宋史

列傳第一百五十七 余端禮 李壁 丘崈 倪思 宇文紹節 李蘩

余端礼

余端礼、字は処恭、衢州龍遊の人。進士に及第し、湖州烏程県の知事となる。民間の賦丁絹銭は、概ね三人の民が一疋の絹を出し、絹を納めずにその価を折銭する。一疋が千銭であったが、後に五千に増え、民は苦しみに耐えられなかった。端礼は府に報告し、事が上聞に達し、また自ら中書に赴き便宜を陳じ、歳に緡銭六万を免除させた。

召されて対し、時に孝宗は恢復を志し、端礼は言う。

「敵を謀り勝を決する道には、声あり実あり。敵弱きは先に声し後に実し、以てその気を讋かしむ。敵強きは先に実し後に声し、以てその機を俟つ。漢の武帝は匈奴の困窮に乗じ、親しく辺陲を行き、威は朔方に震い、而して漠南に王庭無きは、その気を讋かしめて服せしむるなり、所謂先に声し後に実するなり。越が呉を謀るは然らず、外には盟好を講じ、内には武備を修め、陽には種・蠡に成を行い、陰には斉・晋に援を結び、教習の士益々精にして、献遺の礼益々密なり、能く一戦にして覇たるは、その機を伺いてこれを図るなり、所謂先に実し後に声するなり。今日の事は漢に異なりて越に相若し。願わくは陰にその備えを設け、密かにこれを謀り、変を観て時を察すれば、則ち機は投ずべし。

古の機に投ずる者に四あり。隙に投ずるの機あり、虚を搗つ機あり、乱に乗ずる機あり、弊を承ける機あり。その内釁に因りてこれを撃つ、匈奴が三国の攻に困りて宣帝出師するが若きは、これ隙に投ずるの機なり。その外患に因りてこれを伐つ、夫差が黄池の役に牽かれて越兵呉に入るが若きは、これ虚を搗つ機なり。敵国道ならず、その離るるに因りてこれを挙ぐ、晋の孫皓を降すが若きは、これ乱に乗ずる機なり。敵人の勢窮し、その後に躡いてこれを蹙む、高祖こうそ項羽こううを追うが若きは、これ弊を乗ずる機なり。機の未だ至らざるは、先んずべからず。機の已に至るは、後るべからず。これを以て辺に備えれば、安きこと太山の若く、これを以て敵に応ずれば、動くこと破竹の如し、惟だ為さんと欲する所、志に如かざる無し。」

上喜びて曰く、「卿は事体に通ずる者と謂うべし。」後に薦められて監察御史となり、大理少卿に遷り、太常少卿に転ず。

詔して来歳に上帝に祈穀し、仲春に躬耕籍田せんとし、礼官に明道の故事を討論せしむ。端礼言う、「祈穀の制は、天地を圜丘に合祭し、前期に太廟に享け、冬至の郊祀の儀に視る、これ国朝の故事なり。若し明道の制に至っては、則ち宮中の火後に室を考へ落成するを以て、故に太安殿に於て天地に恭謝す、これ一時の謝災の事のみ。今祈穀して耕籍せんと欲すれば、必ず天地を圜丘に合祭し、必ず前期に景霊宮・太廟に朝享する可し。明道の制の如く、殿庭に行わんと欲するは不可なり。」詔して太常・礼部に集議せしむ。中書に義を以て起す可き者有り、端礼曰く、「礼固より義を以て起す可き有り、大體に至っては、則ち易うべからず。古は郊して後に耕す、その郊に於てするを以て、故に郊と謂う、明堂に祀るを猶え明堂と謂うが如し。明道の謝災の制の如きは、則ち祈穀と異なり。今郊を以て殿庭に施さんとすれば、亦た明堂を以て壇壝に施さんとするか。礼の失は端礼より始まる、端礼死すとも敢えて詔を奉ぜず。」上これを止む。

権兵部侍郎兼太子詹事、吏部侍郎に進み、出でて太平州を知り、祠を奉ず。光宗立ち、召見し、言う、「天子の孝は庶人と同じからず。今陛下の寿皇に孝するは、当に舜の堯に対するが如く、その道を行えば可なり、武の文に対するが如く、その志を継ぎその事を述べれば可なり。凡そ寿皇の睿謀聖訓、仁政善教、嘗て天下に施したる所の者は、願わくは二三大臣と朝夕に講求して力を以てこれを行えば、則ち以て親に事うるの孝を尽くすに足る。」集英殿修撰・贛州知事を授け、還りて吏部侍郎・権刑部尚書兼侍講となり、煥章閣直学士を以て建康府を知る。召されて吏部尚書に拝し、同知枢密院事に擢でられる。

興州の帥呉挺死す、端礼は枢密趙汝愚に謂いて曰く、「呉氏世にしょく兵を握る、今若し復た承襲せしめば、将に後患と為らん。」汝愚はその言を是とし、合辞を以て奏す。光宗の意未だ決せず、端礼言う、「汝愚の請うる所は蜀の為、東南の為なり。大将を置きてその人に非ざれば、是れ蜀無きなり、蜀無ければ、是れ東南無きなり。今軍中帥を請うて遅々として報ぜず、人将に心を生ぜん。」聴かず。後に挺の子曦、遂に蜀に叛くこと、端礼の言うが如し。

