屯田するの費を賜う。敏郡に至り、板築の高厚皆旧制を増す。宝応より高郵に至り、其の旧に作る石䃮十二所を按じ、是より運河通泄し、衝突の患無し。

原文乾道元年,遷宣州觀察使,召除主管侍衛步軍司公事。居歲餘,敏抗章曰:「久任周廬,無以效鷹犬,況敵情多詐,和不足恃。今兩淮無備,臣乞以故部之兵,再戍高郵。」仍請更築其城。乃落常階,除光州觀察使,分武鋒為四軍,升敏為都統制兼知高郵軍事,仍賜築城屯田之費。敏至郡,板築高厚皆增舊制。自寶應至高郵,按其舊作石䃮十二所,自是運河通泄,無衝突患。

四年、北界の人侍旺漣水軍に叛き、密かに本朝に款し、山東十二州の豪傑を結約して起義し、以て中原を復せんと称す。上以て敏に問う、敏曰く、「旺は吾が国の威を仮りて以て劫を行わんと欲するのみ、必ず事を成す能わず、願わくは聴く勿れ」と。適に屯田統領官旺と交通し、旺敗れ、金間言有り、上敏の罪に非ざるを知り、乃ち敏を召して左驍ぎょう衛上将軍と為す。

原文四年,北界人侍旺叛於漣水軍,密款本朝,稱結約山東十二州豪傑起義,以復中原。上以問敏,敏曰:「旺欲假吾國威以行劫爾,必不能成事,願勿聽。」適屯田統領官與旺交通,旺敗,金有間言,上知非敏罪,乃召敏為左驍衛上將軍。

言事者議して清河口を戍守せんと欲す、敏言う、「金兵毎に清河を出づるに、必ず人馬を遣わして先ず上流より潜かに渡る、今必ず其の地を守らんと欲せば、宜しく先ず楚州の城池を修むべし、蓋し楚州は南北の襟喉たり、彼此必ず争うの地なり。長淮二千余里、河道北方に通ずる者五、清・汴・渦・潁・蔡是なり;南方に通じて以て江に入る者は、惟だ楚州の運河のみ。北人の舟艦五河より下り、将に江を渡らんと謀るも、楚州の運河を得ざれば、自ら達する縁無し。昔周世宗楚州の北神堰より老鸛河を鑿ち、戦艦を通じて以て大江に入り、南唐遂に両淮の地を失う。此れより之を言えば、楚州実に南朝の司命たり、願わくは朝廷留意せよ」と。是に及び、再び出でて高郵を守るに、乃ち詔して楚州の守臣左祐と同く楚州に城せしむ、祐卒す、遂に移りて楚州を守る。北使過ぐる者其の雉堞堅新なるを観て、「銀鑄城」と号す。

原文言事者議欲戍守清河口,敏言:「金兵每出清河,必遣人馬先自上流潛渡,今欲必守其地,宜先修楚州城池,蓋楚州為南北襟喉,彼此必爭之地。長淮二千餘里,河道通北方者五,清、汴、渦、潁、蔡是也;通南方以入江者,惟楚州運河耳。北人舟艦自五河而下,將謀渡江,非得楚州運河,無緣自達。昔周世宗自楚州北神堰鑿老鸛河,通戰艦以入大江,南唐遂失兩淮之地。由此言之,楚州實為南朝司命,願朝廷留意。」及是,再出守高郵,乃詔與楚州守臣左祐同城楚州,祐卒,遂移守楚州。北使過者觀其雉堞堅新,號「銀鑄城」。

帰正人二百家の逃げ帰るを以て、降授して忠州團練使と為し、罷めて福建路総管と為し、江西路総管に改め、贛州に駐劄す。月余り、朝廷命じて往きて福州に軍を揀せしめ、又命じて豫よ章に還り江西團結諸郡の人馬を教閲せしむ。俄に佑神観を提挙し、仍って朝請を奉じ、継いて復た蘄州防禦使と為し、再び武鋒軍都統制を除し兼ねて楚州を知り、光州觀察使に復し、疾を以て卒す。特ちに慶遠軍承宣使を贈る。

原文以歸正人二百家逃歸,降授忠州團練使,罷為福建路總管,改江西路總管,贛州駐劄。月餘,朝廷命往福州揀軍,又命還豫章教閱江西團結諸郡人馬。俄提舉佑神觀,仍奉朝請,繼復蘄州防禦使,再除武鋒軍都統制兼知楚州,復光州觀察使,以疾卒。特贈慶遠軍承宣使。

張詔

原文張詔

張詔、字は君卿、成州の人。少くして張浚の帳下に隷し、功を積んで和州を守る。嘗て旨を被りて介聘す、一日金人持する所繪の祐・献二陵の像を館中に至らしむ、皆北地の服、詔之に向かって再拝す。館者之を問う、答えて曰く、「詔雖も其の人を識らず、但だ龍鳳の姿、天日の表、疑わくは北朝の祖宗に非ざるかと、敢えて拝せざらんや」と。孝宗聞きて之を喜び、是より驟用す。

原文張詔,字君卿,成州人。少隸張浚帳下,積功守和州。嘗被旨介聘,一日金人持所繪祐、獻二陵像至館中,皆北地服,詔向之再拜。館者問之,答曰:「詔雖不識其人,但龍鳳之姿,天日之表,疑非北朝祖宗也,敢不拜!」孝宗聞而喜之,由是驟用。

紹熙五年、興州都統制を除し兼ねて興州を知り、吳挺に代わる。慶元二年、趙彥逾蜀しょくに帥し、関外興元を去ること遠く、緩急事機を失わんことを恐れ、復た請うて東西を分かちて二帥と為さんことを、詔遂に西路安撫司公事を兼ぬ。先ず是に、趙汝愚従官たりし時、毎に奏して呉氏世々蜀兵を掌るは、国家の利に非ずとし、張詔を以て代わり武興の軍を領せんことを請う。蓋し汝愚の意は呉曦を文臣の帥と為し、以て他日兵を握るの漸を杜さんと欲するも、未だ及んで行わざるなり。汝愚既に枢密院を知り、力辞して拝せず、光宗に白して曰く、「若し武興朝に帥を除かば、則ち臣夕に命を拝せん」と。上之を許し、乃ち詔を成州團練使・興州諸軍都統制と為す。詔興州に在り、甚だ士心を得たり。六年卒す、郭杲之に代わる。

原文紹熙五年,除興州都統制兼知興州,代吳挺。慶元二年,趙彥逾帥蜀,以關外去興元遠,緩急恐失事機,復請分東西為二帥,詔遂兼西路安撫司公事。先是,趙汝愚為從官時,每奏吳氏世掌蜀兵,非國家之利,請以張詔代領武興之軍。蓋汝愚之意欲以吳曦為文臣帥,以杜他日握兵之漸,而未及行也。汝愚既知樞密院,力辭不拜,白於光宗曰:「若武興朝除帥,則臣夕拜命。」上許之,乃以詔為成州團練使、興州諸軍都統制。詔在興州,甚得士心。六年卒,郭杲代之。

畢再遇

原文畢再遇

畢再遇、字は德卿、兗州の人なり。父は進、建炎年間に岳飛に従い八陵を護衛し、江・淮の間を転戦し、累階して武義大夫に至る。再遇は恩蔭により官を補せられ、侍衛馬司に隷し、武藝人に絶し、弓を挽くこと二石七斗に至り、背にて一石八斗を挽き、歩射は二石、馬射は一石五斗なり。孝宗召見し、大いに悦び、戦袍・金銭を賜う。

原文畢再遇,字德卿,兗州人也。父進,建炎間從岳飛護衛八陵,轉戰江、淮間,積階至武義大夫。再遇以恩補官,隸侍衛馬司,武藝絕人,挽弓至二石七斗,背挽一石八斗,步射二石,馬射一石五斗。孝宗召見,太悅,賜戰袍、金錢。

開禧二年、詔を下して北伐し、殿帥郭倪を以て山東・京東を招撫せしめ、再遇と統制陳孝慶を遣わして泗州を取らしむ。再遇は新たに刺したる敢死軍を選びて前鋒と為さんことを請う。倪は八十七人を以て之に付す。招撫司は日を克ちて進兵す。金人これを聞き、榷場を閉じ城門を塞ぎて備えと為す。再遇曰く「敵は既に吾が師を済すの日を知れり。兵は奇を以て勝つ。先んずること一日、其の不意に出づべし」と。孝慶これに従う。再遇士卒に饗し、忠義を以て激し、進兵して泗州に迫る。泗には東西両城あり。再遇は戈旗舟楫を石屯下に陳べ、西城を攻めんと欲するが如くし、乃ち自ら麾下の兵を以て陟山の径より東城南角に趨き、先んじて登り、敵数百を殺し、金人大いに潰え、城を守る者は北門を開きて遁る。西城は猶堅く守る。再遇大将の旗を立て、呼びて曰く「大宋の畢将軍ここに在り。爾らは中原の遺民なり。速やかに降るべし」と。間もなく淮平知縣城を縋り下りて降を乞う有り。ここに於いて両城皆定まる。郭倪来たりて士に饗し、御宝の刺史牙牌を出だして再遇に授く。辞して曰く「国家河南八十有一州、今泗の両城を下して即ち一刺史を得ば、此を継ぐに何を以てか之を賞せん。且つ招撫は朝廷より幾つの牙牌を得来たれるか」と。固く辞して受けず。尋いで環衛官を除す。

原文開禧二年,下詔北伐,以殿帥郭倪招撫山東、京東,遣再遇與統制陳孝慶取泗州。再遇請選新刺敢死軍為前鋒,倪以八十七人付之。招撫司克日進兵,金人聞之,閉榷場、塞城門為備。再遇曰:「敵已知吾濟師之日矣,兵以奇勝,當先一日出其不意。」孝慶從之。再遇饗士卒,激以忠義,進兵薄泗州。泗有東西兩城,再遇令陳戈旗舟楫於石屯下,如欲攻西城者,乃自以麾下兵從陟山徑趨東城南角,先登,殺敵數百,金人大潰,守城者開北門遁。西城猶堅守,再遇立大將旗,呼曰:「大宋畢將軍在此,爾等中原遺民也,可速降。」旋有淮平知縣縋城而下乞降,於是兩城皆定。郭倪來饗士,出御寶刺史牙牌授再遇,辭曰:「國家河南八十有一州,今下泗兩城即得一刺史,繼此何以賞之?且招撫得朝廷幾牙牌來?」固辭不受。尋除環衛官。

