鄭瑴
鄭瑴、字は致剛、建州の人である。政和八年に進士に挙げられ、安陸府教授を授かり、信陽県尉を権(代理)とし、南康の酒税を監った。やがて召されて御史臺主簿となった。張邦昌が僭号したとき、身を挺して高宗に済州で謁見した。即位すると、監察御史に抜擢され、右司諫に遷り、諫議大夫に昇進した。
帝が杭州に至ると、鄭瑴は上奏して言った。「陛下が南渡されたのは倉卒のことであり、省・臺・寺・監や諸官庁の臣で渡って来られた者は少ない。呉中の俊秀を抜擢して任用すべきである。況や天下の賢俊は多く呉・越の地に避難している。守臣に命じて、管内に寄寓し待闕(官職待ち)している者、及び現任の宮観等の京朝官以上の者をそれぞれ尋ね訪ねさせ、姓名を具して奏聞させ、選抜して任用させれば、速やかに賢才を得て艱難を救うことができましょう。」詔してこれに従った。
苗傅・劉正彥らが逆乱を起こすと、鄭瑴は朝廷で面と向かって二凶を論破し、かつ逆賊の凶焰が甚だ熾んであるので、外からの援軍を請わなければ為すところがないと述べた。そこで上章して罪を待ち去ることを求め、退いて呂頤浩に会い、復興の計を議した。太后が詔を下して許さなかった。朱勝非が鄭瑴が二凶を面折したことを言上し、御史中丞に拝された。
時に二凶は威福の権柄を窃み、殺戮をほしいままにし、日ごとに都堂に来て機密の政務を侵し乱した。鄭瑴は言った。「黄門宦官の設置は、本来内庭に給事し、掃除を供するだけである。彼らに政事に関与させれば貪暴飽くことなく、兵権を持たせれば惨毒已むことがない。これらは全て前世に既に行われた験しである。故に宦官が上で権勢を用いれば、下では生民が禍を受ける。匹夫の力では勝てなければ、群れをなしてこれを攻める。これが靖康の初めに群れをなしてこれを攻めたのが庶民であり、睿聖皇帝が南渡され、駐蹕もまだ安まらぬうちに群れをなしてこれを攻めたのが衆兵であった所以である。今こそ前の弊を痛く革め、併せてその人を選ばせ、かつて事任にあり権を招き寵を納めた者は遠方に屏斥し、衆怒を激させぬよう浸淫させないならば、賞罰の権柄は自ずから朝廷より出で、国勢は尊ばれよう。なお軍法便宜は、その管轄する軍伍に対してのみ行うべきことを諭し、その他は朝廷に聞き、有司に付して、明らかに正典刑に処すべきである。これこそ君を尊ぶ礼を昭かにし、臣子の忠義の節を全うする所以である。」上疏は中留めされて出されなかった。鄭瑴が対し、外に付して実行するよう請うた。
また論じて言った。「黄潜善と汪伯彦はともに国を誤ったが、潜善の罪が多い。今、同じく散官として湖南に竄謫されている。錢伯言と黄願はともに城を棄て、呂源と梁揚祖はともに兵を擁して逃げた。今、願は官を罷められ、揚祖は職を落とされているが、源と伯言はまだ正典刑に処されていない。これは勧懲の道ではない。」詔して竄削に差等をつけた。
傅と正彥は日ごとに都堂に来て議事した。鄭瑴は上奏した。「将帥の臣は政事に預かるべからず。」また、簽書樞密院事として呂頤浩を召し、礼部尚書として張浚を召し、張俊の兵を分けて五百人を陝西に帰らせようとしたが、浚は尚書の命を受けず、俊は配下の兵を分けることを肯んじなかったことを聞き、そこで浚を郴州に居らせて貶し、俊を節度使として抜擢し鳳翔知府とした。鄭瑴はこれが二凶の奸謀によるものと知り、章を具して頤浩を留めて金陵知府とし、浚を貶すべきでないと乞うたが、返答がなかった。鄭瑴はそこで親しい者謝嚮を遣わし、姓名を変え、微服で商人と為り、徒歩で平江に行かせて張浚らに会わせ、城中の事を詳しく言わせた。厳重に兵備を設け、大いに声勢を張り、重々しくして緩やかに進軍し、賊をして自ら遁走させ、三宮を驚動させないのが上策であると。浚らはこれを聞き、皆感激奮厲して赴難の計を為した。
