辛棄疾
辛棄疾、字は幼安、齊の歴城の人。若くして蔡伯堅に師事し、党懷英と同窓となり、辛・党と号した。初めて仕官を占うに、蓍草で決し、懷英は《坎》の卦を得て、因って金に留まり事えることとし、棄疾は《離》の卦を得て、遂に決意して南帰した。
金主亮が死ぬと、中原の豪傑が一斉に挙兵した。耿京が山東に兵を集め、天平節度使を称し、山東・河北の忠義軍馬を統轄し、棄疾は掌書記となり、即ち京に決策して南向することを勧めた。僧義端という者、兵を談ずるを好み、棄疾は時折これと交遊した。京の軍中に及んで、義端もまた千余りの衆を集め、これを説き下し、京に隷属させた。義端が一夜のうちに印を盗んで逃げると、京は大いに怒り、棄疾を殺そうとした。棄疾曰く、「我に三日の期を与えよ、獲られなければ、死に就くも未だ遅くはない」と。僧が必ず虚実を以て金の帥に奔告すべく、急ぎ追ってこれを捕らえた。義端曰く、「我は君の真相を知る、青兕なり、力能く人を殺す、幸いに我を殺すなかれ」と。棄疾はその首を斬って帰り報告し、京はますます彼を壮とした。
乾道四年、建康府を通判す。六年、孝宗は延和殿に召して対せしむ。時に虞允文が国政を執り、帝は恢復に鋭意し、棄疾は因って南北の形勢及び三国・晋・漢の人才を論じ、持論勁直にして、迎合せず。『九議』及び『応問』三篇・『美芹十論』を作りて朝廷に献じ、逆順の理、消長の勢、技の長短、地の要害を言い、甚だ備わる。講和が方に定まるを以て、議は行われず。司農寺主簿に遷り、出でて滁州を知る。州は兵燹に罹り、井邑凋残す、棄疾は徴を寛め賦を薄くし、流散を招き、民兵を教え、屯田を議し、乃ち奠枕楼・繁雄館を創建す。江東安撫司参議官を辟し、留守の葉衡は雅にこれを重んじ、衡が相に入ると、力を尽くして棄疾が慷慨にして大略有るを推薦す。召見され、倉部郎官・提点江西刑獄に遷る。劇盗の頼文政を平らげて功有り、秘閣修撰を加う。京西転運判官に調じ、差して江陵府を兼ね湖北安撫を知らしむ。
隆興府を兼ね江西安撫を知るに遷り、大理少卿を以て召され、出でて湖北転運副使と為り、湖南に改め、尋いで潭州を兼ね湖南安撫を知る。盗賊が湖湘に連なって起こるも、棄疾は悉くこれを討平す。遂に奏疏して曰く、「今朝廷清明なるに、比年李金・頼文政・陳子明・陳峒相継いで窃発し、皆能く一呼して千百を嘯聚し、吏民を殺掠し、死をも顧みず、大兵を煩わして翦滅するに至る。良く由るに、州は財賦を趣辦するを急と為し、吏に残民害物の政有るも、州は敢えて問わず、県は並縁科斂するを急と為し、吏に残民害物の状有るも、県は敢えて問わず。田野の民は、郡は聚斂を以てこれを害し、県は科率を以てこれを害し、吏は乞取を以てこれを害し、豪民は兼并を以てこれを害し、盗賊は剽奪を以てこれを害す、民盗と為らざれば、去りて将に何にか安からん。夫れ民は国の本なり、而るに貪吏これを迫りて盗と為らしむ、今年剿除し、明年剗盪す、これに譬えば木のごとし、日刻月削し、損せざれば則ち折る。願わくは陛下に盗を致すの由を深く思い、盗を弭するの術を講求し、徒らに盗を平らぐるの兵を恃むこと無からんことを。州県に申飭し、元元を恵養するを意と為し、法に違ひ貪冒する者あらば、諸司をして各その職を揚げしめ、徒らに小吏を按挙して故事に応じ、自ら文過の地と為すこと無からしめん」と。詔を下してこれを奬諭す。
また湖南は二広を控帯し、溪峒の蛮獠と接連し、草窃間作すは、豈にただ風俗頑悍なるのみならんや、抑も武備空虚の致す所なり。乃ち復た奏疏して曰く、「軍政の敝れは、統率一ならず、差出占破し、略く已む時無し。軍人は則ち優閑窠坐するに利し、公門に奔走し、苟も衣食を図るを以て、故に教閲廃弛し、逃亡する者は追わず、名を冒する者は挙げず。平居は則ち姦民忌憚する所無く、緩急は則ち卒伍征行に堪えず。大軍を調うるに至り、千里を討捕すれども、勝負未だ決せず、威を傷め重を損じ、害と為す細ならず。広東の摧鋒・荊南の神勁・福建の左翼の例に依り、別に一軍を創め、湖南飛虎を以て名と為し、只だ三牙・密院に撥属せしめ、専ら帥臣の節制調度を聴かしめ、庶くは夷獠をして軍威の有るを知らしめ、風を望んで懾服せんことを」と。