倪は李汝翼・郭倬を調して宿州を取らしめ、復た孝慶等を遣わして之に継がしむ。再遇に四百八十騎を以て先鋒と為し徐州を取らしむことを命ず。虹に至り、郭・李の兵創を裹みて還るに遇う。之を問うに、則ち曰く「宿州城下大水有り、我が師利あらず、統制田俊邁既に敵の擒と為る」と。再遇兵を督して疾く趨き、霊壁に次ぐ。孝慶が鳳凰山に兵を駐め、将に還らんとするに遇う。再遇曰く「宿州は捷からざれども、然れども兵家の勝負常ならず。豈に遽に自ら挫くべけんや。吾は招撫の命を奉じて徐州を取らんとし、此に於いて仮道す。寧ろ霊壁北門外に死すとも、南門外に死せじ」と。会に倪書を以て孝慶に抵れ、師を班せしむ。再遇曰く「郭・李の軍潰ゆ。賊必ず追躡せん。吾自ら之を禦すべし」と。金果たして五千余騎を以て両道より来たる。再遇敢死二十人に命じて霊壁北門を守らしめ、自ら兵を領して敵陣を衝く。金人其の旗を見て呼びて曰く「畢将軍来たる」と。遂に遁る。再遇手に双刀を揮い、水を絶ちて追撃し、敵甚だ衆くを殺し、甲裳尽く赤し。北に逐うこと三十里。金将双鉄簡を持ち馬を躍して前に進む者有り。再遇左刀を以て其の簡を格し、右刀を以て其の脅を斫つ。金将馬より墮ちて死す。諸軍霊壁を発つ。再遇独り留まりて未だ動かず。軍の行くこと二十余里を度り、乃ち霊壁に火を放つ。諸将問う「夜は火せず、火今日す、何ぞや」と。再遇曰く「夜は則ち照らして虚実を見、晝は則ち煙埃睹る莫し。彼は已に敗れて敢えて迫らず、諸軍乃ち安んじて行きて虞無かるべし。汝輩安んぞ兵の進むは易くして退くは難きを知らんや」と。

原文倪調李汝翼、郭倬取宿州,復遣孝慶等繼之。命再遇以四百八十騎為先鋒取徐州,至虹,遇郭、李兵裹創旋,問之,則曰:「宿州城下大水,我師不利,統制田俊邁已為敵擒矣。」再遇督兵疾趨,次靈壁,遇孝慶駐兵於鳳凰山,將引還,再遇曰:「宿州雖不捷,然兵家勝負不常,豈宜遽自挫!吾奉招撫命取徐州,假道於此,寧死靈壁北門外,不死南門外也。」會倪以書抵孝慶,令班師,再遇曰:「郭、李軍潰,賊必追躡,吾當自禦之。」金果以五千餘騎分兩道來,再遇令敢死二十人守靈壁北門,自領兵衝敵陣。金人見其旗,呼曰:「畢將軍來也!」遂遁。再遇手揮雙刀,絕水追擊,殺敵甚眾,甲裳盡赤,逐北三十里。金將有持雙鐵簡躍馬而前,再遇以左刀格其簡,右刀斫其脅,金將墮馬死。諸軍發靈壁,再遇獨留未動,度軍行二十餘里,乃火靈壁。諸將問:「夜不火,火今日,何也?」再遇曰:「夜則照見虛實,晝則煙埃莫睹,彼已敗不敢迫,諸軍乃可安行無虞。汝輩安知兵易進而難退邪?」

泗州に還り、功第一と為り、武節郎より超授して武功大夫と為し、左驍衛将軍を除す。ここに於いて丘崈鄧友龍に代わりて宣撫使と為り、檄を飛ばして倪を維揚に還らしめ、尋いで泗州を棄つ。再遇に命じて盱眙に還らしめ、遂に盱眙軍を知り、尋いで鎮江中軍統制に改め、守ることを兼ねること故の如し。鳳凰山の功を以て、達州刺史を授く。其の冬、金人騎歩数万・戦船五百余艘を以て淮を渡り、楚州・淮陰の間に泊す。宣撫司檄を飛ばして再遇に楚を援けしめ、段政・張貴を遣わして之に代わらしむ。再遇既に盱眙を去るや、政等驚き潰え、金人盱眙に入る。再遇復た盱眙を定め、鎮江副都統制を除す。

原文還泗州,以功第一,自武節郎超授武功大夫,除左驍衛將軍。於是丘崈代鄧友龍為宣撫使,檄倪還維揚,尋棄泗州。命再遇還盱眙,遂知盱眙軍,尋改鎮江中軍統制,兼守如故。以鳳凰山功,授達州刺史。其冬,金人以騎步數萬、戰船五百餘艘渡淮,泊楚州、淮陰間,宣撫司檄再遇援楚,遣段政、張貴代之。再遇既去盱眙,政等驚潰,金人入盱眙;再遇復定盱眙,除鎮江副都統制。

金兵七万楚州城下に在り、三千淮陰の糧を守り、又糧三千艘を載せて大清河に泊す。再遇謀りて之を知り、曰く「敵衆十倍、力を以て勝つは難し。計を以て破るべし」と。乃ち統領許俊を遣わし間道より淮陰に趨かしめ、夜二鼓銜枚して敵営に至らしめ、各火を携えて潜かに入り、糧車の間に五十余所に伏す。哨声を聞きて火を挙つ。敵驚き擾い奔竄す。烏古倫帥勒・蒲察元奴等二十三人を生擒す。

原文金兵七萬在楚州城下,三千守淮陰糧,又載糧三千艘泊大清河。再遇謀知之,曰:「敵眾十倍,難以力勝,可計破也。」乃遣統領許俊間道趨淮陰,夜二鼓銜枚至敵營,各攜火潛入,伏糧車間五十餘所,聞哨聲舉火,敵驚擾奔竄,生擒烏古倫帥勒、蒲察元奴等二十三人。

金人復た黄狗灘より淮を渡り、渦口の戍将風を望みて遁れ、濠・滁相継いで失守し、又安豊を破る。再遇諸将に謂いて曰く「楚城堅く兵多し。敵の糧草已に空し。慮る所独り淮西のみ。六合最も要害なり。彼必ず力を併せて之を攻めん」と。乃ち兵を引きて六合に赴く。尋いで命じて淮東軍馬を節制せしむ。金人竹鎮に至り、六合より二十五里を距つ。再遇城に登り、旗鼓を偃し、伏兵を南土門にし、弩手を土城上に列ぶ。敵方に濠に臨むや、衆弩俱に発す。宋師出でて戦う。鼓声を聞き、城上の旗幟並びに挙がる。金人驚き遁る。追撃して大いに之を敗る。金万戸完顔蒲辣都・千戸泥龐古等十万騎を以て成家橋・馬鞍山に駐まり、進兵して城を数重に囲み、壩木を焼き壕水を決せんと欲す。再遇勁弩を令して之を射退す。既にして紇石烈都統兵を合して進攻すること益々急なり。城中矢尽きる。再遇人をして青蓋を張り往来して城上に往來せしむ。金人其の主兵官なるを意い、争いて之を射る。須臾にして矢楼墻に集まりて蝟の如し。矢二十余万を獲る。紇石烈兵を引きて退く。已にして乃ち益々兵を増し、城を環る四面の営帳三十里に亙る。再遇門に臨みて楽を作して閑暇を示し、而して間に出でて奇兵を以て之を撃つ。敵晝夜休むことを得ず。乃ち引きて退く。再遇其の将に復た来たらんことを料り、乃ち自ら兵を提げて城東野新橋を奪い、敵の背に出づ。金人遂に遁り去る。滁に追い至る。大雨雪。乃ち旋る。騾馬一千五百三十一・鞍六百を獲、衣甲旗幟之に称す。忠州団練使を授く。

原文金人復自黃狗灘渡淮,渦口戍將望風遁,濠、滁相繼失守,又破安豐。再遇謂諸將曰:「楚城堅兵多,敵糧草已空,所慮獨淮西耳。六合最要害,彼必並力攻之。」乃引兵赴六合。尋命節制淮東軍馬。金人至竹鎮,距六合二十五里。再遇登城,偃旗鼓,伏兵南土門,列弩手土城上,敵方臨濠,眾弩俱發,宋師出戰,聞鼓聲,城上旗幟並舉,金人驚遁,追擊大敗之。金萬戶完顏蒲辣都、千戶泥龐古等以十萬騎駐成家橋、馬鞍山,進兵圍城數重,欲燒壩木,決壕水,再遇令勁弩射退之。既而紇石烈都統合兵進攻益急,城中矢盡,再遇令人張青蓋往來城上,金人意其主兵官也,爭射之,須臾矢集樓墻如蝟,獲矢二十餘萬。紇石烈引兵退,已乃益增兵,環城四面營帳亙三十里。再遇令臨門作樂以示閑暇,而間出奇兵擊之。敵晝夜不得休,乃引退。再遇料其且復來,乃自提兵奪城東野新橋,出敵之背,金人遂遁去,追至滁,大雨雪,乃旋。獲騾馬一千五百三十一、鞍六百,衣甲旗幟稱是。授忠州團練使。

三年、鎮江都統制兼権山東・京東招撫司事を除す。揚州に還り至り、驍衛大将軍を除す。金楚州を囲むこと已に三月、屯を列ねること六十余里。再遇将を遣わし分道して撓撃せしめ、軍声大いに振う。楚の囲み解く。揚州を知り淮東安撫使を兼ぬ。揚州に北軍二千五百人有り。再遇建康・鎮江軍に分隷せんことを請う。毎隊数人を過ぎず、以て変を為すことを得ざらしむ。軽甲を更に造り、長さ膝を過ぎず、披くこと肘を過ぎず、兜鍪も亦重きを殺して軽く為し、馬甲は皮に易え、車牌は木に易えて其の下に転軸を設け、一人の力を以て推し擎つることを得しめ、務めて便捷にして重遲たらしめず。敢死一軍、本より烏合の亡命なり。再遇能く駕馭して其の用を得しむ。陳世雄・許俊等皆再遇の薦むる所なり。張健雄勇を恃みて桀驁なり。再遇其の罪を状して朝に上す。命じて軍法を以て之を戮せしむ。諸将慴服す。