上疾を以て重華宮に朝せず、孝宗崩じ、又た喪を発すること能わず、人情恟然たり。端礼は宰相留正に謂いて曰く、「公独り唐の粛宗朝群臣太極殿に発哀するの故事を見ざるか。宜しく太皇太后に請いて代わりて祭の礼を行わしむべし。」ここに於て宰執を以て太皇太后に請う。留正懼れ、重華宮に入臨し、地に仆して致仕して去る。

太皇太后簾を垂れ、皇子嘉王を策して即皇帝位せしむ。王涕を流して遜避す。端礼奏す、「太上違し、大喪主を乏くす、安危の機は呼吸に在り。太皇太后は陛下の為に計るに非ず、乃ち太上皇帝の為に計り、宗社の為に計るなり。今退譲を堅持し、国家の大計を思わざるは、是れ匹夫の小節を守りて天子の大孝を昧ますなり。」寧宗悚然として涕を収め、已むを得ず、側身して御坐の半ばに就く。端礼と汝愚再拝固く請う、寧宗乃ち正しく御坐に就き、退いて禫祭の礼を行う。

端礼を進めて知枢密院事兼参知政事とす。汝愚右丞相の位を去り、端礼これに代わる。初め、端礼と汝愚心を同じくして政を共にす。汝愚嘗て曰く、「士論未だ一ならず、余処恭に非ざれば任ずること能わず。」及んで韓侂冑、伝道の労を以て、漸く威柄を窃む。汝愚等疏斥せんと欲すも、謀泄れて汝愚逐わる。端礼遏むこと能わず、但だ長吁するのみ。

浙西常平の黄灝、民租を放つを以て竄せられ、婺州知事の黄度、蜀吏を庇うを以て職を褫かれ郡を罷む。二人皆侂冑の憾む所、端礼執奏すも、竟に罪を免れず。太府丞呂祖儉、上書して侂冑に忤い南遷に坐す。端礼救解すれども獲ず、公議始めて責を帰す。他日上に見え、言う、従官を除くに中書知らず、朝綱已に紊れ、禍根已に滋す。即ち去らんことを丐うも、許さず、左丞相に進む。

端禮が相位に在ること一年、善類を擁護すること頗る知れり、然れども侂胄に制せられ、鬱々として志に愜わず、疾を称して退を求め、観文殿大学士を以て洞霄宮を提挙す。居ること頃くして、潭州を判じ、慶元に移り、復た潭を帥す。薨じ、少保・郇国公を授け致仕し、太傅を贈られ、諡して「忠肅」と曰う。子の嶸は、工部尚書なり。

李璧

李璧は、字を季章と為し、眉の丹稜の人なり。父の燾は、国史を典す。壁は少にして英悟、日に万餘言を誦し、辞を属するに精博、周必大其の文を見て、之を異とし曰く、「此れ謫仙の才なり」と。孝宗嘗て燾に問ふ、「卿が諸子孰れか用ふべき」と。燾は璧を以て対ふ。父の任に以て官に入り、後に進士第に登る。召して試みられ、正字と為る。

寧宗即位し、著作佐郎兼刑部郎・権礼部侍郎兼直学士院に徙る。時に韓侂胄国を専らにし、恢復を建議す、宰相陳自強侂胄に平章国事を為さむことを請ふ、遂に璧を召して制を草せしめ、礼部尚書蕭達と共に典礼を討論し、侂胄に三日一朝せしめ、序班を丞相の上とせしむ。

璧は命を受けて金に使し、行きて揚州に次ぐ、忠義人朱裕宋師を挟みて漣水を襲ふ、金人憤ること甚だし、璧は裕の首を境上に梟すことを乞ひ、詔して其の請に従ふ。璧燕に至り、金人と言ひ、肝胆を披露す、金人の疑ひ頓に釈る。璧帰り、侂胄師を用ふるの意方に鋭し、璧言ふ、「進取の機は、重く発して必ず至るべく、軽く出でて苟も沮ぐことなかるべし」と。既にして陳景俊北より使い還り、挙兵を賛すること甚だ力めり、錢象祖兵を沮ぐの議を以て侂胄に忤ひ罪を得て貶せらる、璧襄陽の形勢を論じ、深く腹心を以て憂ひと為し、敵の先づ発するを待ち、然る後に之に応ぜむと欲す、侂胄意懌せず、是に於いて四川・荊・淮各宣撫を建てて師出づ。