やがて詔して睿聖皇帝を皇太弟・天下兵馬大元帥とし、幼主を皇太侄とすると、すぐに大臣と進んで議し、こう考えた。「朝廷の公卿・百司・群吏は皆かつての臣属である。今では彼らと肩を並べて主に事えることになる。古に稽えれば法とすべきところがなく、今に行えば実に天に逆らうことになる。あるいは大元帥は軍旅の大事を任せられると言うが、臣は窃かにそうは思わない。昔、舜が禹に禅譲したときでさえ、なお禹に命じて有苗を征伐させた。つまり禹は禅譲を受けながらも、征伐の事は舜がなお親しく行ったのである。唐の睿宗が皇太子に位を伝え、小事を聴かせ、自ら太上皇を尊号として大事を聴いた。このようにすれば不可はない。つまり古に稽えれば法があり、今に行えば適宜を得るのである。」
太后が垂簾してともに政を聴き、人心を安んじようとした。退いて御史王庭秀と上疏して力爭した。太后は鄭瑴を召し、宰執とともに簾前で対面させた。鄭瑴は庭秀を召すよう乞うた。太后は諭して言った。「今はただ睿聖皇帝に兵馬を総領させようとしているだけである。」鄭瑴は奏上した。「臣は他のことは知りませんが、人君の位号はどうして降格・改易することが許されましょうか。天下に聞こえれば、誰が疑わないことがありましょう。前世の衰乱分裂の時でさえ、固より旬日の間に両君を易え、一朝にして両朝の位号を降すようなことはなかったのです。」太后は鄭瑴を都堂に至らせた。朱勝非が朱昞らの上書を出して鄭瑴と庭秀に見せた。鄭瑴と庭秀は力説して昨日の詔書は宣布すべからず、必ず変を招くと述べた。勝非と執政の顏歧・王孝迪・路允迪が皆在座し、尚書左丞張澄だけが言った。「事勢がこのようであるのに、どうしてこの名位を爭うことができようか。」張澄(澂)が出ようとしたので、鄭瑴らは共にこれを止めた。
鄭瑴は李邴とともに端明殿學士・同簽書樞密院事となった。高宗が復位すると、簽書に進んだ。執政となってわずか百日で卒去した。高宗は甚だこれを悼み、大臣に言った。「朕は元子(皇太子)を喪っても、なお自ら排遣することができたが、鄭瑴のことでは殆ど釈然とすることができない。」
王庭秀 附
侍御史李光が推薦して御史臺檢法官とした。宣和・靖康の時、進言は皆忠義より発した。御史中丞が言った。「偽楚の時に庶官の中で虞謨・王庭秀のような者は、初め病気ではなかったが、毅然として臣となることを致し(辞し)て帰った。願わくは褒め擢げられたい。」監察御史に拝され、威断は人主より出ずべきであり、派遣する宣諭官には廉吏を挙げるよう命ずべきであると奏乞した。また言った。「刑名に疑慮のあるものは、州郡の法官に命じて憲司に申し送り実情を調べさせ、具して奏上させ、裁決を取るべきである。」殿中侍御史に遷り、黄潜善が官を売り寵を售ることを論じて、これを罷免させた。
既に鄭瑨と力を合わせて高宗の降封の事を争い、間もなく瑞州知州として出向したが、右正言の呂祉が上奏して言うには、「朝廷は今日、大臣を論じたために一言官を移し、明日また一言官を罷免するならば、後日大臣が事を行い過失があっても、誰が敢えて言う者があろうか。」遂に召されて吏部郎となり、左司に改め、言うには、「朝廷は近頃貪吏を深く憎んでいるが、しかし州県の間には、廉潔で節操を守り、下僚に沈んでいる者がいないわけではあるまい。宜しく五使を命じ、その至る所で廉潔清修、以て吏民の師表と為すべき者を、名を挙げて上らせ、公議に参酌し、順序を越えて昇擢し、以て士風を励ますべきである。」これに従った。
検正中書門下省諸房公事に遷り、宰相と議するに多く合わず、自ら安んぜず、病を引いて去らんことを求む。詔して直秘閣・主管崇道観と為して帰らしむ。
仇悆