原文三年,除鎮江都統制兼權山東、京東招撫司事。還至揚州,除驍衛大將軍。金圍楚州已三月,列屯六十餘里。再遇遣將分道撓擊,軍聲大振,楚圍解。兼知揚州、淮東安撫使。揚州有北軍二千五百人,再遇請分隸建康、鎮江軍,每隊不過數人,使不得為變。更造輕甲,長不過膝,披不過肘,兜鍪亦殺重為輕,馬甲易以皮,車牌易以木而設轉軸其下,使一人之力可推可擎,務便捷不使重遲。敢死一軍,本烏合亡命,再遇能駕馭得其用。陳世雄、許俊等皆再遇所薦。張健雄恃勇桀驁,再遇狀其罪於朝,命以軍法戮之,諸將懾服。

嘉定元年、左驍衛上将軍を除す。和好成る。累疏して帰田里を乞う。詔を賜いて允さず。保康軍承宣使を除し、詔を降して獎諭し、尋いで職を帯びて奏事せしめ、佑神観を提挙せしむ。六年、太平興国宮を提挙す。十年、武信軍節度使を以て致仕す。卒す。年七十。太尉を贈り、累贈して太師と為し、諡して「忠毅」と曰う。

原文嘉定元年,除左驍衛上將軍。和好成,累疏乞歸田里,賜詔不允,除保康軍承宣使,降詔獎諭,尋令帶職奏事,提舉佑神觀。六年,提舉太平興國宮,十年,以武信軍節度使致仕。卒,年七十。贈太尉,累贈太師,諡「忠毅」。

再遇は姿形雄傑にして、早くより拳力をもって聞こえ、時に兵を寝かすに属し、自ら見る所なし。一旦辺事起こり、諸将風を望んで奔衄するに及び、再遇の威声始めて著しく、遂に名将となる。

原文再遇姿貌雄傑,早以拳力聞,屬時寢兵,無所自見。一旦邊事起,諸將望風奔衄,再遇威聲始著,遂為名將云。

安丙

原文安丙

安丙、字は子文、広安の人なり。淳熙年間の進士、大足県主簿に調ず。秩満ちて闕に詣り、蜀の利病十五事を陳べ、言皆剴切なり。外艱に遭い、服除け、利西安撫司幹辦公事に辟せられ、曲水丞に調ず。呉挺帥たり、其の才を知り、邀えて致す。秩を改め、新繁県を知る。内艱に遭い、服除け、小溪県を知る。隆慶府を通判し、嘉泰三年、郡大水す。丙守の張鼎に白し、常平粟を発して之を振る。尋いで又石を鑿ち溪を徙し、是より水患無し。大安軍を知り、歳旱し、民食に艱し。丙家財を以て下流に即き米数万石を糴して振る。事聞こえ、詔して一秩を加う。

原文安丙,字子文,廣安人。淳熙間進士,調大足縣主簿。秩滿詣闕,陳蜀利病十五事,言皆剴切。丁外艱,服除,辟利西安撫司幹辦公事,調曲水丞。吳挺為帥,知其才,邀致之。改秩,知新繁縣。丁內艱,服除,知小溪縣。通判隆慶府,嘉泰三年,郡大水,丙白守張鼎,發常平粟振之。尋又鑿石徙溪,自是無水患。知大安軍,歲旱,民艱食,丙以家財即下流糴米數萬石以振。事聞,詔加一秩。

開禧二年、辺事方に興り、程松四川宣撫使と為り、呉曦之に副う。丙十の憂う可きを松に陳ぶ。継いて松漢中に開府し、三泉を道す。夜丙を延いて議す。丙又松に為り曦必ず国を誤らんと為すを言う。松省みず。蓋し丙嘗て其の父の客と為り、素より曦を知る。既にして曦丙を随軍転運司と為すを奏し、河池に居らしむ。時に梁・洋の義士方に和尚原を襲い取り、旋って金人の奪う所と為り、守将甲を棄てて走る。十一月戊子、金人湫池堡を攻め、天水を破り、西和より成州に入る。師潰え、曦置きて問わず。金人関外四州を肆に掠め、虚邑を践むが如く、軍民死する所を知る莫し。曦已に潜かに其の客姚淮源を遣わし金人に交わる。是に至り曦興州に還り、丙を魚関に留め、已にして檄して武興に還らしむ。十二月丙寅、金人其の詔及び金印を持ちて罝口に至る。曦密かに之を受け、使者四州を得て以て和せんと欲すと宣言し、書を馳せて松を去らしむるを諷す。癸酉、曦金の詔を受け蜀王と称し、榜して四川に諭す。三年正月甲午、曦号を僭し官を建て、金に臣と称し、其の月を元年と為し、興州を改めて興徳府と為し、丙を中大夫・丞相長史・権行都省事と為す。

原文開禧二年,邊事方興,程松為四川宣撫使,吳曦副之,丙陳十可憂於松。繼而松開府漢中,道三泉,夜延丙議。丙又為松言曦必誤國,松不省。蓋丙嘗為其父客,素知曦。既而曦奏丙為隨軍轉運司,居河池。時梁、洋義士方襲取和尚原,旋為金人所奪,守將棄甲而走。十一月戊子,金人攻湫池堡,破天水,繇西和入成州,師潰,曦置不問。金人肆掠關外四州,如踐虛邑,軍民莫知死所。曦已潛遣其客姚淮源交金人,至是曦還興州,留丙魚關,已而檄還武興。十二月丙寅,金人持其詔及金印至罝口,曦密受之,宣言使者欲得四州以和,馳書諷松去。癸酉,曦受金詔稱蜀王,榜諭四川。三年正月甲午,曦僭號建官,稱臣於金,以其月為元年,改興州為興德府,以丙為中大夫、丞相長史、權行都省事。

先ず是れ、従事郎銭鞏之の曦に従いて河池に在りしに、嘗て曦の神祠に祷り、銀杯を以て珓と為し之を擲つを夢み、神起立して曦に謂いて曰く、「公何をか疑う?公何をか疑う?後の政事已に安子文に分付せり」と。曦未だ省みず、神又曰く、「安子文才有り、足能く此を弁ず」と。鞏之覚め、心に其の事を異とし、具に以て曦に語る。事既に熾んずるに及び、丙脱するを得ず、徒に死するは益無しと度り、陽に与して陰に之を図る。遂に楊巨源・李好義等と謀りて曦を誅す。語は『巨源』『好義伝』に見ゆ。徐景望利州に在り、土人を逐い、財賦を擅にす。丙弟の煥を遣わし往きて諸将を約し、相与に拠定す。景望誅せらるるに及び、軍民嘩する者敢えて無し。是に於て檄を諸道に伝え、堵の如く故に按ず。曦位を僭すること凡そ四十一日。三月戊寅、曦の反する所以及び矯制して賊を平げ便宜に功を賞する状を陳べ、自ら劾して罪を待つ。曦の首級・違制の法物と曦の受けし金人の詔印及び匿う所の庚牌を函し、駅に附す。

原文先是,從事郎錢鞏之從曦在河池,嘗夢曦禱神祠,以銀杯為珓擲之,神起立謂曦曰:「公何疑?公何疑?後政事已分付安子文矣。」曦未省,神又曰:「安子文有才,足能辦此。」鞏之覺,心異其事,具以語曦。事既熾,丙不得脫,度徒死無益,陽與而陰圖之。遂與楊巨源、李好義等謀誅曦,語見《巨源》、《好義傳》。徐景望在利州,逐土人,擅財賦。丙遣弟煥往約諸將,相與拊定,及景望伏誅,軍民無敢嘩者。於是傳檄諸道,按堵如故。曦僭位凡四十一日。三月戊寅,陳曦所以反及矯制平賊便宜賞功狀,自劾待罪,函曦首級、違制法物與曦所受金人詔印及所匿庚牌附驛。

朝廷初め変を聞き、為す所を知る莫し。韓侂冑曦に与うる書にも亦「茅土の封を嗣に頒つ」と謂い、亟に知鎮江府宇文紹節を召して之を問う。紹節曰く、「安丙逆に附する者に非ず、必ず能く賊を討たん」と。是に於て密かに帛書を降して曰く、「安丙素より才具を推し、事功に志有り。今曦の謀の軌に不なるを聞く。爾其の脅かす所と為る。諒らくは凶焰方に張るを以て、恐らくは重ねて蜀の禍と為さんことを恐るる故に、権且く之に従う爾。豈に一日君父を忘れんや。如し能く曦を図り国に報い、以て本心を明らかにせば、即ち当に次を不にして賞を推すべし。二府の崇と雖も亦吝う所無し。更に宜しく機便を審度し、務めて事を成すに在りて、以て委属の意に副わん」と。帛書未だ至らざるに、露布已に聞こえ、上下動色して交えて慶す。辛丑、丙に端明殿学士・中大夫・知興州・安撫使兼四川宣撫副使を加え、詔して諭を獎し、恩数執政を視す。帛書の旨の如し。

原文朝廷初聞變,莫知所為。韓侂胄與曦書,亦謂「嗣頒茅土之封」,亟召知鎮江府宇文紹節問之,紹節曰:「安丙非附逆者,必能討賊。」於是密降帛書曰:「安丙素推才具,有志事功,今聞曦謀不軌,爾為所脅,諒以凶焰方張,恐重為蜀禍,故權且從之爾,豈一日忘君父者?如能圖曦報國,以明本心,即當不次推賞,雖二府之崇亦無所吝,更宜審度機便,務在成事,以副委屬之意。」帛書未至,露布已聞,上下動色交慶。辛丑,加丙端明殿學士、中大夫、知興州、安撫使兼四川宣撫副使,詔獎諭,恩數視執政,如帛書旨也。