璧力の回らざるを度り、乃ち入りて奏す、「秦檜首めて和議を倡へしより、父兄百世の仇復た臣子の口に開かず。今廟謀未だ定まらず、士気積衰す、苟も激昂せずんば、何を以てか丕応せん。臣愚以為へらく、宜しく秦檜を亟に貶し、天下に讐恥必ず復すべきの志を示すべし、則ち宏綱挙がりて国論明らかに、流俗変じて人心一に、君臣上下奮励振作し、潰民を残虐より拯ひ、祖宗の宿憤を湔ふ。今日に在りて挙げて之を措くに、難き無し」と。疏奏す、秦檜坐して王爵を追はる。議者璧の檜の君無きを論ぜずして但だ其の和を主とせるを指すを謂ひ、其の言公なりと雖も、特に侂胄の兵を用ふるの私に迎合せるのみと。

初め、侂胄葉適を召して直学士院と為し、出師の詔を草せしむ、適従はず、乃ち以て璧に属す、是に由りて権礼部尚書に進む。侂胄既に師を喪ひ、始めて蘇師旦に誤らるるを覚り、一夕璧を招きて飲む、酒酣にして、師旦の事に及び、璧微かに其の過を擿ち、侂胄の意向を覘ひ、乃ち極言す、「師旦勢を怙み権を招き、明公をして謗を負はしむ、此人を竄謫せずんば、以て天下に謝するに足らず」と。師旦坐して官を貶せらる。璧又言ふ、「郭倬・李汝翼の軍を僨し国を誤るの罪は、宜しく之を誅して以て淮民に謝すべし」と。参知政事を拝す。

金使いを遣はし来たり、微かに和せむとの意を示す、丘崈以て聞こゆ、璧崈に書を貽し、小使を遣はして書を金帥に致し成を求めしむ、金帥報書に用兵の首謀を以て侂胄を指す、侂胄大いに恚り、復た和を以て意と為さず。璧言ふ、「張浚は賊を討ち仇を復するを以て己任と為し、隆興の初、事勢未だ集まらず、亦た権宜就和す。苟も社稷に利あらば、固より一を執るに難し」と。侂胄聴かず、張巖を以て崈に代へ、璧力爭ひ、丘崈素より人望有りと言ふ、侂胄色を変へて曰く、「方今天下独り丘崈有るのみか」と。

呉曦叛き、蜀に拠りて王を称す、楊巨源・安丙之を誅す。事聞こえ、璧議すらく須らく重臣を用ひて宣撫せしむべく、制置使楊輔を薦めて宣撫使と為し、而して安丙をして之を輔せしむ。丙楊巨源を殺す、輔変を召すを恐れ、書を以て劉甲を挙げて自ら代はらしむ、侂胄輔の事を避くると疑ふ、璧曰く、「孝宗呉璘の病を聞き、亟に詔して汪応辰に宣撫使職事を権せしむ、蜀之に頼りて安し、此れ故事なり」と。是に於いて甲に権宣撫使を命ず。

方信孺北より使い帰り、金人侂胄を縛送せむと欲すと言ふ、故に侂胄忿ること甚だし、用兵の意益々急なり。璧方に共に政を与る、或る者其の速やかに去り、侂胄と禍を分かつ毋からむことを勧む、璧曰く、「噫、国病めり、我去らば誰か適く此を謀らん」と。会ふに礼部侍郎史弥遠侂胄を誅せむと謀り、密旨を以て璧及び錢象祖に告ぐ、象祖奏して審はむと欲す、璧事留まらば泄るるを恐るると言ふ、侂胄遂に誅せらる、璧同知枢密院事を兼ぬ。御史葉時璧の反復詭譎を論じ、三秩を削り、撫州に謫居す。後輔臣侂胄を誅するの事を言ひ、璧実に預り聞く、乃ち自便を令す。復た官し洞霄宮を提挙す、久しくして、復た御史の奏に以て三秩を削り、祠を罷む。

四年を越え、復た端明殿学士・知遂寧府を除く、未だ至らざるに、潰兵張福益昌に入り、王人を戕し、閬を略し果を剽し、遂寧に至る、璧檄を伝へて之を諭す、福等檄を読んで泣下し、甲を解き降らむと約す。会ふに官軍至りて賊を挑む、賊忿り、尽く其の城を燔き、府治を顧みて曰く、「李公旦夕来たり居らむ、此れ其れ毀つ勿れ」と。璧馳書して大将張威にし、嘉定黎雅の砦丁・牌手を調べて来たり会戦せしむ、威夜人を遣はして門を叩き、来たりて言ふ、「賊塁堅く破る可からず、将に死士を選び、梯して登り、以て火を以て之を攻めむ」と。璧曰く、「審かに爾らば、必ず士卒を多く殺さむ、何ぞ先づ賊の汲路と糧道を断ち、食ふことを得ざらしめ、即ち自ら成擒と為らざらむ」と。長囲の法を以て之に授く、威其の謀を用ふ、賊遂に平ぐ。

璧尋いで疾を引いて祠を奉ず。嘉定十五年六月卒す、資政殿学士に進み致仕し、諡して「文懿」と曰う。

璧学を嗜むこと饑渇の如し、群経百氏抉り靡遺す、典章制度に於いて尤も綜練す。文を為すこと雋逸、著する所に『雁湖集』一百巻・『涓塵録』三巻・『中興戦功録』三巻・『中興奏議』若干巻・内外制二十巻・『援毫録』八十巻・『臨汝閒書』百五十巻有り。璧父子と弟の𡌴皆文学を以て知名、蜀人之を三蘇に比す。