詔を下して規画を委ねしむ。乃ち馬殷の営壘の故基を度り、砦柵を起蓋し、歩軍二千人、馬軍五百人を招き、傔人は外に在り、戦馬鉄甲皆備わる。先ず緡銭五万を以て広西に於いて馬五百匹を買い、詔して広西安撫司に歳ごとに三十匹を帯買せしむ。時に枢府にこれを喜ばざる者あり、数たびこれを沮撓すれども、棄疾は行うこと愈力く、遂に奪う能わず。経度の費巨万を計るも、棄疾は善く斡旋し、事皆立ちどころに辦ず。議者聚斂を以て聞こえ、御前金字牌を降し、日を下して住罷せしむ。棄疾はこれを受け蔵し、出でて監辦者を責め、期す一月にして飛虎営柵成るを、違えば軍制に坐すと。期の如く落成し、本末を開陳し、図を繪みて繳進す、上遂に釋然たり。時に秋霖幾月、所司瓦を造る易からずと言う、問う「須いる瓦幾何」と。曰く「二十万」と。棄疾曰く「憂うる勿れ」と。廂官に令し、官舎・神祠の外、応に居民の家より溝𭅞瓦二を取らしむ、二日と経たずして皆具わる、僚属歎伏す。軍成り、一方を雄鎮し、江上の諸軍の冠と為る。
右文殿修撰を加え、差して隆興府を兼ね江西安撫を知らしむ。時に江右大饑し、詔して荒政を責に任ぜしむ。初めて至り、通衢に榜して曰く「糴を閉ざす者は配流し、糴を強いる者は斬る」と。次に令して尽く公家の官銭・銀器を出し、官吏・儒生・商賈・市民を召し、各幹実有る者を挙げしめ、量りて銭物を借り与え、その責に逮って運糴を領せしめ、子銭を取らず、期して終月に城下に至りて発糶せしむ。於是連檣して至り、その価自ずから減じ、民これに頼りて済う。時に信守の謝源明、米を乞い救助を求めしも、幕属従わず、棄疾曰く「均しく赤子、皆王民なり」と。即ち米舟の十の三を信に予う。帝これを嘉し、一秩を進む。言者を以て職を落とし、久しくして沖佑観を主管す。
棄疾はかつて朱熹とともに武夷山に遊び、『九曲櫂歌』を賦し、朱熹は「克己復礼」「夙興夜寐」と書いて、彼の二つの斎室に題した。朱熹が没した時、偽学の禁が厳しく、門生故旧でさえ葬儀に参列する者がないほどであった。棄疾は文を作って赴き哭し、「不朽なるものは、万世に名を垂れる。誰が公の死せりと言わん、凛凛として猶お生きているようだ」と述べた。棄疾は雅に長短句(詞)を善くし、悲壮激烈で、『稼軒集』が世に行われた。紹定六年(1233年)、光禄大夫を追贈された。咸淳年間(1265-1274年)、史館校勘の謝枋得が棄疾の墓傍の僧舎を通りかかると、堂上に疾く声高く叫ぶ声があり、その不平を鳴らすかのようで、日暮れから三更まで声が絶えなかった。枋得が燭を執り文を作り、明け方に祭ると、文が成って声がようやく止んだ。徳祐初年(1275年)、枋得が朝廷に請い、少師を加贈され、忠敏と諡された。
何異
何異、字は同叔、撫州崇仁県の人。紹興二十四年(1154年)の進士、石城主簿に調じ、二任を歴て、萍郷県知事となった。丞相周必大と参政留正が院轄(中央官庁の要職)に何異を擬した。孝宗が列薦の有無を問うと、留正らは萍郷での政績を以て答えた。そこで国子監主簿に遷った。丞に遷り、転対(順番に皇帝に対面して意見を述べること)し、述べたところを帝は喜び、「君臣一体は、初めから事の形迹にあるのではない。見聞したことがあれば、銀台司を通じて奏上せよ」と言った。監察御史に抜擢された。何異は、丞相留正とは旧く同官であったので、職務に就くことを恐れると奏上したが、御札(皇帝直筆の文書)で嫌疑を避けることを許さず、遂に任命を受けた。