時に都統孫忠鋭鳳州より由りて大散関を攻め克たず、統領強徳等奇道より出で松林堡より由りて金の砦を破る。四月癸丑、之を克つ。忠鋭功を貪り財を吝しみ、賞罰迷繆し、大いに軍心を失う。且つ速やかに鳳州に還り、関鑰を庸将陳顕に付す。癸酉、大散関復た陥つ。巨源自ら収復を請う。丙朱邦寧を遣わし之を佐く。丙深く忠鋭を悪み、檄して司に赴き事を議せしめ、之を廃せんと欲す。巨源鳳に至り、忠鋭及び其の子揆を斬る。丙遂に忠鋭の偽に附し進表の罪を以て朝に聞こゆ。先ず是れ、曦を誅する功を以て、巨源朝奉郎を補し、通判差遣と与う。巨源其の親校傅檜を遣わし功を朝に訴う。語は『巨源伝』に見ゆ。是に於て丙疏を拝して閑を丐う。是に至り、金人境上に掲示し、丙の首を得る者銀絹二万匹両を与え、即ち四川宣撫を授けんとす。

原文時都統孫忠銳由鳳州進攻大散關不克,統領強德等出奇道由松林堡破金砦,四月癸丑,克之。忠銳貪功吝財,賞罰迷繆,大失軍心,且速還鳳州,以關鑰付庸將陳顯。癸酉,大散關復陷。巨源自請收復,丙遣朱邦寧佐之。丙深惡忠銳,檄赴司議事,欲廢之。巨源至鳳,斬忠銳及其子揆,丙遂以忠銳附偽進表之罪聞於朝。先是,以誅曦功,巨源補朝奉郎,與通判差遣。巨源遣其親校傅檜訴功於朝,語見《巨源傳》。於是丙拜疏丐閑。至是,金人揭示境上,得丙首者與銀絹二萬匹兩,即授四川宣撫。

時に方に和を議し、丙独り将士を戒飭し、恫疑虚喝し、攻を以て守と為し、威声甚だ著し。詔して蜀平を以て、呉獵を遣わし四川を撫諭す。時に沿辺の関隘悉く金の毀する所と為る。丙時相に遺す書に謂く、「西和の一面、已に仇池を修し、糧を聚め芻を積み、軍民をして守る可からしむ。若し敵至らば、則ち堅壁して戦わず。彼攻めんと欲すれば則ち不可、越えんと欲すれば則ち敢えず。若し西和守る可くば、成州の境自ら敢えて犯さず。成州黒谷・南谷も亦皆重兵を頓す。天水は守る可からずと雖も、天水より十里所に距り、白環堡を創するを見る。西和と相い掎角を為し、又堡を鶏頭山に増し、咸く民卒を以て之を守らしむ。及び黄牛堡を修し、興趙原を築き、千余人を屯す。鳳州秋防原尤も険絶なり。紹興初、州此に治す。宣撫呉玠嘗て家計砦を為す。前即ち馬嶺堡、正に鳳州の後を扼す。凡そ此の数堡既に堅くば、金人決して敢えて近づかず。而して河池・殺金平・魚関皆大軍の屯聚する所。其他の径路、関の裏の如きは大安と雖も、亦陰に民卒を招き、器械を授け、掩撃の備えと為す」と。又云く、「関表に於て広く義士を結び、月に糧を給し、各々田廬墳墓を保たしむ。事定まるに逮り、則ち之を尺籍に係し而して耕を勧め、庶幾くは久しきを経ん。丙の見る所を以てすれは、直に守の計と為せば、則ち五万人を精選するも亦余り有りと為す」と。

原文時方議和,丙獨戒飭將士,恫疑虛喝,以攻為守,威聲甚著。詔以蜀平,遣吳獵撫諭四川。時沿邊關隘悉為金毀,丙遺時相書,謂:「西和一面,已修仇池,聚糧積芻,使軍民可守。若敵至,則堅壁不戰,彼欲攻則不可,欲越則不敢。若西和可守,成州之境自不敢犯。成州黑谷、南谷亦皆頓重兵。天水雖不可守,距天水十里所,見創白環堡,與西和相為掎角,又增堡雞頭山,咸以民卒守之,及修黃牛堡,築興趙原,屯千餘人。鳳州秋防原尤為險絕,紹興初,州治於此,宣撫吳玠嘗作家計砦,前即馬嶺堡,正扼鳳州之後。凡此數堡既堅,金人決不敢近。而河池、殺金平、魚關皆大軍屯聚,其他徑路,雖關之裏如大安,亦陰招民卒,授以器械,為掩擊之備矣。」又云:「見於關表廣結義士,月給以糧,俾各保田廬墳墓,逮事定,則係之尺籍而勸之耕,庶可經久。以丙所見,直為守計,則精選五萬人亦為有餘。」

好義西和を守り、四州兵後の、民聊生せずと謂い、租を蠲して以て創痍を恵まんことを請う。丙朝に請う。又沔州都統司の統ぶる所の十軍権太重きを以て、故に呉璘より挺・曦に至るまで皆尾大不掉の憂い有り。乃ち副都統制を分置し、各々相い隷せず、以前右中左後の五軍を都統司に隷し、踏白・摧鋒・選鋒・策鋒・遊奕の五軍を副司に隷せんことを請う。詔皆之に従う。

原文好義守西和,謂四州兵後,民不聊生,請蠲租以惠創痍。丙請於朝。又以沔州都統司所統十軍權太重,故自吳璘至挺、曦皆有尾大不掉之憂,乃請分置副都統制,各不相隸,以前右中左後五軍隸都統司,踏白、摧鋒、選鋒、策鋒、遊奕五軍隸副司。詔皆從之。

時に方信孺使いより還り、金人の和意未だ決せず、且つ首に興師を議するの人を得んと欲す。侂冑大いに怒る。上手書を賜い丙に、謂く、「金人必ず再び至らん。当に将士を激勵し、戮力して功に赴くべし」と。侂冑既に誅せらるるに及び、丙に金器百二十両・細幣二十匹を賜い、資政殿学士に進む。和議成り、大散・隔牙関を還す。丙僚吏を分遣し、洋・沔・興元・大安の民田を経量し、別に租税を定む。

原文時方信孺使還,金人和意未決,且欲得首議興師之人,侂胄大怒。上手書賜丙,謂:「金人必再至,當激勵將士,戮力赴功。」侂胄既誅,賜丙金器百二十兩、細幣二十匹,進資政殿學士。和議成,還大散、隔牙關。丙分遣僚吏,經量洋、沔、興元、大安民田,別定租稅。

右丞相史彌遠が起復(服喪中に官職に復帰すること)を命ぜられると、安丙は書状を送って言った、「昔、仁宗が富鄭公(富弼)・文潞公(文彦博)を起復し、孝宗が蔣丞相(蔣芾)を起復した時、皆力強く辞退した。名教に関わることであり、人の言葉は畏るべきである。閣下が速やかに成命を辞退され、議論する者の口を止められることを望む。」と。論者はこれを是とした。大学士に昇進し、四川制置大使を兼ねて興元府知事となった。諜報により金人が汴(開封)に遷都し、関輔の豪傑が国境に赴いて降伏を願う者が多いことを知った。安丙はこれこそ冉閔が晉に告げた時と同じであると考え、宰臣に書状を送り、問罪の師を起こすべきであると述べた。朝廷の議論は安丙が軽挙することを憂い、詔を下して安丙に守備を一層修めるよう命じた。

原文右丞相史彌遠起復,丙移書曰:「昔仁宗起復富鄭公、文潞公,孝宗起復蔣丞相,皆力辭,名教所係,人言可畏,望閣下速辭成命,以息議者之口。」論者韙之。升大學士、四川制置大使兼知興元府。諜知金人遷汴,關輔豪傑款塞願降者眾。丙以為此正冉閔告晉之時,乃與宰臣書,謂當興問罪之師。朝論憂丙輕舉,乃詔丙益修守備。

嘉定七年(1214年)春、安丙は寵愛する官吏の安蕃・何九齢に命じて官軍と合流させ夜襲で秦州を攻撃させたが、敗れて帰還した。王大才が何九齢ら七人を捕らえて斬り、朝廷に安丙を訴えた。三月、詔により安丙を同知樞密院事兼太子賓客とし、親筆の詔書を賜って召還した。広徳軍まで行ったところで、観文殿學士に進み、潭州知事・湖南安撫使に任じられた。任地に着くと、学校に留意し、太常に大成楽を創設するよう請願した。しかし政治は厳酷を尚び、転運判官の章徠が安丙を弾劾したが、回答はなかった。御史の李安行が章徠と共に弾劾したため、章徠は罷免され、安丙は崇信軍節度使・開府儀同三司・萬壽觀使を授けられた。譴閣門舍人の聞人璵に命書を賜い、旌節・金印・衣帯・鞍馬を下賜された。三度辞退し、蜀に帰還した。

原文七年春,丙使所愛吏安蕃、何九齡合官軍夜襲秦州,敗歸。王大才執九齡等七人斬之,而訟丙於朝。三月,詔丙同知樞密院事兼太子賓客,賜手書召之。行次廣德軍,進觀文殿學士、知潭州、湖南安撫使。至官,留意學校,請於太常創大成樂。而政尚嚴酷,轉運判官章徠劾丙,不報。御史李安行並徠劾之,徠罷,丙授崇信軍節度使、開府儀同三司、萬壽觀使。譴閣門舍人聞人璵錫命,賜旌節、金印、衣帶、鞍馬。三辭,還蜀。

董居誼が蜀を統帥したが、大いに士人の心を失った。金人がこれに乗じ、赤丹・黄牛堡を破り、武休関に入り、梁・洋を直撃し、大安に至り、宋軍は至る所で潰走し、巴山に散り散りになった。嘉定十二年(1219年)、聶子述が代わった。当時、安丙の子の安癸仲は果州知事であり、子述はただちに檄を飛ばして参議官を兼任させた。四月、紅巾の賊の張福・莫簡が反乱を起こし、利州に入り、子述は逃げ去った。総領財賦の楊九鼎が賊と遭遇し、民家に逃げ隠れたが、賊は九鼎を追って殺害した。子述は剣門に退いて守り、檄を飛ばして癸仲に軍馬の節制を兼任させ、賊討伐の責任を負わせた。癸仲は戎帥の張威らの軍を召し寄せて合流させた。賊は閬州から遂寧に向かい、通過した地は残滅しない所はなかった。安丙は自ら十万緡を持って子述と共に益昌に行き兵士を募ろうとしたが、子述は言った、「大臣は上旨を得なければ、軽々しく出てはならない。」と。安丙はそこで果州に行った。