高密丞に調じ、俗嚚訟を尚ぶ。悆県事を摂し、剖決流るるが如く、事淹夕するものなし。民至って餅餌を懐いて以て決遣を俟つ。猾吏楊蓋毎に陰に令の過を疏し、脅持して姦を為す。悆其の罪を暴きて之を黥す、悦服せざる者なし。州司録を闕く、悆に命じて事を摂せしむ。既に行く、邑氓万余邀留し、至って擁して県廨に帰す。時に天寒し、皆火を然して警守し、後先に布満す。悆他の道より出づるを得、或いは馬首に追い拝して曰く、「公我を去れば、我必ず公をして復来せしめん。」他日、悆方に郡牙に事を白すに、忽ち数千人径ち奪いて帰す。守将遏むること能わず。劇寇萊・密の間より起り、素より悆の名を聞き、其の党を戒めて高密の境を犯すこと毋れとす。民頼りて以て安んず。密卒関を閉じて叛掠し、官吏を害すること幾くも尽くすも、独り呼んで曰く、「仇公を驚かすこと無かれ。」
南遷し、母憂に丁す。服除け、建昌軍を知り、入って考功員外郎と為る。時に仕うる者兵間に宛転し、亡失告牒十常に七八、而して銓部案籍無し。訴丐する者甚だ多く、真偽錯乱す。悆親しく考覈し、其の拠とすべき者は悉く保識を責め、因りて上聞して之を行わしむ。
右司及び中書門下検正諸房公事に遷り、俄かに沿海制置使と為る。明州守は宰相と厚く善し、紿いて士卒将に変を為さんとすと言い、精兵を致し遣わして密かに捕えしむ。統制官徐文之を覚り、初め軍を縦して剽略せんと謀り、頃いて海を泛び去り、呼んで曰く、「我仇公の故に、人を殺さず、屋廬を焚かず。」一城晏然たり。猶坐して両官を削られ、太平観を主管す。
淮西宣撫使として廬州を知る。劉豫の子麟金兵を合して大いに入り、民情洶懼す。宣撫司統制張琦なる者、危に乗じて乱を為さんことを冀い、居民を駆りて江を越え南に走らしめんとす。先ず悆を脅して出でしめんと欲し、甲士数千を擁して突入し、刃を露わして楼に登り、白麾を揚ぐ。左右驚潰し、悆を迫って馬に上らしむ。悆徐に之に謂いて曰く、「若輩は守土の責無し。吾当に死を以て国に徇うべし。寇未だ至らずして逃るれば、人何にか頼らん。」堅く動かず、神色少も異なること無し。琦等錯愕し、遽かに其の徒を散じ、人心遂に定まる。
時に金人近境に出没す。悆宣撫司に援を求むるも、報いず。又其の子を遣わして間道より朝廷に赴き告急す。其の子を旌けて官を以てすれども、援卒遂に至らず。帝方に詔を下し親征せんとし、而して詔も亦淮甸に至らず。喧しく両淮を棄て江を保つ計りと為さんとすと言う。悆詔語を録して之を郡県に掲げ、読む者至って流涕し、咸みな自奮を思う。監押閻僅賊に死し、余衆来帰す。州帑匱竭し、以て賞と為すこと無し。悆悉く引いて班坐せしめ、酒食を以て犒い、之を慰労す。衆皆感励す。廬・寿の兵を募りて数百を得、郷兵二千を益し、奇を出して直ちに寿春城下に抵る。敵三戦皆北し、却走して淮を度る。其の後麟復た兵を増して来寇す。悆寿春を復し、俘馘甚だ多く、旗械数千を獲、糧船百余艘を焚き、渤海首領二人を降す。
初め、金人濠州を囲み、旬日下らず。天寒に属し、馬多く僵死す。乃ち衆を悉くして淮東に向う。枢密使張浚方に金陵に師を視る。悆策を以て之に説きて曰く、「金重兵淮東に在り、師老い食匱う。若し精兵二万を以て、一は寿陽より、一は漢上より、径ち旧京に趨れば、当に戦わずして退かん。大軍を継いて尾撃すれば、蔑くも済まざる者あらん。昔人『一日敵を縦すれば、数世の患い』と謂う。願わくは時を失うの悔い無からんことを。」浚用いず。
麟復た歩騎数千を以て合肥に至る。諜言う、兀朮之が殿と為ると。人心怖駭し、為す所を知らず。会うに京西制置使牛皋を遣わし兵を統して適至る。悆左右を顧みて曰く、「牛観察を召して来たり賊を撃たしめよ。」皋既に至り、忠義を以て之を撼す。皋素より勇甚だしく、二千余騎を以て馳出し、短兵相接し、向う所披靡す。敵稍く懾き、散じて復た集まること三。其の副徐慶忽ち馬より墜つ。敵競いて之に赴く。皋掖きて上らしめ、手ずから数人を刜り、因りて冑を免じ大呼して曰く、「我は牛皋なり。嘗て四たび兀朮に敗れり。来たりて決死せよ。」寇其の名を畏れ、遂に自潰す。悆の克復守禦の功を以て、徽猷閣待制を加う。