右正言に遷った。当時、光宗は定省(父母への朝夕の挨拶)を欠いていた。何異が上疏して諫めたが、回答がなかった。台官に連名を約し、奸人が父子を離間しているとして、明らかに典刑に正すべきだと述べ、言葉は極めて厳しかったが、また回答がなかった。外任を請い、湖南転運判官を授かった。たまたま帥事(安撫使の職務)を兼ねた時、辰州の蛮が邵陽を侵擾した。何異は山丁(山地の住民)を募って首謀者を捕らえ、蒲来矢が衆を率いて降伏した。まもなく浙西提点刑獄となった。太常少卿として召され、秘書監兼実録院検討官に改め、権礼部侍郎・太常寺を兼ねた。
太廟に芝草が生えた。韓侂冑が百官を率いて観覧した。何異はその色が白いことを指摘し、兵の妖(戦乱の兆し)が生じることを憂慮した。侂冑は不悦であった。また劉光祖が何異と交際が密接であったため、言事官は遂に、何異が言路(諫官の職)にあった時に丞相留正を弾劾せず、趙汝愚に推薦されたことを理由に、弾劾して罷免させた。久しくして祠官が与えられた。夔州知事兼本路安撫使に起用された。何異は、夔の民は土地が狭く食糧が少ないため、転運司とともに米を買い入れ樁積(貯蔵)し、循環通済倉を設立した。七月丙戌の日、西北に白い光芒の星が墜地し、その声雷の如しであった。何異は言った。「戌の日酉の時、火と土が交会し、妖星が東南より西北を衝き、天狗と化した。蜀は将に兵乱があるのではないか。」祠官を請い、宝謨閣待制提挙太平興国宮となった。後四年、呉曦が果たして叛いた。潭州知事に起用されたが、閑職を請い祠官となることを再び求めた。
劉宰
泰興県令に任ぜられ、殺人事件の判決が整った際に、『叢祠に祈ったところ、一人を殺そうとしたが、刃が三度躍り上がったので、三人を殺した。これは神が実際に私を教えたのだ』と言った。州に請願してその廟を破壊し、首を斬って示しにした。隣県に県内で牛を貸している者がおり、借り手は貸し主と姻戚関係にあったが、喪の集まりに乗じて、証文を盗んで逃げた。後日、貸し主の子がその賃料を請求すると、『牛はとっくに売った』と言った。子は長年官に訴えたが、証文がなく証拠立てられず、官もまた他県の事として取り合わなかった。この時、宰に訴え出た。宰は言った、『牛を失って十年、どうして一朝にして取り戻せようか』。そこで二人の乞食を呼び労って事情を話し、別の事を託して獄に繋ぎ、取り調べた。乞食は自ら牛を盗んで売ったと偽り、その場所へ行って確認させた。借り手は言った、『私の牛は某氏から借りたものだ』。乞食の言い分がますます強くなったので、証文を取り出して見せた。互いに押し問答して連れて来ると、証文を盗んだ者は茫然として、牛と賃料を返した。裕福な家で金の簪を無くし、二人の下女だけがいたので、役所に預けたが、皆が冤罪だと思った。それぞれに一本の葦を持たせて言った、『簪を盗まない者は、明朝には葦は元のままである。もし盗んだなら、今より二寸長くなるであろう』。翌朝見ると、一つは元のままで、一つは葦が二寸短くなっていた。すぐに尋問すると、果たしてその罪を認めた。姑が嫁が養わないと訴えた者が二人いた。二人の嫁と姑を一室に置き、ある時は嫁に食事を与えて姑には及ばなかった。徐々に観察すると、一人の嫁は毎回自分の食事を姑に与えていたが、姑はなおも叱りつけ、もう一人は逆であった。このように数日続けて、遂に実情を得た。