原文董居誼帥蜀,大失士心。金人乘之,破赤丹、黃牛堡,入武休關,直搗梁、洋,至大安,宋師所至輒潰,散入巴山。十二年,聶子述代之。時丙之子癸仲知果州,子述即檄兼參議官。四月,紅巾賊張福、莫簡叛,入利州,子述遁去。總領財賦楊九鼎與賊遇,走匿民舍,賊追九鼎殺之。子述退保劍門,檄癸仲兼節制軍馬,任討賊之責。癸仲召戎帥張威等軍來會,賊自閬趨遂寧,所過無不殘滅。丙欲自持十萬緡偕子述往益昌募士,子述曰:「大臣非得上旨,未可輕出。」丙遂如果州。

当時、四川は大いに震動し、呉曦の変乱の時よりも甚だしかった。張方がまず上奏し、勲望が安丙の如き者は、今なお用いることができると述べた。魏了翁は宰執に書状を送り、安丙が起用されなければ、賊は即座に平定されず、蜀は安定せず、賊でさえも「安相公が宣撫とならなければ、事は定まらない」と言っていると述べた。李壁・李篁は当時ともに潼川府・遂寧府を鎮守していたが、皆国事をもって安丙を励ました。五月乙未の日、安丙は果州に到着し、この日、賊は蓬渓県を焼いた。

原文時四川大震,甚於曦之變。張方首奏,勳望如丙,今猶可用。魏了翁移書宰執,謂安丙不起,則賊未即平,蜀未可定,雖賊亦曰:「須安相公作宣撫,事乃定耳。」李壁、李篁時並鎮潼、遂,亦皆以國事勉丙。五月乙未,丙至果州,是日賊焚蓬溪縣。

己酉の日、詔を下して安丙を四川宣撫使として起用し、便宜を許し、まもなく制を降して保寧軍節度使兼興元府知事・利東安撫使を授けた。安丙は上奏して言った、「臣は老いを辞さず国に報いようとするが、事が怨みを引き受けるものでなければ、成し遂げるのは難しく、誹謗が交々攻め寄せ、臣が独り赤心を抱きながら、上に申し開きする術がないことを恐れる。昔、秦が甘茂に宜陽を攻めさせた時、『息壤が彼処にある』と質に取り、魏が楽羊に中山を攻めさせた時、誹謗の書簡一箱を示した。君臣の間では、このようである必要はないと思われる。しかし古より今に至るまで、誹謗は疑いと離間によって成り立ち、禍いは嫉妬によって得られる。況や臣は既に過去に傷ついた弓であり、どうして今来たるべき沸騰を戒めないでいられようか。」詔は言った、「昔、唐太宗は西寇が未だ平定されないとして、詔を下して李靖を起用した。靖は慷慨として行くことを請い、老病を理由にしなかった。代宗は朔方の難があり、郭子儀を任用しようと図り、命を聞いて道を引き、讒言や猜疑を自ら疑うこともなかった。皆時勢に乗じて功を立て、竹帛に輝いた。朕は甚だこれを慕う。今、蜀道が乱れ、顧み憂いを緩めることができない。朕は卿を閑居から起用し、方面を委ねる。そして卿は国に報いることに忠であり、難を辞さない義である。朕の用人はほぼ唐宗に近く、卿が朕に仕えることは李・郭に愧じない。勉めて優れた功績を図り、国事を助けよ。」まもなく丁焴をして興元府知事に改任させた。

原文己酉,詔起丙為四川宣撫使,予便宜,尋降制授保寧軍節度使兼知興元府、利東安撫使。丙奏:「臣不辭老以報國,但事不任怨,難以圖成,將恐騰謗交攻,使臣獨抱赤心,無從上白。昔秦使甘茂攻宜陽,至質之以『息壤在彼』,魏使樂羊攻中山,至示之以謗書一篋。君臣之間,似不必爾。然自古及今,謗以疑間而成,禍以忌嫉而得;況臣已傷弓於既往,豈容不懲沸於方來。」詔曰:「昔唐太宗以西寇未平,詔起李靖,靖慷慨請行,不以老疾為解。代宗有朔方之難,圖任郭子儀,聞命引道,亦不以讒惎自疑。皆能乘時立功,焜燿竹帛,朕甚慕之。今蜀道俶擾,未寬顧憂,朕起卿燕閑,付以方面,而卿忠於報國,誼不辭難,朕之用人庶幾於唐宗,卿之事朕無愧於李、郭矣。勉圖雋功,以濟國事!」尋命丁焴改知興元府。

甲申の日、果州を出発した。丙戌の日、遂寧に到着した。賊はなお普州の茗山に拠って固守していた。安丙は諸軍に合囲を命じ、薪や水を汲む道を絶って賊を困窮させた。まもなく、張威・李貴が張福ら十七人を捕虜として献上した。安丙は王大才を臠(細切れ)にして楊九鼎の霊前に捧げるよう命じた。七月庚子の日、残党千余人を全て捕虜とし、皆斬った。庚戌の日、軍を返し、治所を利州に移した。保寧軍節度使の印を賜った。癸仲もまた三階進級し、直華文閣に進み、起復して宣撫司機宜文字を主管した。翌年、安丙を少保に進め、衣帯・鞍馬を賜った。

原文甲申,發果州。丙戌,至遂寧,賊猶負固於普州之茗山。丙下令諸軍合圍,絕其樵汲之路以困之。未幾,張威、李貴俘獲張福等十七人以獻,丙命臠王大才以祭九鼎。七月庚子,盡俘餘黨千餘人,皆斬之。庚戌班師,乃移治利州,賜保寧軍節度使印。癸仲亦加三秩,進直華文閣,起復,主管宣撫司機宜文字。明年,進丙少保,賜衣帶鞍馬。

安丙は関表(関外)の営田に多くの未収益があると考え、官吏に命じて調査させた。文垓という者がおり、ちょうど母の喪に服していたが、便宜により起復させ、魚関糧料院の幹辦とし、措置を担当させ、さらに宣撫副使の印を仮に与えた。また馮安世という者は、利州に根括局を設置した。そこで魏了翁は安丙に書状を送り、「幕府が人材を推挙登用するには、経術に通じ信義厚い士人を用いるべきで、喪中を冒す者を用いるべきではない。かつ公は八年蜀を鎮守し、恩があれば怨みもある。どうして一人一人と争い、一事一事と理められようか。自らの立場を甚だ狭くするだけで、子孫や賓客に果てしない累を残す恐れがある。今日の財政は従来の常套に拘り難いとはいえ、絶産を告げ、白契を首とし、隠田をあばき、富民の過失を伺い、塩酒戸の不足額を糾弾し、怨みを晴らし憤りを抱き、権力を招き賄賂を受け取る者が、必ずや紛然として起こるであろう。そして公がその怨みを負うことになる。」と述べた。安丙は返書で言った、「関外での買い入れには四百万緡が必要であるが、総所に見える緡は二十五万に過ぎない。様々な方法で措置するのは、已むを得ずして已まないのである。もし皆清流であれば、どうして事務を処理できようか。蜀の士人の中で令弟の嘉父(魏了翁の弟)・李成之の輩は、清ければ清く、高ければ高いが、彼らが銭穀のような俗務を処理しようとするだろうか。劉徳修(劉光祖)はかつて楊嗣勲が義を挙げて叛徒を誅殺できなかったことを雅に責めたが、嗣勲は言った、『徳修はただ当局でなかっただけだ』と。丙も華父(魏了翁)に対して同じことを言う。」その後、安世の不法はますます甚だしくなり、近臣が安丙に書状を送り、また安世の徒党もその事を発覚させた。安丙は安世を枷をはめて大安に送り、徹底的に取り調べさせた。

原文丙以關表營田多遺利,命官括之。有文垓者,方持母喪,以便宜起復,幹辦魚關糧料院,俾之措置,且以宣撫副使印假之。而馮安世者,又即利州置根括局。於是了翁遺丙書,謂:「幕府舉辟,當用經術信厚之士,不可用冒喪之人。且公八年鎮蜀,有恩則有怨,豈可人人而校,事事而理,自處甚狹,恐貽子孫賓客無窮之累。雖今日理財難拘故常,然告絕產、首白契、訐隱田、伺富民過失、糾鹽酒戶虧額,報怨挾憤、招權納賄者,必且紛然,而公任其怨。」丙復書曰:「關外糴買當用四百萬緡,而總所見緡止二十五萬,多方措置,非得已而不已。儻皆清流,何由辦事?蜀士中如令弟嘉父、李成之輩,清則清、高則高矣,其肯辦錢穀俗務乎?劉德修嘗雅責楊嗣勳不能舉義誅叛,嗣勳云:『德修特未當局耳。』丙於華父亦云。」其後,安世不法滋甚,近臣有以書抵丙,而安世之徒亦發其事,丙械送大安窮治之。

先に、夏人が援軍を請い、共に金人を攻撃しようとした。安丙は上奏すると同時に行動を起こし、将士を分遣して秦・鞏・鳳翔に向かわせ、丁焴に節制を委ねた。軍は鞏に駐屯した。夏人は枢密使の甯子寧に二十万余りの兵を率いさせ、夏兵は野戦を、宋軍は攻城を担当することを約束した。その後、鞏を攻撃したが陥落せず、そこで止めた。

原文先是,夏人來乞師並兵攻金人,丙且奏且行,分遣將士趨秦、鞏、鳳翔,委丁焴節制,師次於鞏。夏人以樞密使甯子寧眾二十餘萬,約以夏兵野戰,宋師攻城。既而攻鞏不克,乃已。

安丙が卒去すると、訃報が届き、少傅を以て致仕とし、視朝を二日間停止し、少師を追贈し、賻として銀絹千単位を賜い、沔州の祠額に「英恵廟」と賜った。理宗は親筆の劄を賜い、「忠定」と諡した。安丙の著作に『皛然集』がある。