明年、宣撫司始めて大将王德を遣わして来る。時に寇已に去る。德其の伍に謂いて曰く、「事急なる時、吾属一人も江を渡り賊を撃つ者無し。今事平らかにして方に至る。何の面目か有って仇公に見えん。」德の麾下多くは女真・渤海の帰附する者、悆の像を見て、覚えず手を以て額に加う。
初め、宣撫司既に一卒をも以て諸郡に援ぜず、但だ積聚を焚き、城を棄て退保せよと令し、文移道に絶えず、又浚に請うて之を督行せしむ。浚悆に檄して其の宜きを度り之を処せしむ。悆謂う、「残破の余、兵食給せず、誠に敵を支うる能わず。然れども帥臣一路の責を任じ、誓って当に死守すべし。今若し城を委ね、金人をして淮西を有たしめ、兵艦を巣湖に治めしめば、必ず朝廷の憂いを遺さん。」力陳して不可とす。浚其の言を韙とし、而して卒に数州の衆を全活す。尋いで詔して闕に詣らしむ。軍民号して之を送る。
浙東宣撫使・明州知州に改む。豪強を挫き、善良を奨むるを理と為す。吏賕を受くるは、一錢と雖も貸さず、姦猾跡を斂む。州兵火に罹り既に燬つ。悆厨錢を斥けて其の費を助け、田を買いて郷飲酒礼を行ふ。歳饑うれば、官儲を発して其の直を損じ、民死徙する者無し。朝廷之を聞き、進めて秩一等とす。
再び召され、進み対す。帝親しく褒諭を加え、近密に留置せんと欲す。言者悆の郡に在りて胥吏を多く黥するを惨酷と為し、外藩を授けんことを請う。時に峒獠未だ息まず。乃ち直学士を進め、湖南安撫使と為り、盗み銭を鋳る者を禁じ、趣して農を為さしむ。物価既に平らかにして、商賈遂に通ず。数月、召還さる。宝文閣学士・陝西都転運使を加う。時に金人故無く侵疆を帰す。詭計測るべからず。悆力陳して策に非ずとし、固く辞して行かず。秦檜方に和議を主とし、以て己に異なりと為し、職を落とし、左朝奉郎・少府少監を以て西京に分司し、全州に居住す。
河南府の知事として起用されたが、赴任せず、金軍が果たして帰還した郡邑を再び陥落させたのは、高悆の言う通りであった。そこで再び待制に復し、明州知事を再び務め、平江府知事に転じた。朝廷に別れを告げる際に言上した。「我が軍はすでに戦いに習熟し、以前とは異なる。故に劉錡は寡兵をもって衆を撃ち、敵は大いに挫かれた。もし既に奮い立った勢いに乗じて、進軍を促して前進すれば、中原は檄文を伝えるだけで平定できましょう。」皇帝はこれを賞賛した。言論により罷免され、太平観の提挙となった。累官して左朝議大夫に至り、爵位は益都県伯となった。死去すると、左通議大夫を追贈された。
高悆は極めて孝行であり、母が没した時は、ちょうど困難な転居の途中であったが、喪に服して礼を尽くした。沿海制置使陳彥文が朝廷に推薦し、喪中起復を命じたが、高悆は就任しなかった。高悆は端正で剛直、初任官から顕官に至るまで、誰にも阿附しなかった。鄧城県令の時、丞相范宗尹がまだその地の若者で、文章を携えて高悆に謁見した。高悆は後日その父に言った。「この子は三公や輔弼の器である。」宗尹が国政を執るようになってからも、私的な面会を求めなかった。高悆が明州にいた時、ある幕僚官を推薦しようと思い、尋ねた。「君の一日の費用はどれほどか。」「十人の家族で、一日二千文です」と答えると、高悆は驚いて言った。「私が郡守として費やす額にも及ばない。属僚の費用がこれの倍とは、どうして貪欲にならぬことがあろうか。」そこで推薦を取りやめた。
高登
高登、字は彥先、漳浦の人。幼くして孤児となり、学問に励み、身を律するに法度をもってした。宣和年間、太学生となった。金軍が京師を侵犯すると、高登は陳東らと上書して六賊の斬罪を請願した。廷臣が再び和議を主張し、种師道と李綱の兵権を奪うと、高登は陳東と再び上書を抱えて宮門に赴き、軍民が期せずして集まった者は数万に及んだ。王時雍が兵を放ってこれを皆殺しにしようとしたが、高登ら十人は毅然として動かなかった。
欽宗が即位し、吳敏と張邦昌を宰相に抜擢した。吳敏はまた前宰相李邦彥の無実を雪ぎ、恩礼を加えて喪中起復するよう請願した。高登は上書して言った。