父の喪に服し、免職となった。京に至ると、韓侂冑がちょうど出兵を謀っており、宰は鄧友龍・薛叔似に啓上して、軽率に兵端を開くことが国の大害であると極言し、結局その言の通りとなった。浙東倉司幹官となり、職務をよく行ったが、すぐに辞去し、静かに時勢の変化を観察し、たちまち官職を楽しまなくなった。まもなく帰郷を願い出て、南岳廟を監した。江・淮制置使黄度が幕下に招いたが、宰は辞して言った、『君命で召されても行かず、今ましてや出られようか』。嘉定四年、堂審の召命が再び下ったが、赴かなかった。時の宰相もたびたび執政・従官に命じて手紙を送らせ宰を引き留めようとしたが、宰は厳しく辞して絶った。まもなく考功歴に題し、決して再び仕えないことを示した。
宰は剛大正直で、明敏仁恕であり、郷里に恵みを施し、その功績は実に多かった。義倉を設け、義役を創始し、三度粥を施して飢えた者に与え、冬から夏にかけて、一日の食事は凡そ一万余人に及び、薪粟・衣纊・薬餌・棺衾の需要は、請えば得られないことはなかった。ある者は耕す田がなく、ある者は住む家がなく、ある者の子女は成長したがまだ婚嫁していない、など皆急いで処理し、まるで自分が実際にその責任を負っているかのようであった。橋に渡るのに難儀があり、道に険阻があれば、たとえ大きな工事でも必ず資財を捐げて率先し、その事を成し遂げた。宰の生計は元より薄かったが、義を見れば必ず行い、その力を尽くした後は、質入れや借金をして継ぎ、倦むことがなかった。例えば折麦銭の額を定め、県の斗斛を制の通りに改め、淫祠八十四所を破壊するなど、役所に申し出て、郷人のためになることなら、行わないことはなかった。
宰は三十年間隠居し、平生嗜好がなく、ただ書物で読まないものはなかった。一日の力を尽くした後も、なお座って夜明けを待ち、広く訓注を考証しながらも、自得することを貴んだ。『漫塘文集』・『語録』が世に行われている。
劉爚
劉爚は字を晦伯といい、建陽の人である。弟の韜仲と共に朱熹・呂祖謙に学んだ。乾道八年に進士に挙げられ、山陰主簿に調任された。爚は戸籍を正し、吏が奸計を用いることを許さなかった。饒州録事に調任され、通判黄奕が事をでっち上げて爚を汚そうとしたが、自分が贓罪で罷免された。都大坑冶の耿某が遺骸が暴露されているのを哀れみ、浮屠法を用いて水火に葬ることを議した。爚は手紙を送って言った、『死者に知覚があれば、災いもまた惨いであろう』。高い丘を選んで叢冢とし、葬るよう請うた。
蓮城県令に調任され、添給銭及び綱運例銭を廃止し、上供銀銭及び綱本・二税甲葉・鈔塩・軍期米等の銭を免除し、学校を大いに修繕し、経界法施行を請願した。閩県知県に改め、清簡をもって治め、廷に滞った訴訟はなく、利を興し害を取り除き、知る限りのことは全て行った。潭州通判に差任されたが、赴任せず、父の喪に服した。偽学の禁が起こると、爚は朱熹に従って武夷山で道を講じ書を読み、怡然として自適した。雲荘山房を築き、終老隠居の計とした。贛州坑冶司主管文字に調任され、徳慶府知府に差任された。学校を大いに修繕し、便民五事を奏上し、また両県の無名租銭廃止を奏上し、武勇民兵を糾集した。入朝して奏言した、『以前の北伐の役は、執事者が事勢を考慮せず、陛下に憂いを残した。今は和議に従っているが、願わくばますます恐懼修省し、必ず言路を開いて忠益を広め、必ず公道を振るって人材を進め、必ず辺備を整えて敵患に備えられたい』。
広東常平提挙となった。守臣に命じて毎年半分を新穀と替え、春の末に支給し、冬にまた返済させ、半分を留保して緩急に備えさせた。亭戸の銭十万、転運司の五万の未納分があったが、爚は公使・公用二庫の余剰銭で補填した。義倉の弊・客丁銭の弊・小官の俸給の弊・挙留守令の弊・吏商の弊を奏上した。召されて奏事に入り、まず論じた、『公道が明らかであれば、人心は自ずから一つとなり、朝廷は自ずから尊ばれ、たとえ危うくても安泰である。公道が廃れば、人心は自ずから二つとなり、朝廷は自ずから軽んじられ、たとえ安泰でも危うくなりやすい』。帝は嘉奬した。尚左郎官に遷り、内外の冗費を節減して楮幣を回収するよう請うた。転対して言った、『願わくば経筵の講読・大臣の奏対において、反復問難し、義理の当否と政事の得失を求められれば、聖学は進み治道は盛んとなります』。人材を収拾し軍政を修明するよう乞うた。浙西提点刑獄に遷り、巡按して寒暑を避けず、多く冤罪を晴らした。人を殺して権勢のある家に匿われた者がいたが、吏は捕らえることを敢えず、爚は遂にこれを捕らえた。