原文丙卒,訃聞,以少傅致仕,輟視朝二日,贈少師,賻銀絹千計,賜沔州祠額為「英惠廟」。理宗親劄賜諡「忠定」。丙所著有《皛然集》。

楊巨源

原文楊巨源

楊巨源、字は子淵、その先祖は成都の人である。父の信臣は益昌に客居し、そこで家を構えた。巨源は倜儻として大志を持ち、騎射を得意とし、諸子百家の書に広く涉獵した。進士に応じたが及第せず、武挙にも及第しなかった。劉光祖は彼を見て異才と認め、総領銭糧の陳曄に推薦し、右職として挙げられて鳳州堡子原の倉官となった。駆け回り狩猟をし、財産を傾けて士人を養い、沿辺の忠義の人々は皆その才能に服した。魚関糧料院に分差され、興州合江の贍軍倉の監に移った。

原文楊巨源,字子淵,其先成都人。父信臣,客益昌,因家焉。巨源倜儻有大志,善騎射,涉獵諸子百家之書。應進士不中,武舉又不中。劉光祖見而異之,薦之總領錢糧陳曄,以右職舉為鳳州堡子原倉官,馳騁射獵,傾財養士,沿邊忠義,咸服其才。分差魚關糧料院,移監興州合江贍軍倉。

呉曦が反乱を起こすと、楊巨源は密かに賊を討つ志を持ち、義士三百人を結集し、彼らに銭糧を与えた。遊奕軍統領の張林という者がおり、力は二石の弓を引くことができ、隊将の朱邦寧は身長六尺で、勇力は人に優れていた。二人とも曦に忌まれ、たとえ戦功があっても賞を与えられず、張林らはこれを恨んでいた。当時、張林は罝口におり、朱邦寧は合江にいた。巨源は彼らと深く結びつき、さらに忠義の人である朱福・陳安・傅檜の徒を集めた。

原文吳曦叛,巨源陰有討賊志,結義士三百人,給其錢糧。有遊奕軍統領張林者,力能挽兩石弓,隊將朱邦寧身長六尺,勇力過人,皆為曦所忌,雖屢戰有功亦不加賞,林等憾之。時林在罝口,邦寧在合江,巨源因與深相締結,並集忠義人朱福、陳安、傅檜之徒。

曦は安丙を脅迫して丞相長史に任じたが、丙は病気と称した。眉州の士人程夢錫が丙に面会し、丙は嘆息して言った、「世事この如し、世に豪傑無し!」夢錫はそこで巨源の謀議に及んだ。丙は言った、「私に会ってくれるか?」そこで夢錫に書簡を託して巨源に届けさせ、臥所に招き入れた。巨源は言った、「先生は逆賊の丞相長史となられたのか?」丙は声をあげて泣きながら言った、「目前の兵将は、私の知る所では、奮起することができない。必ずや豪傑を得て、初めてこの賊を滅ぼすことができ、そうすれば丙は再び憂い無し。」巨源は言った、「先生の御決意は固いか?」丙は天を指して誓って言った、「もしこの賊を誅することができれば、たとえ死して忠鬼となろうとも、また何の恨みがあろうか!」巨源は大いに喜び、言った、「先生でなければこの事を主導するに足らず、巨源でなければこの事を成し遂げるに足りない。」

原文曦脅安丙為丞相長史,丙稱疾,眉士程夢錫見丙,丙歎曰:「世事如此,世無豪傑!」夢錫因及巨源之謀。丙曰:「肯見我乎?」乃囑夢錫以書致巨源,延之臥所。巨源曰:「先生而為逆賊丞相長史耶?」丙號哭曰:「目前兵將,我所知,不能奮起。必得豪傑,乃滅此賊,則丙無復憂。」巨源曰:「先生之意決乎?」丙指天誓曰:「若誅此賊,雖死為忠鬼,夫復何恨!」巨源大喜,曰:「非先生不足以主此事,非巨源不足以了此事。」

この時、李好義・好問もまた李貴・楊君玉・李坤辰ら数十人を結集していた。坤辰が巨源を招き、好義と会わせた。巨源はまた大いに喜んで言った、「私は安長史と議し、三月六日に曦を廟参に招き、勇士を合わせてこれを刺殺しようとしている。」好義は言った、「彼が出れば巷は狭く、従衛は千人に及ぶであろうから、事は必ず成就し難い。聞くところによれば、熟食の日に東園で祭祀を行うという。これを図るはこの時が良い。」巨源はこれを然りとした。好義は信を確かめるため長史に一度会いたいと願った。巨源は言った、「私はまず長史に話しておこう。明日、偽りの宮中で、長史に君の先代について尋ねさせればよい。」巨源は丙に告げた。翌日、好義は偽宮で丙に会い、揖した。丙は言った、「かつて尊父と同僚であった。楊省幹(君玉)が盛んに君の才略を語っていた。早晩、職事を委ねよう。」その謀議はここに決した。

原文當是時,李好義、好問亦結李貴、楊君玉、李坤辰凡數十人,坤辰邀巨源與好義會。巨源又大喜曰:「吾與安長史議以三月六日邀曦謁廟,合勇士刺之。」好義曰:「彼出則齪巷,從衛且千人,事必難濟。聞熟食日祭東園,圖之此其時也。」巨源然之。好義願一見長史以為信。巨源曰:「吾今先為長史言之,來日偽宮,令長史問君先世是已。」巨源以告丙,明日,好義在偽宮見丙,揖之。丙曰:「鄉與尊父同僚,楊省幹盛談才略,旦夕以職事相委。」其謀乃決。

君玉は先にその郷人白子申に詔書の起草を依頼していたが、文が雅馴でなかったので、巨源が改めてこれを作り、合江倉の朱記を用いた。巨源と好義は事が漏洩することを憂い、二月乙亥の未明、好義がその徒を率いて偽宮に入り、巨源は詔書を持ち馬に乗り、自ら奉使を称して内戸に入った。曦は戸を開けて逃げようとしたが、李貴がこれを捕らえて殺した。衛兵は初めは抵抗して戦ったが、詔書があると聞いて皆退いた。巨源と好義は丙を迎えて詔を宣し、曦の首を掲げて示した。三軍は丙を推して四川宣撫使を権行させ、巨源を参賛軍事を権行させた。丙は朝廷に功績を奏上し、巨源を第一とした。詔により承事郎に補任された。

原文君玉先屬其鄉人白子申擬詔,文不雅馴,巨源更為之,例用合江倉朱記。巨源、好義憂事寖泄,遂以二月乙亥未明,好義率其徒入偽宮,巨源持詔乘馬,自稱奉使,入內戶,曦啟戶欲逸,李貴執殺之。衛者始拒鬥,聞有詔皆卻。巨源、好義迎丙宣詔,以曦首徇。三軍推丙權四川宣撫使,巨源權參贊軍事。丙奏功於朝,以巨源第一,詔補承事郎。

巨源は丙に言った、「曦は死に、賊の胆は破れた。関外の四州は蜀の要害である。どうして勢いに乗じて取り戻さないのか。」好義もまたこの意見を述べた。丙は軍に現存の糧食がないことを憂慮したが、巨源は四州を取らなければ必ず後患があると力説し、自ら進んで随軍措置糧運となることを請うた。そこで好義を分遣して西和州を回復させ、張林・李簡に成州を回復させ、劉昌国に階州を回復させ、孫忠鋭に散関を回復させた。まもなく詔があり、巨源は朝奉郎に転じ、通判差遣を兼ね、四川宣撫使司参議官を兼任した。丙はもとより忠鋭を憎んでおり、忠鋭が散関を失守したと聞くと、檄を飛ばしてその帰還を命じ、これを廃そうと考え、まず巨源に邦寧とともに沔州の兵二千を率いて策応するよう命じた。巨源が鳳州に至ると、忠鋭が出迎えた際を捉え、幕の後に壮士を伏せさせ、突出してこれを斬り、その子の揆も共に斬った。丙はそこで忠鋭が偽りの賀表に附したことを朝廷に奏聞し、かつ待罪した。

原文巨源謂丙曰:「曦死,賊膽以破,關外四州為蜀要害,盍乘勢復取。」好義亦以為言。丙慮軍無見糧,巨源力言四州不取,必有後患,自請為隨軍措置糧運。於是分遣好義復西和州,張林、李簡復成州,劉昌國復階州,孫忠銳復散關。俄詔巨源轉朝奉郎,與通判差譴,兼四川宣撫使司參議官。丙素惡忠銳,聞忠銳失守散關,檄其還,欲廢之,先命巨源偕邦寧以沔兵二千策應。巨源至鳳州,因忠銳出迎,伏壯士於幕後,突出斬之,並其子揆。丙遂以忠銳附偽賀表聞於朝,且待罪。

先に、叛徒誅殺を褒賞する詔書が沔州に届いた時、巨源は人に言った、「詔命は一字も巨源に及ばない。我が功績を蔽う者がいるのではないか。」まもなく王喜が節度使に任じられたと報じられ、巨源はますます不平を抱いた。当時、趙彦吶は夔州で禄禧を誅殺したことで州通判を得ていた。巨源は言った、「禄禧を殺して通判を得、呉曦を殺しても通判か?」啓を以て丙に謝し言った、「飛矢を以て聊城を下す、深く魯仲連の高誼を慕う;印を解きて彭沢を去る、庶幾く陶靖節の清風に及ばん。」また朝廷に功績を訴え出るとともに、興元都統制彭輅に書簡を韓侂冑に届けるよう乞い、輅は表向き承諾しながら密かに丙に報告した。ある者が巨源がその徒の米福・車彦威と謀って乱を起こそうとしていると告げ、丙は喜にこれを取り調べるよう命じ、福と彦威はともに罪に当たった。正将の陳安がさらに、巨源が死士を結集して関に入り、沔州の州治を焼き払い、丙が出たところを殺そうとしていると告発した。丙は以前からの事柄を積み重ね、巨源を除こうと考えたが、まだ発端がなかった。