「陛下は皇太子の宮から即位され、必ずや民のために大きな利害を興し除かれると期待されました。即位の初め、兵乱が騒がしく、朝廷の政事は一切手がつけられず、人々は事態が収まり新政を目にするのを首を長くして待っていました。どうして吳敏と張邦昌を宰相になさるのですか。また吳敏の徒党の言葉を容れ、内外に布告して、李邦彥を再び用いようとされています。道行く人で恨みを飲んで去らぬ者はありません。これは陛下が天下の期待を大きく裏切られたことであり、臣は人心がここから離反することを恐れます。太上皇は長く邦彥らを政府に置かれ、綱紀は乱れ、民衆は愁怨していました。彼らはなおも日々治安の言葉で上皇を誤らせ、大禍を招き、慌てて南幸され、安寧に住むことができませんでした。主が辱めを受ければ臣は死すべきであり、この連中は皆誅殺されるべきです。今やすっかりのんびりと勝手気ままに、徒党を組んで奸をなし、天日を蒙蔽しています。陛下が吳敏の請願に従われるなら、天下の人は陛下を不明の君となさるでしょう。人心はここから離反します。」
再び上書して言った。「臣は布衣の微賤な身分ですが、臣の言うことは宗廟社稷の存亡にかかわります。軽視できません。」こうして合わせて五度上書したが、いずれも返答がなかった。そこで南帰を図っていたが、突然、邦昌らがそれぞれ遠方の郡に配され、一時の小人たちが相次いで罷免・排斥され、自らの言ったことと偶然一致する点が十のうち七八あると聞いた。高登は喜んで言った。「これで思いのままに言える。」再び書を呈して吳敏が罷免されていないことを論じたが、返答がなかった。
初め、金軍が到来した時、六館の諸生は逃げ去ろうとした。高登は言った。「君がここにいていいのか。」林邁らと従駕を請願し、聶山の帳中に属したが、皇帝は結局出発されなかった。金軍が退却すると、吳敏は学官に唆して罪をでっち上げさせ、高登を排斥して郷里に帰らせた。
任期が満ちると、士民が留任を請願したが叶わず、互いに五十万の金を餞別として贈った。姓名を告げず、太守に申し出て言った。「高君は貧しく養うものがない。願わくは太守が彼に全て受け取るよう勧めてください。」高登は辞退したが、できず、また返すあてもないので、学校に置いて、書物を買って士民に感謝の意を示すよう請願した。帰途、広州に至り、ちょうど新興で大飢饉が起こった。帥の連南夫が檄を飛ばして倉を開き救済し、さらに野で粥を作って食べさせ、借りたい者は許した。救われた者は万を数えた。その年は大豊作となり、返済も数に及んだ。民が願書を出して留任を願う者は数百人に上り、そこで奏上してその任期を全うさせた。
都堂に召されて審察を受け、そこで万言の上疏と『時議』六篇を献上した。皇帝はこれを覧て善しとし、六議を中書省に下した。秦檜はそれが自分を諷刺しているのを憎み、再び皇帝に奏上しなかった。
静江府古県の県令に任じられ、湖州を通った時、太守の汪藻が賓館に泊めた。汪藻は留まって『徽宗実録』の編修に当たるよう頼んだが、固辞した。ある人が言った。「これで官位を上げる階梯とすることができる。」高登は言った。「ただ、その気がないだけです。」そこで出発した。広西の帥沈晦が高登に県を治める方法を尋ねた。高登は十余条の事柄を列挙して告げた。沈晦は言った。「これは古人の政治である。今の人は詐りが多いので、実行できないのではないか。」答えて言った。「忠信は蛮貊の地でも行うことができる。実行できないと言うのは、誠意が至らないだけです。」豪民の秦琥が郷里で横暴をふるい、役人の弱点を握って「秦の大虫」と呼ばれ、県の大夫以下は彼に屈服していた。高登が着任すると、かなり改めたので、高登はその善に遷ることを喜び、学職に補した。ある日、秦琥が請託を持ちかけたが、高登は断った。秦琥は怒り、危険な法で陥れようと謀った。ちょうど秦琥が学校の銭を横領・借用したと訴える者があった。高登は呼びつけ、面と向かって秦琥を数え上げ、声も態度も厳しく、叱りつけて下がらせ、郡や諸司に申し出て法に照らして処置した。秦琥は憤死し、郡中は快哉を叫んだ。