国子司業に転じ、丞相史彌遠に言上し、朱熹の著した『論語』『中庸』『大学』『孟子』の説を講義に備え、君を正し国を定め、天下の学士大夫の心を慰めることを請うた。奏言して曰く、「宋が興り、六経の微旨、孔・孟の遺言は、千載の後に発明され、父に事うれば孝、君に事うれば忠となる、これ世のいわゆる道学なり。慶元以来、権佞国に当たり、人の己を議うを悪み、道を指して偽となし、その人を屏け、その書を禁ず。学者依るべき郷なく、義利明らかならず、趨向汚下し、人欲横流し、廉恥日ごとに喪わる。前日道学を禁絶せし事を追惟すれば、その咎に任ぜざるを得ず。その既に仕えたる後の、職業修まり名節立つことを望むは、得べからざるなり。偽学の詔を罷め、邪説を息め、人心を正さんことを乞う、宗社の福なり」と。また朱熹の『白鹿洞規』を太学に頒示し、朱熹の『四書集注』を取って刊行することを請うた。また言う、「浙西は根本の地なり、宜しく長吏・監司に詔して強暴を禁戢し、善良を撫柔し、務めて儲積をして凶荒に備え、科斂を禁じて民力を紡ぐべし」と。
国史院編修官・実録院検討官を兼ねる。盱眙軍において金使を接伴し、還って言う、「両淮の地は江南の藩蔽たり、干戈盗賊の後、宜しく經理を加うべし、必ずや招集流散の中に就き、足食足兵の計と為すべし。臣淮東を観るに、その地平博膏腴にして、陂沢水泉の利あり、而して荒蕪実に多し。その民勁悍勇敢にして、辺鄙戦闘の事に習い、而して安集する者少なし。誠に能く郊野を経画し、散亡を招集し、頃畝を約して田を授け、広く占めて拋荒する患い無からしめ、溝洫を列ねて水を儲え、且つ戎馬馳突の虞を備うべし。これが為に田器を具え、種糧を貸し、その険易を相い、室廬に聚めて相保護せしめ、什伍を以て聯ね、撃刺を教えて相糾率せしむ。或いは郷を一団と為し、里を一隊と為し、その長を建て、その副を立つ。平居は則ち耕し、警有れば則ち守り、余力有れば則ち戦う」と。帝嘉納した。
国子祭酒に進み、侍立修注官を兼ねる。貢挙の五つの弊を論ず。兵部侍郎を兼権し、改めて刑部侍郎を兼権し、建陽県開国男に封ぜられ、食邑を賜う。権刑部侍郎・国子祭酒を兼ね、太子左諭徳を兼ね、同修国史・実録院同修撰に昇る。時に廷臣争って容默を務め、事を論ずる稍々切なる者有れば、衆輒ち指して異と為す。爚奏す、「願わくは明詔を大臣に下し、忠讜を崇奬して士気を作し、諛佞を深く戒めて具僚を肅すべし。州県の獄官を択ぶことを乞う」と。冬、雷有り、上恐懼す、爚奏す、「監司を遴選して貪吏を考察するを先とし、民瘼を訪求し、沢未だ下流せず、令未だ民に便ならざる者有れば、悉く実を以て上せしめ、変じて之を通ずれば、則ち民心悦びて天意解くべし」と。また沿辺の諸将を択ぶことを請う。
工部侍郎を兼ねる。奏す、「沿辺の民をして、各自什伍と為し、郷に於いて教閲せしめ、急有れば則ち相救援し、事無ければ則ち耕稼自若たらしめ、軍政隠然として田里の間に寓せしむることを乞う、これは一時の利に止まらず」と。沿辺の州郡に城を築き、賀正使を罷遣することを請う。刑部侍郎を試み、兼職は旧に依り、対衣・金帯を賜う、辞す、允さず。両度致仕を請う、允さず。金人の歳幣を絶つことを奏し、歴陽に制置司を建てて両淮を援けしむ。夏、旱魃有り、詔に応じて封事を上る、曰く、「言語方に壅がるるに之を導きて言わしめ、人心方に鬱するに之を疏きて通ぜしむ。上既に不諱の門を開けば、下必ず尽言の士有り、政事の闕失を指陳し、朝廷の是非を明言す。或いは名を好み誉を要むと為すも、陛下之を聴けば、則ち苦言の薬、至言の実、陛下之を棄てて恤わず。甘言の疾、華言の腴、陛下之を受けても覚えず」と。瑞慶聖節を罷め、金使を謝絶することを乞う。