原文先是,獎諭誅叛詔書至沔州,巨源謂人曰:「詔命一字不及巨源,疑有以蔽其功者。」俄報王喜授節度使,巨源彌不平。時趙彥呐以在夔誅祿禧得州通判,巨源曰:「殺祿禧與通判,殺吳曦亦與通判耶?」以啟謝丙曰:「飛矢以下聊城,深慕魯仲連之高誼;解印而去彭澤,庶幾陶靖節之清風。」又遣訴功於朝,而從興元都統制彭輅乞書遺韓侂胄,輅陽許而陰以白丙。或言巨源與其徒米福、車彥威謀為亂,丙命喜鞫之,福、彥威皆抵罪。正將陳安復告巨源結死士入關,欲焚沔州州治,俟丙出則殺之。丙積前事,因欲去巨源,然未有以發也。

ちょうど巨源が鳳州で檄書を金の鳳翔都統使に送った。その文面は間者を用いるようなものであり、かつ自ら宣撫副使を称し、参議官の印を押していた。金はこの檄書を丙に送り届けた。巨源はちょうど金と戦い、長橋で敗北していた。丙はそこで書簡を送って巨源を召還したが、巨源は疑った。梁泉主簿の高岳成という者がおり、巨源が随軍撥運に推薦した人物であったが、巨源に会いに来て、帰還を勧めたので、巨源はこれを信じた。

原文會巨源在鳳州以檄書遺金鳳翔都統使,其辭若用間者,且自稱宣撫副使而以參議官印印之。金以檄至丙。巨源方與金戰,敗於長橋,丙乃移書召巨源,巨源疑焉。有梁泉主簿高岳成者,巨源薦為隨軍撥運,來見巨源,贊其歸,巨源信之。

当時、輅はすでに沔州に到着していた。六月壬申、巨源が幕府に戻ると、丙は密かに輅に巨源を捕らえるよう命じた。巨源は全く知らず、輅が自分に謁見に来たと思い、話が終わると、輅が立ち上がり、巨源はこれを賓次まで送った。武士がその裾を掴んだが、巨源はなお叱りつけたが、すでに庭下に引きずり出されていた。巨源は大声で叫んだ、「我に何の罪があるというのか?」丙は屏風の向こうから人を遣わして言わせた、「お前が宣撫副使を詐称したのはどういうことか?」閬州の獄に檻送するよう命じた。巨源は言った、「私は一時的に間者を用いただけだ。いずれ時が来れば必ず私の事を明らかにしてくれる者が現れよう。」丙は肴酒を送ったが、巨源は言った、「一身に愧じるところ無し、死すともまた憾み無し。ただ妹が未だ嫁がずにいることがある。宣撫はこれを思いやられよ。」癸酉、巨源の舟が大安の龍尾灘に着いた時、将校の樊世顯という者が岸から呼びかけた。巨源は殺されようとしていることを悟り、その地を指して言った、「これは良い一片の葬地だ。」世顯は言った、「そんなことがあるものか。」舟が数歩進むと、言った、「宣参(巨源)は久しく渇しておられる。一杯の酒を進めようか?」巨源は飲まないと辞した。また言った、「宣参は枷を担いで久しい。少し休まれよか?」巨源が答える前に、左右の者がたちまち利刀を取ってその首を断ち、一寸余り切れ残った。そこで巨源が自殺したと宣撫司に報告した。数日後、丙はこれを埋葬するよう命じた。

原文時輅已至沔,六月壬申,巨源還幕府,丙密命輅收巨源。巨源殊不知,以為謁己也,語畢,輅起,巨源送之賓次。武士就挽其裾,巨源猶叱之,則已為驅至庭下。巨源大呼曰:「我何罪?」丙隔屏遣人謂之曰:「若為詐稱宣撫副使?」命械送閬州獄。巨源曰:「我一時用間,異時必有為我明其事。」丙餉以肴酒,巨源曰:「一身無愧,死且無憾;惟有妹未嫁,宣撫念之。」癸酉,巨源舟抵大安龍尾灘,將校樊世顯者呼於岸,巨源知將見殺,指其地而語之曰:「此好一片葬地。」世顯曰:「安有是?」舟行數步,謂曰:「宣參久渴,莫進杯酒?」巨源辭以不飲。又曰:「宣參荷械已久,盍少蘇?」巨源未及答,左右遽取利刀斷其頭,不絕者逾寸,遂以巨源自殪聞宣撫司。後數日,丙命瘞之。

巨源が死ぬと、忠義の士はそのために腕を扼み、聞く者は涙を流した。剣外の士人張伯威が文を作ってこれを弔い、その文辞は特に悲切であり、伯威は巨源の属吏であった。李壁が政府にいた時、これを聞いて言った、「ああ、巨源は死んだのだな!」丙は人情が騒然としているため、封章を上奏して免職を求めた。楊輔もまた、丙が巨源を殺せば必ず変事を招くと述べ、劉甲を代わりに任じるよう請うた。初め、巨源は好義と官軍を結集し、丙は密かに反正の計略を立てていたが、互いに知らず、巨源と好義を合わせたのは李坤辰であり、好義と丙を合わせたのは巨源であった。巨源が光祖に送った書簡には、丙の応答の言葉が記されており、版を刻んで広く伝えられたので、丙はすでに快く思わず、讒言が絶えず、積もり積もってこの禍に至った。

原文巨源死,忠義之士為之扼腕,聞者流涕,劍外士人張伯威為文以吊,其辭尤悲切,巨源之屬吏也。李壁在政府,聞之曰:「嘻,巨源其死矣!」丙以人情洶洶,封章求免。楊輔亦謂丙殺巨源必召變,請以劉甲代之。初,巨源與好義結官軍,而丙密為反正之計,各未相知,合巨源於好義者李坤辰,而合好義於丙者巨源也。巨源遺光祖書,述丙酬答之語,鋟梓競傳之,丙已弗樂,浸潤不已,積成此禍。

成忠郎の李珙が投匭し、自作の『巨源伝』を献じてその冤罪を訴えた。朝廷もまたその功績を思い、廟を賜って忠を褒め、宝謨閣待制を追贈し、その二人の子に官職を与えた。制置使の崔与之は官費でその葬儀を行うよう請い、さらに宝謨閣直学士・太中大夫を加贈された。嘉熙元年、理宗は特に諡を「忠湣」と賜った。子に履正がおり、終に大理卿・四川制置副使となった。

原文成忠郎李珙投匭,獻所作《巨源傳》為之訟冤,朝廷亦念其功,賜廟褒忠,贈寶謨閣待制,官其二子。制置使崔與之請官給其葬,加贈寶謨閣直學士、太中大夫。嘉熙元年,理宗特賜諡「忠湣」。子:履正,終大理卿、四川制置副使。

李好義

原文李好義

李好義は、下邽の人である。祖父の師中は、建炎年間に白丁の身で華州を守り、功を積んで忠州団練使となった。父の定一は、興州中軍統制であった。好義は弱冠で軍に従い、騎射に優れ、西辺で第一とされた。初め準備将として文州の蕃部を討ち功績があった。開禧初め、韓侂冑が辺境を開き、呉曦が軍を主導した時、好義は興州正将であり、しばしば精兵を出して金人を襲撃するよう請うたが、曦は異謀を抱いており、採用しなかった。まもなく関外四州がともに陥落し、金人が長駆して散関に入ると、曦は金人の説を受け、蜀を以て叛いた。好義は青坊で変事を聞き、急ぎ帰還し、その兄と向かい合って泣き、曦を誅殺することを謀った。

原文李好義,下邽人。祖師中,建炎間以白丁守華州,積官忠州團練使。父定一,興州中軍統制。好義弱冠從軍,善騎射,西邊第一。初以準備將討文州蕃部有功。開禧初,韓侂胄開邊,吳曦主師,好義為興州正將,數請出精兵襲金人,曦蓄異謀,不納。未幾,關外四州俱陷,金人長驅入散關,曦受金人說,以蜀叛。好義自青坊聞變亟歸,與其兄對哭,謀誅之。

時に曦は李貴を遣わして宣撫程松を追殺せしめんとしたが、貴はその徒に語って曰く、「程宣撫は朝廷の重臣なり、殺すべからず」と。好義はその赤心なるを知り、以て謀る所を告ぐるべしとす。貴は遂に李彪・張淵・陳立・劉虎・張海等と約し、好義はまた密かに親衛軍の黄術・趙亮・吳政等と結ぶ。女弟の夫楊君玉もまた与あずかり知る。好義は戒めて言う、「この事は誓って死を以て国に報い、四蜀の生霊を救わんとす。慎んで漏らすことなかれ」と。その母を留めて質とす。好義兄弟謀りて曰く、「今日、人皆曦を殺すべく、皆曦たりうべし。曦死した後、もし威望ある者なくして鎮撫せば、恐らくは一変未だ息まず、一変また生ぜん」と。期に至りて長史安丙を立てて以て事を主つかさどらしめんと欲す。蓋し曦嘗て丙に偽丞相を授けしも、丙は疾いと託して往かず、故に兄弟この謀り有りしなり。

原文會曦遣李貴追殺宣撫程松,貴語其徒曰:「程宣撫朝廷重臣,不可殺。」好義知其赤心,可以所謀告之。貴遂約李彪、張淵、陳立、劉虎、張海等,好義又密結親衛軍黃術、趙亮、吳政等。女弟夫楊君玉亦與知,好義戒言曰:「此事誓死報國,救四蜀生靈,慎毋泄。」留其母以質。好義兄弟謀曰:「今日人皆可殺曦,皆可為曦,曦死後,若無威望者鎮撫,恐一變未息,一變復生。」欲至期立長史安丙以主事,蓋曦嘗授丙偽丞相,而丙託疾不往,故兄弟有是謀也。