帥の胡舜陟が高登に言った。「古県は秦太師(檜)の父の旧治であり、実は太師がここで生まれた。どうして祠を祀らぬのか。」高登は言った。「秦檜は宰相として不行跡である。祠を立てることはできない。」舜陟は大いに怒り、秦琥の事件をかこつけて、荔浦丞の康寧を代わりに送り、高登は母の病気で去った。舜陟はそこで秦檜の祠を創建し自ら記を書き、さらに専殺の罪で誣告し、詔によって静江府の獄に送られた。舜陟は健卒を遣わして高登を捕らえさせた。折しも高登の母が船中で死去し、水辺に仮埋葬し、海路で都に上り上書し、官職を返上して罪を贖うことを求めた。皇帝はこれを哀れんだ。旧知で右司になった者がいて言った。「丞相(秦檜)は太学で君と面識があったと言っている。一度会えば、生涯の事も心配ない。上書など無駄なことだ。」高登は言った。「私は君父を知るだけで、権臣を知らない。」やがて中書省が奏上して、故事に官職を返上して罪を贖う例はないとし、やはり静江府の獄に送られた。高登は帰って母を葬り、事を終えて獄に赴いたが、舜陟は先に事件で獄に下って死んでいた。事件はついに明らかになった。
広南漕司の鄭鬲・趙不棄が登を召して帰善県令を代行させ、ついで試験官に差し、経史中の要語を摘出して題とし、閩・浙の水害の由来を策問させた。郡守の李仲文はただちにこれを馳せて秦檜に伝え、檜はこれを聞いて激怒し、以前の事を罪として、詔を請うて容州に編管した。漳州は使臣の謝大作に省符を持たせて登に示した。登は読み終えると、ただちに省符を大作に投げ返して馬に乗ろうとした。大作は言った、「少し家人に告げて行っても害はありません」。登は言った、「君命は敢えて遅らせぬ」。大作は愕然とした。夜になると、巡検が百人の兵卒を率いて再び来た。登は言った、「もし朝廷が我を死に賜うというなら、やはり詔を拝して後に法に就くべきである」。大作は登の忠義に感じ、涙を流し、剣を奮って巡検を叱りつけて言った、「省符は我が手中にある。他に何の言葉もない。汝は何をしようとするのか。我は死をもってこれを防ごう」。鬲・不棄もまた罪に坐して官を一階削られた。
登は謫居して、生徒を教えて生計を立て、家事は一切意に介さず、ただ朝廷の行う事に少しでも過失があれば顰蹙して喜ばず、大いなる過失があれば慟哭してこれに従った。臨終に際し、言う所は皆天下の大計であった。後二十年、丞相の梁克家がその事を上疏して聞かせた。何萬が漳州を守り、朝廷に言上して、迪功郎に追復した。後五十年、朱熹が州守となり、奏して褒め録することを請い、承務郎を贈られた。
登はその母に事えて至孝であり、舟で封州・康州の間を行く時、風に阻まれ、ちょうど朝の膳を捧げるものがないと思案していたところ、忽ち白魚が前に躍り出た。その学は慎独を本とし、著した『家論』・『忠辨』等の編があり、『東溪集』が世に行われている。
婁寅亮
「先正に言う、『太祖はその子を捨てて弟を立てた、これは天下の大公である。周王が薨じると、章聖(真宗)は宗室を取って宮中に育てた、これは天下の大慮である』と。仁宗はその説に感悟し、詔して英祖(英宗)を入れて大統を継がせた。文子文孫、君たるに宜しく王たるに宜しい者たちが、変故に遭い、断えそうで断えぬ糸のようである。今、天下を持つ者は、ただ陛下一人のみである。近ごろ后妃の寝所に子が繁ならず、太子の星が輝かず、孤立して助けなく、識者は寒心する。天はあるいは深く陛下を戒め、祖宗の公心長慮の及んだ所を追念させようとしているのではないか。崇寧以来、諛臣が説を進め、ただ濮王の子孫を推して近属とし、その余は皆同姓と謂い、遂に昌陵(太祖)の後をして寂寥として聞こえず、奔迸して藍縷、僅かに庶民と同じくさせた。