子爵に進封せらる。権工部尚書、衣帯・鞍馬を賜う。太子右庶子を兼ね、仍って左諭徳を兼ねる。毎に講読、経史の陳う所の声色嗜欲の戒めに至れば、輒ち懇切再三之を敷陳す。詩を進読するの説、詹事戴溪之を読んで之が為に舌を吐く。卒す、光禄大夫を贈られ、その後を官し、諡して文簡と賜う。著す所に『奏議』『史稾』『経筵故事』『東宮詩解』『礼記解』『講堂故事』『雲莊外稾』有り。
柴中行
江州学教授に調ず、母喪に遭い免ず。広西転運司辟して幹官と為し、帥将之を薦めんとし、その客をして中行を嘗めしむ、中行正色して曰く、「身大帥と為りて、人を称して恩王・恩相と為す、心窃に之を恥ず。我を汚す毋れ」と。昭州郡事を摂し、丁錢を蠲め、苗斛を減じ、飢羸を賑う。転運司中行に委ねて部を行わしむ、桂林の属邑より歴て柳・象・賓を経て邕管に入り、民の疾苦を問い、先に行い而る後に聞く、塩息を捐てて遠民を恵む。嘉定初、差して主管尚書吏部架閣文字と為し、太学正に遷り、博士に昇る。転対し、首に主威奪われ国勢軽きを論じ、次に士大夫廉隅寡く骨鯁乏しきを論じ、宜しく天下の剛毅果敢の気を養うべしとし、末に権臣用事し包苴風を成すを論じ、今旧習猶お在り、宜しく先朝の贓吏を痛く縄するの法を行うべしとす。太学は風化の首なりと謂い、童子科覆試冑子舍選に、勢を挟む者あり、中行力めて長に言い、法を守り秋豪の私無し。太常主簿に遷り、軍器監丞に転ず。
光州知州に出で、保伍を厳にし、閲習を精にし、屯田を増闢し、城壕営砦・器械糗糧、百爾具備し、治行淮右の最と為る。又極辺・次辺の緩急事宜を条画して朝廷に上る、大槩に謂う、「辺兵は蛇勢の如くすべし、首尾相応ず。草寇兵を合して大いに入れば、則ち鄰道之を援く。兵を分けて軽く襲えば、則ち鄰郡之を援く。援兵既に多ければ、危くとも敗れず」と。又言う、「淮・襄の土豪丁壮、往者用兵の時、資を傾けて效力する者、朝廷賞を吝しみ信を失う、宜しく亟に收拾を加うべく、亦激昂してその死力を得べし」と。
西京転運使兼提点刑獄に遷る。中行謂う、襄陽は乃ち古より必争の地、備禦尤宜しく周密なるべしと。時に辺寄に任ずる者政令煩苛にして、日夜民と利を争う、中行之を諷す、聴かず。天方に旱す、尽く酒税を捐て、征官を斥け、務吏を黥し、甘澍随いて至る。官塩鈔の贏を取りて過重、課日ごとに増し、入中日ごとに寡く、鈔日ごとに壅ぐ。中行通衢に揭示し、一錢も増さず、商賈大いに集まる。直秘閣に改め、襄陽を知り京西帥を兼ね、仍って漕事を領す。江陵戎司襄州に移屯す、兵政久しく弛む。中行朝に白し、軍実を考覈す、旧額二万二千人、存する者纔かに半ば、亟に虚籍を招補す。是より朝廷節制の権を帥司に帰す。重ねて李珙の不法を劾して貪守を懲し、明らかに扈再興の功有るをして宿将を厲しむ、上は朝廷に関し、下は制閫に関す。
江東転運司判官に遷り、まもなく湖南提点刑獄に改められた。豪族が殺人を習い、あるいは亡命者を収養し、江湖に横行していたが、一様に法で裁いた。華亭県令が貪欲で暴虐であったが、法従が交わって上疏して彼を推薦したので、中行は笑って言った、「これは我が弾劾の上奏文を断たんとするものなり」と。ついにその罪を暴いた。吏部郎官に入った。立志して君心を啓発すべきことを以て、好進・好同・好欺、これ士大夫の風俗の三つの弊なりと論じた。選曹の法は大いに乱れ、吏がこれに乗じて姦を行っていたが、中行は事に遇って正しきを保ち、勢力に屈せず、これによって銓綜は公平妥当となった。