既にして君玉と李坤辰なる者来たり、坤辰因りて言う、丙もまた合江倉の楊巨源と陰に結び忠義を以て曦を図らんと欲すと。好義は遂に君玉を遣わし坤辰とともに巨源を約して以て丙に報ぜしむ。丙大いに喜びて曰く、「統制李定一の子ならずや。この人既に来たり、曦の臂ひじを断つべし」と。遂に好義と二月晦に事を挙げんと約す。『巨源伝』に見ゆ。乃ち彪・術・貴等七十四人及び士人路良弼・王芾と約す。好義夜に士を饗し、衆を麾して甲を受けしむ。好古・好仁及び子姓と家廟に拝別し、妻馬氏に嘱して曰く、「日出でて耗たより無くば、当に自ら計いを為すべし。死生ここより決す」と。馬氏これを叱して曰く、「汝朝廷の為に賊を誅す。何を以て家を為さんや。我決して李家の門戸を辱しめじ」と。馬氏の母もまた曰く、「行け、勉めよ。汝兄弟生くるは壮夫、死するは英鬼たれ」と。好義喜びて曰く、「婦人女子すら尚お朝廷を念い性命を愛せず。我輩当に如何すべきや」と。衆皆踴躍す。既に行かんとす、小将祿禕十卒を引いて来たり助け、各黄帛を以て号と為す。好義衆に誓いて曰く、「宮に入りて妄りに人を殺し、財物を掠むる者は死す」と。

原文既而君玉與李坤辰者來,坤辰因言丙亦與合江倉楊巨源陰結忠義欲圖曦。好義遂遣君玉偕坤辰約巨源以報丙。丙大喜曰:「非統制李定一之子乎?此人既來,斷曦之臂矣。」遂與好義約二月晦舉事,見《巨源傳》。乃約彪、術、貴等七十有四人及士人路良弼、王芾。好義夜饗士,麾眾受甲,與好古、好仁及子姓拜決於家廟,囑妻馬氏曰:「日出無耗,當自為計,死生從此決矣。」馬氏叱之曰:「汝為朝廷誅賊,何以家為?我決不辱李家門戶。」馬氏之母亦曰:「行矣,勉之!汝兄弟生為壯夫,死為英鬼。」好義喜曰:「婦人女子尚念朝廷不愛性命,我輩當如何?」眾皆踴躍。既行,小將祿禕引十卒來助,各以黃帛為號。好義誓於眾曰:「入宮妄殺人、掠財物者死。」

時に偽宮の門洞開し、好義大呼して入りて曰く、「朝廷の密詔を奉ず。安長史宣撫と為り、我に令して反賊を誅せしむ。敢えて抗する者はその族を夷す」と。曦の護衛千兵皆梃を棄てて走る。遂に偽殿の東角小門に至り、世美堂に入り、曦の寝室に近づく。曦外の哄さわぎを聞き、倉皇として起き、頂を露わし徒跣すあしにして、寝戸を開きて遁れんとす。貴を見て復た止まり、手を以て内戸を捍ふせぐ。貴前に進みて戸を争うに、戸の紐折る。曦走る。貴追い及び、手を以てその髻を執り、刃を挙げて曦の頰を中あつ。曦素より勇にして力有り、貴を撲うちて地に仆たおす。起き上がること能わず。好義急ぎ呼びて王換にその腰を斧きる者二たび。曦痛みを負いて手を放つ。貴起きて遂にその首を斫る。衆を引きて曦の首を擁し偽宮を出づ。亟すみやかに馳せて丙に告げ詔を宣す。軍民拝舞し、歓声天地を動かす。曦の首を持ちて城中を撫定す。市肆改まらず。

原文時偽宮門洞開,好義大呼而入曰:「奉朝廷密詔,安長史為宣撫,令我誅反賊,敢抗者夷其族。」曦護衛千兵皆棄梃而走,遂至偽殿東角小門,入世美堂,近曦寢室。曦聞外哄,倉皇而起,露頂徒跣,開寢戶欲遁,見貴復止,以手捍內戶,貴前爭戶,戶紐折。曦走,貴追及,手執其髻,舉刃中曦頰,曦素勇有力,撲貴仆於地不能起。好義急呼王換斧其腰者二,曦負痛手縱,貴起遂斫其首。引眾擁曦首出偽宮,亟馳告丙宣詔,軍民拜舞,歡聲動天地,持曦首撫定城中,市不改肆。

好義関外四州を取るに時を乗ずるを請う。巨源これを賛す。丙大いに喜ぶ。巨源行を輔たすく。王喜その能を忌み、これを沮む。好義曰く、「西和は乃ち腹心の地なり。西和下れば、則ち三州は戦わずして復すべし。今図らざれば、後悔も及ばん。願わくは馬歩千人、死士二百を得、十日糧を齎もたらしめば済まん」と。丙その請いに従う。忠義響応す。独頭嶺に次やどる。進士王榮仲兄弟民兵を率いて会合し夾撃す。金人死者路を蔽う。十戦して山砦高堡に至り、七日にして西和に至る。好義衆を率いて城を攻め、親しく矢石を犯す。人々死を楽このみ、少を以て衆を撃ち、前に留まる敵無し。金の西和節使完顏欽奔遁す。好義衆を整えて入る。軍民歓呼迎拝し、府庫を籍とりしらべて以て官に帰す。

原文好義請乘時取關外四州,巨源贊之,丙大喜。巨源輔行,王喜忌其能,沮之。好義曰:「西和乃腹心之地,西和下,則三州可不戰而復矣。今不圖,後悔無及。願得馬步千人,死士二百,齎十日糧可濟。」丙從其請,忠義響應,次獨頭嶺,進士王榮仲兄弟率民兵會合夾擊,金人死者蔽路。十戰至山砦高堡,七日至西和。好義率眾攻城,親犯矢石,人人樂死,以少擊眾,前無留敵。金西和節使完顏欽奔遁,好義整眾而入,軍民歡呼迎拜,籍府庫以歸於官。

好義初め勝に乗じて径ただちに秦・隴を取らんと欲し、以て淮寇を牽制せんとす。然るに宣撫司は故疆を謹守し、侵越することを得ざるを令す。士気皆沮す。好義中軍統制として西和州を知る。卒す。丙労績を以て朝に上る。特ことさらに檢校少保を贈り、仍なお田を給して以てその家を贍やしなう。後、吳獵為ために諡を請うて「忠壯」と曰う。好義『孟子』及び『左伝』を誦するを喜び、以て終身これを行えば足ると為す。曦を誅する時、惟だ幼子植のみ家に留まる。事畢おわりて、人功賞を冒おかさんと争う。君玉植の名を注しるさんと欲す。好義心を指して曰く、「惟だこの物は欺くべからず」と。

原文好義初欲乘勝徑取秦、隴以牽制淮寇,而宣撫司令謹守故疆,不得侵越,士氣皆沮。好義以中軍統制知西和州,卒。丙以勞績上於朝,特贈檢校少保,仍給田以贍其家。後吳獵為請諡曰「忠壯」。好義喜誦《孟子》及《左傳》,以為終身行此足矣。誅曦時,惟幼子植留家。迄事,人爭冒功賞,君玉欲注植名,好義指心曰:「惟此物不可欺。」

曦既に誅せらる。好義丙の家に集まる。王喜後より至る。邪謀を懐き、好義を刃せんと欲す。丙力めて救い解く。然れども日を以て好義を殺さんことを心と為す。好義西和を守るに及び、喜その死党劉昌国を遣わして節制を聴かしむ。好義これと酬酢し、歓飲して旦に達す。好義心腹暴に痛み洞瀉す。而して昌国遁る。既に殮れんす。口鼻爪指皆青黒し。居民冤しまざる莫し。号慟すること私親の如し。摧鋒一軍幾ほとんど変に至らんとす。既にして昌国白日好義の刃を持ちてこれを刺すを見て、驚怖して地に仆れ、疽発して殂ゆく。

原文曦既誅,好義集於丙家,王喜後至,心懷邪謀,欲刃好義,丙力救解,然日以殺好義為心。及好義守西和,喜遣其死黨劉昌國聽節制,好義與之酬酢,歡飲達旦,好義心腹暴痛洞瀉,而昌國遁矣。既殮,口鼻爪指皆青黑,居民莫不冤之,號慟如私親,摧鋒一軍幾至於變。既而昌國白日見好義持刃刺之,驚怖仆地,疽發而殂。

喜は曦の大将なり。貪淫狠愎こんぴつなり。曦を誅するの日、詔を拝するを肯がえんぜず、その徒を遣わして偽宮に入り虜掠ことごとく尽くし、また曦の姬妾数人を取る。その後、好義を戕そこない曦に復讐せんと欲す。丙止むること能わず。便宜を以て節度使として興州を知らしむ。而して恨み猶未だ已やまず。嘗て船柵嶺に出兵す。鋒未だ交わらざるに、軍を棄てて先ず遁る。金人遂に黒谷より長駆して境に入る。朝廷喜の変を為さんことを慮り、節度使を授け荊鄂都統制に移して死す。

原文喜,曦大將也,貪淫狠愎,誅曦之日不肯拜詔,遣其徒入偽宮虜掠殆盡,又取曦姬妾數人。其後欲戕好義為曦復仇,丙不能止,便宜處以節度使知興州,而恨猶未已。嘗出兵於船柵嶺,鋒未及交,棄軍先遁,金人遂由黑谷長驅入境。朝廷慮喜為變,授節度使移荊鄂都統制而死。

論じて曰く、陳敏は守るに善く、畢再遇は戦うに善し。張詔は使を出して国を辱しめず、将と為りて士心を得、趙汝愚これを薦めて武興の帥と為す。その才以て曦を制するに足るが故なり。曦の畔そむく、向むかしし安丙・楊巨源・李好義の謀り無くば、西方の憂いこれより大なるは莫なからん。然るに丙卒ついに是を以て巨源を殺す。何ぞその疾はやきを冒して残賊なるや。李好義は周防に失い、竟ついに王喜に図らる。宋喜の曦党たるを知りて、既に罪すること能わず、また節鎮を以てこれを賞す。幾何いくばくぞ唐末の姑息と為らざらん、以て藩鎮の禍を成さんや。

原文論曰:陳敏善守,畢再遇善戰。張詔出使不辱國,為將得士心,趙汝愚薦為武興帥,以其才足以制曦也。曦之畔,向非安丙、楊巨源、李好義之謀,西方之憂莫大焉。然丙卒以是殺巨源,何其冒疾而殘賊也?李好義失於周防,竟為王喜所圖。宋知喜為曦黨,既不能罪,又以節鎮賞之,幾何而不為唐末之姑息以成藩鎮之禍乎?