丘崈

丘崈は、字を宗卿と為し、江陰軍の人なり。隆興元年進士、建康府観察推官と為る。丞相虞允文其の才を奇とし、奏して国子博士を除く。孝宗允文に自ら代ふる者を挙げよと諭す、允文首めて崈を薦む。旨有りて対を賜ひ、遂に言ふ、「恢復の志忘るべからず、恢復の事挙げ易からず、宜しく実才を甄抜し、内治を以て責め、十年を養ひ遵ひ、乃ち北向を議す可し」と。

時に范成大を金に使わしめて陵寢を祈請せんとす。崈言う、「泛使を亟ぎ遣わすは、大計に益なく、徒らに敵を驕らすのみ」と。孝宗悦ばずして曰く、「卿が家の墳墓、人の占むる所と為るも、亦た須らく理索すべきや否や」と。崈対えて曰く、「臣但だ之を訴うる能く、之を請う能わず」と。孝宗怒り、崈退きて罪を待つ。孝宗其の忠を察し、譴せず。

太常博士に遷り、出でて秀州華亭県を知る。捍海堰廃して且つ百年、鹹潮歳に大いに入り、並海の田を壊し、蘇・湖皆其の害を受く。崈海口に至り、遺址を訪うれば既に淪没す。乃ち奏して築くを創め、三月にして堰成る。三州の舄鹵復た良田と為る。直秘閣・平江府知事を除し、内殿に奏入するに因り、楮幣の折閲を論じ、公私の出内を請うて、並びに銭会各半を以て定法と為す。詔して其の言を行わしむ。天下之に便す。

吉州を知り、召されて戸部郎中を除し、樞密院檢詳文字に遷る。命を受けて金国賀生辰使を接伴す。金曆九月晦、『統天曆』と合わず。崈使者に恩意を以て接し、乃ち徐ろに南北曆法の異同を告げ、会慶節正日に従い随班して寿を上ぐるに合わしむ。金使初め之を難じ、卒に屈服す。孝宗喜びて崈に謂ひて曰く、「使人命を聴き礼を成して還るは、卿が力なり」と。

是に先だち、王抃枢密と為り、崈少も之に下らず。方に客を迓うる時、抃程頓を排定して奏し、上付して接伴に降し、沿途遵執せしむ。崈具に奏し、謂う「此を以て敵の疑心を啓くべからず」と。詔を奉ぜず。抃之を憾み、崈の金使を礼せざるを訾り、祠を予ふ。起きて鄂州を知り、江西転運判官に移り、浙東刑獄を提点し、直徽猷閣に進み平江府を知り、龍圖閣に升り、帥紹興府に移り、両浙転運副使に改め、憂ひにて去る。

光宗即位し、召して対し、太常少卿兼権工部侍郎を除し、戸部侍郎に進み、煥章閣直学士・四川安撫制置使兼成都府知事に擢でらる。崈素より呉氏の世に兵を掌るを慮り、陛辞に奏して曰く、「臣蜀に入りて後、呉挺脱して死亡に至らば、兵権復た其の子に付すべからず。臣請う便宜を得て諸軍を撫定し、以て朝命を俟たん」と。挺死す。崈即ち奏す、「乞う他将を選びて之に代え、仍く副帥を置き、別に興州守臣を差し、並びに利州西路帥司を興元に帰し、以て其の権を殺がん。挺の長子曦、喪に奔るを令むる勿れ、起復して和州を知らしめ、総領楊輔に属して近く諸軍を節制せしめ、檄を利路提刑楊虞仲に往かしめて興州を摂せしめよ」と。朝廷張詔を命じて挺に代え、李仁広を以て之に副わしむ。遂に世将の患を革む。其の後郭杲詔に継ぎ復た利西路安撫を兼ぬ。杲死し、韓侂冑復た兵権を曦に付す。曦叛く。識者乃ち崈の先見に服す。

煥章閣直学士に進む。寧宗即位し、召に赴く。中丞謝深甫の論に以て之を罷む。数年居り、復職して慶元府を知る。既に奏入するや、韓侂冑見るに招く。奏疏幾二千言を出だして崈に示す。蓋し北伐の議なり。崈の平日復讐を主とするを知り、冀くは功名を共にすべしと。崈曰く、「中原淪陷且つ百年、我に在りて固より一日として忘るべからざるも、然れども兵は凶、戦は危し。若し首めて非常の挙を倡えば、兵交えて勝負未だ知るべからず。則ち首事の禍、其れ誰か之を任かん。此れ必ず誇誕貪進の人あり、臂を攘ぎて万に一を僥倖せんとす。宜しく亟に斥絶すべし。然らずんば必ず国を誤らん」と。