宗正少卿に擢げられた。上疏して言う、「陛下は初政においては剛徳を以て治の本を立てられ、更化においては剛徳を以て権姦を除かれた。今や顧みれば、かえって垂拱して成るを仰ぎ、無為に安んじておられる。そもそも剛徳は実に人主の大権なり、久しく出して収めざるべからず。覆轍は前に在り、まことに鑑とすべし」と。また言う、「朝廷が人を用いるに、外には涵洪を示して陰にその跡を掩い、内には牢籠を用いて微かにその機を見せる。観聴は美なりと雖も、実は大いに天下の心を服させるに足らず。曩に更化せしめ、元気は挽回された。近年は安静を求めんと欲し、頗る人言を厭い、ここに臣下の説を納るるは、観望でなければ希合し、回緩でなければ畏避し、面折廷諍の風は未だ多く見ざるなり。これ任事の大臣の責なり」と。
国史編修・実録検討を兼ねた。孟春、大雨・震電があり、雷雹交作し、辺境の烽火は急を告げ、ついに地を失い師を喪い、淮甸は震え騒いだ。中行は急ぎ内外の二失、朝廷の十憂を奏し、大要に言う、「今日の事、人主は天下を尽く委ねて一相に任せ、一相は天下を尽く以て三数の腹心に謀らしめ、挙朝の士は目を以て相視、口を噤んで敢えて言わず。甚だしきに至っては、辺境の申請も、久しく即時に報ぜず、脱や闕誤あらば、咎は誰が執るべきか」と。
秘書監・崇政殿説書に調じられた。「往年、道学を以て偽学となし、遠く竄えんと欲し、言語を杜絶して、忠義の士に口を箝し舌を結ばしめしは、天下の気、豈に再びかくの如く沮壞せられんや」と極論した。また言う、「人心を結ばんと欲すれば、貪吏を去るに若くは莫し。貪吏を去らんと欲すれば、朝廷を清むるに若くは莫し。大臣法なれば小臣廉なり、高位に在る者が身を以て下を率いれば、州県の小吏、何を恃みて敢えて為さんや」と。また内治と外患を論じ、君子と小人を弁じ、大略に言う、「執政・侍従・台諫・給舎の選、及び三衙・京尹の除は、皆朝廷の大綱の所在なり。故にその人は必ず人主の親擢に出づべし、則ち権は下に移らず。今や或いは私謁し、或いは請見し、或いは数月の前に先だって定め、或いは挙朝の人識らず。附会する者は進み、争って妾婦の道を為せば、則ち天下国家の利害安危は、惟だ己が敢えて言わざるのみならず、亦た併せて人言を絶つなり。大臣は附会の説に誤らされ、辺境の臣は実に遁るる者を掩いて誣いと為し、真に怯るる者を誉めて勇と為し、金帛は前に満ち、是非は交わって乱れ、以て廟堂を欺き、以て陛下を欺く。願わくは明詔を大臣に下し、私意を絶ち、公道を布かしめよ」と。
秘閣修撰に進み、贛州知州となった。盗賊を治めるに方あり、境内は清粛であった。祠官を乞うて許され、言事により罷免された。理宗即位の後、右文殿修撰を以て南京鴻慶宮を主管し、金帯を賜わった。卒した。著す所に『易繫集伝』・『書集伝』・『詩講義』・『論語童蒙説』がある。
李孟伝
李孟伝、字は文授、資政殿学士李光の末子なり。李光が嶺海に謫せられた時、孟伝は才六歳、母に奉じて郷里に居り、志を刻んで学に励んだ。賀允中・徐度は皆これを奇とし、曾幾はその孫を妻とした。龍大淵が浙東総管に黜けられた時、孟伝が名門の子であることを知り、解后(たまたま出会う)すれば必ず就いて語ろうとしたが、孟伝は正色してこれを辞した。江東提刑司幹弁となり、浙東常平司に移った。
母の喪に遭い、免官、江山県丞に調じられたが、棄て去り、南岳廟監・行在編估局となったが、未だ上らず、楚州司戸参軍に改められ、単車で官に赴いた。公務の退いた後は、戸を閉ざして『易』を読んだ。郡守・部使者は属吏として待遇することを敢えなかった。徐積の墓が境内にあり、荒廃して久しかったので、これを修繕した。陳公塘を修復し、灌漑の利があった。象山県知県となり、郡守が邑の最として推薦し、従官多く合わせてこれを推薦したので、官告院主管となり、同列と共に封事を上奏し、北宮に詣でることを請い、また宰相に書を移した。