恐らくは昵愛に祭祀が豊かになり、天の監めに背き、太祖は天に在りて肯えて顧み歆しまず、これによって二聖に回鑾の期がなく、金人に禍を悔いる意がなく、中原に息肩の日がないのである。臣愚かで忌諱を識らず、陛下に子の行の中から太祖の諸孫で賢徳ある者を選び、親王の秩を視させ、九州を牧させ、皇嗣の生まれるを待ち、退いて藩服に処させ、併せて宣祖・太宗の裔で、材武称すべき人を選び、南班に昇らせて環衛に備えさせたい。これによって上は在天の霊を慰め、下は人心の望みを繋ぐことができよう」。
帝はこれを読んで感悟し、枢密の富直柔がこれを推薦した。
「陛下の轍迹の巡った所、六年を外にあり、険阻艱難を備えて嘗めた。しかしながら二聖未だ還らず、金人未だ滅びず、四方未だ靖まらざるは、何ぞや。天意は若し曰く、天は宋の徳を祚し、太祖はその子を私せずしてこれを保ったが、不幸にして姦邪国を誤ってこれを壊した。将に嗣聖に祖を念わせ、危うきを思わしめて後にこれを獲させんとし、乃ちその永命を申べしめんとするのである。臣誠に狂妄、去歳上章し、陛下に太祖の諸孫の賢者を取り、親王の秩を視させ、九州を牧させんことを請うたが、誤って采聴を蒙り、赦して誅さず。これ蓋し在天の霊が聖心を発悟させ、社稷のために計らったのであり、愚臣の及ぶ所ではない。伏して望むらくは、大臣に宣告してこれを行わせ、他日皇子の生まれるに及び、これをして退きて清暇に処せしめ、一つの節度使を増すに過ぎざらしめられたい。陛下が太祖の心をもって、章聖の慮いを行えば、自然に孝弟感通し、両宮回蹕し、沢は万世に流れよう」。
改めて令に入官させ、監察御史に擢でた。時の相秦檜は、彼が直柔に推薦されたことを以って、これを憎み、言事官に論ぜしめて寅亮が父の喪を匿して挙げざることを告げさせ、大理寺に下して鞫問させたが、実証なく、なお族父のために官戸を冒占した罪に坐して職を罷め、吏部に送られ、これによって坐して廃された。
宋汝為
時に劉豫が東平を節制しており、丞相の呂頤浩はこれによって豫に書を致した。汝為が寿春に至った時、完顔宗弼の軍に遇い、時亮と会うことができず、独り馳せてその陣営に入り、国書を上げんとした。宗弼は大いに怒り、劫して縛し、辱しめを加えんとした。汝為は少しも懼色なく、言った、「死は固より辞せぬ。しかし命を銜えて疆を出、書を達せ一言を吐かんことを願う。死して後も遅からず」。宗弼は汝為の屈せざるを顧み、遂に縛を解いてこれを延いて言った、「これは山東の忠義の士である」。命じて豫に見えさせようとした。汝為は言った、「剣に伏して南朝の鬼とならんことを願う。豈に主を背き事える所に忠ならざるを忍びようか」。力強く拒んで行かず、ついに京師に至り、死に瀕すること数四であった。
豫が僭号すると、汝為は頤浩の書を持ってこれに与え、禍福を開陳し、忠義を勉めて朝廷に帰らせんとした。豫は悚然として立ち、言った、「使人よ、使人よ。豫をして自ら新たに南帰せしめんとするが、誰か我を直さん。独り張邦昌の事を見ざるか。業すでにここに至る。また何を言わん」。即ち汝為を拘留した。しかし汝為が儒士であることを以って、通直郎・同知曹州を授けて誘ったが、固く辞した。遂に先に北に陥った者、淩唐佐・李亙・李儔を連結して腹心とし、機密を以て朝廷に帰報させた。唐佐等の遣わした僧及び卒が邏者の獲るところとなり、汝為の遣わした王現・邵邦光は善く達し、朝廷は皆これに官を授けた。