敷文閣学士に進み、建康府知事に改む。将に行かんとす。侂冑曰く、「此事姑く之を遅らせん」と。崈因り賛して曰く、「翻然として改むるは、誠に社稷生靈の幸いなり。惟だ異議に摇がざるを期すれば、則ち善きかな」と。侂冑金人の平章を置き、河南を宣撫するを聞き、奏して崈を以て簽樞と為し、江・淮を宣撫して之に応ぜしめんとす。崈手書を以て力論す「金人必ずしも盟を敗るの意有らず。中国大體を示すべし。宜しく軍實に警を申し、吾をして常に勝勢有らしむべし。若し釁彼より作らば、我に辞有り」と。宣撫の議遂に寝す。侂冑書を移して崈の内職を除かんと欲し、両淮を宣諭せんとす。崈報じて曰く、「使名異なるも、其れ敵に嫌疑の跡を示すに為りては則ち同じ。且つ偽平章宣撫既に寝す。尤も軽挙すべからず」と。侂冑益々悦ばず。

寶文閣学士・刑部尚書・江淮宣撫使に升る。時に宋師泗州を克ち、進んで宿・寿を図る。既にして師潰く。侂冑人を遣わして来り議し、潰卒を招收し、且つ自解の計を求む。崈謂う、「宜しく蘇師旦・周筠等の僨師の姦を明らかにし、李汝翼・郭倬等の喪師の罪を正すべし」と。崈淮東の兵力を全うせんと欲し、両淮の声援と為り、奏す「泗州孤立し、淮北に屯する精兵幾二万、万一金人南に出でて清河口及び天長等の城を犯さば、則ち首尾中断し、敵の計に堕つ。之を棄つに若かず。軍を還して盱眙にせん」と。之に従ふ。

金人衆を擁して渦口より淮南を犯す。或る人崈を勧めて廬・和州を棄て江を守るの計と為さんとす。崈曰く、「淮を棄つれば則ち敵と長江の険を共にす。吾当に淮南と俱に存亡すべし」と。益々兵を増して防と為す。

端明殿学士・侍読に進み、尋いで簽書樞密院を拝し、江・淮軍馬を督視す。北より来る者韓元靖有り、自ら琦の五世孫と謂ふ。崈来るの故を詰む。元靖言ふ、「両国兵を交ふるに、北朝皆韓太師の意に出づと謂ふ。今相州の宗族墳墓皆保つべからず。故に来りて太師に依らんとす爾」と。崈其の説を畢へしめ、始めて講解の意を露はす。崈人を遣わして護送し北に帰らしめ、俾く其の実を扣かしむ。其の回るや、金行省の幅紙を得たり。崈以て朝に聞く。遂に王文采を遣わし書幣を持たしめて行かしむ。文采還る。金帥の答書辞順なり。崈復た以て聞く。遂に陳璧を遣わし小使を充てしむ。璧回り、具に言ふ「金人使介を詰む。既に和せんと欲するも、何為ぞ兵を真州に出だして以て我を襲ふ。然れども仍く和の意を露はす」と。崈廟堂に白し、朝廷より自ら書を移して前議を続けんことを請ふ。又謂ふ彼既に侂冑を元謀と指す。若し書を移さば、宜しく暫く係銜を免ずべしと。侂冑大怒し、崈を罷め、知樞密院事張巖を以て之に代ふ。既に臺論に以て、洞霄宮を提挙し、落職す。

侂冑誅さる。資政殿学士を以て建康府を知り、尋いで江・淮制置大使兼建康府知事に改む。淮南運司辺民二万を招輯し、「雄淮軍」と号す。月廩継がず、公に肆に剽劫す。崈乃ち「雄淮」の屯する所に随ひ、分ちて守臣に隷せしめて節制す。其の西路は則ち転運使張穎と同しく揀刺して御前武定軍と為し、三万人を以て額とし、六軍に分つ。余り汰りて農に帰す。是より月に銭二十八万緡、米三万四千石を省く。武定既に軍伍を成す。淮西其の力に頼る。病を以て帰を丐ひ、同知樞密院事を拝す。卒す。諡して「忠定」と曰ふ。

崈儀状魁傑、機神英悟、嘗て慷慨として人に謂ひて曰く、「生には以て国に報ゆる無く、死して願はくは猛将と為りて以て敵を滅さん」と。其の忠義性然り。

倪思

倪思、字は正甫、湖州帰安の人。乾道二年進士、博学宏詞科に中る。累遷して秘書郎、著作郎兼翰林権直を除す。光宗即位し、典冊尤袤と対掌す。故事、三制を行ひ並びに学士を宣す。上思が能否を試さんと欲し、一夕に並びに公師四制を草除す。訓詞精敏、廷に在りて誦歎す。

権侍立修注官に任じ、直前にて奏上して言う、「陛下はまさに受禅なされたばかり、金主もまた新たに立った。その命を制せんと欲すれば、必ず毎事においてこれに勝つべきものあり。彼が奢れば則ち倹をもってこれに勝ち、彼が暴であれば則ち仁をもってこれに勝ち、彼が怠惰であれば則ち憂勤をもってこれに勝つべきなり」。また諫官を増置し、専ら諫事を責むべきことを請う。また内外の諸将を召し訪問して、その才の有無を知るべきことを乞う。