将作監主簿に遷った。丞相趙汝愚が初めて国政を執った時、ちょうど大凶作があり、孟伝を遣わして江・池・鄂の三大軍の屯積する粟を視察させ、途中で太府丞に除された。復命した後、汝愚が国を去り、党論が起こったが、孟伝は奉使として指図に失するところなく、対面して言う、「近ごろ使事を以て四千里を往返し、過ぎし所の民生は困窮し、衣食足らず。国の安危は民を以て本と為す。今根本既に虚しく、形勢俱に見ゆ。邦を保つ慮は、宜しく聖念を勤むべし」と。時に韓侂冑が留正及び汝愚を相次いで逐い、太府主簿の吳璹は侂冑と姻戚関係があったため、台諫が朱熹を論じようとしていると言った。孟伝は奮然として言った、「かくの如くならば、士大夫は争わん、鼎鑊も且つ避けざらん」と。
考功郎を兼ねた。また対面して言う、「国家が人材を長育するは、猶植物に対する天地の如く、滋液滲漉し、その既に成るを待って後に以て大廈の用に足る。今や士大夫は皆苟も進まんとする心あり、治功は未だ優れず、功能は尚薄しと雖も、意は已に台閣に馳騖す。稍も以て之を扶持正飭せざれば、その弊将に甚だしからん」と。また言う、「武挙及び軍士の比試は、専らその力を取り、敵に臨めば必勝し難し。唐世に人を取るには歩射・弓弩より馬射に至るまで、各々その中の多寡を以て等級と為せり。宜しくこれを採取して行うべし」と。韓侂冑は孟伝と旧知で、嘗て侂冑の意を伝えたが、孟伝は謝して言った、「行年六十、去るの意已に決す」と。侂冑は慙じて退いた。外任を請い、江州知州となり、獄訟は止み息んだ。侂冑は悦ばず。帰ることを乞い、再び処州知州となった。
広西提点刑獄に遷り、江東提挙常平に改められ、福建に移った。詔して入対せしめられ、まず人を用いるには宜しく気節を先にし才能を後にするべきこと、益々忠讜を招来して正論を扶けるべきことを論じた。旧知の人が政府に在ったが、折簡を以て問労甚だ勤しんだ。孟伝は逆にその意を知り、即ち謝して言った、「孤蹤久しく朝に造らず、一たび清光を望みて去るを得れば、幸いなり」と。対面を終えるや即ち関を出た。閩に至ると、大飢饉があり、倉を開き分け与えることを勧め、民に流莩(餓死者)無し。侂冑が誅せられると、就いて提点刑獄に遷り、江東に移ったが、また辞した。丞相史弥遠はその親戚故旧なり。人は進用の時なりと言ったが、ついに使節を帰し、角巾を以て邸に還った。再び祠官を奉じ、倉部郎に召されたが、また辞した。
浙東提点刑獄に遷ったが、数月ならずして前の請いを申し、上章再び上り、直秘閣を加えられ、江東に移ったが、赴かず、明道宮主管となった。直宝謨閣に進み、致仕し、卒した。年八十四。常にその子孫を誡めて言った、「身を安んずるは競わざるに若くは莫し。己を修むるは自ら保つに若くは莫し。道を守れば則ち福至り、禄を求めれば則ち辱来たる」と。『磐溪集』・『宏詞類稿』・『左氏説』・『読史』・『雑志』・『記善』・『記異』等の書が世に行われた。
論ずるに、古の君子は、出処進退が揃わずとも、同じく是に帰するのみである。辛棄疾は大義を知って宋に帰順した。何異は篤実なる君子にして、光宗の朝に重華宮を諫めることを切に論じた。柴中行は臨川の試験を校めずとも、終に自ら程頤の偽学に非ずと言わざるを貫いた。劉爚は朱熹の『四書』を表章して講論の備えとし、道を衛る功はこれより大なるは莫し。李孟伝の立てた行いはその父に愧じず。劉宰に至っては飄然として遠くに引き、屡々徴召されても起たず、いわゆる鴻冥に飛ぶ者か。