汝為は遂に丞相に上書して言う、「用兵の道は、勝利を得るは勢を得るに在り、成功するは機に投ずるに在り。女真は契丹を襲取するの鋭に乗じ、梟視狼顧して中原を窺い、一旦長駆して直ちに京闕を搗く。昇平既に久しく、人は兵を知らず、故に彼は其の機に投じて速やかに発し、是れによりて猖獗両河にし、以て盗み据えるの功を成す。既に関右・河朔の豪傑士民、地を避けて転闘し、従って聖朝に帰す。将士力を戮し、群盗を削平し、英雄を破逐す。百戦の余、勇気万倍す。曩昔を回想し、痛く自ら慚悔し、人々腕を扼み歯を切って、願わくは一戦に当らんとす。加うるに金人の兵老いて気衰え、帰を思うこと益々切なり。是を以て去歳順昌の孤塁、力を以て其の鋒を挫く。方に其の狼狽逃遁の際、此れ国家乗勝進戦の時なり。惜しいかな王師遽かに旋り、其の機を撫でて発せず、遂に醜類を殄滅し、以て恢復の功を成す能わず。今其の力を図り大挙し、淮北に転輸するを聞く。其の意を設くる豈に小ならんや。慮う所は秋冬復た猖獗を肆うに在り。兀朮死せずんば兵革休まず、各辺陲を保たんと欲すと雖も、安んぞ得んや。今まさに去歳淮上賊を破るの勢に乗じ、特ち哀痛の詔を降し、親征を声言し、諸帥と約して長駆直搗し、某月日各東京に到り、協謀並力し、以て兀朮を俘馘するを急務とすべし」。
又言う、「兀朮は勇を好み妄りに作り、再び兵端を起こす。其の共に謀る者は、叛亡の群盗のみ。去夏諸帥各挙兵し、金人は奔命敗北に暇あらず、兀朮深く以て慮いと為す。故に先発制人の動を為し、恃む所は自ら能く兵を聚め勢を合するに過ぎず、王師の諸帥を以て軍を分つを料るのみ。今其の歩騎を計るに十万を過ぎず、王師雲集し、其の衆数倍す。勢を合し期を刻み、並び進み力を戮せば、何ぞ勝たざるを憂えん。若し諸帥相統属し難きを以てせば、宜しく川・陝一路を除き、専ら撒離喝に当たらしめ、権に諸帥を合して両節制と為し、公選大臣観軍容を任じて宣慰の職と為し、往来して諸帥を調和し、之をして上下同心し、左右力を戮せしむれば、則ち勢既に合して賊の料る所と為らず。然らずんば、軍を分ちて陳・蔡より出で、直ちに東都を搗けば、賊必ず首尾勢分かれ、復た重兵を以て急撃し、然る後に舟師を以て淮より新河を繇り鉅野沢に入り、歩兵を以て洛より渡り懷・衛を経て太行山に入り、以て其の内を襲うべし。舟師鉅野に入れば則ち齊魯揺らぎ、歩兵太行に入れば則ち三晉応ず。賊勢たとひ合して分かれざらんと欲すと雖も、亦た計を為すに難からん」。
久しくして、汝為が金人に蠟書を以て其の機事を言う者ありと告ぐる有り。大索するも獲ず、尋ねて南帰を知る。檜、将に汝為を械送して金人に送らんとす。汝為、姓名を変えて趙復と為し、徒歩して蜀に入る。汝為身長七尺、眉疏らかに目秀で、之を望むこと神仙の如し。楊企道なる者、之を溪上に遇う。企道曰く、「必ず奇士なり」。款留し、其の議論英発にして、古今を洞貫するを見る。靖康間の離乱の事歴々として之を言う。企道益々驚き、遂に交を定め、僧舎を仮りて之に居らしむ。
檜死す。汝為曰く、「朝廷此の巨蠹を除く、中原恢復日に有り」。企道其に前事を理めんと勧む。汝為慨然として太息して曰く、「吾結髪して書を読み、奮身して一出し、志は国に復讐し、土宇を収還せんに在り。頗る諸公に知られ、命繆く数奇にして、権臣に軋す。今老いたり、新進の貴人、我を知る者無し」。汝為能く死期を知り、嘗て其の先祖を祭り、終日大慟す。将に終わらんとするや、神気乱れず。
汝為は俶儻として気節を尚び、博物洽聞、飲酒斗余に至るも、未だ其の酔うを見ず。或いは歌い或いは哭き、涕淚俱に下る。其の蜀に客たるや、史載之・邵博・宇文亮・臣李燾相得ること甚だ歓びし。趙沂・王京魯・関民先・楊寀・惠疇其の喪事を経紀す。
論じて曰く、高宗播遷し、復た苗・劉の変有り。此れ何の時ぞ。鄭𣪝・王庭秀正色して朝に立ち、以て君臣の義を争う。顧みて韙しからずや。仇悆は愷悌君子、遺沢民に在り。『易』に曰く「王臣蹇蹇」と、高登之れ有り。婁寅亮太祖の後を立てて太子と為さんことを請う。能く人臣の難言する所を言い、而して高宗も亦た慨然として之に従う。君仁にして臣直なるか。宋汝為金国より帰り、事を論ずること切直なり。寅亮と俱に秦檜に迕う。一は則ち罪を誣いて譴し、一は則ち逃遁して死す。於乎悕しいかな。