将作少監に遷り、権直学士院を兼ね、権中書舎人を兼ね、中書舎人に昇進し直学士院を兼ね、同修国史となり、まもなく侍講を兼ねる。

初め、孝宗は戸部の経費の余剰を以て、三省に封樁庫を置き軍用に備えたが、紹熙に至り移用が始めて頻繁となる。時に詔有りて緡銭十五万を発して内帑に入れ、犒軍に備えんとす。思は実は他の費用に充てんとするものと謂い、発するなからんことを請い、かつ曰く、「往年の所入は、およそ四百六十四万緡、所出の銭は二万に及ばず。痛く撙節を加えざれば、則ち封樁は此より儲え無からん」。遂に議を定めて犒軍の歳額を四十万緡と為す。これにより費用に節度有り。また言う、「唐の制は諫官をして宰相に随い閣に入らしむ。今諫官は月に一対するのみ。宰執と共に宣引を許すことを乞い、庶幾くは従容として論奏するを得ん」。上称善し、礼部侍郎を除す。

上久しく重華宮に過ぎず。思疏を十上し、言多く痛切なり。時に上嘉王を召す。思言う、「寿皇陛下を見んと欲するは、亦た陛下の嘉王に対するが如きなり」。上為に動容す。時に李皇后次第に政に預かる。思進講して姜氏の斉侯に会うこと濼に於いてを講じ、因りて奏す、「人主国を治むるは必ず家を斉うるより始む。家を斉うること能わざる者は、その漸を防ぐこと能わざるなり。褻狎に始まり、恣横に終わり、遂に陰陽易位し、内外別無く、甚だしきは父子を離間す。漢の呂氏、唐の武・韋、幾くんぞ乱亡に至らんとす。ただ魯の荘公のみに非ざるなり」。上悚然たり。趙汝愚経筵に同侍し、退いて人に語りて曰く、「讜直此の如きは、吾が党及ばざる所なり」。

権吏部侍郎を兼ね、出でて紹興府を知る。寧宗即位し、婺州に改む。未だ上らず、太平興国宮を提挙し、召されて吏部侍郎兼直学士院を除す。御史姚愈思を劾す。出でて太平州を知り、歴て泉州、建寧府を知る。皆言者の論ずる所によりて去る。久しくして召し還され、礼部侍郎兼直学士院を試みる。侂冑先ず書を以て殷勤を致し、曰く、「国事此の如し。一世の人望、豈に専ら潔己を以て賢と為すべきや」。思報いて曰く、「但だ方拙を恐るるのみ。時好に徇うこと能わざるを」。

時に召しに赴く者は、引対せざる先に侂冑を謁す。或いは近例を用いるを勧む。思曰く、「私門登るべからず。況んや未だ君を見ざるや」。逮に入見し、首に言路通ぜざるを論ず、「呂祖儉謫徙せられてより朝士忠を輸するを敢えず、呂祖泰編竄せられてより布衣極説するを敢えず。膠庠の士吐露せんと欲するも、去籍を以て恐れ、呈槁を以て諭さる。誰か肯て肝を披き胆を瀝し、威尊に触冒せん。近くは北伐の挙、僅かに一二人その不可を言う有り。もし未だ挙げざる前に、相継いで力争し、更加え詳審せしめば、軽動に致さざるべし」。また言う、「蘇師旦の贓は巨万を以て計う。胡ぞげい戮して以て三軍に謝せざる。皇甫斌は師を襄漢に喪い、李爽は淮甸に敗績し、秦世輔は蜀道に潰散す。皆罪大にして罰軽し」。また言う、「士大夫廉恥寡く、勢要の門に列拝し、甚だしきは門竇に匍匐し、門生と称するは足らず、恩坐・恩主と称し、甚だしきは恩父と称す。諛文豊賂、又論ずる所に在らざるなり」。侂冑これを聞きて大いに怒る。

思既に退き、侂冑に謂いて曰く、「公は明有りて余り、而して聡足らず。堂中に剖決流るるが如きは、此れ明有りて余るなり。蘇師旦の為に蒙蔽せらるるは、此れ聡足らざるなり。周筠は師旦と並び姦利を為す。師旦已に敗る。筠尚在り。人言う、平章騎虎下らざるの勢、此れ李林甫・楊国忠の晩節なり」。侂冑悚然として曰く、「聞かざる所を聞けり」。

司諫毛憲思を劾し、祠を予う。侂冑誅せらる。復た召され、首に対し、淳熙の例を用い、太子をして議事堂を開かしめ、機政に閑習せしむることを乞う。また言う、「侂冑命を擅にし、凡そ事内批特旨を取り、以て戒めと為すべし」。

権兵部尚書兼侍読を除す。対を求め、言う、「大権方に帰す。防微すべき所、一たび干預の端倪有らば、必ず仍って覆轍を蹈まん。厥れ今更化の名有りて、更化の実無し。今侂冑既に誅せらる。而して国人の言猶お未だ靖かならざる者有り。蓋し枢臣猶お宮賓を兼ね、時を定めず宣召し、宰執は当に同班同対すべく、枢臣も亦た権を遠ざけ、以て外議を息むべし」。枢臣は、史弥遠を謂う。金人侂冑の函首を求めんとす。命じて廷臣をして集議せしむ。思は国体を傷つくると謂う。礼部尚書に徙す。

史弥遠両従官を除せんと擬す。参政銭象祖与り聞かず。思言う、「奏擬除目は、宰執当に同進すべし。比来侂冑に専聴し、権偏る所有り。覆轍鑒とすべし」。既にして史弥遠上章して自ら弁す。思去らんことを求む。上之を留む。思対を乞い、言う、「前日枢臣独班を論ずるは、往轍を蹈まんことを恐るるなり。宗社再び壊るるに堪えんや。宜しく親しく台諫を擢ち、以て権臣の弊を革め、併せて宰輔を任じ、以て専擅の失を鑒とすべし」。弥遠恚みを懐く。思去るを請うこと益力なり。宝謨閣直学士を以て鎮江府を知り、福州に移る。

弥遠右丞相に拝す。陳晦制を草し「昆命元亀」の語を用う。思歎いて曰く、「董賢大司馬と為り、冊文に『允執厥中』一言有り。蕭咸以て堯舜に禅するの文と為す。長老之を見て、心懼れざる莫し。今制詞の引く所、此れ舜・禹の揖譲なり。天下に蕭咸の如き者有りて之を読めば、大いに駭かざるを得んや」。仍って省牘を上し、麻制を貼改することを請う。詔下りて分析せしむ。弥遠遂に晦を除して殿中侍御史と為し、即ち思を劾して藩臣麻制を僭論すとす。職を鐫じて罷む。此より復た起ること無し。

久しくして、宝文閣学士を除し、嵩山崇福宮を提挙す。嘉定十三年卒す。諡して「文節」と曰う。

宇文紹節

宇文紹節、字は挺臣、成都広都の人。祖父虚中、簽書枢密院事。父師瑗、顕謨閣待制。父子皆使北して死す。子無し。孝宗之を湣れみ、其の族子紹節をして後と為らしめ、官を補して州県に仕えしむ。九年、進士に第す。累遷して宝謨閣待制・廬州知州となる。

時に侂冑方に兵を用いんと議す。紹節郡に至り、古城を修築し、砦柵を創造するを議し、専ら固圉の計と為す。淮西転運判官鄧友龍侂冑に譖えて、紹節は但だ城守を為すのみ、徒らに財力を耗し、事に益無しと謂う。侂冑書を以て紹節を譲る。紹節復書して謂う、「公は復讐の志有りて、復讐の略無く、開辺の害有りて、開辺の利無し。国力を量らず、浪らく進取の計を為す。敢えて知る所に非ず」。侂冑書を得て楽しまず。乃ち李爽を以て紹節に代え、召し還して兵部侍郎兼中書舎人兼直学士院と為し、宝文閣待制を以て鎮江府知府と為す。

呉曦が蜀を占拠すると、紹節を朝廷に召し出し、西方討伐の任を委ねた。紹節が到着すると、大臣に向かって言った、「今、進攻すれば、瞿唐の一関を彼らは必ず固守するであろう。もし軍を荊南に駐留させれば、ただ威望を損なうのみである。聞くところによれば、随軍転運使の安丙は平素より忠義を抱いているという。もし密旨を授ければ、必ず賊を討ち成功するであろう」と。大臣はその言葉を用い、丙の親しい者を遣わして帛書をもって上意を伝えさせた。丙はついに曦を誅殺した。

権兵部尚書となり、間もなく、華文閣学士・湖北京西宣撫使・江陵府知事に任ぜられた。統制官の高悦が駐屯地において殺掠をほしいままにし、遠近の人々を苦しめていた。紹節は彼を召し出して帳前に置き、その配下の兵を収めた。ほどなく、悦が配下を放任して寇掠させたと訴える者があった。紹節は杖刑でこれを殺し、兵民ともに喜んだ。宝文閣学士に昇進し、吏部尚書を試み、まもなく端明殿学士・簽書枢密院事に任ぜられた。

安丙が四川を宣撫していたとき、丙に異志ありとの言葉が伝わり、朝廷の臣たちは丙を更迭しようとした。紹節は言った、「曦を誅殺した当初、安丙が一たび足を揺るがせば、全蜀は国家の所有するところではなくなったであろう。その時を利としなかったのに、今になって他の心があるだろうか。紹節、百口をもって丙を保証いたします」と。丙はついに更迭されなかった。朝廷は蜀の事について多く諮問したが、紹節は慎重に審査した上で発言し、いずれも事情に通暁していた。

嘉定六年正月甲午に卒去した。訃報が伝わると、上は嘆き悼み、朝享の日を改めた。資政殿学士を進めて致仕させ、さらに七官を贈って少師とした。これは通常の典範ではなかった。諡して「忠恵」といった。

李蘩

李蘩、字は清叔、崇慶府晋原県の人である。進士に及第し、隆州判官となり、綿州を摂行した。凶年に際し、義倉の穀物を出して安価に売り、また銭を下戸に貸し与え、さらに民に茅や稲わらで米と交換することを許し、粥や紙衣を作って自ら衣食を与え、十万人を生かした。翌年もまた飢饉となり、邛州・蜀州・彭州・漢州、成都で盗賊が蜂起したが、綿州だけは安堵していた。永康軍知事となり、利州に移り、成都路刑獄を提点し、常平を提挙を兼ねた。凶年に際し、事前に倉を開き租税を免除し、百七十万人を生かした。興元府知事・利州東路安撫使となった。

漢中は長く飢饉にあったが、剣外の和糴がこの州に特に多かった。蘩はかつて単騎で阡陌を行き、民の苦しみを訪ね求めた。ある老女が進み出て言った、「民が飢える所以は、和糴が害となっているからです」と、涙を数行流した。蘩はその言葉に感じ、上奏してこれを免除させた。民は大いに喜んだ。倉部員外郎に転じ、四川の賦財・軍馬・銭糧を総領し、郎中に昇進した。

淳熙三年、朝廷の臣が上言した、「四川の歳糴軍糧は、名は和糴といえども、実は科糴である」と。詔して制置使范成大に蘩とともに相度して上奏させた。蘩は奏上した、「諸州の歳糴六十万石、もし官糴に従えば、歳約百万緡を要する。もし経費のうちで斟酌損益し、科糴を官糴に変え、貴賤は時を見て、毫忽の価も損なわず、出納は量を見て、圭撮の余剰を取ることを務めなければ、軍は興すに乏しくなく、民は賦を加えられないであろう」と。そこで「利民十一事」を書して上奏した。前後三年にわたり、蘩が上奏した疏は十三に及び、天子が詔を下して難問したのは八度に及んだが、ついにその議の通りとなった。民はすでに官と市することを喜び、遠近より歓んで赴き、軍餉は坐して給し、田里は科糴を免れ、はじめて生ある楽しみを知った。時に大豊作となり、米価はたちまち安くなり、父老は三十年ぶりのことだと言った。梁州・洋州の間では蘩の像を描いて祠った。

范成大は駅伝で疏を上言した、「関外の麦は熟し、平年の倍である。これは実に糴を罷めたことにより、民力がやや緩み、農畝に力を尽くすことができたからである」と。孝宗はこれを見て言った、「和糴を一年免じただけで、田間の和気がこのようである。民力を重く困らせてはならないことがわかる」と。蘩を抜擢して太府少卿を守らせた。范成大が召見されると、孝宗はまず尋ねた、「糴事は長く行うことができるか」と。成大は奏上した、「李蘩は身をもってこの事を任じ、臣は身をもって李蘩を保証いたします」と。孝宗は大いに喜び、「これは大いに李蘩を得難いことである」と言った。上意はまさに任用しようとしていたが、蘩もまた塩酒和買の弊を奏上して免除し、民害をことごとく洗い清めようとしていた。時に病を得て、卒去した。詔して蘩が能吏であることを認め、致仕の恩典のほか、特に遺表の恩典を与え、一人の庶官を選任させた。これはこれ以前にはなかったことである。

初め、蘩が眉山の長官であったとき、成都の漕試を校閲し、呉氏が世襲で兵権を握れば必ず蜀に乱を醸すと考え、策問に「久しく人に兵権を仮すも、患いとならざるは未だこれあらず。武・宣の明をもってしても、大臣の兵を握る禍を消すことができず、憲・武の烈をもってしても、藩鎮の兵を握る権を収めることができなかった。劉氏を危うくし、唐室を殲滅したのは、多くはこれによらなかったものはない」と出題した。呉挺はこれを怨んだ。後に蘩が糧餉を総領する事となると、挺は誤って軍糧が粗悪であると奏上した。孝宗が蘩に問うと、蘩はその見本を封じて進呈し、挺の虚妄はつきてしまった。三十余年を経て、呉曦はついに蜀で叛いた。安丙が曦を誅殺した後、しばしば人に言った、「我々は焦頭爛額したのみである。李公の先見の明に及ぶ者があろうか」と。蘩は学問を講じ政務を臨むこと、いずれも本源と委細があり、著書十八種、『桃溪集』百巻がある。

論じて言う。余端礼は平時の議論は切実で正しかったが、宰相となってからは韓侂冑に制せられ、善類を扶掖する志はあっても、直道を行くことができず、ついに君子の論議を免れなかった。李壁・丘崈はいずれも侂冑に軽率な出兵が禍を招く過ちを諫めたが、その決意して用兵するに及び、葉適に詔を起草させても従わず、壁ひとりが筆を執った。その見解の前後の食い違いは何たることか。附会の罪は、壁には公論を免れるすべがなかった。倪思は直言をもって主上を諫め、またたびたび権臣に触れ、三たび罷免されてもその風概を変えず、称賛すべきところがある。李蘩の至るところで荒政を挙行し、苛斂を免除したことは、ほぼ古人のいわゆる恵人に近いものである。